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Μεταπτυχιακά 名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報 Vol. 9 78 1.はじめに 本文に入る前に,一つ明確にしておかなければなら ないのは,「華僑」という言葉の定義である。 華の「僑」は,僑居=仮住まいを意味する。日本に おいて「華僑」という言葉は,187080 年代に,清 国が条約に基づく外交関係に入ったときに,在並び居 留の商民を定義する必要に迫られて「僑居華民」とい う四字句を用い,二字熟語に倒置して「華僑」という 用語を新造したことに始まる。それ以前では華人,中 国民と呼ぶ例も稀にはあるが,たいていは「唐人」を 用いていた。また,戦前の日本では,華僑とは一般に 在外中国人をさす 1しかし,華僑の研究が進んでいる今,華僑の定義も 多岐化になっていた。文化,経済,政治,法律の方面 から,より細かく定義されている。ところが,辛亥革 命という中国近代化の重要な節点に立ち,日本に亡命 した政治家を除く,商人や留学生,様々な人々が関与 してきた。彼らをどう捉えるかは一つの問題である。 従って,本稿における華僑というのは,在日中国人で あるとここで規定しておく。 日清戦争後の日中関係においてそれまでとの大きな 違いは,中国人にとって日本が,文化の発信地として の役割を果たすようになったという点である。 日本は,第一に,孫文,康有為,梁啓超らの政治家 たちの亡命地となった。清朝打倒を唱える革命派だけ でなく,改革を提唱する保皇派も1898 年の戊戌政変 を契機に日本を舞台に活動を展開する。第二は,大量 の中国人留学生が日本にやってくるようになった。こ こで注意すべきことは,中国人が日本で何を学ぼうと したのかという点である。同時代の欧米留学生に比べ ると,法律などではなく,より実学の医学等を身につ けようとしていた。言い換えると,日本人が明治にな って精力的に翻訳し,吸収してきた富国強兵に役立つ 学問を,日本人と日本語を媒介にして,吸収しようと いうものであった。 中国は中華帝国としての地位を失い,衰亡の道へと 転落しつつあり,好むと好まざるとにかかわらず西洋 文化を受け入れざるをえなくなっていた。その点で日 本は先進的であった。日清,日露という二度の大戦に おける日本の勝利は,中国人が西洋文化を吸収する上 で心理的抵抗を抱えながらも,日本の先進性を受け入 れる重要な契機となった。 中国において,清朝とそれを打倒しようという革命 運動との対抗関係が決定的時期を迎えつつあった当 時,日本華僑の本国の状況に対する態度も複雑になら ざるをえなかった。二つの点について見ておきたい。 第一は,中国政府との関係である。華僑が異郷にあ って,自分たちの生活と職業を維持発展させようとす るならば,当然,本国政府の支援が必要となる。19 世紀後半に至り,本国政府の側も,自らの権力を維持 しようとするならば,海外華僑の支持が必要であると 認識するようになった。商会設置は,義和団事件後の 北洋新政の商務振興策の一環として1903 年に提起さ れ,商部の管轄下に商人団体としての商会を国内外に 設置しようという構想で,国内には商務総会(中華民 国時期に総商会に改称),国外には中華商務総会(民 国期に中華総商会に改称)を結成し,これを相互に連 携させようというものである 2第二は,在野の政治勢力との関係である。当時は, 一つには,孫文らに代表される清朝打倒を目指す革命 派があり,もう一つは清朝の改革を目指すグループ で,康有為や梁啓超らの変法派,後の保皇派があっ た。 革命派は,1895 10 月の広州蜂起以来清朝とは決 定的に対立していた。日本でも,1894 11 24 日に 孫文らの結成した興中会が,1895 11 月には横浜分 部が作られ,1905 年には,東京で革命派の大同団結 が図られ,中国同盟会が結成されている 3。この運動 は,主に東京,横浜が中心で,神戸や長崎にはその支 部はなかった。一方,康有為,梁啓超ら変法派は, 1898 月の戊戌政変で清朝政府から追われる身と なり,日本に亡命してきた。彼らは,科挙の合格者と いう肩書きと古典的教養を有し,清朝の打倒ではなく 辛亥革命期の日本華僑 ──長崎・神戸を中心に 張 瀚之 日本史学専門 博士前期課程「人文学フィールドワーカー養成プログラム」調査報告

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Μεταπτυχιακά 名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報 Vol. 9

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1.はじめに

 本文に入る前に,一つ明確にしておかなければならないのは,「華僑」という言葉の定義である。 華の「僑」は,僑居=仮住まいを意味する。日本において「華僑」という言葉は,1870,80年代に,清国が条約に基づく外交関係に入ったときに,在並び居留の商民を定義する必要に迫られて「僑居華民」という四字句を用い,二字熟語に倒置して「華僑」という用語を新造したことに始まる。それ以前では華人,中国民と呼ぶ例も稀にはあるが,たいていは「唐人」を用いていた。また,戦前の日本では,華僑とは一般に在外中国人をさす1)。 しかし,華僑の研究が進んでいる今,華僑の定義も多岐化になっていた。文化,経済,政治,法律の方面から,より細かく定義されている。ところが,辛亥革命という中国近代化の重要な節点に立ち,日本に亡命した政治家を除く,商人や留学生,様々な人々が関与してきた。彼らをどう捉えるかは一つの問題である。従って,本稿における華僑というのは,在日中国人であるとここで規定しておく。 日清戦争後の日中関係においてそれまでとの大きな違いは,中国人にとって日本が,文化の発信地としての役割を果たすようになったという点である。 日本は,第一に,孫文,康有為,梁啓超らの政治家たちの亡命地となった。清朝打倒を唱える革命派だけでなく,改革を提唱する保皇派も1898年の戊戌政変を契機に日本を舞台に活動を展開する。第二は,大量の中国人留学生が日本にやってくるようになった。ここで注意すべきことは,中国人が日本で何を学ぼうとしたのかという点である。同時代の欧米留学生に比べると,法律などではなく,より実学の医学等を身につけようとしていた。言い換えると,日本人が明治になって精力的に翻訳し,吸収してきた富国強兵に役立つ学問を,日本人と日本語を媒介にして,吸収しようというものであった。 中国は中華帝国としての地位を失い,衰亡の道へと

転落しつつあり,好むと好まざるとにかかわらず西洋文化を受け入れざるをえなくなっていた。その点で日本は先進的であった。日清,日露という二度の大戦における日本の勝利は,中国人が西洋文化を吸収する上で心理的抵抗を抱えながらも,日本の先進性を受け入れる重要な契機となった。 中国において,清朝とそれを打倒しようという革命運動との対抗関係が決定的時期を迎えつつあった当時,日本華僑の本国の状況に対する態度も複雑にならざるをえなかった。二つの点について見ておきたい。 第一は,中国政府との関係である。華僑が異郷にあって,自分たちの生活と職業を維持発展させようとするならば,当然,本国政府の支援が必要となる。19

世紀後半に至り,本国政府の側も,自らの権力を維持しようとするならば,海外華僑の支持が必要であると認識するようになった。商会設置は,義和団事件後の北洋新政の商務振興策の一環として1903年に提起され,商部の管轄下に商人団体としての商会を国内外に設置しようという構想で,国内には商務総会(中華民国時期に総商会に改称),国外には中華商務総会(民国期に中華総商会に改称)を結成し,これを相互に連携させようというものである2)。 第二は,在野の政治勢力との関係である。当時は,一つには,孫文らに代表される清朝打倒を目指す革命派があり,もう一つは清朝の改革を目指すグループで,康有為や梁啓超らの変法派,後の保皇派があった。 革命派は,1895年10月の広州蜂起以来清朝とは決定的に対立していた。日本でも,1894年11月24日に孫文らの結成した興中会が,1895年11月には横浜分部が作られ,1905年には,東京で革命派の大同団結が図られ,中国同盟会が結成されている3)。この運動は,主に東京,横浜が中心で,神戸や長崎にはその支部はなかった。一方,康有為,梁啓超ら変法派は,1898年9月の戊戌政変で清朝政府から追われる身となり,日本に亡命してきた。彼らは,科挙の合格者という肩書きと古典的教養を有し,清朝の打倒ではなく

辛亥革命期の日本華僑──長崎・神戸を中心に

張 瀚 之 日本史学専門 博士前期課程2年

Ⅲ  「人文学フィールドワーカー養成プログラム」調査報告

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辛亥革命期の日本華僑

改革(改良)を唱えたということから,本国政府との関係を重視する華僑社会との結びつきが強かった。華僑学校においても横浜の大同学校,神戸の華僑同文学校のどちらにおいても梁啓超らの影響力が強かった。 本稿では,そういった複雑な情勢のなか,辛亥革命期における日本華僑の中国の変容に対する対応を紹介していきたい。特に,長崎,神戸において,華僑の辛亥革命前後の行動や対応の検討を行っていこうと考えている。

2.辛亥革命期の日本華僑

⑴ 「入口」としての長崎

 長崎における華僑は,神戸や横浜などの地域の華僑と違い,鎖国時代前後からの長い歴史を背にしている。鎖国つまり日本の対外窓口の一つが長崎になることによって,華僑は,長崎に集住するようになると同時に,長崎を除く九州各地やその他の若干の地では存在し得なくなった。鎖国によって,日本華僑はすなわち長崎華僑,ということになったのである。鎖国期,最初,華僑は長崎市街に日本人と雑居していたが,17

世紀後期には,いわゆる唐館に集住させられ始める。自由な外出は許されなかった。 江戸幕府が開港を行うと,長崎華僑は,鎖国時代からの歴史を背景とする唐館居住の中国人と,新たに設定された外国人居留地内の西欧人商人に付属するかたちで存在する中国人の,二種に分けられるようになった。興中会時代に横浜で孫文と深く関わりを持ち,横浜興中会の会長となる馮鏡如は,幕末から明治初年にかけて,イギリス人商人に「付属」する者として長崎に居留していたことがある。 1873(明治6)年日清修好条規が両国によって批准され,長崎では,1878(明治11・光緒4)年より清国領事館が開設された。1905(明治38・光緒31)年,長崎私立時中両等小学堂が創立された4)。また,長崎華商総商会5)は,清国商部の審査を受け1907年に設立される。この二つの組織・団体は,いずれも清朝からの影響や支持のもとで作られた。そのため,長崎の華僑社会について,他地域の華僑社会と比較して指摘できることの一つとして,当時の中国の体制,つまり清国の影響がきわめて色濃く影を落としていることが挙げられる。 明治中期以降,日本政府の労働移民排除政策のもとで,排除対象から除外された職種であった行商人として入国し,次第に彼らの活動の場を長崎以外の地域に

も広げていった。華僑は,機会を求めて他地域へ移って行き,開港によって端緒が開かれた長崎以外の地での華僑社会の形成が,ようやく本格化し始めるのである。しかし,中国大陸との近接性及びこれにしたがって設定された航路の存在によって,華僑達にとって明治後半の長崎は,たとえ日本における主要な活動の地ではなくなったとしても,依然として日本への入口ではあったのである。 前にも述べたが,19世紀も末の1895年前後に,革命運動を開始したばかりの孫文の後援者として辛亥革命史に登場する横浜華僑馮鏡如6)は,そのおよそ30年前には,実に長崎の華僑であって,維新直後の当地に,イギリス人商人に随伴する者として在留していた。30年の間に,居所は長崎から横浜へ移り,立場はイギリス人の随伴者から,新しい政治運動の理解者・活動家へと変貌していた7)。彼にとって長崎は,日本への入口であったことはもちろんだが,清国政府治下の本国においてあってはならない,彼の政治に対する意見と行動に,一定のきっかけを与えるものであっただろう。つまり,長崎は馮鏡如の政治生活のまさしく入口であった。 また,清末,中国から日本へ多くの留学生が渡った。来日ラッシュは,日露戦争の前後にピークに達する。彼らは日本で,実学的な新しい学問・技術を身につけて,一部は,革命家・革命的知識人層を形成して中国同盟会などの革命団体の中核となってゆく。留日学生にとっても,長崎は「入口」だったと言えるだろう。

⑵ 武昌蜂起と神戸華僑

 本節において,辛亥革命の勃発に対する神戸華僑の対応を明らかにしたい。まず事実経過の紹介を中心にすえて,1911年10月10日の武昌蜂起に対する神戸華僑の反応から同年12月までのそれを考察の対象とする。そして,そのための手がかりとして,日本における政治的混乱即ち中国内部に清朝政府と各省軍政府が乱立した状態から生ずる諸混乱に対応するため,中国外部,つまりこの場合日本に形成された中華民国僑商統一聯合会(以下「聯合会」と略記)なる組織に着目して検討したい。 最初に,神戸中華会館について紹介しておきたい。 神戸の中華会館は当時清国駐日公使の指示の下,第7代清国駐神戸兼大阪理事洪遐昌の提唱に阪神華僑が応じる形で創建されたものである8)。中華会館は,創建時だけでなく,長い間神戸,大阪の華僑の協力によ

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って運営されてきた。しかし,当時,華僑の数は神戸の方が多く,貿易港という点でも神戸の占める位置が大きかったため神戸中華会館と呼ぶようになった。そして,清国や中華民国の領事館,中国国民党の支部も神戸にあった。このように,華僑や中国との関係という点では神戸の比重が大阪より大きく,中華会館が神戸に置かれたのにはこうした背景があった,神戸,大阪の華僑にとって居住地としての神阪地域,その主たる出身地である広東,福建,三江9),台湾さらには山東などといった僑郷としての中国,さらには神戸華僑の同郷者たちが数多く生活する東南アジアという三つの地域は相互に深く連関している。神戸は,1868年に開港されることにより,居留地と雑居地が設置され,外国人の一員として中国人が到来し,定着したのである。そしてまた神戸は,中国,東南アジアとの貿易の基地として近代日本の発展において重要な役割を演じ,神戸華僑は,このような神戸の地において重要な役割を果たすことになる。 また内田直作は,日本の中華会館の「職能」として,「祭祀的,友誼的集会」,「中華義荘の管理」,「社会公共事業の経営」,「出捐」,「商事,公共事宜,その他政治上の諸問題に関する公議」,「各公所において解決しえない民商事に関する紛争の公断並びに調解」,「外部官民側諸機関との連絡折衝」の七項目(内田

1949)をあげている。ところで,1909年に清朝政府の提唱により,神戸中華総商会が作られ,中華会館の諸機能のうち,経済的機能が分離された。さらに,公式的なことは総商会を通ずることが要求された。 武昌蜂起によって革命派の動きが急展開を告げるまでの中華会館は,一方で在留民にとっての自治・慈善機関として,一方で立憲制への移行を準備する最末期の清朝と阪神華僑との接点としての役割を果たした。 1909年5月,光緒帝大喪答礼使として来日した貝子爺一行の将校士官の招待宴を催し,1910年5月,早期国会開催の請願を訴える目的で,神戸と大阪の中華総商会は横浜,長崎の中華総商会と共同で湯覚頓(1906‒1907年神戸同文学校校長)を北京に派遣し,

10月8日,請願の成功を祝して会館は国旗を掲げた。翌11年6月18日,神阪両総商会は康有為夫妻を中華会館に招待して歓迎宴を期催し,大阪からの200名余りの出席者を含む600名余りからなる大祝賀会となった10)。 1911年10月武昌蜂起が成功し,皇族内閣が総辞職して袁世凱が総理大臣に任命されると,政治犯の赦免が決定され,須磨に住んでいた保皇派の重要人物梁啓

超やその近辺の人々の動きが頻繁になり,同時に在留華僑にも動揺が見られた。漢民族による素直に喜ぶ同文学校の学生,革命の動向を冷ややかに見ていた康・梁派の学校教師,革命を快挙と喜ぶ一方一日も早い秩序の回復を願う華商など,様々な様相を見せていた11)。11月半ばに入って清国領事府の黄龍旗が降ろされ,領事が弁髪を切り落としたことにも見られるように12),全体として華僑社会の雰囲気は急速に革命派支持へと変わっていった。 11月26日,中華会館に700名もの華僑が集まり,中華総商会を母体に在神革命支持団体としての中華民国僑商統一聯合会が結成された。会長に王敬祥(後興号・福建),副会長には周子卿(同泰豊号・三江)と廖道明(広興昌号・広東)が選ばれた。 結成大会に先立って,大阪・長崎に対して,そしておそらく横浜・函館の華僑へも,聯合会への結集が呼びかけられていたが,大阪華僑は不参加13),また,長崎華僑は参加の態度について曖昧であった14)。聯合会結成以前にも,本国での革命の勃発という状況に即して,様々な動きがみられたが,その中で特に重要であると思われるのは,1911年11月22日に神戸で行われた三江出身者の会合である。この会では,革命の混乱によって華僑が商業上の不利益をこうむっていることが会合参加者間に確認され,そのような状況にもかかわらず,駐日公使・領事が適切な対応を示さないことへの不満がもらされ,領事による統制を拒絶し,華僑が自主的に行動すること,つまり商業上の障害を除くために清朝政府及び革命軍双方と直接交渉することが合意された15)。 当時の神戸華僑の辛亥革命認識には,個々の立場の違いによって複雑微妙な差がみられるが,その一つとして,聯合会会長である王敬祥(王は,福建省金門島出身の華僑の一人で,貿易商の復興号店主であるとともに横浜正金銀行の買弁を務めていた人物である16)。)が,聯合会を結成する直前に,神戸又新日報記者に語った発言を紹介する17)。 その発言内容をまとめてみると18),⑴ 各省の独立宣言は民心を鎮めるためのものである。⑵ 官革両軍の軍事的優劣の変化によっては独立宣言がとり消されることもありうる。⑶ 革命軍は排満興漢を主張しているが,ことここに至った原因は漢人官僚の人民に対する苛歛誅求にある。⑷ 革命軍側が清朝の存続を認めないのは,その主張を貫徹するためであり,身の安全をはかるためである。⑸ 私(王)自身は必ずしも清朝に反対するものではない。⑹ 現在行われている

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辛亥革命期の日本華僑

革命の主張は,形のみで精神がともなっておらず,革命の前途は多難であろう。 話は戻るが,11月26日聯合会設立当日,聯合会の目的として可決されたのは,次の4点である。 ⑴ 同志の者と聯絡をとって商務を維持する。⑵ 変動によって中国の商務は破壊されたので民国に対し速やかに新政府を立てるよう請求する。⑶ 民国軍政府は中華銀行を組織したのでそれを維持して商人の困窮を回復させる。⑷ 華僑商人が新政府をたてるよう請求するのは愛国保商の立場に立つからであり,我々は友邦と親しくし中華民国の主義に沿って内外の商勢を興す。 会の章程は,結成大会においては決められず,おそらく新役員決定と同じく12月2日までの間に確立したと思われる。その構成は,会名・宗旨・組織・会所・責任・経費・弁法となっている。 聯合会の行うべき活動として規定されているのは,次の7点19)。⑴ 各省の民国軍政府及び各地華僑に対し一致して行動するよう通電する。⑵ 未独立省に対し速やかに聯合して組織をつくるよう通電する。⑶ 北京の内閣総理大臣に対し民国を速やかにたてるよう通電する。⑷ 日本各地の華僑に対し一致して行学するよう通電・発函する。⑸ 聯合会の宗旨を新聞に発表する。⑹ 毎月最終週に大会を開く。⑺ 新政府が成立したら解散する。 聯合会の性格として,宗旨及び弁法の規定から明らかになるのは,この会の活動の目的が,革命支持の立場に立ちつつ,革命によって生じた商業上の混乱の回復をはかる点にあったことである。 1912年2月15日に行われた第六回大会では,民国の統一を祝し,共和万歳の祝電を本国に打電すると同時に,新旧両国旗の変更式が行われた。民国政府の基礎が固まり,日常の商務に支障が無くなったと判断された3月31日,当面の目的を達し,華僑聯合会支部として再組織化されることとなった僑商統一聯合会は,神戸中華総商会の再設を決議すると同時に,中華会館において解散式を行った20)。 神戸においては,1908年以来,梁啓超が須磨に滞在し,清国の立憲化を目指す保皇派の勢力が拡大し,また,1911年6月には,その指導者の康有為が梁をたよって来神し,保皇派の勢力が更に拡大した。しかし,革命支持の立場を明確に打ち出して結成された聯合会の登場は,この事実のみに着目してみれば,神戸華僑は本国の各省独立の様相と類似して,保皇派より革命派への乗り換えだと考えられるのではないか。で

は,聯合会が,革命支持による商務の維持・回復という立場を表明したことは,究極的には,神戸華僑のいかなる意志の表しとしてとり得るだろうか。 僑商統一聯合会は対外的には革命同志の聯絡と商務の維持を目的に掲げたが,実際には新生中華民国の誕生とそれへの支持に向け,在神華僑を統合する組織であった。具体的には,新政府の財政を支えるために中華銀行の株券引き受けほか革命支持のため,さまざまな金銭的支援が僑商統一聯合会を通じて革命政府へ届けられた。このため,聯合会の結成は,商業上の問題に対するためのものと言うよりは,革命という政治上の問題に対して,より大きな関心を払うためのものと考えることができるのではないか。 以上述べたことからも,当時の華僑が,中国国内情勢に対する複雑な態度が窺えるのだろう。

3.終わりに

 本稿において,長崎,神戸における華僑が中国近代化に対して,どのような行動をとったかを紹介した。勿論,まだまだ不十分であるが,これからの課題でもある。 華僑に関する研究は,量的からいうと,華僑の商業展開つまり経済面に注目する研究が多い。地域から見ると,東南アジアが圧倒的といえよう。近代史における日本華僑の研究は,東南アジアやアメリカ華僑の研究に比べると少ないが,華僑の中国近代化に対する影響から言えば,日本華僑はすごく重要な位置を示していると思われる。日本華僑は,経済からつまり資金だけではなく,革命支援組織を作る,革命運動の帰国参加など色々な方面から辛亥革命を支援した。革命指導者である孫文は「華僑は革命の母」といったように,日本華僑も辛亥革命にとって不可欠であろう。 ところが,前文で述べたように,日本は多くの中国政治家の亡命地となった。その中は,清朝打倒を目指す革命派と清朝の改良を目指す保皇派に分かれていた。この二つの勢力は,中国近代化の様々な可能性の中,二つの可能性を示しているといってもよい。一つは民主共和,一つは立憲君主であった。結果的には,日本華僑は民主共和を支持するという選択をした。では,なぜ日本華僑はこの二つの可能性から民主共和を選んだのか。また,この選択は辛亥革命または中国近代化にどのような影響をもたらしたのか。この二つの課題を前にして,研究を進めていきたいと思う。

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1) 企書院編纂『華僑の研究』(1939年,松山房)2) 日本華僑華人研究会『日本華僑・留学生運動史』(2004年,日本僑報社)p. 222

3) 金沖及・胡縄武『辛亥革命史稿 第二巻 中国同盟会』(1980年,上海人民出版社)pp. 17‒20

4) 明治38(1905)年,「私立跨中 等小学堂」が在長崎第七代清国領事卞 昌(ベンボウツァン 揚州出身者)によって提唱され,在留長崎華僑有志の協力で創立された。この時中というのは『中庸』の第二章に「君子の中庸は,君子にして時とき

に 中ちゅう

す」(君子之中庸也,君子而時中。)の時中から出て居る。この時中というのは「時に随いて変に処し,その宜しきに叶う。」,「時に随いて宜しきに処すること。」,言わば時宜に叶ったという意味である。当校の校歌に「我が校は孔子廟内にあり,校名を時中という中庸を尊び……」と謳われてもいる通りである。なお,「両等」と言ったのは,同校に初等科と高等科を併設していたためで,「小学堂」と言ったのは,後でも示すように,同校がモデルにした其の頃の中国本土における学校制度にそういう呼称があったからである。一般に横浜や神戸の学校が清朝に敵対する孫文や孫文の三民主義思想の指導の下に建設されたのに対し,時中小学堂は清朝政府の卞領事の指導下で中国本土の学校制度に倣って設立された点で特色があるとされるが,なお中国本土の学堂に倣って孔子廟内に学校を設けたのは,中国本土以外ではインドネシアの首都バタビアと長崎の二ヵ所のみであった由である。──增田史郎亮「長崎華僑時中小学校創立前後の日本,中国,長崎(その一)」(長崎華僑研究会『長崎華商泰益號関係資料』第二輯,1985年)

5) 商部核定長崎華商商会便宜章程を参考。6) 外務省記録B──外務省記録『日清韓交渉事件関係雑件』(第一巻 旧清国人馮鏡如ナル者英国国籍身分証書ヲ携ヘ本邦ヘ向ケ出発ノ件)

7) 馮瑞玉「馮鏡如『新増華英字典』をめぐって⑴辛亥革命を支えた英国籍の中国人」(月刊しにか2001年12月 pp. 98‒105)

8) 中華会館編「落地生根──神戸華僑と阪神中華会館の百年」(2000年,研文出版)p. 169) 三江に含まれる地域に関しては,色々と説があるが,浙江・江蘇・江西を指すという説が一般的である。

10) 「(兵発秘篇三七三号)清国革命首領渡来ノ件 兵庫県知事服部一三ヨリ外務大臣小村寿太郎宛」(明治四十四年六月十二日)(外務省記録 E──『各国内政開係雑纂』)

11) 「時局急転後の在留清人観」『神戸又新日報』1911年11月14日

12) 『神戸又新日報』1911年11月15日13) 「(警秘第九二六号)大阪府知事犬塚勝太郎ヨリ内務大臣原敬宛」(明治四十四年十二月二十七日)(外務省記録 B──『動静雑纂(在本邦人ノ部)』)

14) 「(高秘収第七四一八号)清国統一聯合会組織ニ関スル件 長崎知事安藤謙介ヨリ外務大臣内田康哉宛」(明治四十四年十一月廿六日)(外務省記録 B──『動静雑纂(在本邦人ノ部)』)

15) 松本武彦「中華民国僑商統一連合会の成立と性格──辛亥革命に対する在日華僑の一対応」(1984年,国書刊行会)

16) 安井三吉『帝国日本と華僑 日本・台湾・朝鮮』(2005年,青木書店)

17) 「時局急転後の在留清人観」『神戸又新日報』1911年11月14日

18) 松本武彦「中華民国僑商統一連合会の成立と性格──辛亥

革命に対する在日華僑の一対応」(1984年,国書刊行会)19) 「全国在留清人の活動 中華民国統一僑商聯合会の成立」『神戸又新日報』1911年11月28日

20) 中華会館編『落地生根──神戸華僑と阪神中華会館の百年』(2000,研文出版)p. 135

参考文献

金沖及・胡縄武『辛亥革命史稿 第一巻中国資產階級革命派的形成・第二巻中国同盟会』(1980年,上海人民出版社)

陳錫祺 主編『孫中山年譜長編 上冊』(1991年,中華書局)小島淑男『留日学生の辛亥革命』(1989年,青木書店)内田直作『日本華僑社会の研究』(1949年,同文館)王維『日本華僑における伝統の再編とエスニシティ──祭祀と芸能を中心に』(2001年,風響社)

朱慧玲『日本華僑華人社会の変遷──日中国交正常化以後を中心に』(2003年,日本僑報社)

戴国輝『華僑──「落葉帰根」から「落地生根]への苦悶と矛盾』(1980年,研文出版)

戴国輝編『もっと知りたい華僑』(1991年,弘文堂)安井三吉『孫文と神戸略年譜1‒5』神戸大学教養部『論集』第

32号(1983年),第33号(1984年),第34号(1984年),第35号(1985年),第40号(1987年)

安井三吉・陳徳仁『孫文と神戸』(1985年,神戸新聞出版センター)中華会館編『落地生根──神戸華僑と阪神中華会館の百年』(2000年,研文出版)外務省通商局『華僑ノ研究』(1929年)企書院編纂『華僑の研究』(1939年,松山房)日本華僑華人研究会編『日本華僑・留学生運動史』(2004年,日本僑報社)長崎華僑研究会『長崎華商泰益號関係資料』(1985年)張靜盧輯注『中国近代出版史料』(2003年,上海書店)日本華僑華人研究会編『日本華僑・留学生運動史』(2004年,日本僑報社)安井三吉編『帝国日本と華僑 日本・台湾・朝鮮』(2005年,青木書店)実藤恵秀『中国留学生史談』(1981年,第一書房)松本武彦「明治期九州在留中国人の存在様態」『研究紀要 24』(1986年12月,大分県立芸術文化短期大学)松本武彦「清末留日学生刊行諸雑誌の流通ルートにみえる在日華僑について」『研究紀要 25』(1987年12月,大分県立芸術文化短期大学)松本武彦「辛亥革命と九州の華僑」『研究紀要 27』(1989年12月,大分県立芸術文化短期大学)松本武彦「辛亥革命と神戸華僑 武昌蜂起直後における」(歴史分科会報告)(〈特集〉中国研究所1983年度研究所集会・報告特集)(1983年)

日本外交文書 第44巻・第45巻別冊『清国事変(辛亥革命)』外務省記録B──外務省記録『清国革命叛乱ノ際ニ於ケル同国人ノ動静態度及与論関係雑纂(在本邦人ノ部)』外務省記録B──外務省記録『在本邦清国留学生関係雑纂/雑之部 第一巻』外務省記録D──外務省記録『清国革命動乱ニ関スル地方雑報』外務省記録E──外務省記録『各国内政関係さっ纂支那ノ部革命党関係(亡命者ヲ含ム)』

「時局急転後の在留清人観」『神戸又新日報』1911年11月14日「全国在留清人の活動 中華民国統一僑商聯合会の成立」『神戸又新日報』1911年11月28日