律令制下における軍事問題の特質について ―古代東北の軍事 ......1...

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1 律令制下における軍事問題の特質について ―古代東北の軍事行動を中心として― 五十嵐 基善(IGARASHI Motoyoshi1:はじめに 日本の律令制国家は、大宝元年(701)に大宝律令が施行されたことにより本格的に成立する。この律令制 国家が直面した問題として、現在の東北地方より北方の地域を支配領域に組み込んでいなかったことが挙げ られる。律令制国家は東北地方への進出を正当化するため、中国で創出された華夷思想を適用させたことが 特徴である。すなわち、未服属の集団を蝦夷(エミシ)と呼称し、東方の異民族(東夷)として設定したの である。蝦夷を服属させることは、天皇の徳が異民族にまで広く及ぶことを意味し、律令制国家の秩序を充 足・維持するために重要な要素であった。 しかし、東北地方に進出して律令制支配を浸透させることは容易ではなかった。積極的な進出は 9 世紀前 期まで続けられ、最終的には【資料1】に示す領域を支配することになり、現在の岩手県北部・秋田県北部 までの領域にほぼ相当する。その進出は【資料2】のように計画的に行なわれ、支配領域が北方に拡大して いったことが特徴である。この点は、19 世紀のアメリカ合衆国が行なった西漸運動【資料3】と共通する要 素が多い。律令制国家をアメリカ合衆国、蝦夷をインディアン、華夷思想を明白な天命(マニフェスト・デ ィスティニー)にそれぞれ置き換えることが可能である。 蝦夷を服属させる基本方針は、法典である「養老令」職員令の大国条に規定されている。蝦夷に接する陸 奥国・出羽国・越後国の守には、「饗給」・「征討」・「斥候」という職掌が与えられている。饗宴・賜物による 懐柔策の「饗給」、軍事力を行使する強硬策の「征討」により服属が進められたのである。基本的には懐柔策 が採用され、蝦夷を支配体制に組み込んでいき、新たに郡を設置して領域を拡大していった。しかし、律令 制国家の進出を受け入れない蝦夷も存在し、89 世紀には律令制国家と蝦夷との間で軍事行動が起きること もあった。 軍事行動を経験することは、国家・集団の軍事面に発達を促す作用があることは普遍的な性格である。律 令制下において、最も多くの軍事行動が発生したのは古代の東北地方であった。本報告では、律令制国家と 蝦夷の間で行なわれた軍事行動について、両者が保有する兵力の性格に着目して分析する。そして、律令制 国家が直面した軍事問題・軍事環境の特質を明らかにすることを目的とする。 2:古代東北における軍事システム 蝦夷に接する陸奥国・出羽国は、他の地域と比べて軍事力の維持・強化が意識されたことが特徴である。 この点を考える上で、平時と戦時では軍事力の編成が異なる点に着目する必要がある。本章では、律令制国 家の軍事制度の中核を担った軍団兵士制について整理した上で、対蝦夷用に形成された軍事システムを分析 する。 軍団兵士制の構造 -平時における役割- 律令制国家の軍事力の中核を担ったのは、諸国に施行された軍団兵士制である。この軍団兵士制の特徴は、

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律令制下における軍事問題の特質について

―古代東北の軍事行動を中心として―

五十嵐 基善(IGARASHI Motoyoshi)

1:はじめに

日本の律令制国家は、大宝元年(701)に大宝律令が施行されたことにより本格的に成立する。この律令制

国家が直面した問題として、現在の東北地方より北方の地域を支配領域に組み込んでいなかったことが挙げ

られる。律令制国家は東北地方への進出を正当化するため、中国で創出された華夷思想を適用させたことが

特徴である。すなわち、未服属の集団を蝦夷(エミシ)と呼称し、東方の異民族(東夷)として設定したの

である。蝦夷を服属させることは、天皇の徳が異民族にまで広く及ぶことを意味し、律令制国家の秩序を充

足・維持するために重要な要素であった。

しかし、東北地方に進出して律令制支配を浸透させることは容易ではなかった。積極的な進出は 9 世紀前

期まで続けられ、最終的には【資料1】に示す領域を支配することになり、現在の岩手県北部・秋田県北部

までの領域にほぼ相当する。その進出は【資料2】のように計画的に行なわれ、支配領域が北方に拡大して

いったことが特徴である。この点は、19 世紀のアメリカ合衆国が行なった西漸運動【資料3】と共通する要

素が多い。律令制国家をアメリカ合衆国、蝦夷をインディアン、華夷思想を明白な天命(マニフェスト・デ

ィスティニー)にそれぞれ置き換えることが可能である。

蝦夷を服属させる基本方針は、法典である「養老令」職員令の大国条に規定されている。蝦夷に接する陸

奥国・出羽国・越後国の守には、「饗給」・「征討」・「斥候」という職掌が与えられている。饗宴・賜物による

懐柔策の「饗給」、軍事力を行使する強硬策の「征討」により服属が進められたのである。基本的には懐柔策

が採用され、蝦夷を支配体制に組み込んでいき、新たに郡を設置して領域を拡大していった。しかし、律令

制国家の進出を受け入れない蝦夷も存在し、8・9 世紀には律令制国家と蝦夷との間で軍事行動が起きること

もあった。

軍事行動を経験することは、国家・集団の軍事面に発達を促す作用があることは普遍的な性格である。律

令制下において、最も多くの軍事行動が発生したのは古代の東北地方であった。本報告では、律令制国家と

蝦夷の間で行なわれた軍事行動について、両者が保有する兵力の性格に着目して分析する。そして、律令制

国家が直面した軍事問題・軍事環境の特質を明らかにすることを目的とする。

2:古代東北における軍事システム

蝦夷に接する陸奥国・出羽国は、他の地域と比べて軍事力の維持・強化が意識されたことが特徴である。

この点を考える上で、平時と戦時では軍事力の編成が異なる点に着目する必要がある。本章では、律令制国

家の軍事制度の中核を担った軍団兵士制について整理した上で、対蝦夷用に形成された軍事システムを分析

する。

① 軍団兵士制の構造 -平時における役割-

律令制国家の軍事力の中核を担ったのは、諸国に施行された軍団兵士制である。この軍団兵士制の特徴は、

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律令により運用される組織的な構造を持っていた点にある。公民を軍団兵士として徴発することにより、大

規模な兵力を保有することが可能となった。その総兵力数は、奈良時代においては人口約 500~600 万人に対

して約 20 万人であったとする推算がある【下向井 1999】。このような軍事力が構築されたのは、白村江の戦

い(663 年)において倭軍が大敗を喫したからである。組織的な編成・戦術を持つ唐軍に有効な打撃を与え

ることができなかったため、中国的な軍事力を構築したのである。

軍団兵士制については、「養老令」の軍事に関係する編目である軍防令を中心に規定が確認できる。軍団の

編成については、軍団大毅条に「凡軍団大毅、領

二一千人

一。少毅副領。校尉二百人。旅帥一百人。隊正五十人。」

と規定され、基準兵力量は 1 団あたり 1000 人であり、【資料4】のような隊(50 人)を基礎とする組織的な

編成を持つ。そして、公民から徴発される軍団兵士は、交替で軍団に勤務して訓練などに従事し、武芸スキ

ルを習得して軍事力の維持を図った。『続日本紀』慶雲元年(704)6 月丁巳条には「勅、諸国兵士、団別分

二十番

一。毎

レ番十日、教

二習武芸

一、必使

二斉整

一。」とみえ、1,000 人規模の軍団であれば、1 番あたりの兵士

数は 100人となる。

② 軍団兵士制の構造 -戦時における役割-

軍団兵士制が果たすべき重要な役割は、緊急時に編成される征討軍【資料5】の中核を構成する点にあっ

た。軍防令の将帥出征条には、「凡将帥出

レ征、兵満

二一万人以上

一、将軍一人、副将軍二人、軍監二人、軍曹

四人、録事四人。」と規定されている。律令の規定により平時から軍団兵士を徴発し、訓練を施すことにより

緊急時に対応することが可能であった。藤原広嗣の乱(740 年)では 17,000 人(『続日本紀』天平 12 年 9 月

丁亥条)、藤原仲麻呂政権における新羅征討計画では 40,700 人(『続日本紀』天平宝字 5 年 11 月丁酉条)な

どの動員事例があり、大規模兵力を動員する体制が整備されていた。

しかし、軍団兵士は公民から徴発されたため、兵士の質としては必ずしも高くはなかった。質的に劣る兵

士を主力とする場合、攻撃力・防御力を最大限に高めるために集団戦闘を採用することは有効である。7 世

紀後期の天武・持統期には、「陣法」の教習が諸国に対して行なわれている(『日本書紀』天武 12 年 11 月丁

亥条・持統 7 年 12 月丙子条)。さらに、軍防令の軍団置鼓条には「凡軍団、各置

二鼓二面・大角二口・少角四

一。通

二用兵士

一、分番教習。(後略)」と規定され、指揮具(鼓・大角・少角)により集団戦闘を行なってい

たことがうかがえる。このような集団戦闘を基本とする大規模兵力は、白村江の敗戦を契機として構築され

たことをふまえると、唐・新羅との戦闘を想定していると考えることができる【下向井 1987】。

③ 古代東北における軍事制度 -対蝦夷用の軍事システム-

陸奥国と出羽国にも軍団兵士制は施行され、他の地域と同じ軍事制度が施行されていた。軍事的緊張が高

かった陸奥国の軍団は、神護景雲 2 年(768)には 6 団 10,000 人、9 世紀代も 7 団 8,000 人などと確認でき

るように大規模であった【鈴木 1998】。この軍団兵士制は、延暦 11 年(792)に廃止されるが、陸奥国・出

羽国は蝦夷に備えるために除外された。すなわち、陸奥国と出羽国の軍団兵士制は、蝦夷に備える軍事制度

として機能していたことを意味する。

さらに、陸奥国と出羽国には、蝦夷支配の拠点として城柵が計画的に造営された【資料 1・2】。『続日本紀』

や『日本後紀』には城柵に関する記事が散見するが、どのような構造であったのかは記されていない。しか

し、1960 年代から東北地方の各地で発掘が本格化し、城柵の構造が明らかにされてきている。すなわち、政

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務・儀礼を行なう政庁と、築地塀・材木塀・土塁・溝・櫓などからなる外郭施設が確認でき、【資料6】のよ

うな施設であったことが判明したのである。この城柵は蝦夷からの攻撃を想定しており、軍事的機能を持つ

外郭施設が存在すること、丘陵・河川などの自然環境を利用していることから明らかである。

陸奥国・出羽国は平時から蝦夷に備えるため、前線の城柵に一定の兵力を配備しておくことが求められた。

そのため、守備兵力を増強するために鎮兵制が導入され、現在の関東地方に相当する「坂東」から兵士が派

遣された。軍団兵士は交替で勤務するのに対し、鎮兵は常勤の形態で拠点の守備を行なった。このように、

古代東北の基本軍制は、軍団兵士制と鎮兵制から構成される独自の形態であった。そして、平時から城柵な

どに守備兵力を配備しておくことは、蝦夷からの攻撃に備えるだけではなく、軍事的な圧力は蝦夷に服属を

受け入れさせる要素としても機能した。さらに、緊急時には征討軍が編成・派遣され、他地域の軍団兵士制

が機能することにより大規模な兵力を投入することが可能であった。

3:古代東北における軍事行動の特質

蝦夷の軍事行動は 8 世紀前期から確認でき、律令制国家が現在の宮城県北部に進出した時期に相当する。

さらに北方の岩手県に進出する際には蝦夷の激しい抵抗を受け、宝亀 5 年(774)から弘仁 3 年(811)まで

軍事行動が頻発する「三十八年戦争」期に突入する。律令制国家は基本的には懐柔策により平和的に支配領

域を拡大していたが、軍事行動により領域拡大を進めたことも特徴である。本章では、この軍事行動の性格

について、「三十八年戦争」期における陸奥国側の事例を中心に考察を加えていく。

① 蝦夷の戦略

蝦夷勢力の特徴は、律令制国家のような政治体制を持たず、東北地方の各地に多くの集団として存在して

いた点にある。律令制国家は蝦夷の集団を「○○村」と呼称しており、服属が完了してから設置される郡名

と共通することが多い。例えば、弘仁 2 年(811)に設置された斯波郡は、宝亀 7 年(776)には志波村、延

暦 11 年(792)には斯波村と表記されている。しかし、律令制国家に抵抗する時は、広範囲の蝦夷が連合し

ていることが注目される【熊谷 2004】。このような対応をしたのは、律令制国家の膨大な人的・物的動員に

対して、個々の集団が独立して軍事行動を起こすのは効果がないからである。「三十八年戦争」期には、律令

制国家は山道蝦夷(岩手県内陸部の蝦夷勢力)に苦戦しており、蝦夷勢力の連合が有効に機能していたこと

が分かる。

さらに、蝦夷勢力を主体とする軍事行動をみると、先手を打って優位に立つことを強く意識していること

が特徴である。宝亀 5 年(774)、海道蝦夷(太平洋沿岸部の蝦夷)が桃生城を攻撃するが、「海道蝦夷、忽発

二徒衆

一。焚

レ橋塞

レ道、既絶

二往来

一。侵

二桃生城

一、敗

二其西郭

一。鎮守之兵、勢不

レ能

レ支。」(『続日本紀』同年 7

月壬戌条)と記されている。また、宝亀 11 年(780)には伊治呰麻呂が按察使の紀広純を殺害するが、「陸奧

国上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反。率

二徒衆

一殺

二按察使参議従四位下紀朝臣広純於伊治城

一。」(『続日本

紀』同年 3 月丁亥条)と記されている。この後、伊治呰麻呂は多賀城を焼失させており、陸奥国の高官を殺

害することで指揮能力を喪失させていたことが分かる。以後、陸奥国と出羽国では軍事的緊張が高まり、律

令制国家は弘仁 3年(811)まで積極的に軍事力を投入することになる。

律令制国家は海道蝦夷の鎮圧に成功し、続いて山道蝦夷を攻略対象とする。しかし、阿弖流為(アテルイ)

という人物が山道蝦夷の集団を統率し、長期間にわたり律令制国家の進出を阻むことになる。しかし、山道

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蝦夷は積極的に進軍せず、自身の本拠地周辺で戦闘を展開していることが特徴である。上記の桃生城と多賀

城を攻撃した際にも、蝦夷は城柵を自身の拠点として利用せず、物資を奪って本拠地に戻っている。この点

は、蝦夷の軍事力との関係が想定される。

② 蝦夷の兵力数

蝦夷の兵力数は、史料上に明記されないことが多い。天応元年(781)には山道蝦夷は「賊衆四千余人」であ

ることが記されている(『続日本紀』同年 6 月戊子条)。また、延暦 8 年(789)における巣伏の戦いでは、阿弖

流為の兵力として「賊徒三百許人」・「賊衆八百許人」・「賊四百許人」と記されている(『続日本紀』同年 6 月

甲戌条)。一方、律令制国家の動員地域は広範囲であり、神亀元年(724)には「坂東九国軍三万人」(『続日

本紀』同年 4 月癸卯条)、延暦 7 年(788)には「坂東諸国歩騎五万二千八百余人」(『続日本紀』同年 3 月辛

亥条)、延暦 13年(794)には「征軍十万」(『日本後紀』弘仁 2年 5月壬子条)などの事例が確認できる。蝦

夷勢力にとって、この大規模兵力は脅威であったと考えられる。

しかし、蝦夷は個々の戦闘では優位に立つが、結局は律令制国家に服属することになる。この点は、蝦夷

勢力の継戦能力が必ずしも高くはないことと密接に関係している。律令制国家は、現在の関東地方に相当す

る「坂東」を中核とする支援地域を形成し、陸奥国・出羽国に対して兵員・物資を輸送した。一方、蝦夷の

領域は律令制国家に比べれば狭く、相対的にみれば動員力には限界があった。そのため、蝦夷は最大限の効

果を上げるため、時機を狙って官人の殺害や城柵への攻撃を行なっていたと考えられる。

③ 律令制国家と蝦夷勢力の兵力 -延暦 8年の戦闘を事例として-

律令制国家と蝦夷がどのように戦闘を行なったのかは、史料に記述が少ないため不明な点が多い。こうし

た状況の中で、延暦 8 年(789)に行なわれた巣伏の戦いに関しては詳細な記事が残されている。延暦 8 年

(789)、律令制国家は紀古佐美を指揮官とする約 52,800 人の征討軍を編成・派遣する。『続日本紀』延暦 8

年 6 月甲戌条には、巣伏の戦いについて詳細な記事がみえる。紀古佐美が採用した作戦は、大規模な前軍に

北上川河西を進軍させ、中軍・後軍から選抜した 4,000 人に北上川河東を進軍させ、協力して阿弖流為の本

拠地を攻撃するというものであった。

しかし、渡河に成功した中軍・後軍は、「賊徒三百許人」の戦術的撤退を見抜けず、巣伏村に至ったところ

で「賊衆八百許人」・「賊四百許人」の包囲を受け敗走する。河西を進軍していた前軍は、阿弖流為軍の抵抗

により渡河できていない状況であった。征討軍は戦死者 25人、溺死者 1,036人、矢による負傷者 245人とい

う損害を受け、裸で帰投したのは 1,257 人という有様であった。阿弖流為が勝利できたのは、狭隘な地形に

中軍・後軍を誘い込み、各個撃破できたことに集約される。自身の本拠地に征討軍を引き込んだことにより、

地の利と機動力を活かして戦闘を優位に進めることができたからである【伊藤 2006】。

律令制国家が苦戦したのは、軍団兵士制を中核とする兵力を投入したからである。先述したように、律令

制国家の兵力は集団戦闘を基本としていた。その威力が最大限に発揮できるのは、大規模兵力が行動できる

広い空間があり、隊列を組んで面的に圧倒することが可能な環境である。蝦夷は狭隘な地形を巧みに利用し

ていたと考えられ、律令制国家の兵力は苦戦を強いられることになった。さらに、8 世紀には国司・軍毅に

より軍団兵士が私役され、十分な訓練が行なわれていないという全国規模の重大な問題が存在した。そのた

め、軍団兵士を中核とする征討軍の士気は必ずしも高くはなかった。

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4:おわりに

律令制国家が保有した軍事力は、唐・新羅との野戦を想定して構築されたものであった。機動力のある蝦

夷との戦闘には不向きであったため、劣勢に立たされることが多かった。そのため、蝦夷の戦闘力は高いと

いう認識が生まれた。『続日本後紀』承和 4 年 2 月辛丑条に「况復弓馬戦闘、夷獠之生習。平民之十不

レ能

レ敵

二其一

一。」、『続日本紀』天応元年 6 月戊子条に「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代等賊中之首、一以当

レ千。」と

記されている。しかし、蝦夷は継戦能力に限界があったという欠点があり、複数の集団が連合することで強

化を意識していた。一方、律令制国家は広範囲からの動員が可能であり、蝦夷に比べると継戦能力に優れて

いた。そのため、個々の戦闘で劣勢に立たされても、物量で押し切ることが可能であった。

古代ローマの軍隊は、王政期には東地中海の伝統的なファランクス【資料7】が採用されていた。ファラ

ンクスは重装歩兵による密集陣形であり、正面に対する衝撃力に優れていたことが特徴である。しかし、正

面以外からの攻撃には脆いだけではなく、機動力が極めて低いという弱点があった。帝政期のローマは、機

動力の高いガリア人などとの戦闘で苦戦することになったため、機動力を高めた軍団(レギオ)が創出され、

柔軟な戦術を持つ軍隊へと姿を変えることになった。この構図は律令制国家と蝦夷の戦闘に共通しており、

律令制国家は機動力を活かした新たな戦術を生み出す条件はあった。しかし、律令制国家は物量で蝦夷を押

し切ったため、軍事面の大きな革新はもたらされることはなかったのである。

律令制国家は西方にも軍事問題を抱えており、新羅に備えることも求められていた。西海道を中心とする

地域では軍事力が重視されたが、防衛体制を構築して警戒行動に終始したことが特徴である。そのため、新

羅に対する軍事問題においても、軍事面での発達は限定的であったといえる。すなわち、律令制下には白村

江敗戦に匹敵する軍事問題はなく、国家の存亡が懸念されることはなかったのである。

【参考文献】

今泉隆雄・藤沢敦「東北」(『古代史の舞台』、列島の古代史 1、岩波書店、2006年)

伊藤博幸「東北の動乱」(青木和夫・岡田茂弘編『多賀城と古代東北』、吉川弘文館、2006年)

熊谷公男『古代の蝦夷と城柵』(吉川弘文館、2004年)

熊田亮介『蝦夷の地と古代国家』(日本史リブレット 11、山川出版社、2004年)

サイモン・アングリム他『戦闘技術の歴史 古代編』(創元社、2008年)

下向井龍彦「日本律令軍制の基本構造」(『史学研究』175、1987年)

下向井龍彦「律令軍制と国衙軍制」(松木武彦・宇田川武久編『戦いのシステムと対外戦略』、東洋書林、1999年)

進藤秋輝編『東北の古代遺跡 城柵・官衙と寺院』(高志書院、2010年)

鈴木拓也「古代陸奥国の軍制」(『古代東北の支配構造』、吉川弘文館、1998年)

鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』(戦争の日本史 3、吉川弘文館、1998年)

野村達朗『大陸国家アメリカの展開』(世界史リブレット 32、山川出版社、1996年)

拙 稿「元慶の乱における動員兵力に関する考察」(『古代学研究所紀要』16、2012年)

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【資料1】古代東北関係図

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【資料2】律令制国家の北方進出

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【資料3】アメリカ合衆国の領土拡大

【資料4】軍団の構成 【資料5】征討軍の編成

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【資料7】ファランクス(マケドニア式)

【資料6】多賀城の構造

【資料1】平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年、45頁

【資料2】飯村均『律令制国家の対蝦夷政策・相馬の製鉄遺跡群』新泉社、2005年、13頁(一部加筆)

【資料3】野村達朗『大陸国家アメリカの展開』山川出版社、1996年、7頁

【資料4】下向井龍彦「律令軍制と国衙軍制」『戦いのシステムと対外戦略』東洋書林、1999年、83頁

【資料5】下向井龍彦「律令軍制と国衙軍制」『戦いのシステムと対外戦略』東洋書林、1999年、85頁

【資料6】進藤秋輝『古代東北の拠点・多賀城』新泉社、2010年、35頁

【資料7】サイモン・アングリム他『戦闘技術の歴史 古代編』創元社、2008年、29頁