道徳授業における「統合的思考」の探究 ·...

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17 松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究 道徳授業における「統合的思考」の探究 ──「価値の序列化」と「価値の平等性」── 松 下 行 則 はじめに 筆者は,2008 年頃から道徳授業には様々なア プローチがあり,その一つとして,これまでの道 徳授業論を再統合する必要性を述べ,その方法上 の課題について触れたことがある 1 そこでは, 「価値 2 の内面化」型, 「価値の明確化」 型,「価値の統合化」型,「価値の行為化」型と整 理できる日本の道徳授業論を融合させれば,新し い道徳授業方法の創出が可能だろうという教育方 法的発想を披瀝した。そのことを通じて道徳授業 づくりの新たな視野と方法を提供できると思われ たからである。しかし,その方法がどのような道 徳の理念に基づいてそういえるのかは暗中模索の 段階にとどまっていた。 それ以降,この点の解明が必要であると考え, 探究を重ねてきた。この点について,その第一次 回答として,「価値の序列化」と「価値の平等性」 という概念を提示し,検討してみようというのが 本稿の課題である。 「価値の序列化」とは,ある行動の判断を求め られたとき,二つ以上の道徳的価値を天秤にかけ, ある価値を優先的に選択することである。 それに対して「価値の平等性」とは,ある行動 の判断を求められたとき,二つ以上の価値を共に 実現しようとする思考方法であり,すべての価値 は平等に扱われるべきだとする考え方である。こ れは道徳の「統合的思考」とも言えるだろう 3 1 「価値の序列化」授業 では, 「価値の序列化」の実際について検討して, その意味を考察してみよう。 1) 隠された「序列化」としての「価値の内面化」 ① 資料「二わのことり」の分析 ここで分析する資料は,定番資料としての「二 わのことり」 4 である。 本資料は,小学校低学年の資料であるため,話 の構成が単純で,価値構成が明瞭である。また,「弱 い葛藤」 5 が仕組まれている。それに,後述する ように,この内面化資料を批判的に構成した授業 がいくつかあり,分析を重層的に行うことができ る。 「二わのことり」を文節的に要約すると,次の ようになる。 ①山の小鳥たちのところに,やまがらから誕生 日会への招待状が届く。 ②ところが,同じ日にうぐいすの家での音楽会 の練習もある。 ③小鳥たちはみんな,明るくてごちそうもある うぐいすの家に行ってしまう。 ④迷っていたみそさざいも,みんなと同じよう にうぐいすの家に行く。 ⑤しかし,みそさざいは,やまがらの事が気に なって仕方がない。 ⑥迷った末に,みそさざいはそっと音楽会の練 習を抜け出し,やまがらの家に行く。 ⑦やまがらは,涙を浮かべて喜ぶ。 ⑧みそさざいは,きてよかったと思う。 さて,この資料について,まず資料上の矛盾を 指摘しておこう。 第一に,① と ② の場面で,やまがらの誕生日 会と音楽会が重なっていることを知った小鳥たち は,どうするかを迷ったり話しあったりした形跡 がない。人間の世界では,スケジュールがバッティ

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Page 1: 道徳授業における「統合的思考」の探究 · 道徳授業における「統合的思考」の探究 ──「価値の序列化」と「価値の平等性」── 松

17松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

道徳授業における「統合的思考」の探究──「価値の序列化」と「価値の平等性」──

松 下 行 則

は じ め に

筆者は,2008年頃から道徳授業には様々なアプローチがあり,その一つとして,これまでの道徳授業論を再統合する必要性を述べ,その方法上の課題について触れたことがある1。そこでは,「価値2の内面化」型,「価値の明確化」

型,「価値の統合化」型,「価値の行為化」型と整理できる日本の道徳授業論を融合させれば,新しい道徳授業方法の創出が可能だろうという教育方法的発想を披瀝した。そのことを通じて道徳授業づくりの新たな視野と方法を提供できると思われたからである。しかし,その方法がどのような道徳の理念に基づいてそういえるのかは暗中模索の段階にとどまっていた。それ以降,この点の解明が必要であると考え,探究を重ねてきた。この点について,その第一次回答として,「価値の序列化」と「価値の平等性」という概念を提示し,検討してみようというのが本稿の課題である。「価値の序列化」とは,ある行動の判断を求められたとき,二つ以上の道徳的価値を天秤にかけ,ある価値を優先的に選択することである。それに対して「価値の平等性」とは,ある行動

の判断を求められたとき,二つ以上の価値を共に実現しようとする思考方法であり,すべての価値は平等に扱われるべきだとする考え方である。これは道徳の「統合的思考」とも言えるだろう3。

1 「価値の序列化」授業

では,「価値の序列化」の実際について検討して,その意味を考察してみよう。

(1) 隠された「序列化」としての「価値の内面化」① 資料「二わのことり」の分析ここで分析する資料は,定番資料としての「二わのことり」4である。本資料は,小学校低学年の資料であるため,話の構成が単純で,価値構成が明瞭である。また,「弱い葛藤」5が仕組まれている。それに,後述するように,この内面化資料を批判的に構成した授業がいくつかあり,分析を重層的に行うことができる。「二わのことり」を文節的に要約すると,次のようになる。①山の小鳥たちのところに,やまがらから誕生日会への招待状が届く。②ところが,同じ日にうぐいすの家での音楽会の練習もある。③小鳥たちはみんな,明るくてごちそうもあるうぐいすの家に行ってしまう。④迷っていたみそさざいも,みんなと同じようにうぐいすの家に行く。⑤しかし,みそさざいは,やまがらの事が気になって仕方がない。⑥迷った末に,みそさざいはそっと音楽会の練習を抜け出し,やまがらの家に行く。⑦やまがらは,涙を浮かべて喜ぶ。⑧みそさざいは,きてよかったと思う。

さて,この資料について,まず資料上の矛盾を指摘しておこう。第一に,①と②の場面で,やまがらの誕生日会と音楽会が重なっていることを知った小鳥たちは,どうするかを迷ったり話しあったりした形跡がない。人間の世界では,スケジュールがバッティ

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月18

ングすると,どうするかを調整する。擬人化された小鳥の世界でも,スケジュールを調整することが必要だろう。しかし,そんなことに気づいている小鳥が一羽もいない。このように,この時点で小鳥たちは「非人間的」で身勝手で反道徳的なイメージを付与される。そしてその結果として,音楽会の練習が大事だからうぐいすの家に行くのではなく,「明るくてごちそうもある」からうぐいすの家へ行くよう小鳥たちは仕向けられる(③)。同じ行動を取ったみそさざいであった(④)が,やまがらのことが気になる(⑤)。しかしやまがらは,誰にも相談することなく,

「そっと音楽会を抜け出」す(⑥)。これも現実にはあり得ない。音楽会の練習に集まっているのだから,そっと抜け出すことはできない。そっと抜け出すことができるのは,アメリカ映画で見るような出入り自由のホームパーティーのような設定の場合であろう。抜け出したみそさざいは,練習をサボることに

なるから,他の小鳥たちからは非難囂々となる。また,そのことをみそさざいも自覚している。悪いと分かって抜け出すのだから,「そっと」なのである。だから,いくらやまがらが「涙を流して大喜び」

したとしても,みそさざいにとって「やまがらの家での楽しい誕生会」になるはずがないのである。こうした道徳的に見て,矛盾だらけの資料が使

われるのだから,資料を使用する教師たちからどんな資質が失われているというべきだろうか。もちろん何よりも,教材(資料)研究という教

材に対する批判的検討が欠落している。しかし,これは「価値の内面化」を推進する人々にとっては「やってはならないこと」である。それをやれば,教材の矛盾を指摘することになり,「教えること」ができなくなると恐れる。つまり,教材を疑わないということはそこで示されている一面的な道徳的価値を疑わないということになる。つまり,教師自身は,教材とその前提とされる道徳的価値の検討を鵜呑みにし,主体性を発揮しない6ことを通じて,資料の矛盾をニグレクトし

ているわけである。

② 内面化授業におけるねらいと資料解釈「価値の内面化」型の授業は,例えば次のようにねらいと資料解釈を示す。いくつか紹介してみよう(下線は引用者)。 A教諭7は,「ここでは,相手のことを思いやり,自分の都合や楽しさに流されず誠意をもって接すことが人に喜んでもらえることを実感し,その大切さを自覚することをねらいとし」,「ミソサザイが迷いながらウグイスの家に行ったときの『ちっとも楽しくない』という気持ちと,思い切ってヤマガラの家に行ったときのヤマガラの涙と『ああ,きてよかったな』と

(ママ)

言う気持ちを実感させることで価値にせまりたい」と言う。 B教諭8は,「自分の身近にいる友だちのことを思いやり,仲よくしていこうとする心情を育てる。」というねらいのもとで,「資料の小鳥(みそさざい)になって考えることにより,楽しい方がいいと思う心の弱さを乗り越えて,友だちに優しく接することの大切さを実感させることができます。」と資料を意義づけている。 C教諭9は,「友達と助け合い,仲よく生活しようとする心情をはぐくむ」ことをねらいとして,「本授業としては,友達を思いやり,温かな心と豊かな人間関係を築いていくことの素晴らしさを児童とともに話し合い,感じさせていきたいと考え」ている。そのもとで「資料活用の視点」として,以下のように述べる。

 「みんなと一緒」「にぎやかな場所」をはじめに選んだみそさざいの姿は,低学年の児童にまだ残る自己中心性と重なります。このような,だれにでもある心の弱さについて考えさせます。/やまがらのことを思って飛び立つ,みそさざいの姿,喜ぶやまがらの姿を中心に,友達を思い,行動することの素晴らしさ,美しさを

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19松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

十分に感じさせます。/みそさざいに共感しながら,友達に対する思いと行動について,じっくりと考えさせていきます。 以上,三者における授業のねらいと資料解釈を

見てきたが,資料批判の視点がいっさいないことがわかる10。そして,下線部のように,小鳥たちがウグイス

の家に行ったことは,「自己都合」「自己中心性」「心の弱さ」として分析される。なぜ,最初にとった行動がそう判断されるのか合理的な理由は述べられていない。ウグイスの家で「楽しむこと」「音楽会の練習」

をすることは,反価値的であるかのように解釈されているのである。 ③ 価値の「隠れた」序列化では,上記の資料に基づいて,内面化型におい

てどのように諸価値が序列化されているかを検討してみよう。第一の優先価値は,もちろん「友情」である。

そのことはこれまでの記述から明瞭であろう。何にもまして,みそさざいのやまがらに対する友情である。しかし,これは,資料にあるように,「そっと

抜け出す」という反道徳的なみそさざいの行為を前提して成り立つ。つまり,みそさざいは,問題ある行動を取ることでしか,この友情を成立させることができていないのである。みそさざいの中にある友情論とは,他人には知

られてはならない,ひっそりとして偏向した友情論であると言えるかもしれない。第二に,見え隠れしている道徳的価値とは何だ

ろうか。みそさざいのこっそりと抜け出した行動が逆説的にこれを示しているので,解析してみよう。もし,みそさざいにとって,やまがらの家に行

くことが道徳的に正当な行為であるならば,そっと抜け出す必要はなかったはずである。堂々と正面玄関から,音楽会に参加している他の小鳥たち

に対して,「やまがらの家に行ってくるよ」と言って中座すればいいだけの話である。しかしそうはしなかった。みそさざいは,後ろめたさを抱えながら,やまがらの家へ行ったのである。何に対するうしろめたさであろうか。もちろん,音楽会の練習を抜け出す後ろめたさである。他の小鳥が(一生懸命に)音楽会の練習をしているときに,やまがらのためとはいえ,抜け出すわけだから後ろめたさがないわけはない。では,この点を道徳的価値としてみたら,どのような価値が隠れているだろうか。一つは,他の小鳥たちへの友情という価値があるだろう。みそさざいにとって,やまがらも大切な友人ではあるが,音楽会の練習をする他の小鳥たちも大切な友人であろう。音楽会の練習は,特定の行事や企画の練習であるから,不特定多数の群れではない。ある目的をもった集団である。つまり,音楽会を開くという特定の目的をもって集まった集団であるから,そこに目的を実現させるための友情が芽生えることは大いにありうることである。小鳥たち全員とは言えなくても,少なくとも他の小鳥たちの最低一人とは友情が成立していてもおかしくない。二つに,練習を一緒にするということは,仲間として協力するという道徳的価値があるだろう。さらに言えば,音楽会をりっぱに成功させるためには,度重なる練習が必要だから,目標の実現(不撓不屈)という価値があるかもしれない。みそさざいにとっての後ろめたさとは,資料には書かれていないが,他の小鳥たちとの「友情」「協力」「目標の実現」など,他の大切な道徳的価値を犠牲にして,「裏切り者」になるかもしれないことを含み込んで,やまがらとの関係(友情)を「選択」したことにあったわけである。ここには,やまがらへの友情を優先させ,他の小鳥への友情を軽視し,他の小鳥たちとの協力関係を軽視し,やまがらへの一時的な同情による友情を優先させることによって,目標の実現を軽視する事態を,みそさざい自身が導き出しているのである。この発想や行動が道徳的であるはずがない。道

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月20

徳的であろうとすれば,少なくとも,ここで指摘した諸価値を実現するための手立てをみそさざいは探求する必要があったわけである。

まとめてみよう。「価値の内面化」においては,資料に道徳的価値が描かれようが,そうでなかろうが,そこで教えたり,気づかせたりする道徳的価値を無理矢理に切りとったために,逆に諸価値を一面化し,他の価値を軽視したり反価値として切り捨てるというパラドックスが生じている。その結果,価値を序列化するという特徴を有することになり,教えるべき道徳的価値は,抽象的というより偏向してしまっているのである。 ④ 内面化による授業展開では,先の三人の中で最も授業のようすがわか

る A教諭の中心発問と授業過程における実際の子どもたちの反応を取り出し,重ねて考察してみよう。

T じぶんなら,どっちに行きますか。C ヤマガラの家。友だちになるんだ。C 自分なら楽しいほうに行きたいな。C  一度,ウグイスの家に行って,わけを話してヤマガラの家に行く。

C  ウグイスの家で音楽の練習をして,ヤマガラの家に行く。……(中略)……T  ウグイスさんの家,いいねえ。やっぱり,ごちそうもあって楽しいところがいいよ。先生は,ウグイスの家がいいかな。〔ゆさぶり発問──引用者〕

C  ヤマガラさんはせっかく手紙をくれたのに,行かなかったら寂しいと思います。

C  ウグイスの家で約束があるからってヤマガラさんに「また,行くね」って手紙を書いたらそれでもいいかな。

C  音楽の練習は何回もあると思うけど,お誕生会は 1年に 1回しかないのだから,今回はヤマガラさんの家に行く方がいいと思いま

す。C  お誕生会じゃなかったら,ちょっと迷います。

C  ウグイスの家に行って,音楽の練習をして,ほかの鳥もいっしょにヤマガラさんの家に連れて行って音楽を聴かせてあげたらいいと思います。そしたら,ヤマガラさんの誕生日のお祝いもできるよ。

C  手紙をくれると言(ママ)

うことは,来てほしいって言(ママ)

うことなんだから,ヤマガラさんの家に行ってあげないといけないよ。

なんと賢い子どもたちだろう。ウグイスの家での練習と,ヤマガラの家にいくこととを授業者のように対立的に捉えていない。とても柔軟な思考と発想となによりも道徳的な統合的思考を表現している。しかし,授業者は,自ら立てた授業構想に拘泥してしまっていて,子どもたちのこの思考の「よさ」に気づいていない。授業者は,終末の説話で,次のように述べる。   なかよしのお友だちと集まってご飯を食べに行く約束をしていました。楽しみにしていました。そしたら,前の日に,おばあちゃんから「つけものをつけるから,手伝ってほしい」と電話がありました。つけものをつけるのは,重い大根や白菜を寒いところで運んだりして大変な仕事です。腰の曲がりかけているおばあちゃんを思うと,友だちとの食事も気になったけど,約束を断って手伝いに行きました。おばあちゃんは,「助かったわ。よかった,よかった」って腰に手を当ててうれしそうに言いました。先生は「ああ,手伝いに来てよかった。おばあちゃんのうれしい顔を見られてよかった」と思いました。

この説話は,的外れである。授業者は,最後まで貧しい二項対立思考に囚われて,子どもたちが発見し,豊かにイメージした道徳的思考を台無しにしている。授業者は,「展開では,ウグイスの

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21松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

家に行くか,それともヤマガラの家に行くかという心の葛藤について『心の綱引き』を行い,自分と重ねながら十分に考えさせることにしていた。しかし,実際には,全員から「ヤマガラのほうへいくべきだ」と答えがかえってきて子供どうしでの意見交換にならなかった。資料中心に考えて,自分の気持ちと重ねて考えることが十分でなかったと思う。」と反省しているが,これも的外れである。反省すべきは,子どもの道徳性を膨らますために,資料を多面的に解釈し,多様に展開する技量を持ち合わせていなかったことについてであろう。

以上からわかるように,ここで描かれるのは,ひとりぼっちのやまがらに対する主人公(みそさざい)の独りよがりな道徳的価値形成である。孤独と孤独が共依存している。みそさざいに見えているのは,偏狭な目の前の緊急な道徳的価値だけである。他の友人たちを巻き込み,包み込むという広い視野(相互依存,互恵的関係)には立っていないのである。

(2) 内面化「二はのことり」批判の授業11

   ─統合的思考へのヒント─では,次に,同じ資料をもとにして,「みそさ

ざいの行動は正しいか !?『二はのことり』における対立場面」を構成した授業に着目して分析してみよう。授業者は,「二はのことり」への疑問として,以下のように述べる。

 多くの授業は,やまがらの迷いに触れさせつつも,やまがらの家へ行くことを選んだみそさざいに共感させて終わる。しかし, みそさざいのとった行動は,果たしてただしかったのか ?

 独りぼっちのやまがらの事を心配するみそさざいの気持ちには,確かに尊いものがある。しかしうぐいすの家で行われている「音楽の練習」は無視して良いのだろうか ?また,みそさざい

が欠けることで,「音楽の練習」に何ら支障は生じないのだろうか ?

ここで示された疑問は,その限りではどれも納得のいく疑問である。授業者は,資料を虚心坦懐に読み,そこにある資料の不確かさや矛盾に気づき,それを疑問として提示している。そこに授業者の主体性の発揮を見ることができる。道徳授業づくりの第一関門をクリアーしているわけである。この疑問に立って,授業者は,「この場面で意

見を二分することが出来ると考え」,授業展開をまず二項対立的に構成する。授業者は,みそさざいが迷う場面で資料を切り,

「やまがらの家での誕生会」と「うぐいすの家での音楽の練習」との違いを押さえた上で,発問 1

として「みそさざいは,どうすれば良いでしょうか。」と問い,a. やまがらの家へ行くべき,b. うぐいすの家へ行くべき,という二つの意見を子どもたちから引き出す。そして,対立意見が明確になったところで,討論に持ち込む。子どもたちから出た意見を授業者は,次のよう

に整理している(下線は引用者)。

《やまがらの家へ行くべき派》・やまがらがかわいそう。・音楽の練習より誕生会の方が大切。・みんなで行くとやまがらの家も明るくなる。 ・音楽の稽古は 1年に何回もできるが,誕生 日は年に 1回しかない。

 ・やまがらの家にもごちそうがあるかもしれ ない。

 ・鳥は人間よりも死ぬのが早いから行ってあ げた方が良い。

《うぐいすの家にいる派》・勝手にやまがらの家へ行くのは裏切り。 ・音楽の練習の方が楽しいし,ごちそうもあ 

る。 ・やまがらの家はお化け屋敷みたいに暗い。 ・やまがらの家にはごちそうがない。プリン 

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月22

トに書いてある。 ・誕生日は年に 1回だけど,誕生会も 1回と は限らない。

しかし授業者は,資料の続きを読み,「どちらにとっても良い方法はないだろうか ?」と発問 2

を投げかける。授業としては,この「問いかけに,何ら答えが

出たわけではない。折角の子供たちの意見を十分に生かす力が,私になかったからである。私自身の課題である。」とまとめられているが,この発問自体は,大いに推奨されてよい発問である。この発問以前に,ある子どもは先の下線部のよ

うに,「みんなで行く」という,統合的思考に足を踏み出していたからである。教師が二項対立的に問題を設定したとしても,

子どもは矛盾のない解決策を求めようとする。いわゆる Win-Win型の思考12を行い,問題解決をはかろうとする。これは「内面化」論者によって,よく非難されるたんなる「方法論」13ではないのである。授業者にはそれを展開する時間は残されていなかったが,ここに「統合的思考」を考えるヒントが隠されている。

(3) 価値の序列化としての荒木派「モラル・ジレンマ授業」の実際

さて,二項対立的な授業構想としては,荒木派「モラル・ジレンマ授業」が名高い。その実際について検討してみよう。モラル・ジレンマ授業は,明確な対立構図をつ

くり,「葛藤を打ち消す第 3の行為や方法がとれない状況」14を「立ちどまり読み」によって,子どもたちに理解させる(「方向付け」する)ことから授業を始める。教師によって狭められた思考様式を,子どもたちは,強制されて道徳的判断力─「公正に関する普遍的原理」「役割取得の原理」「人間尊重への原理」─15の育成を促されるのである。荒木派「モラル・ジレンマ授業」は,価値の内

面化のように,一つの価値に偏向することはないが,多様な価値に開かれているわけでもない。まさに,二元的価値へ引き裂かれていくのである。

① 資料「ターザンロープ」の授業16

例えば,先の内面化の資料が小学校低学年だったので,ここでも小学校 1年生における実践を見てみよう。授業者は,資料「ターザンロープ」において,二項対立的価値の構図を適用し,「思いやり・親切」と「規則尊重」の葛藤として描く。資料「ターザンロープ」を要約する。① 主人公ゆうた君が,公園のターザンロープで遊んでいる。② 弟のようにかわいがっている近所のたっちゃんが「ぼくと代わって」と声をかける。③ 次に先に並んでいた上級生の男の子がにらみながら,「おまえよりおれの方が先だ。おれと代われよ。」と大声をかける。④そして,主人公は,どうすべきかと迷う。

授業づくりにおいては,「1年生という発達段階を考えて,きのうターザンロープで遊べなかったたっちゃんのつらい気持ちと,ずっと並んで待っていた男の子の気持ちに論点を絞って話し合いをさせる」という。しかし,この対比は価値の対立としては成り立たない。この場面では,規則を尊重しない「思いやり・親切」は道徳的に成立しないからである(あとで詳しく述べる)。荒木派は,道徳的価値を矮小化して「心の葛藤」17として描くから,この対比が成り立つように見えるのである。第一次の判断・理由づけでは,・ たっちゃんは,きのうもターザンロープにのっていない。・たっちゃんが,かわいそう。・自分より年下の子を泣かしたらいけない。・かわいそうだから。・泣いたらいけないから。・ 大きい子はがまんできるけど,小さい子はがまんできないから,先にのせてあげる。

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23松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

これらの理由づけは,授業者によって,「自分より年下の子を泣かすようなことはいけない」とまとめられ,「相手を外見という表面的な事実からとらえていることを表している」と評価される。授業後半では,役割表現を導入し,男の子役を

授業者が演じることによって,「順序性」や「規則尊重」の視点から揺さぶりをかける。新たな理由づけが生まれているという。「『きのうもできなかったんだから,1回でもさせてやるべきだ。』『大きい子ものりたいというと思うけど,大きい子のほうが少しはがまんできるから,待ってあげたほうがいい。』といった,葛藤状況の解決策や男の子のことも考えたものがみられるようになった」という。「悲しい思いをしている小さい子への『思いやり』」と,「先に並んで待っていた 4年生くらいの男の子のもつ『順序性』に焦点化され」「授業記録にみられるように,『たっちゃんと代わる』と判断した子どもは,順序の正当性よりも小さい子への配慮(思いやり)を優先し,『男の子と代わる』と判断した子どもは,小さい子への配慮よりも順番の正当性を優先したのである。」と評価されている。しかし,この授業は道徳的に見れば,規則尊重

を軽視する授業である。昨日も乗れなかった「たっちゃん」への現実的配慮やたっちゃんの「わがまま」に対する主人公の思いやりは,反道徳的である。そのことを認識させないモラル・ジレンマ授業は,道徳の教育とはなりえない。葛藤はよい。しかし解決策は道徳的である必要

がある。このことを認識しない授業者は,間違った「思いやり」を教育してしまっている。道徳的な思いやりとは,この場面では,規則尊重を実現できる思いやりではなくてはならないだろう。つまり,例えば,まず,男の子への順番をはっ

きりさせる。ルール上優先順位は男の子にある。そしてその次に,たっちゃんが遊べるように考える。これが思いやりである。しかし,たっちゃんは二番目だから,男の子が少し乗ったあとに,たっちゃんと一緒になって,男の子に話をして,少し乗せてもらうなどの解決策を考えることができ

る。このとき,たっちゃんは,昨日も乗れなかったことを話すのもよい。男の子が「思いやり」を発揮してくれるかもしれない。しかし,そうならなかったとしても,その結果は甘んじて受け入れる必要がある。規則尊重に立つ限り,子どもたちが言うように「ずる」はいけないのである。荒木派「モラル・ジレンマ授業」のオープンエンドは,子どもの主体性を尊重するという口当たりのいい言葉で,反道徳的な教育をする抜け穴であってはよくないだろう。改めて言う。道徳的な解決策を模索すべきである。そうでない限り,どちらかを優先するという価値の序列化から抜け出すことはできない。 ②  荒木派「モラル・ジレンマ授業」の統合的

方法しかし,対立的諸価値を統合しようとしたモラ

ル・ジレンマ授業実践がなかったわけではない。それを紹介してみよう18。コールバーグ監修によるジレンマ物語19に収録されている資料「まほうつかいのめがね」を使った授業である。資料は,次のように要約できる。① 魔法使いの眼鏡を探すことになったバンとケーンは,眼鏡がプールの桟橋の下の水の中に落ちているのを見つける。② 眼鏡を見つけたのはケーンであるが,バンはケーンの手をかりて水の中から眼鏡を取り出す。③ ところが,魔法使いが用意しているごほうびの時計は一つしかない。④ 時計はどちらのものか。二人はそれぞれの 正当性を主張して譲らない。二人はどうすればいいのか。 授業者は,「学校や集団生活を楽しいものにするためには,自己を主張するだけでなく,相手の気( マ マ )

持を考えて譲り合うことや,お互いが協力して公正・公平に努めることが求められる。…友だちのそれぞれの立場を考えながら,自分自身の考え

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月24

や判断はどうだろうということが話せるようになることは,これからの集団生活をしていく上で大切なことである。」20という。授業者は,「学校や集団を楽しいものにする」という目標のもとに,「自己中心性の脱却が公正・公平」の価値にあると見ている。「バンとケーンそれぞれの立場があること」から「公正・公平とするには自分としてどうすべきかを考えさせたい」としている。しかし授業は,二項対立を超え出て,統合的方

法を探求している。バンやケーンは,「協力や苦労」21してめがねを

探したのだから,統合的思考の見地からすれば当然だが,事前に想定していた公正・公平 vs権利義務の価値対立の構図を超え出ている。子どもの発言を見てみよう(対立を相対化した

部分を抜き出してみる)。・わからなくなってきた。まん中かな。・こんがらがってきた。・ めがねを見つけたのはケーン。だからケーンです。

・ でも,もう一つ,バンはずぶぬれになっていたし,服をしぼっていた。

・ だから,両方同じくらのことだからまん中だと思います。

・でも,とけいはたった一つだから…。

これに対して,授業者は,「とけいは誰のもとだと思いますか。その人になって言ってみよう」と続ける。そして,対立を解消(問題解決)する次の発問

をする。「なかよしの二人なのに,何かいい方法はないだろうか。」この発問に対して,子どもたちは,次のように

統合的方法を発見する。・ バンもケーンも,同じくらい苦労した数が  あるから,まん中だと思います。

・ バンもケーンもえらかったんだから,二人で使う方がいいと思います。

・ どこかの秘密の場所において,きょうはあの

人かきょうはこの人というふうに使います。・ かくし場所をつくって,使う順番を決めて,毎日ひとりずつ使えばけんかになりません。・順番でなく,二人で使った方がいいです。 授業者は,これを受けて,どちらかがもらうより,「もっといい方法」があると考える。この点について,授業者は,授業の考察の中で

「心のゆれと解決」に視点をあて,「問題の解決については,迷った分だけ自然な形で,いろいろな考えを出すことができたと思う。」と評価している。

さて,こうした統合的方法は,荒木派「モラル・ジレンマ授業」で推奨されているだろうか22。残念ながらそうはなっていないことは,諸著作に紹介されている実践記録を読むと,はっきりしている。これまで調査分析した 65編の実践記録の中で,統合的思考への示唆を含んだものは 2編にすぎない23。いずれ詳細は論じるが,荒木派「モラル・ジレンマ授業」では,二項対立的傾向性が重視されていることだけは指摘しておきたい。

(4) 「統合道徳」における「例外」思考① 統合道徳の理念統合型の授業構成を道徳授業に導入したのは,

「統合道徳」を提唱した伊藤啓一である。しかし,結論から言うと,伊藤の「統合道徳」

は道徳的「価値の統合」ではなく,道徳授業の「方法の統合」にとどまっている。伊藤は,これまで,「価値の内面化」が推進し

てきた,「ねらいとする道徳的価値」を教える(内面化する)ことを第一義とする道徳授業 =A型(伝達・納得型)とモラル・ジレンマ授業が推進してきた「価値の明確化」型の「子どもの個性的・主体的な価値表現や価値判断」の受容を第一義とする道徳授業 =B型との統合を意図する24。さらにそれらに,「道徳的価値を,『例外』の視点から批判的に吟味する思考」=「批判的思考」(C思考)を付加し,「道徳授業の質的深まり」を図ろうと

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25松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

考えた。しかし,この「例外」の視点という発想は問題

を含んでいる。伊藤は,「道徳的価値や原則は絶対的なものではありません。それらはあくまで暫定的なものにすぎません。子どもは,教えられた価値は本当に善きものであるかどうかを自らに問い,『C思考』で吟味・修正することによって,より確かなものにしていくのです。ただ,修正した新しい価値も暫定的なものでしかなく,さらなる吟味を必要とし,こうした繰り返しの中で,自らの生き方を形成していく。」と述べる。ここで述べられていることを字義のまま受け取

れば,間違いないように思われる。道徳的価値をアプリオリに捉えない限り,われわれが思考するすべての道徳的価値は,時代性を帯びるから,「絶対的」であるはずはない。近代国家において,道徳的価値が普遍性を獲得しつつあるとは言っても,国家による枠組みが厳然と存在するわれわれの時代においても,国家を超えた普遍的な道徳的価値は存在し難い。しかし,国家の枠組みを前提とすれば,そこに

おける国民国家的普遍性は存在する。例えば,日本において,生命尊重が「絶対性を帯びた」道徳的価値であることを疑う者は,よほどの偏屈な思想の持ち主でない限りありえまい。「暫定的」だといっても,朝令暮改的な暫定性ではない。「戦後の日本」というようなその時代においては,「絶対性を帯びる」ということができる。そうでない限り,生命の尊重を道徳規準として教える俎上に載せることはできないであろう。また,伊藤は,次のようにも述べる。  そこで私たちは,主体的な価値判断力や創造力を育成するための一方法として,「例外」に焦点を当てた道徳授業を提案します。道徳的価値は一般的であるがゆえに,必ず「例外」が存在します。そこで,道徳資料として「例外」と思われる場面を取り上げ,一度学んだ価値を批

判的に吟味するのです。 例えば,「正直」は,私たちが子どもに必ず伝えなくてはならない基本的価値です。子どもは,まず「正直にせよ」と教えられます。そして,日常生活でそれを実践すれば,多くの場合よき反応を得るでしょう。しかし,いつもそうとは限りません。相手の望まないことを「正直」に話したとき,否定的反応が返ってきます。そうした反応に対し,子どもは自らの行動を修正するでしょうが,なぜそうしなければならないのかが十分に理解できない場合もあります。そこで,道徳授業で「正直にせよ」の「例外」を「C思考」によって,吟味し,その有効性と限界を自覚するのです。 「道徳的価値は一般的であるがゆえに,必ず『例外』が存在」すると言えるか。道徳的価値に例外はない。一般的であるがゆえに,抽象的だというのならわかる。しかし,一般的であるから,例外があるわけではない。そもそものはじめから,例外があるのならば,それを一般的だということはできない。伊藤のいう「一般的」とは,「だいたいそうだ」ということではあるまい。道徳的価値において,一般的とは普遍的であることと同値であって,「規準として認められる」ということを意味するはずであろう。そうすると,ここでいう「例外」を,道徳的価値に例外があると読むと,論理的に成り立たなくなる。では論理的に成り立たせようとすれば,道徳的価値は一般的であるから,現実的事態の中では「例外的に適用できなくなる場合がある」と言い換えるべきであろう。伊藤が例えとしてあげている「正直」について考えてみよう。いつも正直がいいとは限らない。相手の望まないことを「正直」に話すと否定的反応が返ってきて,子どもは自らの行動を修正するという。かといって,正直という道徳的価値が消失するわけではない。正直が道徳的価値として一般性と普遍性を獲得しているから,現実にも「基本的価

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月26

値」として通用している。しかし,「バカ正直」という「正直」を批判する現実的知恵がある。伊藤が言う「否定的反応」とは,その「バカ正直」という現実的対応を批判しているとみてよいだろう。子どもが修正するのは,「バカ正直」ではいけないということであって,「正直」ではいけないということではない。現実の事態の中で相手への「思いやり」と「正

直」が天秤にかけられたときに,つまり,相手への「思いやり」よりも「正直」という道徳的価値を前面に押し立てたときに,相手は否定的反応を起こすだろう。それは,「正直」が悪いわけではなく,相手の状況に応じて,「バカ正直」であることが「思いやり」を欠いた行為として受け取られる場合があるということである。つまり,少なくとも二つの価値が対立状況を生む可能性が生じたときに,「嘘も方便」(相手への思いやり)という現実的知恵を働かせよといっているのである。しかしこれは,現実的・実用的であっても道徳的ではない。伊藤が批判的思考を導入して,「例外」に気付かせようとして打ち立てた「統合道徳」は道徳的価値の統合とはなり得ていないのである。 ② 統合道徳の授業では,具体的な授業実践を分析してみよう。伊藤は,資料「手のひらのかぎ」について対し

て次のように指摘する。  「てのひらのかぎ」では,運転手として決められた仕事,つまり,バスの発車時刻を守らなければならない,を無視して少年の生命を助けようとする場面が描かれています。このように,「ルールを守る」ことにも例外があります。よって私たちは,「規則の尊重」を暫定的なものとして扱い,それを「C思考」で吟味するプロセスを大事にするのです。

繰り返すが,「ルールを守る」ことにも「例外」があるのではない。「ルールを守る」ことに例外

と呼びうる現実的事態が生じるのである。法の論理でいえば,刑法第 37条(緊急避難)

が参考になる。そこでは,「自己又は他人の生命,身体,自由又は財産に対する現在の危難を避けるため,やむを得ずにした行為は,これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り,罰しない。ただし,その程度を超えた行為は,情状により,その刑を減軽し,又は免除することができる。」と述べられている。伊藤のいう「例外」とは法にいう「緊急避難」の説明に近い。しかし伊藤の説明は,この法文に照らしても,拡大解釈していることがわかる。例外が無条件で無限定的だからである。

では,これらの思考のもとに展開される「手のひらのかぎ」の授業では,価値が統合されるだろうか。C思考に関わる授業者と子どもの TC記録は以下の通りである。

T : 前の時間には「きまり」は大切と学習しましたが,本当に「きまり」は大切なんでしょうか ?

C : 生命がかかっているときには,「きまり」を破っても仕方ない。

C :「きまり」は大切だけど,生命はもっと大切。C :「きまり」は大切だけど,ときには「破った方がいいときもある。」

T : そうですね,生命というのはみんなも知っている通り一つしかないものですね。ですから,ときとして「きまり」より優先することもあるわけですね。前の時間にあれほど大切だと思った「きまり」を超えてしまう生命というのはやはりとても大切なものなのですね。でも,それならばもう一度尋ねてみたいのですが,「きまり」は破ってもいいのかな ?

C : いや,やっぱり普通は破ってはいけない。C : でも,仕方ないときもあるよ。

見て分かるとおり,「生命尊重」と「きまり」が道徳的価値として対立させられ,「生命」が優先させられている。現実的事態への対応としては,

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27松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

「生命の危険」があるときに,「緊急避難」としての生命の維持と「ルール破り」が生じることは避けられない。そのことは認めてよい。しかし,さまざまな問題を生じさせる。第一に,現実的事態への対応として考えてみよ

う。法としての「緊急避難」には,「生命を守る」ために「ルール破り」を無条件に推奨はしていない。法律用語としても「過剰避難」という言葉がある。「緊急避難としてなされる行為で,生じた害が,その避けようとした害の程度を越えていると判断されるもの。違法行為ではあるが,情状によって刑が軽減・免除されることがある。」(デジタル大辞泉)と言われる。「緊急避難」であっても,それが過剰であれば,違法行為(ルール破り)として,罰せられるということである。つまり,法的にも,あるいは「ルールを守る」という道徳面から見ても「緊急避難」さえ推奨される行為ではない場合を含んでいるということである。第二に,道徳的に見てどうだろうか。優先的価値思考をしていると,自己の価値観と

いう価値階層を自然に形成し,「例外」が「例外」として機能しなくなる。いや,「生命の価値」のためには,生命以外の価値が低い価値として序列化され,最悪の場合,無視される。「命が大事だから,そのほかの価値は大事じゃないんだ」ということになる。これは先の TC記録から見ても杞憂ではない。そこでは「『きまり』は大切だけど,ときには破っ

た方がいいときもある。」というように,「例外」は本来,「破っても仕方ない」というように消極的であるはずであるが,積極的に「破った方がいい」というように展開してしまう。なぜこうなるのだろうか。その理由は少なくと

も二つある。一つは,この場合の「例外」は「緊急避難」のように条件が付けられず,無条件だから,どこまでも「例外」が通用するように思ってしまう。「例外」に歯止めがかからない。二つに,「例外」を誰が決めるのかという問題がある。もちろん,「例外」と見なす本人が決める。それゆれ,

本人が「例外」と見なせば,例外になってしまう可能性を大いに含んでいるのである。本人の選好・選考・選択によって,「例外」となってしまう。さらに子どもたちは,授業者同様,「例外」という厳密な意味がわからないので,消極的意味と積極的意味の違いを区別することができない。「例外」とは,あくまで大人が作り出した現実的対応策の一つなのである。「例外」をいくら教えても,道徳的価値を統合していくことにはならないであろう。

2 問題解決型の授業

統合的思考に最も示唆を与える授業として,柳沼良太が提唱した「問題解決型の道徳授業」25がある。

(1) プラグマティック・アプローチ問題解決型の道徳授業を提唱する柳沼は,プラグマチズムを「ある観念(考え)を行為に移した際に,その結果の有効性によってその観念の意味や真理性を判断しようとする哲学」と呼び,それは「形而上学で権威づけられた絶対的な観念などには重きを置かず,人間の問題解決に役立つ観念こそ重視する」という。この結果主義的で,役立つ観念を重視する問題解決型の思考に基づいて,柳沼は,道徳授業の目標を,① 自己の創造(自分づくり)と② 問題解決能力の育成を,二大目標として,設定する。授業で扱う資料分析については,次のように考える。①資料に含まれている問題の確認②問題に含まれている価値の抽出③問題の対立点(コンフリクト)の分析④解決策の分析 a)資料が取っている解決策の是非の分析 b)それが最善かどうか c) 最善でなければ,当事者全員が満足できる代替案(win-win型)の構想

解決策については自由に構想し共感的に理解す

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月28

ることを前提として,解決策を吟味する,としている。吟味のやり方は,a)解決策によって影響を受ける人を尊重しているか,b)解決策はあなたに適用されてよいか,c)その解決策をあなたはだれにでも適用できるか,である。これらの問題解決型のアプローチは,用意周到

で,子どもたちの道徳的思考の発展方向を具体的にイメージできる点でこれまでの道徳授業論のパラダイムを転換しうる可能性を秘めている。 

(2) 資料「二わのことり」の分析ここで再び,「二わのことり」に登場してもらおう。柳沼は,「二わのことり」を用いて,「友達との

付き合いをテーマに」して,「子どもたちが友人関係の問題を考え,友達を差別せず仲良くし尊重し合うことの大切さを考えられるようにする。」ために,授業における具体的なねらいを「ミソサザイやヤマガラの立場に立って友人関係の問題を考えることを通して,孤立している友達の気持ちにも共感し,みんなと仲よくできる人間関係の能力を養う」としている。「友達を差別しないこと」「互いに仲よくして信頼し合うこと」というようにウグイスの家に行った小鳥たち(「身近な仲間」)とヤマガラ(「身近な弱者」)とをともに意識している。「みんなと仲よく」を「人間の問題解決に役立つ観念」と考えているのだろう。資料における道徳的価値としては,① ミソサザイのヤマガラに対する思いやり,② ウグイスや小鳥の仲間たちとの友情,③ みんなと練習をするという約束の遵守などを抽出し,「登場人物の気持ちに共感しながら,『ヤマガラの家に行く・行かない』『両方に行く』『事情を相談する』などの解決策を構想」している。

(3) 「二わのことり」の授業では,資料を使う展開前段の授業過程を見てみ

よう。最善の代替案に向けて,子どもたちの思考を膨

らませていく過程がよくわかる。「ミソサザイはどうすればよいと思いますか。それはなぜですか。」で第一案「ウグイスの家に行く」の子どもたち(23/35)の理由を確認した後,第二案「ヤマガラの家に行く」の子どもたち(12/35)の理由を確認し,次の発問を投げかけている。「このほかによい考えはないかな。みんなが喜ぶやり方はないか。」この発問を受けて,第三案「ウグイスの家で練習が終わったら,ヤマガラの家へ行く」が発案されている。そして,教師は,「もう一度,どれが一番いい

かを考えてみよう」と問うている。子どもたちの選択は,第一案 8名 第二案 7名 第三案 20名,

であった。その後も,「両方に行く」を選んだ人が増えたが,その理由を子どもたちに問い,「ヤマガラにもウグイスや小鳥の仲間たちにもよいから」を引き出している。問題解決型のアプローチは,子どもたちの非統合的・序列的思考を許容しながらも,最善で統合的な問題解決思考を引き出しているように見える。

3 「価値の平等性」をめざして

では,どのようにして価値が序列化されないよう「価値の平等性」をめざす道徳授業を作り出すことができるだろうか。Win-Win思考を掲げる問題解決型の道徳授業もその可能性をもっている。しかし,それを批判的に考察できる準備がないので,いずれ論じるとして,ここでは,私たちの実践的試みを紹介しておこう。吉田は,「価値の統合」という視点から授業をつくろうとしている。彼は,福島大学修士論文「インテグレーティブ・シンキング 26により道徳的価値の自覚を深める道徳授業の構築」(2010年度)および新道徳授業研究会での報告「インテグレーティブ・シンキングを取り入れた道徳授業について」で価値の統合

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29松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

をめざす授業に取り組んだ。インテグレーティブ・シンキングとは,「相反

する二つの考えを同時に保持し,対比させ,二者択一(OR思考)を避けて,両者のよさを取り入れつつ(AND思考)両者を上回る新しい解決策を導くプロセスである。」27。スティーブン・R・コヴィーいうところのWin-Win型の思考であり,「第三の案」を求める思考でもある。この発想を道徳授業に応用すれば,「問題解決場面において,道徳的価値の対立を解決する有効な手段となり得る」。吉田は,道徳授業のプログラム化を意図して,金井肇氏の「構造方式」や「価値の明確化」型の授業を第一時と第二時に配置し,第三時に,子どもたちの中に自然と生まれる「価値の序列化」を意識化させた上で,「すべての道徳的価値の調和を図る」ための「創造的解決」として,インテグレーティブ・シンキング思考を活用した。

3時間扱いのプログラムは,第一時で「規則の尊重」の価値を,第二時で「信頼・友情」の価値を理解させ,第三時で資料「なくしたかぎ」(荒木派「モラル・ジレンマ資料」)を使って,「価値の調和」をうながそうとした。資料「なくしたかぎ」は,次のように要約でき

る。① 自転車に乗るのがとても好きなあきらくんは,一週間前に,自転車で遊びすぎて帰るのが遅くなり,両親から二つの約束をさせられる。

② 約束の一つは,5時までに家に帰ること,二つは,遠くに行くときは行き先を母親に告げることである。

③ 児童公園で,仲良しのかずおくんと遊んでいたら,かずおくんが家のかぎをなくしてしまう。

④ 一生懸命探したが見つからない。時計は,4

時半を指している。これから帰れば,あきらくんは門限の 5時には間に合う。

⑤あきらくんは,どうすべきか。

子どもたち一人一人が決定した行為とその理由

を見てみよう。

《鍵を探す友情派》・ かずお君の家の鍵を探す(自転車に 1ヶ月くらい乗れなくても,親友の笑った顔がみたいから)。

・ 鍵を見つけてから家に帰ってお母さんにお遅くなったわけを言う(遅くなったのは,遊んでいたからではなく友達の鍵を探していたから約束を破ったわけではない)。

・ 携帯電話で自宅にかけて,遅くなる理由を言う(かずお君が泣き出しそうで,親友だから探した方がいい)。

 《約束を守る派》・ 約束を守って家に帰る(友達も大切だけど,大好きな自転車だから,帰る理由をかずお君に言えば,かずお君も許してくれる)。

 《統合派》・ あきら君のお母さんを呼んで一緒に探してもらう。・ 二人であきら君の家に帰って,かずお君のお母さんの携帯電話にかけて,迎えに来るまで待たせておく。・かずお君と一緒に帰る。・ 二人で家に帰って,家に泊める。そして,かずお君の家の留守番電話に伝言をいれておく。

《鍵を探す友情派》は,約束を違えない理由を意識していることが見て取れる。「親友の笑顔が見たい」と鍵が 2人で探せることに期待をかけている。しかし,2人で探せる保障もないので,探せなかった場合どうなるかについての見通しをもっていない。《約束を守る派》は,「かずお君も許してくれる」というが,そうだろうか。その後,絶交になるか,仲は悪くなるか,ぎくしゃくかするだろう。その場は許してくれても,自転車と自分を天秤にかけたあきら君に,信頼は寄せなくなるだろう。危ない橋を渡らなくてはならないことに気付いていな

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月30

い。子どもたちも「かずお君に失礼じゃないか。」「かずお君一人で鍵を探すのはかわいそう。」と発言している。《統合派》の思考は,その問題場面を,第三者の力を借りて(協力を得て),切り抜けようとしている。「約束を守ること」と「友情」を共に実現しようとしているかに見える。

各派の授業前半の判断と授業終了後の判断の変化を数字で表してみよう。

第一次判断のあとの話し合い(発表)と質問・意見の後の第二次判断は,上記の表に見るように,統合的と見られる判断が多くなっている。しかし統合的な判断は,容易に友情重視へと変化したりするのであるから,安定的であるわけではないことがわかる。約束派がゼロになったのは,教師の発問が「親友としてどうすべきか」という発問であった影響があるかもしれない。しかし,こうした授業が展開されることによっ

て,つまり約束と友情がともに大切な価値であることを授業者が想定することによって,子どもたちの中に統合的思考が芽生える可能性がある。

お わ り に

統合的思考にもいくつかの課題28がある。吉田の授業を検討してみよう。一つは,「規則」と「親友」は同等の道徳的価

値として子どもたちに葛藤が起こるかという道徳的な価値をめぐる疑問である。「規則」は限定的・流動的である。一方,「親友」は普遍的なものであるという見解である。しかし,この評価そのものが価値を序列化する発想を前提にしている。「規則」が限定的であると同様に「友情」も限定的である。「友情」は,死ぬまで友情を保つというようなことはめったなことでは起こらない。友情という言葉が普遍的であるように,規則ということも普遍的でありうる。それは価値をどう考えるかという価値観の問題であり,そこに価値差をつける客観的根拠はない。第二に,これらの価値が子どもにとってどうかという問題では,友情を重視する傾向性を指摘できたとしても,「規則」をそれと比べてよいわけがない。子どもの現状を追認するだけで,「規則」がいかに道徳として大切かを友情と同等に論じることが教育課題として認識されているかどうかが問われるということになる,とひとまず言える。しかし私たちは,この価値観の問題をもっと,掘り下げて,それが「価値の平等性」とどう切り結んでいるか探求する必要がある。二つに,統合的思考は,葛藤なくして成立しないという問題である。吉田は,もともと荒木派「モラル・ジレンマ授業」用に作られた資料を使っており,葛藤すべき価値が明確にさせられなければ,授業は,道徳的価値の問題を話し合うというよりも,問題解決策を話し合うということになりかねない。問題は,解決策にあるのではなく,統合することによって,道徳的価値が調和的に実現されることを認識することにある。しかし,その道は厳しい。ちょっと思いついた解決策で問題解決できたとしても,それが「価値の統合」と言えるかどうかは検討しなくてはわからない。例えば,この事例で言えば,「一緒に帰る」が

統合的思考として最善であるが,そこに到達するには,それぞれの解決策を吟味しなくてはならない。しかし,それが授業で可能であるだろうか。例えば,(あきら君単独で)「お母さんを呼んで

表 子どもたちの判断に対する評価

第二次判断計

約束 友情 統合 不明

第一次判断

約束 0→ 0 1→ 0 1→ 2 *→ 0 2→ 2

友情 0→ 0 4→ 3 6→ 8 *→ 0 10→ 11

統合 0→ 0 5→ 3 9→ 9 *→ 0 14→ 12

不明 *→ 0 *→ 0 *→ 0 *→ 1 0→ 1

計 0 10→ 6 16→ 19 *→ 1 26

〔注〕 矢印の前が吉田の評価であり,後が松下の評価である。両者で評価は異なっている。*は,理由が不明の場合。

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31松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

くる」場合を考えてみよう。しかし,それを解決するためには,鍵を探すのを一度は中断しなくては,お母さんを呼んでくることはできない。その中断をかずおくんに提案し,お母さんを連れて来るからとかずお君に言ったとして,かずお君は納得してくれるだろうか。あきお君が往復するまでの間,かずお君はひとりぼっちになってしまうのである。そこに第一関門がある。そして,あきお君がお母さんを連れて来ることができる保障はない。これが第二関門。またさらに,その間に,鍵が見つかったら,かずお君は,ひとり公園に居続けることになるだろうか。それはないかもしれない。どうなるだろう。それが第三の関門。というように,統合的思考を実現しようとすると,超えていかなくてはならない関門が二重三重に張りめぐらされている。また,統合的思考をするためには,その前提と

して,その葛藤の質が問題にされなくてはならないのである。モラル・ジレンマの授業者が指摘するように「迷った分だけ自然な形で,いろいろな考えを出すことができる」のである。子どもたちが自然な形で「価値の統合」へと向かうためには,葛藤方法をどう改変していったらよいであろうか。

(2012年 10月 9日受理)

【注】 1 松下行則(2008a)「『道徳授業の再統合論』のための

覚書」福島大学教育学会編『福島大学教育学研究実践年報』,松下行則(2008b)「道徳授業を再統合する」全国公立学校教頭会編『学校運営』No. 568。

2 ここでは一般的表現にならって,「価値」という言葉を使っている。本来なら「道徳」という言葉を使うべきところである。なお,道徳授業問題を論じるとき,価値という言葉は,道徳的価値のことを言う。

3 私は,道徳的諸価値(徳目)の差異が強調され,諸価値が順序・序列付けられたり,道徳的価値の高低や強弱が付けられたりする近代的思考に対して反対の立場をとっている。諸価値は本来,平等であり(「価値の平等性」),対立させられたり,序列化させられたりすべきものではない。対立・葛藤場面で実際の行為を選

択する場合も,価値を共に実現しようとして,「統合的思考」をめぐらすことが必要だと考える。

   数は少ないが,私自身がこれまで実践してきた小・中・高での道徳授業において,対立的に見える葛藤状況でも,統合的思考を働かせる学習者がいたことが本稿を執筆するヒントになっている。

4 『みんなのどうとく 1年 福島県版』(2010),学研を使って要約した。

5 文科省資料や副読本にある「価値の内面化」資料には,価値を実現できない「弱い思考や形象」や心理的に葛藤する場面が描かれる。そこでは,価値に気づかない主人公や葛藤が弱く描かれたり(「弱い葛藤」),資料「手品師」のように人生を賭けて判断しなくてはならないような「強い葛藤」として描かれたりする。

6 主体性を発揮することは,スティーブン・R・コヴィーが提唱する『7つの習慣』のうち,第一の習慣であり,人格形成としての道徳教育としてもゆるがせにできない資質である。その点から考えると,教師の主体性が発揮されないことは,道徳教育の根幹を揺るがす問題である。

7 川中美佐子「指導実践例 1(第 1学年)」日本教育文化研究所編(2005)『心に滲み込む道徳授業の実践』。

8 執筆者不明,実践事例集編集委員会(2007)『「みんなのどうとく」道徳授業実践事例集 1-2年』,学研。

9 野村宏行「友達の思いに寄り添い,助け合い仲よく生活しようとする心情を育てる」赤堀博行編著(2010)『心を育てる要の道徳授業』,文溪堂。

10 本稿で紹介する実践の他に,ここ最近では,雑誌『道徳教育』に 5編の実践記録が紹介されている。しかしそのどれも資料を批判的に検討してはいない。大山等「『他者理解力』をはぐくむ」(2009年 11月号),今泉春美「自信をもって行動に」(2010年 5月号),植田清宏「展開後段の工夫でスキルを育てる」(2012年 1

月号),池田なほみ「『二わのことり』の授業 冷や汗場面への対応術」(2012年 7月号),加藤宣行「加藤宣行先生の “発問構成力”アップ講座」(2012年 8月)参照。

11 低学年道徳『二わのことり』www.eonet.ne.jp/~mnzbo645/

niwanokotori.htm参照。12 [注]6で紹介したように,スティーブン・R・コヴィーが提唱する『7つの習慣』の第 4の習慣が「Win-Win

を考える」である。「Win-Winとは,当初それぞれの当事者が持っていた案ではなく,全く新しい第三案の存在を信じることであり,相手や自分の考え方に限定される必要はなく,より良い方法があるはずだと確信することである。」(302頁)。コヴィー(2012)『第 3

の案』(キングベアー出版)では,社会の各分野での「第3の案」を探究している。

13 前掲,池田なほみ(2012)では,「『Aか B』という葛

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人間発達文化学類論集 第 16号 2012年 12月32

藤場面が,『Aも Bも』という方法論に流れ出した。」と批判している。

14 諸冨祥彦編著(2005)『道徳授業の新しいアプローチ』明治図書,85頁。

15 同上,81頁。16 荒木紀幸編著(1997)『続 道徳授業はこうすればおもしろい』北大路書房,10頁~19頁。

17 コールバーグ理論を検討してきた森岡卓也(1992)は,「日本におけるコールバーグ派道徳授業の検討─モラル・ジレンマと役割取得─」『大阪教育大学紀要』第IV部門第 40巻第 2号において,荒木派「モラル・ジレンマ授業」(森岡は「Hグループ」と呼んでいる)に期待をかけつつも,モラル・ジレンマ資料「どっちにしようかな」の検討を通じて,「心理的な葛藤」はあるが,「道徳的価値の葛藤」がないことを指摘している。

18 荒木派最初の著作である荒木紀幸編著(1988)『道徳教育はこうすればおもしろい』に掲載されている初期の実践である。

19 荒木紀幸編著(1990a)『モラル・ジレンマ資料と授業展開 小学校編』明治図書,64頁。

20 前掲,荒木紀幸編著(1988),94頁~95頁。 21 同上,99頁。22 荒木紀幸(1996)『モラル・ジレンマ授業の教材開発』では,無責任な二者択一的判断を戒め,「話し合いの中でより高い道徳的な思考に触れたり,他者への役割取得をする機会をもつことで,道徳的な価値の分化が進むと共に道徳性の段階上昇をもたらす。さらに問題状況によってはジレンマを引き起こしている価値の統合が生じる。」(91頁~92頁)と統合についての意見を述べているが,それ以上の踏み込んだ検討は行っていない。

23 調査分析した文献は,以下の通り。著者名は略す。前掲 1988,前掲 1990a,『モラル・ジレンマ資料と授業展開 中学校編』(1990b),前掲 1997,『モラル・ジレンマによる討論の授業 小学校編』(2002),『モラル・ジレンマで道徳の授業を変える』(2007)。その他,実践者の雑誌実践記録 2本。

24 前掲,諸冨祥彦編著(2005),134頁。以下の引用も本書からであるので,煩雑さを避けるため頁注はつけない。以下同様。

25 柳沼良太(2006)『問題解決型の道徳授業~プラグマ

ティク・アプローチ』明治図書を参照した。   私は,プラグマティック・アプローチとは一線を画しているが,今回は十分に検討できていない。

26 ロジャー・マーティン(2009)(村井章子訳)『インテグレーティブ・シンキング 優れた意志決定の秘密』日本経済新聞出版社。

27 松下行則・吉田紀文(2009)「新道徳授業研究会の発足と 2011年度報告(上)」『福島大学総合教育研究センター紀要』第 13号,49頁。

28 本質的な課題は,21世紀型の新たな教育論と道徳授業をどう結びつけるかということである。西川純(上越教育大学)が提唱する子どもたちの『学び合い』を道徳授業に導入するとしたら,例えば,導入で資料「二わのことり」を読み,展開で「やまがらさんは,こうしてしまったけれど,みんなが『そうだなあ』と思える一番良い方法を考えてください。そしてなぜそう言えるのか見つけてください。」と課題を提示できるだろう(西川純(2000)『学び合う教室』東洋館出版社,西川純編著(2006)『クラスが元気になる ! 『学び合い』スタートブック』学陽書房,西川純(2012)『クラスがうまくいく ! 『学び合い』ステップアップ』学陽書房,参照)。

   子どもたちは思考の総力を結集して,新しい道徳的方法(第 3の案)を見つけてくれるかもしれない。本稿で論じた文脈に沿うと,その可能性は高い。こうした課題の提示なら,新任教師でも道徳授業づくりに戸惑いは少ないだろう。

   また,「学び合い」については,佐藤学が提唱する「学びの共同体」の考え方もある。それはすでに国際的に爆発的に普及しているという(佐藤学(2012)『学校を改革する─学びの共同体の構想と実践─』岩波ブックレット,参照)。

   さらに,社会学者立岩真也(2010)の「教育 =生活」論(『人間の条件そんなものない』理論社)は,教育を「障害学」の観点から真摯に変革しようとする魅力的な提案である。

   21世紀型の教育論を串刺しにする視点として,「自立 =相互依存のパラダイム」があるとしたら,「遊び=教育 =生活」が成立する可能性があるかもしれない。そして,そこから道徳授業を新たに作り出す道が生まれるかもしれない。いずれ考察したい。

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33松下行則 : 道徳授業における「統合的思考」の探究

The Study of Integrative Thinking in Moral Lessons in Japan

MATSUSHITA Yukinori

  Moral lessons of the past in Japan are characterized the value hierarchy. When value more than two is

opposed, it is given priority to a certain value. As a result, one value is played down and various values can-

not come true together.

  In this paper, it is analyzed a pattern of various value hierarchy.

  Firstly, it is a hidden order in the internalization of the value.

  Secondly, it is a binominal opposition-like order in morals dilemma class.

  Lastly, it is ranking whether it is not an exception or an exception.

  I compared equality of the value with these hierarchies of values. If it is various value equal, it should

be integrated. It is what you call ‘Win-Win thought’ or ‘The third Alternative’ by Stephen R. Covey.

  Children in moral lessons could acquire an integrated thought for few suggestions by the teacher, if it

would be the trace which radically carried out a dilemma thought.