ゴヤの性格に就いて o ラーだ』とか『デユ ヤ - osaka city...

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a ' p i- a - 凡品 』同 h - h i - h h T ¥斗 西 hv N の性格に V 〈一〉 紹介的 『之はデユ i ラーだ』とか『デユ l l ぢゃない』とかいふ味もそっけもない (1) しなら誰でも出来る、証拠を見せてくれ証拠を 一、序 (一) 『両手を失えるラフアエロ』(レッシング〉の論議は、 あり 創造する働き」こそ 、芸術 家が芸術家たるための契機であることを教えている o 芸術作品が偶然の所産ではなく 創らわものである限り それは常に、創造者(芸術家〉の精神の意識的能動的な製作から いり それを構成する意味的要素は、それが経験的に現実に実現されるに先 (hy きて」いた筈のも のである o 因果必然の世界であって意識的に創り出されたものでない自然美は芸術の o かくて 作品の持 つ意味構成要素を知ることは実は創造者の持つ芸術意思を知ることであり 創造者の持つ芸術意思を知ることは作品の 枠つ意味句吋与を知ることである o 云い換えれば、作品自体を通してその背後にある創造者の芸術意思を求め 或は創 造者に肉引いてその製作的契機を還元することによって 創造者の創り出した作品の芸術的木質を諒解することが出来 ラファエロの創造した作品が芸術で ゴヤの性格に就いて ハ一) --- (一八五)

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lラlぢゃない』とかいふ味もそっけもない鑑識家の判断に対しては『さういふ一一一一ロひっぱな

(1)

しなら誰でも出来る、証拠を見せてくれ証拠を』・:・

一、序

(

)

『両手を失えるラフアエロ』(レッシング〉の論議は、ラファエロが芸術ではなく、

あり、「創造する働き」こそ、芸術家が芸術家たるための契機であることを教えているo

芸術作品が偶然の所産ではなく

創らわものである限り、それは常に、創造者(芸術家〉の精神の意識的能動的な製作から生れた一つの意味構造体で

いり、それを構成する意味的要素は、それが経験的に現実に実現されるに先立って創造者の中に

(hyきて」いた筈のも

のであるo

因果必然の世界であって意識的に創り出されたものでない自然美は芸術の名に価しない

o

かくて、作品の持

つ意味構成要素を知ることは実は創造者の持つ芸術意思を知ることであり、創造者の持つ芸術意思を知ることは作品の

枠つ意味句吋与を知ることであるo

云い換えれば、作品自体を通してその背後にある創造者の芸術意思を求め、或は創

造者に肉引いてその製作的契機を還元することによって、創造者の創り出した作品の芸術的木質を諒解することが出来

ラファエロの創造した作品が芸術で

ゴヤの性格に就いて

ハ一)

---

(一八五)

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円台

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ゴヤの性格

に就

いて

(一〉

一一

〈一八六〉

るのである。

従って、造型芸術(美術〉に於いても、その史的研究は、作品そのものの研究と作家の伝記の研究とに棒、げられ、美

術資料の整理は、先ず作家と作品の関係を決定することにあった。もとより美術研究にとって、直接に現実に与えられ

るものは作品であってそれ以外の何ものでもなく、

従って作品を見れば事足りるわけであるが、更に作家に関する伝記

資料が作品に関係、ずけられるならば、その作家の精神生活の諸組が反映し作品の意味を理解することが豊富になる筈で

ある。||精神大杓史的価値としてみられる芸術的理念を造型的に表現することが即ち美術であり、表現された造型美

の歴史的価値休系こそ美術史の本質でなければなら同)。かくて、美術史学の研究対象としては、常に作品の価値評

価と作家の個性認識の両面が取りあげられその探究が行われて来たのであるが、然し、このことも美術史論或は美術史

方法論として理論的には容認出来るものの、実地踏査

・実物検証に当つては倫多くの障碍に直面しなければならなかっ

た。作家に生理的寿命と動物学的構造がある如く、作品にも自ら物理的生命と複雑なる構造学的要素があるからである。

こL

に、焼失・

破損

・剥奪等不可抗的な外力に加えて縫色

・剥落等自壊作用による損耗

・分解が見られ、作品は時間的

経過に平行して次第に原形から遠ざかり遂には復元不能の事態を招くに到る。従って、抽象的なる哲学的美学より生れ

た合理的解釈、或は通俗的なる印象的観察に基く甘やかなる鑑賞享受等、単なる視覚作用による感性認識にのみ頼る研

究手段は、今や非常なるカに倹たねば厳密なる(或はなし得る限り完全なる)事実に到達することが出来なくなって来

大阪大学理学部浅田研究室で試みられたべ

lタ

1・トロン

(も仲同。ロ〉と称する四百五十万ボルト強力X光線による青

た。このことは、作品の診断に対する科学的機械装置の利用が始まり、それにより美術史学が劃期的進展を遂げんとし

ている現状から見ても明らかである。。

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銅造仏像内部の透視写真撮影が、単なる外見上からの鑑識では確信を以て断定L得なかった、仏像の構造的研究或は製

作順序の判断に有力な手懸りを与えたことは既に報告されたoこL

では、回来の作品鑑賞法の不全に対する科学的機械

装置の利用が如何なる成果をもたらしつL

あるか、

更にその一例を紹介しこの間の事情を一一層明らかにしたいと思うo

(巴ωωω¥N〉咽

H45同町宮口仙の∞00

佐々。町kF52仙の釦

(5)

稿

せられた二つの報告書は、同協会所蔵の西班牙絵画に試みられた

X光線写真凶自可∞

ZL。ぷH3Fによる科学的調査の資

その一つはこうである。ペラスクスの作と一式われる『オリパレス伯公爵の肖像

HNagg仏乙

かつて関白

25立が『これは最も初期の

ri--ω様お寸描かれた頗る重要な肖像画であ

この様式で描かれたぺ一フスナスの作品が他に見当らないという理由だけで

のZH0・円。同

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32

重な成果を伝えている。

の。ロLoeU己A4MO

《目。。

-FSHg』は、

これをペラスクスの作と定めるには、

これ迄疑われて来たものである』と述匁更に∞

&OHUEZEg念切

320γ冨

05がこの作品を見て

えない。然しそれ以上に保存が悪い。すっかり汚れて械なくなっていて、切角展覧された時には適切な鑑賞など出来な

(8)

くなっていた』と誇っている如く、従来その信濃性が疑われ或は鑑賞不能が訴えられて、ペラスクスの真筆とは必ずし

も断定されぬまL

に今日に到ったものであったが、同協会は

X光線写真による科学的調査に基いて、この作品をペラス

クスの真筆と定める上に殆んど決定的と看倣されるこつの事実を発見した。即ち、その一つは色彩に関するもので、ベ

ラスクスが初期に用いた技法上の特徴たる赤色顔料による地塗りが明瞭に現われたことであるo

この絵は、緊直胴衣と

るが、

『ワニスも冴

一乗馬用洋袴を着けて外套をまとい、四分の三身体を左に向けて正面を眺めて立ち、右手は細長い竹製らしい鞭を握って

立てながら軽く机上に支え、左手は真直ぐに体側につけ手首を軽く起して外套からのぞかせているオリパレス伯公爵の

全身像を描いたものであるが、X光線透視撮影により、この人物のシルエ

γ

トが細い赤い線によって現わされているこ

とが分り、更に、外套の折り重なった部分に境界をつけ或は一様に塗られた背景と区劃するための、

この赤い細い線の

地塗りに沿った幅の広いタッチが見られた。

叉、

これまで黒色と云われていた衣裳の色彩は、

X光線が完全に透視し切

ゴヤの性格に就いて

(一〉

一一一

〈一八七〉

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ゴヤの性格に就いて

(一〉

(一八八〉

らないところから黒ずんだ緑色であることが明らかとなり、様々な服地の織物であることを一かすために巧みにその色差

を構成したペラスクスの驚くべき技巧を観察することが出来たのである。第二は、前景中央に床の色よりも幾分明るい

色で十分には読み取り難いが、X光線写真が明らかに

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と書かれた小さな筆蹟をフィルムに収めたことである。

これは恐らくk

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ωと読まれるべきであろう。何故なら、当時の西班牙では、多くの芸術家が彼等の作品に

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と略記しており、

て珍らしいことではないからである。ペラスクスの場合にも、彼が冨包江島で書いた門戸30・明。Z32唱の

g念'りよ

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の三人の肖像画に対して総額八

OOHg-(西班牙上古の銀貨)(仇∞)を内金として受取った

ことを認めた自筆の領収書の日付一六二四年十二月四日の先頭に矢張りこの記号を用いていや)更に、

522と

いう数字は、ペラスクスの娘

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とその夫

同ロ白口出

25g窓

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に関する一六三四年の幾

(叩)

つかの文書が証明している如く、ぺ一フスクスの時代には屡々省略されていたものである。かくて、こ

の『オリパレス伯

公爵の肖像』は、X光線写真によって得られた実証に基き、

ペラスクスの初期の技巧の特徴を現わし一六二五年にペラ

スクス自身によって描かれたものとしてその信溶性を要求してくる。

二、序

(一一)

..

云葉の正しい意味に於いて、西洋美術史の園内研究は、本質的に不可能に近いかさもなくば極度に困難である。従っ

て既に述べた如く、美術史学的研究が、科学的実証性を重んじ正確なる実作品と根本資料を通してのみ始めて確立され

ると信ずる限り、木課題の如、ぎは出発点に於いて既に根本的意義を失うものと一式えよう。では何故に、西班牙絵画史上

にゴヤを取りあげ敢えてか

yる課題を選んだのであろうか。そして叉、本稿が意図し目的とする内容は如何なるもので

あろうか。そうした問いに対し私は副題を添えてこれに応えなければならない。即ち、西班牙の歴史それ自体が、世界

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史的視野の中にあって地方的性格を比較的純粋且つ独自的に保有し↓芸術歴史的問題と芸術心理的問題の二元的概念に

立脚し、それに対応する時代様式ハ時間様式〉と地方様式(空間様式〉の二側面より、個人

・流派

・民族

・時代等に固

有なる芸術意思と形式感情を探求し、芸術の自律的様式発展の法則性を閣明せんとする企図』に基き、様式論上時代様

式と共に地方様式を考察せんとする稿者の美術史学方法論を展開する上に好個なる領域と考えられるからであり、加之、

海外美術の紹介的側面からこれを見ても、西班牙美術に関連せるものが著しく見劣りして感じられるが故に、そこに何

程かの紹介的意義を見出し得れば幸いであると考えたからである。勿論、美術的研究である限り、どこ迄も実地踏査と

実物検証により具体的且つ実証的に原作品を素材として論究さるべきであるが、そこにも亦、西洋美術史圏内研究の最

大の盲点が存在している。従って本稿では、その手段に於いて、必然的に圏内所在の橿めて微々たる数の実作品或は若

干の模写作品の外は結局輸入写真版に頼る外なく、(グェルプリンの二一一口を倹つまでもなく〉や与もすると事実の一種の歪

曲を意味する事を念頭に置かねばならぬ作品そのものの紹介は一切これを割愛し、その対象を、西班牙絵画史上に点在

して様式創造に重要なる役割を演ずる先導的画家の伝記的個別研究に求めた。然しながら、海外で普及し尽した文献の

入手にさえ尋常以上の不便を蒙むる実情に加え、基礎資料の蒐集不能の制約は、本稿にあって大なり小なり根本的に伏

在する欠陥を曝露せざるを得ない。

かくてこL

ではゴヤが取りあげられた。資料

・文献の極度の貧困は結果の皮粗と不要を招いてはいるが、この国に未

紹介の根本資料たる書簡或は関係文書によりゴヤの小伝を描きその性格を紹介したいと回%。

ペラスクスは二ノ六

O年八月六日に死んだ。この日付は、西班牙芸術史上最も輝かしき時代の結末をあらまし劃する

ものとして容認されるであろう。巨人の如くペラスクスは彼と同時代の人々を顔色なからしめ、彼の天才は彼と優劣を

争わんと努めた数少い人々の希望を空しくした。彼の死に当るや、空にも一定した陸離たる光#」は次第に蔭を増して消え

ゴヤの性格に就いて

(一〉

(一八九〉

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〉によって支配されていた。

この二人の芸術家はゴヤに深い影響を与えた

ozg匂はゴヤの肖像画法に

影響を与え、『HJ80}。

は風俗画に於けるロココ的概念を彼に紹介し群像取り扱かいの熟練と運動えの感受性を与えた。

たとい冨

g勺の絵画に如何なる思想があろうとも、とにかく彼は暫くこの首都で知られていなかった国際的な風趣と或

る程度の教養と女化を宮包吋正

にもたらしたに違いなかった。ゴヤが後に彼の特徴となったものを育てることが出来る

ようになる前に、

ヨーロッパで広く行き亙っていた芸術的風潮と親しむに致っていたことを認識することが大切である。

彼は何も知らずに唯己の天分のみで描いていた田舎者ではなかった。信、ずべさ根拠はないがゴヤが晩年伝記作家に語っ

たと伝えられる『私の三人の師匠は、自然とペラスクスとレンプラントである』という言葉からは、ゴヤが受けた影響

を云々するよりもむしろ、彼がその時代の様式の持つ概念を一図に吸収する傍ら、更に進んで

JNOENAgN

を熟視し

同σ5げ

gEけを学ぶだけの才と理解力を持っていた芸術家であったことを知らねばならぬ。

ゴヤが西班牙絵画史上、。同σ。。喧

.〈乞食品ロ誌

に次、ぐ第三の頂点であることは何人にも異論はないが、『彼を古き時代(十

(

_1-.

(一九

O〉

なんとする火陥の上に明滅した。国民の芸術的衝動は澗渇し。コヤが群なす凡傭から脱け出て墜頭し過去の生気ある伝統

を匙らせるまでには幾世代が過ぎ去っていた。

:;:(その間西班牙は何もしなかった〉

:::唯予言者

同oωgの言葉が思

い出される。西班牙は『身から出た鋳』に苦しんだのである。

十八世紀中葉の

家、冷やかなる新古典主義者

同色白色玄

gm∞(ロω∞ポωl芯求。)

宮包ユ仏

のゴ会・3玄

術的風土は

三士ヱ玄

術の保護者

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八世紀〉

に連なる最後の人とするか、或は、新しき世紀(十九世紀〉

に魁ける人と定めるか』、

この命題は今日も倫結

論に致っていない。多くの美術史家は、ゴヤの生涯を貫ぬくカ作の中、早い時代に拙かれたものは古い時代の絵画に属し、

その後に描かれたものは近代絵画の起源として新しき時代の範鳴に入れている。彼の描いた綴織の下絵や、祝祭日の光

景の如き風俗的な主題に見られる「人好きのする、

心地よき、暗示的な色調」を彼独特に強烈に抱擁的に描き上げたキ

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〈エヅチジグ連作〉を比較して頂きたいo

更に出来得れば、「戦の災害」ハ

τω島。…一∞可σ

二三二53)U

た暴虐なる変異をも勇躍耐え凌いだ人生観、そうしたものの中に何時しかはぐくまオ

に変貌しつL

描き出されたと見るのが、透かに正しい観方ではなかろうか。

ゴヤは石版画、板画、腐蝕銅版画、微細画と総ゆるものに非凡の手腕、を見せたがかなりその出来晴えにむらのある画

家であったo

従って彼の場合、その価値は最上の作品に基いて判断されねばならぬのであって、

彼リリリパパめれは

々展覧されている意に満たぬいかY

わしい多くのスクッチなどに基いて判断されるべきではない一

口印

zo-50念切

σ223冨2σyE∞52F$5553向か優れた著作は主として作品の研究に捧けられ九ものであるが、

-ゴヤの生涯の彩多しい事宥を無視したため彼の製作に関する諸問題は未解決のま与である。絵画作品の一覧表に就いて

Al

コレクションに秘められている間は震安期すことは不可能であり、僅かにエヅチ

HHMUHd九九一いれれ汗パい

Hfuvu日日口パ

ンパスと、

範囲に一旦り多様性に富むから、そのためには観察点の一つを取り扱かい彼を描き出すことが賢明ではなかろうか

o

それ

彼の生活と個性に関する知識に基いてこそ最もよく彼の芸術を判断することが出来ると思われるのである

o

こま、

(一九一)

ゴヤの性格に就いて

〈一〉

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四『

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ヤの性格に就いて

〈一〉

(一九二〉

ゴヤに関する最初の研究が公けにされたのは或は仏関西に於ける

河内ゼミ

Sミミ。夜、々刊誌

(同∞ωドH

・りωNO〉

であった

かも知れない。

ゴヤの死後四年のことである。

ピロ足三宮ωF20ロによるゴヤのほ記

(F窓〉吋国男oz一。ミQ-33岨H

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ロσ日)σ}釦の円。な円

いみじくも

って確証されている。

に捧げられた。

彼はゴヤが晩年

回oEg口同

(ゴヤ亡命の地)

冨包江仏

を訪問したようでありその資料は多く直接に得た証拠によ

彼は

で過した当時の仲間であったりσ

∞E包含を知っていて

その聞き込みの源泉として屡々彼を引合いに出してい

る。彼はゴヤの死後三十年経たぬ聞に筆を起し、その各章は慎重

に見事な春美限を以て編纂されていた。九年経って後

PRSF5gの一

層野心的な労作が現れた

2・JF区間吋開口

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ss句、民主礼子宮、ご念SNS笠宮晴、ぬこも&的向、RPNSmQミ、。、町民的wmNNぬ

SE~。-h怠偽札応、むさ也、ぬ・】VRYH∞ミ)。一八六六年から

六七年にかけての

J

EHgの西班牙探訪は徹底的なものであって、彼は幸せにも過ぎ去った世紀の決定的回想を採摘す

∞ωロ叶σ-50に冨gJg乱。同会を叉

kpzs包仰に。

25公を訪れた。

EZ公は彼のために

ることが出来た。彼は

円、町広

館を公開し、吋同包σ円仙の。号冨えSNOUNSg念日〈色。喧明gロの片足。

N毛主。♂〈科目。ロ江口(〕恒三205等からは衷心より助力を受け

。コヤの家族に関する多くの文書が彼の意のまL

に提供された。

釈に就いて仏関西的伝統と呼ばれるかも知れぬものの基礎となった。

ゃ、

282(悦一MmM〉の宮廷に於ける彼の行状に関する醜聞的伝説を容認し、

蘭西大革命を支配した政治的原理を彼が讃美した論理的帰着であると考えた。

の伝記は、

この二人の著者は、ゴヤの青年時代の浪漫的逸話

教会や国家に対する彼の態度は、仏

で出てい

JP53σ

た。

宮内5F28

ゴヤの個性解

この

既に早く冨包同年

ほど同じ境、

旬、ヘマ凡なNQ

誌上に

(仲・ロwH∞ωタ匂

-MUω〉ゴヤに関する一論説を書いていた

ぐ乙gH5C三22仰は、chNNmwNN

町、ご切mwQNhHa

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“お旬門出向的色芯旬、

同ν}HFrH)

日〉∞切口同・円)『と共同研究を発表したが

誌上に

(ぐ・の〉河口何回同一戸〉

JF仲良件。

彼の寄稿も決して

忌乞}55ロや

の見解

句gmwQ忠一同-hc喝、NS-CQNm町内向、ぬ句切応句史-Hak山司、な・kr∞ggHU暗同∞ASu∞GSBrgp同∞。ω〉、

を否定するものではなかった。

然し、こうした伝記的結論に対し、

猛烈な反論が起り敵意に満ちた攻撃の有らん限りの鋒先が二人に襲いかふった。

/

4

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の甥

附,gロσ広

gN毛主OH

判。。gaであ

った。彼は叔父とゴヤの間に取り交わされた書簡を収録した頗る小さい一冊子を出版し

2・

ωEZ阿RCO吉川匂qONE820t

その先頭第一に立った人は、

ゴヤと親交の厚かった

N2ぷ。N

伊の

冨SHEN93g同

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町、ミ以内8・NSぷ。NP

同∞。∞・

これは初めカ

トリヅグ新聞hQMVミ句向。ミsnSで会けにされた〉、

。コヤを

『天真澗漫な深き信仰に満た

正直で敬度、まことに上品な性格の人』と述べ

、『良き息子たるのみならず、忠実なる夫であった勤勉な

一人の西

班牙芸術家の姿』を描写した。

;この二つの批判的態度は、今日に到るも倫その真実性を主張して流れ続け、ゴヤを研究する美術史家或は伝記作家は

たなり小なりこの何れかの側に荷担して来たo

そして、最初の発表があってより彩多しき情報が入り乱れて混乱し、

Uれ仁い仰を見分ける代りに、後の人々は更に

一層錯雑たるものに解け難くしてしまったo

しかも、記録の探索は僅か

しい業績を挙げ得ず、ゴヤの書簡は恐らく大部分未発表のまL

であるo

従って、ゴヤがどこまで自由人に相応しい十八

世紀的な啓蒙自由思想家であったか、或は、社会的立場に関してどの程度明確な見解を抱いていた政治家であったか九

ど語ることは不可能であり、まして彼に道徳家の姿を見んとするに到つては、まさしく資料の偏見的解釈か或は不消化

こ基く臆測に過ぢぬものであろうo

彼の芸術的個性は、いかにも独自的で『非代替性』のものであったろうが、彼の人

間的性格は、当時の西班牙の広汎な狂態的社会風潮の中にあって依然としてそうした二重一性が示されたまL

今も倫酸味〉

模糊として伝えられ、彼の八十二年の数奇な運命

・多彩な生活は全く『。コヤ伝説』の中に閉ぢ箆められているのであるc

され、

一般絵画史の中でも最も生気ある最も複雑な個性を持つゴヤの性格を知るためには、資料の組織的な浄化と、

ρかにも暗示的な或は人の意に迎合するが如き臆説を、年代学的な事実と正確さを以て容赦なく犠牲にしつL

正確なる

jに秩序を置くことにとりかL

ることが焦眉の急であるo

勿論そのために、。コヤの研究に貴重な役割を果すJJ

説の

j

j

視を大袈裟に吹聴することが敢えて問題ではないが、然し、記録によって支持されるものと然らざるものを正確に区別

従って、ゴ

ヤの性格に就いて

(一〉

〈一九三〉

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¥ I

I

コ、

ヤの性格に就いて

(一九四〉

(一〉

することは矢張り必要である。

そのために木稿では、。コヤの性格を知るために最も有力な根本資料となる書簡或は記録

-文書を用いることは既に述べたところである。綴りの誤りの多いふ叉変ちくりんにしたためられ、

一語一語読み取る

ことすら不可能な程不正確な大休で書かれ、

知らず識らずに

流露しているものによって、『芸術に関する理論的な諸問題叉は理念に就いて一語も言及していないゴヤの態度、或は世

人の伊東動に対する憤療、自らの不幸えの激怒、成功えの軒昂たる意気、そして事々に自慢の意を現わす感情等々』、彼の

人生の興味ある委細を知ることが出来る。かくて、記録による無味乾燥なる枚挙と諸問題の討議を避けつヘこL

では

出来る限り最も多くの確かなる・事実を以てゴヤの姿を再現し、

彼が偉大なる画家であってそれ以外の何ものでもなく、

名誉と打算

・放蕩と妥協の多彩なる西班牙的共通分母を抱きながら生気ある八十二年の生涯を送った彼の人間像を描写

常に位。という文字を用いねばならぬゴヤの書簡の中に、

したいと思う。

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一託(1〉

〉un--

均一同日UF〉ZU何回同日

02Hハロロω昇。ロロσ同・回同ロロ。戸)mwω丸岡OF

回2EPHゆN0・

霊園庖)、三九一

(2〉矢崎美盛「芸術学」(弘文堂、昭和二十六年〉、五、九四頁

(3

)

楢崎宗重「美術と史学」(有光社、昭和十八年〉

二三ハ、一

五一

(4〉望月信成「青銅造仏像の透視写真撮影」(古代学協会

「古代学」第二巻第二号、昭和二十八年所載)

ハ5〉

判、mwNhNhNANSNS肘巳N〉回目,出

UMWCC仲斗

一戸〉

MMHE'(gogげ2。同ロ5出ぽ一宮ロ刊の∞sudo内

KF52仙の9)ll句ユ己主ど。E2。向付『α

ロロω件。。ω唱

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問。同}

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Hゆ

mM山河SS、む・.

6〉西班牙絵画の主なる流派は、∞ミ口]p.3】

80E噌

()gEZの三つ、或は

どぷSを加えての四つである。然し、西班牙に於い

てはこうした流派の聞に著しい特徴は認められず、むしろ肘ω20vg吉凶oF(西班牙派)として一括した方が適切である。実際

(カステイリヤ壬闘)

には、中世より近世初頭にかけての政治的な領域区分によって、の。同。

E含

(ugEF(30YCω江口pzggCEFuピ吉晴

(UmzoFP

(アラゴシ王国)

の諸地方が更に細く分れる〉と

の。同。

gLOKによ

g25mひ

p.5-goE岨

PESF

(児島喜久男訳〉

児島喜久男「美術概論」(小山

肘江ggmEEmr冨ロ円三P

KFロ含】ロのいP〉』

pg唱〈位。ω河内W

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Andorra,

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\l'Q}.JAJ:

ム迫様l'QO

〈ト)

!(ARL JUSTI: Diego Velazquez a

nd his

times...…tr.

by Professor

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Corpora-

tion art

gal1

ery. Descパ

tttveand biographical catalogue 01 the

exhibition 01 the

works 01 Sl

うσnishpainters.

By A

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136;

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histo行ade E

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p. ,409-410.

〈口)

~~ミヰコ同・

4く母脳ゃく話相応糾m長良蝋似~4目以吋~m忠

岡純~tII~手~IT~1寒「阻~~マ縫国民Qm~式J

(回特

fl~健全十,*,補選者ト離」増。

1 },1同鱗〉吋~~伝情。

〈ロ)

HUGH STOKES: Goya,

his wor k and 1-うersonality.

-Herbert

Jenkins,

London,

1913. p.

1-2.

〈公)

Escenas de1

3de Mayo d

e 1808.一一

<(No

sa tisfec

hos

108 invaso

res con 1a

sangre derramada e

n 1a

noche (d

el 2 de Mayo),

continuaron todavia

en 1a

manana sigui

ente pasando por 1a

s armas a

a1gunos de

10s arrest

ados

1a visp

era,

para cuya ejecωibn

des-tin

aron e1

cercado de

1a casa

del Frincipe Pio・)

>(Toreno,

Hist. cit・)

Representa

e1 cuadro un grupo de paisanos

de M

adrid

fusila

dos por 1as

tropas

de Murat.一一一

La

escena pasa

en la

s afueras

de 1a

pob1acion, junto

a 1a

Monta五

ade1

Principe

Pio.一一-

Figuras

de

tramano natural.

一一

Companero

del

antedo:r.

anto,

2,66; ancho,

3,45.ーL.

(DON -PEDRO DE MADRAZO :

Catalogo de

los cuaadros del

Prado. Dec

ima ediciol1,

Madrid,

1910,

p. 140)

。)V

ARELIAN VON LOGA: Francisco de

Goya. Berlin,

1913. Deuxieme edition

, 1924・(L

aEspa初

仰derna

ば吋Pν

陸部会

j

2ξざと恥以前g~と

れJ*-U困思日マ臨Q鰭馬込必~)

AURELIANO D

E BERVETE y

MORET: Goya ρinto

グde

retratos. 1916 (G

oya as tortrait

tainter, London,

1921);

Goya,

co-

mρosiciones y

liguras, 1917;

Goya grabador,

1918. (,l.

J兵必

111瀞

Qreduccionる

1・民

11<母ば担当初*.;2)

AUGUST L

IEBMANN M

AYER: Francisco de

Goya,

Munchen,

F. Brukma沿

1,1923 (traduccion

espa五01a:

editorial

Labor,

1925)

、・.

加令Q~~

辺誠

ムν(

1 )

1 1

( 1・民同〉

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h午

Q起きをた」認ム

ν( 1 )

.

a司SEaa---1

1 ( 1 -K iく〉

CAMPBELL-DODGSON: Los desastres

de la guerra・Oxford,

1933

CH. POORE: G

oya・New

Y ork,

1938

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Goya bibliog

グa)

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1940

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New York,

1942

JEAN ADHEMAR: Goya.

London,

1948

〈ピミ)

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Paris (1900,

1918,

1928,

1930,

..

the Ex)うosicion

de la obra grabada de Goya.

Madrid, 1928・一一一

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Exρ

osition de

l' oeuvr e gr ave

.

Bihliothegue

Nationale, Paris,

1935.一一~Catalogue

01 Goya exhibition

in M etroρ

olitan Museum 01 N

ew York 1936. .Notes

by

IVINS J,R

I-JARRY B.

WEHLE AND H

YATT MAJOR.一一一

SANCHEZ

CANTON: Dibujos ineditos,

Vo1.

11. Madrid,

1941・-

-Catalogo

de la

exρoSidon com??

包emorativa

del Centenario de

Goya・Madrid,

1946.ー

ァ-Goyay el

arte Irances,

exhibition in

the French

1nstitute , Madrid,

1946.一一一

G.LEMOINE: Catalogue 0

1 the

Exρ

osition Goya

みBordeaux.

Bordeaux,

1946.

1935)一一

VF.LASCO

Y SANCHEZ R

IVERO: Catalogue

01

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3Slitおムい

Francisco Jose

de G

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私は上記の通りの年月日に、

フェンデトドスでこれを作製し署名する。

(2)

助任司祭リセシアド

・ホセブ

・クシメノ』。

つであるo

他の事柄に就いては常に幾分かでも推測が伴

厳密に云えば、幼時のゴヤに就いて分るものはこの証明書唯一

なう。従って彼の父

守∞かの。ョ

の職業に関しても色々云われ、

多くの伝記作家の見解は概むね鍍金師であったことに一

不思議なことに、

くの推量である。唯、この証明書に明らかに

E400ぽ

g含

N白

g∞。N担

3

とあるから、彼の両親が

出済の戸籍を持っていたことだけは確で、このことからもし推測が許されるならば、何かの職人か或は商人ではなかっ

たろうかと

4dられるに過ぎないo

彼の母

りo皆

Z3円

5

Egは、ロO

防仰

の称号を名のる如く古い

rF]宮(生来の

貴族〉の出身で、ゴヤ自身もこの点抜け目なく、先にペラスクスが試みたように、後に宮延画家に列する際にこの母方

の家系図を呈出した

N2よON

仰に居ないで

吋gE20含∞に住んでいたこともこの証

に籍を置いたまL

この村に寄留していたことを示している。

致して.いるが、

それを肯定せしめるような確証は云い伝えの他に何一

つ挙げられていない。謂はど全

Nhw回以ぷ山。N白

の町に居住屈

ゴヤが生れた時、

明書で明であって、ゴヤの一{家が

NP円mw∞。Nm戸

では何故にゴ

ヤの一{家が

吋-zoロ門目。件。(目。一∞に寄寓していたのであろうか。

これに就いては、明-N印匂

mwazw同

次のような事

日3 情8 カ3

F 程

> /乙自 ら~ ~~ N てとし¥

い るO

Jコた彼古がし、こ貴の族村をを誇探る 訪家し々たと 時間 、

じ] ょとεうg則こ0..- 、

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察 官 語し 託 つ

母方の里に当る

円、口のゆ85

∞釦】ぐ印(凶吋

mw∞暗

ており、叉村の古老の一式い伝えでは、ゴヤの一家は

の証明から、。同仰の広

の縁者が

司ロ

σE2asに居たことと、

られるのである。従って、

ものではないと考えられる。即ち、

プヤの両親がこの村に移り住んだ原因と状態は次のように推定しても事実からそう遠ざかる

当時流行病が狽搬を極め不景気のどん底に鳴いでいた殺風景な

N白一円

mwmoNmw

の社会状

勢から考えて、。コヤの一家が経済的な理由か、或は何か家庭的な事情によって、ハ明日再び

NωgmoN仰に戻ることにして

籍はそのまL

にしておいても〉

一旦

cgo芯

の縁者を頼ってこの村に寄寓し、幾ばくかの土地を借り受けて農事にたず

ゴヤの性格に就いて

〈一〉

一一一一

〈一九七)

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ゴヤの性格に就いて

(一〉

(一九八〉

さわり、時には片手間に何か職人仕事か小商売をやっていたのではなかろうかo

たまたまこうした環境の中にゴヤは生

れたのである。何れにし℃も、

ゴヤ自身の天一果を考え、

(uE

村の教会に洗礼証明書が残っている事実

ゴヤの父が単なる赤債の職人(又は商人)か或は全くの下級農民であった

(或はその内容〉

の或る程度の素姓など考え併せても、

とは思われない。

H4558は金箔師となって

25忠岡山∞品。同白Loz

叉ゴヤには一人の丸一人の弟一人の妹があった。兄の

りo-。円。ω

の教会の祭壇背景の衝立に細工をしたと伝えられ、弟の

CE-oは牧師になり、妹の

ESは嫁いで

NEぷON仰で

暮した。

後に画家で身を立てたゴヤが、

この村でどのような神童的天才の閃きを見せていたか、など語る一式い伝えは、物語と

して以外何ら当てにはならぬものそあるo

勿論確かな記録或は証拠を挙げた伝記作家は一人もいない0

(

(

ゴヤが村の教

会に色々絵を描いていて、

一八

O八年N印同よON伊が仏軍の侵入に抵抗して二皮目の鏡抜を敢行した時、それを機会民コヤ

がこの村を訪れl

これが事実としても生涯唯一度である|それを眺めて『私が描いたなど云ってくれるとと書い

たとも叫んだとも様々に云われているが、これも伝記作家により

FOESえgの教会になったり

Nωg∞。N

回の教会にな

ったりしていて、

極め手らしい証拠もなく矢張り一広い伝えに頼ったものとしか思えないo

勿論この-事に触れたゴヤの書

その絵を実際見たところ下手いけれどもそれなりに興味が

一人の英雄を徒らに祭り上げるいかにも西班牙人

簡は今の

とこ

ろ公けにされていない。日孟-Nz-oよ戸

のように、

ある、など云っているらしいのは、

ゃーム功を焦り過ぎた嫌いがあり、

らしいやり方で到底信ずることは出来ない))

NRω∞。N

加え出る。

やがて。コヤはこの村を去って

よくある絵画修業のための単身出郷ではなくて、先に述べた如く、

コヤ

一家の予定の行動であった。

勿論出たのはゴヤ一人ではない。

それが幾つの時であったかは明らかではないが、伝

記作家達は十二才から十四才、ぐらいの聞ではなかろうかと推定している。

何れもゴヤの他の・事柄を基にした逆算で、或

る事柄や出来事に対する判断と解釈の畑違から生れた狂いであるに過ぎない。

生活のはっきりしない人の伝記を体系、ず

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ハ,.、角川又J

J

ける場合何時でも起る水掛論である。

ここに当時のゴヤに関し、唯一

つ殆んど確かな事実と考えられることは、Nmw吋mwm山ONmw

近郊の

kp己伊・02の仏関西

(UF255σ派修道院の院長

】)。ロ司hLP凶

ωmw

】NO

島。

の存在であって、彼とゴヤとの関係は充分注

自に価するものである。

〈後に述べるが)この人はゴヤが義兄の

回mw一司AW

と不利を生じて争そうことになった時、

再び現

われてそれに就いての書簡も残している人であるから、ゴヤとの関係は確かである。

N由同伊関ON

仰の教会関係者達も、

芸術

製作委頼の問題でゴヤと争いが起るととかくこの人に託して。コヤのなだめ役を買って出てもらうことにしていたようで

ある。何れにしても、ゴヤもこの人に対しては極めて従順でその云をよく聞き入れていたことは、或は既にこの時代、

勿論飛躍して考え過

ゴヤが生涯頭の上らぬ程恩顧を感じている何ものかどありそうである

o

コヤ

と深い関係があって、

を見出し7こ関係をし、

きなり

宮?bg z-F蚕人司'-'vこ5.7結Vこ)οご

Jコヨけ乞左る-55Pこ。 と

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何一

つ証拠のない行

ぎて、〈mgmE

F

の器開る

cgmwゲロσ、が

。520

き過ぎではあるが、ゴヤ、か

N白一円mw加ONmw

で神父

可-

M

OmwA

ロルロ

の司さどる

として入塾したことから

れ会考るこユえ。 、

恐らく宗教関係の誰かの手引ではなかろうかと想定して、その人を

∞白】

NO

島。

に見出すのも一応自然であると思わ

こームで彼は

り。ロ玄白広口N名$2と知り合ったのであるo

彫刻家

rSMUSHONを介して

US

OωPENS可宮

2ZσN

の存在を知ることになっ

のアトリエにも通っていたo

そこでも叉ゴヤは、後に義凡となった

司gロ28MW22司

rzg

F3ロは既に

それも当座は唯噂

た。元も、ゴヤがこのアトリエに入った時は、

冨包江島

ヘ去っていた後であったから、

さ話しに

この優れた先輩の話を聞く程度だったと思われるo

ゴヤが

Nmw一円恒例。Nmw

でどんな生活をしていたか、こkA

でも叉ゴヤを語り得る資料は何一つ現われて来ないのである。多

の夜毎を楽しみ艶っぽい醜態を演じ、剣術に上達して

liこのことだけは後にゴヤが

多少自慢めいて書いた害簡がある

ll流血の不祥事を惹き起し、

教会の激怒をかつて宗教裁判所の詮議に追われ首都

くの伝記作家は、ゴヤが

〉-Hhwm山ひロ

冨ユユハ同

へ出奔したなど云っているが、

それらは何れも。コヤ的お伽ぎ噺しと呼ぶに相応わしいものであっても容易には

信じられぬものである。

(一九九〉

ゴヤの性格に就いて

ハ一〉

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ゴヤの性格に就いて

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印ヘ:::。これらのゴヤの生涯の初期の物語は、一式うまでもなく今までのところ備不確実で

一七七八年十二月の日付の

あることを免れない。ゴヤは一度も顔を出さない。。コヤは唯の一一語も語つてはいない。

ある豆

-V宮g同え宛てた書簡に到る迄未だ一本の書簡も公けにされていないのである

唯多くの人々がゴヤを詩

りゴヤを創るに過ぎない。しかしゴヤは成長する。ゴヤは大人になる。だがゴヤの名は洗礼証明書唯一つに現われるだ

けであるo

画家ゴヤの措いた絵画は何処にも現われないのであるo

ゴヤの性格を知る上に、この少年時代は一体如何な

る役割を演じ如何なる意味を持ったのであろうかo

既に。コヤは十代も半ばに到らんとし、生涯に通じる彼の性格は漸ゃ

く個性の芽生えを見せつL

あった筈である。吾々はこの乏しき資料と賑やかな伝、説の中に封じ込められてしまったゴヤ

から何を導き出すことが出来るのだろうか。

ゴヤは一七四六年に西班牙は

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の近郊に生れた。この事実こそは、ゴヤの性格を決定する最も

大きな要素の一つを吾々に与えてくれる。その第一は、彼が一七四六年に西班牙に生れたということであるo

十八世紀

の後半、

そして十九世紀の初め頃の西班牙の芸術家に共通した性格は」気紛れで落着のないことであったoTRug宮

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が画家になる以前には職業剣士であり兵士であり俳優であったことや、『Harogg冨印吋片山口σN

が大人になってからは夜毎柑

の中で寝ていたなどいう逸話は余りにも有名である。多くの芸術家達は喜こんで国外追放の刑を受け好んで

ぐと80芯や

に隠れ、ゴ

ヤが晩年亡命した

彦三

gzの如きはさながら西班牙芸術家の植民地の感さえあった。芸術家は揃つ

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て熱狂的な旅行者で、彼等が伊太利・仏蘭西・和蘭陀等で数年を費やすことは寧ろ常識的であった。

ても宵宮廷画家の地位に未練を持ったゴヤに比べるならば、自由を叫んで束縛多き宮廷画家の地位に応じなかった巴0

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の如きは透かに一抹の清涼剤である。

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かように、多くの伝記作家がゴヤを伝説で彩った彼の自由奔放な生活は、

実は当時の芸術家にとっては日常茶飯の出来事であったに過ぎなかった。従って彼もそうした性格は人並に一応そなえ

ていたであろうが、敢えてゴヤの個性として強張するに当らぬものである。

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ゴヤは叉

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でも、この地方の特性を知ってゴヤを眺めねばならぬのである

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のかの有名な言葉

を語る場合人々は等しく、

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『不愉快な地方アラゴンに、

不愉快な人が住んで

いる』

krg∞宮人の総てを簡単に表現した言

叉最も特異な性格を持った住民を育て上げた。

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〉を想い出すo

まことこの言葉程

葉は見当らないo

西班牙の中でも最も特異な自然を持ったこの地方は、

頑固で気短

海洋から遠く孤立した世界に生活する人間は、とかく山国根性につ

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ぶまれて、独立不藤の精神を培うと共に、

かで、

時には惨虐なる闘争心に駆り立てられることが多かった。

kp吋印加ひロの貴族達は

520人の小百姓から

初期の諸王から特権を絞り取った

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の対外戦闘に勇敢な仁侠を示した。そして叉、

『五口々の価値は貴方の価直と同じく偉大であり、一苦々のカは貴方のカよりも偉大であるo

吾々は、

貴方が吾いのはい

自由なる行為とを保護す引ことを認むるならば、貴

Z王に選ぶであろうo

しかも、貴方と吾々の伺には、

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彼等は平然と歌いながら仏軍の砲の前に立ったo同

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えば、妙なる砲の調べにて、

的)となる侮蔑と非礼で報いられながら。

の人々がそう呼ばれたと

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さて、

吾々のゴヤはどうであろうか。彼も亦自由思想家の一人として、

同じく尊ばれて来たo

愛国的画家であり、時には国粋的な画家とさえ讃えられた

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然し彼が如何なる敵と闘ったと云う

ゴヤの性格に就いて

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の性

に就い

〈二

O二)

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彼のこれからの長い人生は、

彼は西

彼のべ

ンで、彼の

口で、彼自らがその木質的個性を示してくれるであろう。

班牙人であると同じく

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人でもあった。

西班牙的であると共に

krgm山ひロ

的な性格をも亦持ち合せていた。

然し、

それは飽く迄共通的な性格であって、

ゴヤがゴヤとして、実にゴヤであるべき、吾々の求めている彼の性格的個性の何

ものをも一示すものではなかった。彼は唯

〉gm山ひロ

に生れ

kpgm山ひロ

の血を受けた無教養な村の童と山野をかけ廻った一人

の頑童に過ぎぬ存在ではなかった筈である。

に訴える特殊なものである筈である。

ろうか。

それらの実証的な判定は、

その芸術が人の目を見張らすものならば、その個性も叉、何ものか人の

然し。コヤは果して、世の多くの伝記作家の云う如き意味の個性を持ってい

たであ

で開かれる彼の芸術生活に於いて、

やがてゴヤが自ら進んだ首都

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彼自ら

が吾々に示してくれるであろう。

一託

土壁小屋の如き彼の生家は、

一時旅館になったこともあったか、

念する小美術館

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今日では

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会の所有に移ってレた。

その後

の尽力で補強工事が加えられ、ゴヤの栄光を記

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(2〉

になっている。

か教区名簿から遂語的に写したゴヤの洗礼証明書o

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の証明書の初めに、

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何の価値も何の興味もない、後でつけ加えた但し警がついている。

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(3〉

ゴヤの母か貴族の出身である事実は、

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は元来土地を耕す意味であって、これは自分の土地を耕す場合にも、他人に傭われて他人の土砂

を耕す場合にも用

いられ、従って、自作農階級にも、地主階級にも時に応じて用いられた言葉であるo

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に出て来る

ωgoF03ロN仰はこの階級の代表的なものである。

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(6〉

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ω2338は十六世紀末に

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岡山

ωgF立。はそこの生徒。

(8〉

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色。

とやコヤの関係を結びつけるのは、単なる想定ではない

okrag地方の仏蘭西系の教会には一つの早い噴

の歴史がある

o一O六三年に仏蘭西の司教達が始めて

ragの

γgpg含包の聖別式に参列し、とよ

gの国王宮

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g-oa一一一一一個)(聖戦者一フミ

ロ二世)が仏蘭西の

宗号。

50の修道院で数年過したo

このことから仏蘭西の芸術は

教会と結びつくことになったのでゐる。かくて教会は芸術の一つの拠点となっていた。

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ヤの性格に就いて

一九

〈二

O一二)

1