洋裁文化の構造...−26− 洋裁文化の構造...

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洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1) −24− 洋裁文化の構造 ──戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1) 1 ── 井 上 雅 人 INOUE Masahito 1.身体の平等化と民主化の実践 1-1.「デザイナー」の時代 自伝の記述なので定かではないが、おそらく1951年、のちに東京造形大学を設立した桑沢洋 子は、日本織物出版社社長の鳥居達也と会合を持った。桑沢の自伝『ふだん着のデザイナー』 によれば、鳥居は自社の発行する『流行』という雑誌について意見を求めたいという口実で、 桑沢と話をしたらしい。桑沢の記憶だと、鳥居は一方的に話をし、それは「相談を乞うなんて ものではない」様子だったという。鳥居は、ひたすら「彼の頭に描いた計画をのべたてて、そ れを聞いて貰えば満足」した。 鳥居は雑誌の話を一通りして、しかし、それだけでは満足せずに、続いて違う話をはじめた。 桑沢の記憶によれば、それは次のようなことだったという。 次の彼の構想は、一流デザイナーの既製服会社の設立であった。 一流デザイナー、すなわち、杉野芳子氏、山脇敏子氏、中原淳一氏、藤川延子氏、その他、 伊東茂平氏も田中千代氏も、また、私も全部含めたデザイナーのデザインを既製服化しよ うというのである。そして、デザイナーにも株主になって貰っての協同営業にし、その販 売ルートを日本専門店連合会(日専連)にしたいという。 2 雑誌の内容についての話とは違って、この話には桑沢も大きな興味を示したようだ。しかし、 桑沢は、どうして関心をもったのだろうか。 確かに、自分のデザインが商品になるのが魅力的なのは今も昔も変わらないが、現在のファ ッション産業のことが頭にあると、この話のどこに桑沢が引かれたのかは非常に分かりにくい。 「ドレス・デザイナーが業界に進出したとはいえ、先生という立場でかつぎ上げられて、試作 させられ、名前だけ宣伝されているという状態であって、本当に皆がきられるものをデザイ ンし、商品化する段階をだれ一人してふんでいなかった」 3 と桑沢自身が述懐しているように、

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  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−24−

    洋裁文化の構造──戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)1──

    井 上 雅 人INOUE Masahito

    1.身体の平等化と民主化の実践

    1-1.「デザイナー」の時代

     自伝の記述なので定かではないが、おそらく1951年、のちに東京造形大学を設立した桑沢洋

    子は、日本織物出版社社長の鳥居達也と会合を持った。桑沢の自伝『ふだん着のデザイナー』

    によれば、鳥居は自社の発行する『流行』という雑誌について意見を求めたいという口実で、

    桑沢と話をしたらしい。桑沢の記憶だと、鳥居は一方的に話をし、それは「相談を乞うなんて

    ものではない」様子だったという。鳥居は、ひたすら「彼の頭に描いた計画をのべたてて、そ

    れを聞いて貰えば満足」した。

     鳥居は雑誌の話を一通りして、しかし、それだけでは満足せずに、続いて違う話をはじめた。

    桑沢の記憶によれば、それは次のようなことだったという。

      次の彼の構想は、一流デザイナーの既製服会社の設立であった。

       一流デザイナー、すなわち、杉野芳子氏、山脇敏子氏、中原淳一氏、藤川延子氏、その他、

    伊東茂平氏も田中千代氏も、また、私も全部含めたデザイナーのデザインを既製服化しよ

    うというのである。そして、デザイナーにも株主になって貰っての協同営業にし、その販

    売ルートを日本専門店連合会(日専連)にしたいという。2

     雑誌の内容についての話とは違って、この話には桑沢も大きな興味を示したようだ。しかし、

    桑沢は、どうして関心をもったのだろうか。

     確かに、自分のデザインが商品になるのが魅力的なのは今も昔も変わらないが、現在のファ

    ッション産業のことが頭にあると、この話のどこに桑沢が引かれたのかは非常に分かりにくい。

    「ドレス・デザイナーが業界に進出したとはいえ、先生という立場でかつぎ上げられて、試作

    させられ、名前だけ宣伝されているという状態であって、本当に皆がきられるものをデザイ

    ンし、商品化する段階をだれ一人してふんでいなかった」3と桑沢自身が述懐しているように、

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −25−

    今考えると不思議なことではあるのだが、「デザイナー」がデザインした既製服が世の中に存

    在していなかったのがこの時代なのだ。ピエール・カルダンがプレタポルテのコレクションを

    はじめて行なうのが1962年で、それより先立つこと10年である。桑沢にしてみると、鳥居の提

    案は、まず、「デザイナー」が実際に商品を作り販売するということと、しかもそれが注文服

    ではなく「既製服」であるということで、二重に驚きだったのだ。「デザイナー」という存在が、

    商品の企画に携わり形を与える職業である現在のデザイナーとは、ひどくかけ離れていたこと

    がよく分かる。

     この話をさらに分かりにくくしているのは、「一流デザイナー」としてあげられていた人た

    ちが、現在ではあまり馴染みもなく、忘れ去られようとしている名前だということだろう。杉

    野芳子はドレスメーカー女学院の創設者として、中原淳一は『それいゆ』などの雑誌を創刊し、

    愛くるしい少女の絵を描いた画家として名を残しているが、「デザイナー」といわれると今ひ

    とつピンと来ない。桑沢洋子自身、洋服のデザインをしていたと思われていないかもしれない。

    唯一「デザイナー」として記憶に残っているのは、田中千代であろうか。田中の著作のタイト

    ルのように、『皇后さまのデザイナー』として名を留めている。とはいえ、田中も学校の創設

    者としての知名度の方が高いだろう。

     この「デザイナー」たちが「デザイナー」として名を留めていない理由として、ひとつには

    デザインした商品が流通しなかったことが、もうひとつには名前がブランドとして残されてい

    ないことがあげられよう。ココ・シャネルやクリスチャン・ディオールの名が残っているのは、

    彼らが革命的なデザインをしたからばかりではない。彼らの名を冠したラグジュアリー・ブラ

    ンドが、現在も莫大な利益をあげていることも大きな理由のひとつだが、しかし何よりも、シ

    ャネルやディオールが活躍した頃のパリにおいて、デザイナーが作品として、商品として、オ

    ートクチュールを発表していくようなファッション・システムが存在していたことが、名を留

    めていることに大きく影響しているのだ。

     それに比べて杉野や中原が「デザイナー」として活躍していた日本の戦後社会では、GHQの

    占領政策に端を発する民主主義の潮流のなかで、ヨーロッパのような上流階級向けのオートク

    チュールは存在しえなかったし、一方で、その後、国民全員を巻き込むような高度消費社会は

    まだ来ておらず、高級既製服のプレタポルテも成立していなかった。彼ら日本の「デザイナー」

    は、上流階級の顧客のために一点物の工芸品としての衣服を作るオートクチュールのクチュリ

    エでもなく、消費社会の中で大量生産をにらみながら希少性を維持してブランドをマネジメン

    トしつつ工業製品としての高級既製服を開発するプレタポルテ・デザイナーでもなかった。国

    民の洋装化が凄まじい速度で進行していく、戦後という時代にしか存在し得ない、特有の「デ

    ザイナー」だったのだ。

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−26−

     彼らは、アカデミズムを模したヒエラルキーを形成した。町の洋裁店が「衣服研究所」を名

    乗り、「日本デザイナーズクラブ(NDC)」や「日本デザイン文化協会(NDK)」といったデザ

    イナー団体を立ち上げ、学会発表のようにファション・ショウをしては新作を発表した。そ

    の新作が評判になることは、とてつもなく大きな名誉だった。そして、その中心には洋裁学校

    があり、「デザイナー」の多くは洋裁学校に何らかの関わりを持った。鳥居が持ち出した「一

    流デザイナー」の陰には、「一流デザイナー」に憧れる数多のデザイナー、さらにその陰には、

    数多のデザイナーに憧れる学生や弟子たちが数えきれないほどいた。

     それゆえ、鳥居が桑沢に持ちかけたのは、単なる商売の新たな一形態の提案ではなく、教員

    的、あるいは研究者的な役割を演じていた「デザイナー」を商業的な存在に変える試みであった。

    つまり、学校から市場へ、「デザイナー」を引き摺り出そうという目論見だったのだ。

    1-2.洋裁ブームの時代

     第二次世界大戦が終わった直後の時期を「アプレ・ゲール」と呼ぶ。「花田清輝や中村真一

    郎が真善美社から公刊した新鋭文学叢書」4の『アプレゲール・クレアトリス』から命名され

    たその名前は、単にフランス語で「戦いの後」を意味するに過ぎない。だが、安堵と頽廃に満

    ちたこの時代は、戦争が終わったという事実だけでなく、軍国主義体制とそれにともなう価値

    観が崩壊した後という意味も込めて、「アプレ・ゲール」と名づけられたのだろう。その気取

    った言い方自体が、投げやりで斜に構えた心意気を伝えているようでもある。

     しかし、そうは言いながら、ジョン・ダワーが「日本人にとっては、実際には一九五二年ま

    で戦争は終わらなかった」5と言うように、政治的にはまだ戦争は終わっていなかった。「﹁白

    人の責務﹂という言葉で知られる植民地主義的なうぬぼれが厚かましくも実行された最後の

    例」6としての、アメリカ合衆国による占領政策が行われたからだ。それは、アメリカと日本

    との交戦期間より長く続いた。そのなかで占領軍は、「この敗戦国の政治、文化、経済の網の

    目を編みなおし、しかもその過程で一般大衆のものの考え方そのものを変革」7しようと試み

    たのである。通常、アプレ・ゲールは日本が独立を果たすまでの時期とされるが、占領が終わり、

    真に戦後を迎えるまでを「戦いの後」と呼んだのは何とも皮肉だ。

     ところで、アプレ・ゲールに見られたさまざまな現象は、「アプレ文化」とも呼ばれている。8

    そして洋裁は、アプレ文化のひとつの大きな花であった。9花の中心には「デザイナー」がいた。

    「デザイナー」たちは、「洋裁師」とも「洋装家」とも呼ばれ、綺羅星のごとくあらわれて憧れ

    の存在になる一方で、容赦なく蔑まれた。着るものもろくにない時代に華やかな服をつくって、

    誇らし気に着たからである。羨望と憎悪が同時に向けられるのも無理はなかった。

     ダワーは、当時の生活状況を、ある主婦によって寄せられた新聞の投書を例示して、次のよ

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −27−

    うにまとめている。

       彼女が描いた状況は生々しかった。赤子を背負って米などの配給物資を求め東奔西走する。

    不足がちな家庭燃料を補うため、歩くときはどこでも木の切れ端を拾いあつめる。朝は家

    族の誰よりも早く起床し、一番遅く寝床につく。映画を見るどころかコーヒー一杯飲む金

    すらなく、牛肉のような貴重な食べ物はもっばら家族に食べさせる。いまだにだぶだぶで

    擦り切れたモンペをはき、化粧もせず外を歩く。若さを失い、知性を失い、その日一日を

    生きるためにすべてを失っている──。これは自分だけの自画像ではなく、知りあいの数

    多くの主婦たちも同様ですと書いている。10

     ダワーが描く戦後占領期の日本は、貧困の極地と言ってもいい。この時期、日本がどれほど

    貧しかったかについては、多くの人が多くの回顧をしているのであえてくわしく紹介する必要

    はないだろう。誰もが思い浮かべる象徴的な事件として、1947年に、判事という職業上の立場

    から、闇市での食糧調達を拒絶したために餓死にいたった山口良忠の事件をあげておけば良い

    だろう。あるいは野坂昭如の『火垂るの墓』や、マーク・ゲインの『ニッポン日記』を思い出

    しても良いかもしれない。

     しかし、こういった時代に、「洋裁ブーム」などという風変わりな流行現象があったのも事

    実なのである。貧困のなかの「洋裁ブーム」について、ダワー次のように紹介している。

       もちろん、パン作りは生存の必要に迫られてのことであったが、それは同時に、西洋化が

    日本社会の民衆レベルにまで浸透したことを示すささやかな一例でもあった。そうした意

    味でパン作りに似たものに、「洋裁ブーム」があった。西洋風の服を作る技術は、実用性

    の点で魅力的であっただけでなく、戦争中の味気ない不自由さや西洋排斥の風潮からの解

    放を象徴するものでもあった。洋裁学校やファッション雑誌や各種のスタイルブックが、

    廃墟のただなかで花と開いた。一九四六年はじめ、デザイナーの杉野芳子がいわゆる「ド

    レメ」(「ドレスメーカー女学院」)を再開しようと決意したとき、用意した願書はたった

    の三〇枚であった。ところが入学受付の初日、校門の外には寒い中、千数百人もの女性た

    ちが列を作ってじっと待っていたのである。これには杉野もびっくり仰天したという。そ

    の後、こうしたチェーンスクールが全国にいくつもできた。アメリカの女性を思わせる、

    色鮮やかで肩口の広い「ボールド・ルック」が、ファッションにひたる余裕のある女性に

    とっては流行に、余裕のない女性にとっては憧れの的となった。11

     石原慎太郎の『太陽の季節』が出版され、世に言う「太陽族」が出現する1956年まで、日本

    での、特に衣服に関する風俗や流行は語られることが少ない。しかし、ファッション・デザイ

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−28−

    ナーたちは戦後すぐに活動を再開し、それに呼応するように「洋裁ブーム」がおきているのだ。

     このブームは、大きな成果をあげている。第二次世界大戦前までは、女性の洋服が全くと言

    って良いほど普及していなかったにもかかわらず、このブームによって洋服が瞬く間に普及し

    たのである。幕末に洋服を知ってから、一世紀も、洋服を日常的に着ることなかった女性たちが、

    「洋裁ブーム」にのって、ほぼ全員、和服から洋服に着替えたのである。

     たとえば、今和次郎の1925年の調査によれば、当時繁華街の代名詞であった銀座で、洋服を

    着ている女性はわずか1パーセントにすぎなかった。12それが1955年9月26日の朝日新聞によ

    ると、数値は全く逆転して、同じ銀座で和服を着ているのは、わずか4パーセントしかいない。

    その間の激変の時期に、今和次郎は、次のような経験をしている。

       終戦から五年経った夏に、関西から東北にかけて、農村を頻繁に歩かされた。驚いたことに、

    どんな山間の僻村に行っても、集まりに出てくる婦人たちは、ほとんどみな洋装姿だった。13

    今和次郎は「戦前には予想もできなかった変り方」を目にして、「洋服に変ったその変り方の

    速さにも驚いた」と吐露しているが、なぜそれほどのスピードで変ったかについては述べてい

    ない。しかし、この数値や体験談を見る限り、昭和がはじまる1925年と、「もはや戦後ではない」

    と言われた55年の間にある「洋裁ブーム」が、眼に映る世相を全く変えてしまったと言うこと

    は可能であろう。

    1-3.「貧困」と「アメリカ化」

     それにしても、あらためて考えてみると、着るものどころか食べるものすらおぼつかない貧

    困のなかで、今まで馴染みのなかった「洋服」を作ることがブームになったのは異様なことに

    見えてくる。着るものがないのだから、着るものを作ることがブームになるのは当たり前とい

    う考え方も確かにできる。しかし、それであるならば、戦前のように和服を着るなり、戦中の

    ようにもんぺを穿くなりすれば良かったのであって、食べるものを得るために東奔西走しなが

    ら、着たこともないものに憧れを抱き、そのために時間や資本を投下することは、決して効率

    的な経済活動とは言い難い。にもかかわらず、このブームは、小泉和子のように、「いたって

    地味ながら、地を這うようにして自分たちで手探りで作っていったことによって、洋服という

    ものに慣れ、洋服というものを自分のものにすることができた」14といったような、つらい思

    い出として記憶され、貧困ゆえの出来事と説明されることが多い。

     あるいは、尾崎秀樹らが「生活の戦後史は“三段ロケット”からなる」として、「はじめは

    <食>の段階で、五〇年からは<衣>の段階にはいり、五五年から<住>を中心とした消費革

    命期にはいる」15と整理したように、生活レベルの上昇におけるひとつの段階にすぎないと説

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −29−

    明されることもある。

     これらは決して間違った説明ではないだろうが、しかし、そういった進歩史観の亜種では説

    明できないこともある。たとえば先に触れた、「デザイナー」の存在もそのひとつだろう。単

    に生活レベル向上過程の通過すべき一段階であるならば、憧れの存在としての「デザイナー」

    は不要だろう。中立的な技術指導者がいればいいはずだ。しかし、実際には「デザイナー」は

    非常に複雑な役割を担った。そこには確かに、さまざまな文化的な制度が存在したのだ。

     そこで、このような、貧困を克服したといった進歩史観や、昔は女性が苦労していたという

    女性解放史観では説明ができない現象については、次のように説明がなされることが多い。

       そのころの女子洋装者の傾向は、およそ二つの方向に分かれ、一つには堅実な衣生活のた

    めの更正衣服によって洋装をした人々と、一方には明日に生きる生活手段に進駐軍相手の

    職業を持った若い女性の先端的なアメリカ・スタイルである。16

     「進駐軍相手の職業を持った若い女性」は、その多くが「堅実な良い職業婦人ではなかっ

    た」17とされ、その代表格としていわゆる「パンパン」が位置づけられた。18つまり、一般の人

    は堅実に苦労をして洋裁や洋装を生産行為や生活改善として行ったのにたいして、一部の特殊

    な人たちのみが快楽としての洋裁や洋装を行ったというふうに、例外的な事例として押し込め

    てしまう説明である。

     実は、こういった、洋服の着用者、あるいは洋服の文化を二つに分けて論じていくスタイルは、

    その後も続いている。パンパンの後はデザイナー、デザイナーの後はモデルが「堅実な衣生活

    のため」ではない洋装をしたとされた。欧米のファション文化は、上流階級と下層階級とに分

    けて説明されることが多いが、日本では庶民と、特殊な職業に就く人や一部の若者という分け

    方で説明される。庶民ではない特殊な人々を、流行に流されやすい愚かな人々と決めつけ断罪

    する語り口も多い。この語り方は、戦前のモガや、それ以前の花街の人たちについての語り方

    を引き継いでおり、芸能人などに対象を移し現在まで及んでいると言い得るのかもしれない。

     しかし、そうやって人々を二分して、パンパンやデザイナーやモデルをごく一部の人たちの

    特殊な例として押しやり、大体の人は日々生きることにのみ必死であったと考えることが、か

    なり物語化された記憶であることは、村上信彦による次のような回顧を見れば理解できるだろ

    う。

       昭和二十四年一月に、関西の著名なデザイナーたちがあつまって、「流行服展」を開いて

    いるのです。ジャーナリズムはこれを大きくとりあげました。そして、寒さもいとわず押

    しよせたわかい女性たちは、食事どきになると持参の包みをひらいて焼芋やふかし芋を頬

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−30−

    ばりながら、目をかがやかせて舞台をながめていました。19

     華飾の世界と貧困の世界は別々のものではなく、矛盾をはらみながらも、ひと所に同居して

    いた。どちらかを強調し、どちらかを無視するのは誤りなのだ。こういったおかしな均衡が続

    いたのは、第二次世界大戦が終わりを告げながら戦時中と何一つ変わることなく続いた配給制

    度の時代から、既製服にたいする需要が自家裁縫による供給を追いこす1970年前までの、せい

    ぜい20年程度の短い期間のことではあったが、そこにはひとかたまりの文化を見ることができ

    る。貧しかったから自分たちで衣服を作ったのだとしてしまうことは、明らかに歴史を歪曲し

    てしまうことなのだ。

     あるいは、この洋裁ブームは、貧困以外に次のように説明されることもある。

       そのころの実情は植民地的姿を持った社会情勢となって、戦前に見られる服装指導者の積

    極的な活躍もなく、終戦当時は全くの指導者不在に近い現象の中で、アメリカ的ミリタリ・

    スタイルが見る見るうちに模倣されてしまったのである。すなわち洋装への急速な背伸び

    が外観模倣にとらわれる傾向となって、流行の形を追い求める結果を見た。20

     つまり、アメリカへの憧れが洋裁ブームを牽引したという説明だ。

     しかし、洋裁に関わった人の多くはフランスへのあこがれを口にしており、わざわざフラン

    スへと足を運び、経歴に箔を付けるデザイナーたちも後を絶たなかった。デザイナーたちは、

    モードの中心地がパリであることは知っていたし、アメリカがファッションに関しては、フラ

    ンスの模倣であることもよく分かっていた。「ミリタリ・スタイル」が流行したのは事実であ

    るが、すぐさまそれはディオールのニュールックに取って代わられた。それは一般の人たちも、

    アメリカがファッションの中心地ではないことを、すぐに理解したからであった。アメリカの

    占領下にあるからアメリカへのあこがれがあった、だから洋服を着たにちがいないという決め

    つけは短絡的にすぎるのだ。

     確かにこの時期、欧米の生活へのあこがれはあったし、特にアメリカの物質文化へのあこが

    れが強かったことも否めない。しかし、西洋化をしなくてはならないという使命感やあこがれ

    は、そもそも戦前の社会にもあったことで、生活改善同盟をはじめとして洋装化の運動は頻繁

    に行われたが、あまり成果をあげることはできなかった。21前述のダワーは、洋装化を西洋化

    の浸透と解放の象徴と捉えているが、アメリカの占領によって西洋化が進んだというのは間違

    いであるし、それまで洋服着用への欲望が抑圧されていて、終戦によって解放されたというこ

    ともない。海外へのあこがれが洋装化を牽引したのは事実だが、それほど事情は単純ではない

    のだ。

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −31−

    1-4.身体の平等化

     このように、「洋裁ブーム」が起きた説明にはさまざまなものがあるのだが、どれかひとつ

    を正しいとするのではなく、複雑な要素が幾重にもからみついていると考えるのが妥当だろう。

    貧困ゆえのやむを得ない選択であったことも、アメリカ文化へあこがれがあったことも、占領

    軍によってアメリカ文化の移植が行われたことも間違いのない事実ではある。しかし、貧困や、

    アメリカへのあこがれは、表層的な要因に過ぎない。洋裁ブームを説明する、より根本的な原

    因はないのだろうか。

     それを考えるためのひとつの方法は、戦前とのつながりに着目することである。戦前の和服

    業界においては、すでにデパートやメディアがからんだ高度な消費社会的なかけひきがあり、

    「上層だけでなくより多くの中間層が消費経済の中に取り込まれ」22、戦後の大衆社会への準備

    が整えられていた。その小さな消費社会の拡大判として戦後占領期を考えることができる。つ

    まり、戦後占領期の政策によって、明治以来脈々と続き、特に大正デモクラシー以降に盛んに

    なった消費社会化、大衆社会化、あるいは近代化のプログラムが、ひとつの到達点を迎えたと

    するのだ。

     しかし、この考え方ではなぜ戦前には洋服を着ずに、戦後に洋服を着るようになったのかが

    うまく説明できない。そこで、見落としていけないのは、総動員体制の役割である。

     戦前からのつながりに着目する考えにおいては、総動員体制を一つの断絶と捉える傾向があ

    る。総動員体制がなければ、大正デモクラシーが実を結び、より早く大衆社会が到来していた

    はずだという考えもあろう。しかし、こと洋装化の問題に関しては、総動員体制下の「国民服」

    や「婦人標準服」あるいはそれを支える身体観よって、国民の身体が均質化していき、同時に

    女性たちが自らの活動的な身体を発見し、自らの手で衣服を作り出すことを編み出していった

    という歴史がある。良くも悪くも、総動員体制によって身体の平等化が起きたのだ。23

     第二次世界大戦終了まで続いたいわゆる「総動員体制」は、「総力戦」という言葉が指し示

    すように、国民全てを軍人化しようとした体制である。国民を軍人化するということは、何よ

    りもその身体を軍人化することであった。もちろんその国民の範疇をどこまでとするかについ

    ては、表には見えない熾烈なせめぎ合いがあり、結果として女性は国民から排除され国民服を

    着用することはなかった。だが、準国民として準軍人的身体を要求されたことで、女性は、も

    んぺのような活動性を確保した衣服を選択していくことになった。

     そしてまた、より効率的に組織を動かそうとする方法論が、戦中においては家事や家計の合

    理性の追求に転化され、そのなかで衣服は各家庭で不要になった衣服を原料として「自家裁縫」

    という形式で生産されるようになった。すなわち、女性の身体に、より機械的な合理性を追求し、

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−32−

    衣服もそれに見合うものへと変更することを要求しながら、それらを政府=男性の力を煩わせ

    ることなく全て自前でするようにと要求したのが総動員体制なのだ。

     しかし、だからと言ってすぐさま全ての女性が活動的な衣服を作れるはずもなかった。そこ

    でその助力となるべく、強大化していったのが洋裁学校である。戦前にも上流から中流階級に

    おける洋服を着用する文化に向けられた洋裁学校が存在し、十分な蓄積を行なっていたために、

    そのノウハウを戦中や戦後の社会で、すぐに生かすことができたのだ。

     洋裁学校の多くは、終戦間際に閉鎖された経験を持ち、それゆえに戦時中は活動を押さえ込

    まれていたかのように思われがちであるが、戦後に続く巨大化がはじまったのは1941年の婦人

    標準服の制定前後である。婦人標準服のコンテストには、植民地をも含めた日本全国の服飾専

    門学校や高等女学校がこぞって参加した。婦人標準服の制定が直接の契機ではないが、婦人標

    準服を成立させた「自家裁縫主義」こそが、この時期の服飾専門学校の出現をもたらしたのだ。

     また、戦後へと続く「デザイナー」たちとメディアとの関係も、総動員体制下に整理された。『主

    婦の友』においては1941年新年号以来、ドレスメーカー女学院の杉野芳子がほぼ毎号記事を掲

    載しており、田中千代との連名での記事は1944年まで続いた。『主婦の友』にはこの他、文化

    服装学院の町田菊之助などもたびたび執筆しており、専門学校と女性誌を背景に、戦後の「デ

    ザイナー」という職業が誕生しつつあったことが浮かび上がってくる。

     このようにして、戦後の「洋裁ブーム」の基盤が総動員体制期にはすっかり出そろい、着々

    と根付いていったということは見逃せない。それを証明するように、この時期には洋服の普及

    率が爆発的に増加している。1943年に、大阪市立生活科学研究所の庄司光が阪急電鉄梅田駅で

    調査したところによると、女性の洋服着用率は、夏には70%、冬には29%であった。24実際に

    は戦後を迎える前に、洋装化の大部分が成し遂げられていたのだ。

    1-5.「民主化」の実践

     このように、総動員体制下における「身体の平等化」は洋服を着る身体を準備した。しかし、

    それだけでは洋裁ブームの説明にはならない。なぜならば、それは洋装化の説明にはなったと

    しても、積極的に洋裁学校まで通い、ミシンを踏み、パリの雰囲気を漂わせた洋服にあこがれ、

    それを作って着ようとする主体的行為の説明にはならないからだ。

     そこで、「身体の平等化」が形成した基盤の上で、「民主化」という作用によって「洋裁ブー

    ム」が起きたと考えるのが良いように思われる。つまり、戦後、占領軍が持ち込んだ「民主化」

    という概念の具体的な解釈の形として、あるいは具体的な実践として「洋裁ブーム」が成立し

    たということである。

     「民主化」の実践として洋裁を捉えるのは、多少突飛なことのように思えるかもしれない。

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −33−

    しかし、同時期にブームになった「カムカム英会話」というラジオ放送について、竹前英治が、

    やはり民主主義との関係の中で捉えようとしているのを考えると、あながち的外れではないよ

    うに思われる。

       「カムカム英会話」放送は、マス・メディアを通しての単なる英会話の伝授ではなく、一

    つの文化運動として評価さるべきではあるまいか。なぜなら、それは、百万人以上の聴取

    者を背景に、全国いたるところに自主的に結成され、民主的に運営された支部一〇〇〇を

    擁し、新生日本の再建を夢み、戦後日本の基本原理たる民主主義を英会話を通して体得す

    るという無意識的「意識革命」運動ないし、静かなるデモクラシーのための文化・教育運

    動であったと思われるからである。25

     洋裁は、英会話のように直接的にアメリカの言語に触れるのではないから、それを通して民

    主主義の理念を論理的に習得するというわけにはいかないだろう。しかし、竹前が言わんとし

    ているのも、英語で「民主主義」を学ぶということではなく、ラジオを通して英会話を学ぶと

    いう「文化・教育運動」に参加することが、民主主義の「体得」であり、「意識革命」である

    ということである。であるならば、「カムカム英語」と同じかそれ以上の学生が「新生日本の

    再建を夢み」て学校に通い、女性のなかで女性から技術を学ぶという経験を与えた洋裁が、「意

    識革命」でないはずはないだろう。洋裁もまた英会話と同様に、民主主義と深く強く結びつき、

    民主主義を「体得するという無意識的「意識革命」運動ないし、静かなるデモクラシーのため

    の文化・教育運動」であり、「一つの文化運動として評価さるべき」ものなのだ。

     そういったイデオロギーとのつながりは、洋裁雑誌を代表する『ドレスメーキング』の創刊

    号での、次のような宣言をみても分かるだろう。

       洋装だとか洋裁技術は現在ではもう単にそれだけが独立したものでなく、我国の全女性の

    日常生活から切離すことの出来ない有機的なつながりをもって生活の中に融けこんでしま

    っています。之こそ終戦後に私達が獲得した自由だとか平等だとかと同じように大きな収

    穫の一つでした。26

     『ドレスメーキング』は、洋装を「自由だとか平等だとかと同じように大きな収穫」として

    いるが、それはむしろ、「自由だとか平等」のひとつとして現われたのではなかっただろうか。

    自らの手で造り上げる「自由だとか平等」として、洋裁があったのだと考えても良いのではな

    いだろうか。総動員体制で身体の「平等化」という地ならしが起きて、そこに「自由だとか平等」

    といった、「民主化」を達成しなければならないという義務感による作用が加味されることに

    よって、具体的な実践として洋裁が興ったのではないだろうか。

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−34−

     おそらく、その後の日本のファッションも、この時期の「民主化」の実践の延長線上にある

    と言えるだろう。日本においては、ファッション文化が、今でも大衆のものとして、「民主主義」

    というイデオロギー、というよりも「民主主義」の理念や学問的解釈を置き去りにした「民主化」

    という作用と不可分のものとしてありつづけているように見える。1957年に大宅壮一が「一億

    総白痴化」と揶揄したような、あるいは「一億総中流」と言われるような、のっぺりとした「中

    流」という層にむけてファッションが形作られてきたということは、この社会の持つ特徴の一

    つと言ってもよい。それはいまだに、「節操無き民主化作用」とでも名付けたくなるような勢

    いを持っており、この社会は所有における平等を目指し、あらゆる新製品や高級品を国民全員

    に行き渡らせようとしている。これは、この社会が自らにプログラムとして組み込んだ「民主

    化」という作用と無関係ではない。

     戦後のファッションにおけるオピニオンリーダーの地位は、パンパンからデザイナーへ、デ

    ザイナーからファッション・モデルへと移行していくことになるのだが、パンパンにしても、

    デザイナーにしても、ファッション・モデルにしても、新しいデザインを作り出したり、流行

    を生み出す創造者というよりは、正しく洋服を着こなし、正しく西洋式の生活を送る規範とい

    う位置づけであった。その正しさを模倣して「身につけること」が、「民主化」の実践として

    の洋裁であったのだ。

    1-6.洋裁文化

     このような、1940年代から50年代を中心として、「平等化」された身体の上で、「民主化」の

    実践としてなされた、洋裁という技術を中心とした衣にまつわる実践がもたらしたさまざまな

    現象の総体を、「洋裁文化」と名付けてもよいだろう。27

     洋裁文化については、今まで十分に述べられてきたとは言い難い。それが文化現象として、

    文化史やファッション史のなかに位置づけられることすら無かった。洋裁文化は、数多くの人々

    が関わったのみならず、他には類を見ないような特徴的な構造を持ったユニークな文化である。

    また、後の時代に大きな影響を残しながらも、現在はほとんど衰退してしまった歴史的な文化

    でもある。洋裁文化は、日本の若い女性の大部分を飲み込んだにもかかわらず、急速に収縮し、

    その後忘れ去られ見いだされることのなかった、一つの固有な「サブカルチャー」なのだ。

     ところで、前述の小泉和子は、買えばその日から着られる既製服と違って、自分で自分の服

    を作るのは大変だから、「地を這うようにして」と述べたのであろうが、実際には両の足でし

    っかりとミシンを踏んで洋服が作られていたことは忘れてはならない。この時期に洋服を着る

    ということは、ミシンや製図をはじめとした技術といかに関係性を結ぶかということに他なら

    なかった。もちろん、近所の洋裁ができる人に頼み込んで作ってもらう人もいたし、こつこつ

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −35−

    と独学で勉強していく人も多かったが、大本をたどっていくと、その技術は洋裁学校で教授さ

    れたと考えて良いだろう。洋裁文化を考えるとき、社会全体にたいしても大きな影響を与えた

    「洋裁学校」というメディアの存在はどうしても無視することができないのだ。

     洋裁学校は、戦後に創設された多種多様な学校のひとつで、洋裁文化も数ある特殊で個別な

    小さな文化のひとつと位置づけても良いのではないかという考えもあろう。しかし、文化につ

    いて記述する多くの人々が男性であったり、女性であっても大学での教育を受けるような層で

    あったために、言説を記述する人々と層が重ならない洋裁文化が、あまり注目されてこなかっ

    たという側面は無視できない。

     また、洋裁が果たして洋裁学校だけで教えられていたのかという指摘もあろう。確かに、戦

    後に洋服を作った人たちの多くは、戦前戦中を通して自家裁縫によって洋服を作れるようにな

    っていた人々で、戦後の洋裁教育とは無縁であろう。28しかし、次第に巨大化する洋裁学校的

    な洋裁が、洋裁文化全体に対して決定的な影響を与えたのも事実である。例えば、洋裁学校の

    数は、1948年には689校、49年は2,281校、50年は3,025校、51年3,771校、52年6,748校と、48年

    から52年にかけて10倍にまで膨れ上がっており、同じ52年の高等学校の数、約3,000校という数

    字と照らし合わせてみれば、その数が非常に大きいことが分かる。29しかも、この数値には私

    設の洋裁教室は含まれていないので、実際に洋裁教育を行う機関はさらに多かったということ

    になる。また、1960年における和洋裁学校の学生数は、503,559人にのぼっている。30この数は、

    同じ年の大学の在学者数と同程度だが、男女を合わせた18歳人口がおよそ200万人であり、性

    別による進学状況の差異を考えると、かなりの率の女性が洋裁教育に触れていたということが

    分かる。さらに1955年に青地晨が紹介しているデータによると「二十代の四一%が洋裁教育を

    うけて」31おり、1962年の『ファッション・アニュアル62』に書かれた記述によると「洋裁

    教育機関として、各種学校の認可を受けているものだけでも、大小とりまぜて4000校。そこに

    在籍する生徒数は80万人。これまでそこから社会に送り出された卒業生はほぼ1000万人」32に

    ものぼったという。そこに他の学校とは同一視できないような、巨大な集団が存在したことは

    まぎれもない事実なのだ。

     とはいえ、これらの卒業生たちは技術訓練や職業訓練を受けただけであり、あるいは、洋服

    を作るという行為は生活上必要な生産活動だから、それを文化的な集団として考えるのは無理

    ではないかという指摘もあろう。しかし、この集団がいかに文化的な集団であったかは、ミシ

    ンの保有数を見るだけでも分かる。たとえば、1951年の東京都では、70%の家庭がミシンを保

    有しており、月間収入が高くなればなるほどミシン保有率が高いという傾向があった。3356年

    には、月収が38,000円から46,000円の比較的高額な所得の家庭においては、実に92%がミシン

    を保有していたという。内職の手段として考えられがちのミシンではあるが、世帯収入が多い

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−36−

    ほど所有率が多いというデータは、むしろミシンが消費材としての役割を果たしていたことを

    示唆していよう。ミシンに関しては、内職によって生活を支えるための道具というイメージが

    あり、1950年代初頭の人々にたいしては、住むところは間借りをし、食べるものは闇市で手に

    入れ、着るものは自分で作ったというイメージがあるが、しかし、このデータを見る限り、生

    産手段としてミシンを持っていたのではない人々が無視できない相当数おり、生存するための

    欲求を満たす目的で洋裁がされたとは限らないであろうことがよく分かる。

    1-7.洋裁文化の歴史的位置づけ

     ファッション・ジャーナリストのダナ・トーマスは、20世紀の終わり頃からはじまった高級

    ブランドのグローバル化と大衆化を次のように批判している。

       ブランド企業の経営者は、「高級ブランドを、“誰もが手に入れられるもの”にする」のだ

    と説明した。これは一見、民主的な考え方に思える。それどころか、共産主義的にさえ聞

    こえる。だが、そうではない。彼らの意図はどこまでも資本主義的だった。その目標は明

    確である。すなわち、際限なく稼ぐことだ。34

     1990年代以降、LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン社)、PPR(ピノー ・プランタン・

    ルドゥート)、リシュモンをはじめとする巨大な企業が、それまでデザイナー自身が経営をし

    ていた多くのブランドを買収しグループ化していくという動きが見られるようになった。ブラ

    ンドに長く関わり、ブランドを愛してきたトーマスは、そういった巨大資本主導の買収劇のな

    かで変質してしまった高級ブランドの経営倫理の無さを痛烈に批判しているのだが、しかし、

    それが民主的、共産主義的に見えるとも述べている。結局それは見えるだけであって、その正

    体は、民主的でも共産主義的でもなく、「際限なく稼ぐ」という暴走した資本主義であると非

    難しているのだが、しかし、本当にそうなのだろうか。

     トーマスは、この批判のなかで「日本人が高級ブランドを均質化」したことを指摘している。

    トーマスは、日本人がブランドを好む理由として、「階級のない社会にいると考えている」こ

    とと、「他人と同じであること」35を重視する傾向をあげているのだが、このことはトーマスが

    否定した「民主的な考え方」と無関係であろうか。

     トーマスは「日本人が西欧の高級ブランドを愛好するようになってからの歴史は、比較的浅

    い」36とし、高度経済成長期以降のこととしているが、実は必ずしもそうとは言えない。反証

    として、1953年のクリスチャン・ディオールの作品と専属モデルたちの来日による熱狂があげ

    られよう。このとき、クリスチャン・ディオール自身は来日しなかったにもかかわらず、各地

    で行われたファッション・ショウは盛況を極めた。もちろん、熱狂した人々がディオールのオ

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −37−

    ートクチュールを買い漁ったわけではないのだが、「西欧の高級ブランドを愛好する」こと自

    体は、この時すでに存在していた。

     さらに興味深いのは、このファッション・ショウが、1,000円〜 3,000円の入場料を払って見

    るエンターテインメントとしてなされたということである。当時、パリ・コレクションなどで

    行われたファッション・ショウは、顧客やバイヤーに製品を見せるための機会であり、エンタ

    ーテインメントとしてなされたわけではない。日本でこういったかたちのファッション・ショ

    ウがなされたのは、他にもさまざまな要因があろうが、何よりも、トーマスが指摘したような「階

    級のない社会にいると考えている」ことと、「他人と同じであること」を重視する傾向が、こ

    の時期に成熟していたとしないまでも、方向性として確立されていたからである。戦後の日本

    人はディオールのクチュールを上流階級のイコンのまま単にあこがれの対象にとどめることな

    く、ショウの出品物にまで引きずり降ろし、大衆の共有物にしてしまったのだ。これを民主主

    義そのものと名付けることはできないかもしれないが、「民主化」という運動として捉えるこ

    とは出来よう。

     21世紀に入ってから、「神戸コレクション」37や「東京ガールズコレクション」38といった、

    何万人もの観客を相手に何時間も行われるような大規模なファッション・ショウが出現した。

    これらのファッション・ショウは、携帯電話のような新しいメディアや、中国のような海外の

    安価な生産地を得たという、技術的経済的な変化との結びつきがあったとは言え、決して突然

    変異的に現れたのではなく、1940年代、50年代から続く、日本の社会が内包していた「民主化」

    のプログラムがもたらしたものと考えることができる。50年代には、身体の規範を「模倣」=「学

    習」する行為としてファッションが成立し、世界的に見ても早い「中流」「大衆」むけのファ

    ッションが出現していた。そこで「模倣」=「学習」する人は、洋裁学校の生徒や卒業生であ

    りながら、洋裁雑誌の読者として均質に編成されてもいた。そこには、膨大な雑誌読者が、お

    祭りのようなファッション・ショウを見に行き、モデルに憧れるという、現在の日本のファッ

    ションの姿と何一つ変わらないものを見ることができるだろう。この「民主化」という運動は、

    民主主義とは無関係ではないものの、政治的な制度には結びつかなかったかもしれない。しか

    し日本の社会は、「際限なき民主化」と呼びうるような運動の果てに、誰もがブランド品を身

    につけることができる社会を実現したのだ。

     日本の消費社会あるいは消費者の形成において、「民主化」の始動の時期である1940年代や

    50年代の持つ意味は大きい。もとより、ファッションに関わることだけを見て社会全体を語れ

    るはずはないが、1920年代の「モガ」や、60年代の「みゆき族」、80年代の「ボディコン」など、

    その時代のファッションを見ると、単に何を着ていたかのみならず、身体をどのように考えた

    か、性別や個性をどのように位置づけたかなどといったことが浮かんでくる。それは洋裁文化

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−38−

    の時期においても同様なのだ。

     大雑把に言って、日本のファッション史には、洋装史とデザイナー史と若者文化史がある。

    洋装史とは、鹿鳴館にはじまり、モダンガール、戦後のアメリカナイゼーションを経て、洋装

    化が完成したという歴史観である。歴史学や被服学の分野の古典的な業績が多数あり、自家裁

    縫の当事者である女性を含めて生産者を中心に描かれていると言える。デザイナー史とは、高

    田賢三や三宅一生のパリ・コレクションデビューを決定的な出来事として捉え、DCブランド

    ブームをひとつの頂点として考え、作家論的に構築する歴史観である。ファッション文化の伝

    播と継承を主眼に描かれているため、日本のデザイナーたちもパリ・コレクションの系譜上に

    おかれるという傾向がある。ただ、成実弘至『20世紀ファッションの文化史』、常見美紀子『20

    世紀ファッション・デザイン史』など、文化研究の成果をふまえ社会とのつながりに目を向け、

    単なる作家紹介に終わっていない業績も多い。若者文化史とは、「太陽族」あるいはそれ以前

    の「モボ・モガ」以降の「みゆき族」などの「族」や、「アンアン」や「ノンノ」といったカ

    タログ的な雑誌の創刊に着目しながら、ストリート・ファッションを中心に据える歴史観であ

    る。うらべ・まこと『流行うらがえ史』、林邦雄『戦後ファッション盛衰記』、馬渕公介『「族」

    たちの戦後史』など、特に戦後においては同時代的に捉えた著作も多い。大衆文化論、風俗史

    として扱われてきたこともあるが、難波功士『族の系譜学』のように、社会学的に捉え直そう

    とする動きもある。

     それぞれが、日本人の生活様式の変化、衣服における芸術的な表現、着装と関係した社会現

    象と違う視点を持っているので、どれが正しい歴史観であるということはない。ただ、洋裁文

    化について言うならば、洋装史においては洋装化が完成した後の出来事として捉えられ、デザ

    イナー史や風俗史においては前史として扱われ、重要な事項としては考えられていない。しか

    し、洋装化の完成と、デザイナーの誕生やストリートにおけるファッション文化の興隆のあい

    だにある洋裁文化こそが、この分裂した歴史をつなぎとめることができるはずなのだ。

     洋裁文化における衣服との関わり方が、日本におけるファッション文化の基盤を作った、と

    言い切ってしまうのは行き過ぎではあろうが、日本の消費社会の在り方全体に対しても洋裁文

    化は大きな影響を与えている。60年代にみゆき族が突如現れて、そこで突然、日本のファッ

    ションや消費文化が花開いたという考え方は無理があるし、70年代半ばから80年代にかけての

    DCブランドブームにしてもそれは同様だ。日本のデザイナーたちがパリ・コレ・デビューを

    果たして世界的に有名になったといっても、彼らはパリで生まれたわけではなく、パリの文化

    を継承したわけでもない。彼らは、日本の社会の洋服との関わり方を内在化し、そこを起点と

    して洋服を作っていったのだ。

     繰り返すが、日本の消費社会や消費者の形成にとって、40年代50年代は非常に大きな意味が

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −39−

    ある。一面的な捉え方ではあろうが、洋裁文化のなかで消費者が作られていったという面もあ

    る。洋裁文化を過渡的な存在とせず、総動員体制と戦後占領を補完し合う作用だと考えると、

    日本における近代化の過程は地続きとして見えてくるだろう。

    1  この論文は、京都精華大学「ポピュラーカルチャー研究会」での研究及び、発表に基づいている。詳

    細は「1940/50年代と消費者の身体」(『ポピュラーカルチャー研究 Vol.2 No.2』、2008 京都精華大学)

    を参照のこと。

    2 桑沢洋子『ふだん着のデザイナー』1980 ほるぷ p.168

    3 桑沢洋子『ふだん着のデザイナー』1980 ほるぷ p.169

    4 いいだもも 武谷ゆうぞう『「戦後」ってなんなんだ!?』1988 現代書林 pp.133−134

    5 ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 上』2001 岩波書店 p.9

    6 ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 上』2001 岩波書店 p.6

    7 ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 上』2001 岩波書店 p.85

    8 この時期の文化については、主に以下のものを参考にした。

      恩地日出夫他『戦後史ノート 上、下』1976 日本放送出版協会

      岩本茂樹『戦後アメリカニゼーションの原風景』2002 ハーベスト社

      色川大吉『昭和史 世相篇』1990 小学館

    洋裁文化の形成と消費文化への解消

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−40−

      西川祐子編『戦後という地政学』2006 東京大学出版会

      久野収『戦後民主主義』1979 毎日新聞社

      尾崎秀樹、山田宗睦『戦後生活文化史』1966 弘文堂

      石川弘義『欲望の戦後史』1989 廣済堂出版

      いいだもも、武谷ゆうぞう『「戦後」ってなんなんだ!?』1988 現代書林

      岩崎爾郎、加藤秀俊共編『昭和世相史』1971 社会思想社

      石毛直道編『昭和の世相史』1993 ドメス出版

    9 この時期の衣服や洋裁については、主に以下のものを参考にした。

      うらべまこと『流行うらがえ史』1982 文化出版局

      うらべまこと『続・流行うらがえ史』1982 文化出版局

      林邦雄『服飾界の十字路』1965 冬樹社

      林邦雄『戦後ファッション盛衰史』1987 源流社

      木村春生『服装流行の文化史』1993 現代創造社

      中山千代『日本婦人洋装史』1987 吉川弘文館

      『日本洋服史   一世紀の歩みと未来展望』 1977 洋服業界記者クラブ「日本洋服史刊行委員会」

    10 ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 上』2001 岩波書店 p.112

    11 ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 上』2001 岩波書店 p.210

    12 今和次郎「1925 初夏 東京銀座街風俗記録」『モデルノロジオ』1986 春陽社 p.23

    13 今和次郎『ジャンパーを着て四十年』 1967 文化服装学院出版局 p.103

    14 小泉和子『洋裁の時代』 2004 農文協 p.8

    15 尾崎秀樹 山田宗睦『戦後生活文化史』1966 弘文堂 p.100

    16 石川綾子『日本女子洋装への源流と現代への展開』1968 家政教育社 pp.185−186

    17 石川綾子『日本女子洋装への源流と現代への展開』1968 家政教育社 p.188

    18  例えば「このアメリカの軍国調のファッションに、まっ先に飛びついたのは、パンパンと呼ばれる街

    の女である」(林邦雄『戦後ファッション盛衰記』1987 源流社 p.14)、「流行革命の指導者たるパン

    助諸嬢の存在」(うらべ・まこと『流行うらがえ史』1966 文化服装学院出版局 p.35)、「ほどなくし

    て「夜の女」たちは洋服スタイルで現われた」(千村典生『戦後ファッションストーリー』1989 平凡

    社 p.17)といったように、終戦直後のファッションにおけるパンパンの役割は非常に重視されている。

    19 村上信彦『流行 —古さとあたらしさ』 1957 大日本雄弁会講談社 p.15

    20 石川綾子『日本女子洋装への源流と現代への展開』1968 家政教育社 pp.185−186

    21  中山千代は、生活改善運動を含めたこの時期の洋装化の運動を「大正洋装」とし、「明治の貴族上流階

    級の婦人洋装から、市民洋装への転換」が行われたとしつつも、「生活的要求よりも、生活改善の理論」

  • 京都精華大学紀要 第三十七号 −41−

    が優先した「限定的な服装改善」で、「積極性と現状とが妥協する漸進主義で、欧米の服装改革に見る

    ような激しさはなかった」(『日本婦人洋装史』1987 吉川弘文館)と結論づけている。とはいえ、一方で、

    この時期に子供を中心にして洋装が普及し、その世代が大人になったときに洋装に抵抗を感じなかっ

    たことが洋装の普及に大きな影響を与えたのも事実であろう。

    22 神野由紀『趣味の誕生』 1994 勁草書房 p.126

    23 井上雅人『洋服と日本人』2001 廣済堂出版

    24 庄司光「冬の俸給生活者服装調査」『衣服研究 3巻2号』 1943 大日本国民服協会

       もっとも、このとき夏期に着用されていた「洋服」はいわゆる「アッパッパ」あるいは「簡単服」と

    呼ばれるもので、戦後の洋裁ブームに作られた図面作成による「洋服」とはだいぶ違ったものである。

    同様の衣服は、戦後すぐに花森安治が『暮しの手帖』において「直線裁ちの服」として提案しているが、

    婦人標準服やもんぺや更生服なども含めた、こういった洋服と和服の間にあるような衣服が、洋装化

    に果たした役割は無視することが出来ない。

    25  竹前英治「戦後デモクラシーと英会話 「カムカム英語」の役割」『共同研究 日本占領』思想の科学

    研究会編 1972 徳間書店 p.145

    26  「「ドレスメーキング」はこの様な雑誌です」『ドレスメーキング 第一巻 第一号』1949 鎌倉書房 

    p.66

    27  「洋裁文化」という言葉は、2004(平成16)年度に、文部科学省私立大学学術研究高度化推進事業「学

    術フロンティア推進事業」のひとつとして認定された、武庫川女子大学関西文化研究センター主催の

    「関西圏の人間文化についての総合的研究−文化形成のモチベーション−」(MKCRプロジェクト)の

    うち、「d6 関西におけるファッション(衣)文化の形成 −裁縫習得及び衣服作りに関する事例発掘

    を通して−」(代表:横川公子)において作られた概念である。詳しくは、井上雅人「関西における洋

    裁文化 藤川学園の例を中心に」(『関西文化の諸相』武庫川女子大学関西文化研究センター 2006)、

    『関西文化研究 第4号 洋裁文化隆盛の時代 —関西ファッション史の試み—』(武庫川女子大学関西

    文化研究センター 2005)などを参照のこと。

    28  戦後の教育においても、洋裁学校ではなく、企業や自治体の主催する学校において洋裁を学んだ人々

    も多い。とはいえ、著者自身の聞き取りによれば、例えば京都の藤川学園は、カネボウ京都工場や三

    和銀行京都支店に企業内分校を設置し、社員に洋裁を教えていたという。また、洋裁学校の校長は、

    百貨店などでデザイナーを務めることもあった。(井上雅人「隆盛期の藤川学園と洋裁文化」『関西

    文化研究 第4号』 武庫川女子大学関西文化研究センター 2005)全ての企業内学校がこういった形

    式で運営されたとは言えず、企業が学校とは異なる空間であることは異論が無いが、こういった場に

    も、洋裁学校的な空間が持ち込まれたのは確かであろう。洋裁学校が社会全体を支配したという事実

    は全くないが、洋裁学校を典型とする学校的な空間が洋裁文化において支配的であったことは確かで

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1)−42−

    あろう。洋裁を学ぶものは、直接洋裁学校で学ぶことが無かったとしても、間接的な形で洋裁学校的

    な身体へと近接していき、洋裁学校的な関係性へ巻き込まれていったと考えられるのではないだろう

    か。とはいえ、人によって程度の差はあり、それが支配的ではあっても絶対的であるとはいうことは

    出来ない。

    29 文部省調査局調査課編『各種学校の沿革と現状』1953 文部省調査局調査課

    30 全国各種学校総連合会 『各種学校総覧』1968 日本経営新聞社

    31 青地晨「洋裁ブーム」『婦人公論 40巻8号』1955 中央公論社 p.194

    32 『ファッション・アニュアル62』1962 アド・センター p.163

    33 日本ミシン協会日本ミシン産業史編纂委員会編『日本ミシン産業史』1961 日本ミシン協会 p.85

    34 ダナ・トーマス『堕落する高級ブランド』実川元子訳 2009 講談社 p.8

    35 ダナ・トーマス『堕落する高級ブランド』実川元子訳 2009 講談社 p.75

    36 ダナ・トーマス『堕落する高級ブランド』実川元子訳 2009 講談社 p.76

    37 http://kobe-collection.com

    38 http://gw.tv/tgc

    (2010年5月8日受稿/ 2010年8月23日受理)