クリントン政権の経済政策の評価をめぐって(上)...む予算案に署名したことで,共和党に対して「屈服」し,2002年までに財政均衡を実現する97年予...

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【論 文】 クリントン政権の経済政策の評価をめぐって(上) ミアロポールの研究との関連で はじめに 本稿の目的は,マイケル・ミアロポールの著書 Surr ender の紹介と検討を通じて,アメリカにお ける1980年代と90年代の経済政策の再評価を試みることにある。 はじめに,ミアロポールの経歴と本書成立の由来を簡単に紹介しておきたい。1943年にEthel and Julius Rosenberg夫妻の長男としてニューヨーク市で生まれた。両親は1953年に,原爆製造機密情 報漏洩疑惑の罪に問われて死刑に処せられた。マイケルは両親の死後,Abel and Anne Meeropol 夫妻の養子となり,その姓ミアロポールを取ることになった。Swarthmore College卒業後,イギリ スのケンブリッジ大学大学院に進み,ウィスコンシン大学で博士号を取得した。1980年にはサバ ティカルを取得してケンブリッジで過ごし,当時のイギリス首相マーガレット・サッチャーによる 経済政策の「革命」と,ケインズ経済学の伝統を有するケンブリッジの経済学者たちのサッチャー 路線に対する抵抗を間近にしたことが,著書 Surr ender の着想を与えた。ケインズ経済学の否定か ら成立する経済政策は,アメリカでもレーガノミックスにおいて特に強力に推進されたからである。 こうした経済政策の流れは,カーター政権以来12年越しに成立した民主党のクリントン政権におい ても,実質的に継承されたことから,これを民主党政権の共和党に対する「屈服(surrender)」とと らえて,1980年以来のアメリカの経済政策の歴史を書いたものが本書である。1998年の本書執筆時 点でマサチューセッツ州スプリングフィールドのWesternNew EnglandCollegeの経済学教授で あった。 こうした事情から推測できるように,アメリカに特有のリベラルに属し,かつケインズ学派に近 ―49― 商学論集 第77巻第1号 2008年9月 (1) Michael Meeropol, Surr ender; How the Clinton Administr ation Completed the Reagan Revolution, Universityof MichiganPress,2000.以下,本稿は多くを同書に依拠するが,引用文など特に必要な場合 を除いて典拠となる箇所については逐一示すことはしない。 (2)米ソ冷戦が始まった直後のアメリカ国内でレッドパージ旋風が吹き荒れた中での「ローゼンバーグ事件」と して知られる。マイケルは後に弟と協力して,両親から息子たちに向けて綴られた獄中書簡をまとめて出版 している。 (3)アメリカの保守とリベラルとは,中央政治から封建主義的右派と社会主義的左派を排除した後の支配的勢力 内部における分派を指す。これは,アメリカが旧時代のヨーロッパの身分制度的封建主義の否定から成り立っ たことに加えて,第二次大戦後の東西冷戦を戦う指導国として立ち現れたという特殊な歴史的事情から発生 した,アメリカに特殊な政治事情である。にもかかわらず,アメリカのこの特殊な政治制度が世界で最も進

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Page 1: クリントン政権の経済政策の評価をめぐって(上)...む予算案に署名したことで,共和党に対して「屈服」し,2002年までに財政均衡を実現する97年予

【 論 文 】

クリントン政権の経済政策の評価をめぐって(上)

ミアロポールの研究との関連で

十 河 利 明

は じ め に

本稿の目的は,マイケル・ミアロポールの著書 Surrender の紹介と検討を通じて,アメリカにお

ける1980年代と90年代の経済政策の再評価を試みることにある。

はじめに,ミアロポールの経歴と本書成立の由来を簡単に紹介しておきたい。1943年にEthel and

Julius Rosenberg夫妻の長男としてニューヨーク市で生まれた。両親は1953年に,原爆製造機密情

報漏洩疑惑の罪に問われて死刑に処せられた 。マイケルは両親の死後,Abel and Anne Meeropol

夫妻の養子となり,その姓ミアロポールを取ることになった。Swarthmore College卒業後,イギリ

スのケンブリッジ大学大学院に進み,ウィスコンシン大学で博士号を取得した。1980年にはサバ

ティカルを取得してケンブリッジで過ごし,当時のイギリス首相マーガレット・サッチャーによる

経済政策の「革命」と,ケインズ経済学の伝統を有するケンブリッジの経済学者たちのサッチャー

路線に対する抵抗を間近にしたことが,著書 Surrenderの着想を与えた。ケインズ経済学の否定か

ら成立する経済政策は,アメリカでもレーガノミックスにおいて特に強力に推進されたからである。

こうした経済政策の流れは,カーター政権以来12年越しに成立した民主党のクリントン政権におい

ても,実質的に継承されたことから,これを民主党政権の共和党に対する「屈服(surrender)」とと

らえて,1980年以来のアメリカの経済政策の歴史を書いたものが本書である。1998年の本書執筆時

点でマサチューセッツ州スプリングフィールドのWestern New England Collegeの経済学教授で

あった。

こうした事情から推測できるように,アメリカに特有のリベラルに属し ,かつケインズ学派に近

― 49―

商学論集 第77巻第1号 2008年9月

(1) Michael Meeropol,Surrender; How the Clinton Administration Completed the Reagan Revolution,

University of Michigan Press,2000.以下,本稿は多くを同書に依拠するが,引用文など特に必要な場合

を除いて典拠となる箇所については逐一示すことはしない。

(2) 米ソ冷戦が始まった直後のアメリカ国内でレッドパージ旋風が吹き荒れた中での「ローゼンバーグ事件」と

して知られる。マイケルは後に弟と協力して,両親から息子たちに向けて綴られた獄中書簡をまとめて出版

している。

(3) アメリカの保守とリベラルとは,中央政治から封建主義的右派と社会主義的左派を排除した後の支配的勢力

内部における分派を指す。これは,アメリカが旧時代のヨーロッパの身分制度的封建主義の否定から成り立っ

たことに加えて,第二次大戦後の東西冷戦を戦う指導国として立ち現れたという特殊な歴史的事情から発生

した,アメリカに特殊な政治事情である。にもかかわらず,アメリカのこの特殊な政治制度が世界で最も進

Page 2: クリントン政権の経済政策の評価をめぐって(上)...む予算案に署名したことで,共和党に対して「屈服」し,2002年までに財政均衡を実現する97年予

い立場から,1980年代以降の経済政策の基調をミアロポールは批判する。同時に本書では,民主党

クリントン政権に参画したリベラル派のグローバリゼーションを前提とした政策提案や,「社会的蓄

積構造(Social Structure of Accumulation;SSA)」学派で知られるラディカル派の批判的検討が

含まれており,これらの諸理論との関係でどのような政策批判が叙述されるのかを見ることは興味

深い課題である。また,本書を紹介し検討することは,経済政策の議論にあたってほとんど当然の

前提のようにされている新自由主義の思想が支配的なアメリカの今日的状況において意義あること

と考える 。

1 経済政策評価の基準

(1) 経済政策の「革命」

ミアロポールは,本書刊行前年の1997年に成立した予算をもって,1981年から始まったレーガン

政権による経済政策の「革命」が完成し,議会共和党多数派の望む政策に対するクリントン政権の

「屈服」が決定的になったとしている。そこで,第一に,彼の言う経済政策の「革命」と何か,第二

に,こうした「革命」に対するクリントン政権の「屈服」とは何を意味するのかが問題になる。こ

れらのことは,同書全体で解明されるべきなのだがここではさしあたり,第一の問題は経済成長率

の引き上げと雇用創出よりも,財政赤字削減とインフレ抑制が優先されること,第二の問題はそれ

まで経済成長と雇用創出を優先させてきた民主党の政権が,1990年代になって財政赤字削減とイン

フレ抑制を優先するようになり,共和党議会からの圧力も作用して,こうした政策転換が一層強力

に推進されるようになったことと与えることができる。

この「革命」はいつから開始されたのか。経済政策のこうした保守主義的な転換は,ポール・ボ

ルカー議長指導の連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board;FRB)のインフレ抑制を鮮明に

した1979年における金融政策の転換から開始され,その後の1981年以来のレーガン政権による

レーガノミックス推進によって本格化した。レーガン政権では,国防を除く政府機能を縮小させる

ため,まず大幅減税に成功したのだが,政府支出削減に失敗し,財政赤字はかえって膨らんだ。そ

の後のブッシュ(父)政権では,議会との妥協で増税と支出削減を行って,共和党から「裏切り」と

見なされた。現職大統領と選挙を戦って勝利した民主党クリントンの政権は,それまでの共和党政

権の政策を厳しく批判したにもかからず,増税と支出削減の財政政策を取りまとめた点では,前政

権と同じであった。

1980年代以降の経済政策のこうした転換については,新保守主義に批判的な大方の議論とミアロ

ポールは一致するが,彼の独自性は,クリントン大統領が1996年に再選後,同年の福祉改革法を含

商 学 論 集 第77巻第1号

― 50―

んでいるとするイデオロギーがアメリカに存在する。

(4) かつて1946年にアメリカの「雇用法」が成立したとき,雇用を可能な最大限まで創出し,国民経済の資源を

有効活用することが政府の負う国家的責任とされたのだが,その責任は,新保守主義思想が政策立案におい

て支配的な今日的状況では,企業利潤の最大限の拡大とそれによる投資拡大,生産力増強,国際競争力強化

にあるとされている。

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む予算案に署名したことで,共和党に対して「屈服」し,2002年までに財政均衡を実現する97年予

算に署名したことで超党派合意が成立して,経済政策の「革命」は完成したと言っていることにあ

る。こうした独自の見解が,同書タイトルに反映されている。1997年に経済政策の保守主義的転換

の超党派合意が完成したという見解は非常に示唆的である。このことは,ミアロポールによる独自

の経済政策評価方法と関連するのであり,以下に詳しく見ていこう。

(2) 経済の成功と失敗とは何か

経済政策評価の基礎になるのは,各種の経済指標である。主には,国内総生産(GDP)とそれに

よって算出される一人あたりGDP,潜在GDPギャップに表れる能力利用度(失業率含む)が挙げ

られる。前者は経済成長・拡大,後者は景気循環に関連する。従って,この二つについての見方は,

経済政策評価に密接に関連する。

経済成長実現に関するミアロポールの見解を見てみよう。一般に生産活動は,土地・労働・資本

を組み合わせて投入することによって行われる。この組み合わせは,あるリーダーシップによる指

揮の下で,最大の生産拡大効果を目指して行われる。このことは使用者と労働者の間で敵対的にな

されると見るにせよ,あるいは互いに共同利害を見出す仕方でなされると見るにせよ,いずれも生

産組織における一定の協力活動を前提とすると見る点で共通することをミアロポールは強調する。

知識の進歩と技術への応用が物的人的な投資として行われる結果,それらがまた生産組織の革新に

利用される結果,土地・労働・資本の各単位あたりでの,あるいは時間あたりでの生産性が増大す

るということが,経済成長である。こうした意味での経済成長はあくまで民間投資によって主導さ

れるのだが,その実現にあたって政府がいかなる役割を果たしたかが,経済政策の評価に関連する

のである。

これに対して,政府財政収支均衡の達成度を経済政策評価の基準にするのが保守派の見解である。

この見解は一般に,政府赤字によって民間投資を閉め出すとするクラウディングアウト論を別とす

れば,その赤字が民間投資とどんな関係にあるかを問題にしない。政府支出は家計支出や企業支出

と同様に,単なる消費に使われる場合と,教育や産業基盤整備などの将来への投資に使われる場合

とがあり,両者は区別されるべきであるにもかかわらず,生産性増大の可能性を持つ後者による支

出とそれが原因による赤字でさえも,財政均衡論者たちによって否定される 。

投資はまた,所得を生み出し増大させる意味でも,所得の処分に過ぎない消費とは異なる景気拡

大効果を持つ。1970年代の経済停滞と一般に考えられている時期に,投資のインセンティブ構造を

問題にする減税論者や規制緩和論者が影響力を強め,レーガノミックスの実験を試みるに至った。こ

の実験が実際に投資を増やして,経済成長を拡大させれば,レーガノミックスは「成功」と見なさ

れるが,そうでなければ「失敗」である。

(3) 経済悪化とその診断

アメリカ経済は1970年代にそれ以前と比べて停滞局面を経験した。いまそのことをメアロポール

十河:クリントン政権の経済政策の評価をめぐって

― 51―

(5) Ed Gillespie and Bob Schellhas,Contract with America, Times Book,1994では,連邦政府財政を家計と

同一視して,憲法修正条項に財政均衡を入れるよう求めた。

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の著作に示されたデータからさしあたり確認しておきたい。1960~79年の20年間を1960~69年

(前半)と70~79年(後半)に分けてマクロ経済パフォーマンスを比較すると,前半期に実質GDP

成長率と生産性成長率はより高く,失業率はより低く,能力利用率はより高かったことが,両期間

の実績を比較するとわかる(図1参照)。非金融企業の利潤率は,1959~68年に税引前で年平均

10.8%であったが,69~79年における二つの景気循環でそれぞれ同8.3%と6.8%となった。実質一

人あたりGDPは,1959~69年に33.8%増加したが,69~79年に24.3%増加に減速した。中位家族

所得は,1959~69年に年平均3.4%成長したが,69~79年における景気後退期を除く6年間のプラ

ス成長の時期に限ってみても,同2.5%であった。すなわち,前半期に比べて後半期には,経済的資

源が有効利用されなかった結果,生産性成長は鈍化し,利潤率は低下して投資インセンティブは後

退し,平均的個人の所得成長率も低下したのである。1950年代と60年代に中間層が大量に形成され

た時の「アメリカン・ドリーム」は,一定のルールに基づく勤労によって前の世代よりも豊かにな

るという確信であったが,それが70年代に動揺したのである。それどころか,70年代に所得分配の

不平等が拡大したとすれば,実質一人あたりGDPと中位値所得の成長鈍化は,平均所得や中位値所

得を下回る個人と家計のマイナス成長に結びつく可能性を高めるのであり,このことが同時期の

人々の不満のおおもとの背景にあった 。

だが,これらの指標以上に注目されたのは,「スタグフレーション」の言葉で経済「悪化」を,単

純化した指標で示す「悲惨指数」(Misery Index)であった。失業率とインフレ率を合計したこの数

値は,60年代に平均7.1%であったが70年代に同13.1%となって,1970年代に上昇した(図2参

照)。働く意思と能力のある労働力の遊休化を示す失業率の上昇は,明らかに資源の浪費を意味する

が,インフレーションはそうではなく,いかなる意味で経済「悪化」の指標となるかは慎重な議論

を要する。にもかかわらず,「スタグフレーション」の経過の中で,ポール・ボルカー議長指導下の

FRBの金融政策以後の経済政策は,失業率上昇よりもインフレ上昇への警戒を重視する傾向を強め

た。インフレは,価格と賃金の水準の上昇が不均等である場合,または債権者の受け取る金利のイ

― 52―

第77巻第1号商 学 論 集

(出所)Meeropol,Op. cit., Table 1より作成。図1 主要マクロ経済実績 1960~79年

(6) 以上のマクロ経済指標の数字は,Meeropol,Op. cit.,pp.26-28から引用している。

実質GDP成長率(左軸)

生産性成長率(左軸)

失業率(左軸) 能力利用率(右軸)

%

90

85

80

75

%

8 6 4 2 0

-2 1960 1962 1964 1966 1968 1970 1972 1974 1976 1978

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ンフレプレミアム部分を減少させる場合に,一方から他方への所得移転が生じること,また,企業

の非課税の設備償却引き当てがインフレに追いつかないために投資が控えられることから,経済停

滞に帰結することがあり得るのであり,それは実際には予測されないインフレ率上昇の帰結である。

それゆえ,インフレそのものは失業率上昇とは区別されるべきなのだが,「悲惨指数」はこの区別を

消し去り,単にこの数値を引き下げることを目標にしながら,実際にはインフレ削減のみを優先さ

せる根拠とされる指標となる可能性がある 。

失業は総需要不足から生じるのでその不足を補い,インフレは総需要過剰から生じるのでその過

剰を抑制する「ファイン・チューニング」と呼ばれる財政金融政策を実施することによって,失業

とインフレを管理することができ,従って景気循環をも管理できるという見解が,1960年代までに

影響力を持った。この総需要管理政策は,失業増加とインフレ上昇が併存するスタグフレーション

に直面して批判にさらされた。すなわち,失業と戦うために総需要を引き上げてもインフレを上昇

させるだけだが,インフレと闘うために総需要を抑制しても失業を増やすだけであり,こうした需

要サイドの伝統的手法ではスタグフレーションに立ち向かうことはできない。そこで保守派経済政

策の供給サイドアプローチが登場して,レーガノミックスの実験への道を開いた。

(4) 保守派の診断

レーガノミックスの理論的背景をなす保守派経済学は,総需要管理政策に見られる政府の裁量的

経済介入や反循環的自動安定装置(automatic stabilizer)を拒否し,市場経済の徹底とその限りで

必要となる役割に政府のそれを限定するよう求める。以下では,メアロポールの整理に従って,保

守派の認める政府の役割を列挙してみよう。

― 53―

十河:クリントン政権の経済政策の評価をめぐって

(出所)米労働省,FRBデータより作成。図2 悲惨指数」1960~80年

(7) 拙稿「連邦政府財政と財政政策」(萩原伸次郎,中本悟編『現代アメリカ経済―アメリカン・グローバリゼー

ションの構造』日本評論社,2005年)では,「悲惨指数」をそのまま経済「悪化」の指標として取り上げてい

るが,一定の留保をすべきであったことをここで指摘しておきたい。

%

25

20

15

10

5

0

悲惨指数

失業率

インフレ率

1960

1961

1962

1963

1964

1965

1966

1967

1968

1969

1970

1971

1972

1973

1974

1975

1976

1977

1978

1979

1980

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第一に,市場経済は私有財産制度の保護と,契約に基づく義務の履行の強制を前提として成り立

つのであり,それは政府の警察力や裁判制度など物理的及び法的強制力なしには成り立たないゆえ

に,その限りでの政府の役割は市場経済の制度的前提として必要である。第二に,市場経済は市場

競争の維持によって成り立つのだから,競争の否定である独占は阻止されなければならないが,反

トラスト法のような過剰な政府規制は不要である。なぜなら,市場参入に何ら法的障害がなければ,

その市場が少数企業によって占められているとしても,市場参入の脅威が働いて競争価格が十分に

成立するからである。これは「コンテスタブル市場」の理論と呼ばれ,政府規制緩和の理論的根拠

に利用された 。第三に,公共交通や通信といった公共財的性格の分野であっても,政府が担うべき

ではなく,民間に委ねられるべきである。第四に,企業の生産活動に伴って発生する自然環境破壊

や,言語や読み書き計算など基本的な社会的能力を教育によって人々に与えることが,各人の個人

的利益を超えて社会を成立させるところの公共性の前提になるといった,いわゆる「外部性」に対

応することは,政府の役割として認められるが,それに伴って発生する行政費用や雇用・産出の減

少といったコストと引き替えにどれだけ便益が得られるかは,慎重に検討されるべきだという 。

第五に,総需要管理政策は,それが実施される時点で景気に対する認識から「遅れ」(ラグ)が生

じることによって,「反循環的」に実施される保証を得ることができず,むしろ失業やインフレをさ

らに悪化させる。こうして保守派は,総需要管理政策がスタグフレーションに帰結したと批判した。

この脈絡においてマネタリストは,景気刺激策としての財政の「乗数」効果を否定し,財政政策の

効果を認めなかった 。それは総需要を引き上げるのでなく,民間投資の減少によって相殺される。

他方,金融政策の持つ効果は大きく,ラグを伴った裁量的金融政策による混乱も大きくなるので,一

定のルールに従うべきだとした。さらに,失業率には何らかの「自然の」水準が存在しているので,

それを無視して何らかの数値目標を設定する試みはインフレを悪化させるだけである 。この考え

は後に,「インフレを加速させない失業率」(nonaccelerating inflation rate of unemployment;

NAIRU)と呼ばれ,失業を「控えめに」減らす政策の理論的根拠にされた 。このマネタリストの

― 54―

第77巻第1号商 学 論 集

(8) コンテスタブル理論」において,市場参入の法的障壁がなくとも,少数資本の独占による経済的参入障壁が

存在することについて,それがなぜ「コンテスタブル」となりうるのかという論点があるがここでは問わな

い。

(9) こうした議論の背景に,政府による課税は,それによって失われたであろうところの労働,貯蓄,投資が課

税額そのもの以上になるため,経済的損失を発生させるというサプライサイド経済学の「課税による死荷重

損失」(deadweight loss of taxation)の議論がある。現在のブッシュ政権は,この議論に基づいて減税恒

久化を提案するなかで,課税は労働と投資のインセンティブを低下させ,課税1ドルあたり30~50セントの

経済的損失を発生させるので,それは事実上1.30~1.50ドルの課税に相当すると述べている。U.S.President

and Council of Economic Advisors,Economic Report of the President, Together with the Annual Report

of the Council of Economic Advisors(以下 ERP に略称),2008,p.121(萩原伸次郎監訳『米国経済白書

2008』毎日新聞社エコノミスト臨時増刊2008年5月26日,118頁)参照。

(10) 小野善康『不況のメカニズム』中公新書,2007年は,平成不況下の日本経済を分析するのにケインズ理論の

有効性を新古典派理論との対比で示しているが,「乗数」効果理論の有効性については否定している。

(11) ケネディ政権は1962年に4%の失業率を目標に掲げたが,それを法律で義務づけたのがカーター政権期に成

立した1978年雇用法修正の「完全雇用・均衡成長法」(通称ハンフリー・ホーキンス法)であった。

(12) 後のクリントン政権は自らの経済政策運営の誇るべき実績として,NAIRU低下を挙げて,単に失業の一般的

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議論と結びついて,累進税率制度による限界税率上昇が所得を増やす労働供給インセンティブを損

なうというサプライサイダーの減税提案が現れた。

第六に,ソーシャル・セキュリティや失業補償は,それが資格給付プログラムであるがゆえにそ

れを実質的に必要としない資格者に給付する部分を含んでいるので,政府関与はこの部分から撤退

して,補足的所得保障,食料切符,貧困者医療保障などの本来の貧困対策に限定して関わるべきで

ある。

おおよそ以上のようにして,保守派はスタグフレーションに直面した従来の経済政策に対する診

断を下したのであった。

(5) レーガン政権登場の経緯

前節で概観した保守派によるスタグフレーションに対する診断は,政府の積極的役割を認めるか

つての裁量的総需要管理政策を抜本的に転換するものだが,ミアロポールによれば,こうしたプロ

グラムを提起したレーガン政権の登場は,有権者がそのプログラムを支持したというよりも,景気

後退とそれに対するカーター政権の「無策」に有権者が拒否反応を起こした結果であり,その意味

では,それまでの政権交代の経緯と変わらなかった。このことについて次に見ていこう。

1970年代のインフレは,石油ショックによる供給ショックから始まった。アメリカ経済にはすで

に,物価と賃金の下方硬直性が存在していて,価格変動を通じた需要減退部門から需要拡大部門へ

の資源の移動が起こりにくくなっていた。そこに供給ショックが加わったことから,資源・食糧価

格の上昇によって失われた所得部分を補填する財政金融政策を実施するか,あるいはそうせずに,物

価上昇を資源・食糧価格にのみ制限して,他の物価と賃金の上昇を抑えるかのいずれかの選択を政

策当局が迫られたのがスタグフレーション状況である。前者の選択はインフレを加速させるが,後

者の選択は失業を悪化させるリスクを伴う。ミアロポールによれば,70年代の政府はこのジレンマ

に直面して,どちらのリスクも少しずつ取ったが,どちらのリスクを取るかはその都度政治的に決

定された。それは典型的には,フォード政権が1974年10月にインフレ対策のために議会に増税を

求めながら,翌年1月には減税を求めるといった短期間での政策の動揺に現れていた。これは第一

次石油ショックによる1973~74年インフレ後の74~75年リセッションに対応するものであった

が,次のカーター政権は,インフレ再燃を回避しながらリセッションからの回復を目指す政策運営

を余儀なくされた。

こうして1980年のリセッション時に同政権は,インフレ再燃の封じ込めを優先して,周囲からの

減税勧告を拒否した。カーター大統領はこのとき,インフレ再燃防止が政治的に優先されると考え

たのである。リセッションに対するこうした「無策」は,ミアロポールによれば,1946年「雇用法」

― 55―

十河:クリントン政権の経済政策の評価をめぐって

削減を目指したわけではないとして,たとえば次のように述べている。「1995年以降の生産性の加速化が,そ

れがなかった場合よりも失業率を一時的に一層低下させながら,インフレにあまり影響しないことが可能に

なるプロセスを始動させたようである。…1995年以来の生産性の新しい,より高い趨勢的成長が一時的に

NAIRUを低下させた」(ERP 2001,p.73[平井規之監訳『2001米国経済白書』毎日新聞社エコノミスト臨

時増刊2001年6月4日,69頁])。この点で同政権の雇用政策は,カーター政権以前の民主党政権の「完全雇

用」政策と区別される。

Page 8: クリントン政権の経済政策の評価をめぐって(上)...む予算案に署名したことで,共和党に対して「屈服」し,2002年までに財政均衡を実現する97年予

の趣旨に反しているだけでなく,特に1960年以降初めてであるという意味で,政策上の重大な「断

絶」を示すものであり,失業高止まりを容認しながらインフレと闘う政策姿勢を示した最初の出来

事であった 。というのも,カーター政権は,当時のアメリカ経済は60年代ほどではないにせよ,

50年代と同じくらいには良好であると考えていたために,インフレ沈静化が優先されると判断した

のであった。

しかし,1980年の大統領選挙において有権者はそう考えず,経済が大不況以来の深刻な状態にあ

り,減税によって失業とインフレに対して同時に闘うと訴えたレーガン候補を支持した。レーガン

のキャンペーンは,80年リセッションに対するカーター政権の「無策」を際立たせたのである 。こ

のことはレーガンの大統領選挙での勝利が,サプライサイド経済学に基づく経済政策が人々の支持

を得た結果であったとは必ずしも言えないということを示している。

2 経済政策の「革命」の進行

(1) 金融規制緩和

FRBが1979年10月に導入した「新金融調節」は,政策目標の重点を金利ではなくマネーサプラ

イ成長率に変更したことによって,金利の決定を市場に委ねた。ミアロポールによれば,こうして

経済政策の「革命」が開始された。これは失業ではなくインフレ対策を強く優先する金融政策への

転換ということだが,このことはアメリカの通貨政策史の中で見れば,この時点でのドル防衛政策

であったと言えよう。

第二次大戦後の国際通貨体制は,1オンス35ドルでアメリカがドルを金と交換することを保証し

かつ,ドルで各国通貨の交換レートを表示して,各国にその相場の維持を義務づける国際通貨基金

制度(International Monetary Fund;IMF)として発足した。ドルを基軸通貨とするこの固定相

場制度は,アメリカ以外のIMF加盟諸国に国際収支節度を遵守させることで維持されるが,アメリ

カに対してはそれを求めるものでない。その代わりに,アメリカは自国通貨ドルの金との交換を保

証する義務を負ったのである 。こうして戦後の国際経済関係では,ドルが主要な価値表示手段,交

― 56―

第77巻第1号商 学 論 集

(13) ミアロポールはカーター政権がレーガン政権に交代する直前の最後の『大統領経済報告』で,この時の「無

策」について大統領自ら説明した次の重要な文章を引用している。「最近10年間で二度の,経済を刺激する

という政府の方向性は,回復からリセッションに向かう時期に,いくらか過剰なほど自由に実施されたこと

が,インフレの減退を遅らせるか,またはその加速を再燃させる役割を果たした。これが,早期の経済刺激

を目的とした減税が,昨年成立するべきでないと私が強く主張した理由である。」(Meeropol,Op. cit.,p.54)

(14) 総需要管理派はカーター政権のこうした姿勢に見られるように,アメリカ経済の当時の状況をさほど深刻視

しなかったのだが,反対に深刻視した点で,「社会的蓄積構造」という独自の視点からアメリカ経済を分析す

るラディカル派は,サプライサイダーと一致していた。ただし,ラディカル派は,第二次大戦後1973年まで

総需要管理政策が戦後の特殊な条件の下で効果を発揮したと見る点で,総需要管理政策そのものの意義を否

定するサプライサイダーの見解と異なっていた。諸学派の見解のこうした比較検討も,ミアロポールの優れ

た業績である。

(15) この仕組みについては,滝沢健三『国際通貨の話』東洋経済新報社,1981年,49~51頁が参考になる。

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換手段及び価値保全手段となった。だが,戦後にアメリカが持った生産力の圧倒的な優位 は,1950

年代には西ヨーロッパと日本の急速な戦後復興・発展によって急速に失われ,この10年間を通じて

アメリカの金準備量が急減した 。その結果,はやくも1960年に戦後最初のドル危機が,ロンドン

金市場価格高騰となって現れた。これに対し米欧主要国は金売却同盟を結成して,金市場価格と1オ

ンス35ドルの公定価格との乖離を埋める努力を払ってきたが,これも限界に直面して1967年末の

金市場価格高騰をきっかけに金売却同盟は解体された。金市場価格は管理されなくなり,金二重価

格制度が出現してアメリカの金準備はさらに減少し,外国公的機関の保有する短期ドル債権がアメ

リカの金準備量を超過するに至り ,1971年8月15日にニクソン政権は新経済政策を発表して,金

ドル交換停止を宣言した。これはアメリカの減少する金準備量との関係で,これ以上のドル信認低

下を食い止めるという意味で,アメリカが単独かつ一方的に行ったドル防衛政策であった。だが

1970年代には,1973~74年第一次及び79年第二次石油ショックの後,金市場価格は再び上昇し始

め,1980年1月に1オンス850ドルのピークを打った(図3)。ドルで表示された金市場価格のこう

した上昇は,国際的価値保全手段をドルから金に移動させる市場動向を示し,ドルの国際通貨とし

ての地位にとって脅威となる。FRBの新金融調節は,金との交換の裏付けを失ったドルの国際的価

値保全手段としての地位を維持するために,マネーサプライ成長率を抑えてドル供給を厳しく制限

するが,その結果としてドルに付く金利の急上昇に通貨当局は関知しないという姿勢を示したので

― 57―

十河:クリントン政権の経済政策の評価をめぐって

(16) 1948年にアメリカ経済の世界総生産に占める割合は,56.4%を占めていた。蒋渕正晃『アメリカ経済論』税

務経理協会,1975年,83頁参照。

(17) アメリカの金準備量は,1950年の6億5,200万トロイオンスから1960年には5億870万トロイオンスに減少

した。山本栄治『国際通貨システム』岩波書店,1997年,110頁参照。

(18) 1971年にアメリカの金準備量は,外国公的当局に対するドル債務の26.2%まで減少していた。山本栄治,同

上書,112頁。

(出所)Kitcoホームページデータより作成。図3 金市場価格 1979~80年

900 800 700 600 500 400 300 200 100 0 1976 1977 1978 1979 1980

ドル/オンス

月間平均

月間最高値

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ある。こうして連邦準備加盟商業銀行間貸出金利のフェデラル・ファンド・レートは1981年6月に

19.1%,企業向け最優遇貸出金利は同年1月に12.5%,住宅借入金利は同年11月に16.38%とそれ

ぞれピークを打つまで上昇した。この異常な高金利状態がドル資産選好を上昇させ,ドル高を導く

とともに,アメリカ国内のインフレを沈静化させる強力な作用を発揮したが,同時に途上国のドル

建て債務残高を膨張させ(図4),途上国の米銀に対する債務不履行危機を導いたのであった。

金利の決定を自由市場に委ねる動向は,銀行貸出金利についてだけでなく,1980年3月成立の「預

金金融機関規制撤廃・通貨管理法」(Depository Institution Deregulation and Monetary Control

Act)によって,銀行預け入れの定期性・貯蓄預金の金利にまで及んだ。続いて1982年に成立した

ガーン=セントジャメイン法(Garn-St.Germain Act of 1982;Depository Institutions Deregula-

tion Act of 1982)では,それまで住宅金融を専門としていた預金金融機関(savings and loans;

S&L)に対して,住宅金融以外にも投資先の多様化が認められ,預金保護を得ながらハイリスクハ

イリターン分野に進出することが可能になった。それは結果的に1989年のS&L危機となり,その

破綻処理はブッシュ(父)政権の推計で1,300~1,760億ドルに上る納税者負担となった 。

FRBの新金融調節と金融規制緩和・撤廃は,以上のような米銀の経営危機を導いただけでなく,そ

の引き締め効果が第二次石油ショックの不況圧力を増幅させることで,1980年代初めの二度の景気

後退(1980年1~7月,1981年7月~82年11月)の原因となり,またその後のレーガン政権の財政

赤字政策と結びついて,海外資本流入とアメリカの経常収支赤字を増加させた(図5)。こうした副

作用の影響は大きかったので,82年の不況に際してFRBはマネーサプライ抑制政策を緩和するこ

とで「マネタリズムの微調整」に転じた 。ドル高政策についても,アメリカは1985年9月に「プ

― 58―

第77巻第1号商 学 論 集

(19) ERP 1991, p.167(平井規之監訳『’91米国経済白書』毎日新聞社エコノミスト臨時増刊1991年4月8日,

190頁)。

(20) 宮崎義一『ドルと円』岩波新書,1988年,165頁参照。同書によれば,この「微調整」によって1983年以降

のアメリカ経済の急速な回復が始まった。また,ミアロポールはこのことについて,景気後退に対して十分

に闘わないFRBの「独立性」に連邦議会はかつて不満を強めるのが常であったが,1981~82年不況に際して

は82年末になってようやく不満を表明し始めたことを指摘している。Meeropol,Op. cit., p.78.

(出所)宮崎義一『世界経済をどう見るか』岩波新書,1986年,98~99頁。図4 途上国の対外債務残高 1980~85年

1,000

800

600

400

200

0

10億㌦

1980 1981 1982 1983 1984 1985

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ラザ合意」を取り付けて,ドル高修正に転じた。マネーサプライ抑制による不況の深刻化やドル高

のもとでの経常収支赤字拡大は,ドル防衛にとってこの時点で決して利益にならないと見られたか

らであろう。以後アメリカは,ドル安や通商政策の強化,グラム・ラドマン法に基づく財政赤字削

減努力を通じて経常収支赤字を削減しようとした。しかし,財政赤字削減には失敗し,結局は1990

年7月~91年3月の景気後退で経常収支赤字は減少した後,景気回復・拡大に伴って再び増加し始

め,1995年以後ドル高政策に再転換してからは,ドル高のもとでの経常収支赤字を今度は問題にし

なくなるのである。なぜなら,それはクリントン政権によれば,「ニューエコノミー」の投資ブーム

の結果であり,アメリカ経済の「弱さ」でなく「強さ」を示すからであった 。アメリカのドルと

対外収支に関するこうした見解は,レーガン政権時に対ソ冷戦をやり抜くための軍事費増大を賄い,

「強いアメリカの復活」を実現するには,ドル高とその原因でもあり結果でもあったところの海外資

本流入増大と経常収支赤字増大を問題視しなかった1980年代前半と同様である。むしろクリントン

政権と第一期レーガン政権は,一定の条件の下でのアメリカの経常収支赤字拡大は,アメリカ経済

にとってむしろ利益であるという見方を反映していた点では一致していた 。

それゆえ,FRBの新金融調節以来の金融規制緩和・撤廃は,1933年銀行法における金利規制の「レ

― 59―

十河:クリントン政権の経済政策の評価をめぐって

(21) これら(民間貯蓄率の低さと低下及び貿易赤字―引用者補注)のいずれも問題の源泉となりうるけれども,

それぞれ少なくとも短期的には,パフォーマンスの悪さの指標というよりもむしろ米国経済の投資主導の成

長の付随効果であるように見える。」(ERP 2001,p.56[平井規之前掲監訳57頁])「これまで数年における

貿易及び経常収支の赤字拡大は,ニュー・アメリカン・エコノミーの弱さの兆候ではなく,強さの兆候であ

るとするのが妥当である。」(Ibid., p.65[同上訳63頁])

(22) 国際収支不均衡の調整問題は金本位制,金ドル交換と固定相場体制,変動相場制のいずれの国際通貨体制に

よっても解消されなかったことが,歴史的に示されている。こうした中でアメリカが,依然としてドル本位

制が機能していることの利益を同国が享受していることを考慮しなければならないとはいえ,国際収支不均

衡の解消を政策目標に掲げないでいることを,今後の一国経済と世界経済との関係についての方向性を示唆

するものと見ることができる。

(出所)ERP 各年版より作成。図5 経常収支と国際投資ポジション 1980~2000年

10億ドル

500

0

-500

-1,000

-1,500 1980 1983 1986 1989 1992 1995 1998

経常収支

国際投資ポジション

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ギュレーションQ」を撤廃させ金融界を自由化させた点で,なるほどニューディール政策を転換さ

せる経済政策の「革命」と言えるかもしれないが,それが結果としてドル高修正や金融恐慌を導い

たために,むしろその処理は,為替介入やニューディールで導入された預金保険を使って対処され

たのであり,「革命」は修正を余儀なくされているのである。このことはミアロポールの研究の中で

言及されていない。

(2) レーガン政権時代の評価をめぐって

レーガン政権の政策は大幅減税,規制緩和,大軍拡,福祉支出削減を組み合わせるものであった。

このレーガノミックスは,累進所得税制や失業補償などの景気循環に対抗する自動安定装置の作用

する余地と,高齢者の生活保障制度であるソーシャル・セキュリティやメディケイド,貧困者に対

する要扶養児童家庭扶助(Aide to Families with Dependent Children;AFDC)や食料切符といっ

た所得再分配制度を大幅に切り詰め,積極的差別是正措置(affirmative action)による規制を緩和

する姿勢を示すなどによって,ニューディールと「偉大な社会」政策を反対方向に転換させる努力

を払った。この意味で「レーガン革命」と言われる。その目的は,レーガン政権によればニューディー

ルや「偉大な社会」政策の結果としての財政赤字と「スタグフレーション」を転換させること,す

なわち財政赤字削減,インフレ抑制,経済成長の拡大である。

FRBのマネーサプライ抑制と1983年3月以来の石油価格低下,食料品価格上昇率低下により,イ

ンフレは減少したが,財政赤字は増加し始めた(図6参照)。マネーサプライ抑制による高金利と連

邦政府赤字補填需要は,インフレ減少とその長期化の予測が加わって,1970年代の二度の石油

ショック後のインフレ時に比べて,海外資金にとってアメリカ国内のドル資産の投資の魅力を高め

た。その結果ドル高となり,ここでもまた70年代末のドル安時と反対に,アメリカの輸出競争力を

低下させ輸入購買力を高めて貿易赤字が増加した 。このいわゆる「双子の赤字」の原因と結果を

― 60―

第77巻第1号商 学 論 集

(23) この時期のアメリカの経常収支赤字拡大のこうした説明は,ほぼ通説と言ってよい。たとえば,レーガン政

(出所)Office of Management and Budgetデータより作成。図6 アメリカ連邦財政収支 1960~2003年

10億ドル

300.0 200.0 100.0 0.0

-100.0

-200.0

-300.0

-400.0

-500.0

名目 GDP比

1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 1995 2000

GDP比(%)

3.0 2.0 1.0 0.0

-1.0

-2.0

-3.0

-4.0

-5.0

-6.0

-7.0

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どう見るのかが,レーガン政権時代のアメリカ経済の見方を決定づける。

この問題についてレーガン政権最後の経済報告では,当時の経常収支赤字拡大は,それがアメリ

カ国内の投資ではなく消費に多く海外資金が向けられた結果であることを認めている。

最近のアメリカの経常収支赤字は消費に浮かれるアメリカに融通しているのであり,結局は将来

の消費を切り詰めて債務を返済するという苦痛を味わうことになると,繰り返し主張されている。こ

の行く末は可能性であって,不可避であるわけでない。結果は資源がどのように利用されているか

にかかっている。資源を借り入れることによって,アメリカは投資を増やすことができ,生産性と

将来の生産高が増加し,増加した将来の収入から債務を返済する資源が与えられる。他方,アメリ

カの貯蓄率と投資率が相対的に低いということは,外国資本の流入の多くは,投資ではなく現在の

消費に向けられていることを示している。」

このように経常収支赤字拡大が現在の消費をファイナンスしている事実を,それが将来の消費を

切り詰めて国内不況政策を余儀なくされながら債務返済に追われることに結びつくことを単なる可

能性にすぎないとしつつも,認めているのである。

レーガン政権は投資がこのように低迷したことが,財政赤字拡大と相関関係があるかどうか理論

的実証的に明らかでないとしている。しかし,ベンジャミン・フリードマンをはじめとする「双子

の赤字」批判論者たちは,FRBによる「マネタリズムの微調整」後の金融緩和にもかかわらず,「異

― 61―

十河:クリントン政権の経済政策の評価をめぐって

権最後の『大統領経済報告』では次のように述べている。「1980年代の(経常収支赤字に関する―筆者補注)

経験は,インセンティブを刺激する財政政策とインフレと闘う姿勢によるものであった。最近,1980年に経

常収支赤字が実際に悪化し始めたとき,新たな金融引き締め体制のもとでインフレ沈静化が予測され,海外

に比べてアメリカの実質税引後収益率が高まった。外国人が進んでアメリカの資産保有を増やし始めたため,

アメリカの経常収支は下降した。」(ERP 1989, pp.127-128[篠原総一監修『アメリカ経済白書89』日本評

論社,1989年6月20日,187頁])

(24) ERP 1989,p.128(同上訳187頁)。これに対してクリントン政権は,先に同政権最後の『大統領経済報告』

からの引用で示したように,自分の政権担当時代に増加した経常収支赤字は民間投資増大の結果であり,債

務は将来の生産力拡大により返済可能なので問題視しないという見解を表明した。

表1 財政赤字,実質金利,投資率(1984~89年)

年 全政府赤字(GDP比:%)

実質金利 期待実質金利 投資(GDP比:%)

1984 3.0 8.14 5.47 18.34

1985 3.2 6.63 5.13 17.10

1986 3.5 5.63 4.53 16.33

1987 2.6 5.11 4.91 15.92

1988 2.1 5.62 6.29 15.32

1989 1.7 6.67 7.70 15.24

(注1)実質金利はプライムレートからGDPデフレーター成長率を差し引いたもの。

(注2)期待実質金利はプライムレートから期待GDPデフレーター成長率を差し引いたもの。

(原資料)第1列:商務省経済分析局,第2~4列:ERP 1996,286,360,280.

(出所)Meeropol,Op. cit., Table 11.

Page 14: クリントン政権の経済政策の評価をめぐって(上)...む予算案に署名したことで,共和党に対して「屈服」し,2002年までに財政均衡を実現する97年予

常な財政赤字政策」を反映して実質金利(名目金利マイナス予想インフレ率)が上昇したために投

資が停滞したことを指摘した(表1参照) 。このことは投資資金調達金利を上昇させたために,

レーガン政権の減税が効果を発揮する以前に税引き「前」利益を削減するか,あるいは生産的投資

よりも金利収益取得を目的とした投資の選好を高めるかしただろう。こうしてこの議論によれば,財

政赤字は実質金利を上昇させて生産的投資をクラウドアウトしたので,「双子の赤字」に反映された

借金は結局のところ投資目的ではなく,現在の消費に使われてしまっており,将来の返済に行き詰

まって赤字の持続は不可能になるというものであった。さらにこの赤字批判は,1985年以降に対外

債務が対外債権を上回ってアメリカが純債務国となったことから,アメリカの土地と資本が外国人

の所有と支配に服することについての懸念と結びつき,この懸念がアメリカ政治に反映されて一種

の投資摩擦が激化した。資本輸入の受入国でかつ利潤の支払国になれば,外国資本によって「搾取」

されるという旧来の「帝国主義」論イメージに基づいて,「双子の赤字」政策を批判し外国資本排除

を求める議論となって一部で過熱したのである。こうした議論を反映して,諸外国の「不公正な貿

易慣行」に対抗措置をとるとする通商法301条強化が実施されたり,「1988年通商・競争力強化法」

を成立させるなど,アメリカの政府と議会は通商政策を強化し,貿易摩擦が一時期激化した 。

これに対してロバート・ライシュは,生産と資本市場の国際化がますます進むもとでは,その国

が国際的に資本を引き付け,その利潤がさらに再投資される条件を備えるかどうかが重要であり,そ

の場合に資本の所有は実質上無関係であると論じた 。R・ライシュによれば,こうした投資を自国

に引き付ける経済政策が実施されるべきであって,それはより多くの付加価値生産と結びつく技能

と立地条件を生み出す教育と物的インフラストラクチャーの維持・拡大を目指すべきである。しか

し,これをレーガノミックスは軍拡と減税の犠牲にした。そのため海外から流入する資金は,アメ

リカの人的及び物的投資要因の魅力にではなく,高金利に引き付けられたに過ぎない。不動産投機

や企業合併・買収といった既存資本の売買や消費者信用は資金が流れ込んで活況となるが,技術革

新に基づく新規の純投資は停滞した。これはアメリカ経済の長期的成長の基盤を強化することには

― 62―

商 学 論 集 第77巻第1号

(25) Benjamin M.Friedman,Day of Reckoning : The Consequences of American Economic Policy under

Reagan and After, Randam House,1988,pp.172~175(三木谷良一訳『アメリカ最後の選択』東洋経済新

報社,1989年,182~185頁).

(26) この時期に貿易摩擦を激化させたのは,アメリカ産業界の対外輸出利益増進を反映させた「通商派」であっ

たが,これに対して,為替相場を市場に委ねてドル高を容認し,アメリカの金融市場に海外資金が円滑に流

入することに利益を見出す「資本市場重視派」が存在するという見方がある。このことについては,吉川元

忠『マネー敗戦』文春新書,1998年,57~58頁参照。

(27) Robert B.Reich,The Work of Nations, Preparing Ourselves for 21st-Century Capitalism, Alfred A.

Knopf,1991(中谷巌訳『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』ダイヤモンド社,1991年)。彼の見解は,一国

経済の資本収支黒字にリベラル派の立場から利益を見いだす議論の典型であり,先に引用したクリントン政

権の経常収支赤字にアメリカ経済の「強さ」を見いだす議論にも反映されている。なおアメリカでは,資本

をコントロール(支配)して機能させることと,所有することとを区別して,前者の意義の後者に対する優

越についての研究が深められており,その系譜にライシュのこの研究も関連している。ただし,これらの研

究の中には,資本の機能がその所有の影響力から解放されることを通じて,資本主義が別の何物かに転化す

ると主張する傾向があることには注意を要する。このことについては,拙稿「アメリカの大企業体制につい

て―ハーマンの所説の検討―」『一橋研究』(一橋大学大学院)第18巻第4号,1994年1月を参照されたい。

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ならないので,この場合の資本流入は持続不可能だということになる。

それゆえ,以上の「双子の赤字」批判は,資本輸出よりも資本輸入が増大することがアメリカの

経済的独立の脅威となるかどうかといったことを別とすれば,レーガン政権時代の赤字による債務

を将来返済することが十分に可能な生産力の強化が見られなかったために,レーガノミックスを「失

敗」と評価する点で共通する。これに対してその「失敗」は,ボルカーとレーガンの経済戦略が「成

功」したことの当然の帰結であるとするラディカル派 の見解がある。

ラディカル派によれば,ニューディール以来整備されてきた社会的安全網は費用のかかりすぎる

ものとなり,資本が労働力に対して行使する支配力(power)は,労働力にとっての失業のコストが

低下することによって,また規制や累進課税制度が強化されることによって後退を余儀なくされた。

それは1970年代の利潤圧縮危機となった。ボルカーとレーガンのプログラムは,高失業を人為的に

作り出してインフレを沈静化し,累進課税制度を緩和し,福祉制度を圧縮することによって労働に

対して「ムチ」(stick)を振るい,利潤分配率を高めて資本の支配力の再確立を導くものであった 。

このことは能力利用率を低下させることになるので(図7参照),利潤分配率を高めても,利潤率そ

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十河:クリントン政権の経済政策の評価をめぐって

(28) ミアロポールは,Samuel Bowles,David M.Gordon,and Thomas Weisskopf,After the Waste Land : A

Democratic Economics for the Year 2000, M.E.Sharpe,1990から,この場合のラディカル派の見解を引い

てきている。

(29) ラディカル派の中で「ムチ戦略」を一層詳しく展開したものが,David M.Gordon,Fat and Mean ; The

Corporate Squeeze of Working Americans and the Myth of Managerial “Downsizing”, The Free Press,

1996(佐藤良一・芳賀建一訳『分断されるアメリカ―「ダウンサイジング」の神話』シュプリンガー・フェア

ラーク東京,1998年)である。

(出所)Meeropol,Op. cit., Table 12より作成。図7 各循環における能力利用率 1960~91年

%

1960年ピーク→1969年ピーク(38Q)

1962年回復→1969年ピーク(32Q)

1962年底→1970年底(36Q)

1969年ピーク→1980年ピーク(41Q)

1971年回復→1980年ピーク(37Q)

1971年底→1982年底(48Q)

1973年ピーク→1980年ピーク(25Q)

1974年回復→1980年ピーク(20Q)

1980年ピーク→1990年ピーク(42Q)

1983年回復→1990年ピーク(31Q)

1982年底→1991年底(33Q)

0 20 40 60 80 100

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のものを上昇させることにならない。また,能力利用度が低ければ,新規投資で能力を増強するわ

けにもいかないので,投資は停滞せざるを得ない。資本の支配力を再確立することに「成功」した

手段は,同時に投資を停滞させるという矛盾を抱えるのである。こうして生産的投資のリスクは高

まり,代わりに純粋に金融的な投資が膨張するとともに,財政赤字による景気刺激効果が弱まる。流

入する海外資金もまた,金融市場で再利用されるにとどまる。実物投資が停滞する一方で金融市場

が膨張すれば,企業の負債依存を高めることになる。レーガン政権時代のこうした成長は脆弱であ

り,持続不可能であることを示した点で,ラディカル派の見解は「双子の赤字」批判を補完したの

である。ただしそれはラディカル派にとって,ボルカーとレーガンのプログラムの「失敗」ではな

く「成功」したことの当然の帰結であったとする点で,「双子の赤字」批判論者と異なるのである。

(続く)

― 64―

商 学 論 集 第77巻第1号