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〔論考〕 王戎・王行の時代 竹林七賢の最年少者であったと思われる王戎(二三四 -三〇五)は、同じく七賢の一人であった院籍(二I○ -二言二)から、青年の頃酒席に遅れてのこのこ顔をだ したため、「この俗物……」(『世説新語』排調篇)とから かわれたことで知られた人である。一方西晋きっての清 談家とされ、玉柄の塵尾を振りかざしての清談は、「口 中の雌黄(言談の誤り訂正器)」の異名をとり、そのサロ ンは「一世の ﹇登﹈龍門」とされた、王戎の従弟王術 (二五六-ご二乙は、荊族の石勒(二七二上三三)軍と の戦いに敗れて捕えられ、死に際に「吾曹 古人に如か ずと雖ども、向に若し浮虚を祖尚せず、力を勁せて以て 天下を匡せしなら を」(『晋書』巻四十 して知られた人である。懸 王朝が滅ぶ(ご二六)五年前の 王術の「若し浮虚を祖尚せず… 風気のありようを示すものとして、ま するものとして、しばしば議論の対象とさ して、玄学や清談の空虚な議論が、王朝の滅亡 元凶であったとされることがある。いかにももっと しく、ありうべきことと思われる。しかし、魏晋の人 がこぞって浮虚に熱中したわけでもなく、また浮華に 携った人士たちも現実の政治・社会を無視し忘れていた わけでもない。むしろ、現実に対して醒めた人たちで あったことが、実は問題なのであったであろう。 西晋王朝の滅亡について言えば、やはり王朝自身の欠 陥や、また失政に起因する所が大きいと思われる。諸侯 王たちの権力闘争となった八王の乱(二九一-三〇六)、 そしてこの乱のなかで傭兵として力をつけてきた異民族 との闘争となった永嘉の乱(三〇七-三こI)などは、や はり大きな政治的・現実的な力の問題であったからであ る。 00

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Page 1: 〔論考〕 王戎・王行の時代 - i-repository.net〔論考〕 王戎・王行の時代 ンは「一世の [登]龍門」とされた、王戎の従弟王術中の雌黄(言談の誤り訂正器)」の異名をとり、そのサロ談家とされ、玉柄の塵尾を振りかざしての清談は、「口かわれたことで知られた人である。

〔論考〕

王戎・王行の時代

                 武 田 秀 夫

      一

 竹林七賢の最年少者であったと思われる王戎(二三四

-三〇五)は、同じく七賢の一人であった院籍(二I○

-二言二)から、青年の頃酒席に遅れてのこのこ顔をだ

したため、「この俗物……」(『世説新語』排調篇)とから

かわれたことで知られた人である。一方西晋きっての清

談家とされ、玉柄の塵尾を振りかざしての清談は、「口

中の雌黄(言談の誤り訂正器)」の異名をとり、そのサロ

ンは「一世の [登]龍門」とされた、王戎の従弟王術

(二五六-ご二乙は、荊族の石勒(二七二上三三)軍と

の戦いに敗れて捕えられ、死に際に「吾曹 古人に如か

ずと雖ども、向に若し浮虚を祖尚せず、力を勁せて以て

天下を匡せしならば、猶可く今日に至らざらましもの

を」(『晋書』巻四十三 王戎伝)と痛恨の言を吐いた人と

して知られた人である。懸帝が匈奴の劉曜に降って西晋

王朝が滅ぶ(ご二六)五年前のことであった。

 王術の「若し浮虚を祖尚せず……」は、魏晋の思想や

風気のありようを示すものとして、またその結末を示唆

するものとして、しばしば議論の対象とされてきた。そ

して、玄学や清談の空虚な議論が、王朝の滅亡を招いた

元凶であったとされることがある。いかにももっともら

しく、ありうべきことと思われる。しかし、魏晋の人士

がこぞって浮虚に熱中したわけでもなく、また浮華に

携った人士たちも現実の政治・社会を無視し忘れていた

わけでもない。むしろ、現実に対して醒めた人たちで

あったことが、実は問題なのであったであろう。

 西晋王朝の滅亡について言えば、やはり王朝自身の欠

陥や、また失政に起因する所が大きいと思われる。諸侯

王たちの権力闘争となった八王の乱(二九一-三〇六)、

そしてこの乱のなかで傭兵として力をつけてきた異民族

との闘争となった永嘉の乱(三〇七-三こI)などは、や

はり大きな政治的・現実的な力の問題であったからであ

る。

-00-

Page 2: 〔論考〕 王戎・王行の時代 - i-repository.net〔論考〕 王戎・王行の時代 ンは「一世の [登]龍門」とされた、王戎の従弟王術中の雌黄(言談の誤り訂正器)」の異名をとり、そのサロ談家とされ、玉柄の塵尾を振りかざしての清談は、「口かわれたことで知られた人である。

 勿論、この政治の任に当っていた魏、西晋の高級官僚

たちの一部が、清談・玄学といった超越的・観念的世界

に深入りしていることが、どういうことなのであるかと

いった清談・玄学本来の目醒めの力を現実の力とあっさ

り順順させてしまうことによって、逆に現実の動きに対

して甘くなっていたことは確かに違いない。清談・玄学

の成立に深く係わった王弼(二二六-二四九)その人が、

やはり官僚・政治家としての能力には乏しかったとされ、

自身の玄学的視点でしか現実を見ていなかった。むろん

思想家・学者であって、一家の哲学・思想を打ち立てた

人であってみれば、それは当然そうある所で、むしろそ

うでない方が自身の思想に背くことになる。しかし、い

ずれにせよ、魏晋の思想界は、玄学・清談を時代の風気

として動いていった。小稿は、そのような風潮の中での

小さなエピソードについて考えてみたい。それは、名土

たちのある傷つき易くもあった自尊心の問題を巡ってに

向けてである。

-

-

れる」として以下のように概括し、且つその展開の論理

を探るべきであるとされた。玄学は「曹魏の正治年間

(二四○-二四九)の工弼・何晏から始まり、竹林期(二

五四上エハニ) の硲康・向秀へと発展し、さらに元康前

後(二九〇年前後)の裴頻、郭象へと続き、そして東晋

になると張湛・道安が出てくる。………何故正始期の工

弼・何晏の〈貴無〉論(以臨一為い本)が、竹林期の愁康

の〈貴無〉論(越~名教一而汗自然・)と向秀の〈崇有〉

論(以一儒道一為し)へと発展していったのか、また竹林

期の玄学が元康期の裴頻の〈崇有〉論(自い生而必体い有)

と郭象の〈独化〉論(物各自造)へと発展していったの

か、そして東晋になると張湛の 〈貴無〉論(群有以一室

崖為に示)と道安の〈本無〉論(無在・方化之先・)がでて

きたのか」と。(『郭象与魏晋玄学』湖北人民出版社一九八三

年、二頁)

 そして、「総合的にみて、魏晋の玄学は政権を担って

いた門閥世族の要求に叶うものであり、しかもその発展

過程からみて、ますますこの支配者集団の要求に適合す

るものとなっていった」(三〇頁)と述べるように、玄学

の形成発展は、門閥貴族社会の要求の中から、それと歩

調を合わす形で形成され、発展していったと考えられて

湯一介氏は、「巍晋の玄学には一つの発展過程がみら

-

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いる。恐らく清談についてもやはり同じことが考えられ

ていることと思われる。

 しかし、確かにそうだと言いえても、問題はむしろ逆

にそれらを裏切るものの方が大きくはなかったかである。

たとえば、王弼の思想なども、貴族的門閥社会を唯一絶

対的なものとして擁護・支持するものとは言いうるであ

ろうが、しかしそうするためのものとは言いがたい、と

考える。彼の貴無論・無と有との関係論の思想から言え

ば、その思惟は極端に言うなら、どのような政治体制で

も絶対化される構造を持っている、と考えられるからで

ある。王弼の有無論は、貴族的身分体制に適合するとは

言いえても、それを弁証するためのものと見倣すことは

出来そうにない、と思われる。しかもその適合とは、今

述べた意味のものであれば、果して本当にそれの要求に

叶うものであるとも見倣せるであろうか。王弼の思想は、

確かに貴族的門閥体制を絶対化しうるものではあるが、

それと同じくそれを相対化しうるものであるからである。

つまりは、どの体制であろうとも適合するようになって

いるのが、従って逆にどの体制とも適合しえぬというの

が、老荘的無の思想の系譜を引きついでいる思想の特点

でもあるからである。このことが何を意味するのか、ま

たその間のさまざまな色調の違い等の問題は、筆者の課

題でもあって、考え続けたいと思う。

 この玄学の形成・展開にとって画期的な時代が、王戎

の七才から十五才の少年期であった正始年間であり、何

晏(一九三?-二四九)・夏侯玄(二〇九-二五回・裴

徽・和泉・傅瑕(二〇九-二五五)・鐘会(二二五-二六

巴・李豊(二〇四?-二五四)・工広(二〇七?-二五

こたちが、論壇の名士として活躍していた、所謂後世

正始の音として賛えられた時代であった(孔繁著『魏晋

玄学』遼寧教育出版 一九九一)。なかでも、工弼と何晏の

「貴熊論」に立つ思想的影響力は大きく、学問・思想界

に小さがらぬ波紋を残した。それはやはり「無」の思想

がもつ超越的逆説的性格によるところが大きかったと言

える。そして、一ひねりも二ひねりもひねって世界と事

象を単純に純粋に捉えていこうとする姿勢は、ある意味

で反省的精神の強さを高揚させたはずであるからである。

しかしそれは同時にその弱さの自覚でもあったはずで、

それは必ずしもそうとは自覚されていなかった、かれら

の立っていた社会的基盤なりの、ある脆弱性・矛盾性と

も関係していた、と考えたい。

 この時期の、いわばこうした精神的反省・凝集が、後

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漢中・末期からすでに始まっていた高級官僚の貴族化や

官僚そのものの名士化という大きな時代の流れの延長線

上に育まれ育ってきたことは確かであろう。貴族的官

僚・名士的官僚として、新たな一つのまとまりが形づく

られていく過程は、そうした新しいまとまりに叶った心

的世界なり思想が、-それは必ずしもそのようには自

覚されていなく、むしろ結果としてそうなっていただけ

かも知れないが、-探求されていく高揚過程でもあろ

う。その意味では、確かに玄学・清談と門閥貴族社会と

の両者は歩調を合わせていたと言いうる。

 少くとも、文化的・道徳的指導者としての自負を持つ

この国の官僚・政治家である知識人たちの探求が、新た

な知的世界と生活・社会的環境を形成し、そしてそれを

共有しようとする方向で、時代の混乱に押しあげられる

形で、つまりはまたそれを利用する形で、その凝集力を

示してきたのである。

 そして、しかもこの新しく登場してきた貴族・名士た

ちが示してきた凝集力が、高級官僚であることの名声・

名誉を強力な磁場・母胎として伸長してきたものであり、

そしてその官僚としての名声・名誉を家系的に独占して

いこうとするものであり、従って官僚制を打破・越克す

る形で貴族・名門が誕生してくる形での対抗的凝集力で

はなかったことが、大きな矛盾ではなかったであろうか。

この時代の貴族化は明らかに官僚自身の官僚体制内での

貴族化・名士化であり、それは中国的官僚体制にとって

は、いわば鬼子のようなものであった。

 官僚が皇帝に対して忠誠を誓うことによって、-勿

論契約書や宣誓式などの儀式の問題ではなくて、-精

神的に自立した形で、官僚としての任務を遂行するのが、

本来のおり方であり、全てであったものが、今度はその

形を踏みながら、一歩外に足を踏みだしたのである。こ

の外に踏みだした部分が貴族的名士的世界であり、官僚

的に完結しうる世界とはまた別の今一つの世界であった。

そこは皇帝にとっても手強い部分であった、と同時に官

僚自身にとっても実は、危険な部分であった。スリルが

あったのだ。

 しかし、本来的にはあくまで官僚であり、制度的には

官僚として皇帝に付属するものであったことが、貴族的

部分に大きな影を落していたわけで、従ってその部分が

完全に自立独立することは無理なことであった。そうで

はあったが、今一つの世界、それが経済的・精神的・欲

望的であれなんであれ、これまでの官僚的世界とは違っ

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た世界を持つことに、つまりは同時にさまざまな世界を

持つことに、その力は示されたのである。

 魏晋の官吏登用法である九品官人法は、基本的に官僚

制と貴族制との折衷であり、官僚としての能力あるいは

郷里社会での徳行と門地・家柄との抱き合わせであり、

本来が違った指向性をもつものの合体・混合であった。

官僚的秩序と貴族的秩序の錯綜し絡み合うなかで、官僚

であって官僚らしくなく、貴族かと思えば貴族らしくも

ない、官僚としても貴族としても、どこかで筋が絡まり

縫れたような、六朝期独特の貴族的・名士的精神と思想

が形成され展開していくが、その内部にかかえこんださ

まざまに反撥しあう世界と得体の知れぬ「無」の思想と

のゆえに、分裂気味であった。

     三

 魏王朝が成立して二十年程経った、王戎の少年期の正

始年間は、そうした政治的・実務的性格をもつ官僚的性

格よりも、むしろ超越的指向をもつ貴族的性格を多分に

あわせもった複合的名士たちが、歴史の表舞台に登場し

てきた時期であった。それは曹操・曹不一(浮華の徒が出

てきたとされる)・曹叡と続いた実力主義的・能力主義

的な気風によって抑えつけられていた浮華の徒とされて

いた人士たちが、幼帝曹芳のもとで後事を託された二人

の実力者のうちの一人である曹爽によって、中央の要職

にとり立てられて活躍の場を得たことによる。何晏・郵

繩・李勝・丁謐・畢軌といった人達である。何晏・郵

圓・丁謐の三人は尚書台に入り、なかでも何晏が選挙の

重任を委ねられたことが大きな意味をもっていた。「何

晏 吏部尚書と為り、[地]位・[名]望有り。時に談客

坐に盈つ」(『世説新語』文学篇)とされるように、かれの

もとに名士たちが集まり、そこでの清談が評判になった

からである。

 後漢の大将軍何進を祖父にもち、曹操のもとに再嫁し

た母とともに、宮中で生活し、公女を尚し、白粉をつけ

ているかと思われる程の白首の容貌をもち、少年の頃か

ら秀才の誉高く、五石散の服用を広めた人として知られ、

そし。て老荘の言を好んだ貴公子何晏の開いていたサロン

が、どのような工合であったのか想像の限りではないが、

情報の範囲の狭かった当時にあっては尚さらのこと、多

くの人士だちから注視されていたことは確かであった。

こうした社交会での議論や会話は、実際は政治的とも思

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想・学問的とも、また四方山話とも区別のつきかねるも

のが多かったであろう。しかし、史料的には、いわゆる

清談とされる哲学的議論の様子についてのことが多く残

されている。特に多いのは、人物批評にからむものであ

る。

 それは、上をみても横を向いても限りもなしとされる、

官僚と貴族の序列の中で、自分たちの位置とその有り様

を確認し合い、またそうした位置ごとにおける同類間で

の差異を見い出していくことによって、凝集力を生み出

していこうとするものでもあったろうが、しかし一方で

はさまざまな反撥力をも内部に蓄えていくものでもあっ

た。そしてこうしたことは、生身の人間をより深く凝視

させることになる。官僚・貴族の世界が固定化し動かな

くなればやる程、その中にありつXそれを超えてある生

身の個性に神経は注がれる。

 官僚としての性格と貴族としての性格とのせめぎ合い

の中で、見い出されていったのは、両者の混合体として

生きている生身の個性であり、場合には分裂したように

生きるそれであった。生身の人間をそれぞれの個性とし

て捉え始めたとも言える。従って、何時何如なる場合に

あっても、道徳的人格の主体としての統一・統合性をあ

くまで保持していこうとする儒家的理想主義が、この国

から消えることがないとするなら、この時期にあっては、

それが「無」の思想を受け入れることによって、より精

神的にと同時により即物的にといった両極端に分裂した

場合でさえも、それを個性として個性のうちに統合・統

一されるものとして捉えていったのである。いわば人格

的な分裂・破錠さえもが生きた個性として確認されて

いったのである。むろん、それらが手厳しく指弾され続

けてはいる。王弼が鼻っぱしの強さ故に憎まれ、何晏が

地位を利用して他人の土地を勝手に手に入れたり、個人

的好みによる人選を行ったりして批判を浴びているが、

少くとも平気でそうしえたことに、よくもわるくもこの

時代の流れがあった。

 この二人が活躍した正始年間も、曹爽グループによっ

て太傅に祭りあげられて実権を奪われ、雌伏を余儀なく

されていた司馬姑とその息子師のクーデター(高平陵事

件西九年)によって、曹爽グループが三族を夷滅させ

られて幕を下し、今度は実権を握った司馬氏が、曹魏王

朝との明確な対立を深めていくことになる。反司馬氏派

の名土たちが、次ぎくと消されていく。工凌・令狐

愚・楚王彪・李豊・夏侯玄・張輯は二五四年、母丘倹・

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文欽は二五五年、諸葛誕は二五八年、二五五年から帝位

にあった高貴郷公曹鬘は二六〇年、愁康は二六二年、そ

して最後には司馬氏派でもあった鐘会が二六四年に敗死

し、翌二六五年六度目の詔命を受けて相国・晋公につい

た司馬昭が死去するや、その位を嗣いだ子の炎が元帝の

禅譲を受けて晋王朝を建てることになる。

     四

 こうした政局の混乱するなかで、王弼・何晏たちの思

想を横目でにらみながら引き継いでいったのが、玩籍や

康愁たちの、所謂竹林の名士たちであった。かれらはや

はり型破り的個性派の代表者たちであり、一人一人独特

な個性を発揮しながら、いわば方外の交りを結んだ人だ

ちとされていた。かれらの竹林での清談・清遊が一体ど

のような工合であったのか、また何時頃どのようにして

どこで始まりどのようにして終ったのか、実は不明なこ

とが多い。

 王戎は、高平陵のクーデターが起る二年程前(二四七

年頃)に、玩籍の知遇を受けている。玩籍は三十八才の

頃、王戎はまだ十四才の頃である。・クーデターによって

何晏らが殺された時は、十六才の多感な年頃であった。

因みにこの年、山濤は四十五才、愁康二十七才、向秀・

劉伶・院咸の三人は不明である。名士たちにとって、身

の処し方のむずかしい時代であっただけに、一層かれら

の言行は、晦渋とならざるを得なかった。その分内には

矛盾が蓄積されていく。それが時として爆発して個性と

しての枠組を拡大していく。特に玩籍と愁康の二人は、

それを言語として表現しうる天分に恵まれていた。そし

てこの個性豊かな才能が、時代の注目する所であった。

何故なら、現実的な政治の世界、また日常的礼的な生活

世界は、それを容易に認めることの出来ない仕組になっ

ていたからであり、そうした圧迫、軋擦の中で、あくま

で個性と才能を発揮していった人々として、時代と社会

とに翻弄され続ける士人たちの代表・代弁者として、か

れらの苦い共感を呼んだからである。

 そして、硲康が二六二年四十才で刑死し、玩籍も翌年

五十四才で亡くなり、思想的支えを失った直後に、晋王

朝が始まるわけで、時に王戎は三十二才、王術はまだ十

才であった。王戎が、この魏晋の禅譲劇をどのような思

いで眺め、またどのような役割を果していたのか不明で

ある。鐘会が蜀の反乱を鎮定に出かける時(二六四年)、

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王戎に別れを告げに会いにゆき、征討の計を尋ねると、

「道家に言有り、『為して時まず』(『老子』二・十・五十

丁七十七章)と。功を成すの難きには非ず、之を保つ

の難きなり」と答えた、と言われることからするなら、

すでに大勢は決した、と考えていたと思われる。

 晋王朝のもとで、「職に在りて殊能無しと雖ども、庶

績修理す」(『晋書』巻四十三、王戎伝)であったとされる

王戎は、吏部郎・黄門郎・散騎常侍・河東太守・荊州刺

史・橡州刺史と官界を渡っていく。二八〇年には、建威

将軍となり、呉王国討伐に加わり、戦果を挙げ、安豊県

侯の爵位を得ている。その呉平定直後、南郡太守劉肇か

ら賄賂を受け取った廉で、司隷から糾弾されたものの、

王戎はそれと知って納めなかったという遁辞を吐いて処

罰を免れているが、批難は続いたという。また武帝

(炎)が王戎の行動を弁護したものの、「清真たる者の鄙

しむ所と為り、是れに由りて名〔声〕を損」つた、とさ

れる。この後、光線勲へと遷り、そして吏部尚書になっ

ているが、母の死に会い、職を辞して喪に服している。

この時の王戎の喪に服する態度が、哀毀度を越していた

ため、死孝だとされた。型破りな竹林の名士としての一

面をのぞかせたものであった。

 魏晋の禅譲劇に終止符を打ち、呉平定の難事を制した

武帝も、その緊張が弛んだのか、呉の後宮から手に入れ

た美女たちと遊び戯れはじめ、王朝初期の緊迫した状況

は早くも崩れ始める。そして、外戚がまた動き出すので

ある。武帝の死(二九〇)をきっかけに、武帝の外戚楊

駿一派と帝位についた恵帝の皇后賀氏一派との権力闘争

へと発展し、それが大動乱へと展開して、再び政治の危

機を迎える。

 武帝の死後、外戚楊駿が輔政として実権を握るや、武

帝の後を嗣いだ、歴代皇帝の中でも暗愚第一とされる息

子恵帝の皇后賀后が、その権力を奪取する策を巡らし、

東安公絲を唆かして楊駿一派を誄殺してしまう(二九一)。

また太后楊氏も庶人に落され、翌年自害に追い込まれて

いる。この東安王となった司馬絲も賀后に殺され、さら

に実力者と目されていた太宰の汝南王亮と太保の衛瑠

(「四体書勢」の作者である息子恒ともに)を楚王璋を唆かし

て殺してしまうとともに、今度は詔を偽って勝手に二人

を殺した廉で、楚王璋を処刑してしまう(二九一)。その

後波瀾ぶくみの一服があった後、二九九年賀后は生みの

子でない恵帝の息子感懐太子を廃し、その生母を殺し、

翌年その廃太子を殺害する。こうした暴虐にたまりかね

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た、それまで「費后に出い事え」ていた趙王倫が近習の

孫秀の入れ智恵で、費后一派を誄殺して権力を握る(三

〇〇)。同時に趙王倫が官を求めた時、それを阻止した

司空張華(『博物志』の作者。二三二上二〇〇)と尚書僕射

裴顧(「崇有論」を書いて貴無論に一矢を報いた、王戎の女婿。

三八七圭二〇〇)の二人を根にもって殺害してしまう。

そして趙王一派に対抗して兵を挙げた淮南王允を滅ぼす。

また趙王倫の右腕として権力を手にした孫秀は、費謐と

連なる石崇・瀋岳たちを、淮南王に与した者として殺害

する(三〇〇)。こうして所謂八王の乱(二九一1三〇六)

は泥沼へと入っていった。そして、元康(二九一-二九

九)の風とは、費氏一派が権力を握り、そして没落する

までのほんの数年間のことであった。

 費后を後ろ楯として、侍中として羽振をきかせていた

費謐のもとに、詩人の瀋岳・陸機・陸雲兄弟や三都賦で

洛陽の紙価を高からしめた左思、また「言尽意論」の作

者欧陽建、贅沢競争で名を馳せた石崇といった癖の強い

二十四人の才士が集まって(二九七)、談論に花を咲かせ

たのも、また中朝の名士とされた王術をはじめとして、

楽広・裴楷・庚顛・衛珍・郭象らの清談家たちが活躍し

たのも、元康の風の代表とされる王澄・謝鮑・玩瞼・胡

母輔之・畢卓・王尼・光逸といった裸体主義者や放達の

士たちが、識者の蝦蟹を買っていたのも、血を分けた諸

王たちが、異民族の王たちの力を借りてまでも権力を握

ろうとして血で血を洗う凄惨な戦いに本格的に明け暮れ

ることになるほんの少し前か、そうなってからのことで

あった。

 王戎にしても、王街にしても、そうした大きな時の流

れからもはや自由であること、つまり思想的・批判的に

時代と対峙することは出来なかった。政争が渦巻き、人

間関係が複雑に入り組み、事態が紛糾してきた、こうし

た時代と真に対峙するには余程の力量がなくてはかなわ

なかったはずで、玄学者の郭象にしても時代の波を飲み

込む意気込みを示していながら、むしろそうした混乱の

流れを押し進める方向をとっているのである。いわば大

きな賭に出ている。

     五

 郭象(匹二五三-一三二)の『荘子注』にみられる独

化・自得の思想は、個性の独自性を強力に発揮させる思

想的内容を豊かに持っていると同時に、また強烈に現実

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の身分秩序を絶対化する方向をもとっているのである。

この両者に横たわる衝突・矛盾といったことが、郭象に

明確に意識されていないことが、と言うより、個別性・

特殊性といった哲学的概念を、現実の上下身分的社会秩

序とぴたりと合致させうるような方向で意識的に考えら

れているのであって、かれにはその間の衝突や矛盾が入

り込まないようになっているのである。

 この郭象の立場は、個性化の流れに乗り、それを押し

進めることによって社会の秩序を回復して行こうとする

ものではあったが、しかし貴族的官僚的身分秩序を絶対

化したうえでの話であるとき、この個性化はそうした秩

序に完全に保護されたものとなる他はない。確かにかれ

の独化・自得の思想は否定・超越を媒介としている。し

かしその否定・超越が現実の秩序をむしろ絶対化するこ

とを意識しているとするならば、この思想は、貴族的官

僚たちにとっては身分の保障を与えられたうえでの自由

放縦の思想を提供するものとして歓迎すべきものであっ

たであろう。

 元康期の放縦・礼法無視の名士たちの言行には、そう

した言行の烈しさとは裏腹に、どこかで保護され守られ

ているといった姿勢が見え隠れてしている。むしろその

ことを大胆に露にしてみせただけなのかも知れない。恥

も外聞も投げ捨てる強さを示しながらも、そうではな

かった所に、この時期の強弱両有の生身の個性と思想と

があった。

※  ※  ※  ※

 剣を名誉のシンボルとは考えなかった(儀式的呪力は

強烈であったが)この期のこの国の貴族的官僚たちに

とってのそれとは、あくまで秩序とことばであった。そ

して官僚制と貴族制の秩序と儒家と老荘のことばの中で、

軽蔑すべきとされていた剣が振り回され続けた時代で

あった。しかしこの期、毅然たる貴族的武人、いわば騎

士たることの罠にはまった人士は至って少なかったよう

に思われる。少くとも「俗物」将軍王戎が、院籍に「ホ

ウ、諸卿がそんなに傷つき易いとは」と言い返したとこ

ろをみると、かれもまた傷つき易かった。でなければ何

故かれが吝嗇振りを発揮するのかがわからなくなるから

である。そして無礼者と現実の一太刀を浴びせるよりは、

言語を投げあう方が双方にとっての生きる道を切り拓か

せることになる。

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 王術が陽狂のもとに下女を研り捨てたのは、趙王倫の

怨みを免れるためであった。王術は趙王倫の人となりを

軽蔑していたが、その趙王が帝位を簒奪して権力を握っ

たからである。傷ついた趙王と王術の間にもし権力さえ

介在していなければ、と誰しもが思うところであろう。

院籍と王戎の間のように。

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