マレーシアにおける 国民的アイデンティティの形成 …...謝 辞...

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マレーシアにおける 国民的アイデンティティの形成 立命館アジア太平洋大学 井口 由布 富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金 小林フェローシップ 2003 年度研究助成論文

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マレーシアにおける 国民的アイデンティティの形成

立命館アジア太平洋大学

井口 由布

富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金

小林フェローシップ 2003 年度研究助成論文

謝 辞

本論文は、博士(学術)学位申請論文「マレーシアにおける国民的「主体」形成」にもとづいて執

筆したものである。しかしながら、たんなる博士論文の要約ではなく、審査とその後のさまざまな批

判や意見をみずからのものにしながら、あらためて練り直したものである。論文執筆には多くの方々

からの貴重な意見、指導、協力をいただいた。博士論文審査の主査であり、博士後期課程をとおして

指導してくださった上村忠男先生に深謝したい。また博士論文審査において副査になっていただいた

齋藤照子先生、中野敏夫先生、宮崎先生、伊豫谷登士翁先生からはさまざまな助言や批判をいただい

た。いずれの方々にも記して深謝したい。

2003 年度から 1 年間、富士ゼロックス小林節太郎記念基金研究助成を受けた。この助成金なくして

は、論文のための資料収集と国際学会での報告は不可能だった。深く感謝したい。

論文完成までに協力をあおいだ人々は数知れない。コーネル大学留学中、新しい視座を示唆してく

ださった酒井直樹先生、マレーシアにおける調査・研究に人力くださったマラヤ大学のシャハリル・

タリブ先生とマレーシア国民大学のシャムスル先生、何度も報告を聞いてくれ、貴重な助言をしてく

れた東京外国語大学大学院上村ゼミの友人たち、資料収集に協力してくれたマラヤ大学の友人たち、

そして家族へ。感謝を記したい。

2004 年 10 月 28 日

井口由布

目 次

ページ

まえがき ·············································································· 1

第 1章:統一体的な思考とアイデンティティ ··············································· 2

第 2章:植民地時代の研究──統一体的な思考の誕生── ··································· 4

第 1節:「マレーなるもの」の主題化──言語と人種── ·································· 4

第 2節:国民的なものを想像する要件の形成──時間と空間── ··························· 6

第 3章:「現地」の側の研究──植民地主義的知の自己領有── ······························ 8

第 1節:アブドゥッラーの構想 ························································· 8

第 2節:ザッバの構想································································· 9

第 4章:地域研究──「 多プルーラリティ

」をめぐる構想── ······································· 11

第 1節:ファーニヴァルの「プルーラル・ソサエティ」論 ································ 11

第 2節:地域研究における「プルーラル・ソサエティ」論 ································ 13

第 3節:「三大民族」の登場 ··························································· 14

第 5章:マレーシアにおける社会科学の形成 ·············································· 16

第 1節:「一」をめざす──否定的イメージとしての「 多プルーラリティ

」── ······················ 16

第 2節:「 多プルーラリティ

」の集合体としての「一」──肯定的イメージとしての「 多プルーラリティ

」──······· 18

第 3節:構築されるアイデンティティ──統一体なき「 多プルーラリティ

」へ── ··················· 19

あとがき ············································································· 21

註 ··················································································· 22

参考文献 ············································································· 26

― 1 ―

まえがき

本論文の目的は、アメリカ合衆国を中心にして第二次世界大戦後に成立した地域研究という学問分

野が、その研究の対象地域である植民地支配から独立した新しい国民国家におけるアイデンティティ

の形成にどのようなかかわりをもっているのかを、マレーシアに焦点をあてて明らかにすることであ

る。地域研究は、植民政策学から植民地主義的な枠組みを継承しつつ、地域ブロックのなかの一関数

として一国研究をおこなうという新しい方法を確立した。このようななかにあって、新しい国民国家

における自国研究は、地域研究的な知の枠組みをみずからのものにする自 己領 有アプロプリエーション

の過程によって形

成されたと見てよいだろう。そこで本論文では、ポスト植民地におけるアイデンティティ(同一性)

の形成を、植民地主義的な枠組みの一方的な受容ではなく、支配者と被支配者のあいだの絶え間ない

衝突と合意── 折 衝ネゴシエーション

──の過程としてとらえることをめざす。折衝という概念は、内的な必然性

によって統一されたあらかじめ存在する「主体」としての支配者と被支配者とのあいだにおけるやり

とりを意味していない。そうではなく、折衝という行為が先行して、支配者や被支配者といった主体

位置を絶えずつくりだし解体するのであり、力関係によって「主体」がその関係の効果=結果として

出現するのである。しかしながら、折衝の過程において事後的に構築される「主体」ないしは主体位

置は、けっしてその同一性を完全に獲得することはない。そこで「主体」は同一性ないしは全体性を

うちたてようとする言説の絶えざる企図のうちにのみ跡づけられることになる。本論文が「主体」を

かぎ括弧に入れるのはこのためである。

本論文で着目するのは、「 多プルーラリティ

」という概念によって特徴づけられるマレーシアにかんする社会

科学的な知の形成である。「多」という概念は、統一体的な思考と方法的ナショナリズムによって特

徴づけられる社会科学の外部に位置づけられたものを、科学的な管理支配の対象としてとらえよう

とするための矛盾をはらんだ方途として提出されるとみることができよう。そこで、ここではマレー

シアにかんする分析枠組みとしてしばしば言及される「プルーラル・ソサエティ」論に焦点をあて、

「 多プルーラル

であること」がアイデンティティの形成にかんしていかなる問題をもたらしているかを検討

する。

第1章では学問分野とアイデンティティの形成の関係について説明をする。第2章と第3章では「地

域研究」的な知の形成の背景として植民地時代における知の形成に焦点をあてる。第2章はおもに植

民者側の知の形成に着目し、第3章は植民地支配を被った側が植民地主義的な知の枠組みをどのよう

に自己領有していったかを明らかにするつもりである。第4章は、ファーニヴァルの「プルーラル・

ソサエティ」論という強力な分析枠組みに焦点をあて、「地域研究」的な知の形成を論ずる。第5章で

は「地域研究」的な枠組みが自己領有されて、どのようにマレーシアの自己イメージが形づくられた

のかを検討する。

― 2 ―

第1章:統一体的な思考とアイデンティティ

この論考の直接のきっかけとなったのは、2001 年夏にマレーシア国民大学において開催された、マ

レーシア社会科学学会による第3回国際マレーシア学会議である。「マレー世界におけるプルーラリ

ズム」という題名のメインパネルでは、「プルーラリズム」にかんする多様な解釈が繰り広げられた1)。

それらの解釈は、大きく三つに分けることができる。第一の解釈では、「多であること」は、あるべき

均質で統一体的な状態を逸脱していることを意味する。第二の解釈は、「文化多元主義」や「多文化主

義」などの考え方を思いおこさせるもので、複数の統一体が集まって、より大きな統一体を構成して

いる状態である。第三の解釈では、「多であること」とは、統一体的なものの境界線を汚染し、掘り崩

し、統一体的な思考それじたいを超克する「雑種性」である。

「多であること」にかんするこれら三つの解釈は、統一体という概念にたいして異なる位置づけに

あるが、いずれも統一体という概念をともなわないでは発想できない。統一体とは、分割不可能な統

一体、すなわち、境界をもった有機的なボディであり、近代を定義づけ特徴づける概念の一つである

といえるだろう。とりわけ社会科学は、統一体としての不可分な個人をその最小の単位として出発し、

その考察の対象である社会も国民も境界をもった統一体として考えるのである。酒井直樹はこのこと

についてつぎのように説明する。

「社会」は、国際世界の基本的な構成単位とされ、世界を分割すれば、自己充足的な文化と政

府、経済をもった有機的な統一体としての「社会」が見いだされる、という常識にたったうえ

でわれわれの社会観が形成されてきたのであり、20 世紀の社会科学において、このような「社

会」観から自由になった仕事が驚くほど少ないのはこのような「常識」のためである。(酒井

1996:170)

社会科学がじつのところ、「方法的ナショナリズム」(伊豫谷 2002:21)によってなりたっているという

批判は、このような「社会」観から来るのだともいえるだろう。はっきりとした境界をもった有機的

な社会など、経験に照らして考えれば、どこにも存在しないことがわかる。だが、酒井直樹もいうよ

うに、経験における例外や反証をあげても、このような格率 maxim を無効にすることはできない。そ

れは、これが、「倫理的要請」として与えられるからである。酒井はつぎのようにいう。

近代において、社会、国民共同体、国民文化、国民語、国民経済、民族、人種といった統一体の

それぞれの輪郭が、たがいに重ね合わされて、相互に一致するかのように構想されるのは、経験

的に見出される個々の近代社会のあり方から帰納されたのではなく、経験に先行する要求、ある

いは、命令なのである。(酒井 1996:171)

このように、統一体であることを原則とした知とは、統一体であれという命令として機能する。雑

種的であるということはあるべき統一体的状況からの逸脱であり、遅れであるという前提のもとで、

この命令は、「雑種的で雑多なもの」をひとつの統一体へと帰属させ同化させようとする。だからと

いって、人類全体や地球市民といった地球上に唯一の統一体が、その命令のもとで構想されることは

― 3 ―

ほとんどなく、むしろ、複数の統一体が並列的に存在する状況が考えだされる。さらに、地球上に同

時的に複数存在するそれぞれの統一体の境界線は、けっして交叉しあったりすることはないと考えら

れる。すなわち、ある統一体に帰属している要素が、同時にほかの統一体に帰属することがあっては

ならないのである2)。

さらに、その知=命令は、雑多なるものに恣意的に分断線をひいて、区別し、複数の統一体をつく

りだすだけでなく、それらに優劣の判断を下し、序列化する働きをもつ。その序列の頂点を占めるの

は、「西洋」であり、「白人」であり、「男性」であった。このような命令は植民地主義支配をとおして

世界中に広まり、人々は、この知=命令系を内面化しある特定の統一体に同一化しようとすることで、

アイデンティティを獲得することとなるのである3)。それゆえ、植民地支配からの独立は、劣位の統一

体へ同一化によってアイデンティティを獲得することによってはじめて可能となるのであり4)、独立後

も、植民地主義支配をとおして確立したアイデンティティ構築のためのテクノロジーがひきつづき機

能するのである。

しかしながらはじめに見たように、マレーシアにかんする社会科学的な知の形成は、たんに統一体

の思考によってなされているだけでなく、「多」という概念を経由しながらなされているといえる。も

ちろん、それは統一体の思考の外部にあるのではない。だがそれは、人、言葉、土地、経済、政治な

どのそれぞれの輪郭がぴったりと重なりあっているという社会科学が陥っているという「方法的ナ

ショナリズム」による考え方と単純に一致しているとはいえないだろう。マレーシアにかんする社会

科学的な知が「多」という概念をめぐって形成されてきたのは、社会科学という学問分野がもつ二重

性によるものであろう。社会科学は地球上のあらゆる「社会」にかんする普遍的原理の追求をその使

命とする一方で、その原理に適合しない「外部」を暗黙のうちに設定し、それらを「エキゾチックな

東洋」や「オリエンタル」として、たとえば文化人類学の対象であるとみなしてきた(伊豫谷 2002:40)。

ところが、二つの大戦と世界恐慌によってもたらされた総動員体制によって、科学的合理性の追求と

いう社会科学の原理が合理的国家的統合とむすびついていくなかで、これまで社会科学の外部に位置

づけられてきた地域が社会科学的な記述の対象とされるようになるのである(山之内 1995、伊豫谷

2002)。このようななかで植民地をいかに支配し管理するかのための科学としての「植民政策学」や、

独立を果たした旧植民地をひきつづき管理するための科学としての「地域研究」、それらを継承する新

しい国民国家の「自国研究」が生み出された。以上のように、植民地やポスト植民地とは、統一体的

な思考によって特徴づけられる社会科学的な知にとっての矛盾と両義性の地点である。「多」という概

念は、そのような地点における折衝によって生み出された、それじたいが多義的な概念といよう。

― 4 ―

第2章:植民地時代の研究──統一体的な思考の誕生──

第1節:「マレーなるもの」の主題化──言語と人種──

イギリスによるマラヤの本格的な支配は、19 世紀末に開始されるが、マラヤをふくむ地域が記述さ

れたのは、それ以前にさかのぼるといえよう。ヨーロッパ人によるこの地域にかんする初期の研究は、

「マレーなるもの」を主題化することをとおしてなされたといえる。そのときに焦点をあてられたの

は、かぎられた空間に存在する統一体として発想される「言語」と「人種」であった。

まずは「言語」から見てみよう。スタンフォード・ラッフルズは、1816 年の『アジアティック・リ

サーチ』に掲載されている論文において、「マラユ民族 Malayan nation を、一つの言語を話す一つの

人々として考えざるをえない」(Raffles 1816:103)としている。

わたしは、マラユ民族 Malayan nation を、一つの言語を話す一つの人々として考えざるをえな

い。もちろんかれらは、広い空間に散在して、かれらの特徴と慣習を維持しており、その範囲は、

スールー海と南部の海洋とのあいだに横たわる海岸部諸国のすべてにわたり、経度的にはスマト

ラ島の西とパプアもしくはニューギニアにおいて区切られている。(Raffles 1816:103)

ラッフルズによれば、一つの言葉をもつ「マラユ民族」は「広い空間に散在」しているものの、そ

れでも「マレー諸島」や「インド諸島」と呼ばれる一つの空間を越えることはない。また、ウィリア

ム・マルスデンも 1812 年に出版されたマレー語の文法書の序の部分において、マレー語のひろがりを

次のように定義している。

マレー語 Malayan 、ネイティブたちの言葉で言うところのムラユ語 Malayu は、東インド諸島と

大まかに定義される地域に広がっている。この地域は今でいうところのマレー半島とスマトラ、

ジャワ、ボルネオ、セレベスの島々とそのほか数え切れないほどの島々、東は香辛料諸島と呼ば

れるモルッカ諸島、南はティモール島、北はフィリピン諸島までを含むマレー諸島である。

(Marsden 1812:i)

このように、マレー語は、「東インド諸島」や「マレー諸島」と定義される、かぎりのある地域に広が

る、一つの体系をもった言語として定義されるのである。

言語がかぎられた空間に存在する閉じられた体系であるという考えは、辞書の登場と無関係ではな

いだろう。事実、ヨーロッパ人による初期のマレー研究は辞書編纂作業として展開している。マレー

語辞書の歴史のはじめの三世紀は、マレー語とヨーロッパ語による二言語辞典の歴史であり、マレー

語をマレー語で説明する単一言語辞典の登場は、マレー語を自らの言語と考える人々が辞書の編纂作

業に参加する時になってからであった。ラッセル・ジョーンズによれば、はじめてのマレー語の辞書

はキャスパー・ウィルテンスにより編集され、1623 年に出版された(Jones 1984:vi)。1701 年には、

はじめて英語によるマレー語辞典(英語マレー語、マレー語英語)がトーマス・バウリーによって編

纂されロンドンで出版された。1812 年には、ウィリアム・マルスデンによるマレー語英語、英語マレー

語の辞典が文法書と同時に出版された5)。マルスデンの辞書にはネイティブによる作文のフレーズや、

― 5 ―

文章の例、アラビア文字によるマレー語の書記であるジャウィによる綴りが掲載され、バウリーとは

異なり語幹 kata dasar から引くという特徴を持っていた。語幹から調べるという方法はその後の辞

書にも引き継がれ、マレー語辞典の規範形式となった。

辞書は、統一体としての言語という見方を目に見える形で示しているといえるだろう。というのも

辞書は、どんなに分厚く数巻に分かれていたとしても、かならず完結していなければならないからで

ある。アルファベット順に並べられていれば、辞書は、Aからはじまり最後はZで終わらなければな

らない。このような辞書の物理的な閉止が人々に可能にしたのは、辞書が対象とする言語が、空間的

にかぎりのある統一体であるという認識の方法である。それは、ある言語のすべての語彙が一冊(も

しくは数巻)の辞書の中に規則正しくきちんと並べられているはずであり、辞書に収められていない

言葉は、異なる体系をもった異なる言語のものであり、別の辞書に収められているはずだという発想

である。すなわち、完成されたマレー語の辞書の誕生によって、かぎられた空間に広がるひとつの体

系をもった言語としてマレー語を想像することが可能になったといえるだろう6)。

ところで、「マレー語」による「マレーなるもの」の主題化は、一つの問題をかかえていた。「マレー

なるもの」を「マレー諸島」という空間のなかで考えることはできるが、「マレー諸島」を「マレーな

るもの」だけで考えることはできないからである。ラッフルズが、「マレー語」の分布状況を海岸地域

に「散在」していると説明したように、「マレー諸島」には、「マレー語」として分類できない諸言語

が同時に存在していると考えられていた。すなわち「マレー諸島」は、「マレー語」と「マレー民族」

によってのみ埋め尽くされているわけではなかったのである。そこでジョン・クロフォードやアルフ

レッド・ウォーレスは、二つの異なる人々からなりたつ空間としてこの地域を考えることになる。そ

のさい、かれらは「言語」よりもむしろ「人種」に着目した。当時ヨーロッパにおいてしだいにさか

んになってきた「人種」にかんする「科学的」研究を利用したのである7)。クローフォードは、ラッフ

ルズのいうマラユ民族の分布地域にほぼ相当する地域をインド諸島と呼び、二つの異なる「人種」が

住む地域として説明した。クローフォードによれば、「インド諸島には(肌の)色の白いもしくは褐色

の先住人種と黒人種の先住民」がおり、このうち前者は海岸部に居住し、マレー語を話し、文明化さ

れているが、後者は内陸部に住む「未開人」で、マレー語を話さないという(Crawfurd 1820)。

クローフォードによるこの考え方は、ダーウィンとならんで進化論を提唱したウォーレスによる

1854 年から 1862 年にかけての「マレー諸島」の探検に多大な影響を与えることになった。ウォーレス

も、「身体的・精神的な特徴」によって区別される「人種」に大いに関心をもった8)。ウォーレスの考

察地域である「マレー諸島」は、クローフォードのインド諸島にソロモン諸島をくわえた地域である。

ウォーレスによれば、この地域では、動植物の分布と「人種」の分布が相似性をなしており、有名な

ウォーレス線によって二つの人種の分布地域が分割されているという。ウォーレスはいう。マレー諸

島にはきわめて対称的な二人種が住んでおり、それは「ほとんどが西半の大きな島々にのみ住むマレー

人と、ニューギニアおよびその周辺のいくつかの島を本拠地とするパプア人である」(Wallace

1986:584)。このように、クローフォードやウォーレスにとって「インド諸島」や「マレー諸島」は、

二大「人種」が居住する閉じられた空間であり、それぞれの「人種」はそれぞれ異なる「言語」をもっ

ているとみなされているのである。

以上のように、19 世紀初頭から、「マレー」なるものが「マレー語」をつうじて主題化され、「二つ

の異なる人種」という点から、「マレー諸島」ないしは「インド諸島」といった空間が、かぎりのある

― 6 ―

統一体として発想されるようになってきた。しかしながら、これらの統一体の想像は、そのままでは

国民的な統一体の想像へと直接つながることはなかった。この時代の「マレー語」や「マレー人」と

いった統一体の輪郭線とのちのマラヤやマレーシアといった国家の領土は重なりあっていないばかり

か、つぎの節において述べるように、この時代における統一体の発想には、時間概念が抜けているの

である。すなわち、19 世紀初めには、独自の歴史をもつ自己充足的な空間として「マレー半島」を認

識するテクノロジーが登場していないのである。

第2節:国民的なものを想像する要件の形成──時間と空間──

マレー半島がしだいにイギリスの勢力圏となり、その植民地統治が本格的になる 19 世紀末には、19

世紀はじめにおける「マレー諸島」や「インド諸島」ではなく、マレー半島を一つのかぎられた空間

として見るという見方が登場する。スウェッテナムの『英領マラヤ British Malaya 』(1906 年)、マ

レーにかんする初の包括的な研究シリーズであるR・J・ウィルキンソン編集の『マレー研究論集

Papers on Malay Subjects 』9)では、分析の空間的な単位としてマレー半島が採用された。これらの

研究書では、マレー半島を分析の単位とすることの理由はとくに述べられない。それは、マレー半島

が分析単位であることがかれらにとってすでに自明であったからだろう。これらの研究書は、マレー

人と呼ばれる人々の居住範囲や、マレー語を話す人々の分布がマレー半島を越えていることに沈黙し

ており、そのことは現代の一国研究にも通じる方法である。

マレー半島が意味のある空間としてみなされているのは、マレー半島の通史を描くというプロ

ジェクトが『マレー研究論集』において達成されていることに見てとれよう。それはウィルキンソ

ンが執筆した「半島マレー人の歴史」というタイトルの通史で、『マレー研究論集』の第一シリーズ

の「歴史」の部に収録されている。「半島マレー人の歴史」において、マレー半島は、「マレー人」

のそのほかの居住地区であるボルネオ島やスマトラ島などから切り離され、「初期の文明」、「マ

ラッカ王国時代」、「ポルトガルの支配」、「オランダの支配」、「イギリスの支配」という時代区分に

したがって、独自の展開をとげてきた自己充足的な空間として描かれている10)。通史とは、ある「民

族」ないし「地域」を時系列的な発展を遂げた有機的な統合体としてみることによってはじめて成

立するのである。また、同時に通史という装置によって、ある民族なり地域なりの統一性は定立さ

れて強化されるといえよう11)。たしかにこれまでにも「歴史 history 」と名のつく書物はあった。

たとえば、さきにふれたクローフォードの『インド諸島の歴史』やマルスデンの『スマトラ史』が

そうである。しかしながら、クローフォードらの時代には、現代の意味での「歴史学」は確立され

ておらず、「歴史」は「自然誌 natural history 」を意味していた。すなわちクローフォードやマ

ルスデンによる研究書は、気候、自然環境、鉱物、動物、植物などといっしょにその地の人間につ

いて記述がなされる、「博物学」であるといってよいだろう。

『マレー研究論集』におけるマレー半島は「マレー」的なものによってのみ充満している空間では

なく、クローフォードやウォーレスらのように、「文明化したマレー人」と「未開の人種」の住まう空

間として把握されている。さらに「未開の人種」は、ウィルキンソンの通史の最初の章に、文明化し

た「マレー人」や「われわれ」の過去の姿として登場するのである12)。むろん、そのような「マレー

的なもの」の文明が、進歩の階梯にあっては西洋に遅れており、西洋によって守られなければその本

質性を喪失してしまう脆弱なものとして表象されていることを忘れてはならないだろう13)。

― 7 ―

ところで、今日の歴史研究者にとってはまったく当然のことであるが、19 世紀のマレー半島には、

中国やインドからの多数の移民労働者がすでに存在していた。しかしながら、上で見たように、19 世

紀後半以降のマレー半島の描写に登場するのは、「文明化したマレー人」と「未開の諸種族」だけであ

り、移民労働者は植民地マラヤを構成する要素としてみなされていないのである。すなわち、ウィル

キンソンの『マレー研究論集』の時代には、「 多プルーラリティ

」という概念は成立しておらず、植民地マラヤ

が複数の「人種」からなる空間であるという認識の方法は確立していなかったと見てよいだろう14)。

― 8 ―

第3章:「現地」の側の研究──植民地主義的知の自己領有──

統一体という思考方法は、植民地統治をとおして「現地」の人々にも内面化されていったといえる

だろう。それは、雑多で、統一体的な状況から乖離しているものとして現状を認識することによって

なされた。19世紀半ばにはアブドュッラーが、統一体としてのマレー語が消滅の危機にあると主張し、

20 世紀には、ザッバがマレー的なものの喪失への危機を訴えた15)。これまでおかしいとも思わなかっ

た多言語状況が、純粋性を欠いた状態であるとみなされるのである。もちろん、この多言語状況は、「同

一の社会空間に異なった言語共同体が並存する」(酒井 1996:184)という、以下に見るような現在考え

られている多言語主義とは異なっている。

現在一般に考えられている多言語主義は、民族共同体と同一視された言語共同体が、一つの国民

国家内に複数存在する状態を指す。したがって、多言語主義は多民族主義、多元文化主義と、と

もすれば同一視される。そこでは、言語の輪郭と民族の輪郭、文化の輪郭が重ねられて構想され、

そのかぎりで基本的に近代の国民国家の論理に沿って、多数性が了解されているのである。だか

ら、国民の輪郭=言語の輪郭=文化の輪郭という近代国民国家政策の論理を徹底すれば、多民族

社会は必然的に複数の、単一言語=単一民族=単一文化を原則とする国民国家へと分裂せざるを

えなくなる。(酒井 1996:184)

このような近代的な多言語主義にたいして、アブドゥッラーの時代の多言語主義は、酒井が 18 世紀の

日本列島において見いだすような多言語主義に重ねてもよいだろう。それは、多数の異なった文体と

書記体系が、地方別の俚言あるいはお国ことばとともに混在しており、「一個人がこれらの異なった言

語のあいだを機会に応じて動き回ることを奇妙とも異常とも思わない社会編成」(酒井 1996:185)であ

る。つまり、一人の個人が「異なった言語に重層的に帰属しており、一つの言語共同体に無媒介的に

同一化することができるとは思いもよらなかった」ような社会編成における多言語主義である。

第1節:アブドゥッラーの構想

19 世紀前半のマラッカにおいて、アブドゥッラーのまわりでは、商取引にはタミル語が、公的な場

面ではマレー語が、宗教的な行事ではアラビア語が使われていたという。後生の文学者たちは、アブ

ドゥッラーが、いわゆる「生粋のマレー人 Melayu jati 」ではなく、インド系のイスラム教徒であっ

たため、かれの使用する「マレー語」は本来的なマレー語ではなく、市場で使用されているような「堕

落したマレー語」であるとしばしば批判する16)。しかしながら、アブドゥッラーの時代のマレー半島

では、「民族」という概念はいまだ確立しておらず、ある個人がたった一つの民族語の共同体に属して

いるべきであるという考え方は共有されていなかった。マレー語で公文書を書くことを仕事にしてい

たアブドゥッラーにとって、書記体系をもったマレー語で文章を書くということは、現在の歴史家や

文学者が思うほど不思議なことではなかったはずである。アブドゥッラーの時代とは、「民族」という

概念や統一体としての言語という概念が確立する以前である。『アブドゥッラー物語』からは言語共同

体とその輪郭がぴったりとあった「民族」共同体という概念を読みとることはできないが、言語が統

一体としてあるべきであるという考えをみてとることはできる。

― 9 ―

アブドゥッラーはマレー語が喪失の危機にあることを『アブドゥッラー物語』の随所にて主張し

ている。アブドゥッラーは、当時の多くの人々が「マレー語」を学ぶことに意味をみいださないこ

とを嘆き、「生粋のマレー人」であってもマレー語を学ばなければならないと説いた。アブドゥッ

ラーは「その当時の若い人たちは、だれ一人として本当に熱心にマレー語の読み書きを学ぼうとし

なかった」17)(Abdullah 1953:40)という。「ほとんどの人の考えでは、マレー語を学ぶということは

おかしなことである。〔中略〕なぜならそれは自分の言葉だから」(Abdullah 1953:41 [中原訳 36])

であると。しかしながら、自分の言葉であっても、学ばなければその言葉についてじつは何も知る

ことができない、とアブドゥッラーはいうのである。

以上のことからわかるように、アブドゥッラーは 19 世紀前半のマラッカやシンガポールにおいては

当然であった雑種的な多言語的状況を、言語が均質で統一された体系であるはずという見方にもとづ

いて、本来あるべき姿からかけ離れた危機的状態であるとみなしたということがいえよう。そのよう

な見方は、ヨーロッパ人たちの「マレー研究」のなかで醸成された諸表象をみずからの都合のよいよ

うにえらびとることで──自己領有によって──なされてきた。このように自己領有された危機意識

にたいして、アブドゥッラーは「マレー語」を学ぶことをとおして危機を乗りこえようとした。その

学びの態度は、「生粋のマレー人」とよばれている人々にも要求される。だが、時間概念が統一体的思

考に結びついていなかったからであろうか、アブドゥッラーは、失われた本来的共同性を過去に設定

するのではなく、共同性を未来へ向けて創造しようとする。それは「マレー語」を学ぶことを媒介と

した共同体であった。

第2節:ザッバの構想

アブドゥッラーの時代から約 100 年がたった 20 世紀前半には、「現地民」による「マレー研究」が

しだいに増大してきた。だが、「マレー語」や「マレー」的なものが喪失の危機にあるという感覚は、

「マレー研究」の展開に反比例するようにして、ますます表明されたのである。ザッバは、「マレー人」

が危機状態にあることを「マレー人の貧困」という表現で示そうとした18)。ザッバによれば、「マレー

人」の直面する貧困は経済的、物質的な意味における貧困だけでなく、知と精神における貧困であっ

た(Abdullah dan Khalid 1974:206~208)。だが、ザッバにとって「マレー人の貧困」とは生来のもの

ではなく、努力によって回避できるものであった(Abdullah dan Khalid 1974:207)。つまり、「マレー

人」は「死にゆく人種」ではないのである19)。

危機状態を克服するためにザッバが奨励したのも、「マレー語」を学ぶことであった。アブドゥッ

ラーと同様、ザッバも「マレー語」を媒介とする共同体を構想したのである。しかしながら、アブドゥッ

ラーの時代と異なり、ザッバの時代には統一体としての「言語」だけでなく、統一体的な思考方法に

時間概念がくわわり、統一体としての「民族」という概念がすでに分節されていたといえよう。そこ

でザッバは、「マレー語はわれわれの遺産であり、そのなかには民族の精神と魂が宿っている」(Qalam

October 1954)というように「マレー語」を「民族」と有機的にむすびついたものとして考えたのであ

る。ザッバの考える「民族」の本来性は、アブドゥッラーとは異なって過去に設定され、未来へ向かっ

て投射される。その結果、ザッバの構想は、マレー民族による「大マレー」ないしは「大インドネシ

ア」という、のちのマレー人左派の主張にも結びつくものとなった。すなわちかつては「同一」であっ

たはずの「インドネシア」と「マラヤ」の統合である。このザッバの構想は、植民地主義的な知を内

― 10 ―

面化する過程における、支配を被った側の自己領有の痕跡を示唆するものといえよう。ザッバが「マ

レー人の貧困」を書いた時期は、イギリスが領土支配を進展させ、国民的なるものを想像するための

知的な要件──ある一定の空間に均質な時間が流れているという考え方──が整ってきた時期であっ

た。前に見たように、イギリス人による「マレー研究」において、均質な時間の流れる空間という概

念は、「マレー半島」を舞台にして成立した。ザッバがアブドゥッラーの時代には分節されていなかっ

た「民族」概念を利用したのは、このような新しい概念をみずからのものにしたからであろう。だが、

他方で、ザッバはこの考えをイギリスの植民政策学とは異なって、マレー半島ではなく、現在のイン

ドネシアの一部をもふくむ広い地域で構想した。植民地主義的な知をみずからのものにするというこ

とは、それらを丸写しにすることではないのである。

しかしながら、このような自己領有の過程において、『アブドゥッラー物語』においてかいま見えて

いた統一体なき多言語状態は、すっかり抑圧されることとなった。さらに、過去に本来的なものを設

定することで構築される「民族」共同体は、アブドゥッラーのようなインド系のイスラム教徒を排除

することによって生み出されたのである20)。

以上のように、19 世紀末から 20 世紀前半にかけての植民地主義的な支配の進展をとおして、国民的

なものを想像する要件はととのえられてきた。もちろん、その構想は単一ではなかった。そもそも植

民地主義者たちは、自分達の植民地が独立した国民国家になるなどと考えていなかっただろう。だが

忘れてはならないのは、「植民地」が独自の歴史をもつ自己充足的な統一体として把握されるというこ

とによって、植民者の意図にはおそらく反して、国民的なものを想像する条件の一つを結果的に形成

したということである。独自の時空間をもつ統一体というそのような思考は、植民地主義支配をとお

して「現地」の人々にも否応なく浸透した。しかしながら「現地」の側は、実現はしなかったものの、

独自の時空間をもつ統一体という植民地主義による強力な思考方法によって、植民者たちの統一体と

は異なる輪郭線の統一体を構想していた。

― 11 ―

第4章:地域研究──「 多プルーラリティ

」をめぐる構想──

エドワード・サイードが以下で述べるように、第二次世界大戦後、世界政策の中心舞台をしめるの

はもはやイギリスとフランスではなくなり、アメリカ合衆国の絶対的権力がこれにかわって登場し、

イギリスとフランスのオリエント学は地域研究にひきつがれた。

世界政策の中心舞台をしめるのはもはやイギリス・フランスではなく、合衆国の絶対的権力がこ

れにかわって登場した。広大な利害関係の網の目が旧植民地全域を合衆国へと結びつけており、

同時にオリエンタリズムのような、かつての文献学的な、ヨーロッパに基礎を置いたあらゆる学

問分野も、細分化した諸専門分野の急増殖によって分断され(しかもなお結びつきを保っ)てい

る。いまでは、地域研究の専門家と呼ばれるものが、それぞれの地域について一家言をもち、か

れらの専門知識が政・財界にも役立てられているのである。(Said 1979:285[今沢訳 291])

アメリカ合衆国の戦略的なブロック思考は、世界をいくつかの地域に分割することになった。そこ

で登場したのが「東南アジア」である21)。地域研究的な思考のなかで、マラヤも「東南アジア」とい

うブロックのなかの一つの要素としてみなされるようになり、「東南アジア」の経験を共有できると考

えられるようになったのである。そこで、ビルマとインドネシアを直接の分析対象としたファーニヴァ

ルの「プルーラル・ソサエティ」論が、「東南アジア」という新しい地域概念のもとでマラヤに適用さ

れることが可能になった。その結果、植民政策学の時代には「マレー人」と「未開の先住民」によっ

て構成されているとみなされていたマラヤが、「マレー人」と複数の移民社会によって構成される空間

として把握されるようになったのである。その意味において地域研究は、マラヤを統一体としてみな

すある種の一国研究という意味において植民政策学から連続しているが、この統一体をブロックとし

ての地域の一関数としてみなすという点において植民政策学から断絶しているのである。「プルーラ

ル・ソサエティ」という知は、このような植民政策学と地域研究のあいだの連続性と断絶性のなかに

あるといえよう。

第1節:ファーニヴァルの「プルーラル・ソサエティ」論

ファーニヴァルが「プルーラル・ソサエティ」論を展開している有名な著書としては、『オランダ領

インド』(1939 年)と『植民政策と実践』(1948 年)があげられるだろう。戦後に刊行された『植民政

策と実践』であっても、全体としては植民政策学として位置づけることが適当であろう。しかしなが

ら、ことマラヤにかんしては、「プルーラル・ソサエティ」論は植民政策学よりも地域研究と深いかか

わりをもっていたことを無視することはできない。そもそも、ファーニヴァルの「プルーラル・ソサ

エティ」論は、インドネシアとビルマを分析の対象としたものであり、マラヤについてほとんど直接

的にあつかっていない。にもかかわらず、「プルーラル・ソサエティ」論がマラヤ分析のための重要な

文献となることができたのは、戦後にアメリカ合衆国を中心とした東南アジア地域研究が成立するの

にともなって、「東南アジア」というカテゴリーのもとで、「東南アジア」のある地域についての研究

が「東南アジア」の他の地域にも適用できると考えられるようになったからである。もちろん、「プルー

ラル・ソサエティ」論がマラヤに適用できないことを主張する研究者も多数存在した。しかしながら

― 12 ―

重要なのは、そもそもはインドネシアとビルマにかんする「プルーラル・ソサエティ」論をマラヤに

当てはめようとするその発想の誕生である。このような発想は「東南アジア」という地域概念の登場

以前においては見ることができなかったといえよう。そこでわたしは本論文においてファーニヴァル

の「プルーラル・ソサエティ」論を植民政策学としてではなく、地域研究の時代に位置づけることに

した。それでは以下においてさっそく「プルーラル・ソサエティ」論についてみてみよう。

ファーニヴァルは『植民地政策と実践』(1948 年)において「プルーラル・ソサエティ」を以下のよ

うに定義している22)。

〔プルーラル・ソサエティとは〕一つの政治単位のなかで隣りあわせに生活していながら、おた

がいに混じりあうことのない二つないしそれ以上の要素 elements または社会秩序 social

orders,を内包するような社会である。(Furnivall 1948:304-5)

ファーニヴァルのいう《プルーラル・ソサエティ》とは、まず政治的には一つの単位である。だが、

その政治的単位の構成要素は単一ではなく、二つもしくはそれ以上の複数の相異なる社会秩序もしく

は部分から成立している。さらに、これらの構成要素は混合することなく併存している。それでは以

下で、プルーラル・ソサエティ」にかんして、四つの特徴をあげてくわしく説明していこう。

第一の特徴は、ファーニヴァルの「プルーラル・ソサエティ」論が、植民地の空間を数えることの

できる分析単位として採用していることである。ベネディクト・アンダーソンが、第三世界における

新しい国民国家が領土的には植民地時代の行政単位を継承しているということを指摘するように、植

民地を一つの空間として認識するというこの方法は、国民的な共同体を想像することを導いていくも

のである(Anderson 1990)。その意味でファーニヴァルは、前節において述べた 19 世紀末からの植民

政策学における議論を継承しているということができるだろう。

第二の特徴は、「プルーラル・ソサエティ」が、「均質な社会」との対比によって描かれているとい

うことである。すなわち、「プルーラル・ソサエティ」とは、均質性を欠いた不完全な統一体としてみ

なされているのである。たとえばファーニヴァルは、「プルーラル・ソサエティ」のもっとも重要な特

徴を、「均質な社会」ならもっているはずの共通意思が「欠如」していることであり、その結果、「均

質な社会」なら当然組織化されるはずの共通の需要が「欠如」する、と述べている(Furnivall

1967[1939]:448~449)。否定性という意味では、「プルーラル・ソサエティ」論は植民政策学における

「われわれ」と「かれら」という二項対立の図式を継承しているといえるかもしれない。これら二つ

の特徴は、統一体とその「欠如」という対立項によって統一体的な思考をおしすすめてきたこれまで

の植民政策学と共通している。しかしながら、「プルーラル・ソサエティ」論が地域研究時代の方法的

な枠組みとして利用されるようになった理由は、つぎの第三と第四の特徴による。

第三の特徴は、「均質な社会ではない」ということが、どういうことなのかを具体的に描こうとした

点である。ファーニヴァルは「 多プルーラル

であるということ」を、労働の分業によって説明しようとした。

プルーラル・ソサエティの特徴である社会生活より生産を強調するということの一つの帰結は、

労働の分業である。人種、信条、皮膚の色などによるグループ間の区別は原初的なものかもしれ

ないが、それぞれのセクションは、これにしたがってみずからの生産機能を持つようになり、べ

― 13 ―

つべつの経済的カーストへグループ化される傾向ができあがる(Furnivall 1967[1939]:450)。

ここから見てもわかるように、「プルーラル・ソサエティ」を構成する諸部分ないしは諸要素とは、

たんに「人種、信条、皮膚の色」などのグループを意味するわけではない。重要なのは、資本主義経

済への統合の結果、そのような異なるグループがべつべつの労働を担当していることである。すなわ

ち、「人種、信条、皮膚の色」と労働の分業が一致していることが「プルーラル・ソサエティ」の

「多であることプ ル ー ラ リ テ ィ

」を特徴づけているのである。第二次世界大戦後に「プルーラル・ソサエティ」論が

マラヤに移植されるさい、グループ別の労働分業というこの視点は、20 世紀前半の植民政策学のなか

では意識されてこなかった移民たちを可視化することになった。

「プルーラル・ソサエティ」の第四の特徴は、ネイティブをふくめたすべての構成要素に資本主義

とその経済的価値が浸透しているということである。ファーニヴァルは同時代の経済学者であるブー

ケの「二重経済」論を強く意識して、このことを主張している(Furnivall 1948:307)。ファーニヴァ

ルによれば、ブーケは植民地の空間を二つの異なる社会から成立しているとみている。一つは資本主

義的な原則にもとづいた社会であり、もう一つは前資本主義的な農村共同体である。前資本主義的な

共同体においては、ネイティブたちは資本主義的な諸原則に適応することができない。このような「二

重経済」論にたいして、ファーニヴァルは植民地が完全に資本主義によって貫徹され、ネイティブた

ちでさえ利益最大化という価値を共有している、というのである。このことは、植民地にかんする、

これまでとは異なる新しい視点を提供したといっていいだろう。ファーニヴァルの「プルーラル・ソ

サエティ」論が過去の「植民政策学」としてだけでなく、「地域研究」の時代においてもくりかえし利

用される理由の一つは、植民地の資本主義にかんする新しい見方によるものであった。現地民の資本

主義化は、その後の地域研究の時代に焦点とされる、植民地における近代化にかんする諸議論にも結

びついていくことになる。

だが、注意しなければならないのは、ファーニヴァルにとって資本主義の貫徹が、けっして肯定的

な評価ではなかったということである。「均質な社会」において人々が「共通意思」によって結びつけ

られているのにたいし、「プルーラル・ソサエティ」の人々は、市場、すなわち利己主義的な経済活動

においてのみ結びつけられているである。その意味において「プルーラル・ソサエティ」における資

本主義は、否定的で異常なものとして描かれているのである。

第2節:地域研究における「プルーラル・ソサエティ」論

ファーニヴァルのいう意味での「プルーラル・ソサエティ」論がマラヤに当てはめられたのは、太

平洋問題調査会を中心とする研究活動においてではなかったかと思われる23)。1950 年にラクノウで開

催された太平洋問題調査会の第 11 回会議では、「アジアの情勢──若干の地域的発展──」という報

告がおこなわれ、マラヤが「人種」別の労働分業によって特徴づけられた「プルーラル・ソサエティ」

として紹介されている。

マレイ〔マラヤのこと〕は複合社会である。1947 年におこなわれた最近の人口調査によれば、マ

レイおよびシンガポールにはヨーロッパ人約一万八千人、ユーラシアン一万九千人しかいないに

対して、中国人百六十万九千人、マレイ人二百二十万三千人、インド人六十五万五千人がいる。

― 14 ―

マレイではマレイ人の数が最も多いが、シンガポールでは中国人はマレイ人のほぼ十倍もいる。

中国人は主として商業と鉱山業にたずさわり、約三分の一ほどは農業と漁業を営んでいる。イン

ド人の大多数はゴム園の労働者である。したがって、民族の相違は職業の相違に反映している。(日

本太平洋調査会 1950:57)

また、同会議の「東南アジア」円卓討議においても、マラヤの問題は、「マレー人」「インド人」「中国

人」の「三大民族」という人口構成によってもたらされているとみなされており、これらの三つの「民

族集団」を一つの市民へと融合させることがめざされなければならないとされる(日本太平洋調査会

1950:204~206)。「このディレンマがあるためにマレイでは大きなまたは重要な民族主義運動が形成

されることを妨げられている。マレイ国民またはマレイ国家がつくられるかどうかはこの民族問題の

解決如何にかかっている」(日本太平洋調査会 1950:206)といわれるように、「三大民族」は国民建設の

障害としてとらえられているのである。「プルーラル・ソサエティ」という名称こそ使用していないが、

1950 年のトムソンとアドロフによる『東南アジアの左翼』においても、同様のマラヤ理解が繰り広げ

られている。

マライ〔マラヤのこと〕の特殊な人種的構造は──マライ人社会と中国人社会とはほぼ同じ大き

さであり、インド人少数民族は全人口の一割四分に当たる──戦後の時期にいたるまで、単一、

強力な民族主義的感情の発展を遅らせていた。その上に、人種によって職業上の区分があること

が、この三つの社会の相互に超然とした態度を助長している。(トンプソン・アドロフ 1950:19)

太平洋問題調査会の諸研究では、「プルーラル・ソサエティ」は、あるべき統一体にたいする逸脱な

いしは遅れの状態として、超克されなければならない状態としてとらえられているといえる。すなわ

ち「 多プルーラル

であると」いうことは、「均質な社会」にたいする「欠如」なのである。その原因は、なに

よりも人種別労働分業による経済格差である。その意味で、この時期における「プルーラル・ソサエ

ティ」解釈は、本論の冒頭において紹介した複数の解釈のうちの第一の解釈に相当するものであると

いえるだろう。

第3節:「三大民族」の登場

マラヤがマレー半島という領土とともに 1957 年に独立すると、マラヤ=「プルーラル・ソサエティ」

という見方はますます優勢となった。チャールズ・ハーシュマンは、マラヤやマレーシアが「マレー

人」「中国人」「インド人」という「三大民族」からなりたっているという、人口構成比から議論を開

始する方法がくりかえされ、一種のルーティンになっていることを指摘している(Hirschman 1987:555)。

「三大民族」という表象は、「 多プルーラル

であること」の問題性についての知的折衝のなかで生まれてき

たといえる。すなわち「三大民族」という表象の出現は、「プルーラル・ソサエティ」論という強力な

地域研究的枠組みを自己領有した結果であるともいえるだろう。「 多プルーラル

であること」はたしかに「欠

如」を暗示しているが、第一に「 多プルーラル

であること」のありように変更が加えられるようになった。つ

まり「三大民族」であると考えられるということは、ファーニヴァルにおいては「烏合の衆」(Furnivall

1948:307)として描かれていたそれぞれの要素が、「統一体」としてみなされているということを意味

― 15 ―

するのである。だがそのことは、それぞれの「民族」内部の多様性の抑圧をうながしていくことにも

なる。また、「三大民族」という表象が、1963 年のマレーシア連邦の成立後も引き続いて採用され続け

ることによって、マレーシアにかんする知におけるマレー半島中心主義を期せずして押し進めてしま

う。「三大民族」という表象は、第二に「 多プルーラル

であること」の原因として示された人種別労働分業に

たいする諸議論をとおして導きだされているといえるだろう。

上で見たように、マラヤ独立以前の太平洋問題調査会の研究では、「プルーラル・ソサエティ」は人

種別の労働分業によって均質性を欠いた「社会」であると考えられていた24)。すなわち「多であるこ

と」の問題性は第一義的には経済的な問題であった。だがこの経済問題は、特定の人種と経済発展の

能力を必然的に結びつける議論として理解されるさい、第三世界の新しい国民国家における近代化の

可能性を排除することにもなりうる。「多であること」の問題性を人種問題として語ることへの批判は、

「エスニシティ」という概念の導入によってなされたといえるだろう。ミルトン・ゴードンなどによっ

て 1960 年代末からアメリカ合衆国において展開した「エスニシティ」概念は、シンシア・エンルーや

ジュディス・ナガタらアメリカ合衆国において専門訓練を受けた研究者によって 1970 年代からマレー

シアの分析に使用され、1980 年代にはマレーシア出身の研究者たちによっても大いに利用されるよう

になった(Gordon 1964, Enloe 1970, Nagata 1979, Syed Husin Ali 1984)。

マレーシア分析に「エスニシティ」概念が導入されたのは、1969 年の「人種暴動」の記憶も新しい

時期であると同時に、アジアにおける経済成長と近代化の可能性が明確にみえてくる時期でもあった。

エスニシティ研究が定着する 1980 年代には、エスニック・グループ別の労働分業がかなりの程度克服

されているという認識に立って、「多であること」の問題性をむしろ文化に求める主張がしだいになさ

れるようになる。タン・チーベンがマレーシアの国民統合の問題点を「エスニシズム」にあると述べ

るのは、このような事情を背景にしているといえよう(Tan 1984:215)。

マレーシアを「プルーラル・ソサエティ」としてではなく、「三大民族」と表現することは、「プルー

ラル・ソサエティ」論における人種別労働分業という問題に修正や変更をくわえたり、あるい批判し

たり、問題そのものを回避する方法を生み出していったといえるだろう。「三大民族」という表現方法

は「多であること」の原因を人種問題、経済的問題、文化的問題などに多様化した。だが、「多である

こと」は「欠如」であるという「プルーラル・ソサエティ」論におけるもっとも強力な考え方は残っ

ていたといえるだろう。

― 16 ―

第5章:マレーシアにおける社会科学の形成

一国研究の成立は、ある国家や国民が一体であるという暗黙の前提が必要であり、同時にそのよう

な一国研究を展開していくことじたいが、ある国家や国民の統一性を絶えず定立していくことである。

はじめにも述べたとおり、このような統一性というのは倫理的な要請であって、どのような国民国家

においても統一性は完全に達成されてはいない。学問分野の形成がアイデンティティの形成にかかわ

るのは、国民的な統一体でなければならないという知的な要請を人々が内面化し、それを実現しよう

とするからである。

しかしながら、ことマラヤ/マレーシアにかんするかぎり、問題は少々複雑である。それは、マ

ラヤ/マレーシアなるものを主題にしようとするやいなや、統一性の否定形たる「 多プルーラリティ

」という

概念が姿を現すからである。「 多プルーラル

であること」は、マラヤ/マレーシアなるものを主題とする知の

形成における矛盾をはらんだ大問題である。そこでマラヤ/マレーシアを主題とする自国研究は、

その主題を成立させるために、「多であること」を解決するための学、国民的な統一体をうち立てる

ための学として形づくられていくのである。1980 年代のマレーシアでは、1960 年代末からアメリカ

合衆国において発展したエスニシティ研究の方法論が積極的にとりいれられて、社会科学分野にお

ける自国研究的な知が「多であること」をのりこえることをめざして形成される。マレーシアにお

けるアイデンティティの形成は、「多であること」をのりこえよという統一体的な思考方法による命

令を内面化し「一」をめざそうとする、同一化の運動であるといえるだろう。以下に見るとおり、「多」

であることや「一」をめざすことは、さまざまに定義されかつ解釈される。その意味において、マ

レーシアにおけるアイデンティティは、それらのさまざまな知の絶え間ない交渉の過程において形

成されていくのだといえるだろう。

第1節:「一」をめざす──否定的イメージとしての「 多プルーラリティ

」──

国民的な統一体を構想しようとするプロジェクトは、多くの場合において、言語、文化、人々、経

済などのさまざまなレベルの「統一体」の輪郭を、マレーシアという国家の境界線とぴったりと重な

りあわせようとする方向でなされた。そのような「一」をめざすプロジェクトの一つとして、近代へ

の同化があげられよう。「プルーラル・ソサエティ」が、経済発展した近代的で同質な社会との対比の

図式のなかに位置づけられるとき、近代への同化は、プルーラルな状況をのりこえる一つの方策とし

て構想されたのである。

一般的な近代化論では、エスニックな対立は前近代的な愛着の遺物としてみられ、近代的な普遍的

な価値に同化すれば、エスニックな対立は解消され、経済格差が是正されて国民統合が達成されると

主張される。しかしながら、1980 年代におけるマレーシアの社会科学者たちは、巧みに隠された支配

関係を近代化論のなかに読みとっていた。そこでかれらは、国民統合がなされない「プルーラル・ソ

サエティ」状況の原因を、経済植民地主義と階級対立に見たのである(Tan Chee Ben 1982, Syed Husin

Ali 1984, Sanusi Osman 1984)。そこでは、エスニックな対立は、ほんとうの対立──階級対立──

を隠蔽する虚偽意識としてみなされた。すなわち、経済植民地主義は、その支配形態と搾取形態をエ

スニック対立に偽装しているというわけである。サイド・フシン・アリによれば、マレーシアにおい

て人種別労働分業(サイド・フシン・アリのタームではエスニック・グループ別労働分業となる)を

― 17 ―

見ることはできず、労働の分業はエスニック・グループを横断しているという。海外の研究者たちが、

マレーシアは「プルーラル・ソサエティ」=人種別労働分業社会であると主張することによって、本

来の階級対立を隠蔽している、とサイド・フシン・アリは言うのである。

「一」をめざすプロジェクトの第二としてあげられるのは、近代西洋の「普遍」性との対比によっ

て表象される「特殊」性の強調である。マレーシアの文脈においては、「マレー的なもの」や「イスラ

ム」があげられよう。以前にふりかえったように植民政策学は、東洋対西洋という優劣の判断をとも

なった二項対立の図式をもちいながら、「マレー的なもの」を発見したといえよう。「マレー的なもの」

は、植民者によって「普遍」的な西洋に対する「特殊」として表象され、植民地支配の圧倒的な力関

係のもとでは、被植民者たちは、そうした知の図式を内面化してアイデンティティ形成せざるをえな

かった。独立期のマレー人保守層たちは、国民国家マラヤを「マレー的なもの」を軸にしながら、マ

レー半島という領土、マレー人、マレー語いったそれぞれの統一体の輪郭がぴったり重なりあうもの

として構想した25)。そこでは移民たちは当然マジョリティに同化しなければならない。

しかしながら、ここにおいて、植民政策学的な知、それを自己領有して醸成された知、地域研究的

な知、それを自己領有しながら形成された知のあいだにおけるせめぎあいが生じる。第二次世界大戦

後の地域研究的な認識枠組みのなかで優勢となった「プルーラル・ソサエティ」的な見方のもとでは、

「三大民族」のそれぞれの集団が、統一体を形成する命令として機能している。そこで「マレー的な

もの」は、そのままではマレーシアという国家に存在する複数の統一体のうちのひとつをあらわすに

すぎないのである。すなわち、「プルーラル・ソサエティ」論によって、マジョリティとしての「マレー

的なもの」という理解そのものが、それほど力をもたない状況になっているのである。「三大民族」的

な見方の優勢のもとで、「一」をめざすための原理となるためには、「マレー的なもの」はもはや「特

殊」ではなく、「普遍」の地位を獲得しなければならなかった。そこで、普遍としての「マレー的なも

の」は、過去に設定され、それを未来に向かってとりもどすことが国民化を促進するのである。ワン・

ハシムによる植民地時代以前のマラヤについての説明を見てみよう。

ファーニヴァルのプルーラル・ソサエティという概念は、植民地主義のもたらしたものをおもに

経済の力にかかわらせるものである。かれが強く主張するのは、植民地時代以前には東洋の社会

が共通の意思によって統一されていたということである。かれがいうには、植民地時代以前のマ

ラヤはプルーラルな特徴をもっていたがプルーラル・ソサエティではなかった。疑うまでもなく

そこには、ジャワ、スマトラ、アラビア、インド、中国を出身地とするいくつかのエスニック・

グループが存在したが、これらの人々はべつべつに分離したマイノリティ集団をつくっていな

かった。かれらは支配的な社会に同化されていたのである。(Wan Hashim 1983:19)

ワン・ハシムによれば、植民地統治以前におけるマラヤは、ジャワ、スマトラ、アラビア、インド、

中国を出身とするおのおのの集団が支配社会に同化していたために、「プルーラルでありながらもプ

ルーラル・ソサエティではなかった」(Wan Hashim 1983:19)という。ワン・ハシムは、一見、矛盾し

た見方を提示しているようにみえる。植民地時代以前のマラヤ社会は、さまざまな集団の同化の結果

であるにもかかわらず、「均質な社会」ではなく「プルーラルな特徴をもった社会」であるからだ。こ

の状況が矛盾なく理解されるには、支配的な社会が「普遍」である必要がある。すなわち、ほかのマ

― 18 ―

イノリティ集団を超越する原理として「マレー的なもの」が提示されなければならないのである。そ

こで、ワン・ハシムは、植民地時代以前のマラヤでは、「マレー的なもの」は「プルーラル」な諸集団

を超越した「普遍」的な統合原理であると考えられており、植民地支配がかつてあった統一性を奪っ

たことを暗に示唆しているのである。

「マレー的なもの」を「普遍」として過去に設定するという統合のプロジェクトは、基本的には「多」

から「一」をめざすものであると見てよいだろう。しかしながら、「普遍」としての「マレー的なもの」

が、均質性ではなく依然「多」をともなっていることには、注意しなければならない。「普遍性」とし

ての「マレー的なもの」は、均質で首尾一貫した超歴史的な統一体とは異なるイメージを持っている

のである。すなわち「マレー語」は、植民地支配以前の商業の時代におけるマレー諸島全域で通用す

るリンガ・フランカとして、マレー半島は、世界中からやってきたさまざまな人々が出会い、交渉し、

交易をおこなうプラットフォームとして構想される。その結果、「多」にいつしか新しい解釈がもたら

されることになる。

すなわち「普遍」としての「マレー」を描ことすることが、結果として「多」にかんする否定的な

イメージの転換をせまっているのである。「多」は、統合の「欠如」という否定的なイメージだけでな

く、「多」でありながらも統合する可能性があるという新しいイメージを持つことになったのである。

それは、マジョリティへの同化をこえて、つぎの部分で示す文化多元主義や多文化主義へとつながり、

さらには「一」をめざすという近代的な統一体的思考を超克する道さえも開くのである。

第2節:「 多プルーラリティ

」の集合体としての「一」──肯定的イメージとしての「 多プルーラリティ

」──

1980 年代のマレーシアにおけるエスニシティ研究の隆盛は、「多」にかんする新しいイメージを導

くことになった。すなわち「多」は、これまでの超克されるべき否定的なイメージでなく、肯定的

なイメージをもともなうようになったのである。それは、複数の統一体の並存による統一された国

民共同体という新しい構想──文化多元主義 cultural pluralism さらには多文化主義

multi-culturalism ──の登場によってはっきりとした輪郭をもった。多元主義的な構想によって、

「多である」ということが、そのまま統一体の「欠如」を意味しなくなったのである。

多元主義的構想とは、マジョリティ社会や西洋近代などに同化し、それぞれの集団が融合して新し

い一つの集団をつくるのではなく、おのおのの集団が、その文化的な特徴を保持したまま、国民的な

統合を遂げるというものである26)。そこで、本論文の冒頭で述べたような「多」にかんする三つの解

釈のうちの第二の解釈が導きだされる。すなわち、複数の統一体の並存としての一つの統合された国

民共同体を示すものである。タン・チーベンはこの点をK・J・ラトゥナムの議論をつかってつぎの

ように整理している。

一般的にいって、国民統合を達成するには二つの方法がある。ひとつは同化 assimilation であり、

もうひとつは調整 accomodation である。同化は政治的に優勢な集団(通常は数のうえでの優勢)

が少数集団を同化させるという統合の究極的な形態である。調整は、ある国の各エスニック・グ

ループがみずからの文化的エスニック的なアイデンティティを維持しながら、国民統合の必要性

をみとめ、その目的のために社会・文化的に、さらに政治・経済的な調整をおこなうことである。

〔中略〕調整と同化の主たるちがいは、前者が文化多元主義 cultural pluralism を根絶しよう

― 19 ―

とするのにたいして、後者はその現実を認めているところである。(Tan 1984:203)

それでは、多元的な状況すなわち統一体が複数存在するという状況を抑圧することなく、一つの国

民的な統合体を作成するためには、なにが必要だろうか。タン・チー・ベンが述べるように、必要な

のは、プルーラルなそれぞれの統一体を超越した存在なり原理であり、ファーニヴァルのいう意味で

の共通意思である(Tan 1984)。その意味で、マレーシアにおける文化多元主義は論理的には、「近代西

洋の普遍性」を理念として掲げることもワン・ハシムが述べたように「マレー的なもの」を掲げるこ

とも、モハマド・アブ・バカールのように「イスラムの普遍性」を掲げることもできるのである。

同化やるつぼ化が、多元的な状況を抑圧して「一」をめざす運動だとすると、多元主義はどうだろ

うか。多元主義は、複数の統一体を前提として、それらを抑圧しないようにしながら、共通の国民的

原理のもとで「一」をめざすのである。少なくとも、多元主義においてそれぞれの統一体はマジョリ

ティの文化に強制的に同化する必要はないかもしれない。しかしながら、複数の統一体として前提と

される諸集団が同質化の命令を受け、それぞれの集団の内部にある雑種性、さらには集団をまたがっ

た雑種性は抑圧されざるをえない。さらに、タンが述べるように、多文化主義が複数の集団を超越す

る原理を必要とし、やはりそれが国民統合をめざすものであるならば、それはやはり「一」をめざす

構想であるといえよう。その意味において多元主義的構想は、「一」であれという命令を内面化し「一」

をめざす、まさに近代的なアイデンティティ(同一性)獲得のためのテクノロジーのもとにあるとい

うことである。

もちろん、統一体という思考にかんする違和感はさまざまなところで表明されている。たとえば、

タン・チー・ベンは、マレーシアにおいては「文化多元主義」の前提として固定的で不変のエスニッ

ク・グループがあるわけではないと述べる(Tan 1984)。マレーシアのおのおののエスニック・グルー

プは何世代にもわたる接触を通して、さまざまな文化変容をおこしているからだ。だが、冒頭にも述

べたように、この枠組みが倫理的な要請であるために、実証研究におけるさまざまな例外や反証は、

それがどれだけ積み重なろうと、枠組み自体を解体することはない。枠組みはそのつどそのつど変形

してみずからを修正させていくのである。それでは、「多」が「多」のままであることは可能なのだろ

うか。統一体を志向せよという近代の命令をのりこえることはできるのか。

第3節:構築されるアイデンティティ──統一体なき「 多プルーラリティ

」へ──

冷戦が終結し、「グローバリゼーション」と呼ばれる動向が国民国家の領域性を揺るがしているよう

にみえてきた 1990 年代、マレーシアにおけるエスニック・アイデンティティの研究にも、「多文化主

義」か「同化」か、というだけでなく、アイデンティティという概念そのものを問いなおす視点がく

わえられるようになった。たとえば、1996 年 10 月 9日に京都大学の東南アジア研究センターが主催し

た「マレーシアにおける国家、経済、アイデンティティ The State, Economy, and Identity in Malaysia 」

という特別セミナーをもとに、ザワウィ・イブラヒムが編集した雑誌『東南アジア研究』の特別号「変

容するマレーシアにおいてアイデンティティを調停する Mediating Identities in Changing

Malaysia 」を見てみよう。

― 20 ―

国民建設にかんする国内的な挑戦とグローバルな挑戦の両方に対処するために、ポスト植民地期

をとおして国民国家が進展するにつれ、開発と国民国家にともなう近代化と変化のすべてのプロ

セスは、今日における秩序ともなっている。だが、しばしば忘れてしまうことだが、国家、制度、

さまざまな社会的集団、社会的な行為者をまきこんだ論争のプロセスもあるのである。そこでは

アイデンティティは継続的に構築されつづけており、再交渉され、再構築されている。ゆえに、

アイデンティティを調停すること mediating は、近代国民国家の出現、強化、安定のすべての現

象を考えるさいの重要なプロセスとして考えられなければならない(Zawawi Ibrahim 1996:4)

ここでは、アイデンティティはもはや、本質的で不変で均質なものではない。ザワウィ・イブラヒム

はみずからのアイデンティティ理解を、「お約束となった「プルーラル・ソサエティ」や「人種関係」アプ

ローチから離れきった」ものであるという。

また、シャムスル・A・Bも、最近アイデンティティにかんする概念的な挑戦があると述べている。

すなわち「「静的な」ものとしてアイデンティティをみなす方法、すなわちアイデンティティの意味と

は「所与で」「既成で」それゆえ「あたりまえである」というもの」にたいして、「「動的な」ものとしてアイ

デンティティをみなす方法、すなわち「アイデンティティ」の意味はつねに変化する現象としてみられ、

それゆえ、再定義され、再構築され、再構成され、変化をくわえられるがゆえに問題化されるという

もの」(Shamsul 1996:8)が登場しているというのである。

たしかにザワウィ・イブラヒムやシャムスルも、この「新しい」アイデンティティ概念をあくまで

「マレーシア」という主題のもとで論じており、そのかぎりでは、「一であること」を求める国民国家

体制そのものを問いなおすことにはならないかもしれない。しかしながら、「つねに変化する現象であ

り、再定義され、再構築され、再構成され、変更され、それゆえ問題化される」というアイデンティ

ティ概念それじたいは、統一体的思考への本質的な挑戦をともない、国民的アイデンティティを構築

せよという統一体を志向する命令にあらがうものといえるかもしれない。

だが、どうだろう。グローバル化は、国民国家の境界線を揺るがしているといわれる。アイデンティ

ティの流動性の主張は、このようなグローバル化による国民的なるものの揺らぎと連動しているのだ

ろうか。言いかえれば、アイデンティティの流動性の主張はグローバル化といっしょになって、統一

体的な命令にあらがうのであろうか。シアトルやジュネーブの反グローバル化運動に見られるように、

グローバル化は、世界に新しく分割線を引き直し、人々を世界的規模でおきる競争に投げ込んだとも

いえるだろう。そうなると、いまやグローバル化に対抗して、国民国家体制を擁護することが必要と

なるのであろうか。

ここで問題になるのは、グローバリゼーションと国民国家体制が二者択一的な問題なのかという点

である。いったい、グローバリゼーションが国民国家体制に取って代わるのだろうか。伊豫谷登士翁

はいう。グローバリゼーションの脱領域的運動は、じつのところ、領域性によってなりたつ国民国家

的な制度によって下から支えられている、と(Iyotani 2002)。その意味では、統一体であれという命

令にあらがい、「 多プルーラル

」なままであるという諸実践こそが、植民地主義と共犯関係にある近代国民国

家体制やグローバリゼーションに支えられた統一体的な思考の脱構築をうながしていくということに

なるだろう。

― 21 ―

あとがき

本論文は、マレーシアにおける国民的なアイデンティティの形成を、近代的な統一体的な思考とい

うものの移植と自己領有の複雑な過程において読み解くことを目標としていた。倫理的な要請として

の統一体的思考は、自己領有の過程においてところどころに表明される違和感を抑圧しながらも、そ

れらによって絶えずみずからを変形させ修正させていく柔軟性をもっている。統一体的なものへの違

和感をすべて集めたからといって、統一体的なものに対抗するものをうち立てることはできない。も

しそれができるとするならば、それは新しい統一体となってしまうだろう。

そうでありながらも、さまざまな痕跡と違和感と余剰に気を留め、見逃さないでおくことは、統一

体的思考の強力な運動をずらしていくことへとつながるのではないだろうか。マルスデンが辞書編纂

の過程において記してしまった、統一体的な思考をおびやかすさまざまな兆候。『アブドゥッラー物

語』のなかにかいま見える近代とは異なる多言語世界。ファーニヴァルが記述しつくせなかった「プ

ルーラル・ソサエティ」における諸「要素」。国民的アイデンティティをたちあげようとしながら、ワ

ン・ハシムが意図せずに示してしまった統一体からこぼれていくプルーラルな過去。これらは統一体

的な思考からあふれでていく「多」なのである。

「多」という多義的な概念をめぐる交渉は、究極の統一体を完成させることには失敗するものの、

基本的には統一体的なものをめざす強力な動きを生みだしている。とはいえ、その運動はじつに雑多

なものをふくんでいる。統一体的な思考を脱構築することは、統一体的な思考方法の非本質性と歴史

性を明らかにすることと同時に、統一体的な思考をゆるがし、汚染し、統一体の境界からあふれでて

それを掘り崩してしまう「多」へ着目することをともなうだろう。

― 22 ―

1) これは、マレーシア国民大学 UKM のマレー世界/文明研究所 Institut Alamdan Tmadun(ATMA)主催

のパネルで、議長は ATMA の所長であるシャムスル・A・B、ディスカッサントは同じく ATMA のサ

イド・フセイン・アラタスである。パネラーはマレーシア内外からの5人で、ロバート・ヘフナー

(ボストン大学)、ヤオ・ソウチョウ(シドニー大学)、ウェンディー・A・スミス(モナッシュ大

学)、ザワウィ・イブラヒム(UNIMAS)、ジム・コリンズ(ATMA、マレーシア国民大学)である。こ

のパネルについてくわしくは、井口(2001)を参照のこと。

2) 白人という「人種」の統一体に帰属している人が同時に黒人であるということはありえない、とい

うことであり、マレーシアという国民国家に所属しているものが同時に日本という国民国家に帰属

してはならないということである。もちろん、これは「命令」であって、実際には、「二重国籍」

状態がいくらでもありうるのであるが。

3) ある「社会」が自己充足的な統一体であると考えられるためには、「他者」が必要である。エド

ワード・サイードが『オリエンタリズム』において明らかにしたように、他の「社会」を均質で

一枚岩的な「他者」として表象することをとおして、みずからの「社会」を均質で不可分な全体

性として構築することが可能となるのである(Said 1979)。また、酒井直樹はつぎのようにいう。

「自己充足的な統一体としての国民共同体の形象は、国際社会における相互関係によって支えら

れており、自己の国民共同体はつねに他の国民共同体との比較と区別を媒介にしつつ構想され

る」(酒井 1996:171~172)。

4) 植民地支配を被ってきたものたちが、「抵抗」のために団結するためには、既存の用語をもちいて

「主体」を構成せざるをえない。「領有 appropriation」とは、この「主体」化プロセスにおいて、

あらかじめ存在する支配者の用語を、みずからのつごうのよいように修正したり転倒させたりする

ことである。「領有」についてはメアリー・ルイーズ・プラットの『帝国のまなざし』(1992 年)

や林みどり『接触と領有』(2001 年)を参照のこと。

5) マルスデンの辞書はのちにオランダ語とフランス語にも翻訳され、ウィルキンソンによれば、

Roorda van Eysiga(マレー語オランダ語)、Klinkert(英語マレー語)、Pinapple(マレー語オラ

ンダ語)、Von Dewall らによる辞書の編纂にも貢献した。

6) ベネディクト・アンダーソンによれば、ヨーロッパでは、辞書の登場を可能にする新しい言語観は、

出版資本主義と非ヨーロッパの古代言語の研究の進展による聖なる言語の地位の降格により、聖な

る言語も俗語も(非ヨーロッパの言語さえも)均質で空虚な時間によって調和させることができる

と考えられるようになったことに由来している(Anderson 1991)。また辞書の編纂が二つの言語の

あいだにおいておこなわれたということも示唆的である。すなわちある言語の全体性の構想は、他

の言語の構想と同時進行であるということである。酒井直樹は、翻訳に先立って統一体としての言

語が前もって措定されているのではなく、翻訳という行為をとおして、ある統一体としての言語と

それとは別の統一体としての言語というものが、事後的に分節化されることを示している。「ひと

つのテクストを別のテクストに翻訳あるいは通訳しなければならないのは、二つの異なった言語の

統一体があらかじめあるからではなく、翻訳の行為が言語を分節化し、その結果、翻訳の表象をつ

うじて、あたかも翻訳する言語と翻訳される言語の自律的で閉じられた統一体が存在するかのよう

― 23 ―

に、それらの言語を措定することができるような制度が成立することになるからなのである」(酒

井 1997:4)。辞書を編纂する行為とは酒井のいう翻訳の実践と同様に、言語を分節化し、あたかも

翻訳する言語と翻訳される言語であるマレー語を実定的に定立するのである。

7) 人種差別が新しい現象であることは、たびたび論じられることである(Miles 1989, 1993)。関根

政美は、「異質性にたいする恐怖、不安、優越性が差別と偏見を生むが、形態学、解剖・生理学

的見地、遺伝的特色にもとづいて人種を確定し、その概念を土台に差別や偏見を示すことは、人

種概念が確立する近代以降のこと」(関根 1994:21)であり、近代以前に着目された指標は、「人種」

による差異よりも宗教や生活様式の差異であることが多かったという。人種的ちがいと人種的序

列にかんする科学的研究がさかんになりはじめたのは、19 世紀にはいってからである。ウィリア

ム・エドワーズの『歴史との関係から見た人類の心理学的特質について』(1829 年)、ヴィクトル・

クルテの『人間学にもとづく政治学、あるいは人類の哲学的・歴史的および社会的研究』などに

より、人種的な差異の遺伝と優劣についての考えが普及した(関根 1994:22)。たとえば植物の分

類で有名なリンネも人種にかんする著書『自然の体系』(1835 年)をあらわし、人類をアメリカ

人種、ヨーロッパ人種、アジア人種、アフリカ人種に分類している(Pratt 1992)。また、ポール・

ブロカは頭蓋骨の大小と人種集団の文化と能力の差を専門的に研究した。これらの研究につづい

て、ゴビノー、チェンバレン、ラプージュによる「科学」を自称する研究が登場し、人種主義的

な学説が形成される。

8) ウォーレスは、『マレー諸島』(1869 年)における、第 40 章「マレー諸島の人種」と付録「マレー

諸島の諸人種の頭蓋骨と言語について」の二つの章を人種にかんする問題にさいている。とりわけ、

「マレー諸島の諸人種の頭蓋骨と言語について」では、ポール・ブロカの頭蓋測定学が利用されて

いる。

9) 『マレー研究論集』は、ウィルキンソンを編集者とし、クアラ・ルンプールのマレー連合州政府印

刷局で印刷され、マレー連合州政府の指導監督の下に 1907 年から 1911 年にかけて出版された第一

シリーズと、マレー連合州のマレー研究委員会の監督と指導のもと、1912 年から 1927 年のあいだ

に出版された第二シリーズとがある。くわしくは、Gibson-Hill(1952)を参照のこと。

10) このような時代区分のしかたは、その後のマラヤ史やマレーシア史の叙述にもひきつがれるある種

の「伝統」となった。

11) 「マレー人」の通史を描くという作業は、あらかじめ「マレー人」という存在を歴史のなかに前提

することによって成立する。つまり、実証作業に論理的に先行して「マレー人」が存在していると

いう前提条件がないかぎり、通史を描くことはできないのである。言いかえるならば、歴史資料の

なかに「マレー人」を同定しようという実証的な作業を可能にするのは、「マレー人」がその作業

に先行して存在するという前提によるものであり、この作業によって、「マレー人」は均質で一様

な統一体として構築されるのである。

12) ウィルキンソンはこのことをして、マレー半島を人類の歴史博物館であると表現している。原始的

な生活をおこなう先住民たちを歴史の最初の章において描くこのやり方は、独立後のザイナル・ア

ビディン・ビン・アブドゥル・ワーヒッドが編集した『マレーシア史瞥見』においても踏襲されて

いる。

― 24 ―

13) ヨーロッパ人による「マレーなるもの」の表象については、サイド・フセイン・アラタスの『怠惰

なネイティブという神話』(1977 年)やワン・ハシムの「エスニック集団のステレオタイプの形成」

(1984 年)を参照のこと。また『マレー研究論集』における「マレーなるもの」の表象について

は Iguchi(2001)を参照のこと。

14) むろん、移民労働者が植民地主義的な知のコントロールの外にいたわけではなかった。チャール

ズ・ハーシュマンによれば、19 世紀のはじめからヨーロッパにおいてさかんになった「人種」と

いう知のテクノロジーは、センサスの導入によって、マラヤに持ちこまれ、「人種」にもとづく社

会的経済的秩序の構築をもたらしたという(Hirschman 1986)。センサスにおける分類は改良が重ね

られ、時代がすすむにつれて宗教的な指標が「人種」的な指標へとかわっていった。20 世紀に入

ると、ヨーロッパ人、ユーラシアン、中国人、マレー人、インド人、その他という分類方法がしだ

いに確立していく。それは、あとで述べるように、地域研究的な知と交渉しあって、「三大民族」

という見方を導くことになる。

15) アブドゥッラーとは、アブドゥッラー・アブドゥル・カディル・ムンシーのこと。マレー語による

はじめての近代文学である『アブドゥッラー物語』を執筆した。ザッバとはザイナル・アビディン・

ビン・アフマド。マラヤ大学マレー研究科初代研究科長にして「マレー語の父」と呼ばれる。

16) Kassim Ahmad's ‶ Introduction″ to Kisah Pelayaran Abdullah (Kuala Lumpur: Oxford University

Press, 1964)、Anas Haji Ahmad, Sastera Melayu Lama dan Baru (Pinang: Sinaran, 1975)、

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Taib Osman, An Introduction to the Development of Modern Malay Language and Literature

(Singapore: Times Book International, 1986, revised edition)を参照のこと。

17) 『アブドュッラー物語』は 1949 年に出版された当時は「マレー語」をアラビア文字によって表記

するジャウィ文字で書かれていたが、本論ではクアラ・ルンプールにおいて 1967 年に出版された

版と 1953 年にジャカルタで出版されたローマ字表記のものを用い、中原道子訳の『アブドュッラー

物語』(平凡社、1980 年)を参考にした。

18) 「マレー人の貧困 The Poverty of the Malays」という議論がはじめて掲載されたのは、1923 年

12 月 1 日のシンガポールの英字新聞『マレー・メール』においてであった。この記事はその後ザッ

バの手によってマレー語へ翻訳されたうえ加筆され、Al-Ikhwan 誌に 1927 年の 3 月号から 5 月号

まで連載された。今回はアブドゥッラー・フセインとカリド・フセインの編集したザッバの論集か

ら引用している Abdullah and Khalid(1974)。

19) 1923 年 12 月 3 日のシンガポールの英字新聞『マレー・メール』に、「真のマレー人」という名前

で、「マレー人」を「死にゆく人種」であるとうたう一編の詩が掲載された。ザッバは一週間後の

『マレー・メール』に反論の詩を投稿している。

20) ザッバは「マレー語で書かれたはじめての近代文学」としての『アブドゥッラー物語』に否定的な

評価をくだしている。「『アブドゥッラー物語』は市場で使用されるような言語や、外国語かぶれ

の表現で汚されていた」(Za'ba 1939:142)。ザッバはJ・T・トムソンがアブドゥッラーの「人種」

― 25 ―

的特徴について書いた文章を引用して、アブドゥッラーの「マレー語」の問題を、「人種」的特徴

として説明しようとしている。

21) 通説では、「東南アジア Southeast Asia」という名称は、第二次世界大戦中に日本軍によって占領

された地域を回復するため、軍事戦略上、統一的対策をとる必要から、1943 年セイロンのコロン

ボに設けられた連合軍の「東南アジア司令部 South East Asia Command」に由来する。だが、ファ

イフィールド・ラッセルは、「東南アジア司令部」という名称が採用された背景には、戦後の米国

を中心とした東南アジア地域研究の礎の一つとなる民間の調査研究機関である太平洋問題調査会

Institute of Pacific Relations(通称 IPR)による広範囲にわたる活動があったことを指摘して

いる(Russel 1975)。ラッセルによれば、1940 年にウィリアム・ホランドが編集した太平洋問題調

査会による研究報告書には「東南アジア Southeast Asia」という名称がすでにつけられていた。

いずれにせよ、「東南アジア」という名称がとても新しいことが確認できるはずである。

22) 『オランダ領インド』(1939 年)においても「プルーラル・ソサエティ」についてくわしく論じら

れている。

23) 太平洋問題調査会の設立は第二次世界大戦以前にさかのぼる。さまざまな国と地域の研究者がかか

わった民間の研究団体であるが、第二次世界大戦後しばらく地域研究の成立初期において、アメリ

カ合衆国を中心として活発に活動を展開した。太平洋問題調査会については、日本太平洋問題調査

会(1951 年)、原(1978~1979 年)、片桐(1983 年)、中見(1989 年)を参照のこと。ファーニヴァ

ル自身も戦後太平洋問題研究会にかかわっている。

24) 「民族」別の政治組織の形成を分析したラトゥナムやヴァシルにおいても、政治的な亀裂は、基本

的には「人種別労働分業」にあると考えていた(Ratnam 1965, Vasil 1971)。マッギーやエンルー

の地理学や社会学の分析も「人種別労働分業」に基づいていた(McGee 1964, Enloe 1970)。

25) たとえば、マレー語をマラヤ唯一の国語とすることを主張する Dewan Bahasa dan Pustaka の雑誌

Dewan Bahasa の編集記に端的に見られる。

26) これらには、原初主義的アプローチ、社会生物学的アプローチ、ネオ・マルクス主義的アプローチ、

内的植民地論的アプローチ、労働市場分割論的アプローチ、エスニック・エンクレーブ・アプロー

チなどさまざまなものがある(関根 1994)。

― 26 ―

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マレーシアにおける国民的アイデンティティの形成

2005 年 6 月 第 1版第 1刷発行 非売品