イスラエル・ロビー カーター政権 レーガン政権...2008 年度 久保文明教授...

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2008 年度 久保文明教授 ゼミ論文 カーター政権前後におけるイスラエル・ロビーの変質 法学部 3 並木さゆり はじめに 1.イスラエル・ロビー 1-1.概要 1-2.中東政策決定への関与 2.カーター政権以前 3.カーター政権 3-1.支持基盤 3-2.政権の中東政策 3-3.議会の対応 4.レーガン政権 4-1.サウジアラビアへの AWACS 売却 4-2.ヨルダン、サウジアラビアへの武器売却 5.結論 はじめに ミアシャイマーとウォルトによる「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」 の中で、AIPAC 等のユダヤ系ロビーが歴代アメリカ政権の政策に大きな影響を与え続けて いるとして批判的に描かれ、話題となった。しかし各政権を細かく見てみると、アメリカ とイスラエルの利害が衝突した際に見られる、イスラエルへの政策的配慮の強弱には差が あり、イスラエル・ロビーの影響力が比較的小さかったと思われる政権についてはあまり 論じられていない。たとえばカーター政権の対イスラエル政策や、レーガン政権にも見ら れるサウジアラビアへの武器売却は、イスラエル・ロビーの限界を示していると評価され ることが多い。以下に例としていくつかの評価を挙げてみる。 「大統領時代に AIPAC 等から影響を受けたことはほとんどなかった。そういう圧力に私は 関係を持たなかった。大統領に選ばれた時もそうしたものと関係ないところから突然出て きたようなものだった。」 (カーター元大統領) 「カーター元大統領は非常に有利な点を持っていた。米国の多くの政治家やとくに歴代大 統領とカーターの間には大きな違いがあり、彼は珍しい存在だった。カーターはユダヤ人 有権者やユダヤ・ロビーの意向に敏感でも注意深くもなかった」 (シュロモ・ベンアミ元

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Page 1: イスラエル・ロビー カーター政権 レーガン政権...2008 年度 久保文明教授 ゼミ論文 カーター政権前後におけるイスラエル・ロビーの変質

2008 年度 久保文明教授 ゼミ論文

カーター政権前後におけるイスラエル・ロビーの変質

法学部 3 年 並木さゆり

はじめに

1. イスラエル・ロビー

1-1.概要

1-2.中東政策決定への関与

2. カーター政権以前

3. カーター政権

3-1.支持基盤

3-2.政権の中東政策

3-3.議会の対応

4. レーガン政権

4-1.サウジアラビアへの AWACS 売却

4-2.ヨルダン、サウジアラビアへの武器売却

5. 結論

はじめに

ミアシャイマーとウォルトによる「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」1

の中で、AIPAC 等のユダヤ系ロビーが歴代アメリカ政権の政策に大きな影響を与え続けて

いるとして批判的に描かれ、話題となった。しかし各政権を細かく見てみると、アメリカ

とイスラエルの利害が衝突した際に見られる、イスラエルへの政策的配慮の強弱には差が

あり、イスラエル・ロビーの影響力が比較的小さかったと思われる政権についてはあまり

論じられていない。たとえばカーター政権の対イスラエル政策や、レーガン政権にも見ら

れるサウジアラビアへの武器売却は、イスラエル・ロビーの限界を示していると評価され

ることが多い。以下に例としていくつかの評価を挙げてみる。

「大統領時代に AIPAC 等から影響を受けたことはほとんどなかった。そういう圧力に私は

関係を持たなかった。大統領に選ばれた時もそうしたものと関係ないところから突然出て

きたようなものだった。」2

(カーター元大統領)

「カーター元大統領は非常に有利な点を持っていた。米国の多くの政治家やとくに歴代大

統領とカーターの間には大きな違いがあり、彼は珍しい存在だった。カーターはユダヤ人

有権者やユダヤ・ロビーの意向に敏感でも注意深くもなかった」3

(シュロモ・ベンアミ元

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イスラエル外相)

「カーター政権以降アメリカの大統領はアラブ諸国の立場を考慮に入れるようになった」4

「カーター政権は、政策決定にエスニック・グループの好みが反映されるとする論評と真

っ向から矛盾する」5

このようにカーター政権はイスラエル・ロビーと対立する政策を推進したと思われるが、

なぜカーターはそうしたのか、またできたのか。なぜカーター政権はこのような評価をさ

れるのだろうか。一方でイスラエル・ロビーの影響力は政権に関わらず一貫して限定的で

あるとする見方もあるが、実際はどうなのか。

本稿では、曖昧に論じられることの多いイスラエル・ロビーの「影響力」とはどのよう

なものなのかを明らかにするために、カーター政権の外交政策、カーターからレーガン政

権にかけて見られるアラブ諸国への武器売却に注目し、イスラエル・ロビーが果たした役

割を具体的に見ながら、その影響力を再評価したい。

1. イスラエル・ロビー

1-1.概要

ミアシャイマーとウォルトは、「イスラエル・ロビー」という言葉を、「米国の外交政策を

親イスラエルにするために、積極的に働きかけを行う個人と団体の緩やかな連合体」と定

義している。6

ここでいう「ロビー」とは、中央指導部を持つ、統一された一つの組織では

なく、特定の政策課題についての意見の不一致が見られることもある。この定義に加え、

本稿では「イスラエル・ロビー」という言葉を、イスラエルの右派政党であるリクードと連

動して膨張主義(大イスラエル)7

的政策を推進し、パレスチナ、アラブ諸国に対し強硬路

線をとる組織と定義する。8

イスラエル・ロビーはワシントンにおける政策形成過程に大きな影響を与えること、社会

の風潮をイスラエルに好意的なものになるようにすること、これら二つの戦略を用いて米

国のイスラエルへの支援を確かなものにしようと活動している。ユダヤ系アメリカ人はア

メリカ人口の 3~4%足らずではあるが、比較的富裕層が多いこと、政治参加度合が高いこと、

よく組織されていることなどから選挙への影響が大きいとされており、資金面では民主党

の 45~60%、共和党の 23~35%が、ユダヤ系 PAC からの献金であるとする調査もある。9

た、イスラエル・ロビーは中東問題に関してイスラエルに好意的な記事を書く多くのコラム

ニストを抱え、それを掲載する主要な新聞や雑誌もあるため、社会の風潮を親イスラエル

的に誘導する力が強いとされている。イスラエル・ロビーの活動は他のエスニシティーロビ

ーや利益団体が行っているものと同じ合法的なものであり、そこにはしばしば囁かれるよ

うな陰謀めいたものはない。ただ強い目的意識と努力により、アラブロビーなど他のロビ

ーと比較してその政治的圧力を効果的なものとしている。

代表的なイスラエル・ロビーとしては AIPAC があげられる。AIPAC は 1953 年にカナダ

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生まれのジャーナリスト、シー・ケネン(I. L. "Si" Kenen)が、様々なユダヤ人グループより

資金を得て設立した「公共問題に関するアメリカ・シオニスト委員会(The American Zionist

Committee for Public Affairs)」をその前身とする組織で、イスラエル・ロビーの中で中心

的な役割を果たしている。10

AIPAC は政治目標実現のために候補者に資金提供する団体であ

る政治活動委員会(PAC)ではないため、候補者を公式に支持したり資金を直接提供したりす

ることはできない。よってその活動は、支援したい候補者と PAC の間の会合を調整したり、

立候補者の情報を PAC や有権者に与えたりすることに限られる。しかしながらその影響力

は非常に強力であり、米フォーチュン誌が 1997 年に米連邦議会議員およびスタッフに対し

て行った「ワシントンにおけるもっとも影響力のあるロビー団体は何か」と尋ねるアンケ

ートでは第 2 位を取っている。11

1-2.中東政策決定への関与

イスラエル・ロビーがアメリカの政策決定に関与するプロセスは、大きく分けて以下の

3つがある。

1.大統領本人もしくは政権としての中東政策形成段階

2.議会での政策決定段階への介入(議会の議決、議員の署名を主導するなど)

3.メディアを通して世論を形成する

本稿では特に1、2の役割に注目し、イスラエル・ロビーの影響力行使の成功例、失敗

例とされる事例を挙げ、その背景を比較しながら、イスラエル・ロビーの実態と限界につ

いて述べたい。

2.カーター政権以前

50 年代のうちはまだイスラエル・ロビーはあまり組織されておらず、アメリカ政府は現在

のような多額かつ無条件の経済・軍事援助をイスラエルに与えることもなかった。アイゼ

ンハワーもイスラエルに対し援助停止の圧力を行使することに躊躇することはなかった。

1953 年にイスラエルが、ヨルダン川から導水する運河の工事を中止するように求める国連

の要請を無視した際、アイゼンハワーは「米国はイスラエルに対する対外援助を一時停止

する」という圧力をかけた。イスラエルはこのプロジェクトの工事の中止に同意し、援助

は再開された。12

また、56 年にイスラエルが第二次中東戦争におけるエジプト内の占領地を

領有しようとした際にも、米国は支援を停止するという脅しを効果的に用い、イスラエル

は撤退に同意した。しかしこの時イスラエルがアメリカ国内の政治集会で支援を呼びかけ

たことにより、アイゼンハワーはこれに対して行動釈明演説を余儀なくされ、議会の支持

を減らすこととなる。

以上よりアイゼンハワーはイスラエルに対し援助停止の圧力を積極的に用いており、そ

れに対する議会の反対もなかったこと、しかし米国内には既に親イスラエル的な政策を求

める圧力が存在していたことがわかる。またこの時代の AIPAC にはその圧力を組織する機

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能はまだなく、イスラエルが直接干渉することでアメリカ政権に影響力を与えていたこと

も推察される。

60 年代後半から 70 年代にかけては、64 年の Civil Rights Act や 65 年、68 年、70 年の

Voting Rights Act により、エスニシティーグループや女性など、マイノリティーとされて

いたグループの政治参加が活発化した時期であった。14

このような流れの中ユダヤ系グルー

プはひときわ強力なまとまりを示し、その影響力を拡大していく。ナチスによる迫害の歴

史の共有からユダヤ系米国人内で政治参加への要請が強かったこと、イスラエルの安全保

障という共通の政治的利益追求の下、エスニシティー内の同質性が高かったこと等が原因

として考えられる。また、60 年代にユダヤ系米国人の富裕化、67 年に起こった中東戦争で

の大勝利による世界的なシオニズムの高揚による煽りを受け、イスラエル・ロビーは AIPAC

のもと次第に支持を増やし組織化されてゆく。

この時期の米国政府はイスラエルと対立した際に、援助を停止するという圧力を避け、

逆に新たな援助を約束することによってイスラエルに米国の意図に沿った行動をとらせて

いるのが特徴的である。

ニクソンは 69 年に 67 年占領地からの撤退(国連総会決議 242 号)とアラブ諸国との和

平を結びつけた Roger’s Plan を推進しようとしたのだが、このプランには東エルサレムか

らの撤退等イスラエルには受け入れがたい部分があった。彼は制裁を科すのではなく、航

空機や兵器の提供、安全保障に関する約束で便宜を図ることでイスラエルにこの提案を受

け入れさせた。15

しかし結局 AIPAC 主導の反対キャンペーンにより、下院議員約 300 人、上

院議員約 70 人分の署名が集められ、Roger’s Plan は廃案に追い込まれた。16

フォードも 75 年にイスラエがエジプトとの撤退交渉に難航した際に、援助停止の圧力を

行使しようとしたが、ニクソンと同様 AIPAC が用意した 76 人の上院議員の署名入りの書

簡を受け取り断念した。この書簡はイスラエルの経済・軍事援助に責任を持ち続けること

を要求するものであり、フォード政権は援助削減を封じられてしまった。17

この間米国の対

イスラエル援助は 75 年の 19 億ドルから、76 年には第 2 次兵力分離協定の完了を受けて 62

億 9 千万ドルに増えるなど、ますます多くの援助を約束し続けた。

このように 70年代に入ると中東政策に関し、行政府と議会の乖離が見られるようになる。

時にイスラエル政府の望まない政策をとろうとする米国大統領に対し、AIPAC は議会の過

半数を味方につけることで政策決定に大きな役割を果たしている。これにはベトナム戦争

の拘泥化により国会に大統領に追随しない外交政策決定機関としての役割が求められるよ

うになったこと、党首頼みの選挙から、有権者や PAC へのアピールを必要とする草の根的

な選挙戦へ移行したことが関わっていると思われる。

3.カーター政権

77 年から 81 年にかけてのカーター政権では、前政権にかけて半ば封じられてきた援助停

止の圧力を躊躇することなく用いている。また、米国大統領として初めてパレスチナ国家

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建設を正式に支持し、イスラエルと対立関係にあるアラブ諸国への武器売却を提案するな

どイスラエル・ロビーと対立する場面が多かった。それはなぜなのか、またそのようなカ

ーター政権の下で議会はどのように動いたのか。以下、カーターの支持基盤とその外交政

策を踏まえ、そこから導かれる具体的な中東政策を検討しながら、イスラエル・ロビーの

政権、議会への影響を見てみる。

3-1.支持基盤

カーター政権が歴代政権とは異なり、イスラエルにあまり配慮せず政策決定できた要因

として、支持基盤に関する特徴が二つあげられる。一つは、初めての南部の農家出身の候

補者として南部で圧倒的な支持を集めたこと。もう一つは、カーターの選挙戦を強力にサ

ポートした日米欧三極委員会(Trilateral Commission)という私営団体の存在である。76 年

の大統領選挙で、当初知名度の低かったカーターはこの委員会の莫大な資金力と選挙戦略

により僅差で当選する。“清貧な新人・人権外交”といった選挙キャンペーンが、ベトナム

戦争に対する批判が強まりウォーターゲート事件で既存の政府機関への不信が高まってい

た当時の米国社会で成功したのだ。自身も三極委員会のメンバーであったカーターは政権

獲得後、26 人の同メンバーを政権の要職につけた。この委員会は独特の世界観を持ってお

り、それがしばしばイスラエルとの衝突となって現れるようになる。

三極委員会とは 1973 年にロックフェラーの主導により日本・北米・欧州の各界を代表す

る民間指導者が集まり、「日米欧委員会」として発足した民間非営利の政策協議グループで

ある。その活動は「日本、アメリカ、欧州の 3 国が平和推進、世界経済の調整、貧困撲滅

で密接な協力をすることにより平和な国際発展を目指す」ことを指針としている。18

三極委員会の方針には様々な批判がなされているが、基本的には世界規模の経済発展に

より貧困をなくし世界平和を実現するという趣旨のもので、カーターが“人権外交”を標

榜していることからもわかるように戦争には反対という立場をとっていた。このイデオロ

ギーは、それまでの冷戦構造における戦争状態と軍需産業による経済発展を享受してきた

軍産複合体への反動から生まれたもので、資本家の立場から国際的な経済取引が円滑に行

われることの利益を強調し、それを阻害するものとして戦争を否定する。

生い立ちからアラブ諸国に囲まれることで戦争の種を抱え、膨張主義により積極的に戦

争をすることもあるイスラエルは、軍産複合体の影響力が強かったと言われるニクソン以

前の政権とは利害を一致させる場面が多く、また中東における反共勢力の要としてアメリ

カと利害を共有することも多かった。しかし、同じ冷戦期間中でありながら経済発展のた

めの平和推進を目指したカーター政権は、周囲のアラブ諸国との戦争状態で物流を阻害し、

経済を不安定にするイスラエルと対立する危険性を、イデオロギー的に内包していた。こ

れを前提として、次の章ではカーター政権の具体的な中東政策について見てみる。

3-2.政権の中東政策

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カーターの中東政策は、大統領就任初期の公式声明ではっきりと述べられている。この

中でカーターは占領地におけるイスラエルの入植をはっきりと非難し、米国大統領として

初めてパレスチナ国家建設を正式に支持した。この姿勢は、彼が主導したキャンプ・デー

ヴィッド合意と、その履行をイスラエルに強く求めていく過程で一貫して見られる。キャ

ンプ・デーヴィッド合意でカーターは、それまでガザ・西岸を含む祖国の不可分性を主張

し膨張主義を信念としていたベギンから領土的妥協を引き出し、パレスチナ人の合法的な

権利を認めさせた訳だが、これは 93年のオスロ合意や 98年のワイリバー合意と比較して、

アメリカの指導力が強く発揮されたものであった。これに関しラビン首相は、「オスロ合意

ではキャンプ・デーヴィッド合意のようにアメリカの約束を取り付けることはなく、キャ

ンプ・デーヴィッドで受け入れたような厳密な制約を避けるようにした」と語っている。19

たカーターは、予定された 78 年の合意締結の遅れをイスラエル側の責任であるとする声明

や、80 年の自治合意の失敗もイスラエルが原因であるとする声明を発し、80 年にはエルサ

レムを含め 67 年以降の入植地の取り壊しを求める安保理決議を採択する。これらは、2000

年のキャンプ・デーヴィッド会談で合意にこぎつけないことをアラファトのせいにしたク

リントン政権や、イスラエルに関する安保理決議で拒否権を乱発する他の米国政府とは、

一線を画すものであった。

また、カーターはイスラエルの米国製武器使用を間接的に制限してしまう武器輸出規制

法の立法を行う。77 年イスラエルは南レバノンに介入するため米国製の兵士輸送機を使用

するが、それはこの法律に違反していた。当初イスラエルはこの事実を否定したが、諜報

部門からの詳しい情報により、イスラエルの嘘が露呈すると、カーターは追加の軍事輸送

を停止すると脅しイスラエルに輸送機を引き揚げさせた。翌年 78 年に起きたレバノン侵攻

では、米国製クラスター爆弾が民間人に対して使われた。その際もそれは武器輸出規制法

に反するとしてイスラエルに対し軍事援助を全て停止するという圧力をかけ、さらに国務

省にイスラエルを非難する安保理決議を準備するように指示した。

このようにカーター政権はほぼ一貫してイスラエルに対し強気な政策をとっていたが、

イスラエル・ロビーとの争点で最も大きかったのはアラブ諸国への武器売却である。以下

議会の対応を中心にイラン、サウジアラビアへの武器売却について検証する。

3-3.議会の対応

アラブへの武器売却は中東地域での冷戦構造を巡る動きの中で提案された。まずカータ

ーはイランへの早期警戒管制機(AWACS)売却を提案するが、下院で国際関係委員会によ

り反対を受け延期、その後パーレビ政府転覆により断念する。しかし 78 年にはイスラエル・

ロビーの強い反対にもかかわらず、サウジアラビアへのF-15戦闘機売却を成功させている。

その要因としてはイラン革命により親米パーレビ政権が崩壊し、反米的なホメイニ政権が

成立したことで、米国における親欧米的なアラブ国家の安全保障と政権安定化に対する関

心が高まったこと、73 年、78 年と二度の石油危機を経験し産油国であるサウジアラビアに

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便宜をはかることを国民も支持していたことなどがある。これに対し AIPAC は大々的に反

対する政治活動を行ったが、結局上院で賛成 54 反対 44 で可決され、イスラエルに対して

は使われないように監視するという留保を勝ち取ったのみであった。

以上見てきたようにカーター政権は支持者や資金源といった支持基盤を独自に持ってお

り、カーター本人の言葉からも明らかなように選挙でなんらイスラエル・ロビーに負うと

ころがなく、また頼る必要もなかった。そのことからイスラエル・ロビーは選挙への協力

を盾にした政治的圧力を行使できなかったものと推測される。よってカーター政権はイス

ラエルへの援助削減の圧力や、イスラエル側の非を責める声明、国連決議などに自由な裁

量を確保できた。

そしてカーター政権にかなり明確な中東政策が存在していたこと、それに対する国民の

支持があったことなどから、議会に対するイスラエル・ロビーの影響力も限定的であった

と思われる。そのことが AIPAC に数尐ない敗北をもたらした。

レーガン政権も引き続きアラブ諸国への武器売却を 3 回提案するが、それに対する議会

の対応は分かれる。次の章ではこれらの取引が議会通過に成功した要因、失敗した要因を

個別に検討しながら、議会に見られるイスラエル・ロビーの影響の傾向について述べたい。

4.レーガン政権

70 年代末のアメリカは、イラン革命の勃発、ニカラグアでの社会主義政権樹立、ソ連の

アフガニスタン侵攻などが立て続けに起こり、対ソ協調路線を決定的に弱体化させ、「強い

アメリカ」復活の気運を作り出すことになった。そんな中行われた 80 年の大統領選挙で現

職カーターは大敗し、反共・対ソ強硬路線、軍事費の拡大と軍事力強化を外交の柱とする

レーガン政権が成立することとなる。

イスラエルとの関係では前カーター政権のようにイデオロギー的対立が見られることは

なかったが、アラブに対する武器売却に関してはイスラエル側と激しく対立する。81 年の

サウジアラビアに対する AWACS 売却は議会を通過するが、85 年のヨルダン、86 年にはサ

ウジアラビアへの武器売却が議会の強い反対にあい、レーガン政権はこれらの商談の断念

に追い込まれている。このような違いが起こった理由は何なのか、以下でその過程を詳し

く見てみる。

4-1.サウジアラビアへの AWACS 売却

サウジアラビアへの AWACS 売却はカーター政権の時と同様に、サウジアラビアの政治

情勢を安定化させ、石油を保護するため、また武器はイスラエルに対しては使わない、中

東和平を実現するために協力を惜しまないというサウジ側からの約束のもと提案された。

この商談は石油ロビー、アラブ・ロビーの後押しを強く受けたが、最も決議通過に貢献し

たのは商談の主な締結主である Boeing と United Technologies 等の軍需ロビーであった。

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しかしイスラエル側はこの法案に強く反対していた。法案が提出された週にアメリカを訪

れたイスラエルのベギン首相は、レーガンと中東政策に関し戦略的合意にたどりついたと

したが、AWACS 売却に対しては強固な反対の立場を貫いた。

決議はまず下院により賛成 111 反対 301 で否決されるが、上院はこの決定に対し賛成 48

反対 52 で下院の判断を覆し、サウジアラビアへの AWACS 売却を成立させた。なぜ下院で

は大差で廃案となった決議を上院で通過させることができたのか。

上院でも当初 AWACS 売却反対派は賛成派と拮抗、もしくは上回っていた。この法案が

提出された年の 10 月 23 日の時点では New York Times は上院の 50 人が反対、40 人が賛

成、10 人は不明と報道している。しかし、その後 10 月 27 日に反対派の中心であった Roger

Jepsen 上院議員など 8 人が賛成に態度を翻し、結局 52 対 48 で法案は通過した。

サウジアラビアへの AWACS 売却の成功は、軍需ロビーなどの尽力のほかに、レーガン

がこの決議通過に政権の威信をかけて臨み強力な指導力を発揮したことが大きな要因とな

っている。レーガンはこの商談成立の可否は、自身への信任決議であるとし、上院議員の

説得に奔走した。

また、法案が提出された 81 年は 80 年に総選挙が行われた直後であり、特に上院は次の

選挙を意識する必要があまりなかった。上院に比べ次の選挙が近い下院の方が、イスラエ

ル・ロビーと対立することによる選挙での悪影響を回避したいという思いが強かったもの

と思われる。

このようにレーガンは 81 年の AWACS 売却でイスラエル側と対立した際には、議会での

イスラエル・ロビーの影響力を抑え自らの主張を通すことができた。それではなぜ 85 年の

ヨルダンへの武器売却、86 年のサウジアラビアへの武器売却は議会を通過させることがで

きなかったのか。以下でこの間に起こった中東情勢をめぐる世論の変化と、イスラエル・

ロビーの強大化、ネガティブ・キャンペーンによる影響について述べる。

4-2.ヨルダン、サウジアラビアへの武器売却

レーガン政権は 85年にイスラエルとの平和交渉を始めることを条件としたヨルダンへの

武器売却についての決議を議会に提出した。しかしこの時もイスラエル・ロビーからの強

い反対にあい、上院で賛成 1 反対 97 という大差で否決されてしまい、結局 86 年にレーガ

ンはこの取引を半永久的に凍結した。

同様のことが 86 年に計画されたサウジアラビアへの武器売却に対する決議でも起こる。

この時はイスラエル政府やAIPACが特に反対キャンペーンもせず中立の立場を守ったにも

かかわらず両院で否決され、しかもそれは大統領の拒否権を発動しても覆せない票差であ

った。81 年のサウジアラビアへの AWACS 売却ではイスラエル政府、イスラエル・ロビー

からの強い反対キャンペーンを抑え議会に対し強力な指導力を発揮したレーガン政権が、

85 年、86 年と立て続けに大差で敗北したのはなぜだろうか。その理由として 3 つほど考え

られる。

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第一にこの間に起こったアラブ諸国への世論の変化があげられる。アメリカの世論はイ

スラエルが建国されてから一貫してイスラエルに対し好意的であった。しかし 79 年のキャ

ンプ・デーヴィッド合意締結後に行われた世論調査では、エジプトに対し好意的であると

答えた人の割合は、イスラエルに対し好意的だと答えた人の割合を上回り、またエジプト

以外のアラブ諸国に対し好意を感じる人の割合イスラエルと並ぶほどになっている。20

この

変化は、キャンプ・デーヴィッド等でのエジプト、イスラエルの和平締結の様子がテレビ

中継されそれまで非民主的で閉ざされたイメージの強かったアラブ諸国に対するアメリカ

国民の不信感が和らいだこと、危険をおしてまで和平推進のためエルサレムを訪れたサダ

トを英雄視する風潮が高まったこと等により起きたと思われる。反対にアラブ諸国との和

平推進に対する不誠実な態度が明らかになったイスラエルは支持を減らしている。このよ

うな風潮の中 81 年の AWACS 売却は、サウジアラビアに対する中東安定化に尽力してほし

いという期待が石油確保などの動機と結びつき、世論の後押しを得やすかったものと思わ

れる。しかし、その後中東で暴力的な事件が多発し、83 年レバノン戦争でシリアの介入を

防げなかったことなど、サウジアラビアが期待していたほど中東の安定化やテロとの戦い

に貢献できていないことが明らかとなり、議会内や世論でのアラブのイメージは再び悪化

した。このため 85,86 年の武器売却は 81 年のように世論の支持を集めることはできなか

ったのだ。

第二に 80 年代に起こった AIPAC の著しい成長があげられる。78 年、81 年と議会での

ロビーイングに失敗した AIPAC は、その後 83 年から委員長になった Thomas A. Dine の

強力なリーダーシップの下、資金を増やし PAC の働きを活性化させ影響力を強化していく。

実際 Dine の時代に AIPAC のメンバーは 11,000 人から 50,000 人に増加し、年間予算は

750,000 ドルから 3,000,000 ドルに増えている。21

この強化されたネットワークを駆使して、

80 年代のイスラエル・ロビーはそれまでには見られなかった大規模かつ効果的な戦略をと

るようになる。それが第三の理由であるネガティブ・キャンペーンやブラックリストめい

た冊子の発行である。

1980 年代カーター政権中に民主党上院議員であった Adlai Stevenson は、イスラエル・

ロビーと衝突を起こし、2 年後の州知事選挙でネガティブ・キャンペーンを受けたとされる。

Stevenson はイスラエルがキャンプ・デーヴィッド合意締結後も占領地への入植行動をやめ

ないことから、それに抗議するためイスラエルへの援助を減額するという修正案を上院に

締結したのだ。他にもリバティー号事件に対して詳細な調査を求める、サウジアラビアへ

の戦闘機売却を支持するなど AIPAC との対立を深めた結果、2 年後の州知事選挙で選挙資

金が全く集まらず、メディアによる「反ユダヤ主義的」とのバッシングを受け、その選挙

で落選した。また、82 年の Paul Findley、Paul "Pete"McCloskey.Jr.などの下院選挙、84

年の Charles Percy、Jesse Helms などの上院選挙でもイスラエル・ロビーはネガティブ・

キャンペーンを展開している。もっとも選挙結果にイスラエル・ロビーの影響がどの程度

関わっているかを断定することは難しい。Findley は選挙区を再区画されたため民主党の有

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権者を多く抱えるようになり経済的にも困窮していたし、Percy はユダヤ人以外にも労働組

合や黒人などからの支持も減らしていた。両者とも僅差で落選している。Helms はなんと

か選挙に勝つことはできたが、その後中東政策に関して 180 度の転換を見せ親イスラエル

的になった。

ネガティブ・キャンペーンと並行してこの時期イスラエル・ロビーが行ったのがブラッ

クリストの発行である。83 年に AIPAC が発行した”The Campaign to Discredit Israel”に

は 21 の機関と 39 人の個人がイスラエルの利益に反目しているとして名指しで掲載されて

いる。同様に the Anti-Defamation League of B’nai B’rith が発行した ”Pro-Arab

Propaganda in America: Vehicles and Voices”と題された本では31機関と34人が反イスラ

エルであると非難されている。22

ネガティブ・キャンペーンやブラックリストの発行が実際に選挙にどの程度影響を与え

たか断定することは難しいが、これらの戦略が 80 年代前半に始まり集中して行われ、その

直後からイスラエル・ロビーの影響力の評判が高まったことは注目に値する。たとえば 84

年にAIPAC委員長Thomas A.DineはWashingtonian magazineで「最も影響力のある人」

の一人に選ばれ、87 年には The New York Times で AIPAC はアメリカの中東政策を形成

する主要なファクターであるという論評が掲載されている。つまり 80 年代はイスラエル・

ロビーは狙った標的を落選させる力があることを見せつけ、メディアで「反ユダヤ主義者」

のレッテルを貼るなど巧みな世論操作で対立する政治家の恐怖を煽り、その存在感を誇示

し、実力以上のある種神話的な影響力を確立していったものと思われる。

レーガン政権にはカーター政権と違い明確な中東政策というものは特になかった。その

ため議会でのイスラエル・ロビーの活躍の余地が広くあったと思われ、このことはレーガ

ン政権時代のイスラエルに対する一貫性のない政策になって表れている。例えば上で述べ

てきたようなアラブ諸国への武器売却、レーガン和平プラン、イスラエルへの武器援助一

時凍結でイスラエルと対立したかと思えば、中間選挙を目前に控えた 83 年イスラエルのシ

ャミル首相と会見した直後には、イスラエルへの借款型援助を無償援助に切り替え、軍事

協力と関税撤廃などでより緊密な「戦略的同盟」を築くなどイスラエルとの関係強化を促

す動きも見せている。23

選挙時期に配慮したと思われる事例は他にもある。アラブ諸国への

武器売却をレーガンが議会に提出したのは就任直後の 81年と中間選挙が終わった後である。

また 81 年の AWACS 売却では下院議員が約 3 対 1 の比率で反対の票を投じたのに対し、下

院よりも選挙の遠い上院では拮抗した戦いとなった。このように大統領も議会も選挙前は

イスラエル・ロビーと対立することを避ける傾向がある。

80年の大統領選挙でレーガンはユダヤ票の40%を集めた。24

これは共和党の大統領候補と

しては歴代一位の数字であり、中間選挙前のイスラエルへの配慮などからもレーガンがユ

ダヤ票を意識していたことは確かだろう。しかしイスラエルとの対立も辞さずアラブ諸国

への武器売却を強行したのは、国際情勢以外にもレーガン政権の軍産複合体的性格が関係

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している。イスラエルとの武器取引を続けつつアラブ諸国にも武器を売却するという政策

は、81 年にはレーガンの強力なリーダーシップによりなんとか議会の支持を得ることがで

きた。しかしその後AIPACが組織化・強化され選挙妨害やメディア戦略で成果を上げると、

レーガンがアラブ諸国への武器売却に関し議会での支持を得ることは二度となかった。

5.結論

最後にこれまで見てきたカーター、レーガン各政権とイスラエル・ロビーの対立から、

イスラエル・ロビーの影響力行使の傾向とその推移について述べる。

前提としてユダヤ人は人口の割に米国内で政治的重要度が高い。他のエスニシティーグ

ループと比較して富裕層が多く、選挙戦略的に重要な州に集中して居住しているためであ

る。またイスラエルの安全保障という共通の政治利益を持っているためまとまりやすく、

政治参加度も高いことから政治に影響を与えるポテンシャルが高い。

まずイスラエル・ロビーの議会に対する影響力を見てみる。概して反イスラエル的な政

策を出すのは大統領であり、議会側が反イスラエル的な立法・予算が出すようなことはな

く、大統領が反イスラエル的政策をとろうとした際には議会はそれを抑制する役割を果た

してきた。なぜならイスラエル・ロビーが議員に対し選挙を意識させ圧力をかける戦略を

とってきたからだ。圧力の手段としては豊富な資金力を背景とした選挙協力や、メディア

を味方につけてのネガティブ・キャンペーンなどがあり、飴と鞭とをうまく使い分けてい

る。また米国内にイスラエル・ロビーの対抗勢力と言えるような組織がないことも、議員

がイスラエル・ロビーの圧力に容易に屈し、安易な親イスラエル政策をとる要因となって

いる。アラブ系人口はユダヤ系とほぼ等しいが政治参加の度合いははるかに低く、アラブ

国家間で対立を抱えているため、米国内でも政治的に一枚岩になることが難しいのだ。

議決結果が選挙時期に左右されることも特徴的である。前述したように下院と上院を比

較すると、より選挙を近くに控えている上院の方がはるかに親イスラエル的であり、同じ

議会でも選挙が近いときのほうが親イスラエル的である。一般の国民や議員にとってイス

ラエルに関する政策、特に入植などの人道的問題は実質的な利害関係を持たないことが多

いため、容易に親イスラエルへと扇動する政治的圧力やメディアの論調に流されてしまう

のだ。

次に大統領への影響力を考える。議員に対する圧力と同様に、イスラエル・ロビーの豊

富な資金力やユダヤ票の重要性は、大統領に対しても一期目の選挙や再選挙を意識させる

圧力となる。カーターは独自の支持基盤を持っていたためユダヤ票や資金に頼る必要がな

く、確固とした中東政策を持っていたためイスラエル・ロビーの圧力を受けることは尐な

かった。レーガン政権はネオコンを多数登用するなどイスラエル・ロビーとイデオロギー

的な繋がりがあり、イスラエルに不利な安保理決議に拒否権を多発するなど親イスラエル

的な政策をとることが多かった。しかしアラブへの武器売却という軍需産業に大きな利益

をもたらす取引に関してはイスラエルに譲歩することはなかった。

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カーターやレーガンを含めて米国のイスラエル政策に一貫していることは、増加し続け

る経済・武器援助である。米国議会はより巨額の援助予算を組み続け、援助停止の圧力を

何度か行使したカーターも実際に援助を停止したり削減したりすることはなかった。それ

に対し異議を唱える議員には「反ユダヤ主義者」とのメディアによる批判とネガティブ・

キャンペーンが展開された。