大森氏の城郭めぐり (足柄) -...
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大森氏の城郭めぐり (足柄)
大森氏の西相模進出の跡を尋ねて浜居場城跡・春日山城跡・河村城跡・岩原城跡・沼田城跡をめぐる。
平成29年11月7日
足柄山地の城郭群
春日山城
河村城
浜居場城
酒匂川
浜居場城跡
本城郭 西堀
現況の堀の深さは1mくらいで、トレンチ調査では堀底は1から1.5mの腐植土で覆われており、もとの深さは2~2.5mぐらいあったと思われる。
浜居場城標柱
浜居場城
大森・後北条の両時期にわたって、足柄山地北辺の交通を押さえる城として重要視された尾根城。大森氏の時代には相模進出に当たって後方防衛の拠点となり、後北条時代には国境の城として、足柄城と共に足柄防衛線の北辺守備の要塞となった。警備の「はまいば掟」が出された。
足柄山地の東北端、おむすび形の矢倉岳の北側の尾根、標高700mのピークに浜居場城はある。城址近くからは足柄平野を一望に見渡すことができる。
富士山の火山灰や腐葉土で覆われているが、郭(くるわ)と空堀を観察することができた。
浜居場城跡付近からの眺望
丹沢 本城郭下の登山道から
丹沢山
蛭ヶ岳
檜洞丸
大野山
箱根・明神ヶ岳 西郭から
足柄平野 21世紀の森展望所から
春日山城跡
金時山
足柄峠
矢倉岳
浜居場城
春日山城の郭
内山発電所の上部池
推定春日山城地
春日山城
駿河国駿東郡から足柄峠を越えて相模に進出してきた大森氏は、酒匂川の対岸に、春日山城を築いて河村城攻略の拠点とした。
春日山城のある尾根上の台地は、北側の酒匂川、南側の内川に挟まれ、その先端部で酒匂川に内川が合流して三方を川に囲まれている。台地の先端から約200mのところに20mほどのくびれたところがあり、村絵図には堀切がある。城地はこの範囲であったと考えられる。
内山発電所と導水路によって、遺構は削平されており、城の範囲がしのばれるだけである。
導水路は発電所を過ぎると文命用水となり、さらに、下流で酒匂堰となって足柄平野を潤して海に入る。
春日山城跡
春日山城跡
春日山城跡
河村城跡
河村城跡
本城曲輪 河村城碑・社
本城曲輪北堀切 畝堀
本城曲輪東堀切
中央大堀切
大庭曲輪
河村城
河村城のある城山を囲むように酒匂川が弧を描いて西側から南側を流れ、江戸時代の流路付け替え前の皆瀬川が北側を流れて、要害地形となっている。
波多野氏の一族の河村氏によって築かれた。
南北朝期の観応3年に河村一族は南朝方の新田義興の軍勢と共に河村城に立て籠もり足利軍と1年余り戦い敗れた。
永享の乱(1438年)の後、大森憲頼が攻め落した。
後北条時代は足柄城、浜居場城と共に足柄山地の防衛体制の一翼であった。
城址は整備され、後北条時代の曲輪、堀切、畝堀が復元されて、城郭の構造がよく分かる。
岩原城跡
八幡神社
大森寄栖庵墓地 大森寄栖庵墓 岩原城標柱と五輪塔
岩原城跡案内坂
本城郭
岩原城 西相模に進出した大森氏が、小田原城と同じく重視したのが、岩原城である。
大森寄栖庵氏頼は、子の藤頼を小田原城に住まわせて、自身は岩原城に居住して、ここで没した。
箱根外輪山明神ケ岳の尾根の末端が幅200mほどの舌状台地になっている。城址はこの台地の南部とこれに続く南斜面にある。
城館の構造は大部分が畑などの下に埋蔵されたままで不明である。
残念なことに史跡として整備されておらず、遺構がわからない。
沼田城跡
沼田城標識 西郭の堀跡と土塁跡か 沼田城案内坂
東郭
西郭・北堀
沼田城
城は箱根外輪山明神ケ岳の尾根の先端部のこぶ状に盛り上がった小丘陵上にある。
城の周辺が泥田や湿地に囲まれている沼城である。
この城は波多野氏一族の沼田氏に始まり、大森氏、後北条氏に利用されてきた形跡がある。
堀で仕切られた頂部の郭や空堀などの遺構がなんとか推定できた。しかし、草刈りなどの整備をすれば、遺構が分かりやすくなり、多くの人に見てもらえるではなかろうか。