ベートーヴェンについて 2003ベートーヴェンについて...

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団員学習資料用 ベートーヴェンについて 2003 高崎第九合唱団 編・著 事務局

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団員学習資料用

ベートーヴェンについて

2003

高崎第九合唱団

編・著 事務局

ベートーヴェンについて 目次

第1章 ベートーヴェンの作品とできごと

第1節 代表的な作品 2

第2節 作品一覧表 3

第3節 できごと 11

第2章 ベートーヴェンの生涯

第1節 誕生 14

第2節 シラー『歓喜に寄す』への出会い 16

第3節 ウィーンへ 17

第4節 成功から苦難へ 18

第5節 苦難をこえて 20

第6節 ナポレオン 21

第7節 傑作の森 22

第8節 運命 22

第9節 不滅の恋人 23

第10節 スランプ 24

第11節 甥カール問題 25

第12節 幻に終わったロンドン楽旅 26

第13節 ピアノ・ソナタに終止符 27

第14節 交響曲第9番ニ短調 29

第15節 甥カールの自殺 30

第16節 雷鳴で送られた最期 31

第3章 作品における現代性 32

第4章 ベートーヴェンをめぐる女性、『不滅の恋人』 33

第5章 ベートーヴェンと第九に親しむ

第1節 ベートーヴェン 第九CDランキング 37

第2節 ベートーヴェン肖像画いろいろ 38

第3節 第九の正式名称 39

第4節 オーケストラ・声楽の規模と配置 40

1

『ベートーヴェンについて』は、高崎第九合

団第23期の学習資料として、1996年6

から12月までの練習日に配布したものに、

務局で毎年加筆・再編集しているものです。

ベートーヴェンについて

私たちが毎週歌っているこの『第九』は、楽聖

ベートーヴェンが耳の障害を乗り越えて、全世界

の人々に捧げた大交響曲です。楽譜の最後の方

に、この交響曲についての説明が書かれています

が、彼の生涯については謎が多く、本当のことは

よくわかっていません。彼は、ケチな財テク家だっ

たという説もあれば、ご う ま ん

傲慢で自分勝手な鼻持ちな

らない人間だったという説もあるほどです。それだ

け彼は多面性を持ったシャイな人物だったのかも

しれません。

まあそれは皆さんのご想像にお任せするとして、

初心者の方のために、ここにちょっとだけ紹介しま

すので、しっかり読んで下さい。「あたし知っている

わ」という方も、もう一度お勉強しましょう。

第1章 ベートーヴェンの作品とできごと

第1節 代表的な作品

・第3交響曲『英雄』1804年に完成、翌年ウィーンで初演されました。ナポレオンが皇位についたと聞いて、

『ボナパルトへ』と書かれた楽譜の表紙を激しく書き直した話は有名です。

・第5交響曲『運命』1808年に完成、ウィーンで初演されました。第1楽章始まりの演奏のダダダ・ダンにつ

いて、「運命はこのように扉を叩く。」と説明したといいます。曲は『田園』と同じく、ロプコ

ヴィッツ侯とラズモフスキー伯に献呈されました。

・第6交響曲『田園』1806年から1808年にかけて作曲されました。中期交響曲の傑作です。すでに耳が

聞こえない時の作曲ですが、田園の情景やその中で安らぐ人々の感情をよく表現し、『運

命』や『合唱』とともに、最も親しまれています。

・第9交響曲『合唱』1824年に完成、国王ヴィルヘルム3世に献呈されました。9つの交響曲中、最大の規

模で、終楽章に独唱と合唱がつきます。初演は大成功で、5度の拍手を止めさせるため、

警官が入ったとのこと。第九に続く『第10交響曲』の構想もねっていましたが実現せず、

『幻の第10』ともいわれます。

・ピアノ・ソナタ『月光』1801年作曲、幻想的な美しい曲で、恋人ジュリエッタ・グイッチャルディに捧げられた。

『ムーンライト・ソナタ』とも呼ばれ、ベートーヴェンが目の見えない少女のために月光の

中で作ったとか、別れの曲として作ったとか、様々な伝説を生んでいる。

・『エリーゼのために』1810年作曲、軽く快い調べのピアノ曲(バガテル)です。エリーゼというかわいらしい

少女のために書いたと言われています。ベートーヴェンの悪筆によって、テレーゼ(・マル

ファッティ)をエリーゼと読み誤らせたものだとも言われています。

・その他に、『トルコ行進曲付き6つの変奏曲』、『ト長調のメヌエット』、ピアノ・ソナタ『熱情』、『悲

愴』、ピアノ協奏曲第5番『皇帝』なども傑作として親しまれています。

2

第2節 作品一覧表

この作品名は、日頃日本で扱われているものであり、ベートーヴェンが名付けた作品名ではありません。

なお、太字のものはその演奏を収録したものがCDなどとして市販されています。

作品番号

Op. 作 品 名 作曲年代

1-1 ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調 1794-1795

1-2 ピアノ三重奏曲第2番 ト長調 1794-1795

1-3 ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調 1794-1795

2-1 ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 1793-95

2-2 ピアノ・ソナタ第2番 イ長調 1794-1795

2-3 ピアノ・ソナタ第3番 ハ長調 1794-1795

3 弦楽三重奏曲第1番 変ホ長調 1792-1795

4 弦楽五重奏曲 変ホ長調(管楽八重奏曲 op.103の改作) 1795

5-1 チェロ・ソナタ第1番 ヘ長調 1796

5-2 チェロ・ソナタ第2番 ト短調 1796

6 ピアノ・ソナタ ニ長調(4手) 1797

7 ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 1796-1797

8 弦楽三重奏のためのセレナード ニ長調【ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ】 1796-1797

9-1 弦楽三重奏曲第2番 ト長調 1797-1798

9-2 弦楽三重奏曲第3番 ニ長調 1797-1798

9-3 弦楽三重奏曲第4番 ハ短調 1797-1798

10-1 ピアノ・ソナタ第5番 ハ短調 1795-1798

10-2 ピアノ・ソナタ第6番 へ長調 1796-1797

10-3 ピアノ・ソナタ第7番 ニ長調 1797-1798

11 ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調『街の歌』 1797

12-1 ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ長調 1797-1798

12-2 ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 1797-1798

12-3 ヴァイオリン・ソナタ第3番 変ホ長調 1797-1798

13 ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調『悲愴』 1797-1798

14-1 ピアノ・ソナタ第9番 ホ長調 1798

14-2 ピアノ・ソナタ第 10番 ト長調 1799?

15 ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調(1800改訂) 1795

16 ピアノと管楽のための五重奏曲 変ホ長調

【ピアノ、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン】 1796

16 ピアノと管楽四重奏のための五重奏曲 変ホ長調 1796

17 ホルン(またはチェロ)とピアノのためのソナタ ヘ長調 1800

18-1 弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 1798-1800

18-2 弦楽四重奏曲第2番 ト長調 1798-1800

18-3 弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 1798-1800

18-4 弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 1798-1800

18-5 弦楽四重奏曲第5番 イ長調 1798-1800

18-6 弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 1798-1800

19 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調(1794-1795改訂) 1793

20 七重奏曲 変ホ長調

【ヴァイオリン、ヴィオラ、ホルン、クラリネット、ファゴット、チェロ、コントラバス】 1799-1800

3

作品番号

Op. 作 品 名 作曲年代

21 交響曲 第1番 ハ長調 1799-1800

22 ピアノ・ソナタ第 11番 変ロ長調 1800

23 ヴァイオリン・ソナタ第4番 イ短調 1800

24 ヴァイオリン・ソナタ第5番 へ長調『春のソナタ』 1800-1801

25 フルート、ヴァイオリン、ヴィオラのためのセレナード ニ長調 1793-1795

26 ピアノ・ソナタ第 12番 変イ長調『葬送』 1800-1801

27-1 ピアノ・ソナタ第 13番 変ホ長調『幻想曲風ソナタ』 1800-1801

27-2 ピアノ・ソナタ第 14番 嬰ハ短調『月光』 1801

28 ピアノ・ソナタ第 15番 ニ長調『田園』 1801

29 弦楽五重奏曲 ハ長調【2つのヴァイオリン、2つのヴィオラ、チェロ】 1800-1801

30-1 ヴァイオリン・ソナタ第6番 イ長調 1801-1802

30-2 ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 1801-1802

30-3 ヴァイオリン・ソナタ第8番 ト長調 1801-1802

31-1 ピアノ・ソナタ第 16番 ト長調 1802

31-2 ピアノ・ソナタ第 17番 ニ短調『テンペスト』 1802

31-3 ピアノ・ソナタ第 18番 変ホ長調 1802

32 ドイツの恋歌『希望に寄す』(第1稿) 1805

33 7つのバガテル(ピアノ) [3.ヘ長調][5.ハ長調] 1802

34 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調(ピアノ) 1802

35 『エロイカ』の主題(プロメテウスの創造物)による 15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 1802

36 交響曲 第2番 ニ長調 1801-1802

37 ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 1800

38 ピアノ三重奏曲 変ホ長調(七重奏曲 op.20の編曲) 1802-1803

39 オルガンのための2つの前奏曲 1803

40 ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番 ト長調 1801-1802

41 ピアノとフルートのためのセレナーデ 1803

42 ノットゥルノ ニ長調【ヴァイオリン、ピアノ】

(原曲:弦楽三重奏のためのセレナード Op.8) 1804

43 バレエ『プロメテウスの創造物』[序曲][5.アダージョ][14.カセンティーニ嬢の独

舞][16.フィナーレ] 1800-1801

43 バレエ音楽《プロメテウスの創造物》(序曲) 1801

44 創作主題による 14の変奏曲 変ホ長調(ピアノ三重奏曲) 1792

45-1 行進曲 ハ長調(4手ピアノ) 1803

45-2 行進曲 変ホ長調(4手ピアノ) 1803

45-3 行進曲 ニ長調(4手ピアノ) 1803

46 『さまざまな詩人による歌曲』アデライーデ【作詞:マッティソン】 1794-1795

47 ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調『クロイツェル』 1802-1803

48 ゲレルトの詩による6つの歌曲 [1.願い][2.隣人の愛][3.死について][4.自然

による神の栄光][5.神の力と摂理][6.懺悔の歌] 1801-1802

49-1 ピアノ・ソナタ第 19番 ト短調【ソナチネ】 1797?

49-2 ピアノ・ソナタ第 20番 ト長調【ソナチネ】 1795-1796

50 ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番 ヘ長調 1798

51-1 ロンド ハ長調(ピアノ) 1796-1797

51-2 ロンド ト長調(ピアノ) 1798

4

作品番号

Op. 作 品 名 作曲年代

52 恋の歌(ゲーテの詞による8つの歌曲) [ウリアン氏の世界旅行][燃え上がる色]

[憩いの歌][五月の歌][モリーの別れ][愛][モルモット][いと麗しい花] 1790-1796

53 ピアノ・ソナタ第 21番 ハ長調『ワルトシュタイン』 1803-1804

54 ピアノ・ソナタ第 22番 へ長調 1804

55 交響曲第3番 変ホ長調『英雄』 1803-1804

56 ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲 ハ長調 1803-1804

57 ピアノ・ソナタ第 23番 へ短調『熱情』 1804-1805

58 ピアノ協奏曲第4番 ト長調 1805-1806

59-1 弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調『ラズモフスキー第1番』 1805-1806

59-2 弦楽四重奏曲第8番 ホ短調『ラズモフスキー第2番』 1805-1806

59-3 弦楽四重奏曲第9番 ヘ長調『ラズモフスキー第3番』 1805-1806

60 交響曲 第4番 変ロ長調 1806

61 ピアノ協奏曲 ニ長調(ヴァイオリン協奏曲 op.61の編曲) 1807

62 コリンノ悲劇『コリオラン』序曲 ハ短調 1807

63 ピアノ三重奏曲 変ホ長調(弦楽五重奏曲 op.5の編曲)

64 二重奏曲 変ホ長調(チェロ、ピアノ、弦楽三重奏曲 op.3の編曲)

65 シェーナとアリア『おお、裏切り者め』【作詞:メタスタージオ】 1795-1796

66 『魔笛』の主題による 12の変奏曲 ヘ長調(チェロ、ピアノ) 1796

67 交響曲 第5番 ハ短調『運命』 1805-1808

68 交響曲 第6番 ヘ長調『田園』 1807-1808

69 チェロ・ソナタ第3番 イ長調 1807-1808

70-1 ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調『幽霊』 1808

70-2 ピアノ三重奏曲第6番 変ホ長調 1808

71 管楽六重奏曲 変ホ長調

【2つのクラリネット、2つのホルン、2つのファゴット】 1796

72

歌劇『フィデリオ』第1稿(レオノーレ) 【2幕、台本:ゾンライトナー、トライチュケ】

序曲、第1幕(「悪者よ、どこへ急ぐのだ・・・来たれ希望よ」、「おお、なんという自

由のうれしさ(囚人の合唱)」)、第2幕(「神よ、なんという暗さだ・・・人の世の美し

き春にも」)

1805

72a 『レオノーレ』序曲 第2番(第1稿のための) 1805

72b 『レオノーレ』序曲 第3番(第2稿のための) 1806

72b 歌劇『フィデリオ』序曲 第3稿 1814

73 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調『皇帝』 1809

74 弦楽四重奏曲第 10番 変ホ長調『ハーブ』 1809

75 戯れ歌(6つの歌)

[ミニョン(君よ知るや南の国)][新しい愛、新しい生命][蚤の歌~ゲーテ『ファウ

スト』より][グレーテルの戒め][はるかなる恋人に寄す][満たされし者] 1809

76 『トルコ行進曲』の主題(アテネの廃墟)による6つの変奏曲 ニ長調 1809

77 幻想曲 ロ短調(またはト短調)【ピアノ】 1809

78 ピアノ・ソナタ第 24番 嬰ヘ長調 1809

79 ピアノ・ソナタ第 25番 ト長調【ソナチネ】 1809

80 合唱幻想曲 ハ短調【ピアノ、合唱、管弦楽】 1808

81a ピアノ・ソナタ第 26番 変ホ長調『告別』 1809-1810

81b 2つのホルンと弦楽四重奏のための六重奏曲 変ホ長調 1795

5

作品番号

Op. 作 品 名 作曲年代

82 4つのアリエッタと1つの二重唱曲【1-4作詞:メタスタージオ】

[1.希望][2.愛の嘆き][3.愛のいらだちⅠ(静かな問いかけ)]

[4.愛のいらだちⅡ(恋の焦燥)][5.人生の享楽(二重唱)] 1809

84 悲劇音楽『エグモント』【全 10曲、台本:ゲーテ】

[序曲][1.太鼓は響く][4.喜びと悩みにみち] 1809-1810

85 オラトリオ『かんらん(橄欖)山上のキリスト』【作詞:フーバー】(1804改訂) 1803

86 ミサ曲 ハ長調 1807

87 2つのオーボエとイングリッシュ・ホルンのための管楽三重奏曲 ハ長調 1794-1795

88 ドイツの恋歌『幸いなる友情』 1803

89 ポロネーズ ハ長調(ピアノ) 1814

90 ピアノ・ソナタ第 27番 ホ短調 1814

91 『ウェリントンの勝利』(戦争交響曲) 1813

92 交響曲第7番 イ長調 1811-1812

93 交響曲第8番 ヘ長調 1811-1812

94 ドイツの恋歌『希望に寄せて』(第2稿) 1815

95 弦楽四重奏曲第 11番 ヘ短調『セリオーソ』 1810

96 ヴァイオリン・ソナタ第 10番 ト長調(1815改訂) 1812

97 ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調『大公』 1810-1811

98 歌曲集『はるかなる恋人に寄す』

[丘の上に腰をおろし][灰色の霧の中から][天空を行く軽い帆船よ][天空

を行くあの雲も][5月はもどり、野に花咲き][愛する人よ、あなたのために] 1816

99 歌曲『男の一言』 1816

100 二重唱『メルケンシュタイン』 1815

101 ピアノ・ソナタ第 28番 イ長調 1816

102-1 チェロ・ソナタ第4番 ハ長調 1815

102-2 チェロ・ソナタ第5番 ニ長調 1815

103 管楽八重奏曲 変ホ長調

【2つのオーボエ、2つのクラリネット、2つのホルン、2つのファゴット】(1793改訂) 1792-1793

104 弦楽五重奏曲 ハ短調(ピアノ三重奏曲 op.1の 3の他人の編曲を校訂) 1817

105 フルート伴奏につきピアノのための6つの主題と変奏 1818

106 ピアノ・ソナタ第 29番 変ロ長調『ハンマークラヴィーア』 1817-1818

107 フルート伴奏つきピアノのための 10の主題と変奏 1818

25のスコットランド民謡(民謡編曲)

108

1. 音楽と恋とぶどう酒(三重唱) 2. 日没

3. 楽しかったとき 4. アイラの娘

5. ジェミーハ最高のかわいい若者だった6. 私の目はかすむ

7. 陽気な若者、山の若者

8. インヴァネスのかわいい娘

9. 見てごらん恋人よ(二重唱) 10. 同情

11. ああ、おまえはわたしの心の若者

12. ああ、おまえとわたしの運命がひとつになれば

13. どんどん注いでくれ、ともだちよ 14. なんで陽気でいられよう 15. むごい父親

16. この病める世がどうにかして

17. メリーよ、窓べに

18. 魅惑の人よ、さらば

19. 美しいボートが軽やかに滑る 20. 誠実なジョニー(二重唱) 21. ジェニーのなやみ

22. 山の警備隊(合唱つき) 23. 羊飼いの歌

24. もう一度、私のたて琴を 25. 横町のサリー

1816

6

作品番号

Op. 作 品 名 作曲年代

109 ピアノ・ソナタ第 30番 ホ長調 1820

110 ピアノ・ソナタ第 31番 変イ長調 1821-1822

111 ピアノ・ソナタ第 32番 ハ短調 1821-1822

112 カンタータ『静かな海と楽しい航海』【作詞:ゲーテ】 1814-1815

113 祝典劇音楽『アテネの廃墟』【全8曲、台本:コッツェブー】

[序曲][3.回教僧の合唱][4.トルコ行進曲] 1811

114 《アテネの廃墟》のための行進曲と合唱(1826改訂) 1811

115 序曲 《命名祝日》 1815

116 三重唱 《不信仰の人々よ、おののけ》(1814改訂) 1802

117 劇音楽『シュテファン王』【全9曲、台本:コッツェブー】 1811

118 『悲歌』【四重唱、弦楽四重奏】 1814

119 11のバガテル[2.ハ長調][7.ハ長調][9.イ短調] 1820-1822

120 ディアベッリの主題(ワルツ)による 33の変奏曲 ハ長調 1819,

1822-1823

121a カカドゥ変奏曲 ト長調(ピアノ三重奏)(1816改訂) 1803

121b ソプラノ、合唱、管弦楽のための奉献歌 1822

122 同士の歌 1822

123 ミサ・ソレムニス ニ長調 1819-1823

124 序曲『献堂式』 1822

125 交響曲 第9番 ニ短調『合唱』 1822-1824

126 6つのバガテル[1.ト長調][3.変ホ長調][4.ロ短調][6.変ホ長調] 1823

127 弦楽四重奏曲第 12番 変ホ長調 1823-1824

128 アリエッタ『くちづけ(接吻)』 1822

129 ロンド・ア・カプリッチョ ト長調『失われた小銭をめぐる興奮』 1795-1798

130 弦楽四重奏曲第 13番 変ロ長調(終楽章に初演時の大フーガ使用 1826) 1825

131 弦楽四重奏曲第 14番 嬰ハ短調 1826

132 弦楽四重奏曲第 15番 イ短調 1825

133 弦楽四重奏のための『大フーガ』 変ロ長調 1825-1826

134 大フーガ 変ロ長調(op.133の4手ピアノ用編曲) 1826

135 弦楽四重奏曲第 16番 ヘ長調 1826

136 カンタータ 《栄光の詩》 1814

137 弦楽五重奏のためのフーガ ニ長調 1817

138 『レオノーレ』序曲 第1番 1807

作品番号

WoO. 作 品 名 作曲年代

1 『騎士舞踊への音楽』 1782

3 祝賀メヌエット 変ホ長調 1822

5 ヴァイオリン協奏曲 ハ長調【未完成、第1楽章のみ】 1790-1792

6 ピアノとオーケストラのためのロンド 変ロ長調

7 管弦楽のための 12のメヌエット 1795

8 管弦楽のための 12のドイツ舞曲 1795

10 6つのメヌエット[2.ト長調] 1795

11 7つのレントラー舞曲 1798

7

作品番号

WoO. 作 品 名 作曲年代

14 管弦楽のための 12のコントルダンス 1795-1802

(17) 11のウィーン舞曲(メートリング舞曲)【真作とは認めがたい:児島新】 (1819)

24 軍楽のための行進曲 1816

25 ロンディーノ 変ホ長調 1793

26 2つのフルートのためのアレグロとメヌエット ト長調 1792

28 『ドン・ジョヴァンニ』の『たがいに手をとりあって』による 12の変奏曲

ハ長調 1797

30 4本のトロンボーンのための3つのエクアール 1812

32 ヴィオラとチェロのための二重奏曲 変ホ長調(ソナタ楽章) 1795-1798

33 音楽時計のための5つの小品[1.アダージョ][3.アレグレット] 1799-1800

36 チェンバロ四重奏曲 変ホ長調 1785

37 フルート、ファゴットとピアノのための三重奏曲 ト長調 1786

38 ピアノ三重奏曲 変ホ長調 1790-1791

39 ピアノ三重奏曲 変ロ長調 1812

40 『フィガロの結婚』の「もし踊りをなさりたければ」による 11の変奏曲 1792-1793

42 6つのドイツ舞曲 1796

43a ソナチネ ハ短調 1796

45 『マカベウスのユダ』の主題による 12の変奏曲 ト長調 1796

46 『魔笛』の主題による7つの変奏曲 変ホ長調 1801

47 3つの選帝侯ソナタ[1.変ホ長調][2.へ短調][3.ニ長調] 1782-1783

48 ロンド 1783

52 バガテル(プレスト) ハ短調 1797

53 アレグレット ハ短調 1796-1797

57 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 1803

59 『エリーゼのために』 イ短調 1810

64 スイスの歌による6つの変奏曲 1793 以前

69 パイジエルロの『水車小屋の娘』の「田舎者の恋は」主題による9つの変奏曲

イ長調 1795

70 パイジエルロの『水車小屋の娘』の「我が心はもはやうつろになりて」主題(ネル・コ

ル・ピウ)による6つの変奏曲 ト長調 1795

71 ヴラニツキーのバレエ『森の乙女』のロシア舞曲の主題による 12の変奏曲

イ長調 1796

73 サリエリの『ファルスタッフ』の「まさにそのとおり」の主題による 10の変奏曲

74 恋の歌『君を想う』

78 イギリス国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』による7つの変奏曲 ハ長調 1803

79 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 1803

80 創作主題による 32の変奏曲 ハ短調 1806

83 6つのエコセーズ 変ホ長調 1806

86 エコセーズ 変ホ長調 1825

87 皇帝ヨーゼフⅡ世の死を悼むカンタータ 1790

105 婚礼の歌【作詞:シュタイン】 1818

107 愛国の歌『ある娘の話』

108 『乳飲み子に』

109 戯れ歌『酒宴の歌』

8

作品番号

WoO. 作 品 名 作曲年代

111 戯れ歌『ポンチの歌』『むく犬の死を悼む歌』

112 真面目な歌『ラウラに』

113 真面目な歌『嘆き』

114 恋の歌『ひとりごと』

115 愛国の歌『ミンナに』

116 『ときは長く』

117 『自由の民』

118 ドイツの恋歌『愛されない者の嘆きと愛の返答』 1794-1795

119 愛国の歌『おお懐かしき森』

120 『女は炎を隠したがる』

121 『ヴィーン市民への別れの歌』

122 オーストリア軍歌

123 『君を愛す』(やさしい愛)【作詞:ヘロッセ】 1795

124 イタリア恋歌『別れ』(カンツォネッタ)【作詞:メタスタージオ】 1797-1798

125 愛国の歌『暴君』

126 奉献唱

128 愛国の歌『愛する喜び』

129 『鶉の鳴き声』【作詞:ザウター】 1803

130 恋の歌『われを偲べ』

132 恋の歌『恋人が別れようとしたとき』

133 『この暗い墓の中に』【作詞:カルバーニ】 1808

134 ゲーテの詩による『あこがれ』 1807-1808

135 恋の歌『大きな鳴き声』

136 『追想』

137 『遠い国からの歌』

138 異郷の若者

139 ドイツの恋歌『愛人』

140 2つの恋の歌 1.恋人に

141 『小夜啼鳥の歌』

142 『吟誦歌人の霊』

143 『戦士の別れ』

145 真面目な歌『秘密』

146 恋の歌『あこがれ』

147 ドイツの恋歌『山の呼び声』

148 『いずれも同じ』

149 『締め』

150 真面目な歌『星燦めく夕べの歌』

作品番号

Hess. 作 品 名 作曲年代

12 オーボエ協奏曲 へ長調 1792

19 オーボエ、3つのホルンとファゴットのための五重奏曲 変ホ長調 1793?

34 弦楽四重奏曲 ヘ長調(ピアノ・ソナタ第9番ホ長調 Op.14-1より編曲) 1801-1802

48 ピアノ三重奏曲アレグレット変ホ長調 1790-1792

9

・ Op は、ベートーヴェンのつけた作品番号。作曲順ではなく、あくまでも出版順であり、

他人に対し自分の曲であることを主張するためのもので、現在の著作権に相当する。

・ WoO は、キンスキー&ハルム編の作品目録(1955)の「作品番号なしの作品(Werk ohne

Opuszahl)」の番号

・ Hess は、ヘス編の作品目録(1957)の番号

←1823 年頃ベートーヴェンの第九

二重フーガ部分のスケッチ

1

18

182

社から

が一緒

ベート

比べ異

しか

跡のベ

字にし

ありう

ペー

版、ペ

と出版

ニーニ

してい

は絶対

即興

ヴェン

のだか

826 年 8 月出版ショット版

第九の二重フーガ部分→

24年5月初演の第九は、

6年8月マインツのショット

初版譜(スコアとパート譜

!)が初めて世に出た。

ーヴェンの他の交響曲に

例の早さだった。

し上のスケッチのような筆

ートーヴェンの譜面を活

たのだから、当然誤植も

る。

タース版、ブライトコップ

ーターギュルケ新原典版

され、ワーグナー、トスカ

、近衛秀麿と改訂版を出

る。しかしどれが正しいと

に言えない。

演奏家であるベートー

の実際の演奏は聞けない

ら。

10

第3節 で き ご と

年号 年齢 で き ご と

1770 0 12月16日ドイツのボンに生まれる。父は宮廷歌手のヨーハン、母はアンナ。ベートーヴェ

ンは成人してからも自分の歳を1歳若く、間違えて覚えていた。それは父親が、少年ベー

トーヴェンを第ニのモーツァルトとして売り込もうとして歳を1つごまかしていたからである。

1774 4 父にピアノとヴァイオリンを習い始める。弟カスパール・アントン・カールが生まれる。

1776 6 弟ニコラウス・ヨーハンが生まれる。

1777 7 ボンの下級学校(小学校)ラテン語学科に入学。ボンの選帝候宮殿が火事になる。

1778 7 3月26日ケルンで、ピアニストとして公開演奏会にデビューする。宮廷オルガニストのヴァ

ン・デン・エーデンに師事。

1779 8 劇場歌手ファイファーにピアノを師事。グロスマン劇団の監督としてクリスチャン・ゴットロー

プ・ネーフェがボンに来る。

1781 11 小学校を退学。宮廷オルガニストに就任したネーフェに師事し、正式にピアノ奏法と作曲法

の勉強を始める。この年、母と一緒にオランダへ演奏会旅行もしている。

1782 12 この頃、医学生のウェーゲラーと知り合い、最初の作品『ドレスラーの行進曲による9つの

変奏曲』を出版。神童モーツァルトとはタイプが違うとはいえ着実に成長し、12歳頃までに

は田舎町ボンで他に並ぶ者のないほどの音楽家になっていた。

1783 13 本格的に作曲活動を開始。3月2日クラマー主宰の「音楽雑誌」にネーフェがベートーヴェン

を高く評した紹介文を掲載。最初の正式な就職はこの13歳のときで、職種はボン宮廷の第

ニオルガニスト。3つのクラヴィーア・ソナタ『選帝候ソナタ』を出版。

1784 14 2月請願した宮廷オルガン奏者助手の地位が認められ、無給ながら宮廷楽士となる。4月1

5日選帝候マクシミリアン・フリードリヒが亡くなる。

1785 15 宮廷オルガニストに就任。

1787 17 シラー、自費出版雑誌に、『歓喜に寄す』を発表。

3月25日初のウィーン旅行に出発。4月7日ウィーン到着後モーツァルトを訪ね、すばらし

い即興演奏でモーツァルトを感服させたとの伝説があるが、真偽のほどは定かではない。

ただ、ウィーンでモーツァルトのピアノ演奏を聴いたことはあるらしい。ベートーヴェンの弟子

でありピアノ教則本で有名なツェルニーによると、後年ベートーヴェンは、モーツァルトの演

奏について『見事ではあるが音がポツポツ切れてレガートでなかった』とやや批判的に述べ

ていた。4月20日「母危篤」の知らせによりわずか2週間弱の滞在でボンに帰るが、約2ヶ

月後の7月17日にやさしかったと伝えられる母アンナ(マリア・マグダレーナ)死去。

1788 18 1月末ヴァルトシュタイン伯爵とブロイニング家で知り合い、ブロイニング未亡人の子供たち

にピアノを教え始める。娘のエレオノーレ(17歳)に初恋。

1789 19 1月ボンの国民劇場管弦楽団でヴィオラ奏者を務める(~92年)。5月ボン大学入学。シュ

ナイダー、シラー、ゲーテ等の思想に関心をもつ。7月シラーの詩にフランス啓蒙思想が触

発され、民衆の力によるフランス大革命が起こる(~99年)。

1792 22 7月ハイドンに弟子入りする。11月2日再びウィーンに出発。12月18日アル中同様になっ

ていた父ヨーハン死去。二人の弟たちの面倒をよくみる感心な兄ぶりだった。

1794 24 リヒノフキー侯爵やエステルハージ侯爵ら、ウィーンの貴族たちと親しくなり、社交界に名を

広める。オルガニストの職の他にピアノの教師もはじめ、その中からブロイニングやヴァルト

シュタイン伯爵といった生涯の友人もできる。フランス革命に共鳴し、自由主義的な思想を

いだくようになるのもこの頃。ヴァイオリンをシュパンツィに師事。

11

年号 年齢 で き ご と

1795 25 3月29日ピアノ協奏曲第2番等で作曲家、ピアニストとしてブルク劇場の慈善音楽会にデ

ビューする。ボンから弟たちをウィーンに呼び寄せ、本格的にウィーンに移る。ヴァルトシュ

タイン伯爵の紹介もあり、才能あふれる新進ピアニストとして着々と名声を築いている。 8月30日ハイドンの前で3つのピアノ・ソナタ作品2を演奏。12月18日ハイドン主催演奏会

でピアノ協奏曲第1番を演奏。年末にはリヒノウスキー候と第1回プラハ旅行に。

1796 26 2月第2回プラハ旅行。プラハからは単独でドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンへと足をのば

し、約半年にわたる演奏旅行。

ピアニストとして人気絶頂となり、作曲家としても3つのピアノ・ソナタ作品2など大作を発表

し始める。順風満帆にみえるが、30歳になる少し前くらいから、耳の疾患が始まる。

1798 28 名ヴァイオリニスト、クロイツェルと知り合う。3月29日ドゥシェク夫人の慈善音楽会でシュパ

ンツィヒのヴァイオリンと3つのヴァイオリン・ソナタ作品12中の1曲を演奏。第3回プラハ旅

行を行なう。

この時期に書かれた名曲に『悲愴ソナタ』がある。この曲は耳の異常に気がついたベートー

ヴェンのショックや苦悩を書いたとみる人もいた。ついベートーヴェンの実人生と作品を結び

つけたくなるが、仮に『悲愴』がそうだとしても同時期に明るい曲も書いている。たとえば『悲

愴』を出版した翌々年に『交響曲1番』の初演が行われている。この曲はハイドンなどにも通

じる明朗快活な気分と、調性や楽器の使い方などの点でより新しい進取の精神に満ち、

洋々たる未来に向けベートーヴェンがついに船出をしたといってよい曲である。

1799 29 5月ブダペスト近郊マルトンヴァーシャルに住むブルンスヴィック伯爵の二人の令嬢、テレー

ゼ(24歳)とジョセフィーネ(19歳)がウィーンに滞在、ピアノを教える。2つのピアノ・ソナタ

作品14、ピアノ・ソナタ<悲愴>出版

1800 30 4月2日初めて自分で演奏会を開き、『交響曲第1番』を指揮。他にピアノ協奏曲第1番、七

重奏曲等を演奏。ジュリエッタ・グィチャルディやカール・チェルニーをピアノの弟子に。

1801 31 3月21日ブルク劇場で『プロメテウスの創造物』初演。6月29日付・7月1日付のウェーゲ

ラー宛ての手紙に、前から悩んでいた耳の病を打ち明ける。ベートーヴェンのものと言われ

残されている髪の毛を2000年になって分析したところ、高濃度の鉛を検出。これは通常生

活の蓄積量の100倍以上であり、当時ベートーヴェンが好んで飲んでいた水道水に鉛が

含まれ、ベートーヴェンもこの水による鉛中毒になっていったと見られている。

11月16日付のウェーゲラー宛ての手紙に、ジュリエッタ・グィチャルディに恋していることを

書く。ベートーヴェンは、公式にはハイドンの弟子ということになっているが、ハイドンは多忙

ゆえか音楽性の違いゆえか、あまりベートーヴェンを可愛がらなかった。1793年以降ハイ

ドンに内緒で?他の先生にも習っている。その中には、映画『アマデウス』で有名になった

サリエリもおり、ベートーヴェンはサリエリからイタリア歌曲様式を学んだ。

1802 32 5月から夏の間ウィーン郊外のハイリゲンシュタットにおいて、滞在し療養に努めるが絶望

し、10月6日付・10月10日付で「ハイリゲンシュタットの遺書」書く。ハイリゲンシュタットに

は現在5~6軒の『ベートーヴェンの家』が残っている。

1804 34 交響曲第3番『英雄』を作曲。しかし、ナポレオンが皇帝についたと知り失望する。12月ダイ

ム伯未亡人のジョセフィーネ・ブルンスヴィクとの恋に陥る。

1805 35 フランス軍がウィーンに侵入。歌劇『レオノーレ(第1稿)』を初演するが、ウィーンを占領して

いるフランス兵相手にドイツ語の歌劇はわかってもらえず3日間で失敗。12月関係者がリヒ

ノウスキー候邸に集まりベートーヴェンに短縮改訂を承諾させる。

1806 36 3月29日(と4月10日)歌劇『レオノーレ(第2稿)』が第3番序曲をつけて上演されるが失敗

する。12月23日ヴァイオリン協奏曲、クレメント主催の音楽会で初演。

1807 37 3月ロブコヴィツ候邸で既作の交響曲3曲と、新作の第4交響曲、ピアノ協奏曲第4番、序曲

『コリオラン』等を演奏。

12

年号 年齢 で き ご と

1808 38 10月国王からヴェストファーレン宮廷楽長としての招へいがあり、カッセル宮廷行きを決

意。12月22日アン・デア・ウィーン劇場で交響曲第5番『運命』と交響曲第6番『田園』、そし

て交響曲第9番の基礎となる『合唱幻想曲』が初演される。

1809 39 1月7日カッセル行き承諾の返事を書くが、ウィーンの貴族たちから合計4千フローリンの年

金が3月から給付されることになり、ウィーンにとどまった。夏の間はバーデンに滞在。

1810 40 5月テレーゼ・マルファッティに求婚するが、断られた。ゲーテと親交のあるベッティーナ・ブ

レンターノの来訪を受け、その長兄フランツや、妻アントーニエ等と親しくなった。

1811 41 8月医師の勧めでテープリッツ湯治旅行。詩人ティートゲや歌手ゼーバルトと親しくなる。

1812 42 2月9日『シュテファン王』『アテネの廃墟』を初演。7月5日テープリッツを訪れ、7月6日付・

翌7日付「不滅の恋人への手紙」を書く。この頃4度にわたりテープリッツでゲーテと会見。9

月弟ヨーハンの結婚問題でリンツに行き、1ヶ月滞在。

1814 44 5月23日『レオノーレ』を改題、トライチュケが改作・改題した台本により、歌劇『フィデリオ

(第3稿)』を上演し、大成功を収める。5月26日完成した歌劇『フィデリオ(第3稿)』に序曲

をつけての再演も大成功。『ウェリントンの勝利』の所有権をめぐりメルツェルと訴訟。

1815 45 年金問題の解決により次第に創作意欲を取り戻してくるが、11月15日弟カールが亡くな

り、その息子カールの後見人問題で心を痛める。

1817 47 5月からハイリゲンシュタットやヌッスドルフで静養。秋には係争中のメルツェルが新発明の

「メトロノーム」を持参してウィーンに戻り、ベートーヴェンと和解。

1818 48 1月に予定されていたロンドン訪問が取りやめとなる。このころ耳がほとんど聞こえなくな

り、会話も不自由となり、筆談帳を多く使用するようになる。

1821 51 年頭から健康状態悪化、2ヶ月近く床に着いた生活をする。夏場はウンターデーブリングで

静養するが、7月強い黄たん症状が出て完全安静。9月からはバーデンにて保養。

1822 52 『ミサ・ソレムニス』売り込みのためにシュレジンガー、ジムロック、ペータース、シュタイ

ナー、アルタリア等多くの出版社に手紙を出す。10月3日『献堂式』への合唱曲、ヨーゼフ

シュタット劇場の柿落しで初演。この頃からシンドラーが秘書役を務める。12月20日ロンド

ンからの新作交響曲の依頼を受諾する。

1824 54 3月から4月ごろ交響曲第9番初演の諸条件をめぐって面倒な問題が起るも、5月7日ケル

ントナートーア劇場で、『交響曲第9番』を初演、大成功を収めた。

1825 55 1月15日ロンドンのフィルハーモニー協会の招待に対し、提示額の3分の1の増額を要求。

拒否され訪英中止となる。4月病床に伏し、5月7日バーデンにて秋まで静養する。

1826 56 1月激しい腹痛を訴え、視力も低下。7月30日甥のカールがピストル自殺未遂をする。12

月1日厳寒の中を牛乳馬車でウィーンに帰り、風邪をこじらせ肺炎にかかる。11日起きて

散歩ができるほどに回復。12日黄たん症状が強く現れ、症状が急激に悪化。13日ロンドン

のシュトゥンプからアーノルド版の「ヘンデル全集」が送られてくる。

1827 56 2月8日「ヘンデル全集」に対する礼状を書く。2月22日ロンドンのフィルハーモニー協会の

スマートとモーシェレスに経済的窮状を訴える手紙を書く。2月28日ロンドンのフィルハーモ

ニー協会、百ポンドの援助を決議し、送金。3月18日援助に対する礼状をモーシェレス宛に

シンドラーが口述筆記、ベートーヴェン最後の手紙となる。

病状が悪化し、数度の手術の甲斐もなく、3月26日午後5時45分永眠。27日医師ヴァー

グナーの執刀により解剖。28日画家ダンハウザーが死の床のベートーヴェンをスケッチ、

デスマスクをとる。29日ウィーンのアルザーシュトラーセのトリニテ教会で葬儀が行われ多

くの人々が参列した。同日ヴェーリング墓地に葬られ、1888年にウィーン中央墓地に移葬

され、現在もそこに眠る。

13

第2章 ベートーヴェンの生涯

第1節 誕 生

折しも時代は、産業革命が始まりかけている時

だった。人々が古いしきたりを大事に守り、しがみ

ついてきた中世という時代から近代に変わる、そ

の入り口ともいえる時代だった。1776年のアメリ

カ独立、1798年のフランス革命、そうした近代の

夜明けの扉を叩く大きな出来事が、やがて起ころ

うとしている時代にベートーヴェンは生まれた。

1770年12月16日、ベートーヴェンはドイツの

ライン河畔の小さな町

ボンで生まれる。当時

のボンは、ケルン・カト

リック大聖堂の大司教

兼選帝侯(中世のドイ

ツで高い位の貴族)の

政庁所在地であった。

18世紀になってから

の3代の選帝侯は富

国強兵策をとらずに文

化、教育政策に力を入れ、周辺諸国の文化を導入

し両国に敵意を抱かせないようにした。当時の人

口は1万人未満だが、例外的に高い文化水準を

持っていた。ベートーヴェンの時代に活躍し、関係

の深い選帝侯マクシミリアン・フランツは、オースト

リア女帝マリア・テレージアの末子で、時のオース

トリア皇帝ヨーゼフ2世の弟であり、フランス国王

妃マリー・アントワネットの兄でもある。

ベートーヴェンの父は宮廷テナー歌手であった

ヨーハン(1740頃-92)、母はアンナ。祖父(171

2-73)は選帝侯の宮廷楽団の楽士長であった。

父はとても几帳面な性格で責任感も強く、歌も

ピアノも正確な音楽家ではあったが、楽士長の七

光りでやっと地位を得ているという負い目から、時

折、酒に溺れる気弱な男だった。父は息子の教育

には異常に熱心で、まだ椅子に立ったままでしか

ピアノのキーに触れられないベートーヴェンに、ま

るで大人に教えるように厳しく指導したため、その

度にベートーヴェンは泣きながらピアノを叩いては、

恨めしげに父の顔を睨むのだった。

ベートーヴェンが7歳になると、両親は彼をノイ

ガッセの街にある下級学校(小学校)のラテン語学

科に入れた。当時は中流家庭でも小学校に行か

せることはまれであったが、学校の近くに引っ越し

てまで学んでほしいという両親の気持ちとは裏腹

に、彼は授業をさぼっては、マルクトプラッツ(ボン

市庁舎前の広場。ベートーヴェン一家はこの近く

に住んでいた)の噴水の前でぼんやりしていること

が多かった。ベートーヴェンはちっともおもしろくな

かった。音楽そのものがつまらないのではなく、父

に押しつけられ、規律正しく型にはめられることが

退屈で仕方がなかったのである。父はそんな息子

にテーブルを叩いては叱りつけ、楽譜どおり正確

にピアノを弾くよう強く指導し、夕食抜きで一晩中

弾き続けさせることもまれではなかった。

モーツァルトの父レオポルドほど教養も愛情もな

かった父ヨーハンが、どのように教え、何を教材に

使ったかは不明であるが、祖父の存在なしでは音

楽界にいられないのだから、息子にもう一人の自

分を見出し、期待を寄せるのは当然なことであっ

たろう。しかし、勤勉実直で規律保守が人間の最

低条件と考えていたヨーハンもまた例外ではなく、

中世の封建社会でしか生きられない、貴族のおかか

ケルン選帝侯

マクシミリアン・フランツ

『ボンにあるベートーヴェンの生家』

C.ロールドルフ画(ウィーン楽友協会所蔵)

14

え演奏家の一人に過ぎなかったのである。

その後ヨーハンは神童モーツァルトのように息

子を社交界へデビューさせようと、必死に宮廷中

を駆け回り、そして1778年3月26日、ケルン市

のシュテルネンガッセ・コンサートホールでの演奏

会にこぎつけ、ベートーヴェンは華やかなデビュー

を飾る。人々は初めから終わりまで暗譜のまま、

激しく正確にピアノを弾く小柄で色の浅黒い子供に、

神童という褒め言葉を添えて拍手をした。

そして10歳からは、作曲の勉強を本格的に開

始するため、新しく宮廷オルガニストに就任したば

かりの若干31歳のネーフェ

に入門。このネーフェが、

ベートーヴェンの後の偉大な

作曲活動に大きな影響を与

え、音楽家としての基礎を築

いたその人と言っても過言で

はないだろう。ネーフェは

ベートーヴェンの弾くピアノの

音が全く死んでしまっている

のに驚き、曲作りについて、

まず彼に心の中に井戸を持

つようやさしく教えた。

「じっと目をつむって、井戸を思うのだ。静かな野原の真ん中にある井戸だ。君はその脇に寄りかかって、じっと中を覗くのだ。毎日それを思うのだよ。そうするとね、やがてそこから想像がわきだしてくるのだ。他の作曲家の音楽などを聞くのではなく、街へ出て、風の音や小鳥のさえずり、木々のざわめきをよく聞くのだよ。」

ベートーヴェンは、おおらかなネーフェの人柄に

すっかり魅了され、彼の仕事のない日は毎日レッ

スンを受け、和音の学習、楽譜の書き方から楽式

に至るまでを着実に学んでいった。ネーフェはさら

に、自ら所有するドイツ、フランス、イタリア音楽の

楽譜を彼に貸し与え、多彩な音楽への興味をかき

たて、特に大バッハ(1685-1750)とエマヌエ

ル・バッハ(1714-1788)の教材を多く用いた。

これは当時においては非常に画期的なことで、つ

まり、当時のバッハはまだ一部の理解者だけが知

る存在に過ぎなかったのである。

そのことからも、ベートーヴェンがバッハの音楽

をいかに詳細に作品分析したかがうかがえるが、

そのほか鍵盤作品を室内楽に編曲する試みも

行っており、それは後のあのそびえたつようなフー

ガとなって結実するのである。ネーフェはまた自分

の不在や多忙の折り、ベートーヴェンに代役を任

せて実戦経験を積ませ、音楽雑誌に彼のことを推

薦し、その才能を讃えたりしたおかげで、ベートー

ヴェンは宮廷第ニのオルガニストの地位に就任し

たのであった。

クリスチャン・ゴットロープ・ネーフェ

Neefe, Christian Gottlob(1748-1798)

15

1783年3月2日付 クラマー「音楽雑誌」

「ボンにおけるケルン選帝侯の宮廷楽団とそ

のほかの音楽家についての報告」(抜粋)

“…ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは先

に述べたテノール歌手の息子で11歳の少年。

前途有望な才能の持ち主で、クラヴィーアを上

手に力強く演奏し、…現在ベートーヴェンは作

曲の勉強をしており、彼を励ますためにネーフェ

氏は行進曲をテーマとするクラヴィーアのため

の9つの変奏曲を出版させた。この若き天才

は、留学のための援助をうける資格がある。最

初と同じくたゆまず進歩を続けるなら、必ずや第

二のヴォルフガング・アマデーウス・モーツァル

トになるであろう。”

そのころ父ヨハンは自分の声の衰えを決定的に

じ、酒を飲む回数が増え、給料もそれで消えて

くようになっていた。そのため家賃やパンの支払

がたまり、母はやつれ、弟は黙ってパンを盗ん

くるような状況になっていた。楽士長は既に他の

に代わっていたため七光りも通用せず、一家の

入は益々ベートーヴェンの一肩に重くのしかか

ようになっていったのだった。

そんな彼に、ネーフェは、

「世界中にはもっと飢えや病気で苦しんでいる人たちが大勢いるのだよ。君はただ音符をいじるだけのつまらない音楽家になってはいけない。世界には、そこに住む人間の数だけ悲しみがあるのだ。本当に優れた音楽というのは、ただ宮廷の貴族なんかを楽しませるのではなく、そういう人たちの悲しみをいやすものでなければいけないのだよ。」

熱っぽく語っては励まし、

ートーヴェンの内に秘めた

知なる才能を既に見出して

たのである。

働きながら学べる体制を

ってくれたネーフェの暖か

配慮に対して、後にベー

ーヴェンは、「将来自分が偉

なるようなことがあるとすれ

、それは全く先生のおかげ

す。」と述べているが、実際

の生涯を通じてこのような

は、ネーフェひとりのみであった。

作者不詳(1783 頃)現在確認されている最年少(13歳)のベートーヴェン肖像画

第2節 シラー『歓喜に寄す』への出会い

1804年「レオノーレ」のスケッチにシラーの詩

「歓喜に寄す」の一節とそっくりの言葉が登場し、

後年「歓喜のメロディ」と結びついたのはただ偶然

ということではない。シラーのこの詩が、1787年

シラーの自費出版の雑誌「ラインニッシェ・ターリア

(ラインの美の女神)」第2号に発表されたとき、ま

たはそれ以前、作詩されて早々にベートーヴェン

がこの詩を知っていたことはまず確かである。

シラーのこの詩はドレ

スデンで作詩されるや

いなや、書き写され全ド

イツ語圏にひろがり、当

時の進歩的な合理主義

と国際平和の団体で

あったフライマウレル(フ

リーメーソン)の集まりで

歌われていった。フリー

メーソンの神とは、キリ

全ドイツが熱狂し、ベートーヴェンも詩の全篇に

音楽をつけようと言ったのは、シラーがフランス大

革命に先立って、その革命の原動力とも言うべき

「歓喜」を民衆のものとするために歌ったからであ

る。「百万の人々よ、我が抱擁を受けよ!この接

吻を、全世界に!」、「暴君の鎖を解き放ち、…絞

首台より生還!」、そして「乞食は王侯の兄弟とな

る」と革命を歌いあげたからであった。それはドイ

ツ啓蒙思想が生んだ最も輝かしい所産であった。

だがシラーはドイツ啓蒙思想のもつ弱点もその

まま持っていた。彼の思想にはフランスの啓蒙思

想の持つ民衆自らの力で自由を切り開こうという

面と、ドイツの専制啓蒙君主制に頼り、その枠内で

不合理な面だけを教育的になし崩しに改めていこ

うという面とが共存していた。シラーはドイツの後

進性、狭苦しさ、みじめさを自覚し、それから逃れ

ようとはするものの、革命によってではなく、観念

的な理想国家に向かい、理想の中に逃避する。

シラー(1759-1805) Friedrich von Schiller スト教などの特定の宗

の神ではなく「宇宙をつくりたもうた神」を信仰す

。聖典も聖書に限らず、コーランや仏陀の教え

何でもいい。シラーもフリーメーソンに共鳴し、兄

、世界という言葉を多用している。

それまでもシラーの書いた劇作は、ボンでは発

されたその年か、遅くも翌年には必ずといってい

くらい上演されていた。ベートーヴェンはボンの

ライマウレルのメンバーとも親しかったので、ほ

んど確実に印刷になる前に読んでいたに違いな

。それ以上確かなことは、1792年ベートーヴェ

はボンを離れる前に、「この詩の全篇に音楽を

けたい」と言っていたことが、シラーの友人であ

ボン大学の教授となって赴任してきていたフィ

ェーニッヒのシラー夫人シャルロッテにあてた手

にも書かれている。シラーの発出の詩をベー

ーヴェンがボン時代に読んでいたということは

第九』の作曲の精神がどこにあったかを考える上

きわめて重要なことである。

この詩に熱狂したのは、何もベートーヴェンだけ

はなかった。だがこの詩の真髄ともいうべき理念

シラーがとらえていた以上に鮮明にし、それを今

に至るまで全世界に行き渡るようにしたのは

ートーヴェンだけであった。シラー自身はこの詩

書いた26歳時点から後退し、変節したといって

いほど時勢に押し流されたにもかかわらず、

ートーヴェンは『第九』で「歓喜」をさらに大きく発

させた。

1789年7月フランス大革命(~99年11月)が

始まると、軌を一にするかのようにドイツ啓蒙主義

は指導者を失う。ドイツは民族的な狭さに逆もどり

する。シラーの詩が高唱した「この接吻を全世界

に!」ではなくなり、シラーもこの逆流に歩調を合

わせて変節してしまう。シラーは、この詩を書いた

1785年のときは落胆してドレスデンに辿り着いた

のだが、友人フィシェーニッヒに暖かく迎え入れら

れて元気を取り戻したのであった。それが1800

年には、フライマウレルの思想に触発されて作詩

した『歓喜に寄す』は若気の至りだったと、フィ

シェーニッヒに書くようになる。

シラーをはじめ当時のドイツの芸術家はギリ

シャに憧れる傾向にあり、『歓喜に寄す』で歌われ

る神は、一神教のキリスト教の支配をさすのでは

なく、ギリシャの神々を理想化していたと言われる。

ただ、体も弱く海すら見たことがなかったシラーに

は、そのギリシャですら想像の地でしかなかった。

シラーは1803年に没するが、1805年に発表

された全集ではシラーの遺志どおり、『歓喜に寄

す』は改変されたものになってしまう。そして、その

改変されたままのものが第二次世界大戦後まで

通用することになる。ベートーヴェンの心をとらえ

たのは、まだ汚れを知らない時代の、元のままの

シラーの詩であった。『第九』で「歓喜のメロディ」と

一つになるのは、この初期の革命的なエネルギー

に満ちたシラーの詩であった。彼はそのことを18

12年のスケッチ帳で明記している。

16

第3節 ウィーンへ

貧しい家計をやりくりしながら、幼い頃からあこ

がれていたウィーンへ1787年3月25日単身出発。

4月7日ウィーンに到着しモーツァルトを訪ねて即

興演奏を行うなど、本格的に作曲活動を始めたの

であった。

しかし、母の病気が重くなり、4月20日「母危

篤」の知らせが入るとベートーヴェンは急きょ帰郷。

この中断された旅は、彼を「いつか再びウィーン

へ」という気持ちにさせたことだろう。2ヶ月後の7

月17日母が亡くなり、ベートーヴェンは父と二人

の弟たちを養うため必死に働かなければならな

かった。当時の音楽家の収入というのは、華やか

さのわりにはたいしたことがなく、まして彼のように

有名ではない音楽家の収入などはたかが知れて

いた。そんな中でも彼は、『ヨーゼフⅡ世葬送カン

タータ』など40曲を作曲。経済的にも精神的にも

苦悩する中であっても、なお作曲への情熱は失っ

ていなかったのである。

ベートーヴェンは、82年街で出会った医学生

ウェーゲラーの紹介で、当時ドイツでも有数の地

位にあったブロイニング家の子供たちに88年から

ピアノを教えることになった。演奏会のない日は毎

日通うようになっていた。彼らの前で即興演奏をし

たり長女エレオノーレに恋をしたりするなど、家庭

に少しも良い思い出がなかった彼にとって、何もか

も新鮮で美しい日々がしばらく続いた

やがて彼にも幸運が訪れる。ブロイニング家で

面識を得たヴァルトシュタイン伯爵がウィーン行き

の話を実現してくれることになったのである。伯爵

はウィーンの名門貴族で、ボンに住まいを構え宮

廷の音楽行事を司っていたが、ベートーヴェンの

才能を高く買い、ピアノを贈ったり暖かい言葉を与

えたりした。伯爵はウィーンこそがベートーヴェン

の才能を存分に開花させることのできる街である

ことを見抜き、実際的な手筈を整えてくれたのであ

る。伯爵は、選帝侯自身がベートーヴェンのため

尽力してくれるように口添えしたこともあり、宮廷が

彼の留学費用を負担することがまず決まった。ま

た伯爵は、ウィーンの有力貴族たちに紹介状を書

き、リヒノフスキー侯爵やエステルハージ侯爵をは

じめとしてウィーンの社交界でベートーヴェンが受

け入れられるように万全の準備を整えた。

また90年に、ロンドンからウィーンに帰る途中

にボンに立ち寄ったヨーゼフ・ハイドン(モーツァル

ベルヴェデーレ宮殿からみたベートーヴェンが移り住んだ頃のウィーン市内

ベルヴェデーレ宮殿からみた高崎第九合唱

団が訪れた 1998.10.23 のウィーン市内

(左の池は埋め立てられ左右対称な庭園に

改修されたが、砂利道も右の噴水もシンボ

ル的建築物も変わらない)

17

トの亡き後、当時のウィーンで第一人者といわれ

た作家)に選帝侯の催した宴席で紹介され、179

2年6月再びロンドンからの帰路ボンに寄ったハイ

ドンへ自作のカンタータを見せ、その才能を見込ま

れていたことも、ウィーン行きの最後の一押しに

なったに違いない。

伯爵の「努力をすれば、君はハイドンの手から

モーツァルトの精神を受け取ることになるだろう」と

いう餞はなむけ

の言葉を胸に、ボンの人々の暖かい援助

に包まれて、92年11月2日ベートーヴェンは

ウィーンへ旅立ち、10日に到着することができた

のである。夢は本人の意志の貫徹、才能と努力と

周囲の努力が重なり合ってようやく実現されたの

である。21歳であった。

こうしてベートーヴェンは、ウィーン進出の最大

の目的であった作曲修業をただちに始めるが、当

時師事していたハイドンは、新たな交響曲群(ザロ

モンセットと呼ばれる12曲の交響曲群のうち後半

6曲と思われる)の完成に向け、また自らの海外

(主にイギリス)での更なる名声のために全力を傾

けていた時期と重なっていたため、ベートーヴェン

のこなした課題の回答(245曲)にもわずか(42

曲)しか目を通さないままであった。事実ベートー

ヴェンへの教育は、93年の暮れまでの約1年間で、

中断するように終えてしまったのである。そのよう

な師に対し、ベートーヴェンは少なからず幻滅を覚

え、師に知られないように93年8月頃より、当時オ

ペレッタ作家として定評のあったヨハン・シェンクや

ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに師事し、

高度なフーガやカノンを95年5月まで演習した。

しかし、彼がウィーンで新しい生活を始めてすぐ

の92年12月18日父ヨーハンが死亡。94年には

リヒノフスキー侯爵の廷内に一室を与えられ活動

するが、フランス・ナポレオン軍のドイツに侵入に

より、大きな援助者の一人である選帝侯が退位さ

せられたことで学費がストップするなど、すべてが

順調だったわけではなかった。やがて、95年3月

29日、彼はブルク劇場でのコンサートを大成功さ

せ、大勢のファンを増やし、ピアニストとして次第に

名前が売れるようになっていった。

当時のウィーンの趣向は、音の均質性、響きの

清澄性、軽快な速度感といった、チェンバロ奏法

の伝統に根ざしたスタッカート気味のエレガントな

クラヴィーア奏法を最上のものとしていたが、そこ

にベートーヴェンのクラヴコード奏法と北ドイツ風

の音楽スタイルの伝統に根ざすレガート奏法の、

ウィーンには全く知られていなかったピアノの響き

がもたらされ、その新鮮さと叙情性の高さは、たち

まちウィーンの聴衆を魅了してしまったのである。

ピアニスト、ベートーヴェンの名声は、新しい演

奏スタイルが呼び起こす美しい響きによるものだ

けではなく、それに加えて即興演奏の名手として

の人気によっても広まったのである。ボン時代に

通奏低音奏法をしっかり身につけ、宮廷オルガニ

ストを勤めていた彼にとって、与えられた主題によ

る即興演奏は最も得意とするところであった。

第4節 成功から苦難へ

ちょうどこの頃から経済的に多少のゆとりができ、

貴族界の中にも信頼を得たベートーヴェンは、ボ

ンから二人の弟たちをウィーンに呼び寄せている。

しかし二人ともそれぞれ就職はしているものの、当

面の間兄から経済的援助を受けていたようだ。既

にボンにいた時から、父に代わって一家の大黒柱

を努める立場にあったベートーヴェンの弟たちに

対する接し方は、長兄の立場というより父親的性

格が非常に強く現れているのである。

95年の暮れベートーヴェンは、家主リヒノフス

キー侯爵と共に、プラハに演奏旅行をしている。翌

96年2月2回目となるプラハ演奏旅行に出る。リヒ

ノフスキー侯爵は、プラハの音楽界にベートーヴェ

ンを紹介し、プラハ以降はベートーヴェンの単独行

動となるとはいえ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリ

ンとその行く先々への紹介状を持たせ、まるで

モーツァルトの足跡をたどるかのように旅行した。

現在のブルク劇場 1998.10.23 撮影

約2ヶ月を過ごしたプラハでは、モーツァルトと

親交のあった音楽家たちと楽しい日々を過ごし、

その後の1週間をドレスデン、ライプツィヒに3週間、

そして最後の1ヶ月余りをベルリンで過ごしている。

この約半年間にも及ぶ旅行でベートーヴェンは、

18

有力貴族たちの前で演奏したり、アカデミー主催

の演奏会に出演したりと、多くの作品を生み出して

は聴衆の喝采を浴び次第に名前を広めていった。

ベルリンから帰ったベートーヴェンは、3つの

ヴァイオリン・ソナタ作品12、3つの弦楽三重奏作

品9、ピアノ・ソナタ第8番『悲愴』作品13などを

次々に完成させ、1798年3回目となるプラハ旅

行を行なっている。

さらに99年には、弦楽四重奏曲ヘ長調作品18

を完成させ、作曲家としての大躍進を試みるように

なる。弦楽四重奏という分野では、既に傑出した

ハイドンやモーツァルトの作品が知られていただけ

に、ベートーヴェンとしては最も精神を集中して作

曲したものと思われる。作曲に自信を持ち始めた

彼は、いよいよ長年の夢であった交響曲を本格的

に完成させることになる。最初の構想は88年に求

めることができるが、本格的に創作を進め、ほぼ

完成させたのは99年であった。

こうして1800年4月2日、初めて自ら主催する

ホーフブルグ劇場でのアカデミーにおいて、この交

響曲第1番ハ長調作品21は初演され、経済的の

みならず作曲家としての名声も次第に広まり、ブ

ルンスヴィク伯爵の姪にあたるジュリエッタ・グイ

チャルディや、彼の生涯で大きな役割を果たすと

同時に優れた伝記的証言や覚書を残すことになる

フェルナント・リースなど彼を慕って、弟子入りを希

望する者も増えていったのである。

そして02年は、また別の意味で彼の生涯にお

いて大きな節目となっている。いくつかの明らかな

証言や書簡によって、ベートーヴェンが26歳ごろ

(1796年)から耳の病気にかかっていたことは確

かなことであるが、こうしたピアノの弟子たちを魅

了するに充分な作品を次々と作曲し、また大作の

依頼も次第に数を増すなど、音楽家として本当の

意味での真剣勝負はこれからという時期に、最初

の重傷状態が訪れたことは何とも皮肉なことで

あった。

それ以来、彼の演奏の仕方はすっかり変わって

しまう。彼は不安そうな手つきでキーに指を置き、

そしてそっと辺りを伺うように、恐る恐るいくつかの

和音をそうやって叩き、まるで何かを確かめるよう

にしながら、やっと全体を弾き始めるのだった。

彼は医者に相談してぬるま湯に耳をつけたり、

油を耳に入れてみたり、冷水浴をしたりといろいろ

な治療をやってみたが効果は見られず、02年5月

からウィーン郊外のハイリゲンシュタット(プロブス

ガッセ6番地)に引きこもった彼は、絶望の淵で二

人の弟たちに、いわゆる「ハイリゲンシュタットの遺

書」と呼ばれる遺書を書いている。

「我が弟へ。私の死後に読まれ、実行される

こと。

昔あった、あの懐かしい「希望」。

この地なら、少しは良くなるだろうかと思っ

てやって来たのに、その望みも断たれてし

まった。人に聞こえて自分に聞こえないときに

は、どれほどの屈辱感を味わったことだろう

か。そうしたことに出会うと、全く絶望し、すん

でのところで自殺しようともした。

そうしたとき私自身の芸術だけが、生へと

引き戻してくれたのだ。ああ、自分の中に持っ

ているすべてを生み出すまでは世を棄てるこ

となどできないと思い、だからこそこのみじめ

な存在を耐えてきたのだ…〈中略〉…恵みな

い運命の女神が命の繩を切るまでは、この決

心を持続させてほしい。いくらかでも快方に向

かうか、あるいは悪化するか、覚悟はしてい

るのだ。

私の死後、もしシュミット教授(主治医)がま

だ存命であられれば、私の病気について所見

を書いていただくようにお願いし、そこに私の

この手紙を添えてほしいのだ。そうすれば、

私が生前与えた誤解も解けるだろう。わずか

な財産は平等に分けてくれ。楽器類は、どち

らかが持っていてくれ。しかし、生活に困るこ

とがあったら売ってほしい。墓の下にいてもな

お、お前たちの役に立ちたいのだ。

やり残したことをせずに死を迎えるのは口

惜しい。死が遅く来ることを願う。でももし、死

に神が早い死を望むならうけてやろう。やって

来い、死よ。さようなら。私の死後も、どうか私

を忘れないでくれ。」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ハイリゲンシュタットにて

1802年10月6日

このハイリゲンシュタットの遺書と呼ばれる遺書

はついに投函されることはなかった。彼の死後、机

の中にしまい込まれていたところを発見され、初め

て世に出たのである。

これは現在の解釈では「新たな生への宣言」と

考えられるようになっている。この苦悩を語り、死

を覚悟した悲痛な手記全体のわずか一部分から

ではあるが、窺えることは自殺をしようとするベー

トーヴェンの遺書などではなく、むしろ、病気による

19

ハイリゲンシュタットにあるベートーヴェンの家

体力と気力の衰えから、いつ死ぬかもわからない

という危機感が書かせた遺言であって、同時にそ

の日が来るまでは芸術家としての使命を全うした

いという強い決意の現れと解釈できるのである。

未投函のまま生涯にわたって机の中にしまい込ま

れたことにこそ、ベートーヴェンが誰のためでもなく、

自分の新たな生への決意を強めるために認めた

手記という性格が浮かび上がってくる。

現在のハイリゲンシュタットは、トラム(路面電

車)を使ってウィーンの中心部からわずか30分く

らいで行ける。木々が多く残り、まるで別荘地のよ

うな美しい住宅地になっている。『田園』の第2楽

章に出てくる小川(シュライアーバッハ)に沿って、

"Beethovengang"(ベートーヴェンの道)という名が

つけられた日蔭の多い気持ちのいい散歩道になっ

ている。ゆるやかに道を上っていくと、小広い場所

に木々に囲まれたベートーヴェンの胸像(1863

年6月15日建立)があり、そこでベートーヴェンが

『田園』の楽想を練ったといわれている。

1817年弦楽四重奏曲作品104を作曲した家

は、カーレンベルガー・シュトラーセ26番地であり、

遺書の家とは違う。他にもグリンツィンガー・シュト

ラーセ64番地(07年、田園作曲)、デブリンガー

ハウプトシュトラーセ92番地(03年夏、エロイカハ

ウス)、プファールプラッツ2番地(17年)の家が点

在する。

ベートーヴェンは散歩が好きで、よほど体調が

悪くない限り雨の日でも欠かさなかった。散歩には

必ず五線譜と筆記用具を携帯し、楽想が湧くとメ

モしていた。時に手を振り回して拍子をとり、妙な

旋律をうなりながら、雨の中を歩くベートーヴェン

の姿は道行く人の目にどう映ったのだろうか。

第5節 苦難をこえて

新たな決意は、作品の様式や内容にも影響を

与えずにはおかなかった。死を覚悟した人間の強

さとでもいうのだろうか。彼はハイリゲンシュタット

に滞在中の夏に書きためた分厚いスケッチ帳をか

かえて急きょウィーンに帰り、従来にはなかった充

実した筆跡で次々と傑作を完成させていき、また

あの輝かしく力強い『交響曲第2番』を完成させた

のである。この交響曲の明るい作風からも、そうし

た苦悩はほとんど感じられず、彼は既に作曲にお

いて、自らの不幸な運命を克服していたともいえる

だろう。この第2番の第1楽章には、『第九』の第1

楽章の主題と同じフレーズも登場する。

03年3月からアン・デア・ウィーン劇場内の二階

の一部屋に住み始めたベートーヴェンは、劇作家

や歌手などからオペラ創作の依頼を受けるように

なる。当時のウィーンで作曲家としての不動の位

置とは、まずオペラで成功することが不可欠と考え

られていたのであるが、彼は幸運にも劇場に住み

始めたことによって、劇音楽創作への情熱は高

まっていったに違いない。実際、この劇場に移って

1ヶ月もしない4月5日には、自ら主催するアカデ

ミーで完成されたばかりのオラトリオ『かんらん山

上のキリスト』作品85を初演し、また完成されたば

かりの交響曲第2番作品36とピアノ協奏曲作品3

7の初演、および交響曲

第1番の再演も同時に

行われ、大きな成功を収

め、作曲家としてのベー

トーヴェンの才能と実力

は、ウィーンのすべての

人が認めるところとなっ

たのである。

次々に来る作曲依頼

の中でも、リヒノフスキー

侯の依頼により作曲され

た『クロイツェル・ソナタ』

作品47は、ヴァイオリン・ソナタの最高傑作となっ

た。やさしさと戦いが見事に描き出されたこのヴァ

イオリンとピアノの二重奏ソナタは、後にロシアの

文豪トルストイがこよなく愛し、同じ題名の名作を

書いている。

若さの残るベートーヴェンメーラー画 1804 年作

03年夏には、オーバーデーブリングにひきこも

り、『エロイカ』交響曲の筆を進めるのだが、これと

時期を同じくして、後世の人々が「エロイカハウス」

と呼ぶようになるこの家に、イギリス・アクションの

新式ピアノが、パリの高名なピアノ制作者セバス

20

チャン・エラールから届けられる。ベートーヴェンが

いわゆるピアノという楽器に触れたのはウィーンに

来てからであった。「鍵盤の花火」という異名をとっ

た彼であったが、その演奏技巧はピアノではなく

チェンバロやオルガンで習得したものである。だか

らこそ彼の弟子のチェルニーはベートーヴェンの

奏法をなめるように演奏すると形容し、ベートー

ヴェンはモーツァルトの演奏を切れ切れに演奏す

ると感じたのである。

しかし、彼はウィーンに来てすぐにこの新しい楽

器の性能と利点を認識し、それこそあらゆる可能

性を追求するのである。そうした追求の場がピア

ノ・ソナタであった。このころより始まったピアノの

技術革新により、かつてのピアノの鍵盤にはない

高音域やペダルなどが改良され、彼は次々にピア

ノ・ソナタを完成させることができたのである。そし

て彼がピアノに最も大きな要求を課した作品は、ピ

アノ・ソナタ第23番へ短調『熱情』ということになる

だろう。これは提供を受けたエラール社のピアノ鍵

盤の最高音までフルに用いた作品であるというだ

けでなく、ピアノ・ソナタというジャンルの限界まで

行き着いた作品であった。

第6節 ナポレオン

さて、この頃オーストリアの大きな社会問題の一

つにはナポレオンによる一連の戦争があったわけ

だが、そうした社会情勢もベートーヴェンと無関係

ではなかった。オーストリアとフランスの対立が激

化する中、ウィーンの街はフランス軍の兵士たちで

あふれ、市民は恐怖に震える日々を送っていたが、

1797年10月に締結された『カンポ・フォルミオ条

約』で当面の危機は脱出することになり、98年に

はフランス全権大使としてベルナドット将軍が

ウィーンに着任することになった。

ベートーヴェンはこのベルナドット将軍よりナポ

レオンを讃える交響曲の作曲を依頼され、交響曲

第3番『英雄』の作曲に取りかかる。進撃するナポ

レオン軍は、彼にとっては祖国ドイツを攻める敵

だったが、ナポレオンが貧しい平民の出だというこ

と、また自由主義、民衆の見方の英雄としてのナ

ポレオンに対して多少の親しみを覚えてもいたこと

から、快く引き受けたのであった。

しかし1804年、ナポレオン自ら皇帝になったと

いう知らせを聞いて激怒し、「彼もそこいらにいる

『エロイカ』スコア筆写本の表紙(表紙はベートーヴェンの手書き、スコアの手書きは残っていない)

「ボナパルトと題す」という副題の文字を、紙が破れるほどにこすって消している。

21

奴と変わらない。彼はあらゆる人権を踏みにじり、

自分の栄誉だけを楽しむのだ。彼は他の奴と同様、

暴君になるだろう。」と叫び、ボナパルトへと書か

れた楽譜の表紙を破り捨て、『エロイカ』という題に

名付け変えたという話は余りにも有名である。

作品そのものは、交響曲第1番、第2番の様に

ハイドン的な古典的規律を守ったものとは明らか

に違い、規模、表現のいずれを見ても交響曲の歴

史上、新しい段階に突入した作品といえるだろう。

その大交響曲の中には、『創造主の作った専制的

な世界への挑戦』という意味が込められているの

だった。美しい自然の音を聞く耳をつくりながらそ

の耳をだめにしてしまう、清らかな心を持った人々

をつくりながら不幸にしてしまう創造主・神に対して、

またすべてを貴族が支配してしまう専制的な世の

中に対して宣戦布告をしているのである。「これか

らは、宮殿の舞踏会のためにだけあるような音楽

ではだめだ。もっと人間の心の叫び、魂の叫びを

感じる音楽でなければだめだ。」

ベートーヴェンはいつか、胸の奥底でかすかに

井戸の湧く音がし始めたような気がしていた。民衆

の立ち上がる足音のように・・・。

第7節 傑作の森

交響曲第3番の初演は1805年4月に行われた

が、その頃彼が抱えていた最も大きな仕事は歌劇

『フィデリオ』(作者の意向では『レオノーレ』)であっ

た。ナポレオン軍のウィーン占領により、ウィーン

の音楽愛好貴族の多くが疎開してしまい、多くの

聴衆はドイツ語の全くわからないフランス軍兵士た

ちで占められていたために、05年11月20日上演

するもわずか3日間だけで幕を降ろさなければな

らないほどの失敗という結果になったのである。関

係者がリヒノウスキー候邸に集まりベートヴェンに

短縮改訂を承諾させ、翌年3月29日には最初の3

幕構成を2幕に短縮した第2稿によって上演され

たが、4月10日の上演で打ち切られてしまった。し

かし失敗の本当の原因は、上演の不利な条件や

状況にあったというより、作品自体の欠点が大き

すぎたためであろう。こうして歌劇『レオノーレ』は

これ以降、10年以上に及ぶ改訂の歴史をたどる

ことになる。

相次ぐオペラ上演の失敗によって、ベートーヴェ

ンはしばらく『レオノーレ』から離れることになり、創

作意欲は室内楽作品と大管弦楽作品へと向けら

れていった。前年から着手されていたピアノ協奏

曲第4番を完成させ、『ラズモフスキー・セット』と呼

ばれる3曲の弦楽四重奏曲作品59の第1番、交

響曲第4番、ヴァイオリン協奏曲など、この年は彼

の生涯の中でもとりわけ多産な1年となってゆくの

であった。そして07年に作曲された『コリオラン』序

曲は、ウィーンの宮廷劇場で上演されていたハイ

ンリッヒ・フォン・コリンの同名の戯曲からの印象に

基づいて作曲された。しかし当時はシェイクスピア

の同名作品の方が好まれるようになっていたため、

この曲は劇に直接付随する音楽ではなく、新しい

ジャンルとしての『演奏会用序曲』というべきもので、

これはロマン派の作曲家たちに多大な影響を与え

てゆく。そしてこの劇の悲劇的な終結が、交響曲

第5番『運命』に引き継がれ、さらには苦難を経て

歓喜に至るという、構想上でも密接に関係してゆく

ことになるのであった。

第8節 運 命

07年夏、ベートーヴェンの胸の奥深くで、「ダダ

ダ・ダン、ダダダ・ダン。」という一連の音が鳴って

いた。後に「運命が戸を叩く音」として有名になる

交響曲の主題がもう4年もの間、心の中で鳴って

いたのであった。実はこの『交響曲第5番』の主題

の部分は、既に1798年に発表した『ピアノ・ソナタ

作品10の1』の最終楽章に書かれている。

98年といえば、ベートーヴェンが28歳の時、耳

の不安が増した年である。自分自身が運命を切り

開いていこうとする破壊の音、それを表したのだ。

そして08年に完成された交響曲第6番『田園』

は、「絵画より感情の表出」を目指した作品である

とベートーヴェン自身は語っているが、『田園交響

曲』という題名をはじめ、各楽章に与えられた説明

の言葉、第2楽章(「小川のほとりの情景」)におけ

る小鳥の鳴き声、第3楽章(「農民の楽しい集ま

り」)や第4楽章(「雷と嵐」)など、実際に描写的要

素をふんだんに含んだ作品として、表題音楽の優

れた一例となっている。

こうして07年から08年にかけて、交響曲第5番

『運命』、交響曲第6番『田園』、『合唱幻想曲』の3

作品がこの短い期間に作られ、特に『合唱幻想

曲』は、16年後に完成される交響曲第9番の習作

ともいえる形を持っているのだった。

22

そしてこれらを締めくくるように、1808年12月

22日、アン・デア・ウィーン劇場において、ベートー

ヴェン自身の指揮による演奏会が開かれた。ここ

では『田園生活の思い出と題する交響曲(交響曲

第6番のこと)』、『大交響曲ハ短調(交響曲第5番

のこと)』、『合唱幻想曲』の各初演、この他ピアノ

協奏曲、ラテン語賛歌、ベートーヴェン自身による

ピアノの即興演奏なども含まれ、歴史上きわめて

重要な出来事となったが、『合唱幻想曲』では、

パート譜作成が当日まで及んだためまともな練習

ができず、練習時に第二変奏は反復しないという

ベートーヴェンの指示にもかかわらず、本番では

彼自身が反復してしまい、オーケストラとの不協和

音が響き、演奏会としては失敗に終わったので

あった。

ベートーヴェンの生涯には何度かの記念碑的な

新作発表の演奏会があるが、この日も晩年の交

響曲第9番初演と並ぶ重要なものであった。しかし

これが失敗に終わったことはかなりの精神的ショッ

クを与えたに相違ない。これらのことにベートー

ヴェンの耳の不自由さが関係していたことは予想

に難くないが、この失敗から彼はウィーンに不信

感を抱くようになっていき、以前から持ち上がって

いた「ヴェストファーレンの宮廷楽長にならないか」

という話を真剣に考え始めるのだった。それは宮

廷政府高官の年俸を上回るほどの厚遇であった

のだから、彼が食指を動かしたとしても不思議で

はない誘いであった。

しかし、09年3月当時ベートーヴェンに住居を

提供していたアンナ・マリー・エルデディ伯爵夫人

は、彼の豊かな才能を生計上の苦労によって妨げ

ないために終身高額な4千フローリンの年金支給

を3人の貴族たち(ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯

爵、キンスキー侯爵)が支払うという契約を結び、

彼はウィーンに留まることになったのである。

ところがその直後の09年5月、ウィーンはナポ

レオンの率いるフランス軍に再び占領され、またこ

の戦乱の中でハイドンが77歳の生涯を終えるな

ど、ウィーンはすっかり荒廃してしまうのだった。こ

のころからベートーヴェンは、耳の病気を再び強く

気にしていたようである。フランス軍とオーストリア

軍の戦闘による大砲の音が彼の聴覚を痛打し、そ

のため、彼は弟カールの家の地下室で、クッション

を耳に押し当てて過ごす日が多かったようである。

そして翌10年6月には、劇場支配人のハルトル

との約束であった『ゲーテの悲劇「エグモント」のた

めの音楽』作品84の作曲に没頭した前半を送り、

後半はフランス軍の侵略以降の社会的、経済的

混乱の影響などから、創作上のスランプの時期を

迎えることになったが、翌年も事態はあまり良くな

らなかったようである。

第9節 不滅の恋人

さて、ここで「ベートーヴェンの不滅の恋」の謎に

迫ってみよう。

彼の死後遺言の執行人になっていたシュテファ

ン・ブローニング、アントン・シントラーとベートー

ヴェンの弟ヨーハン立会いのもと、晩年ベートー

ヴェンが親しくしていたヴァイオリニストのカール・

ホルツの助けで遺品を整理したところ、探していた

銀行株券7枚、ハイリゲンシュタットの遺書、2枚の

細密画、3通のラブレターを机の引き出しの奥にし

まい込まれていたのを発見した。ベートーヴェンの

いわゆる「不滅の恋人」とは、この未投函ラブレ

ターの宛主のことをいうのであるが、誰であったの

かはいまだ謎に包まれたままである。名前はT・B

(イニシャル?)しか書かれていないため、書かれ

た時期、文面からわかる状況など様々な要素から

推測するしかないのであるが、この手紙はベー

トーヴェンが残した手紙の中では類を見ないほど、

愛情の高揚と気持ちの乱れを示しているもので、

彼が生涯にわたって彼女を愛し続け、一緒に暮ら

すことができない重大な障害が二人の間にあり、

相手の名前も自分の名前も決して第三者に知ら

れることがないように、細心の注意を払っていたほ

どの秘め事であったことがその文面から伺える。

「やさしい妻を得たものは、我ら(彼ら)の歓喜に

声を合わせよう」という言葉はベートーヴェン第9

交響曲の合唱の中で高らかに歌われる。しかし、

ベートーヴェンは多くの女性と恋を繰り返し、結婚

生活に憧れながらも生涯独身で過ごす。彼の音楽

を理解してくれるほど教養の高い女性はほとんど

貴族の夫人たちであり、彼女たちと恋を繰り返して

も、当時の社会情勢を考慮すれば結婚は難しかっ

た。しかし恋愛は必ずしも失恋ばかりではなかった。

またベートーヴェンは、苦境に陥った彼を慰め、大

きい母親のような存在の女性にも恵まれた。

ボン時代、彼の教養を高め、家庭の安らぎを与

えてくれたのはフォン・ブロイニング家の未亡人で

ある。ピアノの弟子であるこの家の長女エレオノー

レとの間には淡い恋愛感情が芽生える。彼女は後

23

に医師ウェーゲラーと結婚し、夫とともに彼の生涯

の友となった。ウィーンにおけるベートーヴェンは

軽い恋、激しい恋と、様々な恋を重ねていく。

1799年にはブルンスヴィック伯爵家の令嬢た

ち、テレーゼ、ジョセフィーヌ、シャルロッテ三姉妹

との運命的な出会いがある。

1809年、エルデディ伯爵夫人とともに、貴族た

ちから多額の年金を受けられるよう奔走してくれた

グライヒェンシュタイン男爵に「僕に妻をさがす手

助けをして欲しい…美人でなければだめ」という手

紙を書いている。

結婚こそしなかったが、ベートーヴェンのまわり

には母親のような慈愛あふれる女性、音楽を理解

し彼の精神を理解してくれる女性、また彼の作品

をすばらしく賞賛する女性、そしていくたびか結婚

を申し込んだ若く美しい娘たち、くるおしいほど激

しい恋の対象となった「不滅の恋人」等多彩な女

性がひしめいていた。常に女性に積極的にアプ

ローチしていたベートーヴェンはやはり、まれにみ

る勇気ある男性だったと言えるだろう。

第10節 ンプ スラ

ブレンターノとの永遠の愛を心に誓いながらも、

最後の結婚願望の夢も潰れ、人生上の大きな転

換期を迎えるベートーヴェンも既に42歳になって

いた。生涯机の引き出しの奥深くにしまい込まれ

ていた未投函の〈不滅の恋人〉への手紙に返事が

あったであろうはずがない。02年の弟たちに宛て

た〈ハイリゲンシュタットの遺書〉の時と同様に、

ベートーヴェンはここでも自ら恋人の返事を最も厳

しい言葉で下したに違いない。しかしいかに強い

精神力の持ち主であった彼にしても、この試練は

かなり大きな衝撃となったのではないだろうか。

13年から4年間はスランプ期と呼んでも過言で

ないほど寡作期となった。もちろん、その原因を失

恋だけに求めるのは短絡に過ぎるし、正しくもない。

恐らく音楽創作上の深刻な問題に直面していたの

ではないだろうか。もちろん、日常的な雑事や弟

カールの家庭に次々と起こる不幸な状況も彼の創

作の筆を鈍らせる要因の一つだったに違いない。

13年になって、弟カールの胸の病気が急速に

悪化したことも、今や3人の家族(弟たちの連れ合

いには信じられないほど冷淡であった)となり、少

年期から家長的自覚を持っていたベートーヴェン

はカールが心配でならなかった。また、遺言状まで

認めて死を覚悟していたカール一家の経済的援

助にも心を掛けなければならなかったのである。

不運なことは重なるもので、この時期のウィーン

の経済状態はひどいインフレ状態にあり、さらに悪

いことに、終身年金をもらっていたキンスキー侯爵

が落馬事故で急死したり、ロプコヴィッツ侯爵が劇

場運営の失敗で破産したりで、年金受給もままな

らなかったのである。夏になっても例年のように避

暑に出かけることもできず、年金受給交渉で駆け

回らなければならなかった。それでも夏の後半を

短期間ではあるが、弟カールの病状が一時的に

回復していたこともあり、ピアノ製作家のシュトライ

ヒャー一家と共にバーデンで過ごしている。そして

バーデンから戻ると、ルドルフ大公から年金の半

額を受け取り当座の生活をしのぐ状態であった。

ハンガリー首都ブダペスト郊外のマルトンヴァーシャルにあるブルンスヴィック伯爵別邸 1998.10.21 撮影

24

この頃ベートーヴェンは、機械技師のJ.N.メル

ツェルとの親交が深まっていて、彼の発明したパ

ンハルモニコンという自動演奏装置のための作品

を考えていた。本格的な作品のスランプは続いて

いたが、依頼作品や機械音楽の注文に応じない

わけではなかったのである。また、メルツェルはし

たたかな商売人でもあり、ベートーヴェンと組んで

イギリス演奏旅行をして一旗挙げようと考えていた

のである。折しもスペインのヴィットリアでウェリント

ン将軍率いるイギリス軍がフランス軍を打ち破った

というニュースがウィーンにもたらされ、商魂にた

けたメルツェルは、この『ウェリントンの勝利』を

テーマにしたパンハルモニコン用の作品をベー

トーヴェンに持ちかけた。つまり、この曲を手土産

にイギリスに渡ろうというのだ。ベートーヴェンもこ

の話には乗り気となり、急いで作曲に取り掛かり、

オーケストラ用のスコアを完成させたのである。

1813年12月8日にウィーン大学大講堂で交

響曲第7番と『ウェリントンの勝利(戦争交響曲)』

が初演され、予想外の大成功を収めた。これに気

を良くしたベートーヴェンは『ウィーン新聞』にまで

広告を載せて相次いで演奏会を開いた。年明け

早々の14年1月2日のレドゥーテンザールでの演

奏会も、1月9日付けの『ウィーン新聞』が報じたよ

うに「拍手は満場にあふれ、聴衆の陶酔は極限に

達する」ほどの成功を収めたのである。さらに2月

27日にも同会場で前述の2曲に加えて交響曲第

8番も演奏され、ベートーヴェンにかなりの収入を

もたらした。

メルツェルとは、この後『ウェリントンの勝利』の

所有権をめぐり係争することになるが、17年メル

ツェルが持ち帰り改良した新製品「メトロノーム」に

気を良くしベートーヴェンは和解する。

こうしたベートーヴェン人気を見てウィーンの各

劇場管理者や音楽監督たちは、『フィデリオ』の再

上演を打診してきた。今ならば必ず大成功すると

いう助言を得て、ベートーヴェンはトライチュケが

改作・改題した台本に全面改訂し、最終決定稿

(第3稿)の『フィデリオ』が完成した。5月23日に

ケルントナートーア劇場での演奏会は、第1稿の

失敗から10年を経て初めて大きな成功を得たの

である。ともあれ、ナポレオンを讃えることで作曲

が開始された中期の歩みは、その敗北をもたらし

たイギリスの将軍を讃える音楽をもって閉じられた

のである。ベートーヴェンはこののち、大規模な管

弦楽の作曲からしばらく遠ざかることになる。

第11節 ール問題 甥カ

スランプは15年にまで尾を引いていた。演奏会

中心に多忙を極めた前年とは異なり、この年は多

くの作品の出版交渉に追われることになる。

一方、弟カールは春先には回復の兆しを見せて

いたのだが、夏頃から一進一退の病状が現れ、秋

にはそれが急変して11月15日に41歳の生涯を

閉じた。この弟の死は、ベートーヴェンの生活様式

と人生観を一変させることになるのである。弟の遺

児カール(父親と同名のこの甥は06年生まれで、

遺児となった時には9歳を少し過ぎた少年であっ

た)の代父あるいは後見人としての権利を、少年

の実母であるヨハンナと裁判で争う泥沼の時代を

迎えるのである。他界したカールの遺書には確か

に伯父ベートーヴェンが遺児の後見人となるよう

に認められていたが、ここには追記があり、「幼い

息子の幸せのために母ヨハンナも後見人とする」

と書かれてあった。弟の死の直後に下された貴族

裁判所の判定は「母ヨハンナを正後見人、伯父

ベートーヴェンを副後見人」とするものであった。し

かし、ベートーヴェンはこれを不服としてただちに

上訴し、年明けの16年1月16日に単独後見人の

任命を受けたのである。

この裁判の係争の経緯と20年7月24日に最終

的に後見人問題で勝訴するまでの4年半は、神経

をすり減らすような煩わしさを伴った。残された書

類や証言などから見る限り、甥カールの母親ヨハ

ンナは確かにだらしない女性であり、教養と知性

に欠けていたようである。しかしそうしたヨハンナの

母親像が当時のウィーンの一般市民家庭におけ

る平均的女性像ではなかったかという見方もでき

なくはない。ただ、貴族界の女性ばかりを身近に

見てきたベートーヴェンの目には、そして何よりも

プライドの高かった彼には義妹ヨハンナの良さを

見出すことができなかったと考えて良いだろう。

それにしても、実母と伯父の間に挟まれて多感

な少年時代を送らなければならなかった甥カール

が、最もつらい思いをしたのではないだろうか。伯

父によって名門の私立中学校に入学させられた

カールは、四六時中伯父あるいは伯父の知人たち

によって監視され、ベートーヴェンの弟子であった

チェルニーのピアノ・レッスンを受けなければなら

ないという日々を送ったのである。伯父の目を盗

んで再三母親の許に会いに行ったことも無理から

ぬことであったし、それが伯父に知られて叱られた

25

というのもかわいそうな話である。こうした甥カー

ルと伯父ベートーヴェンとの関係を見てゆくと、どう

してもベートーヴェンの異常な愛情が浮かび上

がってくる。多くの恋を失い結婚をあきらめ、最愛

の弟カールを失い、彼の愛の向け場所は今や甥

カールだけになっていたのである。溺愛は時として

本人が意識し得ないほど理性を失っていることが

ある。ベートーヴェンと甥カールの問題は、まさに

そうした不幸なケースであったと言えよう。

こうした日常生活での精神的苦労が重なり、創

作上のスランプからなかなか抜け出せなかった

ベートーヴェンは、しばらく書いていなかった声楽

小品に関心を示し始めた。1816年4月にはヤ

イッテレスの詩による連作歌曲集『はるかな恋人

に』作品98を作曲し、夏にはバーデンに出かけ、

ピアノ・ソナタのイ長調作品101を完成させている。

これら2曲に共通して見られる新しい構成こそ、最

終的には24年の交響曲第9番最終楽章に結実す

る開放的循環形式の芽生えなのである。連作歌

曲集では第1曲の旋律が終曲である第6曲の後半

に回想的に再現されており、『イ長調ソナタ』では

終楽章主部に入る前に第1楽章冒頭主題が再現

的に回想されている。そしてこのソナタの終楽章展

開部に見られるフーガ技法こそ、晩年様式の明確

な表れであり、このきわめてロマン主義的叙情に

接近したピアノ・ソナタの完成によってスランプを脱

してゆくのである。

17年前半は病気がちで、5月頃からは一切の

仕事を休んでハイリゲンシュタットで療養生活に

入っている。6月にベートーヴェンが最も信頼する

真の友人となっていたエルデディ伯爵夫人に宛て

た手紙によれば、ベートーヴェンは前年10月頃か

ら発熱性の激しい腸カタルに断続的に悩まされて

おり、医師の推めで種々の薬を服用したり、マッ

サージや冷泉浴をしたりと治療を試みたが、どれ

も大きな効果はなかったと述べている。

第12節 終わったロンドン楽旅 幻に

このハイリゲンシュタット滞在もあまり健康を回

復することもできず、7月にはヌッスドルフに移って

夏を過ごすことになる。肉体的な苦痛を幾分か和

らげたのは、ちょうどこの頃にロンドンのリースから

届いた手紙であったかもしれない。それにはロンド

ン・フィルハーモニー協会が18年冬のコンサート・

シーズンにロンドンに招待したいとの申し入れが

記されてあった。そして、その来英の際には新しい

2曲の大交響曲を高額な契約金で作曲・持参して

欲しいとの依頼も記されていたのである。恐らく、

ベートーヴェンがこの招待に胸躍らせたに相違な

いのだが、新しい交響曲のスケッチは全く記されて

いない。それほど体調が悪かったとしか考えようが

ないのだが、秋口には新しい「変ロ長調」の作曲に

着手している。

18年1月は、もしベートーヴェンの健康状態が

良ければ、ロンドンに渡っていたところであったの

だが、体調だけでなく恐らく経済的な理由と依頼さ

れていた作品が手つかずのままであったことも渡

英の決断を鈍らせることになったのであろう。しか

しこのチャンスは逃したものの、ベートーヴェンは

渡英の希望を捨てたわけではなかった。25年に

なってからもロンドン・フィルハーモニー協会から

の招待に対して渡英の決心を伝えているし、周囲

の友人たちは口を揃えて「ロンドンに一度行くべき

だ」と薦めてもいるし、甥カールでさえ「ハイドン氏

がロンドンに行ったのは50歳の時だったし、伯父

さんほど有名ではなかったのだからきっと成功す

ると思う」などと薦めてもいる。こうしたことから考

えてもロンドンから注文のあった交響曲を作曲しな

ければという思いが次第に強くなっていったと考え

て良いだろう。

『メードリングの住居』作者不詳 クリストホーフと呼ばれる家 (故児島新氏所蔵)

1818 年から 22 年の夏まで、しばしば過ごし「第九」の創作が進められた

ともかく実現しなかったロンドン行きを幾分か悔

しく思いながらも、18年夏には甥カールを伴って

ウィーン郊外のメードリングへ出かけ、ハフナーハ

ウスと呼ばれる家を借りて過ごしている。ここに

26

ちょうどロンドンのブロードウッド社から新型のピア

ノが贈られ、前年から書きかけていたピアノ・ソナ

タ変ロ長調(いわゆる『ハンマークラヴィーア・ソナ

タ作品106』)の筆を進めながら、結果的に交響曲

第9番第1楽章のスケッチも表れ始めてくるのであ

る。この「二短調」の交響曲のスケッチとは別に、

「アダージョの頌歌、交響曲中に教会調による頌

歌を加え、終楽章で次第に声楽が加わってくるよう

に。オーケストラの編成は通常の10倍の大きさ

で」といった別の新たな交響曲への構想がメモとし

て現れてくる。これこそロンドンから依頼のあった2

曲の交響曲となるべきものであっただろう。しかし、

これはやがて一つの交響曲の中に統合されて現

れることになるのである。

第13節 ノ・ソナタに終止符 ピア

しかしこの年も、甥カールの教育問題で実母と

伯父の間で裁判が繰り返されていた。今やこの問

題は単に母親と伯父という個人的対立ではなく、

双方に多くの弁護士やら証言者を巻き込んだ大問

題にまで発展していた。自分の息子をそばに置き

たいという母親と、最愛の弟のたったひとりの遺児

に、厳格で最高度の教育を与えたいと願う伯父と

の間に和解の接点は見出せなかったのである。難

聴と内臓疾患に加えて精神的な苦悩まで背負い

込みながら、再びベートーヴェンは創作への情熱

を取り戻しつつあった。

1818年にはウィーンのカッピ・ウント・ディアベ

リ社の共同経営者で作曲家のアントン・ディアベリ

が、『祖国芸術家協会』と銘打った曲集の出版を

思いつき、自作ワルツ主題を当時のオーストリア

在住の作曲家などで変奏曲を競作しようという企

画を立てていたのだが、結果的にはベートーヴェ

ンを除く50人の作曲家の変奏曲集が出版された。

つまり、ベートーヴェンは当初の計画であった小変

奏曲を『ディアベリの主題による33の変奏曲』とい

う記念碑的な大作に仕上げてしまい、別の形で出

版されることになったのである。

19年になっても後見人問題の裁判は続いてい

たが、この年の5月もメードリングに移り、前年同

様10月までの半年間をハフナーハウスで過ごし

ている。そしてこの頃、彼の最大の理解者であり、

唯一の作曲上の弟子であったルドルフ大公のオ

ルミュッツ大司教就任のニュースが報じられる。

ベートーヴェンは早速『ミサ・ソレムニス』を大公へ

のお祝いとして大司教就任即位式に間に合わせ

るべく作曲の筆を執ったのである。しかし、この年

も甥カールをめぐる訴訟問題で年が明け、ついに

20年3月9日の即位式典には間に合わなかった。

それでもベートーヴェンは大司教となったルドルフ

大公のためにこの曲の完成に情熱を傾け、それと

同時に信じられないほど多くの大作を完成させよ

うとしていたのである。

その他にも新しいピアノ・ソナタ3曲(最後の3大

作)の作曲にとりかかっているが、21年の前半は

病気がちで、年の始めからリューマチ熱で寝たり

起きたりの2ヶ月を送っている。春になっても健康

は思わしくなく、ピアノ・ソナタの作曲はホ短調ソナ

タ作品109のみで中断され、『ミサ・ソレムニス』の

筆もあまり進まなかったようである。医師の薦めで

初夏からウンターデーブリングに移って静養してい

るが、ルドルフ大公へ宛てた手紙によるとミサ曲完

成が遅れていることを謝罪しながら、「とうとう黄疸

症状が体中に出てきてしまいました。」と述べてい

ることから病状はかなりひどく進行していたようで

ある。

同時に全く異なるジャンルの作品を作曲するこ

とがどのようなことであるかはわからないが、暮れ

近くにはかなり健康を取り戻し、ミサ曲よりもむしろ

ピアノ・ソナタに力を注いだようである。22年1月1

日に、グラーツのシュタイヤーマルク音楽協会から

名誉会員に推挙される知らせを受け、創作に熱中

していたベートーヴェンにいくらかの励みになった

のであろう。1月13日にハ短調作品111を仕上げ、

ただちに変イ長調作品110を完成させたのである。

こうして30年間に及んだピアノ・ソナタ創作に終止

符を打ったのだが、彼は古典時代にハウスムジー

ク(家庭音楽)として成立していたピアノ・ソナタを、

27

ベートーヴェンの使っていた筆談帳左頁は弟子のシントラー、右頁はベートーヴェンの筆跡

深い内容として高度な技巧を持つ芸術様式にまで

高め、ソナタ形式の可能性の極限に達する音楽を

樹立したのである。これが19世紀の後続作曲家

たちに与えた影響には計り知れないものがある。

今やベートーヴェンの創作の中心は『ミサ・ソレ

ムニス』と『ディアベリ変奏曲』に向けられることに

なり、5月頃からはミサ曲の出版交渉を展開してい

る。もちろん作品はまだ完成されていないが、この

作品にかける彼の自信と情熱を窺うことができる。

そして1822年秋にはペテルブルクの音楽愛好

貴族ニコラス・ガリツイン侯から新たな弦楽四重奏

曲の作曲の依頼を受けるが、ベートーヴェンはこ

の依頼を受ける半年ほど前から弦楽四重奏曲を

構想しており、未着手ながらまさに渡りに舟という

タイミングであった。

23年3月19日に正味4年間をかけて書き続け

てきた『ミサ・ソレムニス』をルドルフ大公の許に持

参し、『ディアベリ変奏曲』も4月に出版されること

になった。ガリツィン侯からの依頼はあったものの、

今やベートーヴェンは懸案の『第九』に専念すると

きとなった。4月上旬のある日、ベートーヴェンは

ある父子の訪問を受けていた。半年ほど前から彼

の身の回りの世話をするようになっていたアント

ン・シントラーに伴われてやってきた訪問客が、筆

談帳に残した言葉は、「私は13日の日曜日に演

奏会を開きます。是非ともご来席いただきたくお願

い申しあげます。」となっている。ベートーヴェンの

弟子であったカール・チェルニーにピアノを習って

いた11歳のリストであった。リストが後半の思い

出として語るところによれば、演奏会に来てくれた

ベートーヴェンはステージに上がってきてリストを

抱き上げてキスしてくれたということである。

初夏からヘッツェンドルフ、8月後半からはバー

デンに移り、『第九』の筆が急ピッチで進められ、こ

の年は例年より長くバーデンに滞在したらしい。

作曲の実

であるが、予

れていた。こ

曲第9番は以

ると述べてい

①1812年

う意図が

②1818年

歌詞とともに書 音

ベートーヴェン自筆スケッチ 1823 年頃

かれた第2主題のメモ。音符こそ2分の2拍子の形で書かれているが、上の段は高音部、下の段は低部と見れば、二重フーガの冒頭あるいは第 671 小節のところと一致することは間違いない。

第14節 曲第9番ニ短調 交響

質的な仕事が開始されたのはこの頃

備となる仕事はかなり前から進めら

の点に関してロマン・ロランは、交響

下のような4つの源流の合流点であ

る。

にニ短調の交響曲を作曲したいとい

あったこと。

に交響曲に声楽を入れようという計

画があったこと。

③青年時代からシラーの『歓喜への頌歌』による

歌曲を書こうという固定観念があったこと。

④終楽章の有名な主題旋律が、青年時代から

様々な形であらかじめ作られてきたこと。

の以上である。

このような合流の結果できた交響曲第9番は、

音楽の基本的スタイルについては中期を踏襲しつ

28

29

つ、多くの新しい考え方を提示する作品となった。

特に重要なポイントを挙げてみよう。

①まず、交響曲の中に声楽を導入したこと。この

先例を受けて、メンデルスゾーンやリスト、

マーラーにより声楽を取り入れた交響曲が作

られるようになった。また、ワグナーはこうした

考えの中に彼の説く「未来の音楽」の実際的

可能性を見出し、彼自身の音楽を作り出した。

②次に、主題形成の新しい手法が指摘された。

第1楽章は第3音を欠いた属和音の持続の上

に、あたかも導入部のように開始されるが、こ

れはすでに第1主題の生成のプロセスとなっ

ている。それまでの主題は 初から明確な

〈形態〉をもって登場したが、交響曲第9番とと

もに〈生成〉としての主題が現れたといってよ

いだろう。そしてこのような作法はブルックナー

の交響曲などに大きな影響を与えている。

③この曲では 後の楽章でそれまでの3つの主

題が回想されているが、それだけでなく、分析

的に見ると楽章間の主題的関連が明確に作り

出されていることがわかる。こうした考え方は

早速シューマンの作品などに応用され、ロマン

派音楽の主要な構造原理の一つとなった。

このような意味で、交響曲第9番は「合流」であ

るとともに、音楽史の新しい流れの一つになったと

いうことができよう。

約30年にも及ぶ構想期間を経て、1824年2月

中旬に待望の交響曲第9番「ニ短調」が完成する。

実際に本格的かつ継続的な作曲が行われたのは、

『ミサ・ソレムニス』がほぼ完成に近づいた22年遅

くになってからであったと推定されているが、作曲

の中心は23年であり、全曲の完成に要した時間

はほぼ1年半ほどであったことになる。しかもシ

ラーの頌詩『歓喜に寄す』の終楽章

決定は、完成の約半年ほど前で

あったと考えられるのである。

初演奏会場と初演日、そしてソリ

スト陣や大オーケストラと合唱など

についての準備は、24年の年頭か

ら始まっていた。一時はベルリン初

演などのベートーヴェンの希望など

も出て、ウィーンの音楽愛好家たち

をあわてさせる経緯もあったが、

ウィーン上演を求める長大な請願書

がベートーヴェンを動かし、24年5

月7日にケルントナートーア劇場で

初演されることになったのである。満

員の聴衆を集め、熱狂的な支持の中での演奏会

は、前半を『献堂式』序曲と『ミサ・ソレムニス』の3

章、後半が『第九』というプログラムであった。

自ら指揮棒を振ったベートーヴェンの耳は、既

に全く音を感じることができなくなっていたため、演

奏後の客席からの割れるような拍手に気付かず、

客席に背を向けたままであったという話はあまりに

も有名である。そして5度の拍手を止めさせるため

警官が入ったとも伝えられている。もはや今までの

ように苦難に押しつぶされそうな彼ではなく、自ら

勝利を勝ち取った勝者の姿がそこにあった。

この曲の有名な「歓喜頌歌」が演奏されるのは、

70分にもわたるこの曲のほんの一部( 後の20

分)である。それまでの曲は「歓喜頌歌」が現れる

ための導入部に過ぎないと考えるようでは、あまり

に悲しかろう。

ベートーヴェンは、『第九』初演直後にも「第4楽

章を楽器のみのものに取り替え、合唱付のものは

次に回そう」と語ったと言われている。色々と含み

が感じられる言葉であるが、ベートーヴェン自身も

この曲をイギリスへ持参する約束の2曲の交響曲

として、再構築の可能性を考えていたのではない

だろうかとも解釈できる。実際この曲は、奇抜な第

4楽章の影に隠れて、前半の3つの楽章が目立た

なくなってしまっているが、特に第1楽章や第2楽

章は、古典的な交響曲として比類ないほどに高い

完成度を持っている。

ベートーヴェンにもう一度この曲をいじるだけの

時間があったら、純粋な器楽の交響曲とオーケス

トラと合唱による壮大なロマン的交響曲(いわゆる

第9番と第10番のセットの交響曲として)の二つに

作り替えていたのかもしれない。

ケルントナートーア劇場 作者不詳 「第九」が初演された劇場(ウィーン市立歴史博物館所蔵)

第4楽章のための自筆草稿(スケッチ帳 Landsberg8/2 より) 1823.5~1824.6

第15節 ールの自殺 甥カ

1824年5月23日の日曜日の昼に大レドゥーテ

ンザールでの『第九』の再演を終えると、ベートー

ヴェンはただちにバーデンに向かい、11月までの

約半年間の滞在で、ガリツィン侯から依頼されて

いた弦楽四重奏曲3曲のうち、まず変ホ長調作品

127を完成させ、さらに前半から1曲ずつ書きた

めていた『6つのバガデル』作品126を完成させて

いる。25年夏も引き続きバーデンで弦楽四重奏

曲の作曲に精を出しているが、この頃には再び腸

の病気が悪化して吐血するほどになっていた。そ

れでも創作は続き、その第3楽章に「病癒えたる者

の神に対する聖なる感謝の歌」と記すことになる

美しい楽章をもった弦楽四重奏曲イ短調作品132

を一気に書き上げた。

そして10月15日にはウィーンに戻り、最後の

住居となるシュヴァルツシュパニエルハウス(黒い

スペイン館)の三階の1室に新しい住まいを定め、

作品130の作曲に打ち込んでいた。この借家の

近くにはボン以来の友人であるブロイニング家の

住まいもあって、親交が再びあたためられている。

恐らくそうした関係からであろうが、この暮れにな

るとシュテファン・ブロイニングの妹であり、ベー

トーヴェンの初恋の女性であり、そして親友ヴェー

ゲラーの妻となっていたエレオノーレから10年ぶ

りの親愛の精のこもった手紙などをもらい、精神的

に安定した生活を送るようになっていた。

26年3月になると弦楽四重奏曲作品130をガ

リツィン候に送り、3月21日シュパンツィヒ四重奏

団により初演されたが、終楽章のフーガの難解さ、

長大さのために失敗してしまう。しかしベートー

ヴェンはくじけることなく新作の四重奏曲の試演や

作品130のための新たな終楽章の作曲、そしてさ

らに新しい「嬰ハ短調」弦楽四重奏曲の作曲など

に集中することになり、初夏までウィーン市内で作

曲の仕事を進めていた。

ここでベートーヴェンの生涯で最大の痛恨事と

なる事件が起きたのである。甥カールがピストル

で自殺未遂をはかったのだ。カールは前年まで

通っていた大学を中途退学して実業学校に通って

いたのだが学業についてゆけず、ベートーヴェン

が大金を払って家庭教師をつけた上、弟のヨーハ

ンやこの頃秘書であったカール・ホルツに命じて、

カールの監視をするような状況になっていた。恐ら

く精神的に追いつめられていた20歳のカールにし

てみれば、自分への周囲の期待の大きさに押しつ

ぶされるような思いをしていたのであろう。

30

腕時計を質種にして2丁のピストルを入手した

カールは、1826年7月29日にバーデンに向かい、

7月30日何度も伯父ベートーヴェンと登ったことの

ある美しいヘレーネ渓谷の遺跡ラウエンシュタイン

城趾で、ピストルを左のこめかみにあてて弾丸を

発射したのである。幸いにも弾は頭皮を裂いたも

のの頭蓋を貫通することなく命をとりとめたのであ

る。偶然通りかかった人に助けられ、ウィーン市内

の母親の家まで運ばれたのである。ただちに外科

医の治療を受けさせ、傷口は思いのほか軽傷で

済んだのだが、当時のオーストリアでは自殺行為

は神に対する冒涜ぼ う と く

との考えから重罪に処せられる

法律があり、当初ベートーヴェンは外科医に口止

めしていたが、1週間後の8月7日にはホルツを代

理人として警察へ届け出をしたのである。カール

は司直の手により強制的に病院に入院させられ、

取り調べと救世主会司祭による厳重な警告を受け

て9月25日に釈放されたのである。

この間のベートーヴェンの精神的苦痛は想像に

あまりあるのだが、そうした悩みを押し殺すかのよ

うに創作に打ち込み、2曲の弦楽四重奏曲の筆を

進めていたのである。「商社マンになることをあき

らめ、軍人になりたい。」というカールに大反対した

ベートーヴェンだったが、ブロイニングなどの友人

たちに説得されて渋々承知したのだった。

第16節 で送られた最期 雷鳴

カールが退院して3日目の9月28日には、カー

ルと弟ヨーハンの3人でヨーハンの農場のあるグ

ナイクセンドルフに静養をかねて出かけた。ドナウ

渓谷の高台にある美しい景観を持つヨーハンの家

で11月末日までの2ヶ月間を過ごすうちに、最後

の作品となる「へ長調」四重奏曲を仕上げ、また作

品130のための『大フーガ』に代わる新しい終楽

章も完成させている。暮れのウィーンでの演奏会

や新作の出版交渉も気になり始めたベートーヴェ

ンは、12月1日の早朝に突然ウィーンに帰宅する

ことになる。予約が必要な駅馬車も準備できず、

厳寒の冬の朝に幌も付いてない牛乳運搬馬車で

グナイクセンドルフを後にしたのである。

防寒コートもなく馬車を駆り、途中で一泊しなけ

ればならなかった宿には暖房もなく、風邪から高

熱を出し、一晩中寒さに震え翌朝再び馬車に揺ら

れてウィーンに帰り着いた時には、かかりつけの

医者の往診の都合がつかず、12月3日と4日を自

宅で耐え、5日にようやくホルツが連れてきた総合

病院のヴァヴルフ博士の診断を受けたのであった。

6日にも2回往診しなければならないほど体力は

衰え、肺炎も危険な状態を起こし、12日には強い

黄疸が現れ、夜間には発作的な呼吸困難も起こし、

腹水も大量にたまるほど悪化していた。ヴァヴルフ

博士は同僚のシュタウデンハイム博士と相談し、

腹水を抜く手術が緊急を要するとの結論に至り、

外科部長ザイベルト博士の執刀により12月20日

に第1回目の手術が行われたのである。

56歳の生涯を閉じるベートーヴェンに残された

4ヶ月弱は病床生活となる。しかし、体力の衰えと

は逆に悟りの境地に至ったベートーヴェンは、イギ

リスから「ヘンデル全集」を取り寄せるなど、もし健

康が回復すればオラトリオを書きたいという考えを

強く持ち、楽曲の研究を続けている。ベートーヴェ

ンの重体の噂はウィーン中に知れ、毎日のように

旧友や知人たちが見舞いに訪れ、その都度ベー

トーヴェンは気丈ぶりを発揮し、駄洒落さえ口にす

るほどであったという。恩人への礼状やら出版に

関する事務的通信をシントラーたちに口述させ、3

月23日には遺書を認め、翌24日には見舞い品と

してマインツのショット社から送られてきた「1806

年物リューデスハイム・ワイン」1ダースを横目にし

ながら、「残念、残念、遅過ぎた」と言うだけで、も

はやグラスを口に運ぶ気力さえ失っていた。この

日の午後に医師団は司祭を呼び、終油の秘蹟を

授けると、この晩から昏睡状態に陥ったのである。

そして3月26日午後5時45分、2日間の昏睡から

目覚めた彼は、両目を見開き、右手拳をふりあげ

て一点を見つめ、無言のまま手を落とすと同時に

永遠の眠りにつ

いたと言われて

いる。

ウィーン中央墓地に改葬された墓標1998.10.23 撮影

最後の住居と

なったシュヴァ

ルツシュパニエ

ルハウス(シュ

ヴァルツシュパ

ニ エ ル シ ュ ト

ラーセ15番地)

の庭には春の

残雪が、時なら

ぬ稲妻に輝き、

雷鳴が轟いてい

た夕方のことで

あった。

31

第3章 作品における現代性 たとえばハンマークラヴィーア・ソナタや、ディア

ベッリ変奏曲、ミサ・ソレムニスなどのベートーヴェ

ン後期の主要な作品には、難解というイメージが

つきまとっている。しかもこれらは、いわゆる「沈黙

の時代」にも作曲が辛うじて続いていたピアノ・ソ

ナタを別にすれば、中期までの同じジャンルの作

品と比べて約10年の隔たりを持って作曲され、

ベートーヴェンの創作においてそういう点でもかけ

離れた一群を形成している。

この「難解さ」はベートーヴェンが自己の世界に

突き進んでいって、孤高の存在となっていったこと

の結果である。音楽の主たる機能が宮廷や教会

の行事を彩るのではなく、市民生活に潤いをもた

らすものに変わっていくと、作曲家たちは人々の

「理解しやすさ」を追求するようになっていった。た

とえばハイドンの有名な「私の言葉は世界が理解

するだろう」という誇らしげな表現は、そういった脈

絡の中で出てきたものである。しかしハイドンは市

民の趣味にすら迎合せずに、芸術性と普遍性の

絶妙なバランスを保ち得たが、市民社会の要求に

流されていったあまたの作曲家たちがいた。また

それとは対照的に、モーツァルトは晩年に世間の

無理解に直面した。そしてこの両極は19世紀の

作曲家たちにとって一つの磁場となった。すなわち

ポピュラーになる消費的な音楽を生産して束の間

の人気を勝ち得るか、「難解な」音楽を書いて世間

から相手にされないかである。この問題は市民社

会の延長上にある今日に生きている。こうした「現

代性」をベートーヴェンの創作ははらんでいた。

ベートーヴェンがこうした両極の、これ以上あり

得ないような均衡を保ち得た、いわゆる「傑作の

森」を抜け出てしまったとき、彼に広がったのはこ

の二者択一ではなかったのか。ナポレオン体制の

崩壊とウィーン会議の関連とはいえ、1814年に

今日ではまず演奏されない通俗的な作品がベー

トーヴェンの作品表に立ち並ぶのは、ひとつの選

択肢に彼が一時的になびいた証明であろう。そう

した彼が決定的な道を選ぶにはさらに沈黙の3年

間が必要ではあったし、しかもその道に彼は決然

として踏み込んだのではない。『ハンマークラ

ヴィーア・ソナタ』に見られる「中期」の残照がそれ

をよく物語っている。そして1作ごとにどんどん自

分の世界に沈潜していく。

19世紀前半の世界は『第九』を全く不消化で

あった。あるいはそもそもベートーヴェンのシンフォ

ニー全体の吸収も十分ではなかったと言えるかも

知れない。シューマンやメンデルスゾーンを含めて、

彼らのシンフォニーの根底にあったのはハイドン、

そして特にモーツァルトの後期の作品であった。も

ちろん楽器は18世紀から大きく変化していたから、

響きとしてはモーツァルトのシンフォニーと彼らの

それとはかなり違っている。したがって表面的な印

象としてはその親近感が覆い隠されている。それ

らに共通しているのは、美しい旋律とダイナミック

な対比が和音の変化に支えられて進行していく心

地よい音楽、ということである。それに対してベー

トーヴェンの追求してきたことは何か。それは万人

に受け入れられる芸術性に優れた心地よい音楽

ではなく、音楽による世界観の表明であって、音楽

を思想表現の手段にしよう、ということであった。

ベートーヴェンの作品がすべてこうした路線上に

あるわけではもちろんないし、そうであるものとな

いものとの区別も明確ではない。またいつ頃から

そうした傾向が出てくるかも議論の余地がある。し

かし、『英雄』シンフォニーにはそれがはっきりと現

れていることは衆目の賛意が得られるのではない

か。このようなシンフォニーは18世紀にはなく、こ

の作品がこのジャンルの意味を転換させたと言え

る。そうして『第九』は、世界秩序の提示《第1楽

章》から、人類社会の理想像《第4楽章》までが表

現されている。そうして後期では、音楽による思想

表現が全面的に開花した。これは作曲という行為

を、そして作曲家という職業を決定的に変質させて

しまった。

『第九』が現在クラシック音楽として最大のポ

ピュラリティを獲得している作品の一つであるとい

う表面的な事実と、ここで述べたことは矛盾しない

はずだ。

『ベートーヴェン像』1814 年 B.ヘーフェル画

(ウィーン楽友協会所蔵)

32

第4章 ベートーヴェンをめぐる女性、『不滅の恋人』

ジュリエッタ・グィチャルディ(ガルレンベルグ伯爵夫人):1785年生まれ(15歳年下) 『不滅の恋人』が1800年に知り合ったブルンス

ヴィック伯爵家の姉妹たちのいとこ、「ジュリエッタ・

グィチャルディ」であるとしたのは、遺言執行人の1

人アントン・シントラーが出版したベートーヴェンの

伝記の中で、シントラーが主張したからである。

その根拠の第一は、ベートーヴェンの生前に

ベートーヴェンからこの女性の名前を聴いたこと。

第二に作品27-2『月光ソナタ』が彼女に献呈され

ていること。第三に秘密の引き出しから発見された

女性の細密画の一枚がジュリエッタの息子によっ

て彼女のものであると確認されたからという。

もう一人の遺言執行人シュテファン・ブローニン

グは、ベートーヴェンの後を追うように数ヶ月後に

他界してしまい、永いこと誰もシントラーの説を疑う

ものはいなかった。

ジュリエッタの母親は故ブルンスヴィック伯爵の

妹、つまりテレーゼたち叔母である。ベートーヴェ

ンはジュリエッタと恋愛関係になり、01年11月16

日付けの親友ウェーゲラー宛ての手紙で彼女との

恋は「結婚して幸福になれるだろうと考えたのは今

度が初めてだ。」とそのことを吹聴して書いている。

ベートーヴェンの自慢にもかかわらず、華やかで

奔放なジュリエッタは、身分の違いからガルレンベ

ルグ伯爵と結婚してしまう。

『月光』ソナタは01年作曲、幻想的な美しい曲

でジュリエッタに捧げられた。『ムーンライト・ソナ

タ』とも呼ばれ、ベートーヴェンが目の見えない少

女のために月光の中で作ったとか、別れの曲とし

て作ったとか、他にも様々な伝説も生んでいる。

ジュリエッタに『月光』ソナタを捧げた7ヶ月後、0

2年10月ベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの

遺書」を書かれているが、耳の障害があったとして

もこの遺書がジュリエッタと直接の関係があったか

どうかは定かではない。

テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック:1775年生まれ(5歳年下) 死後50年を経て、最初の異説は有名なセイ

ヤーの伝記「ベートーヴェンの生涯」によってとな

えられ、ブルンスヴィック伯爵令嬢テレーゼこそが

それであるとされた。

その決め手として、才気煥発型の長女テレーゼ

は、ピアノの腕前も教養も相当高い女性で、かつ

てはベートーヴェンとの婚約説もあり、またT・Bの

頭文字から判断して彼の遺品の中に残された彼

女が描いて贈った肖像画が保存されていたことで

あるとして、不滅の恋人の有力候補とされていた。

その肖像画は現在、ボンのベートーヴェン・ハウ

スに展示されている。でもそれは永いこと伝えられ

ていたような秘密の引き出しから出たものではなく、

ずっと大きいものである。

ジョセフィーヌ・フォン・ブルンスヴィック(ダイム伯爵夫人):1780年生まれ(10歳年下) ブタペスト近郊マルトンヴァーシァルにはブルン

スヴィック伯爵家の別邸があり、テレーゼ、弟フラ

ンツ、妹ジョセフィーヌ、末娘シャルロッテの四人が

いた。ベートーヴェンとの運命的出会いは1799

年5月ウィーン滞在中に、レッスンを受ける目的で、

ブルンスヴィックの姉妹テレーゼとジョセフィーヌが

伯爵夫人につれられて彼に会ったときである。

その頃、若くて気難しい巨匠ベートーヴェンは、

人嫌いで会うことも無理であろうとウィーンで噂さ

れていた。ところが話とはおよそ違い、ベートー

ヴェンはすぐさま親密に打ちとけ、熱心にレッスン

を行うようになった。ベートーヴェンとの18日間の

交際が、後にすべての人々にとって運命的なもの

となった。

ジョセフィーヌはその後ただちに結婚させられダ

イム伯爵夫人となったが、不幸な結婚で社交界か

ら締め出され毎年出産していた。そんなときでも彼

女はしばしばベートーヴェンの訪問を受けていた。

夫ダイムは投機に失敗して破産状態に追い込ま

れ、04年1月ダイム伯爵が旅先のプラハで急死。

まもなく四人の子の母になろうという24才の若い

彼女にとって突然に訪れた夫の死の衝撃は大き

かった。

この04年の秋頃からベートーヴェンとジョセ

フィーヌは急激に親密度を増し、これを姉妹は心

配し、妹シャルロッテは「これは少し危険です。そう

言ってもかまいません」と心配するほど進展し、長

引くほどに深く静かに進行していく。

07年末、最後は互いの立場を考えた二人が理

性的に決着をつけてこの恋は終わるが、後に彼女

がベートーヴェンの子を産んだという推測もあり、

これは全く否定できない状態にある。

33

ジュリエッタとテレーゼがベートーヴェンの伝記

の中で主役であった間、ジョセフィーヌはずっと忘

れ去られていた。しかし、そもそも『月光』ソナタを

最初に弾いたのもジョセフィーヌであり、エロイカ、

アパショナータ、レオノーレなどロマン・ロランが

「傑作の森」と呼ぶこの時期の作品群を、完成され

る前のスケッチの形で聴いたのはジョセフィーヌだ

けである。

アッパーショナー(熱情)とジョセフィーヌ 1807年2月、2年前から創作された作品57の

ピアノ・ソナタ『熱情』を「我が友にして兄弟なるフラ

ンツ」に献呈した。しかし女性ばかりに囲まれて

育った不感症な「氷の騎士」とあだなされる人物に

贈る作品としては『熱情』は全くふさわしくなく、思

い描いていたのはジョセフィーヌであろう。

さらにベートーヴェンにとって運命はもう一つの

痛撃、奈落の底に突き落とす事実が重なった。確

かにベートーヴェンは彼女を愛した。しかし前述の

ように、ジョセフィーヌは最終的にはダイム男爵と

不幸な結婚をしてベートーヴェンから去っていった。

それも姉のテレーゼの骨折りと采配によって。

だが経済的に失敗した男爵の失踪から、彼女

は非常な経済的苦境に落ち入り、それをベートー

ヴェンは懸命に援助した形跡がある。永いことある

時期のベートーヴェンは社会的変革、貴族の没落

によって困窮の時期があったとされていたが、

ベートーヴェンに支払われた出版社からの金額の

調査などによって、彼の経済状態はかなり良かっ

たことが判明している。

そして、ベートーヴェンに運命の最後の一撃を

与えたのは、ジョセフィーヌの最後の子供はベー

トーヴェンの子供ミンナ・ベートーヴェンであり、そ

の出産をウィーンから離れて助けたのはテレーゼ

であり、そのことを1812年の同じ時期にベートー

ヴェンは多分同じカールスバッドで知らせを受けた。

しかもテレーゼから。それがベートーヴェンにとっ

て、どんな衝撃であったことか。

それ以後に書かれた「ひたすらに運命に耐える

べき」とか胸を掻きむしるようなベートーヴェンの絶

望の言葉は、重大な事実の知らせを意味している

ことである。このベートーヴェンの1813年の危機

は精神的に深刻だったに違いない。

テレーゼは生涯独身であったこと、彼女は孤児

院を経営してそれに献身的に尽くしたこととの暗黙

の符号。テレーゼは永いことベートーヴェンの『不

滅の恋人』とされていて、後年彼女は質問を受け

ても一切について一言も語らなかった。ジョセ

フィーヌの運命を差配した自責の念と共に、万感

の思いがそこにあったことの証明であろう。

ベートーヴェンに肖像画を贈った3人 1807年5月11日付けの手紙で、テレーゼ自身

の肖像画を早く贈ってくれるようベートーヴェンは

頼んでいる(現在ボンにある)。この手紙に触発さ

れ、ブルンスヴィックの三姉妹は自分の肖像画を

ベートーヴェンに贈ったと言われている。

当時、一人の女性が男性に肖像画を贈るという

のは、特別なニュアンスを含むのだが、もしそれが

3人であればニュアンスも相殺される。テレーゼと

共に贈られた写真はジョセフィーヌとシャルロッテ

であって、つまり、秘密の引き出しの中にあった、

ジュリエッタとされていたものがジョセフィーヌであ

り、エァデーディ夫人とされたのがシャルロッテで

あるという推論は成り立つ。

09年にベートーヴェンは作品78のピアノ・ソナ

タを肖像画のお返しとしてテレーゼに贈っている。

マリー・エァデーディ伯爵夫人 そのもう一枚の細密画は永いことマリー・エァ

デーディ伯爵夫人のものとされてきたが、この細

密画は残されている他のエァデーディ夫人の面立

ちと明らかに違い、またジュリエッタとされていた細

密画についても別人説が現れた。その理由として

は、ジュリエッタと認めたのが彼女の息子であり、

自分の母親の17才当時を見たことがないため誤

認の可能性は否定できないということである。

1807年の末頃、ジョセフィーヌがベートーヴェ

ンから去った時、ベートーヴェンは深い絶望感を抱

いていたに違いない。その心の重荷を受け止めて

くれる人がいたとしたらそれはエアデーディ伯爵夫

人だろう。二人の出会いはヴァン・スィーテン男爵

家の音楽会であり、04年ベートーヴェンは引っ越

して彼女の隣人となり、二人の親交は始まった。

ベートーヴェンは彼女を自分の「懺悔聴聞僧」な

どと呼び、それからは長年自分の恋の悩みを逐一

打ち明けていたようである。

1807年ジョセフィーヌと別れたあと、エァデー

ディ伯爵夫人の家に身を寄せていたことは1808

34

年11月12月のベートーヴェンの手紙で、自分の

住所をエァデーディ伯爵夫人方としていることから

わかる。しかしそれも長続きしない。ベートーヴェン

は彼女の家を出て、二人の交際が再び心のこもっ

たものとなるのは1815年から後のこと。

ベートーヴェンは後に作品102のチェロ・ソナタ

二曲を彼女に捧げている。これは ベートーヴェン

が恋愛感情抜きで、そうした感情が醒めた後でも

異性に対して暖かい友愛と感謝の気持ちを持ち続

けた一つの証であるとされている。

アントニー・ブレンターノ 銀行家ブレンターノと結婚したアントニーは、決

して不幸とはいえないまでも夫との性格の違い、ま

た大家族の主婦としての負担に疲れ、三年このか

た病気の父親を看病にウィーンに来ていた折りに

ベートーヴェンとの出会いがあり、次第に心が通う

ようになった。父の死後、遺産財産を整理してひそ

かにイギリスに行きを計画し、新しい生活をベー

トーヴェンと共に持つことを彼女は考えていたとい

われている。

そこへ突如としての体の変調、すなわち思いも

かけなかった妊娠、それもこともあろうに殆ど別居

同然であったのに夫ブレンターノとの「別れの儀

式」によるこの突然の異変によって、彼女はもう錯

乱状態に落ち入りかけたのである。

それを極力なだめるベートーヴェンの愛の手紙、

そう考えることによって、あの激情愛の奔流の文

面と、できるだけ早まったことがないようになだめ

めすかし懇願する奇妙な調子の説明合点がゆく

のである。

ベッティーナの結婚をベートーヴェンに伝えたの

はベッティーナの兄フランツ・ブレンターノの妻、ア

ントニー・ブレンターノである。病に臥しがちなアン

トニーをしばしば見舞いに訪れた彼は、隣室から

ピアノを弾いて慰めることも少なくなかった。彼がト

ニーと親しげに呼んだこの女性は現在「不滅の恋

人」の最有力候補とみなされている。家族関係の

難しいブレンターノ家を逃れて、父の財産処分を

理由に故郷ウィーンに帰ってきたこの女性との関

係は、夫がいることもあって表面に出すべきもので

はなかった。彼女とはたびたび彼が避暑地に訪れ

ていたボヘミアのテープリッツで密会し、そのこと

が彼女を不滅の恋人としてクローズアップされた

理由となっている。

もちろんトニーと解釈すれば T.B.と一致する。

ベッティーナ・ブレンターノ フランクフルトの名家の娘ベッティーナはフラン

ツ・ブレンターノの妹、この時25才、同じイタリー系

で黒い髪と黒い瞳をしていた。彼女は当時アルニ

ムと婚約の間柄であり、1809年ウィーンにきて姻

戚関係にあるビルケンシュトック家に泊まり、そこ

でベートーヴェンと出会った。彼女は持ち前の知

性と感覚の良さでベートーヴェンの本質を即座に

捉え、ベートーヴェンの芸術に感激し、それをゲー

テに伝えることにより、ベートーヴェンとゲーテとの

橋渡しをすることになったといわれている。ベッ

ティーナの書いたベートーヴェンの人柄、芸術に関

する考察によって、ゲーテはベートーヴェンに関心

を抱くようになった。いずれにしても、ベッティーナ

はベートーヴェンにとって真の友を得たと思ったよ

うであるが、彼女も他の男性と結婚してしまう。

ドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人 こうした友情の例としてドロテア・フォン・エルトマ

ン男爵夫人をあげることもできる。ベートーヴェン

からピアノ・ソナタ作品101を捧げられた彼女は、

ベートーヴェンの作品をよく演奏し、ベートーヴェン

の死後、彼女の努力がなかったなら、ベートーヴェ

ンはもっと早くウィーンから忘れ去られていたかも

知れないとされている。

テレーゼ・マルファッティ 1809年はベートーヴェンにとってもう一つの珍

しい年となる。この3月エァデーディ伯爵夫人と喧

嘩別れをして以来、ベートーヴェンの身辺には一

人の女性の影もなかった。そのせいか、彼は8才

若いグライヒェンシュタイン男爵に結婚を前提とし

て「妻探し」を依頼している。

そして、グライヒェンシュタインが当時しげく出入

りしていた世襲貴族ではなかったが、上流貴族の

一員であった裕福な地主マルファッティ家には、ア

ンナともう一人18歳の黒髪の乙女テレーゼ・マル

ファッティとがいた。たちまちベートーヴェンはこの

テレーゼに熱をあげ、精一杯のおめかしをして彼

女に結婚を申し込むが、拒絶されてしまう。

35

エリーゼのために 後世ポピュラーとなる『エリーゼのために』のエリーゼとは、ベートーヴェンの悪筆によって、テレーゼを

エリーゼと読み誤らせたものだと言われている。

恋文についての検証 遺品として発見された宛名も日付も書かれた場

所もわからない3通の恋文という証拠を巡り、当時

の気象記録、古文書、当時の新聞、関係資料、秘

密警察の記録文書、当時の駅馬車、郵便馬車の

発着時刻までの綿密な調査が行われ、問題の手

紙は1812年、ボヘミアの温泉地テープリッツから

カールスバートにいたブレンターノ夫人に向けて書

かれたものであり、ベートーヴェン42才の夏という

ことが推論できるという説もある。

新しい恋文の発見 1949年には、1804年から4年間にわたって

ジョセフィーヌ宛てに書かれたベートーヴェンの13

通の恋文が現れた。(正確にはベートーヴェンの

肉筆と、彼の手記をジョセフィーヌが自分のノ-ト

に書き写したもの一通、それと彼女自身のベー

トーヴェン宛の下書き7葉)。この手紙類の出現は

大事件だった。

公表されたベートーヴェンの手紙のなかで、こ

れほど切実に心を打ち明け、深刻に異性に愛を告

白したものは他になかった。それは『不滅の恋人』

への手紙すら色あせる程だが、色々曲折を経てこ

の恋は実らなかったのである。

ジョセフィーヌは最後に「誠実な、愛する、良き、

ベートーヴェン、私の方がもっとあなたよりも苦し

んでいるのです、はるかに多く」と記されている。し

かし、ジョセフィーヌに宛てて書かれたベートーヴェ

ンの恋文によっても『不滅の恋人』の謎が解かれ

たわけではない。なぜならば、この恋の関係は少

なくとも1807年の秋頃には終末を迎え、それ以

降ジョセフィーヌはベートーヴェンに会っていない

からである。

また、ロマン・ロランは言っているが、ベートー

ヴェンと深い係わりのあった女性たちは、なぜか

皆不思議なくらい沈黙を守った。それぞれの女性

は、この魅力に満ちた天才との思い出を聖遺物の

ように心に秘めたまま生涯を閉じている、と彼は

言っている。

ジョセフィーヌは、ベートーヴェンよりも6年先

立って世を去っているため、その存在は一層影の

薄いものとなっている。

20世紀になってテレーゼの研究が進むにつれ

て、妹ジョセフィーヌの存在がクローズアップされる

こととなった。テレーゼが35才過ぎてからつけ始

めた『日記』と、70才になってから執筆した『回想

記』のほかに姉妹の間で交わされた手紙類は、

ベートーヴェンの人間像を肉付けする上で貴重な

資料となっている。それはともかく、ジョセフィーヌ

は自分自身を保持したまま自由恋愛に生きるには、

信仰とモラルがそれを許さなかったのである。

彼女は自分の掟を守りつつ、ひたすらベートー

ヴェンの自制とモラルを頼んだ。そして1811年に

家庭教師だったクリストフ・シュタッケルベルグ男

爵と結婚したのだが、この結婚は彼女の不幸をさ

らに大きくしただけだった。

真の『不滅の恋人』は誰か 今まで、あまりにもベートーヴェンの身近な交友

関係のなかにあったがため、そして既に結婚して

いたために考慮から外されていた女性がにわかに

脚光を浴びることとなったのは不思議である。それ

がフランクフルトの銀行家ブレンターノ夫人ではな

かろうかと目指されたのは、後期のピアノ・ソナタ

作品109がブレンターノの娘、マキシミリアーネに

献呈されたことに端を発している。

作品に込められたベートーヴェンの様々な思い、

第2楽章の主題変奏の連作歌曲集『遙かなる恋人

に寄せる』の心を込めた旋律をひそかに忍ばせた

ベートーヴェンの心情は、たとえこの娘マキシミリ

アーネが彼の晩年の身辺に現れたとはいえ、若い

娘に対するベートーヴェンの慕情の思いが急に沸

き上がったとは考えられない。

むしろその娘を通してその母親、アントニーすな

わち通称トニーと呼んだ女性に、ベートーヴェンは

切々とした思いをもう一度伝えたかったと考えるこ

とによって、疑問は解決するのかもしれない。

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第5章 ベートーヴェンと第九に親しむ

第1節 ベートーヴェン 第九CDランキング

“12月は『第九』のシーズン”というお国柄だけあって、わが国では多くの『第九』のCDが発売されてい

ます。聴き手を高揚させ、熱くさせる優秀盤が多く含まれていますが、名盤という3枚を紹介します。

音楽之友社:クラシックディスク・ファイルより

フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団ほか シュバルツコップ(S) ヘンゲン(A) ホップ(T) エーデルマン(Bs) (1951 年)EMI

1951年戦後初のバイロイト音楽祭でライヴ録

音された歴史的演奏である。

LPの最初の時期に2枚組のモノラル録音盤とし

て登場したが、その神がかり的ともいうべき壮絶な

演奏で、単に第九の名演盤を越えて全クラシックL

P中屈指の名盤と称される逸品である。人間がま

だロマンと精神とを信じていた時代の最後の巨匠、

フルトヴェングラーは、この演奏に象徴されるよう

に、聴衆を前にしたコンサートでこそ真価を120%

噴出させる人であった。聴衆がおらず録音技師と

対話するだけのスタジオ録音は、必ずしも本意で

はなかったらしい。

多くの人々が独唱・合唱・オーケストラとして参

加している演奏会ともなれば、どんなに注意を集

中しようが所詮は人間のやること、傷のない演奏

なんてあり得ない。しかもこれは演奏会のライヴ。

スタジオ録音に比べ録音条件がずっと劣る上に、

やり直しができない。にもかかわらず、演奏全体と

しての包容力の大きさ、

ここに表出されている

ものの深さという点で、

他を引き離しているの

がこのフルトヴェング

ラー盤に他ならない。

これを聴いていると、

「人は皆それぞれの

愁いに耐えて生きて

ゆかなければならぬのだ」とベートーヴェンが語り

かけてくるような思いに駆られる。ドイツの敗戦に

より、一時期演奏活動を禁止されていたフルトヴェ

ングラーにとって、ベートーヴェンのこうした思いは、

そのまま彼自身の痛切な思いでもあったろう。そ

の思いが音を通し、果ては言葉を通して聴き手に

伝わり、聴き手の気持ちを熱くさせる。愁いに耐え

つつ生きてゆこうとする人が真の“友”を求めて発

する叫びーそれがここにはある。

カラヤン/ベルリン・フィル、ウィーン楽友協会合唱団 ペリー(S) バルツアー(A) コール(T) ダム(Bs-Br) (1983 年)EMI

CDの録音時間は、カラヤンが「ベートーヴェン

の『第九』を1枚に収録できる時間で」とフィリップス

社に注文したことから決定したのだとか。となると、

1983年録音のこの3度目にして初のデジタル録

音による第9番は、まさにCD時代を呼んだ一枚と

いうことになる。前に挙げたフルトヴェングラー盤と

比べてカラヤンはベートーヴェンの交響曲から汗く

さい人間味や英雄主義の内容を洗い落とし、ダイ

ナミックスの角を取り、響きを洗練させ、いかにも

流麗な音楽に変えてしまった。

彼の演奏の特徴は弱音の重視といってよいだろ

う。と同時に、その録音は弱音が織りなす音楽の

テクスチュアを細やかに捉えながらも、決して細部

偏重に陥ることなく、広々とした空間性の中で細部

と全体の響きが見事なバランスを保っている。

またご存じのように、カラヤンはCDというメディ

アに大変熱心で、ホルストの『惑星』とかR・シュト

ラウスの『アルプス交響

曲』などを録音している

デジタル最初期に、ショ

スタコーヴィチの交響

曲第10番やプッチーニ

の『トゥーランドット』あ

るいはワグナーの『パ

ルジファル』など不思議

な曲を録音しているのだが、これがなかなか未来

的なサウンドで美しい。ぜひご一聴を。同じ時期に

レーザー・ディスクという新映像メディアも登場して

いて、こちらも早速ベートーヴェンの交響曲全集を

始めとする多くの録画・

録音を残している。まさ

にメディアの申し子カラ

ヤンの名に恥じない速

攻ぶりである。

バーンスタイン/ウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場合唱団 ジョーンズ(S) シュバルツ(A) コロ(T) モル(Bs) (1979 年)

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第2節 ベートーヴェン肖像画いろいろ

ヴィリブロート・ヨ-ゼフ・メーラー作

(油彩 1804-05 年) 4枚の肖像画のうち最初のもの。彼自身が所持し、死後甥の所有となった。

ヨーハン・ナイドル作(銅版画) シュタインハウザー・フォン・トロイベルク

の油絵を元にして作られた。 1801 年秋ウィーンのカッピ社から刊行

ホルネマン作(象牙細密画、1803 年)この肖像画は気に入っていたらしく、一時仲たがいしていたブロイニングに手紙を添えてこの絵を贈っている。

イージドール・ノイガス作 (油彩 1806 年)

ヘーフェル作(銅版画、1814 年) フランス人画家ルイ・レトロンヌの鉛筆

画が原画となっている。 1816 年アントーニアに贈っている。

ヴィリボード・ヨーゼフ・メーラー作 (油彩、1815 年)ベートーヴェンの母と同じエーレンブライトシュタイン出身のこの画家は彼に気に入られ何点も彼の

肖像を描いている。

ヨハン・クリストフ・ヘッケル作

(油彩 1815 年) フェルディナント・シモン作 (油彩 1818 年)

シュテファン・デッカー作(パステル画1824 年)最後の肖像画とされている。

当時の音楽新聞に掲載。

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ルイ・レトロンヌ作(1821 年) 晩年は手入れのしていない髪がその特徴としてどの作品にも見られる。

アウグスト・フォン・クレーバー作 (褐色チョーク、1818年)~クレーバーはこの絵を描いた時の印象を「彼の唇は固く結ばれているがその口元はやさしくないとは決していえない表情が漂って

いた」と後に語っている。

ヨーゼフ・シュティーラー作(1819-20年)死後最もポピュラーになった肖像画。左手に持っているのは「ミサ・ソレムニス」の楽譜で、この絵はフランクフルトのアントーニア・ブレンターノの依頼

で描かれた。

第3節 第九の正式名称

「シラー作、頌歌『歓喜に寄す』を終末合唱にした、大管弦楽、四声の独唱、四声の合唱

のために作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世陛下に最も深甚な畏敬

をもって、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって奉呈された交響曲、作品125」

左が扉頁、後世の人がラベルを貼っている。右はベートーヴェン存命中に制作された『第九』(ショット版)の楽譜

だ。交響曲第9番とはどこにも記されていない。もちろんこの表紙も譜面もベートーヴェン直筆の楽譜を活字化したも

ので、ケルントナートーア劇場で初演

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されたものと同じである。しかし、

ベートーヴェンがショット版どおり演

奏したかはわからない。なぜなら彼

は稀に見る即興演奏家だからだ。

現代の多くの指揮者、音楽評論家

は、ショット版どおりの演奏をしないし、

タブー視している。それは当時と同じ

レベルの楽器は現在博物館以外に

存在しない(特にホルン、ファゴットな

ど)し、ホールの構造もかなり違う。

そして何より、現代の聴衆はベートー

ヴェン以降の音楽をすでに聞いてし

まっているからだ。(ワグナー、フルト

ヴェングラー、トスカニーニ、近衛秀

麿らの改訂を踏まえて)

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第4節 オーケストラ・声楽の規模と配置

編成については、はっきりとスコアに書かれてい

るが、その規模や配置に関する資料は残されてい

ないので、初演については、想像の域を出ない。

ベートーヴェンのピアノの弟子でもあったルドル

フ大公に宛てた『交響曲第7番』と『交響曲第8番』

の上演に関する手紙の中で、ベートーヴェンは「第

1、第2ヴァイオリンは少なくとも4名ずつ」と要求し

ているが、当時は貴族の邸内での試演なので規

模が小さいのは当然である。よって『第九』の初演

の規模も小さかったという見方もある。

ところが、ベートーヴェン研究者である A.W,テイ

ヤー(1817~97アメリカ)は、1814年ウィーン

のベートーヴェン演奏会では、第1、第2ヴァイオリ

ン各18、ヴィオラ14、チェロ12、コントラバス17、

コントラファゴット2が用いられたと伝えているので、

必ずしも『第九』が小編成とは言い切れない。

ベートーヴェン・ルネサンスクラシック読本 音楽之友社

近代の『第九』の編成は次のとおり。弦楽器は

第1ヴァイオリン16、第 2 ヴァイオリン14、ヴィオ

ラ12、チェロ10、コントラバス8。木管楽器はピッ

コロ1、フルート4、オーボエ4、クラリネット4、ファ

ゴット4、コントラファゴット1。金管楽器はホルン4、

トランペット2、トロンボーン3。打楽器はティンパニ

2、大太鼓1、シンバル1、トライアングル1。ただし

編成や配置は指揮者の考えで当然変動する。

では合唱団はどうだったろうか。ベートーヴェン

の『第九』初演が近代的な編成に近ければ、各声

部20~25人(合計100人弱)と言われている。ま

たシューベルトの友人も『第九』の合唱に参加して

いる話が残されていることから、やはり今と同様音

楽好きなアマチュアが多数参加していたとみられ

ている。同様オケにもプロと腕のいいアマチュアが

初演のためにかき集められた。

オーケストラの配置について、当初はオペラ用

のオーケストラピット内での演奏だったので、舞台

に向かって左手前に第1ヴァイオリン、右手前に第

2ヴァイオリン、左中ほどにチェロ、右中ほどにヴィ

オラ、チェロの左後ろにホルン、チェロの右後ろか

らヴィオラの後ろが木管楽器、その後ろが打楽器、

左後ろにコントラバス、右後ろに金管楽器、舞台上

に合唱団、ピット内の指揮者前にソリストとなって

いた。これが現代の配置になったのはピットからオ

ケが出て、ストコフスキー(1882~1977)の提唱

で鍵盤楽器の音域と逆順で並び替えられ、合唱は

SATB のところを男女比の都合でアルトを右へ移

動させた。

参考文献・HP(ホームページ)

・ つべこべいわずにベートーヴェン 砂川しげひさ 東京書籍

・ ベートーヴェン・ルネサンス クラシック読本 音楽之友社

・ ベートーヴェン 畑山 博

・ ベートーヴェン大事典(平凡社)/ベートーヴェンへの旅(新潮社)

・ ベートーヴェン(河出書房新社)/ベートーヴェン(偕成社)

・ 別冊太陽№56('86)(平凡社)/Oh Freude!(東京音楽社)

・ 国立音楽大学 音楽研究所HP

・ 園田高弘HP

『第九』のみならず音楽は、同じ曲の演奏を聴いているのにやはりすべて

違います。同じ楽譜を使っても、同じオーケストラを使っても、はたまた同じ

指揮者ですら毎回違うのです。

高崎第九合唱団も30年間、毎年違う演奏会を行っています。今年の演奏

会もここに集う仲間と演奏会に来てくださった聴衆だけのものとなるはずです。

この一度しかない演奏会の感動は、きっと来年からも新たな歓喜を求めて練習に参加する力となるでしょ

う。決して繰り返してはいない、常に新たなる挑戦と夢を追い求めているのです。

『第九』は、ベートーヴェンの人生に例えられます。しかし、『ベートーヴェンについて』をとおして、ベー

トーヴェンには『歓喜』がさほどなかったように感じられます。彼の人生は、投げ出すことこそなかったもの

の、常に努力と苦難へと立ち向かっていたと感じられます。

私たちは、ベートーヴェンに『歓喜』を感じさせたいと思います。さらに『歓喜』を欲しているのは、ベー

トーヴェンのみならず全世界の人々であり、そして私たちなのです。私たちの『第九』は、私たちが歌い、そ

して歌い継がれていくことにより、永遠のものとなり、それこそが『歓喜』そのものなのです。

おお、友よ!この調べではない!もっと快い、歓びに満ちた調べを歌いはじめよう!

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