タバタユキツグ - ?????????www???????????? tabata...学位論文 論文題目...

Click here to load reader

Upload: others

Post on 12-Mar-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 学位論文

    論文題目

    アンコール王朝における窯業技術の成立と展開

    ̶ タニ窯跡群出土資料の技術論 ̶

    博士(地域研究)

    学位申請者氏名

    タバタユキツグ

    田畑幸嗣

    上智大学

    2004 年

  • 目次

    序章 クメール陶器研究の意義と目的 1

     陶磁器研究の目的 1

     クメール陶器研究の目的 7

    第1章 研究史と方法論 10

     1-1 クメール陶器研究通史 10

     1-2 編年研究 15

     1-3 起源論的研究 18

     1-4 機能論的研究 20

     1-5 生産地研究 21

     1-6 自然科学的研究 21

     1-7 小結 22

    第2章 対象地域の地理的・歴史的背景 24

     2-1 地理的背景としての東南アジア 24

     2-2 コーラート高原からダンレック山脈の地理 25

     2-3 アンコール地域の地理 25

     2-4 アンコール王朝の歴史的背景 26

    第3章 窯跡遺跡の分布と立地および築窯技術 29

     3-1 アンコール地域の諸窯 29

     3-2 コーラート高原を中心とした諸窯 34

     3-3 プノンペン地域の窯跡 37

     3-4 窯跡遺跡の立地と築窯技術 37

     3-5 小結 45

    第4章 タニ窯跡群出土遺物の分析 46

     4-1 分析手法 46

     4-2 型式学的分類 47

     4-3 製陶技術の再構成 56

     4-4 小結 65

    第5章 クメール窯業技術の考古学的復元研究 67

     5-1 窯跡間の比較 67

     5-2 クメール陶器の生産モデル 78

     5-3 小結 80

    最終章 アンコール王朝における窯業技術の成立と展開 82

     クメール陶器の年代的位置づけ 82

     クメール窯業技術の成立 88

     クメール窯業技術の展開 92

     クメール窯業技術の衰退ないしは変容 96

     結語 98

    付記・謝辞 100

    文献目録 101

    図版・写真

  • 1

    序章 クメール陶器研究の意義と目的

    過去十年来のカンボジア、アンコール王朝期の考古学調査の進展にはめざましいものがある。文献史

    学を中心にすえ、考古学、建築史学、美術史学を補助手段として用いてきた従来の研究に対し、現在の

    アンコール研究は、碑文研究、建築史学、美術史学、地理学、そして考古学など様々な学問分野が相互

    補完的に研究を進展させており、その意味では理想的な研究実践の場であるといえよう。

    しかし、地域研究の枠組みにおいて考古学が果たそうとしている役割、すなわち対象地域の歴史的背

    景理解に考古学研究がどれだけ寄与してきたかに関しては、まだまだ不十分であると言わざるをえない。

    内戦による資料の散逸や研究の停滞などがこうした不十分さの遠因であることは間違いないが、過去十

    年来の考古学的研究にも偏りがあった点は否めず、調査は常に都城や寺院といった特定の遺跡群に集中

    して行われていた。確かに遺跡・遺構の変遷は解明されつつあるし、近年のバンテアイ・クデイ寺院発

    掘調査で発見された大量の仏像などは古代カンボジアの政治・宗教を考える上での大きな問題と解決へ

    の手がかりを提供してくれたが(上智大学アジア文化研究所 2002)、遺跡から最も多量に出土する遺物、

    特に陶磁器類に対しては有効なアプローチが確立されておらず、資料の断片的な記載がなされてきたの

    みであり、カンボジアの物質文化の内実に迫りうるものではなかった。

    筆者は過去数年来、カンボジア現地において長期間の発掘調査に従事してきたが、こうした調査・研

    究で常に意識していたのは、膨大な量が出土しながらも有効に生かし切れていない陶磁器類を如何にし

    て対象地域の歴史的背景理解へ役立てるのか、またそのためのより適切なアプローチは何か、というこ

    とであった。言い換えれば、断片的な考古学的資料をいかにして歴史史料として取り扱うのか、その方

    法論の模索であった。

     本論ではこうした問題意識にたち、出土資料の中でもアンコール王朝期にその版図で製作され、使用

    されたと考えられるクメール陶器1を技術的な系譜論の立場から分析し、その成果を統合することによっ

    て断片的な資料を窯業史へとまとめ上げる試みを行いたい。そのためにまず、陶磁器研究の意義から探

    ってみたい。

     

    陶磁器研究の目的

     陶磁器2の製作とは人類が生み出した最古の技術の一つであり、現在に至るまで続く数少ない技術の一

    1 クメール陶器の定義をどのように行うのか、まだまだ議論の余地があろう。しかし調査事例がまだ少ない現在、性急に狭義の定義を行うことは将来の混乱を招くおそれがある。したがって、本論でのクメール陶器の定義としては、「ア

    ンコール王朝期にその版図で製作され、使用されたと考えられる陶器」というやや大まかな定義を採用する。2 本稿での陶磁器とは、広義の陶磁器、すなわち粘土を調整・成形・乾燥・焼成したいわゆる「やきもの」全てを指す。従って、ここでいう陶磁器には土器、陶器、磁器すべてが含まれる。学史的にはそれぞれの資料のもつ特質から、

    縄文土器研究のように特定の分野を形成している場合があるが、こうした特定分野の研究を指す場合には、土器研究、

    クメール陶器研究といった名称を用いる。

  • 2

    つである。陶磁器を研究対象とする学問として、考古学、美術史学、民族学、工学、自然科学など様々

    な分野があげられるが、なかでも考古学は対象とする陶磁器の種類・時代・産地が最も広範囲にわたっ

    ている。これは考古学が時代としては人類の発生から現在までを扱い、地域としては過去に人類が存在

    したあらゆる地域を対象としており、そこで生産・使用された陶磁器も広範囲にわたるためである。極

    言すれば、陶磁器研究の目的と方法、そして研究の進展は考古学研究のそれと軌を一にしていると言っ

    てもよい。

    陶磁器は大きく土器、陶器、磁器3に分類されるが、そのいずれも有機的な組成を持たないため腐敗

    することがなく、破片となってもそのまま残存している。従って遺跡出土の陶磁器は、生産や貿易とい

    った社会経済状況やそれを生み出した文化的背景を知るための鍵となる。特に日常什器としての陶磁器

    類は、その社会、経済状況を直接的に反映することが多く、対象地域の歴史を考える上で非常に大切な

    役割を果たしてきた。一つの陶片には、それを産み出し、使用した人々の痕跡が残されているのであり、

    考古学における陶磁器研究とは、単なる作品研究ではなく、資料に内在・外在する多種多様なコンテク

    スト4を考古学的手法により読みとり、その背後に潜む過去の人間活動を明らかにすることが大きな目的

    となる。当然の事ながら、資料と用いる方法論の違いから陶磁器研究には次のような幾つかの研究の方

    向性が存在する。

     1.生産活動の解明・・・陶磁器生産の実態やその時代・地域的な推移、生産技術の発達や変化を追

    求することを目的とした研究である。主に生産地の発掘とそこで得られたデータを基本資料とし、型式

    学的研究からその技術的な特徴を明らかにする。近年では、自然科学分析を応用し学際的な研究がなさ

    れることが多い。

     2.陶磁器を生み出した時代の文化・社会状況の解明・・・時代の産物である陶磁器は、その時代の

    政治、思想、文化、技術の程度を反映し、社会の変化と対応している。こうした研究としては、桃山茶

    陶、中国官窯の様式論研究などがあげられる。また、主として美術史学的立場からなされる陶芸作家の

    研究などもここに含まれる。

     3.遺跡における人間活動の実態解明・・・生活に密着した陶磁器は、政治・思想といった大局的な

    3 土器・陶器・磁器の定義はそれを生み出した時代や地域、あるいはそれを研究する分野によって微妙に異なっている。本論ではさしあたり、最も一般的と考えられる定義(佐々木 1994: 14-45)を参照し、次のように定義する。 土器・・・700~800度前後で焼成、無釉、軟質、多孔質で吸水率は10%以上。 陶器・・・いわゆるせっ器(無釉焼締器)を含む。1,200~1,300度前後で焼成、施釉・無釉、土器よりも硬く、磁器よりも柔らかい。吸水率は10%以下。 磁器・・・1,250~1,400度前後で焼成、素地に石英や長石が多くガラス化がすすむ。吸水率は0.5%以下。4 形態、技法、装飾、使用痕などの諸属性が資料に内在するコンテクストとして、出土状況(廃棄・焼失・埋納)などが資料に外在するコンクストとして理解される。

  • 3

    側面以上に、人々の生活そのものを映し出す鏡であるといえる。2.で述べた研究が政治史・文化史的

    な観点からなされるとすれば、こうした研究は民衆史的な観点からなされた陶磁器研究ともいえよう。

    都市部における町屋出土の陶磁器研究などがその代表的研究例である。分布論、組成研究、数量分析、

    出土状況の判断等、複数の方法論を組み合わせて生活復元を目指す。

     4.遺跡相互の関係の解明・・・ある地域における複数の遺跡、とくに都城や宮殿、都市や農村など

    異なった社会的機能を持つ場所から出土する陶磁器は、それらが使用されていた場所を反映し、それぞ

    れ異なった種類、組み合わせで出土する。地域における陶磁器の在り方からその地域を理解する研究と

    いってもよいだろう。方法論的には上記3.と同様である。江戸やオランダ、ロンドンなど近世都市出

    土の陶磁器研究や、弥生集落出土の土器研究など様々な研究事例が存在する。

     5.交易ないしは他地域との交流の実態解明・・・遺跡から出土する様々な産地の陶磁器から、交易

    でもたらされた陶磁器の質や生産量などが明らかにされる。さらに、資料の分布範囲からは経済圏をも

    考え得る。陶磁器の形態・文様等の属性にみられる各地域相互の技術的影響の状態は、各地域間の文化

    的・政治的・経済的な交渉を示している。いわゆる貿易陶磁研究による交渉史研究などがこれにあたる。

    上記3.4.と同じ方法論的を用いるが、より比較研究を重視する。

     6.年代決定のための基準資料研究・・・文献史料に名をとどめない多くの遺跡からも、陶磁器は普

    遍的に出土する。したがって出土陶磁器の年代が明らかになれば、その遺跡の年代推定も可能になる。

    考古学が最も得意としてきた分野であり、形式論・層位論を駆使した縄文土器をはじめとする各種土器

    の編年研究がその代表例である。

     以上、多様な研究の方向性をもつ陶磁器研究であるが、上述の研究全てが同時代的に発生したのでは

    なく、研究の進展により様々な問題意識が生まれ、それに対応する形で研究の方向性が決定されてきた

    のである。以下、例として日本における陶磁器研究の変遷を概観するが、既に述べたように陶磁器研究

    の目的と方法、そして研究の進展は考古学研究のそれと軌を一にしており5、陶磁器研究の始原は考古学

    の誕生までさかのぼると言ってもよい6。19 世紀半ばに成立した近代考古学では、石器、青銅器、鉄器な

    5 このため、考古学における陶磁器研究を学史的に理解し、記述することは、日本のみならず世界の考古学史を記述することに等しくなる。しかし、特に陶磁器研究は日本考古学において中心的な主題であり、方法論の構築、研究の

    深化の度合いが群を抜いている。紙面上の都合もあり、本章では主に日本考古学を中心に述べてみたい。6もっとも、近代的な学問としての考古学成立以前に古物に関する興味や研究が存在したように、陶磁器が考古学の対

    象となる以前にも、陶磁器に関する興味や研究は存在したのである。中国唐代の陸羽が著した『茶経』、清代の朱笠亭

    による『陶説』などは(陸 1976、尾崎 1981)近代をさかのぼる遙か以前から陶磁器にたいする関心が存在していたことを裏付けている。

  • 4

    どの考古資料に加え、陶磁器(主として土器)の研究が主たる関心事の一つであった。こうした状況は、

    非西欧世界のなかでも比較的早くから考古学を輸入し、自国へ定着させた日本においても同様であった。

    19 世紀末の E.S.モースによる大森貝塚出土の縄文土器研究、坪井正五郎らによる弥生土器の発見、八木

    奘三郎らが行った阿玉台貝塚における縄文土器型式による編年研究などが学史的に高く評価されている

    (勅使河原 1988: 36-49)。日本における考古学研究は、その発生段階から土器研究と歩みを同じくして

    いたのであり、これが後の精緻な、世界でも類を見ない土器研究の基礎を築いたのである。従って、考

    古学における陶磁器研究の出発点は、土器をおもな対象とした編年研究であると言ってよい。

     それではなぜ編年研究が研究の出発点となったのであろうか。これは考古学という学問の持つ性格に

    起因する。考古学が歴史学の一分野としてとらえられる以上7、最初になされなければならないのは史・

    資料の吟味であり、陶磁器といえどもその研究の出発点として、資料のもつ特性(器種、器形、出土状

    況等)や年代を明らかにする必要があったのである8。

     実証的編年研究が進展するにつれ、編年をはじめとする遺物個々の研究が、あたかも考古学研究の究

    極の目的であるような傾向もまた生まれてきた。こうした風潮から出てきたのが、いわゆる「ひだびと

    論争」である。土器偏重の傾向を批判し、考古学研究の目的である経済的な社会構成の研究を進めるべ

    きだとした赤木清と、編年研究の確立こそ急務であると主張した甲野勇・八幡一郎との論争は、陶磁器

    研究の目的を考える上でも大変意義深いものである9。

     現代の土器研究は、こうした論争をふまえ、様々な方向に分化している。型式学と分布論から縄文土

    器とそれを産み出した人間集団、社会組織を解明しようとするもの(小林 1994、今福 1994)、弥生土

    器の変化から農耕社会の定着という社会変化をとらえようとするもの(外山 1987)、地域における土器

    の様相から集落の性格を解明しようとするもの(置田 1988)、渡来人の移住とそれに伴う模倣土器の存

    在から祭祀の変化などの社会変化を読みとるもの(酒井 1988)、等々、様々である10。

     土器研究に比べると、陶器・磁器の研究はやや後発の部類に入るが、中国産陶磁器に関しては比較的

    早くから研究が開始され、1920 年代から 30 年代にかけて徐々にではあるが研究が進展し始めた。1943

    7 現代における考古学は、時代としては人類の発生から現在まで、すなわち最低でも約200万年、地域としては過去に人類が存在したあらゆる地域、したがって地球のほぼ全域を学問の対象として扱っている。このように広範囲な地

    域、時代を取り扱うため、現代考古学の定義は地域や分野によってかなり異なり、包括的な定義を困難にしている。

    本稿では、(少なくとも日本考古学において)伝統的・一般的な「考古学は、広い意味で歴史学である。つまり人類の

    出現から文明の形成を経て、今日に至るわれわれの歴史を、総体としての人類史として再構成する役割の一部をにな

    う(鈴木 1988: 2)」という定義を支持したい。筆者は、伝統的な日本考古学の立場に固執するが故にこうした定義を支持するのでなく、「陶磁器を作品としてだけではなく、歴史史料として取り扱う」という自らの研究姿勢にもっとも

    合致するものとして積極的に支持している。8 こうした編年研究の有名な例としては山内清男、小林行雄などによる縄文・弥生土器の編年研究があげられる(小林 1939)。9 論争の詳細は、勅使河原による学説・学史研究を参照のこと(勅使河原 1988: 69)。10海外の研究事例に目を向けると、やはり膨大な数の研究事例が存在する。メソポタミアにおける都市化にともなう

    土器の変化について概観したシンプソン(Simpson 1997)、層位・型式学を組み合わせたセリエーション研究により新大陸の土器編年研究を行ったクローバー(Kroeber 1916)、セリエーション分析を精巧に、洗練された方法論へと昇華させたラウス(Rouse 1939)など枚挙にいとまがない。

  • 5

    年刊行の小山富士夫著『支那青磁史稿』は、それまでの研究成果をまとめた画期的な著述である(小山

    1943)。小山の研究はあくまでも美術史学の観点からなされた研究であり、現在の陶磁器研究のように考

    古学的手法を用いているわけではないが、出土品を積極的にもちいて各時代の資料を提示し、日本各地

    の出土例および東南アジアの出土例から、貿易による陶磁器の流入にまで言及するなど、先見の明に満

    ちた示唆に富んだ研究であったといえる。

     小山による研究によって大きく進展するかに見えた陶磁器研究であるが、太平洋戦争とそれに伴う混

    乱のために一時期停滞してしまう。陶磁器研究が再び活発化するのは戦後しばらくたってからである。

    戦前から続けられてきた縄文、弥生時代の発掘はもとより、平城京、平安京、太宰府、国分寺、国衙な

    どの古代遺跡、中世の鎌倉、草戸千軒町、朝倉一乗谷など従来顧みられることの少なかった遺跡が次々

    に発掘されることとなった。

     当然のことながら、このような新しい時代の遺跡からは多量の陶磁器が出土する。その結果として、

    陶器・磁器が考古学的資料として認識され始めたのである。新たな遺跡・資料の発見によって新たな研

    究が産み出されていったといってよい。日本産陶磁器についてもこの頃から考古学的手法により研究さ

    れはじめ、愛知県猿投窯や大阪府陶邑窯などの発掘により、古代中世における陶磁器生産の実体が明ら

    かにされ、産地、年代に関する研究が行われ始めた。

     このような状況のなかで特筆されるべきは、小山富士夫・三上次男らによるエジプト、フスタート遺

    跡出土陶片調査であろう。この成果をもとに書かれた三上次男の『陶磁の道』は、東西貿易を象徴する

    中国陶磁器の各地でのあり方を、現地を訪ねた豊富な経験をもとにみごとにまとめた名著である(三上

    1969)。そこに示された東西交渉を巡る「陶磁の道」の概念は後の研究者に大きな影響を与えることにな

    った。

    これまで顧みられることの少なかった、近世の考古学研究も見逃すことは出来ない。1960 年代から

    続く高度経済成長により、日本全国で大規模な開発が行われるようになり、それは特に都市部において

    顕著であった。豊富な資料と、発掘件数の増加を背景に、近世考古学において陶磁器研究は急速に進展

    し始める。今日、陶磁器が考古学によって研究されることが当然となったのは、この近世考古学の隆盛

    によるところが大きいのである。

     1975 年6月、東京国立博物館では「日本出土の中国陶磁」という特別展が催されることとなった。こ

    れは考古資料としての中国陶磁器が、日本全国から集められ、展示された初の展覧会である(東京国立

    博物館 1975)。この展示会の後、考古学的陶磁器研究のスピードは一気に加速する。中・近世の陶磁器

    研究にとってなによりも急務だったのは、発掘された陶磁器の年代、産地に関する研究であった。こう

    した状況は土器研究と同様である。

     1979 年 10 月に三上次男を代表世話人とする「日本貿易陶磁研究会」が発足した。この研究会は「対

    象とする地域も日本や東アジアの国々と限定せず、東アジアの他の国々や東南アジアの諸国にまで拡げ、

    相互に比較研究することによって、貿易陶磁に関する諸問題に、より明らかな解答を与えること(三上

  • 6

    1981: 2)」を目標としている。いわゆる貿易陶磁研究の本格的なスタートである。

     以後、陶磁器研究の進展はめざましいものがあり、代表的なものだけでも編年研究(亀井 1981、西

    谷 1983、北野 1990)、組成・機能分担からの遺跡研究(亀井 1984、上田 1984、小野 1984ab)、

    交易論の展開(續 1989)など、多数存在する。

     さらに、70 代以降の陶磁器研究の特徴として自然科学分析の応用があげられる。1668 年には熱ルミネ

    ッセンス分析による土器の年代測定が行われ(市川 1968)、1970 年代以降、生産地、消費地での陶磁

    器研究では、胎土分析をはじめとする自然科学分析のデータを併用し、より総合的に産地や交易の問題

    をとらえるようになったのである(三辻 1978、三辻ほか 1983、二宮ほか 1995)。こうして、土器の

    研究から始まった陶磁器研究は、資料の増加とともに様々な研究の方向性を持つに至ったのである。

     陶磁器研究のなかでも、最も新しい研究領域の一つは、東南アジアにおける陶磁器研究である。東南

    アジアにおける陶磁器研究は、東南アジア考古学と同じく後発の研究分野であるが、これは第二次世界

    大戦以後、東南アジア諸国には政情不安や外国人の立ち入りが困難な地域が存在し、研究の進展を阻害

    してきたことが大きな原因といえよう。また、東南アジア産陶磁器に関する認識が生まれたのが比較的

    近年だと言うことも理由としてあげられる。

     こうした状況の中、以前より着実に進展し、現在大きな成果をあげているのが島嶼部東南アジア、特

    にフィリピン諸島における陶磁器研究である。長年東南アジア考古学をリードし続けてきた青柳洋治は、

    それまでの研究成果から東南アジア島嶼部出土貿易陶磁を包括的に論じている(青柳 1985、Aoyagi

    1991)。土器に関しても小川英文による編年研究(小川 2003)など優れた研究が多い。また、前述の研

    究の方向性には入れなかったが、民族考古学的アプローチから、現在の土器作り村の調査なども大きく

    期待できる11(青柳 1980、田中 1999、Kramer 1985)。

     さて、このように進展、多様化した陶磁器研究であるが、これに対する批判も見逃すことは出来ない。

    こうした批判の先頭に立つのは 1980 年代、90 年代を通じて陶磁器研究、特に中国産陶磁器を中心とす

    る貿易陶磁器研究をリードした亀井明徳である(亀井 2001)。亀井の陶磁器研究批判12の要点は次の通り

    である。

     1.形・型式分類研究13の自己目的化と偏り・・・分類学(Taxonomy)は自然科学においては最も古

    く、基礎的な研究領域であり、全てはこの上に構築されている。しかし、(陶磁器研究において)、碗や

    皿などの特定の型式学的研究にとどまり、こうした研究を自己目的化している限りは、総体としての陶

    磁器とその形成の内実に論究することは不可能であり、そこから様式概念を導き出せない。

    11 民族考古学は、いわゆるプロセス考古学を背景として誕生した新たな方法論であり、これをいかに陶磁器研究へ組み込むかは、将来の研究課題である。12 亀井の批判論文は、主として貿易陶磁器研究の現状批判を目的とするが、そこで示された問題意識は全ての陶磁器研究にも当てはまると筆者は考える。13 亀井はその論考のなかで、現在の貿易陶磁器研究の主たる潮流を碗・皿についての型式的分類研究であると看破しているが(亀井 2001: 14)、これには、分類研究から導き出される編年研究も含まれるとみてよいだろう。

  • 7

     2.安易な学際研究・・・研究の枠組みとしての陶磁器研究から、上述のような様式概念とその変遷

    を生み出せないとき、安易に隣接分野の成果に依存し、歴史的背景を付加しようとする試みがなされて

    いる。一例としては、交渉史研究の素材としての宋代陶磁器を厳密に型式分類しても、歴史像は浮かび

    あがらず、やむなくよく知られた歴史事実を借用し、叙述した結果、常識的な、陳腐な交渉史らしきも

    のができあがる。隣接領域の成果を受動的に受け入れることによって、陶磁器研究の目的と意義が失わ

    れ、その存在すらみずから否定する結果になるのである。

     3.研究の跛行性・・・分類研究にしても、特定の産地・時代・器種に研究が偏り、進展している研

    究としていないものの開きがあまりにも大きい。ただし、亀井はこうした状況に絶望しておらず、東南

    アジアにおける窯跡発掘、沈没船引き上げ資料の研究など新たな研究の動向を、(未だ資料の絶対数の少

    なさや研究の諸障害も多いとしながらも)期待できる方向性を持っているとしている。

     4.年代の厳密性と齟齬・・・陶磁器の年代を考える上で、生産された年代、使用された年代、廃棄

    された年代など、様々な年代幅をもち得る。しかし、特に貿易陶磁器に関しての年代とは生産年代を第

    一に考えるべきところを、在地土器の生産・廃棄年代と混同したところに、年代決定の曖昧さがあると

    している(亀井 2001: 14-15)。

     このような近年の研究動向、問題意識をふまえ、クメール陶器研究はどのように推し進めるべきであ

    ろうか。つぎに、クメール陶器研究の目的と方法について考察してみたい。

    クメール陶器研究の目的

     次章の研究史で詳しく論じられるが、クメール陶器研究は、19 世紀末からの遺跡踏査と資料紹介の時

    代をへて、1950 年代に入ってからは B.P.グロリエによって進められてきた。残念ながら、カンボジアか

    らの帰国と早世により、彼がクメール陶器に関して体系的に論じている論文は非常に数が少ない。

     グロリエが存命中に表したほとんど唯一のクメール陶器研究論文は、1981 年に開催されたクメール陶

    器展の図録に掲載されており、現在の研究の基礎を築いたものとして高く評価されている(Groslier 1981)。

     こうしたカンボジア国内出土資料を基礎においた研究のほかに、タイ出土のクメール陶器資料を基礎

    とした研究も行われている。その代表的な研究としては、R.ブラウンによるプラサット・バン・プルア

    ン出土陶器研究(Childress and Brown 1978)、タイ人研究者によってなされたブリラム県の窯跡研究

    (Srisuchat 1989)などがあげられる。そのほか、D.ルーニーは主にクメール陶器の文様・施文法・器形

    の集成に力を注ぎ、また使用法についても論じている(Rooney 1984)。また近年では、美術史的な方法

    論を用い、J.ガイ、L.コートらによる新たなクメール陶器研究論文が発表されている(Guy 1997、Cort 2000)。

  • 8

     一見着実に進展しているかに見えるクメール陶器研究ではあるが、不幸な内戦とその後の混乱のため、

    カンボジア国内で蓄積された資料が散逸してしまうという状況により研究が長らく阻害されてきたのは

    紛れもない事実である。上述のガイ、コートらによる論考でも、基本資料はほとんどが来歴不明の民間

    コレクションを用いており、実証的な論考とは言い難い。カンボジア国内で学術調査が行えるようにな

    ってきたのはようやく 1990 年代に入ってからのことである。したがって、E.アイモニエによるプノン・

    クーレンの窯跡発見以来100年以上の研究の歴史をもつクメール陶器であるが、内乱による資料の散逸、

    混乱を経た現在では、未だに開拓されずにいる、新興の研究領域であると言ってよいだろう。

     それでは、こうした新たな研究分野では、どのような研究の目的を設定し、方法論を構築すべきであ

    ろうか。クメール陶器研究の目的と方法を明確にする必要がある。筆者は陶磁器研究の目標として6つ

    の研究の方向性を提示したが、現在のクメール陶器研究に最も要求されているのは生産活動の解明であ

    ると考えられる。陶磁器研究の変遷で見てきた通り、新たな研究領域が開かれた場合、その前提となる

    のは基準資料の精緻で、実証的な基礎研究(生産技術・編年等)である。

     現在のクメール陶器研究に必要なのは、まさしくこのような実証的な基礎研究である。しかし、こう

    した実証的基礎研究は現在のカンボジア考古学の枠組みで可能なのであろうか。筆者は十分可能である

    と考えている。1995 年にはタニ窯跡群が発見され、翌年から行われた発掘調査により、生産地からの膨

    大なデータが得られており(青柳ほか 1997-2001)、研究の下地は整っている。無論、生産地研究だけで

    はなく編年研究も研究の基礎であり、急務の研究ではある。しかし編年研究とは生産地だけでなく、消

    費地での発掘成果をふまえて総合的に構築すべき研究である。残念ながら消費地での本格的な考古学的

    調査例が少なく、現段階で包括的なクメール陶器編年の構築は(データの希少性故に)難しい。亀井の

    指摘する通り、陶磁器研究にとって曖昧な年代観はさけて通るべきである。したがって(将来の研究の

    基礎として)、陶磁器生産の実態やその時代的、地域的な推移、さらには生産技術の発達やその変化の特

    徴を追求することを目的とした生産地研究、特に製陶技術の研究をまず行う必要がある。

     それでは、タニ窯跡群を中心とした製陶技術研究は、具体的に何を解明し得るのであろうか。複数の

    成果が期待できる。すなわち、来歴不明であった従来のクメール陶器資料にかわる確実な基準資料の構

    築、生産地における基本組成の解明、アンコール地域における各窯跡群の製陶技術の異同からの陶磁器

    生産モデルの構築、隣接地域との比較研究から導き出されるアンコール王朝における窯業技術の成立と

    展開、ひいては東南アジアにおける窯業技術の変遷の解明などである。

     こうした製陶技術研究では、方法論としてフィールドワークにおける窯跡遺跡の発掘調査・踏査を重

    視する。資料の取り扱いに関しては、型式学的手法を用い、資料に内在する様々な属性を記述、図化し

    て出土資料を型式へと昇華させる。この過程で、クメール陶器に関わる生業技術を窯跡単位で再構成す

    る。同様の研究を各窯跡で行い、アンコール地域における生産モデルを構築する。さらに隣接地域との

    比較研究から、アンコール王朝における窯業技術の成立と展開を追求するのである。

  • 9

    本論の構成に関して

     本論は序章から終章まで、全部で7章の構成となっている。序章から第2章までが論文の導入部にあ

    たり、目的、研究史、方法論、対象地域の歴史的・地理的背景など、議論を進めるにあたっての基礎的

    な事項が検討される。第3章と4章がフィールド調査・分析の論述となり、最後に第5章から終章にお

    いて調査・分析結果の検討・解釈と考察がおこなわれ、最終的な結論と主張が提示される。

  • 10

    第1章 研究史と方法論

    本章の目的は、本研究が先行する諸成果といかに密接な関連を持っているのかを明示し、研究を遂行

    するにあたってどのような方法論が最もふさわしいかについて論じることにある。

     クメール陶器の研究は 19 世紀末のプノン・クーレンにおける窯跡発見から開始された。したがってク

    メール陶器研究は、既に百余年の研究史を有している事になる。しかし、内戦による資料の散逸など、

    この百年間の研究は着実に前進してきたわけではなく、何年もの停滞期を含みながら徐々に行われたの

    であり、飛躍的に研究が進み始めたのはごく近年の事である。

    こうした近年の研究状況をうけ、クメール陶器研究の通史が杉山洋によって纏められている(杉山

    1997、 2000)。杉山による通史はクメール陶器研究における基本文献をわかりやすく解説しており、こ

    れまでの先行諸学の研究成果を容易に把握することのできる格好の入門書ともなっている。しかし、杉

    山の研究史以降もクメール陶器に関する新たな研究論文は発表されつづけており、また本論の研究背景

    を明らかにするためにも、ここで改めて研究史を纏めることは無益な作業とは言えまい。

    以下、クメール陶器研究を通史的に概観したのち、これまでのクメール陶器研究でおこなわれてきた

    編年論、起源論、機能論、生産地、自然科学分析という大きな研究の方向性に則して個別に研究史を再

    構成し、研究の現状と課題を明らかにする。さらにそれぞれの研究で用いられてきた方法論と成果を吟

    味することにより、本論が目指す研究の目的とその方法論について論じたい。

    1-1 クメール陶器研究通史

    クメール陶器の研究を通史的に取り扱うに当たり、まずは大きく三つの時期設定を試みたい。最初の

    段階は、19 世紀末のクメール陶器窯の発見から B.P.グロリエがアンコール地域に赴任し、研究を開始す

    るまでとした。この段階までは、ほとんどの研究が遺跡の探訪とそれによる資料の紹介に終始している。

    その次の段階は、主にグロリエによって研究がリードされた段階である。考古学・美術史学両面から本

    格的な研究が開始され、内戦の影響をうけながらも今日の研究の基礎が形作られた時期でもある。本段

    階は内戦終了時までとしたい。第三段階は、内戦終了時から現在まで続いている。カンボジア国内での

    調査研究も再び可能になり、新たな資料の発見も相次いでいる。クメール陶器の研究が本格化した時期

    と位置づけられよう。以下、段階ごとに研究史を概観したい。

    クメール陶器研究の黎明期

     この時期は、遺跡の探訪と資料の紹介が中心になされた研究の前史と位置づけられる。前述のように、

    クメール陶器研究は、通常 19 世紀末のプノン・クーレン窯発見をもってその嚆矢とする14。クメール陶

    14クメール陶器の非クメール世界への紹介という観点からすると、周達観の記述(周 和田訳注 1989)もあげられる。

  • 11

    器が考古学という西欧近代的な知の枠組みに取り込まれたのは、やはり他のアンコール遺跡群と同様に

    フランス人研究者の手によってであった。E.アイモニエの著した Le Cambodge には、ダンレック山脈の

    近くにあるバッ・ダイ(Bak Daï)村の東南にプレ・アセイないしはプレ・ライセイという土地があり、

    無数の陶片があること、そして1883年にプノン・クーレンを訪れた際、アンロン・トム(Anlong Thom)

    村の西南にあるサンポウ・トレアイ15という土地に無数の陶片が散乱していた状況が報告されている

    (Aymonier 1901: 189 -414)。

     この頃は、クメール陶器が陶磁器としては認識されているものの、主な研究主題として取り上げられ

    ることはなかったようである。1931 年に出版されたプノンペンのアルバート・サロー博物館(現国立博

    物館)の図録には、植民地時代に収集された石像、青銅製品とともにクメール陶器も載せられているが、

    全 50 頁の図版のうちクメール陶器は2頁ほどしか掲載されておらず(Groslier 1931)、クメール陶器に関

    する関心がさほど高くなかったことをうかがわせる。

     研究の主題にこそならなかったがクメール陶器が認識されていたことは間違いなく、こうしたカンボ

    ジア国内での動向と平行して、東北タイのクメール陶器も早い時期から認識されていた。W. A.グラハム

    は 1920 年代にバンコクのアンティークショップで東北タイから出土したクメール陶器を発見し、報告し

    ている(Graham 1986: 11-38)。しかし、体系的な研究の開始は B. P.グロリエの登場を待たねばならなか

    ったのである。

    1950年代からのクメール陶器研究

     19 世紀末より徐々にではあるが認識されてきたクメール陶器が、本格的に研究対象となったのは 1950

    年代以降のことである。カンボジア・タイ両国で平行してクメール陶器の研究が行われた(実際にはタ

    イで発掘調査をふくむ研究が進展したのは 70 年代にはいってからのことであるが)。また、クメール陶

    器の骨董的価値もこのころから広く認識されるようになり、1960 年代からバンコクのアンティークショ

    ップを通じて海外にも数多く流出した。この時期、特に 1970 年代からは、考古学的・美術史学的関心と

    骨董的関心のもとにクメール陶器が追求されはじめた時代ともいえよう。前者の成果は B. P.グロリエ、

    R.ブラウン、D.ルーニーらの論考に代表され、後者は民間のコレクションの形成と展覧会へと結びつい

    た。カンボジア・タイという二つの国家、学術的関心と骨董的関心という二つのアプローチがこの時期

    のクメール陶器研究のなかに混在するのである。

    周は13世紀末に元朝の使節に随行してアンコールに滞在し、その地の風俗を書き記しているが、この中には瓦などの陶磁器の記述がある。但し、周の記録は風俗全体を対象にしているため、陶磁器そのものの記述も少なく、学術的関

    心のもとに体系だって陶磁器資料を紹介しているわけではない。さらに、周の記述によってクメール陶器の研究が開

    始されたわけではないため、研究史のなかに位置づける事はせず、13世紀末の貴重な情報として扱うほうが良いだろう。無論、このことが『真臘風土記』の資料的価値を損なうわけではない。むしろ、風俗全体の中で、短いとはいえ

    陶磁器について述べられているということは、少なくとも陶磁器が周の関心を引いていたと見るべきであろう。15 ダンレック山脈の近くの窯跡が現在のどの窯跡に当たるのか不明確であるが、プノン・クーレンの窯跡は第3章で取り上げるアンロン・トム窯跡に相当すると思われる。

  • 12

     カンボジア国内のクメール陶器研究に関し、もっとも指導的な役割を果たしたのが B. P.グロリエであ

    った。以下、彼の略歴にふれてみたい。

     B. P.グロリエは 1926 年にプノンペンで生まれた。父である G.グロリエは画家であったが、クメール美

    術に傾倒し、1920 年にはプノンペンのアルベール・サロー博物館(現国立博物館)を創設し、1942 年ま

    で館長を務めた人物である。またA.シリスと共にサンポウ・トレイの踏査も行っている。

     グロリエ自身はフランスで教育を受けた後、アンコール遺跡群の調査研究と保存事業にその生涯を捧

    げた。1959 年から 75 年までフランス極東学院考古学研究所長、同じく 59 年からアンコール遺跡事務所

    の顧問に就任した。カンボジア情勢の悪化にともないフランスへ帰国を余儀なくされ、1986 年にパリで

    その生涯を終えた。彼の研究活動は多岐にわたり、その成果は後続の研究者達に大きな影響を与えてい

    る。カンボジアとアンコール遺跡に関する代表的な研究は1)アンコール遺跡の保存修復、2)カンボ

    ジア史の再発見とポスト・アンコール史の構築、3)水利都市としてのアンコール都城研究、4)考古

    発掘と陶器研究であるとされている(中島 2000: 258)。

     1950 年代、アンコール・トム王宮跡の発掘調査で多量の陶器資料が出土したことがきっかけで、グロ

    リエはクメール陶器に注目するようになった。19 世紀末より資料報告がされてきていたものの、石造建

    築物や碑文に比べて研究が立ち後れていたクメール陶器は、20 世紀の半ばをすぎてようやく考古学研究

    の対象となったのである。彼自身が指揮した 1962 年のサンボール・プレイ・クック、1964 年のスラ・

    スラン墓域の発掘調査でも多量の陶器資料が出土したとされており、こうしたアンコール地域での発掘

    成果が後の彼の陶器研究の基礎資料となっている。

     カンボジアからの帰国と早世のため、彼がクメール陶器に関して体系的に論じている論文は非常に数

    が少ない。グロリエが存命中に表したほとんど唯一のクメール陶器研究論文は、1981 年にシンガポール

    で開催されたクメール陶器展の図録16に掲載されており(Groslier 1981)、現在の研究の基礎を築いたもの

    として高く評価されている。

     この図録に先立ち、シンガポールでは 1971 年に東南アジア産陶磁器の展覧会が開かれているが、注目

    したいのはこれら展覧会の主催がSoutheast Asian Ceramic Societyという愛好家団体であったという点であ

    り、骨董的関心のもとに形成されたコレクションと学術的関心のもとになされた研究がここでは混在し

    ているのである17。

    16 図録にはグロリエの他R.ブラウン、D.ルーニーの論文も掲載され、クメール陶器研究のまとまった研究書となった。この三者は1990年代までのクメール陶器研究をリードすることになる。なお、グロリエの論文は英文であったが、1995年にはフランス語のオリジナル原稿に補注を加えたものが『ペナンシュル』誌に再掲載された(Groslier 1995)。さらに1998年にはフランス語版を基にした日本語訳(グロリエ 津田訳 1998)、2000年にはカンボジア語訳(Groslier 2000訳者不明、内容から底本は英語版と思われる)が刊行されている。17 民間コレクションがどのように形成されていったのか、その成立過程を追求することは大変に困難である。海外にコレクションが存在する以上、アンティークディーラー達が陶磁器を商品として取り扱ったのであろう。ただし30年前のコレクション形成に際し、文化財の不法な輸入、輸出及び所有権譲渡を禁止した国際条約(パリ条約、1972年発効)に抵触する行為が行われたかどうかを検証するのは事実上不可能である。ここでは、コレクションの存在を指摘

  • 13

     またこの頃からカンボジア国内出土資料を基礎においた研究のほかに、タイ出土のクメール陶器資料

    を基礎とした研究も行われるようになってきた。その代表的な研究者の一人は、1981 年の図録にグロリ

    エと共に論文を掲載した R.ブラウンである。タイをメイン・フィールドとし、東南アジア美術を専門と

    する彼女は、1978 年に東北タイのクメール寺院であるプラサット・バン・プルアン出土資料を報告し、

    さらに 1981 年の論文では、窯跡及び周辺寺院所蔵の陶器類に言及している(Brown 1981)。ブラウンの

    研究の基礎となる資料は、1972 年から調査されたプラサット・バン・プルアン、1973 年に報告されたス

    リン県の窯跡、1980年代を中心に調査されたブリラム県の窯跡など東北タイの資料である。

     D.ルーニーもまた 1981 年の図録へ寄稿しているが、その内容は主としてクメール陶器の使用法につい

    てである。ルーニーもまたブラウンと同様にタイを中心に研究を行っている。1984 年にはクメール陶器

    に関する著書を発表している(Rooney 1984)が、これは今のところクメール陶器のみを対象とした唯一

    の単行本である。ルーニーは主にクメール陶器の文様・施文法・器形の集成に力を注ぎ、また使用法に

    ついても論じている。彼女はまた、これまでの成果を 1989 年に富山美術館で開催された個人コレクショ

    ンの展覧会、『クメール王国の古陶』展の英語版図録の序章にまとめている(Fujiwara 1990)。

     タイでは発掘調査も含めた研究が行われているが、タイにおけるクメール陶器の研究も、アンコール

    遺跡群と同様に修復工事の際に出土した陶器が研究の契機となったようである。東北タイのスリン県に

    あるプラサット・バン・プルアンは、比較的小規模なクメール建築であるが、アメリカ人建築家 V.チル

    ドレスが中心となり、タイ芸術局の協力のもと、1972 年から五年間の修復工事がおこなわれた。この修

    復工事にともない、大量の陶磁器資料が発見されたことをうけ、前述のブラウンが 1975 年から資料の基

    礎的な検討をおこない、チルドレスと連名で資料を紹介している(Childress & Brown 1978)。またブラウ

    ンらは、1973 年にはスリン県のバン・サワイ村で発見された窯跡を訪問し、資料の紹介を行うと共に化

    学分析も試みている(Brown et. al. 1974)。

     スリン県での報告と前後し、ブリラム県でも窯跡の調査が進められてきた18。タイ芸術局は東北タイ考

    古調査計画を組織し、窯跡の分布調査がスタートした。1980 年代にはいり、東北タイでのインフラスト

    ラクチャー整備や田圃の開発により多くの窯が消滅するなか、1984 年にはコック・リン・ファー窯跡が

    発掘され、その後 1984 年にはナイ・ジアン窯跡が、1988 年にはサワイ窯跡が発掘された(Fine Arts

    Department, Thailand 1989)。これ以降今日にいたるまで、東北タイでの窯体構造や製品の紹介が続けられ

    ている(Chandavij 1990, Khwanyuen 1985, Srisuchat 1989)。

     このほか、中国や韓国とならんで陶磁器研究者の多い日本でも、比較的早い段階からクメール陶器に

    対する関心が生まれていた。いくつもの民間コレクションが日本国内で形成され、後に展示や図録など

    するにとどめたい。18 実際にはブリラム県にかなりの数の窯跡が存在することは以前より知られていたようであり、1920年代にはバンコクのアンティークショップで東北タイから出土したクメール陶器が流通していたことがグラハムにより指摘されてい

    る(Graham 1986)。

  • 14

    が出版されている(町田市立博物館 1994、Fujiwara 1990、Honda and Shimazu 1997)。また民間コレクタ

    ーだけでなく、矢部良明や長谷部楽爾といった研究者も早くからクメール陶器に注目し、グロリエの概

    説を日本に紹介するだけでなく、クメール陶器の成立に関する独自の見解をのべている(長谷部 1984、

    1989、矢部 1978)。内戦によりカンボジア国内での調査が不可能になっても、カンボジア外での研究は

    徐々にではあるが進められ、今日の研究の基礎を形作ってきたのである。

    内戦終了後のクメール陶器研究

     カンボジア国民の人心のみならず文化財にも大きな傷跡を残した内戦であったが、1991 年に停戦合意

    が行われて以来、再びカンボジア国内での調査研究が行われるようになり、クメール陶器研究も新たな

    段階に入ってきている。

     1995 年夏、内戦中の 80 年代よりカンボジア現地で調査を行っていた上智大学アンコール遺跡国際調

    査団は第 16 次調査としてバンテアイ・クデイ寺院の調査を行っていた。調査期間中、考古班のメンバー

    に対して地元民から工事や開墾作業中に陶器が出たとの情報が寄せられた。これを受けてアンコール・

    トムの北東 17 キロにあるルン・タエック集落タニ村へ向かった調査団は、道路によって切り通された窯

    跡を発見した(松尾 2000: 196)。タニ窯跡群の発見である。翌 96 年より同調査団によって発掘が開始さ

    れ、現在は最終報告書の出版準備がすすめられているが、すでに8編の概報が刊行されている(青柳ほ

    か 1997-2001)。また 1999 年と 2000 年には奈良国立文化財研究所によっても発掘調査が行われ、概報が

    2編刊行されている(文化庁伝統文化課・奈良国立文化財研究所 2000a, 2001)。消費地での報告事例と

    して、アンコール・トム王宮出土陶磁器の紹介などもなされている(Franiatte 2000)。

     こうした新たな資料発見をうけ、1997年にはJ.ガイによる新たなクメール陶器研究論文が発表された。

    これはおもにクメール陶器の起源、生産された器種、それらが使用された建築学的・社会的コンテクス

    トを考察の対象としており、とくに起源に関してはインドの金属器を重視している(Guy 1997)。L.コー

    トは基礎資料としてスミソニアン博物館への寄贈資料をもちいながらも、最新の発掘成果をふまえ、ク

    メール陶器の器種、成形、装飾、釉薬、焼成といった技術的な問題やクメール陶器が当時の社会で果た

    した機能、他の美術工芸品との関連性や交易といったクメール陶器をめぐる諸問題について多面的に述

    べた概説を発表した(Cort 2000)。さらにここ2~3年来、カンボジアでの新たな窯跡発見が相次ぎ、プ

    ノンペン王立芸術大学の学生等が卒業研究として精力的に踏査をおこなっているようである。また、タ

    ニ窯跡群の発掘調査にかかわった何名かの学生は、クメール陶器をそれぞれの修士論文のテーマとし、

    タニ窯跡群出土資料の型式学的研究をおこなったもの(隅田 2000、エア 1999)、ソサイ窯跡の踏査と基

    本器種について論じたもの(Tin 2004)などが存在する。筆者もまたタニ窯跡群の発掘調査に携わってお

    り、その成果をもとにタニ窯跡群資料の型式学的研究と技術復元に関する試論を発表している(田畑

    2003)。タニ窯跡群A6号窯跡の調査責任者であった杉山洋も、これまでの研究成果をまとめるとともに、

    タニ窯跡群の性格付けに関する論考を発表している(杉山 2004a)。このように過去十年来、クメール陶

  • 15

    器研究は急速な進展をみせつつあるが、ここで研究の課題を再確認するためにもこれまでのクメール陶

    器研究でおこなわれてきた編年論、起源論、機能論、生産地、自然科学分析という大きな研究の方向性

    に則して個別に研究史を再構成し、研究の現状と課題を明らかにしたい。

    1-2 編年研究

     編年研究は考古学研究の基礎をなす研究の一つであり、現在もっともその進展が望まれている分野の

    一つであるが、現状では詳細な編年体系が構築されているとは言い難いのが現状である。極言すれば、

    グロリエ以降はかばかしい進展がみられないとも言える。これは発掘件数の少なさ故の信頼出来る、層

    位学的資料に恵まれていないことに起因する。現在も参照されているクメール陶器の暫定編年を構築し

    たのは B.P.グロリエであるが、この編年案は彼の行ったアンコール遺跡群出土資料と、遺跡の年代を基

    礎として構築されている。残念ながら、筆者はグロリエが用いながら内戦により散逸してしまったとさ

    れる資料を追跡しきることが出来ず論文のみからの引用となってしまったが、その内容は以下の通りで

    ある19。

    I.プレ・アンコール期・・・6世紀末~8世紀末

     サンボール・プレイ・クック出土のロクロ製陶磁器(土器)を基にしている。大形の容器が多い。器

    種としては丸い胴部、長い頸部、水平に外反する口縁部、垂直の縁帯をもつ甕(ガタ gatha)、丸い胴部

    と短い頸部、および注口をもつ水注(ブルンガラ bhrngara)、小形で長い注口を持つ水注(クンディ

    kundi)、注口がなく、口縁部の外反する水注(カラサ kalasa)、長い頸部をもつ小形の手洗い用壺(ロタ lota)

    などである20。

     胎土は精製され、砂や砕いた土器片を混和材として使用している。焼成は良好であり、明黄色から淡

    黄褐色を呈する。胎土の断面の芯は灰色のため、還元焼成だとしている。ロクロ成形であるが窯の使用

    に関しては懐疑的である。多くのものはスリップが掛けられ、白と赤の彩色がその上に施されている。

    II.誕生期・・・インドラヴァルマン I世(877~889年)

     施釉陶器と施釉瓦が出現した時期とされる。指標となる遺跡としてロリュオス遺跡群が挙げられる。

    主要な器種は無高台で半円球形ないしは逆円錐台形の碗、小形の瓶(盤口瓶)、そして小形の平形合子・

    筒形合子である。ロクロ目や糸切り痕からロクロ成形であるとしているが、器形の規格性やサイズから、

    形作りも想定している。この時期以降、底部にはしばしば焼成前に線刻のマークが施される。

    19 既に述べた通り、グロリエのクメール陶器に関する論文は4版存在するが、ここでは底本として英語版およびフランス語を用い、必要に応じて日本語版を参照した。英語版とフランス語版では章立てが異なっている。20 グロリエはこのように土器の形態がインド起源であり、扶南を経由して(直接もたらされたと断言はできないが)もたらされたのではないかと考えている(Groslier 1981: 14)。

  • 16

     胎土はくすんだ白色を呈し、堅く、多孔質で非常に良く精製されている。混和材は観察されない。半

    透明の釉薬は薄く、亀裂がない。色調は乳白色からかなり明るい麦わら色、あるいは中国茶の緑色まで

    変化する。黄色ないし明緑色の釉を呼ぶのにクーレン21の名をあてている。また焼成に関しては、バクセ

    イ・チャムクロン遺跡やトマノン遺跡で発見された無釉合子から、二度焼きを想定している22。

    III.揺籃期・・・ヤショヴァルマン I世(889~ca. 910年)~ジャヤヴァルマンV世(968~1001)

     宋代の陶磁器の輸入量が増加する時期とされる。こうした中国の影響で小形の合子(平形合子)が次

    第に減少する。10 世紀後半には陶磁器生産が著しく発達し、良く精製されて緻密な、灰色に焼き上がる

    胎土が現れる。こうした胎土を持つ製品の釉薬は、より厚く、なめらかで良く胎土となじんでいる。器

    種としては前段階のものを踏襲し、さらに丸形合子、脚台付き壺などが加わる。

     さらに、この時期にリドヴァン(lie-de-vin)陶器が現れる。リドヴァン陶器とは、ワインの澱と発色

    が似ているためグロリエによって命名されたクメール陶器の一カテゴリーであり、酸化鉄とおそらく木

    灰が加えられた化粧土によって焼成後に光沢を持つものを指す23。器種としては大形の深鉢、広口の甕、

    頸部の細い瓶、短い注口のつく水注、逆円錐形の小壺などがあげられる。また、黒褐釉をこのリドヴァ

    ンから派生したものであるとし、その出現を10世紀末としている。

    IV.青年期・・・スールヤヴァルマン I世(1002~1050年)

     クメール陶器が自立的なアートになった時期とされる24。クーレン・タイプ、すなわち灰釉陶器では胎

    土がほぼすべて灰色で緻密なものとなる。リドヴァン陶器は姿を消す。クーレン・タイプの小形の平形

    合子も姿を消している。10 世紀末より黒褐釉が出現し、器種も増加する。クメール陶器に非常に特徴的

    な、黒褐釉のバラスター壺が現れるのもこの時期からである25。鳥や象などの動物形態器が出現するのも

    この時期からである。

    V.発展期・・・ウダヤーディティヤヴァルマン II世(1050~1066年)

     黒褐釉の質感・色調が多様化する時期である。灰釉と黒褐釉の二色釉陶器も出現するが、グロリエは

    これを中国産陶磁器の影響と考えている。既に存在する器種に様々な変化が加えられる。新しい器形と

    して、小形の筒形合子で胴部がやや凹面状になったもの、円錐を二つ張り合わせたような脚台付きの壺

    21 いわゆるクーレン・タイプの釉のこと。22 杉山はこの問題について、二度焼きを否定しないものの、意図して無釉陶器を生産したのではないかと指摘している(杉山 1997)。筆者も、こうした杉山の見解を支持したい。23 現在このリドヴァン陶器については、研究者の多くはこのカテゴリー自体の存在に懐疑的である(例えば杉山 1997,2000)。24(その起源がインドであるのか、中国であるのか、あるいはその他の地域であるのかをべつにして)、クメール陶器

    から外来文化の影響が薄くなり、より自立的な様式が確立されたとしている。25 グロリエは、バラスター壺の器形自体は7世紀に出現するとしている(Gloslier 1981: 23)。

  • 17

    が現れる。また、逆円錐形の碗がより多量に再出現する。

    VI.結晶期・・・ジャヤヴァルマンVI世(1080~1107年)

     スラ・スラン墓域出土の一括遺物を指標とする。前段階に見られるような陶磁器の発展速度は鈍化し、

    結晶化する時期とされている。二色釉は非常に少なくなり、明るい釉薬(灰釉)が頸部と肩部全体に広

    がる傾向がある。黒褐釉がミニチュアを含むすべての製品のなかで支配的になり、様々な釉調がみられ

    る26。器種的には前段階のものを継承するが、装飾技法としてはより沈線文を多用するようになる。

    VII.古典期・・・スールヤヴァルマン II世(1113~ca. 1150年)

     黒褐釉が完全に主流をしめ、灰釉は蓋付き壺(合子)に限られる。化粧土の上に黒褐釉が施されるが、

    釉はしだいに薄くなる。器種の増加はほとんど見られない。注口付きの水注はほとんど見られなくなる。

    大形の壺・甕は多いが、装飾が独特で、地方窯の可能性もある。小形のものはほとんどすべてが黒褐釉

    である。扁平壺に短い注口と口縁付近に縦の把手が付いた器種が現れる。これらは鳥形をしていること

    が多く、蓋もついている。また、人面の飾りをもつヒョウタン形の壺もこの時期に特徴的なものである。

    VIII.終末期・・・ジャヤヴァルマンVII世(1186~1218年)~15・16世紀

     アンコール・トム王宮の発掘では北宋から明にかけての中国産陶磁器が出土し、中国産陶磁器のクメ

    ール施釉陶器に対する比率は、北宋で 50%、南宋で 70%、元と明では 80%にもなる。クメール陶器の

    器種は減少し、灰釉陶器では納骨器と考えられる筒形合子のみとなる。二色釉は見つかっていない。黒

    褐釉は光沢がなく厚くなる。器種としてはバラスター壺、壺、甕、扁平壺、球形の小壺、象形の動物形

    態器などである。

     この時期以降、年代決定に利用できる石造建築物が少なくなるため、編年は困難になるが、おそらく

    施釉瓦のみは16世紀まで作り続けられたのではないかとされている。

     現在までのところ、クメール陶器の年代観はグロリエの編年案を出発点としており、ブラウン、ルー

    ニーらの研究でも、年代観は基本的にグロリエのものを踏襲している。しかし、その後の研究者によっ

    て指摘されている通り(杉山 1997: 237、Cort 2000: 110)、彼の編年には、(自身が明らかにしているよう

    に)いくつかの限界がある。第一は遺跡修復を優先課題とするための制約からきている。修復計画に伴

    い主として寺院や都市の位置関係を確かめるために発掘が行われたが、都やモニュメントの年代をみる

    と、いくつか調査の欠落する時代がでてきている27。また、陶磁器の進展は、建築や彫刻の様式や王の治

    26 グロリエはこうした黒褐釉に対し、中国の天目を模倣した様な印象を受けると述べている(Gloslier 1981: 27-28)。27 具体的には10世紀第1四半期、10世紀末~11世紀初頭、11世紀第4四半期、12世紀第3四半期である。また、13

  • 18

    世のような歴史のリズムに必ずしも従っている訳ではないとしている。第二の制約は、サンボール・プ

    レイ・クックを除いてはアンコール遺跡群でしか発掘が行われていないことからきている。従って、ア

    ンコール地域での変遷が、クメールの他の地域でも同様に起こったのかどうかは不明である。さらに、

    寺院や王宮という遺跡の性格上、その出土遺物にも制約28が存在した可能性がある。年代決定に関する問

    題点としても、墓域での一括遺物が果たして完全に同時代性を有しているのかどうか(埋納時に既に伝

    世品が存在するのではないか)といった問題や、安直な交差年代法の使用からくる誤謬の可能性も指摘

    している29(Gloslier 1981: 16-17)。

    こうしたグロリエ自身が認識している方法論上の問題点のほかに、彼の論考にはさらにいくつかの問題

    点が見られる30。第一は基準資料の曖昧さである。展覧会図録という刊行物の性質上、原文中で参照され

    る図版がすべて出土地不明の展覧会コレクションであるのは致し方ないが、サンボール・プレイ・クッ

    クとスラ・スラン以外には、指標となるべき遺跡が提示されておらず、編年の追認が非常に困難である。

     こうしたグロリエの年代観とは別の観点から年代を推定しようという動きもあり、放射性炭素年代に

    よる年代測定なども行われているが、これについては最終章で論ずる。いずれにせよ、信頼出来る年代

    観はクメール陶器研究のみならずカンボジア考古学全体で求められているものであるが、今後は層位学

    的資料を増加させ、信頼出来る編年を構築する必要がある。なお年代の問題については、筆者なりのク

    メール陶器の年代観を最終章において提示しているので、そちらも参照されたい。

    1-3 起源論的研究

     起源論的研究とはクメール陶器の成立に関する研究をさす。クメール陶器の研究には幾つかの方向性

    があるが、この起源論的研究も他の研究と同様に、グロリエの研究が出発点となっている。クメール陶

    器の起源をめぐっては、常に「インドか中国か」という前提が先験的についてまわってきた。すなわち、

    クメール陶器の成立において、インドや中国からの圧倒的な文化的影響力をいかに評価するかという問

    題である。筆者は本研究を通じ、クメール陶器の起源はインドか中国かといった二項的なものではなく、

    むしろクメール自身の自律的展開を重視すべきであるとの見解にいたったが、その議論は次章以降に譲

    るとして、ここではこれまでの意見を整理したい。

     まずグロリエの論であるが、彼はクメールの土器に見られるロクロの使用に関してはその起源をイン

    世紀中頃から1430年頃のアンコールの最終的な廃棄までの寺院は、石造建築物がないため、たどるのが難しいとしている(Gloslier 1981: 15)。28 すなわち、あるタイプの器が信仰に使われるものであったとすると、その器種は信仰によって定着し、長期間不変のままである可能性などである(Gloslier 1981: 16)。29 こうした問題は、陶磁器を考古資料として取り扱う場合、良く吟味されなければならない。陶磁器と年代に関する問題に関しては、亀井明徳による論考(亀井 2001)を参照のこと。30 但し、こうした問題点の指摘は、グロリエの論考が展覧会図録という必ずしも専門家のみを対象としてはいない刊行物に載っていること、国外退去を余儀なくされたことによる資料的制約などを念頭におくと、やや厳しすぎるのか

    もしれない。

  • 19

    ドにもとめるものの、9世紀末にはインドの影響から決別し、中国の影響がクメール陶器生産に決定的

    なものであったとしている。その根拠としては、胎土、仕上げ、釉薬、形態などすべてが中国式である

    ことをあげ、それまでのインドの影響から完全に決別したとしている(Groslier 1981: 20, 1995: 27)。さら

    に、こうした新技術は単に中国から輸入されたものを見て再現したとは思えず、中国人(あるいは中国

    化した)陶工が作り上げ、職人を育てた可能性があるとしている(Ibid.)。したがって、グロリエの考え

    るクメール陶器の成立は、インドを根底に置きながらも中国陶磁器の決定的な影響下にあり、しかも中

    国人(ないしは中国化した)陶工による外来技術移転によって成立したものである。こうした考え方は

    ながらく支配的なものであり、近年の論文でも、コートがクメールの灰釉合子について、唐代後期から

    宋代の磁器を思わせることから中国陶磁器の影響を示唆している(コート 2002: 133)。

     しかし、日本陶磁器だけでなく中国陶磁器も研究の大きな主流となっている日本では、早くからこう

    した説に疑問が提示されてきた。長谷部楽爾は、クメールの初期施釉陶器とされるものを検討しても、

    唐末五代の中国陶磁器の影響を確認することは難しい(長谷部 1984: 157、1989: 187)として早くから中

    国陶器の影響について疑問を呈していた。事実、グロリエ自身もアンコールでは唐末五代の中国陶磁器

    の出土量は少ないと認めている(Groslier 1981: 20, 1995: 28)。

     一方、インドの影響に関しては近年、J.ガイによる説がある。ガイはクメール陶器の器種のバリエーシ

    ョンの起源を考える上でインドの影響を考えるべきだとしている。彼は、クメールの土器と金属器の研

    究は将来の課題だとしながらも、クメール陶器のシャープな輪郭、角張って傾斜のついた底部、沈線文

    の多用などから多くのクメール陶器が金属器をモデルとしたことは明らかであり、クメール陶器の大部

    分がこうした特徴をもち、それはインドの金属器がクメール陶器の原形として存在したことをよく指し

    示しているとしている(ガイ 田畑訳 2004: 69)。

     クメール陶器の器形と金属器の関係についてはすでにグロリエや長谷部楽爾によって指摘されていた

    が(Groslier 1981, 1995 長谷部 1984)、ながらく集中的に取り上げられずにきた問題である。確かにク

    メール陶器の独特な器形は金属器との関係を十分にうかがわせるものであるが、そもそも金属器(特に

    インドからの搬入とおもわれるもの)が出土していないことを考えると、検証は非常にむずかしい。ガ

    イはレリーフにのこる器などから金属器と陶器の対応関係の説明を試みているが、やはり金属器の器形

    とクメール陶器の器形の一対一の対応関係が明らかにならない限り立証はできないだろう。

     こうした問題を考える上では6世紀末から9世紀にかけて、つまりサンボール・プレイ・クック以降、

    ロリュオスまでの間に調査例がないことが、起源への考察を困難にしている。したがって、起源論的研

    究も編年的研究と同じく将来の消費地遺跡での発掘調査増加をまって改めて考える方がよいだろう。そ

    の意味では近年開始されたロリュオス遺跡群周辺でのフランス隊の発掘調査の成果が待ち望まれる。

  • 20

    1-4 機能論的研究

     クメール陶器の機能論的研究、すなわち使用法やクメール社会で果たした役割などについては、多く

    を語るのは難しい。グロリエのクメール陶器研究において評価すべき点として、彼が民族学的視点を持

    っていたことが指摘されている(杉山 2000: .236)。たしかにグロリエはカンボジアでも現在使われてい

    る土器に注目し、3グループに分類した後に製作法にも注意を払い、粘土円筒の一方を叩いて丸底に仕

    上げ、露天に積み上げて焼成する様子を報告している。また土器以外の竹や椰子の実などの植物質資源

    を使った容器類の使用方法にもふれている(Groslier 1981: 11-14, 1995: 16-17)。しかしこれらは基本的に

    土器に関する情報であって、クメール陶器、施釉陶器に関する情報は少ない。グロリエがクメール陶器

    の機能としてあげた主なものは、墓域出土のクメール陶器の壺がどれも頸部から破壊されていることを

    根拠とする、埋葬に伴う陶器の「犠牲」である(Groslier 1981: 16, 1995: 22-23)。

     クメール陶器の機能論的問題については考古学的方法論だけでなく、民族学的方法論が有効なのかも

    しれない。しかし、安易な方法論の適用は時として大きな混乱を引き起こす。今のところクメール陶器

    のみを対象とした唯一の単行本の著者であるルーニーは、その著書の後半で様々な器種の使用法につい

    て述べている(Rooney 1984)。そこでは、おそらく自身が実見したのであろう現代カンボジア農村の一

    年が描かれ、幾つかの壺・甕類が水瓶や洗濯、沐浴に使用され、蓋付きの壺が屋内での飲料水貯蔵に用

    いられていることから、クメール陶器の主な使用法を日常生活のためであるとしている(Rooney 1984:

    122-132)。しかしルーニーが実見した現代カンボジアの農村とはいったい何処をさしているのか、調査

    日時はいつなのか、調査方法はどのようなものであったのか、彼女はまったく述べていない。そして現

    代の一コマがいきなり過去へと直結するのである(現在の我々には、アンコール朝で生産されていた様々

    な器に対応する古クメール語の名称推定すらままならない)。たしかに、瓦や壺・甕を碗と同じ食器であ

    るとするには無理がある。しかしこの様な安易な類推を(現代的な意味での)、民族学的方法論を用いた

    類推とは認めがたいだろう31。

     L.コートはレリーフに描かれた器からの類推というある種美術史に伝統的な使用法の類推だけでなく、

    出土状況や器形の詳細な検討から、大多数のクメール陶器はエリートクラスの人間が宗教儀式をはじめ

    とする儀式の際に用いられたのではと推定している(コート 2002: 147-152)。今後、クメール陶器の機

    能論的研究を進めるとすれば、コートの成果をふまえた上で、より洗練された民族考古学的類推を行う

    必要があろう。また、『真臘風土記』などの漢文の文献史料から陶器の使用法に関する記述を検討し、美

    術史、考古学、民族学、文献史学の成果を統合することによって、より実りのある結果が生まれること

    が期待される。

    31 しかし、こうしたルーニーの安易な類推法が最近の論文でも踏襲されている(Tin 2004: 126-131)。憂慮すべき事態ではある。

  • 21

    1-5 生産地研究

     クメール陶器における生産地研究とは、陶器生産の実態やその時代・地域的な推移、生産技術の発達

    や変化を追求することを目的とした研究のことであるが、これは東北タイでは 1980 年代から開始され、

    カンボジアにおいては 1995 年のタニ窯跡群発見以降に本格化した。個々の調査に関してはすでに通史の

    項でのべているので、ここで繰り返すことはしないが、生産地研究の現状としては、最終報告書が刊行

    されている調査例が一例もなく、生産の実態解明が待ち望まれている。その意味では手つかずの分野で

    あるが、タニ窯跡群のように継続的な発掘調査が行われたことから資料の蓄積も十分であり、生産地研

    究は今後のクメール陶器研究の主流の一つとなって行くだろう。現在でも新たな窯跡発見が続いており、

    プノンペン王立芸術大学の学生や、アンコール整備保存機構のスタッフが精力的に踏査をおこなってい

    るようである。またタニ窯跡群の発掘調査にかかわった何名かの学生は、クメール陶器をそれぞれの修

    士論文のテーマとし、タニ窯跡群出土資料の型式学的研究をおこなったもの(隅田 2000、エア 1999)、

    ソサイ窯跡の踏査と基本器種について論じたもの(Tin 2004)などが存在する。筆者もまたタニ窯跡群の

    発掘調査に携わっており、その成果をもとにタニ窯跡群資料の型式学的研究と技術復元に関する試論を

    発表しており(田畑 2003)、タニ窯跡群 A6 号窯跡の調査責任者であった杉山洋も、これまでの研究成

    果をまとめるとともに、タニ窯跡群の性格付けに関する論考を発表している(杉山 2004a)。これらの成

    果は本研究に直接関わるため、次章以降様々な場面で取り上げられ、検討の対象となろう。

    1-6 自然科学的研究

     日本、中国などでは陶磁器研究の際に自然科学的研究、特に胎土や釉薬の成分分析を併用するのが一

    般的であるが、クメール陶器でこうした自然科学分析、とくに化学分析をはじめておこなったのは R.ブ

    ラウンである32。ブラウンは、1970年代中頃にはスリン県のバン・サワイ村で発見された窯跡を訪問し、

    資料の紹介を行うと共に化学分析も試みている。採集された資料は共同研究者のM.グルックマンを通じ、

    Brick Corporation of South Africa Limitedへ送られ、そこで胎土の化学分析が行われている(依頼番号10896)。

    この分析では第一鉄、第二鉄、銅の含有量が求められただけでそれ以上の考察はないが(Brown et. al.

    1974: 245-248)、ブラウンはその後も分析を進めていたようであり、1981 年の論文では黒褐釉は鉄分が

    5.7%で褐色に、8~10%で黒褐色に、12%くらいで再び褐色に変化するとしている。また、10 世紀末の

    黒褐釉陶器の発生と、それ以降のクメール王朝の勢力拡大を関連づけ、陶工がアンコール地域から移動

    し、この地の鉄分の多い粘土に合った黒褐釉を作り始め、アンコール地区へ輸出したと論じている(Brown

    1981: 45-48)。

     ブラウンによる分析以外では、タイ王国芸術局によるコック・リン・ファー窯跡の発掘に際し、20 点

    32 自然科学分析の主要な分析法の一つとしてはほかに放射性炭素年代測定法があるが、これは第6章で詳細に論じているので、そちらを参照されたい。

  • 22

    の出土遺物の成分分析がおこなわれ、SiO2(74%)、Al2O3(18%)、Fe2O3(4%)、CaO(0.4%)、MgO(0.5%)、

    Na2O(0.6%)、K2O(1.3%)という値が示されている。分析の詳細が提示されていないため、これらの

    値が何を意味するのか判断しがたいが33、4パーセントと比較的高い鉄の含有量が特徴的であるとしてい

    る(Khwanyuen 1985: 144)。

     一方、E.ダリスは修士課程での研究で、タニ窯跡群出土資料、バカオン窯跡、カナ・プー窯跡採集資

    料をサンプルとして、X 線透過写真分析、X 線回折分析、蛍光 X 線分析などを行っている。実際の分析

    担当者は不明であるが、X 線回折分析では各窯試料の胎土から石英(Quartz)のほか、クリストバライ

    ト(Cristobalite)、ムライト(Mullite)といった粘土鉱物が検出されており、ムライトは温度 800℃をこえ

    ると粘土中に生成され、クリストバライトは 1200℃付近から生成のピークが現れることから、クメール

    陶器の焼成温度は 800℃~1200℃ぐらいの間であろうと推定している。また、蛍光 X 線分析では各窯の

    胎土や釉薬に大きな違いがみられなかったとしている(エア 1999: 44-49)。

     自然科学分析は、それぞれの分析手法の原理や限界を把握し、共通の分析基準を設けない限り比較検

    討は難しい。現在でも、スミソニアン博物館や奈良文化財研究所によってクメール陶器の自然科学分析

    が行われている。今後は、こうした分析をおしすすめるとともに周辺の粘土サンプルなども併せて分析

    し、