中国周代青銅器とその銘文研究-小克鼎管見- 明治大学人文科 …...meiji...

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Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 40: 399-417 URL http://hdl.handle.net/10291/9889 Rights Issue Date 1996-12-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title 中国周代青銅器とその銘文研究-小克鼎管見-

Author(s) 進藤,英幸

Citation 明治大学人文科学研究所紀要, 40: 399-417

URL http://hdl.handle.net/10291/9889

Rights

Issue Date 1996-12-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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中国周代青銅器とその銘文研究

    小克鼎管見

進 藤 英 幸

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400

Abstract

ASTUDY ON WESTERN CHOU BRONZES AND THEIR                           INSCRIPTIONS

               FORCUSING ON XIAO TING OF K’0

Hideyuki SHINDO

   Bronzes of the Western Chou Period are divided into three categories, according to the dates of

their production:(1)ones of the Early Western Chou period;(2)ones of the Middle Western Chou

period;(3)ones of the Later Western Chou period, to which Xiao Ting of K’o belongs, This bronze

ware was encavated with many other wares at Jerl ts’un, Ch’i shan hsien, Shen si in 1890, and compar-

ing, especially, with a bigger Ting of K’o(Dai Ting of K’o)it is called Xiao Ting of K’o(a smaller

Ting of K’o).

   Seven Xiao Ting of K’o were encavated then and the same pattern and the same inscription of

seventy・two characters were engraved on the surface of each of them。 The summary of the inscription

is as followed:K’o ful且lled the command of the King of Chou and was rewarded with a gift. To com-

memorate this, K’o produced this excellent bronze ware and offered prayers for his ancestors and for

prosperity of his family.

   The points of re-examination of this Ting are(1)the name of Ting recorded differently;(2)the

condition of storage of seven wares, and the size and pattern of each of them;(3)the arrangement of

each inscription, such as the number of lines and characters;(4)the change of the form of characters

of inscriptions on seven wares;(5)comparison Qf the syntax of inscriptions with the one of another

bronze wares.

   The result of the examination and consideration of problems as above is reported in this essay.

2

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中国周代青銅器とその銘文研究一一一一小克鼎管見

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第一器 銘文(原寸)

3

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第一器 藤井有隣館蔵

4

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第二器 銘文第二器 黒川古文化研究所蔵

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第三器 東京書道博物館蔵第三器銘文

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第四器 上海博物館蔵 第四器 銘文

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㊤O寸

第五器 北京故宮博物院蔵

第五器 銘文

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第六器 天津市芸術博物館蔵

第六器 銘文

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第七器 南京大学歴史系考古教研室蔵

第七器 銘文

1

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《個人研究》

中国周代青銅器とその銘文研究

      小克鼎管見     、

進 藤 英 幸

409

            こうちょ

 ここに取りあげた鼎は、光緒一六年(一八九〇)に西周王朝発祥の

    せんせい  きさん    ほうもんじにん

地である陳西省岐山県の法門寺任村から出土したもので、同時に大鼎

          しゆ

が一器、小鼎が七器、釜が二器、鐘が六器、その他あわせて実に一二

〇余の古銅器があったと伝えられている(『貞松堂集古遺文』巻三、『上

海博物館蔵青銅器』附冊四七「大克鼎」の条下)。ここでいう大鼎は、

高さ九三・一センチ、口径が七五・六セソチ、重さ二〇・一五キロ

                        だいこくてい

で、器の内側に鋳造された銘文も二八行二九〇字あり、大克鼎と呼ば

れている器である(現在、上海博物館蔵)。小鼎七器は大克鼎に比し

                 い こ

て、高さも重さも小さく軽く、器内に鋳込まれた銘文も、七器とも同

             しょうこくてい

文で七二字であることから俗に小克鼎と呼んでいる。なお、この大小

   しゅ                      ぜんふこく

の鼎・蓋・鐘などの出土器は、いずれも善夫克の作器として知られて

いる。

 副題にしるした小克鼎の器名は記載書によって異っている。

とわず次に掲示してみよう。

ω、

「克鼎」と名称するもの

『陶斎吉金録』巻一。 『陶斎吉金続録』

はん煩

をい

巻一。 『周金文存』巻二。

 『移林館吉金図識』一。 『韓華閣集古録践尾』乙篇中。 『希古楼金

 石葦編』巻二。 『三代吉金文存』巻四。 『貞松堂集古遺文』巻三。

 『三代秦漢金文著録表』巻一。 『双剣諺吉金文選』巻上之二。 『吉

 金文録』巻一。 『商周舞器通考』上下冊。 『上海博物館蔵青銅器』

 附冊・四八。 『中日欧美懊紐所見所拓所墓金文彙編』第三冊。

② 「小克鼎」と名称するもの

  『金文麻朔疏謹』巻四。 『両周金文辞大系図録考釈』(一=二葉

 i=五葉・=一二葉)。 『金文通釈』第二八輯。 平凡社『書

 道全集』第一巻。 河出書房『書道全集』第一巻。二玄社『書跡名

 品叢刊』第三集(金文集3)。 『商周青銅器銘文選』三。 『設周金

 文集成』五。 雄山閣『書芸術全集』第一巻。

⑧ 「善(膳)夫克鼎」と名称するもの

  『憲斎集古録』巻五。 『綴遺斎舞器致釈』巻四。 『積微居金文説』

 巻二。 芸文印書館『金文総集』二。 『股周青銅器と玉』一三頁。

ω 「克乍皇且楚季鼎」と名称するもの

  『小校経閣金文拓本』巻三。

㈲ 「善夫克窃曲文鼎」と名称するもの

  『有隣館精華』図版四。

一11一

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㈲ 「饗饗環帯文鼎」と名称するもの

  『黒川古文化研究所名品選』図版九二。

⑦ 「饗饗山文鼎」と名称するもの

  黒川古文化研究所第四四回「中国古代青銅器展観」要覧

 二)。

(図版第

第六器は、天津市芸術博物館蔵 (『一二代秦漢金文著録表』・『移林館

   吉金図識』一巻〈丁麟年家蔵印本〉に依ると、「移林館蔵」

   とある)

第七器は、南京大学歴史系考古教研室蔵 (『一二代秦漢金文著録表』

   に依ると、「宝華庵〈端方〉・鄭庵〈活祖蔭〉」の旧蔵とある)

                            こく

 この鼎器の名称については、先ず銘文上から器の製作者である克の

          こく                                                こく

名をとって名づけた「克鼎」・「克乍(作)皇且(祖)楚季鼎」(克、

  り き                                                ぜん

皇祖麓季の鼎を作る)があり、それに官職名を加えて名づけた「善(膳)

ふこく                                 もんよう

夫克鼎」がある。また、器の表面に鋳飾された紋様をとって名づけ

  とうてつかんたいもん      とうてつさんもん

た「饗黎環帯文鼎」・「饗黎山文鼎」があり、それに製作者と官職名を

    ぜんふこくせつきょくもん

加えた「善夫克窃曲文鼎」などと名づけて称されている。

 次にこの七鼎器の収蔵と著録について、冒頭に掲げた順に従って略

述することにする。

現蔵の所在

 第一器は、藤井有隣館蔵 (『三代秦漢金文著録表』に依ると、「夢

                   たんぼう

    庵 日本太田氏孝太郎蔵」とある。端方の旧蔵であったもの)

 第二器は、黒川古文化研究所蔵 (『三代秦漢金文著録表』に依る

    と、「宝華庵〈端方〉・鄭庵〈播祖蔭〉・日本黒川氏蔵」とあ

    る)

 第三器は、(東京)書道博物館蔵 (『三代秦漢金文著録表』に依る

    と、「宝華庵〈端方〉・鄭庵〈播祖蔭〉」の旧蔵とある)

 第四器は、上海博物館蔵 (『一二代秦漢金文著録表』・『憲斎集古録』

    第五冊に依ると、「憲斎〈呉大激〉自蔵」とある)

 第五器は、北京故宮博物院蔵 (『一二代秦漢金文著録表』に依ると、

    「宝華庵〈端方〉・鄭庵〈播祖蔭〉・大興凋氏蔵」とある)

銘文の著録

 第一器

   『周金文存』巻二・一六葉の表裏。

   『貞松堂集古遺文』巻三・三四葉の表裏。

   『希古楼金石葦編』巻二・三四葉の表裏。

   『小校経閣金文拓本』巻三・三六葉の表。

   『三代吉金文存』巻四・三〇葉の表と三七葉の表。

   『両周金文辞大系』録編一一三葉の表。

   『日本蒐儲支那古銅精華』第四冊・三一一。

   『書跡名品叢刊』第三集「金文集」3・三一六頁。

   『金文通釈』第二八輯・五一五頁。

   『中日欧美懊紐所見所拓所墓金文彙編』第三冊・88・

   『金文総集』第二冊・獅・六四二頁。

            1 9

   『股周金文集成』第五冊・79・一九四頁。

              2

   『有隣館精華』四頁。

   『書芸術全集』第一巻・48・八四頁。

 第二器

   『陶斎吉金続録』巻一・二五葉の裏。

   『周金文存』巻二・一四葉の表。

   『小校経閣金文拓本』巻三・三五葉の表。

   『三代吉金文存』巻四・二八葉の裏。

一五一頁。

一12一

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中国周代青銅器とその銘文研究一小克鼎管見

  『両周金文辞大系』録編一一四葉の裏。

  平凡社『書道全集』第一巻・七八頁。

  河出書房『書道全集』第一巻・一五八頁。

  『中日欧美襖紐所見所拓所慕金文彙編』第三冊・90・一五三頁

  『金文総集』第二冊・蹴・六三七頁。

  『股周金文集成』第五冊・耕・一九二頁。

             2

  『黒川古文化研究所名品選』92・展観図版25。

  『書芸術全集』第一巻・八五頁。

第三器

  『綴遺斎舞器致釈』巻四・三二葉の表裏。

  『陶斎吉金録』巻一・三六葉の裏。

  『周金文存』巻二二五葉の表。

  『両周金文辞大系』録編一一五葉の表。

  『小校経閣金文拓本』巻三・四〇葉の裏。

  『三代吉金文存』巻四・三一葉の表。

  『中日欧美懊紐所見所拓所墓金文彙編』第三冊・87・一五〇頁。

  『金文総集』第二冊・餅・六四五頁。

  『股周金文集成』第五冊・棚・一九六頁。

             2

第四器

  『憲斎集古録』第五冊・五葉の裏。

  『周金文存』巻二・一七葉の裏。

  『両周金文辞大系』録編又=五葉の表。

  『小校経閣金文拓本』巻三・三七葉の裏と三八葉の表。

  『三代吉金文存』巻四・二九葉の表。

  『上海博物館蔵青銅器』附冊・48・四一頁。

  『中日欧美懊紐所見所拓所墓金文彙編』第三冊・89・ 五二頁。

           ヨ

  『金文総集』第二冊・29・六三九頁。

  『商周青銅器銘文選』第一冊・06・一八六頁。

               ヨ

  『毅周金文集成』第五冊・隅二九一頁。

             2

第五器

  『陶斎士口金録』巻一・三八葉の裏。

  『周金文存』巻二・一四葉の裏。

  『両周金文辞大系』録編一↓四葉の表。

  『小校経閣金文拓本』巻三・三八葉の裏。

  『三代吉金文存』巻四・二八葉の表。

  『金文総集』第二冊・蹴・六三五頁。

           1 8

  『設周金文集成』第五冊・79・一九三頁。

             2

第六器

  『移林館吉金図識』 一。

  『綴遺斎舞器致釈』巻四・三三葉の裏。

  『周金文存』巻二・一七葉の表。

  『希古楼金石葦編』巻二・三三葉の表裏。

  『両周金文辞大系』録編=三葉の裏。

  『小校経閣金文拓本』巻三・三九葉の表裏。

  『三代吉金文存』巻四・二九葉の裏。

  『中日欧美懊紐所見所拓所墓金文彙編』第三冊・91・

  『金文総集』第二冊・脳・六四〇頁。

           ユ

  『毅周金文集成』第五冊・脚・一九五頁。

             2

  『書芸術全集』第一巻・八五頁。

第七器

  『綴遺斎舞器孜釈』巻四・三三葉の裏。

  『陶斎吉金録』巻一・三四葉の裏。

  『周金文存』巻二・一五葉の裏。

  『両周金文辞大系』録編=五葉の裏。

五四頁。

一13一

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『小校経閣金文拓本』巻三・四〇葉の表。

『三代吉金文存』巻四・三〇葉の裏。

          

『金文総集』第二冊・29・六四三頁。

『殿周金文集成』第五冊・朧二九七頁。

           2

 以上、手元にある七器の銘文を載せた参考書目を示したが、『小校

経閣金文拓本』巻三の鼎部に「克乍皇且麓季鼎」一~一〇器の拓影を

掲載している、これを他の拓影と照合してみると、二と三(この拓は

不鮮明であるが、二と同じく藤井有隣館蔵器の銘に等しい)、四と五

(四の拓は不鮮明であるが、五と同じく上海博物館蔵器の銘に等し

い)、また、七と八は全く同じ拓で天津市芸術博物館蔵器の銘に等し

いものである。三器の銘が重複して一〇器と誤記されたものと思われ

                 すうあん

る。さらに、『周金文存』巻二の附説に郷安は

  克鼎は九、最も大なる者の、一銘は(器の内)側に在り、一銘は

  そこ

  底に在り、他の鼎と同じからず。

 と記しているが、最も大きい者は大克鼎で、その銘を二器にわたる

ものと思って器数を数えたものらしく、小克鼎の器数は今は七器であ

る。なお、近年、芸文印書館から『三代吉金叢書初編』と題して印行

した、その第五冊目の「周金文存」巻二の目録には、

克鼎一

〃〃〃〃〃〃〃

八七六五四三二

一百八十九字

七十二字

同 上

同 上

同 上

呉県活氏

同 上

同 上・浬陽端氏

浬陽端氏

同 上

 とある。克鼎一は大克鼎、下の数は銘文の字数、旧蔵家の出身地と

氏名が記されている。この目録を見る限りでは二以下の七器が小克鼎

になる筈だが、一四葉の表から}七葉の裏までに掲載した銘文は八器

のもののようになっている。よく見ると五と六は同銘でまちがって載

せたものと思われる。

銘文の配次

 小克鼎七器は、器の内側に同じ内容の文字がそれぞれ鋳込まれてい

るが、各器とも字の配次が異なっている。すなわち、

第一器は(八行七二字〈重文二字を含む〉)

 佳王廿又三年九月王/才宗周王命善夫克舎/

 令干成周遍正八自之/年克乍朕皇且麓季寳/

 宗舞克其日用鑛朕辟/魯休用匂康肋屯右/

 眉壽永令謡冬遙/年無彊克其子≧孫≧永賓用

第二器は(八行七一字〈重文二字を含む〉)

 佳王廿又三年九月王/才宗周王命善夫克舎/

 干成周這正八自之/年克乍股皇且麓季寳/

 宗舞克其日用篇朕辟/魯休用匂康勅屯右/

 眉壽永令謡冬遙/年無彊克其子≧孫≧永寳用

※二行末から三行目にかけて「令(“命)」の一字が欠けている。

 一行目の「月」は拓影では見えないが、写真版では見える。

第三器は(九行七二字〈重文二字を含む〉)

 佳王廿又三年九月/王才宗周王命善夫/

一14一

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413

小克鼎管見中国周代青銅器とその銘文研究

克舎令干成周通正/八自之年克乍朕皇/

且麓季寳宗舞克其日/用鷺朕辟魯休用匂/

康肋屯右眉壽永/令霊冬遭年無彊克/

其子≧孫≧永寳用

第四器は(八行七二字〈重文二字を含む〉)

 佳王廿又三年九月王/才宗周王命善夫克舎/

 令干成周這正八自之/年克乍朕皇且麓季寳/

 宗舞克其日用篇朕辟魯/休用匂康勒屯右眉/

 壽永令謡冬遮年/無彊克其子≧孫≧永費用

第五器は(八行七二字く重文二字を含むV)

 佳王廿又三年九月王/才宗周王命善夫克舎/

 令干成周透正八自之/年克乍朕皇且麓季/

 寳宗舞克其日用簾朕/辟魯休用匂康肋屯右/

 眉壽永令霊多適年/無彊克其子≧孫≧永寳用

第六器は(八行七二字〈重文二字を含む〉)

 佳王廿又三年九月王/才宗周王命善夫克舎/

 令干成周透正八自之年/克乍腺皇且麓季寳宗/

 舞克其日用漿朕辟魯/休用匂康勧屯右眉壽/

 永令謡多適年無彊/克其子≧孫≧永寳用

第七器は(九行七二字〈重文二字を含む〉)

 佳王廿又三年九月/王才宗周王令善夫/

 克舎令干成周透正/八自之年克乍朕皇/

 且楚季寳宗郵克/其日用鷺朕辟魯休/

用匂康肋屯右眉壽/永令謡冬適年無彊/

克其子≧孫≧永寳用

 この七器のうち第二・三の両器の銘文には、同時の出土であった

「大克鼎」の前半と同じく格子形の界線が見える。この界線は、銘文

を配次するために付けられたもので、銘の字数の多い器には大体あっ

たと考えられるが、鋳造の工程で見えたり見えなかったりしたもの

か、製作から二千数百年を経て出土された現在では見えなくなったも

のが多い。この方面にも永年、実験を通して研究されていた松丸道雄

氏は「股周金文の製作技法について」の中で、「長文の金文銘には、

しばしば陽格が見られる。……長文の銘が、銅器内面に作られる場

合、その銘文の各行が、見る者からいずれもほぼ垂直になるように、

設計されている。……この陽格とは、器内の曲面に銘文をもっとも読

みやすい状態で嵌入させるためにとられた古代工人の工夫の所産で、

長文の場合にのみ必要だった」(二玄社『中国法書』ガイドー)と述

べられている。すなわち界線は、金文銘の書き手が便利上から必要な

ものであって、鋳成後にそれが鋳出することを目的として作られたの

ではないということであろう。

 ところで、界線のある二器は大克鼎ほど整斉ではなく、界格をはみ

出して書かれている字や、一字で二格を占めているものもある。金文

にはよく見られることであるが、縦方向はほぼ界線に従っているが、

横方向には界線にそわないものがある。またこの七器には、銘文が八

行の器と九行の器とがあって、末尾の行は十二字(重文二字を含めて

数える、以下同じ)のもの、十一字のもの、九字のもの、八字のもの

などがある。当然ながら字数の多い末尾の部分は窮屈になり、少ない

部分は字間を広くゆったりとなっている。なお字形について観察する

と、第七器の二行目の「王命」だけが「王令」と書かれ、第一器の五

一15一

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414

行目の末字「辟」の左側「畠」だけが他とちがったり、第二・六器

の「壽」字の下が「マ㌣」と書かれている。その他、「遍」字に「口」が

有ったり無かったり、微細な点で相違があって、七器の銘文がすべて

同一人の書き手によってできたもののようには思われ難いが、綜合的

に見て西周後期の標準的銘文といえよう。

ほぼ似た大きさである。七器のうち最も大きい第四の器の規模を『上

海博物館蔵青銅器』附冊には、

  高さは五六・五セソチ、口径は四九センチ、腹径は四九.四セン

  チ、腹深は二五・三セソチ、重さは四七.八八キロ

 と記録されている。

鼎の器制

         もんよう               けいぶ

 鼎の表面に飾られた紋様は、七器ともに鼎の頸部(鼎の口縁下の部

       とうてつもん                                   せつ

分)にくずれた饗釜紋があり、下ぶくれの銅腹部にはいちめんに窃

きょくもん

曲紋とでも名つくべき波状の曲線紋(これを動物紋から変化した波

                 さんけい

  かんたいもん

状の環帯紋とも、また単に、連続した山形の紋様とも)をつけてい

                      ばんじゅうもん       こう

              きりゅうもん

る。比較的大きな双耳の外側に魑龍紋(あるいは幡獣紋とも)を鉤

嵐状に組み合わせた紋様を相対して配置され、三本の脚にも箋繊

     こしゆもん

(あるいは虎首紋とも)がある。この装飾した紋様は「大克鼎」とほ

         まる

ぼ一致し、下腹部が円くふくらんだ形も同じ型で、ともに西周後期の

典型的な鼎であるとされている。

 なお、「小克鼎」の器には大小がある。立耳を含めた器の高さを示

すと、第

一器は

第二器は

第三器は

第四器は

第五器は

第六器は

第七器は

三五・ニセンチ

四五内視鏡センチ

二二三五ニー三五六二

 右のとおりであるが、

いで大きい。第一と第五の器、

五センチ

五センチ

・四セソチ

・三センチ

・七センチ

 第四器だけが群を抜いて大きく、第二器が次

    また第三と第六と第七の器はそれぞれ

 次に、図版の第一器(藤井有隣館蔵)の拓に基づいて、この銘文を

考釈したい。

佳王廿又三年九月、王才(在)宗周。

                  いおう  ちんぼうか

 この場合の王をこれまで、西周後期の夷王(陳夢家の『西周年代考』

                     れいおう  かくまつじやく

・白川静氏の『金文通釈』第二八輯)、あるいは属王(郭沫若の『両

                       ご きしょう

           ようことフ

周金文辞大系図録考釈』・容庚の『商周郵器通考』・呉其昌の『金文麻

朔疏謹』・魁敵の『西周青銅器銘文分代史徴』附件二・樋口隆康氏の

『展望アジアの考古学』など)であるとされていたが、『商周青銅器銘

文選』第三(以下『銘文選』と略称)では、西周の孝王二十三年(前

九〇二)の九月壬申朔としている。これは主編の馬承源が『上海博物

館集刊』(一九八二年刊)に発表した「西周金文和周暦的研究」に依

拠して作った年暦表にしたがった紀年である。問題は、武王の在位を

(肌

艸o)とし、下・て穆王(麗叩蟷)、奎(論迦、華

(器螂)、孝王の在位は(號~謝)、夷王の在位(論蜘)は

二十年間と算定されてのことである。

                 せんせい         ほう  こう

 宗周は、本家の周といった意味で、陵西省にあった豊.鏑(今の西

安市の西南)という周の本国のことである。

王命善夫克、舎令干成周、通正八自(師)之年.

          せんぶ

 善夫は、これまで「膳夫」(宮廷の料理をつかさどる役)の意に解

                       ぜんしゅうつかさど

釈されたが、ここでは『周礼』天官に、「王の食飲・膳差を掌り、以

て王および后・世子を養う」とある官職と同意のようにはとれない。

一16一

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小克鼎管見中国周代青銅器とその銘文研究

     こくしゅ

善夫克は、「克蓋」に「善夫克の田人を典せしむ」とあり、「大克鼎」

                 ぼくびょう

に「王、宗周に在り。旦(あした)に王、穆廟に各(いた)りて立(位)

      ちょうき

に即(つ)く。翻季(王の側近老)、善夫克を右(たす)けて門に入

                    いんし

り、中廷に立ちて北に卿(むか)はしむ。王、サ氏を乎(呼)びて、

善夫克に冊命せしむ」とある。克は王の側近で授命・復命を職務とし

                こくしゆ

た重臣。白川静氏は、「善夫は膳夫。克釜とその職が同じ。宰夫と同

じく神薦をつかさどるものであったが、のち王の左右輔弼の重臣とな

った」(『金文通釈』第二八輯、五〇〇頁)と述べている。

 舎令の令は、命と同意。金文では古いほど区別せず命をも令に書く

ことが多いようである。第七器の銘文だけが、「王令・舎令・永令」

                   れい い

と「令」字に統一されている。「舎令」は「令舞」に「三事に令(命)

を舎(お)く」とか「四方に令を舎く」とあって、王命を伝達・宣布

する意。命をおく対象は「成周の八師を透正する」ことである。『銘

文選』は、『詩経』鄭風・圭…嚢篇の「舎命不楡」の鄭注の説に従って、

処命(命に処る)とか守命(命を守る)とかの意にとっている。

            らくゆう

 成周は、東周時代の地名。洛邑、今の河南省洛陽にあたる。

                           しきょたい

 通正は、郭沫若は『両周金文辞大系』(「小克鼎」の条)で「師遽般」

          し  し

の「透正師氏」(ここに師氏を正す)とある語に同じとして、「遍」を

「延」(ここに)と助詞にみている。『銘文選』も、『詩経』大雅・文王

有声篇の「通追来孝」(ここに追って来り孝す)を『礼記』礼器篇に

「圭・追来孝」とあることから、「皐」に通じて「ここに」と読むとされ

           いつ  いつ

ている。干省吾も同じ、「這は車に通ず」としている(『双剣診吉金文

選』〈上二〉)。何昌済は『詩経』の詩句を引いて助詞とみながら、「こ

こ疑ふらくは猶ほ令を施すと謂ふがごときなり」としている。また、

八師について、『穆天子伝』(巻一)の「章将六師」を引いて、「銘文

の八師は、周王室の新軍を併合させているのだ」としている(『聾華

閣集古録践尾』〈乙篇中〉五七葉の表)。『詩経』大雅・常武篇に「整

我六師、以脩我戎」(我が六師を整へ、以て我が戎を脩めしむ)とあ

り、「鄭箋」に「六軍の衆を警戒し、其の兵甲の事を治めしむ」と注

解している。『銘文選』には、「通正八師」は「八師を整頓する」意と

し、さらに、この八師は成周に駐在する、すなわち成周の八師である

                    うてい

としている。大小の克器に極めて関係深い「萬鼎」に、「王、・すなわ

ち西の六師、股の八師に命ず」とある。「股の八師」は、成周の庶民

と段の遺民などをもって構成されていたと思うから「成周の八師」と

同意であろう。だから有事にはあらためて遍正する必要があったもの

          こつ

              こ

と考えられる。なお、コ肖.(留)壷」に「王、乎サ氏、冊令留日、更

                いんし         こつ

乃且考、乍家嗣土干成周八自」(王、サ氏を呼び、晋(留)に冊命せ

     なんぢ        つ               ちょうし と         な

めして曰く、乃の祖考を更ぎ、成周の八師に家司土く徒Vと作れ」と

あるが、呉聞生は「天子の八師の周制は股に本(もと)つく。その後、

乃ち省(略)して六師となすのみ」と注している(『吉金文録』一、

                いつせい         いつせい

克鼎〈小克鼎〉の条)。白川静氏は「透正と似たものに透省があり、

そうしゅうしょう       はじ                   きょうど

宗周鐘に”王、肇めて文武の勤めたまへる彊土を通省す”とみえ、

              こくしょう

広大な地域の巡察を意味するが、克鐘に”王、親しく克に命じ、脛東

 ただ      けいし

を透して、京自に至らしむ”とあるものは透省であろう」とされてい

る。さらに「透正は純粋に軍事的な目的をもって、股の八師(成周の

八師と同意)の師氏や構成員を対象としてその軍規を正すものであっ

た」といって、透の助詞説をしりぞけて動詞の意に解している。

克乍(作)朕皇且(組)楚季實宗舞

      こく          り  き

 この器では克の皇祖を贅季とよんでいるが、「大克鼎」では「克、

      し か ほ  ほうしょうい

  わ

……朕が文祖師華父の宝篇舞を作る」とあって、文祖を師華父と称し

ている。『銘文選』は、楚季は克の皇祖の名としている。呉間生は、

「華父は字(あざな)、麓季は誰(おくりな)なり」(『吉金文録』巻一)

と注している。郭沫若は、「麓季はまさに即ち師華父の字(あさな)

なるべし」といい、師華父と楚季を一人であるとみている。白川静氏

一17一

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                な

は、「師華父と萱季の関係を必ずしも名・字(あざな)の関係にある

ものと定めがたいとし、祖は父祖の祖に限らず、祖以上の先世を呼ぶ

                       む きたい       む

にも用いる語」(同上書、五一六頁)とされている。「無異般」に「無

き                       そんたい

貴、用って朕が皇祖楚季の隙般を乍(作)る」とあり、善夫克と無異

とは、皇祖を同じくする兄弟であったろうと考えられる。

 宗舞の舞は、「器」の代用字である。金文の通例として「隣舞」と

あるのを、古典あるいは金文にも「宗器」(宗廟の器)とあるからで

ある。

克其日用嬢朕辟魯休、用匂康肋、屯(純)右(祐)眉壽 永令(命)

謡多(終) 適(萬)年無彊(彊) 克其子}孫≧永費用

    せつもん

 鑛は、『説文』にはない字であるが、『広韻』下平声巻第二に「賛な

り、また嵩に作る」とあるも、ここでは文義が通じないことから、白

川氏は『詩経』商頬・烈祖篇の「我受命博将」(我、命を受けて薄〈ひ

ろ〉く将〈おほい〉にす)の「将」であろう、としている(『金文通

釈』二八)。この詩句を朱烹は「博は広、将は大なり」と注解し、天

子の命を受けて盛大にする意に解している。『銘文選』は、将を「進

奉(すすめささげる)」の意に解している。『詩経』大雅・既酔篇の「爾

殺既将」の朱注に「奉持して進むるの意」とある。魯休は、「魯」字

         か

は古典のなかでは「蝦」字となっていて、神の賜与する意。「休」字

も金文の通例として「美」「慶」の意に使われ、賜与の意に用いられ

ている。魯休とは福美の意であり、福美にあたる下賜品が具体的に記

録されている銘文とそうでない銘文がある、「小克鼎」の場合は後者

にあたるといえる。

       こ

 匂(勾)は、乞い求める意。

           やく

 康肋の肋を郭沫若は「蹄」の字、仮借して「楽」(たのしむ意)と

              しゅくしょうほたい

いうのに対して、白川静氏は、「叔向父般」の「動干永命」(永命に

かな         ばんせいたい

勒へしむ)・「番生殴」の「肋干大服」(大服に勒へしむ)などの語例

     きょう                  てき

をあげて、「憾」(こころよい)・「適」(心かなう)の意であるとして

いる。呉閲生は大小の克鼎の肋をともに「鰍」(和)字の意に釈して

いる(『吉金文録』一、克鼎〈大克鼎の注文〉)。ここでは郭氏説を採

っておく。康楽は、『周礼』秋官の小行人に「其の康楽・和親・安平

を一書と為す」(各邦国の康楽〈11安楽〉・親和・平安の状態を記載し

て一書につくる。)とある康楽、あるいは康寧と同じく心の安らぎの

意。

                  じゅんゆう

 屯右は、ここでは通用字をあてると「純佑」である。純は大きい

意、右は佑助(たすけ)の意。鼎舞を作って皇祖を祭り、その佑助を

受ける意。

 びじゅ                     きん

 眉寿の眉は、銘文では「懸」(壕)となっている。眉寿は永命と連

続して読まれる金文常用の熟語である。白眉にいたるまでの寿命、つ

まり長寿の意。

 永令は永命で、長い生命、老寿の意。

 謡冬の冬は、ここでは終の意に使われている。謡終は古典の「令終」

               ゆう                            よ

で、『詩経』大雅・既酔篇に「昭明融たる有り、高朗にして終りを令

    じょうげん  せんちゅう                   ほまれ     

くす」と、鄭玄の箋注に「令は善なり。……高明の誉ありて善名をも

ノ                                      しゅ き                    

って終るは、これその長なり」とあり、朱烹の集伝に「終りを令くす

                          こうはん

は、終りを善ぐするなり。(書経)洪範のいわゆる考終命。古器物の

            よ                                    こ

銘のいわゆる令終(終りを令くす)・令命(命を令くす)とは是れな

               まっと

り」という。洪範篇の終命は天寿を全うする意であろう。謡終は、終

りを良くする、いわゆる有終の美をかざるような立派な死に方ができ

る意であろう。

 「湛年無彊、克其子≧孫≧永宝用」の「遽年無彊」は、金文にも古

典にも常用される字句である。古典では萬年無彊と、万年限りなく続

                かぎ

く意。「大克鼎」では、「克、其れ萬年彊り無く、子々孫々、永く宝と

して用いよ」とある。

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小克鼎管見中国周代青銅器とその銘文研究

   か じ

 この蝦辞(祭りのときに、神主が主人の幸福を祝うことば)の形式

は西周後期に多くみられる。郭沫若や白川静氏も指摘するように、「

びらんてい

微織鼎」のごときはほとんど同文である。参考までに掲示しておこ

う。

繍眉用徽佳・ノぎ  テ-ニ レ

子N享’王註季罷・享朕二う年

奢蚕羅査演鳶一ぎ王用シ用織’癌躯藻・ をリニル在

㌻錫蘇弩需簸異

緯睾

    ヲ 9右。( 磯宿橋墜  )

 この場合もそうであるが、「小克鼎」も一般の形式と違っている。

つまり「克、其日………魯休」の句は、ふつうの文ではこの前句の上

に位置して、「克其雛朕辟魯休、用作朕皇租楚季寳宗郵、克其日用匂

康勒………」となる筈である。この場合の「箆」は「封揚」とか「敏

                             こく

揚」にあるところにあたるというのは白川静説である。たとえば「克

しょう                                                        

鐘」では、「克、敢封揚天子休、用作朕皇祀考伯寳醤鐘、用匂純蝦永

              こく  あえ     

たまもの

命、克其萬年、子≧孫≧、永寳/克、敢て天子の休に対揚して、用て

わ           ほうりんしょう          じゅんか                もと

朕が皇祖考伯の宝薔鐘を作り、用て純蝦・永命ならんことを匂む。克

よ、其れ万年ならんことを、子々孫々、永く宝とせよ。」となってい

     たまう

る。さらに、易(錫)を加えて、「易(錫)……、対揚(鑛)……休(魯

休)、作……鐘(舞・鼎)、匂……」という形式がより一般的であった

              はくこくこ    ふ きたい   しょうてい

ようである。先の「克鐘」や「伯克壷」・「不嬰敦」・「頒鼎」などの

鋳銘は完全にこのパターンを採っている。

 以上の解説から、次のように訓読し、要旨を述べておくことにす

る。

 こ     にじゅうゆう                          ぜんぶこく

佳れ王の廿又三年九月、王、宗周に在り。王、善夫克に命じ、命

    お          いつせい

を成周に舎き、八師を通正するの年なり。

 こく  わ      り き  ほうそうい            そ  ひび  もち       きみ  ろ

 克、朕が皇租楚季の寳宗舞を作る。克、其れ日に用いて朕が辟の魯

きゅう すす    もつ  こうらくじゅんゆう        びじゅ           よ

休を鷺め、用て康励純佑にして、眉壽永命、終りを謡くして、萬年

かぎ                        もと

彊(彊)り無からんことを匂む。

            たから

 克よ、其れ子々孫々、永く寳として用いよ。

 時は周王が即位されて二十三年の九月、王は宗周(今の西安附近の

        ぜんぷ                 こく

地名)におって、善夫(官職名)である克なる者に命令した。克は王

             おもむ              さえつ

命を受け、成周(今の洛陽)に赴いて八個軍団の査閲を行ない(滞り

なく王命を)果たした年であった。

また(査察の功によって賜わりものをいたゴき、それを記念して)克

    り  き

は皇祖の麓季を祭るための立派な宗廟の器を作らせた。そして、王か

ら下賜された品々を日々すすめ供えて、ご先祖たちの祭祀を行い、康

楽と大いなる神佑が授かり、長寿・長生ができ、万年ものあいだ有終

の美をかざることのできるようにと祈り求めるのである。

 克よ、子々孫々にいたるまで、この器を宝として用いるように。

 というのが、この銘文の大体の意味であると思う。なお、西周後期

における克氏の詳しい点については、関係する諸器を調査し、さらに

研究する必要があると考えている。

(しんどう ひでゆき)

一19一