語の意味の記述方法に関する覚書 -  · 2007. 7. 7. · nivxsko-ruskij razgovornik i...

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語の意味の記述方法に関する覚書 金子 亨 どの言語を記述するにせよ、文法現象について考えると、きまって語の意味の記述方法を再考 せざるを得なくなる。このところしばらくニヴフ語の時間表現と使役などの文法現象についてに 考えてきたが、昨今の語彙研究の動向と関わって、絶えず言語の意味の単位について、語の意味 の構造について、語彙間の意味的関係についてなど、いくつかの看過できない語義記述の方法論 的な問題に出くわした。以下ではそのうち差し迫った論点について、とりあえず気の付いたこと、 考えたことをまとめて、大方の批判の俎上に載せたい。 1.意味の単位は何か 形態素は最小の意味の単位を与えるのだろうか。言語記号の二重分節性から導出されるように、 それは有意味な最小の音素連続だから、その意味もまた最小の単位であると判断できるのだろう か。これらの問いは何となく「イエス」と答えられて、いわば公理といして扱われてきた。その ため合成語から複統合語や抱合にいたる一連の問題にあっても等閑に付せられてきた。いまその 公理を揺さぶるように見えるいくつかの論点をあげてみよう。 1.1.形態素は意味の単位を与えるか M.N.プフタさんの『ニヴフ語-ロシア語会話帖+分類語彙集』 註1) を編集していて、珍し い単語に出会った。 (1)a. jilud (流氷到来後に帰るように猟・漁に出る) b. kpt (流氷結氷後に帰るように猟・漁に出る) 但し、括弧内はそれぞれプフタさんの簡単な解説。 jilud 註2) という動詞は、他のいくつかの辞書にはその形では出て来ない。しかしサヴェーレバ・ .......................................... 註1)文部科学省特定領域研究「環太平洋の言語」2002 A-017 M.N.Puxta, G.D.Lok T.Kaneko red. Nivxsko-ruskij razgovornik i Tematiheskij Slovar;. 1995/2002 語彙番号 708, 709 (p.24) 註2)Savel;eva, V.N.,H.M.Taksami, Nivxsko-Russkij Slovar;. Moskva 1970 該当項目、以下本文では「S

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語の意味の記述方法に関する覚書

金子 亨

どの言語を記述するにせよ、文法現象について考えると、きまって語の意味の記述方法を再考

せざるを得なくなる。このところしばらくニヴフ語の時間表現と使役などの文法現象についてに

考えてきたが、昨今の語彙研究の動向と関わって、絶えず言語の意味の単位について、語の意味

の構造について、語彙間の意味的関係についてなど、いくつかの看過できない語義記述の方法論

的な問題に出くわした。以下ではそのうち差し迫った論点について、とりあえず気の付いたこと、

考えたことをまとめて、大方の批判の俎上に載せたい。

1.意味の単位は何か

形態素は 小の意味の単位を与えるのだろうか。言語記号の二重分節性から導出されるように、

それは有意味な 小の音素連続だから、その意味もまた 小の単位であると判断できるのだろう

か。これらの問いは何となく「イエス」と答えられて、いわば公理といして扱われてきた。その

ため合成語から複統合語や抱合にいたる一連の問題にあっても等閑に付せられてきた。いまその

公理を揺さぶるように見えるいくつかの論点をあげてみよう。

1.1.形態素は意味の単位を与えるか

M.N.プフタさんの『ニヴフ語-ロシア語会話帖+分類語彙集』註1)を編集していて、珍し

い単語に出会った。

(1)a. jilud (流氷到来後に帰るように猟・漁に出る)

b. kpt (流氷結氷後に帰るように猟・漁に出る)

但し、括弧内はそれぞれプフタさんの簡単な解説。

jilud 註2) という動詞は、他のいくつかの辞書にはその形では出て来ない。しかしサヴェーレバ・

..........................................

註1)文部科学省特定領域研究「環太平洋の言語」2002 A-017 M.N.Puxta, G.D.Lok T.Kaneko red.

Nivxsko-ruskij razgovornik i Tematiheskij Slovar;. 1995/2002 語彙番号 708, 709 (p.24)

註2)Savel;eva, V.N.,H.M.Taksami, Nivxsko-Russkij Slovar;. Moskva 1970 該当項目、以下本文では「S

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タクサミ『ニヴフ語・ロシア語辞書』註3)には jilkt/ilkt (地帯を隔てて何かをもってくる・もっ

ていく)が採録されている。この単語と関係があるのではないだろうか。ここで「地帯」を流氷

あるは氷結した海面の帯と考えると、この語には「凍結している氷原・海開け後の海原を越えて

獲物を捕ってくる」という意味を与えることができるからだ。一方、kpt も他の辞書に採録さ

れていない。サヴェーレヴァ・タクサミは kprt(立っている)と krd(絶食する)を記録する

が、ともに「流氷」という概念とは関係がない。

上のプフタさんの解釈に従って、これらの語の意味を比較すると、次のようになる。

(2)

語彙 共通の意味 猟・漁期 滞留期 帰宅期 jilud 凍結期 - 海開け後 kpt

流氷期に猟・猟 をする 凍結期 流氷期 凍結期後

但し、滞留期の「-」は「分からない」を示す。また海開けの時期や行き帰りに漁・猟を

するかどうかは意味に入っていない。

さて、問題の2語の語幹形態素は、それぞれ jilu-とkp-で、共に合成語とは思われない。だが

それぞれは(2)のように共通の意味と三つの弁別的な意味要素から成る複合的な意味を持つ。

しかしそれぞれは語幹形態素によって専一に表示されているので、それぞれ単一の意味である。

言い換えると、それぞれ一つずつのまとまった言語的概念を成す。共に多分にエスニックな色合

いを持っているが、ニヴフの日常生活の中で多用されるひとつのタイプの行動に関するまとまっ

た一つの概念である。では、表(2)の示す複雑な意味の要素は何か。それはこれらの語の表示

する概念に対する解釈であって、ニヴフ語であろとロシア語であろうと類似の概念が換言的に説

明される。

形態素の意味が非常に複雑な内容をまとめ上げた一つの概念であることは、別にニヴフ語の例

をあげるまでもなかろう。例えば、日本語の時間表現の中に「ひねもす」という語がある。『広辞

苑』第1版はこの語について「朝から晩まで、一日中、しゅうじつ、ひもすがら註4)。万「~鳴

...................................................

註2続)T」と引用する。

註3)jilud は原文でjil1ud;で示されていて、jilgud;ではなく、使役ではない。むしろ自動詞である。両

資料とも同じ村で育った人の採録なので、両語は異語か特殊化された転用であろう。

註4)ちなみに、同書によると「ひもすがら」は斉藤茂吉が「よもすがら」になぞって作った新造語であると

いう。

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けど、聞きよし」」と書く。これも換言的説明である。古い語のようで、万葉集の用法からすると、

この語には少なくとものんびりしている状態が含意されている。この含意も形態素「ひねもす」

のもつ意味、それが表示する言語的概念に含まれる。その反対に、反意語の「よもすがら」は夜

中働くことが含意されている。この種の語でも、形態素の意味は複合的であり、含意を内包する。

しかしこの形態素が表示するのはやはり一つのまとまった概念であると見なされる。

日本語の動詞「見る、見える、見せる」から形態素 mi- を取り出すことは容易である。ではそ

の意味は何か。それは、視覚認知という他はない。複合的な解釈は効かない。それほどに単一的

である。しかもそれを単独に表示する自由形式(=語)がない。同じように「向く、向かう、向

ける」の語の基底に形態素 muk- が求められる。それが表示する意味を方向行動というと言い過

ぎであろう。非行動的な「陽に向いて咲く」のような表現が排除されるからである。従って、方

向化とでもいう他はない。これもまた単一的で、複合的な解釈を許さない。この種の類例は多く

あるが、これらの動詞群に共通する言語的概念は、いずれも単一的に抽象的で、それに直接対応

する語形態がない。形態素のもつ抽象的な意味は、特定のタイプの形態、例えば、動詞時制のひ

とつル形などがついてはじめて、形態(モルフ morph )を作る。面倒な解釈を必要としないどこ

ろか、抽象的に過ぎて対応する語形態がない。

ここで見たように、形態素の表示する意味=言語的概念にはさまざまなタイプがある。解釈に

多言を要するもの、語形態が対応しないほどに抽象的なもの、その中間にあって、何らかの含意

を伴うものなどである。しかしいずれも単一の概念である。そしてそれらはそのようなものとし

て心的辞書に書き込まれている。ここからさし当たり仮定が導かれる。すなわち、形態素の意味

は単一のまとまった言語的概念という心的実体であるである。それは、形態素の意味はもともと

分解不可であり、分析の対象ではなく、辞書的な解釈の対象としかならない。

1.2.意味の心身・心脳問題

形態素の意味=言語的概念は、いまはやりのクオリア註6)とは異なり、カテゴリー化を経た長

期記憶の要素である。では、概念へのカテゴリー化とはどのような過程か。

1970~1980年代にかけて、特に脳のなかの感覚・知覚系の情報処理の仕組みがかなり

明らかになってきた。著名な一例をあげれば、いくつかのサルを使った実験のなかで、手ににぎ

................................................

註5)言語使用によって心的辞書の概念が絶えず学習的に上書きされる。例えば「いき(粋)」の概念のよう

に複雑なまとまりは、九鬼周蔵『いきの構造』を読む前後に大きく修正されることなどを考え合わせよう。

った物の形を弁部的に識別する体性感覚野ニューロンが見つかった。また、上頭頂小葉(5野)

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のニューロンに手を合わせる行動に反応するものや、三次元回転に反応するものなどの個別的な

シナップス連合が局在することが示された。その頃、酒田英夫氏は「このように言葉と結びつか

ない知覚の分野でも、まとまったパターン全体を表す信号が連合野で作り出されることによって

認識が可能になるといえます」と書いている註7)。この「まとまったパターン全体を表す信号を

作る」という過程がカテゴリー化といわれる操作であって、サルを使った実験では、それが少な

くともはっきりとは掴めなかった。しかしそれがヒトであって、あるタイプの体性感覚信号の類

が例えば「にぎる」という言語記号の音的側面と結びついたなら、そこで一つの言語的概念が成

立するはずである。多種類の体性感覚が一つのタイプにカテゴリー化され、タイプとして記憶さ

れるからである。

その後数年を経て、認知諸科学の中に脳科学が積極的に参入してからは、ヒトの脳に関しても

う一歩踏み込んで、ヒトの心的辞書に記憶された単位的概念が神経組織のモジュールのタイプに

対応するという論議が可能になった。一例をあげる。「ヒトの脳はニューロンの集積回路網によっ

て操作される巨大な情報処理装置である.ニューロンはひとつびとつがメモリー付きのプロセッ

サであって,他の複数のニューロンと緩く可塑的に連合して一時的にセル・アセンブリと呼ばれ

る柔軟な回路網を作る.その回路網の複合によって並列分散型の情報処理が絶え間なく進む.こ

の情報処理装置には全体の制御者がいない.ネットワーク自身がネットワークを制御するという

自己制御能力を備えている.脳の働きは,それ自身によって解釈され記憶されて,これがまた自

分の情報処理の入力になる.プラトンとデカルトの心・脳の問題はこの生理学的事実に対応して

いたのである.」註7)この認識が心身・心脳問題に関わるのは、次のような事情による。すなわち、

上のセル・アセンブリーがタイプとして脳内に存在するという契機、これが身・脳の側面である。

一方で、その身的組織が活性化(=発火)して一定の心的状態を一時的に構成するという契機が

............................................................

註6) 茂木健一郎はクオリアについて次のように書いている:(1)「クオリアの内観的定義=クオリアは、

私たちの感覚のもつ、シンボルでは表すことのできない、ある原始的な質感である。」p.147ff.(2)「言葉の

「意味」は、ことばの持つ「クオリア」である。」p.217ff(3)「①言葉の「意味」が成立するメカニズムは、

認識における「クオリア」が成立するメカニズムと似ている。②「クオリア」自体が人々の間で伝達不可能で

あるのとまったく同じように、言葉の「意味」の理解自体も、実は人々の間で伝達不可能である。」p216『脳

とクオリア』日経サイエンス社1997。クオリアは日常的な感性的質感であり、分かりやすく素人受けする

考えであるが、内省と記憶化の処理を受けていない知覚現象に対する名付けである。従ってそれはまだ言語記

号の要素にはならない。いわんや言語の意味と取り違えてはいけない。

あり、それが心の側面である。この二つの契機が両立して、こころができる。そのためには、心

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と身とが生きて働いていなければならない。心とはすなわち脳の生きて働いている状態である。

これが心・脳科学の一元論である註8)。

こうして、形態素の意味は、特定のタイプの脳神経細胞結合が形態素の音形によって活性化し

た状態に対応する、またその結合のタイプは心的辞書項目として脳内の記憶装置に格納されてい

る、と仮定できる。

1.3.意味の成立条件:統覚性

形態素の意味がそれぞれ単一の言語的概念であり、それがそれぞれ脳神経細胞結合の一つのタ

イプに対応すると仮定した。ではこの対応はどのような条件で成り立つのだろうか。

概念が現れるこころの進化の段階として、木下清一郎氏は、大脳皮脂の神経回路を使って連合

野どうしの対話が成立する発達段階をあげる註9)。このとき脳神経細胞は長距離の結合によって

情報のやりとりを行い、それを統合したタイプを形成する。このとき局在する情報源が瞬間的に

ひとつに結ばれて特定の結合体(=セル・アセンブリー)を形成する。そこでは、単位的な知覚

や質感の認知ではなく、それを高度に抽象化した複合体として統覚的認識が成立する註10)。この

「こころの世界の特異点」が成立することが言語的概念成立のための必要条件であろう。

こころを持つ生物のうち、統覚的認識ができる種はかなりいるのかも知れない。古生物学的な

.......................................................

註7)このうち今村・田中論文 (1978) の図解と櫻井芳雄 (2002) のセル・アセンブリーの模型図は金子亨「言

語の起源」中島平三『言語の事典』2005の「言語と脳の共進化」の項に載せたので、参考されたい。この

論議は酒田英夫他著『脳科学の現在』中公新書1987及び酒田氏の個人的教示による。

註8)思えば、チョムスキーによる「普遍文法」の仮説は一元論への嚆矢であった。それは統語論からの始ま

りだったが、今われわれは意味論からの一元論を作りつつあるのだろう。

註9)脳における情報・エネルギー・自己触媒の三要素の発展(『心は遺伝子をこえるか』木下清一郎 1996p.167)

あらわれる次元 構成成分 果たす役割

記憶

感覚(情報)

想起(エネルギー)

照合(自己触媒)

記憶の自己増殖による意識の成立と,そこに派

生する感情

意識

二次記憶(情報)

「間脳付近」神経回路(エネルギー)

因果律の認識(自己触媒)

概念の成立

概念

数次記憶(情報)

「大脳皮脂の」神経回路(エネルギー)

連合野どうしの対話(自己触媒)

自己触媒の終末

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検討も必要なのかも知れない。しかし二重分節的な記号の操作能力をもっているという心身共進

化の段階が統覚的認識の必要条件を充たし、同時にそれを運用するために十分な条件を与えるの

だろう。すなわち、言語の意味は統覚の産物であり、一時的・具体的質感を遙かに超えた抽象的

な知的生産物である。

統覚註11)は、連合野どうしの対話によって形成される複合的神経組織結合が活性化して作るモ

ジュールのタイプである。それは単一の統合体としての概念の単位を作る。そこには連合野間の

対話から得られる複雑な情報が内包されて一体化され、ひとつのまとまった言語的概念を作る。

だとすれば、言語の形態素の意味はもともとが多数の情報を含む高度に抽象的な心的実体なので

あろう。

1.4.語彙は離散的要素の無限集合

まず、語彙の集合は無限かという問いに対する答は簡単である。いま合成語や複統合的言語

の問題を除外して、形態素だけを勘案しても、新造語と移入語が絶えず可能であることによって

語彙は加算無限であると判断される。

一つの言語の記号はもともとばらばらの集合である。しかし記号要素としての形態素の意味も

離散的(discrete) 集合だろうか。上で見たように、それがそれぞれ一つのまとまった言語的概念で

あるとすると、言語記号のこの意味の側面もまた異なった概念の離散的であることになる。語彙

集合自体に内部構造がないように、語彙の概念の集合もカオス的であり、類型を抽象できるにす

ぎない。

しかしかつて語の意味に内部構造を与えようとする試みがあった。統語構造と語彙の内部構造

...........................................................

註10)「心の世界」と「生物世界」の対比(『こころの起源』木下清一郎 2000, p.167)

生物世界 心の世界

特異点

基本要素

基本原理

核酸の出現

遺伝子

自己複製(自己増殖)

統覚の出現

表象

自己回帰(抽象と捨象作用)

自己展開 自然淘汰(競争原理) 意志の自由(自立原理)

註11)ここで統覚(apperception<ad+perception)とは、カント『純粋理性批判』第2部門・第1部・第1編・

第2章で規定された概念として間違いないだろう。昨今の脳科学的観点からこの章を読み直すと、カントが2

1世紀に生きる脳科学者に見える。

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とが同型的に記述できると考えたのである註12)。統語構造の記述には句構造文法PSGが用いら

れたが、意味の内部構造も句構造規則で書けると考えた。語の内部構造から語へ、語から句へ、

句から文へという一連の句構造の積み上げによって文が派生されるというのである。従って、派

生の或る段階で語の内部構造が語へ変形される。これを辞書的単位の挿入変形あるいは単に辞書

的変形と言ったものである註13)。しかしこの理論は、いくつかの致命的な欠陥から自滅した。理

論内部の齟齬が主因であった。この方法で内部構造を書ける語は限られていた。情報が重複した。

無理な変形操作を必要とした。変形操作相互に矛盾が現れた。意味-統語-音形という連鎖のな

かでむしろ意味をブラックボックスに入れる結果をもたらしたのである。今、この理論を心身・

心脳問題から回顧すると、生成意味論は、その道を歩み続けても、意味(=言語的概念)の統覚

的統合性とその身・脳との対応という事態の認識には到達できなかっただろう。だが生成意味論

に対立しそれを瓦解させた「辞書主義的仮説」は果たして現在のわれわれの認識を予測していた

のだろうか、それとも危ない橋は渡らなかっただけなのだろうか。

2.意味の型をきめる

形態素の意味は、それが単一の統合体であるしても、いくつかの型をもつ。言語によってそれ

を形態素の音形によって、接辞によって、形態論的・統語的制約によって表示することがある。

しかし何ら形式的表示がないことも多い。それでも表示対象の違いを目安として実在論的に意味

の型を求めることがある。いま、日本語の形態素の意味の実在論的類型を次のように仮定してみ

よう。

(3)a. ┌────┐

モノ コト

b. モノ:∃x, y, z,... (モノ x, y, z,...が存在する)

.......................................................

註12)この理念を鮮明に定式化したのは Bar-Hillel,Y.,Aspects of Language. Jerusalum 1970 だった。しかしそ

れを展開したのは生成意味論と自称する国際的な研究者群であった。

註13)有名なものに xCAUSE(yBECOME(NOT(ALIVE))) → kill というような辞書的変形があった。これを

例えば John kills Harry という文の派生の或る段階で句構造連鎖に組み込むのである。

註14):モノ things は存在するが、成立しない。コト events は時間的に成立するし、存在できる。このとき

時間は量化される。またモノとコトの他にサマ modes というカテゴリーを立てることができる。しかしサマ

はモノやコトよりも論理的階層が一つ上になる。

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コト:┣ (t) e1, e2, e3,... (コト e1, e2, e3,...が時間 t で成立する)14

以下ではモノを表す意味については論議を避ける。主に弁別的な特性の類型が捉えきれないか

らである。論議はコトの型に限り、コトの成立に関係する場合にだけモノの特性に言及すること

にする。

2.1.コトの類型モデル

コトにはさまざまなタイプがある。その類型についてはこれまでに多くの論議るが、かつて数

年にわたって共同討議をした成果があるので、ここではそれを援用する註15)。

まず(4)のような四つの論理述語を前提する。

(4) a. ComesAbout: -e & e (コトが起こる、コトの生起)

b. Cease: e &-e (コトが止む、コトの終止)

c. Remain: e & e (コトが続く、コトの持続的存立)

d. RemainsFalse:-e &-e (コトが無い、コトの持続的非存立)

次いでコトの成立のあり方について次の基本的類型を得る。

(5)或る時間 t, t' に関して、コトは次のように成立する:

a. e](コトがそこまで続く=for t'≧t, e Remains in t' and Ceases in t)

b. e[(コトがそこで終わる=for t, e Ceases in t)

c. [e(コトがそこから始まる=for t≦t', e ComesAbout in t and Remains in t')

d. ]e(コトがそこで始まる=for t, e ComesAbout in t)

このコトの成立のあり方から、コトを次のようなプロセスに類別することができる。

...................................................

註15)この論議は1970年代の後半約3年半 Stuttgart 大学言語学研究所を中心に国際的な規模で行われた。

その成果は Guenthner, F. & Chr. Rohrer (eds.): studies in formal semantics. North-holland Linguistic Series 35.

North-Holland 1978 に収録されている。ここではそのなかの Aqvist,L. & F. Guenthner: Fundamentals of a Theory

of Verb Aspect and Events within the Setting of an Improved Tense Logic pp.167-199 を中心にモデルを作った。これ

は大変強いモデルなので、自然言語に適用するには多くの補正が必要である。補正の例として金子亨『言語の

時間表現』ひつじ書房1995,改版2003(CD版)2,3章を参照。

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(6) a. e = [t, t'] (t で生起、t' まで継続するコト=両端が閉じたコト)

b. e = [t, t'[ (t で生起、t' で終わるコト=左が閉じて右が開いたコト)

c. e = ]t, t'] (t で始まり、t' まで継続するコト=右が開いて左が閉じたコト)

d. e = ]t, t'[ (t で始まり、t' で終わるコト=両端が開いたコト)

e. e = t] (t まで継続するコト=左に閉じたコト)

f. e = t[ (t で終わるコト=左に開いたコト)

g. e = [t (t から始まるコト=左に閉じたコト)

h. e = ]t (t で始まるコト=右に開いたコト)

i. e = T (いつでも真のコト)

j. e = φ (いつでも偽のコト)

以上の10個のコトの類型は、言語のコト表現の意味を記述するためのモデルとして使える。

しかしそれは一面で過剰生産的である。(6f,h,i)に相当する意味は日本語の動詞のなかには見つ

からなかった。それは他面で規定不備である。コトの言語表現ではコトの過程が長いか短いか、

それが有意思的行為を示すか否か、行為や過程が結果や効果を残すか否かなどの特性が意味の類

別にとって大切である。この特性を補填しなければモデルは十分に役に立たない。

2.2.コトの意味の類型

『国立国語研究所報告書78:日本語教育のための基本語調査』志部昭平編1984から日本語

動詞447を選んで、それらの意味の類型を(6)のモデルにいくつかの特性を補填して整理し

た。その結果日本語のコトの意味には(7)のような4項目20種類の類型が判別できた註16)。

2.3.コト型形態素の意味のタイプ

上の1.1.であげたコト型形態素の例から、抽象化の高い三つの動詞「みる、みえる、みせ

る」について考えてみる。これらに共通の元素的形態範疇は√mi- で、その意味は「視覚認知」

であるとしよう。これに三つの造語的接辞註17)が付くと、それぞれ次の形態素(形態素を{...}に

入れて示す)が得られる。このとき、それぞれの形態素には、(7)で示した意味のタイプ註18)

...........................................

註16)詳しくは、金子『言語の時間表現』第4章を参照。また表記はモデル(4,5,6)に合わせて一部

変更した。また、各類に2つの動詞形態素をあげた。いわゆる形容詞と形容動詞の例はあげなかった。それら

の類型はすべて状態性で 1.3. ]V(dur)[ に属す。(図(7)は次ページに示す。)

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(7) ]]V(dur)[[ 1.1. ex. (de) ar-, deki-

1. ]V[ ][V(dur)][ 1.2. ex. mi-, tuzuk-

(状態相) ]V(dur)[ 1.3. ex. (ga) ar-, i-

]V(dur)] 2.1. ex. kanji-, mie-

2. ]V]

(状態継続相) ]V(dur(act))] 2.2. ex. mat-, kangae-

[V(dur)] 3.1.1. ex. nagare-, moe-

[V(dur)] [V(dur(act)] 3.1.2. ex. yasum-, ugok-

[V(dur(act))]eff 3.1.3. ex. naos-, yak-

3. [V]/[ [V(dur)[res 3.2.1. ex. tir-, toke-

(継続相) [V(dur._)[ [V(dur(act))[res 3.2.2. ex. toor-, ki-

[V(dur(act))[eff 3.2.3. ex. nug-, wake-

[V(dur)[

[V(dur(gr))[res 3.3.1. ex. kawar-, sizum-

[(dur(gr._)[ [V(dur(gr.act))[res 3.3.2. ex. age-, yor-

[V(dur(gr.act))[eff 3.3.3. ex. kes-, ake-

[V(min)] 4.1.1. ex. oko-, atar-

[V(min)] [V(min(act))] 4.1.2. ex. nage-, ut-

[V(min(act))]eff 4.1.3. ex. tuk-, kotowa-

4. [V(min)]/[

(瞬間相) [V(min)[res 4.2.1. ex. koware-, uk-

[V(min)[ [V(min(act))[res 4.2.2. ex. otos-, dak-

[V(min(act))[eff 4.2.3. ex. kakom-, toji-

但し、dur: 継続的、min: 極小的、act: 有意思行為的、gr: 漸次的、res: 結果的、eff: 効果的などの

特性を表す。

(前々ぺーじから)が指定される。それをの右項にあげると次のようになる:

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(8)a. √mi- +φ → {mi-} :[mi- (dur.act)]

b. √mi- + -e- → {mi-e-}:]mi-e- (dur)]

c. √mi- + -se- → {mi-se-}:[mi-se- (dur.act)]eff

このように形態素が作られて、その意味が確定したとことで、意味のタイプがきまる。意味の

タイプは形態素のもともとの意味と、それが持続的過程であるか否か、有意思的行為であるか否

か、その行為が効果を残すかどうかなどの基本的情報を与える。例えば(8c){mi-se-}では「行

為者の持続的な有意思的行為が相手に何かを見せ、相手には見せられたものが見えるという効果

をもたらす」という状況を作る。ここでいままで論議しなかった要素が現れる。上の括弧内にあ

らわれる「行為者、相手、もの」という要素であり、それは(8)の意味が与えられたならば、

きまって随伴する。いまこの要素を伝統に従って関与者 participants、あるいは項 arity と呼ぶこ

とにする。それは、深層格 dcep case、意味役割 semantic roles と呼ばれたこともあった。

2.4.コトの形態素の意味の関与者

形態素の意味を十分に書くためには、それを成立させるために必要で不可欠の関与者に関する

情報が必須である。コトの意味にとって必須の関与者は次のようである註19)。

.........................................................

註17)これらの造語的接辞は、非生産的ではないが、分析的ではない。いくつかの動詞に付くが、それがも

たらす意味の変化は一定しない。従って、独立の形態素を成すとは言えない。

註18)日本語動詞の意味の類型(7)は金子1995では「語彙アスペクト(Lexical Aspect)」と名付けた。

それは、古くから aktionsarten(動作様態)と呼ばれてきたものに相当する。それらが単にコトの推移過程だ

けを表すのではなく、特に有意思行為性などの特性が大切な情報として付加されているからである。時間表現

を論じるときには「語彙アスペクト」が役に立つ。形態論的統語論的アスペクトとの関係が見やすくなるから

である。しかし行為性などの特性について論じるなら「意味類型」がよかろう。いずれにせよ、この事象に用

語は定まっていない。

註19)関与者に関する論議は割愛する。(9)は必要な 低限の項の種類であるが、(9c)の2項は場所格

に含めてしまうことがある。しかし場所格に固有の標識をつける言語が多く、一方で補足語はφ表示であるこ

とが多いことを考慮すると、これらは本来異なった実体なのかもしれない。いずれにせよ、これらは形態素の

意味の必須の随伴項目であるので、個別言語的タイプである。だが関与者の随伴という仕組み自身は形態素の

意味の普遍的(ヒトの脳神経組織の遺伝素質的)な性質である。

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(9)a. 行為者 agent/actor、対象 object、相手 patient;

b. 場所 locative、方向 directive、道具 instrument;

c. 補足語 complement、所有者 possessive, 共同者 commitative.

形態素の意味に関与者の情報をつけ加えると、(8)は次のようになる:

(10)a. √mi- +φ → {mi-} :[mi- (dur.act)] + <actor, object>

b. √mi- + -e- → {mi-e-}:]mi-e- (dur)] + <object, patient>

c. √mi- + -se- → {mi-se-}:[mi-se- (dur.act)]eff + <actor, object, patient>

項は言語によってさまざまに表示される。形態素に統合的syntheticに記入されたり、接辞によって

付け加えられたり、統語的に配置されたりする。統語的な表示が接辞に対応して表示されること

もある註20)。しかしここではそれについて例示せずに一般的な可能性をあげるにとどめる。

2.5.コト型形態素の意味の合成

コト型の形態素の意味は、以上で見てきたように、統覚的統合体としての概念、意味のタイプ、

意味の関与者によって構成される。いまそれを「みえる」の形態素 {mi-e-} について図式化して

みよう。この形態素の場合は√mi- という抽象体があるので、次のような合成が行われる:

(11) {mi-e-}''

┌───┴───┐

{mi-e-}' Arity

┌──┴──┐ |

{mi-e-} Frame <object,patient>

┌─┴─┐ |

√mi- -e- ]mi-e-(dur)]

.......................................................

註20)日本語では敬語法の一部や「感情形容詞の主語制約」のように関与者を多分に統合的に表示する。一

方で、全体が「膠着的」な構造を持つのに、分析的 analytic に接辞によって関与者を付加することはない。複

統合的な言語では、例えばケット語に見られるように、統語的表示と語に統合された接辞

とが呼応するように表示するなどの方法がみられる、などなど。

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多くの場合に、形態素の意味には、1.1.の例で見たように、概念を適用する事態の枠や含

意が付きまとう。事態の枠が特定のコトの領域に限定されたり、移動したりする場合には、語義

の転用が起こる。この種の適用域や含意を考慮すると、コトの形態素の意味はの次のような集合

である:

(12)コト形態素の意味={言語的概念、コト型のタイプ、コトの関与者}

形態素の意味をこのような集合と考えると、それは、分割不可の統合体とその内部的な類型的規

定および外部的な枠組みが規定される。これらの基本的な意味の要素には、他の言語的概念との

含意関係やその運用範囲についての情報も含まれていると思われる。しかしそれらの関係は、コ

トのタイプや関与者に関する情報と同様に、変項として与えられてると思われる。それは意味の

成立に関わるモジュールの枠組みを指示する。

このような考え方は、コトの形態素の意味が、分析可能な構造体ではなく、統覚的統合体とし

ての概念と他の二つの情報モジュールからなると主張する点で、いわゆる「概念意味論」の好む

擬似的な述語論理風の分析とも、それを補完するかに見えるモジュールの寄せ集めとも異なる註2

1)。かつて生成意味論を論破した理論的傾向が自らを語彙論主義者lexicalistsと呼んだが、それを

なぞって言えば、ここで提起したのは新語彙論主義的とでも言うべきかも知れない。

3.コト形態素の意味を組み合わせる

コト形態素はそれだけではまだ語を作らない。例えば日本語の用言では、活用形の語尾と言わ

れてきた接辞がつかなければ、自由形式としての語にはならない。以下では、主軸の(Head とな

る)コト形態素が他のいくつかの付加的なコト形態素と結んでコトの意味を膨らませる様子を見

て、コト形態素の意味のそれぞれの要素が付加的形態素とどのように関係するかについて考える。

....................................................

註21)ここで暗示したのは、特に影山太郎(編)『レキシコンフォーラム』No.1 に載ったいくつかの論文で

ある。そこではプチェジェフスキについても論じられているが、彼のモジュール分析とクオリア論議は、例え

ば、ジョン・R・サールの 近の著作『こころの哲学』(Mind. A Brief Introduction, 2004)などの理論的背景に

照らすと、さらに別の理論史的な難点を含むように思われる。

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3.1.コトのタイプの補正

アスペクトと言われてきた文法範疇がある。ここではそれをコトの意味のタイプを二次的に補

正する形態・統語論的な操作だとしよう。日本語では二種類の動詞複合体で表される。一つは連

用形に「はじめる・おわる」などの動詞がつくもの、他は主動詞語幹に「て」をつけて分詞を作

り、それに「いる、ある、しまう」などの動詞をつけるものである。さらに、「つつある、ところ

だ」などいくつかの複合形を加えることもある。連用形複合と分詞複合との間に接続の傾向と意

味的な役割分担に区別がある。連用形複合は主動詞の継続相から開始・終結の契機を取り立て、

分詞複合は継続相・瞬間相の動詞の双方についてそれらの表示過程から継続・完了、去来を取り

立てる。とりわけ結果相の取り立てはこの形式の重要な機能である。総じてこの範疇は前接する

主動詞の推移過程から終始、去来、継続・完了の相を取り立てることが基本的な機能である註22)

日本語アスペクト形式によって推移過程類型がどのように補正されるかを上にあげた例(11)

を使って示す。「みえる mi-e-ru」は (i)「いま船が沖に見える」(ii)「いま船が沖に見えている」と

もに発話時間に船が視野に入っている。しかし(ii) は発話時間の状態が持続中であることが取り

立てられている。状況が引き延ばされている。そして(ii) の文は見えた結果の状態を示さない。

従って、この形態素{mi-e-}は結果相をもたない。分詞複合<mi-e-te ir->は、] mi-e- (dur)] の継続

相 dur 部分を引き延ばして取り立てたことになる。(次ページ(13)を見られたい。)

ここでは、「て いる」の形だけを取り上げて、他のアスペクト形式についても文法的操作は基本

的に同じなので、詳論は避ける註23。

........................................................

註22)アスペクト概念はコトの意味の推移過程の類型を前提とする。動詞複合 V1+V2 があって、V1

の ]/[V1(dur/min/...)]/[... から V2 がどこを選び出して取り立てるかという問題である。アスペクト概念が提起

されたときスラブ諸語の vid は総合的 synthetic な語彙対立が記述対象であった。そのためにこの概念を他の

言語に、例えばドイツ語にすら、適用することが難しかった。(スラブ語学者レスキーンの学生であったゲル

マン語学者パウルは大変苦労したようだ。)いわんや日本語のアスペクトについて金田一春彦 1950 以来の理論

の展開の歩みは遅い。理念的な問題が邪魔をしたのだと思う。今もさまざまなアスペクト論が流行っているが、

推移過程類型を前提にしないかぎり、思弁性はまぬがれないだろう。

註23 他の形式の記述と理論の詳細については、金子『言語の時間表現』改訂CD判 2003 及び金子HP

www.ne.jp/asahi/kaneko-tohru/languages-nowar/「企画」の中の「山口大学集中講義のまとめ」、また、張佩霞編

『周炎輝先生還暦記念論文集』湖南大学(準備中)の金子論文などを参照されたい。

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(13) <mi-e-te ir->

┌───┴───┐

{mi-e-} ] mi-e-(DUR)]

┌───┴───┐

{mi-e} Arity

┌───┴───┐

{mi-e} Frame

┌─┴─┐ |

√mi- -e- ] mi-e- (dur)]

3.2.関与者の変更

本動詞の形態素の意味を変えないで、関与者の関係を変更する接辞がある。日本語ではその接

辞はアスペクト形式と同じで、非自立的な動詞的である。その主なものは使役の「させる-(s)as-」

と受身の「られる-(ra)re-」で、それぞれに論点は多い。しかしここではそれら論点には一切関わ

らず、次の点だけを指摘するにとどめる。

3.2.1.受身における項の付加

本動詞連用形に「られる」を付けると、元の動詞のもつ関与者関係が変わる。本動詞が自動詞

のときには、本来持っていないはずの相手 patient が付け加えられる。この項は関与者の枠外に提

題として表される。例えば「ぼくは(patient)若いときに「親父が死ぬ」られた」のようである。

一方、本動詞が他動詞の場合にも、新しい行為者が付け加えられ、それが二格で表示されたまま

で、元の文の目的+他動詞の動詞句を支配する。一方で元の行為者は枠外の提題になる。例えば、

「ミサキは(提題)「ハルミに(actor/agent)「イモを食べ」られた」。即ち;事実上、行為者が「ミ

サキがイモを食べた」→「ハルミがイモを食べた」のように交替する。このとき新しく呼び込ま

れた二格の行為者は、そこに論点が置かれないときには、言われない。これらは共にいわゆる被

害の受身の場合である。一方で、関与者のうち行為者を減らす場合がある。「ミサキがあのイモを

食べた」と「(ミサキに)「あのイモを食べ」られた」とを比べると、「られる」が付くと、行為者

が相手に変わって論点から外れる。このとき対象はガ格に格上げされたり、提題化されたりもす

る。これが直接受身の場合で、目的語を含む動詞句が自立して、行為者が減価される。

このように本動詞に接辞的動詞「られる」を付けると、いずれの場合も1項動詞句が生き残っ

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て、行為者の項は貶降されて、二格などで表示される。「られる」が元の本動詞の関与者を変更す

るとはこのような文法操作を指す。

3.2.2.使役における項の付加

使役の接辞動詞「させる」は項を増やす。ことのき増やされるのはきまって行為者であり、元

の本動詞の関与者には含まれていない新しい行為者である。従って、元の本動詞の関与者に行為

者と新しい行為者とで行為者が二重になる。この二重行為者が使役文の関与者の特性である。日

本語では第二の行為者、つまり元の本動詞の行為者は二格で表示される。例えば「ハルミは「ミ

サキにイモを食べ」させた」の場合、ハルミが付け加えられた新しい行為者、つまり使役者causer

であり、ミサキは被使役元者causeeで、二格をとって相手patient並に扱われる。しかし第二行為者

causeeを専用に指示するような言語もある。例えばニヴフ語がそのような言語で、第二行為者に特

別な接尾辞を付けて表す。そのとき第一行為者はφマーク、つまり絶対格になる。例文を一つあ

げる註24:

(14)ni Pajan-ax co -t vi-u-d-ra

私 パジャンに 魚 採りに 行か-せ-た-よ

但し、-ax が 第二行為者専用の格、-u が使役の接辞で「させ」に当たる。

3.2.3.使役と受身と再帰

使役が本来の枠外の新しい行為者を付加し、受身が自動詞で相手を、他動詞で行為者をともに

枠外から付加する。この点でこの二つは類似の文法操作であるらしい。実際、現代標準中国語の

ように使役と受身が形態的に区別できない場合がある。他の言語でも、再帰代名詞が関与すると

この文法操作が重なりあう。まがニヴフ語の例であるが、この言語は受身専用の形態がないので、

再帰代名詞と使役が重なると、受身相当になる。例えば、

(15)ni rk keq-umu p-i-u-d-ra

私 あやふく キツネ母 再帰-殺す-させ-た-よ。

但し、p-:再帰代名詞、母キツネを指す、-u-:させる

.......................................................

註24 ニヴフ語の例文(14,15)は共に Panfilov 1965 からの引用である。これらの問題については『ユ

ーラシア言語文化論集』9号(本号)の Kaneko, T. : Note on CAUSE in Nivkh を参照されたい。

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この再帰的使役文は「私はあやふく母キツネが殺される目にあわせた」の意味になり、受身的で

ある。この言語では、受身専用の形式がないので、再帰的使役がその役割を果たす。ちなみに、

上の例文では母キツネを表す合成名詞に第二行為者格が付いていない。これは非意思性を表すの

だろう。このことが一般的規則であるかどうかはまだ分からない。

以上の論議から見るように、使役、受身、再帰がいずれも本動詞のもつ本来の関与者に新しい関

与者を付け加えて、関与者全体の配置関係を変化させる。

(16) <tabe-sase-/rare->

┌────┴─────┐

{tabe-} <+actor2/patient<actor1, obj>>+ TOP

┌────┴─────┐ ↓ ↓

{tabe-} Arity + TOP + TOP

┌───┴───┐ |

{tabe-} Frame <actor1, obj>

┌─┴─┐ |

√tabe- φ [ tabe- (dur.act)]

但し、+actor2, +TOP(ic)の+記号は付加されることを示す。

4.意味を膨らませる

コトの形態素の意味を構成する要素は以上で見てきたとおりである。すなわち、言語的概念+

意味の型+関与者がそれで、いずれの要素も別の形態素を付加することによって補正され得る。

その結果、形態素の複合が作られて、さらに大きな動詞複合体のための要素になる。ここでは動

詞複合体をつくるためのいくつかの文法的操作について考える。

4.1.膠着的動詞複合体

一つのコトを膨らませて、いくつかの付加的な情報を詰め込んだ一例をあげる。(17a)は、

要するに「私はあなたに娘を紹介する」に希望・謙譲・丁寧を積み上げた文である。(17b)は

形態素の意味の構成要素を、(17c)は第一次的補正とそれ以上の積み上げを示す。また(17d)

は項の変換の過程を示す註25。

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(17)a. 娘を紹介させていただきたいのですが。

b. {syokai-s-}: [(dur.act)]+<actor/agent, patient, object>

c. {syokai-s-}+{sase-}+[{itadak-}{-ta-}{no}{-des-}{ga}]

d. V1: {syokai-s-}; x ガ (agent 話者), y ニ (patient 相手), z ヲ (object 娘) <コトの表現>

V2: {V1+sase-}; y ガ, x ニ <使役への転化>

V3:{V2+itadak-}; x ガ, y カラ <謙譲への転化>

V4:{V3+ta-}; x ハ, V3 ガ <希望>

V5:{V4+des-}; V4 の丁寧化 <丁寧>

この文では(17d)で見るように、関与者の関係が2度転換されたした。その結果、卑下+謙

譲+丁寧という「敬語」的な意味が付け加えられ、相手の意思を斟酌しているようにみせて、自

分の行動をごり押しする。それに疑問らしいガを付け加えて幇間的省略表現を作る。動詞複合体

という文法操作が日本的卑屈文化の表現を作った一例である。

4.2.動詞複合体要素の語順

コト形態素にさまざまな付加的動詞類が付いて大きな動詞複合体ができることを見た。ここで

はその順序について考えてみる。(18a)のような文があったとする。ここで 初の {s-} が元の

形態素であり、その型は [s-(dur.act]、関与者は<actor/agent>の自動詞である。それに使役+受身

+アスペクト+意思+否定+様態+時制がこの順序で付いて、動詞複合体の文が成立している。

成分の順序は変えられない。変えると非文になるか、意味が違ってしまう。例えば(18c)がそ

の例である。

(18)a. 一気飲みをさせられてしまいたがって(は)いないようだった。

b. ikkinomi o {s-}+(s)ase-rare=te simaw=i-tagar=te (wa) ina=i yoo=datta.

c. *一気飲みを・いない・られ・させ・よう・たがって・た。

膠着型動詞複合体でも要素の可能な順序にはきまりがある。しかし例えばアスペクト形式を一

...........................................................

註25 この文の合成と動詞複合体の構造については『ユーラシア言語文化論集』1号(1998)所収の金

子亨「動詞複合体の構成について」を参照されたい。また動詞複合体という概念については Haspelmath,M.& E.

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Koenig (eds.):Converbs in Cross-Linguistic Perspective. Mouton de Gruyter 1995 が 初のいい論文集である。

カテゴリーととらえると、それは場合によって使役・受身の前後に現れる。それぞれの現れる位

置によって補正対象が異なり、意味が違ってくる。だからと言って順序に規則がないわけではな

い。カテゴリーの要素が現れる位置がいくつかあるというにすぎない。

ここで非常に複雑な組み立て方を動詞複合体の二例を見よう。一つは(19)はイテリメン語

の他は(20)ケット語の例である。共に複総合的polysyntheticな動詞構造をもつ。しかしイテリ

メン語は非抱合的、ケットは抱合的な構造をもつ註26)。

(19)

-5・-4・-3・-2・-1・Root・1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14・15

但し、それぞれのナンバーは次の要素を指す:

-5: モーダルの指示; t-/t’-,φ,n-なら平叙文 m-,q-,q’- なら命令文、 k-/k’-/x- なら命令。

-4: 仮想法なら k’-

-3: 相互代名詞 lu-/lo-

-2: 反使役(反受動)の環接辞の右半分 en-/an-, ne-,na-

-1: 他動・使役の接頭辞 lin-/len-, kn-, n-, nt-, t-

Root

1: 派生接尾辞-te,-se/-sa,-la,-ço

2: 反使役(反受動)の環接辞の左半分 -l,-,-w

3: 多様性接辞 -sxen

4: 動作様態接辞 -ala

5: 動作様態接辞-ata

6: 動作様態接辞 -zo,-t,-st

7: 希求形標識 -al/-a

8: 脱他動接辞 -l/-φ

9: 分詞化接辞-l/-l

10: 仮定法標識 -k/-ka/-ke

11: 不定法標識 -s

12: アスペクト接辞 -qzu/-qzo/-qz/-φ

...............................................

註26 イテリメン語の構造は Georg, S. & A. P. Volodin, Die itelmenische Sprache. Harrasowitz (Wiesbaden) 1999

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の記述を、ケット語の記述は Werner, H., Die ketische Sprache. Harrasowitz(Wiesbaden).1997 によった。

13: 時制接辞;定形に対して: -s/-z./-φ,al、不定形については略

14: 人称接辞1目的語のない場合の接辞

15: 人称接辞2主語・目的語を指示する接辞

例: x ilqaq k’-le-knen

モード 語幹 人称

寒くなった。

(20)

14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 0 -1 -2 -3

ここでそれぞれの接辞と標識はだいたい次のような意味をもっています。

14: 主語の標識(必須)例:di ta:l’ 13: 語幹3 12: 語幹2 11: 派生接辞 例:n-,

10: 使役接辞 q-/R- 9: 方向・相手などの接辞 ba-,bo-,... 8: 主語・目的語の接辞 ba-bo,ku-ku,... 7: 特定性の接辞 t-,d-,... 6: 継続性の接辞 t- 5: 時制の接辞 a-,so/su-など 4: 主語2、目的語、用具の接辞 b-/m-/p- 3: アスペクトの標識 n-/l- 2: 主語1の接辞 d-/t-,..., 目的語1の接辞 d-/t-...., その他の類の接辞 a-,... 1: 命令の標識 d- 0: 語幹1(本当の動詞語幹) -1: 派生接辞 -, -n -2: 複数接辞-n -3: 連結辞 -ka etc.

例 da-nan’-bet-q-(i)n-da-et (Werner 1997, 156)

14 13 12 10 3 2 0

she-bread-bake-CAUSE-ASPECT-us-DO

(彼女が我々にパンを焼かせた・パン焼きをさせた。nan'-(パン)が縫合されている。)

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これらの動詞複合体でそれぞれの箱はあるカテゴリーの要素が入る場所を表す。箱はこの順序

に並んでいて、大抵の箱は、要素が不要のときは空になる。しかし空にならない必須の箱もあっ

て、それは動詞語幹と人称屈折の箱であるが、それもφが入る場合があって、その場合は空に見

える。

このような箱の連鎖をもつ言語のことを「スロット言語」と名付けることがある。従って、そ

れに含まれない言語は「非スロット言語」ということになる。カテゴリー要素の現れ方が不規則

であったするとそう呼ばれる。しかし複総合語に限れば、その区別も無意味ではないかもしれな

いが、ひょっとすると同一カテゴリーに属する要素が配置換えされる場合の意味やその条件が見

えないと「非スロット言語」に見えるのかも知れない。

4.3.コト形態素の意味を成立させる

コト形態素の意味は、以上で見たような要素を付加して動詞複合体を構成する。それはいつか

成立して、世界の事象と対応する。一方で、モノを表示する形態素の意味は、それが存在して、

世界のモノ(概念)の存在と対応する。この関係は並行的なことがらと思われる。単純化して図

式化すれば、次のようになる:

(21)a. ┣ (t) e (コト e は時間 t で成り立つ)

b. ∃x (モノ x は存在する)

しかしこれではコトが必ずある時間で成立しなければならないので、時制標識をもたない表現は

どうなるのか。そこで、次のようなコトの時間表現を付け加えよう:

(21)c. ┣ (t) sp [∃ e ] (或るコト e が存在するという発話 sp が時間 t で成立する)

いずれにせよコトはある時間で成り立つものと思われる。

古くから言語の時間表現に絶対時間と相対時間とが区別されてきた。とりわけ古アジア諸語で

は絶対時間の表示が乏しいという文脈でこの区別についての発言があった註27。ここで一般に、

絶対時間は発話時間と結ばれた時間を、相対時間は発話時間とは結ばれていない時間どうしの関

係をいう。定式化すれば、次のようである(次ページ(22)):

.................................................

註27 この関係ではとくに Roman Jakobson: Langues Paléosiberiénnes. Les langues du monde 1952, Notes on

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Guilyak. Selected Writings II. 1971 pp. 72-102 にまとまった見解がある。

(22)a. 絶対時間:(i) t0 = t, (ii) t0<t, (iii) t<t0

b. 相対時間:(i) t = t', (ii) t'<t, (iii) t<t'

但し、t0 は発話時間、その他は他の任意の時間(帯)。

コト形態素の意味に関係する時間は相対的時間であり、そこで現れる時間はすべて変項である。

その時間相互の関係は単位的過程相互の順序を示す。そのような時間関係は過程的時間と呼ぶ。

一方で、絶対的時間は、すべての言語が表示するわけではない。その必要を感じない言語が多く

ある。直近には、アイヌ語が時制を明示的な義務的形態素としていない。時制をもつ言語は、発

話時間とコトを表す動詞句の意味との時間関係を示す形態素をもつ。そのことで、コトがいつ成

立したかという歴史的時間が表示される。これら二種類の時間を形式化して示すと、次のように

なる:

(23)a. 過程的時間:コト型の t, t', T, φ in: e = [t, t'], [t, t'[, ...

b. 歴史的時間:コト間の t0, t1, t2,... in: ┣ (t0) sp, ┣ (t1) e1, ┣ (t2) e2, ...

現代日本語は二つの時制標識をもつ。いわゆるル形とタ形である。その指示的な意味は次のよ

うである:

(24)a. ル形:∃t (t0≦t)┣ (t) e

b. タ形:∃t (t<t0)┣ (t) e

さて相対的時間の系にある動詞複合体の意味を時制化してみよう。先にあげた拡大した形態素

の意味(16)にアスペクト「て いる」を加えて動詞複合体を作り、それに時制「る・た」を

加えてみる。こうすると「食べ・させ・られ・てい・た」と言うコトが発話時間と結合して成立

する。その様子を図にすると次のようになろう(次ページ(25))。

5.コト形態素の意味の間の関係

先に「みる、みえる、みせる」に共通の要素 mi- があるとして、その意味を「視覚認知」で

あると仮定した。またそれらの相互関係を(8)のように並列して表した。しかしそこでは形態

素の意味を規定する他の必須要素である関与者の関係をまだ考慮していなかったので、いまそれ

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を加えてこれらの形態素の意味を一括して比べてみよう。 論議を三点に分ける。

(25) ┣ verb complexn

┌────┴────┐

........... tense:{-ru/-ta}

┌──┴──┐

verb compex1 ........

┌────┴────┐

<tabe-sase-/rare-> Aspect:[ -te ir- ]

┌────┴─────┐

{tabe-} <+actor2/patient<actor1, obj>>+ TOP

┌────┴─────┐ ↓ ↓

{tabe-} Arity + TOP + TOP

┌───┴───┐ |

{tabe-} Frame <actor1, obj>

┌─┴─┐ |

√tabe- φ [ tabe- (dur.act)]

問題は、これらの形態素の意味の間に派生関係があるかどうかである。

5.1.意味の含意関係と項の異同

まず先に挙げた視覚認知の三語を再び例にとろう。

(26) 元+造語接辞 形態素 意味の型 関与者の組

a. √mi- +φ → {mi-} :[mi- (dur.act)] + <actor/agent, object>

b. √mi- + -e- → {mi-e-}:]mi-e- (dur)] + <object, patient>

c. √mi- + -se- → {mi-se-}:[mi-se- (dur.act)]eff + <actor/agent, patient, object>

(26)のそれぞれの語はその元「視覚認知」を共有する。(26a,b)を比べると、誰かが何かを

見ると、その人にはそのものが見える可能性がある。また(26b,c)を比べると、誰かが別の誰

かに何かを見せたら、別の誰かにはそのものが見えた筈だ。一方、(26a,c)には関係がない。こ

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の二つの含意関係を形式的に示すと、次のようになる。また、それぞれの意味の型では、(26a,c,)

が有意思的行為を、(26b)が非行為的状況を示すことが際だつ。

(27)a.◇(┣({mi-}⊃┣ {mi-e-}}(<a. actor = b. patient, a. object = b. object>

b.□(┣({mi-se-}⊃┣ {mi-e-}}; (<c. actor = b. patient, c. object = b. object>

このように、(26)の三語の間には、様相的な含意関係と関与者に異同が見られる。そしてそ

れ以上ではない。このことは例えば「向く、向かう、向ける」などの語群でも同様である。この

ような語彙間の意味の関係を、身・脳的に解釈すると、形態素の元に対応する神経モジュールが

共通にする複合的モジュールが存在して、それらがそれぞれに別々の言語的な概念を構成してい

ると考えてよいのではなかろうか。

5.2.「対動詞」と能格性

類似の意味を持った自動詞と他動詞とが対をなす一群の動詞がある。これを対動詞と呼ぶ人もい

る。「消える:消す、おちる:落とす、燃える:燃やす、集まる:集める、掛かる:掛ける」など

がその類である。代表に「消える:消す」の対を選んで、その意味の異同を考えよう。

(28)a. √kE + -e- → {kie-}: [kie- (dur)[res, < objecti >

b. √kE + -s- → {kes-}: [kes- (min.act)[eff, <actor/agent, objecti >

この種の動詞の組みを見ると、英語の open などの一群の動詞を思い出す。その関与者関係を図示

してみる:

(29)a. {open}:< objecti >

b. {open}:<actor/agent, objecti >

(29a)のopen と(29b)のopen では関与者のうちobject が共通で、actor/agent が別格にな

る。これは意味の項、深層格の配置関係である。しかし何となく能格表示のタイプに似ている。

しかし英語にはこれらの項を「表層構造」化するときに形態的格標識はない。それは統語的な標

準語順にとって変わられてしまっている。また動詞にも形態的な差はない。いまこの形態統語的

な差に目をつぶり、形態的標識と意味の項の関係との類似をとらえ、open は能格的だと考えて、

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この類の動詞は「能格動詞」と名付けてしまう註28)。日英対照研究的に見ると、日本語「消える、

消す」にも類似の関係が見えてくる。そこで(28)のような関係から、「消す」も能格動詞と名

付けようかなとなる。しかし日本語にはガ格、ヲ格という明示的標識があるが、能格標識はない。

おかげで(28)は意味の差異であって、項の表示とは直結しないと分かって、能格動詞という

名をもらわないで済んだ。

5.3.斜格的項と動詞派生

関与者の項の類は(9)で示したように三類に下位区分できる。このうち(9a)の類、行為者、

対象、相手が形態素概念の主な関与者になるが、(9b, c)の項を必須項としてとる形態素概念も

ある。特に、(9a)の類から一つ方向と(9b)の類から一つをとるものが多い。「行く、向く」

などではそれぞれ行為者と関与者と方向とが選ばれ、「住む、ある」では、それぞれ行為者と関与

者と場所が選ばれる。では「会う」はどうか。これは行為者と相手を関与者とする。このとき相

手は斜格と見なすのか、(9a)類だから正格の類と考えるのか。この項はX-bar Syntax でも後期

句構造文法註29)でも下から2つ目の名詞句であったし、(9b)以降の項はさらにその上につく動

詞句の非支配要素と考えられてきた。動詞の意味論を考えるとき、意識的にせよ無意識的にせよ、

句構造構成と造語派生とを同型操作と考えると、いきおい意味の派生を句構造的に(あるいは論

理式風に)積み上げようということになる。このとき相手の表示がやはり境界になる。これが非

意志的agentになる場合もあるので、句構造の下の方に置くことはできない。しかし、この困難は

(9a)のように、関与者を同列にして選択させるフィルモア式の考え方で十分に解決ができそう

である。従って(9)は関与者の句構造的序列と生成意味論風の論理式註30)に対する対案である。

その他の斜格の扱いについても類似の問題がある。それを構造の一番下に置いて、そこから形

態素の意味を作り上げるという方式は、生成意味論の構造に似て、形態素の概念の底に状態が在

...............................................................

註28)この用語が流行して、さまざまに敷居を乗り越えた。影山太郎『動詞意味論』(1996、くろし出

版)第4章参照。またもともとの能格性に関しては Frans Plank (ed.):Ergativity. Towards a Theory of Grammatical

Relations. Academic Press. 1979 をまず参照のこと。

註29)X-bar SyntaxはR. Jackenfoff 1977 の、後期句構造文法は1985年以降の一般的記述方法であった。

例えば、[ VP ... [VP''' DIR [VP'' LOC [VP' NP2 [VP NP1 V]]]]] のNP2 が相手に対応する。LOC, DIR はそれぞれ場所と

方向を指す。

註30)意味を正当に論理的表示する試みがあった。いわゆる Montague Grammar と Prolog がその代表的なも

のである。ともに計算機による自動翻訳に使われて、十分に役割を果たした。しかし私自身も関与した生成意

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味論は結局は教育的駄目にすぎなかった。

るという考え方を示している。上の1章で見たように、ヒトの言語の形態素が示す言語的概念が

統覚的統合体であるという考え方と、このような状態基底的な積み上げ方式の考え方、および非

対格構造からの派生というような操作との間には理念的な差異がある。前者に従えば、形態素の

意味の間には、対応とその類型が見られるが、一方から他方への派生の関係はない。あり得るの

は、造語的な派生による意味の変化であるが、ここではこの問題には触れない。非対格構造と意

識的行為との関係を示すために、「向く、向ける」を例にとろう。

(30)a. √muk- + φ → [muk-(min)[res + < actor/agent//object, directive >

b. √muk- + -e- → [muk-(dur.act)[eff + <actor/agent, object, directive >

ここのあるのは造語的派生でも、関係の変化でもなく、関係の対応である。この対応は言語的概

念の対応であって、それは、想像すれば、身・脳的には基本モジュールと連合野モジュールとの

結合の仕方の違いに対応するのではないだろうか。

6.こころの技術と趣向

今から200年ほどの昔、ジャワ島のジョグジャカルタから極彩色の木簡がヨーロッパへ持ち

出された。それはカーヴィ語、つまり中世ジャワ語で書かれた影絵戯曲ワヤン・クリトなどだっ

たが、英国で横文字に直されてベルリンに贈られた。これを受け取ったカール・ウィルヘルム・

フンボルトはこのことばを学んで『ジャワ島のカーヴィ語について』を書いた。彼はその本に「人

間の言語構造の多様性とそれが人類の精神発達に及ぼす影響について」という350ページに及

ぶ序文を付けた。これが認知的意味論と類型論の嚆矢であった。人間の言語には型があって、中

国語のように孤立的であったり、日本語のように膠着的であったり、サンスクリット語のように

融合的であったりする。また、ある言語は概念を語に当てるとき分析的な技術を使う。例えば、

中国語がそうだ。英語やドイツ語もかなりそうだ。一方で、概念を一つの語の中に詰め込もうと

する。詰め込み型 einverleibend の言語、複総合的な言語がある。彼は当時メキシコ語と呼ばれて

いた中米インディアン諸語の資料によって詰め込み型の言語構造を例示している。これが類型論

の出発点だった。

フンボルトから一世紀後にエドワード・サピアがもう一度この問題を取り上げた。今度は、生

の資料を懸命に集め、フンボルトの問題を新たな観点から論議した。『言語-ことばの研究入門

-』(1921)の6章「言語構造のタイプ」で彼は、一枚の表を示して、いろいろなひとびとが

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それぞれの「概念を言語記号に翻訳する」ときにどんな術を使うのかという問題、言い換えれば、

「ある言語のもっとも根本的で一般的なこころの姿形(features of the spirit)、その技術、そして加

工の程度」とは何かという問題に答えを出そうと試みた。それぞれの言語は、言語的な概念を孤

立的に、膠着的に、あるいは融合的に捉える概念の記号化に当たってさまざまに異なった技術を

使う。一方でそれぞれの言語は、概念を組み立てて表現するにあたって、分析的に表現するか、

総合的にまとめるか、さらに複合的に加工するかというもう一つの技術を使う。彼はいくつもの

言語をあげて、それらの言語がこれらの技術をどう使っているかを一覧表にまとめている。つま

り、言語的な概念から語の意味を作る過程、つまり概念の記号化についての一覧表である。そこ

にそれぞれの言語の環境的・生態的・文化的特性も読み込んでいく必要があるのだろう。

われわれは上でコトの意味を概念化し、拡大し、補正する方法について考えてきた。このプロ

セスがサピアの言う「技術」と「加工」に当たるのではないだろうか。このプロセスはもちろん

ここであげただけでは考え足りないだろう。コトをまとめる加工技術については、ここでは複総

合語の二例と日本語やニヴフ語の例をあげたに過ぎない。一番の問題は、サピアのことばを使え

ば「言語の構造的なこころ(spirit)」はどういう形をしているのかという問いである。われわれは、

ニヴフ語を見て、「この人たちはどうしてこんなすぐれたものいいをするのか」と感嘆し、イテリ

メン語を見て、「この人たちはどうしてこんな構造を選んだのか」と驚嘆する。答はなかなか分ら

ない。しかし彼らは確かにかれら独自の感性に基づいて言語的概念を構成し、それを独特の数学

的趣向にもとづいて、彼らのこころを言語的概念に、それを動詞複合体や複雑な内部構造を持つ

一語文に仕立て上げたのだろう。

(かねこ とおる 千葉大学名誉教授)