ドラマ教育における即興劇の効用に関する試論...ドラマ教育における即興劇の効用に関する試論...

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ドラマ教育 はじめに 表題の「ドラマ教育」という言葉は、どうも「演劇 育」とさして変わらない意味で使われていることが多い ように思う。しかしながら、「受講者同士が劇に取り組 む過程で、お互いの想像力、表現力やコミュニケーショ ンの能力を高め合う教育」ということであれば、わざわ ざ「ドラマ」を前面に出す必要もないように思われる。 「ドラマ」教育と言うからには、さらに進んでドラマの 構造やドラマトゥルギーに対する受講者の理解を促すこ とが必要となろう。本稿では、そのような過程で、即興 ないしは即興劇というものが、どういった役割を果たし 得るのかを考えてみたい。 尚、これは私が大学の演劇の授業で学生たち の実践を重ねた経験を綴った手記をもとにした試論 ることを付記したい。学生名は全て例示した順にアルファ ベットに置き換えてある。 ドラマの構造についての理解を深める 口、 u行動(アクション)」の概念を体得する 行動(アクション)というものを、「ある人間がある 条件の下で、ある目的(意識的にせよ、無意識にせよ) を持って、ある対象に働き掛けること」であると考える ならば、ドラマの最小単位は明らかに、この「行動」で 139

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Page 1: ドラマ教育における即興劇の効用に関する試論...ドラマ教育における即興劇の効用に関する試論 土 屋 康 範 はじめに ないしは即興劇というものが、どういった役割を果たしとが必要となろう。本稿では、そのような過程で、即興構造やドラマトゥルギーに対する受講者の理解を促す

ドラマ教育における即興劇の効用に関する試論

はじめに

 表題の「ドラマ教育」という言葉は、どうも「演劇教

育」とさして変わらない意味で使われていることが多い

ように思う。しかしながら、「受講者同士が劇に取り組

む過程で、お互いの想像力、表現力やコミュニケーショ

ンの能力を高め合う教育」ということであれば、わざわ

ざ「ドラマ」を前面に出す必要もないように思われる。

「ドラマ」教育と言うからには、さらに進んでドラマの

構造やドラマトゥルギーに対する受講者の理解を促すこ

とが必要となろう。本稿では、そのような過程で、即興

ないしは即興劇というものが、どういった役割を果たし

得るのかを考えてみたい。

 尚、これは私が大学の演劇の授業で学生たちと即興劇

の実践を重ねた経験を綴った手記をもとにした試論であ

ることを付記したい。学生名は全て例示した順にアルファ

ベットに置き換えてある。

ドラマの構造についての理解を深める

口、

u行動(アクション)」の概念を体得する

 行動(アクション)というものを、「ある人間がある

条件の下で、ある目的(意識的にせよ、無意識にせよ)

を持って、ある対象に働き掛けること」であると考える

ならば、ドラマの最小単位は明らかに、この「行動」で

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ある。登場人物の行動とそれに応じる他の人物の行動

(リアクション)が組み立てられて、より大きな場面が

形成され、それらの場面が組み立てられて、さらに大き

な幕となる。それらの幕が組まれて一つのドラマが生ま

れることになる。このような、「各場各幕の有機体とし

てのドラマ」という概念を最初に体系的に提唱したのは、

周知の如くアリストテレスの『詩学』である。

 しかしながら、行動が劇の最小単位であるということ

は、当然、ベルトルト・ブレヒトの叙事的演劇のような

劇を想定した場合にも当てはまることである。ブレヒト

劇の場合、各場は独立的であるが、その個々の場では明

らかに登場人物たちの行動は組み立てられ、一つの筋を

形成している。例えば『肝っ玉おっ母とその子供たち』

(一

緕l一年初演)の十一場で末娘のカトリンが新教徒

の町ハレを目覚めさせるために太鼓を叩き、それをやめ

させようとする皇帝軍(旧教徒側)の兵士によって銃殺

される場面は極めて「ドラマティック(劇的)」に構築

されている。

 また同様に、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ち

ながら』(一九五三年初演)のように「各場各幕の有機

体としてのドラマ」という概念にアンチ・テーゼを投げ

掛けている劇の場合でも、行動は劇の最小単位となって

いる。個々の行動はごく短くではあるが一つのスキット

(寸劇)を形成しているのだ。それらのスキットは「ゴ

ドーを待っている間に暇をつぶす」という目的でなされ

ている。ディディとゴゴの思い付きによる様々なスキッ

ト、ポッツオとラッキーという通行人たちによって引き

起こされるスキット、「少年」というゴドーの使者の登

場によって引き起こされるスキット、一つの幕はそれら

の羅列によりなっている。その一つ一つのスキットは我々

の存在状況の寓意であり、自己同一性や近代的自我意識

の前提となる記憶というものがいかに不確かなものであ

るかを繰り返し示している。そして、この時間つぶしの

スキットの羅列が我々の人生のアレゴリーともなってい

るようだ。

 さて、そんなわけで演劇教育一般において「行動」と

は何かを理解することは極めて重要なことと言えよう。

就中、ドラマを構造の面から理解する上では、これは不

可避のことと言える。そして、それには実際の戯曲に取

り組むことが望ましいのであるが、ここで一つの障害が

ある。とりわけ学生や市民が初めて戯曲というものに触

れて行動を理解しようとするとき、その障害は案外と大

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きなものとなる。それは「予め書かれた言葉を用いる」

という単純な事柄だ。戯曲中の対話が行動の言語的な形

態であると頭で理解しても、実際にそれを表現するとな

ると話は別のようである。戯曲のある場面における行動

の内容、つまり「その役がどのような状況下で、どのよ

うな動機をもって、対象に働き掛けているのか」を把握

しても、実際にそれを表現するとき、演技者(990「)

は役の台詞を的確に言うことに気を取られてしまい、対

象に向き合うよりも戯曲の台詞に対峙する傾向が出てく

る。そのため、行動の対象に働き掛けることが十分に出

来なくなるのだ。台詞を完全に頭に入れても尚、それを

的確に表現することにかなりの集中力が割かれるのを免

れ得ないだろう。

 最初に行動の概念を体得する上では、この障害はかな

り不利となる。行動の表現にとって最も大切なのは対象

に「働き掛ける」ということであるからだ。いわば、行

動とは精神的エネルギーの「ベクトル」のようなもので

あり、大きさだけでなく「向き」を有しているというこ

とが決定的に重要なのである。働きかける対象が眼前の

人や事物であれ、自分自身の内面であれ、その場にいな

いものや架空のものであれ、その対象に向かって全神経

を集中するということは行動を表現する上で不可欠なこ

とである。さらに進んで、一つの場面を形成するときに

は、対象からの精神的エネルギーをしっかりと「受け止

めて」それに応ずることが必要となる。いずれも「行動

の対象と全身全霊をもって対峙すること」が要求される

わけである。それは激しくぶつかり合う場面だけでなく、

共感や愛情の交換、真意の探り合い、拒絶や無視といっ

た多種多様な感情のやり取りの形成において不可欠な状

態である。行動を理解する際に、そのように演技者が対

象としっかり向き合う状況を作り出すために、与えられ

た台詞ではなく自らの言葉で行動を表現する、つまり即

興(一ヨ胃o≦°。p鉱o昌)を活用するということは戯曲に取

り組む前段階として大いに有効なことであると思われる。

 最初に即興を行う際には、全く何もないところから始

めるのも一つの方法ではあるが、それは出だしの行動の

目的や条件を考えだすのにかなりの集中力が割かれると

いう短所がある。最初の設定を生み出すのは、すでにあ

るものに条件を加えるより遙かに多くのエネルギーがい

る。「対象と向き合うこと」に最大限の力点を置くなら、

最初に人物像(Oげ餌「OOけΦ「)、目的(○豆Φ9)、場所

(コ印oΦ)と言ったごく基本的な条件を指定してやると

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よいだろう。そうすると、たちどころに「行動(アクショ

ン)」という収穫物(ρ即○.勺゜)が生まれる。この中で、

一番重要なのはもちろん「目的」である。目的がなけれ

ば、それは単なる動作(30〈Φヨ⑦艮)になってしまう

からだ。

 例えば、ある授業で「病院の待合室」で、「婚約者の

手術が終わるのを待っている」という行動を即興で表現

してもらったことがあった。 一緒にハイキングをしてい

る最中に、婚約者は誤って崖から転落し負傷したため手

術を受ける羽目になったという設定である。このように

具体的な目的や行動の条件を与えてやると、演技者Aは

比較的容易に「待つ」という行動を始めることができた。

しかも、手術室の扉(実は教室のドア)の向こうの「婚

約者の手術」という想像上の対象に十分意識を集中する

ことが出来たのである。

二、アクションとリアクションを組み立てる

 先ほどの事例で、今度は二人目の演技者Bに登場して

もらった。彼女は今回の執刀医役であり、手術を終えて

扉を開けて入ってくる。演技者Aと演技者Bは一瞬、見

つめ合った。両者が出会った瞬間には、ごく自然に感情

のやり取りが行われた。Aが先に「先生、どうでしたか」

と駆け寄った。それに応じて、「安心して下さい。手術

は成功しましたよ」と執刀医役のBは婚約者役のAの肩

に手を置いたのだ。別の組で同じ行動を表現してもらう

と、今度は逆に執刀医役のCが先に「手術は無事、終わ

りましたよ」と微笑みかけ、婚約者役のDが「ありがと

うございました」と駆け寄ってCの手を握り絞めた。い

ずれにしろ、相手に真っ向から働き掛けられれば、こち

らも否応なしに反応せざるを得ない。それが人間の生理

というものであろう。AとB、CとDはしっかりお互い

と向かい合い、精神的なエネルギーのやり取りを体験し 囎

たのである。即興では、自然に湧き起こる言葉と身体表

現を用いるので、比較的容易に対象に全神経を集中させ

ることが出来る。スタニスラフスキイが『俳優修業』第

一部の中で「行動」や「交感」について解説する箇所で、

しばしば「演劇学校の指導者トルツォフが学生たちに即

興させる」という設定を用いているのは実に頷けること

なのである。

 次に、もう少し長くアクションとリアクションを組み

立て、場面を展開してもらうことにする。その際には、

始めにこちらが与えた条件にさらに情報を付け足して行

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かなければならない。そうすることによって新しい行動

を始める「きっかけ」が生じるのである。例えば仮に前

述の即興で、婚約者の手術が失敗してしまった場合を想

定してみよう。場面はかなり深刻な雰囲気になるだろう。

執刀医役の演技者は、手術を受けた「彼あるいは彼女が

一生歩けない状態になったこと」を告げる。その情報を

受けて、婚約者役は何らかのリアクションをとる。おそ

らく、かなり落胆することになろう。執刀医役はそれを

受けて、例えば「励ます」という行動を始めることにな

る。そのときに様々なリハビリの方法を伝えるなどする

と、それに応じて婚約者役は少し希望が湧き、前向きに

なるかもしれない。

 このように、即興を続けるには、相手役と共に場面を

作っていかなければならない状況に否応なしに投げ込ま

れる。その際には、相手が差し出す情報をよく聞き、相

手の意向をよく見極めなければならない。そして、逆に

自分が新たな情報を加える場合には、それを明確に相手

に伝えなければならない。そうして情報をしっかり共有

していかないと、劇がまとまらなくなってしまうのであ

る。いや、それ以前にすぐに展開に行き詰ってしまうだ

ろう。即興を展開させていく上では、お互いはまさに同

じ板の上に乗る運命共同体であり、お互いがお互いの頼

みの綱となるのである。次の行動の契機は他でもない目

の前の相手役からやってくるのである。そのことを即興

ほど直接、実感できる場はない。始めて演技をする学生

や市民が予め書かれた戯曲を使用すると、すでに表現す

るべき台詞や先の展開が分かっているので、それを頼よ

りとしてしまい、ともに場面を作る相手役の存在には助

けを求めない傾向がある。

 これは実際、プロの俳優たちが場面を作る際の教訓に

もなる。ともすると俳優は自分が喜怒哀楽をどれだけ見

栄え良く、器用に表現できるかを演技力だと考えがちで 幽

ある。しかし、これは「芸達者」ということであって演

技力があるということではない。俳優の仕事は自分の行

動を表現すると同時に、その場面を作る他の俳優たちを

助け、彼らから助けられることだからである。

ドラマトゥルギーに対する意識を高める

一、

hラマにおける

「状況の転換」

  について考察する

即興を続けることに慣れてくると、やがて演技者たち

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は適度に情報の付け足しを行い、それを有効に活用して

場面を展開するコツを掴むようになる。あまりに情報の

付け足しをやり過ぎると、使われない情報が徒に溜まっ

て行くだけで場面は停滞してしまう。逆に行動の条件に

関する情報が不足すると、すぐに次の行動の展開に行き

詰るということが分かってくるのである。ここで、演じ

る時間を一〇分と伸ばして短い即興劇に挑戦してもらう

ことにした。

 そうなると、今度は学生たちの中に、筋の展開に拘ろ

うという意識が出てきたのだ。彼らはアクションとリア

クションを組み立てていく中で、劇をより刺激的なもの、

わくわくするようなものにするため、急激な「状況の転

換」を引き起こすようになった。

 例えば、ある会社の採用試験の会場で、就職志願者役

である演技者Eが面接官役の演技者F、Gの面接を受け

るという即興劇を行ってもらったときである。緊張した

様子を演じているEに対して、FやGが趣味や学生時代

に熱中していたこと、この会社の志望動機などを質問す

る。そして、一通りのやり取りが終わると、Fが「では

ご縁があれば、後日、電話で連絡します。今日はお疲れ

さまでした」といって面接の終了を告げた。Eは「あり

がとうございました」と頭を下げてドアを閉めて退出し

た。志願者役が返答に困ったり、逆に笑いを誘ったりと

いった相違はあったが、次の二つのグループも似たり寄っ

たりの展開となった。

 すると、これでは面白くも何ともないと思ったのか、

四番目のグループのとき、面接官役の演技者Hが思い切っ

て「状況の転換」を引き起こした。Hは面接の終わりご

ろ、突然「どうも、前に一度会ったことがあるね」と切

り出したのだ。それを受け入れて志願者役のーも「ええ。

実は僕もどこかでお会いしたような気がしていたのです」

と応じた。Hはさらに「君は小さいとき、ナカノ駅前の 44

                         ー

アオバ荘に住んで居なかったかね」と新たな情報を投げ

入れた。1もそれに応じて「ええ。小学校に上がる前ま

-であそこに住んでいました」と答えた。Hは「じゃ、覚

えていないかな。よく隣の公園で、ブランコを漕いで一

緒に遊んだ下の階のおじさんを」、1「ええ、はっきり

覚えていますよ。じゃ、あなたは、あのときの……」。

こうしてーは子供のころ同じアパートに住んでいたHか

らよく遊んでもらっていたということになった。この感

動的な再会の場面は他の学生たちから喝采を浴び、演技

者たちは強い高揚感を得ることが出来たようだ。

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 先陣を切ったこのグループにあやかって、それ以後、

他の三人組も同様に見事な「状況の転換」を行って見せ

た。あるグループでは志願者が突然、「あの、……」と

立ち上がった。「何だね」と驚く面接官役に、その志願

者役は「どうやら会社を間違えたようなんですけど……」

と決まり悪そうに切り出した。ここで見ていた学生たち

から大爆笑が起こったのだ。また、他のグループでは、

演技者たちは慣れて来たせいか、さらに手の込んだ「転

換」を行った。和やかな会話の最中に面接官役がマイム

(ヨ巨Φ)で架空の携帯電話を取り出し、掛って来た電

話を受けて「なに、何だって! そんなばかな!」と叫

び出した。電話を切ると、彼は志願者に向き直って「今

は入った電話によると、君は本人じゃないそうじゃない

か。替え玉だね。どうゆうことだ」と詰め寄ったのだ。

このような一連の「状況の転換」は確実に劇の流れを一

変させ、それなりに劇を盛り上げた。

 しかしながら、そのような出来事、つまり偶発的で外

面的な状況の急転は、即興に慣れて気持ちの余裕が出て

くれば容易に仕掛けられる性質のものである。演技者た

ちは、次第にそのような手っ取り早い手段で劇を活性化

させることに物足りなさを感じ始めてきた。「さらに深

い感銘を与えたい、演技の手応えを掴みたい」という欲

求が彼らの中に、ふつふつと湧き起こってくるのにそう

時間は掛らなかった。それで今度は、演じる時間を二〇

分に延ばして更に長い筋の展開を可能にし、起承転結の

ある一纏まりの劇に挑戦してもらうことにした。

 例えば最初の設定はこうである。二人の演技者が顧客

(夫婦、もしくは兄弟、姉妹、恋人同士、上司と部下な

ど)として、とあるレストランで夕食を楽しんでいる。

そこに店長役の三人目の演技者が二人に挨拶をしに出て

きて、丁重に料理の説明をするというものである。劇が

始まると、演技者たちは挨拶を交し、世間話やお互いの 45

                         1

近況報告などをした。次に料理の話題に花が咲いた。途

中で前述の如く各グループは様々な「転換」を引き起こ

し始めた。あるグループではお客役の演技者が「おや、

スープの中に何か変なものが入っている!」と叫び出し、

あるグループでは突然、お客役の気分が悪くなって倒れ

るといった具合である。中には演技の時間が余っている

ので、「状況の転換」を数回も入れたグループがあった。

演技者たちは、自分の演じる役の属性、劇の展開してい

る場所、その行動に至った経緯などに関する情報を付け

足して、それを有効に活用しながら場面を展開すること

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を以前にも増して心掛けた。けれども、最初のうちは上

演時間が長くなっただけで、あまり一〇分のときと代わ

り映えしなかったのだ。

 そんな中、あるグループが非常に印象的な即興劇を作

り出すことに成功した。このグループも前半は同じよう

に、偶発的で外面的な「状況の転換」を行った。すなわ

ち、店長役の演技者Jが料理の説明に熱中するあまりに

大きなジェスチャーになり、誤って想像上のグラスを倒

して夫人役のKのドレスにワインを溢してしまったのだ。

Kは悲鳴を上げ、慌ててハンカチでドレスの染みを吸い

取るマイムを演じた。Jは狼狽して「弁償させて頂きま

す。どうぞ、ご容赦下さい」といって平謝りした。する

とKが「弁償なんて出来ないわ。これは他では決して手

に入らないものなのよ」とひどく悲しそうにいったので

ある。夫役のLはその演技をじっと見ていて突然、閃い

たのであろう。「これは亡くなった娘が作ってくれたド

レスなのだよ。娘の形見なんだ」と言い出した。この情

報の提供に乗ったKは「そうなの。これを着ていると、

今でも娘と一緒にいるような気がするわ。すごく落ち着

くのよ」と切り返した。それを機にKの演技にスイッチ

が入ったらしく、次から次へと言葉が出てきたのである。

「あんな親思いの子はいなかったわ。これからデザイナー

として大きく羽ばたく矢先だったのに。あの飛行機事故

さえなかったら」、「あの時、私はどうして迷っていたあ

の子に留学を強く勧めたりなんかしたのだろう。そんな

ことしなければ、あの子は死なずに済んだのに。私のせ

いだわ、私の……」。娘を亡くした母親役に集中する演

技者Kの姿はもはや即興とは思えないほどの迫真性を帯

びていった。それに釣られてLが「妻は外出する時はい

つもこのドレスを着るんです」と付け加えた。Jも「そ

んなに大切なドレスとは知りませんでした。ほんとうに、

ほんとうにすいません。どうか、許して下さい」と首を 燭

うなだれた。Kは「あやまってもらっても、もうどうに

もなりませんわ。こんなに染みになってしまって。クリー

ニングに出しても落ちやしない。(間)でも、これでも

まだ着られるのだから、どこへでも着ていくわ」、Lは

「こんなに染みの付いたドレスを着て出かけるなんて変

に思われるよ」と応じた。Kはドレスに見立てたジャー

ジの上着を掴んで「人がどう思おうと関係ないわ。これ

を着ていれば、……いつも娘と一緒にいられるもの。笑

われたって、かもうものですか」と興奮して応じた。し

ばらくして、LはKの肩に手を置いて、「もう、いいじゃ

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ないか、お前。ドレスは仕舞っておこうよ。いつまでも、

お前がそう悲しんでいたら、あの子も辛いのだよ。これ

はあの子からのサインに違いない。ここはあの子とよく

一緒に来た店だ」と全くもって絶妙な言葉を吐いた。想

像力を働かせて、役に集中することが出来ると、驚くほ

ど言葉や感情が溢れてくるものである。その言葉にはっ

として、KはLを見つめた。しばしの沈黙。その後、K

は傭いて、それから静かに頷いた。それは、全くもって

自然で、説得力のある瞬間だった。夫婦役のKとLの間

には言葉にならない感情のやり取りがあり、その後には

Kの内省する間があった。それに居合わせた店長役のJ

も確かにその場に参加しているように見えた。そればか

りか、それを取り巻いていた学生たちの間にも、その場

面に「立ち会った」という感覚が芽生えていたのである。

この即興劇を終えた演技者たちの目は輝いていた。彼ら

は「自分の中で静かに、しかし強い感情が湧き起こるの

を体験した」と言った。彼らは演じていて確かな手ごた

えのようなものを感じることが出来たようだった。

 このように感銘を与えた幾つかの即興劇の展開を考察

してみると、決まって登場人物の精神生活に関わる情報

が投げ込まれ、それをうまく活用して場面が展開されて

いることに気付かされる。そして、そのような展開の過

程で引き起こされる転換は役の心境の変化を伴うことが

多いのである。前述のレストランの例では、娘を亡くし

た夫人は確かに、「娘の死を受け入れられずに、ただ悲

しんでいるだけの自分の姿」に気付き、「悲しむだけで

は娘のためにはならない。それは娘の望んでいることで

はないのではないか」という思いに至った。演技者たち

は協力して偶発的な事件を内面的な変化の契機にするこ

とが出来た。そしてその変化は確かに見ている我々にも

伝わってきたのだ。このとき、劇で重要なのは「偶発的

で、外面的な状況の転換」自体ではなく、それを契機と 47

                         1

して起こる役の内面的な変化なのではないかという考え

が居合わせた学生一同の中に芽生えた。そういう場面を

演じるとき、演技者たちの高揚感や演技の手応えという

ものは質的に深まるのであろう。そのことを即興劇では

自分の言葉と身体表現を用いて体感することが出来る。

このような体験から、学生たちの目は登場人物たちの自

己発見や内面の変化というものに向けられるようになっ

た。登場人物の心の在り様がどんな要因で、どのように

変化するのか、またその変化はいかなる性質のものかを

問うことはドラマトゥルギーを考える上で非常に重要な

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観点であろうと思う。

二、劇中で「決断」を下すということ

 演じる時間を延ばして起承転結のある一纏まりの即興

劇に挑戦してもらうと、さらに面白い現象も見られる。

それは「決断」の留保ということである。筋が進展して

いくと、その先の展開を左右する重大な秘密の告白やリ

スク(危険要素)を伴った決断に迫られる局面が訪れる

ことがある。その際に、一部の演技者は決断を回避した

り、他の演技者に振ってしまったりする傾向が見られる

ということだ。

 一例を挙げると、ある研究所で博士とその助手たちが

「ある新製品の開発をする」という設定を与えたときの

ことである。その製品が具体的にどんなものか、博士や

助手たちの個人的な事情、研究所に関する情報などの行

動の条件は全て即興劇を進める過程で、演技者たちに付

与してもらうことにした。それを受けて、例えば人と完

壁に意思疎通が出来るロボットの製造、今までにない超

小型人工衛星の開発等々、想像の翼を広げて様々なもの

を研究開発する即興劇が行われた。そんな中、あるグルー

プは、不老の薬品の開発という即興劇を創作した。その

博士は早老症を治すために、私財を投げ打って研究開発

に打ち込んでいる。そのような博士の一途な姿に心を動

かされた助手たちは、僅かな報酬で、その研究を手伝っ

ているといった情報が付与された。そして、動物実験は

申し分のない成果を上げ、いよいよ次は人で試すという

流れになった。さて、誰が実験台になるのか。「先生に

もしものことがあっては困るので、私が実験台になりま

す」と助手-役の0が申し出た。それに対して、助手2

役のPが「動物実験で成功と言っても、必ずしも人間で

成功するとは限りません」と不安になるようなことを言

い出した。この発言によって、その場の空気は緊迫感を 幽

増した。Pは0に対して「若い君を危険に晒すわけには

いかない。私が実験台になろう」と言い出した。すると、

0は「あなたには家族があります。わたしは独身ですか

ら、悲しむ者もいません」と言い出した。ここで、二人

の助手は博士の決断を待った。ところが、博士役のNは

「私が決めるなんて、どうしてできよう。あくまで君た

ち自身で決めてほしい」と言ったのだ。それで、0とP

の間で、しばらく押し問答のような状態が続いた。Pは

「保険に入っているので、家族のことは大丈夫だ」とい

うと、0は「それでも、子供には父親が必要です」と切

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り返す。今度は、Pが「私は君より一〇年以上も長く生

きたのだ。今もしものことがあっても悔いはない」と言

い出す。すると、0は「では、自分勝手に決めずに、家

族に相談してみてはどうでしょう」と切り出した。博士

役のNもそれに同意したので、Pは家族にマイムで携帯

電話を掛ける演技を始めた。Pはひとり芝居を打つつも

りだったのだろうが、違うグループのQがとっさに機転

を利かせて舞台に上がり、Pの妻役として「もしもし」

と電話を受けた。Pは事情を説明して、実験台になる許

しを乞うた。すると、Qは「あなた、子供のことも少し

は考えて下さい」といって引きとめた。Pはいろいろと

言葉を尽くして説得したが、妻の承諾を得ることは出来

なかったのだ。そこで、結局、0が実験台に上ることに

決まった。しかしながら、丁度その辺りで制限時間の二

〇分が来てしまったので劇は打ち切りとなった。

 講評のときに、私は博士役のNに対して「最初の段階

で博士である君が0なりPなりに決めていれば、その後

の実験の場面が展開出来たと思う。少し、廻り道をした

感じだね。最後はQさんに決めてもらった格好になった。

やはり、母は強し、だね」と少々皮肉交じりに指摘した。

すると博士役のNは頭を掻きながら、「実験台を0とP

のどちらかに決める、うまい理由が出てこなかったんで

す。びびってしまって、頭が回らなかったんですよ」と

悔しそうに言った。通常、即興演劇の世界では、情報の

付与や決断を先送りにしたり、他の演技者に振ったりす

る行為を「ブリッジ(耳己αqΦ)」と呼び、極力、避ける

べきものとされている。それは、この例でも分かるよう

に劇の展開が堂々巡りしがちで、時間のロスが生じてし

まうからだ。しかし、ここで重視したいのはスムーズな

展開が阻まれるという技術上の問題ではなく、演技者の

心理状態そのものである。Nは前半、非常に積極的に情

報を投げ入れて行動を進めており、最初から緊張してい 49

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たというわけではない。そうではなくてNまさに、この

局面、この状況ゆえに「びびってしまった」のだ。

 臨床試験が失敗して、0なりPなりが犠牲になるとい

うリスクがあり、Nの責任は重大である。見ていた学生

たちの視線も一気にNに注がれた。「彼はどんな決断を

するのだろう」。即興劇の場合は筋が決まっていないた

め、相手役の0とPもNの答えを今か今かと待っている。

Nはそれとはっきり自覚せずとも、かなりの精神的な重

圧を感じていたに違いない。これが、Nの「びびった」

という心理状態の内実ではなかったろうか。劇の展開を

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左右する重大な決断を下すということは、そういった重

圧を乗り越える大胆さがいる。Nは身をもってそれを実

感したに違いない。劇中における、こういった、なまの

体験は戯曲に書かれた決断の場面を演じる際にも十分生

きてくるに違いないと思う。

 ところで、翻って考えてみれば、リスクを避け精神的

な重圧から逃れるというのは人間の自己防衛や自己保存

の本能を考えれば、ごく自然なことなのかも知れない。

Nが無意識に、「決断を下すこと」を回避したのも納得

できるところがある。我々はみな無意識に日常生活の中

でそのような行動パターンを取っているのだから。それ

に引き換え、ドラマの世界はどうだろう。これとはまさ

に対照的に、重大な決断の場面に満ち満ちている。重大

なリスクを冒して自らの意志で決断を下すことは普段、

なかなか経験し得ないことである。だからこそ、我々は

そのような行動に憧れを抱くのではないか。我々は日常

めったにお目にかかれない場面を疑似体験したいがため

にドラマを求めるのかも知れない。そのような決断の瞬

間、我々は確かに生の充溢を、「今、ここに、生きてい

る!」という実感を強く感じ取ることができるのだ。

「ドラマティック(劇的)」ということが称賛の言葉とし

て、「好ましい」という意味合いで日常的に使われるの

も、そういった感情と関係しているのではないだろうか。

三、エンディング(結末)の重要性を知る

 博士役のNの非常に悔しそうな様子が気に懸ったので、

私は是非とも無念をはらさせてやりたいと思い、こう切

り出した。「じゃ、もう一度、同じ設定で、人での実験

に入るところから続けてみるかい」。Nたちは大きく頷

いた。そして、もう一度、彼らはさっきと同じ立ち位置

に戻って、助手1役の例の「先生にもしものことがあっ

ては困るので、私が実験台になります」というところか 励

ら始めた。そしてNは、今度は即座に0の申し出を受け

入れる決断をし、実験を始めた。そして、助手1役に薬

品が投与されたのだ。次の場面ではそれから、数年が過

ぎた。ところが登場した助手1役は博士に対して「最初

はどんどん元気になったんですが、ここ最近、非常にだ

るいんです」と体の不調を訴えた。そして、次の場面で

0は突然、亡くなった。最後に「自分のデータを基にし

て副作用の原因を解明して下さい」と言い残して。

 博士は非常に落胆したが、Pの「先生、彼の死を無駄

にしないように研究を続けましょう」という言葉に励ま

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されて奮起する。その後、副作用は正常な細胞だけでは

なく、癌や腫瘍など悪玉の細胞も活性化してしまうこと

が原因であるということになり、どうやらその対処法も

見つかった。すると、昂然とPが「今度は、わたしが実

験台になります」と言い放った。こうして、本当に副作

用が除去できるのかどうかの検証が開始された。薬品を

投与されたPは次第に活力が滋ってきた様子を演じた。

その後はどうなるのか、「生きるべきか、死ぬべきか」。

その決断のお鉢が今度はPに回ってきた。Pはどの即興

劇でも意表を突くのが好きなようで、なにか問題を引き

起こすような情報を劇に投げ入れる傾向があった。そし

て、今回も、そのトリックスターの一面を発揮した。P

は登場すると、体調の異変を訴えて、まもなく死んでし

まったのだ。その死の場面で、見学の学生たちの間から

「えー」という声が漏れた。多くの学生は今度こそ実験

が成功して大団円を迎えることを予想していたのだろう。

残された博士役のNが二人の助手を犠牲にしてしまった

ことを嘆く中で劇は終わった。予想外の結末に学生たち

は騒ついていたので、私は「この劇から何を感じたか」

と聞いてみた。「博士たちに出来れば成功して欲しかっ

た」、「やっぱり、人間の力で不老の薬を作るなんて無理」、

「博士たちは神様みたいなことをやろうとしていた」、

「人間の限界が表現されていた」といった感想が相次い

だ。 

そこで、次に「出来れば成功して欲しかった」という

感想を述べた学生のグループに、同じ設定で即興劇を演

じてもらった。さっきのグループと同じように、最初の、

人での実験は失敗に終わった。しかし、副作用を抑える

対処法が見つかった後の実験は見事に成功したのだ。

「それから三〇年の時が経過しました」というナレーショ

ンの後、若いままの助手2役が年老いた博士役とともに

登場して、「僕は今日でとうとう還暦を迎えました。し

かし、肉体的には三〇歳のままです」と言った。博士役

の演技者は「ここまでくれば、もう実験は成功したと言っ

ていいだろう。早速、薬品の実用化を進めよう」と宣言

した。助手2役の演技者は「先生、おめでとうございま

す」、博士役は「これもひとえに君や亡くなったS君の

お陰だよ」といった。助手2役は「これで、S君(助手

1役に付与された名前)も浮かばれます。そして、急激

に老化する病で苦しむ人々も救われます」と涙ぐんだ。

こうして劇は感動的な幕切れとなったのだ。この劇に対

する感想は、当然、前の劇とは対照的なものとなった。

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「最後まで諦めずに目標に向かっていくことの素晴らし

さを感じた」、「人間が協力すれば、出来ないことはない

ということでしょう」、「急激に老化する病の人々を救う

たあに自らを犠牲にした行為が感動的だった」。そして、

学生たちは、結末が変わっただけで、劇の訴えることが

全く変わってしまったことに改めて驚いたようだった

(当然ながら、この劇における新薬開発の段階はあくま

で劇の上でのフィクションであり、現実のものとは異な

る)。

 このように、同じグループに違った展開の可能性を考

えて即興劇に再挑戦してもらったり、同じ設定で違った

複数のグループに即興劇を創作してもらったりする試み

は、筋の展開が劇の思想を体現すること、「結末」がい

かに重要であるかということを認識する上で極めて有効

な体験となった。

演劇の台本であると同時に言語芸術作品である戯曲に比

べて、即興劇は言葉より身体表現に依存する部分が多い。

しかしながら、それでもドラマの本質について探究する

際には、案外と役立つことに改めて気付かされる。また、

自然と湧きこる言葉と身体表現を用いて行う即興劇の体

験は、その後に戯曲作品に取り組む際にも活きてくると

思われる。ドラマの探究を通じて人間や社会対する認識

を深めるドラマ教育、その一環として即興劇というジャ

ンルを位置づけることは十分、可能なのではないだろう

か。

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結びにかえて

 さて、以上、即興劇というものがドラマの構造やドラ

マトゥルギーに対する理解を促す過程で極めて有効に活

用出来ることを、幾つかの具体例を挙げて述べてきた。