ストーリー › kankou › own... · があり、 。 。 行われる練 ねり 供養...

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ストーリー プロローグ 群を築いたた山に姿を道ゆく人たち の舞台を見「国道」の竹内街道中心である最古の国道大道はなにわ には奈良盆地 その後、この 代と同じ24m この道を仏教が伝来野中寺 やちゅうじ 西琳 さいりん 聖徳太子ゆか 當麻寺 たいまでら ではさらにこれら その代表的きる。 古代を感葛城市までの い石窟寺院よう めい 天皇、すい この地は古来 日本の国家 「経済の道脈々と受の西端の堺堺は室町時 三方にいたちがこのても名をはせ 者がおり、三輪山から~『太陽の道ふき 石と土製えた。街道 を楽しませつめてきた誕生 『難波より横大路(大道 飛鳥・小墾 おはり 田宮 だのみや である。 きょう 朱雀 すざく 大路 おおじ を東西に走道を基準にし mの道幅で道路 して中国や、聖徳太子では、飛鳥 かりの四 天王寺 てんのうじ 日本に唯一現 らの寺院ではなものは四天王 じることができ 道中であるである鹿谷寺 推古 いこ 天皇、孝 こう とく 来内飛鳥としての歩~海の堺・陸がれてきた 東端の今井町 時代に南蛮貿易 をめぐらしを訪れ、ルイ せた。竹内街道 鎌倉時代にはる朝日 龍の道』~ 春分と秋分太陽の軌道が三輪山の大神 おおみ た。古代のとしての巨大 埴輪 はにわ で飾られ いの 白 鳥 はくちょう りょう 。竹内 たけのうち 街道に至るまでに )は推古天皇 をむすぶ「よりまっすぐ横大路からして藤原京もが敷かれてい 朝鮮半島からの らによって鳥時代の塔跡や叡 えい 福寺 ふくじ 現存する天平時 古式ゆかしい 王寺で行われる きるもうつの 岩屋峠はサヌ と岩屋窟がひ 天皇、そして つ飛鳥ともみは、この大道 今井~ たこの大道はは、中世にお や日明貿易自都市「イス・フロイ中高野街道 東大寺の大仏日の年二回三輪山と二上 みわ 神社を頭、 王権は、この前方後円墳 、白く輝いて 古墳 こふん は水をた よこ 大路 おおじ 大道 大道を置く』 21 年(613大道」として南下する難大 飛鳥にいたる造営され、今いるため当時 外交使節、くの仏教寺院基壇 きだん や礎石 そせき 、広大な寺域 時代の双塔式祭事が一年聖霊会 しょうりょうえ 舞楽 ぶが 舞台は、大阪 ヌカイトや凝灰 ひっそりと聖徳太子がまつ われ、大和から始まり時代が下りおける我が国港湾都市とし 」を築いたスには「日本の交差する修復や鎌倉大 太陽は三輪山 みわや 上山を直線で上山の長尾神 東西の道にを中心とする ていた古墳はたたえたごう はまさにこ に外交の玄関 整備された総延 大道、堺から ・中・下のもなお東西南北 の道の大きさ 遣隋使遣唐使 道いに建立 ることがで に荘厳 そうごん 伽藍 がらん 伽藍を拝観でき 通じて催され 舞楽 がく や當麻寺と奈良の境灰岩の産地とし 。また二上山 られており飛鳥から飛鳥 我々はその中世になると経を牽引して大きなフランシスコ のヴェニス付近(旧内国八 大仏の鋳造にの山頂に昇び「太陽の神社を尾とする うように三輪 大小の古墳時を経て緑古墳の緑が映この地に築かれ 関口であるなに 延長 40 にも を抜けるつの道からの地割として を今も実感使によって多された。 できる。 があり、 きるれている行われる練 ねり くよ にある二上山してられてお の麓の太子町 王陵の谷とも 鳥人が往来した 歴史的な証 あかし 町々を結びする二大都市を持ったコ・ザビエルを とまでわしめ 八上郡丹南郡 わった。戦国 、二 上山 じょうざん 」となる。「龍の道」 輪山のふもとか からなる古墳 木々に覆われ て美しく、 、常に歴史 わつ と政の およぶ我が国 竹内街道さら 構成される。 残る。なかで できるくの文物がもた 供養 よう 会式 えしき あり 越える太子町 おり、日本では は、敏 だつ 天皇 呼ばれる。道でもあるにすることが 物資を運ぶ街道 となる大阪湾に向をはじめとする めた。また堺)には、「かわち 国時代から江戸 四天王寺 越えて、大阪 そして、そのになぞらえられ から百舌鳥 でも橿原市八木 たらされた。、古代の雰囲 から 珍し さらに ができるとなった。かって開いたくのキリス 金属鋳造技術 鋳物師 とよ 戸時代には、難波 白鳥陵 當麻寺 推古天 阪湾に沈む。 はいつの日 るようにな にかけて大王 木町では、古 それとともに 囲気を体感で なかでも街道 は、残りの スト教宣教師 の拠点とし よばれる技術 では鉄砲や 波宮跡 陵古墳 練供養会式 天皇陵古墳

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Page 1: ストーリー › kankou › own... · があり、 。 。 行われる練 ねり 供養 くよう 二上山 を 知られており の麓の太子町 王陵の谷とも が往来

ストーリー

プロローグ

群を築いた。

た山に姿を変

道ゆく人たち

の舞台を見つめてきた

◆「国道」の誕生

竹内街道・

中心である飛鳥

最古の国道であ

大道は難波な に わ

には奈良盆地

その後、この

代と同じ24m

この道を通

仏教が伝来し

野中寺やちゅうじ

や西琳さいりん

聖徳太子ゆかり

當麻寺たいまでら

では、

さらにこれらの

その代表的なものは

きる。

古代を感じることが

葛城市までの

い石窟寺院である

用よう

明めい

天皇、推古す い こ

この地は古来河内飛鳥

日本の国家

◆「経済の道」

脈々と受け

の西端の堺と

堺は室町時代

三方に深い濠

たちがこの地

ても名をはせた

者がおり、鎌倉時代

三輪山から昇

~『太陽の道・

太陽

。葺ふき

石と土製の

変えた。街道沿

たちを楽しませる

つめてきた。

誕生 『難波より京

・横大路(大道

飛鳥・小墾おはり

田宮だのみや

である。

難波京きょう

朱雀す ざ く

大路お お じ

よりまっすぐ

奈良盆地を東西に走る

この道を基準にして

24mの道幅で道路

通して中国や朝鮮半島

し、聖徳太子らによって

西琳さいりん

寺じ

では、飛鳥時代

ゆかりの四し

天王寺てんのうじ

、日本に唯一現存

さらにこれらの寺院では、

なものは四天王寺

じることができるもう

までの道中である。

である、鹿谷寺

推古す い こ

天皇、孝こう

徳とく

古来河内飛鳥・近

国家としての歩みは

」~海の堺・陸の

け継がれてきたこの

と東端の今井町

室町時代に南蛮貿易

濠をめぐらし、

地を訪れ、ルイス・フロイ

をはせた。竹内街道

鎌倉時代には東大寺

昇る朝日

・龍の道』~

春分と秋分の

太陽の軌道が、

か三輪山の大神おおみわ

った。古代の王権

墓としての巨大

の埴輪は に わ

で飾られ

街道沿いの白 鳥はくちょう

陵りょう

る。竹内たけのうち

街道・

京に至るまでに

大道)は推古天皇

田宮だのみや

をむすぶ「大道

よりまっすぐ南下

る横大路から飛鳥

にして藤原京も造営

道路が敷かれているため

朝鮮半島からの

らによって多くの

飛鳥時代の塔跡の

天王寺てんのうじ

や叡えい

福寺ふくじ

では

唯一現存する天平時代

、古式ゆかしい

四天王寺で行われる

できるもう一つの

。岩屋峠はサヌカイトや

鹿谷寺と岩屋窟がひっそりと

徳とく

天皇、そして

近つ飛鳥とも言

みは、この大道

の今井~

がれてきたこの大道は、

今井町は、中世における

貿易や日明貿易の

、自治都市「堺

ルイス・フロイスに

街道と中高野街道

東大寺の大仏の

の日の年二回、

、三輪山と二上山

大神おおみわ

神社を頭、二

王権は、この東西

巨大な前方後円墳

られ、白く輝いていた

陵りょう

古墳こふん

は水をたたえた

・横よこ

大路お お じ

(大道

るまでに大道を置く』

推古天皇 21 年(613)

大道」として整備

南下する難波大道

飛鳥にいたる上

造営され、今もなお

かれているため、当時

からの外交使節、遣隋使

くの仏教寺院が

の基壇き だ ん

や礎石そ せ き

は、広大な寺域

天平時代の双塔式伽藍

ゆかしい祭事が一年を

われる聖 霊 会しょうりょうえ

の舞楽ぶ が く

つの舞台は、大阪

はサヌカイトや凝灰岩

がひっそりと建つ

そして聖徳太子が祀まつ

言われ、大和の

大道から始まり、

、時代が下り中世

における我が国の

の港湾都市として

堺」を築いた。

スには「日本のヴェニス

中高野街道の交差する付近

の修復や鎌倉大仏

、太陽は三輪山み わ や ま

二上山を直線で結

二上山の長尾神社

東西の道に沿うように

前方後円墳を中心とする

いていた古墳は、

をたたえた濠ごう

に古墳

大道)はまさにこの

)に外交の玄関口

整備された総延長

難波大道、堺から河内

上・中・下の三

もなお東西南北

当時の道の大きさ

遣隋使・遣唐使

が道沿いに建立

を見ることができ

寺域に荘厳そうごん

な伽藍が ら ん

伽藍を拝観できる

を通じて催されている

舞楽ぶ が く

や當麻寺で

大阪と奈良の境にある

凝灰岩の産地として

つ。また二上山

祀まつ

られており、

の飛鳥から飛鳥人

、我々はその歴史的

中世になると、

の経済を牽引する

として大きな経済力

。フランシスコ・ザビエルをはじめとする

のヴェニス」とまで

付近(旧河内国八上郡

鎌倉大仏の鋳造に関

三輪山み わ や ま

の山頂に昇り

結び「太陽の道

長尾神社を尾とする

うように、三輪山

とする大小の古墳からなる

、時を経て緑の

古墳の緑が映え

はまさにこの地に築かれ

玄関口である難波津な に わ つ

総延長 40 ㎞にも

河内を抜ける竹内街道

三つの道から構成

東西南北の地割として

きさを今も実感できる

遣唐使によって多くの

建立された。

ることができる。

伽藍が ら ん

があり、

できる。

されている。

で行われる練ねり

供養く よ う

にある二上山を

として知られており

二上山の麓の太子町

、王陵の谷とも

飛鳥人が往来した

歴史的な証あかし

を目

、町々を結び物資

する二大都市となる

経済力を持った。

フランシスコ・ザビエルをはじめとする

とまで言わしめた

旧河内国八上郡、丹南郡

関わった。戦国時代

り、二に

上 山じょうざん

道」となる。そして

とする「龍の道」になぞらえられ

三輪山のふもとから

からなる古墳

の木々に覆われ

えて美しく、

かれ、常に歴史

難波津な に わ つ

と政治の

およぶ我が国

竹内街道、さら

構成される。

として残る。なかでも

できる。

くの文物がもたらされ

供養く よ う

会式え し き

があり

を越える太子町

られており、日本では

太子町は、敏び

達だつ

天皇

とも呼ばれる。さらに

した道でもある。

目にすることができる

物資を運ぶ街道

となる。

。大阪湾に向かって

フランシスコ・ザビエルをはじめとする

わしめた。また堺は

丹南郡)には、「河内か わ ち

戦国時代から江戸時代

四天王寺

を越えて、大阪湾

そして、その道

になぞらえられ

のふもとから百舌鳥も ず

野の

にかけて

われ

さら

なかでも橿原市八木町

がもたらされた。それ

あり、古代の雰囲気

太子町から

では珍し

天皇、

さらに

にすることができる。

街道となった。なかでも

かって開いた町

フランシスコ・ザビエルをはじめとする多くのキリスト

は金属鋳造技術

河内か わ ち

鋳物師い も じ

」とよばれ

江戸時代には、堺

難波宮跡

白鳥陵古墳

當麻寺

推古天皇陵古墳

大阪湾に沈む。

道はいつの日

になぞらえられるようにな

にかけて大王

橿原市八木町では、古

それとともに

雰囲気を体感で

なかでも街道

町は、残りの

くのキリスト教宣教師

金属鋳造技術の拠点とし

とよばれる技術

堺では鉄砲や

難波宮跡

白鳥陵古墳

練供養会式

推古天皇陵古墳

Page 2: ストーリー › kankou › own... · があり、 。 。 行われる練 ねり 供養 くよう 二上山 を 知られており の麓の太子町 王陵の谷とも が往来

刀が生産され、現在、包丁をはじめとする堺刃物に伝わったとも

されており、世界的にも有名である。今でも鉄砲鍛冶屋敷や江戸

時代の町家が残り、打うち

刃物は も の

を鍛きた

える音が響く。さらに利休が堺か

ら広めた「茶の湯」文化の影響が今も随所に残り、老舗の和菓子

店が街歩きの楽しみにアクセントを添えてくれる。

街道沿いには、一向宗いっこうしゅう

本願寺ほんがんじ

の進出によりいくつかの寺内町が形成された。中でも今井町は、戦国時代に称しょう

念寺ね ん じ

寺内町となり、堺同様に、堀に囲まれた自治都市が築かれた。織田信長に抵抗を続けていたが、その後、降伏し、明智

光秀や堺の豪商の仲介を経て和解すると、信長によって自治権が与えられ、大和の経済の中心地へと成長した。

このように両町は東南アジア諸国との交易等を通して密接に結び

つき、「海の堺、陸の今井」として、戦国時代~江戸初期の日本経済

を築き上げた。

◆「信仰の道」~伊勢参り~

江戸時代になると、街道は大阪と奈良から伊勢へと繋つな

ぐ伊勢神宮参拝の「お蔭かげ

参り」の道へ

とその役割を変化させていった。今でも太子から葛城にいたる道中には、その要所にお参りの

ための神社や伊勢への道しるべとなる灯とう

篭ろう

、道標が残り、かつてこの街が旅はた

籠ご

や茶屋で賑わっ

ていた面影を残す。また八木札の辻や今井町は、今も江戸時代の町並みを残し、約500棟の伝

統的建造物が並ぶ。街なかでは、古民家を活用した宿泊施設やカフェなどが、旅人に憩いこ

いを与

えてくれる。

このように江戸時代以降、この街道は庶民の信仰の道として賑わい、

人々のさまざまな想いを運ぶ役割を果たしていたのだ。

エピローグ

かつて聖徳太子は隋の皇帝煬よう

帝だい

に宛てて「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」と書いた国書を小野

妹子に託した。飛鳥の都から難波を経て遣隋使を送り、また、大陸からの使者を迎えたこの道

は、脈々と流れる歴史の中で様々な「人」「物」「文化」が行き交い、時代に応じて少しずつそ

の役割を変えつつも今も活き続ける。

道沿いの歴史遺産を通して 1400 年もの歴史の移り変わりを感じ、私たちを時間旅行へと誘う

道。それが竹内街道と横大路なのである。

堺市の茶の湯体験 堺市の鍛冶職人

堺まつり 今井町の町並み

春の叡福寺

太子町の町並み 冬の今井町

二上山へ沈む夕日