洋裁文化の構造 - kyoto seika university...−6− 洋裁文化の構造...

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洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2) −4− 洋裁文化の構造 ── 戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2) 1 ── 井 上 雅 人 INOUE Masahito 2.場と行為者とメディア 2-1.構造化する構造として構造化された構造 ピエール・ブルデューは「champ」という概念を提唱している。「界」とも「場」とも訳さ れるこの概念は、ブルデューのいくつかの著作で見ることができる。例えば、『住宅市場の社 会経済学』においては、「一戸建て住宅の生産と商品化の問題」 2 を取り扱うことによって、住 宅市場という「場」を分析している。 この著作のなかで、ブルデューは、人はなぜ現在住んでいるその家に住んでいるのか、とい う問題を論じている。ある人がある家に住むには、様々な決定要因が働いている。住み手のハ ビトゥスによって、どのような場所にどのような住宅を選ぶかが異なってくる。賃貸なのか持 ち家なのかといった、所有の形態も異なってくるだろう。しかし、だからと言って、住み手の ハビトゥスだけで決まるというわけでもない。というのも、住み手は市場に流通している住宅 のなかから選ばなければいけないからだ。では、市場に流通する住宅はどうやって決定される のか。ブルデューは、その要因として、「場」における「行為者(エージェント)」の存在を重 視する。この行為者同士が関係性を持ち、行為することによって、何が市場に流通するのかの みならず、「場」の構造そのものが決定されるのだ。 一つの家の価格設定はどうするのか、どのような素材を使い、どのような見た目にするのか、 そして広告戦略をいかにして行なうのか、などといったことが、行為者同士の駆け引きやせめ ぎ合いの中で決定されていく。家に関わるのは、住人、建築家や大工、住宅メーカー、不動産 屋といったすぐに思いつく行為者だけではない。金融業者は住宅メーカーと関係を持ち、資本 関係を結ぶ一方で、消費者との橋渡しもする。そもそも、住宅市場自体が輪郭を保っているのは、 国家の政策によってである。建築物に関する様々な法令や、住宅購入者に対する援助や免除が、 住宅市場のあり方を決定しているのだ。 ブルデュー自身も述べている通り、「住宅市場ほど、国家の統制を受けるだけでなく文字通

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  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−4−

    洋裁文化の構造── 戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)1 ──

    井 上 雅 人INOUE Masahito

    2.場と行為者とメディア

    2-1.構造化する構造として構造化された構造

     ピエール・ブルデューは「champ」という概念を提唱している。「界」とも「場」とも訳さ

    れるこの概念は、ブルデューのいくつかの著作で見ることができる。例えば、『住宅市場の社

    会経済学』においては、「一戸建て住宅の生産と商品化の問題」2 を取り扱うことによって、住

    宅市場という「場」を分析している。

     この著作のなかで、ブルデューは、人はなぜ現在住んでいるその家に住んでいるのか、とい

    う問題を論じている。ある人がある家に住むには、様々な決定要因が働いている。住み手のハ

    ビトゥスによって、どのような場所にどのような住宅を選ぶかが異なってくる。賃貸なのか持

    ち家なのかといった、所有の形態も異なってくるだろう。しかし、だからと言って、住み手の

    ハビトゥスだけで決まるというわけでもない。というのも、住み手は市場に流通している住宅

    のなかから選ばなければいけないからだ。では、市場に流通する住宅はどうやって決定される

    のか。ブルデューは、その要因として、「場」における「行為者(エージェント)」の存在を重

    視する。この行為者同士が関係性を持ち、行為することによって、何が市場に流通するのかの

    みならず、「場」の構造そのものが決定されるのだ。

     一つの家の価格設定はどうするのか、どのような素材を使い、どのような見た目にするのか、

    そして広告戦略をいかにして行なうのか、などといったことが、行為者同士の駆け引きやせめ

    ぎ合いの中で決定されていく。家に関わるのは、住人、建築家や大工、住宅メーカー、不動産

    屋といったすぐに思いつく行為者だけではない。金融業者は住宅メーカーと関係を持ち、資本

    関係を結ぶ一方で、消費者との橋渡しもする。そもそも、住宅市場自体が輪郭を保っているのは、

    国家の政策によってである。建築物に関する様々な法令や、住宅購入者に対する援助や免除が、

    住宅市場のあり方を決定しているのだ。

     ブルデュー自身も述べている通り、「住宅市場ほど、国家の統制を受けるだけでなく文字通

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −5−

    り国家によって構築されている市場は、おそらく数少ない」3 うえに、普通の庶民にとっては

    一生に一度経験するかしないかの非常に高い買いもので、かつ恒久的に自分たちが何者である

    かを表明しつづける象徴であることから、住宅は非常に特徴的な商品であると言える。そのた

    め、ブルデューの住宅市場に関する分析の全てを、何に対しても応用していいというわけでは

    ないだろう。

     しかし、ブルデューの「場」と「行為者」の議論の対象は、住宅についてだけなされたので

    はない。例えば『ホモ・アカデミクス』では大学という場における行為者たちを、『美術愛好』

    では美術館という場における行為者を、『芸術の規則』においては文学という場における行為

    者を議論の対象にした。そのどれにおいても、場の広がりと行為者たちの役回りを見通しの効

    くように整理することによって、ブルデューはその個別の場の構造を個別に明らかにした。

     本論では、これから「洋裁文化」という「場」について論じていく。「洋裁文化」とは、総

    動員体制期から高度経済成長期にかけての日本で形成された、衣服にまつわる文化の総体を指

    す造語である。特に女性服と「洋裁」という技術が中心となっているので、この名が付けられ

    た4。新しく名付ける必要があったのは、これまでこの時代が、日本のサブカルチャー研究や

    文化研究においては注目されて来なかったからである。1930年代のような消費社会の先駆的な

    存在として扱われることもなければ、「みゆき族」以降続く若者文化の系譜のなかにも入れら

    れることもなかった。5

     また、「文化」という言葉が長らく狭義にしか解釈されなかったことも、「洋裁文化」と呼べ

    るものが注目されなかった理由でもあろう。この時代の洋裁にまつわる文化は、「洋装化」と

    いう現象を捉えて、日本の近代化やアメリカナイゼーション、あるいは生産や生活改善といっ

    た側面から論じられることが多かった。洋裁は生活上の必然性が高いために、芸術の表現や鑑

    賞のような、いわゆる文化的な活動としては考えられて来なかった。しかし、文化という語の

    定義を、ひろく生活の総体として考え、それによって「ひとつの国の内部にある社会集団・経

    済集団がもつ多様な個別文化もさす」6 という立場をとるのであれば、洋裁とその周辺の、衣

    や着ることに関する生活様式も文化として考えることができる。洋裁文化への参加の仕方は一

    様ではない。積極的に洋裁の技術で表現や商業活動を行った人もいれば、単に洋裁雑誌を購入

    しただけの人もいる。しかし、たとえ洋裁雑誌を読むだけであっても、洋裁雑誌を読むための

    リテラシーが要求され、本人の意思には関係なく洋裁文化に参加することになり、「場」全体

    が持つ構造や考え方を受け入れざるを得なくなる。当時の社会の構成員全員が洋裁文化に参加

    していたわけでは決してないが、こういった巨大な「場」が存在し、ある構造を持ち、作用し

    ていたことは、社会全体に対しても大きな影響を与えたはずだ。

     そこで本論では、「洋裁文化」を「場」として考え、そこにどのような「行為者」たちがど

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−6−

    のような関係性を切り結んだかを考え、洋裁文化を取り巻く社会の構造を明らかにすることを

    試みる。

     さらに本論では、ブルデューの「場」と「行為者」の概念に加えて「メディア」という概念

    も用いる。洋裁文化において重要なメディアは、スタイルブックを代表とする出版物という「言

    説メディア」、ファッション・ショウや洋裁店、百貨店という「空間メディア」、ミシンとその

    規律訓練の装置としての洋裁学校の複合体である「身体メディア」の三つである。デザイナー、

    モデル、批評家、スタイル画家、学生などのさまざまな「行為者」たちが、「メディア」によ

    って自己を拡張し、また、お互いに結びついているというのが洋裁文化という「場」の構造で

    ある(図2)。

     「言説メディア」や「空間メディア」についてはイメージが湧きやすいが、「身体メディア」

    に関しては説明がいるであろう。マーシャル・マクルーハンによれば、人間はさまざまな道具

    と身体を接続することによって、機能を拡張したり、感覚のあり方を変化させてきた。接続と

    いうのは、なにも物理的にくっつけてしまうということではなく、道具を握ったり、眼鏡をか

    けたり、ヘッドフォンを耳に当てたり、自動車を運転したりして、身体の一部の機能を肥大化

    させることである。それをマクルーハンは身体の「拡張」あるいは「延長」と呼んだ 7 。

     マクルーハンの考え方をそのまま受け入れるかは別としても、多くの女性が、ミシンという、

    人間の能力をはるかに超えた高速度で生産を行なう機械を手に入れ、自分の手足を駆使して機

    械と一体化していく経験をしたことは、身体感覚や身体観、あるいは身体のありかたそのもの

    に大きな影響を与えたであろう。

     また、そういった身体の拡張が洋裁学校と強く結びついていたことも、メディア論的に注目

    すべきことである。ミシェル・フーコーは、「正しい規律・訓練を授けられた身体こそが、最

    小限の身振りが持つ操作上の脈絡を形づくる」として、「たとえば上手な字を書くためには、

    一つの身体訓練 ─── 足の先から人差し指にいたる全身が厳密な記号体系〔=準則〕に

    よって包囲される、そうした一つの習慣全体が必要である」と述べている。8 学校においては、

    そこで教えられる内容以上に、その教え方や教えられ方が、あるいは学校や教室といった装置

    の存在自体が、近代的な人間を身体的にかたちづくることに決定的な役割を果たしてきた。実

    際には洋裁ブームのころには、各家庭にミシンが既に普及していたので、ミシンの使い方が洋

    裁学校で身体的に叩き込まれるということはなかったのだが、洋裁が学校というメディアを介

    して、女性の身体に介在したことの意味は小さくなかった。女性が、学校空間における学校的

    な価値観を内在化した身体へと規律・訓練されていったことは、洋裁文化全体を考える上で非

    常に大きな意味を持つ。

     ところで、ブルデューの議論においてもう一つ重要なのは、ブルデューが「ハビトゥス」を「構

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −7−

    造化する構造として……構造化された構造」9 と定義していることである。ハビトゥスは、ジ

    ャン=ポール・サルトルの実存主義を擁護し、構造主義に修正を迫るため考えられた理論でも

    あり、構造主義が考える構造の恒常性に疑問を呈するという意味もあった。ハビトゥスを構造

    化する構造として構造化された構造とすることが非常に重要なのは、行為者各人の内なる構造

    が自らの構造を再構造化し続けるのであれば、行為者の集合としての社会全体の構造も再構造

    化され続ける、ということが意味されるからだ。つまり、一見安定的に見える構造は、内に構

    造化されている「構造化する」という構造によって変わりいくことを前提しているということ

    なのだ。構造を固定した物ではなく、構造化するというプログラムを内に含んだものとして考

    えると、洋裁文化についても、場の構造が自らの構造化する力によって変質を遂げ、結果とし

    て瓦解に至ったことが理解できる。

    2-2.行為者とメディア

    2-2-1.「デザイナー」という行為者

     洋裁文化においては、さまざまな「行為者」が、メディアによって自己を拡張し、お互いに

    洋裁文化の場における行為者とメディア

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−8−

    接続し合っていた。特に代表的な行為者としては、通称「デザイナー」と呼ばれる、ファッシ

    ョン・デザイナーがあげられるが、それはどのような存在だったのであろうか。女性史の研究

    者で、評論家でもある村上信彦は、デザイナーを次のように位置づけている。

       洋服がキモノを押しのけて一般化したのは、それが日本人の生活の中から生れ、育ったと

    いうことで、名前は洋服でも日本の服装になりきっている。もう西洋の服ではないのだ。

       このわかりきったことが、デザイナーにはわからない。なぜなら、かれらは第一に歴史的

    な見かたを持たず、服装を生きた生活と結びつけて考えることができないからである。た

    だ見せるためのもの、飾るものしか頭にない。第二には、借り着意識を強調することが流

    行宣伝のために役立つからだ。洋服がアチラからきたものだからアチラが本場だと思いこ

    ませることは、大衆をいつまでたっても卒業のできない生徒にすることで、こうして劣等

    感を植えつけておけば、いつでもヨーロッパの権威を借りて流行に従わせることができる。

    ディオール大先生が死んでも代りはいくらもあるからレッテルにはこまらない。生まれた

    ときから洋服を着てしぜんに育った娘たちをつかまえて、ふたことめには「パリではこう

    なんです」をくりかえすデザイナーがいるのも、結局は後進国意識を吹きこんでシュウト

    メのヨメいびりみたいにいじけさせ、「おしゃれには指導がいる。私たちのいうことをき

    きなさい」といいたいためなのだ。10

     村上はさらに語気を荒げて、「資本が女をねらっている」と警告を発し、せっかく女性が解

    放されたのに、デザイナーたちが資本と手を結んで、女性たちを「ふたたび胸と尻だけを誇張

    した生物、セックスに追い落とし」たうえに、「すべての女のおシャレや服装を、ただ異性を

    挑発する手段にしてしまう」11 と嘆いている。村上は、後に、家永三郎の教科書が検定に不合

    格になることに思想的に大きな影響を与えたことで有名で、独特の唯物史観的な服装論で著名

    な人物であったので、この意見は決して一般的ではないかもしれない。12 しかし、村上が強く

    非難しながら指摘するように、パリ・モードが模範として存在し、その日本における翻訳者と

    してデザイナーたちが機能し、さらに、そのデザイナーを模倣する集団が形成されていたとい

    うのは間違いのないことだろう。

     そういったデザイナーの典型としては、洋裁学校の経営者でもあるデザイナーたちをあげる

    ことができる。杉野芳子、伊東茂平、田中千代、桑沢洋子などの校長デザイナー、もしくは原

    田茂、町田菊之助、小池千枝といった教員デザイナーたちは、洋裁文化の主役とも言えるよう

    な存在だった。

     戦後の洋装化は、「パンパン」と呼ばれる娼婦たちからはじまるとされることが多い。13 し

    かし、デザイナーたちはそのパンパンたちに対抗し、自分たちこそが正統的な洋服の伝道師で

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −9−

    あるとしてせめぎ合った。校長デザイナーや教員デザイナーは、戦前の上流、中流階級の出身

    者が多い。戦争が終わった時点で、洋服を制作して教える技術を持っていたわけだから、戦前

    にそれなりの教育を受けた層の出身であるのは当然のことだろう。それゆえ、パンパンとデザ

    イナーのせめぎ合いは、文化をめぐる階級の闘争であったと読み解くことも可能だろう。アメ

    リカ文化を顕示的に消費するパンパンたちにたいして、デザイナーたちはパリを理想として掲

    げ、身体をめぐる覇権争いを繰り広げたのだ。戦後爆発的に増加した洋裁学校の学生たちは、

    いわゆる上流階級ではない人々が圧倒多数であろう。そこに、戦前の上流階級の文化が、希釈

    され拡大され継承されていく姿を見ても間違いではないだろう。

     とはいえ戦後占領期が過ぎ、パンパンがいなくなると、学校のデザイナーや、洋裁店を経営

    する「洋裁師」たちは、女性の新しい生き方を実践する社会的に自立した女性として位置づけ

    られる一方で、自己中心的でモラルを壊す恐るべき存在、あるいはそのために女性としての幸

    せを掴むことのできない、薄幸な女性としても位置づけられるようになった。14 デザイナーた

    ちは、洋服を着ることに付着した相反するふたつのイメージ、あるいは、新しい時代の女性の

    ふたつのイメージの両方を引き受けることになったのだ。それだけ、デザイナーの存在が時代

    を象徴する存在であったとも言えるだろう。

     デザイナーたちの主な仕事は、村上も指摘しているように、特にクリスチャン・ディオール

    を中心とするパリ・オートクチュールを日本人の身体の上に翻訳することであった。デザイナ

    ーたちは、スタイルブックでの執筆、ファッション・ショウでのプレゼンテーション、百貨店

    での販売、洋裁学校での教育などを通して、その成果を発表した。デザイナーたちは自らを様々

    なメディアによって拡張し、露出し、自らが身体の模範となりつつ、言葉や物によって啓蒙を

    行った。

     しかし、そうやって練り上げられた身体の模範は、まさに洋裁文化が浸透していく過程で、

    次第にデザイナーから「ファッション・モデル」へと移行していくことになる。言説を形成す

    る源は、マダム・マサコや村上信彦のような「批評家」、長沢節のような「スタイル画家」、あ

    るいは今井田勲のような「編集者」へと移行していくことになる。こうして、デザイナーの絶

    対的な求心力は薄らいでいった。そういった新たな行為者は、皮肉にも、デザイナーが洋裁文

    化の構造のなかで、その行為をより強化していく過程で、巨大化した行為が分節化した結果と

    して誕生したのであった。

    2-2-2.身体メディア「ミシン」「洋裁学校」

     ミシンという身体の拡張メディアを身体へと接続させる規律訓練の装置が洋裁学校なのだが、

    洋裁学校を考えるとき、そのルーツが大きな意味をなす。というのも、日本で最初の洋裁学校が、

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−10−

    シンガーミシン裁縫女学院だからだ。15 洋裁学校は、最初からミシンと深く結びついていたのだ。

     シンガーの方法論は、その後文化服装学院やドレスメーカー女学院に受け継がれていくが、

    そこでミシンはしだいに生産手段から「教養機械」と呼べるような存在へと位置づけをずらし、

    洋裁教育が、教育、教養、倫理と深く関係づけられていくことになる。戦後の洋裁の教養主義

    的で学校空間的なあり方は、同時代の「草月流」を代表とする華道や、裏千家などの家元制度

    と類似もしていた。16 しかし、機械とそれを扱う技術を中心として、女性の教養と深く関わり

    を持つ教育は、むしろ、のちの「ヤマハ」などを代表とするピアノと同様な構造でもあった。

     ミシンと洋裁学校は、複合体としての「身体メディア」であったが、洋裁学校というメディ

    アを中心として、さらに幾多のメディアが複雑な関係性を持った。まず気がつくのは、「言説

    メディア」との強いつながりだろう。洋裁学校の代表格である文化服装学院が、シンガーミシ

    ンというミシン会社から派生し、第二次世界大戦をはさんで大規模な女子教育機関になってい

    ったことや、付属の出版局による『装苑』というスタイルブックが、大手の出版社が及ばぬほ

    どの売れ行きをみせ、教育機関の付設出版社としては世界的にも類を見ないほどの雑誌社にな

    っていったことなどは、洋裁文化とこれらメディアの本質的な繋がりを典型的に示していると

    言いうるだろう。

     しかも、こういったメディア論的な特徴は『装苑』を旗印にした文化服装学院だけのことで

    はなかった。たとえば、ドレスメーカー女学院を卒業した津村節子は、洋裁店を経営していた

    経験から、姉の結婚式に自分の手でウェディングドレスを縫うのだが、そのときのことを次の

    ようにふり返っている。

       姉の結婚が決り、私たちはウェディングドレスの製作にかかった。これまで学校でも、洋

    裁店をしていた時でも、ウェディングドレスは縫ったことはない。

       ドレスメーカー女学院で発行している「ドレスメーキング」という雑誌に出ていたウェデ

    ィングドレスの製図を、姉のサイズで型紙におこし、この時のためにとっておいた象牙色

    のサテンをひろげて裁つ。戦前アメリカに輸出していた最高級のシルクサテンである。17

     洋裁学校と、そこの発行するスタイルブックと、学生およびその卒業生が、ミシンによる裁

    縫という身体的な活動を通して非常に強く繋がっているということや、学校空間とマスメディ

    ア空間が不可分なほどに重なっていることが分かるエピソードであろう。このような構造は、

    何も文化服装学院やドレスメーカー女学院といった東京の巨大洋裁学校に限られたことだけで

    はなく、規模の大小を問わなければ、東京以外の地方の洋裁学校でも見られることであった。18

     また、洋裁学校は、ファッション・ショウのような「空間メディア」も頻繁に利用した。洋

    裁学校の他にも、日本デザイナーズクラブ(NDC)や、そこから分裂した日本デザイン文化協

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −11−

    会(NDK)といった、疑似アカデミズムとでもいうべき特殊な団体が形成され、研究発表と

    称してファッション・ショウを行った。さらには、当事者の女性たちのみならず、同時代の多

    くの人たちにとって、洋裁学校が街のなかの目に見える存在として、新しい風俗を伝える空間

    メディアとして機能していたことも重視しなければいけない。文化服装学院やドレスメーカー

    女学院がある新宿や目黒の通りに、「文化ロード」「ドレメ通り」といった名前が付けられるほど、

    それは衝撃的なことだったのである。

     1949年から50年が洋裁学校創立ブームの絶頂期で、それ以降は淘汰の時期に入り、洋裁学校

    は「文化」と「ドレメ」の二大勢力に収斂していった。青地晨は洋裁教育を受けた女性の出身

    学校がどこの学校の教育方式だったかについて、「文化式が三六・三%、ドレメ式二二・五%、

    伊東茂平式二・五%、田中千代式二・五%」19 というデータを紹介している。洋裁学校は、そ

    れぞれの学校で独自の製図方法を編み出し、そのシステムを連鎖校や連盟校などの系列に移植

    した。系列校の校長は本校の卒業生でなくてはならず、独立採算制がとられはしたものの、教

    科書やカリキュラムは本校と同じでなくてはならなかった。そのため時折修正が加えられる複

    雑なシステムを維持するのに、系列校の校長たちは、しばし母校において講習を受けなくては

    ならなかった。ヒエラルキーは常に補修されたのだ。

     洋裁学校には、表現活動を行うのに学校や教育に軸を置く、日本の「文化産業」のひとつの

    型が見える。洋裁技術は当時から、社会進出の手段や、主婦の職能と考えられてはいたが、実

    際には、専門技術や生産手段というより、社会的な弁別手段としての文化資本であったという

    べきであろう。洋裁の技術を持っているか、洋裁学校を出ているかどうかで、女性としての資

    質を判断されたのだ。そのため、洋服を作る技術は、生活上の必然性に根ざしていなかったゆ

    えに、すんなりと、洋服を買う技術に場を譲ることになったのだ。

    2-2-3.言説メディア「スタイルブック」

     洋裁文化の場においては、「スタイルブック」と呼ばれた洋裁を扱う雑誌、特に1946年に復

    刊された『装苑』と、1949年に創刊された『ドレスメーキング』という2つの大きな雑誌が、

    それぞれの発行母体となる専門学校を背景に全盛期を迎えていた。『装苑』は、常に35万〜 40

    万部を売り上げていたとも言われており、他のジャンルの雑誌と比べても決して遜色ない発行

    部数を誇っていた。

     赤木洋一は「文化服装学院の『装苑』と、ドレスメーカー女学院の『ドレスメーキング』(鎌

    倉書房刊)が二大ファッション誌で、読者は誌面の海外モードや有名デザイナーの「作品」を

    参考にしながら自分たちの服を「仕立てる」のであった」20 と記憶しているが、そういった状

    況は、最初からあったのではなく、洋裁文化のなかで徐々に形作られていった。終戦直後には「新

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−12−

    興スタイル雑誌業界の乱立があらわれて」21、洋

    裁や衣服に関わる雑誌のさまざまな可能性が提

    示されていたのが、次第に洋裁学校と結びつく

    雑誌が主流になっていったのだ。「スタイルブッ

    ク」を読むのには、もともと独特で高度なリテ

    ラシーが必要だったが、洋裁学校と結びつくこ

    とで、より練達さを要求する特異な読者空間が

    形作られていくことになった。

     こういった「スタイルブック」の影響力をう

    かがい知ることができるデータとして、1955年

    に行われた「日本の女性は流行をどうとり入れているか?」という調査がある。二十代の女性

    にたいして「あなたは服装専門の雑誌を見るか」という質問がされ、その回答として、「詳し

    く見る」30.0%、「ざっと見る」31.5%、「見ない」30.0%という結果が得られている。ここから

    は、雑誌をどのように読み、使ったかということは見えないのだが、それにしても、実に60%

    の二十代女性が「服装専門の雑誌」を見ていたのである。22

     こういった洋裁学校とスタイルブックの強い結びつきは、60年代においても、かなり強固な

    ものであった。「現在日本のファッション界で、服装雑誌としてあげられる主なものは、“ドレ

    スメーキング”“装苑”“若い女性”“服装”“婦人画報”などであろう」23 と言われ、「ドレス

    メーキング」「装苑」「服装」など、洋裁学校が出版した雑誌が、主流を占めていた。

     スタイルブックの隆盛は、スタイル画家の中原淳一や長沢節、編集者の鳥居達也や花森安治

    など、「言説メディア」と強く結びついた行為者を生み出していった。しかし、中原や長沢の

    描くスタイル画は、洋裁の参考にするための現実の写しに終わらず、次第に、それ自体が消費

    の対象となり、スタイル画を読むという快楽追求の仕方を読者に訓練した。そしてそれは、当然、

    ファッション・ポートレイトを読むというリテラシーへとつながっていくことになった。ある

    いは、当初「直線裁ちの服」を提唱していた花森は、家電や家財の商品テストを行い、買うこ

    との技術を読者に啓蒙するようになり、「アメリカンスタイル全集」の創刊で名を馳せた鳥居は、

    既製服販売を目論むようになっていった。洋裁文化が生み出したはずの行為者たちが、洋裁文

    化を切り崩す存在になっていったのだ。

     洋裁学校と「スタイルブック」の共犯関係は、洋裁文化に関わる人々を読者として編成し、

    次代へと引き渡した。「若い女性」の創刊あたりを転機として、雑誌と洋裁学校の強いつなが

    りは薄れていく。24 身体の規律訓練の機能も、洋裁学校から徐々に、洋裁学校とは切り離され

    た雑誌へと移行していった。

    主な雑誌の創刊年(昭和)

    『私のきもの』(実業之日本社 21年)『装苑』(文化服装学院 21年 復刊)『ソレイユ』(ひまわり社 21年)『スタイルブック』(衣装研究所 21年 →『美しい暮しの手帖』 23年)

    『スタイル』(スタイル社 21年復刊)『女性』(新生社 21年)『ドレスメーキング』(鎌倉書房 24年)『アメリカンスタイル全集』       (日本織物出版社 24年)

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −13−

    2-2-4.空間メディア「ファッション・ショウ」「洋裁店」「百貨店」

     三島由紀夫の『につぽん製』には、主人公のデザイナーが行うファッション・ショウの、開

    幕直前の模様が描かれている。

       優雅な階段をのぼつて達する二階の画廊は、白青市松のリノリユームの床にならべた百い

    くつの椅子を、すでに招待客によつて、第一回開演の三十分前から占められてゐた。招待

    はタダだが、金杉商店の廣告がいつぱいはひつた大版のプログラムを、だれも一部二百圓

    で買はされて、膝の上にひろげてゐる。

       九割五分が女で、のこりの五分が男である。女たちの帽子から鳥の羽根がいつぱい立つて

    をり、それがとなりと話をするときに、羽根が羽根とひそひそ話をするためにあちこちへ

    そよいでゐるかの如き奇観を呈する。女のなかにはばかに尊大なのがゐて、それは洋裁学

    校の校長さんであり、デザイン界の幾人かの女王の一人である。彼女は、ジョキッと鋏を

    入れさうな目つきで、人の衣裳を見る。

       男の幾人かは生地屋や男のデザイナアで、男のデザイナアの中には、薄化粧をした變な男

    もゐる。彼は指環をはめた手の中で、しきりに青い格子のハンケチをこねまはしてゐる。

    そして気どった鼻聲で、「さうなのよ。あら、さう」なんぞと言ふ。

       ざつとかういふ客席が、四五十坪の會場を三方からとりまいてゐるが、正面の壁の前に

    低い舞臺があつて、その舞臺のまんなかからシャモジ型の張出舞臺が長く突き出てをり、

    四五人の小編成のバンドは右奥に陣取つてゐた。25

     観衆の中には「地方の洋裁学校から東京へ留学に派遣された先生たちで、一生懸命メモをと

    つては、眼鏡をよせ合つて友だちと議論」する人物も見える。これは小説ではあるが、同じよ

    うな風景は、専門学校や洋裁団体が主催した数多くのファッション・ショウでも見ることがで

    きた。村上信彦によれば、1954年の秋には、東京都内だけで230、全国だと600ものファッショ

    ン・ショウが行われ、「大半は名の通ったモデルを使って客寄せするのが目的で、しだいに派

    手を競い、芸能ショーに近い演出をするものもある」26 という盛況ぶりだった。

     こういったファッション・ショウブームの頂点をなすのは、1953年11月のクリスチャン・デ

    ィオールのファッション・ショウであろう。ディオールの専属モデル7人と、裁断係、着付け

    係など一行12人を、文化服装学院が、創立三十周年記念として招聘したのだ。83点から構成さ

    れたファッション・ショウは、11月25日の東京会館を皮切りに名古屋、京都、大阪で行われた

    という。27

     特筆すべきは、このディオールのファッション・ショウが、1000円〜 3000円の入場料を払っ

    て見るエンターテインメントとしてなされたことだろう。この当時日本で行われていたファッ

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−14−

    ション・ショウは、欧米で行われていた顧客やバイヤー向けのファッション・ショウとは違う、

    独自性の高いメディアイベントであったと言える。

     ディオールのファッション・ショウは大成功で、後々まで記憶に残り、文化服装学院は、そ

    の後も1958年に、NDKと共同してピエール・カルダンを招聘し、ファッション・ショウを四

    回行ったのみならず、カルダン自身に19点の作品を解説させた。28 ところが、その招聘した側

    の『装苑』編集長の今井田勳は、パリで同じピエール・カルダンのショウを見た時に「日本の

    ショウを見なれた目には、演出はへたくそ、モデルもポーズらしいポーズは何もしないし、も

    とより音楽など聞こえようはずもない」29 と感想を述べているのだ。この記述からは、日本の

    ショウがいかに、音楽などを使って計算された演出がなされていたかということがうかがえる。

    村上が「芸能ショーに近い」と揶揄している通り、さまざまな感覚に訴える空間の構成が目ざ

    されていたことが伝わって来る。

     あるいは、1955年の『サンデー毎日』は、「ファッション・ショウは何故はやる」という記

    事を載せ、ファッション・ショウの異常な流行を紹介しているのだが、この記事もまた、「改

    めて考えさせられたのはファッション・ショウとは見本市なのか、展覧会なのか、それともお

    祭りなのかということだ」30 という感想で締めくくっている。こういった記述を見ると、当時

    のファッション・ショウが、バイヤーなどの同業者に向けられたプレゼンテーションの場では

    なく、一般に開かれた祭やイベントのようなものであったことが分かる。

     ところでこの「ファッション・ショウは何故はやる」という記事では、分裂騒ぎ直後のNDC

    とNDKのファッション・ショウの比較が行なわれている。三月二十、二十一日に東京会館で

    行なわれたNDKのファション・ショウは、「スポンサー六十六社、出品総数百十五点、参加デ

    ザイナー四十余名、モデル三十余名」という規模で、賞が七つ用意され、二日間にわたって六

    回行われた公演には、六千人から七千人の客が入ったという。一方、四月五日、六日に同じく

    東京会館で行なわれたNDCのファッション・ショウは、「生地提供六十五社、出品総数九十九点、

    参加デザイナー九十三人」で、入場者は五千人だった。この記事には、NDKの収支も書かれ、

    ショウがそれ自体、興行として成功していたことが指摘されており、記者も「当節五割の利益

    をあげた興行なんて、そうざらにあるものじゃない」31 と驚いてみせている。

     このように、洋裁学校や洋裁団体が主催となって、数多くのファッション・ショウが開催さ

    れ、洋裁文化の隆盛を支えることになったのだが、1960年ごろになると、特にデパートの巨大

    化がはじまり、ファッション・ショウの位置づけも変わってくる。元々、1950年に「日本橋三

    越が500万円の豪華ファッション・ショーを開いて、デパート・ファッション攻勢のハシリと

    なった」32 と言われるように、デパートがファッション・ショウを開催しはじめたのは、むし

    ろ洋裁文化がこれから絶頂期を迎えようとしていた時期であった。それは、デパートが巨大化

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −15−

    していったことにたいして、ファッション・ショウというメディアと、洋裁文化の構造が深く

    関連していたことを示してもいよう。デパートは、ファッション・ショウという空間メディア

    を自らの空間に取り込むことによって、洋裁文化と強い関係を築いたのだ。

     ところが、デパートは、洋裁文化の拡大を背景にして、「採算がとれるということよりもむ

    しろ、権威や人気の裏づけ」33 のために、フランスやイタリアのオートクチュールと契約をし

    ていくことになる。たとえば1954年に、大丸がクリスチャン・ディオールと契約を結び「ディ

    オール・サロン」を開いたのをはじめとして、56年に白木屋がマギー・ルフと、57年に三越が

    ブランビラと、60年に高島屋がピエール・カルダンと、61年に松坂屋がニナ・リッチと契約し、

    サロンを開いていく。そうすると、もはや「芸能ショーのような」ファッション・ショウは開

    かれなくなっていく。

     しかし、こういったデパートによるクチュリエたちとの契約は、洋裁学校や洋裁団体、ある

    いはデザイナーを経由して、人々がパリ・モードに憧れるという構造がなければ意味をなさな

    かっただろう。クリスチャン・ディオールと契約を結んだ大丸では、「客は外交官夫人や上流

    階級が多い」状況で、「日本人52%、外人48%」という比率であり、「契約作品は、一シーズ

    ン30 〜 40点」で、「500着くらい売れる」程度に過ぎなかったという。この数値から考えても、

    クチュリエたちとの契約が、大衆を相手に商売をするデパートにとってステイタス以上の意味

    を持ち得なかったことが分かる。

     デパートが巨大化したのは、洋裁文化があったからなのだが、洋裁文化は、そうやって自ら

    が生み出したはずの消費スタイルに押しつぶされるようにして消滅していくことになった。

    2-2-5.新たなる行為者、「ファッション・モデル」

     こういったファッション・ショウの流行は、ファッション・モデルという特異な存在を生み

    出した。日本におけるファッション・モデルは、1951年に毎日新聞社の雑誌『英文毎日』が主

    催して行なったティナ・リーサ賞の発表会のときに、モデルを募集したのがはじまりとされて

    いる。二千人の応募者の中から、わずか二十人だけ選び出されたモデルたちは、「毎日ファッ

    ション・ガール」と呼ばれた。34

     ところで、このティナ・リーサというのは、人の名前である。1948年、夫とともに日本に訪

    れたこのアメリカの女性ファッション・デザイナーは、日本の布地に注目してアメリカで自分

    のデザインにとりこんで発表するかたわら、日本でデザインコンテストを行なうことを思いつ

    く。翌年の1949年から、50年、51年、53年と、合計四回行われたこのコンテストは、大きな影

    響を日本に残すことになった。

     コンテストの主催は『英文毎日』であったが、協賛にはパン・アメリカン航空がつくことに

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−16−

    なった。これには、ティナ・リーサの夫がパンナムの社員であったという事情もあったのだが、

    おかげで、大賞のティナ・リーサ賞の10万円を筆頭に、数々の賞と賞金がもうけられることに

    なった。田中千代、伊東茂平、杉野芳子という日本を代表するデザイナーたちと、ダンサーの

    伊藤道郎、画家の猪熊弦一郎がデザイン画を審査し、それを通過した作品がアメリカに送られ、

    ティナ・リーサによって審査されるという手続が踏まれ、そして賞が決まると、日本で受賞作

    品のショウが行われた。

     1949年と、50年のショウでは、日劇のダンサーをモデルに使っていた。ところが、「毎日新

    聞社では専門的なモデルの必要を感じた」35 ため、51年にモデルを募集することにしたのだが、

    面接審査からわずか二ヶ月で舞台を踏むために、ダンサーで演出家でもある伊藤道郎が、合格

    者を付きっきりで指導をすることとなった。その甲斐もあってか、合格したなかから、伊東絹子、

    相島政子、岩間敬子など、その後モデルとして活躍する人物が多数輩出された。

     こうして生まれた「毎日ファッション・ガールズ」であったが、翌52年にはティナ・リーサ

    賞は中止となり、53年にはショウは行われず、54年以降、ティナ・リーサ賞はなくなってしま

    う。しかも、「毎日ファッション・ガールズ」と呼ばれていたにもかかわらず、彼女たちは毎

    日新聞社に雇われていたわけではなく、雑誌社と個人契約で写真のモデルなどをして生計を立

    てていた。そういった事情を背景に、1952年、NDCが東京ファッションモデルクラブ(TFMC)

    を結成し、「毎日ファッション・ガールズ」を吸収することになった。折しも、53年に伊東絹

    子がミス・ユニバースの世界大会で三位を受賞し、モデルという職業に対して、関心が高まっ

    た時期でもあった。

     世間の注目が集まる中、TFMCは、伊東絹子らが結成したファッション・モデル・グループ、

    文化服装学院が設立したスミレ・モデル・グループへと分裂する。その他にも、大阪の大阪・

    ファッション・モデル・ユニオン、京都の藤川ファッション・モデル・クラブなどが設立され、

    あわせて二百人ものモデルを擁することとなった。モデル代は一日で当時のBG一ヶ月分と言

    われたが、帽子、イヤリング、ネックレス、ブローチ、靴などアクセサリー類はすべて自分持

    ちで、「都内にいる約一五〇人のモデルが一日平均三十足らずの仕事を取り合っている」とい

    う過当競争でもあった。また、その裏で「モデル・ブームの波に乗って、いかがわしいモデル

    研究所が沢山生まれ、研究生を募集、応募者をくいものにしたものも出る」36 という状況も生

    まれた。このように華やかな職業として「モデル」は誕生し、様々な話題を提供しながら、産

    業として大きくなっていった。

     ファッション・モデルは、デザイナーの「正しく着る」という、規範となるべき身体として

    の機能を分化して誕生した。そしてその後、雑誌メディアと強く結びつくことによって、現在

    に至るまで多くの人の身体の規範になり続けている。今では当たり前の、読者が身体の規範を

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −17−

    モデルに求めて、「学習」=「模倣」する空間という構造自体を作り出したのは、他ならぬ洋

    裁文化なのだ。

    3.洋裁文化消失の構造

     洋裁文化の女性たちは、家で服を作る、デパートあるいは個人の洋裁店でオーダーする、既

    製服を買うといった選択肢のなかから、自分にふさわしい形を選んだ。とはいえ、「デパート

    の売上げ比率で見ると、オーダーは婦人服全体のたった5 〜 8%で、残りは既製とイージーオ

    ーダー半々」であり、しかも「オーダーは布地が売れるように促進宣伝機関となっている」37

    という状況でもあった。洋裁学校を卒業した「1000万人」38 の人々は、当然、自家裁縫をしたり、

    生地にこだわってのオーダーをしたであろう。そのため、現在よりも消費者が布地そのものに

    触れ、購入するという機会が圧倒的に多く、それでデパートも布地を売ることを重視し、オー

    ダーを布地の販売促進活動として考えたのである。デパートとは、服を買いに行くところでも

    あったが、布を買いに行くところでもあったのだ。

     こういった風景から見えるのは、現在とは違っていても、それはそれで高度に完成された消

    費文化である。服を作ることは、生産であると同時に、ミシンや布の消費であり、それに付着

    したさまざまな文化の実践であることも確かなのだ。そしてそれは、時代固有の文化であると

    ともに、次の時代の準備でもあった。そのことについて、日本織物出版社を経てアドセンター

    の社長になった鳥居達也は、1962年に次のような鋭い指摘をしている。

       洋裁教育の成果は、いろいろな意味でかなり大きいが、その中でとくに、取りあげなけれ

    ばならないのは、消費者教育という一面である。洋裁学校の門をくぐったひとたちは、そ

    のたかめられた感覚と批判力とを持って、社会に出て行く。それが生活の中にとけこん

    で、一般消費者の平均感覚の水準をたかめた効果は、卒業生の数を見ただけでも想像がつ

    く。39

     高度経済成長期以降、輸出によって人々が経済的に豊かになり、物があふれるようになり、

    消費文化が形成されていったというのは揺るがせない歴史的な事実ではあるが、そこに至るま

    でに、人々がある文化を経て、あるハビトゥスを身につけて、消費者になっていったというこ

    とも見逃してはならない。洋裁文化の時代に、同じような行動原理で、同じような文化活動を

    行っていた、ひとつの巨大な集団あったということは無視できないことである。

     70年代になると、次第に、洋服は作るものから買うものへと変わり、日本から世界的に有名

    なファッション・デザイナーたちが出現するようになった。映画衣装との関わりを持った森英

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−18−

    恵、プレタポルテの出現と共に世界市場で名を馳せた高田賢三などを嚆矢として、洋裁学校の

    校長ではないデザイナーたちが出現しはじめ、洋服や着ることの意味が変化していった。

     そして85年に、コム・デ・ギャルソンを着て『アン・アン』に登場した吉本隆明に対し、埴

    谷雄高が論争を挑んだ時、洋裁文化は完全に消滅していたと言うことが出来る。埴谷は、「「ぶ

    ったくり商品」のCM画像に、「現代思想界をリードする吉本隆明」がなってくれることに、吾

    国の高度資本主義は、まことに「後光」が射す思いを懐いたことでしょう」40 と皮肉めいた非

    難を表明し、それに対して吉本は、埴谷の代表的な小説『死霊』も、コム・デ・ギャルソンの

    衣服と同様に、出版社が販売する高価な商品であることを指摘しつつ、「「コム・デ・ギャルソン」

    の「東京国際コレクション・85」もまた、芸術性において、『死霊』七章に勝るとも劣らない

    ものだと確信しております」41 と返答した。このとき、身体の意味としての衣服は、洋裁によ

    って形成されるものではなく、購入して着用するものへと完全に姿を変えていた。

     洋裁文化の「デザイナー」という行為者は、正しく西洋式の生活を送る模範として存在した。

    学生は、校長デザイナーや教員デザイナーから、単に衣服の作り方を学ぶだけではなく、アク

    セサリーなどをも含めた着こなし方や、極端な例では、どこで何を食べるかといったことにい

    たるまで、ライフスタイルのすべてを模倣し、学習していた。42 教室の空間、あるいは学校を

    模範とした空間が洋裁文化全体を覆い、模倣=学習という形で、関係性が成立していた。

     デザイナーたちは、例えば、いかに正確にクリスチャン・ディオールを模倣するのか、ディ

    オールが作ったものをどうやって日本人の身体の上で正確に再現するのかということを競って

    いた。そういう学校空間の拡大版としての洋裁文化は、「買わない服を見る」というエンター

    テインメントを成立させ、結果として世界的に見てもかなり早い段階の中流、大衆向けファッ

    ションを成立させていた。そこには、模倣することによって自分で作って着るという、今と違

    う形の消費のスタイルがあった。

     学校空間的なこの場では、作ることと着ることが同一だった。現在とは違って、正しく着る

    ために作るのであって、個性や唯一性を追求して作ったのではないということは、注意しなけ

    ればいけない。それゆえ、作ることを省略して、正しく着ることの方を肥大化させていったの

    は当然の帰結とも言える。学校空間のなかで、正しく着ることを学習していくうちに、消費者

    としての自己を形成していったのだ。

     洋裁文化初期の頃は、デザイナーたちは、ファッション・ショウに作品を発表し、それから、

    スタイルブックに図面、スタイル画、文章を執筆することによって、読者や学生に影響を与えた。

    そして、洋裁学校を経営することによって、学校空間的な模倣=学習文化を作り出した。この

    構造は、デザイナーを唯一の中心として成り立っていた。

     それが、時代を経ていくと、中心となるメディアが洋裁学校・ミシン複合体から、ファッシ

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −19−

    ョン・ショウやスタイルブックに移動していった。それと同じくして、中心的な行為者も交代

    した。デザイナーの言説や言葉の力が、編集者やスタイル画家や批評家によって奪われていく

    一方で、当初パンパン、デザイナーの間で起きた身体の規範をめぐる指導権争い、何が正しい

    身体や生活なのかという覇権争いは、デザイナーとファッション・モデルの間に移動し、結局、

    ファッション・モデルが身体の規範となった。そうして、デザイナーの求心性が失われていき、

    洋裁文化は消えていった。

     さまざまな教養や言説の源としてのデザイナー、また、理想の身体としてのデザイナーのそ

    れぞれの機能が、スタイルブックの書き手や、ファッション・モデルに移ってゆくことによっ

    て、ヒエラルキーつまり洋裁文化の学校空間における、学生がデザイナーを、デザイナーがパ

    リ・モードを模倣=学習するという関係性で成り立っていた構造が組み変わっていった。60年

    代に「みゆき族」などが出現する前後には、だんだん変質が顕著になり、入江美樹、松田和子、

    松本弘子など、タレントと呼べそうなファッション・モデルたちが出現するころになると、デ

    ザイナーを中心として模倣=学習することで成立していた洋裁文化は終幕を迎えようとしてい

    た。

     しかし、洋裁文化は消失したとはいえ、その文化の構造の大部分は、そのまま現在まで引き

    継がれている。デザイナーを中心とした構造は消失したが、このとき作られた場こそが、その

    後の日本のファッション文化を形作ってきた。それはつまり、日本の社会には、ヨーロッパや

    アメリカのファッション空間とは違うものがあるということでもある。80年代に、日本のファ

    ッションが独自性を世界に示せたのだとしたら、このことと無関係ではあるまい。00年代に東

    京ガールズコレクションのような巨大ファッション・ショウが現れたことも、このことを前提

    としているはずだ。現在の消費の文化や、身体の文化や、ファッションの文化に、このとき形

    作られた構造の続きがあると考えないと、我々が生きている社会への理解はおぼつかないだろ

    う。

    1  この論文は、京都精華大学「ポピュラーカルチャー研究会」での研究及び、発表に基づいている。詳

    細は「1940/50年代と消費者の身体」(『ポピュラーカルチャー研究 Vol.2 No.2』、2008 京都精華大学)

    を参照のこと。

    2 ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』山田鋭夫、渡辺純子訳 2006 藤原書店 P.33

    3 ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』山田鋭夫、渡辺純子訳 2006 藤原書店 P.125

    4  洋裁文化という名称の命名に関しては、2004(平成16)年度に、文部科学省私立大学学術研究高度化

    推進事業「学術フロンティア推進事業」のひとつとして認定された「関西圏の人間文化についての総

    合的研究−文化形成のモチベーション−」(MKCRプロジェクト)のうち、「d6 関西におけるファッ

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−20−

    ション(衣)文化の形成 −裁縫習得及び衣服作りに関する事例発掘を通して−」および、その研究成

    果である、井上雅人「関西における洋裁文化 藤川学園の例を中心に」『関西文化の諸相』(2006 武

    庫川女子大学関西文化研究センター)、『関西文化研究 第4号 洋裁文化隆盛の時代 —関西ファッシ

    ョン史の試み—』(2005 武庫川女子大学関西文化研究センター )、『関西文化研究叢書 関西ファッ

    ション史の形成に関する研究』(2009 武庫川女子大学関西文化研究センター )などに負っている。

    5 例えば、難波功士『族の系譜学』(2007 青弓社)を参照。

    6 レイモンド・ウィリアムズ『キーワード辞典』2002 平凡社 p.86

    7  マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳  1986 みすず書房)、マーシャル・

    マクルーハン『メディア論』(栗原裕、河本仲聖訳 1987 みすず書房)など

    8 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』 田村俶訳 1977 新潮社 p.156

    9 ピエール・ブルデュー『実践感覚 I』今村仁司、港道隆訳 1988 みすず書房 p.83

    10 村上信彦『服装の歴史4 戦後服装史』 1980 理論社 p.100

    11 村上信彦『流行 —古さとあたらしさ』 1957 大日本雄弁会講談社 p.114

    12 家永三郎『日本人の洋服観の変遷』1976 ドメス出版

    13  例えば次のような記述など。「鮮やかな赤い唇と派手な服装は、たんにパンパンの象徴であっただけで

    なく、アメリカ的なセクシーさと最新流行という、手の届かないものの一部でもあった。戦争中の気

    が滅入るような倹約生活の後だけに、これは大きな衝撃であった。官能的なパンパンは、外見からい

    えば日本でもっともハリウッドに近い存在であった。化粧品業界のトップ企業で、戦前の上流階級の

    伝統をうけつぐ資生堂も、こうした傾向に染まった。資生堂の戦後最初の商品は、「ネイル・スチック」

    といい、口紅のように指の爪に色をつけるもので、米兵相手の女性にとくに人気があった。」(ジョン・

    ダワー 『敗北を抱きしめて 上』2001 岩波書店 p.165)ただし、ここで呼ばれるパンパンたちが、

    どれほど実体のあるものであるかは議論の余地があろう。デザイナーたちが敵視したのは、むしろイ

    メージとしての「パンパン」と言うことが出来るのかも知れない。

    14  例えば、舟橋聖一『花の素顔』、三島由紀夫『肉体の学校』、津村節子『模造』永井龍男『外灯』、山崎

    豊子『女の勲章』など。

    15  女子の技能教育機関としての裁縫学校は明治10年前後から設立されており、有名なものとしては、仙

    台の朴沢三代冶の松操私塾、東京の渡辺辰五郎の和洋裁伝習所がある。ただし、これらは和裁を中心

    とした学校で、ミシンによる裁縫技術の伝授においては、明治37年のシンガーミシン裁縫女学院の創

    立を待たなければいけない。以後、シンガーは横浜シンガー裁縫女学校(明治39年)、京都のシンガー

    裁縫女学校(明治41年)、神戸シンガー裁縫女学院(明治42年)を設立している。(全国各種学校総連

    合会 『各種学校総覧』1968 日本経営新聞社 pp.24−27)

    16  早坂暁『華日記 : 昭和生け花戦国史』(1989 新潮社)、加藤恵津子『「お茶」はなぜ女のものになった

  • 京都精華大学紀要 第三十八号 −21−

    か 茶道から見る戦後の家族』(2004 紀伊國屋書店)などを参照。

    17 津村節子『瑠璃色の石』1999 新潮社 p.88

    18  井上雅人「関西における洋裁文化 藤川学園の例を中心に」『関西文化の諸相』 2006 武庫川女子大

    学関西文化研究センター 

    19 青地晨「洋裁ブーム」『婦人公論 40巻8号』1955 中央公論社 p.194

    20 赤木洋一『「アンアン」1970』 2007 平凡社新書 p.41

    21 石川綾子『日本女子洋装の源流と現代への展開』1968 家政教育社 p.188

    22  ただし、同じ調査における「オードリー・ヘップバーンの髪型を何で知ったか」という質問項目に対

    しては、「新聞」が31.3%、「映画」が23.8%、街中でヘップバーン・カットの女性を「実際に見た」が

    22.5%という数値が出ている一方で、「服装専門誌」3.0%、「婦人雑誌」6.4%と、雑誌の影響力を上げ

    ている人は非常に少ない。この結果によれば、ほとんどが新聞、映画、それから実際に街中で見るこ

    とによって情報を得ているということになる。あるいは同じ調査で、「真知子巻き」を何で知ったか

    という質問にたいしては、「映画を見て」29.0%、「実際に見て」23.5%、「新聞で」15.9%となり、雑

    誌の影響力をあげる人はほとんどいなかった。これらは当時「シネモード」と呼ばれたものであるが、

    この調査の調査者が「新聞と映画は、同じマス・コミュニケーションのうちでも、流行を知らせるの

    にもっと大きい作用をしている」と結論づけているように、映画の影響力も非常に大きかった。洋裁

    文化には、映画の存在も無視できないものとして存在していたことは留意すべきだろう。

    23  うらべ・まこと「マガジン・ファッション」『ファッションアニュアル 62』 1962 アド・センター

     p.88

    24  井上雅人「日本における「ファッション誌」生成の歴史化 『装苑』から『アンアン』まで/『ル・シ

    ャルマン』から『若い女性』まで」『都市文化研究 第12号』 2010 大阪市立大学大学院文学研究科

    都市文化研究センター

    25 三島由紀夫「につぽん製」『三島由紀夫全集 7』 1974 新潮社 p.477

    26 村上信彦『服装の歴史4 戦後服装史』 1980 理論社 p.114

    27 西村勝『小池千枝 ファッションの道』 1992 文化出版局 p.80

    28 西村勝『小池千枝 ファッションの道』 1992 文化出版局 p.125

    29 今井田勳『雑誌雑書館』1980 書肆季節館 p.239

    30 「ファッション・ショウは何故はやる」『サンデー毎日 昭和30年 3月27日号』1955 毎日新聞社 p.23

    31  詳細は以下の通り。「収入の部は出品量として一点一万円で百五十万円、入場料五十三万円、プログラ

    ム売上代三十八万円、プログラム広告料二十二万円、その他合計二百五十六万余円、支出の部は会場

    使用料三十七万円、モデル代四十万円、演出舞台装置三十一万円といったところがおもな支出で合計

    百七十三万円、差引八十三万円の黒字勘定になっている。」

  • 洋裁文化の構造─戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(2)−22−

    32 『ファッション・アニュアル62』1962 アド・センター p.184

    33 『ファッション・アニュアル62』1962 アド・センター p.184

    34 「ファッション・モデルとマネキン・ガール」『サンデー毎日 10月23日号』1955 毎日新聞社 p.55

    35 丹羽文雄『ファッション・モデル』1955 第日本雄弁会講談社 p.64

    36 「ファッション・モデルとマネキン・ガール」『サンデー毎日 10月23日号』1955 毎日新聞社 p.55

    37 赤木逸夫 「二つの山脈3 既製服と注文服」『装苑 12月号』 1959 文化服装学院出版局 p.179 

    38 『ファッション・アニュアル62』1962 アド・センター p.163

    39 『ファッション・アニュアル62』1962 アド・センター p.163

    40 埴谷雄高「政治と文学と・補足 吉本隆明への最後の手紙」『海燕 4巻4号』1985 福武書店 p.159

    41  吉本隆明「重層的な非決定へ 埴谷雄高の「苦言」への批判」『海燕 4巻5号』1985 福武書店 

    pp.138-141

    42  井上雅人「関西における洋裁文化 藤川学園の例を中心に」『関西文化の諸相』2006 武庫川女子大学

    関西文化研究センター

    (2010年5月8日受稿/ 2010年8月23日受理)