津波前の女川を想う - 公益財団法人 共生...
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津波前の女川を想う
福田 雄1
あの大津波から 4カ月ほど過ぎた、真夏からお盆前までの期間、私は共生地域創造財団の活動に参加していた。当時は主に、お墓の掃除、工場の清掃、牡蠣の養殖の手伝いなどの作業に従事した。支援に行ったつもりが支援先に迷惑をかけてしまったこともあり、個人的には「支援」という言葉を使ったボランティア体験記に紙幅を割くことには正直憚れるところがある。むしろ、ここではそうした活動の合間に出くわしたひとつの物語について、記憶をたぐり寄せてみたい。
それはお盆を翌週に迎える暑い日曜日だった。私は女川町のひとつの寺院を訪れ、和尚に話を伺っていた2。そうしているうちに話題は津波前の女川の様子や町の歴史などに移っていった。もう少し踏み込んだ女川の歴史を知りたくなり、どなたか紹介していただけないかと聞いてみる。すると、「これまでの女川町について、詳しく語ることができた人の多くは、流されてしまった」との答えが返ってきた。あの大津波は、2011 年 3 月 11 日の午後過ぎまでそこにあった町の建物や風景ばかりでなく、これまでの女川を語る「声」をも奪ってしまった。津波という災禍は、端的に言えば歴史や記憶の断絶であり、それは過去を想起しようとするわれわれの試みを頓挫させる。われわれには、手もとにある記憶の断片をたぐり寄せ、物語らしきものを形作り、その不完全な複製を、しばしば飛躍を伴う想像力で補うことができるかもしれない。そうして記憶のパッチワークが完成したと思えたそのとき、それは同時に、個人の多様な体験や記憶の完全な忘却をも意味するのではないだろうか。
閑話休題。別れ際、思い出したように和尚が教えてくれたひとつの墓地が少し気になったのでそこに向かうことにした。女川町の中心部と海を同時に見下ろすことができるちょっとした丘の上にあるその墓地には、電車が津波によって打ち上げられたのだという。「丘に打ち上げられた鉄の箱」。非現実的な光景に想像を膨らませながら、和尚が地図に書いてくださった場所に赴く。土台しか残っていない町の中心部には、日光を遮るようなものは何も残っておらず、照りつける日差しにうんざりしながら一歩一歩丘を登る。振り返り眺めてみると、戦後の焼け野原と見間違えんばかりの荒れ果てた町の姿が目に飛び込む。辺りを見渡すが、打ち上げられた電車はとうの
1 関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程に所属。専門は、災害の社会学、慰霊・追悼の社会学。主な論文として「われわれが災禍を悼むとき:長崎市原爆慰霊行事にみられる儀礼の通時的変遷」『ソシオロジ』56(2)pp. 77-94、など。 2初盆を前にして連日のように行われていた葬儀の様子についてお話を伺った。遺影など故人の在りし日の面影を示すものがすべて流されてしまったなかで、われわれはどのような弔い方をすることができるのだろうか。そうした(非常の)死への向き合い方のなかにこそ、(日常の)生のあり方が如実にあらわれるのではないか。そうした思いを抱きながら、短い時間ではあったが貴重なお話をお聞かせ頂いた。無論そうしたインタビューが可能であったのは、その数週間前まで避難所であったこの寺院に被災直後より支援物資を届け続けていた当財団の存在があったことは言うまでもない。
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昔に撤去されており、墓石はそこら中倒れているので、どこに打ち上げられたといわれても納得がいくような気がした。どこに電車が打ち上げられたのですかと、近くに立っていた 3人組に声をかけてみる。すると、丘の下に停めてあった車からわざわざ写真集(『報道写真集巨大津波が襲った 3・11 大震災:発生から 10 日間 東北の記録』)を持ち出して、打ち上げられた直後の写真を見せてくれた。汽車が乗り上げた墓はまさに彼らの先祖を祀るこの場所であった。親族関係にあるその 3人のうちの一人が語り始めた。「面白いことを教えてあげようか。」
ここは丹野家の所有の山だ。そこに代々の墓がある。(ふと脇を見ると最近建て直されたとみられる「一族有縁無縁供養塔」が脇に立っていた。)この土地は元々牡鹿郡だったのさ、丹野家は原子力発電所がくるまでの女川の町を築き上げた大肝入3だった家だから、女川駅を開設するときも、少なからず協力をした。駅ばかりでねえ、大肝入だった丹野家と木村家4は学校の建設など 3 庄屋さんともいう、郡代・代官の指揮下にあって十数ヶ村の庄屋を支配した村役人。 4『女川町誌』(1960)には、「慶長年間より大肝入であった丹野家(助左衛門)が住居し、横浦には文政四年より大肝入木村家(五郎右衛門)が住居址、その後代々子孫が相継で明治初年に及んだのである」(p. 123)とあり、16世紀以降 300年にわたり、丹野家が力を持ち続けていたことがわかる。
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にも莫大な寄付をした。山に隔てられた女川という町に線路を敷き、その発展を支えてきた家の墓だ、そこに千年に一回の津波で流された汽車が流れ着いたというのは、何かの縁でないか。そういう話だった。
女川町を築き上げたといわれる家があった。鉄道は、おだやかな湾内で獲れた海産物やその加工品の輸送に重要な役割を果たした。そうした鉄道輸送とともに発展した町の歴史はあまり知られていないという。そうして築き上げられた町もその歴史を伝える古文書なども、津波によって流されてしまった。鉄道開通(1939年)を通して、町の発展に貢献した丹野の墓に、電車が流れ着いたこと。ここに偶然以上の何かがあるのではないか。
もちろん流されずに残った建物もある。けれど「いま残っているのは、全部原発の建物だ、はっきり言って。」1980 年に着工された原子力発電所と関係する建物の一部が流されずにその痕跡を留める一方で、それ以前より築かれてきた人々の暮らしやその町の記憶をとどめるものは跡形もなく流されてしまった。「そうした 30年も 40年も前のことを、女川町も忘れたわけさ。」海から吹き上げる風が肌の火照りを取り去っていく。そうでなくとも、都市に若者が流出している。伝える相手が失われていくなかで、われわれはどのような記憶や歴史を紡いでいくことができるのだろうか。
そうした町の記憶や物語をモノとして形作ろうとする試み(たとえば町の歴史をモニュメントや公式の記録などにして残すこと)は、少なくない経済的な負担が予想される。さらには、明治、昭和と過去の津波の痕跡を示す石碑や記録が、これまでほとんど知られていなかったことを鑑みれば、モノとして記憶を保存するだけでは不十分であるように思われる。ならば彼らの語る声に耳を傾けることでしか、そうした津波前の女川を保つすべはないのではないか。いまだに津波について語ることすらできない人も多いと聞く。しかし家を訪ね、ともにお茶っこを飲み、海を眺めていると、ポツポツと語りだされる記憶もある。かつてそこに存在したはずの「声なきものの声」を聴き、「形なきものの形」を刻むこと(それはしばしばテレビ的にウケる語りの対極に位置するかもしれないけれど)、それが津波後の女川にかかわるわれわれに出来るささやかな活動の一つではないだろうかと、そんなことを考えている。