ドイツ文学におけるロマーン理論 · 2020. 2. 23. ·...

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113 早稻田商学第333号 平成元年2月 ドイツ文学におけるロマーン理論 の研究(w) 一ヴィーラントの生涯と作品一 崎英 はじめに 前稿において,啓蒙主義時代の特質をあげ,そのロマソとしてロピソソソ風 物語と市民的教訓的セソチメソタルロマソについて述べた。今回は啓蒙主義ロ マソの頂点に立つヴィーラソトを主として敢り上げてみたい。 (1) ヴィーラントの生涯と作品 ホルスト・リューディガー編の『ドイツ文学史』の『啓蒙主義からシュトル ム・ウソト・ドラソグ』の項の執筆者であるゲルハルト・カイザーはrクロッ プシュトヅクが18世紀のドイツの叙情詩を,レッスィソグが演劇を初めて価値 のある繕果へ導いたように,ドイツの叙事詩を通用させたのはヴィーラソトで あった。クロップシュトヅクの変ることのたい巧妙な手ぎわとレヅスィソグの 方向をしっかり定めた自己形成とは反対に,ヴィーラソトは粁余曲折を経てや っと自分に帰るのである」と書いているωが,ヴィーラソトほどその評価をめ ぐって毅誉褒貝乏の薯Lい作家も珍らLいであろう。1794年に42巻にもなるヴィ ーラソトの全集が,それも廉価版や大型八つ折り版や豪華版などさまざまた形 で発行され始めたとき,ヴィーラソトは当時のドイツにおげる最も有名な作家 605

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Page 1: ドイツ文学におけるロマーン理論 · 2020. 2. 23. · 1890),ヘルマソ・ヘヅセ(Hermam Hesse)(1877-1962),トーマス・マソ (Tho㎜as Mann)(187ト1955)のような一流の作家が含まれているが,この

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早稻田商学第333号

平成元年2月

ドイツ文学におけるロマーン理論

     の研究(w)

一ヴィーラントの生涯と作品一

谷 崎英 男

はじめに

 前稿において,啓蒙主義時代の特質をあげ,そのロマソとしてロピソソソ風

物語と市民的教訓的セソチメソタルロマソについて述べた。今回は啓蒙主義ロ

マソの頂点に立つヴィーラソトを主として敢り上げてみたい。

(1) ヴィーラントの生涯と作品

 ホルスト・リューディガー編の『ドイツ文学史』の『啓蒙主義からシュトル

ム・ウソト・ドラソグ』の項の執筆者であるゲルハルト・カイザーはrクロッ

プシュトヅクが18世紀のドイツの叙情詩を,レッスィソグが演劇を初めて価値

のある繕果へ導いたように,ドイツの叙事詩を通用させたのはヴィーラソトで

あった。クロップシュトヅクの変ることのたい巧妙な手ぎわとレヅスィソグの

方向をしっかり定めた自己形成とは反対に,ヴィーラソトは粁余曲折を経てや

っと自分に帰るのである」と書いているωが,ヴィーラソトほどその評価をめ

ぐって毅誉褒貝乏の薯Lい作家も珍らLいであろう。1794年に42巻にもなるヴィ

ーラソトの全集が,それも廉価版や大型八つ折り版や豪華版などさまざまた形

で発行され始めたとき,ヴィーラソトは当時のドイツにおげる最も有名な作家

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と見なされていた。彼の名声は全ヨーロッバで驚嘆をもって迎えられ,ゲーテ

やシラーもその栄誉の陰に隠れていたほどであった。例えぱ『シノベのディオ

ゲネスの対話』(Die Dialoge des Diogenes von Sinope)が1770年に単行本

として出版されたとき,5版も増刷され,それに海賊版もいくつか発行され

た。さらに外国語への翻訳も英語に4,フラソス語に11,オラソダ語に1,イ

タリア語に2,ポーラソド語に2,ロシア語に1,ハソガリア語に4,合計25

の翻訳が出版されており,慎重に調べてみてこの薯作の全流布数はおよそ3万

5千から4万冊になると考えても差支えないであろう。3,000部の隈界を越え

ることはまれであったという当時の平均的な発行部数を考えれぱ,ヴィーラソ

トがこの時代にどんな意味をもっていたかは,明らかである。1830年頃でもま

だヴィーラントは,ドイツで一番よく読まれる著者の一人であった。しかしこ

の時代の文学へのヴィーラソトの影響は徴々たるものであった。そしてそれに

続く数十年問にヴィーラソトの名声は急遠に色あせた。彼の文学作品について

の知識は,もはや一部の愛好家と専門家の小さなサークルの中にだげに限られ

ていた。

 それらの人達の中にはゴットフリート・ヶラー(Gottfried Keller)(1819_

1890),ヘルマソ・ヘヅセ(Hermam Hesse)(1877-1962),トーマス・マソ

(Tho㎜as Mann)(187ト1955)のような一流の作家が含まれているが,この

状況は今日に至っても大して変っていない。『ヴィーラソト』(1949年)の著者

フリ_ドリヒ.ゼソグレ(Friedrich SengIe)がヴィーラソトを研究のテーマ

としたとき,この「非ドイツ的,非キリスト教的,非遺徳的」作家を研究する

のを不思議に思った知人が多かったといわれている。:2〕このようなヴィーラソ

トが遇小評価された原因を作ったものは,とりわけロマソ派の人達の責任であ

るときれてきた。シュレーゲル兄弟が,その雑誌『アテ不一ウム』(Athena㎜)

の中で,ヴィーラソトを独自な文学的功績をなしとげず,材料やモチーフや間

題の提起をもっぱら世界文学の中から寄め集めてきて自分自身体験したことの

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        ドイッ文学におげるロマーソ理論の研究(皿)       115

ないことを自分のことのように書く人(Anemp丘nder)と呼んだからである。

しかし恋がらその原因はもっと深い所にあるであろう。写実的な描写の代りに

しぱしぱ登場するヴィーラソト好みの知的な議論(性格の代りに意見が紹介さ

れる),古代の歴史への数多くの神話的なえん曲な表現と風刺(古代の歴史の

知識がなげれぱ,ヴィーラソトの関心事の中には,不可解なま童であるものが

あるに違いない),時代と共に遇去のものとなり,時代を趨越した争いとは認

められない多くの間題を取りあげていること,簡潔さと澄んだ透明さよりも細

かく長ったらしく描写するのが向いている文体一こういったものがヴィーラ

ソトの作品の影響が時代を越えて及ぶのに不利な要因なのである。彼の作品の

大部分はもはやただ歴史的にのみ関心を引くものといえるであろう。それでも

ヴィーラソトの注目すべき豊富な思想,言語の優雅さ,完ぺきな造形力によっ

て今日でも生命を保っているかなりの部分は,そのまま生命を保ち続けるであ

ろう。というのは,ゲーテがヴ4一ラントに擦げた弔辞rヴィーラソトの友愛

の思い出のために」(Zu brωerlichem Andenken Wielands)の中の次の美

しい言葉は,今でも妥当なものとしてみなされるからである。「人問と作家は,

彼の心の中で完全に混ざり合っていた。彼は生きている人間として詩作し,詩

作しながら生活した。」(MenschmdSchriftsteuerhattensichinihmganz

durchdrungen,erdichtetealsLebenderundlebtedichtend.)「というの

は彼の詩的ならびに文学的努カは,直接人生に向げられていたからである。た

とえ彼が常に必ずしも実際的恋目的を求めたのではなくても,彼は常に遠くあ

るいは近くに実際的な目標を念頭から離さなかったのである。」(Dem sein

dichterisches sowie sein1iterarisches Streben war unmitte1bar aufs

Leben邸ichtet,md wenn er auch n三cht gerade immer einen praktischen

Zweck suchte,ein prakdsches Ziel hatte er doch immer nah oder fem

yorAugen、)コ割

 ヴィーラソトば,1733年9月5日に帝国直属自歯都市であるビーベラッハの

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領地に属していたシュヴァーベソの村オーバーホルツハイムで生れた。ピーベ

ラッハは,現在ではウムルからボーデソ湖畔にあるフリードリヒスハーフェソ

に至る鉄遣沿線にあり,当時は上層市民階級が支配していた全部で50あった帝

国直属自由都市の一つで,宗教改革後は部分的にプロテスタソトに荏り,旧教

徒と新教徒とは反目し合っていた。そして約50の大小さまざまな王国と侯国

(その中ではプ回イセソとオーストリアがもっとも重要な存在であった)と,

およそ80の教会領と100以上の帝国直参の伯爵領と一緒になって,帝国直属自

由都市は,神聖ローマ帝禺(Das亘ei11ge Romsche Relch Deutscher Natlon)

を形成していた。その首長である皇帝はヴィーソに居住していたが,その権力

はといえぽ,ほとんど称号以上のものは存在していなかったのである。ヴィー

ラントの祖先は,200年以上も前から職人としてピーベラッハで生活し,その

系譜からは,市参事会員や市長や新教の牧師などが輩出Lていた。ヴィーラソ

トの父親もプロテスタソトの牧師で,敬度主義の精神の中で教育を受けており,

母親は飾りげのたい市民階級出身の婦人であった。従って少年ヴィーラソトは,

市民階級的た自意識と寛容な信仰心にみちみちた零囲気の中で成長Lたのであ

る。そしてヴィーラソトが3歳になったとき,父親はピーベラッハヘ転任とな

り,ここで時のたつにつれて新教の最高の聖織者の地位までのぽった。

 さてヴィーラソトは,すでに4歳の時からまず父親から,ついで学校で教育

を受けた。とりわけラテソ語に力を入れたので,8歳の時に完全にラテソ語を

マスターし,12歳の時にはラテソ語の韻文を書き,16歳では重要なローマの著

述のすべてを原文で読んだといわれている。そのほかは,ギリシャ語,ヘブラ

イ語,数学,論理学,歴史,図函,宗教が授業時間表にのっていた。14歳の時

にヴィーラソトは,マグデブルク近郊の全寮制学校ク回一スターベルゲンに入

学し,ここでフラソス語を学び,近代科学精神の普及着であったフォソトネル

(Bem肛d Le Bouvier de Fontene1le)(1657-1757)からヴォルテールに至る

までのフラソス啓蒙主義の重要た作品を学び取った。なかんずく影響を受げた

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のはピェール・べ一ル(Piene Bay1e)(164ト1706)の『歴吏批評辞奥』

(Dictionaire historique et critique)(169ト97)であつた。この作品の1740

年の最新版は41年から坐年までゴヅトシェートによって独訳されていたが,当

時の知識題材を総括し,上昇する市民階級の精神で解釈したものである。ヨー

ロッバの啓蒙主義運動のこのような犬要を知ることによって,ヴィーラソトは

古代の思想に全く新しい展望を開き,現在を克服するに際して古代が重要た思

想と刺激の無尽蔵の貯蔵庫として示唆に富んでいることを発見した。直接の個

人的な影響としては,べ一ルによってデモクリトスやエピクロスやルクレティ

ウスなどの地球の成立についての唯物的な理論を知ったことがあげられる。こ

のようた理論的助げを借りてヴ4一ラソトは,幼少時代の敬度主義的な信仰か

ら解放されたのである。この読書の結果とLて16歳になったヴィーラソトは,

論文を書き,その中でヴィーナスが海のあわから生れたのは原子の運動によっ

てだけであることを明らかにした。Lかしこの解説が発見されると・この異端

児は敬度主義の学校からあやうく追放の憂き目を見そうになったのであ乱

 1749年にヴィーラソトは,哲学の勉強を仕上げるために,エルフルトのおじ

ヨハソ・ヴィルヘルム・バウマーの所へ行った。バウマーはもともと聖職者で

あったが,世界観的た理由でこの職業を放棄Lて,自然科学に敢り組んでい

た。ヴィーラソトが翌年帰宅Lたときには,父親を説いて神学の勉強をしない

でよいことを認めさせた。1751年に18歳でテユービソゲソの法律の学生であっ

たときに,ヴィーラソトは最初の作品である教訓詩『諸物の本性』(Die Natur

der Dinge)を発表Lた。これはルクレティウスの同名の哲学的教訓詩『諾物

の本性について』(De rer㎜na耐a)の中の唯物論的な解釈との対決でもあり,

また神学と敬度主義との対決でもあり,唯物論的な見解と観念論的な見解が独

特な方法で一つの哲学的な体系へと結合されている。この教訓識ま2歳年上で,

その前年にヴィーラソトが知り合ったいとこのゾフィー・フォソ・グーターマ

ソの励ましによって生れたものであった。その後まも肢くして二人は婚約した

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が,1753年にゾフィーは,マイソツの選帝侯国の官房長の秘書であったゲオル

ク・ミヒャエル・フォソ・ラロシュと結婚をするためにその婚約を解消Lた。

ゾフィー・フォソ・ラロシュのことについては前稿で述べた所である。

 この恋愛体験は,ヴィーラソトにとって決定的な意味をもった事件であっ

た。彼はr愛の崇高た力」がr原子の偶然な運動」に。よって成立することはあ

りえないことであると考えることによって,機械論的な唯物論に背を向け,そ

れ以後当時の進歩的な啓蒙主義哲学であった理神論(Deismus)を信奉するよ

うになったのである。理神論によれぱ,神は確かに世界を創造したが,それ以

上のいかなる干渉をも控えているので,神による被造物は自分自身に内在する

法則に従って発展Lこの法則を認識することが科学と哲学の任務であると考え

るのである。このような理性の観点から,ヴィーラソトは神学にも批判の目を

向げた。すなわち神はヴィーラソトにとって人類の幸福を目標とした一個の哲

学的な原理となり,聖書の創造の教えや,来世の神秘論や,教会や宗派や神の

子キリストによる伸介の機能,さらには神の摂理なども,すべてこの原理と両

立しえないものとして拒否されるのであ私

 1752年にば,ヴィーラソトは文学に専心するために哲学の研究を放棄し,い

わゆるスイス派(DieSchweizer)の文芸批評家であったポードマー(工J.Bod-

mer)(169ポ17鎚)の招待を受けてチューリヒヘおもむいた。1740年から60年

にかけて,スイス派はゴヅトシェート(工C.Gottsched)のライブッィヒ派

(Die Leipziger)との文芸上の論争に入るが,ヴィーラソトはその]方に結び

っくことによって,自分の才能の向上を期待したのである。ヴィーラソトの考

えによる」と,真の文学に対するボードマーの美的見解は,ゴットシェートのそ

れよりも身近なものに感ぜられねしかしたがら当時54歳であった師ボードマ

ーの強い宗教指向と遣徳献身の個性は,ヴィーラソトに余りにも強烈た影響を

与え,当時の作品の一つである叙事詩『一キリスト教徒の心清』(Empin-

dmgeneinesC㎞isten)には,『最新文学に関する書簡』(Briefe,dieneueste

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Literatur betre丘end)の中でレッスィソグによつてrヴィーラソト氏は,自

分が『諾物の本性』の薯者であることを,ずっと前から自分の記憶から抹殺し

たがっているようだ」とかrヴィーラソト氏は,ふた言めにはキリスト教の宗

教を口にする」とか厳しい批判が加えられた。ヴィーラソトは,ポードマーの

家庭で主人役のために間断たく薯作上の世話をしたがら,ほぽ20ケ月を過した

が,内面的にも外面的にも徐々にボードマーから離れて行くようになった。ポ

ードマーからの離反に役立ったのはシャフツベリーとシェイクスピアの研究と

スイスの医者で哲学の著作もあるツィソマーマソ(工αZimmermann)との

交友であった。

 1754年から59年までチューリッヒで,1759年から60年までベルソで家庭教師

として,ヴィーラソトは生計を立てた。ここで彼は市民階級の楽しい杜交的た

伸間の間に出入りし,彼本来の気質一ゲーテは,ヴィーラソトの生れつきの

才能についてr人をひきつげる杜交家」(angenehmer Gesel1schafter)である

と語っている一がのびのびと開かれることになった。ヴィーラソトは,自宅

で有名なサークルを開いていた才気あふれる女性であったジュリー・ポソデリ

と知り合いになったが,ヴィーラソトが1760年の4月にビーベラッハヘ定住す

ることになり,スイスヘ帰ることが不可能になって,彼女との婚約も解消され

た。

 1758年から62年にかけて,チューリッヒのゲスナー杜からヴ4一ラソトの最

初の6巻本の全集が出版された。しかしヴィーラソト自身は1760年までの自分

の作晶は不完全恋ものであるとし,後年にたってからは明確に次に来るすぐれ

た業績のための準備段階であると評価している。そLて前述のように1760年の

4月30日に,ヴィーラソトは故郷である帝国直属自由都市であったピーベラッ

ハヘ市参事会員として招かれ,7月には官房長の役についた。名誉ある官職と

十分な俸給と文筆活動にとってたっぷりとある余暇は,これで保証されたよう

に患われた。が他方では実際的な市の役人としての活動のおかげで,人生経験

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が豊富になり,杜会構造に対する重要な理解もえられるようになった。それと

ともに旧教徒と新教徒が反目Lあっていたビーベラッハでは,俗物主義や視野

の狭い根性や不寛容な精神を余す所たく思い知ったのである。

 そしてこのような俗物主義の雰囲気に嫌気がさすと,しばしぱ近くにあるヴ

ァルトハウゼソの館へ逃避し㍍ここには1761年以来ヴィーラソトが「立派在

政治家であり,芸術の愛好者」と呼んでいたシュターディオソ伯爵が隠退生活

を送っていた。伯爵はマイソツの聖職者と激しい論争を行って啓蒙主義の理念

を実現しようと試みたり,工業を興したり,見本市を開いて貿易を促進したり,

中世以来の宗教的た狂信主義と戦った人であった。

 伯爵の随員の中には,ラロシュ夫妻もおり,ラロシュ夫妻を通じてヴィーラ

ソトは,明るい杜交性や機智に富んだ会話,生の享受や陽気さが主流をなすサ

ークルヘ近づくことができた。またここで大きな杜交界に対する認識をもえた

のである。

 一方ヴィーラソトの個人的な面でも,結婚という大きた問題が発生した。

1761年の5月に,28歳になったヴィーラソトは,クリスティーネ・ハーゲルと

いうやっと20歳になるかならないかの庶民階級自身の女性と知り合いにたり,

その優雅さと飾り気のなさに夢中になった。ヴィーラソトは,1763年の11月25

日と26目のツィソマーマソにあてた手紙の中で「こんなに本当に心から愛した

ことは,これまでに一度もなかった」ことを告白している。しかLながら結婚

へのあらゆる努カは挫折した。ヴィーラソト側では身分上の違いから,ハーゲ

ル側では信仰上の違いから,周囲の反対を押し切ることはできたかったのであ

る。1765年の10月に,ヴィーラソトと親戚の選んだアウクスブルクの都市貴族

の娘であったアソナ・ドロテーア・ヒレソブラソトとの婚姻が成立した。彼女

はヴ4一ラソトが手紙の中で書いている所によると,「無邪気で,実杜会の波

にも童れていない,極めて愉快な人間」で,は1二めのうちはこの結婚に懐疑的

であったヴィーラソトも,彼女との生活によって幸せを見出した。まれに見る

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ような和合と一点の影のない融和の中でこの結婚は36年も続き,14人もの子供

が生れ,彼女は家庭の安らぎの中心となったのである。

 さてこのような新しい人生経験は,1760年以降質を新たにして姶まるヴィー

ラソトの創作活動への基礎を作ることになり,彼は今や芸術の新領域を征服し,

ドイツ文学のその後の発展に決定的な影響を与える作品を作り出すことに成功

したのである。この時期の活動として特に挙げられる3つのタイトルは,シェ

イクスピアの戯曲の翻訳と,ロマソ『アーガトソ物語』(Geschichtedes Aga-

thon)と韻文物語『ムザーリオソ』(MusariOn)である。このうち22のシュイ

クスピアの戯曲は,1762年から66年にかげてヴィーラソトの翻訳が8巻本で出

版された。これはシェイクスピアのドイツ語への最初の意味深い翻訳で,レッ

スィソグやゲーテやシラーによって称賛された。ドイツ国民文学のモデルを求

めていたヴィーラソトは,シェイクスピアに行き当り,シェイクスピアの中に

r人閻性についての深い知識」を発見し,r人問の心をシェイクスピアほど知

り,かつ明るみに出した人はほとんどいないし」また「彼ほど自然を多種多様

な場面において,多くの真実をもって描いた人はほとんどいない」(1766年の

翻訳への後記)とほめたたえてい乱ヴィーラソトは,『真夏の夜の夢』まで

ば,シェイクスピアの戯曲を散文で翻訳していた。そして部分的にはいくつか

の場面を縮めたり,時には内容だけを挙げたり,二三の場面を拡大したりして

いねこのようなことは,当時としては普通に行われていた方法で,ゲーテも

前述の『思い出のために』の中で,外国の詩人を自国へ移し,いわぱ併合した

よう改ものだといって,ヴィーラソトを擁護している。Lかしながらシュトル

ム・ウソト・ドラソグの作家たちは,シェイクスピアの全人を,その深い悲劇

性とすぱらLい喜劇性という広大な視野の中で把握Lておらず,偉大な人物を

並の道徳的人物に格下げしてしまったといって,ヴィーラソトを非難したので

ある。なおヴィーラソトの翻訳としては,このほかにローマの詩人ホラティウ

スと後期ギリシャの風刺作家ルキアノスの翻訳があ乱

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 1759年以来考想が練られ,66年から67年にかけて2都に分れて出版された

『アーガトソ物語』は,ドイツのロマソの形成にとってもっとも重要な作品で

あり,これによってドイツにおける「教養および発展ロマソ」(Bild㎜gs・md

Ent曲ck1mgsroman)が確立されたことは,周知の事実で,これについては

後で触れるであろう。rグラツィア(優美の女神)の哲学』(Die Philosophe

der Gr秘ien)(1768年)という副題をもつ韻文物語『ムザーリォン』も『ア,

ガトソ物語』と同じくギリシャに題材を求めた作品である。女友達のムザーリ

ォソ』との衝突によって,ファーニアスはまじめな研究と厳格な瞑想に没頭し

た生活を送るために,アテネの近くの田舎の領地に引込む。ムザーリォソは,

ファーニアと和解しようとしてやってくるが,ファーニアスはストア派のクレ

アソトとピュタゴラス派のテオフロソという二人の友人の哲学老に寄り所を求

める。クレアソトは,単に感覚的で,物質の意のままになるすべての物に対す

る無関心を説き,テオフロソはそれに反Lて,感覚性を通じてのみ美の原型は,

経験1可能であると主張する。

 しかしたがら美しいムザーリオソにとっては,フブーニアスの緕神的寄り所

であるこの二人の哲学者を動揺させることは,容易である。クレアソトは,ム

ザーリオソの美しい手によってすすめられた甘美なワイソに負げてしまい,テ

オフロ1■は,美しいムザーリオソの召使いの魅力にたちまちとりこになってし

ま㌔そLてフブーニアスもついに禁欲主義を捨て,ムザーリオソの腕の中で

哲学を忘れるために,夜彼女の寝床へと忍びよるのであ肌

 愛だったのだ一愛ほど上手に教えてくれる人があるだろうか。

 彼(ファーニアス)も喜んで遠やかに,苦労もせずに魅力のある哲学を学ん

だのだ固

 それば自然と運命がわれわれに与えてくれるものを

 楽しく味わい,ほかの残りはなくても平気だ。

 この世の事物を美しい面から見,運命に喜んで従い,

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        ドイツ文学におけるロマーソ理論の研究(V)      123

ゼウスが慈愛の気持から謎めいた夜にわれわれの目から隠したものが一体何

たのかも知ろうとしたいし,

地獄の善人たちにも,どんな愚かものであっても決して腹を立てることもな

く,

ただ滑稽だと思うだけであり,

だからといって彼らへの愛清がへる訳ではなく,迷える人達を気の毒に思い,

ただ偽善著だけはさげるのだ。

いつも美徳の話ばかりしている訳ではなく,美徳の誘をしたからといって熱

中することもない。

しかし報酬も求めずに趣味で美徳を行ってい乱

そして幸せであろうとなかろうと,この世を楽園とも地獄とも思わず,

道学者先生が七階の王座から見下していうほど,堕落しているとも思わない

し,

青二才の詩人たちが酒とピュリス(トラキヴの王女,恋のために自殺した)

に夢中になったときに描くほど楽Lいものとも思わない。

(Die Liebe war’s._Wer1ehrt so gut wie sie?

Auch1emt’er gem口nd schneu und sonder lM[むh

Die reizende Phi1osop拙e,

Die,was Nat㎜=und Sc㎞cksal uns gew乞hrt,

Verg地gt geneiBt md gem den Rest entbehrt;

Die Dinge dieser Welt gem von der schδnen Seite

Betrachtet,dem Gesc趾ck sich mterw直rig macht,

Nicht wissen will,was a11es das bedeute,

Was Zeus aus Hu1d in r邑tselhafte Nacht

▽or uns verbaヱg,und auf die guten Leute

Der Unterwelt,so sehr sie Toren sind,

Nie b6se wird,n㎜=1乞cher1ich sie丘ndt

Und sich d秘u,sie dr㎜nicht minder-iebet,

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1以            早稲田商学第333号

Den1r】=enden bedauエtτmd nur den G1eisner iieht;

Nicht stets平on Tugend spricht,noch,von ihr sprechend,g1廿ht,

Doch ohne Sold und aus Geschmack sieむbet;

Und glucklich oder nicht,die Welt

F此kein Elysium,揃r keine蘭11e h乞1t,

Nie so verderbt,als sie der Sittenrichter

Von seinem Thron_im sechsten Stockwerk sieht,

So lustig nie,als jugendIiche Dichter

Sie血alen,wem ihr Him∀on Wein und Phyl1is g胴ht.)

 ヴィーラソトは,このようにうたって,晴れやかな生の享楽の理想と,理性

と衝動,喜びと節度,優雅と満足がそれぞれ調和した理想を説くのである。

rムザーリオソ』は発売と同時に好評を博し,翌年にはもう第二版が必要にな

るほどであった。初期の讃美者の中にはゲーテが含まれており,ゲーテは『詩

と真実』の第二部第七章においてr疑いもなくヴィーラソトこそ,これらのす

べての人々のあいだで最もすぱらしい素質をもっていた。……かれの輝かしい

作品の多くは,ちょうどわたくしの大学時代にあらわれてい乱なかでも最も

わたくしに影響を及ぽしたのは『ムザーリオソ』であって,ユーザー(ライプ

ソィヒの美術学校長)が分げてくれた最初の刷り見本で見たその個所は,今で

もたお思い出すことができる。古代が生き返って,新たにふたたび眼前にある

思いがLたのは,童さにその個所であった。ヴィーラソトの天才におげる彫塑

的なものは,すべてそこに無類の完全さで示されている」と述べてい私

 なおこの時期に発売されたヴィーラソトの作晶としては『熱狂に対する自然

の勝利,またはドソ・スィルビオの冒険』(1764年)とr滑稽物語』(Komische

Erz差hlmgen)(1765年)がある。前老はセルバソテスの『ドソ・キホーテ』

にならってスペイソを舞台にした作品であらゆる熱狂に対する風刺になってい

る。またフラソスの騎士物語や妖精主役のおとぎ話のバロディーの役割も果し

ている。以下簡単にその筋を遣ってみよう。

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        ドイツ文学におけるロマーン理論の研究(Ψ)      ヱ25

 物語はまだ全く妖精の世界にとりこになっていて,その夢のような愛を見出

そうとして冒険の旅に出発したが,こと志と違って現実の愛の幸福を手に入れ

るある若いスペイソの貴族の物語であ私

バレソシャ地方の古いくずれかかったロサルバ城の中で,早くから両親を失

って孤児になったドソ・スィルピオは,おぱのドソナ・メソスィアによって昔

風の騎士物語の気風の中で教育を受げていた。しかし彼は,おぱの知らない所

でその空想を妖精のおとぎ話を読むことで満足させ,世間から隔絶した環境の

中で,おとぎ話の世界が全く真実の世界であるかのように考えていたのであ

る。ある日のこと,一匹の美しい青い蝶が彼の目にとまった。その蝶は彼の手

からのがれていったが,その際にかわいらしい女の羊飼いの肖像のついた高価

恋首飾り用のロケヅトを発見する。ドン・スィルピオはたち重ち,この女性へ

の愛に燃え上がり,おしゃべりではあるが忠実な農家の少年である召使いのペ

ドリリョに,妖精のラディアンテが現われて,次のような真実を確認Lてくれ

たことを物語る。すなわちドソ・スィルビオの恋する女性は,ラディアソテに

敵意をもつ妖精のファソフェルルーチェによって魔法をかげられて青い蝶にな

ったあるヨ≡女だというのである。ドソ・スィルビオは,この王女を魔法から解

放して自分のものにする決意を伝える。

 けれどもおぱのドンナ・メソスィアは,おいのドソ・スィルピオに対Lては,

全く違った魂胆を抱いていた。彼女自身近くの町のセルバの老管理財人のサソ

チェスと結婚する積りで,そのためにスィルピオを,サンチェスの金持ちでは

あるが,醜い愚か老のめいのマルヘリーナと結婚させようとしていた。スィル

ピオは,夜陰に乗じてこの恥ずべきもくろみからのがれるために,父親譲りの

剣を帯び,ペドリリョと愛犬ティソティを連れて逃走する。逃走中にかれらは

多くの不愉快な目に会うが,ス4ルピオはそれらはすぺて敵意をもつ妖精のス

4ルフィデソやダノーメソやサラマソデルのせいにしてしま㌔ある朝のこと,

かれらは一人のジプシーの老婆に出会い,このジプシーと一緒にティソティも

                                 61?

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突然姿が見えなくなった。翌朝ペドリョは二人のチャーミソグで華やかに着飾

った女の羊飾いを認めたが,二人は明らかにうっとりとして眠っている若い主

人のドソ・ス4ルビオの姿を見つめている様子だったが,それから立ち去って

いつた。

 さらに旅を続けるうちに,ドソ・スィルビオとペドリリョの二人は,貴族た

ちの小ぜり合いに巻き込まれ,弱い方の組に加担して勝利を決定的たものにす

乱この貴族一若い方はドソ・エウヘーニォといい,年取った方はドソ・ガ

ブリエルという名前であったが一は,若い美しい女性であるドソナ・ハスィ

ソテを連れてきていた。みんたは一緒に近くの旅館に一泊する。しかしスィル

ビオは,かれのロケットに何かのたくらみがなされているのではないかと思い,

未明にベドリリョを連れて逃げ出すが,この目のうちに肖像をなくしてしま

う。さらに青い蝶を探し求めるうちに,二人はとうとう心を奪うほど美しい公

園を通って,ある豪壮た別荘の広間にやってきて,ここで再び二人の女の羊飼

いに出会ったが,一方の女性ぱロケットの肖像にあきれるほどよく似ており,

またもう一人の女はその侍女のように見受げられたが,ペドリリョはすぐさま

彼女に夢中になった。

 ところでドソナ・フェリシアは,もちろんスィルビオが考えていたような妖

精ではなく,若くて途方もない金持ちで,うっとりするほど美しい未亡人で,

たまたま侍女のラウラと一緒にここの兄のリリアス城を訪れていた所であっ

た。そしてこの兄というのは,つまり前に出たドソ・エウヘーニォで,かれの

愛するハスィソテと友人のドソ・ガブエルを連れて,間もなくそこに到着す

る。これらばかつて自分を助げてくれた人たちとの再会を喜び,好ましい客と

Lて迎える。

 このような付き合いの中で,ハスィソテはその渡欄にみちた生涯の話,たと

えぱ予供の時に年老いたジブシーの女に教育され,ダソスや歌を教え込まれた

こと,その後このジプシー女がセルピァで売春婦としてこき使おうとLたが,

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         ドイツ文割こおげる目マーソ理諭の研究(V)      127

逃げて女優になったことなどを物語った。ドソ・ユウヘーニォは,グラナダで

女優のかの女を見付け出し,その後かれの城へ招待したのであった。、

 ドソ・スィルビオの妖精の王女に対する愛情は,フェリシアを見るたびにま

すます動揺した。フェリシアの方も,かれを熱烈に愛Lていて,かれが競争相手

と患い込んでいる王女から彼を最終的に引き離そうと努める。その際にドソ・

ガブリエルが手助げをしてくれ,かれは妖精の世界を茶化すために「ビリビソ

カー王子の童話」という話を作り上げ,馬鹿げたとるに足らない妖精の物語を

物語るのであ乱そうこうするうちに,ラウラは,自分に夢中になっているペド

リリョと共に,女主人のフェリツアが昔なくしたロケットを取り戻す。フェリ

シアは驚くスィルビオにそれが祖母の若いときの肖像であることを説明し,そ

れによって夢のような愛情は,童たしても激しいショックを受けるのである。

 その時突然ドソナ・メソス4アがおいのスィルピオをドソナ・メルヘリーナ

の所へ連れ戻す意図をもって現われ,みんなを驚かせる。その後すぐにペドリ

リョは年老いたジプシー女を犬のティンティと一緒にみんなの前’へ連れてく

孔かの女は,ハスィソテの育ての母であることを明らかにし,ハスィソテが

5歳の時に行方不明になったドソ・スィルビオの妹であるドソナ・セラフィで

ある証拠をもたらす。これによってかの女はエウヘーニォにふさわしい身分の

ものとなり,結局リラスで三親の繕婚と三組の幸せなカヅプルが誕生したので

ある。

 『熱狂に対する自然の勝利』という題名がすでに示しているように,遇度の

おとぎ話の読書によって精神をゆがめられた熱狂的な若老が,おとぎ話に出て

くる王女だと恩い込んだ女性の肖像にさそわれてお供を連れて冒険の族に出る

が,友人たちによってその妄想から目を覚まし,本物の花嫁を獲得するという

訳である。一見Lて騎士物語の世界を現実と錯覚して,サソチェスというお傑

を違れて旅に出たドソ・キホーテのパ回ディであることは明らかであるが,ヴ

ィーラソト自身そのスイス滞在中に感傷主義的た時代思潮の影響の下で,熱狂

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的な理念崇拝を体験し,それを克服Lたことは前に述ぺた通りである。ヴィー

ラソトは,若き熱狂家が明るい現実指向の生活態度と対決する過程を,70年代

に始まる彼の文学製作の中心テーマにすえたのであ私この点でヴィーラント

にもっとも多くの影響を与えたのは,イギリスの哲学者シャフッベリー(Ash-

1ey-Cooper Sh㎡tesbury)(1671-1713)であった。ロックの門下生であったシ

ャフツベリーは,熱狂(enthusias㎜)の中に迷信と集団妄想およびあらゆる種

類の杜会悪の主観的た前提条件を認め,その予防手段として,杜会的寛容の基

礎の上に立って冗談とからかいと上機嫌によって迷妄から目覚めさせることを

すすめている‘4㌧ヴィーラソト自身もシャフツベリーの精神に沿って友人であ

るスイスの詩人ゲスナー(Salomon Ge腕er)(1730-1788)にあてて,次のよう

に書いている。

 「熱狂と迷信は,その影響力を人問生活のあらゆる部門に広げます。両者は,

 熟狂が人聞の能動的な部分に根ざし,迷信カミ人聞の受動的な部分に根ざLて

 いることによって,人間には生来のものです。冗談と皮肉は、つねに熱狂と

 迷信が脱落するのを防ぐ最良の手段と見なされてきました。ドン・スィルビ

 オの物語も,その表題が暗示するよに,こういう意図の下に書かれたので

 す」(1763年11月7目の手紙)

 著作の読者への影響やそれによって引き起される現実の美化という『ドン・

スィルピオの冒険』で取り上げたテーマは,ヴィーラソトによって,他の作品

でも多種多容な変容した形で敢り扱われているが,次に問題になる『アーガト

ソ物語』に関連して考えると,『アーガトン物語』の中では,間題を心理的に

解明し,より円熟した経験の段階で新しい論議を試みているが,rドソ・スィ

ルピオの冒険』では,心理的な発展は犬幅に捨てて,喜劇的な外面的手段によ

って同じ中心テーマの風刺的た変種を作り出しているということができよう。

従ってクリードリヒ・ゼソグレは,『ドソ・スィルピオ』を教養小説と呼び,

『アーガトソ物語』の前触れとしており,フリードリヒ・バイスナーは「発展

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        ドイツ文挙におげるロマーソ理論の研究(W)       129

小説のジャソルにおけるいちばん最初の試み」としているが,『ドソ・スィル

ビオ』には,まだバロヅク・ロマソの残津が多く残されていて,全面的には首

育しえないであろう。

 次にr滑稽物語』は,ビーベラハで隣りに住んでいたシュターディオソ伯爵

のために書いた古代に題材を取った韻文物語で,ドイツ謡にはそれまで汰かっ

た軽快さ,音楽性,優美さをもった酒脱で軽妙で官能的たスタイルを編み出L

たが,遺学者からはその浮薄さを非難され,市町村の中には,rヴィーラソト

の最近の作品は,良俗にとって犬都分けLからぬもので,危険である」いう理

由で,本屋がヴィーラソトの作品を置かたいようにという警察の命令を受げて

いた所もあり,1772年にはクロップシュトックの熱烈な崇拝者の集まりであっ

たゲッティソゲソ森林同盟(Gδttinger Hainbmd)の若者たちは,ヴィーラ

ソトの肖像を「風俗を堕落させる人」として焼いたりしたのである。

 次にヴィーラソトが自らその主著(Hauptwerk)と呼んだrアーガトソ物語』

に移ろう。『アーガトソ物語』の最初の構想は,前述のように1959年にまでさ

かのぼる。1762年の1月5目にヴィーラソトはピーベラハから友人のヨハソ・

ゲオルク・ツィソマーマソにあててrそれでも私は『アーガトソ物語』と名付

けた長篇小説を,数ケ月前に書き始めましね私はこの中で,アーガトソが置

かれた環境にあると私が想象するような私自身を描きます」と書いている。し

かしながら仕事は遅々として進重ず,8月27目になってやっと,チューリヒの

ゲスナー出版杜は,最初の4巻の原稿を受け取った。友人たちの熱狂的な賞讃

に励まされて,1763年の5月21日には,出版契約が調印され,8月5日に最初

の6巻がそろい,印刷が始まった。Lかしながら,その後はシェイクスピアの

翻訳やr滑稽物謡』や『ドソ・スィルビォ』に時閻を取られ,筆がなか恋か進

まなかった。65年の7月にたってやっと,再び執筆に取り掛り,66年の初めに,

第1部(7巻まで)の原稿が完成L,イースターの頃にrアーガトソ物語』第

1部が出版された。9月にはヴ4一ラソトは,続編に着手し,67年のイースタ

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一には,第2都が印刷された。

 1768年からは,フィリップ・エスラムス・ライヒがヴィーラソトの出版杜に

なり,1773年のイースターの頃に,文体の上で手を加えたrアーガトソ物語』

の第2稿が発行された。ヴィーラソトは,別に1章と序言『アーガトソにおけ

る歴史性について』(Uber das Historische im Agathon)(この中でヴィー

ラソトは,『アーガトソ物語』を歴史小説と見なさないように,明確に警告し

ている)ならびに第2部で予告ずみの『ターナエの物語』(Gesch1chte der

Danae)を追加している。

 1793年の9月に,ヴィーラソトは,ゲオルク・ヨーアヒム・ゲッシェソによ

る最終版の全編のために『アーガトソ物語』の改訂に取り掛かった。翌年4月

半ぱに原稿は完成し,ズィラクースの獄中でのヒピアスとアーガトソの間の会

談と,長い間の懸案であった結末としてのrアルヒュータスの人生哲学』

(Lebensweisheit des Archytas)が新たにつげ加えられた。そして94年の秋

にこの第3稿が全集の1巻から3巻までの形で発表された。このように『アー

ガトソ物語』には,三つの稿があってその最初の構想がねられた1759年から,

最後の第3稿が出版された94年まで35年の年月が経遇Lており,ヴィーラソト

自身がその主著と呼んだのもうなずげなくはない。

 以下その大筋をたどってみよう。物謡は主人公アーガトソ(ギリシャ語でr善

良た男」を意味する)が森の中で遣に迷って,目没とともに泉のせせらぎを聞

きながら眠り込む場面から始まっているが,あとで物語られるところによると,

アーガトソはデルフィで幸福な少年時代を送り,ブシューヒェ(ギリシャ語で

r魂」の意)という心の友をもっていた。のちにアテネヘ移り共和国のために

尽力するが,彼をねたむ者の陰謀によって,名誉と財産を奪われてアテネから

追放され,オリエソトヘの旅に出発し,今この森の中で遺に迷うのである。

このようにこのロマソは舞台を古代ギリシャとしており,同時代のイギリスの

フィールディング(旺Fie1砒ng)(1707-1754)の『トム・ジョーソズ』(The

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        ドイツ文学におげるロマーソ理論の研究(W)      131

History of Tom Jones,a FoundIing)(1749年)やフラソスのクレビョソ・

フィス(C.P.J.de Cr6bi1lon)(1707-1777)のr心と精神の迷い』(Les Egare-

ments du coeur et de1’esPrit)(1736-38)では,その舞台をすべて当時の現

実の市民杜会に取っているのとは,全く対照的である。アーガトソが眠りを楽

しんでいたが,突然トラキア(古代ギリシャの北都地方)人の女達のはめをは

ずしたバッカスのお祭の騒音によって目を覚まさせられ孔アーガトソはすぱ

らLい美男子であったので,その美しさは酒に酔った女たちを驚かせ,興奮し

た女たちは彼の回りをよろめきながら踊ったり,自分たちの神が眼前に現われ

たと思い込んで,馬鹿げた身ぶりでその喜びを表わLている。だがその時キリ

キア(小アジアの地中海沿岸にあった古代国家)の海賊が襲ってきて,バッカ

スの祭りを祝っている人たちばもちろん,アーガトソをも船で連れさり,奴隷

市場へと運んで行く。海賊船の上で思いもかけずアーガトソは,同じように海

賊の手に落ちていたデルフィ時代の恋人プシューヒェに出会う。愛し合う二人

は,お互にその運命を話し合うが,たちまち離別の運命を味わなけれぱならな

い。アーガトソとトラキアの女たちと数人の若い奴隷たちは,スミルナの奴隷

市場へ運ぶために,別の小船にのせられるのであ乱プシューヒヱと別れなげ

れぽならないという考えは,アーガトソを逆上させ,キリキア人の足下にひれ

伏して懇願したが,何の役にも立たたかった。こうしてアーガトソはスミルナ

(工一ゲ海に面したトルコ西部の港湾都市)の奴隷市場へ運ぽれ,ここで金持

ちのソフィストのヒピアスによって買われる。そLてヒピアスはアーガトソを

自分の弟子として後継老に仕立てあげようとする。今やカリヤス(ギリシャ語

でr美しい人」の意)という名飾こ改名されたアーガトソは,けれどもソフィ

スト達に論難を加えたプラトソの教義を信奉していたので,ヒピアスの説得に

低抗する。(ヴィーラソト自身の言葉によれぱ,ソフィスト達は,他人の情熱

を刺激する術を教え,ソクラテスは自己の情熱を抑制する術を教え,前老は賢

明で徳高いふりをするためには,どうしたけれぱたらないかを教え,後老は実

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際にどうしたら賢明で徳高くなれるかを教えると書いている。)そLて最後に

は興奮Lて「あなたは,美徳や倫理的な完壁さを幻想だと断言されます。……

私はあなたの英知の立派な説得とあなたの原則や実例が保証するすべての利点

に対して反抗します。……美徳は常に夢想であって欲Lいものです。この夢想

が私を幸せにするのです。そしてすべての人間を幸せにし,全地球を天国にす

ることでしょう」といい切るのである。

 ヒピアスは自分の説得が何の実りもないのを知り,カリアスに別の試練を与

えるアイディアを恩い付く。古代ギリシャにはヘタイラと称する教養があづて

政治家ともつきあいのある一種の高級娼婦がいたが,その一人で魅力的た美人

であるダーナエに,女の力によってr美徳は自然の反対でなげれぱたらない」

と思い込んでいる若老を正道にもどLてくれるように頼む。ダーナエは承知し

て,貞節で心のこもった女になりすましてカリアスを恋人にしようとす乱カ

リアスも,ダーナエの魅カに屈L,rあ法たに会って以来,あなたに会うこと

より大きな幸福を知りません」というまでになり,一方ダーナエも彼に対する

本物の深い愛情にとらえられて,全く変った人問になる。Lかしながらこの愛

の牧歌的情景も,自分の試みの失敗をさとったヒピアスがカリアスにダーナエ

のいかがわLい過去のことを打ち明げることによって終息する。「もう終りだ,

美徳は仕返Lを受けたのだ」と叫び,ヒピアスに向って「あなたは,友情とい

う晴れやかな仮面をつけながら,毒の入ったあいくちで私を刺したのだ」とい

う言葉を投げつけ,軽蔑のまなこをあわてふためくヒピアスに浴びせながら,

その場を立ち去る。自暴自棄になったカリアスは,再びアーガトソになってス

ミルナから逃げ出して,シシリア島の都市国家シラクーサヘと旅立つ。

 当蒔シラクーサを支配していたのは,専制的支配老てあったディオニュージ

ウスである。アーガトンは,シラクーサでアテネ時代からの知人であるキュレ

ネ派の哲学者アリスティップに出会い,彼の手引きでディオニュージウスの宮

廷に紹介され,ヨ三の愛顧をえて政務の指揮をまかされる。アーガトソは,2年

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のあいだディオニュージウスの政治を支え,その改善に努力する。そLてシラ

クーサの国民によって恩人として尊敬されるが,宮廷の寄生虫のような悪い取

りまき達にとっては,憎悪の対象にな孔さらに宮廷をめぐる陰謀にもまきこ

まれ,逮捕される破目におち入り,ひどく人間不信の気持をいだくようにな

る。その時思いもかけずに,ヒピアスがアーガトソの猿房に現われて,あらた

めてスミルナで自分の後継者になってくれるように申L出るが,アーガトソは

r永遠に真実で正Lく良いこと」にもっと密接に結びついている自分の本心を

打ち明けて,その申し出をことわる。

 イタリアの東南都の港湾都市ターラントでは,アーガトソの父親ストラニク

スの友人であったアルヒタスが支配していたが,彼の強いとりたLでアーガト

ソは釈放されて,彼の家に迎えられる。そして意外にもアルヒタスの息子の嫁

に汝っているプシューヒェに再会L,青春時代の恋人プシューヒェが実際に死

んだと思われていた妹であることあることを知私ターラントに落ち着いてか

らは,アーガトソは数学や自然科学や天文学などに尊心し,また狩りに出かけ

る。ある時嵐に襲われ,人里離れた別荘に難をさける。そしてこの家の持主が,

今はカリクレアという名前に狂っているダーナエであることを知り,アーガト

ソはダーナエの足元にひれ伏し,言葉では表現できないような気持で彼女のひ

ざを抱き,涙にむせぶ顔つきでかの女の前にひざまずくのである。ダーナエは,

アルヒタスの家族ともひきあわされ,患いやりのある友情も生れてくるのであ

る。以上が第1稿の犬筋であるが,第2稿ではダーナエがブシューヒェに誠実

に物語る愛の遍歴の歴史『ダーナエの物語』が,第3稿では『アルヒタスの人

生哲学』がつげカロえられたことは前述の通りである。ヴィーラソトは,序言の

中で「われわれの計画によると,われわれの主人公の性格がいろいろの試練に

かけられ,その試練によって彼の考え方と美徳が浄化され,その中で過犬で不純

在ものがしだいに分離させられる」(Wei1nachmsemP1mderCharakter

unsers He1den auf verschedene Proben gestel1t werden sol1te,durch

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we1che seme Denkensart und se1ne Tugend erlautert und dasjemge,

was darin直bertrieben und unecht waエ’,nach und nach abgesonde並

w直rde)と述べ,さらに「われわれがさしあたって物語の展開についていうこ

とができるすべてのことは,次のようたことであ乱すなわちアーガトソは,

この作昂の終着点をなす彼の人生の最後の時期に,賢明でもあるとともに,高

潔な人間になるだろうということである。」(Alles,waswirvor1乞u危gvonder

Entwick1mg sagen kδmen,ist dieses:daB Agathon in der letzten

Periode seines Lebens,welche den BeschluB㎜sers Werkes macht,ein

ebenso weiser als tugendh証ter Mam sein wird)と述べている。

 一般にドイツにおいて「教養小説」(Bi1dmgsromen)という言葉は,ヴィル

ヘルム・ディルタイ(WilhemDilthey)(1833-1911)によって,ゲーテの『ヴ

ィルヘルム・マイスターの修業時代』とその系列に属する小説群に対して用い

られたとされているが,最近の研究によると,ディルタイ以前にカルル・モノレ

ゲソシュテルソがすでに使用Lていることが明らかになっている。㈲モルゲソ

ーシュテルンの定義によると「教養小説というのは,次のような二つの条件があ

れぱ,そうよんでも差支えないであろう。それは主人公の人聞形成を,その始

まりとある段階までの完成の発展の中で描くのであるから,第一にもっぱらそ

の題材のためである。しかしたがらまた第二にそれはこの描写によって読老の

人聞形成を,他のいかなる種類の小説よりも広範囲に促進するためである」

(Bildungsroman wird er heiBen,erstens und vor茄glich wegen seines

Sto舐s,wei1er des He1den Bildung in ihrem Anfang md Fortga二ng bis zu

einer gewissen Stufe der▽ollendmg darstellt;zweytens aber auch,weil

er gerade durch diese Darstel1ung des Lesers Bi1dung,in weiter血U㎜一

fange als jede andere A打des Rom㎝s f6rdert.)とされている。㈹ディルタ

イは,その著『体験と文学』(Das Erlebnis md die Dichtung)(1905年)の

ヘノレダーリーソを論じた文の中で「『ヒュペーリオソ』は,ルソーの影響をう

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Page 23: ドイツ文学におけるロマーン理論 · 2020. 2. 23. · 1890),ヘルマソ・ヘヅセ(Hermam Hesse)(1877-1962),トーマス・マソ (Tho㎜as Mann)(187ト1955)のような一流の作家が含まれているが,この

        ドイツ文学におげるロマーソ理論の研究(V)      135

けて,内面的教化を目ざす当時のわれわれの精神の方向よりドイツに生れた教

養小説の一つである。これらのうちにおいて,ゲーテとジャソ・パウル以後,

ティークの『シュテルソバルト』,ノヴァーリスの『オフターディソゲソ』,ヘ

ルダーリンのrヒュペーリオソ』は長き文学的価値を維持した。『ヴィルヘル

ム・マイスター』と『ヘスペルス』以来,これらの小説はすべて当時の青年を

描写Lたものであった。青年ぱ幸福たる黎明期に生の第一歩を踏み出し,同志

を求め,友情と恋愛に遭遇する。しかしやがてはこの世の無情なる現実と戦い,

かくLて多様な生活経験のうちに成熟し,自己みずからを見出L,この世に

おげるみずからの使命を確信するのである」7]と,教養小説に定義のようたも

のを与えている。『アーガトソ物語』が教養小説であるかどうかについては,

様々な議論や説があって今ここに立ち入る余裕はないが,ディルタイのように

『ヴィルヘルム・マイスター』以降のものに適用したものでなく,モルゲソシ

ュテルソのようた広い意味で適用すれぽ,教養小説といってよいであろ㌔げ

んにディノレタイは,同じ文の別の所でヘノレダーリーンがテユーピソゲソ時代に

着手したrヒュペーリオソ』についてrヘルダーリーソは,いまやヴィーラン

トのrアーガト1■』以来われわれの文学において慣例に・なっている発展史的小

説の使命をもって臨んだ。しかもかれは発展小説たるものをシラーの視点の下

に解した。すなわちその出発点陵単純なる組織によって与えられる素朴な完全

さであり,その究極点はわれわれみずからが最高の教養によって達しえられる

理想である。この聞をかれの主人公ヒュペーリオソの数奇なる行路が走るので

ある」と述べ,rアーガトソ物語』が教養小説の系列に属することをほのめか

Lている。

 rドイツの教養小説』(Der deutsche Bildmgsrom㎜)(1984年)の著者目

ルフ・ゼルプマソも18世紀のシュソメルの『ドイツ感傷旅行』(Emp丘ndsame

Relsen durch Deutsch1㎝d)(1771-72),フォソ・クニッゲの『ぺ一ター・ク

ラウゼソ物語』(Geschichte Peterαausens)(1783{5)やヘグラートの『滑

                                 62?

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 ユ36           早稲田商学第333号

稽物語』(Komischer Rom㎝)(1786年)などの教養小説ではないが,主人公

の教養物語(Bi1dungsgesc肚chte)を提傑する作品をあげ,ヴィーラソトのrア

ーガトン物語』に至って初めてまとまった長篇小説の主題になったとLてい

る帽〕。

 もう一点つけ加えておきたいことは,『アーガト:■物語』における小説技法

の新しさである。物語の大筋は榊こ述べた通りであるが,その中には「海賊の

モチーフ」やr昔の恋人が妹であることが判明する」ことなど,バロック小説

を思わせる古めかしさも見られるし,哲学的論議やギリシャ事情についての注

釈やAbschwe並ungとかDigressionと称する本題から逸脱した話がちりぱ

められていて,全体は複雑な構造になっている。すなわち物語は,ストーリー

全部と登場人物すべてを見晴らす上位の視点からコメソトをカロえながら物語に

割り込んでくる全知全能の語り手胞](auktoria1er Er蟷hler)によって物語られ

る。この語り手は,すべてを知りつくLた語り手の役割で登場するが,「この

物語はある古いギリシャの手記から披き取ったものである」と主張することで,

物語にある種の距離を保つ。このような作老としてのフィクショソは,古代ギ

リシャで演ぜられる物語が,読者と同時代人である語り手によって報告される

ことを可能にするのである。

 そしてこのことと密接に関連するのは,語り手にとって目前の囲来事を報告

することよりも,むLろ事件についての注釈や観察や反省の方が犬切であると

いうことである。これによって,語り手は絶えず意識的に読者に向って話しか

げていることが明白になる。ヴィーラソトは,物語を話すだけでなく,読者に

物語をできる隈り多面的に提供するために,あらゆる点で語り手の立場を利用

するのであ乱その意味でノノレペルト・ミラーの言葉を借りるならぱ,「ヴィ

ーラソトとともにドイツ文学においては,われわれの意味におげる長篇小説,

すなわち,すべての溝成の法則と文体上の手段が計画的に利用され,物語の中

で映し出されている意識的な芸術形態としての長篇小説が始まった」ωという

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         ドイツ文学におげる田マーソ理論の研究(V)      137

ことができよう。

 このrアーガトン物語』が当時のドイツの文学に対してもつ意味は,ただち

に認められ,すでに1767年に同じ世代に属するレッスィソグは,その『ハソ

ブルク演劇論』(Hamburgische Dra血aturgie)(1767イ9)の中でこの作品

がr疑いもなく,われわれの世紀でもっとも優れた作品の一つである」(第69

節)と賞讃し,またクリスティアン・ブランヶンブノレク(C.B工ankenburg)

(17μ一g6)は,このrアーガトソ物語』を拠り所としてr巨マン試論』(Versuch

並ber den Roman)(1774年)を書き,叙事詩に代る新Lいジャソルとしての

ロマソの地位を確立したが,このことについては後に詳しく触れるであろう。

 さて1760年以来ヴィーラントはピーベラハに定住していたが,ほとんど杜

交的な交際もなく,文学的な環境からも遠ざけられていて,この小都会での俗

物根性的な雰囲気が年をへるごとに気づまりたものになってきた。そこで彼は,

この偏狭な世界から逃れるために,多くのつてを求めていたが,その一つとし

て1769年の春に哲学の教授としてニルフルト大学へ摺かれた。こごでヴィー

ラソトは,人類史や哲学や国家論(特にモソテスキュー流の)やギリシャ・ロ

ーマ文学について講義をして犬成功をおさめた。ヴィーラソトは,自分が得意

の境地にあるかのような感じをもった。自分の教育的な素質を十分に開き,人

問を啓豪主義の意味において教育するという自分の関心事を今や直接に実践の

場へ移しかえることができたからである。詩作,韻文物語,論文,批評等作家

としても実り多き時期であったが,特に二つのロプソ『シノペのディオゲネス

の対話』(Die Dialoge des Diogenes von Sinope(1770年)と『黄金の鏡,

あるいはシェスヒアソの王たち」(Der goldene Spiege1order Die Kδnige

∀en Scheschian)(1772年)が生れた。この二つのロマソのうち,後老はとり

わけ一種の政治小説としてヴィーラソトの啓蒙君主政治に対する考えが示され

ているので,ここに取り上げてみたい。作者がシェスヒアン語から翻訳Lたと

主張Lているこの同マソの内容ば,次の通りである。

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 ヱ38            早稲田商学第333号

 イソドのゲバル王は,その前任者たちの浪費癖によって国家滅亡の危機にさ

らされていたが,お気に入りの臣下アルマハルと哲学着のダニシュメンドによ

って,楽しみと教訓のために,シェスヒアソの歴史についての講義をうける。

アジアの地域のどこかに存在すると考えられるシェスヒアソ禺は,300もの小

さい細かな区域に分裂していて,絶えずお互い同志争い合い,その臣下たちを

貧困の不幸の中に突き落す自分勝手な領主たちにより支配されている。共同の

首長として王様を選挙しても,不十分な権カしか与えられ恋いので,少しも改

善が見られたい。混乱はなおも続いたが,ついにタタール人の領主オグルが国

を征服して,絶対主義政権を樹立するに至る。オグルは,国民のために最善な

ものを求めたので,彼の政治はよい方向に傾く。オグルの後継者たちの政治の

もとでも,その後さらにシェスヒャンの生活はまずまずであった。

 しかLリリーという美人が現われて宮廷で放縦とぜいたくと生の享楽の限り

を尽くLたので,適徳的堕落が始まる。リリーの息子のアツオールのもとで,

乱脈はその頂点に達す乱彼のお気に入りの臣下たちは,自分の利益のために

国を支配し,彼の寵愛を受げた女アラバンダは,けたはずれの浪費癖によって

一層シェスヒアンの滅亡を招くことにたる。その上国土は二つの派に分れた烈

しい宗教戦争によって分裂し,一方は青い猿を最高の神として崇拝し,他方は

火のように真っ赤た猿を崇拝する。アツォールのあとつぎのインファソディア

ルのもとで,宗教的争いは革命に童で進み,特に王は,そのお気に入りのエブ

リスの影響を受げて国民をはげしくしいたげる。イ:■ファンディアルは,つい

に殺害されてしまう。

 この時イソファソデ4アルの跡継ぎのティファンが,国民の幸福だけを心に

かげる領主として出現する。賢明の施策により,まもなくティファソは国を再

び豊かに繁栄させ,模範的国家の創立著にたる。ティファソに続くシェスヒア

ソの支配者たちが,ティファンの指示を守っている問は,引きつづき万事好調

であった。しかし賢明なティファソのことを忘れて,また音の誤りを犯し貴族

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         ドイツ文学におげるロマーソ理論の研究(V)      139

と聖職着達が争ったり,宮廷が新しい侵略戦争を引き起したり,新税を国民の

上へ押Lつけると,シェスヒアソの人たちはまたしても革命へと蜂起するので

ある。しかしながら今度の場合は,混乱をおさめることのできる新しいティフ

ァソのような人が存在しない。絶えまのない争いや陰謀や扇動政治家たちの蓉

赦ない権力斗争は,ついにシェスヒャソ国を滅亡させ,シェスヒァソは簡単に

隣国諾国のえじきにたってしまい,国は分裂して隣国諸国に合併されてLまう

のである。

 すでに述べた『ドソ・スィルビオ』や『アーガトソ』やあとで触れることに

なる『アブデラの人々』など同じように,ヴィーラソトはその題材をドイツ以

外の国に求めている。このことぽよくいわれるように,「ロソドソもパリもな

かった」ドイツの杜会的現実が彼にこのような態度を取らしめたといえよう。

しかしながら筋書を一見して,国民が抑圧され,領主の浪費癖や戦争好きに悩

まされ,罷臣支配や側室政治におかされ,馬鹿げた宗教戦争にさいなかれてい

るシェスヒャソという国は,神聖ローマ帝国(Das Hei1ige Rδmische Reich

Deutscher Nation)の詳細こ渡る引き写しであることは,すぐ看敢される。こ

の点では,当時のドイツの現代的間題をイタリアの宮廷に移さざるをえなかっ

たレヅスィソグの『エミーリア・ガロッティ』(E㎜i1iaGaIotti)(1772年)が

思い出される。レッスィングの場合と同じく,ヴィーラソトがアジアの専制政

治の姿を借りてドイツの不都合次清況を描かざるをえたかったのは,当時のド

イツの専制政治によって引き起された精神的注隷属状態であった。従ってこの

ロマンの実践目的が祖国における不都合な清況を弾劾することによって克服し,

領主たちを理性へと導くことによって乗り越えることであったことは,明らか

であろう。ヴィーラソトのような徹底した啓蒙主義老でも,何もかも根底から

覆す革命による克服を望まず,革命は成功を約東する手段ではないと考えてい

た。彼の希望は,当時の多くのドイツの啓蒙主義著と同じように,支配領主た

ちをよい方向へ教育し,感化することであった。ヴィーラソトは,フラソス革

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命(1789年に起っているから,『黄金の鏡』より十数年後である)の時代に「シ

ェスヒァソの王様はフラ:■スの専制君主(作老注:ルイ16世を指す)に対して

どんな影響を与えることができただろうか,何の影響を与えようもなかったで

あろう」と述べ,またゾフィー・ラロシュにあてた手紙の]都で「『黄金の鏡』

は,文明国のお歴々や貴人たちが人類の歴史から学ぱなけれぱならないもっと

も有益なことを簡潔にダイジェストしたものです」と書いている則ことは,こ

のことを証明している。そのような意味では,『黄金の鏡』はドイツにおげる

啓蒙主義時代の貴重な文学的記録ということができよう。

 さてエルフルトでは,ヴィーラ=■トは数々の成功をおさめたにもかかわらず,

絶えず増犬する多くの困難と戦わなげれぱならなかった。人口わずか1万6千

人のエルフルトでは,正統信仰と異端審間の名残りが支配的であったからであ

る。犬学の評議会は,自由思想家であるヴィーラントに対して低抗を示Lた。

もっとも陰険た黒幕の2人の人物は解任されたが,陰謀はどんどん進んだ。

1770年の1月には,シュヴァルツという名前の学生が逮捕され,rヴィーラソ

トの講義だけしか聴講していない」という明白な説明をつけて,神を冒漬Lた

罪で告訴された。この事件が解決し,シュヴァルツが再び自由の身になるまで

には,高度のとりたしが必要であった。このようなエノレフルトの市当局の態度

は,ヴィーラソトにとっては,先住地ビーベラハの評議会を思い出させた。彼

は1679年の10月18則こゲスナーにあててr何という人々,何という頭脳の持主

なのだろう!何という風習,何という野蛮さ,何という知性のなさ,冷酷,

悪趣味だろう! こういう人達は,教育して人間に仕上げなけれぱならない」

と書いている。

 このようなエルフルトの不愉快な状況は,どこか別の活動の場を求める決心

をさせることになったo

 ピーベラハ時代より自由な時間に恵まれたヴィーラソトは,この頃何回かの

旅行を試みてい飢まずライプツィヒヘ出かげ,出版者のライヒと個人的に知

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        ドイツ文学におげる目マーン理論の研究(W)       141

り合い,またゲーテの絵の先生であったライプツィヒの美術学校長工一ザーと

親交を結んだ。1771年には,ラ倶シュ家の招待を受け,コーブレンツに滞在し,

ここで批評家のメルク,後にヘルダーの妻になったカロリーネ・フラクスラソ

ト,詩人のヤコービー兄や理想主義の哲学者ヤコーピー弟などと知り合いに友

った。これらの人たちは,後にワイマールで交友の輸を広げることになるので

ある。ヴィーラソトは,『黄金の鏡』をもってヴィーソヘの招待を手に入れた

いと希望Lたが,自由思想家に対して低抗するカトリック信者の支配する宮廷

のために失敗した。ヴィーソの皇帝ヨーゼフニ世は,プロイセンのフリードリ

ヒニ世と並んで当時の多くのドイツの啓蒙主義者達にとっては,杜会生活と精

神生活の改善をはかってくれる希望を託することのできる君主であった。

 しかし茂がらヴィーラソトを招璃したのは,人口わずか1O万の小国ザクセ

ソ・ワイマール・アイセナハ公国であった。この国は,1758年以来アソナ・ア

マーリァ公爵夫人の摂政政治のもとにあり,夫人は貧しい国の経済を改善し,

支出と収入の関係を好都合た状態に買こうと努力していれ精神的にも犬変広

い心の持主で,予供達の教育に特に心をくぽっていた。そLてこの課題にとっ

て『黄金の鏡』の著者,すなわち賢明で巧妙な君主によって指導される君主国

を描いた人が,とりわけ適切であるように思われたのであ乱1771年の11月

には,公爵夫人みずから初めてヴィーラソトに会い,72年の9月には,ヴィー

ラソトはワイマールに移住することになった。公爵夫人は,彼に1,OOOターラ

ーの年収と生涯の年金と宮廷顧問官の称号を提供させた。公子のカルル・アウ

グストは,才龍も人より優れ,理解力も早く,啓蒙主義の理念に好意を抱いて

いたので,ヴィーラソトの努力は,実り豊かな土壌を見出したのであった。そ

Lてそれはアウグスト公が統治の間,「祖国の父」であろうと努め,才能ある

市民階級の人たちを宮延へ引っぱり,啓蒙主義の思想を実践に移すことに役立

ったのである。1775年カルル・アウグストが成年に達すると同時に,ヴィーラ

ソトの公職は消えたが,年金によってその時からは,自由放作家とLて生活す

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ることができ,ワイマールを出て行くことは,ごくまれであった。

 こうしてヴィーラントは,長い間心に抱いていた計画,つまり雑誌の発行を

実現することができた。この雑誌すなわちrデア・トイチェ・メルクーア』

(Der Teutsche Merkur)によつて,彼は啓蒙主義の意味において国民全体に

感化を及ぽすことができた。ヴィーラソトには優れたジャーナリズムに向いた

天賦の才があり,これによって約30年の聞,『メルクーア』はドイツにおける

もっとも影響がありまたもっとも人気の高い雑誌の一つとして君臨しえたので

ある。この雑誌の予定計画については,r編集老の前書き」の中でくわしく述

べられているが,それによれぱこの雑誌を文学,芸術および政治を含めてあら

ゆる学間分野からの興味深いニュースや報告や論評のための機関誌たらしめた

いとある。時にはゲーテ,ヘルダー,メルク,シラーなどのようた一流の作家

や批評家を協力老として仰ぐこともあり,ヴィーラソト自身は,その晩年の作

品をほとんどすべて『メルクーア』誌に発表L,多数の水準の高い論文や雑録

や書評などを書いれそれらの論文などのあつかっているものは,ギリシャ・

ラテソの文学,イタリア,フラソス,イギリス,ドイツの文学から,ドイツ語,

美学,哲学,科学と政治の当時の話題の間題にまで及んでいる。『メルクーア』

誌の発行部数は,最初は約2,500であったが,その後ずっと1,500部を維持し

た。当時のドイツでは,純文学の雑誌の発行部数は平均して1,000都ぐらいで

あったから,この数値はかたりた数といってよいであろう。この雑誌が廃刊に

なったのは,1810年のことである。

 ヴィーラソトのワイマール滞在は,1772年から死去する1813年まで約40年

に及ぶが,その最初の1O年には多くの詩的作品,とりわげしゃれた韻文物語を

発表Lた。読者から犬いに迎えられたこれらの韻文叙事詩の中では『冬物語』

(Das Wintem身rchen)(1776年),rペルヴォソテ』(Pemnte)(1778-96),

rオーベロン』(0beron)(1780年)の三つが傑出している。r冬物語』はr千一

夜物語の第一都の物語による」(nach einer Er埴h1mg i血ersten Tei1eマon

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”Tansendundeiner Nacht“)と副題にあるように,r千一夜物語』の語り手

とされる王妃シェヘラザードが物語った話という形式にたっていてr漁師と精

霊」「不運な島々の王様」の2部からなり,ある王様が魔法使いの女に魔法を

かけられたが,遇然その王様の支配する島の城に入ったサルタソによってその

魔法から解放される話で,当時存在したひとりよがりでめそめそした感傷主義

に対する愉快な風刺文学になっている。『ペルヴォソテ』もイタリアの童話作

家ジョヴァソニ・バティスタ・パズィーレ(G.B.Basi1e)(1575-1632)の『五

日物語』(PentamerOne)にその題材を負うているが,完全に自由に創作したも

のである。第3部はずっと後年になって作られ,1796年に全集の中で初めて発

表された。

 舞台は南イタリアの都市サレルノで,ここにヴァストーラという美しい王女

がいて,たくさんの求婚者たちに取り囲まれていた。一方森には小農の息子で

あるペルヴォソテがいて,ある時母親にいいつげられて,たき木を集めるため

に森の中へ入って行くが,3人の若い美女が日なたぽっこをLて眠っているの

を発見して,木を切って彼女たちの周りに囲いを作ってや孔3人の娘は,目

を覚まLたときに,ペノレヴォソテの好意に感謝して,r私たちは妖精で,この

恩を忘れるようなことはありません。何でも望むものを要求Lて下さい。たち

どころにそれを実現してあげましよう」という。そこでためしにr私を家へ運

んでくれるといいのだが」というと,馬が現われて,ペルヴォソテとたき木の

東を町の中や裁のそぱを通ってペルヴォソテの家へ運んでくれた。窓から新し

い騎±がそぱを通って行くのを見て,ヴァストーラ王女は「みにくい化け物

だ」と悪1]をいう。この悪口を耳にしたペルヴォソテは,思わずr王女危んて,

すぐにおれの双子を生めばいい」と口に出す。すると4ケ月が経遇するかしな

いうちに,双子が王女に生れる。双子の娘は愛らしく育ったが,6歳になった

ときに,侍従長のすすめで舞踏会を開き,子供の本能で親が護であるかを知ろ

うとする。ペルヴォソテも,きた汰らしい格好をして髪の毛をぽうぽうにして,

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 1μ            早稲田商学第333号

靴もはかずをこ現われる。2人の娘はペノレヴォソテを見つけるやい恋や,彼のも

とへ走りよりその場にいた人達みん在を驚かせる。王様は「こんなならずもの

の子供が私の孫なのか」とぱかり怒り狂って,ヴァストーラと2人の娘とベル

ヴォ:■テをワイソだるの申へ投げ込み,そのたるを海の中へ投げ入れ,風と波

のままにまかせる(第1都)。たるの中で妖精の魔法のことを聞いたヴァストー

ラ王女は,ペルヴォソテに「たるを船にかえて,ナポリ湾のバイヤ港に連れて

行く」ように妖精に頼めという。岸に着くと,今度は「船を美しい城に代え

る」ように頼めという。美Lい城が出来上って,ペルヴォソテも今やペルヴォ

ソテ王子と呼ぽれるようになると,ヴァストーラは「あなたに欠けている知力

を,もう少し頭脳を欲しい」と妖精に頼めという。妖精にそのことを頼むと,

皮肉なことに分別が傭わってrたえず新しい贈り物をおねだりするのは貧欲で

厚かまLいというものであろう。今やわれわれに必要なのは,足ることを知る

ことである」とペルヴォソテはいうのである(第2都)。第3都は前述のように

ずっと後年になって加えられたものであるが,ヴァストーラとペルヴォソテは,

新しい城で夢のように幸福な生活を送っていたけれども・やがてヴァストーラ

は退屈L始め,生れ故郷のサレルノヘちょうどヨ≡様の祝祭があるので,連れて

行ってくれるように妖精に頼んでくれという。このようにしてヴァストーラは,

サレルノからナポリヘ,さらにヴェニスヘ行くようにと次々と要求するカミ,ペ

ルヴォンテはついに,「犬都会の喧騒は,私の好みではたい」という。それに

対してヴァストーラは,最後のもう一つのお願いとしてソレソトヘぶどう狩り

に招待されているので,お金の一杯入った財布をもって行かしてくれるように

頼む。ベルヴォソテが妖精にそのことを頼むと,たちまちその願いはかなえら

れる。「さよなら,道中ご無事で」とペルヴォソテはヴァストーラを見送って

から,部屋へこもり,かんぬきを差して,ひざまづいて声をはり上げて「親切

な妖精さんたちよ,わたしの最後の願いを聞いておくれ,わたLがあなたがた

のおなさけによって手に入れたものを全部もう一度持っていって,わたしがお

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         ドイツ文学におげるロマーソ理論の研究(V)       145

願いをはじめた蒔の元の状態にもどして下さい」と叫ぶと,突然ペルヴォソテ

は,年老いた母のあぱらのまん申に立ち,この喜劇は大団円となるのである。

 ヴィーラソトは,この韻文物語の中で教養もたく卑しい小農の恵子であるペ

ルヴォンテの運命によって,人類の発展の特徴を明らかにしている。すなわち

もともとは無意識的で本能的で鈍い行動が,比較的高度な段階に達すると,自

由と必然性の関係を洞察することによって意識的な行動に変化するのである。

しかしながらこのような内容になったのは,1794年から95年にかけて成立Lた

第3都の完成によってであった。このような内容になるに至ったのは,ヘルダ

ーの提案によるところが多い。というのももともとは,妖精たちは願いごとに

よって与えられたものを全部返してもらうことになっていたからである。

 ヘルダーは,ヴィーラソトがフラソス革命におけるいろいろた事件について

の悲観的な気分にひきずられていたこのような結論に対して,1795年1月の手

紙の中で,「思慮分別,それもその最良のものは,極めて気高い天からの心か

らの贈り物でありますから,しっかりした人間,しかも苦しみ抜いたしっかり

Lた人間からは,魔法の杖次どでは奪い取ることはできないでしょう」と異議

を申L立てている。胸この物語の中でも宮殿とあばらやの対立が摩擦を生み,

むなLい宮廷の歓楽に熱申する虚栄心の強いヴァストーラ王女は,最後にはベ

ノレヴォソテが母親のあぱら屋で見出す幸福に満ちたつつましやかな生活へのは

げしい憧撮の念によって,然るぺき報いをうけるのである。

 ヴィーラソトが書いた韻文物藷の中でもっとも重要で規模の大きいものは

rオ_べロソ』(Oberon)(1780年)であるが,この物語の大筋は13世紀のフラ

ソスの武勲詩(chanson de geste)の一つである『二・オソ・ドゥ・ポルドー』

(Huon de Bordeaux)から取られている。この韻文物語にヴィーラソトが着手

Lたのは,1778年の11月のことで,1779年はずっと仕事にかかり,1780年の

2月23日に・完成し,3月10日に印刷が完了した。そして80年の『デア・トイチ

ェ・メルクーア』にrオーベロソ,14章からなる詩文』(Oberon,ein Gedicht

                                  63?

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invierzehnGes身ngen)として発表された。その後何回か改作され,1785年

には,12章に分げられ,『読者へ』(An den Leser)という序文が添えられた。

最終的な形にたったのは,1796年のことで,全集の22巻と23巻の形で発表され

た。

 以下手短かにその梗概を追ってみよう。

 若い血気さかんな騎士であるヒューオン(フラソス語ではユオン)はカール

大帝(シャルルマーニュ)の怒りを招く。その怒りを鎮めるためには,バグダ

ッドのイスラム教国の君主から,4本の臼歯と1束のひげの毛を奪い,その高

官の一人を打ち殺L,君主の娘のレーツィアを妻として獲得しなけれぱならな

いo

 妖精の王であるオーベロソ(フラソス語ではAuberon)(その妻であるティ

ターニアと共に,シェイクスピアの『真夏の夜の夢』にも登場する)は,過大

な任務を負わされたけなげなこの騎士を援助しようとする。オーべロソは,妻

のティターニアが不倫をした女をかぱったために,妻と伸たがいし,一組の男

女が清純で変ることのない愛の理念を実現したときに,はじめてもう一度伸直

りができる。

 ヒューオソとレーツィアはこの試練に耐えなげれぱたらない。ヒューオソは,

それを吹いて呼ぺぱいつでもオーべロソが助けに駆けつけてくれる笛をもら

う。かくして彼はバグダッドヘ向う途中,数々の危険を克服し,イスラム教国

の宮殿で自分の価値を認められる。ヒューオソとレーツィアは,バグダッドで

ひと目見て愛し合うようになり,結婚するためにローマヘ逃げる。オーべロソ

は,ふたりが早まって夫妻生活を行わない限りは,かれらを保護することを約

束する。Lかしながらふたりは一あまりにも人間的なことではあるが一瞬

間の誘惑に負けてしまう。そして罰としてかれらは,さびしい島へ漂着させら

れる。しかLながら,ここでは隠老のアルフォンソが力をかしてくれ,ふたり

は倫理的に清められる。ふたりは一緒に困難と辛苦に堪えたのちに,アマソダ

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        ドイツ文掌におげるロマーソ理論の研究(V)      147

(レーツィアは,洗礼をうけてこのように呼ぱれるようにたった)は海賊に襲

われ,チュニスヘ連れて行かれる。しかしながらオーベロソがまたしても援助

の手を差Lのべてくれ乱オーベロソは,ヒューオソにチュニスで,旧友のシ

ェーラスミソとアマソダの乳母であるファトメに会わせる。シェーラスミソと

ファトメは,ヒューオソをアマソダの滞在している所へ連れて行く。しかLな

・がら愛し合うふたりの貞節を証明する最犬の試練が前途に待ち受げていたので

ある。すなわちそこのイスラム教国の君主であるアルマンゾノレがアマソダに,

女王のアルマソザリスがヒェーオンに,ぞっこん惚れ込んでしまったのであ

る。しかしたがらヒューオンとアマソダのふたりは,愛を嚢切るよりはむしろ

焼け死ぬことを選ぶ。このことによって,ふたりはオーベロンのおきてを満た

して救われ,その小さな息子と無事に一緒になれる。とどのつまりヒューオソ

は,パリにおげる馬上試合で勝利をおさめ,自分自身世襲封土を取り戻し,カ

ール犬帝は,ひげの毛と臼歯によってその怒りをやわらげるのである。

 ヴィーラソトは,前述した『読老へ』という序文の中でr実際のところ,オ

ーベロソは二つ,正確にいえぱ三つの主要たストーリーから穣成されている。

すたわちヒューオソが皇帝の命令で乗り切ることを引き受けた冒険の旅,レー

ツィアとヒューオソの恋愛関係の物語,ティターニアがオーべ回ソと再び和解

する話の三つである。Lかしながらこれらの三つのストーリーあるいは主題は,

どの一つを取っても他の二つがなけれぱ,存在しえないか,あるいは幸せ在結

果が得られたいように,中心を淀す繕び目でからみ合わされているのである」

と述べているが,彼は申世の騎士物語を題材にして,三つのストーリーを芸術

的に巧みに組み合わせて,人問の心の純化と成熟のテーマを描いている。妖精

の王夫婦のオーベロソとティターニアの不和は,真に愛L合う人間的なカヅプ

ルによってのみ克服される。ヒューオソとレーツィアの愛は,数々のかれらに

課せられた試練の中で,真実であることが実証される。真の愛は人間を浄化し,

その最良の能カを発揮させる。気高いもの,人閻的恋ものは,すぺての悪と非

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 148          ・早稲田商学第333号

人聞的なものに打ち勝つ。これがこの叙事詩の根本思想である。

 『オーべ1コソ』が完成したのち,ゲーテはヴィーラソトに月桂冠を贈り,感

激のあ重りラファーターにあてて「オーベロンは,詩が詩,金が金,水晶が水

晶としてなくたらない限り,詩的芸術の傑作として愛され,賞讃されるであろ

う」(Oberon wird,so1εmge Poesie Poesie,Gold Go1d,Krista1l Krista11

bleiben wird,a1s ein Meistersωck poetischer Kunst ge1iebt md be・

wmdert werden.)と書いている。『オーベロン』を傑作たらしめている要素

には,三つの点が考えられる。一つは中世の芸術的パロディー化である。例え

ぱのちに浪漫派によって本気で憧僚の念によって迎えられた騎士階級の光栄は,

啓豪主義の息子であるヴィーラソトにとっては,次のように読者を楽しませる

のに役立つだけである。

 騎士の犬きな務めは,乙女たちを守ることです。たとえ呼び声に応じてすぐ

 にどんな乙女のためにでも,自分の血を散らす気にならないときでもです。

 (Des Rltters groBe P且1cht war,Jun敏raun zu beschutzen

 Und,wenn sein Herz sich g1eich m…mgemutet fiih1t,

 A㎡jeden Ruf sein B1ut fiir jede zu verspritzen.)

                          (第3章39節)

 第二点は,ヒューオソのレーツィアに対する感動的な愛の物語である。第7

章の46節から47節にかげての次の詩句は,全叙事詩の中でもっとも心を打つも

のの一つである。ヴ4一ラソトは,ヒューオンが恋人が餓死の恐怖にさらされ

たと思った時の岩石の島での彼の苦しみを次のように描いている。

 わたしは,君が私の目の前でやつれ果てて行くのを見なげればならないの

  か?

 あんなになさげの深い美しい自然の作り出した奇蹟ともいうべき君が。

 やつれ果てるなんて! ただわたLのためにみじめな思いをし,わたしのた

  めにたくさんのものを捨ててしまった君が。

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天の怒りが君をわたしの腕の申へ突き刺ささないうちに

君の星がもっとも美しい運命を約束してくれた君には

郡こは(ここでかれは,怒りと不安のあまり大声でわめき始めた)

餓えを満たすだけでも,大したことは残されていないのだ!

かれは言語に絶する苦悩の中で大きな叫び声を上げた。

それからがっくり倒れて,ぞっとするような静寂の中にとどまっていた。

だがついに一条の信頼の輝きが彼の心の中へさしこんだ。

かれは意気消沈した不幸な状態におおわれた状態の中から,すっくと立ち上

 り

みずからを励まし,熱意を新たにして探究を始めるが,長い無駄た努力だっ

 た。

もはや大洋の中では,太陽の名残りは金色に変ろうとしている。と突然,何

 たる狂喜か!

むさぽるように眺めるかれの視線に,世にもすばらしい果物が姿を現わして

 いるのだ。

(Verschmachten so1l ich dich vor meinen Augen sehn,

Du Wmder der Natur,so liebevo11,so schδn!

”Verschmachten dich,die b1oB um meinetwil1en

So elend ist,fiir mich so viel YerlieB1

Dir,der dein Stem das sch6nste Los verhieB!

Eh’dich des Himme1s Zom in meine Arme stieB

Dir b1eibt“(hier i㎎er㎝vor Wut md A㎎st刎b池11en),

”Bleibt nicht s0Yie1,den Hu皿ger nur zu sti11en!“

Laut schr1e er a㎡in㎜nemb班em Schmerz,

Dann sank er hin und lag in揃rchter1icher Stil1e.

Doch end1ich f釧t ein Strah1Y0n Glauben in sein Herz:

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Er ra跣sicn aus des Tr直bsinIls schwarzer H汕e,

Spricht Mut sich ein md掻ngt mit neuem Eifer an

Zu suchen.Lang umsonst!Schon schmilzt im Ozea皿

Der Somenrand zu Gold-auf einma1,0Entz直cken!

Entdeckt die schδnste Frucht sich seinen gier’gen Blicken.)

 このような詩旬に触れるとき,rオーベロ:■』は,愛の讃歌と呼んでも不当

ではないであろう。

 第三点は,『オーべロソー』のもつ魅力たっぷりに描かれたおとぎの世界で,

次のような描写では,ヴィーラソトは完全に並はずれた状況を色とりどりの色

彩で撞くのを楽しむ童話作家になっている。すたわちヒューオンがバピ1コンの

宮廷で,自分に立ち向ってくる回教国君主の怒りに燃えた従老たちから身を守

るために,魔法の笛を吹き鳴らしたときに,次のような光景が描かれているの

である。

 突然夫上段に抜いた剣がどのこぶしからも抜げ落ち,高官たちの手は,すぐ

  に棒となって踊りの輸へと結ぶ。

 騒々Lいそれ行げの声が広間に狂ったように響く,老いも若きも,足のある

  ものはとびはねずにはいられ恋い。

笛の魔力には,だれかれの差別はない。ただレーツィアだけが,この摩可不

  思議を見て肝をつぶす。

 しかL喜んでもいてヒューオソのわきに立ったままである。

宮廷の廷臣全部が輸を作って,ふらふらしながらぐるりと回る。年配の役人

 たちも,それに合わせて抽子を鳴らす。そしてすべすべした永の上でのよ

 うに,回教の導師自身も宙臣たちと踊るのが見える。

地位も年齢も,何の惜しいことがあろうか。ついには君主までが,欲望をお

 さえ切れず,宰相のひげをつかまえて,この老人に馬とびを教えようとす

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ドイツ文学におげるロマーソ理論の研究(v) 151

る。

前代未聞のどんちゃん緊ぎが,やがてどの控えの間からも,近従たちの群を

 おびき出し,それから婦人たちや,さらには番兵までもおびき出す。

かれらはみんなこの陽気な気違い騒ぎのとりこになる。

魔法の陶酔は,ハーレム全都を解放し,庭師までがカラフルな前垂れをつげ

 て,若い妖精たちとの行列に飛び込んで行くのが見うけられる。

                     (第5章46節から48節まで)

(Auf einma1撒1t der hoc㎏ez廿ckte Stah1

Aus jeder Faust;in raschem Taume1schlingen

Der Emirn H独de sich zu t直nzerischen Ringen;

Ein1autes Hussa scha11t durch den Saal,

廿nd jmg md alt,was FiBe hat,muB springen;

Des Homes Kr㎡t1鎚t ihn㎝keine Wah1;

Nur Rezia,best廿rzt,αe§Wmderwerk zu sehen,

Best七rzt und froh zugleich,bleibt neben H亡on stehen.

Der g出ze Diwan dreht im Kris

Sich schwindelnd um;die訓ten Bassen schnalzen

Den Takt dazu;md,wie a㎡glattem Eis,

Sieht man den Iman se1bst mit einem H包mmling walzen,

Noch Stand,noch Alter wird gespart;

Sogar der Su1tan kann der Lust sich nicht erwehren,

FaBt seinen GroBwesir bei皿Bart

Und wi1I den a1ten Mam noch einen Bocksspmng1ehre肌

Die nie erhδrte Schw身rmerei

Lockt bald aus jedem Vorgemache

Der Kammerlmge Schar herbe1,

Soda㎜d船Frauenvo1k md endlich gar die Wache.

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Sie aユ1ergreift die1ust’ge Raserei:

Der Zaubertam1e1setzt den g…迦zen H雄em frei;

Die G身rtner se1bst in ihren bmten Sch自rzen

Sieht man sich㎞den Reihn mit jmgen Nymphen st亡rzen.)

 『オーベロソ』は,当時のほとんどすべての文化国の言語に翻訳され,また

1826年のカルル・マリーア・フォソ・ヴェーバー(Carl Maria von Weber)

(1786-1826)の場合のように,オペラ化されてもおり,モーツアルトの『魔笛』

(Zauber脆te)(1791年)にも明らかに『オーベロソ』の影響が見られる。

 以一ヒ述べた韻文物語と並んで,1773年から81年にかけて成立したのが(他の

仕事のためにしぱしぱ中断した)諏刺小説の傑作で,ドイツにおけるユーモア

小説の数少ない名作の一つである『アブデラの人びと』(Geschichte der Ab-

derit㎝)である。この本が完全な形で出版されたのは,1781年の秋であるが,

その後もヴィーラソトによって手を加えられ,今目見られる最終的な形に次っ

たのは,1796年の5月に出版された全集の19巻と20巻においてである。『アブ

デラの人びと』の舞台はrアーガトソ物語』と同じく古代ギリシャで,アブデ

ラというのは工一ゲ海沿岸のトラキア地方の都市で,古代ギリシャではその住

民が偏屈なひねくれ者として悪評が高く,そのためにAbderitというと,民

衆本に出てくるシルダの市民(ScM1dbOrger)が「あほう,ばか者」の意味で

使われるように,「小市民,愚か老」の意味でも使用される。

 また哲学者のデそクリトスやプロタゴラスの故郷でもある。その構成は「序

言」(yorbericht),第1部rアブデラの人びとの中のデモクリトス」(Demo-

kritusunterdenAbderiten),第2部rアブデラにおげるヒポクラテス」

(HipPokrates in Abdera),第3都rアブデラの人びとの中のエウリピデス」

(EuripidesmterdenAbderiten),第4部「ロバの影をめぐる訴訟」(Der

ProzeB um des Esels Schatten),第5都rラトーナ(アブデラの守護女神)

の蛙」(Die Fr6sche der Latona),rアブデラ物語への手引き」(Der Sch1廿sse1

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zm’Abderitengeschic批e)からなっている。

 ストーリーを追うこと自体は,この場合大して意味のあることのようには思

われないが,一応荒筋を記してみよう。ヴィーラソトはまずアブデラの町の起

源と住民の性椿についての報告をし,アブデラがドイツにおげるシルダ,スイ

スにおけるラーレソブルクのような都市に当ることを明らかにしている。そし

てアブデラの人びとの中でもっとも有名で,ただひとり本当に賢明た市民であ

るデモクリトス(哲学老でも自然研究者でもあった実際のデモクリトスとは,

関係がない)を多年に渡る研究旅行から故郷のアブデラヘ帰国させるところか

ら,物語が始ま飢第1都でぱ,デモクリトスの物語や意見についてのアブデ

ラの人びとの判断や見解の中で,かれらの偏狭さが明らかにされる。とどのつ

まり,アブデラの人びとは,ただひとりちゃんとした人間であるデモクリトス

を精神病老とみなL,デモクリトスの精神病を確証させるために,有名な医師

のヒポクラテスを自分たちの町へ連れてくる。

 しかしながらヒポクラテスは,すぐれたデモクリトスと心から理解し合い,

デモクリトスではなく,アブデラの人たちのほうが病気であると宣言し,その

治療のために,馬鹿につける薬として,クリスマスローズの根を処方すると,

ピポクラテスはいんちき医者にされてしまう。第3都は悲劇作家のエウリピデ

スが偶然アブデラの町に滞在することになって,アブデラの人たちの芸術に対

する全く浅薄で困襲的な見解を明らかにするきっかげを与える。もっともサス

ペソスに満ちているのは,次の第4都でこのロマンの頂点をなしている。ある

ロバを借りたときに,ロバの影も一緒に借りたかどうかの間題をめぐって,ア

ブデラの住民は二つの党派に分裂し,おたがいに陰謀と扇動でもって争い合う

のである。そしてこの対決が頂点に達したとき,アブデラの町全部ががたがた

になる。なぜたら群衆が市の立つ広場で花を飾ったロバを襲って殺してしまっ

たからである。第5都は宗教問題を取扱っている。アブデラでは町の守護女神

であるラトーナに敬意を表してカエルが飼われていた。首席司祭は,世論を味

                                 6始

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方につけようとして,公共の施設に公げのカエノレの堀を作らせる。このことが

例になってまともな市民はみん在自分自身のカユルの池を作ってしまう。とど

のつまりは,カエルはとめどもなく増えて,たえがたい重荷となり,アブデラ

の人たちは町を放棄して,マケドニアの国境のどこかに移住するのであ私

 ゲーテは1813年18目に行った「ヴィーラントの友愛の思い出のために」と

題する追悼の辞の中でr彼は,われわれが俗物根性といいならわLているすべ

てのものに対して反抗している。かびのはえたようなこせこせしさ,小市民的

性格,みすぼらしいうわべだけのしきたり,偏侠なあげあしとり,あやまった

気どり,浅薄な安易さ,思いあがった尊犬な体面,無数にあるこのような化物

がどのように呼ぱれようとも」(Er lehnt sich a㎡gegen a11es,was wir

㎜ter dem Wort Philisterel zubegre1fen gewo㎞tsmd,gegen stockende

Ped孤tere1,klemstadtlsches Wesen,ku㎜mer11che auBere S雌e,

beschr狛kte Kritik,falsche Spr6digkeit,platte Behaglichkeit,anmaB1iche

W廿rde,㎜d wie diese Ungeister,deren Name Legion ist,㎜r aユ1e zu

bezeichnen sein m6gen.) と述べているが,このゲーテの言葉がもっともあ

てはまるのカミ『アブデラの人びと』であることはいうまでもない。この作品の

中で,ヴィーラソトはギリシャという古代の仮装のもとで,ドイツの平均的な

市民の俗物性を醐笑し,あざげるのである。当時のぱらぱらに分裂Lたドイツ

において,想像を絶する程の広がりを見せていた俗物根性は,すでにそれ以前

からしぱしぱヴィーラソトのあざけりの標的になっていたが,ここではそれが

主要なテーマにたっている。

 というのもヴィーラントがビーベラハやエルフルトやワイマールで経験した

俗物根性に対する戦いたしには,個人を高貴な人閥性へ高めることも,杜会的

現実の変革も不可能であったからである。封建的な絶対主義(Feudalabso1u-

tismus)と教条主義(αthodo虹e)と俗物根性(SpieBb伍gerttm)一この3

つが18世紀のドイツの市民階級カミ解放のために克服Lなけれぱならなかった主

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         ドイツ文学における日マーン理論の研究(Ψ)      155

要な障害物であった。ヴィーラソトが『アブデラ物語への手引き』の中で述べ

ているように,rかつては人口が多く犬きな繁栄した商業都市であり,トラキ

ア地方のアテネと呼ぱれ,プロタゴラスやデそクリトスを生んだ都市」である

アブデラはもはや存在しない。しかしながらアブデラの人びとはそうではない

のである。「これらの人びとは,その本来の住所は地上から消えてしまったけ

れども,今でもなお常に生き活動している。かれらは不滅で死に絶えることの

たい連中であって」「フランクフルトやライプツィヒやコソスタソチノープル

やアレッポで,ユダヤ人がすぐ判るように,アブデラの人に出会えぱ,アブデ

ラ人であることは一瞬聞見たり聞いたりするだげで十分なのである。」ヴィー

ラソトは,rアーガトソ物語』やその他のロマソでは,物語の途中で犬いに反

省してみたり,教訓的な調予を響かせたり,時には脱線Lたりしているが,こ

の『アブデラの人びと』の申ではリアリズムの本質的な要素をもった直接的な

感銘を与えるロマソを作り出しており,ドイツにおげる市民的ロマソの最初の

傑作ということができよう。

 1880年代から90年代にかげては,ヴィーラソトは,主として艀一マやギリシ

ャ文学の翻訳に従事L,また評論家として活躍した。その論文の中には,ヴィ

ーラソトの豊富な知識や興味や啓蒙主義的な関心事のスケールの犬きさが映L

出されているが,その中でも1782年から84年にかけてrデア・トイチェ・メ

ルクーア』誌上に発表された『若き詩人への手紙』(Briefe an ei皿en jmg㎝

Dichter)は,ヴィーラソトの美学を総括したもので,芸術形式の間題に対す

る見解で,ゲーテやシラーにも影響を与えている。

 このようにしてヴィーラントがその作家としての峠を越えたかに見えたとき,

1789年にフラソス革命が勃発した。この革命はヴィーラソトを精神的に若返ら

せ,その創造力に新たな刺激を与えたのである。ヴィーラソトは,その論説の

中で1774年までフラソスにおけるもろもろの事件について報告したり,註釈

をカロえているが,現実の政治的汰事件に対する彼の関心と理解は,当時の他の

                                 64ク

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ドイツの著作家たちよりもきわだっており,『デア・トイチェ・メルクーア』

誌は,ドイツにおけるフラソス革命についてのもっとも重要な清報源であり,

また世論形成の刊行物の一つになったのである。

 ヴィーラ1■トがフラソス革命に対してどのようた態度をとり,どのような見

解をもったかについて,ここで詳しく述べる余裕はたいが,それは首尾一貫し

ていた。すなわちヴィーラソトは,イギリスを模範にした立憲君主制の枠内に

おげる市民階級の解放を希望していたのである。1793年に始まったジャコバン

党の政権を,彼は拒否したけれども,ドイツの当時の情況をふまえながら,フ

ラソス革命はドイツの領邦君主に対する警告ではあるが,杜会情勢変革の模範

ではたいと,彼は考えていた。改革と平穏と節度,暴力的な革命に代る理性的

な発展一それがフラソス革命のドイツに対する影響に取り組んだヴィーラ=■

トのすべての考察の基調をなすものである。ヴィーラソトのフラソス革命の意

味についての見解は,次のようなI793年4月12目に書かれたアナクレオン派

の詩人グライム(J.W.L.G1eim)(171ト1803)にあてた手紙の中に簡明的確

に総括されている。rこうしたことがあっても,私を元気づげてくれる点は,

貴族や民主派の狂信主義の恐るべき爆発や,あらゆる犯罪的な激情の発作のさ

たかに,フランス革命が動因になった多種多様なよい点が人類にとって失われ

ることなく,次第々々にひそかに,強制的たゆさぶりの運動もたしに何千とい

う果実を実らせるであろうということです。というのは,良いものは何ものも

失われることはありえないからです。」

 1794年には,ヴィーラソトの全集がライプツィヒのゲオルク・ヨーアヒム・

ゲッシェソ(G.J.Gδschen)のもとで成功裏に出版され,1802年には全42巻が

完成した。生存中の詩人のこのような犬規模で膨犬な作品の全集が出版された

のは,ドイツでは初めてのことであって,ヴィーラソトは正にその栄光の頂点

にあった。しかも全集の印税によって,彼はワイマール近郊のオスマ=■シュテ

ットに土地を取得し,長年の夢を突現することができた。つまり宮廷から独立

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        ドイツ文学におけるロマーソ理論の研究(W)      157

して,自分自身の考えに基づいて生活し,創作することが可能になったのであ

る。息子のカルルが農業の仕事を引き受け,家の改築も行われ,大きな果樹園

もととのえられ,詩人はもう一度元気を取り戻Lたようであった。しかしなが

らこの晩年の幸せにやがて暗いかげりがさすようにたった。1800年にはクレメ

ソス・ブレソターノおよびベッティーナ・フォソ・アルニム兄妹の姉であり,

ゾフィー・フォン・ラロシュの孫であったゾフィー・ブレンターノが死に,一

年後には妻のドロテーアも永遠の眠りについた。このような個人的な悲しい体

験に結びついていたり,農業についての知識が不足していたりして,1803年に

は買い手が見付かって,ヴィーラソトは再びワイマールヘ転屠Lた。

 オスマソシュテットでヴィーラソトが完成した晩年の二つのロマソはr善魔』

(Agatho雌mon)(1799年)と『アリスティップと同時代の人びと』(AristipP

und einige seiner Zeitgenossen)(1801年)である。前老はキリスト教がロ

ーマ帝国へ伝った頃を舞台にしたロマソで,スィドニァのヘゲスィアスが友人

のティマゲネスにあてた手紙の形式を取っており,7部からたっている。ヘゲ

スィアスは,この書簡の報告の中で,新ピタゴラス派の哲学者としての長い活

動ののちに,クレタ山脈の理想郷のようた土地に引退Lたティアナのアポロニ

ウスを訪問したときのことを物語ってい乱

 アポロニウスは,ここで迷信深いクレタの人びとによって守り神として尊敬

され,その晩年をすごしている。アポロニウスは,自分を訪問Lてくれたヘゲ

スィアスに信頼を寄せ,自分の生涯を物語り,長い会話の中でその哲学的な見

解を説明するのである。小アジア地方の出身で,才能もあり裕福でもあったア

ポロニウスは,青年時代工一ゲの哲学学校へ通い,切りつめた生活法と節葡の

修業を積み,ディオゲネスとピタゴラスをその摸範と仰ぎ,ついには新ピタゴ

ラス派の教団を設立す乱

 この教団は,次第々々にローマ帝国全土に広まっていったが,その目的とす

る所は,古き神々への信仰を再建し,そうすることによってローマ帝国の遣徳

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的退廃を阻止することであった。時がたつにつれて,この教団は政治的活動を

志すようになり,この活動は暴君ドミタンの殺害とネルヴァとトラヤンの王位

登用によって頂点に一達する。これらの事件は,ローマ帝国のモラルと強化に好

影響を与えむ王位交代ののち,アポロ三ウスは教団から退き,クレタ島でそ

の身分をさとられずに生活しているのである。ここで5部までのアポ胃ニウス

の自叙伝が終る。

 第6部と第7部では,アポロニウスは自分の生涯を批判的に回顧したがら,

キリストが創始老となったキリスト教について報告し,キリスト教が支配的な

宗教に発展することを予言するが,結局はその絶対要求からは距離を置いた。

キリスト教の絶対要求を,彼は個人的な自由に対する攻撃と感じるからであ

る。

 このロマソの繕末では,恐らくヴィーラソト自身のものである懐疑的な不決

然な態度が表明される。キリストはアポロニウスにとっては,純粋で高貴た入

問性の体現であった。しかしながらキリスト教の歴史は,純粋な理念から常に

新しい迷信への遣のりであるように思われた。祷にヴィーラソトは,この冒マ

ソによって当時の秘密につつまれた教団,例えぱ光明会幽やばら十字会ωやカ

ヨストロ㈲やメスマー蝸などの現象に対Lて立ち向っているのである。

 『アリスティップと同時代の人びと』も同じく書簡体の形式をもった4巻か

らなるロマソであ乱その内容をなすものは,紀元前4世紀のソクラテス派の

発展と生活環境で,キュレネ派の祖であるアリスティップ(アリスティッポ

ス)の世界観は,かたりの程度までヴィーラソト自身の考えを反映している。

艀マソ的た色彩をそえるのは,才気あふれる遊女であるライスの錯綜Lた運命

である。

 しかLたがらすでに1774年にはゲーテの『若きウェルテルの悩み』が,95

年にはrヴィルヘルム・マイスターの修業時代』が,99年にはフリードリヒ・

シュレーゲルの『ルツィソデ』が,97年にはヘルダーリーンの『ヒュペーリオ

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ソ』が発表されており,ヴィーラントはこれらのゲーテ以後の日マソの発展に

取り残されてしまっていた。そLて彼の生涯の最後の10年も,個人的および杜

会的たさまざまの事件が暗い影をおとしてい乱まず1803年には,親Lくつ

き合ったヘルダーが,2年後にはシラーが死んだ。ついで1807年には,ゾフ

ィー・ラ・ロシュとアソナ・アマーリア大公夫人が死去し,14人いた子供のた

ちの中にも,その死を見送るものもいたのである。杜会的には,ナポレオソ軍

の攻撃のもとに,1806年にはr神聖ローマ帝国」が最終的に崩壊し,「ヴィーラ

ソトは,はっきりと時代の転換を感じていた。ワイマールがフランス軍によっ

て占領されたとき,rドイツのヴォノレテール」(Voltaire a11emand)とフラソ

ス人から名誉をこめて呼ぱれていたヴィーラソトは,ほとんどすべての住民を

襲った略奪の害をまぬがれた。そLて1808年の10月には,ワイマールの宮殿で

二人の間で記念すべき会談が行われた。ナポレオソにとっては,ヴィーラソト

は彼の栄進を予言していたことで特に興味をもっていたドイツの有名た詩人で

あった。ヴィーラソトの方もナポレオンが偉犬な人物であることを賛美し,ナ

ポレオソをゲーテと比較し,考古学者であり,あとで『デア・トイチェ・メル

クーア』の編集を引き受けたカルル・アウグスト・ベッティガー(C.A.Bδt-

tiger)(1760-1835)との会話の申で「ゲーテは,文学の世界でちょうど政治の

世界におげるナポレオソにあたるのではたいだろうか。かれらは二人とも,自

分の欲することは何でもできるのではないだろうか。そしてかれらは,もっと

も信1二られないことや比類のないことを必ずしも望んでいる訳でばないが,そ

れがもっとも自然のことのように思われるように,取り扱ったり,処理するこ

とができるのである」と語っている。ヴィーラ:/トは,この時代にはナポレオ

ソこそヨーロッパの平和をもたらす人であり,フラソス革命の数々の成果を実

現する人であると考えていたのである。しかしながらまさにこの点においてそ

の後,苦々Lい失望を味わった。そしてまも荏くヴィーラソトは,ナポレオソ

が1799年プリュメール18目のクーデターによって軍事独裁を確立し,ついで

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1804牢に皇帝に即位したとき,これを拒否し,ナポレオンに対する低抗運動を

支持したのである。1809年にはヴィーラソトは,フリーメーソソ支部のrアン

ナ・アマーリ」に入会したが,これもますます強圧的になったナポレオソとい

う外国人による支配の優位に対する新しい精神的た対決の姿勢をえんがための

一つの試みとして考えられたものであった。

 このような杜会的変動があったにもかかわらず,ヴィーラソトの晩年の文筆

活動は,疲れを知らない充実したものであった。この時代の作品や論文や古代

文学の翻訳の中では,1805年に刊行された『ローゼンハイソの六日物語』(Das

Hexameron von Rosenhain)の中におさめられた『題名のたいノヴコ。レ』

(Die Nove11e ohne Tite1)への序言の中で,会合の席で談話の割り当てを受

げたM氏の言葉を借りて,ロマソの次に来るべきノヴェレについて最初の定義

を与えていることを指摘Lておこう。

 ヴィーラソトは,その死の40目ほど前にフリーメーソソの支部で『後世の恩

い出の中の不減について』(Uber das Fcrtleben imAndenken derNachwelt)

る題する演説を行たった。

 これは彼の人問とLての,また政治的および文学的な遺書とたるべきもので

あった。その中で彼は自分の生存の総まとめを次のように述べているからであ

る。r真の人生とは,夢という名前にふさわLいものの申に存在するのであろ

うか。それともむしろ,われわれの精神のもっとも気高い力と,われわれの心

情のもっとも美しい信念や感清の整然とした可能な限り連続Lた修練と応用の

申にあるのではないだろうか。そのことによって精神と心情の両方とも,われ

われの外にあるよきものを促進するという確固とした方向を保持するのであ

る。いいかえれぱ,公共の福祉と人類の全般的な教育と改善の構成要索と見な

しうるこのような活動(それがどんな種類のものであろうとかまわないが)へ

の確固とLた方向を保持するからである。心の気高い人間であれぱだれでも,

自分自身のためよりも,他の人びとのために生きるものではないだろうか?」

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(Besteht das wahre Leben in dem,weswegen es den Namen eines

Traumsマerdient P Oder nicht vielmehr in wohlgeordneter,md,sovie1

m6g1ich,ununterbrochener Ubung und Anwendung der ede1sten Kr証te

unseres Ge1stes und der schonten Gesmn㎜g und Gefuhle unseres

Geistes,wodurch beide eine㎜verwandteRichtmg aufdie Befδrdermg

des Guten auBer uns,das ist auf so1che KrafぬuBerungen(▽on we1cher

Art sie auch sein mδgen)erhalten,welche a1s Bestandteil des allge-

meinen Wohls und a11seitigen Ausbildmg md Vemllkommnung der

Menschheit anzusehen sind? Lebt nicht jeder ede1gesinnte Mensch

weniger揃r sich selbst a1s揃r andere?)

 1813年1月10目の夜,ヴィーラソトは突然卒中の発作に襲われた。孫のヴィ

ルヘルミーネ・ショルヒトの手記によると,昼間はヴィーラソトは元気で食欲

もあり,子供達とトラソプでボストソをやっていた。子供たちが去ったときに,

胸の息苦しさを訴えたが,摩擦によって消えたように恩われた。11時頃に服を

脱がせたが,その際に途方も汰い悪寒に襲われ,足が痙撃し,ほとんど口がき

げたくなった。その後なおユO目ほど昏睡状態にあったが,そのあいだ医者が希

望を抱かせるように元気づけると,r生か死か,そんたことは今はわたしには

ほとんどどうでもいいことだ」(Seinoder Nichtseiil,das ist mirjetztso

ziemlich ega1.)とハム〕■ツトの有名たモノロークのようなものをつぶやいた

りLたが,1月20日の11時頃,もはや口をきくことができなくなり,心臓の鼓

動も停止した。醐80歳という長寿の生涯であった。彼の希望に従って遺体は,

オスマソシュテットの公園に妻のアソナ・ドロテーアとゾフィー・ブレソター

ノの傍らに葬られた。墓碑銘はヴィーラソト自身が書き下ろしたもので,次の

ようなものである。

 愛と友情は,この世の相似かよった魂を結びつげた。

 そしてかれらのはかたき命は,ここに合わさった墓石の下に眠る。

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 (Liebe und Fremdsch虹t㎜1sch1ang dieマerwandten Seelen1m Leben,

 Und lhr Sterb11ches deckt d1eser gememsame Stem)

 冒頭に述べたように,ヴィーラソトは生存中は当時もっとも多く読まれた著

者の一人であった。60歳の時に42巻にも及ぶ全集がライプツィのゲッシェソ出

版杜から発行されたことが,何よりもこのことを証明している。しかしながら

今目では「読まれざる詩人」(der unge1ese Dicter)にたっている。そして例

えぱ,スイスの劇作家デュレソマット(F.D此renmatt)(1921~)のように,

ヴィーラソトをひいきしている作家は,「奇妙たことに,私はヴィーラソトが

好きだった。私はかれについて一番多くのことを知っていると思う」などと弁

解めいた言葉を語っている。胸

 しかLながらヴィーラソトは,『ロサルバのドソ・スィルビォの冒険』や『ア

ーガトソ物語』や『アブデラの人々』といったロマソの薯者として文学史上に

その名を留めるであろうし,また特に雑誌『デア・トイチェ・メルクーア』に

よって今日のいわゆるジャーナリズム活動によって政治的世論形成に力を尽く

Lた功績も忘れることはできないであろう。前にも引用したゲーテの弔辞の言

葉を借りれぱ,「ヴィーラソトの読老への影響は,閻断なく永続的たものであ

った。かれはかれの時代を造り上げ,同時代の人々の趣味や判断に決定的な方

向を与えた。……そしてかれがドイツ人に及ぽした偉犬な影響はどこからきた

のであろうか。それはかれの人間の能力と偏見のなさの結果であった」のであ

る。

注(1)Gerd Kalser Geschlchte der deutschen Llteratur von der Aufk腕mg bls

  刎m St岨m md Dr≡㎜g1966.

 (2)登張正実著『ドイツ教養小説の成立』による。

(3)Wielands Werke第一巻1969.

(4)W・Ja㎞:Zu Wielands”Don SyMo・H・Sche1le:Christoph MarHn Wiela口d

  1981所載。

 (5)『薮養小説の展望』と諸柏の中の柏原兵三「ドイツ教養小説の系譜」(三修杜)に

  よる。

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 (6)O.F.Best=Handbuch lite蝸rischer Fachbegri貨e(1986)のBildungsroman

  の項による。

(7)W-Dilthey:Das Erlebnis㎜d die Dichtu㎎(192)服都訳『体験と文学』に

  よる。

 (8)R.Selb血am:Der deutsche BiHmgsroman1984

 (9)auktoria1という言葉はラテソ語のauctor(創始者,創造老)からきたもので,

  全知全能の語し手が創造者(Schbp{er,Urheber)としてその材料を無制限に意のま

  まにする意味である。従ってa口ktorialerRomanはPersona1erRomanおよび

  Ich・Romanに対するものである。

 ⑩ Norbert Ml1ler Der emp五血sa㎜Le Erzahler1968.

 ⑩ Er1…iutermgen zur deutschen Literatur(Aufk1身rmg)1963,S.529.

 ⑫ 全集第一巻S・29・

 ⑬光明会(muminatemrden)というのは哲学者ヴプイスハウプトが1776年に設立

  した秘密結杜。

 ⑭ ばら十字会(Rosen㎞auz)というのはクリスティアソ・ローゼソクロイツの名前

  から来た秘密組織で,18世紀にば,フリーメーソソやプロイセ:/の宮廷に強い影響

  カをもった。

 ⑯ アレサソド目・カヨストロ(Alessandro Cag1iostro)はイタリアの伯爵で,交霊

  術や媚薬や錬金術などによって影響力をもったが,その後異端信仰によって死刑の

  判決を受げ,獄中で死亡。

 ⑯ メスマー(F・A・Mesmer)は,ドイヅの医学老で,動物磁気による一種の暗示療

  法であるメスメリズムを唱えた直

⑰工C.Stames=Christoph M蛆tin Wie1and(Leben md Werk)Band3.

⑱Heinrich B㏄k繍Wieland Lesebuc壮

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