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マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて―― 伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて―― -162- マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて ―― 伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて―― 井 上   康 INOUE Yasushi 〈はじめに〉 2005年9月に刊行された伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ― ―』(NTT 出版)は,マンガ批評・マンガ研究の世界にとどまらない反響を呼んだ。雑誌『ユリ イカ』は2006年1月号で「マンガ批評の最前線」という特集を組み,当書を中心的に取り上げ た。 (1) 当書がマンガ批評・マンガ研究の新しい地平を開き出したことは確かである。その副題 に「ひらかれたマンガ表現論へ」とあるように,それは,マンガ世界に内在した批評・研究の 水準を押し上げることを通して,マンガ世界以外の諸々の世界との対話・論争の舞台を創り上 げていく端緒となった。本稿は,この対話・論争の舞台を築き上げていくための一つの試みで ある。 〉マンガ批評・研究に於ける当書の意義と本稿の位置 従来のマンガ批評・研究の系譜に当書をどのように位置付けるのかという問題があるが,本 稿ではそれについては触れない。本稿で述べたいのは,当書が今日のマンガ表現のある先端の 在り様の特質を明らかにしたという点である(ここで今日のマンガ表現の先端とは一体何かと いうことが問題になるが,取り敢えずここではそれを陰 イン プリ シット に措いておくこととし,〈〉で 再度,直接触れることとする)。当書がこれを何によって成し得たかと言えば,〈キャラのキャ ラクターからの分離・自律化〉という画期的な鍵概念によってである。つまり当書は80年代後 半に生じたとするマンガ世界の切断的変容に注目し,それ以降のマンガ諸作品,しかもその切 断を作り出したとみなされる一連の作品からその鍵概念を析出したのである。だが伊藤は,今 日的なものを表示するこの画期的なキャラ概念を,超歴史化し,キャラに 前 プロト キャラクター態 なるものを重ね合わせ,キャラの持つリアリティが隠蔽されることによってキャラクターの成 立―マンガの近代の成立があったという歴史過程を考え,〈キャラ/キャラクター〉区分を歴

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マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて――伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて――-162-

マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて――伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて――

井 上   康

INOUE Yasushi

〈はじめに〉

2005年9月に刊行された伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ―

―』(NTT出版)は,マンガ批評・マンガ研究の世界にとどまらない反響を呼んだ。雑誌『ユリ

イカ』は2006年1月号で「マンガ批評の最前線」という特集を組み,当書を中心的に取り上げ

た。(1)当書がマンガ批評・マンガ研究の新しい地平を開き出したことは確かである。その副題

に「ひらかれたマンガ表現論へ」とあるように,それは,マンガ世界に内在した批評・研究の

水準を押し上げることを通して,マンガ世界以外の諸々の世界との対話・論争の舞台を創り上

げていく端緒となった。本稿は,この対話・論争の舞台を築き上げていくための一つの試みで

ある。

〈蠢〉マンガ批評・研究に於ける当書の意義と本稿の位置

従来のマンガ批評・研究の系譜に当書をどのように位置付けるのかという問題があるが,本

稿ではそれについては触れない。本稿で述べたいのは,当書が今日のマンガ表現のある先端の

在り様の特質を明らかにしたという点である(ここで今日のマンガ表現の先端とは一体何かと

いうことが問題になるが,取り敢えずここではそれを陰イン

伏プリ

的シット

に措いておくこととし,〈蠧〉で

再度,直接触れることとする)。当書がこれを何によって成し得たかと言えば,〈キャラのキャ

ラクターからの分離・自律化〉という画期的な鍵概念によってである。つまり当書は80年代後

半に生じたとするマンガ世界の切断的変容に注目し,それ以降のマンガ諸作品,しかもその切

断を作り出したとみなされる一連の作品からその鍵概念を析出したのである。だが伊藤は,今

日的なものを表示するこの画期的なキャラ概念を,超歴史化し,キャラに前プロト

キャラクター態

なるものを重ね合わせ,キャラの持つリアリティが隠蔽されることによってキャラクターの成

立―マンガの近代の成立があったという歴史過程を考え,〈キャラ/キャラクター〉区分を歴

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史貫通的なものへと普遍化してしまう。こうして伊藤は,折角導出したキャラ概念の今日性を

曖昧にし,その鋭さを喪失させる。

本稿は,伊藤のキャラ概念の批判的考察を通じて,キャラ概念が今日の時代の特質を表わす

〈超〉記号であり,しかもそれが今日の我々の〈生〉の在り様を反射するものであることを,

東浩紀の“人間の〈生〉の確率的な在り様”という概念との接続可能性によって示すものであ

る。これによって伊藤剛,東浩紀,夏目房之介,大塚英志らの議論に現われたある種のすれ違

いの何たるかを明らかにし得るものと思われる。

〈蠡〉〈キャラのキャラクターからの分離・自律化〉,この画期的な概念

伊藤が〈キャラのキャラクターからの分離・自律化〉ということを一体どのような事態とし

て捉えているのか,まずはその確認から始めよう。伊藤は原一雄作品『のらみみ』(2003年~)

を例にとりながら言う。

「テクストの内部において,キャラが蹇物語蹉から遊離すること。そして,個々のテクス

トからも離れ,キャラが間テクスト的に環境中に遊離し,偏在することを,蹇キャラの自律

化蹉ととりあえず呼ぶことにしよう。[中略][引用文中の[ ]部分は,この部分も含め

て引用者による。以下同じ]/蹇自律化蹉の進行は,間テクスト的に遊離した蹇キャラ蹉

の存在を,あたかも現実の事物のように描きうるという事態をもたらした。」(2)

この自律化したキャラが,では一体どのような特質を持つのか,それについて読者の側に目

を転じて伊藤は言う。

「目を八〇年代以降に戻せば,人々は,マンガの蹇読み蹉の快楽において蹇キャラ蹉のレ

ヴェルを中心に自足できる群と,テクストの背後に蹇人間蹉を見てしまう,つまり蹇キャ

ラクター蹉としてしかマンガを読めない群とに分かれることが見てとれる。/[中略]お

そらく,蹇キャラ蹉のレヴェルの読みが可能な前者の群は,蹇キャラクター蹉としての読み

も可能としており,テクストの種類や機会に合わせて自在にスイッチングを行っているよ

うに見える。一方後者の群は,蹇キャラ蹉のレヴェルの読み,すなわちテクストの背後に

蹇人間蹉を見ないという読みはまったくできない[中略]ようである。[中略]/さらに後

者の群は,マンガというテクストの背後には,どんなときにも蹇人間蹉がいるということ

を自明な前提としているがゆえに,妖怪やロボットのような蹇非蹉人間的なキャラクター

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が登場したとしても,それは蹇人間蹉の延長であると解釈する。」(3)

このマンガ読者世界に生じた区分は,当然マンガ世界に生じた分界,即ちキャラがキャラク

ターから分離・自律化するという事態に対応している。キャラクターというものは,あくまで

作品に内在し,そこでの〈生〉を持ち,それが動物であれロボットであれ,人間化されて捉え

られるものであるのに対して,キャラは作品から遊離しうるものであり,他の諸々の作品(パ

ロディ化されたものなど)へと転移できるものであり,作品に固定された〈生〉,つまり物語ストーリー

の中ではじめて成り立つ人間化された〈生〉を持たない,つまり〈脱―超〉人間化したものと

して存在するということである。

キャラクター:人間としての,あるいは人間化された〈生〉をもち,あくまで作品内で存在

するもの,

キャラ:〈脱―超〉人間化された「生」をもち,作品から遊離・浮遊することもできるもの,

という区分が生じたということである。ここから更に伊藤は次のような重要な指摘をしてい

る。

「『のらみみ』の作中世界では,蹇人間蹉と蹇キャラ蹉は明確に区別されている(たとえば,

子供たちが秘密基地ごっこをする際,蹇キャラ蹉は排除される)。しかし,描画コードのレ

ヴェルでは,蹇キャラ蹉と蹇人間蹉の区別はつけられていない。読者である私たちは,

蹇キャラを描いたキャラ蹉と蹇人間を描いたキャラ蹉の見分けはできないのである。よう

は,『のらみみ』に登場する蹇人間蹉たちが,蹇現実の身体蹉を表象しているという確たる

保証もまた,得られないのである。」(4)

この指摘は非常に重要である。マンガ世界の中で,図像上は他でもなく“人間”であったと

しても,それがもはや“人間”を表わしているとは限らないという事態が今日のマンガ世界に

生じている,というのである。つまり,従来のマンガ表現からすれば,キャラクター以外の何

者でもないものでさえ,“人間”を表示しない,あるいは背後に人間的なものの存在を前提し

ない可能性があるということを指摘しているのである。キャラがキャラクターから分離・自律

化したことによって,キャラクターがある意味でキャラ化されるということである。これが,

伊藤が導き出したキャラなるものの内実である。この点について伊藤はあまり突っ込んだ考察

をしていないが,これは重要な・突きつめて分析すべき問題である。だが話しを急がないよう

にしよう。まずここで注意。〈脱―超〉人間化されたものとしてのキャラというと,何かしら

キャラなるものが無機質なものと捉えられかねないが,しかしそれは決して無機質なものであ

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るわけではない。先の引用で伊藤が指摘した「キャラ」の読みが可能な読者にとっては,キャ

ラは決して無機質なものではないのである。伊藤は言う。

「『のらみみ』に登場する蹇キャラ蹉たちは[中略]テクストの背後にある蹇人生(のよ

うなもの)蹉がたしかにある。そのためのエピソードは丁寧に重ねられている」(5)

ここで言われている「人生(のようなもの)」というものは,従来のキャラクターに表示さ

れた,あるいは背後に措かれた〈人間〉あるいは〈人間化されたもの〉では決してない。この

点の区分はきわめて重要である。それはあくまで「人生(のようなもの)」である。だがこの

点の分析はここでとどめて先に進むことにする。

このような独特の,これまでのマンガの歴史にはなかった「生」を持つキャラたちに,かの

キャラ読み可能な読者達は容易に感情移入することができる。伊藤は次のような事実を指摘し

ている。

「[『のらみみ』の]掲載誌である『IKKI』(小学館)の欄外に掲載された読者からのコメ

ントは,蹇仕事でつらい事があったけど『のらみみ』で癒された。ありがと。蹉(24歳・男

性)蹇いつも感動をありがとう邇蹉(22歳・女性)(『IKKI』2005年1月号)といった素朴な

感想に彩られている。」(6)

これらの事実に対して伊藤は次のような解釈を施している。

「編集部側の意図的な選択も匂わせはするが,普通に感情移入をして,普通にストーリー

を楽しむ読みが先行していることを示している。けっしてメタレヴェルの視点が導入され

ていることや前衛性が評価されているわけではない。[中略]重要なのは,メタレヴェル

の視点の導入ではなく,それが意識されない/する必要がないことのほうなのだ。それほ

どまでに,私たちが蹇キャラ蹉の存在に親しんでしまっていることが,ここでの意味であ

る。」(7)

要するに,キャラが既に社会的に定着しているということである。

キャラクターから分離・自律化したキャラとは以上のようなものであり,そのようなキャラ

を受容するということは以上に見たことである。このことをもっと詳しく分析してみよう。

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〈蠱〉キャラ,このきわめて今日的なるもの

キャラクターから分離・自律化したキャラに集約的に表示された今日のマンガ表現の先端的

な在り様,それを分析した伊藤の業績に,今日の社会のいわゆるポスト・モダン状況について

考察を続けてきた東浩紀が,強い関心を示したことは当然であった。東は,伊藤の〈キャラ/

キャラクター〉の区分に〈データベース/物語〉という区分を対照させているが,そしてまた,

ライトノベルを例に持ち出して,キャラを脱図像化して把握すべきことを強調しているが,(8)

雑誌『ユリイカ』2006年1月号の鼎談で見る限り,議論がそれほどうまく噛み合っているとは

思われない。とくに東が何度も強調するキャラの脱図像化については明らかにすれ違いがある。

これには双方の抱える内的な問題があるが,より一層高い地平でより深い議論をなすためには,

東は自らの主著『存在論的,郵便的――ジャック・デリダについて――』(9)で追究した“人間

の〈生〉の確率的な在り様”というものを議論の俎上に乗せるべきであった。伊藤が,〈キャ

ラ/キャラクター〉区分に,〈キャラ読み可能な読者/キャラ読み不能な読者〉区分を対応さ

せて考察していることに対して,東もまた〈データベース/物語〉区分に,“人間の〈生〉の

確率的な在り様”の問題を対応させ,その上で伊藤の議論に応対するべきであった。東は先の

鼎談で,もっぱら『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会――』(10)の内容に

拠りながら伊藤に応対しているが,そして,東が言うように,〈キャラ/キャラクター〉区分

に〈データベース/物語〉区分は対照させ得るに違いないではあろうが,それを単に対照させ

ることだけからは,ある何か肯定的・積極的なものが開き出されるとはあまり考えられない。

『存在論的,郵便的――ジャック・デリダについて――』で,“人間の〈生〉の確率的な在り様”

というものを,あくまで肯定的なものとして捉え,開き出すことを追求していた東であるが,

『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会――』ではそうした肯定性への希求が

稀薄である。伊藤が“キャラ―キャラ読み可能な読者”に積極的肯定的なものを見ようとして

いる,(11)そのところで議論を噛み合わせる必要があるということからしても,東は“人間の

〈生〉の確率的な在り様”を議論の場に投ずる必要があった。もちろん積極性・肯定性という

ときのその内実が一体どのようなものかが問題であり,単に表相上の同型性に依りかかるわけ

にはいかないが,単にそのような消極的な理由だけではない内容上の理由があるのである。伊

藤が導出した〈キャラ/キャラクター〉,〈キャラ読み可能な読者/キャラ読み不能な読者〉に

関する議論の進展に対して,東の言う“人間の〈生〉の確率的な在り様”というものが,決定

的な槓杆となると考えられるのである。では,“人間の〈生〉の確率的な在り様”とは一体ど

のようなものか,そしてそれは伊藤が析出した諸概念にいかに作用し得るのか。

この議論に入る前に,前提となる作業を二つ遂行しておく必要がある。第一は,〈キャラ/

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キャラクター〉区分に関して伊藤が,キャラに前プロト

キャラクター態というものを重ね合わせ,

キャラ概念を歴史貫通的に普遍化し,そのことを通してマンガ表現世界を構造化しようとして

いる点への批判作業である。これを踏まえて第二は,キャラ概念の核心を確認することである。

これら二つの作業は,キャラクターから区分されるキャラ概念をあくまで今日的なもの・今日

のマンガ表現に於ける先端的なものを表示するものとして措定する必要があるという本稿の立

場から不可欠な作業である。

〈蠶〉伊藤のキャラ概念,この分裂した二重物

伊藤によるキャラとキャラクターの各々の定義をまず確認しておく。

キャラ:「多くの場合,比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ,固有名で名指され

ることによって(あるいは,それを期待させることによって),蹇人格・のようなも

の蹉としての存在感を感じさせるもの」(12)

キャラクター:「蹇キャラ蹉の存在感を基盤として,蹇人格蹉を持った蹇身体蹉の表象として

読むことができ.......

,テクストの背後にその蹇人生蹉や蹇生活蹉を想像させるもの」(13)

この伊藤による定義は,本稿〈蠡〉に於いて私が,キャラの今日性を押し出すために記した

区分よりも超歴史的で普遍化されている。伊藤はキャラ概念を,マンガ世界の構造化のための

鍵概念と考えている。彼は先ず,マンガ世界の三要素として〈キャラ/コマ構造/言葉〉を措

定し,これについて次のように解説する。

「通常は蹇キャラ蹉の位置には蹇絵蹉が置かれる。たしかにそのほうが形式的にマンガを

分析するにはより厳密な思考が可能になる。」(14)

「本書では[中略]蹇絵蹉を蹇キャラ蹉と置き換える。そのことにより,たとえば漫符や

描き文字,あるいは蹇背景蹉といったものの意味は見えにくくなるが,逆に得られるもの

は多いと考える。なぜなら,読者の多くは蹇絵蹉を見ているのではなく,蹇キャラ蹉の行

動や感情を蹇読んで蹉いるからである。」(15)

「私は蹇キャラ蹉という概念を蹇キャラクター蹉から分離することで,先の三要素のひと

つに置くことがかろうじて.....

可能になったと考えている。いいかえれば,蹇コマ構造蹉蹇言

葉蹉と,まがりなりにも並列に置きうるものとして蹇キャラ蹉という概念があるというこ

とだ。蹇コマ構造蹉蹇言葉蹉はともに,時間的な連続を記述する。そして,実は蹇キャラ蹉

も同様である。[中略]キャラとは蹇絵画蹉とは違い,蹇動き蹉すなわち時間的継起性を孕

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んでいる。よって,この三者は並列に並べることができる。」(16)

このように伊藤は,キャラをマンガ表現世界の基礎範疇の一つとして措定する。ここで問題

がある。キャラ概念をキャラがキャラクターから分離・自律化する以前の段階に適用するとき

の問題である。伊藤は明らかにキャラクターから概念的に区分されるキャラ概念を,彼がマン

ガ世界に於ける切断線があるとする1980年代後半より以降のマンガ世界の分析から導いてい

る。である以上,キャラがキャラクターから分離・自律化していない段階にキャラ概念を本当

に適用できるのかの検討が必要なはずである。伊藤はこの作業を明示的にはやっていない。彼

は,キャラがキャラクターから分離し自律化した地平から,そこへと至るマンガ世界の歴史過

程を反省的に遡行することによって,キャラ概念を歴史貫通的に超歴史的なものとして普遍化

したのである。だがこのままでは,理論上で概念として措定されただけの思惟物にとどまって

いる。ところがそのようには見えないで,キャラの存在性が感じられるのは,キャラがキャラ

クターから分離・自律化していないときには,キャラはキャラクターのもとに一体化あるいは

溶融化していることになるわけで,キャラクターの存在性にキャラの存在性を仮構するからで

ある。キャラなるものが,マンガ世界に一貫して存在し続けてきたものであると論証すること

は不可能であるように思われる。

しかもここで伊藤は,いかにも巧妙な論理を立てる。キャラクター成立以前の段階に前プロト

キャラクター態というものを置き,それがキャラだとし,その前プロト

キャラクター態としてある

キャラの持つリアリティが隠蔽されることによって,キャラクターの成立があったと言うので

ある。ある種の近代的な人格性を持つキャラクターの成立によって,マンガ世界の近代が始ま

るわけだが,これがキャラのリアリティの隠蔽を引き換えにしていると,伊藤は主張する。手

塚治虫の『地底国の怪人』(17)を例にとりながら言う。

「『地底国の怪人』がまさしく徴候的なのは,[中略]まずプロトキャラクター性が強調さ

れ,しかる後にそれが蹇隠蔽蹉されるという構造を持っているためだと私は考えている。

耳男は,まず蹇キャラ蹉として現れ,作品が幕を閉じるとともに蹇キャラクター蹉となっ

たのだ。そして,この構造が,耳男をあたかも最初から........

蹇キャラクター......

蹉であったかのよ.......

うに..認識させているのである。」(18)

「耳男の蹇死蹉によってもたらされたものとは何か。/それは,蹇キャラ蹉の強度を覆い

隠し,その蹇隠蔽蹉を抱え込むことによって蹇人格を持った身体の表象蹉として描くとい

う制度だと考えられる。マンガ表現は,耳男の蹇死蹉とともに,プロトキャラクター性の

強度を見失ったのである。プロトキャラクター性は現在に至るまでずっと存在し続けてい

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る――それなしにはキャラクターは成立しないのだから――にもかかわらず,それは否認

され続けてきた。[中略]/またこれは同時に,狭義の蹇マンガのモダン蹉の起源でもある。

であれば,マンガのモダンとは,自身の起源を否認し,隠蔽することで成立していること

となる。」(19)

ここで先ず問題なのは,前プロト

キャラクター態がキャラだとされている点である。なぜそう言

えるのか,伊藤は詳しい説明をしていないが,ここで先に示した伊藤のキャラの定義が用いら

れていることは間違いなかろう。キャラクターの定義にある「人格」に対して,「人格・のよ

うなもの」という規定である。この曖昧さに依りかかっているのである。しかも伊藤は,耳男

が最後の場面で「ぼく人間だねえ…」と言って死ぬことによって一個の人格を持ったものにな

り,耳男がキャラクターになったと言うのであるが,人格という概念をあまりにも恣意的に使

い分けている。更に,キャラクター成立後ではキャラのリアリティは隠蔽されていると伊藤は

言うのであるが,いかに前プロト

キャラクター態に重ね合わされているとしても,キャラはあくま

で分析的思惟によって立てられた観念像でしかないのであり,そうである以上,リアリティを

喪失したものの存在性を探るなどということはできない相談である。

私が見る限り,耳男ははっきりと人間化されており,人格を持っているのであって,キャラ

クターとしか言いようがないものである。だが,伊藤は直ちにこう言うであろう。「あなたの

ような判断を何故してしまうのかを私は指摘したのだ。だから言ったではないか。私の言う隠

蔽の蹇構造が,耳男をあたかも最初から『キャラクター』であったかのように認識させている

のである蹉」と。まさしくこうなるところに,伊藤の論理のカラクリがある。A(キャラ)は

B(キャラクター)の成立と同時にその下に隠蔽された(言うなれば,構造主義の所謂ゼロ記

号化)。だからこの隠蔽がなされた後では,人はBがはじめからあったかのように見えるのだ,

つまり後知恵でそうなのだ,と。だが第一に,もともとAがあったこと,そして第二に,その

AがBの下に隠蔽されたということをいかなる現実的根拠から伊藤は認識できたのであろう

か。

キャラクターの下に,キャラの存在を理論上の仮説として措くことはもちろん可能である。

だが思惟物でしかないキャラのリアリティが隠蔽されたと主張する限り,この理論上の仮説を

論証する道を自ら封じたことになる。ここから伊藤はマンガの歴史に於けるコマ構成(コマ構

造)や言葉の扱い方の大きな進展という現実に立ち戻り,それを説明すべく,「自らのリアリ

ティの源泉に対する否認が,別のリアリティを渇望させた」(20)として,マンガ世界の三要素

のうちのコマ構造と言葉にリアリティが求められることになったと言う。

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「マンガ史上のある時点で,蹇キャラ蹉が持つリアリティは隠蔽された。/[中略]/リア

リティの媒介/生成という観点から見て,蹇キャラ蹉が担っている機能が隠蔽されたとす

るならば,その代償がほかに求められるはずである。それが残ったふたつの要素,蹇コマ

構造蹉と蹇言葉蹉であることはすぐに理解されるだろう。」(21)

“キャラのリアリティの隠蔽”と“コマ構造,言葉へのリアリティの要請”という二つの命

題が「だから」という論理関係を表わす接続詞によって結ばれていることになる。論理的にこ

れは正確であろうか,そして更に言えば,正しいであろうか。

以上のような,いささかアクロバティックな論理構制(22)にいたるのは,やはり最初の理論

仮説である,キャラをマンガ世界全体の基層に措くことからきている。キャラをマンガ世界の

歴史に一貫して存在するものとするのではなく,前プロト

キャラクター態はキャラとは違ったもの

として,〈前プロト

キャラクター態→キャラクターの成立→キャラクターとキャラとへの分離,キャ

ラの自律化〉という過程を考えるべきではなかろうか。伊藤が剔抉したキャラというものの今

日性,その重要性を押し出すためにもそれが必要である。だが,伊藤にとっては,マンガ世界

の基礎範疇内の最も中心的な核となるものとして,キャラをマンガ世界の基層に措くことが,

しかも,その隠蔽,言わばゼロ記号化したものとして基層に描くことがどうしても必要だった

かに見える。なぜかと言えば,キャラをそのように措定することによってこそ,伊藤にとって

は,マンガ世界全体が構造化され得たからである。だがここに,構造主義―ポスト構造主義の

呪縛を見るのは私だけであろうか。

結局,伊藤のキャラ概念は二つに分裂しているのである。一つは,今日的なものを鋭く指し

示すそれであり,他は,超歴史化され歴史貫通的にマンガ世界の基層に措かれた構造化の核心

としてのそれである。(23)

マンガ世界には,そしてそれをマンガ表現世界・マンガという一つの言語世界として捉えた

場合には,そこには展開・発展があり,また後方への飛躍もあり,成熟があり,また縮退もあ

り,要するに厳として歴史がある。キャラクターから分離・自律化したキャラなるものを,他

でもなくある歴史上の水準を表わすものと明確に規定することが求められるのではなかろう

か。

〈蠹〉キャラ,この〈超〉記号存在

伊藤が剔抉したキャラクターと区分されるキャラなる概念は,マンガという言語世界を考え

るときに,そしてそこから種々の言語世界との関係を考えるときに,更にまたマンガ世界に反

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射された今日の人間―人間社会を考えるときに,きわめて重要な概念である。だがその何たる

かを分析するためには,伊藤のようにキャラをマンガ世界に歴史貫通的にあるものとするので

はなく,あくまで今日的なものとして押さえることが必要である。だから以下では,いままで

伊藤の規定に則して〈キャラのキャラクターからの分離・自律化〉としてきたものをもう少し

正確に〈キャラクターのキャラとキャラクターとへの分離,キャラの自律化〉と言うことにす

る。もともと存在していたキャラが,一旦キャラクターの下に隠され,そこから再び表に登場

したというのではなく,キャラクターが内的契機の成熟によってキャラとキャラクターへと自

己を二重化し分離したと考えるのである。

キャラを,きわめて今日的なものとして厳密に規定しようとするのは,キャラが,マンガ言

語世界が生み出したものでありながら,従来の記号存在から飛躍を遂げた,それ故にまさしく

今日の時代を表示する〈超〉記号とでも言うべきものとして存在しているからである。それは

どういうことか。

マンガ言語世界に於ける諸記号について,マンガ世界の諸要素――絵,言葉,コマ,効果線

や集中線,オノマトペやそれに類するもの等々――を記号だと考え,マンガ世界をそれら諸記

号の集積と考えることがごく普通になっている。例えば夏目房之介は言う。

「マンガの絵もコマも言葉も,すべて記号だといえばいえるのです」(24)

「マンガは,こうした様々なレベルの記号的な絵の働きの体系としてもとらえることがで

きます。そうするとマンガを言語一般と同じように,常に変化はするが,ある程度決まっ

た役割をお互いにもった記号の体系として考えることもできます。」(25)

記号の内実をどのように考えるかは別として,また,マンガ世界がただもっぱら記号によっ

て成り立っていると考えるかどうかは別として,マンガ世界が種々様々の記号で溢れていると

考えることはまったく常識となっている。だが私はこの立場をとらない。記号概念をこのよう

に用いるのは,日本で言えば,1970年代初めから1980年代中頃にかけての記号論の流行とその

後に対して,あまりにも無反省的であり,間違った用法だと考えるからである。

記号というものについて考え論じるとき,それらの記号を生み出し,また支えている当該の

言語世界についてきちんと踏まえることが問われる。(26)だからマンガ世界に於ける記号を

云々するときには,マンガ言語世界という一つの言語世界を明確に対象として措定しておく必

要がある。(27)マンガ世界を捉えようとするとき,マンガ世界を諸記号の集積と考えてしまう

のは,マンガという独特の言語世界をまず措定し,その言語世界が生み出す記号を考えるとい

う手続きを経ることなく,普通の言語世界から直接にマンガ世界を見てしまうからである。(28)

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マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて――伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて――-172-

記号は,一言語世界の運動・展開上で,可算化のある一定水準を絶対的な条件として,限定さ

れた場において生成するものであり,その限定場で動くものである。だからこそ記号は操作主

義的に扱い得るものとなり,その限定場できわめて有効に機能する。だがそれは,あくまで記

号がそれを生み出した言語世界全体に支えられているからである。記号はある条件の下で生ま

れるが,しかし記号として機能し得なくなれば,記号としての在り様を捨て,もとの言語世界

の言葉に立ち戻ることになる。言語は,そしてまた個々の言葉もそうであるが,あくまで概念

を持ち,それを通じて対象世界(―自然・社会)を呼吸する。これに対して記号は概念から切

り離されることによって可算化の度合いを強め,ただ意味を,意味だけを持つ。このように概

念から剥がれ,可算化の度合いを強め,いわば身軽になることによって記号は,機能主義的な

操作対象となり得るのであり,当該記号が生み出された限定場できわめて有効に働くのである。

これは〈マンガ言語世界―マンガ諸記号〉に於いても同様である。マンガという独特の一言語

世界が,ある限定場に生み出す記号の運動をその限定場の弁証法として把握する必要がある。

マンガ世界を語る論者の多くが記号だと考えているものの大半は,記号ではなくマンガ言語世

界の言葉である。(29)

ところが,伊藤が剔抉したキャラなるものは,このような記号の在り様を超越しており,

〈超〉記号というべきものとなっている。キャラは〈マンガ言語世界―マンガ記号〉関係から

剥離している。それは元の作品から離脱し,他の諸作品に乗り移り,またマンガ世界からも遊

離し遊泳し,しかも〈脱―超〉人間化している。東浩紀はこの事態を次のように描写してい

る。

「作品があって,その周りに二次創作やメディアミックスがあるわけではない。最初に二

次創作やメディアミックスの空間があって,そのなかに作品は浮いている。それがキャラ

の位相ということですよね。」(30)

作品よりも,二次創作やメディアミックスの空間の方が先にあるという指摘は正しい。

では,〈超〉記号としてのキャラとは何か。

〈蠧〉〈超〉記号存在としてのキャラ,この〈未来〉を孕むもの

なぜキャラのような〈超〉記号が生み出されたのか。マンガ言語世界に何が生じたのか。マ

ンガ言語世界に於けるある限定場の形成,そこでの記号の生成と運動という機制とは別の何か

がマンガ言語世界に生じたということである。

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京都精華大学紀要 第三十二号 -173-

先の引用で東は,「最初に二次創作やメディアミックスの空間があって,そのなかに作品は

浮いている」と述べていたが,二次創作やメディアミックスの空間全体がキャラのような〈超〉

記号世界ではないので,他でもなく〈超〉記号―キャラの空間に限定し,それを生み出す世界

―ある社会的意識空間をここでは考えることとする。この世界は,マンガ世界,アニメ世界

等々のある部分を横断的に捉え,かつそれ自体としては元の諸世界の社会的意識空間からは区

分され,自存する世界であり,決して一つの(単一の)世界ではなくて,いわば〈超〉記号―

キャラ毎に成り立ち,幾つも並列的に存在する世界である。かくしてそれらは決して固定的で

はなく,不断に生成し消滅する諸世界である。これらの世界がそれぞれ〈超〉記号―キャラを

生み出し,維持・再生産し,マンガ世界,アニメ世界等々に反作用する。だからそれらの世界

が結び付くマンガ世界,アニメ世界等の“ある部分”もまた,単一の・固定した部分ではなく,

先の世界毎にそれぞれ存在し,生成・消滅する。

こうした独特の世界,〈超〉記号を生み出す社会的意識世界を,〈超〉記号化世界と取り敢え

ず呼ぶことにする。これらの世界の大きな特徴は,マンガ世界等々がそれぞれ特有の言語世界

として対象世界(―自然・社会)に接触し,概念を通して対象世界を呼吸するのに対して,対

象世界から切り離され,概念を持たない世界だという点である。それらの世界は,キャラク

ターからキャラを分離し,創り出す等の形で〈超〉記号を生み出すとはいえ,あくまで〈超〉

記号―キャラに媒介されてはじめて存在し得る観念的な社会的意識世界である。だからこれら

の世界が生み出した〈超〉記号―キャラは,一般の記号のように言語世界によって支えられて

はおらず,諸表現世界を浮遊する。従ってまた一般の記号が,それを生み出した言語世界のあ

る限定場に規定された特定の意味を持つのに対して,〈超〉記号は特定の意味を持たず,意味

の上でも遊泳する,もしくは意味を求めず,意味それ自体を持たない。(31)

さて,〈超〉記号化世界に捉えられた,例えばマンガ世界のある部分について見ると,それ

は言語世界としてはある種の変質を受ける。先に述べたことだが,そこではキャラクター以外

の何者でもないものでさえ幾分かはキャラ化する。換言すれば,その部分全体が,言語という

よりいささか記号化し,対象世界からの剥離を引き起こす。その部分的なマンガ世界―マンガ

作品世界は幾分か〈脱―超〉人間化した世界,人間の〈生〉から剥がれた世界へとズレを引き

起こす。こうしたマンガ世界のある部分世界,これこそ,〈蠢〉で陰イン

伏プリ

的シット

に措いておいた今日

のマンガ世界の“先端”である。先端とはつまり,キャラクターではなくキャラを生み出すマ

ンガ世界のある部分のことだ。

キャラは,たとえそれが人間の姿をしていたとしても,人間としての〈生〉から剥がれ,

〈脱―超〉人間化されたものであった。伊藤によれば,それはあくまで「蹇人格・のようなもの蹉

としての存在感を感じさせるもの」であった。これはどういうことか。伊藤は『のらみみ』か

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マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて――伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて――-174-

ら更に相田裕作品『GUNSLINGER GIRL』(月刊『電撃大王』2001年~),荒川弘作品『鋼の錬

金術師』(月刊『少年ガンガン』2001年~),浦沢直樹作品『PLUTO』(『ビッグコミックオリジ

ナル』2003年~)を例に取りながら次のように言っている。

「[『GUNSLINGER GIRL』の]蹇キャラ蹉たちは,自分の蹇感情蹉が植えつけられた偽物

だと知りながら,それでも蹇いま,ここ蹉で生じる感情を蹇かけがえのない蹉,唯一のも

のとして慈しんでいるのである。たとえ蹇私蹉という主体は偽モノであったとしても,

蹇感情蹉は唯一無二のものだということだ。よって,これを蹇本物蹉と区別することはで

きない。/このことは,私たち読者が蹇キャラ蹉に接するとき,私たちの蹇読み蹉のうち

に生じる感情が,たとえ蹇マンガのおばけ蹉=現実に根拠を持たないイマージュ=亜人間

[つまりキャラ]に対するものであったとしても,それそのものは蹇いま,ここ蹉に確実

に存在する蹇本物蹉であることを,鏡像のように映し出す。いいかえれば,蹇キャラ蹉と

いう装置が,身体や近代的な主体を必ずしも表象していなくとも,少なくとも蹇感情蹉だ

けは表してしまえることを私たちにつきつける。[中略]/蹇マンガのおばけ蹉[キャラ]

とはつまり,身体を欠いたまま感情だけを純粋に媒介/生成するものと考えることもでき

るだろう。」(32)

人間そのものを表現したもの(キャラクター)と人間のようなものを表わすキャラとを区分

する指標は,身体性にあるということだ。人間としての身体性を欠くものとしてキャラがある

というわけだ。人間としての身体性を欠いたものでありながら,キャラは少なくとも感情だけ

は持ち,読者の側へと「感情だけを純粋に媒介/生成するもの」だと言うのだ。ただ感情に関

してはいささか微妙な問題がある。感情の質,幅,振幅,深さや広さ等がいかにも曖昧だから

だ。例えば伊藤が引いている『のらみみ』の例では,キャラが「へ?」「だっておいらキャラ

だもん。」「恋愛感情なんてあるわけないじゃん…」とつぶやいている。(33)このキャラは,少

なくとも恋愛感情は持ち得ないようだ。感情の問題については後に立ち返ることにする。身体

性の問題を考えよう。

人間としての身体性を欠くとは一体どういうことか。まず確認しておきたいことは,それが

写実的な身体を表現しているか否かの問題ではないという点だ。例えばウサギである耳男に毛

が描かれているかどうかのような問題ではないということだ。伊藤は写実的であるかどうかの

問題を強調しているが,(34)そういう水準のことですむ問題ではない。〈蠶〉で述べたが,伊藤

のキャラ概念が二つに分裂していることが,ここにも露呈している。身体性―リアリティを単

に写実的かどうかの問題に矮小化することと,キャラを超歴史化し前プロト

キャラクター態に重ね

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京都精華大学紀要 第三十二号 -175-

合わせることとは,正確に照応している。だがあくまでキャラを,きわめて今日的なものと把

握しようとする限り,身体性―リアリティを単に写実的かどうかに切り詰めるわけにはいかな

い。

人間としての身体性を欠くということは,人間の身体性がある抽象化を蒙るということだが,

ここで二重の抽象化を見なければいけない。一つは,媒介を欠いた,剥き出しの・直接性とし

ての抽象化であり,人間身体の〈モノ〉化である。ただし注意を要するが,〈モノ〉化は決し

て〈物〉化ではない。(35)あれこれの具体性を備えた〈物〉に対して抽象化された〈モノ〉であ

る。アトムは明らかに機械の人間化であるが,人間身体の〈モノ〉化は人間身体の機械化,も

しくは端的に喪失である。(36)

次いで第二の抽象化であるが,〈未来〉からの抽象化である。〈未来〉などと言うと誤解され

かねないが,時制的な将来ということではなく,現に在る今に孕まれた未来性ということであ

る。そういう〈未来性〉としての抽象性である。現実のものとしては十全には現われ出てはお

らず兆候としてしかないある何ものか,だからあくまで抽象的にしか示し得ないある何ものか

が,人間身体の欠落に於いて表現されているということである。

結局,人間身体の〈モノ〉化としての抽象化は,ある〈時間性〉の抽象化であり,〈未来〉

からの抽象化は未だ成らざる〈前-時間性〉の胚胎である。

人間の身体性の抽象化が身体の単なる〈モノ〉化に至ることは見易いことだが,この抽象化

が同時に〈未来〉からの抽象化であることを把握することは容易ではない。『のらみみ』の

キャラたちを例にとって考えてみよう。「彼」/「彼女」らはものを食う,したがって排泄はす

るのであろう。しかしセックスはしない。そもそもどのように誕生したのか全く不明であり,

死があるのかもわからないし,成長はない。言語を操ることができ,感情を持つがそれほど高

度な感情はないようであり(恋愛感情はない),高度な精神活動はあまりないようである。以

上,要するに機械ではないが擬似生命体・擬似人間であり,それぞれ偽肉体上の特技は持つが,

精神―意識活動はほとんど感情領域に限定されており,やはり〈モノ〉化している。肉体に対

しては普通,精神が対置されるが,『のらみみ』のキャラたちに於いては,人間身体の〈モノ〉

化は肉体の縮退・抽象化と同時に精神の縮退・抽象化としてもあるわけである。これはこの

キャラたちが,ただもっぱら子ども相手の存在であるところからくるようにも思われるが,し

かし伊藤が挙げている『GUNSLINGER GIRL』の例等から考えると,やはりキャラの精神は感

情に縮退していると思われる。しかも感情のうちでもきわめて人間的な感情,例えば恋愛感情

は持ち得ないようだ。(37)感情というものは意識―精神活動ではもっとも肉体に近い領野にある。

こう見てくれば,人間身体性の剥離は,端的に,媒介を欠いた・剥き出しの・直接性としての

抽象化,すなわち〈モノ〉化なのである。(38)では,〈未来〉からの抽象化はどう表出されてい

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るのか。

『のらみみ』について言えば,この世のどこにも「生きたもの」としては存在しないキャラ

なるものの在り様,そしてあり得ない世界のことであるという設定にその〈未来性〉は示され

ていると言えなくはないが,そういうことではない。『のらみみ』のキャラたちは子どもを相

手として生活を共にする・子どもの.キャラであり,しかも必ず“別れ”があり(子どもが子ど

もでなくなると別れなければならない),また新たな子どもの.キャラになるということを繰り

返す。まさしくそこに〈未来〉からの抽象性が表わされているのである。キャラたちは固定し

た・確たる「人格」を持たない。またキャラたちはそれぞれ特技を持ち,特有のキャラ性を持

つが,しかし人間の個性に当るものは持たない。子ども達の〈生〉に合わせ,子ども達の様々

の要求に対応しつつ存在する。人格のようなものを持ちながらそれは常に揺らいでおり,固定

的ではない。一見すると,否定的なこの抽象的な在り様に,未来性としての抽象化がある。ま

さしくここに,東浩紀の言う“人間の〈生〉の確率的な在り様”を考え合わせることができる

のである。

〈蠻〉キャラ,この人間の〈生〉の確率的在り様を反射したもの

東浩紀は自著『存在論的,郵便的――ジャック・デリダについて――』に関して次のように

述べている。

「第一章の元原稿は九四年に書いたんですが,当時僕の指導教官だった高橋哲哉氏が,そ

れを読んで,蹇東くんの問題意識は,アウシュヴィッツで人間が数字に還元されてしまう

ということとどう違うんだ?蹉と尋ねられたんですね。僕は当時はそれに答えられなかっ

た。しかし,僕が何となく思っていたのは,そこで蹇確率的蹉と呼ばれている状態,つま

り,人々が固有性を剥奪されて偶然性を意識せざるをえない状態というのは,決して単純

に否定されるべきものではないということだったんです。だから,蹇個人が数に還元され

る蹉という要約をされると,それは違うと感じた。[中略]/さらに,『存在論的,郵便的』

は僕の博士号請求論文でもあるので,九九年の春に博士論文審査というのがありました。

そこで今度は,鵜飼哲氏にも同じことを聞かれたわけです。東さんの蹇確率蹉という言葉

はひっかかる,というのも,この言葉は交換可能性を連想させるが,交換可能性とはデリ

ダがもっとも抵抗した概念ではないか,と。つまり,なぜ僕が確率=交換可能性を肯定的

にとらえようとするのかわからない,と言われた。」(39)

「一方において,主体としての人間にひとりひとり固有性があって,その固有性が剥奪さ

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れて数にまで還元されてしまう,それを否定的にとらえるのが一般的である。そこでは単

独性と固有性はほぼ同じで,確率はその対極にある。/しかし,他方で僕は,それとは異

なったかたちの主体のあり方を考えたい。[中略]偶然的な蹇私蹉,いつ他者になってし

まうかもしれない存在としての蹇私蹉です。私を蹇私蹉にする主体的な刻印,ラカン風に

言えば蹇トレ・ユネール(一なる刻印)蹉が刻まれた蹇私蹉だけではなく,その裏側に,

いつもつねにすでに誰かと交換可能になっているような存在,弱い受動的な蹇私蹉がある。

僕はこれを確率的な状態と呼んでいる。そしてそれこそが,僕の考えでは,デリダがあえ

て単独性と固有性を分けるとき,固有性に対立するものとしての単独性として考えていた

ものなのです。」(40)

長々と引用してきたが,東の主張の“新しさ”は明らかである。従来の考え方ではこうだ。

〈他〉から明確に区分された・自立した個人,そうした個々の人間相互の確固たる区分・固有

性,こうした個々人のかけがえのない固有性を前提にしてこそ,人間同士の共感や相互承認が

ある,というものである。かくてここからは,〈他〉からはっきりと区別された人格として

の・自立した個人,その固有性の確立が目指されることになる。東はこれとはまったく違った

風に立論している。彼は,一般的には固有性の否定として,あるいはその対極にあるものとし

て考えられる確率的な在り様を肯定的に捉え,押し出す。だからこの人間の確率的な在り様=

交換可能的な在り様とは一体何なのかが問題である。

東は,未来を時制的ではないものとして捉え,その時制的でない未来の不確定性として確率

性を考える。ここからの議論を東は,掘り下げて展開し得ていないので,以下,彼の議論を敷

衍して述べることとする。東の言う未来性とは結局,現に在るものの内に孕まれた未来性であ

り,確率性である。現実的存在そのものの確率と言うと,直ちに量子力学を想起させるが,東

の言う人間の〈生〉の確率的在り様は量子力学的確率にアナロジーすることができる(東自身

はそうしてはいないが)。(41)どういうことか。

近代的個人,近代的自我,individualityとしての人格――こうした一つの確たる個性・固有

性を備えた自立した個人は,まさしく古典物理学的存在=非確率的決定論的存在にアナロジー

される。これに対して,今日の人間の〈生〉の在り様は,確率的なものを契機とし,いわば量

子論的存在へと向っている。〈生〉の在り様が確率的であるということは,他でもなくあれこ

れの個性・固有性に〈生〉が固定されないということである。つまりここに一つの運動が生じ

ている。“今ここに在るこの〈私〉”という形で,一瞬一瞬いわば波動関数の収縮があり,かつ

同時に確率的〈生〉が開き出されるという運動が。ここでは人は,個性だとか固有性だとかの

内に安らっていること,そこへと同一化することを不断に脅かされることになる。近代的個人

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マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて――伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて――-178-

にあっては,あくまで抽象的でしかない個性・自我などが根本的に問われることになるのであ

る。今日,社会の様々な領域で,様々な形で,そして当然ながらマンガ世界という一つの表現

世界の中でも生じている,一見奇妙な,またどう見ても否定的なものでしかない諸々の現象,

事柄,事件,事故等々が一体何であるのか,われわれは捉えあぐねている。ここに於いて“人

間の〈生〉の確率的な在り様”というものを考え,深め,その可能性を探ることは,そこに一

つの確たる〈ものさし〉を入れることである。

以上が,東が剔抉し展開しようとした,未だ抽象的でしかないが,人間の〈生〉の確率的な

在り様の内実である。これを伊藤が導いたキャラなるものに対照させる。

伊藤が導いたキャラは,マンガ作品の中でキャラクターとして持ち得た人間性・人間身体性

を剥がれ,作品から離脱し,他のパロディ作品等やアニメ作品等々へと浮遊するわけであるが,

こうした抽象化を蒙ったものとして,キャラはまさしく東の言う確率的な〈生〉をこれまた抽

象的な形でしかないが,表出し生きていることになる。人間性の剥離,人間身体性の剥落とい

う否定性は,その否定性それ自体が,このような東的な〈確率的生〉という肯定性を表示して

いるのである。人間性が喪失すること,人間の身体性が剥落することそれ自体はやはり否定的

な事柄である。これをそのまま肯定することはできない。だからそれを大塚英志が批判的に捉

えることは間違ってはいない。伊藤がこれに対して肯定的に捉えようと試みることは良いこと

だが,どのような内実に於いて,どのような点で肯定的に捉え得るかを示さない限り,大塚の

批判を止揚することはできない。その限りで,註(11)で触れた“伊藤剛・夏目房之介対大塚

英志”の対立は不毛である。

マンガ世界はきわめて大衆的な世界であり,人々の現実の〈生〉に計り知れない数の糸で結

び付いている。しかもマンガという独特の一言語世界は,言語としての特有の在り方,例えば

文字やコマ,種々のオノマトペやその他がすべて図像化する等の言語としてきわめて大きな柔

軟性を持っている。だからこそマンガ世界は,キャラのうちに現われたような〈未来性〉を,

あくまで抽象的な形でしかないが,描き得るのである。だから今,キャラに表わされた,どう

見ても否定的にしか捉えようがない否定性の,その否定性として示されている人間の〈生〉の

肯定的な,種々様々の〈未来性〉を,注意深く丁寧に見ていくことが,マンガ研究・批評に求

められているのである。

〈おわりに〉

マンガ世界を含めた種々の世界での対話・論争の場を創り上げていくためのものとしては,

本稿の議論はあまりにも抽象的で荒削りである。キャラを具体的にマンガ作品に於いて取り出

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し分析する等の作業はもちろん,理論上で残された課題も多い。マンガ言語世界に於ける言語

―言葉と記号の関係の問題,マンガ言語世界とその他の諸々の言語世界との関係の問題,そし

て何よりも,キャラに示された〈確率的生〉の現実的根拠の問題,量子力学的確率にアナロ

ジーした〈生〉の内実の問題など山積している。これらを丁寧に分析していくことが求められ

ていよう。

「思想の雲は未来に雨を降らせることができる」と言ったのは誰だったか,とすれば,今こ

こに生きる我々は,未来の風を頬に受け,それを吸い込むのだ。

(1)『ユリイカ――詩と批評――』第38巻第1号(通巻515号)青土社 2006年1月発行。当特集の中心

が,伊藤剛本人が加わった二つの鼎談――夏目房之介・宮本大人・伊藤剛蹇キャラの近代,マンガの

起源――『テヅカ・イズ・デッド』をめぐって――蹉,夏目房之介・東浩紀・伊藤剛「蹇キャラ/キャ

ラクター蹉概念の可能性」――であることは明らかである。

(2) 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ――』NTT 出版 2005年9月発行,

p.54

(3) 同前,p.118

(4) 同前,p.266

(5) 同前,p.265

(6) 同前,p.55

(7) 同前,pp.55~56

(8) 鼎談:夏目房之介・東浩紀・伊藤剛「蹇キャラ/キャラクター蹉概念の可能性」『ユリイカ――詩と

批評――』2006年1月号 第38巻第1号(通巻515号)を参照のこと。

(9) 東浩紀『存在論的,郵便的――ジャック・デリダについて――』新潮社 1998年10月発行。

(10)東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会――』講談社現代新書1575 講談社

2001年11月発行。

(11)伊藤は,註(1)に挙げた夏目房之介・宮本大人・伊藤剛による鼎談で,自らを大塚英志に対比させ

て次のように述べている。――「大きく違うのは,大塚さんは蹇身体性を持たないキャラ蹉を使った

表現に否定的なんですね」(前出『ユリイカ』p.56),「大塚さんはなぜか蹇キャラ蹉的な,身体を欠い

たもの全体に否定的なんですよ」(同前)。夏目房之介が次のようにこれを受けている。――「『蹇ジャ

パニメーション蹉はなぜ敗れるか』というのは,基本的に歴史は悪くなっているという認識で書かれ

ていて,『テヅカ・イズ・デッド』はそうじゃないんですよ。それがまさに,なぜマンガの現在は語

れ/語られなくなってしまったのか,ということに関わっていると思う。マンガはつまらなくなった,

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と言ってきた僕と同世代の人たちは,まず間違いなく歴史は悪くなっていると思っている。」(同前,

p.57)――このように肯定性について伊藤,夏目は語っているが,彼らの言う肯定性は表面的である。

ただ肯定性を肯定性としてだけを語っていて,肯定性が否定性として存在する,その核心を捉えてい

ないからである。また大塚は否定性をただ否定性としてしか語っていない。この問題については〈蠻〉

で取り上げる。

(12)伊藤前出書,p.95

(13)同前,p.97

(14)同前,p.64

(15)同前,p.65

(16)同前,p.89

(17)1948年,不二書房から刊行された。伊藤によるこのストーリーの概略を引いておく。――「科学少

年,ジョン少年の発明による地球貫通列車の開発と,それをめぐる冒険の物語である。主人公はこの

ジョン少年だ。一方,ノートル大学では知能に優れたウサギが生まれ,これに改造手術を加え人間化

がほどこされる。これが副主人公である耳男である。/大学から街に出た耳男は,ジョン少年と出会

い,地球貫通列車の実験走行に加わる。地下深くには地底人の国があり,女王がいる。ジョンたちの

一行は地底国に捕らわれるが,ハム・エッグを残して脱出する。/地底国の宝石に誘惑されたハム・

エッグは,女王とともに地上に出て,陰謀団・黒魔団を組織して街を破壊する。その間,ジョンたち

は地底に置き去りにしてきた列車の第二号の製作にとりかかるが,黒魔団の妨害に遭い,耳男の失敗

のため設計図を奪われてしまう。そこで生じた誤解のため,耳男はジョンたちの許を追われる。/そ

して,ジョンたちはどこからか現れた蹇ルンペンのこども蹉の働きによって設計図を取り戻し,大学

から来たという少女技師・ミミーの自己犠牲的な尽力によって第二号列車の走行実験に成功する。ミ

ミーは全身に火傷を負い,瀕死の重傷となる。実は蹇ルンペンのこども蹉もミミーも耳男の変装であ

ることがわかり,耳男は蹇ジョン ぼく 人間だねぇ…蹉と言い残して死に至る。」(伊藤前出書,

p.124)

(18)伊藤前出書,p.125

(19)同前,p.141

(20)同前,p.141

(21)同前,pp.148~149

(22)伊藤は,『地底国の怪人』での手塚の表現について,「アクロバティックな方法」(同前,p.140)と

言っているが,彼の読解の方こそがアクロバティックなのだ。

(23)夏目房之介・東浩紀・伊藤剛の鼎談で,夏目がそのことを突いている。東が,キャラ概念の脱図像

化を伊藤に迫ったことに対して,伊藤は曖昧に対応し,実際には拒絶したのであるが,それは伊藤の

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京都精華大学紀要 第三十二号 -181-

キャラ概念が二重化し分裂しているからである。キャラを一方ではマンガ世界の図像に限定し(これ

が超歴史化されたキャラ),他方で同時にマンガ世界に限定されない,今日的広がりを持つものとして

キャラを捉えている。だから夏目は言う。「そうすると,蹇キャラ蹉という言葉がこの本の中で二重に

なっていることになりますよね。僕はそこで混乱が起きるんじゃないかと思ったんです。ちゃんと読

んでいくと,絶対に二つの蹇キャラ蹉概念がある。」(前出『ユリイカ』,pp.146~147)

(24)夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか――その表現と文法――』NHKライブラリー66 日本放送出

版協会 1997年11月発行,p.87

(25)同前,p.89

(26)言語と記号の関係について,記号論流行の一現象として,あるいはそれを背景として,記号の方を

第一のものとし,その体系の内に言語があると考える立場がある。このように考える人は少なくない。

そもそもソシュールが言語学は記号学の一部分をなすと言い,また C.S.パースやその記号論を継承し

たと考えて良いU.エーコの記号論では言語を含めたほとんどあらゆるものが記号として分類されるに

至っている。しかし,つぶさに考えてみれば直ちに解ることだが,言語抜きの記号なるものは決して

存在し得ないのであって,パースやエーコの記号論も,この言語体系による支えを一旦切り離して,

またそうし得る限りで諸記号の在り様を論じたものであり,また,ソシュールについて言えば,前田

英樹が的確に述べたように,ソシュール言語学にとって記号学は,言語が〈ある〉ことの謎を解明す

るための「純粋に方法的なひとつの装置」(フェルディナン・ド・ソシュール著前田英樹訳・注『ソ

シュール講義録注解』叢書・ウニベルシタス 345 法政大学出版局 1991年9月発行,p.34)にしかす

ぎないのである。

(27)マンガ世界もまた人間の独特な表現行為の一結実である限り,マンガ言語世界という一つの言語世

界を表象することは自然である。これは,数学という言語世界,音楽という言語世界,絵画という言

語世界等々を表象することができるということと同様である。これらそれぞれに固有の言葉があり,

またそれぞれの言語世界の一定の発展水準を前提として,記号が生成し運動する。

この点が,種々の通信記号系や交通信号の記号系等と大きく異なっている。これらの記号系は普通

の言語世界の上に直接に形成されたものであり,記号に対応する固有の言語世界を持たない。

(28)マンガ世界には図像―絵があることから,マンガ世界に描かれたものを,リアルに(実は写実的に

ということなのだが)描写したものと記号化して描写したものとの二分法で捉えることが行なわれて

いるが,これは誤っている。これはマンガ世界を独特の一つの表現世界であると捉えず,従ってマン

ガ言語世界という独特の一言語世界を措定できないことによっている。かくして単に写実的であるこ

とをリアルであることと重ね合わせることになり,リアリティをいかにも底の浅い・通俗的なものと

してしまうと共に,他方,マンガ言語世界のあれこれの言葉(文字言葉だけでなく,絵,コマ,オノ

マトペ,その他等々も全てマンガ言語世界の言葉である),即ち,概念を持ちそれによって対象世界

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マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて――伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて――-182-

(―自然・社会)を呼吸し運動している言葉を記号だとして,狭い・固定的な場に押し込めてしまう。

大塚英志の言う〈リアルな身体―記号的身体〉や伊藤剛の言う〈キャラの持つリアリティ〉など,そ

うした欠陥を持っている。

西洋で発展したカートゥーンでは一枚の表現に時空を凝縮するところから記号化がときに,きわめ

て効果的に用いられるが,日本のいわゆるストーリー・マンガのように何頁・何巻にも渡って人間化

された世界が物語られ描かれていくものでは特に,マンガ言語世界の固有の言葉(絵,文字言葉,コ

マ,オノマトペその他等々)が重要になるのであって,それらの言葉を乱暴に記号と言ってしまうと,

マンガ世界を正しく捉えることができなくなる。

(29)マンガ世界の要素として従来取り上げられてきた絵,言葉,コマ,オノマトペその他諸々について,

先ずは一旦それらすべてを,マンガという独特の言語世界内の“言葉”として捉えることが大切であ

る。それをしないので,マンガ言語世界内の言葉としての絵といわゆる絵画とを同じ位相の上で比較

して捉えたり,同じくマンガ言語世界内の文字言葉を普通の言葉と同一に捉えたりすることで混乱が

生み出されてきたのである。マンガ世界の成熟によって一層そうなっているが,マンガ世界の諸要素

として捉えられてきた絵や言葉やその他はますます互いに分かち難い形で創り出されているのであり,

文字言葉やオノマトペ等が絵と化し絵がまた逆に言葉化し等,それら全体としてマンガ言語世界を成

しているのである。

註(1)に挙げた夏目房之介・宮本大人・伊藤剛の鼎談で,宮本はマンガが記号になる瞬間というこ

とを問題にし,「なんとなく線を引いているとそれがかたちになって,突然顔に見えたりしてくるとい

うことがあると思うんですけど,なんでもなかった線が突然何かを意味しだす,しかも最初は顔にも

見えるがミカンにも見えるというものが,どうしても顔にしか見えなくなっていく。描線が本来的に

持っている多義性が抑圧されてある記号体系になっていくわけですけど,それは成長であると同時に

去勢でもあるわけです。[中略]やっぱり線って本来的に多義的で,こう言ってよければエロティック

なものなんですよ」(前出『ユリイカ』,p.58)と言い,この観点から夏目房之介について「夏目さんの

言う表現論には,マンガが蹇記号蹉になる瞬間へのこだわりが核にある」(同前,p.57)と述べ,大塚

英志に対しては「大塚さんは蹇記号蹉になった後のマンガしか見ていない。[中略]大塚さんは描線の

多義性はまったく見なくて,蹇記号蹉としてしかマンガを見ない」(同前,p.58)と述べている。おもし

ろい指摘であるが,宮本もマンガ言語世界の“言葉”を媒介せずにいきなり記号の生成を述べている

ので混乱がある。宮本が述べているのは,マンガ言語世界に於ける言葉,とくに新しい言葉の生成に

関したことである。詩人が創作に於いて新しい言葉を生み出すとき,あれこれと言葉を探り,内言を

繰り返し,ある時点で敢然として言葉を選ぶように,マンガ世界で新しい“言葉”=表現を生み出すと

き,やはりマンガ言語世界であれこれの試行錯誤を繰り返し,紆余曲折を経,内言を辿りつつ新しい

言葉=表現に到達する,まさしくこの姿を宮本は取り上げているのである。言語―言葉は概念を持ち,

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京都精華大学紀要 第三十二号 -183-

それを通じて対象世界(―自然・社会)を呼吸する。この呼吸の一つの現われを宮本は明らかにした

ということだ。線の多義性とかエロティシズムとかで宮本が言う線の運動を大塚が捉え得ないとすれ

ば,それは言語―言葉を考えずにいきなり記号として捉えてしまうからであり,対象世界から切り離

された意味の限定場に自らを束縛するからである。このことへの焦燥が,伊藤の言うキャラ的なもの

への否定的な態度として現われているのであろう。

(30)前出,夏目房之介・東浩紀・伊藤剛の鼎談,前出『ユリイカ』,p.152

(31)今日の〈超〉記号の在り様について東浩紀は次のように述べている。――「私がここで注目したい

のは,その社会[東蹇が蹇徹底化されたポストモダン蹉と呼ぶ社会蹉]の全体的性質ではなく,より部

分的に,そこで流通する記号の性質である。[中略]そこでは人々は各自勝手に世界に蹇意味蹉を与え

るほかないし,事実,九〇年代におけるオタク的消費行動の一般化はその結果生じている。そしてこ

の変化は記号の性質においては,流通する記号がもはや共通の(つまり社会的な)意味を剥奪され,

消費者の感情移入により満たされるほかない空虚な容器,無意味な蹇情報蹉として漂うようになる現

象として現れている。メッセージの意味は現在では共有されない。その共有を支えるはずの意味づけ

の機能そのものが,この社会では細分化され機能不全に陥っているからだ。したがってあらゆるメッ

セージは発信された瞬間に無意味化され,ただそれが存在すること,流通していることの事実性だけ

が伝わる。そしてその蹇意味蹉は受信者が勝手に解釈し,想像的に埋めるほかない。[中略]/[中略]

いまや人々はあらゆるタイプの記号について,その内容よりむしろ伝達の事実性に敏感に反応してい

る。」(東浩紀『郵便的不安たち』朝日新聞社 1999年8月発行,pp.15~16)――なかなかうまく〈超〉

記号の在り様を描き出しているが,彼はそれを今日の社会の細分化・細片化なる面だけから捉えてい

る。だがこれは一面的である。かかる細分化と同時にますます拡大し深化する結合化・組織化が生じ

ているのであって,それは世界資本主義の所謂グローバル化,また特に内包的な組織化・結合化とし

て進行している。またキャラなるものの在り様自体が,元の作品から離脱し二次創作やメディアミク

ス等の世界へと結合を拡大・深化させているのであり,この一方で進行する結合化の質に対する批判

が必要なのだ。

(32)伊藤前出書,pp.272~273

(33)原一雄『のらみみ』漓 小学館 2004年1月発行,p.139

(34)伊藤は耳男が,ミミー,ルンペンの子どもと同一存在であることがわかり,死ぬ場面に関して次の

ように述べている。――「この場面で耳男 / ミミー / ルンペンのこどもの三様が描かれるということ,

すなわちここでの耳男の描写が,身体性を欠いている.........

ということに気づかなければならない。ここで

は,キャラが単純な線画で構成されていることが逆手に取られている。耳男はウサギである。顔には

白い(おそらくは白であろう)毛が密生しているはずだ。/もしここに少しでも写実的に身体を想像

させるものがあったならば,この場面は成立しない。」(伊藤前出書,pp.134~135)

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マンガ言語世界が生み出した〈超〉記号・キャラについて――伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』によせて――-184-

(35)東浩紀達が,今日の人々の〈生〉の在り様に対して,アレクサンドル・コジェーヴから借用した

“動物化”なる概念を振り回しているが,これは今日の人間身体の〈モノ〉化を〈物〉化と混同してい

るからである。

(36)伊藤は荒川弘『鋼の錬金術師』のアルフォンス・エルリックについて次のように言っている。――

「彼は肉体を失い,蹇魂蹉だけががらんどうの鎧に定着された存在という設定だ。彼の空洞の身体を,蹇内

面蹉と蹇描かれた表層蹉のセットであると見なすことはできる。もしこれが蹇モダンな蹉手塚治虫な

らば,アルフォンスの身体にぎっちり機械を詰めてしまったのではないだろうか。つまり,本当はけ

なげな少年であるアルフォンスもまた,私たちの持つ蹇キャラそのもの蹉の表象であるのだ」(伊藤前

出書,p.276)――伊藤が手塚との差異について指摘したところは的確であるが,アルフォンスをキャ

ラだとする判断には疑問がある。〈時間性〉の問題を考えるところからの疑問である。

(37)『のらみみ』のキャラが「レンアイ感情なるものがない我々」と内心で思い(原一雄『のらみみ』

滷 小学館 2004年9月発行,p.33),伊藤が『GUNSLINGER GIRL』のキャラについて「彼女らは,

主に成人男性の担当官とペアで行動するが,担当官に対して強い感情を持つように薬物を用いて操作

されている。その感情は蹇恋愛蹉に近いものだが,もっと動物的な感じのするものだ」(伊藤前出書,

p.268)と言うように,キャラたちは恋愛感情のようなきわめて人間的な感情は持ち得ないことになっ

ているのだ。

(38)『のらみみ』に登場する人間の子ども達はもっぱらキャラと遊び,子ども達同士ではあまり遊ばな

いようだ。そういう意味ではこの子ども達はある程度〈脱―超〉人間化=キャラ化しており,またそ

の親達も子どもだった頃はキャラと遊んでいたことになっているので,同様にキャラ化している。伊

藤が言う「『のらみみ』に登場する蹇人間蹉たちが,蹇現実の身体蹉を表象しているという確たる保証

もまた,得られない」ということだ。

(39)東浩紀・大澤真幸『自由を考える――9.11以降の現代思想――』NHKブックス 967 日本放送出

版協会 2003年4月発行,p.72

(40)同前,p.73

(41)量子力学に於ける確率は,probabilityであり,アナロジーとして波動関数とその収縮ということを

取る限り,用語としてこれが適切であるが,人間の〈生〉の確率的在り様ということからすると,数

学に於ける近代的確率概念として用いられるようになったとされる randomnessという用語を用いたい

気がする。離散的・静的なものに対する連続的・動的なものを表現するという点からである。高橋陽

一郎・志賀浩二『対話・20世紀数学の飛翔3 確率論をめぐって』(日本評論社 1992年4月発行)に

例えば次のような発言がある。――「志賀:[略]近代確率論が言わば静的なものから動的なものへと

変容する過程で,プロバビリティという言葉では律しきれない世界が現われてきて,ランダムネスと

いう言葉が登場してきたと考えてよいのでしょうか。/高橋:そうですね。[中略]コルモゴロフが確

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京都精華大学紀要 第三十二号 -185-

率空間を抽象的に導入したことによって,ランダムな現象を記述する土俵ができて,ブラウン運動な

ど連続時間で連続状態の対象まできちんと取り扱えるようになり,それがまさに熱方程式など偏微分

方程式との関係になっていく。」(p.7)