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16 2015.12 月刊「武道」 81 シリーズ

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Page 1: 教育武道のちから 探 る - waseda-karatebu.org · 説『月下の拳』(筆名:三井悠)などがある。述真」を読んだか』『太極拳に学ぶ身体操作の知恵』、小にまとめた。ほかに『中国拳法伝』『きみはもう「拳意

162015.12 月刊「武道」

 

私は中学・高校時代は柔道部、早大入

学後は空手部に所属した。師範は沖縄出

身の船ふ

越こし

義ぎ

珍ちん

先生(号:松

しょう

濤とう

)である。

船越先生は一九五七年、私が早大空手部

に入部した直後、八九歳で逝去された。

 

船越先生は琉球伝来の「唐手」を新た

な理念のもとに「空手」に改め、日本伝

武術の練習体系を採り入れて「日本空手

道の父」となった人である。

 

空手部初期の先輩はもとより、私の数

年前の先輩たちからも船越先生の思い出

をよく聞かされた。

 

私は直接お目にかかる機会のなかった

ことが実に残念だったが、早大空手部に

所属することで、まがりなりに私も門下

の一員であるという自覚だけは持つこと

ができた。

 

大学を卒業して数年後、個人の海外渡

第81回                  

笠尾楊柳

教育武道のちから

を探る

可能性

武道の

シリーズ

中国武術研究家

海外で知った

空手の国際化

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17 月刊「武道」 2015.12

武道の可能性を探る 粢笠尾楊柳

航が自由になり、若者たちに海外無銭旅

行が流行した。私も世界を広く見たいと

思い、稽古着を抱えて「地球一周旅行」

に挑戦した。

 

飛行運賃は高額だったので、船及び汽

車とバスだけで米・欧・アジアを周り、

一年後無事に帰国した。

 

私はこの旅でいかに空手が世界中に普

及しているかを実感した。

 

米国横断中、数カ所の道場で交歓稽古

をする機会があった。どの道場にも空手

を単なる格闘術ではなく優れた日本文化

として生涯にわたって修練しようとする

人々がいた。そのことに私はかえって新

鮮なカルチャー・ショックを感じた。

 

日本では学生空手が主流であり、柔道

などに較べれば、空手はまだまだ特異な

武技だった。マンガ・映画などで空手が

もてはやされ、空手人口が急増するのは

一九七〇年代以降のことである。

 

私は旅行中、アルバイトをしながら放

浪する一介の貧乏青年に過ぎなかった

●プロフィール

笠尾楊柳(かさお・ようりゅう)

1939年(昭和14)東京都生まれ(本名:恭二)。

1961年早稲田大学第一商学部卒業。在学中、空手

部に所属。卒業後、楊名時・王樹金両師について中国柔

派拳法(いわゆる「内家拳」)を学ぶ。その後、日本空

手道流水会・中国拳法太極会などを組織し、中国武術を

総合的に研究、『∧精説∨太極拳技法』『中国武術史大観』

にまとめた。ほかに『中国拳法伝』『きみはもう「拳意

述真」を読んだか』『太極拳に学ぶ身体操作の知恵』、小

説『月下の拳』(筆名:三井悠)などがある。

地元紙の取材で演武した筆者(米国フィラデルフィア)

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182015.12 月刊「武道」

援に感謝して、電車で水道橋を通過する

時はいつも講道館の方角に向かって車中

で礼をしていたという。これも付き添っ

た諸先輩からよく聞かされた逸話の一つ

である。

 

柔道の嘉納治五郎、空手の船越義珍と

いう、この二人の近代徒手武道の先駆者

には大きな共通点がある。それは二人と

も優れた教育者であったということだ。

 

船越先生は東京に出た時、すでに五〇

歳を越えていた。教員としての社会的責

務を全うした上で空手の専門家となった

のである。

 

全人教育としての武道、これを私は改

めて「教育武道」とよびたい。そして嘉

納柔道、船越空手をその典型とする。

「教育武道」は「競技武道」と矛盾する

ものではない。木に例えれば、根幹が教

が、いったん空手着に着替えると、どこ

でも「日本人空手家」として敬意を以も

迎えられた。地元の新聞社が駆けつけて

大きな写真付きで報道されたこともあ

る。

 

この時期、世界中で「カラテ」を知ら

ないのは、皮肉にもカラテの源流地、中

国だけだった。中国はまだ共産主義の殻

に閉じこもって鎖国同然の状態だったの

である。

 

今では中国でも空手を日本の国際的武

道「空手」として認識し、国家的支援の

もとに組織的な発展を遂げつつある。

 

こうして空手が世界的に普及したのは

船越先生が明確な理念に基づいて「琉球

拳法・唐手」を日本武道「空手」として

近代化したことによる。

 

その方向付けにあたっては嘉納治五郎

師範の影響が強い。

 

船越先生は一九二二年(大正十一)、

文部省主催の第一回運動展覧会に沖縄県

を代表して参加し、空手を紹介した。

 

民族の伝統体育として各種古流武術の

保存・継承に広く関心をもっていた嘉納

治五郎師範は、船越先生を講道館に招待

し、多数の有力門下生の前でさらに詳細

な解説を求めた。

 

船越先生による演武解説の途中、嘉納

師範は自ら席を立って船越先生の前に立

ち、こういう時はどう対応するのかなど

具体的に質問した。友好的な交流とはい

え船越先生にとっては、かなり緊張した

立合いとなったことだろう。

 

嘉納師範は空手に武技・伝統体育とし

ての価値を認め、船越先生に広く一般公

開するよう勧めた。これが契機となっ

て、船越先生はそのまま東京に腰を据え

て本格的な普及活動に乗り出したのであ

る。

 

船越先生は終生、嘉納治五郎師範の支

自由と創造性を培う

教育武道

嘉納治五郎と

船越義珍

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19 月刊「武道」 2015.12

育武道、枝葉とそこに咲く花が競技武道

である。

 

建物に例えれば、教育武道が土台、建

物が競技武道である。

 

根幹・土台に教育武道が存在しなけれ

ば、それは「悪しき競技武道」に陥る。

「悪しき競技武道」は、強さだけを求め

がちである。一位だけがダイヤモンドの

如く輝き、二位以下は石ころ同様の存在

となる。

 

教育武道は一人ひとりをダイヤモンド

の原石とみなす。それぞれが各自の個性

と能力に応じて十全に成長発達すること

を目指す。自分自身の一位となれるかど

うかが問題なのだ。こうした立場からは

クラス全員が一位となって輝くことが可

能となる。

 

早大空手部で私より七年先輩の原田満

典さんは現役時代から個性的な空手を追

求し、空手部の中ではやや孤立した存在

だった。

 

卒業後、船越先生に「海外で空手を指

導したい。松濤館を名乗っても宜しいで

しょうか」と相談した。

 

どんな門人とも平等に接する船越先生

は、

「きみのゆくところ、そこが松濤館だ。

自由に名乗りたまえ」

 

と言って励ました。

 

原田さんは競技空手の波には一切乗ら

なかったが、のちに英国における空手指

導の功績を認められ、バッキンガム宮殿

に於いてエリザベス女王から大英帝国

勲章「MBE」(M

ember of the B

ritish

Em

pire

)を授与された。

 

嘉納、船越両師範はともに時代を画す

る創造性豊かな教育活動を展開した。伝

統武術の世界ではとかく固定的な枠によ

って個性をおさえがちである。自由と創

造性を培う、これも今後の教育武道に欠

かせない大きな目標である。この二つが

加わることによって、日本武道は拡大再

生産型の文化として、いよいよそのちか

らを発揮することになるだろう。

船越義珍(1868―1957) 嘉納治五郎(1860―1938)(写真提供=公益財団法人講道館)