ハワイ人主権運動の歴史的考察 1::, r i...屯gora: joum;;_l ぐに tntem::ltioηal...

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gora:Joum;;_l ぐに Tntem::ltioηal C(:' r;:十目 furRe 待。r .a JStmiies 1¥' 0.11 OH [論文l ハワイ人主権運動の歴史的考察 )1: 1 : : R i 羊場 はじめに 1.ハワイ人の政治運動史:19 世紀後ずから準州時代まで 1 19 世紀後半の宗教選動'カオナの反乱 2 ,ハワ f 併合への流れの rll I:dii 合請願 j 宝動 3 ,政党政治への多}JII しハ 'J イ人の「更王」に l 白;けて a ハリイ人宅地委員会法 E ハワイ人のこと権運動 1970ij 代以降 1 ,先刊誌としてのハワイ人の党出:1970 年代 2 H 長運動の陸時:1 80 午代後半以降 3. I ハオレ i {ソクラ、ソシ ':1_J 1990 年代後、l ' TJ ,; はじめに Il, il 停の想像 1.ハワイ人の,!¥J' ic 運動の類型 L. 主権返却の抱える消極 おわり;、 γメリカイ7 6 司には永イテ/ブ開アメリカ ンのf 自にも先 jiJ乏がいるハ 1 50 年に台抜同第 50 1の州〉なったハワイのうも住民て、あるハ ワイ人である。 1sllt 紀後'f. OJ 西i 下文明との接 触以降 1893 年のハワイ F :c1転穫を経て,ハ フイの政治約済が激変1る'i',ハワイ人 i 土日一 訟を初めとする文化を?叩!上されて,経法的に 1 会の底辺にiI3.いヘコられることになった n しかし, 1970 年代に人って文化復興 l 辺主主が起 こると,自らの土地仁おいて村会的弱者と なっていたハワイ人は,先住民としての権料 を要求する社会話到 J を凶始する J その誕到 UI 1980 イI' fU こはノ、ヮイ人の土縫いι復を日指す述 動へと発展し. 19u3 年にはハワイ EI 玉|転寝 唱にJ 阜ん子 l i 2 域文化研究セ J lO Og !;Jイl の記念行事が開催され,ハワイ人の 下権運動は jJl} ,¥に注した本論文は, lU-! 什紀 後半から現{すに宅るハ')f 人の抵抗渓践の康 史を概観するこム吏にそのほ抗史♂) 1 1 :こノ、 ブイ人の主権j 孟動を位帝づ :t て与祭すること を目的としてし、る ノ、ヮ f 王凶 i ムキリスト教の下 f 教活動や 諸外 μ! との交易が盛んになっていった 191ft ポるまで急激に変'f):していヮた。カメハメハ 1840 年仁ハワ/最初の志iJ"がづE Alj されて絶討 U! ,治、ら比憲君主申H こ移行する と, 1 l-g{1の「ゲレ、一トマヘレ (Great M2he 忙し ]j;t:時ばれる土地駅度改革 l 二」り, ハワイ [J"I i 地は i L ,政府、 (1士去の i 則守 1)グレー), ,マーへ, Jとは 肱訟には, ¥ -c 1)) 会誌のことである され士上地甘古 1 l 肢をグレ ト・マーへレ ま売はマ ヘレ 1 If' Y ' R'I 一以下に編成きれ六 地委以 会が, その宰は?T 、決され, ;'-1:1十山吟。) 1

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Page 1: ハワイ人主権運動の歴史的考察 1::, R i...屯gora: Joum;;_l ぐに Tntem::ltioηal C(:' r;:十目 fur Re待。 r.a JStmiies , 1¥' 0.11 立OH [論文l ハワイ人主権運動の歴史的考察)1:

屯gora:Joum;;_l ぐに Tntem::ltioηal C(:'r;:十目 fur Re待。r.aJStmiies, 1¥'0.11, 立OH

[論文l

ハワイ人主権運動の歴史的考察

)1: 1::, R百 i羊場

はじめに

1.ハワイ人の政治運動史:19世紀後ずから準州時代まで

1, 19世紀後半の宗教選動'カオナの反乱

2,ハワ f併合への流れのrllで I:dii合請願j宝動

3,政党政治への多}JII:独古内~{ì '.f[ と共和党

しハ'Jイ人の「更王」にl白;けて a ハリイ人宅地委員会法

E ハワイ人のこと権運動 1970ij代以降

1 ,先刊誌としてのハワイ人の党出:1970年代

2, H長運動の陸時:1世80午代後半以降

3. Iハオレ i {ソクラ、ソシ ':1_J 1990年代後、l'TJ,;干

はじめに

Ill, il停の想像

1.ハワイ人の,!¥J'ic運動の類型

L. 主権返却の抱える消極

おわり;、

γメリカイ7衆6司には永イテ/ブ開アメリカ

ンのf自にも先jiJ乏がいるハ 1リ50年に台抜同第

50市 1の州〉なったハワイのうも住民て、あるハ

ワイ人である。 1sllt紀後'f.OJ西i下文明との接

触以降 1893年のハワイ F:c1転穫を経て,ハ

フイの政治約済が激変1る'i',ハワイ人i土日一

訟を初めとする文化を?叩!上されて,経法的に

も11会の底辺にiI3.いヘコられることになったn

しかし, 1970年代に人って文化復興l辺主主が起

こると,自らの土地仁おいて村会的弱者と

なっていたハワイ人は,先住民としての権料

を要求する社会話到Jを凶始する J その誕到UI土

1980イI'fUこはノ、ヮイ人の土縫いι復を日指す述

動へと発展し.19u3年にはハワイ EI玉|転寝

唱にJ阜ん子li2域文化研究セ J タ

lOOg!;Jイlの記念行事が開催され,ハワイ人の

下権運動はjJl},¥に注した本論文は, lU-!什紀

後半から現{すに宅るハ'),f人の抵抗渓践の康

史を概観するこム吏にそのほ抗史♂)111 :こノ、

ブイ人の主権j孟動を位帝づ:tて与祭すること

を目的としてし、る

ノ、ヮ f王凶iムキリスト教の下f教活動や

諸外μ!との交易が盛んになっていった191ft紀

の前半,宗.7tや立~{t:から政治干経治の領域に

ポるまで急激に変'f):していヮた。カメハメハ

3-1I~の治 lli: , 1840年仁ハワ/最初の志iJ"がづE

Aljされて絶討 U!,治、ら比憲君主申Hこ移行する

と, 1作l-g{1の「ゲレ、一トマヘレ (Great

M2he忙し]j;t:時ばれる土地駅度改革 l二」り,

ハワイ [J"Iの i地はi司 L ,政府、 (1士去のi則守

1)グレー), ,マーへ, Jとは 肱訟には, :848午i月古ら 3 汀ぃ古けてヲカメノ、メノ、 H{t.~ 約 2;の名の持

長との伺く7向かれたγ地の弘、剤 i:~lahe~e ì につ~¥ -c 1))会誌のことである 般には,そ力会議で決 L~

され士上地甘古1官l肢をグレ ト・マーへレ ま売はマ ヘレ 1 ~~ If'Y'ぷ R'I一以下に編成きれ六 地委以会が, ;'-1:1+,百長,、 [;:F~())mJ でコ浮フワ~'l- ることをft察ぃ亡し、たが その宰は?T、決され, ;'-1:1十山吟。)

1

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2 ワゴフ(丈理大字地域丈化研究ヒンター記号)

分割された 1850~t に平氏の u当所有を保障

する「クレアナ条例 (K,-ueall<'.Act) 詩ζ申j

たされたが,その主主効性は薄く‘、J'誌のほと

んどが居住地を失な弓ことになった。 伝子脅し的

な|地制)立が崩れ, U出の在、,iJ1じが進むと,

i叶ートや IHとの土地も充員,賃貸されて‘広大

な I地がHへの経止する件トウキピ呉国に姿

を没えていったc

日7日1['-:こ粧注されたて:;1t:t1l:J-:0) 互 記 条

約 l によりハワイの砂格者Jドぷ;mで介衆1',1に輸n!,できるようになると,サトウキピ授悶の

終常持H主が急、i主に折、 A:_:__,良歯科世名や/:BW

苦の経済)jと政治 Jjが増大 Lた。あわせて中

肉, El 4',ポJLトガルから農同労働苫として

大量の移民が流入 L,ハワイ王凶は多民族出

家へこ変貌していく。こうし 'C 19 ,11,犯の最後

の問、1'1日紀iこは,ハワイ人は t回の政治と経

流の可1'11において主J与権を:こっていった

1887主 r白人式災勢力がカラ カウア十仁

川 )jをかけ て調印させた 録制憲法

Wayonet C心nslituliOllノー3J!i. 国主の政治的

権限をよ幅に縮小し‘アジア系以外の裕福な

外|下J人に投京権キ jJえる」二とで, T',I玉jにおけ

るiJ人の政治的諸力を強化するものであっ

た。 18何千!にカラ カワアの後を継いだリリ

ウすカラニ1;;1:1土、 18虫3午1月比日に国 lの

権威絞泊のために新泌法の発布を試みとが,

rtij年 l月 17円,以ート政ilF<の白人から持成される

l 公安曇員会 (theCommittee of S.lIety)

によってハ 7イ主凶の終結と』臨時政府の{昔、工

が一方的に 'H口され.ハヲイ十 1"11土也、夜ヲ

る 1804年7丹4Uには臨時政府によって lハ

7イ共和問」の認'i'.iJ'古言され-e:れに対し

て l白骨5イ1I月;こ土政派が武装蜂起したものの

鎮圧された J この武訣蜂起 c反逆7IHニ:mわれ

たリリウォカラニは女 F!察1<<を受け入れて,

ここにハワノニ紡1;1終わりをむげた〈その

{毛、 IS98年;、ハワイ J、ね11,Jはアメリカ{t衆国

に許合され,日00午にはハワイネ州政府が誕

生し町 l白59年に合 ~t凶ベ0許 1 iの川としてノ、 '7

イ州が;IiUi1.::さiした, /,.H私たちの知る l アメ

リカのハワイ」の」早々であるハ

ハワノ王凶が転援して100イ1',:が絞った199:l

年 1月 13Rから 18Rにかけて?ハワイ一十FI吋司

封主転乙覆l凶0自席年fれf1ドr- rオ一パア (川{付)1加11阻l1P抑aι2. : i持P持まi樹

イ不、動)υ」がnn1俗岸された 〔は悩i瓦i匂a出meピι、εele自ih記i¥va 1ο的~J:1

(の)巨!\[円994引)代ゐ~nn 'tT‘ハワイ州政府内'Xl了

会員会の ;~]l整のもと,多くの公共憐i却や民間

同体によコて,か,}スト合同教会 (thc

t:nitcd Church of Christ;ユ)の公zL謝罪を合む

と台長 ('íUI}引の ~rf; ヴ二分割するこシ iこ主ったリ史にす凶ヱの土地を王宮iJi白 iCrown ],a吋 ds】レ凶有J血¥00VξrllTYlent Jλ11mlに分割せる案が引され。議終的に1',1ーじを l説給、23'%),fliJ古地 fユ7%),frl三地 (Konolük~ Lands) ('10%)にコ分7認することになった【Ku内emiall19治主Ier:tonand Tamura :~J:)9:

V@l Dykc 2:)08) ワ kulea:-,_コとは l権flJ のこと この争例:ょ,王摂j也回行 h,首長j也のし寸二れのート Jmにおいとも。.R~t

i-i:1住L詩作している居住者にだして上地所定権を認め命権限を1.地委員f、にモナえるものであった J しかし,r,i'H'まな'1:,',右手紙さ tソ』えや iT'-L¥';iョワえられたr)ll:,吉期出H土短く,この条例1:主って?地喜1"::1る?

とのできたのは平氏合体内16叫だけ、あった U¥lc江011(E:d Tarnu目白山;

::l) 'u'教 ~ffi の子孫でおり}サ l ウキピ巽阿世岳ご射を成 L. ('r烈日への併やを望んでいた臼人有力者は秘1千7結社 ハワ iIIIj 1,視 (H2V,raI却 1Leagae j _: (iJ!J名 r1Ji合ク弓プ (Am、exationClub) _::.を結成した j庄らが字以すぬ竹人義首脳ホノル Jレ ラ f7ルフぐの心ち去いのも k カラーカヴアに強制的に苦名さ吟れことかり 1H87~j :,7).法l土銃印IJ!t,'法 と11]'ばれるよよIにJJ-った CKuvkendall196i: :rvI叩lOJ1a叶 TmTlur<l

1999)ヘ

市「公安委民会」と lLlハワイ同仰のメンパーが。銃剣憲法改'Eを計画するリり,', iカラニに対抗〕て、

ヱ凶のk覆と新J父町山樹立をI=H旨L~d\~),九した政治凶昨である (Kuì'ken仁~Il 1凶/:JVlenムon&n(', Ta:-r:u:,l 10D9L

~'J ヰリスト台|司教会は。 プロテスタント内会衆派の教会であ), HQu"t': ~,_:ハワイ-(~,最初に宣教活動会 I~:

始 Lt.:1アメリカ海外七、議評議会、ABCFM! の流れを引き郡く そのハ 1"Jイぇ部に当たる キ'iス

f 合同教会ハワイ協説会 UheHå\vaii し o:~fere:~ce of the United Church of Christ) _: :.:!:, 1KSil苛にAnCfM刀おら独 ','lL式「川フ J伝道鴻J;: (TTEA) _1 (})直長約な後継組織である 上_l_1転需に関わ Jた介

入行 }J 苫の多くは ARじFM の宣教訓の子~?<や HEA の{,--~徒であり。 llE 生も士一 IIi転初t や支持していたため ご'¥""j ス 1771司教会の公式謝罪は[', 1到恥覆iω~年のメイ "/1 ベシト均 つとなった口

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井 I-_HR洋:ノ、ワイ人 i十和運動の歴史的考察

記念式典,主回転覆の歴史を再J見した野外演

劇,コンサートなどが{長された。 100年前の

そのHに主同が転覆した17Rには,中01):i5T-

人の人々がホノルル市内でハワイ近代史一卜最

大腕艇のデモ行進を行い,イオラニ宮岐に集

結したo この100周午行事を受けて,同午11

月には,王困転復に合衆回が閲わっていたこ

とを認めて謝罪する「謝罪決議」にクリント

ン人統領が調印したo 19801fft後‘r-から繰り上がりを見せていたハワイ人の主権通勤は,

この1993年の:つの11¥来事を経てさらに勢い

を増し, 1996年にはハワイ人の主権同復につ

いて検討する会議の開催の是非を問う「先行:

ハワイ人主権住民投票 (Native Hawaiian

Sovereignty Plebiscite) Jが州政府の審議会に

よって準備され,実施されたc

1990作代は, 1970年代に始まるとされるハ

ワイ人の主権逼動が降盛を極めた時代であっ

たの rl_枠」と叫べば何かが食わると伝じら

れ,叫ぶことで催実にハワイ人を取りをく政

治民J状況が変わった時代,目指すべきゴール

にIbjけて一歩一歩前進していると感じられ,

何かが大きく変わっていくとハワイ人の|削で

信じられた時代であった。それから20年余り

が過ぎようとしている現在,その後の主権運

動はどれだけ進展したと百えるのだろうか。

ハワイ人が小当な扱いを受けてきたという歴

史的事実が,運動を通して明雄に認L哉される

ようになったのは砕かだが,過去になされた

不正義にあlする見返りとして,ハワイ人は新

たに何を得ることができたのだろうか。仮に

それらの問いに対する答えが肯定的なものに

なり待ないのであれば,その玉県南を考えねば

ならないコそのためにも,過去から現作会に主

るハワイ人の社会運動や政治活動の変遷の巾

に現在の主権運動を位情づけることが必望書と

なる。

19位紀後半のハワイ人は,ただ、黙って五回

の変貌と転覆を見つめていたわけではない。

具体的に日に見える形で民岡された干|会的,

政治的な抵抗運動だけでも,ハワイ人キリス

ト教徒による宗教通勤,王出l転覆前後の武装

蜂起,ハワイ併合に以討する請願運動, Jえ併

合主義:有による政党の結成など,ハワイ人の

側からの反発は枚々な形を取って現れたc ま

た, 201止紀の前半においてもハワイ人の地N:

の向上を 11指した活動は展開されたυ ハワイ

人の時代の権勢に抗う巡動は, 1970年代に

入って主権運動の)1まを取って突然始まったわ

けではないのである。 1980年代後半から勢い

を増していったハワイ人の i:_権迷動の現在を

19世紀後T以降のハワイ人の抵抗の庁長史の巾

に位置づけることで,おそらく 1970年代以降

の主権運動にだけ焦点を当てていては見えて

こない,現在の主権運動に内在する文化的問

題や政治的|材難牲を浮き彫りにすることがで

きるだろう。

1970年代以降のハワイ人の地位向上や主権

凶復を目指す政治運動につし通ては,運動体が

組織された社会的??京や,彼らの主張, 11的,

具体的な活動などについて考察した多くの

研究がある (Dudleyand Agard 1990; Mc-

Gregorゃ Alegado1980; Trask 1984, 1987)0

また, 1980年代後半以降の i:_権迷動に焦点を

当てた研究であれば,各運動休もしくは各運

動家が掲げる主1程阿彼のモデルを比較検討し

たり,各モデルの問題点を指摘したものが多

い (Cummings2004; Kauanui 2005a, 2005b;

McGregor 2010; Osorio 2004; Pacheco 2009;

Trask 1992) 0 本論もこれまでのハワイ人の

主権運動を概観することを U的としており,

その立昧ではそれらの先行研究の流れに付置

つ‘けられるものであるが,より長い射程の巾

で現慌のハワイ人の主権運動を捉えてみた

L、。

3

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4 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:.)

1.ハワイ人の政治運動史:19世紀後半から

準州時代まで

1. 19世紀後半の宗教運動:カオナの反乱

ハワイにおけるキリスト教の歴史は,

「アメリカ海外伝道評議会 (ABCFlVl:the

American Board of ComITUssioners for Foreig:n

Missions) J が1820年にハワイに宣教師凶を

派遣したことに始まる内キリスト教の他宗派

も彼らの後を追ってハワイで立教活動を展開

するが, 19世紀のハワイ王凶の宗教,経済,

政治の領域において最も影響力を持ったの

が,このニューイングランドからやって米た

カルヴイニストの一派であった。 1854年,彼

らは現地組織を改編して会衆派を巾心とした

「ハワイ伝道協会 (HEA:the Hawaiian

Evangelical Association) J を設すーし, 186:1年

には本団組織の ABCF:VIから独立した。

HEAの指導体制が藍い,会衆派教会の王H.f塩

化が進んだ1860年代の後半,ハワイ島コナ地

区に建築111のラナキラ教会をジョセフ・カオ

ナとその信者達が占拠することで¥間作化した

のが,カオナのμ百しと呼ばれる宗教運動であ

る (Daws1968; Greenwell 1987;井よ 1997;

Inoue 2003; Kodama 1974)。

1868午に起こったこの事件は,会衆内の少

数派を率し、る白人牧J1i耐と教会建築費の多くを

1'1'1資した多数派信徒をギいるカオナが,教会

建物の使用法をめぐって対立Lたことに端を

発する c カオナと彼の信者達は~llは教会を

I'i拠するものの,建物は裁判所の管斑すると

ころとなり,彼らは教会の側の 1:池で共|ロj生

情を始めることになった。やがて,彼らはウ

ィリアム・ルナリロ二七了の所有する海辺の土

地に移動し,そこで共同生活を杭けながら礼

拝式や政治的な集会を聞くようになる。 しか

し,そのキャンプ地の貸借権をめぐって地元

の白人ゐ力者と争いが起こり,白人保安nが

殺7;'されるに至って,軍隊が派遣され,カオ

ナの率いる宗教運動は精神に異常をきたした

主導者による「以舌LJとして鎮)土されたの

だった 3 この事件については英語新聞,ハワ

イ話新聞,闘係者の干記など,雄々な史料が

残っているへそれらを多角的に読み込んでい

くことで,山人が絶対的にf愛位であった当時

の社会において,会衆内でハワイ人がI'.導権

を符ょうとする行為が, Inj洋化した司法・行

政・医療からなる統治システムの111で,どの

ように在伝者の「反乱」として処理されて

いったのかをJIt¥解することができるc

カオナの宗教運動は,ハワイ島が活発な火

山活動に見舞われる中,現金収入につながる

労働を拒否し,キリストの再臨と世の終末を

ただひたすら待ちながら共同4.i青を続けてい

たという点で,典型的なTイ「ーギ同運動であっ

た。当時の白人牧師にとって,カオナの教義

はハワイの伝統宗教とキリスト教がj昆請した

呪物崇拝に過ぎなかったが,悦点を変えて見

れば,カオナ述にとっての最も重要な「刷物」

はハワイ語聖書であったと号える。例えば,

常に白衣を身にまとい引歌を歌って練り:歩く

彼らは,刀のように聖書を腰にぶら下げてい

たのまた,キャンブ地に踏み込んだ兵上の前

で,信者注は高く突き上げた干に叩脊を握っ

ていたとされ,法廷で彼らが聖書に幸j着する

様子についての記述も残されているc 聖存は

ハワイ請に翻副されることで,新たな文化的

アイコン・呪物として,また門人と戦うため

の武器として,ハワイの宗教文化に取り込ま

れたのである。このようにカオナの反乱は,

キリスト教の土占化の事例として興味を引く

出米11であったが,ここではこの反乱の政治

運動としての側面に注目したいへ

彼らの運動は「止統」対「異端」といった

教義上の対立や会衆内での主導権争いとして

始ま ったが,次第に土地や経済的援助の要求

といった政治的・経済的問11へと変税して

いったcそれを端的に示すのが,英語新聞 Tパ

シフイツク・コマーシヤル・アドノ、タイザ、一

(The Pacific Commercial Advertiser) J G)に掲

載されたカオナの信者達の予紙であるc 編集

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JI : I明;ず ハワイ人 H金運動の怪1.:釣考察

長d地に出されたこの子紙i主 3以}人以!もの

fJitがプ~l-iナの教義に基づしゐてどのような共

同牛活を営んでいるのかを ;~tr-羽L,白ラ'i"i至の

信仰活動のJ当性を主践するものであった、

また。手紙;ムキャンプj車の貸借悼の取得を

地元の人有力者に先んじられたこと‘税金

収入につながる労働を放棄してし 2るため守新

たに加入する信者の7寄付にのみ絞っており,

F主糧不足ゃ税金未納の問題を抱えているこ》

など者述べているーそし-C. カオーjり制百む

;土自分法が次に移 t){-iむ Uil1こそが火I]Jの爆

発から逃れられる可i の場所であると二五振し

つつ,以下のように訴えるの亡ある。

~J,.' lばかりの補助〆令を Ijl読するのは今

となっ亡はi互いかもしれませんが?先の

議会には間に合わないとしても, 1;<の会

Jt~には間に合うかもしれません もL間

仁??わないのであれば?ラーナイかカホ

オラヴ L の!EJを私たちカサ写ることはでき

ないでし上うか?必たもは f撲の質につ

いてはとやかくこA いません円なぜなら,

私たちはすくに育ーっサツマイユ:'ウq

ロコ γ,亨以外の作物i手作りませんし.

iヒに賛美歌を歌うことで生きていくつも

りなの-C-9から i)

子紙it,肖分)まが徳助金か島を也、裂として

いることを改めて訴え, ['1らを:'jハナ

('011'1113 家紋iJ と呼んでいることを表現し

てず手わっている J キャンブ地となったレフウ

ラ a ヌイ (LehulJlaNUl) とはハワイ話で「大

きな品、い決」の意味ごあり?後mに l ホヌア‘

イノ (llonualnu: :tt、い u迅:J とも呼ばれた

土地であったこにを考えると,ヤセ繍った土

地であったのだろうにまた,彼らのまF日たな i

地の要求も I:Jlilについて:対IVらないこいう

慎ましやかなものであったr

1818午のグレート・マーへしと 1850午の

クレア F条例によってfiむu出を火ヮたハワ

イ人の多くは, 19[1J紀茂平には旧関音;から港

同了へ, [")jlt紀末には 大港湾都$である不/

ルルへと, ,[きる絡を求めて流動した什また

1BIi(JI['ft前、l'から,南北戦争 0)日3響に主り合

衆[1げ〉砂怖のJjj要が!日まるにつれ,ハワイり

すトウキピぷ業は一大坪業へと成長し,多く

の ij~i正な土地がサトウキピ農園へと姿を変え

ていった己カオ7の半いる刀、教よ生動は町教会

建物の使用を禁じられキャンブノ[活を古甘いら

れて後,宗教的共同体を月二盤とした政治l切な

闘争へと短期間で変化していったが,それは

また, 1当世紀後、['のハワ/人のおかれた4若済

制、況を知 J丈lこ反映するものであった。そし

て, %)1却やずヨ己でJtl勺されるf皮らが当 InJ(:

よってがキャンブ地からi車わされる桜T:土、11!1){1以上経った徒に,同じく海辺ノ)I一地を

不法 ]fi悔した kして州当局によ,)て述f了さ fし

る,ハブイ人民一it地 (HawaiumHornelands)

にさえfもことので主ないハリイ人の安と草

なり白うのである

2掴ハワイ併合への流れの中で:反併合請願

運動

19lit紀の末から20111紀初開にかけてのハワ

イは, 十向から昨日主1:1府,共和i可,そして糸

川政府へと統治Lステムがめまぐるしく移行

したc この激動の時代のハワイ人のJ正抗運動

怒と Lて名前が挙がるのが可ロパート, Vv '

ウイルコ yクス[凶lJ である ニコ、イン

グランド I'H 身のうととマ~'7 1品。)のJ(11を引

が 「パシフノック J マーシヤ'" アドパタイザー「は l(こ英語示苦を対象こ Lた-,-j~:耳目週問料開と

L -,." 1.'-:民年仁発1.1]2れ句 1882{:に11111紙となハたr 非宣主文帥ボり]Ij-!JHであ勺たが,ての編集おは宣投師の fl1¥で農例経営などの事主に主吋して F十二:拍党「力を持つどいたr'I人ヱリ トであり?十)",:$1ヘ揮を;!(J寺LてU た 19フ1{jにア円ノルル アドノゼタ J千ーd ~こ己t祢し, 2¥);(ぺに吸Ji)({¥"-;):され ζlホノルル。スターアドパタ fザー m切 Hono;u!u5t.川 Ad/Jrrtiscr)_ l:なったp

i; Thc PaαijiL 正ommerlα'afAdlγ〆'iser¥ Octob{ゴ 2~ , 18行ぷ)

U

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6 アゴラ(天理大学地域丈化研究センター紀要)

く母を持ち,カラーカウア干ーによってイタリ

アの陸軍士官学校に派遣されるなど,板めて

干会室の近いところにいた彼は,「銃剣憲法」

が発布されて2年後の1889年にハワイ人の権

利回復を目指して武装蜂起を起こし,また王

国転覆後の1895年,王政派による反革命にも

戦闘部隊を率いて参加した。ウイルコックス

の抵抗運動を中心とした19世紀末のハワイの

政治史については幾つかの研究がなされてい

るが,ハワイをハワイ人の手に戻そうとした

憂国の士と見なすのか,自らの地位を高める

ことに固執したオポチュニストと見なすの

か,彼についての評価は分かれる (Andrade

1996)。ここでは,彼の起こした武装蜂起に

ついては立ち入らず,今日の主権運動を考察

する際により示唆的である,当時のハワイ人

が選択した武力に訴えない政治活動について

+食言すしたい。

約の更新に伴い真珠湾の軍事使用権を合衆国

に譲渡した。合衆国の圧力が増す11',干ー囲内

では,宣教師の子孫で政治権力を確立しつつ

あった白人富裕層とハワイ人との問に緊張関

係が高まっていく。このような状況下,ハワ

イ人エリートの問で,ハワイ人に政治的な主

導権を取り戻そうとする動きが起こり,彼ら

は自らの政治団体を組織するようになった

(Coffman 2003, 2009)。

1888年8月,ハワイ語新聞「カ・ヌベパ・

エレレ (KαNゆepaElele)~8) の編集者であ

るダニエル・ライオンズは,ハワイ人は自ら

の政治団体を作るべきであると主張し,賛同

するハワイ人に登録名簿への署名を募った

(Earle 1993: 67)。彼の時びかけに対するハ

ワイ人の反応は素早く,署名数も着実に増

え, l'分な数の支持者を得たと判断した彼

は, 11月にその団体「フイ・カーライアーイ

ナ (HuiKalai'aina) J 9)の最初の集会を開催す

る。 500名から1,500名の参加者を得て聞かれ

たこの会議で,ジョン 'E・ブッシュ[図2J

が会長に選出され, 4名の副会長が選ばれた

(Earle 1993: 70)。白人系ハワイ人のブッシュ

は,カラーカウア王の側近であり, 1886年の

国王のサモアへの外遊に同行したり,時の政

権の財務大臣や内務大臣を務め,また独立系

ハワイ人教会の国教化を画策した人物でもあ

る(井上1997:45)。こうして,フイ・カー

ライアーイナは, 1890年の選挙に向けて選挙

図1 ロパート.W'ウイルコックス 準備を開始し~エレレ」がその機関誌となっ

(Wikipediaより) た。

1882年にハワイにやって来たアイルランド

「銃剣憲法」が制定され,固干会の政治的権 系アメリカ人のライオンズは,当初より自分

|浪が狭められた1887年,ハワイ干今回は互恵条 の役目はハワイ人の団体設なを支援すること

8) ~カ・ヌペパ・エレレ」 は, 1880年頃から1892年にかけて発行されたハワイ語新聞である。ライオンズが編集を子がけたのは1885年と 1887年から1889年にかけてであった。現代のハワイ語表記法に従えばKa Nupφa 'Elele (The Messenger)となる。 kaはハワイ詣の定冠詞で, niipepaは「新聞J,'eleleは「伝達者」を志;味する。 19t吐紀のハワイにおける新聞の果たした役割については, Chapin (1984, 1996) を参照のこと。

9) 19世紀のハワイ詣同体名の表記は,近年の先行研究に倣い,現代のハワイ語表記法に従っている。 huiは「クラブ,協会,組合,同盟J,kalaiヨinaは「政治,統治」を志;味する。

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井上昭洋:ハワイ人主権運動の歴史的考察

図2 ジョン・ E・ブッシュ (Wikipediaより)

であると強調していたが,機関誌「エレレ」

の編集者の烹場を利用して組織を統制しよう

とする彼の行動は次第に批判されるようにな

る(Earle1993: 72)。こうして1889年6月には,

フイ・カーライアーイナは,干ー政派のブッ

シュのグループと共和主義者ーのライオンズの

グループに分断されてしまった。ただし,そ

の後の同団体の活動から推測すると,三五政派

のグループが徐々に組織を掌握していったよ

うである。

フイ・カーライアーイナは,更新された互

恵条約に対する抗議活動を展開し (Earle

1993: 96),当時のハワイ人最大規模の政治

団体となった (S江va2004a: 128)。彼らは「修

理工と労働者の政治的保護組合 (Mechanics'

and Workingmen's Political Protective Un-

ion) J と共に「国民改革党 (NationalReform

Party) J を結成し, 1890年2月の選挙に参戦

した。その1['心にいたのはブッシュとウイル

コックスである (Kuykendall1967: 448: Coff-

man 2003: 9)。彼らに率いられた国民改革党

は,選挙に勝利し,憲法改正会議の開催を目

論んだが果たせなかった(祖国 2004a:128)。

ー方,ハワイ王国が転覆した1893年に誕生

したハワイ人の政治団体が,ジョセフ・ナー

ヴァヒー[凶3Jが'1'心となって結成された

「フイ・アロハ・アーイナ (HuiAloha 'Aina) J

であり,その英語名は「ハワイ愛国者同盟

(the Hawaiian Patriotic League) Jであった。

Silva (2004b: 18)が指摘するように,本来「土

地への愛」と訳されるべき「アロハ・アーイ

ナ (alohaヨina)Jは,この時代「愛国主義(国

への愛)J と同じ意味に用いられ,抵抗言説

の中心に据えられるようになっていた。

図3 ジョセフ・ナーヴァヒー

(Wikipediaより)

ところで,フイ・アロハ・アーイナと同時

に Iフイ.アロハ.ア-イナ.オ.ナ一.

ワ一ヒネ (HuiAloha ‘古λina阻a0 N亙Wa剖泊hine引)/0)

という女性を対象とした

された O 勿論,当時,王国内で参政権を持っ

ていたのは成人男性に限られ,フイ・カーラ

イアーイナやフイ・アロハ・アーイナのメン

バーも男性であった。欧米社会においても女

性に参政権が認められたのは一部の例外を除

き20世紀に入ってからのことであると考える

と,このハワイ人女性の政治団体の結成は時

代を先取りしていたことが分かる。

1893年に大統領に就任したクリーヴラン

10)凶はハワイ話の複数形の定冠詞で, wahineは「女性」を意味する wahineの複数形。先の「ハワイ愛国者同盟」の訳に倣えば Iハワイ愛国女性同盟」となる。

7

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8 アゴラ(天理大学地域丈化研究センター紀要)

ドは,臨時政府のハワイ併合案を拒否し,事

態をf巴握するためにジェームズ・ブラウント

をハワイに派遣する。ブラウントに対して,

フイ・アロハ・アーイナ男女両団体は,自ら

の組織について説明した文書と五回転覆に

至った経緯を記した抗議書を提出した (Silva

2004a: 131)。同団体は男性メンバー7,500名,

女性メンバー11.000名を擁していたが,これ

は当時のハワイ人の総人口約4万人の46%に

相当する人数である。ブラウントの報告書を

受け,クリーヴランドは王国転覆の非合法性

を認めたが,彼は事態の対応、を議会に一任す

る。一方,併合案を拒絶された臨時政府は

1894年7月4日にハワイ共和国の誕生を宣言し

たのだ、った。

1895年1月にウィルコックスらが反革命を

起こしたが失敗に終わると,同年5月,ジョ

セフ・ナーヴァヒーとその妻でありフイ・ア

ロハ・アーイナ・オ・ナー・ワーヒネの指導

者の宇人でもあったエマ・アイマ・ナーヴァ

ヒー[図4Jはハワイ語新聞「ケ・アロハ・

アイナ (KeAlohα Aina)~ を創刊し,反ハワ

イ併合とハワイ独立の主張を展開した

(Coffman 2009: 139; Silva 2004a: 139)。前

述の『エレレ』も白人のライオンズらが編集

していたものの,フイ・カーライアーイナの

機関誌として機能していたし,同団体のブッ

シュも自身が編集するハワイ語新聞「カ・レ

オ・オ・カ・ラフイ (KaLeo 0 Ka Lahui) ~ 11) や「カ・オイアイオ (KaOiaio) ~ 12)を発行

してハワイ民族主義を主張していた。 19世紀

末は,ハワイ語メディアを用いたハワイ人の

政治活動が活発に行われていたのである。

1890年代,特に1893年の主回転覆以降,政

図4 エマ・アイマ・ナーヴァヒー

(Wik砂ediaより)

治の主導権を自らの干に戻すべく政治活動を

展出したハワイ人は,王国転覆に激しく抗議

したが,必ずしも王政復古を唱えていたわけ

ではない。例えば,ナーヴァヒーはハワイ人

によるハワイ共和国の建設を志向していたし

(Coffman 2009: 138),干ー政派であったブッ

シュも時と共に共和主義者に転向していった

(Kuyendall 1967: 524)。

1896年の晩夏,ナーヴァヒーは結核により

療養中のサンフランシスコにて客死する。し

かし,同年11月,フイ・カーライアーイナと

フイ・アロハ・アーイナは,各島からj輩出さ

れた代表者を招集して集会を聞き,それぞれ

の新会長を選出して,活動を継続した。 1897

年3月に大統領に就任したマッキンリーが,

同年6月にハワイ共和国との間で併合条約に

署名し,同条約を批准すべく上院に提出する

と,フイ・アロハ・アーイナ男女両団体とフ

イ・カーライアーイナは,リリウオカラニと

共にハワイ併合に反対する運動を開始する

(Silva 2004a: 146)。

11) rカ・レオ・オ・カ・ラフイ』は, 1889年から1896年にかけて発行された新聞である。ハワイ語新聞の主要紙として7年間にわたり日刊5,000部発行された (Chゅin1984: 70)。現代のハワイ語表記法に従えば,Ka Leo 0 ka Lahui (The Voice 01 the Nation) となる。 leoは「声J,lahuiは「同家」を意味する。プッシュは|司紙で,公安委員会の中心人物であり rパシフイック・コマーシャル・アドバタイザー』の編集者でもあったロリン・サーストンを女王に対する陰謀を企てていると激しく非難した(Chapin 1984: 70)。

12) rカ・オイアイオ』は, 1889年から1896年にかけて発行されたハワイ語新開。現代のハワイ語表記法に従えば,Ka 'Oia'i'o (The Truth) となる。‘oia,'i‘0, ‘Ola‘i'oは,いずれも「真実」という意味。

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井上昭洋:ハワイ人主権運動の歴史的考察

フイ・アロハ・アーイナ男女両団f本とフ

イ・カーライアーイナは,後に「クーエー・

ベティションズ (Ku'ePetitions) J 13)とも呼

ばれる民併合請願運動をハワイ全島で展開

し,前者は男女両団体合わせて21.000以上の

署名を,後者は17,000以上の署名を集めた

(Silva 2004a: 151) [図5J。当時のハワイ人

人口が約4万人であることを考えると,たと

え両団体の請願書に重複して署名した者がい

たとしても,優に半数を超えるハワイ人が署

名したことになる。

図5 フイ・アロハ・アーイナの請願書

(1897年)の一部 (Wikipediaより)

こうして団体の代表者は,マッキンリ一大

統領と連邦議会に請願書を提出すべく, 1897

年11月にワシントン D.C.に向かった。 彼ら

は,ワシントン D.Cで、リリウオカラニに話局

見し,彼女を陳情団の長とし,フイ・アロ

ハ・アーイナの請願書のみを提出することに

決定した。同団体の請願書は併合に反対する

ものであったのに対し,フイ・カーライアー

イナの請願書はそれに加えて干会政復古を要求

するものであったため,陳情団内で意見が割

れているという印象を与えるのを避ける必要

があったからである (S立va2004a: 157-158)。

彼らは1898年2月までロビー活動を精力的

に続け,併合反対派の上院議員を増やすこと

に成功し,その結果,併合条約は上院で否決

された。しかし,同年同月,合衆国はスペイ

ンに対して宣戦布告し,米西戦争が勃発す

る。これにより,フィリピンに軍隊を派遣す

る際の補給地としてハワイの重要性が高ま

り,同年7月4日に「ニューランズ、決議」と呼

ばれる合同決議リointResolution)が両院に

おいて可決され,ハワイは合衆国に併合され

ることになった。 8月12日,イオラニ宮殿で

行われた式典では星条旗が掲げられたが,フ

イ・アロハ・アーイナ男女両団1本とフイ・

カーライアーイナは式典をボイコットする。

その後,彼らは,メディアや集会を通して

ニューランズ決議の非合法性を指摘するな

ど,抗議活動を展開した (Silva2004a: 160)。

19世紀末のハワイ人が結成した政治団体と

彼らのハワイ語メディアを用いた活動,さら

には反併合請願運動について詳細な研究を

行ったのは Silva (2004a)である。団体やハ

ワイ語新聞の存在については既に知られると

ころであったが,それまで日の日を見ること

のなかったハワイ語史料を読み解き,また請

願書の存在を突き止め公開した彼女の研究

は, 19世紀末のハワイ人の抗議活動の単なる

歴史的研究に憎まらない。 19世紀末,ハワイ

人が団結して請願運動を起こし併合条約を

廃案に追い込むことで,一度はハワイ併合を

阻止したという歴史を知ることは,現在のハ

ワイ人にとって自らのプライドを高め,主権

13) ku‘Eは「反対・反抗」を意味する。 k口は「立つJ,‘Eは「異なる」の意。

9

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10 ワゴフ(丈理大字地域丈化研究ヒンター記号)

回復へのIf~能<'l を改めて探るさ Jかりをうえ

るものである υ

3司政党政治への参加:独立自治党と共和党

18同{+ーにハワイは合衆出に併合されたが,

ハワ {ii"州の統治システムはすぐには構染さ

れなかったとしかし 1000年に l 基本法

~,OI出nic ActノJが施行されると,市J(11;,

投烹権の規定に加えて,準州選/f!, U)述邦下院

議長,準州知'[f. ト ~i~ ・ 1、 F 品、ら成る準州議

会といッたハ 'Jイキ州政府のf争最[,7;.カミ恐い,

ハワイ l土台;校区の準州として本務的に始動す

る。

某本法の施れによって ハ吋イ芋川に1{['

L1→居住L,ハワイぷまたは英nUの読み井き

ができる‘ 2H長1:Lトの男性の介衆川市民:ご投

票権が守えられることになった (Schmitt

1977: ,,94) これは,銃剣窓辺、とそれ以降 i乃

窓H._;::"おいて校長主権の取持lp 訴されていた財

産 z 以人の条件がJ故巧立されたことを玄味す

る、その給契去,ハワイi肯台により白動的に合

米間のdiR権を獲得した,それまで投票権を

持っていなかった多くのハワイ人成人男性が

投票絡を得るここになった~ 十回転議以降~)~

L、ていた白人のnli良政治に対して.数的綬fえ

なハワイ人が政治的1:専f震をJ至ることのでき

る;先日1:が初めて当まれたわけであるのこの時

局にヴ/ルコ yクスLtノ、ヮイ人によるハワイ

人のための政党を結成する Lことを訴え, 1止の

H芋ぴ7;>けにより,フイ"ア口ハ‘アーイーと

フイーカ v ラノマーイナは述内して「独立臼

j主党 (Tndependent HomεRllle Party) _;を結

五;するごとになりた CMentonand Tamura

19日9:1.)2; Silva 2004a: 1()1: Sitva 立11114b: 1芯

20)ベ

ウイルゴ yクスにとって町 1900:f. (j)独立自

治〉主的結党:よ, 10年前に 7{ .カーライアー

イザと労働者階級を支ft主主君主として国民改革

党を結成して以来、 -.[1自の結党であったコ

十1<が和、哀してし、たという点。む, 10ノi前 /cIよ

決定的に突なる政~'Ú状況での政党の立ち i げ

であったが,ハワイ人の間で共維?えされてい

たウイルコノクス山本いる弘宅立内ifi党l土今以

内入・反問介者げて, 10110年内主主州選挙に

おいて勝利する「キ州}院1!)議席のうち虫談

柑,下院30議出のうち17議席を銀将し町 i卓邦

下院副;員遣は,ウイルコックスが4,,)幻崇を

獲おして当fiしたのである 共和党候補の11

人系ハワイ人のサミュヱル・パ ヵ、. 1"主

定候補のデビッド・カヲ ナナコアは,それ

ぞれ 3 , 856~ と1,650票であった CMentO:1

and Ta山 ura1999: 1:-32; Sdl1:lItt 1977日):1,

G07: Silva 2004b: 22) ,~ 14)

しかしその んで沼君アずべきは e フイ e

?口ノ、 ァーイナ オ ナ, . 1) ヒネヵ1

おぞらく民ニ党を支持していた点である 特

に,乙マ .γ イマ サ一ヴ

詩雨集一すする fケ ア口ハ ア』 イナ l でリJ1リ)

ウオカラニの生甥;にあr丈たP勺:るカワ ナナコ 7 を持量

1る上民t主党cの)j之Lけ3持寺在 Z衣ミifA片lしJ ていた (Silv刊 正a】

2鈎0ωωoωJ凡1b:21υ) そのため, 独立ηj治古党;は,n到独j虫(円のi新T"慌主メテデ》イアを持たぬまま選挙戦を戦うこと

になったの℃ある c 1司紙のネl~~l土民}党と~~{

u:Hi1守党の合併を促唱し,また,紙 iでジゴ

/・ TI・ヮ{:;( [凶行]13) Iムハワイ経済を

支配する白人工T~許悩仁支持された共和党仁九

百するという点三民主党は7,( アロハ e

r' イァやフイ・カ ラJ ア イナとい!と主;

14)ぷ席数や梨設については問問lより数'アが民会ふがヲここではお11l1,it↑議席数:ついては1901刊時のもりを1昼間1たJ

~ 1977! に十~-~ている勺な.;JJ ,

15) トイツFZハワイ人のジ=ン H. 17 ~ズ;立 政ln,救育,宗教の分野でi1M害した p、ヮ J 人エリートの

人であるらオベ J〆λベ?fl?'1後,会}!jJ:iJ三社会の牧帥を閉めえ?が?土囚転抱を様に HEA を脱会 L5~;

¥1_ ;iミハワイ人数去の設げに関わったr 百主州 H ,;'itは準刊i 卜~í'l議員シして ::)21 年(})ハワイ人色屯委同会主主的立案に携わりす々メハメハ,スク』ノレフ:やノ、ワイ人?ではハワイ諮芋r子j'( 尽)Jしたυ¥Villiams~2::)12)

ギモ替相の)と p

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井上昭洋:ハワイ人主権運動の歴史的考察 11

持基盤を持っていると主張した (Silva 盤とする共和党からのオファーであったが,

2004b: 21-22)。 当時,独¥f.ゐ自治党に属していたクーヒオーは

図6 ジョン .H・ワイズ

(Wikipediaより)

反併合請願運動で行動を共にした 3団体の

足並みが揃わなかったものの,準州議会の多

数派となった独;烹自治党は, ドール準州知事

批判決議の連邦議会への提出,雌犬

税16)の減税やカフナへの医師免許17)の発行

に加えて,集会での使用言語をハワイ語に限

定するなど,ハワイ人の政治的・文化的権利

の回復を目指したハワイ民族主義的な政策を

推し進めた (Mentonand Tamura 1999・

132-133)。

臨時政府以降の白人による寡頭政治の系譜

を引き継ぐ共和党は,ハワイにおける政治の

主導権と白人官裕層の利権を守るべく,ウイ

ルコックスに対抗できるハワイ人の候補者を

立てる必要が生じた。そこで白羽の矢が立っ

たのが,ジョナ・クーヒオー・カラニアナオ

レ・ピイコイ[凶7Jである o 1皮はカラーカ

ウアの養子であり,兄のカワーナナコアと共

にカラーカウアから干会佼刻表示者に指名されて

いた。王国転覆に関わった白人勢力を支持基

その巾し出を受け入れ, 1902年選挙に連邦下

院議員選の共和党候補として出馬し,秒、;烹自

治党のウイルコックスに6,628票対4,698票で

勝利する (Schmitt1977: 603)。共和党は準

州議会選挙においても勝利し, 上院15席中10

議席(独立自治党4議席),下院30議席中20議

席(独立肖治党10議席)を占めることになっ

た (Schmitt1977:倒的。一方,独立自治党は,

1904年以降も準州の連邦下院議員と上下院の

選挙に候補者を立て続けるものの,絶対多数

の共和党だけでなく民主党の後塵も拝するよ

うになり, 1912年に解党した。

図7 ジョナ・クーヒオー・カラニアナオ

レ・ピイコイ (Wikipediaより)

王位継承者でもあったクーヒオーが,王国

転覆に関わった白人富裕層に支えられた共和

党と政治的連合を組んだのには幾つかの理由

が考えられる。例えば,政治的リーダーシッ

フ。をハワイ人の手に取り反すために,まず共

和党との共闘により連邦下院議員となり,将

16) 1898年に制定された,食用の雌犬に課せられた税金。ハワイを含むポリネシア地域では,豚,鶏と共に犬も重要なタンパクi原であった。

17)カフナとは仏ム義には宗教的な職能者を意味するが,ここで対象となるのは民間医採師 (kahunala'au lapa‘au)である。王同時代にも彼らへの免許が発行されたり(1861年),ハワイ保健局が設置されて(1886年),民間医療AiIiと呪術日i1i(kahuna‘ana‘ana) との区別がなされ,近代的医療システムの確立が目指された(井上 1997)。

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12 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:.)

来的にハワイ準州知事になることを日指して

いたのではないかという指摘がある

(Menton and Tamura 1999: 133-138)。また,

先の選挙で兄のカワーナナコアが民主党から

連邦下院議員に烹候補していたため,共和党

から 1'(候補することになったとも考えられ

る。かつての王位継承者であった兄弟の政治

的ライバル闘係が,て大政党政治の枠網[みに

合致したという指摘である (Coffman2003・

HH1)cし、ずれにせよ,選挙に勝利したクー

ヒオーは,その後1922年までの20年間,連続

10矧,ハワイ準州選出の辿手1;下院議員を務め

ることになった。

共和党とクーヒオーは,お互いに向らの円

的を達成するために協力するという,ギブ・

アンド・テイクの関係にあった《共和党はこ

の協)J関係により,ハワイ人を政治的に分断

することに成功し,独立白治党を破って確固

たる政権を確Ilーすることができたの一方,

クーヒオーは,結局のところ,ハヴイ人の千

に政治的 i:.導権を取り戻すことはできなかっ

たのしかし,彼は共和党との提携により,ハ

ワイ人のための縫っかの法律を成立させたν

その一つが, 1905年に別定された新たな都

(county)統治システムに関する法律である。

これにより,準州|付に五つの耳目を制定し,準

州政府の機能を部レベルに分散させて,地域

におけるハワイ人の行政事務関連の厄肘を似

進させたのである (Coffman2003: 1 L Daws

1968: 296; Menton and Tamura 1999・137)内

しかし,この政策は,ハワイ人が共和党を支

持する見返りに雇用を得るといった,ハワイ

人の共和党への依イf状態を強化する )j向に働

いた。共和党が得たものと比べれば,クーヒ

オーとハワイ人の得た果実は械めて小さかっ

たと三える

4.ハワイ人の「更正」に向けて:ハワイ人

宅地委員会法

クーヒオーが連邦下院議員在職中にハワイ

人のために成立させた法律のrflで,後世のハ

ワイ人に最も影響を与えたのが, 1921年に制

定された「ハワイ人宅地委員会法{Hawaiian

Hυmes Commission Actl J であるυ この法案

の成守会について詳細に検 ~I~ し,「 |{ll 統量

(blood quantum) J のイデオロギーがいかに

して先住ハワイ人のアイデンティティを人緑

化していったのかを考察したのが Kauanui

(2008)である。

'1(11統量定法 Cbloodquantum law) Jとは,

人種・民族の'JfrrJ を数え,量り,人を純Jfrr

と混血に分類して,i見lIllの度合いを測定する

百説であるへそれは,杭民地においては,先

住民を純血と混血に分数し,さらに後背をど

れだけ先住民の血をリ|いているかによって細

分化して,先行民の巾がある割合を下回った

時点、で彼らから先住民の資格を剥奪する d

Kauanui (2008) によれば, Ifll統量定iLは,

植民地においては先住民をーマイノリテイに

変換し,植民地社会にいl化させる装荷として

機能したコ彼女の研究の焦点は先日会民アイデ

ンテイテ イの人種イ七百説にあったが,ここで

は彼久の研究を参照1しつつ,「ハワイ人宅地

委員会法」の成烹過科について紹介したいハ

1848年のグレート・マーへレ以降,白人の

経営するサトウキビ、産業が盛んになる一方

で,ハワイ人は土地を失い,人口を減少させ,

経済的にも逼迫していった。王国崩壊前後に

同氏改革党や独v_自治党など,ハワイ人の政

党が封期間であれ勢)Jを伸ばすことができた

のは,このような'町民があったからである。

独ι向治党が勢いを失い,共和党が安定政権

を築いて以降, 1910年代に人ると,民族とし

て衰退していると見なされたハワイ人の“吏

正'を日指して,「アハフイ・プウホヌア・

オ・ナー・ハワイイ(‘AhahuiPu'uhonua 0

na Hawai'i) J 18)や「ハワイアン・シビック・

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井上昭洋:ハワイ人主権運動の歴史的考察 13

クラブ (HawaiianCivic Club) J といった団

体が, '11上流階級のハワイ人によって結成さ

れるようになる (Kauanui2008: 80-81 ,

McGregor-Alegado 1980: 30-31: McGregor

1990: 5)。このハワイ人更正運動の中心にい

たのが,連邦下院議員のクーヒオー,準ナトLr.

院J義員のジョン・ H・ワイズ,カワイアハオ

教会牧師のアカイコ・アカナ19) [図8J らで

あった。

図8 アカイコ・アカナ (Wikipediaより)

彼らは,ハワイ併合時に合衆国に割譲され

た公有地 (PublicLands) 20)の正当な所有者

はハワイ人であると主張し,その土地を貧困

にあえぐハワイ人に自作農地として与えるこ

とによって,ハワイ人の「更正」を目指して

いた (Kauanui2008: 79-80)。こうして,ワ

イズが1919年に準州上院議会に「ハワイ人更

正法案 (HawaiianRehabilitation Bill) J を提

出し,彼とクーヒオーを中心に「ハワイ人宅

地委員会法」制定に向けての政治活動が展開

されていく (Kauanui2008: 67)。しかし,そ

の対象となる土地は,白人農園経営者が農地

として賃借している土地でもあった。当時,

割譲された公有地は連邦政府の管理下にあ

り, 1900年制定の基本法 (OrganicAct) に

おいて,その賃貸期間や賃貸可能な土地而積

などが定められていた。ハワイ人の更正を目

指すハワイ人エリートは,公有地の一部をハ

ワイ人のホームステッド(自作農地)に供す

るために,一方,「ビッグ・ファイブ (Big

Five) J 21)を初めとする白人農園経営者は,

間もなく切れる農地の賃貸期間を延長するた

めに,それぞれ基本法の改正を必要としてい

たのである (Kauanui2008: 102)。

こうして, 1920年から1921年にかけて,ハ

18)英語名は theHawaiian Protective Associationである。‘ahahuiは「協会,組合J. pu'uhonuaは「避難所,聖域」を意味する。

19)年まで同教会の牧師を務めた。カワイアハオ教会は, 1820年にハワイに最初にやって来た宣教師に縁のある教会で,会衆としてはハワイ最占であり,またアリイ(首長,王族)の教会として. HEAの中心的教会であった。Akana (1992) を参照のこと。

20)公有地 (Put】licLands) とは. 1893年の王岡転覆時に白人に売買されずに残っていた王領地 (CrownLands)と固有地 (GovernmentLands)から成る (Mentonand Tamura 1999) 0 1848年のグレート・マーヘレでハワイ王国の土地は,五領地 (CrownLands),固有地 (GovernmentLands),首長地(Konohiki Lands) に三分割された。 1850年のクレアナ条例では,極めて小規模でおあるが半民にも土

地 (KuleanaLands)が分配された。しかし,いずれの十地も 19世紀後半を通して売買,賃貸され, 1890 1の時点ではハワイの4分の3の土地を白人が所有していた (NHSC1983: 257)。残った五領地と固有地は,王国転覆時に臨時政府に割譲され,それを引き継いだ、ハワイ共和国政府は両者を合併して公有地 (PublicLands) とした。 1898年のハワイ併合時,この約200万エーカーの公;街地は合衆国政府に割譲され. 1900イleの準州制定時に合衆同は公有地のー音11を軍事某地や公開のために管現することとし,残りの公有地は準什|政府の管理下に置かれた。現在,ハワイ併合時に割譲された公有地を割譲地(Ceded Lands) と呼んでいる。

21) Iビァグ・ファイブ」とは, 19世紀中頃よりサトウキビ産業を中心に形成された五つの複合企業体のこと。 1940年代までハワイ経消を支配した。そのうち,キャッスル・アンド・クックは宣教白lIiのキヤツスルと教師のクックによって c.ブリュワーは第1次宣教師団船の航海上によって,アレクサンダー・アンド・ボールドウィンは宣教師の息子達によって設立された。その強大な経済力はハワイの政治にも多大な影響を持ち,共和党を支持した0

22) ここで弓う「白人エリート」とは, 19世紀後半以降,サトウキビ産業の興隆に伴い,ハワイ王国の経

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14 ワゴフ(丈理大字地域丈化研究ヒンター記号)

ワイ人工リートとドi 人ニ')ート ~2ノは,それ

ぞれの均出から基本;よ改正に向けて連邦議会

でロビー活動を以降iL,前者はト院に後蓄は

[院にそれぞれ同 決議案にoncurrent

l{e:::olutiuH) を提出 Lた~かし,第l回公聴

会を料て‘ 、"案された「クーヒ寸一法案

(Kuhio Bill) _J は ハワイ人のilll統宗的定

義は明記されなかったものの,サトウキピ1雪

国やカラー刀ウア時代;こ賃貸された土地をハ

ワイ人的ホームスナ F ドに供しないという内

人農問符????守に務めて布利なものこなった

(Kauanui 2υ08: 116-118) しかし iA宇年義

会はケーヒオ一法案の審訟を f~~情したため‘

同伝言ミは第2凶公聴会で引き絞主検討される

ことになる

ところで, 191":紀をi過して激減していった

ハワイ人の人口は,20W:;むに人ると徐々に塙

JJIIに転じたが,それはとにjht盟ハヴノ人のよ告

加仁よるものであったへ 方?法案のは的は,

民族として衰退しているハワイ人のお)Jをiロi

i!Cずることにあったため 7 たとえ出血1ハワイ

人を含んでいたにしてもハワイ人人11の土迫力C

とし寸状況は法a朱の極i?と埜什しないしベニミニ

に c更7むを必更とするハワイ人のだ義の

問題が浮 i することになる~'}2回公聴会で

佐),1)と与ったのは まえにニの問題_,,,品っ

たハ優秀でアメリカtl会に谷易に同1tできる

白人系ハワイ人や統済的に成功して裕悩な'1'[m iミハワイ人は更 11の必要がないのに対 L,

12力のな也、 純血ハフ f人こそが同法案の

対象となるへきであるという主誌が, Ir1l丘、宗

γ!ぇ対する白人 γ4リートからなされたのであ

る (K2.UanU12008: 125-127)

この指J立がターニングポイントとなり 治

21"[公聴会において「説話旬、ヮイ人なのか νl

という FJl起が l 詳が更けを必要とするの

か?J という間恋にすり脊わっていく

(K山出山i~ω品 124) ',;法案内焦点がう先住

民の土地所有権の問題から村会的弱菖の杭祉

の府知にずらされハワイ人は,租統毘定法」

に基づきj4UI'1とj兄1111に分断されて,“有能な町

、Uf.:.Jirlハワイ人しt史止の対象となる先住ハワイ

への定義から外れることになったのである

(Kat悶nUl日IJOS:141)コ

クーヒ才一法案は下院を通過したものの,

k院では評議去れず,法案キ似 1)向すべく fU

3凶公聴会が関かれたれここにヲ去って 'Jイ

ズの立場が変化することになる u 当初殺は,

実質的に全てのハワノ人iJI11統呈32分の l以

}のハワイ人) 1子公布地に対する権利jを有す

ると主張し ハワイ人の更;止はハ 7A官[台以

!1Jjに遡って考えるべき/先{Uえの)権利。〕問

題であるとして v、た (Kauanlll2008: H5),

しか~,白人エリートからのハワイ人主正法

案に対する lメぷれま激しく?法案を成吹きぜる

ためには, f" ,)グ・フ γJブのItiJJが必妾イ、

nJ欠であった(l(_auan'._ll200S: 1判んそのた

めクーヒキ-(:ワイスは,サトウキピ~問。)

肥沃な農地合ホームステ y ドの対象外にする

-ftわりに,夜間の以誌を政y付に出してハリイ

人の¥eJ正事業に交てる案を提不する その

{去、ピッグ・ファイ YのJd手を取りf寸けるた

めに,彼らは法案にi二Lつの人きな従更を加え

たu すなわち ホ宇一ムステ?I、に5;y,1ドJ0)試

験摂河を認定し,十j也 1~~布のトー浪面積(1.000

エーカ-)の条反を削除し,先生ハワイ人を

辺義つける凶統量を:,2分のMるら2分の11こ変

史したのである CKauamu2008: 155) c,

しかし 1'1入品関経営者に kl叫に譲歩した

このiJ,栄も,上院を通iiIしたも丹のト院で行

iたされ丈仁その役互に改変された法案が

クーヒオーによって f院に提出され, I院μ

υ?と政治にお, 'て~!/響 )J を W;よさせ 銃剣j古(t(i)与毛布古らう土目的松宮(,臨蒋政附のも主立 ハワイ共和I:t:[())!点リ 円ワイの合京1斗への併合に主るま c,r;-I,し、持な役割を求土した:'1人を指す"j主らは,粁的IJ{jではとグ・フ Fイプ乙守政I心配では共和党と令ら元教i向で;主主権派敦士(HEAJと強い!現需を持ッていたじ

Page 15: ハワイ人主権運動の歴史的考察 1::, R i...屯gora: Joum;;_l ぐに Tntem::ltioηal C(:' r;:十目 fur Re待。 r.a JStmiies , 1¥' 0.11 立OH [論文l ハワイ人主権運動の歴史的考察)1:

JI : 1明;ず ハワイ人 H金運動の怪1.:釣考察 lG

民出されたも弓 つの法案共々各院を通過す

るJこうして, 1021{V.7月臼LHこ, 1.s9X ~rO) ハワイ併合時に台時tI可に割譲された公有正1のう

ち事)20万エーカーをハワイ人ごと治安員会の位

陛下lこi置き, '~O%以上のハワイ人の IIIIJ を

引く“nativeH別問iian"::;:;)に山作農地として

供給するハつ J 人'七地吾民会:去が成立したの

である ρ 同iJ、の制J:r::に作い,準州知事によっ

て任命された委員から構成される毛地委員会

が,ハワイ人のホームステツ?の分配l二着干

した、

クーヒオーとワイズが当初立案したハワイ

人更司法は,ハワイ人;、十地をワえ?経済的

にH¥'1させご.ハワイ人の民放としての活力

を同j反させることを 11九JとLていたし Lか

し,法案。}成立:とソグ・ 7γ イブの協力を

必裂としたがために,同法は a 恭立法で定め

られていた公fJ地の賃貸期尚や賃'c1'μj能な 1

地出i積仁閉するlむとを撤廃~,公有地の自 I]J

入札を "J能に寸る i地法に姿を変えてしまっ

たn ぞの給条,犯沃fr 等地が引き絞きサ!

ウ与ピ農予1や牧場に賃貸され,不 Eで水資f躍

の不足した!地がハワイ人のホームステット

iこiibされることになったのである

i,NfcGrcgor .i¥1cgado 1980: 30) 'c

クーヒオーとワイズがハワイ人更 iEi工に求

めた当初の R的からすれば,ハワイ人宅地委

員会誌、のi斗符は満足のいくものではなかった

が、それでも I司法的施行後, Jl出校向上や止治

改善を円おすハワイ人の11会運動は停滞して

いった !MじGre呂or--Ale器lllo1980: 30)にまた.

1,心土の主主総i状J比を監 Ij!~9 る役割j を~た Lてい

たノ、ワイアンーシピック・クラプも久t0に

政治問題への取り組みよりよr七:古動の推進に

団体の役t揺を見出すようになり,ハワイ人問

題 に RJする政治活動 iよ衰i止していった

!}vIcGregor-Ale記ado198山 30-311c

こうして ω:iO今一代以降,ハワイ人の社会

f主要力l止1I占た4くなっていくが "McGregor-

Alegadu (l98仕 :33-34、によればその玉県南は

次の」つに集約される::<1;まにハワイ人政

治家が共和冗ヤビッグ ブ守イブk協力関係

者結びハワイ人は宍引党~kJ-与の兎返りに,

~限や牧場の什ギや政府内のポストのず;;liさな

ど政治耗済的民認を受けていたこと υ 次;こ,

ハワイ人宅地安江会i.!の尖施lニ多くのハワイ

人古川可足し ハワイアン・シピプケ・クラブ

もi司法の実施;こi上制寸I":'!-,'るを得なくなるな

ど,より根本的な先日ハワイ人の障制jの問題

iこ11をI白jけるここができなかったこと J 足後

に, WASP iこ代表されるアメリカ丈fヒドよっ

て,ハワイ人の文化がrR'~底的;ァ抑圧され9 文

化の領域においても虐げられて,合衆国社会

への同化を強いられたこと)維持、に, 19:10::t1

ftから沿イ1fc Iこかl十てハワイ人ジ)f'_:j _¥'i った千十

会運動や汎議m動;主制1[;かったと百える J だ

刀¥この時1t,J七倒的なアメワブUf!:に百して

ハワイ人があらゆるレベルで全くよ則克も抗(~色

もしなかったのかどうかは検討する必要があ

るだろう J

n.ハワイ人の主権運動

1 先住民としてのハワイ人の覚盤 1970年

ハワイ人のÙ~允な干i 会運動{土 I 号50年代ま t

EJを;拝めていたが,日50午代後、l'から60午ft

つ:~)羽 11'.ハ η ノ州の公的絞J羽 -e ~よ "Native Haw2_iian" と~:c:ative Hawaiaユ"を使い分げている}え文字け ;¥0ノ“N.(lム 'ieHaw"iian はハワ f人を祖先にfつんとの人をほ:;tーヲるのにHL,ノl、}仁子の 11v) "nativc Hawa】胤コ"は50%以!のハけイ人の1I11を81いている八を指す叫 fと苫のよ'l請が用いりれるのは,斗ニで旬イiLたハフ J人宅地去見合法やハワイ人ホ ムスアヅト lこ I当わる文,~I~ (_: 1iJ:!られるか句 この.::;0%,のIfllのライ J はその様な正:JRを法えてハワイ人ωアイヂンチイチイに大きな長響を号えてvゐると弓コて良いJ

24) 11イ、F奇よiliJ:'Cは, ル1仁(;r...WJr-Aいg<10fl (19利下シ lV!t-;ntfl~1 河町ì T;PTllli日 (1:)89)を514Jしてハワイ人if;

で権辺動を'N'i介Lごいる同ん 1,1991)を主一日百円こと

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lG ワゴフ(丈理大字地域丈化研究ヒンター記号)

にかけて。ハワイの政~{Iや経済がJ、さくぷ化

し始めるーそれらの変化詩人 1970Jt'1¥iこ始ま

るとされるハワイ人の、除去五動の背景となっ

た (MしGre足。r-Alegado1980: lvlcGregor

2010; Trask 19お4)

まずタ L伐文治のう分t主野fで

のf台y悶R娘肝であつたc 1940年には長大右権者耳、[,11

となっていた 11系人は,労働組合と共に民主

主E;を丹絹L,彼らを支持見、橋',1:L!::民主党は

1954ヰに tt干:1受:そ破って準州 f議会主主配し

たl、lD59年のハリイ州の制定も民完が i導

し, 1962Sr:以後~Q{ト間;こ浪 ì') 州知事 I;~Iμ]究か

ら i輩出されることになる。民 k;t:の f[~fIは‘

共和党を支持するハワイ人の政治的;;3響力を

js.なうものであり,ハ 7,{人 IJ氏 I~Jの政治山

体を結成するなどして,政党政治の外側から

働きかける必長がヨじた (McGre只or-Alegado

19BO: :i4-) c' ~::;ì

ところで,介衆1"1本土で(,;t, "j古::;0年代から

60年代にかけて公民権運動が盛んになり そ

れに11手応して19州民代後半にはネイテイブ・

アメリカンに工品 Lッド パワーi重重?と D1ば

れる社会i豆動が興 Jたに伝統宗教告白川さ

セ,先1U立の十作品j凶復ぞ白;内総の獲千l手をヨ指

したネイテ fブ・アメリカシの波動IL 当時

cJ)ハワイ人に大きな影響をうえ,彼らの悼jに

新たな文イ1;的・政治均立識を芳一I1えさせたn

粁I斉の分野でのんきな変化として以 ハワ

イの j:<要産業が農業関連産業から飢光産業に

,!thしたこと古川げら札る l サトウキピベコパ

イナ yプルなどのプランテ、ションは より

安紘主労働市場である)枝市アジアや南アメリ

カに移 η可民属事業がかつての鋒いを失って

いったのに対L,観光必業がハワイの主持必

JEに怠成ょくしたのであるわ Ni /i:産 ~O)成長は1::てテ Fレコンドミニγム‘コ Jレフ場こいつ

た ιjゾー 1地の阿発をfii'L,その}地開発

{立.白扇喜15で円給向よ立の'lj古を送るハワイ人

lこも kきな影響を与えとに

ハワイには, 19[11 紀後半以降の農地同党に

柄されずに?向給内j足の主義!lZEEと伝統主化

を保持しごきたハワイ人コミコニティが1+1側

部に散在していた (McG-regor2収)7)、しかL.,

1池淵;i-Eによりそのような氾封えに住むハワイ

人がすち込えを強いられ?刊行01十代の急激な

物前ゃ住居費の[界もあって令被らは生活に

同窮するよ二とになったコ 1mえ1‘伝統文化が

叫リキされていた国阿部内ハリイ人コミュニ

ティの解体;;1,伝統主化そのものの危機でも

あった')ゾ ト問党によるヘイアウ(r111むの古院l,7イッシュ ボンド(養嫡池),洞

窟京などの追跡の破取も進んど J

ハワイ人のf十ili破壊,文化破壊が進むL仏

iJ1らが自分注の鮮済的悶寧1を解決する千段と

して求めたのは,生活の粒となる c1 地(ア

イナ)_jであった。こうして, 1号70年代仁人

ると,公民権淫動やネイテ fブ・アメリカン

のj逗動に触発されたハ )A人の問で, l' JI!iを

巡って様々な維持を要求ヲ品運動が始まった

のである。以ト,先行{1)[究キ参照しつつ,各

連動体にッいて紹介したいにoffrnan200B

McGrcgor 1980. 201υTrask 198,1. 19品7)C,

1970年‘ハワ f人h1-;H地{政府aiianHorr.e

lands) の運'Kにィ、渦を感じていたパエ.11

}J...中')アによってお:成されとri:C占的運動体

i,I{ ,吋さ e ノ、ワイアンズ (TheHawaiians) __I

である (Coffrnan2003: 295) 丙団体は,段

級期の1974年から7;;年にかけて8,(1ω名のメ

ンパーを数えヲハワイ人凶 {iJ世を管理する

lノ、ワイアン・ホーム・ランズ号 i.Department

o[ l1a¥yauan llorne Lan白いの組織改革を嬰

>kしたハ彼らの迷勤の焦点L:t,ハワイ人の七、

統文化を脅かす急激な;地芽i発への反対とハ

7 イ人の主化と Fイデンティテイの凶仮に

2~) ) 政党政治の'*l側亡もハワ f人のおきは芯られた [960年代カら川年代にかけて, Rl党ょっ匂きかけにより多く ωハ;-';イヘが-Jt干J瓦から[己e,党に土持政党を皐:)換え,可糸人とハワイ人的運行によるle下

党内強打なxn,j正常芥?形成 Lた (Coff;:,;:m:.;U03; 2おれに

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JI : I明;ず ハワイ人 H金運動の怪1.:釣考察 17

あった。

1971千九オアフ島のカラマ渓谷における地

域 1:誌のすち辺き問題に際して,円コーダ

ア巳ハワイイ (KuktmHawai'iしが紙織され

抗議淫ijitJが反抗された〕この通勤は,先行ハ

ワイ人による抗議述動とし=うよりも, ロー

カル lとWfばれる地川氏と 1!人系住民とのl向

。〉針級闘争的性捨が強";, ¥Lので,組織内でハ

ワイ人 k 他的地元民は明確に式~化されてい

なかったようである (Trask1987: 146)0一二

の 2重要耳は \'1 ちま~1 きを防止するここはできな

かったがコ クア勺坊け合い)J というハ

ワイ人の伝統O%lli前総iJ、送動の基盤となうと

いた点に,伝統え:fLを前回に押し点てる今日

の主権運動のH)j芽を見て取ることができる J

lハワイアン・ピープル会泌 itheじOll

gress ()f Hawaiian PeOpleJ は,川内長んの

民間 1地所有者であゐピシヨソブ工ステ

トの1也事を選l7iするため仁 1971年ド設すさ

れ,ピシ司ツブ・工ステートの庶悦iZの役誌

を巣たした同f字である什そのメンバ」は

4,倒的色どもロわれたが, 'JC動メンパーはがJ

150名で,での事くはお'T~ Irtで'jf:務系・専門

職系の職に就いていた

「アUハ (ALOHA:thc Aborlglnal l.ands

of H,Hvaiian Ancestry) は, 1972年に結成さ

れた民間の運動イ本である n その目的は 1何

事;援に関する合持l凶政府の京佐を追及L,;L

1Iハワイ人への賠償を請>Jとすることにあっ

たn チ'-.;-ールズ‘マプクスウェルをリーダー

:こ,ぷ盛期の19l5{1には多くのメンパ、数を

日なったが.主動メンパーは少なくヲ結m請求

iこ関する投育的な集会を開いたり?ロビー活

動をするに留まったっ

Iフイ."ーラv・7ーイナ・オ 7'コオ

ラウ L吐HL山.tiM吐bta出rna

オアブ島のカハ}ルレ 1ラj地由 i同メのクレアナ

!_kuωlea肌11ιa加1りij州F所巧4有f者2訂yが 向分;注主のE良芸耕

i地出を i地|間!対討発から守るために]刊97η3{持;に結成し

た述勤体である〈また 9 フLヅド カチ三ラ

によつて Iω97刀3年 iにこ結日戎立され略 2(,地名のメン

バからなる「ホームル Jレ ムーブメント

(:HOf::leru[e l¥.{ovementI __:も.クレアT土地

所布告者守るため 1池法の改 iTキ[1指して

ロピ』治部jを民日刊した、 一万 197{1字lニ結成

さ才した 先住ハワイ人事:;j(迎合 (thcC03][

tion of NatlvεHawaiian Cbims; I 土,クレア

ナ i二地所有苫の訴訟問題やハワイ人の目白償請

求を#ポートすることを 11的とした凶体で,

1978年 に ハ ワ イ 人 法 律 問 体 けtheHawa:ia:l

Legal C011附r坑]Ol1)J に立ねしたu

1974{;に結成された「オハ「・オ ハワイ

イ ('Obana(J Hmvai'i)__1 (;J:,ベギー・ハオ・

ロスキリーダーとする,ハワイ人士権運動に

おける段初の民主主 i義的連動体であるつハワ

イア門司の再建を}ゴ指L.1'1際法合;こハワイの

脱補足地イヒ者i江めるよう前府、7守幸子提出した

りーハリイ人の水系についてのリークショッ

プを胡いたりしたが,少数の活発なメンバー

から成る比較的小さ在間体T品ったり

「フイ・アラ・廿ア (HuiAla Loa) _jLI'O)は.

1975ff-¥こモロカイ島で活動を皮肉しとfiel則的

巡動体である。牧場によって妨げられていた

海作への通行維の袋持を要求 L,品民の!:i::~~

!i~態に影響を与えるリゾb ト開発に反対し

て,デモ行進などの抗議活動をhヮた(構成

メンパーは当判の運動体に Lては珍しく [U

f1~ (こ渡り,クブナ (jfFli:'ff)の経験や);[[誠を

26) mãlλm 日 ~J :-tH:~:\__1 を意味 1__. 1ll;:i[(1市九百聞は上地を慈 Lみ大切に寸るこ kである alob'ijin日~共;こ

ハワイ人的↑ iぷーもc')る伝統竹なfI:llfie視を不「言葉であけ,この コの言葉は',1j仁王るまで主権辿勃のス H ガンとしてJjJいりれていゐ Ko'ol辿はオ r'"/ tJ .l~部かり II~京都の総称

?7) 1町 ¥}(Iのクレアナ15問で干J三が作ること I)できたート地をクレア+ーラン],'(Kuelallil L2nds)と呼ぶが?その 屯的)同有権を j'.-_)汗をクレ?寸-'-品川定者(jmle:ma[,_'ndow目.,またはクレアブ所有前ikdeana O¥'l:1erJ と呼ぶ

2引い;JEtJ1本の庄品名は thc{;roUlJ of thc Long Tr(];]s ¥.'あゐ a]a ¥i I道」 れ1は 11乏し 1 を且ヲk9る

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IS ワゴフ(丈理大字地域丈化研究ヒンター記号)

ぜ宇重じていた GvlcGregor-Alegado1980: /17)"

ところで, 1970育代の l喜助で長も象ffoi0か

う主安とされるのが, 197G年に結成された民

間の淫動件、 l ブ円子クト・カ本才ラウヴェ・

オハナ PKO: the Prutecl Kahuιola¥ve

'Ohana) _;による未1"1海軍への抗議活裁であ

る。 PKOは ALOHAとフイ z アラ・ロ?の

.è'ii!長から~Jt斗した同体と言える ALOIlA ,J)

チミールス マソクスウュルiム法邦議会で

持議が近々として准まないハワイ人の断指法

主に令同均な作Eを引さつけるため, 197己年

1月にソイーアラ .uアのジョージ・へJレム

らに,米[jJ0)爆感演料地(:~っていたカ不乃

ラヴェ品を Ili拠することを段言したの当時.

¥LOHAの?トーデ予-"ムハワイ人の員言償清求

。〉緊急牲を訴えるために,ハワイ版"ウー〆

デイド"ニー":: ~-) :が必裂であるこ考えていた

という(1¥I[(;re諾:x-Ate旦ado 19州 4~!

マ 1 クスウ, )レの呼びかけ仁よ、えて,ワ

イ z アラ。ロアのメンパーは197f:;年1月から

1肖にかりでカホすラヴェ為に小法上陸す

る爆撃演笠による 1"1砧の環境彼壊を目的当

たりにした彼らが 軍寅育者lillトするため

に結成したのが PKOであった、彼らは,力

不オラヴ :LgO)環境妓j哀がハワイ人のι、続出j

価値縦である Iγ}ラγ ・アーイサ ( !地へ

の慈しみ) を-tiしく傷つける bのであると

主張~,抗打長活動を展開 Lf.: , しかし 1977

年 1月,リーダーのジヨ}ジ・ヘルム ζ キ

モ巳ミッチヰルの一人が不法 i陸後に降局の

マウイ品lこ)止る際,行主不明となってしま

う U この事門を境;争力打、オラヴ 1 島を ~k り flH

むi主治的絡が変わり,同対は 1---,'"ロハ・アー

イナ」を掲ける主権;亙動のシンボルとなって

し、つ 7ぐ「

t1、l前J介したように 1070年代のハワイ人

のj暴動は,ハ 'Jイのj虫色/を山えたりハリイ T

同転援に問し亡町;慣を求めた 部の運動体を

除Inf, 1I血の乱|出発や住民の強制1];昌三、:こ対

する)ぇt.j,ホームステソドの適 IFな管迎,ク

レアベ i判所千r-高の権利の保護, jl可;:;~ベコ森林

への通行11iの体1辻, L:然議論の保全といっ

た,先住ハワイ人の土地に約わる様々な問題

を巡川て展開されたと百える}

ハワイ人の UÙ! を ;i~ るおし議l'号MJ(.ま, 1 ~)70{1

代後、l'j;},:;ネ様々な局而で起こっていたハ滑

走路建設のために州政府が小きな汚村に1H;

ハ'Jイ人を強制必去させようとしたり, 11む

家のないハワイ人が海岸部で不法;こ住居を構

えたりする!豆iこ,当局!こハワイ人巡動家との

悶でff;突が起こり e ハ7~1 人が先住民である

という下実と絞らの出向してし hる貧困問恕が

ま〉らわにをつ丈 (Traska:ld Greevy 2004九

n主の抗議運動の巾で向われたのはその

!地tJ:/f;:来誰のものであったのか」とい与党

極の土地問題じあり.この問題を突き詰めれ

ば,その先にあるのは先住擦の問訟となる。

!地を巡る抗議活動が.民:引 Iえ内総州を i-:af<7品運動へと進展していくのは必f,!;T'あっ

TこQ

197υif:ftのハリイ人によるtI公選勤は.こ

れまで紹介Lたように民間レベルで活発に駁

附されたが?ハワイ 'JH政時によるたfLハワイ

人政治についても休息を官、う必要がある 川

政府による先住ハワイ人政策的事、換占U:,

197品年のハワイ川憲必会的 (beHa¥vaii

Stale ConはじLUlionalC(口VenLlOIけであコたn

この会議で川口、に幾っか鯵 11がむlえられ.ハ

ワイ百昔の州公)11B昔イヒやカホォラヴ q 島などの

国有地のj互選μ11断なとに加えてハワ J 注

{年1-(J;:;) (,OIIA: the Office of Ilawaii日

制brT吋Jの設¥'.;が;恒われたのである代

。HAi:<,ハワイバの管坪ドにある前五実地

から待られるl以誌をハ 'Jノ人の'1治改常のた

2~J )ウーンデイ ソト ニー(l,V印 mdcdKn代)は?サウスダコタナHのl内丙訴にあω地域むあり吋不ノラ 1

プ アメリ力ンのスー族的記{i地じ 1800斗に均一 ./7 ィッに 0)虐殺が起こり, 1973斗には口人と小 rティ 7 . )メリカンの街兜から上拠:iii'lが起こった、

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井上昭洋:ハワイ人主権運動の歴史的考察

めに管理運用する権限を持つ。 1959年の「州

制施行法 (theAdmission Act) J により,割

譲地から得られる収益は,州、|の5つの目的の

ために供されることとなり,そのうちの一つ

が先住ハワイ人の生活改善であったため,割

譲地から得られる収益の20%が OHAへの割

当とされた。 OHAは,民間の運動体とは比

べものにならないくらいの巨額の資金を運用

する組織であり,ハワイ人の権利の回復に向

けて重要な役割を果たす機関である。

2. 主権運動の隆盛:1980年代後半以降

ハワイ人の社会運動は,それにやや先んじ

て盛んになっていったハワイアン・ルネサン

スと呼ばれる文化復興の流れと重なりなが

ら, 1980年代に入って勢いを増していく。そ

うして1980年代後半には, r主権 (sovereignty)J

の回復を唱えるハワイ人運動家の活動が活発

になり,幾つかの主権運動体が形成されるよ

うになった。

ハワイ人の社会運動は,ハワイ王国転覆後

100年目にあたる 1993年を間近に控えた1980

年代後半にパラダイム・シフトが起こってい

た。すなわち, 1970年代の運動では,土地の

乱開発や強制退去に対する反対,賠償請求,

海岸などへの通行権の要求などが主たる目的

であったのに対し, 1980年代後半には,先住

民の権利の主張に加えて主権回復の要求が運

動の大きな柱となったのである (Trask

1992: 250)。それは,文化復興の勢いも取り

込んで,政治的な抗議に文化的な意味づけを

する形で,心理的な脱植民地化を目指すもの

でもあった (Trask1984: 124)。自らの誇り

とアイデンテイティを取り戻したハワイ人の

間で, r主権」という言葉が明確な意図を持っ

て用いられ, r独立」が(どのような形態で

あれ)達成されるべき目標として定められ

。た

19

1980年代に結成されたハワイ人の主権運動

体の中で,最も活発に運動を展開したのが,

「カ・ラーフイ・ハワイイ (Ka Lahui

Hawai‘i) J 30)である[図9J。この組織を率い

たのが,弁護士のミリラニ・トラスクと彼女

の姉でありハワイ大学ハワイ研究センター教

授:のハウナニーケイ・トラスク,同じく同セ

ンターの教授リリカラー・カメエレイヒヴア

であった。彼女達は, 10年間に渡る法律研究

や歴史調査を経て, 1987年に250名の代表委

員の参加を得て第1回憲法会議を開催し,白

らの“憲法"を起草して,カ・ラーフイ・ハ

ワイイを立ち上げた。その後, 1989年に第2

回憲法会議, 1992年に第3回憲法会議を聞き,

それぞれ94名と 100名の代表委員が参加し

て,憲法の修正を進めた (KaLahui Hawai‘i

1993)。

図9 オニパアで行進する

カ・ラーフイ・ハワイイ

(The Honolulu Advertiser 1993/01/18より;

The Honolulu Star-Advertiser提供)

カ・ラーフイ・ハワイイの“市民権"は全

てのハワイ人に聞かれており,非ハワイ人も

名誉市民権を得ることができるとされた。そ

の“市民"の数は, 1989年の時点で5,000人,

1992年には10,000人に達し, 1993年の「オニ

パア(ハワイ王国転覆100周年行事)J開催時

には16,000人を数え,最盛期には2万人を越

30) lahuiは「同家」の意味。直訳すると「ハワイ同家 (theHawaiian Nation) J となるが,彼らの英訳は

the Sovereign Nation of Hawai'iとなっている。

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20 アゴラ (天理大学地域文化研究センタ一紀要)

えたと言われる (Trask2000: 154)。この間,

同団体は, ミリラニ・トラスクを初代の 「首

長 (Kia‘aina)Jとして,主権について学ぶワー

クショップを300回以上関き,多くの集会や

シンポジウムを開催した。カ・ラーフイ・ハ

ワイイの目指す主権の形態は「国家内国家」

と呼ばれるもので,ネイティブ・アメリカン

の統治形態に倣ったものである。対外的に

は,イヌイットやネイティブ・アメリカンな

どの運動体と友好協定を結び,国際連合にも

交渉担当者を派遣し,また,連邦議会でのロ

ビー活動も 活 発 に 展 開 し た (KaL孟hui

Hawai'i 1993)。

同時期に,ハワイ人の主権運動体として目

立った活動を展開したもう ーつの団体が,デ

ニス・ “パンピー" ・カナヘレの率いる 「ネ

イション・オブ・ハワイイ (Nation of

Hawai'i) J31lである。カナヘレは, 1987年に

オアフ島東端のマカプウ灯台を集団で1ヶ月

以上占拠し,懲役1年の実刑判決を受け, 1992

年6月11日のカメハメハ・デーにはイオラニ

宮殿で集団の抗議活動を行って逮捕されるな

ど,好戦的な主権運動家として知られてい

た。 しかし,彼の名を一躍知らしめたのは,

1993年3月から15ヶ月間に渡ってオアフ島東

部のカウポ海岸とマカプウ海岸を不法占拠し

た事件である [図10J032)

占拠開始後1年が過ぎた1994年4月には,約

150名の不法占拠者が40軒ほどの小屋やテン

トを建てて海岸公園を占拠していたが,その

ほとんどがカナへレの率いる「オハナ・カウ

ンセル (OhanaCouncil) }3lのメンバーであっ

た。彼らは,抗議の意志を示すべくハワイ州

凶10 マカブウ海岸を占拠する

デニス・ “パンピー" ・カナヘレ

(The Honolulu Advertiser 1994/06/04より)

旗を逆さまに掲げ,無許口Jで、充庖を出し,ま

た,公開の水道をタロイモ畑の耕作に使うな

どして,共同生活を送っていた。しかし,同

年5月20日,ワイマーナロ地区の山問地の

リースを条件とした退去勧告が前年9月に続

いて再び州当局から出され, 5月23日には公

園を管理する市当局が水道を使用停止にする

など,両公開の不法占拠者に対する当局から

の圧)Jが強まった。

カナヘレによれば,州当局は公有地を管理

する合法的な権威を持ち合わせていない。な

ぜなら, 1993年11月にクリントン大統領が謝

罪決議に調印して認めたように,ハワイ王国

の転覆は違法であり,その転覆の結果として

誕生した準州政府やその後に制定された州政

府も合法性に欠けることになるからである。

31)カナヘレの半いるオハナ・カウ ンセルが発展して結成された運動体の名称。Independentand

Sovereign Nation State of Hawai'iが正式名称であるが,幾つかの略称があるようである。ここでは最もよく使われた略称である Nationof Hawai'iに統 会する。

32)事件についての情報は,当時の地元紙の記事による (TheHonolulu Advertiser 1994/04/12, OS/27, 05/28, 06/02, 06/04, 06/05, 06/09, 06/11, 06/12, 06/13, 06/14, 06/15, 06/16, 06/17, 06/20,

06127, 07/31; Honolulu Star-Bulletin 1994/04/13, 05/21, 05124, 05/28, 05/30, 06/04, 07/27)。33)ハワイ語表記法では ohanaの頭にオキナ(閉鎖音記号)が付くが, 子1i時の地元マスコミでは表記法

に則った綴り で表記されることはなかった。また,同|計体もオキナを付けて表記していなかったようである。

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JI : I明;ず ハワイ人 H金運動の怪1.:釣考察 21

ごの j国転療のよ41云性を根拠にハワイ人の L権問 fS;~の正、\r';~l:を訴えるのは匂多くのハワイ

人運動家の i技:=Jl~ :i珪1 るものである r しか

し.カブヘレ遠の不法占拠につし 1 ては,ハワ

f人の陀でも賛台両日告があったコ事くの主持

菖が他貼からオアフ砧以音;のドld年岸l二支持に

やっ、来る /Jで 近隣のハワイ人居住地に

11むハワイ人からは,正胤の手続きに則って

活住地への人居のl頓誌をよくい間待勺ているハ

ワイ人均九、るのにヲルール者破n小法 jf-i拠に

よって白う寸法の 1,JjI;を 1~-f る f皮らのやり hは

ソェアではないといったtよ判がなさ*1た、ま

た,カ・ラ-]イ・ハワイイのミリフ、二・ト

ラスクはi[j弐的不服従は,あらゆる子段を

尽くして,それらが〔方を奏 3 なか~:)た時にの

みt'1されるのであっ工,カナヘレのね為i土ワ

イマーブロの i地を得るためのj::,-ur:rとの取り引きに過ぎないと非難したじ

その後, 19弘年G月 11R仁,カナヘレを中

心とする男性占拠梓のほとんとが州政府の捉

↑賀するワイマ ナロの LJ車lこ不:tWJすることを

受1;人れて.翌Rより退去を慌始したわ一方9

ì~l;の女性 1 1-î1襲名やマカブヴ i毎日t の宗教「ドj重

安汁を lせぐする C:f、イション オブ・ク』

(:N"atlon of Ku) j:-jlj')のメンパーは立ち退きを

犯がし。 1,1月1:>Uに男性4l'., 1,(':主I世名の言1

23名が逮捕されたが, ~IJ 日釈放された カナ

ヘレとはけ政府からワイ'7.ナ口のが)工

与ーの十J:iを提供され,そのうち3G:rーカ

はアハイ カウンセル会"53午リースで賃常

L, 34エ カ ti J;;斜地として月毎の契約で

賃併することとなった〔

カワボとマカブ内の[土H存t:elこ建てられた建

造物の殺j、作業,ワイマ ナロのi社製作業な

どは,州政府のY ンパワーを導入 Lてれわ

れ,占拠者連の移動は比較的ねやかに行われ

た口 ~7トL., ]li拠蓄に討する子liic→jの対応につ

い亡は, 吉弘のハワ f人からは l州政府はパ

ンドラの栴を I-H-Jttてしまった」という J比:j'1jが

なされたv すなわち,午後‘カナヘレの行為

をまねて他のハワイ人がぶ法I:~i ~:地を始めた

ら,同じように1:な土地を』旦イ立せざるを持

久ハワイ人居住地のシステムが機白色 しなく

なるのではなし 岐、とし 3う慌題である。その疑

問に対する当同の返答は,ノr-LuJの:}イマ_,')-

Uの土地提供l之町ハワイ人二五権運動車互の主張

や要求に応じたものいごはなく,あくまいでホ

ムレス対治として令されたとい与ものであっ

え-"

ネイション・オブ・クーのメン川ーが海

尽にアフ(主主厄)を巴/乙¥カヴ y セレモ

ニ お 1 を行ったり.キャンブしたりしたも

のの‘カウポとマカプウの海1平]¥i拠事fl:1土.

19~は年 7月 lこは JIÄ束していりたf その後,カ

ナヘレはワイマ h ナロの1日ヱーカーの I"JI!iで

ハワイ人のよ1t京?を建設ヲベく,介入のi主体

専門家句の助けや符1 独 Hの憲法手起市

L.,ネイション‘オブハリイイを ιち}げ

たにJ インターネ y ト[でも活発に活動を展開

したこのIJ!iJ;oパ→指寸で権の形虫、は l完全独

古 であったハ

'[98Mtイ七からハワイの独立を掲げて活発に

沼動を民間した i権巡動家としてはハワ

イ人関連事坑推進協会 (the1n倍以uLefor the

Al:vanしernemυfHawaliaTl Af!'airs) を率いた

弁設上ボ カ ・ラエヌ/や「カ岨パーウ内

カウ (KaPakaukau)-,引の代友者むあるケク

ニ・ブ L イズデjレ「足。:1iなどがし aゐ ま

コ4) クーはじ)は ハηイ(7)pl[大神の つ}<~己法に従んば。長十世首日己すが付く r

35) カヴァ i土コン 1"/科的市ノド、,メブネン T.~~ポリネンアで用いられる H害対品3 ハワイ語、日アヴ p

【礼治 a) と11')'ぷp 申2燥きせた主民え粉末1Rにして水にι脅かして主:n;-tるつハワイではl::!世名 1にキ nスl教官設却によってその使汚]が+-~じられ?武吊の内情や儀礼がLたわれて u たが,文化復興の流HO)中で

七、統一じ兵汗によコ亡仮泊されたυ

:16) p~-:kaul\:;Jじは FフープJ:'-- _~ のき昧 I両ト庁抗は" "tl存運動家や宝動体内連f?を日持Lた糾織むあり円卓宗議 と副されることもよ:,{',!、

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22 ワゴフ(丈理大字地域丈化研究ヒンター記号)

1990"trfU、頃からは可デυッ v・ケアヌ 咋

イに代表される町凶際i1:1])観点からハワイ王

1'1復興の iF_~':'止を i 張1 るハワイ人遂動家も

出1見するようになりた

方.州の 機関である OHA ハワイ先

住民同)も 1980irftに人って活発な動きを見

せていた。 ()HAが他の民,<1UI休と同様に主

権活動体と見なされるのは,公的機院であり

ながら州成町から 1'1;1狼立した立場を有する

ためであるコ奇妙なよ二とであるが,州の

関である OHAは1980年代中頃より州政府に

対して繰り返し訴訟を起こしていた 1983{1

のモロカイ島の割譲治;、おける砂-"採州問題

に部を売する初午ftの 速の訴訟は,ホノル

n凶際1Hi色ホノルル治,アロハ岨夕 '7 を

中心こする再i北任地 iぜなど,割譲遣に主t~止さ

れた各誌設から符られる収訴の20%を裟求す

るものであった 3i

1 古90 年 f(;l~へってからも害j 譲 l也を i返る

OHAと州政府との同の訴訟は絞主弓 1994年

には OIlAと4人の原台が州の釘誕地必貨を

fjTじる訴訟を起こしたわこの訴訟℃は, 1,19:l

年にクリン L ン大統領が署名した 説罪決

詠」がハリイ州政府の割譲Jil1の譲江主作を無効

;こするか色、かがす1 われた。~~設判所内州最

'01裁での判決{土 転二モキミし, 20ω年2月。 fi

衆向最t;j}之は「説罪決議」には害:1~;"~lll! を;民主主

ずる権利をハワイ州から剥奪する効 }Jがない

としたc

ハワイ人,特に i議運動家の向では,この

ように部議地を巡って州政府と定立する

OH九;ご討して.百十仙は大きく つ{信分かれ

る。河らの組織を維持するために割 2り自の以

読を符ることに百決する行僚組織にすぎない

と見なすカ ラー J{ ハワイイの Eつな団

体もあれば ハワイ人の主権戸復にi白j:.tでの

強力な袈置であり欠くことのできない組織と

考える運動家もいるのである

37) Ka l干'aiOla 0 OI-I/l, June, 1991. P;1,: 1 --12

3. rハオレ・パッケラッシ 'J : 1鈎0年代

後半以降

ート到来示夜 1001';]年に民主いた 19古3主~, ハワイ

人州知事ジ日シ・ワ fヘエによって lハワイ

人 i持戦前委長会 (lheHawa山 nSoverei科目ly

Advisory Cornmis台lOJl! カミ;,ち十lずられた

学年. 1ロj岳民会は l ハワイ人ヰ了権選挙海;義

〆弐 (thellawaiian SovereIgYltyιiεCllOl1S

Council) __1 へ J持続され, 先住ハワイ人主

権fi民投;;;:. CNative Haw(]iian Sovel日立九ty

Plebiscite) Jの埠備に取りかかることになるー

この投票l之、ハワイ人政相の樹立を検討する

会泌を附併するか FJかをハワイ人ド材!~'(問

うものであった

州政府の顧問主主員会設立以滞の動き U:,

;主々なすぬや意見のある i探通言語をーフドイヒづることを弘ったものであり, (]HAが主権選

挙手岸議会を財政i自iでよ援した この選ザをよ

改することによってラ OHA Il,連邦政府や

州政府と対等に交渉できる結成へと![まれ変

わる I可能十lを探っていたとも弓えるι 民間!J)

土権運動体内多くは,この州政再jニユl主の住民

投票に激しく反発した J なぜなら,涯学で賛

成票が多数を Iliめれば.その徒の、村;;_J豆i'hI手

OHA >1'心;こ i韮んで?了くこ)-になり.弘士J-~

が多数を占めれば主権巡動そのものがfi定セ

オLることになるからである

こうして 19961y:, 8万人以上のハワイ人に

投崇Jtj紙が怠送されてji民投崇が行われラ約

3万票/戸回収された n 絵果li,iを成票22<294

(73%) ,反対 ~8 , 129 (27%) であったが,

投票卒、が4-0%未満であり?投票維のあるハワ

イ人のうち会議の開催に賛成した君 C;:3u%点

満iこすぎない. I司以後, OllAを'f',(,、とすと

住民投票排i革派 ζ カーラーブイ・ハワイイを

>1'心とする1tR没2反対派i土守それぞれのす

ぬから巳分た九の勝手11を 5 召した 結局‘そ

の後の以対派のネ汗テ fゾ-キャンベーンや

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JI : 1明;ず ハワイ人 H金運動の怪1.:釣考察 23

後に紹介する住民投票H体が抱える憲法 iの

問j越もあって,会議の構想 i~私托I した

ところで,人種差別撤廃淫動に討する白人

からの巻き返しをホワイ"パゾクラブンコ

と呼ぶc 近'1の例で丙えlZ,マイノリティに

雇用や教育の援会を優先的に与えるアブづ

マチイブ・アクシゴンキ逆差別であると,jJt'tり

する口人の測の反発などがそうであるc ハワ

イにおいてもハワイ人の主権運動にはする反

兎!とし 1,非ハワイ人からの巻き返しが起

こったr それは, 1993年のオごーパア以降.ハ

ワイ人が今後の二五権運動の )j向刊についてコ

ンセンサスを形成するのに円心している時期

でもあったれハワイ請の haoleの原義が 1--~ト

凶人,外米者 であることを与えると町ハオ

レ I白人系(1上むを中心とした非ハワイ人の

抑jからのハワノ人の主権淫動や優遇政京lニ,lj

する反発を,ここでは ハァγレ・ハ yクラ y

ン LI と悶~(}.たいc

先にも紹ftしたように弓 1996年 u)夏,ハワ

イ人;改J付i})1:fH_-i'r.を倹討する会議の閃併の是非

を問う「先住ハワイ人ニ権住民投票 が州<j(

府によりハツノ人右権者全対象に行われた口

だが.開票の似芸 I[命令をぷめる訴訟が起こ

されたため.慌票結)J-~の公表 (;1秋にずれ込ん

だ口訴えを起こしたのは, :rて教輔のチ係であ

りハワイ }告の牧場 iである (1人系fU互のハロ

nド・ F.ライスである-ハワイ人語ミ向1r、

権を得れば,川氏全体が干i会u'J.経済的影響

を受けるのだから,非ハワイ人の住民にも投

票権を認めるべきだ。 このような税拠から,

彼は,{:民投票Jの台言、牲が認められるまで

関空言を訴えるよう求めたのだヮた 絞め訴え

は結局退けられたが住民投以」が介衆凶

憲法修ι第 14条(dJ民の [7/:~~ 0)保設) t修正

;::H5条(人艇に);1;っく役票権{寸 'jの禁11-)に

抵触するという指摘には Fd1~-i- 力がある

(yο51四回 lD98i

1990年代筏 rfJ、らのハ,,'V'パソクラッ

ンコの矢r百に vったのがりHAである n ハワ

イ人のj量かれた状況の改苦を使命とする什;機

関の OHAは,百人のま君事から成るE型事会に

よって運注される f 州法の制定により持'1:は

選挙によって選11¥されるが,その選挙伸 被

選挙権はかつてはノ、ヮ f人にのみ付守されて

いたc とミろが. 19泌年3月,その5'/月後iこ

Cji!完投票」の珂票似茶¥[を訴えることにな

るうイスが, OHA剤事選挙の有権者守主主を

お??されたとしてヲベン,カイ】タノ州知事

を相子取って地方及、IU時れこ訴えを起こ Lたの

である J 裁判は合衆凶属高設まで-':'われ,

2000年2月に7対2の法延意見でハワイ人にの

み投票権を認める OHAの郎事選挙は違憲で

あるとの千Ui長が卜され,Jドハワイ人にも投:?

の門戸がl告かれた(註4;.2001 i。

この Ricev 仁川.'etal10 (200凶)0)手IJi,主i土、

l8~接的にはOlll\ に t,較を与えるものであっ

たが,五権運動向ひいてはハワイ人宅十会全体

に 'j支た影響は多大なものであったとヲえ

Q"恥判決以降,壌を切ったようにハリ J人

優、島政策にJJする Jト訟が起こされるように

ノまったのであるu Arakηki lJ. State of Hawai'j

(2∞z)では, OHAの用事を p、ヮイ人に限る

地廷が広間裁判所において違憲と判決3れ,

~ëハワイ人も理事iこす校献できる 4 うになっ

たのさらにヲ 4も叫迅ki11. Lin日]e (2007)では,

原告が丘的、'i'l'者資格を欠いているとして訴

えがれ却されたものの句 o日九と「ハワイ人

記地委員会法」の合憲性が/tわれたc

方守カメハメハ・スク、ルズの人学制度

が私人に上る人種芹別をで、じる連邦法にi主jぇ

L '-Cいゐと L1?!われたのが守 Doe 1)

:1R) Rice vじ訂e臼1¥0 ワ川つJにつu ては 位、f,人菜、'{',文化研究の分野でj!;くの軒先がなされてしる例Jえl主阿 Iリ,m持 (2UOO), K:Ill<:lnui (20(;2:', H()hn三r;20(6). Y叩 l<lmoto礼 dBet出 ~2ú08: なシを宅言明のこと また。 ;li3t{11-Pt,κificLau; & I'!)ljれ,]ournaf,日JL ~~, Jssl1e 2 (2::-)02)がl可訴訟につい-(:0)シンポジウム耐えの町長を却l人さし,;:J

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24 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:.)

Kamehameha Schools (2006)である(点)11

200初。カメハメハ a スクールズは,ハワイ

人に教育の機会を与え,その柄祉にu献する

左いうパーニス・パウアヒ土女の遺志により

1887年に設すムされた私立学校である。そのた

め,ハワイ人でなければ実質卜入学が許可さ

れていなかったじところが,ハワイ人でない

ことを埋山に2度に波って入学を拒否された

匿名の非ハワイ人が, 2003作6月に同校のハ

ワイ人優先入学制度を人科差別であると訴え

たのである o 2006年12月,巡回裁判所におけ

る再森却の結果, 8)"J7で原判決が級乗され,

ハワイ人優先入学制度は違i1、でないとされ

たの j忠告は合衆同最高裁に再審理を要求した

が,判決がドる前に両者の I~J で手11解が成立

し,同校は現在もハワイ人優先の入学制度を

維持している。

20()0年代に人って次守と起こされたこれら

の訴訟は,例えばライスjポ侍が「カラ←・ブ

ラインド」のイデオロギーを掲げる凶休から

よ緩を受けていたことからも明らかなよう

に,米同本土の)えアファーマテイブ・アク

ションのi'fJ~れとJ!lri 関係ではない (Trask

2002: 352) 0 だが, 1990年代に盛り上がりを

見せた主権運動に対する税強い反発が根底に

あることを見逃しではならない。上手なるマイ

ノリティ集団ではない,主権回復をよ訴する

「先住民」のハワイ人li,部の非ハワイ人

に取っては脅威であったのだc

Rice v. Cayetano (2000) の判決後,同'if7

月にダニエル・アカカ上院議只によって「先

tiハワイ人政府再編成法案 (NativeHawaiian

Government Reorganization Aιt) J カ王提出さ

れた。「アカカ法案 (AkakaBill) J と通祢さ

れるこの法案は,連邦政的にハワイ人統治体

を認めさせようとするものであったυ 以降,

アカカ法案はその内容を変えながら連邦議会

で毎回審議されてきているc

このハワイ人議貝を中心とした活動は,主

権回復を目指すハワイ人の巻き返しと捉える

こ主もできるが,事態はそれほど単純ではな

い。保守系;.(i派から人税差別的法案であると

猛!え発があるのは当然のことだが,ハワイ人

主権運動家の聞でも互いに異なる立場から厳

しい反対の声が上がっている。凶際法に則っ

て独、'i.を同指す運動家は同法案は向分たちの

プランを妨げるものと比え,困家l付回家を 11

f脅す巡動家も政府 i:.導のハワイ人統治体の編

成は点の主権回復の妨げになると考えてい

る。 199G年の「住民投誤」と|司燥に,アカカ

法案についてはハワイ人の聞でコンセンサス

が形成されておらず,近年は州レベルで同様

の議案も上がっており,ハワイ人政府編成本ー

を巡ってハワイ入社会は分断されている

(])ahre 2008)。

m.主権の想像

1.ハワイ人の抵抗運動の類型

r i介主 (sovereignty)J とは,地理的空間

を;白ーする集凶において対外的,対内的に発視

する最尚の権威で、ある。その意味するところ

をより明確にするために「同家主権 (state

sovereignty) J と称されることもある。ハワ

イ人の.H存運動において回復を求められるの

もこの主権であり,具体的に言えば,それは

「白品、権」や「独立」といったJll品で言及さ

れるハワイ人の統治体・政柑組織ということ

になるに

一方, r i:権」は文化的 i:権,教育的 i:権

というように,修飾語を伴って用いられる場

合があるコ崎者であれば,文化的空間におい

てその文化を有する集同が持つ紘威というこ

とになり,後者であれば,教育的空間におい

てその教育の主体が持つ権威ということにな

るだろうのいずれにせよ,ある空間や領域を

向立性・主体'性をもって統制する権威を緩や

かな意味での“ LJ1ii"と捉えて,特定の空間

や領域に当てはめた用法と言える。

過去から現{t=に至るハワイ人の抵抗通勤史

を概聞すること,その歴史の中で、現在のハワ

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JI : I明;ず ハワイ人 H金運動の怪1.:釣考察 2G

イ人の L権運動を検討することが,卒論の H

j切であった!Tf史的に見て,全てのハワイ人

の抵抗迷主主が,今日的な立川、での 7権町すな

わ九民妓や同家の主権を求めるものであった

わ11ではないn だが i.ム義の綴やかな吉林で

の“王権,~: l"叶枠組みでそれらの運動を捉

えればヲそれらはハワイ人のある説:或におけ

る臼古性 i体tlを求める千1:合的な逼動で

あ JたJロえる I

例えば,カオすの y又乱が起きた1911γ紀後 r;土ハリイ十同の時代であり,政治符併の分野

で徐々に白人に二五導権をJ陪られつつあったと

はいえ,ハ7ノ人の出家 i権は保障されてい

たn そのような時代に,カすす j主の>1<めたの

はハワイ人によるハワイ人のためのキリスト

教信fiV,すなわち信俳的 i権であり?また経

済的舟 \~I を保障する i 地であったに

19世紀末,臨時政府によって樹止さjιたハ

ワ f共和1"1が合京iヰi:1井「7されんとする時

iこ,併合y又士?の当名ii!i動を展開 Lた請願運動

;土,ハワイをハワイ人iこ取り炭そうとする,

民放の主権を求める運動であった代また, 20

;什紀初販のウィルコゾケスによる独立科目1先;の政治j丙勤はー埠什fという緑町?システムの中

ではあコたが,ハワイ人の政治的な主導権を

j士ヌ号しようとする通世占ーであったし? クーピ

オーとりイズが以カしたハワイ人宅地委員会

法制定に向けての政治、活動lムハワイ人の経

済的::J_¥7:を促進して民主主とし-(0)活力を回復

することを R抗?すものであった「

H, 19701.ド代に始まるハワイアン.)!..ネ

サンスは.自らの文化lf誇りをJ4ち/cれをお

りかlこ議ろムι化的主権の凶復を Wfiした運動

であったと日える〈 また,この文化1M興遥主ノj

;こ続く形で起これ, 19801[代に一つのパラグ

イム シフトを迎去たハワ f入山下権j宝動

は.ハワイ人の円治組織の設世を求め,その

Jl;に臼分j主の凶家を見据えと逆説であヮた J

ところで,ハワイ人が信仰,経Y丹,政治‘

.Jdじをドjらの千に収めJうとするこれらの十l

工~)暴動や政治治æbを振り返ると,彼らの ì 11i

を取り戻そうとする方法ーには,幾つかのパ

ターンがあることが分かる v まず,宍I"IH人が

呂に克える形でま i!frgJí~ 空間を内有してÍ'Wを

取り)ぷそう kする運動 それは,カオナの,jf

教J活動のように経済的内 1].キ伴ったお倒i的f

+11の獲得を目指すものであれ カナヘレの十|

会怒動のように自らの憲法を書きょげて民族

国家の設すを日指すもの1であれ、 I人iと 1+Jlt. からtxる共同体を直披的に形成しようと

1る怠占jである 3引それらの運動LL-'室長ノbW

が二F,'1政府十連邦政府 州政府の統治システ

ムの外;こ出て行こうとするものでありだと I_--I

える J

;大仁ヲ治主型的空間を Ili有せすに.まずは共

同休キ形成することで,主権を取り反そうと

する遥到っ 19世紀末のハワイ人内政治用体は

ハワイ語訴聞などのメディアを通じてハワイ

人11ト命寺3昨日立し, 署名活動キ通 t--c悦(;-D:xす連動を民間した 五.1980年代から 1()例年

ij~ Iこかlfてのカ・ラ ソイ・ハワイイ (;1,

7ークシヨ:;-f<<との集会を頻繁に開催して

ハワイ人の倍蒙に努め, rli民主予録を珪めてRI"Jの主権J'i動をリ、 ドLた 1 どちらの注量VJ

も,メデ fアや集会lよる持索活動と署名や

i[j叉{hf.ilにぷる共同体忠誠の醸成:こより.集

凶と Lて紐帯を強めて行くことで怨1*0)共

[nJ-þ;.>:__1 を甘=;4立 I~ ,それを共#百七していこうと

する運動むあった

最後に, VrIri将校!化滋州政府,連邦政府・

州政治どいヮたその時代の統治システムの内

で,孜tfIJηで導権を彼女し,光作権告訴

:19) カイナの討す致運動とヵートヘ1-'0)海市占拠lよ,訓告は反乱と Lて波注されe 没者lよr;:c;-;:地を作るという司王うに科;R:ょ分かれたが?共にハワノ人にとって ιンボリックな空間 tもある出17-;:>淫助が繰り広げられ聖 書 と「法i~ といりた担伴内文明子抵抗の道円として府いられるなど‘ i馬断涼い共通点があるに

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2G ワゴフ(丈理大字地域丈化研究ヒンター記号)

ひいては j権の回復を nmす運動U システム

の外に[-Hて行こうとするのではなく,あえて

内に明まりつつ権利を~1,寺しようとするよう

なi言動である。それは ある叫は政党政治へ

の積禄l'!0な参加として またある時はハワイ

人のfめの法案の凶 i,-をH指す勤主と Lて,

またある時はシステム内の 機関の活動とし

て噌民間されるものである九

今日山主権連動において内総 のタイプジ)

様。こ性急に人と 1地とから成る宍ipJ14(の攻守

を目指す祈勤は i流派ではないぺ人と Uillか

ら1&る二五権国家の設立.;.;1最終I[nr~であっ -c.,

そこに-}i1とびに巡り着くこと古川、'1能守あ

るここは歴!とが不す返りである n 方,第

のタイプである悠イ翠の共同件J の形成に

よって, i f1il i~: 家の殺すを包括す場合町たと

え向らの“憲法"を起苧 L,“ili民"や時間

以"の王主主止をしたとしても,統治システム内

で尖際の政治に参加せざるを得ない。システ

ムのよキに出て11くことを J止、問し, “主主i* と

“市民“を右する巳すした組織をγ1乗ったと

ころで'-ステム内の 民問団体の活動であ

るよこには変わりはな~¥,_, • }-i, システムの

,y~に{I\ることを41:、 l押しない第ーのタ f 7';).,

かつてのハ7ノ人七組公民会訟の制定ブUセ

スがIJ~すように,実際の政iÚ)J学の中T採々

官にぶワかり,当初の巨的から外れた結

果をもたら1可能性が高い それは,直邦政

府の不認を得て先イ、ハワ f人政府の編成を日

ですアカカ法案に関して{)f;与但されるところ

であるc

つヤROJi権運動は,第 のタイプ?すなわ

ち統治ンステムに対綜して民間の運動体がハ

ワイ人の主権問ij,iを日J言すものと 絡のタ

イプーすなわち合衆|可の政治ンステムのrt'で

ハワイ人の権利こ利益の獲符(その先i~tt蓄

の回復を円探に抵一えるか否かはさておき)を

BJ旨すものとに分けることカミできるに

2.主権運動の抱える筒題

ところで 現ιのハワノ人の i料運動がi白

出してしゐる附胞として去っうもに指摘されるの

が,運動1)'1での分裂である v ハワイの伝統的

価値鋭として「口 カヒ (lokaru)ーという

殺しH結をtJ、す百;拡があるが,ハワ f人は つ

の物)lにあたって結以できないという指抗が

なさfしること治まあるぺこのようなJlt判に対し

て,主権運動車からは 多機な訪見があるの

は集;引として健全なrilr.拠であり‘それは民 i

i一義的なあり IJであって,ハワイ人の場合に

どttふの多様刊を欠点の如く指Ji,寸るのは人

極差別的であるこいつ丈反論がなされるーし

かし, ",史的に兄ても,ハワイ人の集"JIべぺ言

動に分裂する傾向があるといっ i乃 Ij>~fíi!.しが

た)"l.r,

f/Uえば, カフーカウアがEj;):に主主いたi&.

ハワイの政治は,競*派のカラ カウアの主

ltl'i ìc カメハメハのj加を引く税負j~~の J_-_--.(女

!の支持者が激しく対すしたし 18時7年の銃

剣;をj士派手jの後もハ'11人の陪C'l!j涼訟の支

持有e:!_ぇ支j考とが対立し,反対有も新憲法下

の選挙へのボイコットマト主張 jるさとあえて

選挙に参抗して体制のき主吊をヨ指「者とに分

裂 l_/:ょ (Osorio20(1) '. 20世紀白押j娯 lこは独

すi'li台党のワイルこr'jクス;::f{すするmi,).んと

して,同党を離党して共和党からクーヒオー

が)2邦 l'院議Liに立候したのは,既に約介し

た送りである u また町内p上紀末の十jヰ伝震後ラ

会衆派の HEA (ハワイ伝送協会)から独立

してぷ立された鍬立系ハワイ人教会も必立、円

有IJJ: :f)分裂をくり返して幾ワかのうrJ"i隔に分か

れている(井ニ L1997L ,J())

~C)私 lょうかつて独立系ハワイ人教会の調査を行うていた持,ハアイ人ま士会はなぜ分裂壱枕り返 L てきた

りか ある信徒iこ品ねたことがあω 従女によれば?ハワイ人は企ほ的主補突をむまないのじ 長凶

内で意見ヂ対すした時;は併理に cilをJj宇治しょっとせずに‘その集I'liを士って白分i主的集[刊をすらlげる傾向かあるのかもしれなし!との、二 ζ だコたに

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JI ' I明;ず ハワイ人 H金運動の怪1.:釣考察 ゾ r"'

;!l: 干の:権運動の丈脈では a 守 ラーブ

イ・ハワイイこ OHAとの対立や. 19961fO)

先11ハワイ人 Hld民投票号'20∞年以降のア

カカ法案を巡るハ吋イ人社会の分断I~ 良く先

られるところである。ま長問内の意込の相主主と

それに起制する分裂をニ縫迷勤のと己な防古!:

見なす与えに異が明えられることもあるが

(心ωdyear-Ka'opua:~ü1l))ハワイ人の問で

自らの政治的将土についてだうあるべきか白、

見が分かれ ιいるの80rio2DOUι 意見の多

様竹に!総選出jの号よみを _hl,/I¥すi翼民r蕊はいる

ものの,ハワノ人の1~えるよ1 1:: 1"J とも E える

この問題が i綜逆効の進民に影を落としてい

るのは革主かだろう

ところで, 19世紀徒、「以降のノ、ワ J人の

.. 1.1'春"のleJi宝を日;持した運動を椴Lf:l!するこヲ

ハワイ人は外米の I'Lf洋Jt明を同らのものと

し, 11~抗の道 X~ としてJ!J し、てきたことがうfか

る口 19[1J紀後ド1)7-f~教運動では一望書 J を,

反併合論関連動では, 'i'(名 J i活動やハワイ芯

「メデ rア」を, 2U世紀初頭の独、訂白治党内

活動.C(土 』文f乙l政;古を,ハワイ人lょ自らジ)

ものとしてほい,自制や政治的領域における

i砕を取り戻そうとしたハ

現在の主権送動に'八 1てにるならば向ハワ

イ人が主権[iij殺のために!IJいるのは I法律 i

であり e 運動を支える出縄としての ri校J

概念である J ハワイ人のための法案の制定で

あれ,民間巡動体独[Jの"窓i1、"の制定であ

れ.件ji'羊(}コ法律の体系と概念に茶づいて運動

は民間されるのであゐ 現在の主権法動家が

考える i)年lcH夏の形態には,ネイティブ・ア

メリカンに倣った r-l!l家内毘遠足J としての油、

JL,王政復占,共和凶としての油、立, ミクロ

ネシアの1"1々 に倣 )t:-.自由連合同kしての独

立なと刀、あるnζ れらの主権戸復にi白j:.tでの

戦時が西i干のil、体系と、!{i,jI,託会に本づくもの

であることは明1'1マある。

光にも桁摘したように,どのような戦略を

疑るにせよ.現点。〉主権:運動体はヲミ?Jf~の政治

に参加する以外に選択肢はないロ手i会的弱苔

であるハワイ人がa 法体系やi去概念といった

強者の道H を捌いて,話1ftのシステムの "f~ で

i主動をl見出していくことには多くの凶黙が洋

うのは:¥Ef象iこ言11くないc ))11えて,ハ吋イ人組

会において想像されるつ権」ベJ 、持凶後の

市tfl;告は つではなく,王権問復にむげてハワ

イ人のコンセンサスは形成されていないー

おわりに

ハワノ IO/Jj転夜l()O同年行事 オニバア l

が「F催された日93午からほぼ20{['が経ったハ

カ ラ予ーフイ ハワイイキネイション オ

ブ ハワイイなどヲ 19品。年代後、↓ーから1990年

代を通Lて主権運動の巾心にいた民間の運動

体は 組織として実質的に解体してしまって

いるかヲそうでなくてもかつてのぶうな村会

的生発言}Jを失コてし,.?,),_, :$;'~~;)J を持 J てい

た此院南体のピ yグブレ h ヤ.. Iヨ持frを降

り, ;-~わっ, ,紋々な運動体がそれぞれの主

義セ張奇掲げて{活動会展院しているというり

刀¥ハリイ人 i持通勤の現(iだと百えるだろ

うにJ だが向「包家 l もLくは村正;組織という

将制iみを作り上げることによって 土権 歩

lllii買しようと「る彼らの試みは.ヰ、 Jゼその日

11';を注!止していない J

この20年間で i権巡動のフ1---1'ーが入れ

評わる巾,依然こして泌響力を持ち続けてい

るのが O[[Aである ヱモ?干のt世らの;モ小する

戦時的計i向は?文化の永続.土池基盤の保持ラ

自治維織の議;L経済的円、? 政育と健康の

改持をそのElI号、としているい斗)興味を引くの

は, 土権 (SOVf'I"elgnty)_j という百奈が巧み

に避けられ れ;わり;こ:-empowering 権限

付与u や Istrcn只thcning 強化! という高

梁が月刊、られている点?ある かつては「主

41) OIIA TJ'2lilO午:こ先行したパンフレッ], 011/1: Emμ山 rI!I[j11叫山iiafls,Sfrenglhening llllwai'i: 2010

お 18.Strateg/c Planοt the uf百'fCοtHatl)ouan .4ffairsによる

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28 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:')

権」というマジカル・ワードで言い当てられ

ていた,ハワイ人が自らの文化, ['.地,政治,

経消を統制し主導する株利が,今や rI'.株」

左いう言葉を迂回して語られているように見

受けられる D 手垢にまみれたその百葉をmい

ずに具体的な言葉で同標を語ろうとしている

のか,それともその言葉を避けることでハワ

イ人同家の建設を目指す他の民間巡動体との

車L牒を回避しようとしているのかは,定かで、

はないC

OHAが他の民聞の運動体がl唱えるような

主権国家の建設を元より訴えていなかったこ

とを考えると (Trask1992: 254), r U存」

という用語を前面に押し「λてない現在の彼ら

のスタンスは,それほど不思L議なことではな

いのそれでもその戦略的計画においては,既

に紹介したように自治の問題が言及され,ハ

ワイ人の白治組織が辻立された院には OHA

の資産を全てその組織に譲波すると述べられ

ている。だが, OHAは,陰に口向にアカカ

参考文献(英語)

Akana, Akailω

法案を支持することはあっても,ハワイ人の

自治に向けての具体的なロードマップを示す

ことはないへかつての.i:権運動における最優

先事項であった向治組織の設立は,ハワイ人

の文化の保持,教育・健民の改者や経済の白

¥'(と横並び?で語られるのみであるの OHAが

ハワイ人の生活改主主に)Jをaぐ .hで, 自治

砕すーの問題を後回しにしている感は否めな

い。しかし,それはハワイ入社会の巾でコン

センサスを得て政治的な主権の阿佐を目指す

ことの難しさを示すものでもある。

1980年代から1990年代にかけては r主権」

と叫べば何かが変わると信じられ,叫ぶこと

で確実にハワイ人を取り巻く状況が変わった

時代であったυ21世紀も最初の10年が過ぎた

ノ'7, i主権」概念の持つ多川性とそれから導

き出される主権回復喰略の多様化が,耳とり越

えなければならない問題としてハワイ人の前

にすーちトーがっていると百えるの

1992 Light upon theルIist:A Reflection of日1isdornfor the Future Generations of Native

Hawαn,αns, Akaiko Akαna 1884-1933. Kailua-Kりna:Mahinaドroductions.

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1996 Unconquerable Rebel: Robert W Wilcox and Hawaiian Politics, 1880-1903. Niwot:

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