モンゴル国国書の周辺repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/749/1/0030...モンゴル国国書の周辺...

1

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モンゴ

ル国国書

の周辺

 

モ ンゴル国国書 の周辺

は 

し 

が 

 

いわゆる蒙古襲来、元寇については多くの研究の蓄積があるが、こ

れまで知られて

いなか

った

モンゴ

ル国国書

などが張東翼氏によ

って

                   

『異国出契』

の中から再発見され

て紹介され、この問題をめぐる史料

状況に貴重な

一歩を進めることと

った。

至元八年

(=毛

一)に国

号を

「大元」とする以前、大蒙古国からB本にもたらされた国書とし

ては、至元三年

(一二六六)八月、大蒙古国皇帝

(フビライ、世祖)から

日本国王

(すなわち天皇)に宛

てたものが最初である。しかしこの国書

はすぐには日本にもたらされなか

った。高麗国の使者

は蒙古国使者

ヘイダ

黒的らを臼本に送り届けるべく巨済島にまで至りながら、海峡で波浪

の高いのを前にして引き返してしま

ったからである。

ことの次第を蒙

古朝廷に報告した高麗国王はフビ

ライから再度日本

への使者を通ずる

                              はん

よう厳しく譴責を受けた。かくして最初

の蒙古国国書が高麗

の使者潘

ふ阜によ

って日本にもたらされたのは、至元五年

(日本文永五年)正月

ことであ

った。張氏によ

って紹介

されたのは、従来その存在が確実視

され、内容も推測されていた第二の国書であり、至元六年に大蒙古国

中書省から臼本国王に宛てた牒形式の文書だ

ったのである。

 

この問題についてはさまざまな分野や視点からのアプ

ローチが可能

であろう。筆者はもと元代の海運事業

への関心から蒙古

(元)・高麗

日本の関係に接近しようとしたが、再発見の国書を含めて歴史的に考

察するには、

まず

基本となる相互の関係を外交文書の往復として捉

え、文書情報の伝達の様相として理解するのが有力な方法ではないか

と想い到

った。上に述べたような大蒙古国皇帝のフビライが高麗国王

   

しよく

の元宗王殖

(もとの諱は椣)を譴責したことにしても、使者がもたらし

た外交文書によることだからである。そうなると文献史料の全般的検

討が必要となるわけであるが、ここではある限られた期間を切り取

た形で、こうした方法についてその有効性いかんを検討し、なおモン

ゴル国国書の

一部の問題について考えてみたい。

一 

外交文書の整理

 まず文献史料についてであるが、従来とも研究者が歴史叙述や論証

のために用いてきた文献は主として以下のものであろう。

すなわち

『元史』の本紀と列伝、 『元高麗紀事』、 『高麗史』世家、『高麗史節

要』、そして日本に伝世

の文書写本及びその翻刻である。

 

『元史』の本紀は元朝の宮廷に蓄[積されていた実録に基づいてそれ

27

窓史

を節略したものであるから、とく

に日付については信頼のおけるもの

と考えてよい。至元三年における日本国王宛の国書の全文が世祖紀に

採録されているのは、 『元史』の編者が対日本関係の重要な第

一歩と

認識していたことを物語る。

また

『元史』

巻二〇八、

高麗伝、

耽羅

伝、日本伝には当然、それぞれの国、地域に関する基本的な記録が残

されている。問題はその来源であ

って、 『元史』の外国伝は、至順三

(一三三二)に成

った

『経世大典』

の政典、

征伐の記録に基づくと

考えられる。 『経世大典』はそのままの形では残らず、分解されて明

『永楽大典』

の中に収められた。ところが

『永楽大典』は清末の

混乱にあ

って多くが散逸し、その残

った部分から元代

の記録を輯本と

               

ジヤムチ

して刊行したのが

『憲台通紀』、 

『姑赤』、 『大元海運記』、『大元馬政

記』等の諸書である。これらの輯本には脱誤がかなり多く、 

『永楽大

典』の該当部分と校合することが必須とされてきた。 『元高麗紀事』

             

もそうした輯本のひと

つである。ところがこの書のもととな

ったはず

『永楽大典』の該当部分が今日見当たらないので、 

『元高麗紀事』

を扱う場合には誤りの多いことにとくに注意しなければならない。し

かし基本的には

『元高麗紀事』の記録は

『元史』高麗伝に引き継がれ

ていると考えてよい。

 

『元高麗紀事』、 

『元史』高麗伝

の記事は、

当然ながら蒙古

・元の

立場から記され、例えば皇帝の

「詔」ならば高麗の使者に伝達された

年時に繋けている。そしてその

「詔」は高麗、あるいは蒙古の使者の

旅程をはさんで、だいたい二箇月近くを経過して高麗に伝えられる。

それが

『高麗史』世家、また

『高麗史節要』に記録されている。反対

に高麗から蒙古

・元に伝えられる情報も同じような次第で伝達され記

録される。

つまり発給と受給

の時間差に注意しなければならない。

 

いまここで日本国王宛

の最初の国書以来の数年間を取り上げる便宜

の上から、

至元三年

(一二六六)から至元七年

(一二七〇)ま

でに行き

来した外交文書の発給年時、発給者、形式、受給者、使者、受給年時

について

「蒙古

・高麗

・日本外交文書簡表」として示し、その文書の

内容がいくらかでも記録されている場合には各々の欄外に出典を示し

ておいた。これにより校合の便宜が得られよう。

 

ここに取り上げた数年の情勢を文書の上から概観しておけば以下の

ようである。すなわち、最初の蒙古国国書の発給から、使者が渡海せ

ずに引き上げるなどがあ

った末に、ようやく日本の大宰府に国書が届

けられたこと、それにもかかわらず成果なくして帰国した高麗の蒙古

に対する弁明と蒙古からの再度の譴責、再発見の

『異国出契』所収の

蒙古国中書省の牒、高麗慶尚道按察使

の牒、高麗国内における権臣林

えん衍

の国王廃立のクーデタにからむ高麗

・蒙古間の文書往復と、蒙古か

らの圧力により

一旦は廃された国王王禧が復位したこと、高麗国内の

蒙古に対する抵抗

(とくに至元七年六月、三別抄の反乱)に対応する蒙古

からの文書群である。

 表中

〔ア〕、 

〔カ〕、 

〔キ〕、 

〔ソ〕、 

〔ツ〕、 

〔ヒ〕

は日本

にもたら

された文書であり、 

〔ソ〕、 

〔ツ〕のふたう

の文書が

張氏によ

って再

発見、紹介された

『異国出契』所収

のものである。また

〔ウ〕、〔コ〕、

〔サ〕、 

〔シ〕、 

〔タ〕、 

〔ナ〕は高麗から蒙古に伝えられた文書であ

る。よく知られている

〔ヌ〕、 

〔ネ〕は、臼本側から

〔ソ〕、 

〔ツ〕の

両文書

への返書として用意されたもので、最終的に発給するに至らな

った文書草案である。 

〔へ〕

は現存してはいないが、従来

の研究成

28

モンゴル国国書の周辺

果から、三別抄

の反乱勢力から日本

への援助要請が行われたはずの文

              ③

の存在を推定して付しておいた。

 蒙古襲来

の研究は日本を被害者

とする視点で叙述するものが多か

たが、

近年は

より視野を拡げて東

アジア全般の情勢のなかで

(あるい

                        ④

は世界史として)捉えようとする傾向が

つよくな

ってきた。高麗情勢に

着目すべきことは従来とも指摘されているところであるが、この表か

らも蒙古と日本の二国関係にとどまらず、その間に介在する高麗国の

苦境ともいうべき立場、高麗国国内の情勢が日本

へ波及するさまを認

めることができよう。詳細はここではふれないが、鎌倉時代の日本の

蒙古

への対応も、蒙古の圧力を受け続けてきた高麗国の情勢に鑑みた

ところがあ

ったはずである。各国ともこの時代なりの情報収集の争い

の渦中で苦慮していたと考えられる。

二 外交文書の文言の問題

 上述の簡表は国際情勢の推移の考察に便宜があると思われるが、

ま少し丁寧な分析にも役立

つと思われる。それは文書中にあらわれる

文言の問題である。

現代とて同じであるが、

とくに外交文書の場合

にはどのような表現によ

って事態や態度を表現するかに大いに気を使

い、

また相手に誤解を与えること

のないよう

正確を期さねば

ならな

い。これらの文書群には同じ文言を常套句のようにくり返し用いるこ

とがしばしばある。それは事実として同じ言葉がくり返されたという

にとど蓑らず、同じ言葉を踏襲して用いなければならない必然性があ

ったと考えられないであろうか。

とくに元代

の文書行政

のあり方の問

題として考えてみたい。大

モンゴ

ル帝国の時代から大可汗の言葉は格

いな

る権

て尊

た。

サや

ルリ

クが

る。

「皇

旨」 

「詔

どが

政的

の最終

しば

しば

た。

言葉

のく

は、

を期

す官

の慎

な態

った。

と同

に、

のち

に詳

に、

ンゴ

ル語

ら漢

への翻

の問題

と考

ので

る。

 

つぎ

に簡

の文

る題

て、

いく

つか

の文

を検

い。

 

 

 

 

 

 事

1

「去

使

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

A至

使

 

 任

 

 

 

ヘ  へ

 

 阻

使

(『元高

麗紀事』至元

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ⑤

 

 三年

八月条

『高麗史

元宗世家元宗七年

一月

癸丑条、

『高

麗史節要』)

 

 

〔イ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

むか

 

 去

使

て、

て彼

の疆

に徹

し、

し、

に嚮

い義

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 を

しむ

は、

の事

の責

しく

これ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 な

 

 く

の険

て辞

て通

せざ

を以

 

いいわけ                したが

 

 解

に順

使

るを

を以

て託

 

 為

の忠

こに於

し。

これ

 

 よ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

B

(至元

四年六月)、

王稙

使

 

 

日本

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

可辱

使

(『元史

』日本伝、高

麗伝)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おも

 

 

(至元四年六月)、帝

、王殖

、辞

て解

と為

し、

去使

 

 

いたず                ま

 

 

て徒

と、

黒的

し高

て禧

を諭

し、

29

窓史

  委ぬるに

日本の事を以てし、

必ず其の要領を得るを以て期と為

  す・醜

えらく海道険阻にして、天使を購かしむべからずと。

 

C

(至元五年正月二十八日)、

王稙

日、

「…

…令

.侍

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

 李

用賚

表章

去使

具悉

。」 

(『元高麗紀事』) 

〔ケ〕

 

 

(至元

五年正月二十

八日)、

王稙

に詔

日く

、 

「…

…令

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もたら         と    きた    つぶ

 

 俊

・侍

郎李

て表

使

に来

 

ことこと

 

 

よ。」

 

D

(至元

五年)九

使

本、

命稙

日、 

「:::

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

 朕

謂向

使

日本

、彼

、或

、責

不在

 

 乃

。」

(『元高麗紀事』、『高麗史』元宗世家)

〔セ〕

 

 

(至元五年)九月

黒的

日本

使

め、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おも     さ

 

 

て導

む。

曰く

、 

「…

に向

 

 使

を導

日本

に、

いは発

 

 

し、

いは

せば

は卿

に在

らず

ち飾

偽辞

を以

 

 

し、

て還

る。

 

E

(至元七年)

二月

使

臼本

日、

「朕

日本

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

 好

故嘗

去使

講信

其疆

 

 梗

不獲

心。

し 

(『元史』高麗傳

)

〔フ〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 よし

 

 

(至元七年)

二月

に詔

使

を送

日本

 

 

 

 

 

 

 

 おも

 

 

曰く

「朕

日本

は昔

に通

じ、

に相

い密

 

 邇

り、

に嘗

て卿

に詔

し去

使

し、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じやまだてする 

 

 

に、

の疆

の梗

る所

、竟

に明

に朕

 

 

 

 獲

…」

「去

使

る語

元代

の言

であ

「差

使

臣」

 さしつかわす 

(差去す

る使臣)を

めた

にゆ

のよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピチクチ

かと

いえ

(蒙古的

にいえば必闍赤)と

は、

フビ

ライ

に翻

る義

り、

のよ

ので

 

は以下

のよ

のが

る。

D

『高麗

元宗

(文書

〔セ〕)

に対

る部

『高

一八、

元宗

九年

一月

の条

つぎ

のよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

 

日、 

「向

委卿

導達

使

者、

日本

飾辭

風浪

阻、

 

 

可輕

渉、

…」

こで

「去使

「使

者」

い換

いる。

『高麗

史』

二六、

一月庚

の条

(文書

〔ス〕)に

いう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

 

日、 

「…

造船

去官

指畫

已與

造船

役、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  へ

 

 

…仍

去官

先行

・日本

路、

差官

 

 

道達

。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかく      ゆる

 

 

「…

の造

る所

の船

は、

の指

るを

し、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あずか

 

 

の如

は、

造船

の役

しも

せざ

れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ま ず

 

 

…仍

去官

先行

・日本

の道

を相

し、

も亦

 

 

道達

よ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「去官

いう翻

の造語

った

のであ

う。

 

 

 

 

 

 

2

「風濤

阻」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

A茲

責、

宜任

之、

風濤

阻爲

好爲

 

 

命有

使爲

(『元高麗紀事

』至元三年八月、『高麗史』

 

 

元宗世家元宗七年

一月癸丑条、

『高麗史節要』)

〔イ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

B

、 

「…

風濤

阻爲

旨嚴

切、

30

モンゴル国国書 の周辺

  不獲已、遣某官某奉皇帝書前去。……L (『高麗史』元宗世家元宗八

                  

  年八月丁丑条、

『高麗史節要』、

『鎌倉遺文』) 〔カ〕

  国書に曰く、 

「……故に特に書を遣して以て往き、風濤

の険阻を

  以て辞と為す勿れとあり。

の旨厳切にして、

こに已むを獲

  ず、某官某を遣し皇帝の書を奉じて前去せしむ。……」

    

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

C勿以風濤險阻爲辭、抑未嘗通好爲解。其旨嚴切、固難違忤。

(『鎌

  倉遺文』、

『異国出契』) 〔キ〕

               そもそ

  風濤

の険阻を以て辞と為し、抑

も未だ嘗て通好せざるを解と為す

  なかれ。其の旨厳切にして、

固より違忤し難し。

この表現はとくに珍しいものではないが、高麗国王の日本国王宛

の文

書中の表現が世祖の高麗国王に対

する厳命を忠実にトレースしている

ことを示した。Cは日本

の大宰府

に来訪した折

の潘阜の書状である。

別の表現としては、文書

〔セ〕

『元高麗紀事』に

「風浪蹴天」の表

現があり、また同じく文書

〔セ〕

『高麗史』元宗世家では

「風浪険

阻」とあるのを付言しておく。

 さらに至元六年、高麗

の使者申思佳が倭人塔二郎らを連れてフビラ

イに拝謁した折

には、

フビライは

「爾ら険阻を以て辞と為さず、不測

                よみ

の地

に入りて生還し復命するは忠節嘉すべし」と上機嫌で話したとい

⑨う。

      事例3

「得其要領」 

「必得要領」

 この語法も漢文として珍しいも

のではないが、至元四年に蒙古が高

麗に対して日本に必ず達すべしと

の厳命として、諸所に踏襲して用い

られる表現である。

 A黒的

・殷弘以高麗使者宋君斐

・金贊不能導達至日本來奏。降詔責

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

 

王禧

布、

(『元史』世

 

 

祖紀

至元

四年六月乙酉条)

 

 

・殷弘

の使

君斐

・金

(が

)

日本

 

 

て来

す。

を降

し高

を責

め、

お其

 

 

て官

し彼

に至

し、

必ず

を得

を以

て期

と為

 

 

しむ

 

B奉

君斐

日本

通好

日、 

「…

 

 

日本

、 

一以

委卿

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

 

領爲

」 (『元高麗紀事』至元

四年六月条)

 

 

〔エ〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

を奉

じ、

た黒

を遣

し君

り、

日本

国通

 

 

の事

を以

てす

曰く

、 

「…

日本

の事

一に以

て卿

に委

 

 

の行

て卿

の信

る所

の者

は、

 

 

に官

て彼

に詣

て宣

し、

を得

を以

て期

 

 

し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

C

(至元四年六月)、

日本

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

 

(『元史』高麗伝、日本伝)

 

D帝

日、

「…

…今

日本

一委

日本

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

 

…」 

(『高麗史』元宗世家元宗八年

八月丙辰朔条、

 

 

『高

麗史節要』) 

〔エ〕

日本

の大宰

に至

ら、

の目

を達

でき

った

いて

も、 

『元

史』

二〇

八、

「留

こと

六月

の要領

得ず

て帰

る」

 

 

 

 

 

 

4

「日本

邇」

31

窓史

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

A高

也。

日本

麗、

至於

 

 朕

一乘

之使

好。

(『元史』世祖紀

至元

三年八月丁卯条

 

 b『元史』日本伝

『鎌倉遺文』、

『異国出契』) 

〔ア〕

 

 高

の東

り。

日本

し、

を開

り以

 

 来

に中

通ず

に、

て、

一乗

の使

の以

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通ず

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

B

邇、

開國

以來

中國

於朕

 

 

一乘

使

。 

(『山咼麗史

』元宗世家宗八年

八月了丑条、

『高

 

 麗史節要』)

〔ア〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

C

・唐

以來

中國

其與

高麗

 

 

 

 

。 

(『異

国出契』) 

〔ソ〕

から

の最

の国

の至

六年

の大蒙

から

の牒

にも

踏襲

いる

 

お蒙

から

への文

にあ

って

は、 

「日

本與

高麗

近隣

いら

こと

が多

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ   ヘ  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ  へ

 

D

日、 

「今

趙彝

聞本

 

 

・唐

下、

使

中國

…」

(『元高麗紀事』至元

 

 

三年

八月条、 『高麗史』元宗世家宗七年十

一月

、 

『高

要』

 

 

〔イ

 

 

曰く

、 

「今

趙彝

の諸

国、

は高

近鄰

 

 

た                                     い か

 

 

に足

るあ

り、

・唐

、亦

 

 

使

に通

 

E

日、 

「我

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

 

日本

・唐

 

 

L

(『高麗史』元宗世家元宗八年

八月丁丑条、『高

 

 

麗史節

要』)

〔カ〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワつ

 

 

曰く

、 

「我

に臣

正朔

を稟

て年

り。

 

 

 

 

 

 よし

 

 

を貴

に通

んと

て、

に詔

云う

日本

 

 

なんじ                    よみ

 

 

は爾

り、

に足

る者

り、

・唐

 

 

に通

…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

F今

云、

目本

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ⑪

 

 

・唐

下、

使

(『鎌倉遺文』、『異

 

 

国出契』)

〔カ〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

G

使

二人

云、

日本

・唐而

 

 

使

(『鎌倉遺文

』、『異国出契』)

〔キ〕

 

 

て丙

の年

使

二人

を遣

し詔

を伝

云え

日本

は高

 

 

り、

・唐

下、

使

に通ず

「日本

は、

D

よう

に、

の僧

で還

て蒙

に近

た趙

の言

であ

った。

の人

の存

こそ

から

日本

への働

かけ

った

であ

る。

E

から

日本

への国

て高

に残

り、

国書

F

よう

日本

に残

って

る。

「海

の文

F

にあ

なが

E

の高

みえ

いが

日本

の高

国書

に存

ちが

いな

い。

G

は潘

の書

に見

るも

のであ

る。

 

 

 

 

 

 事

5

「以

至用

 

A

(至元一二年)

八月

丁卯

・禮

使

日本

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日、 

「…

且聖

四海

一家

理哉

 

 

ヘ  ヘ  へ

 

 

兵、

王其

。」

(『元史』世祖紀) 

〔ア〕

32

モ ンゴル国国書の周辺

 

(至元一二年)

八月

丁卯

部侍

黒的

・礼

部侍

弘、

日本

に使

 

を以

て、

を賜

曰く

「且

つ聖

は四海

て家

と為

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ことわり

 

い好

を通

は、

一家

の理

んや

て兵

 

 

 

 

 

 

 

 たれ

 

らば

れ孰

か好

王其

これ

を図

。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

B書

日、 

「…

…豈

一家

王其

。」

 

(『元史

』日本伝)

〔ア〕

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  へ

C豈

一家

至用

王其

(『鎌倉遺文』)

〔ア〕

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

D豈

一家

至用

好。

。 

(『異国出契』)

 

〔ア〕

E

阜齎

国書

日本

。蒙

日、 

「…

一家

 

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

王其

。」

(『高麗史』元宗世家

 

宗八年

八月月丁丑条

、 『高麗史節要』)

〔ア〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もたら        ゆ

 

居舎

人潘

し蒙

の書

国書

を齎

日本

に如

む。

 

の書

曰く、 

「…

一家

の理

や。

 

 

 

 

 

 

 たれ

 

らば

れ孰

か好

む所

王其

これ

れ。」

F

(至元一二年)

月、

遣國

信使

兵部

・禮

部侍

・計議

 官

等、

至稙

目太

日、 

「今

趙彝

 奏

、海

諸國

麗爲

近鄰

足嘉

・唐

 

使

中國

故特

使

 

 

 

 

ヘ  ヘ  ヘ  へ

 

。 

(『元高麗紀事』) 

〔イ〕

 

(至元三年)

八月

国信

使

部侍

・礼

・計

 

し、

じ殖

の国

め、

日本

 

し、

曰く

、 

「今

の諸

 

国、

日本

は高

近鄰

り、

るあ

り、

     い か

  

漢・唐而下、

亦た或いは使を中国に通ずと。

故に特に使を遣し書

  を持して以て往き、通好を遂ぐるを得て嘉となす。苟くも此の意

  を諭らず、以て兵を用うるに至らば、夫れ孰れか好む所ぞ。L

 G

(至元

(六)口七凵年)十二月、又命秘書監趙良弼往使。書日、

「蓋

  聞王者無外、

高麗與朕既為

一家、

王國實爲隣境、

故嘗馳信

使修

                     ヘ  ヘ  ヘ  へ

  好、爲彊場之吏抑而弗通。……其或猶豫、以至用兵、夫誰所樂爲

  也。王其審圖之。」 (『元史』日本伝)〔ヒ〕

  

(至元七年)十

二月、

又た秘書監趙良弼に命じ往き使せしむ。書

  に曰く、「蓋し聞くに王者

は無外、高麗

は朕と既に

一家を為

せば、

                           

きようえき

  王国は実に隣境たり、故に嘗て信使を馳せて修好せしに、疆場の

  吏のために抑せられて通ぜず。……其れ或いは猶豫して、以て兵

           そ          ねが               つまび

  を用うるに至らば、夫れ誰か為すを楽う所ならんや。王其れ審ら

  かにこれを図れ。し

AからEまでは周知の蒙古国からの最初の国書であり、ここの文言が

果たして日本に対する武力的威嚇を含意するものか否か議論のあると

ころである。

蒙古側は単に

「通好」、

あるいは通商を求めたものであ

って、最初

の段階では武力攻撃を意図しては

いなか

ったとも言われ

る。

 まずCの

『鎌倉遺文』に収められたのは東大寺尊勝院旧蔵の写本で

あり、 「至用兵」とあ

って

「以」

の字を欠いている。ここは興福寺

乗院所蔵本に拠

った

『異国出契』に従

って

「以しの字を補うべきであ

ろう。 『元史』の世祖紀と日本伝とも合致するからである。しかしな

がら、文章の冒頭に

「以」の字を配置するのはいかにも通常の文とし

ては奇異の感を免れない。

一般に読まれているように

「兵を用いるに

33

窓史

至りては、夫れ孰か好む所ぞ」とするなら、 

「至於用兵」なり

「至于

用兵」

とあ

って然るべき

ところである。

そこで参考になるのが

Fの

『元高麗紀事』の文である。ここは

「苟不諭此意」の文を

つぎの

「以」

の字に始まる四字句に連結してな

んら違和感のない文にな

っている。

Gの、趙良弼が至元七年末に使者

にたち、翌年日本にもたらした日本

国王宛の国書でも

「其或猶豫」の文が前に付せられている。筆者はF

の例にしたが

って

「苟不諭此意」

の文を補うべきだと言うのではな

い。Fは蒙古国皇帝から高麗国王

に宛てた詔文でもある。

 愚見は、国書のこの部分の文言

『異国出契』、『元史』、『高麗史』、

『高麗史節要』の通りでよいと考える。それならなぜこのような不自

然な句づくりにな

ったかを考えなければならないが、それはさきに見

たような翻訳の問題が関わ

っているからであろう。外交文書はしばし

ば皇帝の言葉を下敷きにしている。フビライ皇帝がモンゴル語で話し

たことを書記官、訳官は忠実に記録し、翻訳しなければならない。漢

語の四字句を重ねる常套的スタイ

ルは継承しながら、場合によ

っては

翻訳のために造語したり、通常の文法を破

ってしまうこともあ

ったと

思われる。これをよりつき詰めた例として、我々はモンゴル語

の語順

のままに翻訳した蒙文直訳体といわれるような異例の漢文も知

ってい

る。詔書や皇帝聖旨の場合と同様に、皇帝のモンゴル語の言葉を下敷

きにすればこそ、

このような変則的な文とな

ったものであろう。

 それならば

この国書の文言は

武力的威嚇を含意するものであ

った

か。筆者は、蒙古が南宋攻撃に主力部隊を振り向けているさなかに日

本宛の国書が発せられたとはいえ、この国書

の文言そのものに即して

考える限り、明らかに

「用兵」とある以上、日本に対する軍事力行使の

             ⑫

可能性を口にしていると考える。たとえ

「望むところではない」と断

っているにせよである。その延長線上に

『異国出契』所収の文書

〔ソ〕

              

ただ

の牒文における

「戦舸万艘もて、径ちに王城を圧せん」との具体的な

文言があると考えている。

再発見

『異国出契』所収

モンゴ

ル国

国書など

について

 

『異国出契』所収の蒙古襲来前夜の文書六種のうち、張東翼氏によ

って新たに見出されたのは、 〔ソ〕の大蒙古国中書省からの日本国王

宛の牒

(至元六年六月)と

〔ツ〕の高麗国按察使からの大宰府守護所宛

の牒

(至元六年八月)である。張氏は抬頭の形式を復原した釈文と翻訳

を付して両文書を紹介された。

また文書

の内容に即した分析的解説

(とくに国書末尾の宰相名の同定)も詳細で説得的である。いま筆者はと

くに文書

〔ソ〕について文字の校訂をすべきところがいくらかあると

考え、また翻訳にも張氏と多少

ニュアンスを異にするところもあるの

で、あえて訓読と現代語訳による拙案を提示することとした。なお文

書の内容を重視する上から、

ここでは抬頭の書式によらずに原文を提

示しておく。後掲の原文、訓読、現代語訳を参照されたい。

 文書

〔ソ〕

の大蒙古国中書省

の牒文についての筆者

の校訂案は原文

に示したとおりである。

蒙古皇帝の威勢が

拡ま

ったことを述べるう

ち、 

「南抵六詔

・五南し

「六詔」は唐代

の南詔国成立以前

の雲南地

の呼称であることに問題はない。ただ

「五南」について張氏は

「中

国と交阯、合浦

の境界にある五嶺」とされるが、筆者は

「安南しの誤

                     ウリヤソハタイ        トゴソ

りと考える。憲宗

モンケの時期以来、安南には兀良哈鰐や鎮南王脱歓

34

モ ンゴル国国書の周辺

らが差し向けられてモンゴルの軍事作戦の対象とな

っていたからであ

る。

 

この牒文には最初

の蒙古国国書

(文書

〔ア〕)と同様のことが

述べら

れていたにちが

いないと従来とも推測されていたが、文書の内容に即

してみると、 

「以四海為家」、 

「畏威懐徳」、 

「嘗通中国、其与高麗寔

為密邇」、 

「義雖君臣、歓若父子」

の文言がほぼ踏襲されている。

 

さらに原文に二重線をほどこした部分の文言についてみると、 『元

文類』巻四

一、雑著、征伐、日本

につぎのような対応する文がある。

  

阜還、上以爲將命者不達、黒的被衂、上以爲典封疆者、以愼守固

  

禦爲常、

此將吏之過。

良弼之往、

復謂不見報者、

豈以高麗林衍

  

叛、道梗故耶。終不以旅拒名之。

ここに書かれていることを補足して述べれば以下のようである。潘阜

が大宰府に留め置かれた末に空しく帰国したのち、

フビライは命令を

取り次ぐものが首尾よく到達でき

なか

ったと考えた。そこで再度派遣

された蒙古

の使者の黒的は、

至元六年

(一二六九)二月に対馬に至

たが、現地で抵抗に遭

った末に、倭人塔二郎と彌二郎を連れ帰

った。

二郎らは高麗から燕京

(のちの大都、今日の北京)に送られ、

フビラ

イに謁見して壮麗な宮城を見学している。

このたびの高麗国の使者

(金有成)は両名を日本に還す任務も

帯びていた。 『元文類』

によれ

ば、

黒的が

対馬で抵抗に遭

ったことに

ついて、

現地の辺境守備

のも

のが職務に忠実であるあまりに犯した過ちであると、

フビライは考え

た。このフビライの判断がそのまま

『異国出契』所収

の国書

の文言に

反映しているところは注目すべき

であろう。なお

『元文類』のこの記

録は

『経世大典』政典、征伐、日本に基づくものであるが、 『元史』

日本伝には採録されなか

った。

 文書

〔ツ〕

の高麗国按察使

の牒文について、張氏の論に付け加える

         

べきものはあまりない。いまは

『異国出契』の再発見に触発されて、

蒙古襲来に先立

つ国際関係について多少考えたところを示すにとどめ

ておきたい。

註①

張東翼

「一二六九年

「大蒙

古国」中書省

の牒

と日本側

の対応L(『史学雑

 

誌』第

一一四編第八号、

二〇

〇五)参照。

『学術叢編』所収。また

『国学文庫』

(一九

三七)とし

て刊行され、そ

 

の影印本

(広文書局、

一九

七二)が流布している。

石井正敏

「文永八年来

日の高麗使

について」

(『東京大学史料編纂所報』

 

=

一、

一九

七七)参照。

たとえば、杉山正明

『逆説

ユーラシア史』

二〇〇二、佐伯

弘次

『モン

 

ル襲来

の衝撃』 (日本の中世

9)二〇〇三

、など参照。

『高麗史節要』では引用

の文と異なる部分もあ

るが、

「去使」

の用

い方

 

は同じであ

る。

ここの

「去使」

の語

は、

『元史』罠本伝及び高麗伝

の記事

のもと

にな

 

たはず

の文書

工の

『元高麗紀事』

にはみえな

い。

『元高

麗紀事』

によれば、

「其所造船隻、聴其指画」とあり、ほか

 

は同じ

である。なお

「道達」は

「導達」

の意

である。

『鎌倉遺文

』では

「特」

の字

を脱

し、

「某官某」

「朝散大夫尚書礼部

 侍郎潘阜等」

と明示し

ている。

『異国出契

』も同じ。

また

『高麗史節要』

 

「風涛阻険」とある

のは単

「険阻」を誤

ったも

のであろう。

『高

麗史』巻

二六、元宗

世家元宗十年七月甲子条。

『高麗史節要』巻

 八、元宗十年

七月条

では

「不以険難為辞」に作る。

『元史』世祖紀

には

「亦」

の字を脱す。

『異国出契』

では

「嘉

しの字

「喜」に誤

まり、

「亦」

の字

を脱す。

張東翼氏

「蒙古

の立場

から両国

の友好的

な通交

の締結を通報

したも

35

窓史

 

であるが、その実質

においては日本

の臣属

を要求

したものであ

る」と述べ

 

(註①)。

ただ、

「郷導」

「嚮導」

と、また

「使

介」

「使价」と校

しておられ

 

ると

ころは誤字

とまで言わなく

とも

よいのではないかと考える。

36

モ ンゴル国国書 の周辺

蒙 古 ・高 麗 ・日本 外 交文 書 簡 表(1266~1270)

至元3年(高 麗元宗7年,日 本文永3年,1266)

〔ア〕 発給年時       発給者

至元3年(1266)8月  大蒙古国皇帝

形式

国書

受給者

日本国王

使者ヘイダル

黒的・殷弘

受領年時

r元 史』世祖紀,P元 史 』 日本伝,『 高麗史』元宗世家,『 高麗史節要』,『鎌倉遺文』,『異国出契』

〔イ〕 発給年時 発給者

大蒙古国皇帝

形式

受給者

高麗国王

使者     受領年時

黒的・殷弘 元宗7年(1266)II月

『元高麗紀事』,P高 麗 史』元宗世家,  r高麗史節要』

至元4年(高 麗元宗8年,日 本文永4年,1267)

〔ウ〕 発給年時      発給者

至元4年(1267)正 月 高麗国王

形式

受給者     使老

大蒙古国皇帝 宋君裴

受領年時

『高麗史』元宗世家,『 高麗史節要』

〔エ 〕発給年時      発給者

至元4年(1267)6月   大蒙古国皇帝

形式

受給者

高麗国王

使者

黒的

受領年時

元宗8年(1267)8月

『元高麗紀事』,『 高麗史』元宗 世家,『 高麗史節要』

〔オ 〕発給年時      発給者      形式                    アソトソ

至元4年(1267)10月 安童(中 書右丞相)書

受給者

高麗国王

使者 受領年時

r元高麗紀事』

〔ア 〕

〔カ〕

〔キ 〕

発給年時       発給者

〔至元3年(1266)8月 〕大蒙古国皇帝

〔至元4年(1267)9月 〕高麗国王

(至元5年)(1268)正 月 潘阜

形式

国書

国書

受給者

日本国王

日本国王

少弐資能

使者

潘阜

潘阜

    受領年時

〔文 永5年(1268)正 月〕*1

〔文 永5年(1268)正 月〕*2

〔文 永5年(1268)正 月〕*3

*1前 出  *2『 高麗 史』元宗世家(8月),

*3P倉 遺文』, P異 国出契』

『高麗史節要 』,r鎌 倉遺文』, P異国出契 』

〔ク〕 発給年時 発給者      形式  受給者

大蒙古国皇帝  勅   王渇

使者 受領年時

元宗9年(1268)2月

P高麗史』元宗世家,r高 麗史節要』

至元5年(高 麗元宗9年,日 本文永5年,1268)

〔ケ 発給年時      発給者

至元5年(  ・:)正月 大蒙古国皇帝

形式

受給者

高麗国王

使者     受領年時  エスントウ

于也孫脱  元宗9年(1268)3月

r元史d高 麗伝,r元 高麗紀事』,『 高麗史』元宗世家,  r高 麗史節要 』

37

〔コ〕発給年時      発給者

元宗9月(1268)4月  高麗国王

形式   受給者     使者

表   大蒙古国皇帝 李蔵用

史 窓

受領年時

至元5年(1268)5月

r高麗史』元宗世家,r高 麗史節要』

〔サ〕 発給年時       発給者

元宗9年(1268)7月   高麗国王

形式  受給者     使者

表   大蒙古国皇帝 潘阜

受領年時

『高麗史』元宗世家,r高 麗史節要』

〔シ〕 発給年時       発給者

元宗9年(1268)8月   高麗国王

形式   受給者     使者

書   大蒙古国皇帝 崔東秀

受領年時

『高麗史』元宗世家,『 高麗史節要』

〔ス〕 発給年時      発給者      形式   受給者

至元5年(1268)8月  大蒙古国皇帝  書   高麗国王

使者ト  ド ル

脱朶児

受領年時

元宗9年(1268)10月

『元 高麗紀事』,『 高麗史』元宗世家

〔セ〕 発給年時      発給者      形式   受給者

至元5年(1268)9月  大蒙古国皇帝  詔   高麗国王

使者

黒的

受領年時

元宗9年(126$)11月

P元高麗紀事』,r高 麗史』元宗世 家,  r高麗史節要』

至元6年(高 麗元宗10年,日 本文永6年,1269)

〔ソ: 発給年時      発給者      形式   受給者

至元6年(1269)6月  大蒙古国中書省 牒    日本国王

r異国出契』

使者

金有成

受領年時

〔タ1 発給年時       発給者                    えん

元 宗10年(1269)7月 林 衍

形式  受給者     使者

表   大蒙古国皇帝 郭汝弼

受領年時

r高麗史』元宗世家,r高 麗史節要 』

〔チ〕発給年時      発給者      形式   受給者

至元6年(1269)7月  大蒙古国皇帝  詔   高麗国王

使者

脱朶児

受領年時

〔ツ〕

〔テ〕

P元高麗紀事 』

発給 年時

至 元6年(1269)8月

P異国出契 』

発給者      形式  受給者     使者

慶尚道按察使  牒   大宰府守護所 金有成

受領年時

発給年時      発給者      形式

至元6年(1269)8月  大蒙古国皇帝  詔

受給者     使者     受領年時                オ ロ ス ブ ハ

高麗国文武臣僚 斡朶思不花

『元高麗紀事』

38

モ ンゴル国国書の周辺

〔ト〕発給年時      発給者      形式

至元6年(1269)10月 大蒙古国皇帝  詔

受給者     使者

高麗国官吏軍民 黒的

受領年時

至元6年(1269)11月

P元高麗紀事』

〔ナ〕 発給年時      発給者

至元6年(1269)11月 高麗国王

式形

受給者     使者                きゆう

大蒙古国皇帝 朴烋

受領年時

P高麗史』元宗世家,r高 麗史節要』

至元7年(高 麗元宗11年,日 本文永7年,1270)

〔二〕 発給年時      発給者      形式

至元7年(1270)正 月 大蒙古国皇帝  詔

受給者     使者

高麗国僚属軍民

受領年時

r元史 』高麗伝,『 元 高麗紀事』

〔ヌ〕'発給年時     発給者

文永7年(1270)正 月 太政官

形式

受給者     使者

大蒙古国中書省

受領年時

『異国出契』,r本 朝文 集』

〔ネ 〕 発給年時      発給者

文永7年(1270)2月   大宰府守護

式形

受給者     使者

慶尚道按察使

受領年時

r異国出契』,r本 朝文集』

〔ノ 〕'発給年時       発給者       形式

至元7年(1270)2月  大蒙古国皇帝  詔

受給者     使者

高麗国官吏軍民

受領年時

r元 史』高麗伝,『 元 高麗紀事』

〔ハ〕 発給年時      発給者      形式

至元7(1270)閏11月 大蒙古国皇帝  詔

受給者

高麗国王

使者     受領年時

(世子惟)  元宗11年(1270)12月

r元 史』高麗伝,『 元 高麗紀事』,『 高麗史』元宗世家,P高 麗史節要』

〔ヒ〕 発給年時      発給者

至元7年(1270)12月 大蒙古国皇帝

形式   受給者

国書  日本国王

使者

趙良弼

受領年時

文永8年(1271)9月

『元史』 日本伝

〔フ〕発給年時      発給者      形式

至元7年(1270)12月 大蒙古国皇帝  詔

受給者

高麗国王

使者 受領年時

r元 史』高麗伝,『 元高麗紀事』

〔へ 〕{発給年時 発給者

(三別抄?)

式形

受給者     使者

日本国王?

   受領年時

文永8年(1271)8月 以前

39

些ノ巳6、

【高麗国の使者がもたらした蒙古

国中書省の牒】

至元六年

(高麗元宗十年、日本文永六年、一二六九)六月

『異国出契』巻

一    

拠奈良興福寺

一乗院所蔵本転鈔

 

大蒙古國皇帝洪幅裏、中書省牒日本國王殿下。我國家以神武定天

 

下、威徳所及、

無思不(能)[服]。

逮皇帝帥位、

以四海爲家、兼

 

愛生靈、

同仁

一覗、

南抵六詔

・(五)[安]南、

北至于海、

西極崑

 

崙、敷萬里之外、

有國有土、

莫不畏威懐徳、奉幤來朝、

惟爾日

 

本、國于海隅、漢唐以來、亦嘗通中國、其與高麗寔爲密邇。皇帚

 

嚮者敕高麗國王、遣其臣潘阜持璽書通好、貴國稽留數月、殊不見

 

答。

皇帚以爲將命者不逹、

尋遣中憲大夫

・兵部侍郎

・國信使紜

 

徳、

中順大夫

・禮部侍郎

・國信副使殷弘等、重持璽書、

直詣貴

 

國、不意纔至彼彊樹馬島、堅拒不納、至兵刄相加我信使、勢不獲

 

已、聊用相應、生致塔二郎

・彌二郎二人以歸。皇帚寛仁好生、以

 

天下爲度、凡諸國内附者、義

雖君臣、歡若父子、初不以遠近小大

 

爲間。至于高麗、臣屬以來、唯歳致朝聘、官受方物、而其國官府

 

土民、安堵如故、及其來朝、

皇帚所以眷遇

(樹)[撫]慰者、

恩至

 

渥也。

貴國隣接、

想亦周悉。

且兵交使在其間、

寔古今之通義、

 

彼彊場之吏、赴敵舟中、俄害我信使、較之曲直、聲罪致討、義所

 

當然。又慮貴國有所不知、而典封疆者、以愼守固禦爲常事耳。皇

 

帚獪謂此將吏之過、

二人何罪、

今將塔二郎致貴國、俾奉牒

書以

 

往。

其當詳體聖天子象容井包混同無外之意。

忻然效順、

特命

 

臣、期以來春、奉表闕下、盡畏天事大之禮。保如高麗國例處之、

 

必無食言。若獪負固恃險、謂莫我何、杏無來、則天威赫怒、命將

 

出師、戰舸萬艘、徑壓王城、則將有噬臍無及之悔矣。利害明甚、

敢布之殿下。唯殿下寔重圖之。

 右牒日本國王殿下。

 至元六年六月 日 牒。

 資政大夫中書左丞

 資徳大夫中書右丞

 榮祿大夫罕章政事

 榮祿大夫罕章政事

 光碌大夫中書右丞相

4a

牒奉

日本國王殿下

中書省 封

至元六年六月 日

 

 ー

"最初

のモンゴ

ル国国書

(〔ア〕

至元三年八月)

の文言と重なる部分。

 

 ー

"

『元文類』巻

一、雑著、征伐

、日本

の記事と重

なる部分。

 

大蒙

の洪

のう

に、

中書

省、

日本

殿

に牒

我が

て天

め、

の及

ぶ所

いて

せざ

 

 

 

 

 

 

 

 

 およ

に逮

んで

し、

兼愛

し、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いた

一視

は六

・安

に抵

は海

に至

西

は崑崙

め、

 

 

 

ほか

の外

を畏

れ徳

を懐

 

 

だ  なんじ                               つね

し。

日本

に国

て、

・唐

た嘗

に中

に通

 

 

 

 

まこと みつじ

た       さきごろ

の高

に密

に勅

し、

の臣

モ ンゴル国国書の周辺

 

 

 

 

 

 

 

 

よし

し璽

を通

に、

国稽

と数

に答

 

 

 

 

 

 

 

お も                            つい

れず

以為

らく

る者

せざ

と、

で中

・兵

部侍

・国

信使

・礼

・国信

使

を遣

し、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いた           おも       ようや

て璽

を持

し、

に貴

に詣

に、

わざ

りき

の対

馬島

に、

て納

て我

使

に相

い加

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

え    いささ もつ

り、

いと

を獲

か用

て相

い応

じ、

二郎

・彌

二人

生致

て以

て帰

る。

は寛

て生

を好

み、

を以

と為

し、

そ諸

の内

る者

は、

は父

り遠

小大

を以

て間

さず

は、

り以

だ歳

に朝

を致

し、

り方

を受

て其

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もと

の国

の官

は安

こと

の如

の来

に及

で、

の眷

る所

の者

は、

り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まこと

て亦

周悉

ん。

つ兵

ると

使

の間

に在

は、寔

に古

 

 

 

 

 

 

 

きようえき

の通

り。

の疆

の吏

の中

に赴

に我

使

は、

これ

を曲

に較

ぶれ

て討

て当

に然

べき

り。

た慮

に貴

て、

封疆

を典

る者

を以

て常

せる

のみ

帝猶

て此

れ将

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もつ

の過

て、

二人

の罪

んと

今、

二郎

を将

て貴

に致

し、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

を奉

て以

て往

しむ

に聖

子、

容井

て外

にす

るな

の意

し、忻

て順

し、

に命

て、

期するに来春を以てし、表を闕下

に奉じ、天を畏れ大に郭

えるの礼を

せ。

の如

これ

を処

し、

必ず

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いかん          はる       きた

ん。

し猶

お固

い険

を恃

み、

て来

るな

しと

天威

し、

に命

て師

し、

万艘

  ただ

て、径ちに王城を圧せば、則ち将に噬臍及ぶなき

の悔あらん。利害明

甚なれば、敢てこれを殿下に布す。唯だ殿下寔に重ねてこれを図れ。

謹みて牒す。

  右、日本国王殿下に牒す。

  至元六年六月 日、牒す。

  資政大夫中書左丞

  資徳大夫中書右丞

  栄禄大夫平章政事

  栄禄大夫平章政事

  光禄大夫中書右丞相

【翻訳】

 大蒙古国皇帝の洪福

により、中書省が日本国王殿下に文書を差し上

げる。

 我が国家は神武によ

って天下を平定し、その威徳のおよぶところ服

従しないものはない。皇帝が即位されると、四海を家となし、生きと

し生けるものを兼愛し、 一視同仁、南は六詔

・安南に至り、北は北海

に至り、西は崑崙山に極まるまで、数万里のほかまで、あらゆる国も

地域も威を畏れ徳を懐き、幣を奉じて来朝しないものはなか

った。と

ころがなんじ日本は、海洋の

一角に国をたて、漢

・唐以来、

つねに中

国と通交し、高麗ともたいへん密接であ

った。

 皇帝はさきに高麗国王に命令し、その臣潘阜を遣わして璽書を持参

して誼みを通じようとしたところ、貴国はこれを数カ月間にわた

って

留め置き、

っこうに回答を示さ

なか

った。 (これに対し)皇帝は命

令を取り次ぐものが到達しなか

ったと考え、

ついで中憲大夫

・兵部侍

41

窓史

         ヘイダル

・国信使の紜徳

(黒的)と中順大夫

・礼部侍郎

・国信副使

の殷弘ら

を遣わし、かさねて璽書を持

って直接貴国に赴かせたのである。とこ

ろが思いもよらず境界あたりの対馬島

に至るや、堅く入国を拒否し、

我が使節に刃を向ける事態とな

った。 (我が方としては)なりゆき

のう

えからやむを得ず、いささかこれ

に対応し、塔

二郎

・彌

二郎

の二人を

生け捕りにして帰国した。

 皇帝は寛容、人道的であり、全世界のことをお考えであり、およそ

諸外国が内附するときには、立場

は君と臣ながら父子

のように歓びを

共有し、その国の遠近や大小で分け隔てするわけではけ

っしてない。

高麗についていえば、わが国に臣属してよりこのかた、ただ毎年天子

にご挨拶して返礼の物を受け、そ

の国の政府と人民はもとどおり安堵

されるだけである。来朝の際には皇帝から格別の処遇、慰撫

にあずか

り、その恩寵はきわめて厚い。貴国は隣接しているから、そのあたり

はよくご存知であろう。

 且つ

「兵交わるとき使その間に在り」

(軍事対決のときにも使者がその

間に介在して和平を図る)とはまことに古今の通義である。

かの国境

役人が敵舟のうちに赴

いて、突然我が使節を傷害するなどは、

ことが

正しいか誤

っているかという点からすれば、公然と相手の罪をせめて

討伐にのりだしても当然のところである。さらによく考えてみれば、

貴国において承知しておらず、国境警備に当たるものが職務上ひたす

ら固く防禦しただけのことかもしれない。

皇帝はそれでも、

これは

下級の役人の過まちであ

って、二人のものには罪はないとお考えにな

り、

いま塔

二郎らを貴国に送り届け牒書を奉じて行かせる

こととし

た。

 

ここは聖天子がすべてを包容してすべて

一体であるとの意向をよく

心得て、よろこんで恭順の誠意を示し、とくに重臣に命じて、来春を

                   つか

期して闕下に表文を奉り、天を畏れて大に事えるの礼を尽すようにせ

よ。保証して高麗国の例のように処遇して、き

っと約束に違うような

ことはない。

それでもなおも

国の堅固を恃んで、

当方を何とも思わ

ず、遠方ゆえ来ることもないと考えるようなら、それこそ天威は怒り

が火につき、武将に命じて軍隊を出し、万艘もの戦艦でも

って、ただ

       つぶ               ほぞ

ちに王城をおし潰そう。そうな

ったら臍をかんでも及ばないとの後悔

をするばかりである。利害は甚だ明白であり、あえて殿下に布告する

のである。ただ殿下、まことに重ねて検討されるよう。謹んで牒す。

右、臼本国王殿下に牒す。

至元六年六月 日、牒す。

資政大夫中書左丞    

(廉希憲)

            

パヤソ

資徳大夫中書右丞    

(伯顔)

栄禄大夫平章政事    

(史天沢)

            

フトウクチヤル

栄禄大夫平章政事    

(忽都察児)

            

アソトン

光禄大夫中書右丞相   

(安童)

門高麗国慶尚晋安東道按察使がもたらした日本国大宰府宛の牒】

至元六年

(高麗元宗十年、日本文永六年、一二六九)八月

『異国出契』巻

一      

拠奈良興福寺

一乗院所蔵本転鈔

 

高麗國慶尚晉安東道按察使牒。

 

日本國

(太)[大凵宰府守護所。

高麗國慶省晉安東道按察使牒日本國

(太)[大]宰府。當使契勘、本

42

モン ゴル国国書の周辺

朝與貴國講信修睦、

世已久矣。

頃者北朝皇帚欲通好貴國、

發使

書、道從于我境、

井告以郷導前去、

方執牢固、

責以多端。

我國勢

              

      

 

不獲已、使使俘行過海、前北朝使介逹於野馬、乃男子二人偕乃至帝

所、二人者部被還、今已於當道管内至訖、惟今裝舸備糧、差爾州牧

將校

一名

.晉州牧將校

一名

・郷通事二人

・水手二十人護途。凡其情

實、可於

(比)[此]人聽取知悉。牒具如前、事須謹牒。

 至元六年己己八月日、牒

 按察使兼監倉使

.轉輸提點刑獄兵馬公事

・朝散大夫

・爾書禮部侍

 郎

・太子宮門郎

(位)[在]剣。

*このあ

たり

に恐らく脱誤あり。

 高麗国慶尚晋安東道按察使の楪。

 

日本国大宰府守護所。

 高麗国慶尚晋安東道按察使、

日本国大宰府に牒す。

当使

契勘する

               

         このごろ

に、本朝、貴国と信を講じ睦みを修め、世よ已に久し。頃者北朝皇帝、

好みを貴国に通ぜんと欲し、使を発し書を齎し、道、我が境に従い、

井びに告ぐるに郷導して前去するを以てし、方に牢固を執り、責むる

に多端を以てす。我国勢

いとして已むを獲ず、使いをして伴行して過

     き

海せしめ、前きに北朝

の使介、対馬に達し、乃ち男子二人と偕に乃ち

               

            

おわ

の所に至る。

二人

の者即ち還され、今已に当道の管内に至り訖り、

惟だ今舸を装し糧を備え、尚州牧将校

一名

・晋州牧将校

一名

・郷通事

二人

.水手二十人を差して護送す。凡そ其の情実は、此の人に聴取し

               

   

すべか

知悉すべ

し。牒具すること前きの如く、事須らく謹みて牒すべし。

  

至元六年己巳八月日、牒す。

  按察使兼監倉使

・転輸提点刑獄兵馬公事

・朝散大夫

・尚書礼部侍

  郎

・太子宮門郎在判。

【翻訳】

 高麗国慶尚晋安東道按察使の牒。

 日本国大宰府守護所宛て。

 高麗国慶尚晋安東道按察使が

日本国

大宰府に牒する。当使が

に、本朝が貴国と友好親善関係を築

いてから久しい。最近、北朝皇帝

(すなわち大蒙古国皇帝)は貴国と友好関係を通じようとして、使者を

派遣し国書をもたらすのにわが国内にルートをとり、ならびに先導し

て行くよう通告し、強硬な姿勢であれこれと注文をつけてきた。我国

としてはやむを得ず、使者を随行させて海を渡らせたが、さきに北朝

の使者が対馬に達したところで、

男子二人

(を捕らえて)ともに皇帝

の居所に至

った。二人のものはすぐに返還されて、いますでに当道の

管内に至

っている。現在船出の準備をし食糧を積み込み、尚州牧の将

一名

・晋州牧

の将校

一名

・郷通事二人

・水手二十人をや

って護送さ

せようとしている。あらゆる実情はこれらの人から聴取のうえよくよ

くご承知ありたい。以上のように文書をととのえたので、謹

んで文書

を差し上げます。

  至元六年己巳八月日、牒す。

  按察使兼監倉使

・転輸提点刑獄兵馬公事

・朝散大夫

・尚書礼部侍

  郎

・太子宮門郎在判

43