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Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来― ダグラス・C・エンゲルバート Douglas C. Engelbart 業績とビジョン 過去、現在、そして未来 ロジクール 2008 年 11 月

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Page 1: ダグラス・C・エンゲルバート Douglas C. Engelbart...Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来 当時、エンゲルバートは、人生の目標の多くをすでに達成したと感じて

Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来―

ダグラス・C・エンゲルバート

Douglas C. Engelbart

業績とビジョン

過去、現在、そして未来

ロジクール

2008 年 11 月

Page 2: ダグラス・C・エンゲルバート Douglas C. Engelbart...Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来 当時、エンゲルバートは、人生の目標の多くをすでに達成したと感じて

Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来―

ダグラス・C・エンゲルバート(Douglas C. Engelbart)といえば、

ほとんどの人は、コンピュータ用マウスの発明者と答えるでしょ

う。しかし、これは、ミケランジェロを「彫刻家」といい、ジョ

ン・レノンを「歌手」というようなものです。スタンフォード研究

所(SRI)の少人数のグループによって開発されたこのマウスは、は

るかに大きなビジョンのほんの一部にすぎませんでした。

1950 年代、エンゲルバートはある画期的なアイデアを思いつきま

した。当時、数値を処理するだけの巨大なスタンドアロンマシンで

あったコンピュータの研究を前進させるために、知識労働者の道具

として使用してもらい、アイデアを集め、共有するべきではないか

と考えたのです。1960 年代、エンゲルバートは、SRI の研究者グ

ループを率いて、現在のパーソナルコンピュータ産業誕生の基盤と

なる画期的な技術や機能を開発しました。画面上でのテキスト編集

や、対話型ユーザーインタフェース、リモートコンピュータネット

ワーク、ハイパーリンク、そしてもちろんマウスがそれには含まれ

ています。

エンゲルバートは、大衆文化においては有名人とはいえませんが、

PC 業界の偉大な先駆者のひとりとして伝説的な存在です。2000

年には、技術革新の最高の栄誉である National Medal of

Technology(米国技術栄誉賞)を、当時の米国大領領であるビル・

クリントン氏から授与されました。さらに 2005 年には、カリフ

ォルニア州マウンテンビューにある Computer History Museum

の Hall of Fellows に殿堂入りしています。エンゲルバートは、

80 才になった今でも、科学者が知識を共有し、発展させる上で役

立つと信ずるアイデアを信奉し、その技術を開発しています。この

15 年間は、Logitech 社(日本法人ロジクール)のフリーモント本社

(カリフォルニア州)にある自身の Bootstrap Institute 社を率いて

きました。自身を夢追人と自称する彼は、半世紀以上も前に設定し

た人生のコースを、ほとんど頑固ともいえる態度で脇目も振らずに

歩み続けています。

無限に続く廊下

終生衰えることのないエンゲルバートの意欲は、過去のある一瞬に

心に浮かんだひとつのビジョンによって支えられています。それは

1950 年のある月曜日の朝のことでした。その前の週に婚約したば

かりの 25 才のエンゲルバートは、電気技師として働いていたモフ

ェットフィールドに向け車を運転しているところでした。「今でも

とても鮮明に思い出します。突然、ある情景が心に浮かんだので

す。明るく照らされた廊下の左側には窓があり、右側には閉じられ

たドアが並んでいました。光沢のあるリノリウムの廊下はどこまで

も『無限に』続いていました」と、彼は詳しく描写しています。

25 歳のエンゲルバーとの心

に、突然ある情景が浮かびま

した。

「今でもとても鮮明に思い出

します。突然、ある情景が心

に浮かんだのです。明るく照

らされた廊下の左側には窓

が、右側には閉じられたドア

が並んでいました。光沢のあ

るリノリウムの廊下はどこま

でも『無限に』続いていまし

た。」

Page 3: ダグラス・C・エンゲルバート Douglas C. Engelbart...Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来 当時、エンゲルバートは、人生の目標の多くをすでに達成したと感じて

Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来―

当時、エンゲルバートは、人生の目標の多くをすでに達成したと感じて

いました。彼は、オレゴン州ポートランド近くの小さな農場で幼少時代

を過ごした後、オレゴン州立大学で電気工学の学位を取得します。しか

し、学部での勉強は、海軍で過ごした 2 年間によって中断を余儀なく

されました。第二次世界大戦の直後、レーダー技師としてフィリピンに

駐留していたからです。1948 年に学位を取得した彼は、モフェット

フィールドの Ames Research Center (エームス研究センター)に入

り、NASA の前身である全米航空諮問委員会(NACA)で働き始めま

す。オレゴンの田舎育ちにしては悪くないものでした。

しかし、エンゲルバートの心に浮かんだあの情景が「次はどうするの

だ」と答えをせかすのでした。「私は、意義を持った仕事をしたい、自

分の人生が人類の利益に貢献できるように目標を定めよう、と考えまし

た。」

新しい目標を思い付くにはほんの数分もあれば十分でしたが、仕事の具

体的な道筋がはっきりするまでには、それから数年かかりました。エン

ゲルバートは、地球レベルで考えると「問題は複雑になるばかりなの

に、問題を共同で解決する能力は少しもよくならない」ということに気

づいていました。彼は、第三世界の国々の問題、たとえば、病気につい

て考えてみました。マラリアが発生すれば、何千という人々が死ぬかも

しれません。政府は科学者を支援し、科学者は対抗手段を考え出すでし

ょう。しかし、このような手段は究極的には新たな問題である限りある

地域の資源を枯渇させるであろう人口の過剰という事態を生み出すかも

しれない。それに関してエンゲルバートは、「問題のある分野の理解を

共同で深める方法が必要なことはすでに明白でした」と、述べていま

す。

この事実に悩まされたエンゲルバートは、3 つの経験から得た知識を 1

つのアイデアに変えました。

海軍にいたころ、エンゲルバートは、赤十字の図書館で手にとった雑誌

にヴァネヴァー・ブッシュの“As We May Think”という論文を目に

しました。この論文は、元々1945 年 7 月のアトランティック・マン

スリー誌に掲載されたものでしたが、関連ある研究論文などを効率的に

検索できるツールを科学者に提供するための、情報保管システム開発へ

の必要性を明確に述べたものでした。そうすれば、科学者はすでに存在

する研究の上に新たな研究を進めることができます。その論文の中でブ

ッシュは、「今や人類の経験の蓄積は途方もない速さで進んでいます。

にもかかわらず、迷路のようなこの蓄積を選り分けて重要な項目に瞬時

に辿り着く手段は、横帆船の時代と少しも変わっていません」と、書い

ています。

その後、エンゲルバートは "Giant Brains, or Machines That Think

(考える巨大な脳あるいはマシン)" (1949 年、Edmund C. Berkeley

著)という本に出会います。数学の問題を当時としては効率的に計算で

きるコンピュータについての話でした。コンピュータはもっといろいろ

なことができるはずだ、とエンゲルバートは直感的に思いました。

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空軍のレーダー技師だ

ったエンゲルバート

は、コンピュータと

CRT(上の写真)を組み

合わせれば、コンピュ

ータを対話型ワークス

テーションの基盤にす

ることができると考え

ました。

「CRT に接続されたレ

ーダーがオペレータに

応答できるのなら、

CRT をもつコンピュー

タとも対話ができるは

ずです。」

最後にエンゲルバートは、ライトペンを介してレーダーのブラウン管

(CRT)と対話していた海軍のレーダー技師としての経験を思い起こしま

す。エンゲルバートは、何らかのデバイスを使って、コンピュータに接

続されたモニターと対話できれば、そしてネットワークに接続されてい

れば、アイデアや情報を自由にやりとりできるはずだと考えました。

そして、対話型コンピュータのアイデアが生まれました。

エンゲルバートは、「コンピュータがカードにデータをパンチできるの

なら、当然、CRT にテキストや絵を電子的に表示することも可能なは

ずだと思いました。さらに、CRT に接続されたレーダーがオペレータ

に応答できるのなら、CRT をもつコンピュータとも対話できるはずで

す。私には、同じコンピュータ複合体に接続されているほかの人と協力

する様子が、電子的に見えたのです」と、述べています。

「それは決して私にできないことではないと思いました。」

複雑さを増す世界の問題を解くための新しい方法の基礎となり得るもの

はコンピュータしかないとエンゲルバートは確信しました。エンゲルバ

ートは、コンピュータはアイデアや知識の効率的な増加や発展を促進

し、それによって社会共有の知恵を蓄積する手段として役立つだろうと

信じていました。

電気工学の学位をもつエンゲルバートですが、コンピュータに関する自

分のアイデアをさらに発展させるには大学に戻る必要があることを感じ

ていました。

人々が抱く疑念との戦い

1950 年代や 60 年代にあっては、コンピュータやワークステーショ

ンと対話するというアイデアは突拍子もないものでした。コンピュータ

は、大量の計算をしたり、給与や会計など基本的な管理業務を処理する

道具にすぎないと考えられていたからです。アイデアや情報を集め、共

有し、研究に使用するための装置にコンピュータがなり得るなどと考え

る人は皆無でした。エンゲルバートは、いやになるほどの長い間、この

ような一般的な認識と闘う運命にありました。エンゲルバートは、「そ

の当時、コンピュータと対話するというアイデアは、現在にたとえれ

ば、誰もが自家用ヘリコプターを所有するだろう、というような非現実

的なものでした。」と、述べています。

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エンゲルバート(上の写

真。1960 年代に SRI

でワークショップを行

っているところ)は、コ

ンピュータは会計など

管理用の計算を行うツ

ールに過ぎないという

認識と闘わなければな

りませんでした。

「その当時、コンピュ

ータと対話するという

アイデアは、現在にた

とえれば、誰もが自家

用ヘリコプターを所有

するだろう、というよ

うな非現実的なもので

した。」

エンゲルバートは博士課程在籍中、自分のビジョンを学内の教授に

話してみました。しかし教授は、興味をもつどころか、疑うような

目で彼を見ると、何人の大学スタッフにこのアイデアを話したか?

とたずねました。そして、その教授はエンゲルバートに、「この大

学では昇進がどうやって決まるか知ってるだろう。同僚審査という

やつだ。・・・断言してもいいけど、君がそんなことばかりいって

いると、永久に助教授代行から脱出できないぞ」と、忠告しまし

た。

彼のアイデアに眉をひそめたのは大学だけではありませんでした。

エンゲルバートは、研究技師の職を求めてヒューレット・パッカー

ド社の面接を受け、その日のうちに合格が決まりました。この会社

がまだコンピュータ業界に参入する前の話です。家に帰る途中で、

彼はほとんど思い直すかのように研究部門の責任者に、「妙なこと

をいうと思われるかもしれませんが、私は、会社がまもなくコンピ

ュータに参入すると決め込んでいます。というのも、私はコンピュ

ータの仕事をすると決めているものですから」と、電話で告げまし

た。担当者は「(コンピュータ事業に参入する)可能性はないでし

ょう。」と驚いて答えました。エンゲルバートは、その話を辞退し

ました。

エンゲルバートはスタンフォード大学にも手紙を書き、コンピュー

タコースの開設を売り込みましたが、答えは否でした。彼の記憶に

よると、「スタンフォードは小規模の大学であり、学術的な専門分

野にフォーカスしている。コンピュータはあくまで 1 つのサービス

活動なので、そのようなコースを開設する構想はない」というのが

公式の理由でした。

1957 年、エンゲルバートは、SRI の研究者としての職を求めて面

接を受けました。SRI には、バンク・オブ・アメリカをスポンサー

とするあるコンピュータプロジェクトがあったからです。ERMA

(Electronic Recording Method of Accounting: 電子記録会計方

式)と呼ばれるこのプロジェクトでは、拡張を続ける巨大銀行が口座

をもっと効率的に処理できるようなシステムを開発することになっ

ていました。エンゲルバートは、これをコンピュータに携わるチャ

ンスだと考え、いずれはコンピュータの役割を対話型ワークステー

ションに拡張するつもりでいました。後に彼の同僚になるカリフォ

ルニア大学の友人のひとりは、面接の前に彼に「あのこと(コンピュ

ータについてのアイデア)を口に出してはだめだ。口に出さなければ

多分、合格するだろう。入社してからゆっくり考えればいいんだ」

と、忠告しました。

エンゲルバートは合格し、入社して、時が来るのを待ちました。

ゆっくりと増える支持

SRI で過ごした 21 年間の最初のころ、エンゲルバートは、ERMA

に関係するほかの人たちと同じ研究所にいましたが、彼自身は直接

このプロジェクトに係わっていたわけではありませんでした。

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エンゲルバートは拡大と縮小が可能な磁気コンピュータ・コンポーネントな

ど画期的な技術で複数の特許を取得しました。これにより、彼の望む分野へ

資金を捻出してもらうための信頼を研究所から得られるようになりました。

1959 年、彼は Air Force Office of Scientific Research(空軍科学研究局)

の助成金を獲得しましたが、これは、彼の画期的な 1962 年の論文

“Augmenting the Human Intellect: A conceptual framework(人の知

性の増大-概念フレームワーク)”を生み出すものとなりました。彼はこの論

文で個人的な使命を述べています。

エンゲルバートは、複雑さを増す世界の問題についておおよその考えを述べ

た後、コンピュータ支援に基づく解決策について自分のビジョンを詳述して

います。これは、彼が自分の考えを公式に文書化した最初のものです。彼は

支援という概念を「複雑な問題状況に取り組み、特定のニーズに合った知識

を獲得し、問題に対する解決策を引き出すために、人間の能力を高めるこ

と」と定義し、「『複雑な状況』には、外交官や経営者、社会科学者、生命

科学者、物理学者、弁護士、デザイナーなど、さまざまな専門家の問題が含

まれる。問題の状況は 20 分続くのかもしれないし、20 年続くのかもしれ

ない」と、述べています。

134 ページからなるこの論文でエンゲルバートは、「人間の知的生産性」の

向上に役立つであろう具体的な仕組み、つまりコンピュータについて詳しく

述べています。

「もっとも確実に得られる効果は、(1)コンピュータ駆動のブラウン

管を備えたデジタルコンピュータによって分刻みのサービスを人間に

提供することや、(2)コンピュータの助けを人間が活用できるような

新しい思考方法や作業方法を開発することから生ずる」と、述べてい

ます。

とりわけ目を引くのは、建築士が将来ワークステーションをどのように利用

するかを驚くべき正確さで詳細に描いている部分です。

「彼は、一辺が 90 センチほどのビジュアルディスプレイをもつ作業

台の前に座っています。これが彼の作業面です。この作業面は、コン

ピュータ(彼の「アシスタント」)によって制御されています。コンピ

ュータとの通信には、小型のキーボードを始めさまざまなデバイスが

使用できます。建物を設計中の彼は、すでに頭にある基本的なレイア

ウトや構造体を画面に再現しようとしています。そのレイアウトの測

量データはすでに入力済みです。彼は、「アシスタント」をなだめす

かして、急勾配の丘の中腹にある敷地の透視図を表示します。丘の上

には道路があります。・・・その姿がしだいに画面上に現れ始めま

す。丘の中腹に基礎根切りが現れ、それがわずかに修正され、さらに

もう一度修正され、再表示されます。そのすぐ後に建築士は、敷地を

上から見た平面図を画面に表示します。根切りは表示されたままで

す。」

画期的な 1962 年の論

文でエンゲルバート

は、人間の知的活動を

支援するコンピュータ

システムの概念を次の

ように定義していま

す。

「複雑な問題状況に取

り組み、特定のニーズ

に合った知識を獲得

し、問題に対する解決

策を引き出すために、

人間の能力を高めるこ

と。・・・その問題は

20 分続くのかもしれな

いし、20 年続くのかも

しれません。」

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この論文はいくつかの機関から高い評価を受けました。とりわけ、国防総省

高等研究計画局(ARPA)は、このビジョンを専門に研究する彼自身の研究所

Augmentation Research Center(ARC)を SRI の中に設立できるだけの十

分な資金をエンゲルバートに提供しました。

入力: コンピュータマウス

1962 年の論文でエンゲルバート は、画面上のアイテムを自由に動かすこと

のできる「ポインタ」に言及しています。彼が最初にコンピュータマウスと

いうものを思いついたのは、この論文を書く前の年のある会議でのことでし

た。彼は、このデバイスの絵をノートに記しています。1963 年に NASA

が、画面選択デバイスを何にするかを決めるプロジェクトに資金を提供する

と発表すると、エンゲルバートはあのノートを探し出し、研究所のエンジニ

アの一人ビル・イングリッシュに渡しました。イングリッシュこそは世界で

初めてマウスを作った人なのです。それは木でできた箱のようなデバイス

で、基部に取り付けられた 2 つのローラーが垂直方向と水平方向の動きを追

跡するように工夫されていました。上部に赤いボタンがひとつあり、後部か

らコードが延びたこのデバイスをエンゲルバートの研究所のだれかが「ねず

み」みたいだといいました。それ以来「マウス」という名前が定着しました

が、今日までその名付け親が誰であるか定かではありません。

エンゲルバートは「このデバイスが世に出れば、いずれもっと重々しい名前

が正式に付けられるとだれもが思っていました」と、語っています。

デバイスは使い勝手に関する NASA のすべてのテストに合格しました。その

結果、コンピュータによる ARC の共同作業ではこのデバイスが重要な要素

になりました。

オンラインへ

1965 年、エンゲルバートとそのチームは、一元的に格納された共有デジタ

ルアーカイブのコンテンツを共有し、その中を自由に移動できるシステムで

ある oN-Line System (NLS)を開発し、実際に導入しました。これは、ドキ

ュメント、レポート、ソフトウェアコードなどの間を自由に移動できるハイ

パーテキストを使用した最初のシステムであり、増え続ける研究所の大量の

電子情報にリンクしていました。さらに、エンゲルバートの ARC は、

ARPANet (高等研究計画局によって構築されたネットワーク)と呼ばれる政

府ネットワークに接続された 2 番目の研究所でした。生まれたばかりのこの

ネットワークは後にインターネットへと発展します。エンゲルバートとその

チームにとって、このネットワークは、ARC の領域内に留まっていた NLS

の協業的な特性をネットワークの外へ広げる機会になりました。

「すべてのデモの母」

1962 年の論文がエンゲルバートのビジョンを初めて明確に述べたものであ

るとするなら、1968 年に開催された Fall Joint Computer Conference

は、このビジョンを公に実証してみせる最初の場となりました。彼らが

FJCC ショーの存在を知ったのは 3 月でしたが、その開催は 12 月に迫って

いました。

9 か月間に渡る綿密な計画と技術的な努力の末、エンゲルバートとそのチー

ムは、サンフランシスコのブルックスホールでおよそ 1,000 人の参加者を

世界初のこのマウス

は、その基部に鋼鉄製

の 2 つのローラーが取

り付けられ、垂直方向

と水平方向の動きを追

跡できる仕組みなって

いました。さらに、そ

の上部に 1 つの赤いボ

タンがあり、基部から

コードが延びていま

す。それをエンゲルバ

ート研究所のだれかが

まるでねずみ(マウ

ス)のようだと言いま

した。

「このデバイスが世に

出れば、いずれもっと

重々しい名前が正式に

付けられると誰もが思

っていました。」

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アッと言わせました。90 分のコースの中でエンゲルバートたちは、リモ

ートネットワークや、画面を共有した共同作業、ビデオ会議、ハイパー

テキスト、対話型テキスト編集、コンピュータマウスを実演しました。

この会議の冒頭でエンゲルバートは、「オフィスの知的労働者としての

あなたが、コンピュータに接続されたディスプレイを与えられたとした

ら、どれほどの付加価値があると思いますか?もちろんコンピュータ

は、一日中動いていていつでも応答します」と、切り出しました。次に

エンゲルバートは、マウスとキーボード、さらに自分自身のコーディン

グキーセットを使って、画面上でテキストを対話的に編集する仮想タス

クリスト(To-Do リスト)を実演しました。さらに、彼は、何マイルも離

れたパロアルトの SRI オフィスにいる 2 人のエンジニアにヘッドセット

を通して話しかけました。すると、実に劇的なことに、彼らの姿が大型

の投影画面に現れたのです。これが、一般公開された最初のビデオ会議

のデモであったといわれています。

技術者の間でこのデモは「すべてのデモの母」として記憶されることに

なりました。ほとんどの人は、このイベントが、パーソナルコンピュー

ティングを巡る発展期の先駆けとして一連の技術革新を促したと信じて

います。エンゲルバートにとってこのデモは、ひとつのパラダイムシフ

トを意味していました。コンピュータが単なる管理のツールではないこ

とを世の中が初めて認識するきっかけになったからです。

ニューヨーク・タイムズの技術担当記者ジョン・マーコフは 2005 年の

著作 "What the Dormouse Said" で、このイベントを「コンピュータ

界の方向性を変えたデモ」であったと述べています。さらに彼は、「コ

ンピュータが数値演算の機械から通信や情報検索のツールへと大きく飛

躍しました。そして、第二に、マシンが対話的に使用されていました。

そのすべての資源がたったひとりの人間に占有されているかのように見

えました。真の意味のパーソナルコンピューティングが始めて目の前に

現れた一瞬でした」と、述べています。

次の 30 年 ―「パーソナルコンピュータ」

1968 年のイベントは直ちにコンピュータを巡る開発に拍車をかけるこ

とになりましたが、知識ネットワークについてはエンゲルバートが最初

に心に描いたレベルの発展を遂げることはありませんでした。1970 年

代や 1980 年代にコンピュータが「パーソナル」コンピュータとして認

識されるにしたがって、各メーカーは、複数のマシンから成り立つネッ

トワークがどれだけ役に立つかということよりも、単独のコンピュータ

が個別のユーザーに提供できる機能を拡張することに熱心でした。それ

と同時に、業界では使い易い PC を開発することを重要視していまし

た。それに対しエンゲルバートは、このような傾向が、より高機能なシ

ステムやネットワークの開発を妨害していると感じていました。

「すべてのデモの母」

として知られる エンゲ

ルバートとそのグルー

プは、サンフランシス

コのブルックスホール

(上の写真)でおよそ

1,000 人の参加者をア

ッと言わせました。そ

の場所で彼らはリモー

トネットワークやビデ

オ会議、ハイパーテキ

スト、マウスなどを実

演しました。エンゲル

バートと遠方にいる SRI

の同僚がネットワーク

で接続され、ショッピ

ングリスト(下の写真)

を共同で編集しまし

た。

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エンゲルバートは、「当時、コンピュータは習得し易いものでなければ

ならないという単純な認識がありました。しかし、私は、コンピュータ

で何ができるかをまず重視すべきだと常に思っていました」と、述べて

います。

エンゲルバートは、複雑さを増す世界の問題を解決するためには、社会

共有の知恵を集め、蓄積するシステムが必要だという考えを依然として

堅持していました。彼は NLS の機能を拡張しました。これが後に

“Augment”と呼ばれる第二世代のネットワークに発展したものです。

しかし、SRI は、資金不足のため ARC を 1978 年に閉鎖しました。

1980 年、エンゲルバートは一時的に、マクダネルダグラス社で情報シ

ステムアーキテクチャープロジェクトの顧問をしていました。1989

年、彼は自分で Bootstrap Institute 社を設立します。アイデアやシス

テムが単純でも、その価値を理解する人が増えるにしたがって、より洗

練され強力なものになる、というのがエンゲルバートの考えでした。彼

は「よくなる方法がよくなれば、それだけうまくかつ速くよくなる」

と、言っています。

1990 年、エンゲルバートは、自ら“HyperScope”と呼ぶプロジェク

トで Augment を World Wide Web に組み込み、このネットワークをさ

らに発展させます。このプロジェクトは、開かれたハイパードキュメン

トシステムを確立する最初のステップとなりました。このシステムが広

い範囲に導入されれば、人々はアイデアやレポートなど複数のネットワ

ークに散在する資料に素早く効率的に到達できるはずです。

HyperScope は、html のアドレッサビリティを使ってさまざまなドキ

ュメントの部分同士をリンクするものでした。これはハイパーリンクに

よく似ています。あるレポートのパラグラフと別のドキュメントの一部

をリンクできれば、ドキュメントを単にアーカイブするだけでなく、ア

イデアや階層化された議論を仮想的に発展させることができるはずで

す。

HyperScope という名前の由来は、アイデアとトピック的コンテンツの

関係を個々のユーザーが独自の視点、あるいは視野から見ることができ

るはずだという考えにあります。ドキュメントや文節を開くと、XML を

使って中間ファイルが作成されます。そのため、ユーザーは、ソースド

キュメントを変更せずに、異なる情報間の関係をどのように見るかを定

義できます。たとえば、科学者が研究の過程で準備をする際に、特定の

トピックに関して 5 世代の研究に含まれる重要な考えやアイデアにリン

クするとします。その後の研究者は、この研究者の経路をたどることに

よって、あるアイデアの進化の過程全体を知ることができます。そし

て、時間の経過とともに新しいアイデアが追加され、新しい関係が確立

されます。その結果、エンゲルバートが「共有の IQ」、つまり「差し迫

った複雑で大規模な問題に対処する 社会または組織の能力」と呼ぶ状況

が出現します。

対話型のネットワーク接続コンピュータを巡る彼の初期のアイデアと同

様に、エンゲルバートのオープンハイパードキュメントシステムは、10

年間の大半は、ほとんど無視されていました。

Bootstrap Institute エンゲルバートは

Bootstrap Institute 社

を 1989 年に設立しまし

た。アイデアやシステム

は、当初は単純かもしれ

ないが、貢献する人が増

えるにしたがって、ゆっ

くりとより洗練された強

力なものになる、という

のが設立の理念でした。

「よくなる方法がさらに

よくなれば、それだけう

まく、速く、さらによく

なります。」

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新たなる注目

新世紀になり、エンゲルバートは、マーコフの著作のおかげもあって

再び注目を浴びています。実際、この本の販促イベントと同時に行わ

れた Homebrew Computer Club の 25 周年祝賀会が、思いがけず

も、エンゲルバートの業績を祝う場所に変貌したことがありました。

トム・フォレムスキは、自身のブログ SiliconValleyWatcher.com

に次のように書いています。「彼らの時代のもっとも深遠で影響力の

ある思想家のひとりとして、エンゲルバート氏が果たした役割は一般

に思われているよりもはるかに大きいと、何十人ものコンピュータの

パイオニアが次々に立ち上がり言いました。エンゲルバート氏への賞

賛は、イベントの時間を過ぎても延々と続き、たくさんの話が公の場

で初めて披露されました。・・・このイベントはエンゲルバート氏を

賞賛するための会ではありませんでしたが、実態はその通りでした。

ここにしばらく座って、これらの人々(その多くは自らの力で名を成

した人々)の話を聞いていれば、初期のシリコンバレーに集う超秀才

エリートの人生を変えたエンゲルバート氏自身とその能力に深い敬意

を抱かないわけにはいかないでしょう。」

数年前、シリコンバレーの会合に出席していたエンゲルバートは、米

国立科学財団(NSF)の関係者に偶然出くわしました。そのときに会話

が HyperScope に及んだため、彼は後に、自分のアイデアを NSF

のプロジェクトマネージャーたちと議論するために招待されることに

なりました。

エンゲルバートは、NSF などの機関がハイパードキュメントシステ

ムの開発を彼と共同でしてくれないだろうかと期待しています。その

ようなプロジェクトの最初のステップは、ブラウザのようなソフトウ

ェアを開発することになるはずです。このソフトウェアを使えば、ド

キュメントを始めとする一連のコンテンツソース(レポートや会話記

録、ソフトウェアコードなど)を効果的にリンクできます。このソフ

トウェアは、エンゲルバートが Dynamic Knowledge Repository

(DKR)と呼ぶレポジトリの中で使用されます。このような情報センタ

ーは、より多くの人がオリジナルコンテンツをそこに追加し、DKR

のほかの知識へのリンクを独自に作成するにしたがって充実してきま

す。DKR を使用する組織では、時間の経過とともに情報が進化し、

最終的には共有 IQ が向上します。それと並行してこれらの知識セン

ターを相互にリンクすれば、社会共有の知恵が大幅に向上します。

エンゲルバートによると、柔軟性のあるこのようなオープンシステム

の基本原理のひとつは「同時進化」が可能なことだといいます。人間

の技能や人的な要素が進化したら、それに応じて社会や組織の情報シ

ステムもまた進化すべきです。絶えず変化する環境に適応するため

に、知識システムを頻繁に設計し直すことはあってはならないので

す。

シリコンバレーでの会合の

模様をトム・フォレムスキ

が自身のブログ

SiliconValleyWatcher.co

m に掲載しています。

「このイベントはエンゲル

バート氏を賞賛するための

会ではありませんでした

が、実態はその通りでし

た。ここにしばらく座っ

て、これらの人々(その多

くは自らの力で名を成した

人々)の話を聞いていれ

ば、初期のシリコンバレー

に集う超秀才エリートの人

生を変えたエンゲルバート

氏自身とその能力に深い敬

意を抱かないわけにはいか

ないでしょう。」

Page 11: ダグラス・C・エンゲルバート Douglas C. Engelbart...Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来 当時、エンゲルバートは、人生の目標の多くをすでに達成したと感じて

Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来―

エンゲルバートは 80 才にし

て、過去を振り返ったり、引

退を考えるのはまだ早いと考

えます。

「私が『満足した』というレ

ベルに物事が達する可能性は

あまり高くありません。私は

最近、集団的な能力を地球レ

ベルで大幅に改善することが

可能だと心から信ずるように

なりました。この能力を本気

で改善する努力をしなけれ

ば、社会が崩壊する危険性は

高まるばかりだと思いま

す。」

残された仕事 エンゲルバートの動機が経済的な利益に根ざすことは一度もありませ

んでした。実際、Bootstrap 社を設立して以来、彼は大部分を自分の

個人的な蓄えに頼っていました。しかし、「自分の一生の仕事がもた

らすであろう人類の利益を最大限に高める」という彼の個人的な使命

感が揺らぐことはありませんでした。

エンゲルバートの立場になれば、ほとんどの人が、一線から退き、業

績を振り返り、引退を楽しもうという気になっても不思議ではありま

せん。しかし、エンゲルバートは「私が何かに「満足した」というレ

ベルに達することはなかなかありません。私は最近、共同体能力を地

球レベルで大幅に改善することが可能だと心から信じるようになりま

した。この能力を本気で改善する努力をしなければ、社会が崩壊する

危険性は高まるばかりだと思います」と、述べています。

エンゲルバートの視点に立ってみると、彼がほかの人の 20 年も先を

いつも考えていることがわかります。エンゲルバートは、世界が直面

する問題と同じように精巧な、ハイパー接続された世界を今も変わら

ず夢見ているのです。

エンゲルバートは、「私は夢想家に過ぎないといわれてきました。し

かし、「過ぎない」という部分は気に入りません。夢想家であること

は容易ではないからです」と述べています。

「私は夢追人に過ぎないと

いわれてきました。しか

し、“過ぎない”という部

分は気に入りません。夢想

家であることは容易ではな

いからです。」

写真は Bootstrap Institute

からの提供

Page 12: ダグラス・C・エンゲルバート Douglas C. Engelbart...Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来 当時、エンゲルバートは、人生の目標の多くをすでに達成したと感じて

Douglas C. Engelbart 業績とビジョン ―過去、現在、そして未来―

Augmentation Research Center の先駆的な「世界初の仕事」

・ マウス

・ 二次元のディスプレイによる編集(ワープロ)

・ ファイル内オブジェクトの参照、リンク

・ ハイパーメディア

・ アウトライン処理

・ フレキシブル・ビュー・コントロール

・ マルチウィンドウ

・ ファイル間編集

・ 統合ハイパーメディア電子メール

・ ハイパーメディア・パブリッシング

・ ドキュメントのバージョン管理

1960 年代の終わり、エンゲルバートとそのグル

ープが Augmentation Research Center で初期

の協業コンピューティングシステムを使用してい

ます。

・ シェアスクリーン・テレカンファレンス

・ コンピュータ会議

・ フォーマッティング・ディレクティブ

・ コンテキスト対応のヘルプ

・ 分散クライアントサーバーアーキテクチャー

・ 統一されたコマンド構文

・ ユニバーサル「ユーザーインタフェース」

・ フロントエンドモジュール

・ マルチツール・インテグレーション

・ 文法駆動のコマンド言語インタープリタ

・ 仮想端末用プロトコル

・ リモートプロシージャー コールプロトコル

・ コンパイラブル「コマンドメタ言語」

(出展: Bootstrap Institute)

業績と栄誉

・ 25 冊以上の書籍を出版

・ 20 以上の特許を取得

受賞した業界の賞は次の通り

・ IEEE Computer Pioneer Award(1992)

・ The Lemelson-MIT Prize(1997)

・ The National Medal of Technology(2000)

・ Computer History Museum Hall of Fellows

(2005)

(出展: Computer History Museum)

2000 年、クリントン大統領により、権威のある

National Medal of Technology(米国技術栄誉

賞) を授与されました。