ヘイの第二次門戸開放通牒 - osaka city...

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O し/ ヘイの第二次門戸開 - 虫早 -圃圃- アメリカの門戸開放宣言 を実現して フィリピン群島とグアム島を領有し また同戦争中に懸案のハワイ併合 一躍太平洋 ・ア ジアにおける強国 として 登場し 伝道図やアメリカ ・ア ジア協会など中国進出を要求す 合衆国は 一八九八年の米西戦争の結果 る利益集団の圧力のもとに 積極的な極東政策を模索していたが 時あたかも帝国主義列強による中国分割の危機が イギリス・ドイツ・ロシアに対し、国務長官ジョン・ヘイの名で通牒を 送った(日本 フランス イタリアにも十一月に同趣旨の通牒を送付)。 乙の第一次門戸開放通牒は、合衆国が初めてその極東政 策の原 則を世界に宣 言し 門戸開放政策の開始を告げた点 急速に深 まるなかで、 一八九九年九月ムノ目 で画期的であったが、 その具体的要求条項はきわめて慎 重かつ 控え目であった。すなわち、イギリスを含む列強が当 時中国で設定していた「利益範囲」ないし「勢力範囲」が既成事実である乙とを認め 、租借地や「範囲」内で「通商 と航 海の完全に均等な待遇を受ける」 乙とを要求するにとどめているのである。そこには、いわゆる「勢力範囲」が 存在するかぎり 、中 国との条約で保障された諸権利を維持する乙とは困難であり 、「 通商上の機会均等」は空語にす ぎないという認識があっ勺 J すべての国の通商にきわめて有用であり望ましいと考えられるべき」通商上の均等な -h E4 ・? よな文‘ Eq - - 379r 1 c: L 0 ZA - - zJ4d 河川円四回目爪り【間判岳民 - J h y - - c J J d j 1 園出 1 A a a w ,. ( 238)

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Page 1: ヘイの第二次門戸開放通牒 - Osaka City Universitydlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd...ジョン ・ ヘイの第 二次 門戸開放通牒-・・・-M・

三O

し/

ヘイの第二次門戸開放通牒

-ー

虫早

-圃圃-

アメリカの門戸開放宣言

を実現して、

フィリピン群島とグアム島を領有し、また同戦争中に懸案のハワイ併合

一躍太平洋

・アジアにおける強国として登場し、伝道図やアメリカ

・アジア協会など中国進出を要求す

合衆国は、

一八九八年の米西戦争の結果、

る利益集団の圧力のもとに、積極的な極東政策を模索していたが、時あたかも帝国主義列強による中国分割の危機が

イギリス・ドイツ・ロシアに対し、国務長官ジョン・ヘイの名で通牒を

送った(日本

・フランス

・イタリアにも十一月に同趣旨の通牒を送付)。

乙の第一次門戸開放通牒は、合衆国が初めてその極東政策の原則を世界に宣言し、門戸開放政策の開始を告げた点

急速に深まるなかで、

一八九九年九月ムノ目、

で画期的であったが、

その具体的要求条項はきわめて慎重かつ控え目であった。すなわち、イギリスを含む列強が当

時中国で設定していた「利益範囲」ないし「勢力範囲」が既成事実である乙とを認め、租借地や「範囲」内で「通商

と航海の完全に均等な待遇を受ける」

乙とを要求するにとどめているのである。そこには、いわゆる「勢力範囲」が

存在するかぎり、中国との条約で保障された諸権利を維持する乙とは困難であり、「通商上の機会均等」は空語にす

ぎないという認識があっ勺

Jすべての国の通商にきわめて有用であり望ましいと考えられるべき」通商上の均等な

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...

ー,

-.... •

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‘、

、、

待遇を要求することにより、まず諸国の同意をとりつけ、中国分割の策動に歯止めをかけようとする志図が秘められ

ている。しかし他方で、第一次通牒のな一案と策定の過程べとくに

A-E・ヒッピスレ!と

W・W・ロ

ックヒルの覚古

に凡られるように、)ま

たイギリスあて通牒では明示されているようじ、)合衆国の究様白根は、

「勢力範囲」

を除去す

ることによって真の「通商上の機会む等」を実現し、あわせて「中国の領土的

・行政的保全」を維持するにあった。

したがって、第一次通牒における合衆凶の政策定図は、

このようないわば戦略的白根を長期的観点から追求しつつ、

当.由は最E4阪の戦術要求を掲げて列強の協同行動を促すことにあったといえよう。第一次通牒に対する各国の反応は

まちまちであったが、

ハ5〉

したのである。

一九

OO年三月、ジョン

・ヘイは、列強はすべて門戸開放通牒を承認したものとみなすと言明

一九

OO年七凡三制、義利回の北京公使館包聞と列強による軍事介入の拡大の危機という状況にあって、

lキ

l

ヘイは関係十一カ国にあてて同文通牒を送った。乙れが

いわゆる第二次門戸開放通牒である。

ぃゾョン

マッキンレ!大統領

は、同年十二月三日に連邦議会あての年次教室田で、

激動する中国情勢とアメリカの対応について総括し、

「乙の試練

の全期間にあって、合衆国の政策は明確に告知され、細心の注意を払いつつ遂行された。七月三日付で列国に送付し

(6〉

た同文通牒は、わが国の態度を表明する宣言であった」とのべ

、同文通牒の最後の一節を引用している。すなわち次

のとおりである。

合衆国政府の政策は、中国に帆久的な安全と平和をもたらし、中国の領土的

・行政的保全を維持し、条約と国際法とによって友好

諸国に保証されている一切の権利を擁護し、清帝国の全地域と均等かつ公平に貿易する原則を世界に対して保障するような解決を

7〉

求める乙とである。

ジョン

・ヘ

イの第二次門戸開放通牒

一一一-

(239 )

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ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒

-・・・M・.-・・・・・4・・圃圃圃・.

-・・・4・

( 240)

見られるように、乙こには第一次通牒に合意されていた門戸開放政策の原則が公然と全市的に表明されている。

「中国の領土的

・行政的保全の維持」

の原則が前面に押し出され、

同時に条約による権利の擁護と

「通商上の完全な

機会均等」

の原則を主張する

乙とによって、「勢力範閉」

を事実上否認している。

こうして合衆凶は列強による小国

分別に反対する態度を快界に宣言したといえる。

ところで乙の七

・三同文通牒には、もう一

つ注凶すべき言及がけんられる。それは小凶の状況に関する次のような判

断である。

われわれは、北京の状態は事実上無政府状態であり、その結果権力と責任は実際上地方の省官憲の手に移っていると考える。

地方

の省官憲が反乱に共謀していないととが明白であり、その権力を用いて外国人の生命

・財産を保護しているかぎり、われわれはと

8〉

れらの官憲を中国人民の代表とみなし、かれらとの間に平和と友好の関係を保つつもりである。

右の箇所には、同文通牒が何故にこの時期に発せられたか、またその直抜的なねらいがどこにあったかを考察する

ための手がかりがあるように思われるが、門戸開放通牒に関する従来の研究で乙の点に注目し十分な検討を加えたも

9V

のは意外に少ない。

乙の問題は、小凶近代史研究者の問では周知の

「東南互保」体制形成と七・

三同文通牒とがどの

ような関連をも

っていたかという問題である。したがって、まず小凶山入側のけ以近の諸研山んを参照しつつ

「東南互保」

(ω)

の動きについて概観する。

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-

「東南互保」体制の形成

一九

OO年ムノ月十三日の義和国による北京公使館包囲に始まり、十七日の述合軍の'f.治砲台占領、シ!モア階下の

述合軍の敗退、そして清明の宣公布告〈二十一日)

へと、北背の情勢は危急をつ、げ、八月十五円ゆ北点陥山本

γいたろ

までの二カ月間、義和団の乱は最高潮に達し、清朝の滅亡と中国植民化の危険が深まっていた。

乙のなかにあって北京政府内部では、義和団を利用して外国の庄

bk抗し危機を打開しようとする端郡王

・剛毅な

ど積極派(「頑固派」)と、義和田を鎮圧する乙とによって難局を切り抜け列強と和解しようとする慶親王

・栄はら消

極派〈「洋務派」〉とが対立していたが、去就を決めかねていた西太后は、ーノ月卜プ円から聞かれた御前会ぷで杭械派

の側に傾き、大治砲台占領という述A門軍の挑戦を受けて、六月二十一日ついに宣戦布行に踏切ったのであマ匂宣戦の

上諭がくだされると、宮廷内の積極派

1抗戦派の主導権が確立し、消極派は苦境にん札記されたが、栄禄らは、不戦冷に

抵抗しながら北京外部との必絡を保持し、局ぃ山の転換をはかろうとしていた。そしてこの栄はの期待に呼ぃ必したのが

かれらを指導し「米南互保」体制形成を推進したのが湖広総評張

東南清地方の総替

・巡撫などの洋務派官僚であり、

之洞と両江総督劉坤一であった。

張之澗は、早くも.ム月三十一日、

義州団は会保であって良氏では

総理衛門の

T禄と直隷総将裕禄とに屯報を打ち、

「弘、

J1L1puv

巾凶が臼ら義利回をい怖滅しなければ外凶兵が貫教師

・教民保ぷ、鉄道防衛の%以で似人して小凶は分訓される

と主張し、義和団の速やかな鎮圧を要対していたが、

「邪.m位は

m街門に対し、

劉坤一と述名で、

37Z!こ士、

J

ノによイ

zcl{

剣すべし、誤って撫を用いる乙となかれ」と上奏した。張之洞はこのように徹底して反義和団政策を推進する一方、

ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒

一・ーー・岨.

一一一-ーー・4・

(241 )

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'.

ョン・ヘイの第二次門戸開放通牒

三凶

外国軍の東南地方侵入を恐れ、列強聞の対立と勢力均衡を利用して「東南保設」をはカった。ロシア船の浅口入港に

刺戟された英国制下が、

長江に英海軍を増派して土匪抑圧に協点すると・叩入れたとき、

.h之制は劉凶γを説きつけ

て、

11八日、イギリスの提案を謝絶するとともに、駐英公使維山.U

H仰に打浴して、前湖地点は張、長江ド流山城は劉が級

み保護する旨央政山に伝えさせ、

せている。

十九日と二十

一日には、Hいい

114

f仁3

-p

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叶肌・汗公伎にもそれぞれ打川し、同級の雌円ふか述さ

以上の如く、劉

・.怯は協力して、対内的には反乱を武-M仰正し、地万秩序を維持し、外向の尚人と教会を保設する

こん」、対外的にはト米市諸省への外司軍侵入を阻止して東出を似

ιすることをけざしたか、この政策は京州諸約

ω他の

督撫の協力と此ノ同行動をまってはじめて効果をあげる乙とができた。六月二十日の-長江作将撫必去による総

m術川あ

外向人前ノ

.宣教仰を併ぷする旨のよ諭を袈

(242 )

て五奏はその最初の表切であり、それは義和団の鎮圧、各同への謝罪、

約するとともに、アメリカに調停を依頼し、李鴻章を北京に呼んで列凶とを休戦の条件を協議させる乙とを提案してい

た。

さらに対外的にも、ムノ刀二十二日、京商督撫速署の小也知慨を災

・汗

・日三国政府に送り、44Jλr,rf父、

jjεぃu

ふ工作どがカ,t444ytl

し、李鴻章の北京到右後に講和を結NA

ように要泊する一方、

地・いみの治安維持に努めると約束した。

.μ江

・治併の各叔M

撫は極力外凶間人

・宝教削を併泌し、

さて、義和問鎮.比を単くから主張して劉

・張を結びつけ、

さらに山京巡撫ぷ世凱や同広総督李鴻市と辿絡をとっ

て、東南督撫の大述〈ロを推進し、「東南互保」体制形成に重要な役割を演じたもう一ノのif物は、

上海ザ紳の感官一俄

であった。盛宣懐は上海電報総局督弁として、北京と地方および地ぶ相互間の述絡

・通伝を余保しており、劉・

張問

の辿絡のみならず、ぷ世凱を通して北京の栄禄とも述絡を保ち、また劉

・阪と上海の々什同似がとを結びつける邸でも

あった。北京駐在独公伎ケッテラ!殺告(六月,一十日)の悶が上海に伝わり、勺一戦のよ諭の知らせが川き、ロシア

-•

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日本など辿合軍刑派の動きが強まるといった緊辿した空%のなかで、胤白日一懐は二十問円、劉・張および手鴻章に宰.忽

川町即慨を打ち、宣戦の諭旨を受ける前に上海道台に命じてみ什国似がと協定を結び、上海の租界は各同の保設に、長江内

部は各符撫の保漫にゆだね、相互に干渉しない乙とを取り決めるよう要約した。

日)

イ凶切も劉・

張に省報を打ち、作凶飢事との会談を提案した。

また同日、上海駐在円本総領事代理

こうして、劉

・張の代理に折名された上向辺ムリ余聯況と保管一恨の同名が、ムノ月二十ムノ日に各国領事問と上海で会談

する辺びとなった。

ん什凶似事はそれに光なって二十五日に飢引会議を聞き、長江地域の巾な維持の・万針で合意してい

「保護上海長江内地通共章mU」

た。しかし二十ムノリの会談では、小川川宣懐起立の

九カ条案をめぐって各同領事の問で児

泌が多く、まとまらなカったため、将来再審議される乙とになり、ムノ月二

luの大治連合軍提将の布作の趣旨にホじ

旨の声明を出すことに決まった。そして却

て、「もし長江内地に乱が発生しなければ各国は決して

1事介入しない」

一一Jl

七H、各凶傾評会議は、前日の確認評項を上海辺台あての公的立回状で通知することを決定し、同円それを発送し

「作凶似惇ノ閣下

-一対シ各凶政府ノ「内総将ノ凶際保約ノ規定

ニ遵ヒ外人ノ権利ヲ維持セラルル問ハ

ハ凶

)

陽イ江沿山-一市隊ヲヒ陀セシムル芯忠ナキ旨ヲ刷総門ニ戸川セラレン惇ヲ希望ス」というものであった。こ乙に

た。そのトト古田は、

十問

ri保」

の似則が小外の代表によりともかく確認されるにいたったのである。

しカしこのいえいド.1は七海飢いお凶のぷ任で決定されたものであり、'谷川内十本川川政府の委任を受けていなかったため、法的

拘小沢力に欠けるところがあった。

また協応九カ条は棚七、げにされていた。

東南替撫は二

ト八日に再び述々1

で、

そこで椛宣偵の.要約により、

(

在外山川公伎を通して作川政府に対し協定九カ条を直接照会した。他方、同日、

劉・張・李コ一総

次i寸品、

それぞれ、いまだ宣戦の諭旨をぷじてないので、「北方がどうなろうと」「東南互保」

の確認文書を遵守すると

一戸明したが、その後盛宣懐は、右の劉

・張の声明をふまえて、各国政府の正式委任を受けた領事との聞に、「無ν論ニ

ジョン・ヘイの第二次門戸開放通牒

三五

( 243)

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ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒

三六

北事如何乙

の一句を入れて強化した公文をあらたに交検する乙とを円

・英

・米各一領事に巾入れ弘〉

ムノ月三十日にいたって、

独公使ケッテラ

l殺中小川の確切械が北町の外にもた、りされ、また他の川の公伎の生存も絶問視

されたため仙勢は緊迫の皮を一段と強めた。

否し、

・英

-uv政府は小川側ゼイした協定策九カ条を拒

F

}

結局協定の正式締結に関するカぎり感宣恨の努みは尖らなかった。

その彫仰げもあって、

しかし七月.一日、上向泊ムμが飢弔問首席あ

てに、二十八日の劉

・張の声明を照会したのに対し、

ムノ刀二十七円の余聯況あて書状を

仰い引回は七刀七日の会議で、

の釘則が.再係認された。

もってその同作となし、

そして乙の

W則はその後斯江

・福池にも準用されて京

「京市互保」

(幻)

市九名にまたグる体制が形成され、七月二十一

nには的制も乙れを承認したのである。

-・圃--合衆国の対応と七・三同文通牒

(244 )

東南替撫の以上のような策動に対し合衆凶はどのように附与したカ。またジョン

・ヘイの第二次通牒はそれとどの

ような関連をもっていたカ。次に乙の問題が検一局されねばならない。

義和国が天津郊外に迫り、外国軍と交戦するといった状況下で、ムノ刀八日、ジョン

・ヘイは北方駐在米公伏

コンガ

ーに対し、

実行可能ならば独立して、、必.要とあらば他の諸国の代表と協同し

「アメリカの権益を保護するにあたり、

て行動せよ」と訓電していたが、続いて六月十日の電報で次のように訓令した。

われわれは中間ては、

アメリカの権益およひ特にアメリカ市民と公使館を極力保護する以外に政策をもたない。食下が常お受けて

いる訓令とvf問する行動にわか闘を今後引き入れるようなことは一切しではならない。いかなる同盟もなしてはならない。

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裂するに、北婦の危機的状況に対処するためにジョン

・ヘイが与えた当而の方針は、アメリカの行動の'リ山を併比日

しつつ、包附された北京公使館の救出と中凶の秩序の削復という限定された目的でのみ他

Aと協同行動をとることに

あり、したかつて幽務行の円以十ノの懸念は、緊急の軍事的必要に迫られて、介衆国が反中凶の同盟にをき込まれること

であった。ムノ月Jl七日の述人口軍のナ治砲台攻撃の際に、

この懸念は現実のものとなった。しカしアメリカ海軍の司令

,tJふ14F

,ιLトiH

中凶と山間悦する権限を与えられてないとして、辿〈けい阜の大治守備隊に対する円以後通告

γひとり署名せず、以災

{'m)

-げ-

も中国と戦争状態にないとしう見解を固持したのである。その影響もあって、

辿〈口中山十捉松川はムハ刀二十円の布引を発

し、「義和同および、同胞救援のために進撃する際に敵対する者だけに武力を行伏する」

と今一一言したが、

この布ババげは

「十米両立保」

μざして副策してした劉

・張両総督や上海領事聞に一

つの拠り所を与える

ことになった。

・張一派が当初カら合衆国に伝をおき、その調停を期化付していたことは、ムノ月二十日の長江各総評巡撫述以引によ

る小屯奏にも一示されてしたが、劉

・張の対米工作は、ワシントン駐在公使伍廷芳を通じて執働に進められた。ムノ月二十

一日と.一卜一一

日には、劉と張は続いて伍廷牝々に打電し、南方諸州は平静であり、

・張問総督はその管戦下の五行で

治安を維持し外国ノを保位する決芯であるカら、

An衆凶の側でも揚子江流域で治安が維持されるカぎり同地域

ヘ軍隊

(

)

を派遣しないよう引地.司令官に訓令してほしい旨、国務行

へ伝達させた。そして乙れを受珂したジョン・ヘイは、直

ナノ統似の承認のもとに、

(mU〉

駐抗の汗大伎にも伝達したのある。

承諾の回答を伍公伎に与え、同時にその内科を英

α・独

・保

・日々作川川

ちにトノ統似に伝え、

υしで二十三日、張之洞は伍公伎に、同広総督李鴻章

・両江総督劉坤

一-湖広総叔ハ張之、制

・山東巡撫哀世凱

・安徽

巡伽.エ之本

・湖市巡撫前版三の一泉市斗ノ督撫述岩による対外戸明文を送

った(凶務省は二十五円受理〉。

乙の戸明文は、

前節でハルたようにい米両好撫述訴の対外戸川の第一

一刊であり、災

対ん

日三国あてに発送されたものであ

った。

ジョン・ヘイの第二次門戸開放通牒

三七

・・

(245 )

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ジョン

・ヘ

イの第二次門戸開放通牒

三八

北京駐在公使

コンガ!との連絡が途絶えてからは、閃務省の訓令はLL海駐花総領事グッドナウに向けられたが、グ

ッドナウは、六月二十五日以来の上海における「東南互保」会議の顛本を国務省に報告している(六月二十九山)。乙

うして合衆凶政府は、劉

・張

・盛一派の

「東南互保」

体制形成の勤きに期待し、

支援を強めたのであるが、

その矢

先、グッドナウ総領事が七月一日付で送った次の電報は、閃務省に衝撃を与えるに十分であった。

端部王は全総督が外国if

と戦うことを命ずる二十日付の仁諭をくだした。中部

・南部の総俸は.雨来一致してζ

れを無視している。

(ママ

一)

ドイツ公使は十八日に殺害された。二十三日には三つの公使館が持ちこたえていた。二十六日の電報で栄禄は他の公使の無事を知

らせたが、権力を握っている端郡王が攻撃を命じているので状況は絶望的である。

・南清の総替は、結束して各国政府を代表す

る総領事に対し、かれらが秩序を維持し、外国人を保護するかぎり、北京で何が起乙ろい勺ともその行を攻態しないと認めるよう要

請している。

北京のもっと悪いニュースが抑えられているのではないかと低念していろ

3

( 246)

乙の屯報で、グッドナウは独公使ケッテラ!暗殺の確報を初めてわ衆国に伝え他の公伎の生存も絶史的であると報

じたが、同じ

ニュースは乙の乙ろ各国領事を通じて全世界に伝わった。ジョン

・ヘイは敏速に対応した。かれはグッ

ぜよ。

地・ぃ刀総符が秩序を維持し外国人を保設するかぎり、

わが悶の目的を他の凶々に知らせた。総督たちにも伝えよ」と訓令したが、グッドナウも恕二日、直ちに劉

ドナウにあてて

「わが軍K対し、

中南諸公川を攻粧しないように命

張に打電してそれを伝え、

ても、

上諭を無視して治安を維持する窓思を布告するよう要請し、

各総督に同嫌に安治せよと訓電した。

同時に各地の米凶領事に対し

そしてし人誌の七月三日である。

乙の

H劉

・仮両総督は、南京カら述名でが屯報を送ったが、同日それふ受理した仮公

伎はその英訳文を覚書として凶務杓へ手交した。その内寄は従来のものとあまり変っていないが、焦燥感にみちてお

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(247 )

り、?っし北清で軍事行動がいっそう強力に進められるなるば東南青の住民が動揺をきたす恐れがあるので、はっき

りとした了併に達する、必要がある乙と」「北方で何が起ころうとも」京市互保の附則を守ることを喪持して

いる。さらに同日、グッドナウはジョン

・ヘイにあてた電報で、劉坤一の個人的要請を伝えた。劉はマッ

キンレ!大

ハ白羽〉

統領がリーダーシップをとって他の列強を抑制してほしい、それが中国の唯一の希望だというのである。

を訴え、

こうして七月一

日、ジョン

・ヘイは緊急閣議を開いた。

マッキンレ!大統悩はオハイオ州カントンにいて山席しな

、A

コp

4HH

,ふムム川M

小旧活で連絡がとられた。

ヘイはアメリカの又場を悦界に向けて表明するするような政策宣言が緊与に必必

になったとして、同文通牒案をマッ

キンレ

lk報告し、

閣議出席の長官たちも、

それぞれヘイの提案に賛成する

P

?こ)¥.の統で傾あ lζる(え037え

?こ。

こうしてヘイの原案どおり同文通牒が反例附され、それは向日、関係卜一ヵ

Fの米大使館

ヘ送付され

第二次門戸開放通牒の意義

むすびにかえて

ジョン

・ヘイは親友のヘンリ

l・アダムズにあてた七月八日付の手紙のなかで、

同文通牒について品明し、

「なす

べき乙とはただ一

つ、

でさることなら嵐を局地化することであった。

う。列強、は中山市でのわたしの

『暫定協定』

に同定した」

そしてわれわれは乙れをなしとげたように思

へお)

とヴいている。七

・三同文通牒はアメリカの政策の一方的

υ円切であり、第一次通牒とちがって、本来四符を.要求していなカった。

ヘイは列強の反応を期待したであろうが、イギ

リス以外に反応はなく、そのイギリスでさえ、

燥に実際的にはほとんど関心を示さなかった。したがって、

ソ!ルズベリ汁相は円本軍のノ規模派兵の計画に熱中していて、ヘイ通

ヘイがゐの子紙で列闘が同志したといっている「暫定協

ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒

三九

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ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒

四。

定」というのは、恐らく「東南互保」の協定の乙とであろう。あるいはもっと正確にいえば、北清の「局地化」によ

る「東南互保」の原則のことであろう。

劉坤一と張之洞が「東南互保」体制構築に際して協力を期待した国は、

日・英

・米三国であった。日本は、小田切

総領事代理の積極的関与と支援にもかかわらず、外務省は当初「兵略上我

ニ利益アル場合ハ何時ニ於テモ上陸若シク

ハ之ヲ利用スルノ'け由」にこだわり、地方総叙口を事実上の政府とみなして対等のな-場で交渉し協定を結ぶことに難色

i

!

)

を示し、協定案を承認してからも、似事国の共同

一致の行動を守るよう再三訓令して小田切を抑制した。また揚子江

流域を「勢力範囲」

とみなす英国は

「東南互保」

の動きに深い関心を寄せたが、

ソ!ルズベリ首相は総領事ウォ!

レンの行動を一点側し、

盛宣懐提案の協定案の条項は、現存の条約権を制限する点で「全く許容できない」としてその

批准を拒否した。こうして合衆国のみが「東南互保」の「暫定協定」を積根的に支援しただけでなく、七

・三通牒で

「暫定協定」の存在を内外に公然かつ公式に表明したのであった。そしてヘイは、列国のいずれもあえて異議を唱え

なかった故に、「同意した」とみなすことができたのである。

ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒の直接的なねらいは、北清の危機の局地化にあり、・列強がケッテラ

i殺害の確

報がうみ出した機会を口実に利用して、中間闘に対する全面戦争を開始し、中国を分割

・植民化しようとすることに反

対の意思を表明するにあった。そして「局地化」の主張はおのずから「中国の領土的

・行政的保存の維持」の原則の

表明となり、次にこの原則を前提として、合衆国の本来の要求である「勢力範囲」の除去と「通商上の機会均等」の

原則が明確に掲げられたのであった。

次に、第二次通燥の国内的意義について少しふれておかねばならない。当時の国内政治の状況として注目されるの

は、

J

ノ月十九同にフィラデルフィアで北/和党が、七万円日にはカンザス

・シティで民主党が、相次いで全凶大会を開

.

(248 )

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しており、十一月のナ統領選挙に向けて「帝一割主義」

て〉

となっし

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とに

あ〆、 園、てo42

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の問題が霊要な争点の

義論争」は、

フィリピン併令問題を軸仁、

一八九ノ年夏以来凶論を二分するほどの激しさで展開されてきたが、九

年二月にフィリピン併合が決定されて以後は、アギナルドの民族独立戦争を鎮圧するため、マ

ッキンレ

i政府は七万五

千の軍隊を投ヌして泥沼化する戦争にのめり込んでおり、

AW)

んで政府・共和党を攻撃していたのである。

これに反対する

「反帝国主義」

迩勤は、日以主党をも巻き込

このような情勢はジョン・ヘイの中国政策の遂行をす/きく制約した。

の投入によって、中凶の義和国鎮圧と公使館救出のための軍隊の桝派は困難であった。

ハ“〉

る政治的利用を避けるためには、中間で慎重に行動する必要があった。その志味で、

アメリカlフィリピン戦争の長期化と大兵力

また世論の批判と民主党によ

民主党全国大会の前日に第二次

通牒が発せられたことは、主.裂な同内的効果をもった。とりわけ「局地化」政策と「領土的

・行政的保全の維持」の

ぬ則の表明は、「反帝凶主義」者と以主党の批判の牙を抜く効果があった。その上、

義和閉鎖正のための述人川原

への

それを公伎飴救援の目的に限定する公約によって同日比の同芯をねるのに成功し、逆にフィリピン領有とその

ための戦争を正当化するのに役交ったのである。十一月の大統制巡挙の鮎果は、

マッキンレ!の勝利に終り、「4

以帝

国主義」を掲げた民主党のブライア

ンは再び敗北した。

最後に、劉坤

一・政之削など「京市互保」体制を推進した束尚脊撫をどう評価するかという問題が以になるが、こ

の問題は義和聞の評価、洋務派官僚の位置づけと関述しており、本杭の課題範囲をはるかに越えている。しかし七

参加も、

三同文通牒のねらいが「東南互保」体制の擁護にあった乙とが明らかにな

った今、

ある。合衆閃の中川凶政策の法本的目標が「門戸開放」

その観点から一定の評価が可能で

(uHアメリカの利益)

の前に・1ちはだかる二つの敵対勢力を排

除する乙と、すなわち、

一方では

「排外的」な義和聞を鎮.比する乙と(反革命)、他方では

「排他的」な「勢力範凶」

ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒

(249 )

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ジョン

・ヘイの第二次門戸開放通牒

凶二

HH中凶分制に反対すること

アメリカの支援のもとに

「米南五保」を通

(反「帝凶主義」)

におかれていたとすれば、

じて、巾凶の難局を打開しようとした劉

・張一派の路線は、さしづめ反革命

・反「帝川主義」と特徴づける乙とがで

〈“一)

「反帝的反革命的政治性格」を怠味するものではない。「東南互保」体制は、

きょう。だがそれは、永井算巳氏のいう

旦井彦七郎氏が規定するように、「上海を中心とする東南各地における帝凶主義の諸権益を人以の反帝闘争から守り、

同時に買弁的作務派支配を帝川主義に公認してもらう乙とをめざしたも仇」

であって、火山子通り反俗的とはいえない

カらである。

それは、列強の小凶に対する今.而的市一事侵略と小間分割HH小凶植民地化に一定抵抗したというぷ・味では

反「帝川主義」

であったが、アメリカの以市命的

「門戸開放」

帝川主義HH新机民地トじ義に迎AHし、

その雌払いの役

を演じたという意味では親帝凶主義であった。

義利回一辿動の・山・凶を舞ムけに、二つの帝凶正義が交錯していたのであ

る。注

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ωヨ可EmOHS∞∞・が包抗的に論じて

本稿はそ乙カらヒントを得た。

(印)「東南五保」に関しては、坂野正高『近代中国政治外交史』京大出版会(一九七三)、池削誠中国現代政治史法律文化

社〈一

九五二)、野村治

一「義和団事件前後の政治・思必状況」(日本政治学会編

「現代世界の開幕』岩波書信、一九六ご、

定井彦七郎

「義和団運動」(『岩波講座世界歴史二二』、一九六九)験問喜久男「張容と東南花保」ヘベ中悶史

・陶倣史論集L

株版

原、一九八三)などで触れられているか、とくに永井算巳「東南保護約款について

ll日中関係史料よりみたる||」(『信州

大宇之理学部紀要'』九、一九五九)と李閤祁『張之洞的外交政策』(台北・中山〈研究院近代史研究所、一九七

O)が有益であ

合同、

本稿を作成するにあたり、右の中間近代史関係文献につき森附明教援に例数一示いただき、またみ凶祁の著省庁の関係

部分を本学大学院学生、鉄山博氏に邦訳していただいた。記して感謝の意を表したい。)

〈日)河村

一夫「北清事変と日本」

(日本国際政治学会編

『日本外交史研究明治時代」有斐附一九五七)、阿部光蔵「持和同事変と

清廷事変勃発時における清廷消極派の事績を中心として」(『外交史及び間際政治の諸問題慶応通信、一九六一一)参

悩山。

しる。

(ロ)以下の叙述は、十字国祁前掲書、

北清事変上』を参照した。

(日)こ

の事件についてはみ前掲書、

ドo口。。口、℃匂・一戸。]7HAWω・

本寸前掲書、一四八頁。

一三ノl一七五頁に主として依拠し、永井前掲論文で補い、

日本外交文書第三十三巻別問二

一間五l一四ナ頁およひ以下参照。

HL

・阿ハ.

ペOZロmw切江巳ωFMUOごの可トロのyトロω一{∞mvmlHωONM

(日比

)

一四九頁,

(日)同字、

一丘一ll

一丘三頁。会談にいたる経緯については永井算己氏および藤岡喜久男氏の前掲論文にくわしいc

(刀)前掲「日本外欠文書』四九五!四九九頁。

ジョン

・ヘ

イの第二次門戸開放通牒

間三

(251 ) .

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(足)

Hay to

Conger

, June 8

, 1900.

FRUS,

1900,

p. 143.

(tG)

Hay to

Conger

, June

10,

1900. ibid.

, p.

143.

(お)Dennett

, op. cit.,

pp. 299

-300.

(お)

FRUS,

1900,

pp. 251

-252.

(~) Memorandum,

June 22,

1900. FRUS,

1900,

p. 273.

(お)Hay to

,可u

Ting-f

ang,

June 22,

1900,

FRUS,

1900,

p. 274.

(g) FRUS,

1900,

pp. 274

-275.

(~) Goodnow to

Cridler,

June 29

, 1900

, FRUS,

1900,

pp. 249

-250.

(~) Goodnow to

Hay,

June 8

, 1900

, FRUS,

1900,

p. 252.

(~) ibid

・-

(お)

ibid.,

p. 252.

(お)

Memorundum,

July 3,

1900,

FRUS,

1900,

pp. 276

-277.

p. 252.

(お)Marilyn B.

Young,

op. cit.,

p. 162.

(ぬ)

ibid.,

p. 162.

(叙)

Hay to

Henry A

dams,

July 5,

1900,

Hay Papers,

cited in

M.B. Young, op.

cit.,

p. 163.

(お)

~;;~ r巴怜京特くやく仰』国平くim('

(国千引く目的

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