ジャズの発展とアメリカの経済成長との相関 · 序論 ....

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ジャズの発展とアメリカの経済成長との相関 経営情報学科 池田久美子 指導教官:福屋利信 1

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ジャズの発展とアメリカの経済成長との相関

経営情報学科 池田久美子

指導教官:福屋利信

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目次

序論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

第1章 1920年代アメリカの経済・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

1.20年代の幕開け

1-1.フラッパー

1-2.モータリゼイション

1-3.ハリウッド

1-4.ベースボール

1-5.高層ビル群と暗黒街

2.産業別業績概要

2-1.自動車産業

2-2.家電産業

2-3.ラジオ

2-4.株式投資

第2章 1920年代のジャズ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

1. ニューオリンズ

2.ジャズ以前の音楽

2-1.ブルース

2-2.ラグタイム

3.ジャズの誕生

4.ジャズの発達

4-1.シカゴ・ジャズ

4-2.ニューヨーク・ジャズ

4-3.ジャズの 盛期

第3章 The Great Gatsby における20年代とジャズ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

1.F. Scott Fitzgerald

2.The Great Gatsby 3.The Jazz Age

結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26

今後の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27

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序論

アメリカの1920年代は「狂乱の20年代」(the Roaring 20s)と呼ばれる。第一次世界大戦

が終了して、未曾有の好景気によって資本主義経済が大輪の花を咲かせた。アメリカ中が大

量消費文化を享受し、浮かれ気分を楽しんだ時代であった。その意味で、”roaring”という形

容詞は、時代の雰囲気を的確に捉えていた。そして、時代の喧騒を象徴していたのが、贅を

凝らした深夜パーティであった。そこには、消費文化の 先端を走っていたフラッパーガール

たちが美を競っていたし、新しい音楽であるジャズが流れていた。当時の社会風土を巧みに

切り取った F. スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャッビー』は、今にもジャズのメロ

ディーが聴こえてくるかのごとく、文体そのものが4ビートのリズムにのってスゥイングしていた。

このアメリカがお祭り騒ぎにあったかの様相を呈していた十年間を、「ジャズ・エイジ」と名づけ

たのも、自身も時代に同化した観のあったフィッツジェラルドその人であった。

彼は、『ジャズ・エイジの物語』(The Tales of Jazz Age, 1922)と題した、当時の若者のライ

フスタイルと価値観を描いた作品集の中で、「アメリカは史上 大の絢爛たる祝宴を開こうと

していた。そこには語るべきものがいっぱいありそうであった」(America was going on the

greatest, gaudiest spree in history and there was going to be plenty to tell about it.)と述べて

いる。

当時のパーティでダンスに興じる

紳士淑女たち(上)

『ジャズ・エイジの物語』のブック・

カバー(右)

本研究は、ジャズという音楽の 盛期とアメリカ史上 大のバブル経済期が一致した事実に

着目し、その相関性を探る。その際の研究手法は、ある社会現象や芸術作品の解釈を、徹底した

歴史考察に見出そうとする「新歴史主義」(New Historicism)の批評理論に委ねる。

まずは経済史に焦点を合わせて 1920 年代のアメリカ経済の実態を分析する。次に、ジャズの

起源と発展をニューオリンズという街の特異性と絡めて論じる。そして 後に、20年代アメリカの

化身と言っても過言ではない、F.スコット・フィッツジェラルドの文学作品の中で、あるいは経済発

展がもたらした新しいモラルの中で、経済と音楽の相関性の検証作業を行なう。

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引用文献

Fitzgerald, F. Scott. 'Early Success' in Tales of the Jazz Age. New York: Charles Scribner's

Sons, 1922.

参考文献

福屋利信 『F. S. フィッツジェラルド研究:アイリッシュネスとカトリック信仰との葛藤』(佛教大学博

士(文学)学位論文、2001)

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第1章 1920年代アメリカの経済

1.20年代の幕開け

1-1.フラッパー

第一次世界大戦(1914-18)後の好景気は、アメリカの消費を大いに刺激したが、貧富の

差を広げ、新移民や少数派がその犠牲となった。人種問題は深刻化し、アメリカニズムが移

民排斥主義を助長した。この経済的・政治的混乱の状況下、既成の価値観の崩壊とともに、

新たな生活様式や文化が次々と誕生した。

獲得した経済的余裕と参政権を背景に、アバンギャルドな」女性たちは自立の一歩を踏み

出した。彼女たちは、アメリカ社会において、成功と嗜好への欲求を抑えることを潔しとしなか

った 初の女性たちであった。彼女たちの消費傾向がつくりだした、女性の喫煙・飲酒の習

慣、ショートスカートやボブ・ヘアーは、当時の消費文化だけでなく時代そのものを象徴してい

た。彼女たちは、「社会へ飛び出して、自分たちの嗜好に応じて消費する女」という意味合い

を込めて、「フラッパー」と呼ばれた。

雑誌に掲載されたフラッパーの特集記事

1-2.モータリゼイション

1920年代は、アメリカのモータリゼイションが一躍脚光を浴びた時代であり、自家用車

に乗ることは時代の波に乗ることと同義であった。また自動車産業は、大量の労働力を必要

とする産業構造であるゆえに、大量の雇用機会を提供しもした。自動車産業は、アメリカの消

費と生産の両面を支えることで、アメリカの産業界のモンスター的存在となっていく。

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フォードの部品工場(左)とクライスラー社の広告記事(右)

1-3.ハリウッド

ハリウッドがカリフォルニアにあるということは、文化社会学的意義がある。アメリカの伝統

と権威は東海岸に集中していた。ニューイングランドという地域名通り、そこにはイギリスの伝

統を重んじる精神構造が確かに継承されていた。その既存の権力主義に対抗するかたちで、

芸術性より娯楽性を追求するハリウッド映画が西海岸にスタジオを構えたことは、当時のアメ

リカ人が、そろそろイギリス文化の傘下を出て、百パーセントのアメリカ文化を希求したという

ことであったろう。

また、ハリウッドの資本はユダヤ系が独占しており、当時のスターはアイルランド系やイタ

リア系が多かった。アメリカにおけるワスプ(White Anglo Saxon Protestant:プロテスタントでイ

ギリス系)支配が頂点に達した1920年代において、ノン・ワスプ(カトリック系及びユダヤ系)

に対しても成功を提供できる場として、ハリウッドは反体制的要素を内包していた。ハリウッド

は、遅れてきた移民(新移民)であるノン・ワスプにとって、アメリカン・ドリームを追い求め得る

「聖なる森」(Hollywood)であった。ワスプ支配が も強かったとき、ノン・ワスプの牙城が隆盛

期を迎えたことは、アメリカ社会の懐の深さを物語っていよう。

映画の撮影風景(左)と

映画『雨』からのワンカット(上)

1-4.ベースボール

プロ・スポーツ界では、ベースボールが人気を博した。週刊『スポーティング・ライフ』誌は、

「野球が国民的スポーツの名にふさわしいのは、熱烈なファンを抱えているからだけではな

い。この国が野球を完成させたからだけでもない。野球が本質的に、人種や信条を超えたス

ポーツであるからだ」と述べた。そして、ノン・ワスプはもちろんのこと、アメリカ先住民族の代

表としてチャールズ・ベンダー投手とジョン・マイヤーズ捕手が活躍していること、シンシナテ

ィ・レッズが2人のキューバ人選手と契約したことなどを掲載している。

次から次へとやってくる移民に対する排斥運動が起こる一方で、ベースボールは旧移民と

新移民が一体化できるスポーツとして、あるいは少なくとも多民族国家であるアメリカの民族

紛争の緩衝材として機能したのであった。当時の国民的スターは、ベイ・ブルースであった。

ベイ・ブルース

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1-5.高層ビル群と暗黒街

1920年代アメリカは、国全体が上昇志向にあった。株は右肩上がりで天井知らずであっ

たし、国民総生産も順調に伸びていた。そして、女性のスカートの丈も膝下まで上がった。

人々は、自分たちの未来を、常に現在の位置より上に思い描くことができた。その上昇志向

を象徴していたのが、ニューヨークの摩天楼であった。

1890年の国勢調査で、フロンティアの消滅が宣言された。ニューイングランドから始まっ

たアメリカの開拓の 前線(the frontier line) は、とうとうカルフォルニアに辿り着いたのであ

る。そうすると、人々は、新たなるフロンティアを都市社会に求め始めた。額に汗して大地を耕

した者が公平に土地を手に入れることができるというアメリカン・ドリームの原型が崩れ去った

後、時流に巧く乗ったものだけが夢をつかめる競争型のアメリカン・ドリームを求めて、人々は

競い合った。アメリカン・ドリームは、農業的なものから都市的なものへ、公平なものから競争

を伴いときには不公平でもあるものに、文化的変容を遂げてしまったのである。

1920年の国勢調査により、都市人口が農業人口を上回ったことが報告された。それは、

アメリカが都市型社会に移行したことを意味していた。ますます競争は激化し、人々の上昇志

向はさらに高まった。その上昇志向を象徴していたのが、大都市の高層ビル群であった。建

設ラッシュを迎えていた当時の摩天楼群は、人々の夢と欲望を代弁していた。

ニューヨークの摩天楼群

摩天楼が上に伸びれば伸びるほど、そこへ達するための競争から落ちこぼれる人々が多

くなっていく。当然のことながら、競争に敗れる人の数のほうが成功を手にする人の数に優

る。そして、ほとんどの敗者は、現状に妥協しつつ一生を終えていくのであるが、表の世界で

の勝負で負けても裏の世界でもう一度勝負しようとする者も出てくる。あるいは、初めから裏

社会での成功を目指すものもいた。そういう者の多くは、アメリカ社会の中で、成功の夢を追

うことが非現実的とも思えるくらいの下層出身者が多かった。つまり、多くはカトリック系のノ

ン・ワスプであった。さらに言えば、イタリア、シシリー島出身者が特に多かった。禁酒法下の

密造酒で荒稼ぎしたアル・カポネは代表的イタリアン・マフィアのボスであった。

摩天楼が太陽の光に照らされて高々とスカイラークを描くのとは対照的に、暗黒街の闇

アル・カポネ

は一層深く地下に潜伏していった。この意味において、摩天楼と地下の暗黒街は、1920年

代アメリカの光と影を形容する一対のメタファーであった。

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引用文献

Sporting Life. New York: Harper Co., 1923.

参考文献

Allen, Frederick Lewis. Only Yesterday: An Informal History of the 1920s. New York: Harper &

Row, Publishers, 1964.

Allen, Frederick Lewis. Since Yesterday: An Informal History of the 1930s. New York: Harper &

Row, Publishers, 1968.

海野弘 『ハリウッド幻影工場』(グリーンアロー出版社、2000)

大河原暢彦編 『アメリカン・ベースボール』(日経ナショナルジオグラフィック社、2002)

君塚淳一監修 『アメリカ1920年代—光と影』(金星堂、2004)

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2.産業別業績概要

19世紀後半から急速に都市化、工業化の進んだアメリカではあるが、20世紀初めまで

は、それほど富める国ではなかった。しかし、第一次世界大戦を契機として、債務国から債権

国へと転じた後は、一躍資本主義世界で中心的地位を占めるようになった。この間、国内経

済も目覚しい発展を遂げ、アメリカ国民は、1920年代には未曾有の経済的繁栄を謳歌する

ことになった。その大きな要因となったのは、自動車、家電製品の急激な普及、ラジオ、好景

気を背景にしたウォール街の株取引における大強気相場であった。

2-1.自動車産業

1919年には、アメリカで670万台の自家用車が使用されていたが、1929年には、2千

650万台を越えていた。アメリカでは、乗用車は一世帯に1台の時代に突入したのである。そ

れはひとえに大量生産が可能にしたコストダウンのおかげであった。1909年に850ドルで

あったフォード T 型車の値段は、1927年には290ドルにまで下がっていた。1927年、フォ

ードが従来の T 型車に変わる A 型車を発表すると、ショールームには群集が殺到し、警官隊

までが出動するありさまだったという。

そうなると、アメリカの姿は一変した。以前は「鉄道沿線」にあって賑わっていた村々は、凋

落の一途を辿った。一方、国道に沿った村々には、ガソリンスタンド、ホットドックスタンド、レス

トラン、モーテル(mortar hotel の略で、自動車旅行者用宿泊所のこと)などが雨後の竹の子

のごとく出現した。また、信号機の数が飛躍的に増加した。大戦直後には、どの街でもメイン

ストリートとセントラルストリートとの交差点に交通巡査が一人いれば、十分に交通整理がで

きた。それが20年代の終わりには、いたるところに信号機、一方通行路、一時停止標識、駐

車禁止標識が設置され、それでも交通渋滞が起きる状態であった。アメリカは、確実に、蒸気

の時代からガソリンの時代に移行しつつあった。

このモータリゼイションの発展は、アメリカの住宅事情に大きな影響を与えた。地価が高い

市街地を離れて、地価の低い郊外に家を建てる人たちが増えたのである。そこでは比較的広

い敷地を購入できたので、庭には芝生を敷き、家族一人一人にプライベート・ルームを与え、

週末にはパーティを催すことが可能になった。モータリゼイションの躍進が典型的アメリカン・

ライフスタイルの形成に寄与したのであった。もちろん、ガレージにはフォードの新型車が、

「すべては俺様の恩恵だ」と言わんばかりに、我が物顔でスペースを占めていた。

フォードの新型車

2-2.家電産業

自動車は様々な点でアメリカ人の生活に革命をもたらしたが、電化製品の急速な普及も

旧来の生活を一変させた。この頃の都市部の住宅にはガス、水道、セントラル・ヒーティング

が完備し、家庭にはアイロン、真空掃除機、洗濯機、電話などが次々に備わり、主婦の家事

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労働は、大幅に軽減されるようになった。こうしてできた余裕は、大量生産と相俟って大量消

費社会を生み、雑誌には消費を煽る広告が満ち溢れ、広告代理店が輩出し、セールスマン

が売り上げを伸ばすために狂奔した。加えて、月賦販売システムの構築は、大量消費こそが

アメリカ社会の基盤であるという風潮を助長した。

貯蓄をし、少しずつ家電製品を買い揃えていくというピューリタン的慎ましやかさは消え去

り、将来を担保にした月賦販売の浸透は、一度にすべての家電製品を揃えることを可能にし

た。月賦販売という購買力促進剤が注入されている間は、工場の稼働率は上った。人々は、

買い物を現金の所持高に限定するのは旧弊だと考えるようになっていた。「信用は現金より

強い」という神話がまかり通った。

もう一つの大量消費のカンフル剤は、広告であった。消費者を、惜しげもなく家電の神器を

買うように仕向けるためには、巧みな広告は欠かせない企業活動となった。競争が激化する

につれて、慎み深い率直な言葉で品物を推薦し、品物をカウンターに並べて置くだけでは、も

はや大量消費社会で勝ち残れなくなった。広告業者は、緻密な全国的キャンペーンを企画

し、心理学者に相談し、詩人の美辞麗句を動員して、甘言を弄し、口説き、脅かして、消費者

の財布の紐を緩めさせなければならなかった。この時期、アメリカの全産業は、こぞって大衆

の耳に向かって、大量消費の呼びかけを始めたのであった。

2-3.ラジオ

ラジオ製造業者は、繁栄の 中にあって、自動車の製造業者ほど重要な地位にはいなか

った。しかし、1920年代のニューカマーという特質を持っていた。実際のところ、1920年の

秋までは、大衆のためのラジオ放送というものはなかった。しかし1922年には、ラジオは熱

狂的な流行になった。1922年のラジオの受信機及び部品、付属品の売上高は6千万ドルに

上った。人々は、ラジオの前に座りさえすれば、遠く離れた地で行なわれているスポーツ・イベ

ントやコンサートを聴くことができるようになった事実に驚きの声をあげた。以後、1929年ま

でのラジオの年間売上高は以下のごとくである。

1922年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60,000,000ドル

1923年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・136,000,000ドル

1924年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・358,000,000ドル

1925年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・430,000,000ドル

1926年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・506,000,000ドル

1927年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・426,000,000ドル

1928年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・651,000,000ドル

1929年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・843,000,000ドル

1922年に比べると、1929年は1400%の増加であった。

当時のラジオ受信機

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ラジオの売上高を示すこれらの数字の背後に、戦後十年間の生活のすべてが表れてい

る。三軒に一台の割合で全国に浸透したラジオ、全国に中継電波を送る巨大な放送局、旧式

なフローレンス風のキャビネットに納まった受信機から聴こえてくる A&P・ジプシー楽団のサウ

ンドなどからは、アメリカン・ライフの鼓動が聞こえてくるかのようであった。1928年には85ド

ルであったアメリカ・ラジオ社の株価は、1929年には649ドルにまで跳ね上がった。

2-4.株式投資

1927年8月、株の投機熱は、公定歩合再割引率を4%から3.5%に引き下げるという措

置と、公開市場における政府公債の買い上げによって、一段と強められていた。クーリッジ大

統領は、信用が落ちる兆候が見えると、適切な声明を発して、ただちに株価を引き上げるとい

う心遣いを見せた。それによってウォール街の買い手は、いっそう勇気づけられていた。こうし

て外観上、ホワイトハウスは、金融界が頭を悩ませていたインフレーションの保証人になる立

場をとったのであった。

1929年の夏までには、株価は雲一つない青空に舞い上がっていた。次の表は、1928

年3月3日と1929年9月3日との企業別株価の比較である。

(単位:ドル)

アメリカ缶 77 181アメリカ電信電話 179 335アナコンダ銅 54 162ゼネラル・エレクトリック 128 396ゼネラル・モーターズ 139 181モンゴメリー・ウォード 132 466ニューヨーク・セントラル 160 256ラジオ 94 505ユニオン・カーバイド&カーボン 145 413U・S・スティール 138 279ウェスティングハウスE&M 91 313ウールワース 180 251エレクトリック・ボンド&シェア 89 203

1928年3月3日寄り付き

1929年9月3日修正高値

企業名

1929年9月3日に記録された上記の高値を見ながら、株価は天井を打ったと考えていた人

はほとんどいなかった。大多数の人々は、大強気市場がまだまだ続くものと期待していた。

それは、開拓者の血がまだアメリカ人の血管に流れていたからである。フロンティアは消

滅したと宣言されても、アメリカ人は、次なるフロンティアを都市に求めた。ウォール街は、そ

の夢の象徴であった。幻想を追う習慣はまだ根強く残っていたのである。

自分の持っている有望株を途方もない額で売って、大きな邸宅に住み、ぴかぴかの車を

何台も買い、パームビーチの砂の上でゆったりと怠惰に暮らすロマンティックな夢を、当時の

人々は、楽天的に思い描くことができたのである。貧困と労働から解放されたアメリカの夢を

見ていたのである。

新しい科学と新しい繁栄の上に、魔法のような秩序が打ち立てられるのを彼らは夢見た。

道という道には自動車が溢れ、何本もの高圧線が丘の頂から頂へと伝わって電力を送り、重

機械と家電が労働を軽減し、小粋に装った男女が、深夜パーティに集った。

もはや、大地と格闘し、額に汗した労働にアメリカン・ドリームを重ねた時代は過ぎ去って

いた。アメリカは農本主義から産業主義と大型商業主義に完全にギア・チェンジし、今まで株

取引など考えたこともなかった人々さえ、ウォール街に殺到した。かくしてウォール街は世界

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の金融センターになった。そこで儲けたお金を使って、使って、使いまくる。それが新しいアメ

リカン・ドリームであった。

1929年のウォール街

1929年10月24日、取引の 初の一時間が終わる前に、まったく前例を見ない驚くべき

激しさで下落していることが明らかになった。全国の仲買人の事務所で、表示テープを見つめ

ていた人たちは、驚きと困惑とで互いに顔を見合わせた。

恐怖の到来までに長くはかからなかった。株価の機構がつぶれるとともに、その下から逃

げ出そうとする恐怖の遁走が突然始まった。主力株は売りに出るたびに、2ドル、3ドル、5ド

ルと下がり、底値はまったく見えてこなかった。次の表は、1929年9月3日の修正高値と株

価が底を打った1929年11月13日の安値との比較である。

繁栄とは、単なる経済状況以上のものである。それは一つの精神状態を表わす。大強気

(単位:ドル)

アメリカ缶 181 86アメリカ電信電話 335 197アナコンダ銅 162 70ゼネラル・エレクトリック 396 168ゼネラル・モーターズ 181 36モンゴメリー・ウォード 466 49ニューヨーク・セントラル 256 160ラジオ 505 28ユニオン・カーバイド&カーボン 413 59U・S・スティール 279 150ウェスティングハウスE&M 313 102ウールワース 251 52エレクトリック・ボンド&シェア 203 50

1929年9月3日修正高値

1929年11月13日安値

企業名

市場は、景気の周期以上のものであった。それは、アメリカの大衆の思考と感情の周期の一

つでもあった。しかし、1929年10月の大恐慌(the Great Depression)により、一つの時代が

終わったのである。以下のアメリカの年度別国内総生産(GDP)の推移表からは、1929年の

ウォール街の崩壊がアメリカ経済に及ぼした影響の大きさが一目瞭然である。

12

単位(億ドル) 単位(ドル)

名目 実質 成長 名目 実質1929 1,036 8,652 NA 850 7,0991930 912 7,907 -8.6 740 6,4181931 765 7,399 -6.4 616 5,9601932 587 6,437 -13 470 5,1521933 564 6,355 -1.3 449 5,0561934 660 7,042 10.8 522 5,5671935 733 7,669 8.9 576 6,0211936 838 8,666 13 653 6,7611937 919 9,111 5.1 712 7,0651938 861 8,797 -3.4 663 6,7691939 922 9,507 8.1 703 7,2561940 1,014 10,341 8.8 768 7,827

年度GDPと実質GDP成長率 1人当たりGDP

1929年の名目 GDP は、1,036億ドルであったが、その水準に戻ったのは1940年である。

約十年の歳月が、大恐慌から立ち直るには必要であったということである。その間、経済立ち

直り政策として、有名なニューディール政策という雇用機会増大政策をとったのであった。

13

引用文献

Soule, George Henry. Prosperity Decade, 1917-1929. New York: Rinehart, 1947.

参考文献

Hoffman, Frederick J. The 20s: American Writing in the Postwar Decade. London: Collier

Macmillan Publishers, 1965.

Lawrence, Joseph Stagg. Wall Street and Washington. Princeton: Princeton University Press,

1929.

Thomas, Gordon & Max Morgan Witts. The Day The Bubble Burst. New York: Harper & Row,

Publishers, 1979.

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第2章 1920年代のジャズ

1.ニューオリンズ

ジャズは20世紀初頭、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオリンズで誕生したとされてい

る。このミシシッピー川の河口の町は、港町という性格上、世界中の民族はもちろん、文化が

集まってくる特異な土地柄であった。16世紀初頭にはスペインに支配され、のちにフランス領

となり、ナポレオンの時代にアメリカに売り渡された。

周辺部の地域がタバコや綿花の栽培地であったため、その労働力として、多くの黒人奴隷

が連れてこられた土地でもある。初めのうちはカリブ海に浮かぶ西インド諸島経由の黒人奴

隷が多かったが、次第に直接アフリカから連れてこられるようになり、黒人だけでも様々な歴

史や文化を背負った人たちが入り乱れることになった。

ニューオリンズは、その生い立ちから人種、民族の坩堝であり、ニューヨークよりも遥かに

多文化主義的都市(the multicultural city)であった。ニューオリンズ名物の「ガンボ」(Gumbo)

料理は、ごった煮料理であるという意味で、ニューオリンズの多文化主義を象徴していた。

ニューオリンズの享楽街と

ガンボ料理

ニューオリンズでジャズが産声を上げることになる上で大きな鍵を握っていたのがクレオ

ール(creole)と呼ばれるフランス系白人と黒人との間に生まれた混血の存在である。ヨーロッ

パから伝わってきた西洋音楽とアフリカ音楽にルーツを持つ黒人音楽の融合こそがジャズだ

と言われているが、その意味でも、クリオールは存在そのものがジャズ的であった。尚、フラン

ス語の Créle やスペイン語の Criollo においては、「宗主国生まれ」に対する「植民地生まれ」

を意味する。

彼らは、クレオール言語と呼ばれる混成言語を話す。クレオール言語は、意思疎通ができ

ない異なる言語の商人たちなどの間で自然に出来上がった言語(ピジン言語)が、その話者

たちの子孫によって母語(mother tongue)として話されるようになった言語を指す。ピジン言語

では、文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく、複雑な意思疎通が不可能なのに

対し、クレオール言語は、ピジン言語の不安定要素が統一され、複雑な意思疎通も可能であ

る。クレオール言語はピジン言語と違い、精密で完成された言語であり、他の自然言語に引

けを取ることはない。

多くがニューオリンズ周辺に住んでいたクリオールは、当初白人と同等の扱いを受け、音

楽教育も含めて、ヨーロッパスタイルの教育を受けていた。ところが、1865年に「南北戦争」

(the Civil War, 1861-65)が北軍の勝利に終わり、「奴隷解放令」が発令されことにより、クレオ

ールたちは白人の扱いを受けなくなった。そればかりか、それまで優越感を抱いていた黒人

からも迫害されてしまう。社会階層が上の者が下に落ちるということは、元から下にいる者よ

り、受ける苦境は耐えがたい。クレオールは、そんな不条理を甘受しなければならなかった。

15

その結果、次第に没落していく過程で、クレオールたちは黒人社会に入り込んでいくこと

になった。そして、アフリカ出身の黒人たちが奏でる音楽や歌に、クレオールたちが身につけ

た西洋音楽の要素が自然に溶け込んでいくことになる。こうして、ジャズの土壌が生まれてい

った。

クレオール音楽のアルバム・ジャケット

2.ジャズ以前の音楽

2-1.ブルース

クレオールが吸収した黒人音楽の一つにブルースがある。北軍の指導者であったリンカー

ンによって成された「奴隷解放宣言」(1863)によっても、黒人の生活は楽にはならなかった。

しかし、辛い仕事を終えた後、自分の余暇の時間は持てるようになった。アフリカからアメリカ

に連れてこられた黒人に与えられた、 初の人間らしい扱いであった。その僅かな時間に、

自分たちの苦しみ、絶望、そして希望を自分たちの歌に託した。

その歌は、4分の4拍子の哀愁を帯びたもので、1フレーズが12小節からなり、3音と7音

とがフラット気味に暗い旋律を取るのが特徴である。そのフラット気味の不協和音をブルー・ノ

ートと呼び、それは少し外れたが故の艶があった。そしてその艶はジャズの中にも脈々と流れ

込んでいる。初期の代表的ブルースマンは "The King of Delta Blues"と呼ばれたロバート・ジ

ョンソンである。彼は、ギター一本でアメリカ全土を歌い歩いた。そのジプシー的放浪性は、初

期のブルース・ミュージシャンのアイデンティティでもあった。

ロバート・ジョンソンのレコード・ジャケット

2-2.ラグタイム

奴隷制度の時代には、ピアノという楽器に触れる機会がなかった黒人たちが、解放後次

第にピアノを手にし、弾きこなすようになって生まれたのがラグタイムである。1893年、初め

16

てラグタイムという言葉が使われたとされている。ラグタイムの rag という言葉は、「不揃い」と

か「デコボコ」という意味で、音を小節の中に整然とはめ込まずに、意識的にずらして演奏す

ることを意味している。これがジャズの奏法に大きな影響を与えたとされている。

ラグタイムは、ギターの弾き語りスタイルを基本としたブルースとは異なり、グループ指向

が強く、ピアノ、ドラムス、金管楽器、ヴァイオリンなどのアンサンブルが持ち味であった。当然

ながらそれは、ブルースと違って踊れる音楽であった。その軽快で跳ねるようなリズムは、ラ

グタイムが都会で発達していく要因の一つであった。ジェリー・ロール・モートンは、ラグスタイ

ルのピアノ演奏法を完成させたミュージシャンとして有名である。

ジェリー・ロール・モートンのレコード・ジャケット

3.ジャズの誕生

ラグタイムの演奏はバンド演奏を基本としたが、黒人には高価な楽器を購入する金銭的

余裕はなかった。しかし、時代の流れが音楽状況に大きな福音をもたらした。南北戦争に敗

れた南軍の音楽隊が、解散後、楽器を売り始めたのである。あっという間に大量の中古楽器

が市場に出回った。かくして黒人たちは、安価な楽器を手に入れるようになった。

アフリカ伝来のバンジョーに手製のドラムやパーカッションを加えて、いまでいうストリート・

ミュージックをやっていた連中が、南軍払い下げの洋楽器に持ち替えて街をパレードして歩く

という、ジャズの原型が誕生したのである。ジャズの古典、「聖者が街にやってくる」(”When

the Saints Go Marching In”) が行進曲(march)であることは必然なのである。しかし、ここで

認識しておくべきは、この曲が葬式のパレードで使用され、その歌詞の内容は、現世の辛さ

から解放されたことを祝うというアイロニーに溢れた「鎮魂歌」(Requiem)だということである。

黒人にとっては、死によってのみ初めてジャズ(自由という意味が Jazz にはある)になれたの

である。

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葬儀の際の行進

4.ジャズの発達

ニューオリンズで誕生したジャズは、まず冠婚葬祭の行進で、次には売春宿を演奏の場に

した。この種の場所では酒が付き物であり、酒が入ればバンドに渡すチップもはずんだ。ま

た、楽しさの自己表現として踊りたいと思う者も出てきた。するとダンスホールが繁盛し、ダン

ス・ミュージックとしてのジャズが持て囃された。「朝日の当る家」(”The House of Rising Sun”)

というジャズ・ナンバーがある。「朝日楼という名の売春宿がニューオリンズにある」(”There is

a house in New Orleans. They called the Rising Sun. …”)という歌いだしは、まさに当時の状

況を物語っている。

しかし、アメリカでは第一次世界大戦への参戦を受けて、風紀粛清の気運が高まり、売春

宿の立ち並ぶ唯一の公娼街「ストーリーヴィル」が、1917年の公娼制度廃止に伴って寂れて

いく。「ストーリーヴィル」を活動拠点にしていたニューオリンズのミュージシャンたちは、活動

の場を失って、ミシシッピー川を北上してシカゴへと移って行く。そして、ジャズの拠点はシカゴ

やニューヨークなどの大都市となり、ますます栄えていくのである。

4-1.シカゴ・ジャズ

アメリカ南部の北部の大都会への人口流失は、何もジャズに限ったことではない。ブルー

ス・ミュージシャンも同じ軌跡を辿ったし、何より、解放された南部プランテーションの奴隷たち

が雇用機会を求めてシカゴへ向かった。

1920年代に入ると、シカゴには多くのジャズクラブが開かれ、多くのミュージシャンに演

奏の場を与え、南部からの大量移動してきた黒人たちに娯楽を与え、シカゴ・ジャズの基盤が

築かれていく。

1922年、ルイ・アームストロングがシカゴにやってきて、キング・オリバーと共に演奏活動

を始める。一方で、白人プレイヤーであるベニー・グッドマンが活躍するに及んで、ジャズは人

種音楽(race music)であることの壁を乗り越え、アメリカのエンターテインメントに成長する。

黒人たちは、シカゴ市内のステート・ストリートの南、16番街から35番街(“South Side”と

呼ばれる)に住んでいて、なかでも35番街付近は、ブラック・エンターテインメントの中核を形

作り、ここに舞台に、酒とダンスとギャングたちの「狂乱の1920年代」が繰り広げられることと

なる。

20年代のシカゴ・ジャズを代表する「サッチモ」ことルイ・アームストロングは、ニューオリン

ズ生まれ。成功の夢を抱いてシカゴにやってくるという構図は、当時のジャズの流れを体現し

ていると言える。トランペット奏者でありながら、歌手としても有名で、「この素晴らしき世界」

(”What a Wonderful World“)は、世界的メガ・ヒットとなった。「サッチモ」という愛称は、「なんて

口だ」(“Such a mouth!”)という人々の驚嘆の声からきたとする説がある。

ルイ・アームストロング

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4-2.ニューヨーク・ジャズ

アメリカ 大の都市、ニューヨークでも、ジャズが芽を吹きだす。特にニューヨークでは大

型編成のビッグバンド・ジャズが隆盛を極めた。1924年にジョージ・ガーシュウィンが初めて

ジャズ・コンサートをニューヨークで行い、「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏した。これは、ジ

ャズが酒場ではなくコンサート形式で行なわれた 初の試みで、クラシック音楽にジャズが影

響を与えるようになった歴史的な出来事であった。

1922年、ハーレムに「コットン・クラブ」という名の高級クラブができ、そこで演奏する黒人

のジャズを聴くために、白人たちが連夜集うようになった。1927年、デューク・エリントンのバ

ンドがここの専属バンドとなり、エリントン・バンドは大成功を収め、ニューヨークのジャズ・シー

ンを盛り上げた。

このニューヨーク・ジャズを一言で言えば、「スウィング感」だと言えよう。「揺れる」の意味

が転じて、自然に体が揺れ動くようなリズム感のことを言う。「スウィングしている」ことは、ニュ

ーヨーク・ジャズの絶対条件である。故にスウィング・ジャズとは、一般的には、ニューヨーク・

スタイルのビッグバンド・ジャズのことを言う。

デューク・エリントンと

コットン・クラブ

4-3.ジャズの 盛期

ジャズの 盛期がいつであったかは、意見が分かれるかも知れない。ただ、ジャズが時代

の高揚感とシンクロして もジャズらしかったのは、1920年代をおいて他にない。本論で

は、その時代性をもって、ジャズの 盛期が20年代であったとする立場を支持する。「ジャ

ズ・エイジ」とは、まぎれもなく1920年代の「自由気ままな十年間」(jazzy decade)のことを指

すのである。

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参考文献

Blesh, Rudi & Harriet James. They all Played Ragtime. New York: Knopf Ltd., 1975.

Hodeir, Andre. Jazz, Its Evolution and Essence. Chicago: Secker & Warburg Press, 1975.

Jones, LeRoi. Blues People: Negro Music in White America. New York: Quill, 1963.

Lee, Edward. Jazz: An Introduction. Chicago: Stanmore Press, 1972.

Schuller, Gunther. Early Jazz. Oxford: Oxford University Press, 1966.

Stearns, Marshall. The Story of Jazz. Boston: Mentor Books, 1977.

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第3章 The Great Gatsby のなかの20年代とジャズ

1.F. Scott Fitzgerald

F. Scott Fitzgerald ほどその 盛期が1920年代に重なる作家は他にいない。『楽園のこ ちら側』(This Side of Paradise, 1920)で華々しくデビューし、1925年に『偉大なるギャツビー』

(The Great Gatsby, 1925)で文壇に確固たる地位を築く。しかし1930年代には、彼の才能は

徐々に枯渇し始め、20年代の輝きを取り戻すことは二度となかった。『夜はやさし』(Tender Is the Night, 1934)は、成熟した小説技法にうならされる面は見受けられるが、彼の真骨頂で

ある煌びやかな風俗描写は影を潜め、洗練という名の倦怠感が漂うばかりであった。短編集

『崩壊』(’The Crack-Up’, 1936)で、すでに作家としての限界を予見させる文章さえ垣間見せ

ている。そして1940年、心臓発作でこの世を去った。

フィッツジェラルド

フィッツジェラルドは、新しいフロンティアである大都会での成功を夢見た作家であった。そ

れゆえ、アイリッシュ・カトリックである出自をできるだけ隠し、アメリカの支配層であったプロテ

スタントに連なろうとした。カトリック系のプレップ・スクール、ニューマン・スクール(Newman

School)で学んだが、「東部プロテスタント上流階層の牙城プリンストン大学」(Princeton, a

stronghold of the eastern Protestant upper class)に進学したことは、当時のプリンストンの洗

練された雰囲気に憧れていた彼の心情を差し引いても、彼のワスプ指向を示していよう。加

えて、上流階層の娘ゼルダ・セイヤーとの結婚も、社会階層の梯子(social ladder)を駆け上ろ

うとする成功欲を表わしていた。また、フラッパーであるゼルダに恋する心情には、時代の流

行のなかに身を置こうとするフィッツジェラルドの野心が見え隠れする。

アメリカン・ドリームの変質にいち早く反応しての東部(大都会)進出、新移民(カトリック系

移民)の成功に対する渇望、第一次世界大戦後の新しい価値観とそれに伴う流行に後れま

いとする目ざとさ。これらの性向は、フィッツジェラルドが1920年代に同化しようとした作家で

あり、また、そこでしか存在理由のない作家であることを証明している。

2.The Great Gatsby The Great Gatsby は、フィッツジェラルドの代表作であるとともに、1920年代のアメリカの

風俗を余すところなく切り取った小説と言える。小説のプロットで大きな鍵となっているのは、

登場人物たちが乗りこなす車、彼らが暮らすニューヨーク、男性の価値観に合わせるだけの

存在から脱して新しく社会進出してきたフラッパーガールたち、ウォール街の株取引、暗黒街

の胡散臭さ、そして当時流行した深夜パーティであった。主人公ギャツビーは、これらのどれ

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にも関係する。その意味で、ギャツビーは “Roaring Twenties” を体現する人物である。

The Great Gatsby の表紙

一言で言えば、The Great Gatsby は、ノン・ワスプであるギャツビーが、昔の恋人であり 今は金持ちの妻であるデイジーを取り戻し、ワスプに勝利しようとする物語である。そのため

に Gatsby は「富の神」(Mammon)に魂を売り、作品中では「世俗のけばけばしい美」(vulgar

and meretricious beauty)と称されるお金を稼ぐことに邁進する。すなわち、ギャツビーは生産

文化圏にいる成金(the rich)である。一方デイジーは、相続で先祖代々の富を継承していく伝

統的富裕階層(the wealthy)の娘であり、お金は稼ぐものではなく、趣味の良いものを購入す

る手段でしかない。デイジーは消費文化圏に暮らす人物なのである。

したがって、生産者ギャツビーの消費活動は成金趣味そのもので、それを象徴しているの

が彼の金ぴかの派手な高級車である。彼は富の量しか念頭になく、富の質を向上する努力

に費やす時間がなかった。常に “busyness” のなかに身を置く “businessman” であった。

デイジーは富の量はすでに大前提として存在しており、働く必要はなく、ゆったりと優雅に流

れる時間のなかで生きている。二人の間には、「目に見えない有刺鉄線」(indiscernible

barbed wire)が存在したと物語の語り手ニックは言っている。

映画のなかのギャツビーとデイジー

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アメリカン・ドリームを夢見て新移民(ノン・ワスプ)がアメリカに大量に流れ込む一方で、既

得権益を守ろうとする旧移民(ワスプ)は、様々な移民規制法で対抗しようとした。The Great Gatsby は、そういった時代の階級間闘争を背景にしているのである。

しかしながら、ギャツビーは「目に見えない有刺鉄線」を取り払うために、自宅の庭で大き

なパーティを頻繁に開く。そこには、ワスプたちも自慢の趣味の良い車で駆けつけ、パーティ

を存分に楽しむ。ギャツビーは、そんな自分の開催するパーティにデイジーを誘うことに成功

する。

現在でも昔を懐かしんで開催されるギャツビー・スタイルのパーティ

こうしたパーティには、ニューヨーク・スタイルのスウィング・ジャズが演奏されるのが定番

であった。The Great Gatsby にも、まさにそんな雰囲気を捉えた描写がある。

The lights grow brighter as the earth lurches away from the sun, and now the

orchestra is playing yellow cocktail music, and the opera of voices pitches a key

higher. Laughter is easier minute by minute spilled with prodigality, tipped out at

a cheerful word. …

Suddenly one of these gypsies, in trembling opal, seizes a cocktail out of the air,

dumps it down for courage and, moving her hands like Frisco, dances out alone on

the canvas platform. A momentary hush; the orchestra leader varies his rhythm

obligingly for her, and there is a burst of chatter as the erroneous news goes around

that she is Gilda Gray’s understudy from the Follies. The party has begun.

大地がよろめくように太陽から遠ざかるにつれて、人工の灯りは一層輝きを増す。

いまオーケストラは扇情的なカクテル・ミュージックを演奏していて、オペラのような

話し声は一段と高まる。笑い声は一瞬ごとにいよいよ弾み、はしゃいだ言葉に弾か

れて放り出される。・・・

突然、一人のパーティ・ガールが、オパール色の衣装をひらひらさせながら、空中

高くカクテルの入ったグラスをつかみ、思い切りガチャンと落とし、両手をフリスコの

ように動かしながら、ただ一人キャンバスを張った舞台へと踊りでる。すると辺りは

一瞬静まり返る。オーケストラの指揮者は親切にリズムを彼女の踊りにあわせてや

る。そして再びどっとお喋りが始まって、彼女はフォリーズ所属で、ギルダ・グレイの

代役だという、まことしやかなニュースが広まる。パーティは始まったのだ。

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「パーティは始まったのだ」(The party has begun.)

このようなパーティでの主役は、もはや戦前のヴィクトリア朝的モラルの範囲内におけるお喋

りではなく、セクシーで活力に溢れ、理性という人間の抑制装置を外したかのような黒人ダン

スであった。Gilda Gray は shimmy と呼ばれる官能的な黒人ダンスの踊り手である。もちろ

ん、ここでのオーケストラは、ビッグバンド・ジャズ・オーケストラのことであり、スウィングする

リズムに乗せて「扇情的なカクテル・ミュージック」を奏でるのが常であった。加えて、会場をテ

ーブルからテーブルへとさすらいつつ宴に彩を添えて歩くパーティ・ガールが、キリスト伝説で

は、エジプトへ逃げる聖家族をもてなさなかったために永遠に流離うことを定められたジプシ

ーに喩えられていることが、この時代のパーティの背後にある古い価値観からの離脱を暗示

していよう。ジプシーは、自然の本能を持ち、人間性を抑える法や社会習慣からはみ出して暮

らす民族である。

3.The Jazz Age

1920年代をジャズ・エイジと名づけたのは、フィッツジェラルドである。彼は、The Tales of Jazz Age のなかで、ジャズ・エイジの時代区分を次のように定義している。

The ten-year period that, as if reluctant to die outmoded in its bed, leaped to a

spectacular death in October, 1929, began about the time of the May Day riots in

1919.

1929年10月、あたかも時代遅れになってベッドで死に絶えるのを拒むかのよう

に、華々しく死ぬことによって終結した十年間は、1919年のメイデイの頃に始まっ

た。

Jazz は『オックスフォード英語辞典』によると、「語源的には energy, enthusiasm, sexuality

と関連を持つ」とされ、さらに「活気、熱狂、型にはまらないこと、自由奔放、まったくのでたら

め、セックスの対象としての女性」などを意味し、これらの意味のそれぞれが、如何なる束縛

を受けつけようとしない若さを連想させる。したがって、フィッツジェラルドがジャズ・エイジを

19歳から29歳に設定したことは、説得力をもつのである。

また、フィッツジェラルドがジャズ・ミュージックに造詣が深かったことは、プリンストン大学

在学中に書いたミュージカル “Fie! Fie! Fi! Fi!”(1914)の脚本において、ラグタイムのリズムを

いち早く導入したことからも窺い知れる。

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引用文献

Fitzgerald, F. Scott. The Great Gatsby. New York: Charles Scribner’s Sons, 1925.

Fitzgerald, F. Scott. Tales of the Jazz Age. New York: Charles Scribner’s Sons, 1922.

Oxford English Dictionary.

参考文献

Allen, Joan M. Candles and Carnival Lights: The Catholic Sensibility of F. Scott Fitzgerald.

New York: New York University Press, 1978.

Fitzgerald, F. Scott. ‘May Day,’ in The Diamond as Big as the Ritz and Other Stories.

Harmondsworth: Penguin, 1962.

Fitzgerald, F. Scott. The Crack-UP. New York: New Directions, 1945.

Kennedy, Michael. The Concise Oxford Dictionary of Music. Oxford: Oxford University Press,

1980.

Turnbull, Andrew. Scott Fitzgerald. New York: Charles Scribner’s Sons, 1962.

Wagner, Miller. A Portrait of the Irish in America. New York: Charles Scribner’s Sons, 1981.

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結論

本研究は、1920 年代のアメリカにおいて、ジャズの 盛期と史上 大の高度経済成長期

が一致する事実に着目し、その相関を探ることを目的とした。研究の手法としては、まず、ジ

ャズの起源と発展の歴史とアメリカの政治経済との相関を検証した。そしてその相関を、1920

年代アメリカの社会風潮をみごとに救い上げた小説 The Great Gatsby のプロットによって追

証した。

1865 年に終結した南北戦争でリンカーン率いる北軍が勝利したことにより、「奴隷解放令」

が発令され、黒人たちは娯楽という人間的営みを許されるに至った。さらに、敗れた南軍の音

楽隊が楽器を大量に放出したため、黒人たちは安価で楽器を手にすることが可能になった。

これを機に、黒人たちは、南部の地方都市ニューオリンズで、自分たちの音楽であるブルー

スを進化させジャズを生み出した。

ニューオリンズで誕生したジャズは、次第にシカゴやニューヨークといった大都市へとその

中心を移して行った。その背景には、アメリカが農業国から工業国へ移行した経済的要因が

存在した。南部の綿花プランテーションで働いていた黒人たちは雇用機会を求めて大都市へ

と向かい、ジャズ・ミュージシャンである黒人たちも農村から大都市へと流れていったのである。

それを裏づけるかのごとく、1920 年の国勢調査において、初めてアメリカの都市人口が農村

人口を上回ったと報告されている。その意味で、ジャズシーンの北上は、音楽現象であると同

時に経済現象でもあったと言える。

そして、経済成長に伴う株価の上昇は、アメリカ人に精神的余裕を与え、既存の価値観に

取って代わる、より自由な価値観を追求する風潮が若者を中心に広がった。それを象徴した

のが、既存の白人音楽に取って代わる黒人音楽のジャズであった。この社会風潮をみごとに

切り取り、アメリカの 1920 年代を「ジャズ・エイジ」と名づけたのは、ヘミングウェイとともに時

代を代表する作家、フィッツジェラルドである。フィッツジェラルドの代表作 The Great Gatsby

(1925)のプロットは、1920 年代のアメリカ経済とジャズの 盛期との相関をみごとに写し取っ

ている。

The Great Gatsby の基本テーマは、伝統的富裕階層(the wealthy)に新興富裕階層(the

rich)である主人公 Gatsby が戦いを挑むという社会階級闘争である。当時台頭してきた新興

富裕階層は、自らの富を世に知らしめるために、当時の新しい風俗「深夜パーティ」を頻繁に

開催した。そこでオーケストラに奏ででさせたのは、伝統的富裕階層が好む西洋音楽ではなく、

新しい音楽、すなわち下位文化の黒人音楽であるジャズであった。ジャズという新しく都市に

持ち込まれた音楽は、新しい富裕階層の富と活力と新しい価値観を象徴する存在として機能

したのである。これを文化人類学の言葉で言えば、自分たちより下の階層の文化を取り入れ

ることにより、従来の階層構造を否定しようとする「地位下降現象」(Class Degradation)という

ことになる。

The Great Gatsby における富裕階層対立構造とジャズ

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The Great Gatsby には、Gatsby が開く盛大な「深夜パーティ」が二度も多くのページを割い

て克明に描写されている。この新興富裕階層の富を誇示する深夜パーティとジャズ演奏は、

当時の切手にもなっている。切手になっているということは、この深夜パーティとジャズが

1920 年代の社会風潮であったことを証明し、さらに「深夜パーティ」に象徴される新興富裕階

層の台頭という経済現象とジャズの発展との相関を物語っている。

こ した意味から、The Great Gatsby は、1920 年代のアメリカ経済の発展を支えた新興富裕

研究では、ジャズの発展とアメリカ経済との密接な関係性を、政治、経済、音楽の三つ

今後の課題

今後の課題としては、1920年代の経済動向を示すもっと綿密なデータ採取作業が残され

深夜パーティを描いた当時の切手

階層の台頭と、ジャズの 盛期との相関を巧みに描いた社会文化学的テクストであると言え

る。

観点から検証した。この相関を指摘した研究はこれまでにはなく、音楽史と社会文化学とを

融合させた学際的視点をもたらしたと自負する。

いる。未来への指標を求めて過去の検証を展開する通時的研究(diachronic study)を継続

していくことが、本研究の信頼性を上げていくと認識する。

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