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Meiji University Title � -�- Author(s) �,Citation �, 14: 111-138 URL http://hdl.handle.net/10291/18403 Rights Issue Date 2014-03-31 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title関東大震災後の福田徳三の生存権論 -社会局,帝国経

済会議との関係を中心に-

Author(s) 清野,幾久子

Citation 明治大学法科大学院論集, 14: 111-138

URL http://hdl.handle.net/10291/18403

Rights

Issue Date 2014-03-31

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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〔論説〕

関東大震災後の福田徳三の生存権論

一一社会局,帝国経済会議との関係を中心に一一

Das Recht auf Leben von Professor Tokuzou FUKUDA

nach dem groβartigen Kan to但rdbeben:

Uber seine Theorie der Bezieh ung mi t dem Regierungs buro

fur Sozialproblemen und der Reichswirtschaftsversammlung vor Zweitem Weltkrieg in ]apan

清野幾久子

目次

一序東日本大震災と福田徳三の生存権・「人聞の復興」

二福田徳三についての研究史と残された課題

l 研究史

2 福田の第三期の生存権論について

3 本稿での課題

三社会局と福田徳三

1 社会局成立と社会政策学会

2 ["社会局の人々 」と福田

(1) 安井英二と福田

(2) 南原繁と福田

3 I社会事業Jと社会政策

四帝国経済会議と福田徳三

l 帝国経済会議の設立

2 帝国経済会議の人選と「勝国家文書」

3 人選における繁明会・「二十三日会」の影響

4 ["福田・末弘・賀JIIJトリオの成立と借地借家臨時処理法要綱案

五小結福田徳三と末弘厳太郎

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法科大学院論集第 14号

一序東日本大震災と福田徳三の生存権・「人聞の復興」

2011 (平成 23)年 3月 11日の東日本大震災は,それに引き続く原発事故と

ともに,日本社会に文字通り激震をもたらし,われわれに今日まで続く多くの

課題を与えたが,その中の大きな争点は, I復興のあり方」であったω。

ここで取り上げる福田徳三博士 (1874(明治的-1930(昭和 5)年。以下,

敬称を略す〉は,東京高商教授(同校は 1923年以降学制改革により一橋大学

となる。一時期慶態義塾大学教授も務めた)であり,当代ーのイデオローグと

評された経済学者,社会政策学者であったが,今からおよそ 90年前の 1923

(大正 12)年 9月 l日に関東大鑑災が直撃した被災地東京において,その地震・

火災の被害や失業などの社会問題について,直ちに学生ぞ組織して詳細な社会

調査を行い,そこで得られた実態把握を基に,被災民の立場にたった,生存権

に基礎をおく復興経済のあり方を, I人聞の復興」というスローガンとともに

世に問うたヘ

筆者は, 1984年以来福田徳三の生存権論を研究してきたものであるがベ

(1) 東日本大震災の復興問題については,多くの論考があるが,例えば, I特集・大

規模災害と市民生活の復興一一東日本大震災の経験と今後の課題」法律時報 84-6

(2012.6) 4-53頁を参照。

(2 ) 福田はこの調査につき,雑誌『太陽』などに速やかに公表し (r太陽j)1923. 11. 1

号,同年 12.1号),広く社会に問題提起した。福田の調査は東京市の委託によるも

のであり,同年9月から 11月にかけ計3回行われた。福田の震災後の論文は多岐・

多数にわたり,当時最先端の媒体であった雑誌を舞台にタイムリーに発表されてい

き,そこで「論争」もおとっていった。これらの論考は, r復興経済の課題j)r続・復興経済の課題』として, r福田徳三経済学全集j)6・下に所収されている。以下,

福田の全集からの引用においては, I全集巻数(1::・下)頁数Jで示す。なお,福

岡の論稿引用に際しては,旧字は新字に,旧仮名遣いは,現代仮名遣いに改めたが,

原文のニュアンスを伝えるため,一部旧字でそのまま表記した筒所もある。

(3 ) 筆者の福田徳三研究を年代順にあげると,以下の①~⑥となる(以下,必用に応

じて,拙稿①,②…とする)。①清野幾久子「福田徳三における『生存権論』の受

容とその展開」明治大学大学院紀要 21(1984),清野幾久子「福田徳三の『国体』・

『国本』論」札幌法学 2-2(1991),③清野幾久子「福田徳三における国家論として

の国体論一一生存権と非侵略の国家構想」法律時報 68-11(1996),④清野幾久子

ηノ“

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

福田徳三の生存権論研究につき,資本主義の発達や社会経済の動向等と関連さ

せながら,第 l期 0901(明治 34)年一1917(大正 6)年,第 2期 0918(大

正 7)年一1922(大正 11)年),第 3期 0923(大正 12)年一1930(昭和 5)年)

と時期区分を設けて研究してきたω。筆者の時期区分では,第 l期と第 2期を

分ける指標は米騒動であり,第2期と第 3期を分ける指標は関東大震災である。

二福田徳三についての研究史と残された課題

1 研究史

筆者は,福田の生存権の思想、や戦前日本の思想史におけるその位置づけにつ

いては,福田が第 2次世界大戦の開始前の 1930年に病死してしまったこと,

そして法律学者ではなかったことなども影響しでか,日本法思想史の分野や憲

法学界において,長らくその真価が認められてこなかったとの感を持ち続けて

きた。

もちろん,福田は生前に前述した 6巻からなる全集を出版しており,戦後に

ついては,福田の高弟にあたる経済学,社会政策学関係の諸先生方によって,

1960年の追悼録の発行ベ 1979年の福田の論考の復刻の出版ベ 1980年の

『福田徳三 厚生経済』の出版(7)などにより,福田徳三を知る貴重な機会が聞

かれ研究も進んだ∞が,こと法学分野や憲法学に限っていえば,福田に対す

「福田徳三の生存権論と「社会王制論J一一大正期における L.v.シュタイン『受容』

問題」法律論叢69-3/4/5(1997),⑤清野幾久子「福祉国家論と生存権論 日本

とドイツ」杉原泰雄・清水陸編『憲法の歴史と比較」日本評論社 (1998),⑥清野

幾久子 11920年代の臼本・オーストリーにおけるくらしと憲法 福田徳三とL.

v. SteinJ吉田正彦・井戸田総一郎編 n920年代の日常とあそびの世界j(明治大

学文学部, 2005)。(4) 註(3)の拙稿①88頁。以下,拙稿のきl用においては, 1-拙術番号頁数」で示す。

(5 ) 福田徳三博士追悼会編『追悼・福田徳三博士の想い出J(福田徳三先生記念会,

1960年)。

(日) ~生存権の社会政策J (講談社学術文庫, 1979年)。

(7) ~福田徳三厚生経済J (講談社学術文庫, 1980年)。

(8) さしあたり, 1980-2010年までの福田徳三についての研究論文につき,金沢幾子

「福田徳三書誌J(目本評論社, 2011年〕中の 14書かれた文献」を参照。

。。

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法科大学院論集第 14号

る正当な評価は,未だ十分なものとはL、えない状況が続いている。

一方, 2004年には,金沢幾子による,詳細かっ正確な福田の書誌研究・年

譜作成の成果が公表されベ同年に,一橋論叢で福田徳三研究が特集されるな

ど(0) 福田徳三評価の機運は高まっていたところ,この度の 3.11東日本大震

災をきっかけに,生存権が問い直され, r人聞の復興」を唱えた福田徳三の再

評価が行われている状況といえよう {ω。今日になってやっと,福田徳三は,

戦前日本における生存権を主張する生存権学者,社会思想家として社会的に認

知され,正当に評価される基礎が整ったといえよう。

ところで, 1984年の拙稿①では,この時期の福田が,関東大震災の起こる

1923 (大正 12)年 1月に社会局参与に任じられ(ベ震災の翌年には,戦前の

最大の政策審議会の一つでもある「帝国経済会議J同の議員に就任し,生存権

の具体化ともいうべき,第二次世界大戦前では数少ない薫要な社会的立法の一

つである,借地借家臨時処理法の立法化のための準備作業に参画したこと,あ

るいは,中央職業紹介委員会の特別委員として職業紹介悶営要綱を策定してい

ることを指摘していたが(拙稿①92-93頁参照),これらにつき,資料に基づ

いてさらに詳しく研究することはその後行っておらず,筆者にとって長い間課

題として残されていたM 。

(9) 金沢幾子「福田徳三年譜J一橋論叢 132-4(2004年)87頁以下。

(10) 一橋論叢 132-4(2004年)r特集福田徳三とその時代」。

(ll) 東日本大震災をきっかけとした福田徳三再評価の動きのーっとして, 2012年7月31日に NHK・ETVが,シリーズ『日本人は何を考えてきたのか』第9回(大

正期)で「河上肇と福田徳三」を取り上げ放映したことは,生存権に基づく,震災

後の「人間の復興」を主張する福田徳三の存在を,広く一般に周知させるのに役だ

つものとして,特筆iこ値するであろう。

(12) 拙稿①92頁。註(9)222頁。

(13) 帝国経済会議はじめ,我が国戦前の審議会, とりわけ 1920年代のこれら審議会

の政策決定過程において果たした役割につき,利谷信義・本間重紀「天皇制国家機

構・法体制の再編一一 1910~20 年代における一断面」原秀三郎・他編『大系日本

国家史.JJ(東京大学出版会, 1975年)5巻 153頁以下参照。(14) この課題につき,再び取り組むきっかけとなったものとして,註(11)の NHK'

ETV特集,とりわけそこにおける内橋克人の福田評価に感謝したい。また,同氏

と筆者との福田徳三についての対談として,内橋克人・清野幾久子「福田徳三に学

ぶJ~世界Jl 842号 (2013年4月号)174頁以下参照。

dA官

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

筆者の理解によれば,福田徳三の生存権輸は,関東大震災という「現実」に

直面し,あらたな「転回」を見せる(拙稿①93頁参照)。この「転回」と,社

会局や「帝国経済会議」での仕事は,どう関係するのであろうか。当時の社会

局には一定の開明性があったとされるが,この社会局の中での福田の位置づけ

や役割については, I参与」という制度からくる研究の困難さもあり,福田徳

三研究の空白スポットとも言うべきところである。また,福田が「帝国経済会

議Jの議員に就任したことについては,上述した 2004年時点での金沢幾子の

詳細な「福田徳三年譜」ですら触れられていなかったところである。

そこで,本稿では,福田徳三研究では 従来あまり取り上げられていなかっ

た,関東大震災前後の福田に再度焦点をあて,福田の生存権論研究の一環とし

て,その「転回」の条件,すなわち,関東大震災をきっかけとして,福田にど

のような場が与えられ,どのような人的関係の下でその生存権論が転回しえた

のかということを,現存する資料や関係論文等から探り,旧稿での不足をいさ

さかで・も補いたく思う。

このように,本稿では,第三期に福田の生存権論がどのように「転回Jした

のか, I転回」の前提条件ともいうべきことを研究対象とする。福田の生存権

論の「転回」をもたらした当時の経済社会状況や「転回」した福田の生存権論

の概要についての筆者の考えは,今日でも 1984年の拙稿①の枠組み,内容と

変わりがないので,以下 r2Jでは,これらについての筆者の基本認識を示す

ため,拙稿①の第三期の叙述の関係部分につき,一部を抜粋しておく(一部表

記を変えてある〕。

2 福田の第三期の生存権論について

第一次世界大戦後の内外の情勢に規定され,激化した労働運動にコミンテル

ンの影響が及ぶのを恐れた政府は, 1922年(大正 11)年に内務省社会局(外

局)を設置し,労働政策として労働調和の社会政策を求めていった。

福田徳三は「労使協調を排す=闘争の社会政策」を主張していたのであるが,

第一期から一貫する「生産的社会政策論」的見地からこの参与に選ばれたもの

υ

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法科大学院論集第 14号

と思われる{日l0923年・大正 12)年。社会局は労働組合法・労働争議調停法・

治安警察法第 17条撤廃などの構想をもって労使協調路線の準備にあたったと

されている。第二期で述べたように,生存権に基づく各種の社会立法の促進を

主張する福田は,この期,積極的に社会法制定に尽力してL、く。とりわけ福田

が,理論的,実践的にかかわったのは, 1924年(大正 13)年の「職業紹介国

営要綱」の作成であり, 1924年(大正 13)年の「借地借家臨時処理法」制定

の準備作業においてであった側(以上,拙稿①92-93頁〕。

この期の福田の理論展開の特色は,現実に生起している諸問題をこの眼で見,

その解決のための理論を呈示することにあった。しかしながら,彼にこのよう

な方法論的転回の契機を与えたのは,恐慌のくり返しによる大衆の貧困化の現

状ではなく,直接的には 1923年(大正 12)年の関東大震災による人的・物的

被害のひどさであった。東京に住んでいた福田は,まさに震災の直撃をうけ,

建物崩壊と失業のただ中にいたのである。福田は,失業及火災保険問題に関す

る調査と対案を含む「復興経済の原理及若干問題J(!7)の序で,そのときの様子

ぞ次のように語っている。「街頭に出でて,自分の微弱なる心力と体力の及ぶ

|恨り,或は思索し,或は奔走し,或は勧説することを努めた……殆んど連日東

京市中を奔走しつつ,夜間疲れ切った足腰を撫しつつ辛ふじて文を綴ったJ<ω。

福田は,このような震災という,一種の「非常事態」においては, I生存権の一

種変態J<附たる『極窮権J<仰の発行を免れないとする。その「極窮権』とは, I人

が其生存を脅かさ、る、こと極度にして極窮(エキストリーム・ニード)の状態に

陥るとき,其生存を維持するに必要なる有形,無形のものを収用する経済権J<21l

(15) もっともこの時期の社会局は,一定程度の開明性を持っていたと思われる。社会

局設置は,政府による反体制的な運動の徹底的弾圧=1ムチJに対する「アメ」の性格を持っていたといえよう。

(16) 双方とも草案作成時,福田は委員長であり,委員の中には末広厳太郎がいた。(17) ~復興経済の原理及若干問題~ (1924 (大正 13)年〕全集6・下所収。(18) 1営生機会の復興を急げ」全集6・下所収, 13-14頁。(19 ) 向上, 1936頁。(20) 向上, 1934頁。(21) 向上, 1935頁。

au

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

であるとされる。そこで福田が「比較的インノセントな例」として出すのは,

震災に際していわゆる「緊急避難」に近いものであるが,注目すべきは「所有

権就中其濫用に対抗J制してでてくる『極窮権』の考え方である。

「ローマ法伝来の空法Jである「所有権本位の法律を無理にこじつけて居る

限り,時あってか極窮権の発行するのは到底免れることができなL、」聞のであ

り「所有権の主張が明らかに人間の生存を脅し,其の共同生活を害する場

合JC剖所有権の濫用に対抗して「極窮権』が発効し,その適例が「米騒動」

であったとする。ここに,今日我々がつかう「緊急的生存権Jr抵抗権」類似

の考えを見ることができる。しかし福田にあっては,この期の「生存権論」は,

いわばこの極窮権の発動を防ぐ,という視点からのものであった(制。そして,

第三期の福田の「生存権論」は,非常事態における生存権保のための「所有権

の濫用の制限Jとなってあらわれる。

震災による建物崩壊,失業による生活破壊を眼前にした福田にとって, r災後一ヶ月の今日まだ住むべきバラックなくかぶるべき袷一枚持たずJ26)に「食

ふに米なき数十万の憐れな人間」仰の生活擁護こそ「物の復興」より先んじる

べき問題なのであった。これを福田は「人間の復興」ニ大災によつて破壊せら

れた「生存の機会の復興」であるとする(叩2甜28)的)

「住むべきパラツク」なき人々の住宅問題'生業機会を失った多くの失業者の

存在に対して,何らの対策をも講じえない「解釈法学者たち」に郷を煮やした福

田は, r私法の一部のモラトリアム」である『生存権擁護令」が大日本帝国憲法

第8条の「緊急勅令」によって発せられるべきことを世に問うたのであった倒。

(22) 註(18)1936-1937頁。

(23) 向上. 1936頁。(24) 同上. 1937真。

(25) I経済復興は先づ半倒壊物の爆破から 『生存権擁護令』を発布し私法一部のモ

ラトリウムを即行せよJ(1924 (大正 13)年)全集ト下所収. 1903頁参照。(26) 註(18)1939頁。(27) 向上. 1942頁。(28) 向上, 1944頁。(29) 註(25)1904-1905頁。

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法科大学院論集第 14号

このことは,法文の硬直した解釈に終始する当時の民法学の大勢に対する批

判であると同時に,国家の統治原理=勅令は,まさに,国民の生存擁護のた

めに発せられるべきであるとする考え一一国家に対する国民の生存の優先

性(闘 を表わすものであるといえる(以上,拙稿①93頁)。

彼のこのような「緊急勅令」としての『生存権擁護令』はもちろん発せられ

あことはなかったのであるが,彼の「生活本拠権JI居住権j<Sllを基礎とする

思想、は,土地家屋賃貸借契約の修正としての「借地借家法臨時処理法」成立に

さいして, I帝国経済会議総会」の可決をへて,現実の立法へと結びついてい

く{担}。

また,失業問題(却については, 1924年中央職業紹介委員会(委員長・福田)

に於て「職業紹介間営要綱」が可決され,福田の意凶の一部は, 1921年制定

の職業紹介所法の改正として取り入れられることになる(以上,拙稿①94頁)。

3 本稿での課題

以上のように,第3期の補間徳三の生存権論の理論的「転問Jおよびその特

慣を把握すると,筆者にとって,とりわけ興味深く感じられることは,開明的

な社会局や「帝国経済会議」という,当時の政策形成部門の最前線に,直接・

間接の影響を及ぼしうる立場におかれたこの時期の福田徳三が,いかなるスタ

ンスをもち,いかなる人間関係の下で,政策形成,とりわけ法形成の準備作業

に携わり,そこでL、かなる役割を演じ,それが福田の生存権論の「転回」とい

かに関わるのかということである。

この疑問の解明に向け,具体的には,以下のことが課題として残される。

すなわち,社会政策学会左派(社会政策的自由主義)と目され,大正期には

古野作造らとともに繁明会を組織し,自由や時事問題についての鋭い発言や,

(30) 註(25)1903-1904頁。(31) 向上, 1905頁参照。(32) 向上, 1905頁参照。(33) 福田の失業問題対する基本的な考え方は, F厚生経済.J(1930年)に表わされて

いる。

-118一

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

「デモクラシーJ,生存権などについて精力的な言論活動を行っていた橋田が,

(1)なぜ,社会局の参与に任ぜられたのかという,福田と社会局との関係, (2)1帝

国経済会議」という,時の政府の経済審議機関に入ったいきさつ, (3)同会議社

会部会における福田の位置と果たした役割,とりわけ, I借地借家臨時処理法J

要綱案をまとめた経緯とその内容, (4)同じく,中央職業紹介委員会委員として

の福田,とりわけ福田がまとめた「職業紹介事業改善案」の作成の経緯とその

内容, (5)これらの福田の社会法(の立法化・政策立案化)に向けての補動と,

福田の第三期最後の生存権論のさらなる展開との関係という諸論点である。

本稿では,これらの課題のうち, (1)(2)について扱いたい。

以下の検討に際して,文献や資料に裏付けられた論述が必要であるが,今日

残された文献資料は質・量に限りがあり,また,憲法学が専門の筆者にとって

は,経済学,社会政策学,歴史学にまたがる文献・資料・史料の収集における

知識不足や,読み込みの不十分さがあることを重々承知している。これらの点

への危慎を予めお伝えするとともに,とりわけ史料につき諸姉諸兄のご意見,

ご指摘を待ちたい。

三社会局と福田徳三

l 社会眉成立と社会政策学会

社会局設置にいたる過穂においては,殖産産業の観点から工場法などの労働

者保護立法を制定していた農務省と,治安維持の観点から労働者の運動を取り

締まる役割を果たしていた内務省との管轄をめぐる政治的綱引きがあったが,

内外の状況からして,労働者弾圧だけでは第一次大戦後における新たな状況に

対応できないことは明らかであった。結果,労資協調路線を目ざす時代の潮流

にも押され, 1921 (大正 10)年4月に,内務省外局として社会局が設置された〈叫。

1920年代の,いわゆる日本における資本主識の危機の時代は,それ対応す

(34) 社会局の膝史につき,厚生省社会局編『社会局30年J(1950年)24頁。

-119ー

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法科大学院論集第 14号

るため,官僚とブルジョアジーとの結合による課題打破の試みがおこなわれた

が,この社会局には, 1進歩的官僚」層が結集し, 1新しい労働政策の主導者と

して,前の時期からの構想をつきつぎと具体化していづた。」仰といわれる。

福田徳三が, 1923 (大正 12)年 1月に社会局参与に任ぜられたのは,このよ

うな時期であった。

旧稿(拙稿①〉では,外局としての社会局成立と福田との関係につき, 1第 l

期から一貫する福田の生産的社会政策論的見地から,この参与に選ばれたと思

われる」としていた。しかし,残念ながら,福田がなぜ参与に選ばれたのかに

ついて,直接示すような資料は管見の限りではない。

このことにつき,本稿では,明治 30年に成立した, ドイツ社会政策学会を

範とした,第 I期の福田がそこで活躍した社会政策学会が扱っていたテーマと,

救貧行政や労働行政などを対象としていた当時の社会局の政策課題が一致して

いることをヒントとしてあげたい。

この点につき, 1社会局の社会政策立業に際して大きな影響を及ぼしていた

のが,救済事業調査会及びその後継者としての社会事業調査会であったJとの

貴重な指摘がある制。その論者によると, 1この調査会の主要なメンバーが,

明治から大正にかけて,当時の主だった経済学者を網羅した社会政策学会のメ

ンバーであった」とされ, 1従って,内務省の社会局の成立過程や,それが展

開する社会政策を考えていく上で,我が園の社会政策学会の活動は見落として

はならないものであろう」としている{3%

この考えによれば, ドイ、ソ留学から帰朝し, 1910 (明治 43)年に楓爽と社

会政策学会にデビューし,社会政策学会の中でも左派に近い,と目された福田

徳三と社会局は,むしろ切ってもきれない関係にあるといえよう。

この脈絡で言えば, 1921 (大正 10)年の社会局の設立に先立って, 1918

(35) 矢野達雄「大正期労働立法のー断面一一労働争議調停法の成立過程」法制史学会

年報『法制史研究J27 0977年)107頁。(36) 財団法人日本住宅総合センター『戦前の住宅政策の変遷に関する調査E一一内務

省社会局の住宅政策J(1981年)3頁(執筆とりまとめ・大村謙二郎)。(37) 向上,同頁。

-120一一

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

(大正 7)年 6月に,内務省内に救済事業調査会が設けられていることが特筆

される。これは,社会問題に関する調査会であるが,社会政策学会の設立に関

わった,学会右派である桑田熊蔵などの名が上がっている倒。しかも,この委

員会は, 1919 (大正)年 3月に, ~資本と労働との調和に関する方法知何』と

の諮問に対し,つぎのような答申をおこなったことが知られている附(旧仮名

遣いは,現代仮名遣いに改めた)。

1,労働組合は之を自然の発達に委するを可とすること

1,治安警察法第 17条第 1項第 2号は之を削除すべきこと

この 2つのことは, 1印92泣2(大正 1日1)年に設置された社会局の労働政策の方

向性と一致する内容であり炉〔“帥4柑ベo

会政策学会右派の栗田が属する救済事業調査会ですら,このような主張をして

いることからすると,この時期の社会局の「労働組合の自由」への許容度はか

なり高いと言ってよいであろう。このような点から言うと,第 2期で,労資協

調路線に立ちながらも,自由な労使の関係にこそ価値をおき, I解放の社会政

策J(全集 5所収)を標携していた福田が, 1923年(大正 12)年に社会局参与

となる道筋に,不自然さはあまり感じられない。

救済事業調査会は, 1921 (大正 10)年 I月 13日に社会事業調査会と改称さ

れ,この社会事業調査会には,前身の救済事業委員会の委員であった社会政策

学者の桑田熊蔵と並んで,福田徳三も委員として所属している削

2 r社会局の人々」と福田

当時の社会局は, I開明的な進歩的新進学者が多かった」ともいわれ, I社会

(38) 註(36)52真。なお,この委員会には福田徳三の名は見つけられなかった。(39) 註(35)矢野, 107頁。

(40) 当時の社会局の労働政策につき,林博史「近代日本国家の労働者統合一一内務省社会局労働政策の研究J(青木書庖, 1986年)参照。

(41)註(36)55頁。

-121一

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法科大学院論集第 14号

局は赤L、」と周囲から警戒されているほどであり, rシドニ一ウエツブやビビ、べ

リツジ等の影響を受ける者も多くし,思想的にはイギリスの社会改良的穏健的社

会主義フエビ、アニズムに近い立場にあつた」とも指摘されている(凶4岨叫2幻)

当時は, ~講座 日本近代法発達史」の区分でいうと,川島武宜のいう法体

制再編期であり炉(凶岨叫官僚とブルジョワジーとが手を組み審議会政治を行って

いく時期であるが,福田の影響力を考える上で,この社会局およびそれを取り

巻く官僚の人々に, r学者Jとしての福田がどのように捉えられていたかを示

すものとして,優秀な内務官僚であり,当時の必須の課題であった労働組合立

法に関わった社会局の 2人を上げ,その著書等における福田への言及について

述べておきたい。

(1 )安井英ニと福悶

l人目は,社会局を形成していた「優秀な内務官僚」の l人である,安井英

二(1890-1982)である。

安井は, ドイツ留学を経験し, 1924 (大正 13)年に「労働運動の研究J刊

をすでに上梓していた。この書籍は類書がない中で,争議などについての統計

資料や外国の法律なども踏まえて著述された 410貰に及ぶ大著であり,安井の

優秀さを遺憾なく示している。

安井は,同書の「緒言」において,現代労働問題を, r資本家階級と労働者

階級との利害関係より生ずるJr階級問題」として認め, これを「社会に於い

て起こるあらゆる問題中最も重要な問題」とし, r社会そのものの向上に重要

なる影響を及ぼすもの」としている(同書 6頁〕。この点,労働運動を階級闘

争とし,社会の発展の基礎を見出す福田徳三の労働問題観と認識を共にしてい

るO また同書においては,戦前の類書には珍しく多くの註がつけられ,出典が

(42) 註(34)24頁。

(43) r講座 日本近代法発達史J(勤草書房. 1958-67年〕におけるJIl島の時期区分による。

(44) 安井英二『労働運動の研究J(日本大学, 1924年)。

122

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

明示されているが,そこでは要所要所で福田の論文が引用されている。ここで

引用箇所の例をあげておくと,同業罷免についての箇所(同書 129頁), レー

テや社会化についての箇所(同書305頁)に福田の論文の引用がある。また,

労働協約については,福田の論文につき,本文で言及しながら(同書 325頁)

多くの頁を割いている O

安井は,労働運動・労働政策として, 1労働協約」の重要性を重視している

のであるが, 日本では労働協約が未だ発達しておらず,裁判事例もなく,特別

な法規もない状態の中で,労働協約がいずれ必要となり,その法律的研究が必

要になるであろうとして, 1925 (大正 14)年に, 40叫4頁におよぷ大作作企『勢働協

約法論」をまとめあげた〈砧伺附4咽剖5幻)

そこで安井が念頭においたのlはま, 1我国に於ける問題として労働協約が現行

法上加何に解釈せられ取扱わるべきか,又,現行法が労働協約の社会的目的を

達成するに付き如何に不備であるか,而して此の欠陥を除去し,労働協約の社

会的目的を実現せしむる為には如何なる法律的条件又は法律的形式を立法上必

要とするか」ということであり,そのために労働協約の法律的研究を行うとし

ている(同書 2-3頁)。同書の中で「労働協約」の話には次のような(註)が

つけられている。

「労働協約なる邦請は福田博士の創設せられたものであって,今日一般に

用いられる様になった。時として,賃率契約,集合協約等の名称が用いら

れることがあるけれとも,労働協約なる語が最も適当であると思う(福田

博士経済学考証一六八頁一一七四頁参照)。…」

安井のこの本で,労働協約について他に引用されている圏内論文はない。引

用されている福田徳三の論文は. 1労働権・労働全収権及労働協約」である

(45) 安井英二「労,働協約法論j](清水書応 1925年)2頁。なお,福田徳三,安井英ニの労働協約論を含む戦前の労働協約論につき,清水一行「わが国に於ける平和義

務理論の歴史的展開[I]J山口経済学雑誌 15-1, 81-88頁も参照。

-123ー

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法科大学院論集第 14号

が(46) 福田の見識・論文が,社会局設立当時の優秀な官僚が参照しうる第一

の園内論文であったことがここに示されており,また,安井のこの大著の骨格

は,基本的に上記福田論文の枠組みを踏襲していることからすると,安井にお

ける「学者Jとしての福田への信頼は非常に厚かったと思われる。

(2) 南原繁と福田

2人目は,当時の内務官僚であり,戦後には東大総長にもなる南原繁の,戦

後の時点で,戦前の内務省時代を回顧した文章側(以下, r同文章」とする)

における福田への言及である。

南原は, 1919 (大正 8)年1月に,赴任地であった窟山県の郡役所から内務

省審保局に呼び戻され, r労働組合運動のほんとうのはじめで,正式の組合も

ほとんどなかったJ(同文章 28頁)時期に,内務大臣床次竹二郎の下で,労働

組合立法案作成に従事した。

南原は,同文章で,当時の内務省が労働組合法案作成に積極的に乗り出した

中で同法案ぞ作成したことを部べた上で,同法案に対する世間の反響は「非常

によかった」とし,その例として, rちょうど神戸から出て,労働運動に乗り出

した」賀川豊彦が賛成の意を示したこと,山川均が「大体において賛成でした」

と述べるとともに,以下のように学者からの反響を述べている(同文章 29頁〉。

「学者のグループでは,大内兵衛君,それから森戸辰男君,櫛田民蔵君,

更に先生としては福田徳三博士,こう Lサ経済学者の人たちが 10人ばか

り学士会館に集まりまして,私を招き説明を求められ,大いに鞭捷をされ

たこともありました。J

(46) 福田徳三「労働権・労働全収権及労働協約」全集5・下2055-2084頁所収。なお,

福田においては,アントン・メンガーの「労働権・労働金収権・生存権Jのうち,生存権の部分に変えて, 1"労働協約」を労働問題解決の糸口として位置づけている

ところに特徴があると恩われる(拙稿①86-87貰参照)。(47) 南原繁(談)1"内務省労働組合法案のことなど」労働省「労働行政史・余録」

(1961年)27-30頁。

-124ー

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

ここに,労働組合法案について,福田徳三が興味関心をーにし,行動をとも

にしていた学者グループの人々と,そのグループ内における福岡の位置つn:tが

見て取れることが興味深いが,南原も,福田を学者グループの中で「先生」と

位置づけていることが見て取れる。

3 r社会事業Jと社会政策

ここで,当時の社会局が解決の途を模索した,いわゆる「社会問題」に対処

する「社会事業」とは,いかなる内容を含むものであるかにつき述べておきたし、。

1918 (大正 7)年 6月に勅令で設立された「救済事業調査会」は,内務大臣

の監督の下,付託された救済事業に関する事項を調査・審議し,意見を答申す

る政府機関であった。この「救済事業調査会」は,その調査すべき事項として,

救済 8事業 3訂7間題を決定しているが(4岨ペ8

労働保護事業や住宅改良などの生活状態改善事業などの'社会政策の領域であ

る「防貧」と,社会事業の取扱うべき「救貧」が未分化のまま「混在」してい

た(4九

私見によれば,この「混在」は, 1921 (大正 10)年 l月に改組設立された,

福田が属した「社会事業調査会」においても引き継がれ,さらに内務省外局と

しての社会局の行政組織においても, I一部J(労働行政), I二部J(社会事業

行政)として,名称を変えながらも存続した。

このような,本来の社会事業に社会政策の課題を「混在」させる法制度,行

政組織のもとでは,一方で,福田が社会事業調査会委員として取組んだ職業紹

介法案 0921(大正 10)年答申)および住宅組合法案(1921(大正 10)年答

申)などの,主に社会政策の領域(防貧施策〉に属することがらも, I社会事

業」の中に含まれることになり,この後に福田が帝国経済会議で取組む,借地

借家臨時処理法要綱案も,住宅問題という意味では社会事業の延長に位置づけ

(48) これらの具体的内容として,木村武夫『日本近代社会事業史J(ミネルヴァ書房,

1964年)85-86頁参照。

(49) 同上, 86頁。

-125-

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法科大学院論集第 14号

られるということになるのである。

四 帝国経済会議と福田徳三

1 帝国続済会議の設立

第l次大戦後の 1920年代初頭という時期は,日本経済が国際的にもその地

位を向上させ,経済発展をみせた時期であるが,他面「不均衡成長」といわれ

るように,急激な経済拡大と戦後の収数によって引き起こされた諸矛盾が蓄積

され,それが爆発する危機を有していた。

この日本経済と社会の危機に際し,臨時間民経済調査会,臨時財政経済調査

会,臨時産業調査会が組織され,その後,この 3調査会の審議事項とそこでの

方向性をうけ継ぎ,小作制度調査会・社会事業調査会をも内容的に統合して,

1924 (大正 13)年 5月に設立されたのが,帝国経済会議である。同会議は,

1924 (大正 13)年 1月 7日から 6月 7日と短命に終わった,超然内閣,官僚

内関ともいわれた清浦釜吾内閣の下に成立した。

それ以前の審議会が,往々にしてフwルジョアジーの代表者のみで構成されて

いたのに比して,この帝国経済会議は,資料集を編纂した山本義彦によれば,

「その構成員が多角的分野の代表者からなる大型審議会としての特徴をもつの

みならず, 1920年代後半に向けての国家戦略を構想しようとしたところでも

極めて重要な位置を有している」但的とされる。帝国経済会議は,総理ぞ議長,

農商務大臣,大蔵大臣を副議長とし,関係官,幹事という名称で局長級の官僚

が参加する会議で,構成員は「議員」といわれ,この時期すでに形成・整備途

上にあった官僚層の影響の下での,危機対応の一つの試みであるといえよう。

その証拠に,同会議の守備範囲は広く,当時の国政課題全般の検討を行おう

とするかのようであった。具体的には,金融・貿易・農業・工業・社会・拓殖・

交通の 7部会がおかれ,合計 12項目が諮鞠され,その人数は,総計 140名に

(50) 山本義彦「大戦後日本の経済政策構想」同編「第一次大戦後 経済・社会政策資料集Jl(柏書房. 1987年)第 l巻 4頁。

126

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

及ぶものであった(6九

同会議では,各部によってその審議への取組みの熱心さや進行度合いも違っ

ていたようであるが,福田徳三が属した社会部会においては,福田を委員長代

理とする特別部会を設けて,諮諦された「住宅問題Jに関し活発な議論が展開

され, 1924 (大正 13)年成立の借地借家臨時処理法案に関わる要綱案を策定

した。

2 帝国経済会議の人選と「勝国家文書」

ところで, この帝国経済会議の社会部会に,末弘厳太郎 (1888-1951)とと

もに,福田徳三(1874-1930),賀川豊彦(1888-1960)が入っていることが目

を引く。

このような帝国緑済会議の議員の人選はいかに行われたのであろうか。これ

に関しては, 1"極秘」の印が押された,この会議の設立を推進したといわれる,

当時の大蔵大臣勝田主計の手になる手書きメモ 4通が, r帝国経済会議議員人

選参考資料Jとして「勝田家文書Jの中に残されており,今日,整理された形

で公刊されている (52)。本稿では,これら 4通につき, 1"人選参考資料」とした

上で,同書で時系列的に整理されている順序に従い,これに便宜的に①から④

の番号をふる。①は上記「勝国家文書」の 358-360頁に,③は問書360-361頁,

③は同書 362-363頁,④は同書 363-364頁掲載の史料を指す。

福田らの人選についての当時の事情も,この「人選参考資料J①から④の追

加・削除を追うことによって,その経過を見ることができる。

「人選参考資料」①の時点(議員の総人数 121名)では, 1"六社会部」に早

くも「東京帝大法学部教授J(民法 労働・・(筆者説・・・は判読不明))の

肩書きをつけて末弘厳太郎が入っていることが目を引くが,福田,賀川の名は

(51) 註(50)7頁。なお,同頁によれば,同会議は.r官制は4月2日公布,同年 11月

25日廃止であるが, 6月 11日を最後に,加藤高明護憲三派内閣の下では機能停止状態になっている」とされる。

(52) r勝目家文書」山本義彦編'~第一次大戦後 経済・社会政策資料集.1(柏書房,

1987年)第 1巻 358-364貰。

-127ー

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法科大学院論集第 14号

ない。また, r社会部」の下には,括弧書きで, (社=社会事業調査会委員

労=労働保険調査会委員 職=中央職業紹介委員会委員〉の記載があり,ぼぼ

全てのメンバーに, (社)(労)(中)l、ずれかの記号がつけられている。末弘には

(職)の記載がある刷。

「人選参考資料」②(議員の総人数 142名)は,主に「実業家J,r其の他」

(学者等,貴族院,衆議院〕の人選について,その人数構成を含めて検討して

いる資料であるが,本稿では雷及を控える。

「人選参考資料J@ (議員の総人数 99名)には,冒頭に「大正十三年三月十

九日印刷」と記載されている。日付を入れて「印刷」としていること,また加

除の箇所の多さからして,人選について複数人で検討したことが伺われる。具

体的な加除の内容を見ると, r人選参考資料」①,@では出てこない人物が記

載されており,相当な検討の跡が見てとれる。具体的には,この段階で初めて,

(筆跡からして勝田の手になるであろう)筆で, r五社会部」の議員の末尾に,

関ーなどと共に,福田徳三や賀川豊彦らの名前が追加的に書き込まれている。

末弘厳太郎については,もともと, r東大教授(民法)Jの肩書きをつけて記載

されている([図版1]参照)(叫。

(53) 註(52)359頁。

(54) [図版1]

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出典:1勝国家文書」山本義彦編『第一次大戦後経済・社会政策資料集』

(柏書房, 1987年)第 l巻 363頁。

-128一

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

「人選参考資料」④(議員の総人数 73名)には, I帝国経済会議議員人選参

「学者」この案では,全議員 73名中,考資料(第二)jと記載されているが,

そこにおいて末弘の名前はなく,福田徳三の名が 10名の構成となっており,

(筆跡からして勝前が「商科大学教授」の肩書きをつけて一度記載されるも,

また,賀川豊彦の名前もない田の手になるであろう)筆で削除されており,

([図版2J参照)(時〕。

そして,最終的な議員名簿である, I~帝国経済会議職員氏名表J (大正 13年

6月1日現在)j(議員の総人数 140名)においては,再び末弘厳太郎,福田徳

三,賀川豊彦の名が復活している制。

同会議は,官僚が入っている点でも従来の審議会とは異なっているが,以上

いわゆる「学

者枠j,Iその他枠Jにおいて,人選のバランスに苦心し,最終的な議員名簿に

いたっている様子がありあり見てとれる。そして, I人選参考資料」①から④

見てきた「人選参考資料」①から④の推移と最終名簿を見ると,

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[図版 2J(55)

経済・社会政策資料集」

(56) rT帝国経済会議職員氏名表~ (大正 13年 6月l日現在)J山本義彦編『第一次大

戦後経済・社会政策資料集J(柏書房, 1987年〉第 I巻 367頁。

-129

出典 :1勝田家文書J山本義彦編『第一次大戦後

(柏書房, 1987年)第 1巻 364頁。

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法科大学院論集第 14号

の中で,最終的な社会部の議員構成に影響を及ぼしたのは,補回,賀川が追加

的に記載された, r人選参考資料」⑤における議論ではないかと思われる。

8 人選における袈明会・「二十三日会」の影響

「人選参考資料」③によってだけでは,福田・末弘・賀川を含む人選が,い

つ,どこで,どのような人々によって検討されたのか,ということを知ること

はできないが,室長者は,以下のような文献の記述から,この選出された 3人に

は, rつながり」があると考えている。

まず,福田と末弘との「つながり」である。

大正期の橋田徳三は,吉野作造らと「翠明会を組織し,大正デモクラシー運

動を指導し」たが(拙稿①82頁参照),関東大震災以降は,震災後の復興をめ

ぐり,再び吉野らと「二十三日会Jをつくり,行動をともにしていた。

この「二十三日会」とは,関東大震災後の復興問題をきっかけとして結成さ

れた同志会であるが,次のように,様々な,思想やパックグラウンドもつ,多種

多様な人聞が集まる,緩やかな同志団体であったと説明されている刷。

rr新しき主義と何等の固定的特権に囚われざる新人の改造案,新日本建

設案奇研究し発表する機闘を作り,以て此の大困難に際し,社会の人心,

当局の措置を指導鞭接する趣旨」で 1923年 9月23日に結成されたもので

あって,主催者は改造社社長の山本実彦が就き,鹿長は堀江帰ーが務め,

参加者は,鈴木文治,山川均,大山郁夫,大川周明をはじめ,言論界では,

馬場恒吾,長谷川如是閑,石橋湛山,三宅雪嶺ら,学識者としては吉野作

法,末弘厳太郎,穂積貫通,安部磯雄らが名を連ね,さらには官界及び永

井柳太郎,中野正剛,鳩山一郎等の政治家と,多様な構成であった。」

(57) 黒川徳男「関東大震災後の賀川豊彦・吉野作造・末弘厳太郎J~雲の柱」第 15 号

(1998. 7) 13-15 頁。倉橋克人 r~大正デモクラシー」と賀川豊彦」宮坂キリスト教センター編『大正デモクラシー・天皇制・キリスト教~ (近現代天皇制を考えるの(新教出版社, 2001年)283頁(註6)も参照。

-130一

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

ところで,吉野作造は,メモ魔であり,いつ,どこで,だれに会ったかにつ

いて,詳細な「日記」をつけていたことでも知られている刷。以下, この時

期の日記を「吉野日記 2Jとする。「吉野日記 2Jの. 1923 C大正) 12年の

「九月二十一日金曜Jの記述において,関東大震災の混乱に乗じて 9月 16日に

起こった,当時東京では報道が禁じられていた大杉栄夫妻虐殺事件について,

「僕の聞く所左の加し」として.r下手人は甘糟大尉」としつつ,危機感もあら

わに.r騒ぎを幸いに不正を働く Jr厳戒司令部」の仕業かといふ」と記述して

いる Ci吉野日記 2J325頁〉。

そして,この大杉事件に関連して. 1923 C大正)12年の「十月二日火曜」

の日記において,以下のことが記されている Ci吉野日記 2J327頁)。

(筆者説・前日の)i一日(月) …帝国ホテルの二十三日会に臨む改

造社の肝煎也福田,渡辺(鉄).末弘,中野,堀江,下村等の諸氏来会,

大杉事件につき三カ条の建議をする旨を決議して七時過散ず 之より毎月

曜日午後五時から会合すとなりJ

さらに. i10月 20日土曜」の日記においては. C筆者註・堀江博士とともに)

「此前のこ十三日会の決議を斎して総理大臣内務大臣司法大目を歴訪す 皆不

在夫々相当の代人に存意を述べて引取るJcr吉野日記2J330頁〉。

これらの記述からすると,福田と末弘は,知り合った時期や経緯等は不明な

がら,少なくとも 1920年代初頭に結成されている「二十三日会」という,緩

やかな「同志団体」において一緒に活動する仲であり, しかも,両者は,同会

において,関東大震災後の大杉事件のような,思想やこの閣の行く末に関わる

ような重要な政治的事件に際して,集まって今後の対策(政府への「建議J)

(58) この時期の日記については,吉野作造「日記二[大正4-14U(吉野作造選集 14)

(岩波書庖. 1996年)に所収されている。なお,本文で取り上げた「吉野日記2J327頁の部分の記述については,取り上げる脈絡は本稿とは異なるが,伊藤孝夫「大正デモクラシ一期の法と社会~ (京都大学学術出版会, 2000年)27頁において記載がある。

-131一

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法科大学院論集第 14号

について集まって方策を相談するような中心メンバーであり,様々な面で,志

を同じくして,共に行動するような関係にあったといえよう。

福田・末弘と賀川との関係はどうか。

キリスト者であり,牧師でもあった賀川豊彦は,神戸新川でスラム研究に取

組んだ体験に基づいた『貧民心理の研究J0915 (大正 4)年)を当時すでに

著しており,住宅問題,貧困問題について,ニーズの解決を前提に置きながら

の調査を行ったことで署名であった (5九賀川は,いわば,実態調査を通じて

住宅問題,貧困問題に肉薄する専門家であるが,関東大民災後に震災支援のた

め上京し,本所基督教産業青年会を組織している。

賀川は,上京後の 1923(大正) 12年の 10月 22日から「二十三日会」に

「出席した様子」であり,それ以降,帝大学生救護団を指導していた「末弘や

吉野と接触し,協力関係を保つことにな」ったと指摘されている側。このこ

とをふまえると,賀川と末弘・吉野たちを結びつけたきっかけも,同じく「二

十三日会」であったようである。

賀川の組織した上記青年会は,震災後の不良住宅地区の実地調査を行い,こ

の実態調査は,東京市社会局,及び日本基督教連盟の委託事業であったとされ

る刷。同時期福田も,東京市の各部局の依頼により,数次の擢災調査を行っ

ており(拙稿①93頁など参照),また同じクリスチャン同士ということもあり,

相互に興味を抱いていたであろうことは推察されるが,経済会議以前の 2人の

直接的な具体的接触については,本稿では文献的には裏付けられなL、。

ところで, この賀川についても, i吉野日記 2Jの, 1923 (大正) 12年の

「十月二十八日 日曜」において,次のように短いが,大変興味深い記述があ

る Ci吉野日記 2J332頁)。

(59) 吉田久一『社会福祉と諸科学 1-一社会事業理論の歴史JI123…124頁。(60) 註(57)黒川,同頁。倉橋,同頁。

(61) 黒川徳男「昭和初期社会事業と賀川豊彦ー一医療組合運動を中心にJr園祭院雑

誌JI95-11 (1994年)33頁。

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

(筆者註・前日の)I二十七日(土) 朝日に原稿を書いて送ろうとして

いる所へ賀川末弘両君来る 一緒に内務省に運動にゆく 社会局にて因子,

三矢両君に遇う 夫より警視庁,市役所等を歴訪す」

この叙述によれば,賀川が 10月22日に「二十三日会」に出席して一週間も

経たない 10月27日に,吉野・末弘が賀川を連れて社会局に「運動」に行った

ということであるから,吉野・末弘が,知己である社会局の官僚に賀川を紹介

し,賀川について,何らかの「橋渡し」をしたことが看取できるのである。

ここで記載されている社会局の「因子J,I三矢」とは,当時の社会局の官僚

構成から考えることができょう。私見によれば, I岡子」とは,内務省内局時

代の社会局局長で,社会局が外局となった後は,社会局第二部長に就任した,

「草創期社会事業行政の中心人物であり,社会事業新官僚」刷であった「因子

一民」のことと推察され, I三矢」とは,当時社会局部長であり,帝国経済会

議では, I関係官」となり附, I幹事jC刊として,福田徳三らが所属した社会部

に配置された「三矢宮松」のこととではないかと推察される。

二者のフルネームが私見どおりであるとすると,古野作造と末弘厳太郎は,

社会局の大変な「大物二人Jに賀川豊彦を紹介したということになり,帝国経

済会議の「人選参考資料」③で,大蔵大臣勝田主計の原案にない人事として,

(福田徳三に加えて)賀川豊彦が,候補者として揚げられ,最終的に賀川も議

員となることにも納得がL、く。

吉野・末弘の「運動」の成果は, I田子,三矢の両者J,もしくはその意を汲

んだ社会局関係者からの推薦として,賀川豊彦の帝国経済会議入りということ

に結実したといえるのではないかと考える。

(62) 註(59)160-161賞。なお,因子はこの後の 1924(大正 13)年5月に衆議院議員に出馬,落選するも以後政治家の途を歩むことになった(問書 161頁参照)。

(63) 註(56)368頁。

(64) 向上, 369頁。

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法科大学院論集第 14号

4 r福田・末弘・賀JlIJトリオの成立と借地借家臨時処理法要綱案

ここで,帝国経済会議の人選を,社会部のこの三人について再度整理してお

きたい。

まず. 1東京帝大法学部教授・民法・労働・・」の末弘厳太郎は,初めから

議員人選に入っており (1人選参考資料」①参照),議員となった。しかも,元々

末弘は,アメリカ留学当時に田子一民と知り合いであった(冊。ついで,社会

局の進歩的官僚から一定の学問的評価や,非マルクス主義者であるという思想

の安全性を買われて,社会事業調査会委員で住宅問題にも関わった「東京商大

教授」の福田徳三が「人選参考資料」③の時点で追加され,議員となる。

この二人の「学者Jの人選と質も経過も異にしつつも,賀川豊彦が,追加さ

れ (1人選参考資料J③).議員となる。この賀川の追加が. 1二十三日会」の

メンバーである吉野作三,末弘厳太郎の社会局への働きかけ=1運動」とその

意を汲んだ社会局官僚との一種の「協力関係」の成果である可能性を述べた。

いずれにしても,賀川は. 1住宅問題の実践的専門家」の脈絡で-議員となった

と思われる O

福田徳三と末弘厳太郎,賀川豊彦は,年齢的には 14歳程度離れており,当

時の福田は,年長者であるだけでなく. 1生存権の社会政策」を標梼し,学者

としてのキャリアも,社会的認知度や発言力も大きい存在であった。

ここに,社会問題に切り込んでいく「先生」としての福田徳三,東京帝大の

民法学者で,借地借家調停における調停委員も務める,法律理論部隊としての

末弘厳太郎,住宅問題や貧困問題の実情に詳しい賀川豊彦という「トリオ」が

完成したといっても寡言はないであろう。

帝国経済会議においては,第 6部会が,福田徳三らトリオが所属した「社会

部会」である。同部会は, 1924 (大正 13)年5月6日から 6月10日まで,総

会,特別部会合め合計9回聞かれた。なお,この部会の具体的な審議の詳細は,

(65) 註(58)34頁参照。

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

手書きの議事速記録が山本義彦の編によって,整理され公刊されている刷。

以下,本文においては,同書からの引用につき, cr議事速記録」該当頁)とし

て表記する。なお,本文中の社会部会の議事録からの引用は,旧字は新字に,

旧仮名遣いは,現代仮名遣いに改めたが,原文のニュアンスを伝えるため,一

部旧字でそのまま表記した箇所もある。

同部会に諮詞 12号として出されたのは, r住宅の供給及改善に関する方策J

という,多分に一般的,抽象的テーマであったが, 5月27日に部会が出した

答申案は, r住宅の供給改善の問題と関連して借地借家の関係を適切衡平に規

定するは元より肝要のこと」ということを冒頭に述べるもので,その内容は,

実質的にほぼ借地借家臨時処理法の改正案である cr借地借家臨時処理法改正

要綱案J)。同改正案は,その後社会部総会で可決され,備凶議会では,その内

容における基本的骨格を変えずに可決され, 1925 C大正 13)年 7月 22日に最

終的に借地借家臨時処理法として公布され,施行された(勅令)cヘ

借地借家臨時処理法は,被災した借地人・借家人保護の内容を含む法律であ

る(冊。これを可能とした帝国経済会議における「借地借家臨時処理法改正要

綱案」決定に対しては,末弘と司法省官僚との連携関係が指摘されるところで

あるが(6ペ「住宅供給改善問題」が, r借地借家臨時処理法改正要綱案」となっ

たという,この諮問と答申案との,ある種異例とも言える「ズレ」を可能とし,

立法化に漕ぎつけたところ,そして議論を豊富化し,さらに後の住宅立法への

つながりを作ったところに,帝国経済会議の社会部会における, r福田・末弘・

(66) 山本義彦編『第一次大戦後 経済・社会政策資料集c](柏害房, 1987年)第5巻。(67) この答申の具体的中身と,借地借家法臨時処理法制定の過程をその背景とともに

詳細に検討した研究として,小柳春一郎「関東大震災と借地借家臨時処理法(大正

13年法律第 16号)J(上)溺協法学41号(1996年)235-283頁,同(中)濁協法

学42号(1996年)217-296賞, (下)濁協法学43号(1996年)231-300頁。(68) それは,擢災者の借地借家関係において,不当契約条件の変更,借地権の対抗力,

再築建物優先借家権と正当事由による拒否などを含む,画期的なものであった。稲

本洋之助・小柳春一郎・周藤利一『日本の土地法一一歴史と現状J(成文堂, 2004 年)33-34頁参照。

(69) 註(67)小柳(中),該当頁。

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法科大学院論集第 14号

賀川トリオ」が果たした役割の大きさがあると考える。

本稿では,これ以上阿部会における審議の内容に立入って述べることはでき

ないが,それは,政府側の当初の諮詞趣旨を汲み取りつつも,関東大震災後の

大きな社会問題であった借家人の保護という特殊時代的課題に向け,福田達ト

リオ,とりわけ福田・末弘が,震災後の借地・借家人保護という問題意識を共

有しつつ (70) 当時の司法省の官僚と協働し,より問題の内容に踏み込んだ議

論をし,法律制定に結びつけていくという,一つの社会法の立法化の過程で司あっ

たというのが私見である。福田の社会部総会での発言, 1それから司法省の関

係者の方に始終委員会にご出席を煩わしたような次第でありますJ(1議事速記

録J241頁)という言に示されるように,官僚を取りこんで政策を法として実

現していくという形が示されている点でも興味深い。

なお,最後の特別部会である,第 5回特別部会では,賀川豊彦の「住宅供給

策私案一一賀川豊彦Jが参考資料として出されている (1議事速記録J276頁)。

五小結福田徳三と末弘厳太郎

一一福田の生存権論の法学的評価に向けて

本稿においては,まず,福田徳三と社会局との関係において,当時の社会局

の労働政策と福田の考えが,限界づきながらある意味で「連動」していること

を示し,ついで,関東大震災後の緊急時,擢災者という限定つきながら,戦前

日本において成立した,借地人・借家人保護の内容を含む貴璽な「社会法」の

ーったる借地借家臨時処理法の要綱(諮詞に対する答申)案の作成において,

その舞台となった帝国経済会議社会部会の人選の過程在検討することにより,

そこにおける, 1福田徳三・末弘厳太郎・賀川豊彦というトリオ」という, 1人

間関係のグループ」成立の一端を描出することになった。

「勝国家文書」及び吉野作造の日記より,社会法たる借地借家臨時処理法の

(70) 当時の末弘厳太郎の考えについて,同上252-255頁参照。

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関東大震災後の福田徳三の生存権論

立法化に貢献したこのトリオは. 1924 (大正 13)年の大杉栄事件の相談をし

た,吉野作造,福田徳三を中心とした翠明会や,緩やかな結びつきである「二

十三日会」を通じて関係を持っていたことを指摘できたと思う。借地借家臨時

処理法は,このグループのむすびつきのもと,とりわけ, I楕田・末弘Jの暗

黙の連携のもとで,当初大臣から諮簡された内容を一部変容させ,椙田や末弘

と,帝国経済会議を主導する大蔵省と,内務省,司法省の官僚たちのそれぞれ

の思惑との絡みを見せつつ成立した「社会法Jであるというのが筆者の結論で

ある。

第 2次世界大戦前における借地借家法については. I毎年のように改正案が

議会に提出されたところであるが,一度も改正されたことはなかった」仰との

渡辺洋三による指摘を考慮すると,大正時代に作られた,この借地借家臨時処

理法成立の「成果Jは大きく,福田たちトリオは,要綱案の作成という形でそ

こに大きく貢献しているといえよう。この借地借家臨時処理法は,戦後すぐの,

擢災都市借地借家臨時処理法として受け継がれ,その後も大地震や火災におい

て「適用Jされ. 1985 (平成 7)年の阪神淡路大震災でも適用された(7ヘその

遺産は,今日まで脈々と受け継がれているものである。

ところで. 1920年代は,法律学においては,概念法学全盛から. I社会法」

や, I法の社会化Jへの議論が盛んとなり,その後「事実から出発して法を論

ずる」末弘法学が盛んとなる時期でもある。借地借家臨時処理法制定における,

借地借家問題は,法学におけるその議論の一つの出発点でもあった。

本稿では,帝国経済会議という,福田徳三と「民法学者」である末弘厳太郎

との「人的」接点を,その会議成立以前の時点から示した。そして,借地借家

臨時処理法要綱案の議論において. 2人は,同じ問題弘同じ土俵で識輸して

いることになる。この 2者の関係一ーとりわけその理論的見解の差異の中に,

福田徳三の生存権論を,法学的に位置づけ,歴史的に検証していく鍵が見いだ

(71) 渡辺洋三『土地・建物の法律制度」上(東京大学出版会. 1960) 393頁参照。(72) 2011 (平成 23)年の東日本大震災では,市街地の穣災は少なく,擢災地におけ

る借地関係も少なかったので,本法は適用されなかった。

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法科大学院論集第 14号

せるのではないかと考える。

この帝国経済会議での要綱案の決議,答申内容は, Iあまりにも影響が大き

いためJ(73) という,ほかならぬ福田徳三の提案により,総会で秘密扱いが決議

され,資料にも「秘」の印がおされているが,福田は, 1924 (大正 13)年 10

月 10日付で,成立についての末弘の役割に謝辞を表するとともに,その内容

につき, I自分の従来の主張が受け入れられた」と述べている刷。

福田の主張のどの点が受け入れられ,どの点が受け入れられなかったのかを

知り,福田の生存権論との関係を知るためにも,そとで議論された福田と末弘

の主張の相違を文献的に検討することが必要である O そのため,帝国経済会議

の議員に選出され,借地借家問題に取組む以前の,同問題に対する福田徳三の

考えについて整理しておく必要があるが,これについては,本稿とほぼ同時期

に刊行予定の,札幌法学25巻 2号(札幌大学, 2014年3月発行予定〕に掲載

予定であるので,こちらも合わせてご参照願いたL、。

最後になったが,福田と社会局との関係で触れたように,この期の福田の生

存権論が, r防貧施策Jである住宅問題に関わるものであったことは,福田の

生存権論の中味を考える上でも重要なことであると考えるが,本稿ではこの点

を指摘するにとどめたL、。

(73) 註(66)229頁。

(74) 註(25)6・l二17頁。ちなみに, ~復興経済の原理及若干問題』の巻末の書評集の

中で,震災後の福田に好意的な立場から書評をよせている 81博士が,文面からし

て末弘厳太郎に該当するのではないかと推察する(全集6・下21l7-21l8頁参照)。この推察があたっているとすると,本文で示した福田と末弘との関係において,大

学・学問領域を超えた,人的交流があったことにつき, I普き教師でもあった」と

される福田徳三においての,末弘とのあたたかい関係を示すーっの証左といえよう

か。

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