難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験 - 立 …...-89-...

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- 89 - 難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験 梶村太一郎 皆さん,こんばんは。 では,いきなりレジュメにないところから始めますが,実は私は 2010 年に,つまり 6 年前に この京都を訪れています。当時,首都大学東京に呼ばれて,1 学期間にカント哲学に関連した文 献の翻訳の演習をしたのですが,その機会に,4 月に京都に来て,嵐山の花見をしたことがあり ます。 その時は「もうこれが最期の嵐山の花見だ」と思って来たのです。なぜだかおわかりでしょ うか。高速増殖炉の「もんじゅ」が再稼働する予定の直前だったからです。「もんじゅ」で事故 が起こったら,日本は物理的におしまいだということは私にもわかっていました。そのために 反原発運動を担っている日本の友人の弁護士の皆さんが,親切にもわざわざ京都での花見に招 待してくれた次第です。 ところが全く幸運にも,燃料棒を入れる装置が炉内に落下する事故が起こり再稼働できなかっ た。皆さん,これは冗談話ではありません,本日ここで話ができるのもそのおかげです。深刻 な問題です。その翌年に何が起こりましたか。3 月 11 日に,あのフクシマ事故が起こったでしょ う。まさに私が嵐山で予想したことが福島で起こった。誰もいない満開の桜の情景。それが日 本で現実となりました。 そのため,あの事故のあと,ドイツにもベルリンにも日本から環境難民が来ています。数は 少ないとはいえ,私の身の回りだけでも何十人もいます。だから,これは決して遠いところの 問題ではなくて,日本の焦眉の問題なのです。すでに国内外に日本人の難民もいることをまず 指摘しておきます。 ここからは,ドイツの難民問題を話しするに当たり,私はジャーナリストで現場にいますから, できるだけ写真などをお見せして実情を説明したいと思います。 ドイツのここ 1 年半ぐらいの難民問題については,お手元の資料として,雑誌『世界』への 3 回にわたる寄稿があります 1) 。これをお読みくださればおよその経過だけはよくわかると思いま す。これらと今日の話と合わせて考えていただければ幸いです。 列強による国境線引きと難民 まず,大きい視点からですが,皆さん,この写真は何だと思いますか。実は,これは,1939 年 8 月の独ソ不可侵条約には,バルト諸国とポーランド分割の秘密議定書があり,それに付属 したスターリンと当時のドイツの外務大臣リッべントロップのサインの入った分割案の地図で す。ドイツ外務省のアーカイブにあるオリジナルのカラー写真です(写真1)。 そこにずっと線が引いてあるでしょう。ナチ・ドイツとスターリンのソ連邦がポーランドを

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験

梶村太一郎

皆さん,こんばんは。では,いきなりレジュメにないところから始めますが,実は私は 2010 年に,つまり 6年前に

この京都を訪れています。当時,首都大学東京に呼ばれて,1学期間にカント哲学に関連した文献の翻訳の演習をしたのですが,その機会に,4月に京都に来て,嵐山の花見をしたことがあります。その時は「もうこれが最期の嵐山の花見だ」と思って来たのです。なぜだかおわかりでしょうか。高速増殖炉の「もんじゅ」が再稼働する予定の直前だったからです。「もんじゅ」で事故が起こったら,日本は物理的におしまいだということは私にもわかっていました。そのために反原発運動を担っている日本の友人の弁護士の皆さんが,親切にもわざわざ京都での花見に招待してくれた次第です。ところが全く幸運にも,燃料棒を入れる装置が炉内に落下する事故が起こり再稼働できなかった。皆さん,これは冗談話ではありません,本日ここで話ができるのもそのおかげです。深刻な問題です。その翌年に何が起こりましたか。3月 11 日に,あのフクシマ事故が起こったでしょう。まさに私が嵐山で予想したことが福島で起こった。誰もいない満開の桜の情景。それが日本で現実となりました。そのため,あの事故のあと,ドイツにもベルリンにも日本から環境難民が来ています。数は少ないとはいえ,私の身の回りだけでも何十人もいます。だから,これは決して遠いところの問題ではなくて,日本の焦眉の問題なのです。すでに国内外に日本人の難民もいることをまず指摘しておきます。ここからは,ドイツの難民問題を話しするに当たり,私はジャーナリストで現場にいますから,できるだけ写真などをお見せして実情を説明したいと思います。ドイツのここ 1年半ぐらいの難民問題については,お手元の資料として,雑誌『世界』への 3回にわたる寄稿があります1)。これをお読みくださればおよその経過だけはよくわかると思います。これらと今日の話と合わせて考えていただければ幸いです。

列強による国境線引きと難民

まず,大きい視点からですが,皆さん,この写真は何だと思いますか。実は,これは,1939年 8 月の独ソ不可侵条約には,バルト諸国とポーランド分割の秘密議定書があり,それに付属したスターリンと当時のドイツの外務大臣リッべントロップのサインの入った分割案の地図です。ドイツ外務省のアーカイブにあるオリジナルのカラー写真です(写真 1)。そこにずっと線が引いてあるでしょう。ナチ・ドイツとスターリンのソ連邦がポーランドを

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立命館言語文化研究29巻 1 号

その線で分割しようと協議決定し,その横に青鉛筆でざっと書いてあるのがスターリンのサインです。その下に赤でリッベントロップがサインして,彼は日付まで書き込んでいますね。この一つの地図が難民問題について語るところのものというのは何でしょうか。これによる独ソのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まります。それから,第二次世界大戦の終結までに全欧州でどれだけの難民が出たと思いますか。そういう研究というのは,余り知られてませんが,当時の全欧州大陸の人口の約 10%の人たち,すなわち 6,000万人が難民,追放,あるいは強制連行の憂き目に遭っています2)。10%なんです。つまりその当時の欧州史上最大の難民の,あるいは追放者発生の一つの決定的な原因になったのがこの地図です。その結果,戦後にポーランドの国境が大きく移動します。そのためにヨーロッパでは,史上最大の大きな住民の入れ換えが起こりました。後でも詳しく話しますが,そのため戦争末期から戦後に 1,250 万人のドイツ人がドイツに逃げ

てきました3)。日本語では「引き揚げ者」と言いますが,これは「引き揚げ者」ではなく,避難民であり,あるいは被追放難民でした。関連ですが,つい最近,朝日新聞がこういう特集をしています。「植民地支配の記憶の中で」という見出しで,ごらんになった方もあるかもしれません。ここでは,戦後,約 630 万人のアジア諸国からの引き揚げ者が日本に帰ってきたとあります。このような情報も今までは少なかったのですが,特集しました4)。ところが,日本が中国大陸で行った 15 年戦争,特に 1937 年に始めた日中戦争で,中国大陸

では,一体どれだけの難民が出たかご存じですか。そういう研究は,日本では余りされていませんでしょう。いろんな研究があるんですが,日中戦争の間で,中国全土で出た難民の数は 9,500万から1億人だと推定されてます。これが膨大すぎる数字だという議論もあるかもしれませんが,少なくとも欧米の研究者が,いくつかの研究で今のところそういうふうに推定されてます5)。すなわち,日本へは 630 万人が追放難民として帰ってきた。ところが,中国大陸ではそれの10 倍以上,15 倍に及ぶ被害を受けているのです。この問題意識が全く欠落してるのも朝日新聞のこの特集記事です。日本の貧困な歴史認識の現状です。さて,その次のもう 1枚の地図。これは,ディー・ツァイトというドイツの週刊紙が,つい最近掲載したものをわかりやすいので写真に撮ったものです(写真 26))。これは,時代がもう一つさかのぼって,第一次世界大戦中の 1916 年 5 月,英国とフランスとロシアによってサンクトペテルブルクで,これも秘密に議論されて決定された,いわゆる「サイクス・ピコ秘密協定」の地図です。これは最近シリアの問題でよく出てきているのでご存じの方もあると思うんですが,ここにはロシアは入っていません。ロシアでは翌年に革命が起り協定から脱落し,そのため秘密協定

写真1

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験(梶村)

も暴露されました。にもかかわらず,結果として列強によるオスマン帝国分割は実現し,イギリスとフランスが中東の自分の勢力圏を線引きして分割しました。これが,現在の中東の基本的な国境になっています。シリアとイラクの国境線がここに出ています。この国境線を認めないとするのが,自称「イスラミック・ステート= IS」の主張です。つまりこの問題が現在の難民の大きな原因の一つなのです。すなわち,100 年前のこの歴史的な国境の設定,列強による分割線引が,現在の問題,ドイツにやって来る難民たちの運命を決定した要因となっているのです。100 年前の政策が今になって反動として猛烈に歴史的報復をしているのです。したがって,列強による国境の設定というのが,いかに人類史に対する罪悪というか,害悪をもたらすものかということがこれらの例でよくわかると思います。その後,第二次世界大戦後のいわゆる難民の問題で,一つは 79 年のアフガニスタンへのソ連邦の侵略ですね。それ以来のアフガニスタンから出てる国内難民,あるいは外部に出た難民が約 600 万人います。現在では,そのうち約 200 万人がパキスタンにおり,それから 100 万人がイランにいます。その人たちの中で力のあるというか,財政的に豊かな人,あるいは若い人たちが今ヨーロッパに難民として押し寄せているわけです。 あと幾らでも世界各地の例はあげられますが,難民の問題というのはこういった歴史的な背景を踏まえておかないと全く理解できません。もう一つ考えてほしいのは,朝鮮半島です。朝鮮半島も強権によって,今 38 度線で分断してますね。必ずこれがまた難民を生みます。ベルリンの壁の崩壊を体験した私はこれを確信しています。原発事故の難民同様に,必ず難民を生みます。それがどういう形で生まれるかはわかりませんが。ただし,それが起こったときには,日本にも難民が来ます。これも 10 万人,20 万人,状況によっては 100 万人という単位で来ます。そのことを皆さん考えておいてください。だから,日本がこれ以上に原発難民を出さずに生き延びておれば,その人たちを受け入れ保護するのが日本人の義務だと私は思っています。

ホモ・ミグランスとしての人間

さて,ドイツにおける移民研究者というのは随分いまして,専門家というのは各分野におり,そのうちの 1人にクラウス・バーデさんという歴史学教授がいます。この方は,ヨーロッパ史での難民・移民問題,要するに移民史の大御所です。この方がおもしろいことを言っています。人類にはホモ・サピエンスという学名があります。でも,人類史を見ると,人類というのはアフリカから発生してずっと歴史的に世界中に分散し

写真2

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て移動を続けてきた。人類にとってはミグランス=移住も,誕生,生殖,死去と同じく一つの本性である。したがって人類はホモ・ミグランス(homo migrans)であると定義しています。私も全くそうだと思います。これは否定できない。日本人もアジア諸地域から,あるいはアイヌの人たちもどこから来たかわからないけども日本人より古い移民で移住者です。私たちが知らない歴史の先住者です。本性により移住して生き延びてきたのがホモ・サピエンスです。バーデ教授は冷戦終結直後の1991年にオスナブリュック大学に「移民及びインターカルチャー研究所」を設立し,冷戦後最初に大量の難民がドイツに来て社会問題になった 1994 年には,亡命者の社会統合への啓蒙書『ホモ・ミグランス』でドイツの近現代の移民史を著述しました。その後,2007 年には同研究所の後継者たち 4名とともに大著『一七世紀以降のヨーロッパ移民史百科事典』を出版しています。移民に関する 220 の項目を 1,100 ページで解説した,いわばヨーロッパの移民史のハンドブックと言えます7)。

近代ドイツ史における移民

その共著者の一人にヨヘン・オルトマー教授がいます。この方が同僚と共著で,若年者用に絵本を最近出版しました。これがオリジナルです(写真 38))。12 歳以上の中学生あたりを対象にしてあるのですが,これが本屋に行ったら平積みにしてあります。今ドイツでは,難民問題というのが非常に大きなテーマになってますから,子供たちの一つの教材とか,あるいは啓蒙書としてこの専門家が,ある女性の絵描きさんと協力して,ドイツにおける移民・難民問題というのはどういうものなのか,主に移民問題について,150 年ぐらいのドイツにおける移民の歴史を挿絵ともに解説してある本です。先ほど高橋秀寿先生もおっしゃってましたが,移民としてはドイツ自身が外に出ていった体験を持つ国ですね。この本を読んでみますと,私も全く知らなかったような子供向けの史実がみられます。例えば,ここにこういう 1ページがあり,羊飼いの少女のような挿絵が見れます。これは,第一次世界大戦が始まるまでの 150 年間に,オーストリアとスイスの山岳地帯の貧しい遊牧民の子供たちが,南ドイツのシュワーベン地方へ冬の季節労働者として出稼ぎをした歴史です。小さい子供はなんと 8歳ぐらいから,15, 16 歳ぐらいの子供たちでした。冬場の口べらしと,子供達の稼ぎを納税の足しするためです。1830 年頃には 4,000 人弱の少年少女の出稼ぎが推定できるとあります。これを読んで,同書に指摘はありませんが,私が初めて気づいたのは,いわゆる「アルプスの少女ハイジ」という童話が生まれた背景がここにあるということです。そんなに数多くはなかったのですが,非常に貧しい山岳のアルプスの子供達が豊かなドイツの街に来て,女の子は裕福な家庭のお手伝い,男の子は大きな農家の家畜の世話をするということが 150 年間も続い

写真3

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験(梶村)

たそうです。これも一つの移民です。出稼ぎ労働者の移動です。季節労働者ですね。こういった史実も見られ,非常に参考になりました。さて,ドイツ史における移民受け入れで大きな影響をもたらしたのがユグノー教徒です。17世紀にドイツは 30 年戦争で非常に疲弊し人口が減ります。そのときに,ユグノー教徒というフランスの新教徒が本国で非常に立場が悪くなったのをドイツが受け入れます。当時のブルボン王朝のころのフランスというのはヨーロッパで最も文化が高く,しかもユグノー教徒は豊かな商工業者が多かったのです。彼らはドイツに様々な科学技術や文化をもたらし,その当時は遅れていた特にプロイセンあたりの文化を大いに豊かにしてくれました。この人たちの後裔というのは,今でもそれを誇りにしてドイツで生きてます。例えば現メルケル政権で難民受け入れの担当大臣である,トーマス・デメジエール内務相がいますが,彼の家系は 17 世紀にフランスのメッツからブランデンブルクへ亡命したユグノー教徒です。以来,デメジエール(de Maizière)という典型的なフランス語の名前をそのまま今でも誇りを持って使っています。それから 18 世紀には,エカチェリーナ 2世というドイツからロシア皇帝に嫁いだ女帝がいました。帝政ロシアでは最強の啓蒙専制主義者の女帝といわれています。彼女はプロイセンのプロテスタントの将軍の家庭に生まれ,わずか 2歳から亡命ユグノー教徒の女性家庭教師にフランス語で教育を受け,田舎貴族としては抜群の教養を身につけています。この女帝がドイツからロシアの豊かなヴォルガ地方に多くの農民を移住させる政策をとりました。彼らはヴォルガ川両岸を開墾し豊かな穀倉地帯としたヴォルガドイツ人と呼ばれ有名です。彼らに続き,ロシア各地には 19 世紀末までに 190 万人ほどの主に農民のドイツ人が移住しています。ところがソ連邦が崩壊した後の 1990 年代に,政情不安と経済危機のため,この人たちの後裔

の大半がドイツに帰ってきました。冷戦終結後に旧ソ連邦と東欧諸国からのドイツ系住民家族のドイツへの移住者数は 2011 年末までで 320 万人にもなっています。中には 250 年も経ってからの再移住家族もいますから,彼らの社会統合には難民同様の語学教育と同じだけの経済負担が伴います。しかし彼らはドイツ人として受け入れられているため,難民や亡命者の統計数には入っていませんから,日本ではほとんど知られていません。これがここ 250 年ほどにあったドイツ人の東方移住の歴史です。西方移住としては,19 世紀にドイツで産業革命が起こり,第一次大戦に至る 70, 80 年間に,合計で 550 万人ものドイツ人が大西洋を渡り,主にアメリカと北米へ,少数ですが南米へも移民として渡っています。当時の 550 万人という数字は巨大です。だから現在でもドイツ系アメリカ人というのは数が多いのです。皆さんがよくご存知のドイツ系アメリカ人を 2人挙げます。「2人のドナルド」というのがいるんです。1人は,ドナルド・ラムズフェルドです。ご存じだと思いますが,イラク戦争のときのブッシュ政権の国防長官です。彼はブレーメンの近くからのドイツ人移民の子孫です。彼はまだ若かった 1970 年代にアメリカ政府の役人としてブリュッセルの NATO(北大西洋条約機構)本部へ派遣されていた時代にルーツ探しの結果,ブレーメン郊外の村に同姓の親族を探し当て,100 年ぶりに親戚付き合いを始めました。その当時の村人は親戚のアメリカ人が共産

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立命館言語文化研究29巻 1 号

主義から西ドイツを守ってくれていると歓迎して家族同様に扱われました。ところが,2003 年に彼がイラク戦争を始め,戦争に反対するドイツやフランスを「古いヨーッロッパ」であると非難したため,彼はドイツの親族から絶縁されました。一族の長老のおばあさんが,「彼は耄碌したと見え,とんでもないことを言ったり,国際法違反のひどい戦争を始めた。彼とはもう親戚付き合いはしない」と欧米のメディアに述べたため大きなニュースになりました。それ以降,ラムズフェルドというのは,今でもヨーロッパ訪問がしづらいのではないのかと推定しています。理由は,彼はイラク戦争で捕虜の拷問容疑で,2006 年にはドイツで,2007 年にはフランスで告発されたからです。欧州には国際刑事裁判所があり,戦犯犯罪裁判が行われています。また独仏は戦争犯罪に関しては普遍的管轄権を行使でき,自国内の裁判所で第三国の戦争犯罪容疑者を裁くことができます。アメリカはこの協定を批准していないので自国内にいる限りは大丈夫ですが,告発で欧州へ入れば拘束される可能性が現実としてありました。その後,独仏の最高検察が,国際刑事裁判所非加盟のアメリカ政府から犯罪を立証する証拠を得ることは難しく,公判が維持できない可能性が高いとして不起訴となっています。しかし欧州では彼は依然として戦犯容疑者であるのが現実です。それと,もう一人のドナルドは,これは最近メディアを毎日にぎわしているドナルド・トランプ氏です。トランプさんというのも,同じく 19 世紀のドイツ人の移民の後裔です。彼については,ここでは時間の関係で話しません。ドイツ移民のネガティブな 2人の例を挙げましたが,逆にアメリカの文化に非常に貢献したドイツ人系の移民というのは,それこそ数え切れないほどいます。移民国家であるアメリカ合衆国政府の住民調査によれば,ドイツ系とされるのは 4,500 万人で最大のグループとされています9)。以上のように,産業革命による人口増加で大量のドイツ人が海の彼方へ移住しています。ところが,それと同時期に,ポーランド人約 120 万人が労働力としてドイツのルール地方に入っています。ドイツのルール地方は,ご存じだと思いますが,大きな炭鉱のあったところで,ドイツの重工業にとっては一番重要な工業地帯です。そこの炭鉱夫という一番きつい仕事の労働力を維持するために,当時ドイツ領であったポーランド,ポーランドは何度も国が分断されて消滅してますから,東プロイセンであったこともあって,そこのポーランド人がルール地方に労働移民として来ました。この人たちが,いわゆる近代のドイツへの移民の代表的なグループです。彼らはポーランド語しかできない,ドイツ語は話せないし話すつもりもない。しかも,当時のドイツでは労働組合が強かったから,その影響もあって,組合はつくるは,独自の新聞を発行するはで,プロイセンの官憲からが非常に警戒された最大の移民グループとなりました。ところが,この人たちも三世代目になって,ようやくドイツ語も話せるようになり,ドイツ国籍も得てドイツ人になります。私もこの三世代目というのが一つの基準だと思います。移民の社会統合には三世代かかるのが普通です。全く別の民族,あるいは文化の人たちが一つの異文化に統合されるにはおよそ三世代かかるというのが私の経験則でもあります。現状でのその例を挙げましょう。きょうは,後で石川真作先生が,今の現在のドイツでのトルコ人の問題について詳しくお話になります。つい先月,ベルリンでは州議会選挙がありました。

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験(梶村)

ベルリンにはトルコ人が随分多く,その多くがドイツ国籍を得て選挙権を持っています。州議会選挙に当たって,トルコ人のコミュニティの月刊誌が選挙特集を出しました。これがおもしろいのです。各政党と候補者たちの政策がドイツ語とトルコ語で併記してあるのです。年寄りのトルコ人は,いまだにドイツ語ができない。ところが,一番若い三世代目,四世代目のトルコ人たちは,逆にトルコ語がおぼつかなく,ドイツ語のほうがよくできる。しかも州議会には,かなりトルコ系の議員がいます。だからこのようなものが必要なのです。これを先日トルコ人の八百屋さんで見つけましたので一冊貰ってきました。

「難民論争におけるドイツ人追放体験の記憶」

さて,ここから,現在の問題にとして,本論に入ります。ステファン・ショルツというオルデンブルク大学の歴史研究所の博士課程の学者が,今回のドイツにおける難民問題で,歴史の記憶における新しい現象が起こってることの議論を始めています 10)。ちょっと難しいのですが,「運命の比較」による「歓迎する文化」,「難民論争におけるドイツ人追放体験の記憶」ということなんですが,今から説明します。この写真を見てください。これは,昨年 2015年 10月の,去年のちょうど今ごろに撮影された写真です。ライプツィヒという大きな市があります。市役所のファサードに引き伸ばされた大きな写真が 2 枚並行して掲げられてました。写真だけで何の説明もされていません(写真 4)。向かって左側の写真,これは何かというと,1945 年 3 月の敗戦時に,ダンツィヒから子供を抱いて戦火から逃げるドイツ人女性たちの写真です。右側の写真は,それから 70 年後,2015 年のシリアのアレッポ県のクルド人の多いコバニ市での子連れの女性の写真です。どちらも背景は戦災の廃墟です。説明の必要はなく似ています。現在のシリア難民というのは,かつてドイツ敗戦後の自分たちの運命と同じ運命を負った人たちであるということを,行政の中心は市役所に掲げて市民たちに訴えたのです。そして市民は説明がなくともその意味と意図を理解したのです。この現象が実は新しいものなのです。以前,1990 年代の前半に東欧諸国が崩壊し,主にバルカンからドイツに 40 万人ぐらい難民が来たことがあります。そのときには,ネオナチが暴れて難民施設に放火したり,トルコ人が殺されたりしたことがありました。そのときは,ワイツゼッカー元大統領も先頭に立って,外国人敵視に反対する延べ 100 万人を超える大デモをドイツ全体で展開し,極右の動きを封じたことがありました。

写真4

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ところが,今回の場合も同様に極右らに対して,排外主義はドイツでは許されないんだという動きは強いものがあります。しかし,今回の場合は少し違ってきているのです。あれから約一世代後の現在のドイツの市民たちというのは,この難民に面して,自分たちの歴史的被害体験を重ね合わせて見るようになった。これが新しい現象なのです。だから,この難民たちの運命との比較によって,この人たちを助けなければならないという共感意識の高まり,これこそが私が『世界』でも報告したドイツ社会の「歓迎する文化」,困っている人たちを歓迎する文化が定着してきていることの背景なのです。先に少し触れましたが,敗戦によって,1950 年の東西ドイツにおける人口調査によれば,1,250万人のドイツ人の追放者や難民を東西ドイツ両国で受け入れてます。しかし当時は戦災で破壊された廃墟のようなドイツに受け入れざるをえなかった。歓迎などしようにもできないし,それを期待すべくもなかった中での社会統合です。避難民は,同胞に冷たく差別され,大変な苦労をして異郷に生活の基盤を築いたのです。この苦しみの体験というのはドイツの戦後史の大きな傷としてのちの世代にも残っているのです。今でも家族史の記憶としてずっと残っています。現在では 8,000 万人ほどドイツ人がいますが,その 4分の 1に当たる 2,000 万人ぐらいの祖父,

祖母の世代というのは難民でした。1,250 万人がドイツへ。それから,50 万人がオーストリアへ避難して住み着きました。その苦難の集団的記憶が難民を目前にして えったのです。いくつか研究調査があり,今回の場合はドイツ国籍を持つドイツの住民の 10%がこの難民問題で具体的な援助活動をしていることが報告されています 11)。かつてのようにデモをするだけではなくて,難民を助ける活動をしているのです。ということは 800 万人になります。それが,現在では余り報道こそされてませんが,今でも続いています。時間とともに活動内容はいろいろ変わりながらも続けられています。このような膨大な数の市民の無償の援助活動なしには,いくら政府と自治体が努力しても短期間に 100 万人を超えた難民を受け入れることはできません。これはやはり新しい現象です。そこのところが,なかなか実証報道するには難しいところなんですが,実態はそうなのです。その人たちへ世論調査があります。「あなたの先祖に東欧からの戦後の追放者はいますか」という問いに,ボランティアで活動している人たちの 3分の 1 が「はいそうです。私の祖父母,曽祖父母が避難民でした」と答えてる。すなわち,人口統計では 4分の 1 しかいないのですが,ボランティアをやってる人たちの 3分の 1はそういうふうに答えています。これは,歴史的体験,追放された体験が,現在ここで共感として生かされていることを裏づけています。現世代のドイツ市民の生き方の一つとして定着してる姿といえます 12)。ドイツに「被追放者同盟」というのがあります。彼らの家族は,長い間東方のドイツ領であった東プロイセン,現ポーランド領のシュレジア地方,あるいはチェコのズデーデン地方,あるいは東欧諸国に何百年も住んでいました。彼らは敗戦によってほぼ大半が追放されました。多くがこの運命を絶対に容認できず「故郷と財産を返せ」と主張し続け,西ドイツで一大保守政治勢力となりました。皆さんも,オーデル・ナイセ国境を巡る議論をご存じでしょう。戦後はオーデルとナイセ川がドイツとポーランドの国境になり,東方領土を全て失いました。彼らは「ポーランドに取られるはけしからん,絶対に納得できない,故郷と,財産を返せ」と一貫して要求

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験(梶村)

し続けました。何しろ 1,250 万人の大半の要求だから,その人たちが与える影響力というのは大きかったわけです。したがって戦後の西ドイツの市民団体の中で,最も保守的で影響力のある団体でした。そのためポーランド人が最も嫌い恐れたのは,当然ながらこの団体でした。冷戦終結後,多くのポーランド人は「またドイツ人らが来て,自分が所有している元ドイツ人の家や土地を返せと言うのでないか」と「冷戦の勝者の報復」を懸念して本当に恐れたものです。現在でもポーランドでのドイツ人の報復主義への警戒心は根強くあります。ところが最近,この団体に静かに変化が起こってきています。それを象徴する出来事がありました。現在のドイツのガウク大統領が昨年の 2015 年 6 月 20 日に,この団体も招いた集会で演説をしています。6月 20 日というのは,実は国際連合で決議された「世界難民の日」なのです。これに合わせて現大連立政権は,初めて政府主催の「逃亡と追放の犠牲者追悼の日」を開催し,これにこの団体を招いたのです。ちょうど今回の難民数が急速に増え始めた時期に当たります。それまでに「被追放者同盟」では世代交代も経て長年の議論の末に,逃亡と追放の苦しみは自分たちだけのものではないとの認識が主流となっており参加しました。ガウク大統領はそこで演説し,メディアへも注意深くこういうこと述べています。ここだけ少しゆっくり話します。「かつて逃亡し,追放された記憶は,今日逃亡し,追放されている人々への私たちの理解を深めるかもしれません。今日の難民は,戦後の難民の後継者なのです」と述べ,「かつての運命と今日の難民の運命」は「完全に実存的な事情 /ganz existenzielle Weiseで関連しているのです」としました 13)。彼がここで行ったのは「運命の比較」です。ここにドイツの保守層の負の歴史の被害体験が,被害の訴えから,困った人々に共感し,難民を助けるという質的な転換を始めたことを大統領はこのように表現して促したのです。これが,現在のドイツの姿です。戦争体験から 3世代を経て,かつての自分たちと同様な運命の被害者たちを受け入れる行為によって,受け入れる社会自体のアイデンティティそのものが,他者に開かれた社会へと転換しつつあります。この転換は一般の報道ではほとんど触れられません。日本のジャーナリズムも,あるいは大半のヨーロッパのジャーナリズムもそのことに気づいてません。ただ,ドイツはちょっと違うのではないか,なぜだろうと疑問に思っているのが現状です。「牧師の娘メルケル首相の隣人愛」で説明しようとする付け焼き刃な論調もみられます。しかし一歩離れたアメリカやカナダでは,メルケル政権の難民政策は高く評価されています。それは彼らの社会が移民社会であるからなのです。

難民受け入れの現場

以上は理屈ばかりになりましたので,以下は主に私が撮った現場の写真をお見せします。100万の難民と 800 万の援助するドイツ市民のほんの一端の写真です。これは,昨年の 8月初めの写真です。私の住居のすぐそばの大きな公園で野宿してる人たちがいました。彼らは普通のホームレスの人たちではありません。正面から顔を撮るのは人権問題ですからできませんが,家族連れでした。女性もいるし子供もいました。これは異常なこと

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立命館言語文化研究29巻 1 号

になってるなと私が初めて気づいたのは彼らを目撃したこの時からです(写真 5)。その頃ベルリンにやってきた難民たちが,正式な援助を受けるためには,まず役所に登録をしなければなりませんが,役所に登録を待つ人たちが一度に押しかけたため,特にベルリンでは事務処理がついていけず,多くの難民たちが,宿泊できる臨時の収容施設への振り分けすらされずに,何日も野宿する国内最悪の惨状となりました(写真 6)。まだこれが夏だったからよかったんですが。これはいかんと市民のボランティアが始まっています。この人は,実は,水道局に勤めていた現在は年金生活者の老人なんですが,彼は登録する役所前の広場に水道栓を臨時に設けて,飲料水を配っていました(写真 7)。当時は暑い夏の日が続き,とにかく水がないとだめだからと。彼は 2カ月ぐらいこれを続けてました。この役所はベルリンの中心に近いモアビットという下町の地区にあります。これは役所の側に設けられた「モアビットは援助する」という市民団体です。難民たちはこの人たちのところで,市民や民間企業が寄付したあらゆる救援物資物資を受け取ることができます。それで,当面必要な食料,衣類,衛生用品などを,難民たちに無償で配布するということを連日ボランティアでやっている光景です(写真 8)。無能な役所に代わってまず難民を助けたのは,このような市民です。通訳は亡命者の 2世や 3世の若者がほとんどです。ベルリンには昨年には,配分予定数を超えて 7万人の難民がやってきました。それで収容場所が不足し大変なことになりました。国防軍の兵士までが動員されて臨時収容施設を体育館な

写真7 写真 8

写真 6写真 5

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験(梶村)

どに設置しました。まさに緊急事態でした。この写真は,ベルリンには 1936 年の大きなオリンピック会場があります。そこに高い塔があ

るのですが,その塔の上まで登って撮影しました。オリンピック会場のすぐ近くにある 2つの大きな建物がありますが,これは体育館です。ベルリンの森が黄色くなってきた昨年秋の写真です(写真 9)。ここはドイツのオリンピックの選手たちも練習する立派な施設ですが,それを緊急難民収容施設として使いました。この施設の入り口では,ちょうど救援物資を持ってきた市民の姿がみられました(写真 10)。次は,この広い体育館の中で,やっと着き休息している難民の家族です。赤ん坊のベットも見れます。命がけの逃避行のあと,やっとここでほっとして休息する姿です。仮設ベッドで,プライベートもへったくれもありませんが,とにかく最初に休めたときの写真です(写真 11)。ほっとすればまず出るのが病人です。だから臨時の医療施設,診療所も設けてある。これはシリアから逃げてきた家族です。二人の子供の健康診断を待っている写真です。この人は,少し英語ができるので話を聞きました(写真 12)。次は,歯医者さんが臨時にポータブルの歯科用器具を持ち込んできて,難民の歯の治療をしてる写真です。この女医さんは,患者が行列になってるものだから,ものも言わないで,どんどんやってました(写真 13)。小児科の医師たちも大病院から手分けして駆けつけたボランティ

写真9 写真 10

写真 11 写真 12

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立命館言語文化研究29巻 1 号

アです。これは,別の場所のベルリンで一番古い家族用の住居と個室もある難民収容施設の保育園です。ここは,滞在認可を待っている難民の子供たちが保育児童として,ドイツ人の若い女性と,亡命者のアフリカ系の女性に世話になっている写真です(写真 14)。さて,これは,『世界』にも使った写真なんですが,去

年のクリスマス前に,私が偶然出会ったシリアからの難民3家族です。同誌に詳しく書きましたが,この子供たち,3家族,1人お母さんが,実はブルカという目だけしか出さない衣類を着てた人は,写真に入ってくれなかった。拒否というか,どうも知らない者に写真を撮られてはならないといった,宗教の戒律があるのだろうと私は解釈していますが,その人を除いた 3家族です。お父さんが1人だけついてきて,各家族に 3人子供がいるのです(写真 15)。この写真よくみてください。この 9人の子供たちは,本当に利発そうでしょう。『世界』にも

詳しく書いてありますが,今ドイツにやってきてる難民の約 3分の 1ほどは未成年者なのです。この子たちにドイツ語を教え,教育をして,それで社会に統合しなければならない。後で述べますが,ドイツの場合は,外国人の子供であれ,滞在を認可すれば,国際児童憲章に基づいて法的にもドイツ人の子供と同等に扱います。義務教育も厳格で,絶対に学校に通わせなければなりません。一旦滞在許可が出れば,毎月一人 2万 5000 円ほどの児童手当もドイツ人と同額でます。ですから,当局としては慌てては去年から,ドイツ全国で小中学校の教師を 2万人臨時募集しました。ところがそれには追いつかないのです。つい最近のこの 9月ぐらいの情報によりますと,なんとか 1万 5,000 人教師が集まり,各学校でまずはドイツ語授業から始めているというのが現状です。

写真14

写真 13

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験(梶村)

ドイツの国家予算では,全体でこういった難民関連の国家予算だけですが,およそ 2兆円を超えるものを計上しています。大変な金額です。また,ドイツでは経済が現在安定し,近年は黒字財政になっています。日本とちょうど反対です。この臨時支出をしても財政黒字は維持できています。したがって,以上のようにドイツ社会は次第に世代間によってポジティブに変わってきているといえます。受け入れるほうも,それから,受け入れられる難民たちのほうも,歴史的な体験からしても約 3世代をかけて社会統合を果たすことになるであろうと考えています。

極右政党の登場

しかしその反面,ドイツでも難民問題を弾みにして,ついに極右ポピュリズムが登場しています。彼らが各州議会に大変な勢いで進出してきました。これが難民問題の副産物としての最大の問題です。「ドイツのための選択肢 /AfD」という極右政党の登場です。高橋秀寿先生がさきほど少しお話になりましたが,昨年の 10 月 7 日に,ベルリンの目抜き通りでの初の大きなデモがあり,その写真です。一番先頭が党首たちです(写真 16)。このデモは歴史的ですから丁寧に写真を撮っておきました。とにかく反難民,反メルケル一色です。メルケルがアメリカの尻の穴から首出してるような写真とか,それから,ブルカをかぶったイスラム教徒の女性たちにバツがしてある写真。豚の耳をしたメルケルは東ドイツの秘密警察の後継者だと主張する悪意に満ちたプラカードがみられます(写真 17)。メルケルの政策と難民に対して感情的に憎悪を煽る集団です。この日は約 7,000 人が参加した最初の大規模なデモでした。これは,ウンター・デン・リンデンのフンボルト大学本部の前を彼らが行進してるときの写真です(写真 18)。ところが,その彼らが行進してるちょうど反対側には,こういうデモ隊がいる(写真 19)。ここは,ベーベル広場というナチ時代に焚書があった場所です。もともとは,この後ろの現法学部の建物がベルリン大学の旧図書館で,レーニンもここで法律を勉強したという場所です。そこに難民を助ける側の左翼が出てきて右翼のデモをやじっている写真です。ここで話は飛びますが,難民問題が最大になったちょうどそのころですが,イマヌエル・カ

写真16 写真 17

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立命館言語文化研究29巻 1 号

ントが現在の難民問題について,一体何を言うだろうかという議論が,いわゆるインテリの間で起こりました。いわゆる高級各紙が特集をやり,中には世界中のカント学者に問いかけて「一体カントが今生きておれば何を言うと考えるか」という特集もありました。これはおもしろかった(写真 20)。ドイツならではの雰囲気ですね。ドイツ人の発想として,物事を徹底的に原則的に,ドイツ語で言うとグルンドゼッツリッヒ・grundsätzlichに,思想伝統から議論していくということの一つの顕われであると言えましょう。もとに返って,これはベルリンの地方紙「ベルリーナ・ツァイトング」の本年 10 月 5 日の月曜日の写真です(写真 21)。例外的に 1面のトップに一コマ漫画が掲載されました。前日の 4日,メルケル首相は中国の杭州で G20に参加していました。ちょうどその日に彼女の地元の州選挙があり,極右 AfDが,いきなり 20%を獲得して躍進しました。しかもメルケル首相の党は 19%で極右より得票率が低いという惨状でした。これがメルケル首相には大打撃でした。G20 のちょうどその日に北朝鮮が日本海に向けてロケットを 2発発射して騒がれたのですが,それに引っ掛けてのパロディです。国際会議の会場に極右AfDのロケットが着弾してメルケルに命中している。「これはキムさんのものじゃないね」と皮肉られている。一面トップの記事の見出しは「メルケル(選挙結果への)責任を認める」です。これが現在のドイツの政治状況で,実は来年の総選挙で,果たしてメルケル政権が続くかど

写真18 写真 19

写真 20

写真 21

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難民・移民・アイデンティティ=ドイツの経験(梶村)

うか見通しは判らなくなっています。昨年の難民問題が起こった頃には,メルケル首相の支持率というのは 80%を超えていたのが,現在では 50%を割り 45%ぐらいになっています。

難民の社会統合を果たす法改正

しかし私は,政権の行方がどうなろうとも,また極右政党がついに来年秋の総選挙で初めて国会に一定の議席を占めようが,ドイツ社会の将来に悲観はしていません。その理由として関連の法改正について述べましょう。例えば,ドイツの国籍法は日本のそれのお手本であったように長い間血統主義でした。ところが,2000 年の年頭から,当時の社会民主党と緑の党の中道左派政権の時に出生地主義に移行する改正法が施行されました。それ以降にドイツ国内で生まれた外国人家庭の子供たちは,ドイツ国籍も取得でき,二重国籍の保持が可能になりました。この転換の歴史は,私の家族にも大きな影響があります。実は,私は1974年にドイツへ移住し,76 年と 82 年に子供ができて,私の連れ合いがやはり日本人なので,両国の血統主義の国籍法により家族は日本国籍のままでした。もちろんドイツで一定期間就業して税金を払っていれば,ドイツ国籍を取得することも可能でしたが,そのかわり日本国籍の放棄義務とか難題も大きい。だから大半の外国人にとって二重国籍の獲得と保持は非常に難しく例外でした。これが生地主義への移行によって変わってきました。最近,私のところに孫ができましたが,彼らは親の国籍にかかわらずドイツ国籍を取得できて二重国籍です。この生地主義への移行の背景には,戦後ドイツ社会に不可欠であった外国人労働者たちの,また冷戦後の欧州統合でますます増加する外国人たちの社会統合には血統主義は阻害要因であるとの認識があります。現在のドイツのように外国人が教育や職業の場でも不可欠に多い社会では,もはやいわゆる単一民族の国ではなく移民国家であるという認識が次第に定着したのです。そこで 2005 年には従来の外国人法と関連法規を大幅に改正した移民法が施行されました。移民社会である限り,移民を社会統合するのは国の責任であると具体的に明記したという法律ができたのです。そしてこれが,現在の難民対策の法的背景になっているのです。具体的には例えば,社会統合が国の責任であるから,したがって教師を 2万人集めてドイツ語を教える法的責任があるということです。これは立法化された国の義務なのです。これが大きい。したがってドイツは今,いわゆる単一民族国家から移民国家へ徐々に移行しているというのが現状であり,一挙に押し寄せた 100 万近い難民への対処と社会統合は,この移行過程の大きな試練であるということです。本年 7月末には新たな「難民社会統合法」が施行されました。当然試行錯誤は不可避ですが,長期的な方向は間違ってはいないでしょう。

結論

話が長くなりましたが,結論として,移民社会としての市民社会とは,最初に申し上げたホモ・ミグランスとしての人間存在に応じたものであり,したがって全ての人間をして,近代国民国家と列強諸国が力によって線引きしている国境と文化の境界を越える存在としてあることをま

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立命館言語文化研究29巻 1 号

ずは認める社会であるということだと私は思います。その上で,難民の社会統合というのは,ドイツ人の社会も移民を社会統合することによって,自分自身も変わって開かれたアイデンティティを獲得していくことだと思います。かつての保守的な被追放者団体がその被害体験の記憶を普遍化して次第に変わってきているように,その主権者のドイツ人住民も変わらなければならない。そして,また,当然入ってきた新しい移民ドイツ人たちも,かつての自分たちの文化を乗り越えて変わっていく,そこの中から新しい開かれた社会文化の市民のアイデンティティができてくるのだということだと思います。以上です。長くなりました。(拍手)

注1)梶村のドイツ難民問題に関する『世界』誌への寄稿は,2016 年 2 月号「メルケル首相の決断と難民問題で『明と暗』に引き裂かれるドイツ」,同 6月号「ドイツは難民問題を解決できるか」,同 11 月号「難民問題で暗転するメルケル政権」2)Jochen Oltmer “Kleine Globalgeschichte der Flucht im 20. Jahrhundert” APuZ 26-27 / 2016 S.193)Oltomer同上 S.224)朝日新聞特集:戦後の原点「植民地支配の記憶の中で 帝国の解体」2016 年 8 月 28 日に厚生労働省の同年 3月末の統計による「各地からの引き揚げ者の数」として「629 万 7252 人」とある。5)Oltmer 同上 S.19, Vgl.Sunil S.Amrith, Migration and Diaspora in Modern Asia, Cambridge 2011, S.1106)Die Zeit: Serie Das Erbe der Klonialzeit(3)von Jörn LEONHARD 12. Mai 2016 Nr.21 より引用7)Prof.Klaus Jürgen Bade: “Homo Migrans:Wanderung aus und nach Deutschland” 1994, 共著として“Enzyklopädie Migration in Europa Vom 17. Jahreshundert bis Gegenwart” 初版 20078)Jochn Oltmer, Nikolaus Barbian “Ein Blick in die deutsche Geschichte Vom Ein-und Auswandern” 20169)アメリカ内務省の住民局 United States Census Bureauによる 2015 年の調査10)Stephan Scholz: Willkommenklutur durch “Schicksalsvergleich”. Die deutsche Vertreibungserinnerung

in der Flüchtlingsdebatte. APuZ 26-27 / 2016 S.40-4611)一例として Umfrage von EKD Evangelische Kirche in Deutschland, Sozialwissenshaftliches Institut

“Skepsis oder Zuversicht? Er war tungen der Bevölker ung zur Aufnahme von Flüchtlingen in

Deutscheland” Petra-Angela Ahrens, Hannover, 17. Dezember 2015 S.13-14 には住民の 10.9%が実際に難民救援に参加しており,これはドイツでは最大で伝統的なスポーツへの参加 10.1%よりも高率であると指摘されている。

https://www.ekd.de/download/20151221_si-studie-fluechtlinge.pdf

またベルリンの経済動向研究所・DIW BERLIN による2016年度週報8号の S.159にも10%の数字がある。 https://www.diw.de/documents/publikationen/73/diw_01.c.527676.de/16-8-4.pdf

いずれの場合もこの住民の援助活動は直接のボランティア活動であり,別に金銭や物資の寄付行為をする住民は 30%の高率である。

12)Scholz同上 S.4013)Scholz同上 S.41, Joachim Gauck, Rede anlässlich des ersten Gedenktages für die Opfer von Flucht und

Vertreibung, Berlin, 20. 6. 2015 http://www.bundespraesident.de/SharedDocs/Reden/DE/Joachim-Gauck/Reden/2015/06/150620-

Gedenktag-Flucht-Vertreibung.html