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ミレニアム4 

蜘蛛の巣を払う女 

〔上〕 【お試し版】

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日本語版翻訳権独占早 川 書 房

© 2015 Hayakawa Publishing, Inc.

DET SOM INTE DÖDAR OSSby

David Lagercrantz

Copyright ©2015 by

David Lagercrantz och Moggliden AB

Translated by

Miho Hellen-Halme & Yukari Hane

First published by

Norstedts, Sweden, in 2015

First published 2015 in Japan by

Hayakawa Publishing, Inc.

This book is published in Japan by

direct arrangement with

Norstedts Agency.

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ストックホルム東部 拡大図

ガムラスタン(旧市街)

セーデルマルム

サルトシェーバーデン(フランス・バルデル宅がある)

インガレー島(ガブリエラの別荘がある)

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16:ヤーン広場17:エステルロング通り18:ヴェステルロング通り19:モーテン・トロッツィグ  小路20:グランド・ホテル21:スヴェア通り22:警察本部 (ストックホルム警察、  公安警察等がある)23:天文台公園24:ストックホルム市立  中央図書館25:オーデン通り26:トール通り27:ハンナ・バルデル宅 (トール通り40番地)

1:ヨート通り2:『ミレニアム』編集部3:リスベットの自宅4:ミカエルの自宅5:ベルマン通り6:スルッセン駅7:ホルン通り8:マリアトリエット広場9:タヴァスト通り10:マリア・マグダレーナ教会11:リング通り12:信号機の交差点13:ルンダ通り14:シンケン通り(ファラー・シャリフ宅がある)15:ヴェステル橋

ストックホルム

拡大図

★1

★2

★6スルッセン駅

3★★ 10

★ 4

★ 9

★8

★ 12

★ 11

★ 14

★ 13 ★ 5

★ 15

スルッセン駅 ★6

ヴェステル橋

ヴェステル橋 ★ 16

19

★ 18 ★ 17

★ 20

★ 21

★ 22

★ 13

★ 27

★ 26★ 25 ★ 23

★ 24

拡大図

ナッカ

旧市街(ガムラスタン)

セーデルマルム地区

ストックホルム中央駅

ストックホルム

サルトシェーバーデン

★7

ストックホルム中央駅

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登場人物

ミカエル・ブルムクヴィスト……………『ミレニアム』の共同経営者・記者

エリカ・ベルジェ…………………………同編集長・共同経営者

クリステル・マルム………………………同アートディレクター・共同経営者

エーミル・グランデーン

ソフィー・メルケル

   

………………同新人記者

アンドレイ・サンデル……………………同臨時雇い記者

ペニラ………………………………………ミカエルの娘

オーヴェ・レヴィーン……………………セルネル社の幹部

リスベット・サランデル…………………背中にドラゴンのタトゥーのある女。ハッカー

プレイグ……………………………………リスベットの友人。ハッカー

ホルゲル・パルムグレン…………………リスベットの元後見人。元弁護士

ドラガン・アルマンスキー………………警備会社ミルトン・セキュリティーの社長

オビンゼ……………………………………ボクシングジムのトレーナー

フランス・バルデル………………………人工知能研究の世界的権威

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ハンナ………………………………………フランスの元妻

アウグスト…………………………………フランスとハンナの息子

ファラー・シャリフ………………………フランスの友人。コンピュータサイエンスの教授

スティーヴン・ウォーバートン…………フランスの友人。MIRI(アメリカ機械知能研究所)研究員

シャールス・エーデルマン………………サヴァン症候群研究の権威

リーヌス・ブランデル

アルヴィッド・ヴランゲ 

………………フランスの元アシスタント

トルケル・リンデーン……………………オーデン児童青少年診療センターの所長

ラッセ・ヴェストマン……………………ハンナの同棲相手。俳優

ローゲル・ヴィンテル……………………ラッセの飲み友だち。俳優

サノス………………………………………犯罪組織のリーダー

ジーグムンド・エッカーウォルド………ソリフォン社Y部門情勢分析グループのリーダー

イヴァン・グリバノフ……………………ロシア連邦議会の悪徳議員

ヤン・ホルツェル…………………………殺し屋

ユーリー……………………………………ホルツェルの仲間

チャールズ・オコナー……………………NSA(アメリカ国家安全保障局)長官

ジョニー・イングラム……………………同高官

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エドウィン・ニーダム

  

(エド・ザ・ネッド)………………同本部セキュリティー管理の最高責任者

アローナ・カサレス………………………同本部職員

ヘレーナ・クラフト………………………スウェーデン公安警察長官

ラグナル・オーロフソン…………………同産業保護課課長

ガブリエラ・グラーネ……………………同産業保護課分析官

リカルド・エクストレム…………………検事長

ヤン・ブブランスキー……………………ストックホルム県警犯罪捜査部警部

ソーニャ・ムーディグ

イェルケル・ホルムベリ

ハンス・ファステ

    ………………ブブランスキーの部下

クルト・スヴェンソン

アマンダ・フルード

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 目

 次

 プロローグ 11

第一部 

監視の目

    

十一月一日──十一月二十一日 

13

第二部 

記憶の迷宮

    

十一月二十一日──十一月二十三日

 239

 訳者あとがき 351

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11

プロローグ

 一年前 

夜明け

 この物語は、夢とともに始まる。べつに変わった夢ではない。ただ、ある人間の手が、かつて住ん

でいたルンダ通りの部屋のマットレスを、リズミカルに、執しつ

拗よう

にたたいているだけだ。

 が、その夢のせいで、リスベット・サランデルは夜の明けきらない早朝にベッドから起き上がる。

そしてパソコンに向かい、追跡を始める。

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   第一部 監視の目

                十一月一日──十一月二十一日

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 NSA(アメリカ国家安全保障局)は、アメリカ国防総省に属する連邦政府機関

である。本部はメリーランド州フォート・ミード、パタクセント・フリーウェイ沿

いにある。

 NSAは一九五二年の設立以来、通信傍受による情報収集に従事している。今こ

日にち

はインターネットや電話での通信がそのおもな対象だ。その権限は幾度となく拡大

され、現在、NSAは一日あたり二百億以上の通話や通信を盗聴・傍受している。

第一章

 十一月初旬

 フランス・バルデルは昔からずっと、自分はどうしようもない父親だ、と思っていた。

 息子のアウグストはもう八歳だが、フランスはこれまで父親としての役目を担にな

おうとしたことすら

なく、いまもその務めを難なく果たせるとはとても言いがたい。だが、これからすることは自分の義

務だと思っている。前妻とその新しいパートナー、あのいまいましいラッセ・ヴェストマンのもとで、

アウグストがひどい目に遭あ

っているのだ。

 だからフランス・バルデルはシリコンバレーでの仕事を辞や

め、スウェーデンに戻ってきた。そして

いま、軽いショック状態でアーランダ空港に降り立ち、タクシーを待っている。さんざんな天気だ。

雨風に顔を打たれて、この選択は本当に正しかったのだろうかと百回は考えた。

 こんなに自分のことしか考えていない人間が、よりによってフルタイムで父親業に専念するなんて、

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15

第一章

 十一月初旬

 フランス・バルデルは昔からずっと、自分はどうしようもない父親だ、と思っていた。

 息子のアウグストはもう八歳だが、フランスはこれまで父親としての役目を担にな

おうとしたことすら

なく、いまもその務めを難なく果たせるとはとても言いがたい。だが、これからすることは自分の義

務だと思っている。前妻とその新しいパートナー、あのいまいましいラッセ・ヴェストマンのもとで、

アウグストがひどい目に遭あ

っているのだ。

 だからフランス・バルデルはシリコンバレーでの仕事を辞や

め、スウェーデンに戻ってきた。そして

いま、軽いショック状態でアーランダ空港に降り立ち、タクシーを待っている。さんざんな天気だ。

雨風に顔を打たれて、この選択は本当に正しかったのだろうかと百回は考えた。

 こんなに自分のことしか考えていない人間が、よりによってフルタイムで父親業に専念するなんて、

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狂気の沙汰としか思えない。動物園で働きはじめるのと同じことじゃないか。子どものことなど何も

わからない。そもそも生活力というものに欠けている。が、それ以上におかしいのは、誰に頼まれた

わけでもないということだ。アウグストの母親や祖母が電話をかけてきて、父親としての責任を果た

してほしい、と懇願してきたわけではない。

 自分で決めたのだ。かつての親権の取り決めを無視して、事前に連絡もせず、ただ元妻の家に押し

かけて息子を取り返すつもりだった。間違いなく騒ぎになる。あのラッセ・ヴェストマンにしこたま

殴られるだろう。まあ、しかたあるまい。フランスはタクシーに乗り込んだ。運転手は女性で、まる

で取り憑つ

かれたようにガムをくちゃくちゃ噛か

みながら、あれこれ話しかけてきた。たとえフランスの

機嫌がよかったとしても、彼女と話す気などない。フランス・バルデルはもともと世間話が好きでは

ないのだ。

 彼はただ後部座席に座り、息子について、最近の出来事について考えていた。アウグストのことは、

フランスがソリフォン社を辞めた唯一の理由でもなければ、最大の理由ですらない。彼の人生そのも

のがターニングポイントを迎えているのだ。ほんの一瞬、本当に気力がもつだろうか、と自問した。

車がヴァーサスタン地区に入るころには、まるで体から完全に血の気が引いたようだった。何もかも

投げ出してしまいたいという衝動をぐっとこらえる。もう後戻りはできない。

 トール通りでタクシー料金を払い、荷物を車から降ろして、マンションの入口を入ったところに置

いた。階段を上がるときに持っていったのは、サンフランシスコ国際空港で買った、カラフルな世界

地図の柄の、何も入っていないスーツケースだけだった。やがて息を切らしながらドアの前に立ち、

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目を閉じて、これから起こりそうな争いや大騒ぎの場面をひととおり思い浮かべた。実際、そうなっ

たとして、誰が元妻やラッセを責められるだろう。いきなり現われて、子どもをその家庭から引き離

すなど、ふつうの人間のすることではない。ましてやそれが、これまで銀行口座への送金という形で

しか責任を果たしてこなかった父親であれば、なおさらだ。が、とにかく事は急を要する。フランス

はそう考えた。だから自らを鼓舞し、呼び鈴を鳴らした。何もかも投げ出して逃げてしまいたかった

が、それでも。

 しばらく誰も出てこなかった。が、やがてドアが勢いよく開き、ラッセ・ヴェストマンが現われた。

青い目は鋭く、胸板は厚く、その拳こ

ぶしは

人に怪け

我が

をさせるためにできているかのようだ。そのせいで悪

役を演じることの多い彼だが、日常生活で演じている役柄のほうがもっと悪い──フランスはそう確

信している。

「ほう、こりゃ驚いた」とラッセ・ヴェストマンは言った。「面白えじゃねえか。天才殿が自らお出

ましになるとは」

「アウグストを引き取りに来た」とフランスは言った。

「何だって?」

「ぼくがあの子を引き取るよ、ラーシュ」

「冗談だろ」

「本気だ」と言い返したところで、左斜な

め前の部屋から元妻のハンナが現われた。昔ほど美しくはな

い。おそらく不幸なことが多すぎて、煙た

ばこ草

と酒まみれなのだろう。そう思ったものの、フランスは胸

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を衝つ

かれ、予想外に彼女が哀れになった。彼女の喉のど

のあたりに青あざがあるのを見てしまったからな

おさらだった。いずれにせよハンナは、いらっしゃい、とでも言おうとしたように見えたが、口を開

く間もなくラッセ・ヴェストマンに先を越された。

「どうしていきなりそんなことを?」

「もう限界だからだ。アウグストには安心できる家庭が必要だ」

「で、おまえならそういう家庭を与えてやれる、ってか?

 発明家の坊ちゃんよ。パソコンに見入る

以外に何かやったことあるのか?」

「いまのぼくは昔とは違う」と言うそばから、自分が情けなくなった。昔と少しでも違っているのか

どうか、われながら疑問だったからだが、理由はそれだけではなかった。

 巨大な体た

躯く

に怒りを包み込んだラッセ・ヴェストマンが近寄ってきたせいで、体がぞくりと震えた

のだ。この頭のおかしい男に襲いかかられたらひとたまりもない。そもそもここに来たこと自体があ

さはかだった。そう思ったにもかかわらず、なぜか怒号は飛んでこず、騒ぎにもならなかった。ラッ

セはただ、苦々しげな笑みをうかべ、こう言った。

「そうか、そりゃめでたい!」

「どういう意味だ?」

「潮時だって意味だよ。そうだろ、ハンナ?

 働きづめの御ご

仁じん

がやっと責任ってもんを感じるように

なったわけだ。ブラボー、ブラボー!」ラッセ・ヴェストマンはそう言いながら芝居がかった拍手を

した。あとから考えると、フランスがこのとき何よりも恐ろしいと思ったのはそのことだった──彼

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らがいとも簡単にアウグストを手放した、ということだ。

 ポーズとして少し物申してみただけで、さしたる抵抗もせず、少年をフランスにあっさりと引き渡

した。ふたりにとって、アウグストは重荷でしかなかったのかもしれない。何とも言えないところだ

が。ハンナはフランスに解釈しがたいまなざしを向けていた。両手を震わせ、顎あ

の筋肉をこわばらせ

ている。質問はほとんどしてこなかった。本来なら、フランスを詰問してしかるべき場面だろう。数

えきれないほどの要求を突きつけ、アドバイスをし、息子の日々の習慣が崩れることを心配して当然

だった。だが、彼女はこう言っただけだった。

「本気なの?

 本当に大丈夫?」

「大丈夫だよ」とフランスは言い、ハンナと連れ立ってアウグストの部屋に入った。フランスは一年

以上ぶりに息子を見て、自分を恥じた。

 こんな子どもをどうして見捨てておけたのだろう。アウグストは美しく、神秘的だった。ふさふさ

の巻き毛に、華き

やしや奢

な体。真剣そのものの青い瞳ひとみは

いま、帆船の巨大なジグソーパズルに向けられてい

る。全身で〝邪魔するな〟と叫んでいるように見えた。フランスはまるで得体の知れない未知の物体

に近づくように、ゆっくりと前へ進んだ。

 それでもなんとか息子の気を引くことができた。アウグストはフランスの手を取っていっしょに部

屋を出た。そのときのことは一生忘れないだろう。この子は何を考えているのだろう?

 何が起きて

いると思っているのだろう?

 アウグストはフランスを見上げることも、母親に目を向けることもな

く、当然ながら、手を振られても別れの言葉をかけられても無視した。そしてフランスとともにエレ

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ベーターに乗った。なんともあっさりしたものだった。

 アウグストは自閉症患者だ。おそらく重度の知的障害もあるのだろうが、その点についてはまだ断

定されていないし、遠くから見ているぶんにはむしろ逆に聡そう

明めい

そうに見える。品のある顔立ちで、何

かに集中しているときの顔はまるで王のような高貴さだ。少なくとも、まわりの世界には注意を払う

価値もない、とでも言いたげなオーラを放っている。だが、近づいてよく見ると、そのまなざしには

靄もや

がかかっている。いまだに一度も言葉を発したことがない。

 というわけで、アウグストが二歳のころに受けた予後診断は、どれもことごとくはずれたことにな

る。医師たちはあのころ、アウグストは自閉症でありながら知的障害のない稀ま

なケースだと思われる、

集中的な行動療法を受ければ見通しはかなり明るい、と言っていた。それなのに、何ひとつ期待どお

りにはならなかったうえ、フランス・バルデルは正直なところ、アウグストが受けるはずだった支援

や補助がいったいどうなっているのか、いや、そもそも学校にすらきちんと通っているのか、まった

く知らなかった。フランスは自分だけの世界に生きていた。そしてアメリカに逃げ、ありとあらゆる

相手と衝突した。

 なんと馬鹿だったのだろう。だが、これからは借りを返すべく、自分が息子の面倒をみるのだ。本

気になった彼は、さっそく診療記録を取り寄せ、専門家や教育者に電話をかけた。ほどなく明らかに

なったのは、彼の送った金がアウグストのためには使われず、ほかのことに──おそらくラッセ・ヴ

ェストマンの道楽やギャンブルの借金に消えていた、ということだった。アウグストはおおむね放っ

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ておかれたままで、強迫的な行動をひたすら繰り返していたらしい。それだけではない。もっとひど

い目に遭っていた可能性もある──これもまた、フランスが帰国した理由のひとつだった。

 ある心理療法士が電話してきて、アウグストの体に妙な青あざがある、と心配そうに教えてくれた

のだ。フランスもそのあざを見たことがあった。アウグストの腕、脚、胸、肩、至るところにあった。

ハンナは、アウグストが自分でやったことだ、と言っていた。発作のようなものを起こして暴れ、体

を何かに繰り返しぶつけるのだという。フランスは実際、アウグストを引き取って二日目にはもう、

そういう発作を目ま

の当たりにして、心底恐ろしくなった。だが、その発作であの青あざができたとは

考えにくい、とも思った。

 暴力をふるわれていたのではないか。そう考えて、知り合いの一般医と元警官に助けを求めた。そ

の疑いが真実だと証明することはできなかったが、それでも怒りはつのる一方で、彼はあちこちに告

発の手紙を書いた。そのことに集中しすぎて息子の存在を忘れかけた。実際、息子のことを忘れるの

は簡単だ、とフランスは気づいた。アウグストはたいてい、サルトシェーバーデンの家にフランスが

しつらえた、海に面した窓のある部屋で、床に座ってパズルに取り組んでいる。何百ものピースがあ

る、気が遠くなりそうな難度のパズル。それを見事に完成させると、すぐにばらばらにして、また最

初から始めるのだ。

 フランスははじめ、そんな息子に見とれた。まるで偉大な芸術家の仕事ぶりを見ているようだと思

った。何かの拍子に息子がこちらを見て、すっかり大人びたことを言うのではないか、という幻想に

とらわれることもあった。だが、アウグストはひと言も発しなかったし、パズルから顔を上げること

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があっても、その視線はフランスを素通りし、背後の窓に、水面に反射する陽の光に向けられるばか

りだった。結局フランスは息子を放っておくことにした。こうしてアウグストはずっとひとりきりで

座っていた。フランスも、めったにアウグストを外に連れ出すことはなかった。自分の家の庭にすら

ほとんど出なかった。

 というのも、正式には、フランスが息子の面倒をみてはいけないことになっているからだ。法的な

もろもろが整うまで、危険は冒したくなかったのだ。そこで家政婦のロッティ・ラスクに買い物をす

べて任せた──ついでに料理と掃除も。生活におけるそういう部分が、フランス・バルデルは大の苦

手だった。コンピュータとアルゴリズムなら難なく操れるが、ほかのことになるとからきしだめなの

だ。時が経つにつれ、彼はますますコンピュータとアルゴリズムに没頭し、弁護士とのやりとりに時

間を費やすようになった。夜はアメリカにいたころと同じで、ろくに眠れなかった。

 訴訟やそのほかの厄や

介かい

事ごと

がいくつも、すぐそこまで迫っている。彼は毎晩赤ワインをひと瓶飲んだ。

たいていはイタリア産のアマローネだった。当座の役には立ったが、それだけのことだ。やがて健康

状態が悪化し、このまま消えてしまいたい、どこか人里離れたさびれた場所へ逃げたい、などと考え

るようになった。ところが、十一月の土曜日、あることが起こったのだ。風の強い、寒い夜で、フラ

ンスはアウグストとともにセーデルマルム地区のリング通りを震えながら歩いていた。

 シンケン通りに住むファラー・シャリフの家で夕食をごちそうになったあとで、アウグストの就寝

時間をとっくに過ぎていた。予定よりも遅くまで居座ってしまったうえ、フランスは話すべきでない

ことを話しすぎていた。ファラー・シャリフにはそういう力がある。彼女が相手だと、思わず本音を

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話してしまうのだ。フランスとファラーはロンドンのインペリアル・カレッジでコンピュータサイエ

ンスをともに学んで以来の知り合いで、彼女は今こ

日にち

のスウェーデンにおいて、フランスと同じレベル

にある──少なくとも彼の思考についていくことのできる、数少ない人間のひとりだ。自分をわかっ

てくれる相手に会うのは、フランスにとって大きな救いになった。

 それだけではなく、彼はファラーに惹ひ

かれてもいた。何度も口く

説ど

こうとしたが、うまくいったため

しがない。フランス・バルデルは女性を口説くのも大の苦手なのだ。ところがこの日は、別れぎわに

ハグをしたときにもう少しでキスまで行けそうな気配があり、これは大きな進展だ、とフランスは感

じていた。そんなことを考えながら、シンケンスダム運動場の前を、アウグストといっしょに歩いて

いた。

 次にファラーに会うときには、アウグストの面倒をみてくれる人を見つけよう。そうすれば、ひょ

っとして……万にひとつということもあるではないか?

 少し遠くで犬が吠えている。背後で女性が

叫び声を上げた。怒っているのか喜んでいるのかよくわからない。フランスはホルン通りの交差点に

目をやった。あそこでタクシーを拾おうか、それともスルッセンまで地下鉄に乗ろうか。空気中に雨

の気配が漂っている。横断歩道にたどり着いたところで、信号が赤に変わった。道路の反対側に、四

十歳ぐらいの、疲れた様子の男が立っていた。どことなく見覚えがある。フランスはアウグストの手

を握った。

 息子が道路に出てしまわないようにと思ってのことだったが、そのとき、まるで何かに強く反応し

ているように息子の手がこわばっているのに気づいた。目は鋭く晴れ渡り、いつも瞳ひ

とみに

かかっている

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あのベールのような靄もや

が、魔法の杖のひと振りで消えてしまったかのようだ。入り組んだ自分の内面

を見つめる代わりに、この横断歩道について、この交差点について、ほかの人間が誰ひとりとして気

づかない、何かもっと大きく深いものを理解しているように見えた。だからフランスは、信号が青に

変わっても動かなかった。

 立ち止まったまま、息子が見たがっているものを見つめさせてやった。どういうわけか、強い感動

が湧き上がってきた。なんと奇妙なことだろう。ただの目つき、ただのまなざしではないか。明るく

もなければ嬉う

しそうでもないまなざし。それでも、長らく記憶の奥底で眠っていた、忘却の彼方にあ

った何かが思い起こされた。久しぶりに、ずいぶんと前向きなことを考えているような気がした。

第二章

 十一月二十日

 ミカエル・ブルムクヴィストは二、三時間しか眠っていなかった。さしたる理由があったわけでは

なく、ただエリザベス・ジョージの推理小説を読んでいたからだ。そんなことをするのは、言うまで

もなく分別に欠けていた。今日の午前、マスコミ界のカリスマ、セルネル・メディア社のオーヴェ・

レヴィーンが来て、『ミレニアム』に関する方針を発表することになっている。それにそなえてしっ

かり休み、戦う態勢を整えておくべきだった。

 だからといって、分別を発揮したいという気にもなれない。いまはとにかくやる気が出ないのだ。

いやいやながら起き上がり、ユラ社製のインプレッサX7でいつになく濃いカプチーノを淹い

れた。昔

〝どうせ使えないくせにってあなたに言われたから〟というメッセージとともに配達されてきたエス

プレッソマシンで、古き良き時代の記念碑のごとくキッチンに鎮座している。これを送ってきた人と

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第二章

 十一月二十日

 ミカエル・ブルムクヴィストは二、三時間しか眠っていなかった。さしたる理由があったわけでは

なく、ただエリザベス・ジョージの推理小説を読んでいたからだ。そんなことをするのは、言うまで

もなく分別に欠けていた。今日の午前、マスコミ界のカリスマ、セルネル・メディア社のオーヴェ・

レヴィーンが来て、『ミレニアム』に関する方針を発表することになっている。それにそなえてしっ

かり休み、戦う態勢を整えておくべきだった。

 だからといって、分別を発揮したいという気にもなれない。いまはとにかくやる気が出ないのだ。

いやいやながら起き上がり、ユラ社製のインプレッサX7でいつになく濃いカプチーノを淹い

れた。昔

〝どうせ使えないくせにってあなたに言われたから〟というメッセージとともに配達されてきたエス

プレッソマシンで、古き良き時代の記念碑のごとくキッチンに鎮座している。これを送ってきた人と

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は音信不通になってしまった。そのうえ、自分の仕事にも刺激を感じられなくなってきた。

 この週末、そろそろほかの仕事を探すべきではないか、とまで考えた。ミカエル・ブルムクヴィス

トという男にとって、これはかなり思いきった考えだった。『ミレニアム』は彼の情熱、彼の人生そ

のもので、これまでに経験した最高の出来事もドラマチックな場面も、多くはこの雑誌とかかわる中

で起こったことだった。だが、永遠に続くものなどこの世にはない。『ミレニアム』への愛情ですら、

永続するとはかぎらないのかもしれない。それにいまの時代、調査報道に携わる雑誌などけっして儲も

かるものではなかった。

 高こ

邁まい

な理想を掲げた出版物はどれも、赤字にあえいで瀕死状態にある。自分が『ミレニアム』に抱

いているビジョンは、高い次元から見れば美しく真し

摯し

と言えるのかもしれないが、それだけで雑誌が

存続できるわけでもない──そんな思いが、どうしても頭から離れなかった。居間に入り、カプチー

ノをすすりながらリッダー湾を眺めた。外は大嵐と言ってよかった。

 十月は暖かい日々が長く続き、街ではどこのカフェも例年より遅くまで屋外にテーブルを出してい

たが、その後一転して惨さ

憺たん

たる天候になった。強風と土砂降りの雨が続き、人々は体をふたつに折る

ようにして急ぎ足で街を歩いていく。この週末、ミカエルは一歩も外に出なかった。もっとも、天気

のせいだけではない。壮大な巻き返し計画を立てていたのだ。が、結局、その気も失せてしまった。

いずれにせよ彼らしからぬありさまだった。

 もともと、負けたらやり返さなければ気がすまない性格ではない。スウェーデンのマスコミ界で幅

を利かせている連中には、肥大した自己像を維持すべく称賛や承認を求めつづけるタイプが多いが、

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ミカエルはそういう性格でもない。そうは言っても、ここ数年は逆境の日々だった。しかもつい一カ

月ほど前、セルネル社の雑誌『ビジネス・ライフ』に、経済記者ヴィリアム・ボリィの〝ミカエル・

ブルムクヴィストの時代は終わった〟というコラムが載った。

 そもそもこんな記事が書かれ、大見出しとともに掲載されたこと自体、ミカエル・ブルムクヴィス

トの名がまだすたれていないことの証あ

かしだ

ろう。それに、このコラムの内容がすぐれているとかオリジ

ナリティーがあるとか言う人はひとりもいなかった。また妬ね

みにかられた同業者がバッシングしてい

る、と一蹴されて終わるはずだった。ところが、いったいどういうわけか、あとから振り返っても理

由はわからないが、とにかくそこから話が大きくなっていった。はじめのうちはまだ、これはジャー

ナリストという職業についての議論である、と考えることもできた。〝ミカエル・ブルムクヴィスト

のように、絶えず経済界のあら探しを続け、一九七〇年代風の時代遅れのジャーナリズムに固執〟す

べきなのか、それともヴィリアム・ボリィのように、〝妬みを捨て、スウェーデン経済を加速させて

くれるすぐれた実業家を評価すべき〟なのか。

 だが議論は徐々に脱線し、ここ数年ブルムクヴィストがぱっとしないのは当然だ、〝大企業はみん

な悪党だと思い込んでいるらしく〟、〝自分のネタをやみくもに追及するばかり〟なのだから、など

と息巻く者が出てきた。〝そのうち報いを受けることになる〟とも言われた。あの大悪党ハンス゠エ

リック・ヴェンネルストレムでさえ、ブルムクヴィストによって死に追いやられたということで同情

票を集めるまでになった。まじめなメディアはかかわろうとしなかったが、あちこちのソーシャルメ

ディアでひっきりなしに罵ば

詈り

雑ぞう

言ごん

が浴びせられるようになった。そうなると、攻撃してきたのは経済

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記者や実業界の関係者だけではなかった。ミカエルが弱っているとみるや、誰もがここぞとばかりに

襲いかかってきたのだ。

 一部の若いライター連中も、有名になるチャンスを逃すまいと、ミカエル・ブルムクヴィストの考

え方は時代遅れだ、ツイッターもフェイスブックもやっていない、どんな妙ちきりんな古い話でも掘

り下げていくことのできた過ぎ去りし金満時代の遺物とみなすべきではないか、などと言いだした。

一般人まで面白がって話に加わりはじめ、〝#ブルムクヴィストの時代〟をはじめとするおかしなハ

ッシュタグも現われた。どれもこれもばかばかしい騒ぎというほかなく、ミカエル本人はまったく気

にしなかった。少なくともそう自分に言い聞かせていた。

 とはいえ、ミカエルがザラチェンコ事件を最後にいいネタをつかんでおらず、『ミレニアム』が危

機的な状況にあるのは、まぎれもない事実だった。発行部数はまだ悪くない。定期購読者が二万一千

人いる。が、広告収入は劇的に減っており、本が売れて臨時収入が入るなどということもなく、共同

経営者のハリエット・ヴァンゲルも出資額を増やすことはできなかった。その結果、ミカエルにとっ

ては不本意なことに、新聞社などマスコミ各社を所有するノルウェーの大企業、セルネル社が株式の

三十パーセントを購入したいと言ってくると、『ミレニアム』経営陣はその申し出を受けたのだった。

奇妙な申し出のように思われるが、実はそうでもない。確かに、はじめは不思議だった。セルネルは

週刊誌も夕刊タブロイド紙も発行しているうえ、大規模な出会い系サイトをひとつ、有料テレビチャ

ンネルをふたつ展開し、ノルウェーのトップリーグに所属するサッカーチームも所有している。本来

なら『ミレニアム』のような雑誌にかかわる理由などない会社だ。

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 だが、セルネルの代表者たち、とくに出版部長のオーヴェ・レヴィーンは、こう請け合った──セ

ルネルの出版ビジネスには権威ある商品が必要だ。経営陣は〝みんな〟『ミレニアム』を高く評価し

ていて、この雑誌がいままでどおりに存続することだけを望んでいる。「金か

儲もう

けがしたくて来たんじ

ゃない!

 何か大きな意味のあることがしたいんだ」とレヴィーンは言った。そしてすぐさま『ミレ

ニアム』の懐

ふところ

にかなりの額が入るよう手配してくれた。

 当初は、セルネルが編集作業に口をはさんでくることもなかった。業務は通常どおり行なわれる一

方で、予算が少し増え、編集部に期待感が広がった。ミカエル・ブルムクヴィストも例外ではなく、

ようやく財政状況を気にせずジャーナリズムに専念できる、と感じていた。だが、ミカエルへのバッ

シングが始まったころからセルネルは態度を変え、最初の圧力をかけてきた。ミカエルはいまも、セ

ルネルはあのころの情勢を利用したにちがいない、との思いをぬぐえずにいる。

 レヴィーンはこう言った──もちろん『ミレニアム』はいままでどおり、掘り下げた調査報道を続

けるべきだと思う。文学的な語り口、社会正義への情熱、すべてこのままでいい。だが、記事すべて

が経済的な不正、不平等、政治スキャンダルを扱ったものでなくてもいいのではないか。有名人のあ

れこれとか、映画のプレミア試写会とか、そういう華やかな世界についての記事だって、立派なジャ

ーナリズムになりうるはずだ。彼はアメリカの『ヴァニティ・フェア』や『エスクァイア』について、

ゲイ・タリーズ(

一九三二年〜。アメリ

カのジャーナリスト

)がフランク・シナトラについて書いた有名な記事〝シナトラ風邪

をひく〟について、ノーマン・メイラーやらトルーマン・カポーティやらトム・ウルフやらについて、

熱心に語った。

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 その時点では、ミカエル・ブルムクヴィストにとってもレヴィーンの意見に反対する理由はひとつ

もなかった。ミカエル自身、そのわずか半年前にパパラッチ産業についての長いルポルタージュを書

いたところで、シリアスないい切り口さえ見つかればどんなつまらない人物についてでも記事を書く

自信はあった。ジャーナリズムの良し悪しを決めるのはテーマではない、すべてはアプローチしだい

なのだ、と口癖のように言ってもいた。反感を覚えたのはむしろ、レヴィーンの言葉の行間に見え隠

れするものに対してだった。これは本格的な攻撃の始まりだ、と感じたのだ。セルネルというグルー

プ企業は、『ミレニアム』をほかと何ら変わらない雑誌にしようとしている。利益のためなら、好き

なように変えてしまえる出版物。そうなったら本来の切れ味も失われる。

 だから、オーヴェ・レヴィーンが先週金曜日の午後、大がかりな市場調査をコンサルタントに委託

したので、その結果を月曜日に発表する、と言ったのを聞いて、ミカエルはさっさと帰宅した。長い

こと自宅の机に向かって、あるいはベッドに横たわって、なぜ『ミレニアム』が自らのビジョンを貫

くべきなのかという、熱のこもった演説を頭の中で組み立てた。大都市郊外で移民の暴動が起こって

いる。外国人排斥を前面に出した政党が国会の議席を占めている。不寛容が広がっている。ファシズ

ムを支持する者が増えている。ホームレスや物乞いが至るところにいる。スウェーデンは多くの面で

恥ずべき国になってしまった。美しく崇す

高こう

な言いまわしが次々に浮かんだ。輝かしい勝利の瞬間をい

くつも思い浮かべる。的確かつ説得力たっぷりに真実を並べてみせる彼の弁舌に、編集部のみんなが、

ひいてはセルネル・グループ全体が、誤った思い込みから目を覚まし、満場一致でミカエルに従う決

定を下すのだ。

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 だが、少し冷静になると、採算面でみんなに納得してもらわないかぎり、こんな言葉には何の重み

もないのだと気づいた。金がものを言う、地獄の沙汰も金しだい、ってやつだ!

 何よりもまず、雑

誌は利益を上げなければならない。世界を変えることができるのはそのあとだ。そういう仕組みなの

だ。そこで怒りの演説の草稿を練る代わりに、何かいいネタをたたき出せないだろうか、と考えてみ

た。大スクープが期待できれば、編集部も自信を取り戻すだろう。レヴィーンがいくら調査をして、

『ミレニアム』は時代遅れだとか何とか主張したところで、みんな気にしなくなるのではないか。

 ミカエルは大スクープを連発して以来、一種のニュースセンターのような存在になっていた。不正

やら怪しい取引やらの情報が毎日寄せられてくるのだ。もちろん、そのほとんどはまったく価値がな

かった。独断論者、陰謀論者、ほら吹き、知ったかぶり、そういった連中が荒こ

唐とう

無む

稽けい

な話を持ち込ん

でくる。ちょっと調べただけで綻ほ

ころび

があらわになるネタ、そうでなくても記事にするほど面白くない

ネタがほとんどだ。が、陳腐だったりありきたりだったりする話の裏に、類いまれなネタが隠れてい

ることもたまにはある。ごく単純な保険取引、平凡な失踪届の中に、大きな、普遍的な物語が潜んで

いる。それが何なのか、あらかじめ知ることはできない。思い込みを捨て、系統立ててすべてを確認

することが肝心だ。というわけでミカエルは土曜日の朝、ノートパソコンとメモ帳に向かい、知って

いるネタをひとつひとつ反は

芻すう

した。

 午後五時までその作業に集中した。一見面白そうなネタもいくつかあったものの、十年前ならいざ

知らず、いまはさほど強く興味を引かれないものばかりだった。ままあることだとわかっている。何

十年もこの仕事をしていると、たいていのことが月並みに感じられてしまう。これはいいネタだと頭

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では理解していても、その気になれない。結局、氷ひ

雨さめ

が土砂降りになって屋根をたたきはじめたころ、

ミカエルは作業をやめてエリザベス・ジョージの本に手を伸ばした。

 これはただの現実逃避じゃない、と自分に言い聞かせた。休んでいるときに最高のアイデアが浮か

ぶこともあるのは、これまでの経験でわかっている。何かまったく別のことをしているときに、いき

なりパズルのピースがぴたりとはまるのだ。が、たまにはこんなふうにベッドに横になって良い小説

を読むのも悪くない、と思う以外に、建設的な考えはひとつも浮かばなかった。結局、あいかわらず

の悪天候とともに月曜日の朝がやってきたとき、ミカエルはエリザベス・ジョージの推理小説を一冊

半と、ナイトテーブルの上にずっと置きっぱなしになっていた古い『ニューヨーカー』誌を三冊読み

終えていた。

 そしていま、彼はカプチーノを手に居間のソファーに座り、外の嵐を眺めている。疲れはて、エネ

ルギーが尽きたような気分だったが、急にまたエネルギッシュになろうと決めたかのようにそっと立

ち上がり、ブーツと冬用のコートを身につけて外に出た。極めつけに不愉快な天気だった。

 冷たい雨のまじった突風が骨の髄ず

まで浸み込んでくる。足早にホルン通りへ向かうと、そこはいつ

になく灰色の世界だった。セーデルマルム地区全体が、まるで色彩を奪われたようだ。枯葉が空中を

舞ってきらりと輝くことすらない。頭こ

うべを

垂れ、腕を組んで、スルッセン方面をめざしてマリア・マグ

ダレーナ教会の前を通り過ぎ、それから右に曲がってヨート通りの坂道を進み、いつものとおり衣料

品店〈モンキ〉とパブ〈インディゴ〉のあいだを入る。そして建物の五階、グリーンピース事務局の

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上にある編集部へと上がっていった。階段の途中ですでにざわめきが聞こえてきた。

 中にはいつもよりずっとおおぜいの人間がいた。編集部全員に加え、重要なフリーランサーたち、

セルネル社からの三名とコンサルタント二名に、オーヴェ・レヴィーン。本日の主役であるはずのオ

ーヴェは、ややカジュアルな服装をしていた。もはやエグゼクティブのようには見えず、〝やあや

あ〟などという庶民的な挨あ

拶さつ

まで身につけたらしかった。

「やあやあ、ミッケ、調子はどうだい?」

「それはきみしだいだな」とミカエルは答えた。けっして嫌味のつもりではなかった。

 が、相手はこれを宣戦布告と受け取ったようだ。ミカエルは厳しい顔つきで軽く頭を下げると、オ

ーヴェの前を去り、まるで小さな聴衆席のごとく編集部に並べられた椅子のひとつに腰を下ろした。

 オーヴェ・レヴィーンは咳払いをし、緊張のまなざしでミカエル・ブルムクヴィストのほうを見た。

あの花形記者、先ほどは喧け

嘩か

腰だったが、いまは礼儀正しくこちらにも興味を示している。喧嘩や議

論をふっかけてきそうには見えない。それでもオーヴェは落ち着かなかった。ブルムクヴィストとは

かつて、『エクスプレッセン』紙で臨時雇いの記者としていっしょに働いたことがある。あのころ書

いていたのは、簡単な速報記事や、どうでもいい三流記事がほとんどだった。仕事が終わると飲みに

行き、大がかりなルポルタージュや大きなスクープをものにする夢を語り合った。型にはまった当た

り障りのない記事で満足するつもりはない、必ずもっと深いところまで掘り下げる、という話を何時

間も続けた。あのころはふたりとも若く、野心的で、何もかも一気に手に入れたくてしかたがなかっ

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た。ときおりあの時代が懐かしくなる。もちろん、あのころの給料や勤務時間に戻りたいわけではな

い。飲んではめをはずしたり女の子と遊んだりしたいとも、最近はあまり思わなくなった。だが、あ

のころ抱いていた夢、そこに秘められた力を、ときおり懐かしく思い出すのだ。社会を、ジャーナリ

ズムを変えたい、世界が動きを止め、権力がひれ伏すような記事を書きたい、そんな強烈な意志が失

われてしまったことが、ときおり寂しくてたまらない。もちろん、しかたのないことだとわかってい

る。彼のようなやり手であっても、ときどきこう思うのは避けられないことだ──あのころの夢は、

いったいどうなったのだろう?

 夢はどこへ行ってしまった?

 ミッケ・ブルムクヴィストはどの夢も捨てていなかった。現代の大スクープのいくつかは彼の手に

よるものだし、かつてふたりが夢見たエネルギーと情熱をもって記事を書いている。権威からの圧力

に屈したり、理想を曲げて妥協したりしない。翻

ひるがえ

って、自分はどうだ……いや、何はともあれ、立

派なキャリアを築いたのは自分のほうだ。そうだろう?

 いまやブルムクヴィストの十倍は稼か

いでい

るはずだ。そう考えるとぐっと気分が晴れた。スクープをいくつものにしたところで、それが何だっ

ていうんだ。ミッケはサンドハムンのちっぽけな小屋以外、豪華な別荘のひとつも買えていない。お

れがカンヌに新しく建てた家にくらべたら、あばら屋も同然だ!

 そうとも、正しい道を選んだのは

おれのほうだ。

 オーヴェは新聞記者としてあくせく働く代わりに、セルネル社でメディアアナリストとして働きは

じめた。そこでほかならぬホーコン・セルネルと個人的につながりができ、生活が一変し、金持ちに

なった。いまやいくつもの新聞社やテレビ局の出版・放送事業を束ねる最高責任者で、その地位には

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大いに満足している。権力を、金を、それらに付随する諸も

々もろ

を愛している。それでも……自分は器の

大きな人間だから認めてやるが、別の人生を夢見ることもないではない。ほんの少しではあるが、そ

れも事実だ。ブルムクヴィストと同じように、立派なマスコミ人として認められたかった。グループ

が『ミレニアム』の株を買う話を強く推し進めたのも、それが理由だったと言っていい。その前にオ

ーヴェは、『ミレニアム』が経済面で苦境に陥っているという話を小耳にはさんでいた。彼がひそか

にいい女だと思っている『ミレニアム』の編集長エリカ・ベルジェは、最近採用したふたり、ソフィ

ー・メルケルとエーミル・グランデーンを雇いつづけたがっているが、新たな出資を受けないかぎり

それも難しい、という話だった。

 要するにオーヴェは、スウェーデンのメディア界で有数の高評価を誇る出版物を金で買い取る、思

いがけないチャンスを手にしたのだ。だが、セルネルの経営陣が乗り気だったとは言いがたかった。

むしろ逆で、『ミレニアム』は時代遅れだとか左翼だとか、大事な広告主や提携先とぶつかるおそれ

があるとか、いろいろと文句を言っていた。オーヴェがあれほど熱心に説得しなければ、計画は間違

いなく頓と

挫ざ

していただろう。とにかく彼は持論を曲げなかった。『ミレニアム』への投資は、全体か

ら見たらわずかな金額です。些さ

細さい

な出資で、膨大な利益を生み出すことはないかもしれません。です

が、もっと有意義なものを生み出してくれる可能性があります。すなわち、信用です。異論はあるか

もしれませんが、いまのセルネルはリストラの嵐や首切りの血にまみれ、信用こそわが社の最大の資

産であるとは言いがたい状況です。『ミレニアム』に投資すれば、セルネル・グループがとにもかく

にもジャーナリズムや言論の自由を尊重しているというしるしになります。オーヴェはそう熱弁をふ

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るった。セルネルの経営陣は、言論の自由にも『ミレニアム』風の調査報道にもさほど好意的ではな

かったが、会社の信用が増すのであれば損にはならないだろうと考えた。こうして全員が納得し、オ

ーヴェは株式購入を承諾させることができた。それから長いこと、この投資は全当事者にとって大成

功であったかに見えた。

 セルネルの評判は上がり、『ミレニアム』は社員数を維持し、その得意分野──テーマを深く掘り

下げてうまく記事にまとめるという仕事に専念することができた。オーヴェ自身も悦に入り、出版人

協会で行なわれた討論会にまで参加し、精一杯の謙遜をこめてこう発言した。

「企業は善をなすことができる、というのが私の信念です。私はつねに調査報道のため闘ってきまし

た」

 だが、その後のことは……正直、あまり考えたくない。ブルムクヴィストへのバッシングが始まっ

たのだ。はじめのうちは、とくに気にも留めなかった。ミカエルがジャーナリズム界のスターとして

のし上がって以来、彼がマスコミに嘲ち

ようしよう笑

されるたび、ひそかに喜ばずにはいられなかった。だが、

そんな満ち足りた気分は長く続かなかった。セルネルのオーナーの御お

曹ぞう

司し

トルヴァルがソーシャルメ

ディア上での騒ぎを目にして、それを問題視しはじめたのだ。もちろん、気にかけていたから、では

ない。トルヴァルはジャーナリストたちの意見になど興味はなかった。だが、権力は好きだった。

 陰謀を企てるのがことのほか好きなトルヴァルは、これを点数稼ぎの好機と見たのだろう。あるい

はただ単に、旧世代の経営陣に文句を言ういい機会だと思ったのかもしれない。つい最近まで、こん

な些さ

事じ

に時間を割さ

く余裕はない、という態度を通していたセルネルのCEOスティーグ・シュミット

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をあっという間に味方につけ、『ミレニアム』を特別扱いすることはできない、グループのほかの商

品と同様、新しい時代に適応してもらわなくてはならない、と宣言させた。

 オーヴェはエリカ・ベルジェに、〝友人兼アドバイザー〟としてしか編集作業にはタッチしないと

固く約束していた。そのため、セルネル・グループの方針が変わったことで後ろ手に縛られたも同然

となり、舞台裏で複雑な駆け引きを強いられた。あらゆる手を使って、エリカだけでなく編集部のマ

ーリンとクリステルにも、グループの新たな目標をわかってもらわなければならなかった。もっとも、

その目標というのが具体的に何なのかは明確にされていなかった──混乱状態から急に浮かび上がっ

てきたものというのは往々にしてそうなのだが──ただ、どうにかして『ミレニアム』を若返らせ収

益化する、という趣旨であることは察せられた。

 オーヴェは当然、『ミレニアム』が魂を捨てる必要はない、鼻っ柱の強さもそのままでいいのだ、

と折にふれて強調した。とはいえ実のところ、自分がどういうつもりでそう言っているのかよくわか

っていなかった。わかっていたのは、この雑誌をもっときらびやかにして経営陣を喜ばせなければな

らない、ということだけだった。それから、実業界をターゲットにした長い検証記事を減らすこと。

その類いの記事は広告主を怒らせかねず、セルネルの敵を増やすことにもなるからだ──もちろん、

エリカにはそうは言わなかったが。

 無駄な争いはしたくなかった。だから今日は念のため、いつもよりカジュアルな服装で編集部を訪

れた。本社では定番となっているピカピカのスーツとネクタイ姿で『ミレニアム』のスタッフを挑発

したくはなかった。代わりにジーンズにシンプルな白のシャツ、カシミアですらないダークブルーの

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Vネックセーターを身につけ、ささやかな反抗心の象徴である巻き毛の長髪は、テレビに出てくるタ

フなジャーナリストよろしくポニーテールに束ねた。そして、マネージャー研修で学んだとおりの謙

虚な態度で、こう切りだした。

「やあ、みんな。まったく、ひどい天気だな!

 さて、何度も言っていることだが、もう一度繰り返

させてもらう。われわれセルネル・グループは、きみたちとともに旅ができることを、たいへん誇り

に思っている。ぼく個人にとっては誇りなんてもんじゃない。『ミレニアム』のような雑誌にかかわ

ることで、ぼくの仕事は有意義なものになる。なぜこの仕事をしようと思ったか、原点を思い起こさ

せてくれるんだ。覚えてるか、ミッケ、オペラ座のバーで、いっしょにどんなことができるか夢を語

り合っただろう。まったく、しこたま飲んで酔っ払ったよな、ハハハ!」

 ミカエル・ブルムクヴィストが覚えているようには見えなかったが、オーヴェ・レヴィーンはくじ

けなかった。

「いやいや、ノスタルジーに浸るつもりはないよ。実際、浸ってもしかたがないんだ。あのころ、マ

スコミ業界にはうなるほど金があった。クローケモーラ(

ストックホルムから南

へ約三百キロ離れた町)でちょっとした殺人事件

があったら、ヘリコプターをチャーターし、いちばん贅ぜい

沢たく

なホテルをワンフロア占拠して、打ち上げ

にはシャンパンを飲んでた。初めて外国出張に行くことになったとき、特派員をしていたウルフ・ニ

ルソンに、ドイツマルクはいくらですかって尋ねた。すると〝知らないね〟という答えが返ってきた。

〝通貨レートは自分で設定してる〟って。ハハハ!

 あのころは出張の経費をずいぶん水増し請求し

たもんだ。覚えてるか、ミッケ?

 ひょっとすると、みんなあのころがいちばんクリエイティブだっ

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たのかもしれないな。それなりの記事さえ書いてれば、新聞も雑誌もバンバン売れた時代だ。でも、

みんなも知ってのとおり、事情は一変した。競争が極端に激しくなって、ジャーナリズムで金を稼ぐ

のは楽じゃなくなった。きみたちのような、スウェーデン随一の編集部をもってしても、だ。だから

今日は、今後の試練について少し話をしようと思う。きみたちに説教を垂れようなんてこれっぽっち

も考えちゃいない。ただ議論のたたき台になるものを提示したいだけだ。われわれセルネル・グルー

プは、『ミレニアム』の読者層について、一般市民の『ミレニアム』観について、一連の調査をさせ

てもらった。その結果は、きみたちを少し驚かせ、怖がらせるかもしれない。が、落ち込む代わりに、

これをチャレンジととらえてほしい。外の世界ではハンパない変化が起きているんだ、それを忘れな

いでくれ」

 ここでオーヴェは間をおき、〝ハンパない〟という言葉を使ったのはまずかっただろうか、と考え

た。リラックスした若々しいところを見せたかったのだが、ちょっと度が過ぎたかもしれない。そも

そもこの前置き自体、ややくだけすぎ、冗談がすぎたのではないか。〝薄給のモラリストがユーモア

を解してくれるなどとは期待しないほうがいい〟とホーコン・セルネルはよく言っていた。いや、大

丈夫だ。おれならできる。

 こいつらを味方につけるぞ!

 自分の〝デジタル世界での成熟度〟がどれくらいか、みんなよく考えるべきだ、とオーヴェが講釈

を垂れたあたりから、ミカエル・ブルムクヴィストは耳を傾けるのをやめた。したがって、若い世代

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は『ミレニアム』もミカエル・ブルムクヴィストも知らない、との結果報告も聞いていなかった。と

ころが、間の悪いことに、もうたくさんだと思って休憩室に向かったのがちょうどそのときだった。

だから、ノルウェー人のコンサルタント、アーロン・ウルマンがおおっぴらにこう言ったことも、彼

には知る由よ

もなかった。

「哀れですねえ。忘れ去られるのがそんなに怖いんですかね」

 だが実際、ミカエルは忘れ去られることなど微み

塵じん

も恐れていなかった。市場調査で『ミレニアム』

を救えるとオーヴェが思っていることに腹が立ったのだ。この雑誌を生み出したのは、いまいましい

市場分析なんかじゃない。情熱だ。熱い思いだ。世間の風向きなど気にせず、自分たちが正しいと思

うこと、重要だと思うことに心血を注いできたからこそ、『ミレニアム』はいまの地位を確立できた

のだ。ミカエルは長いこと休憩室にたたずみ、エリカはいつになったら出てくるのだろう、と考えて

いた。

 答えは、約二分後、だった。ミカエルはエリカのヒールが立てる音で、どのくらい彼女が怒ってい

るのかを計ろうとした。だが、目の前に現われた彼女は、あきらめたように微笑みかけてきただけだ

った。

「どうしたの?」

「聞いていられなかっただけだ」

「あなたがそういう態度をとると、みんなものすごく気まずくなるのよ。わかってるでしょう?」

「わかってる」

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「私たちの許可がなければ、セルネルは何もできないってことも、わかってるわよね。決める権限は

まだこっちにあるのよ」

「権限なんかまったくないよ。ぼくたちはやつらの人質だぞ、リッキー!

 わからないのか?

 やつ

らの言うとおりにしなかったら、資金援助は取り下げられて、ぼくたちはにっちもさっちもいかなく

なる」ミカエルはやや声を荒らげてそう言った。エリカがシッと言ってかぶりを振ったので、声を落

として付け加えた。

「ごめん。子どもっぽい態度だとはわかってる。でも、ぼくはもう帰るよ。じっくり考えたい」

「あなたの勤務時間、ずいぶん短くなってきたわよね」

「これまでの残業で埋め合わせられると思うけど」

「まあね。今晩、話し相手が欲しい?」

「わからない。本当にわからないんだ、エリカ」とミカエルは答え、編集部を去ってヨート通りに出

た。

 暴風雨が吹きつけてくる。ミカエルは寒さに悪態をつき、ペーパーバック書店〈ポケットショッ

プ〉に飛び込んで、現実逃避のためにまたイギリスの推理小説を買おうか、と一瞬考えた。結局そう

はせず、代わりにサンクトポール通りに出た。右手の寿司レストランにさしかかったところで、携帯

電話が鳴った。エリカだとばかり思っていたが、娘のペニラからだった。自分は父親らしいことをあ

まりしていないとふだんから感じ、やましさを抱えている父親に電話してくるのに、これ以上悪いタ

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イミングはまずないだろう。

「やあ、ペニラ」

「なんか変な音しない?」

「嵐の音だろ」

「そう、じゃあ手短に済ませる。ビスコプス・アルネー国民大学の作家養成コースから入学許可をも

らったの」

「へえ、今度は作家をめざすのか」そう言ったミカエルの声はあまりにもつっけんどんで、嫌味に聞

こえなくもなかった。もちろん、どう考えても八つ当たりでしかないのだが。

 おめでとう、頑張れよ、とだけ言えばよかった。でも、ペニラはここ数年ずっと迷走を続けていて、

あちこちの怪しげなキリスト教の団体を渡り歩いたり、勉強を始めても中途半端なまま投げ出したり

していたので、また新しい進路を選んだと宣言されてもうんざりするばかりだったのだ。

「全然喜んでくれないのね」

「悪い、ペニラ。今日は調子が出ないんだ」

「いつなら調子が出るわけ?」

「ペニラにぴったりの進路が見つかることを、パパは心から願ってる。それだけだよ。出版業界の現

状を考えると、作家をめざすのがいいことなのかどうかは確信が持てないが」

「パパみたいにつまらない記事を書くつもりはないの」

「じゃあ、何をするんだ?」

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「本当の意味で〝書く〟のよ」

「そうか」とミカエルは応じたが、どういう意味かとは尋ねなかった。「お金は足りてる?」

「〈ウェインズ・コーヒー〉でバイトしてるから大丈夫」

「話がしたいなら、今晩、うちに来て食事するか?」

「そんな時間ないわ、パパ。報告しておきたかっただけ」ペニラはそう言って電話を切った。ミカエ

ルは、あの子の意気込みは買えると考えようとしたが、いっこうに気分が良くならないまま、急ぎ足

でマリアトリエット広場を横切ってホルン通りを渡り、ベルマン通りの建物の最上階にある自分のア

パートへ向かった。

 ついさっきこの部屋を出てきたような気がする。すでに仕事を失い、人生が新たな段階に入り、あ

くせく働く代わりに大量の時間を与えられたような、そんな奇妙な感覚にとらわれた。ふと、少し片

づけをしようか、と考えた。新聞、雑誌、本、服が、あらゆるところに散らばっている。だが、片づ

けはせず、代わりに冷蔵庫からピルスナー・ウルケルを二本出して居間のソファーに座り、あらゆる

ことをもっとまじめに考えようとした。少なくとも、少々ビールが入った状態で可能なかぎり、まじ

めに人生を眺めてみること。自分はこれからどうすればいい?

 さっぱりわからなかった。何よりも気がかりなのは、闘う意欲がまったくない、ということかもし

れない。妙なあきらめの念にとらわれている。まるで『ミレニアム』が興味の対象から徐々にはずれ

つつあるような。そして、ミカエルはふたたび自問した──何か新しいことを始める時期が来たんじ

ゃないか?

 もちろん、それはエリカたちへの大きな裏切りになる。だが、自分は本当に、広告収入

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や定期購読者数に左右される雑誌の経営者としてふさわしい人物なのだろうか。もっと別の職場のほ

うが自分に合っているのではないか?

 どこかはわからないが。

 大手新聞社でさえ存続が危ぶまれるこのご時世、調査報道に金も人手もかけられるところといった

ら公共放送しか残っていない。公営ラジオのニュース番組『エコー』の調査報道グループとか、スウ

ェーデン公営テレビとか……悪くないんじゃないか?

 ミカエルはカイサ・オーケシュを思い浮かべ

た。なかなか魅力的な女性で、ちょくちょく飲みに行く仲だ。カイサはスウェーデン公営テレビのド

キュメンタリー番組『徹底検証』の統括責任者で、「うちで仕事をしない?」と毎年のように声をか

けてくる。だが、ついぞ実現はしなかった。

 いくら彼女が好条件を出そうと、後ろ盾になるから納得のいくようにやっていいと約束しようと、

何の効果もなかった。ミカエルにとって『ミレニアム』は帰るべき家、自分の心そのものだったのだ。

でもいまなら……あの話に乗るべきなのかもしれない。あれほどのバッシングのあとで、まだ向こう

がその気ならの話だが。この仕事に就いていろいろな経験を積んだが、討論番組に参加したり朝のト

ークショーに呼ばれたりしたことが何度かある以外は、テレビ業界で働いたことはない。『徹底検

証』での仕事が新たな情熱を呼び覚ましてくれる可能性もある。

 携帯電話が鳴り、ミカエルの機嫌は上向いた。エリカであれペニラであれ、やさしく接してきちん

と話を聞こう、と思った。だが、違った。発信者の番号が非通知になっている。彼は警戒しながら応

答した。

「ミカエル・ブルムクヴィストさんですか」若そうな声だ。

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「そうだが」

「いま、時間あります?」

「あるかもしれない。きみがちゃんと名乗ってくれるのなら」

「リーヌス・ブランデルといいます」

「なるほど、リーヌス。用件は?」

「記事にできそうなことです」

「聞かせてもらおうじゃないか!」

「斜は

向かいのパブ〈ビショップス・アームズ〉まで出てきてください。そこでお話しします」

 ミカエルは苛立った。命令口調が頭にきただけではない。自分の住んでいる界か

隈わい

に、電話相手が招

かれてもいないのに踏み込んできたことが不愉快だった。

「電話で充分だと思うが」

「オープンな回線で話せることじゃないんです」

「リーヌス、きみと話してるといらいらするのはどういうわけだろうね?」

「朝から何ひとつうまくいってないとか?」

「うまくいってない。そりゃ当たってるな」

「やっぱり。いいから、さっさと〈ビショップス・アームズ〉に出てきてください。ビールをおごり

ますよ。で、びっくりするような話をお聞かせします」

 本当は、こう吐き捨ててやりたかった──ぼくに指図をするな!

 だが、自分でもわけがわからな

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いまま、こう答えた。ソファーに座って将来についてあれこれ悩む以外に、ろくな予定が何ひとつな

かったからかもしれない。

「自分のビール代くらい自分で払う。わかった。いまから行く」

「賢明な判断です」

「だがな、リーヌス」

「はい?」

「プレスリーはまだ生きてるとか、オーロフ・パルメを射殺した犯人を知ってるとか、そういう突と

拍ぴよ

子うし

もない陰謀説を延えん

々えん

と語るばかりで、単刀直入に用件を話さないようだったら、さっさと帰らせて

もらうからな」

「それで結構です」とリーヌス・ブランデルは言った。

第三章

 十一月二十日

 ハンナ・バルデルはトール通りのアパートのキッチンに立ち、フィルターなしのキャメルを吸って

いた。青いガウンをまとい、古くなった灰色のスリッパをはいている。髪は豊かでつやがあり、まだ

充分美人と言える部類だが、それでも彼女はやつれて見えた。唇

くちびる

が腫は

れている。目のまわりに濃い

メイクをしているのは、おしゃれのためだけではない。また殴られたからだ。

 ハンナ・バルデルはしょっちゅう殴られていた。もう慣れたと言えば、もちろん嘘になる。この種

の暴力に慣れる人間などいない。が、それはもはや彼女の日常になっていた。陽気だった昔の自分は、

もうほとんど思い出せない。恐怖がすっかり人格の一部になってしまった。ここしばらくは一日に六

十本煙た

ばこ草

を吸い、精神安定剤をのんでいる。

 居間の奥のほうで、ラッセ・ヴェストマンがひとり悪態をついていた。ハンナは驚かなかった。彼

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第三章

 十一月二十日

 ハンナ・バルデルはトール通りのアパートのキッチンに立ち、フィルターなしのキャメルを吸って

いた。青いガウンをまとい、古くなった灰色のスリッパをはいている。髪は豊かでつやがあり、まだ

充分美人と言える部類だが、それでも彼女はやつれて見えた。唇

くちびる

が腫は

れている。目のまわりに濃い

メイクをしているのは、おしゃれのためだけではない。また殴られたからだ。

 ハンナ・バルデルはしょっちゅう殴られていた。もう慣れたと言えば、もちろん嘘になる。この種

の暴力に慣れる人間などいない。が、それはもはや彼女の日常になっていた。陽気だった昔の自分は、

もうほとんど思い出せない。恐怖がすっかり人格の一部になってしまった。ここしばらくは一日に六

十本煙た

ばこ草

を吸い、精神安定剤をのんでいる。

 居間の奥のほうで、ラッセ・ヴェストマンがひとり悪態をついていた。ハンナは驚かなかった。彼

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がフランスに気前よく接したのを後悔していることは、ずっと前からわかっている。実のところ、最

初から不思議でならなかった。ラッセはフランスがアウグストのために送ってくる金に頼りきってい

たからだ。長いことその金で暮らしてきたようなもので、ハンナは何度も、教育専門家の指導や特別

トレーニングのために急にお金が必要になった、と嘘のメールを書かされてきた。もちろん、そんな

指導やトレーニングが行なわれたためしはない。だからこそ奇妙に思ったのだ。

 なぜ、ラッセはそうしたすべてを捨てて、フランスに息子を連れていかせたのだろう?

 とはいえ、心のどこかで答えはわかっているような気もする。酒が入っていたせいで気が大きくな

っていたのだろう。民放TV4の新しい刑事ドラマに出演する話が舞い込んできたから、気をよくし

ていたこともあるだろう。が、一番の原因はアウグスト自身だ。あのガキは気味が悪くてぞっとする、

とラッセは言っていた。それが、ハンナには何より理解できなかった。いったいどうしたらアウグス

トを嫌いになれるのだろう?

 あの子はただ床に座ってパズルを組み立てているだけで、誰の邪魔もしない。それでもラッセはあ

の子が我慢ならないようだった。たぶん、あのまなざしのせいだろう。外側ではなく内側を見ている

ような、あの不思議なまなざし。たいていの人は微笑んで、この子はきっと内面がとても豊かなんだ

ね、と言う。だがどういうわけか、ラッセの気には障るらしい。

「ちくしょう、ハンナ!

 こいつ、おれのことを見透かしてやがる」などと大声を上げたりする。

「この子は何もわからないって、あなた、自分でいつも言ってるじゃないの」

「何もわかってないんだろうが、とにかく薄気味悪いんだ。おれに嫌がらせしようとしてるとしか思

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えない」

 あまりに馬鹿げていて話にならなかった。アウグストはラッセを見てもいないのだ。そもそも他人

を見つめるということをしない。人を不快にしたいと思っているわけではない。外の世界はアウグス

トにとって邪魔でしかなく、殻の中に閉じこもっているときがいちばん幸せなのだ。それなのにラッ

セは、酩酊状態のときに、あのガキはおれに復讐しようとしている、とまで言っていた。だからアウ

グストも金も手放すことにしたのだろう。なんて情けないの。少なくともハンナはそう思っていた。

だがいま、こうして流し台のそばに立ち、煙草の葉が舌につくほどの勢いでそわそわと煙草を吸って

いると、ラッセの言っていたこともあながち間違いではないのかもしれないという気になってきた。

アウグストは本当に、ラッセに仕返しをしたがっていたのかもしれない。殴られたぶんだけ、本気で

罰してやりたいと思っていたのかもしれない。もしかすると……ハンナは目を閉じ、唇

くちびる

を噛か

んだ…

…あの子は私のことも嫌っていたのかもしれない。

 夜が来ると耐えがたいほどの喪失感に襲われ、そんな自分を卑下する思いにとらわれた。自分もラ

ッセも、アウグストにとっては害悪でしかなかったのではないか。私、本当にひどい人間だわ、とつ

ぶやく。そのとき、ラッセの怒鳴り声がした。よく聞こえなかった。

「何て言ったの?」

「親権の判決書はどこだって訊いてるんだ」

「どうして判決書なんか」

「あいつにアウグストの面倒をみる権利はないって証明してやる」

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「この前はあの子がいなくなって喜んでたくせに」

「酒が入ってて頭がまわらなかっただけだ」

「で、いま急にお酒が抜けて賢くなったっていうの?」

「ああそうだ、すげえ賢くなったぜ」ラッセは噛みつくように言い、怒りをあらわにしてずかずかと

彼女に近づいてきた。ハンナはまた目を閉じた。もう何度も、どうしてこんなことになってしまった

のだろう、と自問を繰り返していた。

 フランス・バルデルはもはや、元妻のもとに現われたときのようなきちんとした役人風ではなかっ

た。髪の毛はぼさぼさで、鼻の下が汗で光り、三日もひげを剃そ

っておらずシャワーも浴びていない。

父親業に専念するのだと固く決意し、ホルン通りでは強烈な希望と感動を味わったにもかかわらず、

いまの彼はまたもや、怒っているようにも見える表情で集中しきっていた。

 おまけに歯ぎしりまでしていた。もう何時間も前から、外の嵐だけでなく世界そのものが、彼にと

っては存在しないも同然だった。だから自分の足元で起こっていることにも気づかなかった。両足の

あいだで、何かがもぞもぞと小さく動いている。猫か何かの小動物が入りこんできたような感じだ。

しばらくしてようやく、アウグストがデスクの下にもぐりこんだのだと気づいた。フランスは寝ぼけ

たような目でアウグストを見た。画面を流れていくプログラミングコードが、いまだに膜となって目

を覆お

っているかのようだった。

「どうした?」

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 アウグストは何かを訴えかけるような澄んだまなざしで見上げてきた。

「どうした?」フランスは繰り返した。「なんだ?」そのとき、それは起こった。

 アウグストは床に落ちていた、量子アルゴリズムで埋め尽くされた紙を手に取ると、その上で片手

をせわしなく行き来させた。フランスはとっさに、また発作か、と思った。いや、違う。激しい動き

だが、何かを書く真似をしているのだ。フランスははっと身をこわばらせた。忘却の彼方にあった重

要なことを、また思い出したのだ。ホルン通りの交差点に立っていたときと同じだった。違いは、今

回はそれが何だか理解できた、ということだ。

 人生そのものより数字や方程式のほうが大事だった、自分の子ども時代を思い出したのだ。だから

いま、彼は顔を輝かせ、こう叫んだ。

「計算がしたいんだな。違うか?

 そうだろう?」そして次の瞬間には駆けだし、ペンを数本とA4

の罫線紙を取ってきて、アウグストの前の床に置いた。

 それから、頭に浮かんだ中でいちばん単純な数列を書きつけた。フィボナッチ数列。どの数も、そ

の直前のふたつの数の和になっている。1、1、2、3、5、8、13、21。そこまで書いて、次の数

──34が入る場所を空けておいた。が、これではきっと単純すぎる、と思い、等比数列も書いた。2、

6、18、54……どの数も直前の数に3をかけたものだから、書かれていない次の数は162ということに

なる。この程度の問題なら、才能のある子どもはさしたる予備知識がなくても解けるだろう、とフラ

ンスは考えた。言い換えれば、何が数学的に〝簡単〟かという点について、フランスはかなり特殊な

考えを持っていた。息子は知的障害があるのではなく、自分を凝縮したコピーのようなものなのでは

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ないか、そんな夢のような想像がたちまちふくらんだ。フランス自身、言語能力の発達も人とのやり

とりの上達も遅かったが、数学的なつながりなら、初めて言葉を発するずっと前から理解していたの

だ。

 フランスは長いことアウグストのそばに座り、ひたすら待った。が、もちろん、何も起こらなかっ

た。アウグストは、まるで答えが紙の中からひとりでに浮き上がってくると期待しているかのように、

生気のないまなざしで数字を見つめるばかりだった。結局、フランスは息子をひとり残して二階に上

がり、炭酸水を飲むと、紙とペンを持って食卓に向かい、仕事の続きにとりかかった。集中力はすっ

かり消えていた。そこで、『ニュー・サイエンティスト』誌の最新号をぼんやりとめくった。

 そのまま三十分ほどが経過した。彼は腰を上げ、階段を下りてアウグストのもとに戻った。一見、

何も変わっていないように見えた。アウグストは、フランスが部屋を出たときから微動だにせず、じ

っとしゃがみこんだままだった。そのとき、何かが見えた。フランスは好奇心を少しだけかきたてら

れた。

 ところが、次の瞬間、自分がどうしても説明のつかない現象に直面しているような気がした。

〈ビショップス・アームズ〉にはあまり客がいなかった。まだ正午をまわったばかりだし、行き先が

近所のパブであろうと出かけたくなる天気でもない。それでもミカエルは呼び声と笑い声に迎えられ

た。しわがれ声で叫ばれた。

「名探偵カッレくん!」

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 赤ら顔の男だ。縮れた髪は大きくふくらみ、口髭は小さく渦を巻いている。この界かい

隈わい

で何度も見か

けたことのある男で、名前はたしかアーネ、いつも午後二時きっかりにこのパブに来るはずだが、今

日は早く着いたようだ。バーカウンターの左のテーブルに、飲み仲間三人とともに陣取っている。

「ぼくの名前はミカエルだよ」とミカエルは笑いながら訂正した。

 アーネという名であろう男とその仲間は笑い声を上げた。まるで、ミカエルの本名ほどおかしな名

前を耳にしたのは初めてだ、とでもいうように。

「何か特ダネは?」アーネが尋ねる。

「〈ビショップス・アームズ〉の暗部を暴いてやろうかと」

「そんなネタ、時代を先取りしすぎだろ?」

「ああ、そうかもしれないな」

 ミカエルは正直、この連中を気に入っている。酔っていっしょに歓声を上げたり、こんなふうに無

駄口をたたいたりするだけで、まともに話をしたことがあるわけではない。それでもこの連中はミカ

エルの日常の一部で、この界隈で暮らすのが好きな理由のひとつでもあった。だから、ひとりが不用

意にこう言っても、まったく頭にこなかった。

「あんたの時代はもう終わったって聞いたぜ」

 むしろ逆だ。この発言のおかげで、一連のバッシングが、そのあるべき場所へ──低俗な、コミカ

ルと言っていいレベルへ落とされたように感じた。

「十五年ほど落ちぶれ三ざ

昧まい

、やあやあ相棒、いとしの酒瓶、麗しきはみな移りゆくもの」返事代わり

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にフレーディング(

グスタフ・フレーディング。一八六〇年〜一九一

一年。スウェーデンの作家、ジャーナリスト、詩人)の詩を引用して返事をした。ミカエルは

パブをぐるりと見渡して、疲れたジャーナリストをパブに呼びつけるほど横お

柄へい

そうな人物を探した。

だが、客はアーネたちしか見当たらない。ミカエルはバーカウンターにいるアミールに近づいた。

 アミールは大柄で太った陽気な男だ。働き者で、四児の父親でもあり、数年前からこのパブを経営

している。ミカエルとは親しい友人と言っていい仲だ。ミカエルが常連客だからというわけではなく

──そもそも常連客と言えるほど通いつめていない──パブとはまったく関係のないところで助け合

ってきた。たとえば、女性が家に来るのに酒屋へ行く時間がなくてミカエルが困っていると、アミー

ルが赤ワインを数本提供してくれたことが何度かあった。不法滞在中のアミールの友人のため、ミカ

エルが関係官庁に嘆願書を書いて手助けしたこともある。

「今日はまたどうして?」アミールが訊いた。

「人に会うことになってる」

「面白い人?」

「たぶん違う。サラの具合は?」

 サラはアミールの妻で、股関節の手術を終えたばかりだ。

「ひどく痛がって鎮痛薬をのんでる」

「大変そうだな。よろしく伝えてくれ」

「伝えるよ」とアミールは言い、ふたりはあれこれと世間話を続けた。

 いっこうにリーヌス・ブランデルらしき人物は現われず、ミカエルは、ひょっとしてたちの悪いい

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たずらだったのだろうか、と考えはじめた。とはいえ、近所のパブに呼び出されるだけですむならま

しなほうだ。ミカエルはそのまま十五分ほどアミールと金まわりや健康についての心配事を話し合っ

ていたが、やがて向きを変えて帰ろうとした。若い男が店に入ってきたのはそのときだった。

 アウグストが数列の続きを正しく書き込んでいたわけではない。そうされていたとしても、フラン

ス・バルデルのような人間はそれだけでは驚かない。そうではなく、数字の隣にあったものがフラン

スの目を引いたのだ。一見したところ、写真か油絵に見えたが、実際は線描画だった。そこには、先

日の夜に通りかかったホルン通りの信号機が正確に再現されていた。数学的と言ってもいい鋭さで、

細部まで忠実に描かれている。それだけではなかった。

 本当に光っているように見えるのだ。アウグストは三次元の空間を写し取る技法についても、画家

が光と影をどう扱うかについてもいっさい習ったことがないというのに、そうした技術を完璧にマス

ターしているようだった。赤信号がこちらに向かって明るく光り、まわりには秋のホルン通りの暗闇

が立ちこめ、その暗闇もまた輝いているように見える。通りの真ん中に、フランスもどことなく見覚

えがあると感じた、あの男の姿があった。その顔は眉の上で切れている。怖がっているような、少な

くとも動揺しているような表情だ。アウグストを見てうろたえているようにも見える。歩き方も不安

定だ──アウグストがどうしてそこまで描き出せたのか想像もつかないが。

「なんてこった」とフランスは言った。「これ、おまえが描いたのか?」

 アウグストは首を縦にも横にも振らず、ただ横目で窓のほうを見た。フランス・バルデルは、自分

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の人生がいまこの瞬間に一変した、という奇妙な感覚にとらわれた。

 どんな人物が来ると思っていたのか、ミカエルは自分でもよくわかっていなかったが、たぶんスト

ゥーレプラン広場界隈によくいる、鼻持ちならないヤッピー風の若者を想像していたのだと思う。実

際に現われた男は、もっと野暮ったい印象だった。背は低く、穴のあいたジーンズをはき、褐色の長

髪は長いあいだ洗っていないように見える。そして、どことなく眠そうな、とらえがたいまなざしを

している。せいぜい二十五歳といったところだが、肌の状態は悪く、前髪で目は隠れ、唇がひどく荒

れていた。リーヌス・ブランデルはとてもではないが、大スクープとなる情報を握っている男には見

えなかった。

「リーヌス・ブランデル君だね?」

「そうです。遅れてすみません。途中で知り合いの女の子にばったり会っちゃって。九年生のときに

同じクラスだったんです……」

「それより用件をさっさと片づけようか」ミカエルはリーヌスの言葉をさえぎり、店の奥のテーブル

に向かった。

 控えめな笑顔で近寄ってきたアミールにギネスを二杯注文したあと、ふたりは数分ほど無言で座っ

ていた。なぜこんなにいらいらするのだろう、とミカエルは思った。どうも自分らしくない。やはり

セルネル社の件がストレスになっているのかもしれない。彼は少し離れたところからじっとこちらを

観察しているアーネたちに笑顔を送った。

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「単刀直入に言います」とリーヌスが言う。

「ありがたいね」

「スーパークラフトをご存じですか?」

 ミカエル・ブルムクヴィストはコンピュータゲームには詳しくない。そんな彼でも、スーパークラ

フトという名は耳にしたことがあった。

「名前だけは」

「名前だけですか?」

「ああ」

「じゃあ、スーパークラフトのどこがすごいかはご存じないわけですね。スーパークラフトの何がそ

んなに特別かっていうと、このゲームには人工知能を利用した特殊な機能があって、プレーヤーは戦

略について戦闘員と通信できるんですが、その話してる相手が本物の人間なのか、それともデジタル

の創造物なのか、少なくとも最初のうちははっきりわからないようになってるんです」

「ふうん」とミカエルは言った。ゲームにどんな工夫が凝らされているかなんて、まったくどうでも

よかった。

「この業界ではちょっとした革命でした。実は、ぼくもその開発に参加したんです」とリーヌス・ブ

ランデルは続けた。

「おめでとう。じゃあ、きみは大金を稼か

いだわけだ」

「問題はそこです」

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「どういう意味だ?」

「技術を盗まれたんですよ。それでいま、トゥルーゲームズ社は何十億と稼いでるのに、ぼくたちの

ところにはまったく金が入ってこないんです」

 ミカエルは何度も似たような話を聞いたことがあった。『ハリー・ポッター』シリーズは自分が書

いたもので、J・K・ローリングにテレパシーで盗まれた、と主張する老婦人と話をしたこともある。

「盗まれたって、どうやって?」

「ハッキングされたんです」

「どうしてわかった?」

「FRA(スウェーデン国防電波局)の専門家にも確認された事実です。ご希望なら名前もお教えし

ます。それに……」

 リーヌスはそこではたと黙り込んだ。

「それに?」

「いえ、何でもありません。公安警察も知ってることです。分析官のガブリエラ・グラーネに訊いた

ら、ぼくの言うとおりだって答えてくれるはずですよ。去年発表した公

おおやけ

の報告書でも、この件に触

れてましたし。案件番号をメモしてきたのがここに……」

「じゃあ、べつにニュースでも何でもないわけだ」ミカエルは彼をさえぎった。

「ええ。そういう意味では、おっしゃるとおりです。『ニューテクニーク』誌にも『コンピュータ・

スウェーデン』誌にも記事が載りました。でも、フランスがこの件についていっさい話したがらなく

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て、それどころかハッキング自体なかったって何度か言ってるので、話がそれ以上広がらないんで

す」

「でも、もうニュースとして古いことに変わりはない」

「この話自体は、そうですね」

「じゃあ、リーヌス、どうしてぼくはきみの話を聞かなきゃならない?」

「フランスがサンフランシスコから帰ってきたんですが、どうやら事の真相を理解したようなんです

よ。きっと爆弾のような情報をつかんだんだと思います。まるで取り憑つ

かれたみたいにセキュリティ

ーを気にしてます。電話もメールも徹底的に暗号化して、カメラとかセンサーとかのついた新しい防

犯警報システムも取りつけました。ぼくがあなたに連絡したのは、あなたはフランスに会うべきだと

思ったからです。あなたみたいな人が相手なら、あの人も話をする気になるかもしれない。ぼくの言

うことは聞いてくれないんです」

「つまりきみは、そのフランスとかいうやつが爆弾みたいな情報を抱えてるかもしれないっていうだ

けで、ぼくをここに呼び出したのか?」

「フランスとかいうやつじゃなくて、ほかでもないフランス・バルデルですよ、ブルムクヴィストさ

ん。言いませんでしたっけ?

 ぼくは彼のアシスタントだったんです」

 ミカエルは記憶を探った。バルデルという姓を聞いて思い出すのは、女優のハンナ・バルデルだけ

だ。いまはどうしているのか知らないが。

「誰?」とミカエルは言った。

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 リーヌスがあからさまに軽蔑のまなざしを向けてきたので、ミカエルは面くらった。

「火星にでも住んでるんですか?

 フランス・バルデルは生きる伝説ですよ。ひとつの概念と言って

もいい」

「本当か?」

「本当に決まってるでしょう!」とリーヌスは続けた。「グーグルで名前を調べたらわかりますよ。

弱冠二十七歳でコンピュータサイエンスの教授になって、ここ二十年ずっと人工知能研究の世界的権

威です。量子コンピュータやニューラルネットワークの分野では最先端を行っていると言っていいで

しょう。いつも常軌を逸した、型破りな解決策を見つけてくるんです。すさまじい、とんでもない頭

脳の持ち主です。とにかく考え方が新しくて先駆的なので、想像してもらえればわかると思うんです

が、コンピュータ業界ではみんなもう何年もフランスを自分のところに引っぱり込もうと必死でした。

でも本人はずっと誘いを拒んでいたんです。ひとりで働くほうがいいと言って。ひとりといっても、

アシスタントはいつも何人もいるんですけどね。で、死ぬまでこき使うんです。とにかく結果を出す

ことを求められました。〝不可能はありえない。ぼくたちの仕事は限界を広げることだ〟とか何とか

言うのが口癖でね。でも、みんなあの人の言うことを聞くんです。あの人のためなら何でもしてしま

う。死んでもかまわないとすら思う。ぼくたちみたいなコンピュータオタクにとって、あの人は神も

同然ですから」

「なるほどね」

「でも、ぼくはべつに、フランスのことを手放しで崇あ

めてるわけじゃないんです。全然そうじゃあり

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ません。どんなことにも代償がつきものだって、ぼくはよく理解してます。フランスの下で働けば、

偉大なことをなしとげられる。でも、壊れてしまうこともある。フランス自身、息子さんの親権を失

いましたしね。何か弁解の余地がないミスをしたらしいですよ。そういう話がいくつもあるんです。

アシスタントが壁にぶち当たって人生がめちゃくちゃになって、あとは神のみぞ知る、そういう話が

ね。でも、いくらフランスがいつも何かに取り憑つ

かれたみたいで、傍はた

から見ると救いようがなかった

といっても、こんなふうになるのは初めてのことです。ヒステリックなほどセキュリティーにこだわ

ってて。だから、ぼくはここに来ました。あなたにフランスと話してみてほしいから。あの人は、何

か重大なことを知ったにちがいないと思うんです」

「ちがいないと思う、か」

「言っておきますけど、ふだんのフランスは被害妄想にとらわれるような人間じゃありません。むし

ろ逆で、彼の仕事のレベルを考えると、もう少し危機感を持ったほうがいいんじゃないかと思うほど

でした。でもいまの彼は自宅に閉じこもって、ほとんど外に出ません。おびえてるみたいなんです。

むやみに怖がる人なんかじゃない。無鉄砲で怖いもの知らずな人だったのに」

「で、コンピュータゲームをつくってた、と」ミカエルは猜さ

疑ぎ

心しん

を隠さずに言った。

「それはですね……ぼくたちがみんなゲームマニアだってこと、あの人は知ってましたから。ぼくた

ちを好きな分野で働かせてやろうって思ったんでしょう。でも実際、フランスの人工知能プログラム

はゲーム業界にもぴったりでした。実験にはうってつけで、いろいろと素晴らしい成果が上がりまし

た。ぼくたちは新たな領域を開拓したんです。ただ……」

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「さっさと要点を言ってくれ、リーヌス」

「要点はこうです。フランスと彼の特許弁護士は、彼が開発した技術の中でも革新的なものについて、

特許の出願を行ないました。そこで最初のショックが襲ってきました。その直前にトゥルーゲームズ

社のロシア人エンジニアが出願を行なっていて、フランスの出願は却下されてしまったんです。偶然

ということはありえません。でも実のところ、それ自体はべつにどうでもよかったんです。特許なん

て、ただのこけおどしでしかありませんから。それよりも気になったのは、連中がどうやってぼくた

ちのなしとげたことを嗅か

ぎつけたのか、ってことでした。ぼくたちはみんな、命に代えても、と思う

ぐらいフランスに忠誠を誓っていたから、可能性はひとつしかなかった。安全対策は抜かりないはず

だったけど、それでもやっぱり、ハッキングされたにちがいない、って」

「それで公安やFRAに連絡したのか?」

「最初はしませんでした。フランスはネクタイを締めて九時五時の仕事をしてる人たちが苦手なんで

す。むしろ一晩中何かに取り憑かれたみたいにコンピュータにかじりついてる阿呆どものほうがいい

みたいで、だから以前にどこかで会ったっていう怪しげなハッカーに調査を頼みました。その女がす

ぐに、ハッキングされている、って言ったんです。贔ひ

いき屓

目に見ても信用できる感じじゃなかったんで

すが。ぼくが自分で会社を持ってたら、あんな女を雇おうとは思いませんよ。当てずっぽうに言った

だけだったのかもしれません。ところがそのあと、その女の出した結論がおおむね正しかったってこ

とが、FRAの人たちによって確認されたんです」

「でも、誰がハッキングしたのかはわからなかった?」

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「ええ、もちろん。ハッキングされたルートをたどるのはたいてい無理です。でも、プロのしわざだ

ってことははっきりしてます。ぼくたちはITセキュリティーにかなり気を遣ってましたから」

「で、フランス・バルデルがその件に関して何か情報をつかんだ、ときみは思うんだね?」

「間違いありません。でなけりゃ、あんな妙な行動はとりませんよ。きっとソリフォンにいたときに

何か嗅か

ぎつけたんです」

「ソリフォンで働いてたのか?」

「ええ、それも不思議なんですが。さっき言ったとおり、フランスはずっと大手のIT企業に縛られ

ることを拒んでました。アウトサイダーでいることの大切さを、彼ほど何度も口にしてた人はほかに

いません。自由でいるべきだとか、商業主義の奴隷になるなとか。ところが、不意打ちをくらって技

術が盗まれたとたん、フランスはよりにもよってソリフォン社からの申し出に飛びつきました。誰に

もさっぱり理解できなかった。もちろんソリフォンは、目玉の飛び出るような報酬を約束して、干渉

はしない、とでも言って釣ったんでしょう。好きなようにしていいから、うちの会社で働いてくれ、

って。最高のオファーに聞こえますよね。実際、最高のオファーですよ。相手がフランス・バルデル

でなければね。フランスはそんな誘い、グーグルやらアップルやら、いろんな企業からごまんともら

っていたはずなんです。どうしていきなりソリフォンからの申し出に興味を示したんでしょう?

 フ

ランスはいっさい説明しないまま、さっさと荷物をまとめて行ってしまいました。あとから聞いたと

ころによると、ソリフォンでも出だしは好調だったようです。フランスはぼくたちが開発した技術を

さらに改良しました。ソリフォンのオーナーのニコラス・グラントはきっと、何十億という売り上げ

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が入ると胸算用をしていたんでしょうね。大変な興奮状態でしたよ。ところが、何かが起こったんで

す」

「その〝何か〟について、きみは実のところよく知らない」

「ええ、そのころには音信が途絶えてしまってましたから。フランスは全世界との音信を絶ったと言

ってもいい状況でした。でも、その〝何か〟は深刻なことだったにちがいないとぼくは思います。フ

ランスはことあるごとに、オープンでいることの大切さを説いてましたし、〝群衆の知恵〟といった

考え方も高く評価してました。たくさんの人の知識を利用することが大事だ、って言ってね。要する

に、リナックス的な思想です。なのに、ソリフォン時代の彼はどうやら、どんな小さなことでも秘密

にしていたらしいんです。ごく身近な人たちに対しても。そして突然、ソリフォンを辞や

めてスウェー

デンに帰ってきました。いまはサルトシェーバーデンの自宅に籠こ

もったまま、庭にすら出てこないし、

外見にもまったく気を遣っていないようです」

「つまりこういうことか、リーヌス。きみのつかんだネタっていうのは、ある教授が何やら悩みを抱

えている様子で、見た目もかまわなくなった、っていうだけのこと──そもそも外に出ないのなら、

近所の人たちはどうやって彼の見た目に気づいたんだろうね?」

「それはそうですけど、でも……」

「なあ、リーヌス、確かに興味深い話かもしれないとは思うよ。でも、ぼく向きの話とは思えない。

ぼくはIT専門の記者じゃないんだ。むしろ石器時代の人間だよ──ちょうど先日、そう書かれたば

かりだ。『スヴェンスカ・モルゴン゠ポステン』紙のラウル・シグヴァルドソンに連絡するといい。

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IT関係のことなら何でも知ってる」

「とんでもない。シグヴァルドソンなんて小物すぎますよ。この件は彼のレベルを超えてます」

「それは過小評価だと思うが」

「頼みますよ、ここまで聞いて怖お

気け

づいたんですか?

 ブルムクヴィストさん、このネタで、あなた

はカムバックを果たせるかもしれないんですよ」

 ミカエルはさほど遠くないところでテーブルを拭いているアミールに、疲れた顔で合図を送った。

「ひとつ忠告させてもらえるか?」

「えっ……ええ……もちろん」

「次にネタを売り込むときには、そのネタが相手のジャーナリストにとってどんな意味をもつか、な

んて説明しないほうがいい。何度似たような文句でほら話を聞かされたか、想像がつくかい? 〝人

生最大のスクープになりますよ。ウォーターゲート事件も超えますよ!〟とか。記者を納得させたい

のなら、もう少しふつうに、客観的に話したほうがいい」

「ぼくはただ……」

「きみはただ、何が言いたかったんだ?」

「フランスと話をしてみてほしいんです。フランスはたぶん、あなたのことを気に入ると思う。あな

たと同じで、妥協を許さないタイプだから」

 リーヌスは一気に自信を失ったようだった。ミカエルは、ちょっと言い方がきつすぎたかもしれな

い、と思いはじめた。いつもは主義として、ネタを提供してくれる人たちには、たとえどんなにばか

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ばかしい話を聞かされても、愛想良く、励ましの態度で接するようにしている。突とつ

拍ぴよ

子うし

もない話に良

いネタが隠れていることもあるから、というだけではない。多くの場合、彼らにとって自分が最後の

頼みの綱であるとわかっているからだ。ほかの人に話を聞いてもらえず、自分のところに駆けこんで

くる人はたくさんいる。その人たちにとって、ミカエルは最後に残された希望なのだ。見下すような

態度をとる理由はひとつもない。

「なあ」と彼は言った。「今日は朝からさんざんなんだ。嫌味に聞こえたとしても、そういうつもり

じゃないから」

「大丈夫です」

「それに、正直なところ、きみの言うとおりだ」とミカエルは続けた。「いまの話の中には実際、興

味を引かれる点がひとつあった。女性ハッカーが来たと言ったね」

「ええ、でも、そこは本筋とは関係ありませんよ。フランスはたぶん、慈善事業のつもりで彼女を雇

ったんです」

「でも、さっきの話では、ちゃんと能力がありそうな感じだったけど」

「当てずっぽうに言ったのが当たっただけかもしれませんよ。くだらないこともたくさん言われた

し」

「きみも彼女に会ったのか?」

「ええ、フランスがシリコンバレーに旅立った直後に」

「どれくらい前の話だ?」

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「十一カ月前です。それまでぼくたちが使ってたコンピュータを、ブランティング通りにあるぼくの

アパートに運び込んだあとでした。あのころのぼくの暮らしは、誰が見てもひどいものでね。恋人は

いないし、金もないし、いつも二日酔いで、家の中はめちゃくちゃでした。ちょうど電話でフランス

と話して、口うるさい親父みたいなことをしつこく言われたところでした。見た目で彼女を判断する

なとか、人は見かけによらないとか、何とかかんとか。まったく、ぼくにわざわざそんなこと言わな

くてもいいのに!

 ぼく自身、どう考えたって理想の婿む

タイプじゃないですし。生まれてこのかたネ

クタイを締めたこともスーツを着たこともないし、そもそもハッカーがどんな格好をしてるものかな

んて重々承知してましたから。まあとにかく、ぼくは自分のアパートにいて、その女を待ってました。

少なくともドアをノックぐらいはするだろうと思ってたんですが、その女、何も言わずにドアを開け

て入ってきたんです」

「どんな外見だった?」

「ひどかったですよ……いや、本当のところ、不思議とセクシーと言えないこともなかったけど。そ

れでもとにかくひどかった!」

「リーヌス、彼女の見た目を批評しろとは言ってない。どんな服装だったか、ひょっとして名前を名

乗ったかどうかが知りたいんだ」

「誰なのかは全然知りません」とリーヌスは続けた。「何かで見かけたような気はしたけど──たぶ

ん、何か良くないことでしょうね。タトゥーとピアスだらけで、ゴスとかパンクとか、そういう感じ

でした。あと、がりがりに痩や

せてました」

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 ミカエルはほとんど無意識のうちに、ギネスをもう一杯、という合図をアミールに送っていた。

「どんなことがあったんだ?」と尋ねる。

「いやあ、何て言ったらいいんですかね。いきなり仕事にかかる必要もないと思ったから、ぼくは自

分のベッドに座りました──ほかに座るところもなかったし──で、とりあえず何か飲もうか、って

言ったんです。そうしたら、あの女、何て言ったと思います?

 出ていけ、って言うんですよ。アパ

ートに住んでるのはぼくなのに、まるで当然のようにぼくに出ていけと命令したんです。もちろん断

わりました。〝ぼくはここに住んでるんだけど〟とか何とか言って。そしたら返事はこうですよ。

〝いいからさっさと出ていって〟。で、もうそうするしかない、と思って、かなり長いこと留守にし

てました。帰ったら、彼女はぼくのベッドに寝転がって煙草を吸ってて、弦げ

理論か何かの本を読んで

ました。イカれてるでしょう。ひょっとすると、彼女をにらみつけた目つきが、いかがわしいと思わ

れたのかもしれません。あんたと寝る気はこれっぽっちもない、って宣言されました。〝これっぽっ

ちも〟ですよ。あの女、ぼくと一度も目を合わせようとしなかったと思います。ただだしぬけに、ぼ

くたちのコンピュータにトロイの木馬が

─RAT(

遠隔アクセ

スツール

)が入ってる、って言いました。この

侵入のパターンには見覚えがある、プログラミングに独自の特徴がある、って。で、あんたたち完全

にやられたわね、って言い捨てて出ていきました」

「さよならも言わずに?」

「ひと言も言わずに、です」

「なんてこった」ミカエルは思わず口にした。

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「でも、正直、あの女はカッコつけてただけだと思いますよ。そのあと同じ調査をしたFRAの人は、

当然この種の攻撃に関してはあの女よりずっと詳しいはずですが、そんなふうに断言はできないって

言ってました。その人がどんなにコンピュータを調べても、スパイウイルスの形跡は見つかりません

でした。彼はそれでも──ちなみにモルデって名前です、ステファン・モルデ──ぼくたちのコンピ

ュータがハッキングに遭った可能性は高い、と言ってましたけどね」

「その女の子だが、まったく自己紹介をしなかったのかい?」

「ぼくは名前を尋ねたんですがね、あの女はむすっとした顔で、ピッピとでも呼べばいい、と言った

だけでした。当たり前ですが、本名ではありませんよね。でも……」

「でも?」

「なんとなく、彼女にぴったりだ、とも思いました」

「なあ、リーヌス」とミカエルは言った。「ついさっきまでは家に帰ろうと思ってたんだけどね」

「ええ、そのようでしたね」

「だがいま、状況が大いに変わった。フランス・バルデルはその女と知り合いだって言ってなかった

か?」

「ええ、そうですよ」

「そういうことなら、フランス・バルデルとできるだけ早く連絡を取りたい」

「あの女のために、ですか?」

「そうとも言えるかな」

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「なるほど、わかりました」リーヌスは思案顔で言った。「でも、フランスに直接連絡するのは難し

いと思いますよ。さっきも言ったとおり、最近の彼はすさまじく秘密主義ですから。電話はiPho

neですか?」

「ああ」

「じゃあ、それは使わないでください。フランスに言わせると、アップルはNSAに身売りしたも同

然だそうです。彼と話すには、ブラックフォンを買うか、少なくともアンドロイド携帯を借りて、特

殊な暗号化プログラムをダウンロードするしかありません。でも、まずはぼくのほうから、あなたに

連絡するよう彼を説得してみます。で、あなたたちのあいだで、安全な場所で会う約束をすればいい

ですよね」

「素晴らしい。リーヌス、恩に着るよ」

 リーヌスが去ったあとも、ミカエルはしばらくその場にとどまり、ギネスを飲み干して外の嵐を見

つめた。背後でアーネたちが笑い声を上げた。が、ミカエルは考えに沈み込んでいて、何も聞こえて

いなかった。アミールが隣に座って最新の天気予報を報告しはじめたことにも、ほとんど気づかなか

った。

 どうやら天気は大荒れになるらしい。気温はマイナス十度近くまで下がり、初雪が降る見込みだが、

心地よい穏やかな降り方ではない。横なぐりの大雪で、近年稀ま

に見るひどい嵐になるだろう。

「ハリケーンみたいな風が吹くってさ」とアミールは言った。ミカエルはまだ上う

の空で、ただこう答

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えた。

「そりゃよかった」

「よかった?」

「ああ……ええと……天候の変化がまったくないよりはましかな、と」

「そりゃそうだ。なあ、どうかしたのか?

 ずいぶんショックを受けてるように見えるが。さっきの

客と何かあった?」

「そんなことはないよ。まったく問題ない」

「でも、何か気が動転するようなことを聞いたんだろう?

 違うか?」

「それが、よくわからないんだ。でも、ちょっと混乱してることは事実だな。実は『ミレニアム』を

辞や

めようかと思ってる」

「きみとあの雑誌は一心同体だと思ってたけど」

「自分でもそう思ってた。でも、どんなことにも終わりがある、ということなんだろう」

「そうかもしれんな」とアミールは言った。「親父がよく言ってたよ。永遠にも終わりが来る、っ

て」

「なんでまたそんなことを?」

「永遠の愛、っていう意味で言ってたんだと思う。おふくろと別れる直前だったから」

 ミカエルはくすりと笑った。

「なるほどな。ぼく自身、永遠の愛ってやつはあんまり得意じゃない。でも……」

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「でも?」

「昔、ある女性と知り合いだったんだけどね。その人がぼくの前から姿を消して、もうずいぶん経

つ」

「ややこしそうだな」

「まあね、ちょっと変わった話だ。ところがついいましがた、彼女が元気にしているという話がいき

なり耳に入った。少なくともぼくはそういうことだと思ってる。ぼくが妙な顔をしてるとしたら、そ

のせいかもしれない」

「なるほど」

「さて、そろそろ帰らなくちゃ。勘定はいくら?」

「付けにしておくよ」

「ありがたい。じゃあ、アミール、元気で」ミカエルはそう言うと、口々に勝手な野次をとばしてく

る常連客たちの脇を通り抜け、嵐の中へ出ていった。

 死にそうな体験だった。突風が骨の髄ず

まで吹きつけてくるように感じる。それでもしばらく嵐の中

で立ち止まり、遠い記憶に浸った。それからゆっくりと自宅に戻ると、どういうわけかドアが開けに

くくなっていた。なんとか鍵をまわして開けると、靴を脱ぎ捨て、パソコンに向かってフランス・バ

ルデル教授の情報を検索した。

 だが、まったく集中できず、代わりにこれまで幾度となく抱いた疑問ばかりが頭に浮かんだ──彼

女はどこに行ったのだろう?

 彼女のかつての雇い主であるドラガン・アルマンスキーから一度だけ

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話を聞いたことがあるが、それを除けば彼女の消息は杳よ

として知れなかった。まるでこの世から消え

てしまったかのようで、近所に住んでいるはずなのに一度も姿を見かけたことがない。リーヌスの話

にここまで動転したのはそのせいでもあるのだろう。

 リーヌスのアパートに来たという人物は、まったくの別人かもしれない。その可能性はある。いや、

そうは考えにくい。ノックもせずに上がりこみ、相手と目も合わせず、住人を家から追い出す。他人

のコンピュータの奥深くに隠された秘密を見抜き、〝あんたと寝る気はこれっぽっちもない〟などと

言い放つ。そんな人間がリスベット・サランデル以外にいるだろうか?

 間違いなくリスベットだ。

ピッピとでも呼べばいい、と言ったというのも、いかにも彼女らしいではないか。

 フィスカル通りにある彼女の住まいの扉には、長くつ下のピッピの家〝ごヴ

たラ・

ごヴイ

たツレ

荘クツラ〟

にちなんで

〝V・クッラ〟という表札が出ているし、彼女が本名を名乗らないのは当然だ。本名を検索すればい

やというほど情報が出てきて、大事件、常軌を逸した出来事と結びつけられる。最近はどこで何をし

ているのだろう?

 もちろん、あの娘が雲隠れしたのは、なにも今回が初めてではない。が、彼女が

かつて住んでいたルンダ通りのアパートのドアをミカエルがノックして、少々詳しすぎる個人調査報

告書を書かれたと文句を言ったあの日以来、これほど長く音信不通状態になったことは一度もなかっ

た。それが少々気になる。当然だ。何はともあれ、リスベットはぼくにとって……あらためて考える

と、いったい何だろう?

 友人とは言いがたい。友人なら、会おうとするものだ。友人なら、こんなふうに黙って姿を消した

りしない。友人同士の連絡手段がコンピュータへのハッキングしかないなんて、ありえない話だ。そ

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れでもミカエルはリスベットとの結びつきを過去のものにできず、何よりも──これはもう認めるし

かないだろう──彼女のことが心配でたまらなかった。確かに、かつてリスベットの後見人だったホ

ルゲル・パルムグレンはよく、リスベットはいつもうまく生き延びる子だ、と言っていた。悲惨な子

ども時代にもかかわらず──いや、そのおかげなのかもしれないが──どんなことがあっても生きて

いく能力を身につけている、と。おそらくその見方は正しいのだろう。

 が、彼女が無事だという保証があるわけではない。あんな経歴の持ち主で、あれほど敵をつくりや

すい娘なのだ。ひょっとすると、今度ばかりは本当に道を踏みはずしてしまったのかもしれない。半

年ほど前、ドラガン・アルマンスキーとレストラン〈ゴンドーレン〉で昼食をともにしたときに、彼

がそんな可能性をほのめかしていた。季節は春で、土曜日だった。ドラガンはビールやスナップスな

どをおごると言ってきかなかった。きっと何か打ち明けたいことがあるのだろう、とミカエルは思っ

た。長年の友人と会うという名目ながら、実のところドラガンが話したいのはリスベットのことだけ

で、酒の助けを借りて感傷に浸りたがっているのは明らかだった。

 ドラガンはまず、彼の会社であるミルトン・セキュリティー社が、ヘーグダーレンにある老人ホー

ムに防犯警報システムを一式取りつけた、と話してくれた。いいシステムだよ、とも付け加えた。

 だが、停電になったときに適切な措置がとられなければ、いいアラームも役には立たない。まさに

それが原因で事故が起こった。夜更けにホームが停電に見舞われ、その日の夜中、入居しているルー

ト・オーケルマンという名の老婦人が転んで大だ

腿たい

骨こつ

頸けい

部ぶ

を骨折した。倒れたまま何時間も防犯警報シ

ステムのボタンを押しつづけたが、システムは作動しなかった。夜が明けるころには重じ

ゆうとく

篤な状態にな

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っていた。当時、マスコミはちょうど高齢者福祉の問題点や職員の怠た

慢まん

に注目していて、この事故も

大々的に報じられた。

 ルートは幸い快方に向かった。ところが不運なことに、彼女はスウェーデン民主党(

移民排斥を訴

える極右政党)幹

部の母親だった。党とつながりのあるニュースサイト『アヴピクスラット(

暴露、解析され

たもの、の意

)』で、アル

マンスキーはアラブ人であるとの報が流れ──実際にはアラブ人の血は一滴も流れていないのだが、

ときおり〝アラブ人〟と呼ばれることもないではない──コメント欄が炎上した。何百人もが匿と

名めい

〝汚い移民野郎に機械の取りつけなんかやらせるからこんなことになるんだ〟と書き込んだ。ドラガ

ンは憤

いきどお

った。彼の老母までもがひどく侮辱されたからなおさらだった。

 ところが、あの日突然、まるで魔法の杖がひと振りされたかのように、コメントを書き込んだ連中

がみな匿名ではなくなった。彼らの氏名、住所、職業、年齢が、いきなり表示されたのだ。全員が様

式に従って記入したかのように、整然と。まさにサイト名よろしく解析されてしまったわけで、コメ

ント欄の投稿者たちがけっして社会から落ちこぼれた独善主義者ばかりでなく、きちんとした生活を

送っている一般市民も多いこと、しかもなんとアルマンスキーの同業他社の関係者も含まれていたこ

とが、この暴露で判明した。投稿者たちにはなすすべがなかった。わけがわからないまま髪をかきむ

しるしかなかった。かなり経ってから『アヴピクスラット』はようやくこのページを閉鎖することに

成功し、犯人に復讐を誓った。とはいえ、この攻撃を仕掛けた犯人が誰かはわからなかった。誰にも

見当がつかなかった。ドラガン・アルマンスキーを除いては。

「いかにもリスベットがやりそうなことだ」と彼は言った。「もちろん、私は当事者だからね、職業

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柄、ITセキュリティーの侵害は許されないと思っているが、それでも晒さら

し者になった連中に同情す

るほど心は広くないんだ。それにしても、リスベットからはもう長いこと連絡がなかったし、私のこ

となどどうでもいいのだろうと思っていた。あの子はそもそも他人に干渉するタイプじゃない。そう

思っていたところにこの事件が起こった。嬉う

しかったよ。あの子が私のために立ち上がってくれたん

だ。私はあふれんばかりの感謝をこめて彼女にメールを送った。そうしたら、驚いたことに返事が来

た。何て書いてあったと思う?」

「さあ」

「たったの一文だけだ。〝エステルマルム診療所のろくでなし野郎サンドヴァルのこと、どうして守

ったりするんですか?〟」

「サンドヴァル?

 誰です?」

「わが社で身辺警護を引き受けた整形外科医だよ。豊胸手術をした若いエストニア人女性に手を出し

て、脅迫されている。その女性は札付きの犯罪者の愛人だったんだ」

「そりゃ大変だ」

「まったく。手を出す相手を間違えたわけだ。それで、私もリスベットに返事をしたよ。サンドヴァ

ルが聖人君子だとは私も思わない、とね。むしろ逆だと知っている。だからといって警護を断わるわ

けにはいかない、と伝えたかったんだ。道徳的に非の打ちどころのない人ばかりを警護するわけには

いかない。男尊女卑のろくでもない野郎でも、安全に暮らす権利はある。サンドヴァルは深刻な脅迫

を受けていて、わが社に助けを求めてきたから、うちは警備体制を敷いてやった。料金を倍にして。

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それだけのことだ」

「でも、リスベットはそれでは納得しなかった?」

「いずれにせよ返事はなかった──少なくとも、メールでは。だが、別の形で返事をよこした、とは

言えるかな」

「どういう形ですか?」

「クリニックを警備していたわが社の警備員たちのところへつかつか歩いていって、騒ぐな、と命じ

た。私からの指示だとでも言ったんじゃないかと思う。で、患者や医者、看護師たちの目の前を横切

り、サンドヴァルの診察室に乗り込んでいって、やつの指を三本折り、容赦なく脅迫した」

「なんてこった!」

「まったくだよ。常軌を逸している。目撃者がおおぜいいるのにそんなことをするなんて。しかも、

よりによって医者の診察室で」

「ほんとですね。まともじゃない」

「当然だが、そのあとは大騒ぎになった。訴えてやる、告発してやる、とわめかれた。当たり前だ。

切ったり持ち上げたり、そんな金のかかる手術をたくさん手がけている整形外科医の指を折ったんだ。

いわゆるカリスマ弁護士が金のにおいを嗅か

ぎつけて寄ってくる類いの事件だろう」

「どうなったんですか?」

「何も起こらなかった。まったく、何も。何よりも妙なのはそこだと言っていいかもしれない。騒ぎ

はすっかり静まってしまった。サンドヴァル自身がことを大きくしたがらなかったようだ。それにし

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ても、ミカエル、正気とは思えないだろう。まともな人間なら、白昼堂々とクリニックに乗り込んで

いって医者の指を折ったりしない。たとえリスベット・サランデルでも、精神のバランスが取れてさ

えいれば、そんなことはしないはずなんだ」

 ミカエル・ブルムクヴィスト自身は正直なところ、この分析には百パーセント賛成できなかった。

むしろ彼女ならやりそうなことで、筋が通っている、と思えた。リスベット流の筋の通し方だ。これ

に関しては、自分は専門家も同然だと言っていい。リスベットがどれほど理に適か

った考え方をするか、

ミカエルは誰よりもよく知っていた。ふつうの人の論理にはそぐわないかもしれないが、彼女自身が

設定した前提条件に照らせば論理的と言える考え方。その整形外科医は、手を出してはいけない女に

手を出したというだけでなく、何かもっとひどいことをしていたにちがいない、とミカエルはすぐさ

ま確信した。それでもやはり、この件ではリスベットが判断力を欠いていたのではないか、との思い

は消えなかった。少なくとも彼女のリスク分析力はかなり心もとない。

 またトラブルに巻き込まれたかった

0

0

0

0

のだろうか、とすら思う。そうすればまた刺激が得られると考

えたのではないか。だが、そんな推測は、リスベットにとっては不当だろう。彼女の動機について、

自分は何も知らないのだ。そもそも最近どんな暮らしをしているのかも知らない。風雨が窓をたたく

中、パソコンに向かってフランス・バルデルについて検索しながら、ミカエルは、少なくともこんな

ふうに間接的とはいえ消息がわかったのは素晴らしいことじゃないか、と考えようとした。まったく

音沙汰がないよりましだし、彼女があいかわらずであることを喜ぶべきだろう。リーヌスの話に登場

したリスベットは、昔とまったく同じだった。それに、ひょっとすると彼女はまたもやネタを提供し

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てくれたのかもしれない。どういうわけかリーヌスには会った瞬間から苛立ちを感じたから、彼がそ

れなりにセンセーショナルなネタを持ち込んできたとしても無視したと思う。が、リスベットが話に

出てきたことで見方が変わった。

 リスベットの知性には文句のつけようがない。その彼女がわざわざフランス・バルデルの依頼に応

じたのなら、自分もこの件を深く探ってみるべきなのではないか。少なくとももう少し調べてみる価

値はある。運がよければ、リスベットのことがもっとよくわかるかもしれない。すでにいまの時点で、

値あたい千

金の疑問がひとつあるのだ。

 そもそもリスベットはなぜ依頼を受けて出向いたのか?

 彼女はあちこちに出張するITコンサルタントではない。確かに、世の中の不正に腹を立て、出向

いて行っては彼女なりに正義の鉄て

槌つい

を下すことはある。とはいえ、どんなコンピュータもためらわず

にハッキングする娘が、一件の不正侵入事件に憤るとしたら、いささか驚きではないだろうか。整形

外科医の指を折るのは、百歩譲ってわからなくもない。が、違法なハッキングへの対策にかかわると

いうのは、自分のことを棚に上げて他人を裁くようなものではないか?

 背景に何があるのかわから

ない以上、何とも言えないが。

 おそらく、その前に何かがあったのだろう。彼女とバルデルは友人同士、あるいはディスカッショ

ン仲間なのかもしれない。その可能性はある。そこでふたりの名前を両方とも書き込んでグーグルで

検索してみたが、結果はゼロだった──少なくとも意味のある検索結果は一件もなかった。ミカエル

はしばらく外の嵐を見ながら、痩や

せた青白い背中に入っていたドラゴンのタトゥーに、ヘーデスタの

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寒さに、ゴッセベリヤの地面にあいた、人間が這は

い出した跡のある穴に、思いを馳は

せた。

 そのあと、ふたたびフランス・バルデルについて調べはじめた。資料に不足はなかった。検索結果

は二百万件にのぼっていた。それでも、バルデルの経歴のあらましを知るのは容易ではなかった。ヒ

ットしたサイトのほとんどは科学的な論文やコメントで、フランス・バルデル自身はインタビューに

いっさい応じていないようだ。そのため、彼の人生のあれこれには神話じみた雰囲気がつきまとって

いた。彼を崇拝する学生たちが話を美化して大げさにしているのかもしれなかった。

 ある記事によれば、子ども時代のフランスは発達障害があるとみなされていたらしい。ところが、

エーケレーの学校に通っていたある日、校長室につかつかと入っていって、九年生の数学の教科書に

虚数に関して誤った記述がある、と指摘した。その点は教科書の改訂の際に訂正された。翌年の春、

フランスは数学の全国コンテストで優勝した。録音を逆再生したときのようにしゃべることができる、

長い回文をつくることができる、などとも書かれていた。インターネットで公開されている、まだ子

どものころに学校で書かされた作文で、フランスはH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を批判している。

あらゆる面でわれわれよりも高等とされる生物が、火星と地球の細菌叢そ

の違いなどという基本的なこ

とも知らないとは考えられない、というのだ。

 高校を卒業すると、フランスはロンドンのインペリアル・カレッジでコンピュータサイエンスを学

んだ。博士論文のテーマはニューラルネットワークのアルゴリズムで、画期的な研究と評価された。

史上最年少でストックホルム王立工科大学の教授となり、王立工学アカデミーのメンバーにも選ばれ

た。今こ

日にち

、フランスは〝技術的特異点〟の世界的権威とみなされている。コンピュータの知能が人間

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の知能を凌り

駕うが

する時点を指す仮説上の概念だ。

 人の目を引く魅力的な男ではないらしかった。どの写真を見ても、目は小さく髪は四方八方に跳ね

ていて、まるでだらしのないトロールのようだ。それでも彼はあでやかな女優のハンナ・リンドと結

婚した。彼女はバルデルと改姓し、ふたりのあいだには息子が生まれたが、タブロイド紙に載った

〝ハンナの大いなる悲しみ〟という記事によれば、その息子には重度の知的障害があるという。もっ

とも、その記事に添えられた写真を見るかぎり、そんなふうにはまったく見えなかったが。

 結婚生活が破は

綻たん

したのち、ナッカ地方裁判所での息子の親権争いを前にして、演劇界の異端児ラッ

セ・ヴェストマンが登場し、バルデルに子どもの世話を任せるべきではない、彼にとっては〝子ども

の知能よりコンピュータの知能のほうが大事なんだ〟とまくしたてた。ミカエルは離婚問題をそれ以

上探るのをやめ、バルデルの研究と、彼が当事者となった法的な争いについて理解しようと努めた。

そして長いあいだ、コンピュータの量子情報処理に関する難解な論述に没頭した。

 それからマイドキュメントのフォルダに入って、一、二年前につくったファイルを開いた。ファイ

ル名は〈リスベットの箱〉。彼女がいまでもこのコンピュータに侵入しているかどうかはわからない

し、ミカエルのジャーナリストとしての仕事への興味など失っているかもしれない。それでもミカエ

ルは希望を捨てられなかった。そしていま、ちょっとした挨あ

拶さつ

を送ってみるべきではないか、と考え

た。問題はもちろん、なんと書けばいいのか、ということだ。

 親しげな長い手紙は、リスベットには向かない。そんなものを受け取っても彼女は困惑するだけだ

ろう。むしろ短くて、少し謎めいた文面を書いてみたほうがいい。そこで、こんな質問を送ることに

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した。

フランス・バルデルの人工知能についてはどう考えるべきだろう?

 そしてミカエルは立ち上がり、また窓の外の吹ふぶき雪

を眺めた。

第四章

 十一月二十日

 エドウィン・ニーダム、別名エド・ザ・ネッドは、アメリカで最も稼ぎのいいセキュリティー技術

者というわけではない。だが、最も優秀で最もプライドが高い、とは言えるかもしれない。父親のサ

ミーは極めつけのろくでなしだった。いつも酒びたりでかっかしていて、ときおり港湾労働者として

日銭を稼ぐこともあったが、たいていはふらりと出ていって泥酔するまで飲み、留置所か救急病棟で

目を覚ましていた。当然ながら、誰にとっても楽しい状況ではなかった。

 それでも、サミーが外で飲んでいるあいだは一家にとって最良の時間だった。彼が留守のあいだは

家の中に多少の余裕が生まれ、母親のリタがふたりの子どもを抱きしめては、きっと大丈夫、そのう

ち良くなる、と言い聞かせることもあった。父親がいると、家はめちゃくちゃだった。一家はボスト

ンのドーチェスターに住んでいたが、サミーが〝家に居てやってる〟ときにはしょっちゅうリタを手

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第四章

 十一月二十日

 エドウィン・ニーダム、別名エド・ザ・ネッドは、アメリカで最も稼ぎのいいセキュリティー技術

者というわけではない。だが、最も優秀で最もプライドが高い、とは言えるかもしれない。父親のサ

ミーは極めつけのろくでなしだった。いつも酒びたりでかっかしていて、ときおり港湾労働者として

日銭を稼ぐこともあったが、たいていはふらりと出ていって泥酔するまで飲み、留置所か救急病棟で

目を覚ましていた。当然ながら、誰にとっても楽しい状況ではなかった。

 それでも、サミーが外で飲んでいるあいだは一家にとって最良の時間だった。彼が留守のあいだは

家の中に多少の余裕が生まれ、母親のリタがふたりの子どもを抱きしめては、きっと大丈夫、そのう

ち良くなる、と言い聞かせることもあった。父親がいると、家はめちゃくちゃだった。一家はボスト

ンのドーチェスターに住んでいたが、サミーが〝家に居てやってる〟ときにはしょっちゅうリタを手

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加減なしに殴った。リタは何時間も、ときには何日もトイレに閉じ込められ、震えながら泣いていた。

 いちばんひどかった時期には血を吐いていた。だから、彼女が四十六歳の若さで内出血で亡くなっ

ても、誰もたいして驚かなかった。エドの姉がコカイン中毒になったときにも、その後父子がホーム

レスになりかけたときにも、誰も驚きはしなかった。

 エドの少年時代は、トラブルまみれの人生への直進コースと言ってよかった。十代のころには〈ザ

・ファッカーズ〉という、喧け

嘩か

や暴行、食料品店の強盗を繰り返してはドーチェスターを恐怖に陥れ

るギャングに属していた。エドの親友だったダニエル・ゴットフリードは、マチェーテで惨殺されて、

食肉の搬送用フックに吊るされた。十代のエドは転落の瀬戸際に立っていたのだ。

 エドは早くから不愛想で乱暴な印象を与える子どもだった。けっして笑わず、上の歯が二本欠けて

いたからなおさらだった。長身で、がっしりとした体格。怖いもの知らずで、その顔にはいつも父と

の喧嘩やギャング同士の抗争でつくった傷き

痕あと

が残っていた。学校の教師たちのほとんどは、エドを極

端に怖がっていた。刑務所にぶち込まれるか頭に弾丸を受けるかして人生を終えるだろうと、誰もが

思っていた。が、その一方で、彼に関心を寄せる大人たちもいた。その青い炎のような目に、暴力や

攻撃性以外の何かがあると見抜いていたのだろう。

 エドには手に負えないほどの知識欲があった。市営バスの内装をめちゃくちゃにするのと同じ勢い

で、一冊の本の内容を頭に入れられるエネルギーがあった。よく学校に残っては、〝技術室〟と呼ば

れる部屋のパソコンに長いこと向かっていた。スウェーデン系のラーソンという名の物理の教師が、

エドの機械を扱う能力に気づき、福祉当局をも巻き込んで彼の生活環境について調べた結果、エドは

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奨学金を得て、もっとやる気のある生徒が集まる学校に移るチャンスを与えられた。

 彼は学業でめきめき頭角を現わした。さらに奨学金を得て優秀な成績で学校を卒業すると、マサチ

ューセッツ工科大学で電気工学とコンピュータサイエンスを学びはじめた。彼の生い立ちを考えれば

ちょっとした奇跡と言っていいだろう。博士論文では、RSA暗号などの新しい非対称暗号システム

に特有の課題について論じた。その後マイクロソフトやシスコで高い職位に就いたが、やがてメリー

ランド州フォート・ミードのNSAにスカウトされた。

 この任務に就く人物として、エドは申し分ない履歴書の持ち主ではけっしてなかった。問題は十代

のころの犯罪歴だけではない。大学時代は大量にマリファナを吸っており、社会主義的な、無政府主

義的とすら言ってもいい思想に傾倒していた。実は成人してからも傷害容疑で二度逮捕されている。

居酒屋での小競り合い程度ではあったが。気性はあいかわらず粗暴で、彼を知る人はみな、彼との争

いを避けていた。

 だが、NSAは、エドがもっているほかの資質に目を向けた。しかも、時は二〇〇一年の秋だった。

アメリカの情報機関は深刻なコンピュータ技術者不足に陥っていて、おおむね誰でも雇い入れている

状況だったのだ。それから何年経っても、エドの忠誠心や愛国心を疑問視する声は上がらなかった。

仮に上がったとしても、彼を雇うメリットのほうが上まわっていた。

 エドはただ才能に恵まれていただけではない。彼の性格には偏執的なところがあった。病的なほど

の几き

ちようめん

帳面さやすさまじいほどの効率性は、アメリカの公的機関の中でも極秘中の極秘情報を扱う機関

でITセキュリティーを守る任務に就いた男にとっては、むしろ歓迎すべき資質だった。とにかく、

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ここのシステムは誰にも破らせはしない。それはエドにとって、個人としてのプライドを懸けた問題

だった。やがて彼はフォート・ミードに必要不可欠な人材となり、彼に相談しようとおおぜいの人が

順番を待つようになった。あいかわらず彼を怖がっている者は多く、彼がすさまじい剣幕で同僚を怒

鳴りつけることも珍しくない。NSA長官で、もはや伝説と化しているチャールズ・オコナー海軍大

将をも、すげなく追い返したことがあるほどだ。

「あんたの頭は他のことを考えるので忙しいんだろ。理解できることだけ考えてろよ」エドの仕事に

ついて意見しようとした長官にそう怒鳴ったのだ。

 だが、オコナーも他のみんなも、彼を咎と

めはしなかった。エドが大声を上げたり文句をつけたりす

るのにはちゃんとした理由がある、と知っているからだ。誰かがセキュリティー関連の規則を軽んじ

たとか、門外漢のくせに口をはさんできたとか、そういった理由が。与えられた権限を行使すればほ

とんど何でも閲覧できる立場にあるにもかかわらず、エドがこの諜報機関の業務そのものに口を出す

ことはなかった。ここ数年、NSAは批判の嵐にさらされていて、左派であれ右派であれ誰もがNS

Aを悪の権化、ジョージ・オーウェル『一九八四年』に出てくるビッグ・ブラザーを体現したものと

みなしている。が、NSAという組織が何をしようと、エドにとってはどうでもよかった。ただ一点、

自分の構築したセキュリティーシステムがけっして破られないこと、それだけが大事だった。しかも

彼はまだ家庭を築いていないので、オフィスで生活しているも同然だった。

 みながエドのことを信頼していた。当然、彼に対してもひととおり身辺調査が行なわれたが、何か

が問題になったことは一度もなかった。懸念があるとすれば、最近ひどく酔っ払うとまわりが心配す

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るほど感傷的になり、過去の経験談を洗いざらいぶちまけるようになったことだ。それでも、部外者

に自分の仕事内容を話した形跡はいっさいなかった。外の世界に対しては貝のように口を閉ざし、と

きおりしつこく訊かれることがあっても、インターネットやデータベースに載っているような、周到

に準備された嘘しか言わなかった。

 エドが順調に出世して本部のセキュリティー管理の最高責任者になったのは、偶然でもなければ、

何かの計略や小細工を弄ろ

した結果でもない。彼はこの地位に就くと、〝また内部告発者が現われてお

れたちにアッパーカットをくらわすことのないよう〟大改革を行なった。部下たちとともに、あらゆ

る点で組織内の監視を強化した。延え

々えん

と徹夜を続けて築き上げたシステムを、エド自身は〝鉄壁〟と

か〝しつこい猟犬〟と呼んだ。

「誰も侵入させないし、誰も許可なしで嗅か

ぎまわらせたりしない」とエドは言い放ち、そのことを心

から誇りに思っていた。

 少なくとも、この十一月の呪われた朝までは。雲ひとつない快晴だった。ヨーロッパはひどい嵐に

襲われていたが、メリーランドではそんな兆しなど微み

塵じん

もなかった。人々はシャツに薄手のウィンド

ブレーカーという姿で、年月とともに腹がかなり出てきたエドは、独特の揺れるような歩き方でコー

ヒーマシンの置かれたコーナーから戻ってきた。

 役職特権で、服装規定は無視している。ジーンズをはき、作業着めいた赤いチェックのシャツを着

ているが、腹のあたりでボタンがはずれていた。エドはコンピュータに向かって座るとため息をつい

た。いまひとつ体調がすぐれない。腰と右膝ひ

が痛むのだ。まったく、おととい同僚に誘われてジョギ

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ングをしたのがいけなかった。誘ってきたアローナ・カサレスは元FBI捜査官で、ずばずばものを

言う魅力的なレズビアンだ。あいつがおれをジョギングに誘ったのは、純粋なサディズムの表われに

ちがいない、とエドは思った。

 幸い、緊急の案件はとくになかった。新しい行動基準について簡単に記した内部向けの覚え書を、

大手IT企業グループとの連携プログラム、COSTの責任者たちに送ればいいだけだ。ところが、

ほどなく邪魔が入った。いつものとおりハードボイルド調の前振りを書いただけで時間切れになった。

〝馬鹿な真似をしようと思うやつが二度と現われないよう、みんながこのまま神経質きわまる良きサ

イバーエージェントでいられるよう、次のことを指摘したい。〟……そこまで書いたところで、自ら

設定した警告音が鳴りだしたのだ。

 はじめはさほど心配していなかった。この警告システムはひじょうに感度が高く、情報の流れがほ

んの少し狂っただけでも反応してしまう。異常にはちがいないが、おそらくたいしたことはない。誰

かがその人の権限では許されていないところにアクセスしようとしたのかもしれない。いずれにして

も、ちょっとした乱れだろう。

 だが、調べる余裕もなかった。そして次の瞬間に起こったことはあまりにも奇怪で、数秒ほど自分

の目が信じられなかった。エドはただ座ったまま画面を凝視した。それでも、何が起こっているのか

は理解していた。少なくとも、脳の中で理性的な思考力の残っている部分では、理解していた。NS

Aのイントラネット、NSANet内に、遠隔操作ツールが入りこんだのだ。これがNSANetで

なければ、馬鹿野郎、たたきつぶしてやる、と考えるだけだ。だが、よりにもよって、どこよりも閉

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ざされ、完璧にコントロールされたこのネットワークに、遠隔操作ツールが入りこんできた。エドや

部下たちが、どんなにちっぽけな脆ぜ

いじやくせい

弱性でもひとつ残らず見つけてやろうと、この一年だけでも幾度

となく浚さ

いつづけてきた、このネットワークにだ。無理だ。ありえない。どう考えても不可能だ。

 無意識のうちに目を閉じた。それなりに長いこと目を閉じていれば何もかも消えてくれるのではな

いか、と願っているのかもしれなかった。だが、ふたたび画面を見ると、彼の書きかけた文章が完成

されていた。〝……次のことを指摘したい……〟のあとに、こんな文面がひとりでに続いている。

〝……違法行為ばかりするのはやめろ。簡単なことだ。国民を監視する者は、やがて国民によって監

視されるようになる。民主主義の基本原理がここにある。〟

「なんだよ、なんなんだよ」とエドはつぶやいた。少なくとも声が出ている以上、彼はショックから

少しは回復しつつあった。

 が、文章はさらに続いた。〝落ち着け、エド。案内してやるからついてこい。こっちはルート権限

を手に入れた。〟それを見て、エドは叫び声を上げた。〝ルート権限〟という単語が、彼を根本から

打ちのめした。それから一分ほど、コンピュータがシステムの極秘部分を電光石火の勢いで駆け抜け

ているあいだ、エドは本気で心臓発作を起こしそうだと思った。人々がまわりに集まってきたことに

も、ぼんやりと気づいただけだった。

 ハンナ・バルデルは、買い物に行かなくてはならないとわかっていた。冷蔵庫にはビールもまとも

な食べものもない。それにラッセがいつ帰ってきてもおかしくない頃合いだ。ピルスナーもないとわ

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かったら機嫌をそこねるだろう。が、外は惨さん

憺たん

たる天気で、ハンナは外出を先延ばしにしてキッチン

に座り、肌に良くないと知りつつ──そもそも良いことなどひとつもないのだ──煙た

ばこ草

をふかしなが

ら電話をいじった。

 新しい名前が出てきはしないかと、連絡先リストを二、三回見直した。当然のことながら、新しい

連絡先などひとつもなかった。代わりばえのしない面々。みんな彼女に愛想をつかしている。ハンナ

は心ならずもミアに電話をかけた。ミアは彼女のエージェントで、かつては親友でもあり、ふたりで

世界を席巻することを夢見ていた。が、いまのハンナはミアにとって罪悪感のもとでしかないらしく、

最近はさまざまな言いわけや無責任な慰めを聞かされるばかりだ。〝女優が歳をとるって楽なことじ

ゃないのよね〟等々。ハンナには耐えがたかった。はっきり言えばいいのに。〝ハンナ、老けたわね。

視聴者はもうあんたに興味ないのよ〟と。

 当然ながら、ミアは電話に出なかった。まあ、そのほうがいいのだろう。話をしたって、どちらも

いやな気分になるだけだ。ハンナは思わずアウグストの部屋をのぞいた。そうすることで、自分の人

生に残された最後の重要な務め──母親としての役目を失ったのだと実感して、あのちくりと胸に刺

さる喪失感を味わいたかった。おかしな話だが、そうすることで、少し力が湧いてくるのだった。自

分自身を哀れむことで、歪ゆ

んだ慰めが得られる。立ち上がり、やはりピルスナーを買いに出ようかと

考えはじめたところで、電話が鳴った。

 フランスからだった。ハンナはますます顔をしかめた。今日は朝からずっと彼に電話しようかと考

えていたが、かける勇気がなかったのだ。電話して、アウグストを返してほしい、と伝えたかった。

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息子が恋しいからではなく、ましてやこの家で暮らすほうが息子にとって良いことだと思っているわ

けでもない。ただ、惨事が起きるのを避けたかったのだ。

 ラッセはあの子を取り戻したがっている。そうすればまた養育費が入ってくるからだ。ラッセがサ

ルトシェーバーデンのフランスの家に押しかけて自分の権利を主張しだしたら、いったいどんなこと

になるだろう。アウグストを家から引きずり出して死ぬほど怖がらせ、フランスをぼろぼろになるま

で殴りかねない。フランスにもそのことをわかっておいてもらわなくては。だが、ハンナが電話に出

て用件を伝えようとしても、フランスには話が通じなかった。奇妙な話を一方的にまくしたてている。

「本当に素晴らしいんだ、こんなのは見たことがない」

「ねえ、フランス、何の話かわからないんだけど」

「アウグストはサヴァン症候群だ。天才なんだよ」

「あなた、気でも違ったの?」

「その反対だよ、ハンナ。ぼくはやっと正気になれた。ここへ来てもらわなければ。そうだよ、いま

すぐ来てくれ!

 自分の目で見てもらうしかないと思うんだ。じゃなきゃとても理解できない。タク

シー代はこっちで払う。きみもきっと驚くよ。だって、あの子には間違いなく映像記憶能力が備わっ

ている。そのうえ遠近法を自由自在に使う力も、いつのまにか身につけてしまったようなんだ。とに

かく美しいんだよ、ハンナ。正確そのものなんだ。まるで別世界から来たような光で輝いている」

「何が輝いてるの?」

「あの子が描いた信号機だよ。聞いてなかったのか?

 この前通りかかった信号機、アウグストはそ

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れを完璧に再現したんだ。いや、完璧以上だな……」

「完璧以上って……」

「何て言ったらいいんだろう?

 単なるコピーじゃないんだよ、ハンナ。見たままを正確に再現して

いるだけじゃなくて、何かを付けたしている。芸術らしさが加わっている。あの子が描いた絵には、

不思議な輝きがあるんだ。そのうえ、矛盾しているようだが、どことなく数学的なものも感じる。ま

るで軸じ

測そく

投影についても理解しているみたいだ」

「軸測……?」

「細かいことはどうでもいいんだよ、ハンナ!

 ここへ来て、自分の目で見てくれ」フランスはそう

繰り返した。ハンナにはやっと、少しずつわかってきた。

 アウグストが突然、何の前触れもなく、巨匠のような絵を描きはじめたのだ。少なくともフランス

はそう主張している。それが真実なら、もちろん素晴らしいことだ。が、悲しいことに、ハンナはそ

れでも喜べなかった。なぜなのかはじめはわからなかったが、やがて見当がついた。フランスの家で

起こったことだからだ。アウグストは何年もハンナとラッセの家で暮らしていたのに、ここではいっ

さい何も起こらなかった。座ってパズルや積み木に没頭するばかりで、ひと言も発することなく、不

気味な発作を起こして苦しげな金切り声を上げ、体を前後に揺するのがせいぜいだった。それなのに、

父親と暮らしはじめてたった数週間で、天才と呼ばれるようになっている。

 もうたくさんだ、と思った。息子のために喜ぶ気持ちがないわけではない。が、それでも心が痛む。

何よりも耐えがたいのは、自分があまり驚いていない、ということだった。もっと驚いてしかるべき

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なのに。かぶりを振って〝ありえない、ありえない〟とでもつぶやくのが筋なのに、自分はそうして

いない。むしろ逆で、前からわかっていたような気がするのだ。アウグストに信号機を正確に描く能

力があるとまではわかっていなかったかもしれないが、少なくとも、あの子の中に何かが隠れている、

ということは。

 アウグストの目を見るたびに、うすうすそう感じていた。ときおり熱を帯び、周囲のすべてを細部

まで漏れなく脳に刻みつけているかのようだった、あのまなざし。息子が教師の話を聞いているとき

や、彼女が買い与えた数学の本をそわそわとめくるときの様子を見ても、そう感じた。そして何より、

アウグストの数字。あの子が書く数字ほど奇妙なものはなかった。理解の範は

んちゆう

疇を超える桁けた

数すう

の数字を、

延えん

々えん

と、何時間も書き連ねていた。ハンナは本気で理解しようとした。少なくとも何の意味がある数

字なのか知ろうとした。だが、さっぱりわからなかった。きっとあの数字には重大な意味があって、

私はそれを見落としてしまったのだろう。あまりにも不幸で、自分のことで頭がいっぱいで、息子の

頭の中で起こっていることまで理解する余裕がなかった。そういうことではないのだろうか?

「わからない」とハンナは言った。

「わからないって、何が」フランスが苛立ちをあらわにする。

「そっちに行けるかどうかわからない」ハンナがそう答えた瞬間、玄関のほうで騒がしい音がした。

 ラッセが昔からの飲み友だち、ローゲル・ヴィンテルを連れて帰宅したのだ。ハンナはぎくりと体

を震わせ、もごもごとフランスへの言いわけを口にした。またもや、自分は母親失格だ、と思った。

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 フランスは電話を手にしたまま悪態をついた。寝室のチェス盤のような市松模様の床に立っている。

床をこの柄にしたのは、数学的秩序を好む感覚にぴったりだったからだ。ベッドの両側にあるクロー

ゼットの鏡で、市松模様が果てしなく続いているように見える。模様が鏡に映って反復されているの

を見ていると、謎がそこからあふれ出してくるように思える日もあった。規則正しいパターンの中か

ら、まるで生きもののように浮かび上がってくる。脳のニューロンから思考や夢が、バイナリコード

からコンピュータプログラムが浮かび上がってくるように。だが、いまのフランスはまったく別の考

えにふけっていた。

「なあ、アウグスト。きみのお母さん、いったいどうしちゃったんだろうな」

 フランスのそばで床に座り、ピクルスとチーズを載せたパンを食べていたアウグストが、真剣なま

なざしで顔を上げた。それを見てフランスは、これからこの子が何か大人びた含が

蓄ちく

のある言葉を口に

するのではないか、という奇妙な予感に襲われた。もちろん、そんな予感は馬鹿げていた。アウグス

トはあいかわらずひと言も発しないし、ないがしろにされて生気を失ったハンナのような女性たちに

ついて、何か理解しているわけでもない。フランスがそんな予感を抱いたのはもちろん、アウグスト

の線描画のせいだった。

 絵はすでに三枚に増えていた。フランスにはそれが、芸術や数学の才能を表わしているだけでなく、

何かの知恵の結晶のようにも感じられた。どの作品も幾何学的に正確そのもので、成熟していて、複

雑で、知的障害のある子どもというアウグスト像とはまったく結びつかない。いや、結びつけたくな

い、というのが本当のところだ。というのも、これがどういうことなのか、フランスにはとうにわか

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っていた。あの有名な映画『レインマン』を観たから、というだけではない。

 自閉症児の父親として、当然、サヴァン症候群という言葉は早いうちから耳にしていた。重度の認

知障害を抱えながら、限られた分野で素晴らしい能力を発揮する人々。その才能には、並はずれた記

憶力、細部まで見てとる能力が含まれることが多い。子どもが自閉症と診断されたことへの慰めとし

て、こうした才能の発露を夢見る親は多いのだろう、とフランスには早々に察せられた。だが、その

願いが叶か

う可能性は低い。

 サヴァン症候群的な才能に恵まれているのは、自閉症児のうち十人にひとりである、というのが一

般に認められている概算であり、しかも映画『レインマン』のような突出した才能を発揮するケース

は稀ま

だ。そうした例を挙げるとするなら、自閉症の人の中には、過去数百年間の──極端なケースで

は過去四万年の──ある日付を聞いて、即座に曜日を言い当てることのできる人たちがいる。

 バスの時刻表や電話帳など、限られた範囲の知識がまるで百科事典のごとく頭に入っている人もい

る。桁数の大きな数でも暗算したり、日々の天気をすべて記憶していたり、時計を見ずに現在時刻を

ぴたりと言い当てたり、といったことができる人もいる。とにかく程度の差こそあれ驚くべきさまざ

まな才能が存在していて、そのような特性を備えた人たちが〝才能あるサヴァン〟と呼ばれている、

とフランスは理解していた。ほかの分野でハンディキャップを抱えていることを考えると、実に際立

った能力を備えている人たちである。

 さらに、もっと珍しいグループが存在し、アウグストはそこに属しているというのがフランスの希

望的観測だった。いわゆる〝天才型サヴァン〟と呼ばれる人たち──どう考えてもセンセーショナル

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としか言いようのない才能に恵まれた人たちである。その一例が、最近心臓発作で亡くなったキム・

ピークだ。キムはひとりで服を着ることもできず、重い知的障害をかかえていた。にもかかわらず一

万二千冊もの書籍を暗記し、事実に関することならほぼどんな質問にも瞬時に答えることができたと

いう。生きたデータベースのようなものだったわけだ。キムピューターというあだ名もついていた。

 音楽家もいる。レスリー・レムケは知的障害があり両眼も失っているが、十六歳のとき、夜中にい

きなり起き上がってチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を弾きはじめた。ピアノを習ったことも

練習したこともなく、テレビで一度聴いただけで完璧に演奏してみせたのだ。そして、とくに興味深

いのが、スティーヴン・ウィルシャーのようなケースだ。ウィルシャーはイギリス人の自閉症者で、

子どものころはきわめて無口で、初めて言葉を発したのは六歳のときだった。それも〝紙〟という言

葉だ。

 八歳、十歳のころにはもう、巨大な建築群を一い

瞥べつ

しただけで、細部まで完璧に描き出すことができ

た。あるとき、彼はロンドン上空をヘリコプターで飛び、家々や道路をじっと見下ろした。ヘリを降

りると、ロンドンの街全体を素晴らしく活気のあるパノラマとして描き起こした。ただ単にコピーし

ているわけではない。彼の作品は早くからすぐれたオリジナリティーを見せていた。いまやウィルシ

ャーはあらゆる面で偉大な芸術家と評価されている。彼のような少年たちのケースは興味深い。そう、

少年たち、だ。

 サヴァン症候群を示す者のうち、女性は六人にひとりしかいない。このことはおそらく、自閉症の

おもな原因のひとつとされる、母親の子宮内のテストステロン濃度が高くなりすぎることと関係があ

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る。テストステロンは胎児の脳組織を損なうことがあり、その場合、発達が遅く脆ぜ

いじやく

弱な左脳のほうが

たいてい犠牲になる。サヴァン症候群は、損なわれた左脳を右脳が補っている状態だ。

 左脳と右脳の機能には違いがある。左脳は、抽象的な思考や物事の大局をとらえる能力をつかさど

る。したがって右脳で左脳を補うと、まったく違った物事の見方をするようになる。特異なまでの細

部へのこだわりが生まれるのだ。フランスの理解が正しければ、あの信号機に対するフランスの見方

とアウグストの見方はまったく違っていた、ということになる。アウグストのほうが明らかにフラン

スよりも意識を集中していた、というだけではない。フランスの脳は、あらゆる枝葉末節を瞬時に振

るい落とし、重要な部分

─当然ながら、安全を確保すること、〝進め〟、〝止まれ〟という信号機

のメッセージそのもの──に焦点を当てた。しかもフランスのまなざしは、ほかのいろいろなこと、

とりわけファラー・シャリフのせいでぼやけていた。彼にとって交差点の風景は、記憶の連なりや、

彼女との関係に期待する気持ちとまざり合っていた。一方、アウグストはありのままを見ていたにち

がいない。

 彼は、信号機と、ちょうど道を渡ってきたどことなく見覚えのある男を、細部にわたって目に焼き

つけ、そのイメージをエッチングのごとく頭の中に保った。そして数週間が経ったいま、それを頭か

ら取り出す必要性を感じた。何よりも不思議なのは、単に信号機と男の姿が写し取られているだけで

はない、ということだ。アウグストは不安をかきたてる光をもそこに描き込んだ。フランスには、息

子が〝ほら、すごいでしょ!〟と言っているだけでなく、何か重要なことを伝えようとしている、と

しか思えなかった。何度も何度も息子の描いた絵を見つめる。すると、心にちくりと針が刺さったよ

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うな気がした。

 恐怖を感じたのだ。自分でもよくわからないが、絵の中の男に関係があることは確かだった。うつ

ろで、険しい目つきをしている。歯を食いしばっている。唇が妙に薄く、ほとんどないのではないか

と思うほどだ──もっとも、この点はあまり恐怖とは関係がないが。それでもフランスは、男を眺め

れば眺めるほど不安が増すような気がした。ふと、身も凍るような悪お

寒かん

に襲われた。虫の知らせのよ

うだった。

「息子よ、おまえを愛してる」フランスはそうつぶやいたが、自分でも何を言っているのか、ほとん

ど意識していなかった。何度かそう繰り返していたのだろう、気がつくと、その言葉への違和感を覚

えはじめていた。

 こんな言葉をかけたことなど、これまで一度もなかったのだ。そう気づいて、新たな痛みに襲われ

た。そのショックがおさまると、なんと恥ずべきことだろう、と思った。際立った才能が見つからな

ければ自分の子どもも愛せないのか?

 そうだとしたら、いかにも自分らしい。これまでずっと、結

果がすべてだ、という考えに凝り固まって生きてきたのだから。

 これまでの仕事づけの人生で、フランスは独創的でないもの、すぐれた才能が感じられないものに

は、目もくれてこなかった。スウェーデンを離れてシリコンバレーへ向かったときには、アウグスト

のことなどほとんど考えていなかった。前代未聞の発見を目の前にしていたフランスにとって、息子

は苛立ちの種でしかなかった。

 いまこそそれを変えるんだ、と彼は誓った。研究のことも、ここ数カ月の悩みや焦あ

りの種も、すべ

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て忘れて、息子に全エネルギーを傾けよう。

 とにかく、これまでとは違う人間になるのだ。

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第五章

 十一月二十日

 なぜガブリエラ・グラーネが公安警察に就職したのかは、誰にも理解できなかったが、本人がいち

ばんわかっていなかった。昔の彼女は、誰もが〝将来有望〟と口をそろえるような娘だった。ところ

がもう三十三歳なのに有名でも裕福でもなく、玉の輿こ

に乗るどころかそもそも結婚すらしていない。

ユシュホルム(

ストックホルム郊

外の高級住宅地

)時代からの女友だちはみな心配していた。

「ガブリエラ、いったいどうしちゃったの?

 このまま警察官で終わるつもり?」

 たいていはいちいち反論する気にもなれなかった。自分は警察官ではなく、分析官として引き抜か

れたのだとか、外務省時代や『スヴェンスカ・ダーグブラーデット』紙で夏季の代理執筆者として社

説を書いていた時代よりもいまのほうがずっと専門的な文章を書いているとか、そんなことをわざわ

ざ言い返す気力もなかった。いずれにせよ、仕事の内容はほとんど口外できないのだ。黙っているに

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かぎる。ステータスへの馬鹿げたこだわりなど忘れて、ただ受け入れるしかない──同じ上流階級出

身の友人たちも、言わずもがなだがインテリの友人たちも、公安警察に就職するなんて人生の大失敗

もいいところだ、と思っているのだと。

 友人たちの目に映る公安警察は、人種差別的な意図をもってクルド人やアラブ人をつけ狙い、旧ソ

連の大物スパイをかくまうためなら重大な犯罪や人権侵害も辞さない、極右の無能集団だ。そういっ

た評判を全否定するつもりはない。公安警察に能力の不足や不健全な価値判断があることは事実で、

ザラチェンコ事件はいまも大きな汚点となっている。だが、そう悪いことばかりでもない。とりわけ

粛しゆくせい

正が済んだいまでは、面白くも重要な仕事が行なわれている。世界中で起こっている激変について

最もよく理解している人たちがいるのは、ここ、公安警察だ、ともときには思う。少なくとも、新聞

の社説欄や大学の教室ではない。ここ公安警察こそ、世界で起こっている大変動をいちばんよく理解

できる場所なのだ。それでもなお、彼女はしばしば自問する──自分はどうしてこんなところに就職

したのだろう?

 どうして辞や

めないんだろう?

 おだてられたから、というのが理由のひとつだろう。当時、公安警察長官に就任したばかりだった

ヘレーナ・クラフトが、直じ

々じき

に連絡してきたのだ。あれだけのスキャンダルやマスコミによるバッシ

ングが続いた以上、公安警察は職員採用の方法を変えなければならない、と彼女は言った。イギリス

を見習って、〝ふつうの大学を卒業した、真に優秀な人材を引き入れるべきだと思うの。で、率直に

言わせてもらうとね、ガブリエラ、あなたほどの適任者はほかにいないのよ〟。その言葉だけで充分

だった。

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 ガブリエラは防諜課の分析官として採用され、のちに産業保護課へ移った。若い女性、しかも人目

を引く美人という点では不向きな任務だったが、ほかのあらゆる面では適任だった。彼女は〝パパべ

ったりの娘の典型〟、〝上流階級のお嬢ちゃん〟と言われ、それが不要な摩擦を生んだ。が、そのこ

とを除けば大成功の人事と言えた。仕事も理解も速く、従来の型にとらわれない発想力がある。その

うえロシア語もできるからだ。

 ロシア語はストックホルム商科大学時代に習得した。大学ではもちろん優等生だったが、あまり学

業を楽しんではいなかった。ビジネスの世界より大きな世界を夢見て、卒業後は外務省に応募し、当

然のことながら採用された。だが、そこでもさしたる刺激は得られなかった。外交官たちはお上品で

頭が固すぎると思った。そんなときにヘレーナ・クラフトが声をかけてきたのだ。公安警察に入って

もう五年になる。時間をかけて、やっと優秀な人物として認められるようになった。けっして楽な道

のりではなかったが。

 今日も楽な日ではなかった。天気が大荒れだからというだけではない。課長のラグナル・オーロフ

ソンがオフィスにやってきて、ユーモアのかけらもない不機嫌な顔で、仕事中に色目を使うのはやめ

ろ、と言いだしたのだ。

「色目を使う、ですって?」

「花束が送られてきたよ」

「私のせいだと言うんですか?」

「ああ、きみの責任だろう。外では礼儀正しく厳粛な態度で仕事にあたるべきだ。われわれは国の中

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枢にかかわる公的機関の代表なんだぞ」

「素晴らしいですね、課長!

 お話を聞いているといつも学ぶことがあります。おかげさまでようや

くわかりましたよ。エリクソンの研究開発部長が、ごくふつうの礼儀正しい対応と色目の違いもわか

らないのは、私のせいなんですね。ただ笑顔を見せただけで、性的な誘いにちがいないと妄想じみた

解釈をする男性がいるのは、私の責任というわけですね」

「たわごとは控えなさい」と言ってラグナルは去った。ガブリエラは後悔した。

 こんなふうに食ってかかったところで、たいていは何の効果もないとわかっている。それでも、こ

の類いのことは言われつづけて久しく、もうたくさんだった。

 そろそろ立ち上がるときだ。そう思いながら、机の上をさっと整理し、時間がなくて読めていなか

った、ヨーロッパのソフトウェア企業を狙ったロシアの産業スパイ活動に関するGCHQ(イギリス

政府通信本部)の分析報告書を出した。ちょうどそのとき、電話が鳴った。ヘレーナ・クラフトから

だったので、ガブリエラは嬉う

しくなった。ヘレーナから不満や叱責を聞かされたことは一度もない。

むしろ逆だ。

「単刀直入に言うわね」とヘレーナは切りだした。「アメリカから、ちょっと緊急かもしれない件で

電話がかかってきたんだけど。シスコの電話機を使って受けてくれる?

 安全な回線を用意したか

ら」

「もちろんです」

「よかった。向こうからの情報を解釈して、重要かどうか判断してほしいの。深刻な事態のようなの

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だけど、情報提供者の様子がなんだか妙なのよね

─そうそう、あなたのことを知っているそうよ」

「つないでください」

 電話をかけてきたのはNSAのアローナ・カサレスだった。ガブリエラは一瞬、本当に本人だろう

か、と疑った。最後に会ったのはワシントンDCで行なわれた国際会議でのことだが、そのとき講演

をしたアローナは自信とカリスマ性に満ちていた。講演のテーマは、アローナのちょっとした婉え

んきよく

曲表

現を借りるなら〝通信情報や電子情報の積極的傍受〟──つまりはハッキングだった。その後のパー

ティーで、ガブリエラはドリンク片手に彼女としばらく話をした。そして心ならずもアローナにすっ

かり魅了された。アローナはシガリロを吸い、低く官能的な声をしていて、パンチの効いた言いまわ

しやジョーク、それも往々にしてセックスがらみの冗談を連発した。ところが、いま電話をかけてき

ているアローナはずいぶん混乱した様子で、どういうわけか話の筋を見失ってしまうこともあった。

 アローナはすぐに落ち着きを失うタイプではけっしてない。ふだんなら話が脱線することもない。

四十八歳で、大柄で、思ったことを遠慮なく口にする。胸は大きく、小さく知的な瞳ひ

とみに

は、どんな相

手もたちどころに不安にさせる力があった。まるで相手の心を見透かしているようなのだ。上司にも

気を遣わず、相手が誰であろうと突っかかる──たとえそれが、訪ねてきた司法長官であっても。エ

ド・ザ・ネッドが彼女を気に入っているのはそのためでもある。ふたりとも、地位というものをさほ

ど気にかけていない。興味があるのは、能力があるか否かだけなのだ。そんなアローナにとっては、

スウェーデンのような小国の公安警察長官など、簡単にあしらえる相手のはずだった。

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 それなのに、いつもどおりの通信安全確認が終わると、アローナはいつものペースを失っていた。

もっとも、原因はヘレーナ・クラフトとはまったく関係がない。ちょうどそのとき、アローナの背後

の共用オフィスで事件が勃発したからだ。エドの怒りの爆発には全員が慣れている。些さ

細さい

なことにで

も机を拳こ

ぶしで

たたきながらわめき散らす男だ。が、今回はそれとはレベルが違う、とアローナはたちま

ち感じとった。

 エドはすっかり動けなくなっているようだ。アローナが電話で支離滅裂な言葉を並べているあいだ

に、人々がエドのまわりに集まってきた。何人もが携帯電話をポケットから取り出している。全員の

顔に動揺や恐怖が表われていた。だが、アローナはなんとも愚かなことに──あるいはショックが大

きすぎたのかもしれないが──電話を切ることも、あとでかけ直していいかと尋ねることもしなかっ

た。ただ、ガブリエラ・グラーネにつないでほしい、と言い、希望どおり彼女と電話がつながった。

ワシントンDCで会った、あの若く魅力的な分析官。あのときは顔を合わせるやいなや言い寄った。

応えてはもらえなかったが、なんとも魅力的だという印象を抱いたまま別れた。

「もしもし、お久しぶり。元気?」

「ええ、元気です」とガブリエラは答えた。「外はひどい嵐ですけど、それを除けば大丈夫」

「このあいだはとても楽しかったわね」

「ええ、本当に。翌日はずっと二日酔いでしたけど。でも、また私を誘うために電話をかけていらし

たわけではありませんよね?」

「そうね、残念ながら違うわ。電話したのは、あるスウェーデン人研究者に身の危険が迫っている、

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という情報をつかんだからよ」

「誰ですか?」

「ずいぶん長いこと、情報の解釈に手間取っててね。どこの国の話なのかすらわからなかった。使わ

れてるのは隠語ばかりだし、通信の大部分は暗号化されてて解けなかったし。それでもね、よくある

ことだけど、小さなヒントが……ちょっと、なんなのこれ……」

「えっ?」

「ちょっと待って!」

 アローナのコンピュータがふっと点滅したと思ったら、電源が切れた。どうやら共用オフィスじゅ

うで同じことが起こっているらしい。どうしたらいいのだろう、とアローナは一瞬考えた。が、この

まま電話で話しつづけることにした。少なくとも、いまのところはまだ切らなくていい。ただの停電

かもしれないが、ほかの照明はちゃんとついている。

「お待ちします」とガブリエラが言った。

「どうもありがとう。無礼を許してね。ちょっと大変なことになってて。どこまで話したっけ?」

「小さなヒントが、っておっしゃってました」

「そうだったわね。そうなの、パズルのピースを組み合わせるような作業だったわ。どんなにプロに

徹しようとしても、そそっかしい人って必ずいるのよね。あと……」

「あと?」

「……口の軽い人も必ずいる。住所なんかをぽろっと漏らしちゃう人。今回はむしろ……」

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 アローナはまた黙り込んだ。組織のトップのひとりで、ホワイトハウス上層部ともつながりのある

ジョニー・イングラムが、共用オフィスに入ってきたのだ。イングラムはいつものごとく、落ち着い

た様子で上流階級の人間らしく振る舞おうとしていた。遠くのほうに座っているグループとジョーク

を交わそうとさえした。が、誰もだまされはしなかった。その洗練された小麦色の肌の下に──オア

フ島にあるNSAの暗号業務センターを率いていた時代の名残で、いまも一年中こんがりと焼けてい

るのだ──動揺が隠されている。まなざしがそう言っていた。どうやら全員に話を聞くよう呼びかけ

ているようだ。

「もしもし?」受話器の向こうでガブリエラが言う。

「ごめんなさい、いったん電話を切るわ。あとでかけ直すわね」とアローナは言い、受話器を置いた。

その瞬間、アローナは不安になった。

 何か大変なことが起こったというムードが空気中に漂っている。また大規模なテロがあったのかも

しれない。だが、ジョニー・イングラムは冷静なふりを続けていた。両手をせわしなく動かし、鼻の

下や額に汗をかきながらも、深刻なことは何も起こっていないと彼は繰り返し強調した。ただ、あら

ゆる安全対策にもかかわらず、ウイルスがイントラネットに入りこんだのだという。

「念のためサーバーをシャットダウンした」とイングラムは言い、それで場の雰囲気は一瞬和らいだ。

みんな〝なんだ、ウイルスか〟と思ったようだ。〝それなら、べつにたいしたことじゃないだろう〟

 ところが、その後、ジョニー・イングラムの話が冗長で曖あ

昧まい

になってきたので、アローナは思わず

大声を上げた。

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「要点を言ってください!」

「詳しいことはまだよくわからない。ついいましがた起こったことだ。コンピュータへの不正侵入の

可能性がある。何かわかりしだいすぐに知らせる」とジョニー・イングラムは答えたが、まだ動揺を

隠せずにいる。室内にざわめきが広がった。

「またイラン人ですか」誰かが尋ねる。

「おそらく……」とイングラムは答えようとした。

 が、それ以上は続けられなかった。本来なら初めからイングラムに代わって全員の前に立ち、何が

起こったのか説明するはずだった人物が、ぶっきらぼうに彼の話をさえぎり、熊のような体を起こし

てのそりと立ち上がったからだ。その迫力は誰もが認めないわけにはいかなかった。ついさっきまで

ショックに打ちのめされていたとしても、エド・ニーダムはいまや決然たる覚悟のオーラを放ってい

た。

「違う」と彼は吐き捨てるように言った。「ハッカーのしわざだ。いまいましい、胸くそ悪いスーパ

ーハッカーのしわざだ。見つけ出して金玉をぶっつぶしてやる」

 ガブリエラ・グラーネが家に帰ろうとコートをはおったところで、アローナ・カサレスから二度目

の電話が入った。ガブリエラは苛立った。さきほどの会話は支離滅裂だったし、嵐が手に負えなくな

る前に帰宅したかったからだ。ラジオのニュースで、風は秒速三十メートルに達し、気温はマイナス

十度まで下がるだろうと言っていた。今日の服装では薄着すぎる。

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「遅くなってごめんなさい」とアローナ・カサレスは詫わ

びた。「午前中、ずっと大変だったの。大混

乱よ」

「こっちもです」ガブリエラは礼儀正しく返事をし、時計を見た。

「でも、さっきも言ったように、大事な話があるの。少なくとも私はそう思ってる。判断は難しいと

ころだけれど。ちょうど最近、あるロシア人グループの調査を始めたところでね。この話はしたかし

ら?」

「いいえ」

「あら、そう。グループにはおそらくドイツ人やアメリカ人もいる。スウェーデン人も何人かいる可

能性がある」

「どんなグループなんですか?」

「犯罪組織。それもかなりレベルの高い組織と言わざるを得ないわね。銀行強盗とか麻薬の売買とか、

そういうことはもうやってなくて、代わりに企業秘密や極秘のビジネス情報を盗んでいる」

「悪意のハッカーというわけですね」

「ただのハッカーじゃないわ。脅迫したり、賄わ

いろ賂

を贈ったりもする。殺人とか、そういう昔ながらの

犯罪にも手を染めているかもしれない。でも正直なところ、わかっていることはまだ少ないの。一部

の隠語と、未確認のつながり、それから何人かの実名ぐらいよ。もっとも下っ端の若いコンピュータ

・エンジニアだけど。まあ要するに、このグループは高度な産業スパイ活動に従事してる。この件が

私のところにまわってきたのはそのためでもあるの。アメリカの最先端技術がロシア人の手に落ちる

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おそれがある、とまで私たちは考えてるのよ」

「なるほど」

「でも、このグループの尻し

つぽ尾

をつかむのは簡単じゃない。複雑な暗号を使っていて、いくら頑張って

もリーダー層には近づけない。わかったのは、リーダーがサノスと呼ばれていることだけ」

「サノス?」

「そう。ギリシャ神話の死の神、タナトスに由来する名前ね。夜の神ニュクスの息子で、眠りの神ヒ

ュプノスの双子の兄弟」

「ずいぶんドラマチックですね」

「むしろ子どもっぽいと言うべきね。サノスはマーベル・コミックス発行の漫画に登場する悪の破壊

者よ。ほら、ハルクとかアイアンマンとかキャプテン・アメリカとか、そういうヒーローが主人公の

漫画。そもそもあまりロシア的ではないし、何よりも……何と言ったらいいかしら……」

「ふざけていて、傲ご

慢まん

、ですか?」

「そう。まるで生意気な大学生が私たちをからかってるみたい。いらいらするわ。正直、この件には

気がかりなところがたくさんある。だから、通信傍受の結果、このネットワークから離反者が出たら

しいとわかったときには、ものすごく興味を引かれたわ。ひょっとしたらその人物が、ちょっとした

内部情報を流してくれるかもしれない──組織よりも前に私たちがその人をつかまえられれば、の話

だけれど。でも、詳しく調べてみたら、どうやら私たちの思っていたのとは事情が違ったらしいの

よ」

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「どういうことですか?」

「離反者は犯罪者ではなくて、きちんとしたふつうの人だった。この組織がスパイを送り込んでいた

企業で働いていて、そこを辞や

めたらしいの。たぶんふとしたきっかけで、何か重大なことを知ってし

まったんでしょうね」

「それで?」

「その人はいま、重大な身の危険にさらされている、というのが私たちの判断。警護をつけなきゃな

らない。ところがつい最近まで、彼の居場所がまったくわからなかった。彼が勤めていた企業名すら

不明だった。でも、ようやく突きとめられたと思う。実はここ数日の話だけれど、組織の人間がうっ

かりこの人のことをほのめかして、〝あいつのせいで、いまいましいTが全部水の泡だ〟と言ったの

よ」

「いまいましいT?」

「ええ。まるで暗号みたいな、妙な表現でしょう。でも幸いなことに、調べれば出所のわかる表現で

もあったのよ。もちろん〝いまいましいT〟だけでは何もわからないわ。でも〝T〟だけで、企業と

のつながりを検索すると

─しかもこれはおそらくハイテク企業の話だから、それを踏まえて調べ

ると、必ず同じところにたどり着く。ニコラス・グラントと、彼のモットー。〝寛ト

容ランス〟、

〝才タレ

能ント

〟、

〝緊タ

イトネス

密性〟」

「ソリフォン社ってことですか?」

「というのが私たちの結論よ。少なくともそう考えると腑ふ

に落ちるわ。そこで、誰が最近ソリフォン

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を辞めたか調べはじめたの。しばらくは何もつかめなかった。あの会社は出入りが激しいから。そう

いう考え方のもとに成り立っている会社なんだろうと思うし。才能のある人が入ってきては去ってい

く、それを推奨している会社なの。でもそこで、例の三つのTについて考えてみた。グラントがどう

してこれをモットーにしているかわかる?」

「いいえ、あまり」

「クリエイティブであるためにはこの三つが必要だ、っていう考え方なのよ。型破りなアイデアも型

破りな人たちも受け入れるには、寛容の精神が必要。ふつうとは違う人たち、マイノリティに対して

開かれていればいるほど、新しい考えを受け入れることができる。ほら、リチャード・フロリダ

(一九五七年〜。ア

メリカの社会学者)の〝ゲイ指数〟と同じ考え方よ。私みたいな人間を受け入れる寛容性のある組織は、

オープンでクリエイティビティが高いということになる」

「偏見に満ちた、同じような人ばかりの組織は、何も生み出せないってことですね」

「そのとおり。それから、才能ね──グラントによれば、才能というのは単に良い結果を出すだけで

はない。ほかの才能をも引き寄せる。そこに入りたいと思わせる環境をつくり出す。だからグラント

は最初から、適材適所のスペシャリストを探すよりも、むしろこの業界で天才と呼ばれる人たちを引

き込もうとした。才能ある人たちに方向を決めさせようと考えた、その逆ではなくね」

「じゃ、緊密性、というのは?」

「才能ある社員たちは密に接すべし、という意味よ。誰かに会うのに、面倒な手続きは邪魔になるだ

け。アポを取る必要も、秘書を通す必要もない。ただオフィスに入っていってディスカッションすれ

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ばいい。アイデアはよどみなく交換すべき。で、あなたも知ってのとおり、ソリフォンは目覚ましい

成長を遂げた。いろいろな分野に画期的な技術を提供してる。ここだけの話、実はNSAにも提供し

てくれてる。でもそこに、新たな天才が現われた。あなたの国の人。そして、彼のせいで……」

「……いまいましいTが全部水の泡になった」

「そのとおり」

「フランス・バルデルですね」

「ご名答。バルデルという人が、寛容とか、緊密性とかいうモットーを尊重できない人だとは思えな

い。それなのに、彼は最初からまわりに毒をばらまくような態度で、誰とも知識を共有しようとしな

かった。社内のエリート研究者たちのなごやかな雰囲気を、あっという間にぶち壊してしまった。周

囲の人たちに泥棒だの模も

倣ほう

者しや

だのと言いがかりまでつけたらしいわ。しかも創業者のニコラス・グラ

ントとも派手に喧け

んか嘩

した。でも、グラントは詳しくは語りたがらないの。プライベートな話だと言う

だけで。その直後、バルデルは辞職した」

「そうみたいですね」

「ええ、彼が出ていって、社員の大多数は喜んだでしょうね。社内の雰囲気が良くなって、少なくと

もそれなりの信頼関係が戻ってきたから。でも、ニコラス・グラントだけは喜ばなかったわ。とりわ

け、彼の弁護士たちが喜ばなかった。バルデルがソリフォンで開発した成果を持ち出してしまったか

らよ。真相は誰にもわからず、噂はころころ変わるけれど、バルデルはソリフォンが開発を進めてい

た量子コンピュータに革命を起こすセンセーショナルな何かを発見した、と一般には言われてるわ」

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「でも法律上は、彼の発明品はソリフォンの所有物であって、彼個人のものではありませんよね」

「そのとおり。バルデルは周囲の人たちを泥棒呼ばわりしていたけれど、結局は彼自身が〝盗ぬ

人つと

〟だ

ったというわけ。ほどなく裁判になるでしょうね。ただし、バルデルがつかんだ情報のせいで、ソリ

フォンの大物弁護士たちが尻込みすれば話は別よ。情報がバルデルの生命保険代わりになっていて、

バルデルも向こうにそう伝えてるようだし、実際それでうまくいく可能性もある。でも、最悪の場合

……」

「彼の死につながる可能性もある」

「少なくとも私はそれが心配なの。何か重大なことが起こりつつある、そんな兆しが日に日に強まっ

てる。あなたの上司から聞いたところによると、あなたならパズルのピースをいくつか提供してくれ

るかもしれない、ということなんだけど」

 ガブリエラは外の嵐に目をやった。何もかも投げ出して一刻も早く家に帰りたい。それなのに、彼

女はコートを脱ぎ、椅子に座り直した。ひどく落ち着かない気分だった。

「どんなことを知りたいんですか?」

「バルデルは何を知ったんだと思う?」

「それはつまり、あなたがたはバルデルの盗聴にもハッキングにも失敗した、ということですか?」

「それはノーコメントよ、かわいいガブリエラ。ねえ、あなたはどう思うか訊いてるのよ」

 ガブリエラは、フランス・バルデルがごく最近、彼女のオフィスの戸口に現われて、自分は〝新た

な人生〟を夢見ているのだ、とつぶやいたときのことを思い返した。どういう意味なのかはよくわか

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らなかったが。

「ご存じだと思いますが」とガブリエラは切りだした。「バルデルはスウェーデンにいたときから、

自分の研究が盗まれたと主張していました。FRA(スウェーデン国防電波局)がかなりの規模の調

査をして、彼の主張の一部が正しいことを証明しましたが、それ以上は突きとめられませんでした。

私が初めてバルデルに会ったのはそのときです。あまり好感はもてませんでした。頭の痛くなるよう

な話し方をするし、自分や研究に関係のないことにはまるで無知だし。こんな偏か

たよっ

た人間になってし

まうのなら、どんなに成功したって価値はない、と思ったのを覚えてます。こんな態度でないと世界

的に有名になれないのなら、私はたとえ夢の中でも有名になんかなりたくない、とも思いました。で

も、そんなふうに思ったのは、彼に対する判決の影響もあるかもしれません」

「親権についての判決ね?」

「そうです。当時、バルデルは自閉症の息子の養育権を完全に失ったあとでした。息子をすっかり放

置していて、彼の本棚の中身がぜんぶ息子の頭の上に落ちてきたのに、それすら気づかなかったんで

す。だから、ソリフォンで全員を敵にまわしていたと聞いても、私はまったく驚きませんでした。自

業自得だとすら思ってました」

「でも、そのあとは?」

「そのあと、バルデルはスウェーデンに帰ってきたので、彼に何らかの警護をつけるべきだという話

がうちの内部で持ち上がりました。それで私がまた会うことになりました。ほんの数週間前のことで

すが、なんとも信じがたい再会でした。彼はまったく別人のようになっていました。顎あ

ひげを剃そ

って、

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髪形を整えて、体重も落としていましたが、それだけではありません。話し方が控えめになっていて、

不安そうにすら見えました。以前は何かに憑つ

かれたようだったのに、そんな様子は微み

塵じん

もありません

でした。これからの裁判が心配ですか、と尋ねたのを覚えてます。そうしたら、バルデルは何と答え

たと思います?」

「さあ」

「皮肉たっぷりにこう言ったんです。われわれはみな法の下に平等だから、何も心配していない、っ

て」

「どういう意味かしら?」

「人はみな平等──お金さえ払えば。自分の世界では法律なんて、自分みたいな人間を突き刺す剣で

しかない、とも言ってました。ですから、ええ、彼は不安を抱えていたのです。彼が握っている情報

も不安の種でした。ひとりで抱えているには重すぎる情報なんです。たとえ自分の命を救ってくれる

情報だとしても」

「どんな情報かは言わなかったの?」

「最後の切り札を失いたくない、と言ってました。敵がどこまでやるつもりなのか、しばらく様子を

見たい、と。でも、彼が動揺しているのはありありとわかりました。一度、ぼくを傷つけたがってい

る人間がいる、とこぼしたこともありました」

「傷つけたがってるって、どういうふうに?」

「身体的な意味ではない、と彼は言ってました。狙われてるのは自分の研究と名誉だろう、って。で

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も、本当にその程度で終わると本人が思っていたかは疑問です。そこで、番犬を飼ったらどうかと提

案してみました。何はともあれ、郊外の広すぎる邸宅に住んでるんだから、ペットとしてもちょうど

いいでしょう、って。でも却下されました。きつい口調で、いまは犬なんか飼えない、って」

「どうしてかしら?」

「わかりません。でも、何かが彼の肩に重くのしかかっていることはわかりました。私が彼の家に最

新式の警報システムをつけるよう手配したときにも、大声を上げて反対するようなことはありません

でした。つい先日、設置を終えたばかりです」

「誰が設置したの?」

「ミルトン・セキュリティーという、うちがよく使っている警備会社です」

「よかった。それはよかったわ。けど、私はそれでも、バルデルに安全な場所へ移ってもらうことを

提案したい」

「そんなに深刻なんですか?」

「少なくともその危険はある。危険がある、というだけで充分でしょう。違う?」

「おっしゃるとおりです」とガブリエラは答えた。「この件に関する資料を送っていただけません

か?

 すぐに上司と話し合ってみます」

「そうねえ──でもね、いまは何ができるのかよくわからないのよ。実はさきほど……かなり深刻な

コンピュータ障害が起きてしまって」

「よりによってあなたがたのような機関が、そんな問題に見舞われていていいんですか?」

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「そうなのよ。おっしゃるとおり。まったくおっしゃるとおりだわ。また連絡するわね、ガブリエ

ラ」アローナはそう言って電話を切った。ガブリエラはそのまま数秒ほど動かず、さらに勢いを増し

て窓を打つ外の雨を眺めた。

 それからブラックフォンを取り出し、フランス・バルデルの番号を押した。何度も繰り返しかけた。

彼に警告して、いますぐ安全な場所へ移るよう伝えるためだけではない。ふと彼と話がしたくなった

のだ。彼がこう言ったときの真意を知りたい、と思った。

「ここ何日かは、新たな人生を夢見ているんだ」

 だが、そのときフランス・バルデルは人知れず──知らされても誰も信じないだろうが──息子に

新たな線描画を描かせることに夢中になっていた。まるで別世界から来たような独自の輝きを放つ、

あの線描画を。

第六章

 十一月二十日

 コンピュータ上でその言葉が点滅した。

[任務完了!]

 プレイグは気でもふれたかのようなかすれ声で、何もない空間に向かって叫び声を上げた。やや軽

はずみな行動だったかもしれないが、同じアパートの住人にたとえこの声が聞こえたとしても、その

意味まではわからないだろう。プレイグの部屋は、外国の防衛拠点に奇襲を仕掛けている現場には、

とても見えなかった。

 むしろ福祉に頼って生活している人間の棲す

み家だ。プレイグはスンドビーベリのホーグクリンタ通

りに住んでいる。まったく魅力に欠けた界か

隈わい

の、色いろ

褪あ

せた煉れん

瓦が

造りの平凡な四階建てのアパートだ。

彼の部屋について言えば、褒ほ

め言葉はひとつも見つからない。空気がよどんでいて、すえたにおいが

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第六章

 十一月二十日

 コンピュータ上でその言葉が点滅した。

[任務完了!]

 プレイグは気でもふれたかのようなかすれ声で、何もない空間に向かって叫び声を上げた。やや軽

はずみな行動だったかもしれないが、同じアパートの住人にたとえこの声が聞こえたとしても、その

意味まではわからないだろう。プレイグの部屋は、外国の防衛拠点に奇襲を仕掛けている現場には、

とても見えなかった。

 むしろ福祉に頼って生活している人間の棲す

み家だ。プレイグはスンドビーベリのホーグクリンタ通

りに住んでいる。まったく魅力に欠けた界か

隈わい

の、色いろ

褪あ

せた煉れん

瓦が

造りの平凡な四階建てのアパートだ。

彼の部屋について言えば、褒ほ

め言葉はひとつも見つからない。空気がよどんでいて、すえたにおいが

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するだけではない。机の上にはあらゆるゴミが散らばっている。〈マクドナルド〉の包み紙、コカ・

コーラの缶、しわくちゃになったメモ用紙、クッキーの食べかす、洗っていないコーヒーカップ、空か

っぽになったキャンディーの袋。ゴミ箱までたどり着いたゴミもないではないが、そのゴミ箱自体、

何週間も放置されている。この部屋で足の裏にパンくずや砂をつけることなく一メートル歩くのは不

可能だった。が、彼を知る人であれば、さして驚きはしないだろう。

 加えてプレイグは、必要がなければシャワーも浴びず着替えもしない。コンピュータの前を離れる

ことなく暮らしている。さして忙しくない時期であっても、彼の見かけは悲惨だった──体は肥満で

ぶよぶよとふくれ、身だしなみもなっていない。いかにもそれらしい〝山や

羊ぎ

ひげ〟を生やそうとして

いたらしいが、それもいまではボサボサの藪や

のようになっている。巨人と言っていいほど大柄で、姿

勢が悪く、体を動かせばぜいぜいとあえぐ男だ。が、秀でている面もある。

 パソコンに向かう彼は、まさに巨匠、サイバースペースを自由自在に飛びまわるハッカーだ。この

分野で彼の上を行く猛も

者さ

はひとりしかおらず──実を言えば女性なのだが──プレイグの指がキーボ

ード上を舞うさまは見事というほかない。インターネットの世界では軽々としなやかに動ける彼も、

もうひとつの世界、もっと実体のある世界では、重々しくのそのそと動くことしかできない。上階の

住人が──たぶんヤンソンさんだろう──床をバンバンたたいているのが聞こえる中で、プレイグは

受け取ったメッセージにこう返信した。

[ワスプ、この天才め。きみの銅像をどこかに建てるべきだな!]

 それから楽しげな笑みをうかべて椅子の背にもたれ、一連の出来事を最初から振り返ってみること

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にした。というより、しばらく勝利の味を噛か

みしめたかった。ワスプからは一部始終を聞き出さねば

なるまい。それから、彼女がきちんと痕跡を消してきたかどうかも確認したほうがいいかもしれない。

誰にも逆探知をさせてはいけない。誰にも!

 強大な組織にいたずらを仕掛けたのは、これが初めてではない。だが、今回はレベルが違う。プレ

イグが属する秘密組織〝ハッカー共和国〟でも反対意見は多かった。何よりワスプ本人が反対してい

た。ワスプは相手がどんな政府機関であれ個人であれ、必要とあらば闘うことを厭い

わない人間だ。が、

ただ喧け

んか嘩

したいからというだけで喧嘩を売るのは好まない。

 子どもじみたハッカー行為は、彼女の趣味ではないのだ。彼女は自分の力を誇示したくてスーパー

コンピュータに侵入するタイプではない。つねにはっきりとした目的を求め、あのいまいましい結果

分析を欠かさない。長期的なリスクと短期的なニーズの充足を秤は

かりに

かける。その意味で、NSAにハ

ッキングを仕掛けるのが理に適か

っているとはとても言いがたかった。それなのに結局、ワスプは説得

に応じた。なぜかは誰にもわからなかった。

 刺激が欲しかったのかもしれない。ひどくつまらない思いをしていて、退屈のあまり死ぬ前に、ち

ょっとした混乱を起こしてやろう、と考えた可能性もある。あるいは、ハッカー共和国の何人かが推

測したとおり、すでにNSAとワスプは衝突状態にあって、ハッキングは彼女の個人的な復讐にほか

ならないのかもしれない。だが、この意見に懐疑的なメンバーは、ワスプはきっと何かの情報を探し

ているのだ、と主張した。父親であるアレクサンデル・ザラチェンコがイェーテボリのサールグレン

スカ大学病院で殺されて以来、彼女はずっと何かを探りつづけているではないか、と。

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 とはいえ、正確なところは誰にもわからなかった。ワスプはいつも秘密を抱えている。まあ、動機

などどうでもいいだろう──メンバーたちはそう自らに言い聞かせ、納得しようとした。ワスプが協

力を申し出ているのだから、ありがたく受け取るまでだ。いかにもやる気のなさそうな態度をとられ

ようが、そもそも感情らしきものをろくに見せてくれなかろうが、気にしないのがいちばんだ。少な

くともワスプに邪魔をされることはなくなった、それだけでもありがたい。

 ワスプが参加したことで、プロジェクトの見通しが明るくなった。一般市民の大半とは異なり、ハ

ッカー共和国のメンバーはみな、近年のNSAの行動がその権限を大いに逸脱していると知っていた。

今こん

日にち

NSAが盗聴しているのは、治安を脅かすテロリストなどの連中や、外国の首相や権力者などの

要人にとどまらない。全人類と言っていい。何万、何億、何兆もの通話、通信、インターネット上で

の活動が、監視され、記録されている。しかもNSAは日々歩を進め、われわれの私生活にじわじわ

と入りこんできている。われわれを監視する巨大で邪悪なひとつの目へと変貌を遂げている。

 もちろん、ハッカー共和国のメンバーにしたって褒ほ

められたものではない。例外なく全員が、デジ

タル世界で自分とは何の関係もないはずの領域に侵入したことがある。言ってみればそれがゲームの

前提だ。ハッカーは、良くも悪くも境界線を越える。自分の力だけを頼りにルールに挑み、自らの知

の領域を広げる。私的なものと公的なものとの境目を往々にして無視する。

 が、モラルがないわけではなく、何よりも権力、とりわけ透明性に欠ける権力がどのように腐敗す

るか、身をもって知っている。節操のない悪質なハッキング攻撃を行なっているのは、もはや反逆者

やアウトローではなく、自国民を管理したがっている巨大な政府機関である、という事実に、全員が

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不快感を抱いていた。そこで、プレイグ、トリニティ、ボブ・ザ・ドッグ、フリッパー、ゾッド、キ

ャットなど、ハッカー共和国のメンバーたちは反撃を決意した。NSAをハッキングして、何らかの

形でいたずらしてやろう、と考えたのだ。

 とはいえ、簡単に実行できることではない。それはまるで、フォート・ノックス陸軍基地にあるア

メリカ政府所有の金塊保管所から金を盗み出すようなものだろう。しかも傲ご

岸がん

不ふ

遜そん

な彼らは、システ

ムに侵入しただけで満足するつもりはなかった。システムを支配したい。スーパーユーザー権限を─

─リナックス用語で言えば〝ルート権限〟を手に入れたい。そのためには、知られざるセキュリティ

ーホール、いわゆるゼロデイを発見する必要がある。まずはNSAのサーバープラットフォームをあ

たり、次にイントラネット〝NSANet〟の中を調べる。NSAによる全世界を対象とした通信傍

受の拠点だ。

 まずはいつものごとく、ちょっとしたソーシャル・エンジニアリング(

人をだますなど、コンピュータに危害

を与えない方法で、パスワードなどの

秘密情報を盗

み出すこと

)から開始した。イントラネットへの複雑なパスワードを知っているシステムアドミニス

トレータやインフラアナリストの名前を突きとめなければならない。セキュリティー保持の手順をさ

ぼる無精者がいればなおいい。実際、独自のルートで四、五人の名前が手に入った。そのうちのひと

りが、リチャード・フラーという男だった。

 リチャード・フラーはNSAの情N

報システム事件対応チームで働いていた。NSAのイントラネッ

トを監視して、情報を漏らす者や潜入者を絶えず探しつづけるのが任務だ。いかにも非の打ちどころ

のなさそうな男だった。ハーバード大学法学部卒で、共和党を支持していて、元クォーターバック。

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履歴書だけ見れば愛国者の理想と言っていいだろう。だが、ボブ・ザ・ドッグはフラーの元恋人から、

彼がひた隠しにしてはいるが実は双極性障害を患わ

ずらっ

ていること、コカイン中毒の可能性もあることを

聞き出した。

 フラーは興奮すると、セキュリティー対策のサンドボックスを使わずに直接ファイルやドキュメン

トを開くなど、ありとあらゆるへまをしでかすらしい。やや調子のよすぎるきらいはあるが、かなり

ハンサムな男で、諜報員というより映画『ウォール街』のゴードン・ゲッコーのような金融マンを思

わせる。そこで誰かが──おそらくボブ・ザ・ドッグ本人だろうが──〝ワスプがこいつの住むボル

チモアまで行ってこいつと寝て、ハニートラップを仕掛ければいいんじゃないか〟と不用意に提案し

た。

 ワスプは、〝どいつもこいつも、みんな地獄に堕ちればいい〟と返してきた。

 メンバーたちは次いで、囮お

とりと

なるドキュメントを書こう、と思いついた。フォート・ミードのNS

A本部に情報漏洩者や潜入者がいるという衝撃的なドキュメントを書いて、これをプレイグとワスプ

の手になる独自のスパイウェア、高度な〝トロイの木馬〟に感染させておくのだ。計画としては、イ

ンターネット上に手がかりとなるネタをばらまいて、フラーをこのファイルまで誘導する。うまくい

けばフラーは興奮のあまり、セキュリティー保持のための手順を怠お

こたる

かもしれない。計画としては悪

くなかった。まったく悪くなかった。何より、追跡されるリスクを冒してこちらから侵入しなくても、

NSAのコンピュータシステムに入りこめるかもしれないのだ。だが、ワスプはこのアイデアも却下

した。

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 フラーの馬鹿がへまをするのをじっと待っているつもりはない、と彼女は言った。他人のミスに頼

るのは嫌だという。そもそも彼女は頑固で、何かと人の言うことに逆らうのがつねだ。だから、彼女

がいきなり、この作戦は自分がひとりでやる、と言いだしたときにも、誰も驚かなかった。反対や抗

議の声が多少あったことは事実だが、結局、メンバーたちのほうが折れた。もちろん、いくつも指示

を出したうえでのことだ。ワスプは、メンバーたちが突きとめたシステムアドミニストレータたちの

名前や情報をきちんとメモし、いわゆるフィンガープリント・オペレーション──サーバープラット

フォームとオペレーティングシステムの調査を手伝ってほしい、とも言ってきた。だが、その後、ハ

ッカー共和国に対しても世界に対してもドアを閉ざしてしまった。プレイグは、彼女が自分のアドバ

イスをきちんと聞いていたとは思えない、と感じた。たとえば、自分のハンドルネームを使うなとか、

自宅ではなく遠く離れたホテルに偽名で宿泊してそこで作業しろとか、そういったことだ。NSAの

猟犬どもが、Torネットワーク(

インターネット上で匿名で

の通信を可能にする技術

)の迷路をたどって、逆探知に成功しないと

もかぎらない。それでも、ワスプは自分のやり方を貫いた。プレイグにできたのは、スンドビーベリ

の自宅のパソコンの前に向かって座り、神経をすり減らしながら待つことだけだった。だから、ワス

プがいったいどうやって成功したのか、彼には知る由よ

もなかった。

 確実にわかっていることはただひとつ──彼女がなしとげたことは偉大で、もはや伝説の域に達し

ている、ということだ。外で嵐がうなる中、プレイグは机の上のゴミを少々払いのけ、パソコン画面

に向かって身を乗り出してメッセージを書いた。

[さあ、教えろよ! 

どんな気持ちだ?]

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[空から

っぽ]という答えが返ってきた。

 空っぽ。

 本当にそう感じる。リスベット・サランデルはこの一週間、ほとんど眠っていなかった。飲食の量

もおそらく足りていない。頭痛がするし、目は充血して両手が震えている。できることなら目の前に

ある装置をすべて床に払い落としてしまいたい。その一方、心のどこかで満足感を味わってもいた。

プレイグやハッカー共和国のメンバーたちが思っているような理由でではない。調査していた犯罪組

織について新たなことがわかり、これまでは想像し推測することしかできなかったつながりが証明さ

れたからだ。が、そのことは誰にも言うつもりはなかった。彼女がただNSAのシステムをハッキン

グしたいからそうしたのだ、とみんなが思っていること自体、リスベット本人には驚きだった。

 自分はホルモン過剰なティーンエイジャーでもなければ、刺激を求める目立ちたがりな愚か者でも

ない。これほどリスクの高い賭けに身を投じる以上、きわめて明確で具体的な目的がなくてはならな

い。確かに、ハッキングがかつての彼女にとって、ただの道具以上の意味をもっていたことは事実だ。

子ども時代の最悪の時期、それは彼女なりの逃避の手段であり、息詰まるような生活を少しだけ楽に

してくれるものだった。コンピュータの力を借りれば、目の前に立ちはだかる壁もバリアも粉砕して、

束の間の自由を味わうことができた。いまもそういう気持ちがまったくないとは言えない。

 それでも、いちばんの目的は追跡だ。あの日の早朝、ルンダ通りの部屋のマットレスをリズミカル

に、執し

拗よう

にたたく拳こぶしの

夢から目覚めて以来、ずっと追いかけつづけている。楽な道のりとは言いがた

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かった。敵は煙幕の後ろに隠れている。リスベット・サランデルがここのところひどく気難しく不機

嫌なのは、そのせいかもしれなかった。まるで新たな暗闇を放っているかのようで、オビンゼという

名の体も声も大きいボクシングトレーナーや、男女を問わずベッドをともにする二、三人の相手を除

けば、ほとんど誰とも顔を合わせることがない。リスベットは、これまでにも増していかにもトラブ

ルを起こしそうな風貌になっていた。髪はぼさぼさで目つきは悪く、ときどき努力してはいるものの、

礼儀正しい言いまわしはいっこうに上達しなかった。

 彼女は真実を浴びせかけるときだけ口を開き、あとは黙っていた。そして、ここフィスカル通りの

住まいは……話しだせば長くなる。子どもが七人いても住めそうなほど広く、引っ越してきてから何

年も経つのに、いまだに家具も装飾もろくになく、アットホームな雰囲気は微塵もない。ところどこ

ろにイケアの家具が適当に置いてあるだけだ。ステレオセットすら持っていないが、音楽の良さがさ

っぱりわからないのが理由のひとつかもしれない。ベートーヴェンの楽曲より、微分方程式のほうが

音楽らしいと思う。彼女には金が有り余っていた。悪徳実業家ハンス゠エリック・ヴェンネルストレ

ムから盗んだ金は、いまや五十億クローナ強に増えている。が、どういうわけか──実に彼女らしい

ことではあるが──これだけの財産を手にしても、彼女の人格はまったく変わらなかった。強いて言

うなら、金がうなるほどあるとわかっているせいで、さらに怖いもの知らずになっていたかもしれな

い。いずれにせよ最近の彼女は、以前にも増して過激な行動をとっている──レイプをはたらいた男

の指を折るとか、NSAのイントラネットに侵入するとか。

 これでついに一線を越えた、と言えなくもなかった。だが、本人にとってはどうしても必要なこと

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だったのだ。何日も昼夜を問わず作業に没頭し、ほかのことはすべて忘れた。ことが終わったいま、

彼女は疲れた目を細め、L字形に設置してある二台の仕事用デスクを眺めた。そこには彼女の装備が

並んでいる。いつも使っているコンピュータと、今回のために買ったテスト用のコンピュータ。後者

には、NSAのサーバーとオペレーティングシステムのコピーをインストールした。

 インストール後、このために自作した、プラットフォームの欠陥や抜け穴を探すファジング・プロ

グラムを使って、テスト用コンピュータに攻撃を仕掛けた。それが済むと、デバッグやブラックボッ

クステストも行なった。そうして得られた結果をもとに、スパイウイルス、遠隔操作ツールを作成す

るわけだから、いっさい手を抜くことはできなかった。こうしてNSAのシステムを隅から隅まで徹

底的に調べた。サーバーのコピーをテスト用コンピュータにインストールしたのはもちろんそのため

だ。もし本物のプラットフォーム上をふらふらさまよっていたら、たちまちNSAの技術者たちに気

づかれて警戒され、お楽しみはあっという間に終わってしまう。

 だが、こうすれば誰にも邪魔されず、来る日も来る日も好きなだけ作業ができた。睡眠も食事もろ

くにとらなかった。たまにコンピュータから離れることがあっても、ソファーでしばらくうたた寝す

るか、電子レンジでピザを温めるだけだった。そのほかの時間は目が充血するまでずっと作業を続け

た。なによりもエネルギーを注いだのが、〝ゼロデイ・エクスプロイト〟の作成だ。知られざるセキ

ュリティーホールを探すソフトウェアで、侵入を果たしたあかつきには彼女のステータスをアップデ

ートしてくれる。まったく、常識では考えられないプログラムだった。

 リスベットは、システムを支配するだけにとどまらず、彼女自身は不案内なイントラネット内であ

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らゆる遠隔操作を可能にするプログラムを書いた。何よりもすごいのはまさにその点だった。

 単に侵入するだけではない。もっと先へ、NSANetの内部へ入りこむのだ。ふつうのネットワ

ークとはほとんどつながっていない、独立したひとつの宇宙へ侵入する。リスベットの外見は全科目

に落第したティーンエイジャーのようだが、コンピュータプログラムのソースコードなど、論理的な

つながりのあるものを前にしたとたん、彼女の脳はフルスピードで回転する。そうして彼女がつくり

上げたのは、まったく新しい緻ち

密みつ

なスパイウェア、独自の生命をもつ進化したウイルスだった。よう

やく満足のいくものができあがったところで、仕事は次の段階に入った。実験場でのお遊びは終わり

だ。本物の攻撃を仕掛ける時が来た。

 ベルリンで買ったT‐モバイルという電話会社のプリペイドカードを取り出し、自分の電話にセッ

トした。そして、その回線を使ってインターネットに接続した。本当はプレイグの言ったとおり、ど

こか別の場所でやるべきだったのかもしれない。遠く離れた地球の反対側に行って、もうひとりの自

分、イレーネ・ネッセルに扮したほうが賢明だったのかもしれない。

 NSAのセキュリティー担当者たちがひじょうに優秀で仕事熱心なら、この界か

隈わい

にあるテレノール

(ノルウェー系の通

信サービス企業

)の基地局までたどられてしまう可能性はある。そこからリスベットまでたどり着く

のは技術的に不可能だろうが、それでも充分近づかれてしまうことは確かで、どう考えてもまずい。

にもかかわらずこうして自宅で仕事を進めるほうがいいと考え、できるかぎりの安全対策をとった。

多くのハッカーの例に漏れず、彼女もTorを利用していた。これで彼女の通信をほかの何千、何万

人もの利用者の通信のあいだに紛れこませることができる。だが、今回に限ってはTorも安全でな

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いことがわかっていた。NSAはこのシステムを破るため〝利エゴテイステイカル・ジラフ

己的なキリン〟というプログラムを使

っている。だからリスベットは長い時間をかけて、自分の匿と

名めい

性せい

が守られるようさらに努力を重ねて

から、ようやく攻撃に転じた。

 まるで一枚の紙を破くようにプラットフォームを切り裂いた。ここで油断は禁物だ。名前を控えて

あるシステムアドミニストレータたちを大急ぎで見つけ出し、彼らのファイルのどれかにスパイウェ

アを注入して、サーバーのネットワークからイントラネットへの橋を架けなければならない。簡単な

作戦とはとても言えなかった。警告アラームにもアンチウイルスプログラムにも警鐘を鳴らされては

いけない。最終的にはトム・ブレッキンリッジという名の男を選び、彼になりすましてNSANet

に入りこんだ。そして……全身の筋肉がこわばった。彼女の目の前で、その睡眠不足で疲れきった目

の前で、魔法が繰り広げられた。

 自作のスパイウェアが、極秘中の極秘であるこのネットワークの中、さらに奥深くへと彼女を導い

てくれた。行き先はもちろんわかっている。ステータスをアップグレードするため、アクティブディ

レクトリかそれに類するところへ行くのだ。招かれざる珍客から、この錯綜した宇宙のスーパーユー

ザーになる。その目的を達してから、システムの概要を把握しようとした。容易なことではなかった。

むしろどう考えても不可能で、時間も足りなかった。

 とにかく急がなければならない。検索システムを把握しようと、あらゆる隠語や言いまわしや参照

先など、内部でしか通用しない不可解な言語を理解しようと必死になった。あきらめかけたところで、

ついに〝極ト

ツプ・シークレツト秘

〟、〝NOFORN〟──国外への配布禁止──と記されたドキュメントを見つ

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けた。それ自体にはべつに変わったところはない。が、ソリフォンのジーグムンド・エッカーウォル

ドとNSAの戦略的技術監視部門のサイバーエージェントをつなぐ証拠も見つかり、それと合わせれ

ば爆弾になると言っていいドキュメントだった。リスベットは微笑みながらその内容を細かいところ

まで記憶に刻んだ。が、次の瞬間、声に出して悪態をついた。関係のありそうなドキュメントがもう

ひとつ目に入ったのだ。そのドキュメントは暗号化されていたので、そのままダウンロードするしか

なかった。これでフォート・ミードの警報が鳴りだすだろう。

 だんだん切せ

っぱ羽

詰まってきた。そのうえ公式の任務も果たさなければならない

─この状況で〝公

式〟という言葉を使うのはおかしいが。プレイグや、ハッカー共和国のほかのメンバーたちに、NS

Aに不意打ちをくらわせて恥をかかせ、あの組織の高い鼻をへし折ってやる、と約束したのだ。そこ

で、誰と通信するのがいちばんいいかを調べはじめた。誰にメッセージを読ませるか?

 彼女が選んだのは、エドウィン・ニーダム、通称エド・ザ・ネッドだった。彼の名前はITセキュ

リティー関連でしょっちゅう目にする。イントラネットで彼についてざっと調べてみたところ、不本

意ながらも敬意を覚えた。エド・ザ・ネッドは大物だったが、それでも彼女がこの男を出し抜いたこ

とに変わりはない。自分の存在を知らせる前に、リスベットはほんの一瞬躊ち

ゆうちよ

躇した。

 この攻撃のせいで大騒動が起きるだろう。とはいえ、大騒動こそ彼女の求めているものだった。だ

からこそ攻撃したのだ。いまがいったい何時なのか見当もつかなかった。夜なのか、昼なのか、秋な

のか、春なのか。ただぼんやりと、意識の奥底のほうで、外の嵐がさらに激しくなったのを感じた。

まるで彼女の攻撃に合わせているかのようだった。遠く離れたメリーランド州では、かの有名なボル

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チモア・パークウェイとメリーランド州道三十二号線の交差点からさほど離れていないところで、エ

ド・ザ・ネッドがメールを書きはじめていた。

 だが長く続けることはできなかった。ほんの数秒でリスベットが彼のメールを乗っ取り、こう文章

を続けたからだ。〝国民を監視する者は、やがて国民によって監視されるようになる。民主主義の基

本原理がここにある。〟しばらくのあいだは、なんと的を射た文面だろう、天才的なひらめきだ、と

思った。報復の熱い甘みを味わい、その後エド・ザ・ネッドを連れてシステム内を旅した。どんなこ

とがあっても公

おおやけ

に知られてはならない、チカチカと点滅する世界の中を、ふたりで舞い、駆けまわ

った。

 めくるめくような体験だったことはまちがいない。にもかかわらず……すでに述べたとおり、接続

を切り、ログファイルがすべて自動的に削除されると、興奮のあとの虚む

しさが襲ってきた。好きでも

ない相手と寝てオーガズムに達したあとのようだった。あれほど的を射ていると感じた文章が、だん

だんと子どもじみた、くだらないハッカー根性の表われのように思えてきた。ふと、飲んで酔っ払い

たい、と思った。疲れのあまり足を引きずるようにしてキッチンへ向かい、タラモア・デューのボト

ルと口をすすぐためのビールを二、三瓶取ってきて、ふたたびコンピュータに向かって座り、飲んだ。

祝うためではまったくない。体に勝利の感覚は残っていなかった。むしろ……むしろ、何なのだろ

う?

 反抗心、かもしれない。

 外で嵐がうなり、ハッカー共和国の面々から喝か

采さい

が送られてくる中で、リスベットはひたすら酒を

あおった。嵐も喝采も、もはやどうでもよかった。体を起こしているエネルギーもなく、彼女はデス

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クの上をさっと勢いよく手で払うと、酒瓶や灰皿が床に落ちるのを無関心な目つきで眺めた。それか

ら、ミカエル・ブルムクヴィストのことを考えた。

 きっとアルコールのせいだ。酒が入るとかつてベッドをともにした相手を思い出すように、よくブ

ルムクヴィストが頭に浮かぶ。彼女はほとんど自覚のないままブルムクヴィストのパソコンに侵入し

た。NSAと違ってたやすかった。ずいぶん前から彼のパソコンへのショートカットをつくってある。

ふと、自分はここで何をしようとしているのだろう、と思った。

 あの男のことなんか、もうどうでもいいはずだ。違うのか?

 彼はもう過去でしかない。馬鹿だけ

ど魅力的で、昔うっかり恋に落ちてしまっただけ。あんな失敗はもう二度と繰り返さない。そうだ、

さっさと接続を切って、これから数週間はパソコンに向かわずに過ごすべきだ。そう思いながらも、

彼女はミカエルのサーバー内にとどまっていた。次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。名探偵カッレのや

つが、〈リスベットの箱〉というファイルを新たにつくっている。開けてみると、彼女宛の質問が書

かれていた。

   フランス・バルデルの人工知能についてはどう考えるべきだろう?

 リスベットはかすかに笑みをうかべた。フランス・バルデルの名が出てきたせいもあるだろう。

 フランスは、ソースコードやら量子コンピュータやら論理の可能性やらに夢中の、リスベット好み

のコンピュータオタクだ。が、彼女が笑みをうかべたのは何より、ミカエルが自分と同じ領域に偶然

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足を踏み入れてきたからだった。そのままパソコンを閉じて寝ることも考えたが、長い逡しゆんじゆん巡

の末、

結局はこんな返事を書いた。

 

バルデルの知能が人工物でないのはまちがいない。あなたの知能は最近どうなの?

 

もうひとつ訊くけど、ブルムクヴィスト、人間が、自分たちよりも少しだけ賢い機械をつくり

出したら、どんなことが起きると思う?

 それからいくつもある寝室のうちのひとつへ向かい、服を着たままベッドに倒れ込んだ。

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お試し版はここまでです。

続きは製品版でお楽しみください。