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Hitotsubashi University Repository Title � : Author(s) �, �; �, �; �, �; �, Citation �, 96(3): 333-350 Issue Date 1986-09-01 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/11793 Right

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Page 1: 『ハムレット』 : 読解の可能性を探る URL Right - …...一橘論叢 第96巻 第3号(130) と呼ぱれていますが、Q3はニハ一一年、94には出版た四ヅ折版が二つ続いて出ていて、それぞれ93,94の重要な根拠になっています。その後、92にもとづい版(92)が出版されています。これが現代の

Hitotsubashi University Repository

Title 『ハムレット』 : 読解の可能性を探る

Author(s) 佐々木, 滋子; 滝沢, 正彦; 古澤, ゆう子; 中村, 喜和

Citation 一橋論叢, 96(3): 333-350

Issue Date 1986-09-01

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/11793

Right

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シンポジウム

    『ハムレツト』

       1読解の可能性を探る-

中古滝佐

々 木 滋

沢  正

沢  ゆ う

村  喜

和子彦子

(129) ~/~?t~・;~A

佐々木語学研究室の例会と言うと、これまでは、研究

室メンバーが自己の研究成果を発表し、参会者との間で

質疑応答を行うという形が主だった訳ですが、本日の例

会(第百二十二回・昭和六十一年四月二十三日)では、

従来とは少々趣きを変えて、各人の専門的研究分野の外

に共通の関心対象を置いて、それに対して発表者の方々

に各々の立場から独自の発言を提起していただきたい、

そして、それを中心として自由な討論を行ってみたい、

と考えております。本日テーマとして取り上げるのはシ

エイクスビァの戯曲『ハムレヅト』です。まず英語の滝

沢先生、ドイツ語の古沢先生、最後にロシァ語の中村先

生の御三方に、各々の専門領域からこの作品の三様の読

解を提示していただき、その後で御集まりの皆さんに、

この高名な戯曲がどれほど多角的に読みうるものである

か、逆に言えぱテクストの読解がどこまでその限界を押

し拡げうるかを、議論していただけたら、と願っており.

ます。

                (一橋大学助教授)

333

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一橘論叢 第96巻 第3号(130)

滝沢 英語を勉強しているものとして、漸新な解釈とい

うよりも、ファクチュァルなことを紹介したいと思いま

す。 

詳しい事情を説明すると長くなりますし、私にもよく

判らないところが多いのですが、『ハムレヅト』.が執筆

されたのは、だいたい一六〇一年頃だろうと考えられて

います。後で少し説明しますが、このことは、テキスト

やソースの決定と絡んで微妙な問題を合んでいます。

 今日伝わっている一番古い版は、一六〇三年に出たも

ので、普通第一・四ツ折版(91)と呼ぱれています。

ところが、これがどうやら海賊版らしく、シェイクスビ

ァの書いた原稿にもとづいてはいないようなのです。多

分、観客か、あるいは誰か関係者が劇場でメモしたり、

思い出したりして作り上げた本のようなのです。その翌

年、おそらくシェイクスピアがかなり手を入れたか、原

稿を回復したかして作られたと考えられる第二・四ツ折

版(92)が出版されています。これが現代のテキスト

の重要な根拠になっています。その後、92にもとづい

た四ヅ折版が二つ続いて出ていて、それぞれ93,94

と呼ぱれていますが、Q3はニハ一一年、94には出版

の年が印刷されていません。Q4が、第一、ニヅ折版

(F1)の先なのか後なのかということに関しては、研

究者の間で議論があるようです。

 ニハニ三年出版のF1がシェイクスビァの有名な最初

の全集で、十九世紀の編集者はこれを基礎にしてテキス

トを作りました。たとえぱ、グロゥブ版と呼ぱれる、十

九世紀のシェイクスビァ学を集犬成したような版は、F

1を基礎にして、細いところは他の四ヅ折版を参照する

というやり方をしています。とくに、F1は、たぷんプ

ロンプター・ブヅクを大幅に利用しているらしく、92・

の欠点を補うとすれぱ、俳優の出入りなどのト書が詳し

いので、この部分は現代のテキストにも利用されていま

す。ただ、Fユには編集者の手が入り過ぎているとか、

当時の出版事情では、誤植が蓄積されているのではない

かと恩われる部分、作品解釈の間題もあって、今世紀の

テキストでは92を基礎にしようとする傾向があるよう

です。たとえぱ有名な台詞で、グロゥブ版では一幕二場、

二一九行ですが、ハムレヅトが「私のこの眈o巨な肉体

が、溶けて露になってくれたらいいのに」と言う場面が

あります。F1では.ωo星.「私の固い肉体」というか

334

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(131) s~y~~~;~A

「颪強な肉体」となっているのですが、92では.墨旨&.

となっているんです。.窒ξ、というのは、、城から攻撃に

出るという意味で、「攻撃された肉体」というのでは意

味が通じなくなるので、F1の編集者は、竃竃.の誤植

と考えたものと思われます。十九世紀の版ではF1の

.8竃.の方を踏襲していますが、最近の編集者は92に

戻って考え直し、ミスプリントは.顯.の方にあるとして

.彗昌&.「この汚れた肉体」としています。これは一つ

の例に過ぎませんが、現代の編集者は全体として92に

戻る傾向にあるようです。ドゥヴァー・ウィルソンが

、彗;&.にして以後、若干の動揺はあったようですが、

比較的新らしく出たアーデン版でも、、彗旨&.に戻して

います。

 次に、ソースを簡単に紹介します。『ハムレット』に

ついては随分調べられていて、紬かい部分の挿話にいた

るまで、大陸に実はこういう前例があるというのが沢山

集められています。中心のテーマについては、サクソ・

グラマティクスと呼ぱれている人の書いた十三世紀の

『デイン人の物語』9}§b§ミミミの中に、これに非常

に似ている話があります。ここでは王子ハムレットにあ

たる人がアムレス>邑o亭と呼ぱれていますが、これ

は古ノース語の芭昌-o巨、つまり馬鹿とか白痴という意

味の語から来ているようです。ホルウェンディル曽oH-

毫竃創-という王が弟のフェン句竃oqに殺されて、フェ

ンは兄先王の妻ゲルーザΩ實巨ぎを奪う話ですが、そ

の後、先王の子アムレスは狂気を装って父王殺害の真相

を探ります。馬鹿を装うところから、名前をアムレスと

したものと考えられています。

。 他方、十六世紀末にフランスで出版され、一六〇八年

に英訳された本旨9ミミ竃§軸ぎ§・きbま軋由ミミ}

箏轟尽§夕ごo.Nがあって、この申の物語に、シェイク

スピァの『ハムレヅト』に非常に似ているものがありま

す。とくに、細い言葉使いなどに似ているものが沢山あ

ります。いろんな事情があって、『ハムレヅト』は遅く

ともニハ〇二年には上演されている筈ですので、シェイ

クスピァがフランス誘でこれを読んだのではないかとい

う説、逆に『ハムレヅト』の影響を受けて書かれている

かもしれないという説もあります。

 ところで、やはり一六〇一年頃ですが、マーストンの

 『アントニオの復讐』という劇が出版されているのです

335

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一橘論叢 第96巻 第3号 (132)

が、これが『ハムレヅト』と非常に似ています。偶然の

一致とは思えないほど似ていますので、両者が種本にす

るような本があったのではないかという推定のもとに、

文献学者はそれに仮りに『原ハムレット』q下串昌§ミと

名付けています。そして、研究者は、その作者をキッド

と推定しています。キヅドには『スペインの悲劇』専§-

札§掌s§という複響悲劇があります。この劇は『ハ

ムレット』とパラレルに論じられないにしても、筋や場

面の展開の仕方、復讐に対する態度などで非常に類似し

ていますので、仮りに『原ハムレヅト』が実在したとす

れぱ、キヅドの作ではないかと想像される訳です。その

他にも、実は、キッドのそういう劇を観たという莚言な

どもあウて、この仮定はかなり支持されています。そう

すれぱ、フランス語の物語にも、確証はないのですが、

シェイクスビァの『ハムレヅト』とは独立してそこから

何かの影響が入り込んでいるかもしれないので、理窟に

あう訳です。はたしてこれはソースと考えていいのかど

うか判らないのですが、普通よく取り上げられる話題で

すので紹介しておきます。

 さて、十七世紀以降の『ハムレット』批評の歴史です

が、非常に犬薙把に、私の知る限りでまとめてみますと、

大体次のように言えるのではないか、と思います。

 先ず、十七世紀中は、『ハムレット』を問題劇と考え

て、今目のように高く評個する批評はなかったようです。

また、後に非常に問趨とされるようになる復讐遅延の間

題も取り上げられていません。ハムレットが伸々復響を

しない(その結果、『ハムレヅト』はシェイクスピァの

劇の中で一番長い劇になってしまった〉ということが大

きな問題として議論されるのはロマン派以降です。正確

に言いますと、十八世紀にも、これに言及した批評はあ

るのですが、そこでは、シェイクスビァには復讐を遅ら

せねぱならない意図があったのだと・むしろ穰極的に評

価されています。このことを消極的にとらえるのは、や

はり、ロマン派以降、とくに十九世紀においてです。

 以下十八世紀以降の有名な批評だけを簡単に紹介しま.

す。先ず十八世紀中葉、ヴォルテールは、これはひどい

劇で、フランスやイタリァのような洗練された国では、

最も野卑な人間でもとても耐えられない野蛮な劇だ生言

っています。

 十八世紀末にゲiテは、ロマン派の一人として人間ハ

336

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 ム

 ウ.

ジポ

 ン

 シ)331(

ムレヅトに注目しています。とても引き受けられない大

きな仕事を荷負わされた人間の悲劇、つまり、不可能な

ことを、それを引き受ける能カを持たない人間に与えた

悲劇だという訳です。

 少し遅れて、シュレーゲルは、さらにハムレットに厳

しくなります。自分のことにのみ係り、自分のことしか

考えられなくなって、他人を省ず、自分の中にもぐり込

んで行った人間の悲劇なのだ、という言い方をしていま

す。 

十九世紀に入りますと、ハムレヅトを人間一般という

か、我々自身もそういう状況に置かれ得る人物だと考え

るハズリヅトのような批評が出てきます。ただ、この時

代から、とくにロマン派以降になってくると、劇場で上

演するというよりも、もっぱら読む方にカが注がれてい

って、舞台の上の『ハムレヅト』ではなく、本で読む

『ハムレヅト』に関心が集中してきます。ハズリヅトも

その代表的な例で、およそ舞台に移しかえたら耐えられ

ない劇である。シェイクスピァの劇は全てそうだが、と

り分け『ハムレット』は読まなけれぱだめだと、そうい

う側面を強調して.います。

 ロマン派の批評のもう一つの特徴は、人間ハムレヅト

の生き方、考え方、精神構造に関心を深めた点にありま

す。コールリヅヂの批評はその代表的なものの一つです。

彼の言葉を簡単に要約しますと、我々人間は現実の世界

と想像の世界を持っていて、これを調和させて、現実に

妥協したり、希望を持つためには空想の世界を作ったり

して生きているのであるが、ハムレツトではその境界が

壊れてしまっている、というのです。

 今世紀初頭、ブラヅドレーは、人間の個性・性格に注

目して、ハムレヅトがどうしてだんだんあのように人間

嫌いになっていくのだろうかという間魑の立て方をして

います。その意味では、劇を人間の問趨と考えたロマン

派の影響、その流れの中でなされている批評と考えて良

いと恩われます。

 二十世紀のブラッドレー以後、T・S・エリオット等

も含めて、劇としてのトータルな『ハムレヅト』像を問

題にし直しだしました。つまり、十九世紀の批評はどち

らかというと、ハムレヅトという一人の人間の生き方か

ら問趨を立て、復響の遅延ということも、彼の人間とし

ての在り様から考えようとしたのですが、二十世紀に入

337

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一橋論叢 第96巻第3号(134)

ると、舞台にのせて、トータルな演劇効果を考えるとか、

読む場合でも、全体としての文学作品の統一性とか、そ

ういうことを一般に考えるようになってきました。、たと

えぱ、グランヴィル・バー力ーだったと思いますが、ハ

ムレットの復讐の遅延の間題でも、舞台にのせて、劇場

で『ハムレヅト』を観る場合、あまり気にならない、

○轟冒算{o片昌まとか旨審汁ユs-↓昌まと言うのでしよ

うか、このことは十九世紀の批評家のようにこだわらな

くてもよい、という発言をしています。進んで、登場人

物の出入りの問題、それの工夫によって、劇の不自然さ

を観客に感じさせないようにも出来るというような発言

がなされるようになってきました。

 トータルに考える批評の一つで、消極的なことを言っ

ていて面白いのがT・S・エリオツトです。彼は、視覚

芸術とか演劇の場合、作品の中に我々の感情や心の揺れ

動きを表現しようとすれば、「悲しい」とか「うれしい」

とか、そういうなまの言葉で表現しても芸術にはならな

いのであって、それを対象化(具象化)して、対象のバ

ランス、対象がどう動くかということを通して、つまり

「もの」を通して、我々の感情は伝えられねぱならない

のだ、と主張します。ですから、たとえぱ『リア王』で、

リァの頭が狂ってくると、自然も狂ってくる。雨が降り

風が吹き、海が荒れます。そういう「もの」の作り出す

全体の雰囲気、その「もの」の印から、つまり舞台全体

の状況から、人間の感情みたいなものは表現されなけれ

ぱならない。この意味から、『ハムレット』は失敗作で

ある、という訳です。T・S・エリオットはo互8まさ

8冒g津~Φ(客観的相関物と訳しています)という言葉

を使うのですが、よく、怪談なんかの映画ではお化けが・

出てくる前に笛の音が聞えてきたり、簾がバタバタと風

に揺れたりしますが、演劇全体の構成として、そういう

仕掛けが『ハムレヅト』には欠けているというわけで

す。 

その後の現代批評は沢山あって、とても私のカでは読

み切れないし、どれが重要なのかさえ仲々判らないので

すが、知る限りで大雑把にまとめますと、犬体次のよう

な幾つかのグループに分けることができると思います。

 ひとつは、心理主義的批評というのでしようか、あと

で古沢さんが少し詳しく紹介されるかと思いますが、フ

ロイトの流れを汲む批評があります。とり分けフロイト

338

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f

(135) ~/y~~;;~A

のエディプス・コンプレヅクスなどから『ハムレヅト』

の構造を分析し、説明して行こうとする一群の研究があ

ります。

 二番目に、近代人の問題として、つまり、義務や責任

を近代的主体としての個人が自分に引き受けなけれぱな

らなくなった時代の人間の問題として『ハムレヅト』を

考える人々がいます。古典的ロマン派的人間への関心と

共通する部分もありますが、もう少し、今日の特殊な問

題を視野に入れているようです。たとえぱ、ある一つの

時代、シェイクスビアの場合の中世のように、まとまっ

た、比較的安定した世界観があった時代から、それが崩

壌して行くその壊れ方を『ハムレット』の中に見て、そ

の中から現代の我々の置かれている間題を見つめ直そう

とする立場などです。

 もう一つは、その逆になるのですが、実は、中世がず

っと十八世紀くらいまで長く連続していて、その中世恩

想の中心はキリスト信仰の世界観であったから、ハムレ

ヅトが半ぱ偶然のように死んで行きながら、それでも、

観客がそれを納得するのは、それはつまり、神の摂理

串oくδ彗8と理解するからであって、近代人には伸々

判らないけれども、したがって、近代人は『ハムレヅト』

を観たとき非常に不合理な、非条理な劇だと思うけれど

も、当時の観客は、その不条理さの背後に「摂理」なる

ものを知ることができたのだという、そういう考え方を

する人もあります。同じ歴史主義でも、二つの方向から

見ることができる、ということでし上うか。

 最後に、これは中村さんのレポートにあると思います

が、ハムレットの倫理的な責任を追究する圭言う批評は、

今世紀中葉以降あまり行なわれていないようです。

 だいたい私のリポートはここまでですけれど、もう一

言だけ付け加えさせていただきますと、私も軍oく己彗8

という言葉には関心を持っていて、最近の宗教的アプロ

ーチを面白いと思っているのですが、軍暑己昌8とい

う語を宗教上の重要な概念として言いだすのは、むしろ

      、  、

十七世紀ころからではないかと考えています。それ以前

は、単に「予言」とか「予測」ほどの意味でした。つま

り、中世では、とりたてて「摂理」などと言わなくとも、

花が咲いたり雨が降ったりすること、日常生活のすみず

みの中に神様が存在していたのではなかったろうか。

「摂理」という概念を持ち出さなけれぱ神様のことを考

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一橋論叢第96巻第3号(136)

えられなくなってきたのが、むしろシェイクスビアの時

代頃からではなかったのだろうか、そういう間魑として

『ハムレット』を見直すことはできないかと考えていま

すが、どうでしょうか。

 大変大雑把で恐縮ですが、以上が私のリポートです。

                 (一橋大学教授)

古沢 ハムレットにギリシャ悲劇をもちだしてくるのは

奇妙なものですが、父を殺された息子がその仇討ちをす

るというのは音からよくあるテーマで、古代ギリシャ伝

説のなかのオレステース物語もその一つです。両者を比

較することによってハムレットの特徴もしくは近代と古

代の相違のようなものがほのみえるのではないかと思う

のです。そこでアイスキュロスの悲劇オレステイァ三部

作を取り上げてみました。

 これは『アガメムノーン』と『供養する女たち』と

『慈みの女神たち』の三部からなっていますが、『アガメ

ムノーン』においてはアガメムノーンの殺害、『供養す

る女たち』においては仇討ち、そして『慈みの女神たち』

においては仇討ちの後始末が扱われています。この悲劇

においてハムレヅトの登場人物と対応する人々をあげれ

ぱ、ハムレヅトとオレステース、ガートルードとクリュ

タイメーストラー・クローディァスとアイギストス、そ

して死んだ父王ハムレットとアガメムノーンということ

になるでし上うか。

 ここで悲劇の舞台となるアトレウス家に目を向けてみ

ますと、代々血で血を洗う争いを繰り返してきた呪われ

た家系であることが明らかになります。系図をみれぱわ

かるとおり元祖は地獄で飢えと渇きに悩まされる名高い・

タンタロスであり、その息子ペロプスは妻の父を歎き子

孫に到るまでの呪いを背負うことになります。ペロプス

の息子または孫といわれるアトレウスは弟のテユエステ

ースと王権を争い、その時もアトレウスの妻アエローぺ

1がテユエステースと通じ、ハムレヅト悲劇に似た兄弟

争い、また次の代のアガメムノーン悲劇と同じ状況がこ

こですでに起こっています。争っていたこの兄弟が和解

の祝宴を催した際、アトレウスはテユエステースの幼い

三人の子供を殺してその肉をテユエステースに喰わせる

という非常に残酷な行為にでます。そうと知らされたテ

ユエステースは肉を吐き出し呪いの言葉とともに去って

340

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(137) ~~~}~~;~A

いきますが、代がわりして彼の息子アイギストスがアト

レウスの子アガメムノーンに復響することになるわけで

す。 

アガメムノーンはクリュタイメーストラーを妻として

息子オレステースと娘エレクトラ、イービゲネイァをも

うけますが、トロイァ遠征の際にこのイービゲネイァを

女神アルテミスに犠牲として捧げねぱなりませんでした。

弟メネラオスは美女ヘレネーをめとり、このヘレネiが

トロイァの王子バリスと出奔したため、多くの人々の不

幸の原因となったトロイァ戦争が起こります。

 『アイスキュロスの悲劇』はアガメムノーンがこのト

ロイァ戦争から凱旋して来るところから始まります。十

年ぷりに帰ρて来た彼は、留守の間にアイギストスと通

じていた妻の手にかかって殺されてしまい、クリュタイ

メーストラーとアイギストスがミュケーナイの支配者と

なります。その時は幼かったオレステースが成人してた

ちかえり、エレクトラと共謀してクリュタイメーストラ

ーとアイギストスに復讐しようとしますが、オレステー

スにとって非常に悲劇だったのは、父の仇討ちをしよう

とすると母を殺さねぱならないという矛盾にみちた立場

におかれたことです。ところが家系を辿ってきて明らか

であるように、身内同士の争いを続けてきたアトレウス

家の人々はすべて親または子の仇討ちをしようと思えぱ

親族を殺さねばならないという代々の呪いにがっちりと

捕えられています。つまりこの家系に生まれたが最後逃

れられない悲劇的な運命というものがあるようにみえま

す。登場人物のせりふのなかにはこのような不幸を嘆く

表現が多々見出され、また合唱隊もそれを暗示していま

す。けれども、だからといってギリシャ悲劇は人間が運

命のかせにつかまれて、どうしようもなく破滅に陥って

いく有り様を描く運命劇であるといいきれるかどうかは

疑問です。この点にシェイクスピァ悲劇との大きな相遠

点を見ようとする解釈をただちに肯定することはできな

いように恩えます。そこで登場人物を身内殺しや仇討ち

にはしらせた動機を探るために、彼らのせりふを検討し

てみます。     .

 まずクリュタイメーストラーを坂り上げてみます。こ

のミ.一ケーネーの王妃に対応するのは『ハムレソト』に

おいてはガiトルードですが、彼女は夫の生前に不義を

おかすこともない無邪気な善人として描かれています。

143

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一橋論叢 第96巻 第3号 (138)

『ハムレット』の種本となったもとの物語には義弟と通

じて夫殺しに加担した王妃が登場したようですが、シェ

イクスビァは政治的理由で彼女の性格を変えたというよ

うなこともいわれています。一般に弟が兄を殺して王位

を奪う場合兄の妻がその手引をするというバターンは伝

説のなかに多く見出されます。クリュタイメーストラー

の場合はそれどころか、不義の相手のアイギストスがぐ

ずぐずしているうちに、率先してほとんど自分だけで夫

殺しをやってのける女傑として描かれています。しかし

彼女にはアガメムノーンを殺す大義名分がありました。

『アガメムノーン』一四二五行以下でクリュタイメース

トラーが語るように、アガメムノーンとの間の娘イービ

ゲネイァを人身御供に捧げた夫への復響をはたすための

行為であったわけです。ここで彼女は己の仕打ちを正当

化しようと試みるのですが、それに対してアルゴスの市

民を代表する合唱隊は、彼女の主張をそのまま受け入れ

ようとはせず、「汚れた行為に心を狂わせ無分別な言葉

をはく」と非難します。彼らの非難ももっともである訳

はその次のクリュタイメーストラーのせりふにほのめか

されるアイギストスとの関係です。娘のための復響はア

イギストスとの密通を正当化しはしないのですから、娘

のためと言いながら実はアイギストスと一緒になりたい

がために邪魔な夫を除いたという、彼女の行為の不透明

な都分がここで暴露されているといえるでしょう。また

クリュタイメーストラーは次の個所で、アガメムノーン

がトロイァ戦争中にかかわった女たちに言及しています

が、その言葉の端々にはある種の嫉妬がよみとれます。

実際彼女はアガメムノーンがト日イァから伴った王女カ

ッサンドヲを夫とともに血祭にあげるのです。それゆえ

クリュタイメーストヲーは抗いようのない運命に強要さ

れて致し方なく娘の復響をしたのではなく、むしろアイ

ギストスヘの恋情に嫉妬も加わって、ある意味では不純

な動機から夫殺しを犯したといえましょう。ただし合唱

隊が随所でうたいあげるアトレウス家の運命、罪が罪を

呼び殺した者が殺されるという定めのなかで、誰が正し

いか判断するのは容易なことではない、どうしたらこの

呪いに終焉をもたらすことができるだろうとの嘆きは、

やはり見過、こすことができません。

 この運命の問題は後にとりあげてみたいと思いますが、

ここではまずク回ーディアスに対応するアイギストスを

342

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(139) ~y;~~,;vA

みてみたいと恩います。アイギストスはアガメムノーン

が殺された後に始めて登場し、自分は父の仇討ちのため

アガメムノーン殺しを計画したのだと述べます。このよ

うに正義のための犯行を主張するアイギストスに向かっ

て合唱隊が、この殺人を企んだ者は石打ちの刑に値する

と答えると突然、いけたかだかになった彼は、治められ

る者の分際で上の者に逆らうとひどいめにあうだろうと

威します。つまり父の無念をはらすための行為であった

と言いながら、ミュケーナイの町の支配権を獲得したい

という権カ欲をむきだしにしたと考えられます。そこで

アイギストスもやはり従兄弟殺しを運命づけられた呪い

の家にうまれながら、自己の欲望ゆえに行為したとい、疋

るのではないでし上うか。

 さて三人目の重要人物オレステースの場合はいささか

事情を異にします。オレステースが登場するのは『供養

する女たち』においてですが、ここで彼は父の仇討ちを

するにいたった経緯を述べています。幼いころからよそ

にやられて不幸な境遇に育った彼は成人するとアポロン

神から神託を受けます。ハムレットが亡霊から復讐を促

される状況と比較すれぱ興味深いでしょうが、この神託

は父の仇討ちをしなけれぱひどい病いがふりかかり、共

同体から追い出されるだろう、それは流された親の血に

呼ぱれた復響の神、エリーニュスが仇討ちを拒むものに

とりつくからである、というものでした。ところがオレ

ステースにとって父の仇討ちは母殺しを意味しました。

そこで彼は父の復響をすれば母の復響の霊にとりつかれ、

仇討ちをしなければ父の復響の霊にとりつかれるという

葛藤を持つことになります。この葛藤はオレステースが

クリュタイメーストラーを殺そうと剣をかざして追い詰

める場面に端的に現れています。『ハムレヅト』の母子

の話し合いの場と比較しても印象的な場面ですが、ここ

でオレステースは衣を裂き乳房を見せて命乞いをする母

の婆を前にためらいをみせます。すると助太刀をする親

友のビュラデスがアポロンの神託を思い起こせと励まし、

オレステース自身も母の犯した不義を思いだし、気を取

り直します。そうした息子にむかってクリュタイメース

トラーは母親の呪いを口にしながら死んでゆきます。そ

の言葉どおりクリュタイメーストラーの血の匂いをかぎ

つけた復讐の女神たち、エリー二.一スの群が現れオレス

テースの心を狂わせ、ギリシャ中を追い回すことになり

343

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一橋論叢 第96巻 第3号(140)

ます。

 三部作最後の悲劇『慈みの女神たち』はこのエリーニ

ュスたちを含唱隊として登場させています。血の匂いを

かぎつけると猟犬のようにやってきてその血を流した人

にとりついて離れないこの復響の女神たちは、プロロー

グのアポロンの言葉にもあるとおり、闇を住まいとする

古い神々に属するものたちです。つまりゼウスをはじめ

とするアポロンやアテネなどの新しいオリュンポスの神

とは別の系統と考えられているわけです。このエリーニ

ュスにとっては当然重罪とみなされるオレステースの母

殺しが、新しい神と人間たちによってとりおこなわれる

裁判で裁かれるというのが、『慈みの女神たち』の内容

だといえるでしょう。エリーニュスによって苦しめられ

ながら諸国を放浪していたオレステースはアポロンの指

示に従ってアテナイ市で裁きを受けることになります。

双方の言い分を聞いて黒白の票を投ずるのはアテナイ市

民と女神アテネ、投票の結果はオレステースを有罪とす

るもの無罪とするもの同数だったのですが、このような

場合のために定められた法に従って、オレステースはめ

でたく無罪と決まります。つまりオレステースは血と復

響を闇の法で縛る古い神の呪いから逃れて、新しい神の

保謹下に入ったといえましょう。

 しかし獲物を逃したエリーニュスたちは猛り狂い、ア

テナイ市に恐ろしい災いをもたらしてやるといきまくの

で、アテナイ市の守謹神である女神アテネは、ものやわ

らか杢言葉で説得を試みます。最初は聞き入れようとも

しなかった復響の女神たちですが、アテネの辛抱強くま

た論理立った説得に心を和らげて・アテナイ市に恵みを

もたらす慈みの女神へと変わってゆきます。この際注意

すぺきことは、殺人者を罰するという古い法が廃止され

るというわけではなく、血で血を洗う争いや復響が法に

かなった社会秩序の中の裁判に移ってゆくという点でし

ょう。いままでは家の呪いや血の運命といったものの支

配下にあった人間たちはここで、論理(ロゴス)と秩序

によるゼウス神の支配を受けるようになるといえるかも

しれません。古い神も排除されるわけではなくその中に

取り込まれ正しい人間にとっては慈みをもたらす存在と

なってゆく。恐れられる霊から敬われる神へ移行したと

いえましよう』

 ただここで確認しておかねぱならないことは、アテナ

μ3

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(141) ~y~~,;vA

イ市の裁きの場において無罪となったのはオレステース

であれぱこそだったということです。彼の母殺しはミュ

                     ノ

ケーナイの支配権を得たいためでもなく、許されない情

欲のためでもありませんでした。この悲劇においてはた

だアポロンの神託のみが彼を行為にはしらせています。

             ラ

アトレウス家の系図

タンタロスrrデイオーネ

   ペロプス

(ブレイステネース〕

ス  ス

一  ト

テ  ス

スーギ

7hVT~;~-7:1:T! ~. '-- 1;~:

~ネーアガメムノーン牢ストヌ

ネー オレステース イービゲ ェレクト       ネイア

  ポ

一丁け

似~

朽メ

先にもみたとおりクリュタイメーストラーやアイギスト

スの復響の行為には彼らが主張する犬義名分とは異なっ

た感情(バトス)がまとわりついていました。法に照ら

し合わせても論理によっても正しいとはいえない行いを

彼らは、支配欲や恋情というバトスに惑わされて犯して

しまった、すなわちギリシャ悲劇に典型的な過ち、ハマ

ルティアをおかしたということができます。

 ここではアイスキュロスのオレステースをみてきまし

たけれど、エウリビデスの描くオレステースは幾分気の

弱い優柔不断な性格を持ち、その点においてハムレヅト

と似た側面がみられるかもしれません。あまり直載な比

較は避けなけれぱなりませんが、仇討ちをめぐる状況の

中に置かれた人々の性格や行動を考えるよすがになるこ-

とがありましたら幸いです。

                (一橋大挙助教授)

中村 ロシァの小説家イワン・ツルゲーネフに「ハムレ

ソトとドンキホーテ」という論文があります。これから

その紹介をいたします。白状しますと、私はこの小説家

のことを専門的な立場から調べたことはありません。こ

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一橋論叢 第96巻 第3号 (142)

      、  、  、  、

こで何ですかバネラーとしてお話するのはおこがましい

と恩うのですが、語研の例会の係りの佐々木滋子さんか

らの,こ指名でありますので、つつしんでお引き受けした

扶第です。

 「ハムレットとドンキホーテ」はもともとツルゲーネ

フの講演でありまして、その翻訳が岩波文庫にはいって

いますから、だれでも手軽に読むことができます。古い

ところでは、大正時代の翻訳もあります。ツルゲーネフ

という人は明治以来わが国でたいへん人気の高い作家で

したから、大正年間にこういうものまで紹介されていた

わけです。

 ただ・はじめからお断りしておきますと、「ハムレヅ

ト」の新しい読み方をさぐるという野心的なディスカヅ

シ目ンで、ツルゲーネフのハムレット論を紹介するのが

有意義かどづかとなりますと、幾分私に擬問がないわけ

ではありません。つまり汗牛充棟ともいうべきおびただ

しいハムレヅト論の中で、ツルゲーネフの語っているこ

とがそれほど注目に値するかどうか、私にはどうも責任

がもてない気がするのです。しかしそのことはあとで皆

さんに判断していただくことにいたしまして、まず中身

をとりあえず、こ報告しましよう。

 この「ハムレヅトとドンキホーテ」という講演をツル

ゲーネフがしたのは、一八六〇年のことです。この年の

一月一〇日に、ペテルブルグ、つまり今のレニングラー

ドで講演しました。これが非常に評判がよくて、その月

の二十五日に今度はモスクワヘ行って同じ題名で話して

              ソヴレメソ一’ク

います。この講演原稿は同時に「現代人」という雑誌に

も発表されました。この年の一月号です。これは当時の

いわゆる進歩派の牙城とされていた雑誌です。

 どういうことをツルゲーネフが言っているかといいま

すと、ハムレットとドンキホーテという二人の人物をそ

れぞれ主人公としている作品はその初版が同じ年に出た、

ということから切り出しています。これはどうやら間違

いらしく、さっき滝沢さんのお話でおわかりのように、

「ハムレヅト」の一〕凹φ&まo自つまり~洛o墨ユoは一

六〇三年に出た。一方、「ドンキホーテ」の初版は一六

〇五年とされていますから、二年のずれがある。

 肝心なのはこれからです。ハムレヅトとドンキホーテ

という二つのタイプの中に人間の本性の根本的でかつ相

反する特質があらわれている、これがツルゲーネフの講

3壬6

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(143) ~y:~,;vA

演の基本的なテーぜです。どういう風にこの二人が異っ

ているか。ツルゲーネフはさまざまなレベルで二人の対

照的な相違を述べております。まず二人の行動原理がま

るで違っている。ドンキホーテは理想に対して全身全霊

を捧げている。理想のためには命ですら犠牲にしようと

している。ドンキホーテにはエゴイズムというものがま

ったくない、とツルゲーネフは言います。それに反して、

ハムレヅトはまったく自分自身のために生きているニゴ

イストである。自分の義務ではなくて境遇にこだわって

いる。自分自身をすら喜ぴをもって非難している。もう

少し先へ行きますと、ドンキホーテについては遠心性が

みとめられる、つまりその行動がすべて外へ向かってい

るのに対し、ハムレヅトの性格は求心的、すなわち自分

が中心にな’ている、ともう一度説明しなおしていま

す。 

第二点は容姿です。ツルゲーネフはこう言います。ド

ンキホーテの風貌は滑稽である。笑いをさそうものがあ

る。笑いをさそうということは非常に大事であって、そ

れだけで人から愛される資格があるというのです。それ

に対して、ハムレヅトは外面的には人を惹きつけるとこ

ろがある。しかし他人から笑われるということはない。

大体においてハムレヅトを愛することは不可能である。

彼自身がだれも愛していないからである、とツルゲーネ

フは断定します。

 次は社会的身分です。ドンキホーテは無一文で乞食に

近い。しかしながら地球全体の悪を正そうとしている。

一方、ハムレットは王子である。しかし自分自身を歎き

辱しめて喜んでいる。父親の仇討に成功するのも、,偶然

そうなっただけのことで、賞分が周到な計画をたてて行

なったのではない、という点が強調されます。

 さらに進んで、今度は二人の人物と大衆との関係を問

魑にします。これはやや唐突に聞こえます。ツルゲーネ

フの使っている言葉はロシァ語で「マッサ」というので

す。英語の「マス」にあたるので、多分、一般大衆を意

味しているのでしよう。ツルゲーネフにしたがいますと、

「ドンキホーテ」の場合はサンチ目・パンサが大衆の代

表である。ドンキホーテはサンチョ・パンサの献身をう

けている。それに対して、「ハムレット」の芝居の中で

は大衆はポローニァスの姿であらわれる。その身分は侍

従長、ハムレヅトに殺されてしまう人物です。彼はすぐ

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一橋論叢 第96巻 第3号(144)

れた管理者であると同時に健全な常識をもった父親です。

ポローニアスから見れば、ハムレットは子供のようなも

ので、あやされているにすぎない。そう述べたあとで、

ツルゲーネフはこう言っています。ハムレットのような

人間は民衆にとって役に立たない。何一つ民衆に与える

ものがない。民衆をどこへも引っぱっていかない。なぜ

なら、自分がどこへも行かないからである。民衆はハム

レットを尊敬しない。自分自身を尊敬しない者をだれが

尊敬できようか。ツルゲーネフはこう言っているので、

す。 

いろいろな比較をしたあとで、ツルゲーネフはドンキ

ホーテの中に南方人、ヨーロヅバの南の方の入間の典型

を見ています。明るくて陽気で感受性が鋭くて、「人生

の根底に到らない」ながら人生のあらゆる現象を反映し

ている、そういう精神が南方人の精神とされます。一方、

ハムレヅトは北方人、北ヨーロヅバの人間のタイプを代

表している。重くて暗くて、調和と明るい色をもたない、

しかし優美でカ強い、人を導くような精神をもっている。

以上からおわかりのように、概してツルゲーネフはハム

レットには冷たい視線を注ぎ、それに対してドンキホー

テのような人間類型を非常に高く買うているわけです。

 ハムレツトとドンキホーテという二つの人間タイプを

比べようということをツルゲーネフが考えついたのは、

一八四八年の二月革命をバリで見てからと言われていま

す。彼は蜂起した民衆を同情の念とともに眺めたようで

す。その後五十年代を通じて、ずっと「ハムレットとド

ンキホーテ」というテーマをあたためてきた。このテー

マを実際にまとめて講演をしたのが一八六〇年と先ほど

申し上げました。実はこれはロシァの歴史の申で見ます

と、革命的な気分が社会全体の中にみなぎっていた時期

と一致します。翌年、つまり一八六一年の二月には農奴

解放令が発布されます。五十年代の後半から解放令の出

たあとまで、国中で騒動とか学生のストライキが頻発し

て.いる。ツルゲーネフの講演はそういう情勢の中で行な

われたことを考慮に入れる必要があると思います。作家

はこのとき四十一歳でした。彼の講演が客観的には若者

たちをアジる形になっていることは否めません。「武装

して戦うのがわれわれの仕事である」というような7レ

ーズが前後の必然的な脈絡なく合まれていることからも

そのことがうかがえます。

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(145) i~y~~,;~A

 講演をした場所なんですが、困窮文士学者救済協会の

集まりでした。この団体は前の年の一八五九年に結成さ

れた。ツルゲーネフやトルストイなどが発起人なんです。

講演会を開いて金を集め、経済的に困っている作家や批

評家や学者、場合によってはその遺族を救済しようとい

う主旨でした。この協会は突にロシァ革命の翌年の一九

一八年まで存在しました。長い名前なので、一口に文学

ファンドと呼ばれることもあります。ドストエフスキイ

や.‘ーリキイといった人たちもこのファンドから金を借

りたことがあったそうです。とにかく有名な組織でした。

革命の混乱の中でみんなが困窮した結果一八年につぶれ

てしまいますが、三十年代に作家同盟が復活させまし

た。 

いずれ・にしてもそういう団体の主催した会で、ツルゲ

ーネフの講演は聴衆に深い感銘を与え、しぱらく拍手が

鳴りやまなかった、と最近のツルゲーネフ全集の注釈に

書かれています。モスクワでも同様だったそうです。と

ころがいざ雑誌に発表されたところ、続々と反論が出て

きました。話は面白かったが、文章になったものを読む

とアラが見える、というわけです。さまざまな反論があ

ったようですが、その代表的なものはといえぱ、ハムレ

ットはそんなエゴイストではない、少なぐともエゴイス

トという:冒で片づけてしまうのはかわいそうだという

のです。それからこれも大事なことですが、ドンキホー

テをずいぷんかついでいるけれど、彼の理想は時代遅れ

の理想であって、そのために命を捧げるとか犠牲を惜し

まないとか言ってほめたたえるのはおかしいというので

す。進歩派の方でももてあましたようです。進歩派とい

うのは雑誌「現代人」によって代表される陣営です。な

ぜかといえぱ、ツルゲーネフとしては誠実に若者たちの

直接行動を是認し、「祝福」したつもりでも、革命運動

の参加者としては自分がドンキホーテ・タイプというこ

とになると、何となく馬鹿にされた気持がしてしまうと

いうわけです。

 ただし、のちにこの論文を読んでこれを賞賛した人物

が二人ありました。一人はツルゲーネフの友人でもあっ

たトルストイです。彼は独特の倫理観をもった作家で、

例のトルストイズムの唱導者です。もう一人はアナーキ

ストとして知られたピ冒ートル・ク回ポトキンです。彼

は非常な感銘を受けて、自分の著作の中で何回となく言

943

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一橋論撞 第96巻 第3号 (146)

及しています。

 私見をさしはさみますと、ツルゲーネ7のハムレヅト

論は一面的にすぎると恩います。彼は自分自身の倫理観

にもとづいてハムレットの人格とその生き方を批判して

いるわけですが、その批判からして間題がある。次にこ

の講演は文学論ではないことに留意する必要があると思

います。文挙作品の主人公を引き合いに出して人間の二

つのタイプを論じた社会評論です。当然のことながら、

 ハムレソトという人物の人格とは別に、芝居としての、

文学作品としての「ハムレヅト」の価値があり、魅カが

あると私は考えるわけです。

 少々時間の余裕があるようですので、ロシァにおける

「ハムレヅト」の歴史をちょっとつけ加えます。

 音からロシァでは「ハムレット」はたいへん人気があ

りました。初めて紹介したのはスマローコフという十八

世紀の有名な劇作家で、彼の翻案の中では、ポローニア

 スは自殺し、オフィーリァはめでたくハムレソトと結婚

するという筋になっています。さすがに十九世紀になる

.と忠実な翻訳が生まれ、当時の有名な役者が主役を演じ

 て大評判になりました。ツルゲーネフの聴衆はすでにま

がいものでないハムレヅトに親しんでいたわけです。そ

の後は、いつもその時代の最高の俳優がハムレヅト役を

演じて、モスクワやベテルブルグだけでなく地方の都市

でもこの芝居が舞台にのりました。有名なスタニスラフ

スキイやメイエルホリドの演出もそれぞれに特徴のある

ものでした。最近ではスモクトゥノフスキイという特異

な芸風をもつ俳優の主演で映画になりました。

 ロシァで「ハムレヅト」の人気がとくに高いのは、ロ

シァ人が北方人に属しているせいかもしれません。

 十九世紀のロシァ文学には、ハムレヅト的性格をもつ

主人公、つまり恩索はするが行動はおこさない知識人、

彼らは普通余計者と呼ぱれますが、その余計者を主人公

とする一作品の長い系譜があります。ツルゲーネフ自身も

「ルージン」のような余計者小説を書きました。ツルゲ

ーネフがハムレット的タイプを批判した理由の一つに、

ロシァ的停滞を打破すべきであるという信念がひそんで

いたと考えられないでしょうか。

                 (一橋犬学教授)

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