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1 無我 ブッダダーサ尊者 翻訳:Paññādhika Sayalay

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Page 1: ブッダダーサ尊者bodaijubunko.sakura.ne.jp/h/ven.buddhadasa.anatta.pdf5 タイ語による序文 《無我》。この本は、ブッダダーサ(+またブッダタート、仏使とも言う。以下同

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無我

ブッダダーサ尊者

翻訳:Paññādhika Sayalay

Page 2: ブッダダーサ尊者bodaijubunko.sakura.ne.jp/h/ven.buddhadasa.anatta.pdf5 タイ語による序文 《無我》。この本は、ブッダダーサ(+またブッダタート、仏使とも言う。以下同

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目次

台湾香光書郷編訳グループによる前言 .................................................................... 4

タイ語による序文 ................................................................................................... 5

前言―本書執筆の縁起 ............................................................................................. 8

「自我」と「無我」の対立は、決して解決できない難問ではない ......................... 8

論争の当事者――大乗仏教と上座部仏教 ............................................................ 9

最初の始まりの時、ある種の人々は、仏教は「自我」があると主張した ............. 10

「自我」ありと「無我」の論争の拡大 .............................................................. 11

宗教的な研究における四つの命題 ......................................................................... 12

仏教は、「無我」の教え故に、その他の宗教を超越する ..................................... 14

仏陀の「無我」(要旨) ................................................................................... 15

すべてはただ自然な「法」である ......................................................................... 16

有為法は、心身を通して認知できる現象 .......................................................... 16

無為法は、ただ智慧を基礎として、認知する事ができる .................................. 17

有為法、無為法は共に「無我」である .................................................................. 18

身体と心霊もまた「自我」ではない ..................................................................... 19

「我執」を取り除いてはじめて解脱者となることができる .................................. 21

間違った無我観 ..................................................................................................... 22

プーラナ・カッサパ――いかなる人であっても、善を行おうが、悪を行うおうが、

「自我」というものは、存在しない ....................................................................... 22

マッカリ・ゴーサラ――生命は自然な運行をしており、(+何らかの)エネルギ

ーによって、汚染されたり、浄化されたりすることはない .................................... 23

アジタ・ケーサカンバラ――いかなる事物も存在しない .................................. 25

パクダ・カッチャヤナ――行為とは、ただ元素によるプラスの、またはマイナス

の方向への転換にすぎない ..................................................................................... 26

サンンジャヤ・ヴェーラタプッタ――いかなる事物も、みな定義することはでき

ない ......................................................................................................................... 28

ニガンタ・ナータプッタ――罪業を取り除いて永恒の「自我」を証悟する ...... 29

実体のある無我観 ................................................................................................. 30

アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタ――心霊が純潔な時、「自我」

は出現する .............................................................................................................. 30

ヴェーダンタ哲学の観点――「自我」は、久しく覆われていた塵俗状態の中から

解脱することができる ............................................................................................ 33

[有我論]と[無我論]の比較...................................................................................... 35

有我論者は、無為法が真正なる「自我」であると主張する .............................. 35

断滅論者は「自我」と「無我」を否定する ....................................................... 36

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仏教は、万事万物は因縁によって造られると主張する ..................................... 36

仏教は「自我」があるとは主張しない .................................................................. 38

仏陀が排斥した「自我」 ................................................................................... 39

意識が「自我」か? .......................................................................................... 40

意識活動は、因縁法によって規制される .............................................................. 41

意識と「自我」は同じものか、異なるものか ....................................................... 43

意識は「自我」ではなく、ただ単に持続的に変化している現象である ................ 44

外道の主張する三種類の「自我」 ......................................................................... 45

仏陀が排斥した「自我」 ....................................................................................... 52

「自我」とはただ人々の無明の妄執にすぎない ................................................... 55

外道修法最高者の「自我」 微細に残存する「自我」 ........................................... 56

仏法には残存する「自我」はない ......................................................................... 58

《バガヴァット・ギーター》の中の「自我」 ....................................................... 61

涅槃は「法」であって、「自我」ではない........................................................... 63

仏教と《バガヴァット・ギーター》の違い........................................................... 65

ジャイナ教の「自我」: ジャイナ教は「自我」即ち涅槃であると主張する .......... 68

仏教は「自我」を取り除いてのみ涅槃を証悟できると言う .................................. 69

西洋の学者の「自我観」 :「自我」は永遠不滅の霊魂 .......................................... 71

総論:仏法と各種の観点の比較 我執があるとき、重荷、苦痛がある ............. 73

「自我」を手放せば、苦痛は止息する .................................................................. 75

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台湾香光書郷編訳グループによる前言

[仏陀の本懐に戻る]

中国の伝統的な分類では、北伝仏教は大乗仏教に属し、南伝仏教は小乗仏教に属し

ており、それは、仏陀の教えた法、原始的教義を比較的重視するものである。もとより、

大乗仏教が提唱する菩提心と菩薩行は、人間社会における仏教の、普遍的教化へ新しい

気運を創始したが、しかし、素朴な南伝仏教は、一切の仏教の基礎であり、仏教の全体

像を知りたいのであれば、南伝仏教は重要な、欠くことのできないリングの一つとなろ

う。近年来、台湾の仏教は、非常に速く成長発展しており、各種の法会、活動及び慈善

事業、教育などの公益事業において、各階層の人士をひきつけ、彼らの参与が増加して

おり、一瞬のうちに、仏を学ぶ風潮が澎湃として勃発した。

最近、物質的な発展をなした後の心霊の空白を補うために、ますます多くの人々が、

仏教における修習の方法を探し求めるようになった。ある人は、上師に密法を求め、あ

る人は静坐参禅し、各種の教法もまた澎湃として発展し、まさに多姿多彩な様相を呈し

ている。20 世紀、90 年代の今日において、我々は、自己の生命及び仏教の未来につい

て思いを馳せるとき、南伝仏教の内部に保持された原始的教義、制度と修行道、自己の

利益を忘れて他人に奉仕する菩提心と菩薩行、煩悩を止息するために行う自利的な修道、

これらは仏教徒が永遠に努力を惜しまない課題でもある。

この方向から見ても、未来の仏教界は、漢、蔵(=チベット)、南伝仏教が一つに

融合し、相互に啓発しあい、全世界の仏教徒が仏陀の本懐に戻り、一致団結して人間社

会における浄土を創建しなければならないものである。このことから、南伝仏教を知る

ことは、決して忽せにできない重要事なのである。

訳者コメント:現代の台湾における仏教の発展は、目を見張るものがあります。15

年前、私が法光仏教研究所(尼僧集団による運営)の2階で、パーリ語夏期6週間集中

講座(教師は台湾に帰化したドイツ人)を受講していた時、同学の者に15歳の少女が

いたし、もっと驚いたのは、一階でなされいたチベット語集中講座に小学四年生の男子

がいて、小学校が夏休みの6週間、講座に一日の欠席もなく、修了証書とともに、皆勤

賞をもらったことです(チベット語の呪文もスラスラ~苦笑)。現代の台湾では、チベ

ット仏教から南伝仏教まで、自分の好みに応じて、なんでも学ぶことができます。まさ

に仏教ルネッサンス時代といえます(国姓郷に、パオの台湾分院もあります)。漢、蔵、

南伝がお互いにお互いを尊重し合っているのも、台湾仏教界のよき風潮かと思います。

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タイ語による序文

《無我》。この本は、ブッダダーサ(+またブッダタート、仏使とも言う。以下同

様)尊者の、最も人を感動させる文学的著作のうちの一冊である。

本書は、1939 年に執筆され、初刊は、法施社の出版する《仏教雑誌》の季刊の中で

発表されたもので、その後すぐに、《仏使尊者長編著作集》の中に収録され、重版が行

われた。しかし、本書は、受けるべき相応の尊重をされることがなかったため、ブッダ

ダーサ尊者の早期の著作を保護するために、タイの法隆解行基金会は、再度の編集を待

たずに、二度目の発行を行った。

基金会は同時に《布施》《一般人の仏教認識》《仏法の修持と教義の宣揚》などの

書物も出版して、読者に提供したが、これらの著書は、彼が「仏使比丘」に改名する前

に書かれた、早期の作品である。本書の中で語られる仏法の中の「無我」の教義は、周

知のように、仏教の基本的で重要な教義であり、それは仏教をして、ほかの宗教(特に

インド・ヒンズー教などの有神論系の宗教)と比較するとき、ことさらその殊勝さを発

揮するものである。

ただ、インド・ヒンズー教の宗教が澎湃として発展し、かつ改革がなされ、仏教の

教義と融合し、また、吸収したため、最後には、仏教はその発生の地――インドから押

し出されてしまった。また、仏教徒自身が、「無我」の教義に対する認識と理解が不確

かで、多くの宗教師が「業」と「涅槃」の解釈をするときに、インド・ヒンズー教の教

義を仏教の教えと混同し、そのために大衆を間違った方向へ指導し、その厳重な結果、

大部分のタイの仏教徒は、仏教への誤解をもつようになり、かつ間違った観点に執着す

ることとなった。例えば、ある禅センターは、人に、注意力を一個の水晶玉に集中させ

るか、または心の中で仏像を観想するよう指導しており、かつ、禅定の境地を涅槃の証

悟であると誤解しているのである。

また他には、ある種の人々は涅槃を「自我」(訳者注)と定義している。というの

も、それは恒久であり、常楽であるように、見えるがために。しかし、これらの観点は、

仏教の「諸法無我(有為法と無為法を含む。後者は涅槃を指す)」の教理に違反してい

る事は、疑いの余地がない。 この種の誤解は深刻で、また、気づくのが困難な後果を

敷衍させ、それは、仏法の研究、修持と弘法について、重大な妨害の要素となった。と

いうのも、一人の人間が、もし正確な知見を持たないならば、完全に苦痛を取り除くこ

とはできず、かつ、ますます正道から離れていくことになるし、また、さらに「自我」

に執着するようになる;そして、「自我」がより精緻であるとき、人々はますます「自

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我」から離れられなくなる。ゆえに、我々は「無我」の教理について、非常に注意を払

わなければならないのである。

訳者注:「真我」と訳した方がしっくりするかもしれませんが、前後の整合性を鑑

みて、原文のままの「自我」とします。 以下同様。

《無我》 この本は、タイのすべての文献の中において、「無我」について書かれ

た最も深く鋭い解釈が述べられており、それは(+「無我」について)疑問を持つ者へ

の、疑問解消のための、非常に助けになるものである。作者は、著作の中で、「無我」

を研究する重要性と必要性に言及しているが、また、「無我」は、大乗仏教と小乗仏教

(上座部仏教)の長期的な論争の主題でもあった。仏陀の「無我」に対する開示を解説

する以外に、著者は、仏陀の観点とその他の教義の異なる部分についても言及している。

たとえば、フルナカッサバ、マッカリゴーサ、アジタケーサカンバラ、パクダカッチャ

ヤナ、サンンジャヤヴェーラタプッタ、ニーガンタナータープッタなどの六師外道の間

違った観点、及びアーラーラタパサとウダカターパサの観点、さらに重要なものは、イ

ンドのヴェーダンタ哲学と《バガヴァットギーター》の観点である。彼は、これら異な

る教法を引用しながら、明晰な比較を加え、系統的にこれらの観点をまとめ上げた。

彼はまた、パーリ三蔵の中の《ポッタパーダスッタ》を引用している。この経は、

仏陀がはっきりと、明確に、「自我」についての問題に対し、回答を行った内容を記載

したものであるが、それは人々に完全に「自我」を取り除くよう導いたものである。

この「自我」は、外道が修法するところの最高の者が説く「自我」を含む。彼らは、

純潔がすなわち究極的な「自我」であると執着しており、かつ、仏陀が述べた「『自我』

を拠り所にして(Attā hiattano natho)」の意味を完全に誤解しており、そのため、

それを間違った解釈のままに広め、結果、苦痛を取り除く正道から離れてしまうことに

なったのである。

また、著者は、13 人の西洋の哲学者を選んで、彼らの「無我」に対する見方を研究

し、比較検討することによって、仏陀の観点が超越的であり、精密で深く、究竟解脱の

正知であることを見出した。法隆解行基金会がこの著書を出版した時、原稿の保存と、

仏法の宣揚を促進する事だけが目的ではなく、同時に、ブッダダーサ尊者の決意に呼応

したものである。

以下は、ブッダダーサ尊者の談話の摘録である:

この国際禅修センター(すなわち、最近建設なった国際解脱自在園)を建設、設立

した主要な目的は「仏教の正義と道理を取り返す事!」特に、公平を、である事。多く

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の宗教、特にインド・ヒンズー教は、「仏教はインドに源を持ち、故に、仏教は、事実

上はインドの宗教、インド教であり、またはインドの宗教の一部分であるか、一分派で

ある」という意見を堅持し、宣言している。また、ある人は言う:「仏教は、インド・

ヒンズー教の産物である。」これらは、皆、不公平な言い分である。

ネパール・サンガの主席が、私に、このような誤った理論と主張(+の所在)を探

し出して、修正するように要請してきたが、これらの誤解は、何冊かの、仏教を研究す

る為に書かれた本によって造り出されたものである。これらの本は、世界中で発行され

ており、かつ、多くの人々に読まれているが、特に、インドの学者が書いた何冊かの本

は、みな、上述の理論を援用、展開しており、そのことが原因で、ネパールで仏教を宣

揚するのが、非常に難しくなっているのである。

スワミ・サットヤナンダプリが、何年か前に、タニ王子の要請に応じてタイに来た

とき、チュラロンコン大学で講演をしたことがある。その時、ラーマ七世国王も会場に

おいでになり、聴講されたが、その講演の内容は、後に《仏教思想の起源》の本の中に

収録され、法楽・費塔雅(Phrae Phittaya)出版社から刊行された。彼が講演で述べ

た、インドのヴェーダンタ哲学《奥義書》(Upanishad)は、仏教思想の起源であると

いう言い方は、不正確であり、反駁すべきである!

実際、仏教は、決して、二種類のヴェーダンタ哲学を起源とするものではない。し

かし、不幸にも、この講演内容は間違っているのにもかかわらず、広くタイ人に受け入

れられ、今日にまで影響を及ぼしているのである。

(上記は、ブッダダーサ尊者の著書《晩年の決意》に収録)。

我々は、この著書の出版が、哲学の研究と仏法の実践に関して、多少なりとも満足

を得られ、かつ、仏法を学ぶすべての法友に役に立つものであてほしいと願うものであ

る。ブッダダーサ尊者が、法隆解行基金会に送った感謝の詩の中にも、この種の希望が

込められている。

最も敬虔なる祝福をこめて

沙地・梅塔庫羅比丘 (Phra Dusadee Medhaṅkuro)

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前言―本書執筆の縁起

「無我」を説明するのは、非常に困難な仕事である。というのも、それは仏教の真

髄であるからである。私は、その奥深い教義をわかりやすく解説できるかどうか心配し

ているが、もし私の説明がでたらめであれば、ある種の人々はそのことによって、仏法

とは何かを誤解して、仏法とは本当にそのようなでたらめなものだと信じてしまうだろ

う。そうなれば、私は、仏教に対して最も大きな傷害を齎したことになってしまう。し

かし、今の私は、益々確信を強くしている。というのも、いくつかの意見と疑問を持ち

出してきた友人を観察して、それを解説した方が、しないよりはいい、ということが了

解できたからである。それは少なくとも、この種の問題の論争を取り除くことができる。

「する方がしないより良い」とは、「無我」について認識がはっきりしない人、ま

たは「無我」を理解しない人に何等かの利益を齎すことができることを意味している。

ゆえに、必ず完全無欠であるべきだ、という期待を抱かないという条件の元、(+人々

の)疑問に答えるだけでも、良い結果が得られるに違いないし、私自身もそれに非常な

満足を覚えるであろう;そして、もし、私の解釈が完全であったならば、または意外な

啓発効果を齎す事になったならば、それは思わぬ収穫である、ということだ。

「自我」と「無我」の対立は、決して解決できない難問ではない

「自我」(訳者注)または「無我」というこの問題は、ある種の人々に言わせると、

永遠に解けない難問のようだ。各種の解釈は、その他の雷同する問題と同じく、一致し

た結論に達することができず、この議論は永遠に止むことなく続いていく(+ようだ)。

実際は、それは、解決のできない難題などではなく、その反対に、最も限定的で、かつ

奥深い問題である。それは奥深いことが原因で、人々が徹底的に理解することを困難に

しているし、また、その故に、いろいろな異なる見方を生じさせている。我々は「動物

を殺すことは罪になるか?」という問題を例にとって(+検討してみる事にするが)、

ある種の人々は、無罪であると言い、また、我々もある種の宗教師がピストルで鳥を射

殺するのを見ることがある。しかし、仏教徒は、これを罪であると見做している。

訳者注:「真我」と訳した方がしっくりするかもしれませんが、前後の整合性を鑑

みて、原文のままの「自我」とします。

ことほどさように、人々は、このような、宗教とは関係のない事柄についても、異

なった見方を持っている。我々は、このような問題に関して、解決できない難問である

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と思うであろうか?仏教徒に言わせれば、我々はこのように認識することはなく、我々

は、動物を殺すのは罪悪であると考えている。というのも、大多数の人々は、動物に対

して少しばかりの憐憫の情を持っており、そのことによって、動物を殺害するのは、罪

であると思うのである。

こういうことから、仏教の立場から言えば、この種の問題の解決は決して困難では

なく、実際は、それ自身明確な答えを有しているものである。同様に、「自我」と「無

我」についても同じであり、もし、仏教の立場で詳細に考えて見るならば、我々は、そ

の決定的な意義を見出すことができる。人々が膚浅な教理(ある種の人々は「無我」の

意義を理解しない)でもって検討しようとするとき、この問題は、解決できない難問に

なってしまう。これは、動物の生命を草芥のごとくに思っている人と、動物の殺害につ

いて話し合うのと同じで、そうであれば、永遠に答えはでない。

論争の当事者――大乗仏教と上座部仏教

状況がどうあろうとも、我々は、問題のほとんどは、仏教徒の間に起っている事を

発見する。今、我々は論争の当事者について思いをはせてみようと思う。事実に基づい

て、さらに精密で正確に言うならば「仏教は、永遠の自我というものを主張するのか否

か」というこの問題は、ある種の大乗の宗派と上座部の宗派の間にもあり、ただ上座部

の宗派の中にだけあるのではない。

タイの仏教は、小乗に属するが、また「上座部仏教」とも言い、通常は「仏教にお

いては、『自我』は認めない」という立場を持している。しかし、我々の間であっても、

何人かは、ある種の大乗の宗派が持する所の立場と同じ立場を主張して、「自我」はあ

るのだと認めているが、これは決して珍しい事ではない。

その原因の一つは、彼らは上座部仏教の教義を正確に理解している訳ではないとい

うことと、もう一つは、彼らは大乗仏教の中から、自分の都合のよいところだけ切り取

って来て、かつ、これらの断片的な観念を秘密裏に喧伝しているのである。彼らがこれ

らを真理とみなすのは、これらの断片的な観念が、彼らの昔からの信仰と合致するから

である。ここからわかることは、この種の論争の当事者は、ある種の大乗仏教と上座部

仏教徒だけである、ということである。

一部分の上座部仏教徒が、ある種の大乗仏教の観念を有してることは驚くに足りな

い。大乗仏教内部にも、似たような事情があり、彼らの中にも、いろいろな異なった意

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見を持つ者は多く、かつ、(+そのため)多くの宗派に分裂している。故に、ある種の

人々の見解は、その他の宗派と雷同することがある。このことは、どのような宗教でも

避けることのできないものである。しかし、歴史的な事柄や各部派・宗派が主張する主

要な教義の広範な研究を通して、我々は、それぞれの宗派の主張を知ることができる。

我々は、かつて、タイの上座部仏教を信仰する者の考え方を子細に検討してみたが、

大乗仏教各派の観点を認める者は、極めて少ないことを発見した。しかしながら、これ

らの(+大乗の観点を認める)人々は、これらの観点は、大乗仏教の特別に新しい考え

であると盲目的にとらえており、大乗仏教は、非常に古くからこのような観点を宣揚し

ていることを、知らないでいる。

最初の始まりの時、ある種の人々は、仏教は「自我」があると主張した

それは寂滅の涅槃または無為法である、と厳かに宣言したが、その後に、この観点

は立脚点がないと見て取った彼らは、重要な点を避けて二次的なものを取り上げるよう

な態度で、彼らはただそう呼びたかっただけだとか、推論で得た結果にすぎないと言い

出した。また、別の人々は、先に彼らの書物の中でそれは「自我」でると認めたにもか

かわらず、後になって涅槃は「自我」でもなく、「無我」でもなく、何物でもない、と

言い出した。

最後に、ある種の人々は、この問題から逃れるために、涅槃を「自我」だと解釈す

るのは、根器が劣る人を説得して、彼らに仏教をより学習させやすくするためだ、など

という口実を考えた。

(+状況は)かくの如くではなるが、しかし、ある種の人々は、「仏教は『自我』

(涅槃)はあると主張している」という意見を持ち続けている。このことは、彼らが《仏

教》や、その他の刊行物に記載した文章に、明確にみてとることができる。 我々は、

大乗の信徒であろうと、小乗の信徒であろうと、皆同じ仏教徒であることを一たび認め

たならば、「自我」と「無我」というこの問題をもって、二つの集団を区別する基準と

するべきである。

どの宗派が、どの区分に属しているかと、明確に区分することはあまり適切ではな

い。というのも、大乗仏教には多くの宗派があり、宗派毎に保持している観点はまた、

お互いに異なっており、また、我々小乗仏教の中においても、大乗仏教の観点を有して

いる人もいるからである。

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(+状況は)上記のようであるから、大乗仏教と小乗仏教は、二つの派に区分する

ことができる。その中の一派は、究竟的な真理(字面の上だけの浅薄な真理ではなく)

として、真実の「自我」はあると認め、それは「涅槃」または「無為法」であるとして

いる。この派は、この観点こそが仏陀の真理であり、かつ「無我」を主張する人は、仏

法を誤解している、と考えている。これが、一つの派の主張である。

もう一つの派は、仏教は「自我」を否定するという考えを堅持している。万事万物

は、最下層から最高層の涅槃まで、すべて「無我」であり「我というのはない」のであ

る。彼らの言い方にもとづけば、仏陀が述べた「自我」とは、世俗の用法であり、その

目的は、世間の人々に仏法を理解してもらうためである、ということになる。

上記の事柄から、我々は以下のような結論を得ることができる:

(一)ある一派は、仏教は「自我」があると主張している。その上、仏陀は、人々

にそれを追及するように言い、それに依拠せよと言ったのだ、ともいう(以後、この派

を「有我論者」AttāvadĪ と呼ぶ)。

(二)もう一つの派は、仏教は「無我」を主張していると言い、かつ、仏陀はそれ

を追及しなさいなどとは言っていない、反対に、我々に「自我感」または「自我」に関

連する感覚を滅するように言い、そのようにすれば、我々は(+何らかの)庇護を追い

求めることはなくなり、苦痛の中から解脱することができるのだ、と主張している(こ

の派は「無我論者」AnattavādĪ と呼ばれている)。

最後に我々は、双方の論争の焦点とは、「自我」か「無我」か(いわゆる「論争の

争点」と言っても、双方の異なる観点の事を言い、喧嘩腰に言い争っているわけではな

い)にあることを確定することができる。次に、我々は、この問題に深く分け入り、双

方の持論の原因・理由を検討する。

以下の章において、私は、この、人をして困惑させる難題について、私自身の考え

を表明してみたいと思う。

「自我」ありと「無我」の論争の拡大

前述の通り、「無我」は仏教の本質であり、仏法の心臓であるがごとくに重要であ

り、どのような時代であっても、どのような地域・場所にあっても、それは、思想家及

び苦痛から解脱したいと願う人々が最も愛する命題であって、これまで例外があったた

めしは、ない。特定なものの見方を好まないヨーロッパの学者でさえも、自然とこれら

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を、彼らの考察のよき題材とし、かつ研究をした。彼らは、「無我」は、仏教の、他の

宗教とは異なる唯一、特殊な教法であると考えた。

しかし、ある種の西洋の研究者の中には、仏教の観念について、誤って導かれ、そ

の結果、誤解している人もいる。たとえば、彼らは、大乗仏教の観点に非常に傾倒する

傾向があり、小乗仏教は、仏陀の真意を表していない、と考えている。

さらに重大なのは、ある種の人々は、無意識にではあるが、ほかの宗教の観点、例

えば《奥義書》のヴェーダンタ哲学を仏教の教理であるとしている。また、これらの研

究者が非常に有名であること、高度な教育を受けていること、高度の学術的地位を有し

ていること、または世界的に重要な大学の教授や講師をしているがため、多くの人はそ

れを信じ、彼らの観点を追随し、そのためにさらに多くの論争が生じ、将来的にこの命

題を研究しようとしている者の困惑と混乱を引き起こした。

現今、外国語で書かれた仏教書や雑誌(小、大乗仏教ともに)が多く刊行されてい

て、各宗派ともそれぞれの観点に基づいて、言論の発表を行っているが、最も人をして

論争に向かわせているのは、やはり「無我観」である。大乗仏教は、これまで常に主導

的な演者の立場を保ち、適当な時期に、適当に(+自説を)紹介したり、解説したりす

る以外に、彼らはまた一般大衆の「自我観」に迎合するような主張をすることもある。

故に、我々は、この種の研究者と思想家(仏教徒であったり、外国人であったりす

る)の間に、意見の相違があることについて、全くもって、驚く必要はないのである。

このような、考えることが好きな人たちは、この種の命題を、ただ自分の思考の楽しみ

を追及する時の食糧として、消費しているだけなのであるから!

宗教的な研究における四つの命題

どのような宗教を研究するにしても、通常、四つの命題があると考えられている:

(一)教主の一生と教法。たとえば、仏陀の生涯と事績と彼の教法を研究する事。

(二)世俗的な教義。当該の宗教の信者は、すべての教義を知り尽くしてその上で、

実践をしなければならない。これには、当該の宗教のすべての信者が、苦痛の中から解

脱するまで実践しなくてはならない道徳的な規範(または戒律)を含む。

(三)勝義諦(奥深い教義)または哲学。たとえば、仏教のアビダルマ(また「論」

とも訳せる)、これはロジックに基づき形成された要義であり、推理の原則の下、詳細

に分類したものであり、それらは思考するための理論的原則であり、実践とは無関係で

あり、修行者はこれらを知らなくても、なお苦痛から解脱することはできる。

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(四)宗教的な神秘体験。実際、宗教は、誰かが創造したものではなく、自然にお

ける真理であり、すべての宗教における神秘体験は、その核心的な部分では皆、似たり

寄ったりである。

たとえば、ある人が、最高レベルの善行まで到達した時、彼は永遠不変の状態を獲

得することができるが、これは「涅槃」「上帝」「最高自我」「天国」と呼んでもよい

し、他の何等の呼び方で呼んでも、問題はない。宗教は皆、これをもって最終目標とし

ており、究極常楽の境地を証悟することを望んでいるものである。この点に関して、我々

が知る必要があるのは、この世界またはどこの世界であろうとも、ただ一つの宗教ーー

真理の宗教または自然的真理の宗教しかない、ということである。我々がこの真理に基

づいて正確に修行するならば、究極的でかつ恒常なる安楽を得ることができるのである。

ここで討論する「自我」と「無我」は、前のページで述べた第三番目、すなわち、

哲学的な問題に相当し、また、一部分においては、第四番目の神秘体験に属する。それ

が哲学的な問題だというのは、それが純理論に属するがゆえであり、人類と動物は虚妄

であり、真実の「自我」というのはないと言い、かつ、事物は自然に、その他の事物か

ら組成されている、と言っている。

それ(=哲学)は、我々に、これらの実体をどのようにして分析するのかを教えて

くれ、それ(=事物、物質)を最も小さい組成分子に還元し、この組成分子がすべての

事物を構成していると言い、それは、事物がどこからやってきて、どのように成長し、

どのように変化し、そして、なぜこのように変化するのかを、教えてくれる。

それは、第四番目の神秘体験と関係がある。というのも、それの重要性、すなわち、

「無我」の意味が涅槃ーー一種の永恒、平静と安楽の境地を含むからである。この種の

境地は、すべての宗教の共通の目標ではあるが、しかし、各々(+の主張)に差異があ

る。

ある種の宗教は、「自我」を擁すること自体が、永恒で安楽な状態であり、その「自

我」とは「大我」であり、「世界的な自我」であり、「上帝(=天帝またはキリストの

神、ヤーウェ)の自我」である、という。しかし、仏教はすべての、この種の「自我」

を否定して、これらのものは存在はするけれども、しかし、それらは「自我」ではない、

という。

というのも、それらの何種類かは幻影であり、その他の、幻影でないものも、ただ

「法」または「自然」でしか過ぎないものであるから(+だと言う)。

それらは、執着されるべきものではなく、また、「自我」と誤認されるべきでない。

というのも、それらは、我々の心智に絡みついて、微細に、知らず知らずのうちに、我々

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を苦しめ、我々をして永遠にそれに執着するように仕向けるから。以上が、「無我」の

理論が、いかに精密で奥深いか、それが如何に重要か、そして、なぜそれが、仏教の核

心的教義になっているのか、という説明である。

もし、我々に「無我」を透視する能力があったならば、広範に、かつ徹底的に、事

物の真理を見極めることができる。それが色彩を帯びるものであっても、無形のもの、

世俗のもの、または世俗を超越したものであっても、我々は、世間には、尋常でないも

の(=不思議な事物)など存在しないことが明白になり、世事に執着する必要も、(+

必要以上に)夢中になる必要もないことがわかる。我々は、どのような事物からも、そ

の影響を受けて、右往左往する必要はないのである。

言いかえれば、もし、我々の目的が、精神の指標になるものがないかどうか、探し

ているのであれば、かつそれが、我々を真正の解脱へと導いてくれる哲学的概念であれ

ばよいのにと願っているのであれば、我々は、「無我」の哲学を発見することになるで

あろう。まさに、この精神的指標が、我々をして完全なる解脱の目標に到達させてくれ

るのである。本書の最後には、「無我」の哲学は如何にして人々を解脱させえるのか、

を説明するが、その前に、私は「無我」とは何か?の説明をしなければならない。

仏教は、「無我」の教え故に、その他の宗教を超越する

究極的な意義から言えば、すべての宗教は、同じ目的ーー永恒の安楽を目標として

いる。そうではあっても、我々は依然として、以下の問題を考えてみる必要がある。な

ぜ、ある種の宗教は、比較的高次であると考えられ、ある種の宗教は、比較的低次だと

考えられているのか?そして、あるものは比較的深く、あるものは、比較的浅いのか?

その答えは、各々の宗教の創始者の、永恒の安楽に対する境地への理解と体験が異

なるが故である。

たとえば、キリスト教とイスラム教でいうところの永恒の安楽は、天帝(=神、ヤ

ハウェ)の天堂(=天国)であり、しかし《奥義書》時代の婆羅門は「最高自我」

(paramātman)、またはその他の人々のいう「梵」(Brahma)(+が永恒の安楽)

であった; 仏教は、それは涅槃であると言い、または、人々の心の中で、完全に「自

我」、梵、上帝、天堂などに執着しないこと、または、それらを「自我」とみなして、

何らかの対象と合一しようとしないこと、とした。

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この点に関して、我々は知っておかねばならないことがある。人類は、その始まり

からして、一歩一歩よりよいものを追及してきて、最も完成度の高い本能にまで、到達

した。そしてその次に、一つの問題が発生した。いったい何が、最も完成度の高い、ま

たはきわめて安楽な状態、境地であるのか?という疑問である。当時、この問題に適切

な回答をできる人、またはこの問題に関して指導ができる人を、人々は「大師」と呼ん

だ。

このような状況の中で、ある種の大師は、物質主義の傾向を持ち、自己の心の欲す

るままの境地を追い求め、その結果、人々の欲求を満足させることのできる天堂ママ(=

天国)観が生じた。この種の天堂は、神祇または上帝によって創造される。その他に、

ある種の宗教の大師は、天堂を永生ママ(=永遠の命)または不朽の境地とみなし、か

つ、人々にこの種の観念を指導・教示した。

その後、更に深く思考し、教育が深まった結果、精神の次元を重視する大師は、も

っとも大きな安楽、もっとも良好な心霊ママ(=心、精神、霊魂)の境地とは、かなら

ずや智慧があり、かつ干渉を受けたりせず、汚染もなく、愚昧さを持たない心霊である

必要がある、とした。これらの宗教の大師の中で、発見された智慧のレベルは、それぞ

れに異なっていて、あるものは高く超越しており、あるものは低い。しかし、彼らの心

霊の浄化の程度が如何に高くとも、多くの人々は依然として、「自我」はあるのだと感

じており、または「自我」の楽しさを認識しているものである。

最後に、仏陀は、究極的な真理を発見した:

ただ心霊が「自我」の観念に執着しないときにだけ、それどころか、清浄にも執着

しない時にだけ、(+心霊は)最も穏やかで、最も純潔で、苦痛なる境地から解脱でき

るのだ、とした。心霊が、ものごとの中に「自我」を意識する時、「自我」に執着する。

その時、心ママは解脱することができない。このことは、後ほど、更に詳細に検討する。

(これは非常に長い命題になるため、読者は、この章の重点をしっかりと記憶して

いただきたい。そうでなければ、混乱してしまう上に、何等の利益も受け取ることがで

きないだろう。)

仏陀の「無我」(要旨)

ある種の人々は、他人が仏陀の「無我」の教えに言及すると、非常に驚くことがあ

る。ここで、特別に仏陀について陳述するのは、その他の学説の中に、あるものは非常

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に仏陀の教えと似ているものがあり、しかし、仏陀の教え、たとえば「無我」は、その

他の学説の中で言われている「無我」とは異なるものであるからである。

すべてはただ自然な「法」である

仏陀が述べた「無我」は、その意義は(+論理学的に)非常に広く周縁にまで広が

っており、事物の中に「自我」があることを認めないし、いかなる個体をも「自我」と

みなすこともない。「自我」について、もっとも明確な定義は:「自我」は幻想ではな

く、因縁にたがわず、自ら存在している実体であり、触ることができず、(+影響を加

えて)左右することもできないものである。

これは、宗教上での専門用語でいえば、「無為法」(asaṅkhatadhamma)と言い、

無為法に相対するのは「有為法」saṅkhatadhamma)である。有為法は、各種の因縁

によって組合され、組成されたもので、かつ、それらの助けによってしか形成できない

がゆえに、実体がないし、かつ、(+存在が)短時間である。こういう言い方をするな

らば、世俗の物質または精神上での事物は、有為法であると言える。

更に正確に詳細に述べれば、無為法の境地とは真理の境地であり、または涅槃であ

る。それは我々をして間違って「自我」と誤解させる。というのも、それは不変という

形式で出現するからである。それが存在し、かつ形象を持つとしても、決して、幻想の

一種ではない。しかし、それは尚、「自我」ではなく、またはほかのものでもない。そ

の上、それは事物自身の「自我」であるとか、または他の事物の「自我」と認められる

べきでもない。これが、仏陀の言う「諸法無我」である。

更に深く述べれば、一切すべては、自然的な「法」であり、または自然的な事物に

すぎない。それは二つの領域に分けることができるが、すなわち、先ほど述べた有為法

と無為法である。

有為法は、心身を通して認知できる現象

有為法は、現象界に属し、我々は、目、耳、鼻、舌、身体、意の六根によってそれ

らを認知することができるし、心身を通して、それらと交流ができるし、それらを研究

することもできる。この領域に属する「法」または事物は、すべて虚妄・幻である。と

いうのも、それらは、多くの事物が集まってできており、それらの形状の大小もまた時

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間の経過とともに、不断に変化しているからである。この種の現象を、我々は「有為法」

と呼んでおり、有為法とは、一種の現象であるといえる。

無為法は、ただ智慧を基礎として、認知する事ができる

無為法は完全に有為法とは異なる。それは物質に属さず、精神面にも属さず、それ

をば、接触のみを通して、知ろうとしても、知る事はできない。

それは、いかなる事物によっても創造されたものではなく、時間とともに変化する

こともなく、形状も大小もない。故に、それを表象から測ったり、計算することはでき

ない。唯一の方法は智慧であり、すなわち、智慧を認識の基礎とするほかない。我々が、

心霊(ママ以下同様)は涅槃を究極の対象としていると言っても、またはすでに涅槃の

本質を深く理解していると自認していても、我々は、心(ママ以下同様)はなお、涅槃

をどのような形式の「自我」とも(+規定)することはできない。

一たび人の心霊が明晰であるとき、涅槃の実相を明らかに見ることができるが、し

かし、他人に対して、涅槃の様子を描写することはできない。というのも、どのように

言えばよいのかわからないからである。涅槃の味に至っては、これを何かの物とみなし

て、たとえば、砂糖のようだと言っても、全くの間違いになってしまう。

というのも、涅槃には味、色彩、形状、または如何なる感知することのできる性質

をもっていないからである。涅槃の味を味わったというのは、心霊が完全に煩悩のない

とき、またはいわゆる涅槃の境地に到達した時、心の中に自然に生じてくる一種の感覚

である。これはちょうど、我々が沐浴した後、身体上のすべての汗と汚れを落とした時

の爽快感のようであるが、我々はこの種の爽快感を清潔の味だとは言えない。それはた

だただ清潔とは関係がある、(+というだけである)。というのも、清潔には何等の味

もなく、しかし、身体が清潔である時、自然に清らかでさわやかな感覚が生じてくる。

涅槃に到達する事ーー完全に浄化された心霊は、やはりこのようなものなのである。

涅槃という、この抽象的な境地は、決して物質的な存在ではなく、いかなる明確な、

特殊な味も持っていない。ゆえに、感官の接触を通して、それを認知することはできな

い。ある種の事物は、感覚、記憶、それから(+それに)満足するか不満であるかによ

って、認知することができるし、また、我々は、涅槃によって生じた楽受を体験するこ

とさえできる。しかし、これらはすべて、心の中に存在する一種の感覚であり、時間と

ともに変化する。(+それは)触る事ができるが、なにかの要素による影響によって、

変化する;無為法である涅槃は、そのような感覚ではなく、かえってこれらより、さら

に深い。

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要するに、無為法は言語で表現するのが非常に困難である。我々は、自分自ら、は

っきりとそれを体験・証悟するまで、ゆっくりと落ち着いて研究し、それを観察しなけ

ればならない。現在の所、我々は、涅槃は現象界に所属するものではないということ、

いろいろな方面において、有為法とは異なっていること、とだけ言える。確実に言える

事は、それ(=涅槃)は安定的に存在しており、虚妄・幻想ではないということで、我々

はこの種の境地を「無為法」または「本体(ママ)(=実体)」(本来の面目)と呼ぶ。

有為法、無為法は共に「無我」である

前の章において、私がすでに述べたとおり、存在する事物はすべて二種類ーー有為

法と無為法に分類することができる。私は、この両者をさらに進んで理解したいと思う

読者各位に、それらは非「自我」であり、また(+それらの内に)「自我」もなく、そ

れらはすべて抽象的な事物であり、両者の唯一の違いは、有為法は虚妄・幻であり、無

為法は虚妄でもなく、幻でもないこと、そして、両者ともに自然に存在する事物である

ことを、謹んで、お知らせする。

私がこのことを指摘するのは、人々の心の中から、すべての意念を取り除くことを

通して、これらの事物に対する執着を無くし、それらを「自我」とみなすことをやめて

欲しいと願うからである。心霊が執着する有為法は、色身、心霊自体、個人がなした功

徳、犯した罪悪、財産、名誉、威光と人望、煩悩と欲望、愛恋、憤怒、利己的であるこ

とによる煩悩、および執着によって生じた生老病死などの世事の生滅である:

最後に、執着も含まれるが、執着は間違った観念を生じさせ、かつそれを堅持する

誘因となる。執着は、輪廻と生まれ変わりの原因となるが、それは、衆生の心の中に深

く根を張り、常に衆生の心の中に出現する。

無為法は、心霊が解脱するか、またはすでに有為法を超越したときに、到達する状

態である。この不執着の状態(涅槃)を発見する時、心霊はそれを「自我」とみなして

手放さないということが生じるが、これは習気の故である。

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身体と心霊もまた「自我」ではない

一体誰が、功徳、罪悪、善事、悪事などをしたがるのか、または禁止されていると

して実践しないか、または恐ろしく感じて、実践しないのか?

この点に関して、もし我々が、「無我」について、しっかりと見極めがついていな

いと、それを理解するのは非常に難しい。実際、身体と心霊は、上に述べた事柄の、行

為の実行者であり、後果(=後におこる悪い結果)の受取人でもある。これらの果報(=

因果の報い)は、それらとともに、来世まで附いて来るし、すべての果報は、心身の中

に保たれる。

しかし、身体と心霊(ママ以下同様。辞書には、心、精神、霊魂)は決して「自我」

などではなく、それらは自然なもので、それ自身の内部、自然及び、自分の為、なども

含む力の影響を受けて、運行しているものである。身体と心の両者が、協調し合い、協

力し合って歩調が整う時、かつ因縁が具足した時、それらはそれら(=身体と心)の直

観に合致する利益を追求するのである。

身体と心は、共に「自我」ではない。というのも、それらはただの虚妄・幻相であ

るから。もし我々が、心霊が「自我」の観念に執着する事のないようにさせることがで

きるならば、その時、即刻、「自我」は決して存在せず、存在するのは、自然が創作し

た、感知と思考する事のできる傀儡、または傀儡に似た個体であることがわかる。しか

し、この個体は、自然の傀儡を、却って「自我」であると見做し、そのことによって「我々」

「彼ら」「この人」「あの人」「損・得」「愛・恨」などの概念を生じさせているので

ある。

これらの考え方は、すべて虚妄・幻である。というのも、それらは皆、内心から生

じるもので、内心とは、先に述べたように、それ自身が虚妄・幻であるからである。通

常、人々は「幕の前」に何があるか、をよく知っているが、「幕の後ろ」がどのように

なっているかを、探求する人はいない。また、「幕の後ろ」の存在を想像しようとする

人も、いない。故に、人々は、自然と、すべての存在する物は、すべて知覚できるもの

でなければならないのだ、と思い込んでいる。彼らは、心身の合一を「自我」と見做し、

かつ心霊が中心であると思い(もっと詳しく言えば、心霊を霊魂と見做している)、「自

我」の外には何もなく、または「自我」を超越しているものもない、と思っている。故

に、我執は、人々の最も根深い本質、抜き差しならない本性と化し、かつ、人々の心・

身を主宰(=コントロール)し、心・身は、「自我」の思考と感覚の統御を受けること

となった。

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このことは、なぜ、心霊が自然に事物を感じ取れるのか、という疑問の回答でもあ

り、それはすべて有為法の範囲であり、(+人々は)これまで一度も「幕の後ろ」にあ

る無為法について、探求したことがない。これは、また、無為法の話が、なぜ人々にと

って、理解しがたいものになるのか、という答えでもあり、心・身は「自我」ではない

という言い方が、人々が受け入れられるのも、前述の通り、人々は、事の半分しか理解

できていないから、でもある。

このことから、我々は以下の事を知ることができる。仏陀は、いかなる事物の中に

も「自我」はないと言ったけれども、しかし、彼は決して功徳や罪悪の存在を否定しな

かった。功徳や罪悪などは、ただ心・身のみによって組成されている個体が行った行為

にすぎず、肉体的な個体に関して言えば、それらの活動は、ただの反作用にすぎず、(+

本来は)功徳や罪悪などというものは、ない。

肉体と心霊が「自我」ではない事から、功徳や罪悪も、またそれらと同様に、「自

我」はない。もし、我々が、肉体と心霊に「自我」がないことを理解したならば、それ

らの功徳または罪悪もまた、「自我」ではないことが、即刻、了解される。生、老、病、

死、徳の修習、犯罪、善行、悪をなす事などは、皆「無我」であることを、しっかりと、

覚えておいていただきたい。

一人の人間が、「幕の後ろ」のものについて、全くの無知であって、ただ「幕の前」

のものについてしか知らない時、彼は己を、「自我」を有する人であると見做す。彼は

罪悪を恐れ、功徳を修しようと欲するが、このことを通して、彼の「自我」(かれが執

着しているもの)に幸福、安楽と快適さを齎そうとするのでる。このことは、(+人々

にとって)一つの避けられない事実であるが、それは、ちょうど一人の人間が、自己を

「自我」とみなさないではいられないのと同類の(+精神的構造、出来事)なのである。

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「我執」を取り除いてはじめて解脱者となることができる

上記のことから、我々は、真実世間の衆生は、「自我」の観念から離れることがで

きないことが分かる。ゆえに、仏陀は、人々に罪悪を除き、功徳をなすようにと、教え

た。仏陀は、また言っている:「『自我』は『自我』の拠り所である」。その意味は、

衆生は全員皆(+自我に)執着し、かつ(+執着の対象として)自己の本質は、その「自

我」そのものだと見做し、(+自我の)拠り所は、その「自我」自身なのだと思いなし

ている・・・衆生が、それとはまったく関係がなくなるまで(すなわち、衆生が「自我」

の執着から解脱するまで)(+衆生はそう思い続けるであろう)。

二度と再び「自我」に執着しないか、または二度と「自我」に依存しないこと、こ

のような境地に到達した時に、変化してやまない、かつ静かで平安で安住した自然な本

性だけが残る(+のだということが分かる)。ある一人の人が、「自我」の執着から解

脱した時、言い換えれば、彼はすでに、「自我」とは何かを確実に知った時、「自我」

を超越し、功徳をなし、犯罪を犯す束縛から解放される。このことを踏まえて、一般の

人々は、阿羅漢が功徳、罪悪と善悪を超越していると言うが、それというのも、阿羅漢

はすでに「自我」の執着から解脱しているからである。

一人の、すでに我執を取り除いて、解脱した人間には、いまだに「自我」というも

のが存在しているだろうか? それはあり得ない。

最初、人は、心・身の結合をもって、一人の個体となる。その後に、人は、それが

「自我」ではないことをはっきりと知り、それを解消して、「無我」の境地に到達した

いと思う。しかし、いまだにいくつかの微妙な間違った概念を持つ、無明なる人々につ

いて言えば、この境地をもまた「自我」であると認定するのは、ありえる話である。ゆ

えに、このような境地は、更に一歩進んで取り除かなければならない。

しかし、一人の人間が、本当に最も究極的な境地に到達したならば、または、完全

に苦痛を止息したならば、このような事柄は発生しない。故に、涅槃を「自我」の本質

だと見做す事は、仏陀の考えでは、ない。それは、仏陀より少し前に存在した宗派の観

点である。仏陀が入滅した後、一部の仏教徒は、改めて、この間違った観点を、仏陀の

考えだと宣揚した。今日に至るまで、ある種の人々は、この種の陳腐な観点に追随し、

または何かの利益のために、この種の観点を仏陀の教えだと主張している。

要するに、仏陀の言う無我とは、有為法と無為法を含む所の各階層の「自我」を否

定している。言い換えれば、「幕の前」と「幕の後ろ」の両方、知識と無知の両方(+

をよく知る必要があるの)である、ともいえる。仏陀は世間的な言い方を尊重して、善

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を行い、悪を行ってはならない、と説いたが、その時援用した「自我」とは、いまだ真

理が分からず、邪見に執着する衆生のためを思ってのものである。

ここまでにおいて、筆者が述べたのは、主に教えの摘要であり、詳細な内容につい

ては、以後の章において、説明を加える。次の章では、私は先に、仏教とは異なるその

他の学説における無我論を検討する。その目的は、彼らの言うところと、仏陀の教えた

真正の無我論とを比較することを通して、我々の無知によって、仏陀の無我論が真正な

る義から偏向するすること、または我々自身が、おかしなことに、その他の学説の教師

になったり、または伝道者になったりしないよう、先に予防的措置を取りたいがためで

ある。

その他の宗教的学説における無我観混乱を避けるために、我々は、外道の無我観に

注意を払う必要がある。仏教の分類では、外道の観点は、二種類に分けることができる。

一種類目は、世界を壊滅に向かわせる間違った観点であり、二種類目は、間違った観点

ではないものの、仏教に属した観点ではなく、また、仏陀の述べた教法と相いれないも

のである。

間違った無我観

仏教の言い方によると、以下の、三種類の間違った無我観(または、「無我」の観

念を含む考え)がある、すなわち:無作見(Akiriyadiṭṭhi 行為無効論)、無因見

(Ahetukadiṭṭhi)、空無見(Natthikadiṭṭhi 虚無主義論)である。

仏陀ご在世の時代、仏陀と対抗できる哲学的観念を持っていたのは六師外道

(Aññatitthiyas)で、これらの宗教師は、仏教とは異なる教義を打ち出した。彼らの

教義は、極端な無我観であったが、その中にはいくつか、非常に精妙で奥深い観点があ

ったため、たとえば、何人かの国王などの高級人士が、それらを仏教の観点だと誤解し、

(+仏教として)受け入れることもあった。今日にいたるまで、これらの観点は、いま

なお、仏教と対抗することができる。

プーラナ・カッサパ――いかなる人であっても、善を行おうが、悪を行うお

うが、「自我」というものは、存在しない

六師外道のプーラナ・カッサパ(Pūraṇakassapa)は、以下のような考えを持って

いた:功徳というものはなく、罪業というものもない;善はなく、悪もない;殺、盗も

なく、邪淫もない;これらの行為を行ったがゆえの罪業もない。

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ある人が、すべての動物を殺し尽くし、それらの死体を細かく切り刻んで、それら

の肉を閻浮大地(インド大陸)に積み重ねてたとして、この種の行為はあったと言えて

も、罪悪というのは、完全に、ない;

たとえ祭祀を行う人がいても、またたとえ、世界中のすべての苦行者と婆羅門に布

施をしたとしても、ただこの動作があるだけで、いかなる功徳もない;

人が、神聖なるガンジス河の左岸なり右岸なりにおいて、この行為を行ったとして

も、一般の人々が信じているところの功徳または罪業というものは、ない。

この派の観点では、行為または顕現した事象以外、いかなるものも存在しない、と

いうことになる。たとえば、動物を殺す事は、ただ単に動物に刃物が突き刺さるだけで

あり、動物が傷つき、または死亡しても、ただそれだけの行為であり、比較的重い後果

(=のちの結果)としても、その動物の肉を食物として食するだけであって、しかし、

どのようにしても、功徳はないし、罪悪もない、という。これは「無作見」(行為無効

論)といい、功徳の存在も、罪悪の存在も、否定する。

今日に至っても、この種の観点を保持している人はいる。たとえば、ある種の科学

者は、物質の面からしか物事を見ないで、かつ、宗教は時代遅れだ、などと言っている。

彼らは多分知らないのであろう。この種の観点は、すでに仏陀の時代には存在していて、

長らく仏法と対抗していたことを。

この種の観点は、「無我」を主張し、仏教と同じく「自我」を否定するが、すべて

の事物は、完全にただの一個の物体、自然なる個体であると言い、どのような人間であ

っても、いわゆる「自我」が善を行ったり、悪をなしたりすることはない、と言う。

仏法と比べてみると、これは一つの極端な観点である。というのも、なおも「自我」

に執着する人が具有する功徳と罪業を否定するけれども、この種の観点は、表面的には

「自我」を取り除いたように見えるだけなのである。しかしながら、依然として、相当

多くの人々が、この種の観点を受け入れており、その結果、プーラナカッサパを著名な

大師に押し上げることとなった。

マッカリ・ゴーサラ――生命は自然な運行をしており、(+何らかの)エネ

ルギーによって、汚染されたり、浄化されたりすることはない

マッカリ・ゴーサラ(Makkhaligosāla)は、以下の観点を持っていて、かつ、この

観点に基づいて、彼の信徒を指導した。生命とは、完全に自然なる一塊のもので、それ

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は、自己の特性に応じて、自然に運行している。それは、そうあるべきだとおもわれる

一種の状態になった時、停止するか、または痕跡を残さないで自動的に消滅するまで、

絶え間なくその状態にとどまり続ける。

人は、それを行善または悪をなす「自我」となすことはできず、またそれを改変す

ることもできないし、更には、輪廻を停止させる、または解脱を得るために、自己の浄

化を加速しようなどと考える必要はない。実際にそのようにしても、もともと何もしな

かったのと同じ結果になる。

これはちょうど、一塊の糸の玉を、一人の人がその端を持ち、この玉を放り出して

転がすならば、玉は、転がりながら解けてくるが、転がれば転がるほど玉は小さくなり、

玉が最後まで転がり終わると、己自身で、止まってしまうので、人が止めたりする必要

はない。

生命も同様で、それは生死輪廻の中で転げまわっているが、同時に、己自身で解け

てきて、純潔になってくるか、または自動的に解脱する。誰もこの過程を加速させたり、

引き延ばしたりすることはできず、故に、それを汚染したり浄化したりする原因も、エ

ネルギーも存在しない。いわゆる「よい行為は浄化の因、悪い行為は汚染の因」という

のは、ただ人をだます、見かけ倒しの看板にすぎない。

この観点は、ある種の人々にとって、願ったりかなったりである。というのも、彼

らは、(+自分自身では)何もしなくてもよく、(+物事が)自然に発展していくのを

待てばいいだけだから!これは一種の、自己を否定し、自己の能力を否定する哲学であ

る。この観点と仏教とが異なるのは、仏法は、我々に清浄、不清浄は、因と縁により、

もし、我々がなんらかの因と縁を造ったならば、その因と縁によって、清浄であるか不

清浄であるかは加速され、ゆえにその結果として、因と縁を造る心・身にも影響を与え

ることになり、言いかえれば、我々自身に影響を与えるのである、と言う。

出世間のレベルにおいては、仏法は世事はすべて「無我」であるとは言うが、しか

し、仏教は、穢れと徳行の存在を否定しないし、このような状況を作り出す因と縁も否

定しない。末迦利瞿舎離の観点は、現代科学の進化論と合致する。たとえば、すべての

有機物は自然に進化するし、かつ、順序に従って、比較的高度な生物へと進化していく。

進化論とこの理論の違いは、進化の過程で、我々は、因と縁またはエネルギーを創造す

ることができるし、それによってその進化を阻害したり、緩めたり、促進したり、また

は加速したりすることができることである。

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我々は、仏法でいう涅槃は、すべての人々が、最後には到達したいと願う究極的な

目的であると信じるが、一つ例外がある--我々は、因縁を創造することができ、この

人生か、または次の生で涅槃を証悟することができると思っている;また、我々は、因

縁を創造しないのであれば、涅槃を証悟するための時間は更に後ろに延び、そのために、

我々は、相当の時間、比較的低い境地にとどまらなければならないのだ、とも思ってい

る。

その意味は、仏教は、因と縁の力を認め、因と縁が変更不可能だとは思わず、そし

て、この点がまさにマッカリ・ゴーサラが完全に否定した観点なのである。この種の非

仏教的観点は、「無因見」に帰納され、その意味は、因果の観念を欠いている、という

ことである。言いかえれば、世俗のレベルでいえば、よい(+ことをする)因、悪い(+

ことをする)縁の「自我」は、ないということである。

アジタ・ケーサカンバラ――いかなる事物も存在しない

アジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambala)は、一切の事物の原理を否定し

ている(この観点は、今日における虚無主義に相当する)。

すなわち:いかなるものも、完全に、存在してはいない。人々が感受を受けて、こ

のもの、あのものと呼びならわしているもの、たとえば、父親、母親、教師、専門家、

尊重(+すること)、善悪、この世界、天神、苦行者と婆羅門など、彼らはそれぞれ、

異なった地位を有し、このようにとか、あのようにとか、お互いに対応の仕方を(+図

っている)。実際は、これらは、虚妄なる幻相であり、人はただ元素の集合体であり、

それが分解されるとき、すべての元素は分離してかつ、元の自然な状態に戻っていく。

人が死んだとき、彼の次の舞台は、火に焼かれて灰になることだけであって、霊魂

などはなく、また、どこかへ行ってしまう「自我」というものもない。祭祀という、こ

のような善行も、祭祀の品を灰になるまで焼くだけであって、功徳もなければ、受益者

もいない。かように、いかなる事物も、存在しないのである。慈善は、懦夫が考え出し

たもので、その上、彼らは、この行為が善果を齎すという。

この種の言い方は誤りであり、ただ一種の空談にすぎない!

世間には、良い人などというものはいないし、悪い人もいない。悪党もいないし、

智者もいない。ただ元素の集合体があるだけで、人が死ぬと、完全に何もかもが、跡形

もなく、なくなる。

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この種の観点は、一切の事物を否定し、かつ、今世であろうが、来世であろうが、

いかなる事物も真実であるものはなく、この世界事自体も存在しない、ただ元素が反復

して結合し、分離しているだけだと宣揚する。この種の学説は、その信者にとっては、

気持ちが軽くなるものである。というのも、彼らは自分から苦労をかって出ないですむ

し、いかなるコントロールの下にも、自己を束縛する必要がない。事物は自然に発展し、

どのようなことが生じようとも、憂いたり、喜んだりする必要がない。

この種の観点が、仏教と異なる点は、仏教は、なお、事物の存在を受け入れている

ことである。人がいまだ執着と煩悩を有している時、これらの事物は存在する。(+故

に)人は、己自身と他人に面倒を齎さないために、己の行為を正さなければならない。

心・身は、心・身が完全に消失するまで、各種の造作の作者であり、受取人であり続け

る。心身が完全に消失する時初めて、これらの業と業報は、相関するその人物と共に消

失するのである。

上記の意味は、以下の通りである。仏教は、通常の一般人、また伝統的に当然と思

われている事柄を否定しないし、世の中の人々は、自分の考えを持っても問題なく、か

つ、自己の感じるところ、知るところによって、何かをなすことも問題ない。これらは

皆、凡俗の境地であり、凡俗を超越した境地に到達したければ、それを乗り越える必要

があるのである。

アジタ・ケーサカンバラの観点は、「空無見」と言われ、その意味は、この種の観

点にもとづけば、いかなる事物も存在しておらず、すべての、我々が名前を付した事物

は存在していない、ということである。この種の、すべての事物を否定する「無我観」

は、したいことを(+遠慮なく)なそうとする人を、最も満足させる考えであり、もし、

これが人をして怠惰にさせることがないならば、己のしたい、どのようなひどい事でも、

できるようになる。というのも、この種の観点は、人が死ねば何も残らず、すべて終わ

りである、と思っているからであり、故に、この種の観点は、また「断滅見」

(ucchedadiṭṭhi)、または虚無主義ともいう。

パクダ・カッチャヤナ――行為とは、ただ元素によるプラスの、またはマイ

ナスの方向への転換にすぎない

パクダ・カッチャヤナ(Pakudha Kaccāyana)が宣揚した学説は以下の通り:い

わゆる生命とは、ただ地、水、火、風、楽、苦と生命力などの 7 種類の成分の組み

合わせに過ぎず、一つ一つの成分は、皆、それ以上に、小さな元素に分解することはで

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きない。それそのものは安定しているもので、誰もそれに対して、苦痛を感じさせたり

することはできず、また、いかなる方法によっても、変化させることもできない。それ

は聞こえないし、(+自ら)聞くこともできない。愛することもできないし、怒ること

もできないし、何らかのことを成すこともできない。ゆえに、もし誰かが、誰かの頭を

切り落としたとしても、または、他人の身体を小さい肉片に切り刻んだとしても、人に

何かを成した、とは言えない。

というのも、人は誰も、元素を小さく切り開くことはでず、これら原子の間を突き

通すか、または通過させるしかなく、それはちょうど、包丁が水を切るのと同じであっ

て、水を組成する元素の原子が分離して、包丁を通すだけである:誰も、誰かを育てた

り、抑圧したり、殺したり、また支援したりすることはできない。(+それらは)ただ

元素の間のプラスの方向とマイナスの方向の転換にすぎないのである。

この種の観点は、仏教とは異なる・・・両者ともに、同じく元素に言及し、それを

主題にしてはいるが。仏教は、人々が、それ(=元素論)を基礎にして、お互いに(+

お互いを)尊重するべきだという道徳的行為を受け入れる。少なくとも(+人々に)執

着があるとき、仏教は、行為はただの元素間の通過、元素間の行き来にすぎない、とは

言わない。ある人が、すでに執着をしなくなったとしても、善とか悪とかに規定されて

いる行為は、やはり善であり、または悪であると、考える。

その人は、それらの行為に執着はしないけれども、しかし、なおも、それらを人、

動物、作者、受取人とみなすし、またはこれらの要素に影響を受ける者の善的行為、悪

の行為であると、考える。これはちょうど、一輌の車を作るとき、我々ははっきりと、

車はそれぞれ異なる元素によって組み立てられているが、それらが齎す利益を深くは考

えず、我々は状況によって、それらを使い分ける。しかし、我々の心の中では、それに

あまり執着することはなく、それだ、あれだと愚昧に定義することもなく、それが生き

返るだとかと考えることもないし、愛恋したり、愛しすぎて苦しみを受けることもない

(+ようなものである)。

(+上述の)この種の観念は、殺人を好む人々を満足させる。たとえば、強盗・匪

賊たちは、お互いに「殺人無罪」と言い合う。というのも、彼らは、殺される人はいな

い、すなわち、ただ元素が異なる場所に移動させられただけなのだから、と思うが故に。

そのため、彼らは、普段よりなお勇猛に悪事をなす。インドのある種の武士集団は、大

昔から今日に至るまで、この種の観念を持っている。

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サンンジャヤ・ヴェーラタプッタ――いかなる事物も、みな定義することは

できない

サンンジャヤ・ヴェーラタプッタ(Sañjaya Velaṭṭhaputa)の宣揚した学説は、

下記の原則を有していた。いかなる事物も定義されることはできない。また、いかなる

名前で呼ぶこともできない。というのも、それはなんらの物ではないからであって、そ

れは以下の問答によって証明することができる:

「人は死後、再び生まれるか?」

「否!」

「人は死後、再び生まれることはないのか?」

「否!」

「人は死後、時には、再び生まれ、時には、再び生まれない、ということはあるの

か?」

「否!」

「人は死後、再び生まれないし、また、生まれないでもないのか?」

「否!」

「人は死後、時には、再び生まれないし、時には、生まれないでもないのか?」

「否!」

これらの例は、いかなるものも定義されることができないこと示している。

この種の観点は、「不確定論」(Vikkhepaladdhi)と呼ばれる。この種の観点を持

つ人は、この種の学説をどのように定義していいのか、よく分からないかも知れない。

仏教の中のある種の人々または団体の中に、これによく似た不確定論を擁する場合があ

る。たとえば、彼らは、涅槃は「自我」でもよく、また「無我」であってもよいという。

または、涅槃は「自我」でもないし、「無我」でもなく、本質的になにものでもない、

という。

もし我々が、この種の観点を、苦痛から解脱するための有効的な哲学とするならば、

我々はそれらの意義を理解しなければならないが、それはすなわち、いかなるものも気

にかけず、すべてのものは不確定であり、(+ものごとを)何等の事物として受け取る

ことをせず、どの事物もかならず放棄しなければならず、恐怖する必要もなければ、心

配する必要もない(+ということになる)。このようにして(+はじめて)、人の心霊

(ママ)は、一切の事物の中から解脱することができる。

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これは、聞いているだけなら、非常に簡単なようだが(+実はそうではなく)、そ

れに反して、仏教は、既有の習慣・習俗や各種の思想、理論のひな形・原型を受け入れ

るものでる。

仏教の通常の見方によれば、上に述べた学説は、すべて外道として認定される。パ

ーリ経典の注釈家は、彼らの観点には重大な錯誤があると考えている。パーリ経典の《沙

門果経》(Sāmaññaphala Sutta)(これは仏教自身に属する経典である)の中では、

ニガンタ・ナータプッタについて述べた部分がある。彼の学説は「自我」があると主張

している部分を除いて、その他の教義においては、仏教と大差はない。しかし、注釈家

によって、これもまた間違った観点であると、分類されているものである。

ニガンタ・ナータプッタ――罪業を取り除いて永恒の「自我」を証悟する

ニガンタ・ナータプッタ(Nigaṇṭhanāṭaputta)の観点は、パーリ経典《沙門果経》

の中において、下記のように記されている:束縛から解脱した人になりたいのであれば、

最終的に四つの階位に到達できるよう、努力しなくてはならない。すなわち、罪業を防

御するための「法」によって罪業を防御し、罪業から解脱できる「法」を実践し、罪業

を取り除くことができる「法」によって罪業を取り除き、罪業を取り除くことのできる

「法」によって、荘厳で崇高な生命の頂点に到達する。

人がこれらの実践ができたとき、彼は「自我」を証悟し、修行を円満成就し、永恒

と不朽を獲得したと、認定される。最初の始まりから現在に至るまで、この観点は、仏

教と相互に対抗し続けた。もし我々が、歴史と関係のある書物を読めば、または中立的

な、偏見のない歴史的観点からみたならば、しかも、ただ論・釈関連の仏教書を読むだ

けでないならば、我々は、この学説の信徒は、仏教と同じくらい多い、いや、仏教より

尚、多いことを発見する。仏陀の時代、国王などの高級階層の人士は、この二種類の宗

教学説に対して、同様に尊び崇めた。

我々(+仏教徒)自身の論・釈は、故意にまた過度に、その他の宗教学説を軽視す

る傾向があるが、しかし、あるところ(+の書籍の上)では、この異端の学説を、いく

つかの都市、村落においては、仏教よりさらに多くの弟子と信徒がいたことを認め、そ

のように指摘・解説している。

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実体のある無我観

実体(ママ、以下同様)のある無我観については、阿羅邏迦羅と、鬱多迦羅の観点の

中に、見ることができる。彼ら二人の無我観は、全くの間違いだともいえない。彼らは、

かつて、シッダッタ王子(後の仏陀)の、開悟する前の先生であった。仏陀は、彼らの

修行の境地は、他の外道より高いと思った。仏陀は開悟した後、「さて、誰にこのこと

を教えたらよいのか?」と考え、真っ先にこの二人の苦行者の事を思い出した。これは、

彼らがすでに、苦痛から解脱できる境地の、非常に近くにいることを意味している。も

し、仏陀の教えに接することができたならば、彼ら二人は、必ずや即刻解脱できたであ

ろう(+と思われる)。しかし、不幸なことに、その時、二人はすでにこの世を去って

いたのである。

アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタ――心霊が純潔な時、「自

我」は出現する

この二人の苦行者の自我観と無我観は、以下のように述べることができる:心霊が、

すでに究極的に純潔であるとき、一種の、すでに最終的な極めつけの境地、または極限

的な感覚が生じる。この種の感覚を持つ人を「了知辺際者」(Khettaññū)という。こ

れは、一人一人が、到達することを渇望する「自我」であり、また、すべての苦痛の終

点でもある。心霊(ママ、以下同様)を究極的に浄化するために、苦行者は、各種の規

則を厳守することを堅持する。

アーラーラ・カーラーマが修習していたのは「無所有処定」

(akincañ-ñāyatana-jhāna)で、ウッダカ・ラーマプッタが修習していたのは「非想

非非想処定」(nevasaññānā sañayatana-jhāna)である。彼らのことを専門的に研

究する書物の中で、この二種類の修行方法は、詳細に説明がされている。本書では、た

だ彼らの修行理論について検討する。というのも、この種の理論があって初めて、この

種の修行方式が成立するからである。

彼らの観点を理解しやすいように、我々は、この二人の苦行者が、仏陀と同じよう

に、業力の原理を宣揚することに尽力していたし、犠牲的祭祀やその他の儀式にも反対

していたことを知る必要がある。仏陀が菩薩であった時、苦痛を取り除く方法ーーすな

わち、完全に苦痛を超越した境地について、教えを乞うために、彼らに会いに行ったこ

とがある。

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アーラーラ・カーラーマは、仏陀に、ひとたび、人々が彼の教える(無所有処定)

を修習したならば、智慧は自然に発展し、かつ、心霊が覚知するとき、その時はじめて、

その場で浄化を極めることができ、苦痛から解脱することができるのだ、と言い、そし

て、その覚知できる「それ」がすなわち、「自我」である、と教えた(この観念からい

うと、「自我」は心霊ではなく、また智慧から生じ、かつ心霊とは分離した個体ではな

いことが分かる)。彼は、この「自我」自体こそが、すべての苦痛の息む処であり、修

行者は先に述べた境地に入れるまで、修行に打ち込まなければならない、と言う。

仏陀は、この種の理論を排斥した。それを「霊魂(ママ、以下同様)」と呼ぼうが、

他の名称で呼ぼうが、それを覚知するならば、完全に、究極的に解脱することはできな

い。というのも、少しでもモノに対して感知があるならば、なんらかのモノを覚知しよ

うと、執着が生じる。言い換えれば、事物の特徴を感知して、かつ、当該の知識や事物

に執着するならば、真実、苦痛を取り除けたとしても、それは完全なる、または究極な

る解脱ではなく、仏陀の目標は、この境地よりもなお、高いものであった。

ウッダカ・ラーマプッタの観点に至っては、アーラーラ・カーラーマの修行の境地

より高いものの、しかし、結果はなお、同じものである、というのも、覚知者が登場す

るが故に。この境地は、彼の言うところの、苦痛を消し去る、その場所である。両者の

唯一異なる点は、後者の方が、心霊の訓練に関しては、前者よりは比較的精妙で深いこ

とである。

その証悟された境地は、存在するとも言えず、不存在であるともいえないものであ

る。しかし、この二種類の理論は、結果的には同じものであり、「自我」が己を知覚し

て、最高の浄化に到達した時、自己自身を認識することができ、かつ、この種の境地を

通して、永恒的な安楽を得る事ができる(+とするものである)。総じて、この二人の

苦行者の目標は、前述したとおりの特徴を持つ「自我」にあり、かつ、それを、すべて

の苦痛を取り除くことのできる境地であるとすることにある。

P.Carus が、彼の著書《仏陀伝》(Biography of the Buddha)の中で、仏陀は、

仏になる前、多くの苦行者と弁論した、と書いている。 (+その趣旨は以下の通り)。

≪衆生は、我執を取り除いていないが故に、束縛を受ける。一人の人間の観念の中

で、一つの物体とそれに内在する性質は、別々のものだと思われている。たとえば、一

般の人々は、「熱」と「火」は異なるものだと考えるが、実際は、我々は、「熱」を「火」

から分離させることはできない。今、あなたが、物体とその性質を分離させて、物体が

まったく何等の性質を持たずに、ただそれだけで、単独で存在できると言う。もし、あ

なたが、この理論を完全に正しいと考えるならば、少し後になって、事実は、あなたが

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理解したようではない、またはあなたが堅持しているようなものではない、ということ

が発見される。

我々は、智者が言う所の、これらの「蘊」等、異なる元素の組み合わせで出来上が

っているのではなかったか?

我々は、色、受、想、行及び識という五蘊によって成り立っていて、これらの「蘊」

が共同して「我々」を成り立たせている。

我々が「我々はこういうものである」または「我々はああいうものである」と言う

とき、やはりこれらの集合体を指しているのであり、「我々」とは、これらの集合体で

出来上がっているのである。

いわゆる「自我」とは、ただ単に我々の考え方に過ぎない。単独に、ただそれだけ

で個体が存在していると信じているすべての人々は、物事に対して、正確な見方ができ

ていない(+と言える)。

「自我」を熱狂的に探し求めるのは間違いである。それは間違った目標であり、起

点でもある。

というのも、それらは、真実の事実に基づいてはおらず、ただあなたを間違った道

へと導くだけである。

・・・あなたの「自我」という理念は、理論と真実の間にあるもので、故に、あな

たは真理を見つけることができない。

ただこの概念を放棄したときにだけ、如実に事物の本来の面目を見る事ができ

る。・・・

・・・さらに一歩進んで述べるならば、もしあなたが、己はすでに解脱に到達した

と自認したとしても、あなたの「自我」は依然としてそこにあり、その上、それでもっ

て、自己の個体を覚知しているのならば、真正の解脱には、どうやって到達すればよい

のであろうか?・・・≫

前述の、二人の苦行者が浄化した個体(=個人)と、苦痛を取り除いた境地をもっ

て「自我」とするのは、苦痛から解脱したいと願う人々が探し求める目標である。この

二人の苦行者の観点を紹介した後、私は、他の何人かの類似した観念を紹介しようと考

えていたが、重複を避けるために、今は話すのを控えることにする。

しかし、私は、もう一つ別の観念について説明したいと思う。これは最後の一種類

で、《奥義書》のヴェーダンタ哲学思想である。仏陀の時代における、この教派の実際

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の状況について、仏典では特に記載はされていないけれど、しかし、歴史的観点から言

えば、それは仏陀の以前からすでに存在していたと、推測することができる。私は、何

人かのヴェーダンタ哲学の学者に、関連する思想についての観点を学んだが、彼らは私

に親切丁寧に説明をしてくれた。私も、この方面の学説と書籍を閲読した。私の知ると

ころによると、ヴェーダンタ哲学の観点は、おおむね以下の通りである。

ヴェーダンタ哲学の観点――「自我」は、久しく覆われていた塵俗状態の中

から解脱することができる

ヴェーダンタ哲学の観点はおおむね下記の通り:

≪一人の人間が、その知識が成長し、さらなる高度な智慧を持つとき、心霊(ママ、

以下同様)は更に浄化され、かつ、すべての世俗的塵事が心の中から消え去った時、「自

我」は出現する。もっと簡単に言えば、「自我」は久しく覆われていた塵俗の状態から

解脱する事が出来、この時「自我」はすでに自由を獲得していて、故に、それは「解脱」

と呼ばれる。すなわち、一切の苦痛から抜け出したことを意味する。

「自我」とは、アノ、遍在しないところはないというソレを指し、心霊が塵俗によ

って遮蔽されると、みることができなくなる、そういうモノである。我々が、ひとたび

それを見ることができたならば、ソレは、いたるところにあって、遍在しないところは

ない、ということが分かる。ソレはあらゆる処において、同じ形態で存在しており、ソ

レが我々のものであろうとも、他人のであろうとも、普通のであろうとも、偉大なもの

であろうとも、ソレは「梵」と呼ばれる。ソレは、万事万物に浸透し、我々がなんであ

ろうとも、ソレはあなたであり、すなわち「梵」である。このことから、すべての「自

我」は同じである(+ことが分かる)。

我々が独立した、異なる一人として立っているのは、塵俗によって覆われているた

めであって、塵俗の状態を除去できたならば、すべての「自我」は同一である(+こと

が分かる)。簡単な例として、空気を比喩にしてみると、瓶の内側の空気も、外側の空

気も、実際は同じであるように、もし、我々が瓶を打ち破ったならば、この道理はます

ます明白になる(+であろう)。しかし、空気を、塵俗性を持つ瓶の中に詰めたならば、

この部分の空気は、瓶に属するのだ、と考えられる。

我々に(+これに)似たような執着があるとき、瓶の内部の空気を、異なる個体だ

と見做してしまう。同様の道理が、小我と宇宙大我(「最高の自我」と呼ばれるモノ)

の間にも成立する。≫

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解脱(仏教の涅槃に相当)とは、小我が、封じ込められた塵俗の中から解脱し、そ

の解脱の過程において、心霊(ママ、以下同様)もまた「自我 」を見る、ということ

である。大乗仏教の教派の何人かの著名な大師は、ヴェーダンタ哲学の「自我」は、仏

教の涅槃と同じであると言い、それらの観点は、これらの教派の典籍の中で、見ること

ができる。

我々がこれらのこの種の説明を聞くとき、これら二種類の、それらの差異は、用い

ている名称が異なっているだけであって、(+本来は)同類のものである、とみなすか

もしれない。これは、仏教の中でも、一種の説明の仕方があって、それは、心霊が無明

と、無明によって造られた、すべての障碍から解放されるとき、心霊は、苦痛の消失に

よって自由、清浄、平安と清涼を獲得するが、この時の心霊は、苦痛を滅し終えた境地

ーー涅槃をはっきりと了知することになる(+という言い方をするのが一因である)。

我々はこれを「涅槃」と呼び、彼らはこれを「自我」と呼び、それぞれ異なるもの

の名称であるように思われるけれども、しかし、両者共、苦痛が消失した状態、または

境地の説明に用いられていることは、間違いない。しかし、ここには一つ問題があり、

それはすでに出現しているか、または随時に出現する可能性がある。というのも、ヴェ

ーダンタ哲学の観点は、仏陀の以前から存在していたわけで、それならば、一体どのよ

うな理由で、仏陀はこの種の理論の信徒になることがなかったのか、そして、その種の

観念は、なぜ、それ以上進展しなかったのか、という問題である。

ある種のヴェーダンタ哲学の学者は、論文を書いて、この問題に回答しているが、

彼らは、仏陀はヴェーダンタ哲学の観点を解釈して、更にはっきりと分かり易く説明し

ただけなのだ、という。というのも、仏陀以前、この種の観点は、過剰なほどに精妙に、

奥深くなっていたため、それを軽々と理解できる人はいなくなってしまった。そのため、

当時の人々は、ヴェーダンタ哲学と仏教が、二種類の異なった理論であると、誤解して

しまったのだ、と。私は、頑固者だと指弾されようとも、この二種類の理論は、同じで

はない、と主張する。以後の章で、私は更に一歩進んで説明するが、この段階において

は、読者の方々は、それぞれの外道の観点を、しっかりと記憶しておいて頂きたい。

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[有我論]と[無我論]の比較

簡単に言えば、すべての観点は、二種類に分けることができるーー「自我」を主張

する「有我論」と、それを否定する「無我論」である。

有我論者は、無為法が真正なる「自我」であると主張する

有我論者の中で、ある種の人々は、ある種のモノの「自我」の存在を否定して、こ

れらのモノは「無我」であると言っているが、しかし、その他のモノには、「自我」が

ある、と言う。前述した二人の苦行者は、二人とも世俗の「自我」及びすべての塵俗な

る境地を否定していたが、これらの世俗的な事物は、「無我」であると考えていた。し

かし、解脱の覚知と、塵俗から解脱した境地の者は「自我」であると見做した。

ヴェーダンタ哲学にも似たような説明がある。それらの差異は、ヴェーダンタ哲学

は、「自我」自体は(+皆が言う所の)アノ<知者>であるということではなく、心霊

(ママ、以下同様)が塵俗から解脱した後、智慧が顕現した後に造られた境地、かつ、そ

の種の境地は、万事万物の中に遍在していて、それこそが「自我」なのである、と言う。

しかし、ヴェーダンタ哲学もまた前述した二人の苦行者と同じく、塵俗の境地は「無我」

であると言う。また、別の人々、たとえばパクダカッチャヤナは、生命(jĪva)は不朽

であり、生命こそが「自我」であると主張したが、彼らもまた、その他一切の事物は「無

我」であると、主張していたのである。ニガンタ・ナータプッタに至っては、真正の有

我論者である。我々は、彼の観点は、仏陀の時代においては、ヴェーダンタ哲学の一種

に属することを知っている。

彼が強調した、現実に即したものの見方は、現在のヴェーダンタ哲学とは異なって

いる。現在のヴェーダンタ哲学の解釈は、比較的緻密で、哲理とその特殊性を強調して

いる。概して、有我論者は、有為法に属する個体(=個人)は、生・滅することはなく、

また因と縁によって組成されることもなく、それは恒常的に自己を保つ(+と主張し)、

(+彼らは)これこそが真正の「自我」である、という。この派の観点は、確固として

「自我」を強調し、かつ、二度と苦痛のない境地の中において、ソレを探し求める。

また、彼らは、生、老、病、死は苦痛であると認めている。そうであるから、彼ら

の「自我」は、少なくとも生・死の束縛を受けないのだ、と言える;

アーラーラ・カーラーマは、覚知した境地(以前に説明した)を、二度と再び生・

死の束縛を受けない個体(=個人)だと見做しているのである。

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断滅論者は「自我」と「無我」を否定する

無我論者は、一切の事物を否定するが、その中で、アジタ・ケーサカンバラの観点

は、いわゆる「断滅論」である。この種の観点は、他人のいかなる見方も受け付けず、

「自我」と「無我」の両方を否定する。彼らは、苦痛から抜け出すところの、いわゆる

涅槃というものを認めず、ゆえに、涅槃が究極的に「自我」であるのか「無我」である

のかには、関心がない。プーラナ・カッサパの観点は、彼とおおむね一致しており、し

かし、貪欲の対象はあることを認めていて(これは二次的な観点である)、たとえば、

目で見ることのできるモノだけが、存在している、と言う。概して、これらの人々は、

一つ一つのモノには、本質(=実質)はなく、ただ蜃気楼のような幻相だけがあり、こ

れらもまた究極的には消失するのだ、と言う。

総じて、我々は、「自我」を主張するのは、永恒の人であることを発見する。(+

彼らは)一種の永恒なる霊魂(sassatadiṭṭhi 常見)の存在を認めている、すなわち、

彼らは、一つの、永恒に存在する個体(=個人)が存在しているのだと考えている。我々

はまた、あの「自我」など完全に全くもって、ないのだと主張する人々は、一種の「断

滅見」であり、我々が前に説明したモノは、皆存在しないのだ、言い換えれば、存在す

るものは何もないのだ、と言う。

仏教は、万事万物は因縁によって造られると主張する

仏教は、常見者の言う所の恒常不変なる「自我」を受け入れない。無為法は、不生

であり、また不滅でもあり、恒常に存在しているものではあるけれども、しかし、それ

は「自我」ではないし、そのような「自我」は存在しない。ただ一切の塵俗的境地(有

為法)の消滅または止息した境地があるだけである;有為法は「自我」ではなく、常見

者が言うような、恒常的に存在する「自我」ではない。ゆえに、仏教は、決して常見論

者では、ない。

言い換えれば、仏法の中には、永恒なる「自我」の概念はない。永恒なる事物は存

在するけれども、それは「自我」ではなく、寂滅なる境地である。これは、すべての無

常なる事物がすべて消失してしまった後の状態であり、仏教は、この境地を「涅槃」ま

たは「無為法」と呼ぶが、しかし、それは「自我」ではない。別の言い方をすれば、仏

教は、空無見者の如くに、何もかもすべてを否定することはないし、断滅論者のように、

人は死ねばすべて終わりだ、とも言わない。

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仏教には、以下のような明確な教義がある:

(一)万事万物は、もし、因と縁によって造られるのであれば、またはそれが形成

される因・縁があるのであれば、因と縁が存在さえすれば、それは存在する。しかし、

それは無常であり、因縁の変化と共に変化する。すでに亡くなった人または事物につい

て言えば、それが再び現れる、または再び生まれ出る因縁があるのであれば、それは再

び現れるか、または再び生まれ出てくる:もし、その因と縁がすでに存在しないのであ

れば、それもまた完全に消失する。というのも、それらは因と縁によって組成されてい

るからであって、故に、我々は、これらの現象自体を、生であるとか死であるとか、偏

った見方でもって断定することはできない。というのも、それらは自ら生・死を選択で

きないが故に。

(二)しかし、事物が、因と縁から生じるのでなければ、それは「生れること」を

必要としないまま存在することができ、しかも、永遠に消滅することなく、永恒となる。

たとえば、仏陀の述べた涅槃、この種の存在は、完全に、因と縁及び因縁が顕現させる

果を超越しており、それは完全なる解脱の境地である。簡単に言えば、それはすべての

因と縁を取り除いており、残ったものは、因でもなく、果でもなく、完全に因果を超越

しているものである。これが因果の止息した境地であり、もし、因と果が紛れ込めば、

この境地は完全に消失する。そして、この止息した境地は、恒常的に存在しており、そ

れは苦痛の止息する場所である。というのも、苦痛は果であり(または果として帰納さ

れるものであり)、煩悩と無明の類の因から生じる、果であるからである。

前述したとおり、涅槃とは、すべての因と果が滅尽した境地であって、すなわち、

すべての煩悩と苦痛の消失した境地または状態のことである。このレベルから話を進め

ると、仏教は恒常なる個体(=個人)の存在するのを認めるが、それは因果のコントロ

ールを受けないものであり、しかし、それは「自我」ではない。仏陀は、また、無常な

る事物があることを認めるが、この種の無常とは、煩悩、善行、悪行、楽しさと苦痛、

それらと関係する全ての世俗的事物を含むものであるが、しかし、それらは無常で変化

するものであると考える。そういうことから、仏教は、一切の虚無主義または断滅論を

否定するものではない。

ここで我々は、もう一度、総括したいと思う:

仏教は、霊魂の不滅論を否定する。というのも、仏教は、永恒なる「自我」がある

という観念を、承認しないからである;

仏教は断滅論者でもない。というのも、それは万事万物はすべて因と縁によって組

成されていると主張し、すべてが因と縁に依って成就されるが、また、因縁を超越でき

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れば、それは永恒となる(と主張するからである)。仏教は断滅論者(原文ママ、常見

論者の間違いか?)でもない。

というのも、それは二種類の「法」――変動して無常なる「有為法」と恒常なる「無

為法」を主張するからである。

我々が、仏教に外道とは異なる特色を求める時、それは、仏教においては、「自我」

がある、とは主張しないことを発見する。仏教は「常」と「無常」という二種類の事物

の存在を受け入れるが、しかし、それは、この二者を、「自我」を持たない事物か、ま

たは「無我」自体である事物であると、見做しているのである。そうでなければ、仏教

は、前述した何種類かの外道と、同じものになってしまう。更に重要な事は、仏教が「自

我」が存在すると主張したならば、すべての苦痛を完全に消し去った(+後に生じる)

智慧と境地を証悟することはできない、ということである。この点に関して、我々は、

涅槃とは「自我」なのか、「無我」なのかを討論する時に、更に、特別詳細に説明を加

えることとする。

仏教は「自我」があるとは主張しない

各種の学説の要旨を比較した後、我々は、「自我」があると主張する人(有我論者)

は、すでに世俗を超越するほどの高い境地においても、なお「自我」を有している(+

という)。特に、ヴェーダンタ哲学で言う解脱とは、「自我」が塵俗を離脱した境地の

ことであり、かつ、苦痛から遠く離れた、究極の解脱のことだと考えられている。「無

我」を主張する人は、二種類に分けることができる。そのうちの一つには、虚無主義が

含まれる。(+彼らは)相対的に言っても、絶対的に言っても、一切を完全に否定し、

なんらの事物も受け入れることがない(子細に考えてみると、これらの人々は、「自我」

にも注目しないし、「無我」にも関心がない。ただひたすら一切を否定しているだけで

ある。そして、この種の否定は、見たところ、「自我」をも「無我」をも、ただただ排

斥したい、という気持ちに合致しているものである)。

二番目は仏法で、それは「一切法は無我」であると主張するが、しかし、事物は二

つの状態ーー持続的に生滅変異していること、およびその始まり~源頭は分からず、そ

れが止息することはないが、また恒常不変でもあるーーを認めている。この種の二種類

の状態の事物は、たとえば、心霊に関して、もし世俗の観点からみれば、「自我」の観

念はあり得るが、これは、すべての衆生がお互い通じ合うとき、まったく自然に、「自

我」でもってすべてのものどもを認識するからである。たとえば、人々は、自分と関係

のあるどのようなものでも、「私の」だと言うように。しかしながら、もしも、絶対的

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観点または絶対的な真理から言えば、仏法は「自我」を否定しており、ただ前に述べた

二種類の自然なる状態だけを認めるものである。

もし、「自我」が二者のうちの一つであるならば、生滅異変を超越した無為法であ

っても、この種の言い方は、相対的な法について述べているにすぎないか、または、相

対的な法と関係があり、それは事実ではなく、または完全なる絶対的真実ではない。仏

陀が仏法を説明する時、できるだけ「自我」という言葉を使うのを避けたが、しかし、

通俗的で平易な説法をするときは、彼は時には「自我」という語彙を用いることもあっ

た。これは、彼の説法が、道徳に言及することがあり、または、いまだ開悟しない人に

向かって、分かり易く説明するためでもあった。

仏陀が排斥した「自我」

「自我」とは何か?

仏陀が否定した「自我」(訳者注)、その字面上の意味は、主に「無我」という単

語のニュアンスから、理解することができる。たとえば、《無我相経》

(Anattalakkhaṇasutta)の中で、仏陀が「五蘊無我」という時、彼は、無常なる事物

は常に変異しており、一度も我々が望むような結果を生み出したことはないのだ、と言

う。すなわち、これが「無我」である。しかし、彼は、決して一度も、その反対は「自

我」であるとは、言ったことがない。しかし、我々は、ロジック上において、それの反

対の概念は「自我」である、と理解し、そのように受け取っている。

訳者注:「真我」と訳した方がしっくりするかもしれませんが、前後の整合性を鑑

みて、原文のままの「自我」とします。

こうして、ある種の方面において、混乱が生じた。「自我」を有したいと望む人々

は、即刻、有為法の中の事物、たとえば、涅槃は恒常不変であり、故にこれらのものご

とは、「自我」に帰納することができる、と宣揚した。彼らはまた、仏陀の教えた「『自

我』を拠り所にして」の中の「自我」は、(+彼らの好むタイプの)「自我」であると

宣揚した。このような言い方は益々、涅槃を「自我」だと見做すような傾向に、人々を

導いた。彼らは、涅槃とは、事実上、何人のコントロールも受けないものだ、というこ

とを忘れている。(+涅槃は)人々が如何にそれを得たいと思っても、これまで一度も

得られたことはない、というのも、それは人間の欲望を超越しているからである。

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《無我相経》の教義に照らせば、我々は、涅槃または無為法を「自我」とみなすこ

とは、受け入れられない事だということを、発見する。ここまでにおいて、我々はいま

だに、人々が執着すべきでない「自我」というものには、どのような特性があるのかを

知らないでいる。パーリ経典の中の《小部》(Khuddakanikāya)とその他の経典の中

で、「諸法無我」とは、すべての個体には、「自我」がないという意味でつかわれてお

り、完全に「自我」を否定しているものである。しかし、それはいまだに、「自我」の

特性、あるいは世俗において、また一般の人々が言うところの「自我」の概念を、我々

に認識させることはできないでいる。

しかしながら、もし、我々が一つの新しい、簡単な問題を提起するならどうであろ

うか?

世俗的な言い方において、「自我」とは一体どういう意味なのか?

また、仏陀の行った、世俗的な説法を参照するならば、「自我」とはまた一体、何

なのであろうか?

「自我」とは肉体を言うのであろうか?

それとも心霊、それとも他のモノ?

我々は、仏陀が《長部》(DĪghanikāya)の《布咤婆楼経》(Poṭṭapadasutta)ま

たは《戒聚品》(SĪlakkhandhavagga)の中で行った開示に、この問題の明確な答え

を見つけることができる。それを順調によどみなく、はっきりと理解するために、これ

らの経は、子細に読まれ、研究されなければならない。ここで私は、仏陀の説明を、一

つ一つ引用するが、そのため、話が相当冗漫になる可能性がある。どうか、注意力を集

中し、詳しく細かく考えていただきたい。

意識が「自我」か?

《布咤婆楼経》の内容は、遊行者布咤婆楼(ポッタパーダ)に関する話である。彼

は仏陀のように、あちらこちらを遊行して参学し、人心を感動させる教法を教授した。

ある日、彼は偶然仏陀を見かけ、「想」(saññā)の止息(=生滅)、更に詳しく言え

ば、意識の止息について、仏陀と話しあった。

もし禅の修習と関係する言い方をするならば、それは「意識」と「受」の止息の境

地の事ともいえる。一人の人間の意識が活動を停止する時、表面上では、死んだように

見えるが、実際には、死んではいない。

この遊行者は、仏陀に告げて言う:

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学説的な弁論を行うとき、この命題は、大きな論争を呼ぶだろう、と。ある一群の

人々は、「意識」は何物にもコントロールされることはない。それは自動的に生起し、

消失する。それが人の身に現れるとき、その人には意識がある、という:

それが存在しない時、その人には意識がないのであり、そして、このような生滅は、

遅かれ早かれ発生する、と。別の一群の人々は、(+事実は)そのようではないと言っ

て、これに反駁する。「自我」とは、結局は、一人の人間の意識であり、「自我」が我々

の身体に進入する時、我々は意識を具備することになる。「自我」が離れると、我々は

意識のない状態になる。ひたすら「自我」が戻ってくるまで待ってのちに、我々は、意

識のある状態を取り戻すことができる。

第三番目の群の人々は、前二者は、両方とも間違っている、と言う。実際は、この

世界には、大きな能力を持っている何者かがおり、彼は神秘的な領域に住み、我々一人

一人の意識の生滅を決定している。最後の一群の人々は、前の人々は、皆間違っていて、

実際は、神が、一人一人の意識の生滅をコントロールしているのだ、と言う。最後に、

この遊行者は、自分は仏陀の智慧を信じ、かつ、仏陀が意識の息滅に関する真実義を知

っていることを認め、ゆえに、仏陀にそれを開示してほしいと願い出た。

意識活動は、因縁法によって規制される

仏陀は、遊行者に以下のように説明した:あれら、意識は因と縁の規制を受けない

と考えている人たちは、当然、間違っている。というのも、意識は、個人の行為によっ

て生じるし、また消滅もするからである。

仏陀は続けて言う:一人の僧が、如何にして禅定(jhāna)、初禅から無所有処定

(ākiñcaññāyatanajhāna)にまでに入るのかを解説し、そのあとで、仏陀は、それぞ

れの禅定について、一つひとつ、個別に例を挙げて、説明した。たとえば、ある僧が、

初禅に到達した時、彼の意識または思惟は感じ取れなくなるが、それに代わって生起す

るのは、心の混乱から遠く離れたことによって生じる喜悦(pĪti)と安楽(sukha)で

ある。これが、意識が、禅定の努力の下で生じ、また滅する状況である。こういうこと

であるから、どうして、意識の生起と消失には、因縁が関係していない、と言えるだろ

うか?

第二禅に入ったとき、尋(vitakka)と伺(vicāra)の意識は消失し、代わりに生起

するのは、定(samādhi)による喜悦である。第三禅のとき、喜悦の意識は消えて、静

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けさから生じる安楽があるのみ、である。第四禅のとき、安楽の意識は消え、静かにな

り、浄化された後に生じる、無分別の感覚だけが残る。

空無辺処定(ākāsānañcāyatana jhāna)において、形態上の意識は消失し、空虚

な形式のみが、残る;

識無辺処定(viññānañcāyatana jhāna)においては、意識上の空虚性は消失する

が、しかし、意識の行相をはっきりと覚知する智慧が出現する;

無所有処定の中では、意識的行相を有する。意識は消失し、空的無一物の意識が出

現する;

最後、禅定の最後のレベルにおいては――

滅尽定(saññāvedayitanirodha jhāna)の中において、空無の意識も消失して、

二度と新しい意識が生じることはないがゆえに、意識は完全に止息する。そして、この

ような境地がずっと続くならば、この段階において、我々は、意識が存在するとは言え

ず、この人に感覚というものはない;

しかし、我々は彼の事を意識がないとは言えない。というのも、この人は、定から

出た後、依然として知覚を有しており、そのため、彼の事を死亡したなどとは言えない

が、死亡していない、とも言えない。この事は、人類のコントロール力または行為によ

って、意識を完全に止息させたのだ、と言える。

仏陀は最後に、遊行者に訊ねる:以前、これに類した説法を聞いたことがあります

か?

仏陀の説法を聞いた後、非常に感激した遊行者は答える:以前、これに類した説法

を聞いたことはありません。仏陀の説明は、真に、非常なる真実です。

この物語の意義は、意識の生・滅は、自我意識が肉体に出たり入ったりするがため

ではなく、また、ある種の超能力を有する人間の作用でもなく、更には、上帝(=神)

の力によってでもなく、または因なく、縁もなく生起したり、消失したりするものでも

ない、ということを、指摘したことである。非常に明らかに、意識が生起した後、禅の

修習者の禅定によって、意識的活動は徐々に止息し、最後には完全に消失する。我々は、

意識的活動は、確かに因縁法の規制(=影響)のもと、言い換えれば、実践者の行動と

努力の力の下に、掌握されているのだ、と言える。仏陀のこの種の説法は、完全に「自

我」を否定している。ある種の人々はこの種の「自我」を「真心」(cetabhūta)また

は「霊魂」(jĪvo)と呼び、かつそれを、肉体の中に、出たり入ったりすることができ

るものだと、思いなしている。

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上述の説法の中で、仏陀が暗示して指摘したいわゆる「自我」とは、あれら「自我」

があると信じている人々の妄想または無明が造りだしたものだ、と言える。彼らは、「自

我」とは身体に出入り可能で、かつ意識を出現させたり、消失させたりするのだ、と言

う。同時に仏陀は、「自我」が上帝によって操縦されること、上帝が一人の人間の意識

を生じさせたり、消失させたりするのだ、という考えも否定した。我々は、パーリ経典

の研究を行っている欧米の学者 Rhys David の説明に完全に賛同する。彼は言う:

「『自我』を否定するすべての経文の内、《布咤婆楼経》よりさらに精妙で奥深く、明

確なものは、ない。」我々は更に一歩進んで、この経を研究する。

意識と「自我」は同じものか、異なるものか

ポッタパーダは、仏陀に問う:意識とは、本当に、一人の人間の「自我」(+その

もの)なのでしょうか?それとも、意識と「自我」とは、二つの異なるものなのでしょ

うか?

この質問に対して、仏陀は答える:あなたが言っているのは、どの「自我」の事だ

ろうか?

ポッタパーダは、答える:私が言っているのは、明確な形態で、四大によって組成

され、米などの食物によって滋養されて、成長するものです。

仏陀は言う:もしそうであるならば、あなたの言う意識と「自我」は異なるもので

す。あなたは、必ず知る必要があります。一如に生起した意識と消滅した意識は、決し

て同じものではありません。そうであれば、あなたが言った意識と「自我」は、必然的

に同じものではない、ということになります。というのも、もし、その中の一つを「自

我」と見做せば、もう一つのものは、必然的に、決して「自我」では、ありえない。

ポッタパーダは言う:もし私が、「自我」とは、心霊の元素に、主要な、また二次

的な器官とによって組成されていると、考えたならば?

仏陀は答える:もしそうであったとしても、意識とあなたの言う「自我」は、別々

の二つの事柄です。あなたの言う「自我」について討論しても、意味がない。というの

も、生起した意識と消滅した意識は、同じものではありえないからです(理由は先に述

べた)。ゆえに、意識と、あなたが言う「自我」は同じものではないのです。

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ポッタパーダは、さらに踏み込んで、仏陀に問う:それならば、もし、形象がなく、

意識自身によって形成された「自我」はどうでしょうか?

仏陀は答える:そうであったとしても、それらは同じものではありません。あなた

の言う所の、意識自体から形成された形象のない「自我」のことを討論しても、意味が

ありません。というのも、生起した意識と消滅した意識は、同じものではないからです。

前述したのと同じ理由で、もし、その中の一つを「自我」とするならば、残りの一つは、

前者と同じではありえず、故に「自我」ではないのです。たとえば、今(+見ている所)

の水と、次(+に見る所)の水は異なるものである(+かどうかを問題にしている)と

きに、水と波は同じものだという(+議論をする)のは、まったく馬鹿げているからで

ある。

意識は「自我」ではなく、ただ単に持続的に変化している現象である

経文中の、奥深く精妙なる主題は、仏陀の教理によると、(前述した異なるレベル

の禅定の解釈の如く)生起した意識と消失した意識は、決して同じものではない(+と

主張する)。それらは、因と縁の条件に沿って、順序に従って出現するもので、ただ連

続して、不断に変化しているものである。この(+変化の)過程の中で、どの一部分を

もってしても、それら(=意識)の「自我」であるとすることはできない。仏陀が、一

体全体、意識とはすなわち「自我」なのではないのか、と問われた時、仏陀は答える方

法を知らないでいた。というのも、仏陀の観点から言うと、どのように考えても、「自

我」というものはないからである。

お互いを理解し合うために、仏陀は仕方なく、ポッタパーダの言う「自我」とはど

ういう特性をもつものなのかを問い、先にこの遊行者に彼の言説の意味する所を、簡単

に述べさせた。言い換えれば、まさに討論しているところのモノは、意識であるとか「自

我」であるとかとは、言えないモノなのである。というのも、先に生起した意識と、後

で生起した意識は、同じものではなく、それをどうして、我々の根本的な「自我」だ、

なとど言えようか?

ポッタパーダは、意識と同じであるような、いかなる「自我」の特性をも見つ出す

ことができなかった。このことは、彼は「自我」とは、人々が、万物を感知するのに用

いているものだと考えていることを表している。この種の言い方は、必然的に捨て去ら

れるべきものであって、また彼は感知(+する力)をもたない「自我」を見つけ出すこ

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とができなかったし、また、根本的な「自我」も見つけることはできなかった。こうい

うことから、それらの意識を「自我」と呼ぶのは、何の役にも立たないことなのである。

我々が忘れてはならないのは、遊行者たちは、一種の先入的な信念を持っていて、

「自我」とは、一人一人の人間の中に存在していて、まさに今、感じ、思考し、また、

一切の仕事をしているモノだと思いなしているのだ、ということ。仏陀は、我々は、己

自身の中で、感じ、思考できる「自我」などという個体(=個人)を見つけ出すことな

どできない、ただ、因と縁の条件によって、持続的に変化し続ける個体(=個人)また

は現象があるだけなのだ、と言う。

外道の主張する三種類の「自我」

遊行者たちの学説の中には、三種類の「自我」がある:

(一)一般的に理解されている、色身を「自我」とみなす;

(二)心霊によって生じた霊体(astral body);

(三)意識;

しかし、前に説明したように、仏陀は、意識の生起と消滅は、禅定の力でコントロ

ールすることができる事から鑑みて、意識は「自我」とみなすことはできないことを証

明した。

人々は、「自我」とは、主体的な力を持たない個体である事、または、自ら意識的

または無意識的になることができないものであるという事を受け入れられないため、そ

れは、それを表す名詞の定義と合致することがないでいる。ゆえに、もし、ポッタパー

ダの言う所の、ああいう種類の特性を持つ個体が存在していたとしても、それを「自我」

と呼ぶことは、できない。言い換えれば、それは主体的に、覚知あるもの、または覚知

のないものとして、立ち現われて個体をなすことができない。というのも、どのように

探しても、それがそのような主体的な力を持っていて、かつ、唯一無二の真正なる永恒

者だと、実証することができないのであるから、「自我」というものも、ないのは当然

なのである。

意識は「自我」になることはできない。というのも、それは、止まることなく、異

なる個体(=個人)として、変化し続けているからである。たとえ、それが「自我」と

ともに生起して、「自我」とともに消滅するとしても、それはなお、「自我」ではない。

それらは、相次いで連続して生・滅する個体である。このことは、後の、「縁起法」の

章の中で解説したいと考えている。

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ポッタパーダは更に踏み込んで質問する:私に、一人の人間の意識と「自我」が同

じであるか、または同じでないかを知らしめる、何かよい方法はないですか?

仏陀は答える:ポッタパーダ!それは、あなたにとって、難しすぎるかもしれない。

というのも、あなたはすでに自分の見解、先入主をもっているから。故に、あなたが正

しいと思っている事、正当だと思っている事が、実は不正確なのだと理解することがで

きないでいる。(+それは)あなたが、他の観点を好み、他の方式で理解しようと試み

ており、かつて外道の教えを受けたことがあるから(+である)。

ポッタパーダは問題点を変えて問う:それならば、私がほかの教師から学んだ理論、

彼らの観点は(+それぞれがお互いに)異なるけれども、たとえば、世界は恒常なるも

のなのか、または恒常なるものではないのか;世界は有限なるものなのか、または無限

であるか等々、どれが真実で、正しいのですか?

仏陀は答える:それは、私があなたに、教えるべきものではない。

遊行者は問う:どうして、仏陀はこのことについて論じないのですか?

仏陀は答える:何らの役にも立たないが故に。

我々は知らなければならない。世界は恒常であるかどうか、という問題は、「自我」

の問題と直接的に関連しているものである。しかし、仏陀の観点から言えば、「自我」

は決して存在しないし、描写することもできないものなのである。仏陀の考えでは、苦

痛から解脱する方法は、世界は恒常であるかどうかと論談する事、または「自我」の問

題とは、もとより関係がない。仏陀の教えた正道は、ただ物事の真正なる本質を、如実

に見通すことを要求しており、それはすなわち、停まることなく循環し、運行している

「法」または自然の法則に対して、決して執着や粘着をしてはならない事、更には、そ

れを「自我」であるとして、執着してはならない、ということである。

ゆえに、仏陀は言う:「これらの命題は役に立たない。それは、苦痛を止めること

ができない」。

以上の物語は、仏陀が町に行って托鉢する前の、当日早朝に起きた出来事で、仏陀

と遊行者はここまで話をして、そこで別れた。何日かの後、遊行者ポッタパーダは、「吉

達」(Citta チッタ)という名の象使いと一緒に、再び、仏陀の開示を聞き来た。彼は

仏陀に、仏陀は世界の恒常であるかどうかの類の問題を論じない。私もそれに同意した

いけれども、それでは遊行者たちに責められる、と言った。

仏陀は再び確固として言った:これらの事を話し合うのは、意味がない。しかし、

四聖諦は、修行者に直接的な利益を齎すことができる、と。

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そして、仏陀はさらに続けた:ポッタパーダ!ある種の苦行者と婆羅門は、以下の

ような考えを持っている。(+彼ら)曰く、死後、彼の「自我(ママ、以下同様)」は、

完全に安楽になることができ、それにぶつかったり、それを踏みつけたりすることがで

きるモノは、ない、と。私は彼らに会いに行き、彼らに対して、本当にそのような観点

と言い方が存在するのかと、尋ねた。

彼らは、本当だ、と言うので、私は質問した:「あなた方は、過去において、安楽

のみがあって、苦痛のない世界を見たことがあり、かつ、それを知っているのでしょう

か?」と。彼らは:「いいえ」と答えた。

それで私はまた質問しました:「あなた方は、常楽なる『自我』というものを、は

っきりと知覚することができますか?それは一夜でも、一日でも、半夜でも、半日でも

いいのですが?」

彼らは答えました:「いいえ」

次に私は聞きました:「あなた方の修行方法、あなたがまさに現在修行している、

その方法は、常楽の世界を実現することができますか?」これにも、彼らは否定的な回

答をしました。

それでその後に、私はまた質問しました:「以前、常楽の世界にいる仙人が、『世

の人々よ!善を行い、誠実に修行したならば、常楽の世界、苦痛のない世界に到達する

ことができる。我々はすでにこのようになしたが故に、このような常楽の世界に到達し

たのだ』というのを聞いたことがあるだろうか?」これについても、彼らは否定的な回

答をしました。故に、注意深く聞きなさい、ポッタパーダ!状況はこのようであるなら

ば、彼らの言い方に根拠はあるのでしょうか?

ポッタパーダは答えました:彼らの言い方には全く根拠がない。

仏陀は引き続き言いました:ポッタパーダ!これはまさに、ある人が以下のように

言う(+ことと同じである):

「私は、ある家の美しい娘を思慕し、追い求めている。」

しかし別の人が彼に尋ねる:「彼女とは誰か?その人は武士階級の娘か?祭司(婆

羅門)階級か?平民階級かまたは賎民階級か?」

彼は答える:「私は知らない」

彼らは再び尋ねる:「彼女の名前は何?姓は?彼女は背が高い?低い?中くらい?

彼女の皮膚は黒い?白い?それとも黄色い?彼女はどこの村、どこの郡、どこの県、ど

この国に住んでいる?」

彼はまた答える:「私は知らない」

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故に人々は言う:「青年よ、あなたは会ったことのない娘さんを思慕し、追い求め

ているのではないだろうか?」

彼は答える:「はい、そうです」

ポッタパーダ!もしあなたが、この青年の会話の中から、実質的に意義のある話を

見つけ出すことができるならば、あなたは、あれら苦行者と婆羅門が言う話にも真実を

見つけ出すことができるだろう。これが、「自我」はあると言いながら、実際に質問を

されてみると、彼らは「自我」とは何かを知らないということが明らかになってしまう

(+現実の状況なのである)。

ポッタパーダ!これは、ちょうどある人が、梯子を造り、十字路に持っていき、人々

に向かって、私は城壁を登るのだ、と言ったとしよう。それを見た人々が彼に質問する:

「どの城壁を登るのか?城壁はどこにある?東に?西に?南にそれとも北に?城壁は

高いのか?低いのか?それとも中くらい?」

彼は答えて曰く:「私は知りません」

そして、彼らは更に進んで質問する:「梯子は、あなたが一度も見たことのない城

壁にかけようとしているのか?」

彼は答える:「はい、そうです」

ポッタパーダ!あなたはこの人の話を、実質的で意義のあるものだと思いますか?

あれら苦行者と婆羅門が言う所のモノ(すなわち、彼らが知っていると言っている、常

楽なる「自我」)は、上の状況と同じなのです。

ポッタパーダ!一人の人間は、ただ三か所においてのみ、「自我」を探すことがで

きる。その三か所とは、どこか?

(一)四大によって組成された粗い肉体、すなわち、米などの食べ物によって滋養

される者。

(二)心霊の元素によって造られた霊体。肉体と同じ器官をもつが、粗い類のもの

ではない。

(三)意識自身によって造られる、形象のない「自我」。(パーリ経典より)

ポッタパーダ!これは、人々が「自我」を取り除けるようにと願って、私が人々に

宣揚する教法で、それには、三種類の形式がある。私の教理は、仏法であり、これによ

って修行した場合、錯誤や愁いや苦しみを解消し、光明と智慧が生じ、かつそれを、大々

的に増長させることができる。あなたは、己の聡明さと鋭敏さをもって、この人類の智

慧に満ちた、かつ完美なる境地をはっきりと感知し、かつ、この種の境地を保持しなさ

い。

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ポッタパーダ!もしあなたが、それを悲哀なる境地であると懐疑するならば、ポッ

タパーダ!私はあなたに言いましょう。それをそのように見做してはならない。という

のも、それは喜悦であり、幸福であり、寧静で、自覚した、完全に覚醒した、快適な境

地であるのだから。

ポッタパーダ!もし、その他の苦行者と婆羅門が私に:「あなたは『自我』はない、

と言っているが、それならば、あなたの言う『自我』とは、一体なんであるのか?」と

問うならば、この問題に関して、私はこのように答える:「一体この『自我』であるの

か、それともあの『自我』であるのか、という事は重要ではない。しかし、あなたが心

の中で理解し、かつ執着しているところの『自我』、これはあなたが必ずや捨て去らね

ばならないもので、捨て去った後に、安楽になるものなのです。」

ポッタパーダ!この事(すなわち、私が彼らに捨てるように教えた所の、心の中で

理解し、かつ執着しているところの「自我」)は、ちょうど、ある一人の人間が、梯子

を造り、城壁(原文:砦の壁)の下に持っていき、梯子を城壁のもたれかけさせて立て

ようとしている時、人が来て:「あなたは、あなたが自分で造った梯子を用いて登ろう

としているのはどの城壁ですか?」と聞いたとして、彼は:「まさにこの城壁なのです。

私はすでに梯子を城壁の根元に掛けました」と言う(+ようなものです)。この譬え話

からみて、あなたは、私の話に根拠があると思いますか?

ポッタパーダは答える:「これは確実に根拠があります。」

この時、象使いチッタが言った:

私の考えは:粗い肉体の「自我」を得るとき、心霊の元素によって造られる「自我」

および意識が造る「自我」は得ることができない;心霊の元素によって造られる「自我」

を得るとき、粗い肉体の「自我」と心霊の元素によって造られる「自我」は得ることが

できない;意識が造る「自我」を得るとき、粗い肉体の「自我」と心霊の元素によって

造られる「自我」は得ることができない。

彼が言いたい事は、「自我」の三種類の形式は、同時に存在することができないと

いう事である。一つの形式の「自我」に執着すると、その特定の形式のみが存在すると

認定されて、他の二者は存在しないことになる。

仏陀は言う:チッタ!もし人が以下のように言うとしよう:「あなたは、随分以前

から存在しており、かつて存在したことがない、ということは、ない;あなたは未来に

おいて存在するだろうし、永遠に不存在である、ということは、ない;あなたは今現に

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存在していて、現在存在していない、ということはない。」人が、このような言い方は

正しいかどうかを尋ねたとき、あなたはどのように答えるのか?

チッタは答える:私はかつて存在したことがあり、未来においても存在するであろ

うこと、また現在も存在している事実を受け入れます。

仏陀は続けて言います:チッタ! もしあなたが、さらに突き詰めて、以下のよう

に質問されたならば、それが正しいかどうか、あなたはどのように答えますか?

「あなたが過去において執着した『自我』の、どの種類のものであろうとも、それ

はすべて真実であり、その他の『自我』は虚偽である; または、あなたが未来におい

て執着するところのその『自我』、それはすべて真実であって、その他の『自我』はす

べて虚偽である; あなたが現在執着しているどの『自我』も、それはすべて真実であ

り、その他の『自我』は、すべて虚偽である。」

チッタは答える:いついかなるときにも執着された「自我」は、その特定の時刻に

照らして言うならば、皆真実で、その他の「自我」は、虚偽であると見做されます。実

際は、これは、あの特定の時刻に照らして言っているものであって、過去の「自我」は

過去においてのみ真実です。未来の「自我」と現在の「自我」に至っては、それらは、

過去の時間の流れから見れば、すべて虚偽です。実際、それらは、過去においてそのよ

うであった、というだけのことです。ただし、相応の時刻が到来したとき、後ろの二つ

の「自我」も、それぞれ真実となります。同様に、過去において、一度は真実であった

「自我」は、現在と未来においては、虚偽になります。

仏陀は続けて言う:チッタ!「自我」の形式もまた、同じである。どのような時刻

においても、粗い肉体における「自我」を得たとき、心霊の元素によって造られた「自

我」と、意識によって造られた「自我」は、得ることができない;心霊の元素によって

造られた「自我」を得るとき、粗い肉体の「自我」と、意識によって造られた「自我」

は、得ることができない;意識によって造られた「自我」を得るとき、粗い肉体の「自

我」と、心霊の元素によって造られた「自我」は、得ることができない。

チッタ!これはまさに、新鮮な牛乳が牝牛から来るように、凝乳は新鮮な牛乳から

来るように、バターは凝乳から来るように、凍乳は乳酥から来るようなものである。そ

れが新鮮な牛乳であったとき、それを凝乳、バター、乳酥と呼ぶ人はいない;そして、

それが凝乳になった時、それを牛乳、バター、または別の名称で呼ぶ人はいない。執着

された「自我」もこの通りであって、一人の人間が、肉体の「自我」に執着する時、心

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霊の元素によって造られた、または意識によって造られた「自我」を「自我」とは認め

ない;

一人の人間が、心霊の元素によって造られた「自我」に執着する時、粗い肉体によ

って造られた「自我」と、意識によって造られた「自我」を「自我」とは認めない;一

人の人間が、意識によって造られた「自我」に執着する時、粗い肉体によって造られた

「自我」と、心霊の元素によって造られた「自我」を「自我」とは、認めない。

チッタ!これら「自我」に関する名詞は、世俗の言語と世俗の定義によっており、

世俗的な言語の中の、世俗的な名詞として取り扱われている。如来もまた、俗にしたが

ってそれらを使用するが、如来は決して、それらに執着したことはない。

最後に、ポッタパーダとチッタは、今回の説法は、人をして非常に喜ばせたと讃嘆

し、それはまるで、転覆した船を元に戻すかの如くであり;覆い隠された物を明るみに

出すようであり;絶望して道に迷っている人に道を指し示すようであり;暗闇に灯を点

して、視力が正常な人にはっきりとものが見える様にするかのようである(+と言った。)

ポッタパーダは流浪する遊行者から、仏陀の在家信者になり、チッタは出家を願い

出て、落飾して僧となる許可を得、程なくして阿羅漢果を証悟した。

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仏陀が排斥した「自我」

我々は、前述のパーリ経典の経文に基づいて、以下のような結論を得ることができ

る:

(一)多くの、異なる学説の教師は、「自我」はあるのだ、と主張している。そし

て、人が死ぬと、この種の「自我」は、安楽になり、なんらのものからの傷害も受けな

い、という。これらの人々は、この種の「自我」と、「自我」が赴く常楽世界を知って

いるのかどうか、または、彼らの修行(+方法)が、人々に常楽世界に到達できるもの

であることを実証できるのか、または、その世界に住む神が、彼らに、この種の世界の

存在を保証したのかと問うた時、彼らは正面から回答することはできず、どの質問にも、

確実に実証してみせる、ということもできないでいる。このように、彼らの観点は、た

だの夢想に過ぎず、ちょうど年若い青年が、存在しない美しい娘さんを愛しているよう

なもの、または、梯子を作って、自分さえどこにあるのか知らない家に、上ろうとして

いるようなものなのだ。

(二)仏陀は、己自ら、各種の「自我」を捨て去るように唱え、導く。

人々が:「捨て去るべき『自我』はどこにあるのか?」と問う時、仏陀は答える:

「それは人々が執着するところにある。」

その時々に、人々が執着するところの「自我」が何であろうとも、彼らの心の中で

は、それを捨て去るべきであることは、非常にはっきりしている~永遠にそれを「自我」

だと見做してはならないのだ(+ということも知っている)。このように、仏陀が人々

に捨て去ってほしいと願っているモノは、捨てさるべきその個体(=個人)の上に、真

実存在しているもので、このことは、年若い青年が、存在しない美しい娘を好きになる

のとは異なるし、また、梯子を造ったものの、どこにあるかもわからない家(+の壁を)

登ろうとするのとも、異なる事柄である。

仏陀の観点では、捨て去るべきは「自我」があるという、その観念そのものであっ

て、人々が執着しているのがどんな「自我」であっても、必ず捨て去らねばならないも

のなのである。しかしながら、あれら、「自我」はあると主張する先生方から言えば、

彼らが言う所の「自我」は、理性の原則を通して確認することのできないものである。

というのも、それは、ただ人々が、間違った観念の中で、執着しているものであるから。

有るときは「自我」は粗い肉体の上にあり、有るときは心的な霊体上にあり、有る

ときはまた、意識の上にある。それは、人々がそれを思考する時刻と方式によって、及

び彼らの出会う問題の深さによって変化する。故に、「自我」は、今日の女性の服装の

如くに、不断に変化しており、永遠に美しいとみなすことはできない、ということなの

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である。更に詳しく述べるならば、仏陀が人々に、必ず捨て去るように教え導いた「自

我」とは、ただ無明と錯誤の観念が作り出したものにすぎないのである。

(三)捨て去るべき「自我」は、前述した三種類のモノである。

第一は、粗くて、平凡な肉体。第二は、霊体で、この種の霊体は、禅の修行の時に

出現するし、自分で出現することもある。それは非常に神妙なるモノで、それは我々に

注意深く聞いたり、見たりするようにするし、進んでは、遠方の友人と交流や連絡がで

きるようになったりする。第三は、意識または創造された無意識であるーー我々が眠っ

ている時、無自覚な時、または死亡する時、人々は、この種のモノが人間の肉体を出た

り入ったりすると考えている。「自我」に執着するということは、この三種類の形式か

ら出ることは決して、ない。しかし、仏陀は、この三種類の「自我」は、ともに捨て去

るべきだ、と言う。捨て去ったその時、初めて心霊は純潔になり、智慧は円満になり、

最終的に幸福を得るからである。

しかし、このことから、ある種の人々は、この種の幸福と純潔に執着して、これを

「自我」として、かつ、これは仏陀が必ず探し求めるように教え導いた、真正なる「自

我」なのだと言い、この種の新しい「自我」に執着する(+ことが起こった)ーーこれ

はインド哲学が、人々に「自我」を探し求めるよう教えるのと同じことである。ある種

の仏教徒は、このタイプの教えを受け入れて、まさにその通りだと思いなし、かつ、新

しい「自我」とは、すなわち、仏陀が我々に探すように教えた涅槃なのだ、と言う。

簡単に言えば、彼らは涅槃とは、仏陀が人々に教え導いた、三種の「自我」を捨て

去った後に追い求める「自我」である。この点に関しては、後に討論、検討する。ここ

では、我々は先にはっきりと覚えておく必要がある。仏陀は、一人の人が「自我」を探

し求めるのならば、この三種の外において探す必要は、ないと言った、ということであ

る。この意味は、愚かにも「自我」に執着する人にとって、「自我」とは肉体、霊体と

意識の三種類の形式しかない、ということである。

(四)仏陀の話の中には、いくつか、人々を困惑させるものがある。たとえば、象

使いチッタが懐疑したように、「自我」の概念が、異なる人、時間によって、違うもの

になってしまうとしたら、「自我」とはどうやって取り除くべきものなのだろうか?

この点に関して、仏陀は、ある人が、あるモノを「自我」として執着する時、彼は

別のモノを二番目の「自我」として執着することはできない。たとえ、一生の間に、人

が、多くのモノを「自我」として執着したとしても、毎回執着されるところの「自我」

は、一切、同時に出現するということはあり得ない、と言う。人々は、確実に知らなけ

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ればならない。あなたが執着しているものがなんであろうとも、必ずや捨てさる必要が

ある。

これはまさに、牛乳とバターは、異なる乳製品ではあるが、すべて牝牛からきてい

るもので、しかし、処理の仕方が異なるために、それぞれに順序による変化を齎したの

ものである。なにかの事柄に執着する時、我々はそのことに専注し、そして、それを捨

て去る。すべての、執着される「自我」がなくなるまで、言い換えれば、二度と再び「自

我」に執着しないようになるまで、または、心の中に、「自我」と認定されるいかなる

モノも存在しなくなるまで、我々は、継続してこの方法を実践しなければならない。

(五)最後に、我々は、「自我」の特殊な定義を知らなければならない。それは、

ただ、世の中の人々が、「自我」と(+いう一種)の身分として執着するところの一個

の名詞にしかすぎず、故に「自我」は決して、出世間の境地で認められるものではない。

ただ、それを取り除くべきだと論談する時、ということは、人が、それに対する誤解を

取り除くべき時にのみ、認められるものである。故に、それは、ただの幻想または幻相

の代名詞であり、人がそれに執着する時にのみ、それは存在する;

執着しない時、それは自然に消滅する。それはたとえば、人が夢を見るとき、夢の

中の映像は、夢の中にだけ存在するのに似て、人々が「自我」に執着するときにだけ、

それは存在する。

世俗的な名称、言語、表現方式及び定義は、無知と感覚に先導されて会話をする凡

夫が使う、四種類の語法であり、もし、我々が世俗的な言語でもって、涅槃を説明しよ

うとし、かつ涅槃を「自我」と認定したいのであれば、我々はそうしてもよいかも知れ

ないが、それは、子供を指導する時と、なおも「自我」を擁したいと欲する人に限るべ

きであるーーこれは一般的な世の人々の傾向であるから(+そうするのも、やむを得な

いかも知れない)。

しかしながら、一般的に言って、このようには、してはならない。

というのも、実際には、このようにすることは、決して益するところを齎さないか

らである。一人の人間が、心の中で「自我」に執着する時、または執着しそうなとき、

それがほんの少しであったとしても、彼には、涅槃を知る方法がなくなってしまう。と

いうのも、涅槃とは、ただただ「自我」への執着を完全に取り除いた時にのみ、証悟さ

れるからである。

故に、一人の子供、または一人の大人が、騙されて涅槃とは「自我」のことだと思

いなしたとして、かつまたそれでもなお、真正の涅槃を知り、かつ、それを「自我」だ

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と言って執着することについて、我々は決して信を置くことができないのである。もし、

彼らが、何ものかに執着すると言うならば、それは絶対に、無明の類の煩悩から生じて

おり、故に彼らは、それを捨て去ることによってしか、仏陀の言う涅槃に到達すること

はできない(というべきある)。(+仏陀の提唱する)この種の涅槃は、その他の宗派

の涅槃とは異なっている。というのも、その他の宗派の涅槃は、心の中に些かの「自我」

が残ることを、許しているからである。

「自我」とはただ人々の無明の妄執にすぎない

ここで再度の総括をしておく:仏陀が常々言及する所の「自我」は、ただ無知なる

人々が、自然(=知らず知らずのうちに)に、「自我」として執着しているだけのモノ

である。前述したとおり、正確な言語で説明するならば、それは、人々が常々執着する、

三種類の形式で出現する。「自我」または「自我」とみなされるモノは、世の中の人々

が、その無明によって執着しているモノであり、それが、比較的高度なレベルにおいて

出現しようとも、または比較的低級なレベルにおいて出現しようとも、すべて無明であ

ることには、変わりがない。こうしたことから、「自我」の特徴を確定するのは難しい。

というのも、それは、どのような人間が、どのようなモノを「自我」とみなすかによる

からである。ただし、それへの呼び方が(+それぞれに)異なるとしても、一つの共通

の特性があるーー無明が執着を造る基礎である、ということである。

この意味は、「自我」と称されるモノは通常、執着する者の知識水準によって変化

するため、一人一人異なり、時間ごとに、異なるということである。これはまさに、牛

乳の派生物または牝牛の作り出す栄養豊かな美味なる食品に似て、ある時には牛乳と呼

び、別のある時には凝乳、バター、乳酥または凍乳と言い、結局の所、牛乳の派生物の

意味・内実は、因と縁の条件に基づいているだけであって、それは自然的に形成され、

かつ持続的に変化する、種々の元素でしかないのである。化学は、それらが何の元素で

できているか、及び、どのような変化を引き起こすのかを解釈するのが、非常に得意で

あるが、しかしながら、我々は、それらを牛乳の派生物またはある種の特殊な奇妙なモ

ノだと見做さない方がよい。

以上、仏陀が述べた「自我」に関する特徴を十分に説明したので、我々は、仏陀が

この名詞を使うとき(たとえば、仏陀は:

「『自我』は『自我』の拠り所である」と言ったりする)、実際には、人々との交

流のために、世俗の言語を借用しているのであり、(+彼は)この名詞を使う人はどん

な人間であるのかに、執着することはない。

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このことから、我々は、世の人々が執着する所の「自我」とはどういう意味である

か、を理解することができた。しかし、もう一つ別のレベルの「自我」がある。ある種

の人々は、超凡なる「自我」が存在すると執着しているわけだが、これは一種の清浄で、

かつ究極的な智慧で、それは前述した三種類の形式の「自我」をすべて取り除いた時に

発生するか、または、禅の修習において、この三種類の「自我」が徐々に消滅した時の

境地の中に、発生する。

外道修法最高者の「自我」 微細に残存する「自我」

読者の方々は覚えているだろうか?前述したパーリ経典《布咤婆楼経》の中で、仏

陀がポッタパーダに言った言葉:

ポッタパーダ!私は人々に、三種類の「自我」を取り除くよう指導する。すべての、

この方法で修習する人は、皆、煩悩が減り、かつ絶対的に「清浄なる境地」を成長させ

る(+ことができる)。あなたは、完全なる智慧を証悟することができるし、同時に己

自身の智慧を通して(心霊のレベルが上昇することによる良き)境地を円満成就するこ

とができる。・・・それは幸福、喜と楽、安寧、正念、正知と安楽が充満している。(《長

部・戒蘊品》前に述べる「清浄なる境地」は、外道の修法における最高レベル成就者の

執着するところとなった。

彼らは三種類のレベルの「自我」を否定すると同時に、翻ってまた「自我」に執着

する。彼らは、清浄なる境地を獲得すると、それを涅槃または「自我」であると(+定

義)し、かつ、人々に対して、ソレに依拠せよと教え導いた。彼らは更に一歩進んで、

仏陀が述べた「『自我』は『自我』の拠り所である」の最初の「自我」は、実際は「清

浄なる自我」の事で、苦を受ける「個体(=個人)の自我」ではない」という。これは、

一般的に言われている所の「清浄なる自我」はソレ自身を支え助ければならないという

意味である。

混乱を避けるため、また、討論に便利なように、筆者は、ここでは、この種の自我

観に、一つの特定の名前を付けたいと思うーー「外道の修法における最高者の自我」ま

たは簡潔に言って「究極的な自我」。

ソレをこのように呼ぶのは、ソレと、外道の修法における最高者と、関係があるか

らである。これらの修法者は、「自我」に執着しており、それはまるで、アヘンを吸引

する中毒者が、アヘンに執着するのと、似ている。もう一つ、我々が注意しなければな

らないのは、この種の「究極的な自我」は、仏陀以前の宗教に、すでに教えられ受け入

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れられて久しい学説であり、それは仏陀の観点と非常に似ていて、かつ近いものだと、

いうことである。

彼らの説明の仕方は、我々と同じで、人が、世間に対してか、または住異滅を生起

させる物への執着を取り除いたとき、「真正なる自我(サンスクリットでは『ātman』」

が出現する。この種の境地における「自我」は恒常で、恒楽で、非常に清浄で、それは

一人一人に属すが、また同時に宇宙の大我の一部分でもある(+という)。それは、あ

る種の仏教徒が誤った指導を受けたために執着するようになったモノで、これらの仏教

徒は、これこそが仏陀の教えた義と理であると言う。

そうであるから、他の人々にも、このように実践するよう指導する。こういう状況

が存在するが故に、私はソレを「外道の修法における最高者の自我」と呼ぶ。この呼称

を使うのは、ソレは、非常に小さな一糸ほどに残された「自我」であり、ソレはまるで

口から吐き出した煙草の煙の、ささやかに残る痕跡のようなものである。これら外道の、

修法における最高者は、過去においては、「自我」への執着をきつく握りしめて手放さ

ない(+という現象がある)が、しかし、修行した後において、修行の極限まで到達し

た時、もしこの種の「自我」に執着しないならば、または一歩進んで、この種の「自我」

を取り除いたならば、「自我」の束縛から(+完全に)解脱することができる。

修行の最終段階に来ると、微細な無明だけが残る。(+この段階で)「究極の自我」

に執着すると言っても、もし頑迷にソレに固執するのでなければ、間違った観点である、

ともいえない。というのも、ソレは多少偏って射てしまった智慧の矢のようであり、ま

たは糸のような煙の痕跡のような無明であるからである。前述した順序で、粗い肉体、

霊体及び意識の三種類の「自我」を取り除く外に、この種の無明は、必ずもう一度、と

いうことは最後の一回になる訳だが、取り除かれなければならない。実際は、どのよう

な人も皆、この種の「自我」の観念を持つとは限らず、ただあまりにも「自我」に執着

する人、または真正なる「自我」とは何であるかを探求する宗派(特にインド哲学)に

おいて、この種の「自我」(+の問題が)が存在する。

しかし、「何が苦痛を止息した境地」であるのかを探求する人にとっては、この種

の残存的な「自我」は、存在しない。そうであるが故に、修行者にも、改めてソレを捨

て去るべき、という必要性も、生じない。たとえば、仏陀に付き従った五比丘は、五蘊

の中に「自我」の存在を見破り、かつ解脱を「真正なる自我」とみなすこともなかった

ので、即刻、阿羅漢果を証悟することができた。この種の状況について、仏陀は:「あ

なたが古い重荷を降ろした後、二度と再び、別の何物かに執着して、それを新しい重荷

にしてはならない」と言っている。

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仏法には残存する「自我」はない

あなたは、仏教の文献の中に「外道修法最高者の自我」を見つけることはできない

だろう。というのも、仏陀は、それについて語ったことがないから。しかし、ある時期

に、ある種の愚かな人々が、それを仏陀の教法だと誤解してしまい、かつ、この種の学

説を「自我」を偏愛する人に伝授してしまった。これらの人々は、簡単にこの種の観点

を受け入れた。というのも、一般の人々は、非常に容易に自然に、「自我」があるとい

う観点を認める傾向があるからであるが故に。このような傷害・損ないは、しかるべき

して発生する。というのも、それらの人々は適切な修学をしていないし、宗教的な学術

的訓練も受けていないからである。

彼らは、己の説は、己自ら体験した智慧であり、経典学者が記憶している知識では

ないと宣揚し、また、これらの学者が内観法門(vipassanā)を修習したことがあった

としても、彼らは学生に、学者を信用してはならないと教える。簡潔に言えば、この種

の「自我観」は、仏教圏内においても発生するもので、これはある種の人士に十分な知

識を欠いていて、仏法に対して理解が徹底しておらず、また、(+己の自我観を宣揚す

るのは)仏教のレベルを引き下げて、自己の方便とするか、または自己の欲望に合わせ

るかするためであり、自己の強烈な「自我」の傾向に基づき、憶測で説法をするのであ

る。

彼らがこのような行動に出る原因は、これらの説法によって、本能的に「自我」を

充満させている俗世の衆生に迎合するためであって、これらの教師と信徒は、とどまる

ことを知らぬげに、盲目的に、仏法を、彼らの「自我」のレベルに引きずり落としてい

る訳であって、彼らは全員、厳重な「仏法に対する非明確者」だと言える。以上は、仏

教圏内においても、異なる観点の成員がいる、という説明である。非仏教徒の中、《奥

義書》を学ぶ教派の中では、彼らには彼ら自身の哲学があり、かつ、早く仏陀の前から

すでにこの種の「究極的な自我」の観点を持っていたことは確実である。

「究極的な自我」は彼らの教法の内の最も重要な一部分であって、彼らの修学の方

式は「何が『真正なる自我』か」を、問うことである。これは、仏教徒が「何が苦痛を

取り除けることができるか」を探求するのとは、同じではない。仏陀の後、関連するイ

ンド哲学は、さらなる発展と変革を遂げた。たとえば、ヴェーダンタ哲学は、シャンカ

ーラチャーリヤ(=シャンカラ)の時代にすでに改善され、新しい観点を獲得した。が

しかし、「自我」をその目標としていることには、以前と変わりがない。これは、彼ら

の哲学の根本がこのようなものであるからであり、彼らの探求精神もこのようなもので

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あり、故にこのようなレベルで満足しているのであり、既有のレベルを乗り越えること

ができないでいる。このことから、世界には多くの異なる哲学が生じることとなった。

仏教

私はここで、上述の事柄を論談・研究する目的は、決して、仏教哲学とその他の哲

学の内、どちらがより良いか、どちらがより深いかを比較したいが為ではない、という

ことを、明言しておく。というのも、それぞれの哲学には、それが持つ特殊な面があり、

かつ、それぞれが、自己の哲学に満足しているのであるから。私が、色々と引用する目

的は、混乱を避けるために、また、他人の教義を自分の教義とするような間違いを起こ

さないよう、(+仏教哲学と)それらとの違いに、線引きをする為である。

明確に言えば、私が前に述べたとおりに、仏教の観点はインド教(=ヒンズー教、

以下同様)とは同じでない。ゆえに、我々仏教徒は、インド教の観念を仏教の教義と間

違ってはならない。というのも、そういうことをすれば、双方に傷害・損ないを齎すか

らである。もっとはっきりと言えば、私は仏教の観点を堅持するが、その観点は、決し

てある種の人々が言うような、インド教または婆羅門教の観点と同じ、ということはな

いのである。

ある種の人々は、(+仏教において)この種の間違った学説は、もともと出現して

はいけないものであること、長い時間存在してはいけないものである事を知っているが、

実際は、存在しているし、場合によっては、これらの学説を信じる事さえある。もし、

各種の小さな学派も(+身内として)数えてみたならば、それらは、正確な学説より、

更に多い。こういうことから、ある一つの教派の哲学が、我々のとは違っていても、決

して不思議などとということはない。というのも、それは彼らの学説であるから。しか

し、仏教はある種の、いくつかの学説を超越するために打ち立てられたものであり、か

つ、これらの学説を一つ一つ否定したものである(+ことを忘れてはならない)。

たとえば、それは、六師外道、アーラーラ・カーラーマとシャーンカラの学説、当

時非常に仏教と酷似していたウッダカ・ラーマプッタの学説を否定している。こういう

ことから、仏教哲学について検討し、かつ、明確に理解したいのであれば、我々は、こ

れらの学説に言及して、仏教と比較し、お互いの異なる部分を確認しなければならない

のである。我々にとって、特に、仏法が、いかに強烈にこれらの観点を否定し、または

反対するか、仏教がそれらのイチイチを超越しているかを見通す事、人々が、非常に明

確に、仏教だけが、真正なる究極であり、(+仏教だけが)苦痛から解脱すること(+

を教える事)ができる宗教なのだ、ということを見通すことが必要である。

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仏教読者の方々には必ず、以下の事を知っておいて頂きたい。仏陀は、いまだ仏に

成る前、菩薩であった時、すでにアーラーラ・カーラーマの観点を否定していたことを。

ただし、彼は、この観点について、それが間違っている、とは言わなかった。ただ、彼

は、それは苦痛を滅し、取り除く境地に到達することができない、と考えた。というの

も、苦痛を滅し、取り除く境地は、それよりさらに、多少高度でなくてはならないから

であって、ということは、更に一歩進んで、知覚者または「自我」を取り除いた時のみ、

(+その境地に)到達することができる(+と仏陀は考えた)からである。

もし、「自我」を苦痛の止息する場所だと考えるのならば、それはそれでも構わな

いが、もしそうであるならば、アーラーラ・カーラーマが形容していたモノは、「自我」

とは言えなくなる。というのも、「自我」に執着すると、依然として、ある種の苦痛は

あるという訳であるから。実際、アーラーラ・カーラーマと彼の弟子たちは、この種の

境地に満足していて、そのため、彼らは、この境地にとどまっていた。その理由は、彼

の学説が、この所における執着を、超越していなかったためである。しかし、もう一つ

別の角度から見ると、ある法師の弟子が、もう一人の法師の観点をもって、これは自分

の先生の観点であるというならば、それは非常に奇怪なことになる;

もし彼が、他の法師の観点を、自分が悟ったものだと宣揚し、かつ、この観点は、

仏陀の教え導いたものと同じであると考え、または、仏陀の観念に合致すると言うなら

ば、それもまた、奇怪な事なのである。

前に述べた「究極の自我」への執着が、仏陀の観点(仏陀は、心霊(ママ、以下同

様)が真正に、確実に浄化される前、更に一歩進んで「自我」を放棄しなければならな

い、と主張する)に合致しないことを理解するために、我々は必ず、仏陀以前にすでに

存在していた観点に触れなければならず、かつ、それと仏陀の観点とを比較し、両者の

内容・内実はどうなっているのかを、見極めなければならない。この目的のために、こ

の章において、かくの如くに「残存する自我」または「外道修法最高者の自我」につい

て、長々と、かつ、大いに論じている、という訳である。

以前にも述べたように、仏教の中で言う所の「残存する自我」または「外道修法最

高者の自我」は、インド哲学における、ある種の宗派の「自我」と」同じ(+もの)で

ある。それらは、どのように同じであるのか?

それらの哲学的観点を考えてみれば、その問題への回答はすぐに得られる。もし、

あなたが仏陀の観点とインド教(=ヒンズー教、以下同様)とは異なると考えるならば、

私はあなたに、インド教・婆羅門教と仏教は、二つの異なる宗教であるということを、

子細に調べていただきたいと思うが、その主要な理由は、「自我」に対する見方が異な

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っている、ということである。もしそうでないならば、(+両者はお互い)異なる宗教

として成立する必要性がなくなるのである。

《バガヴァット・ギーター》の中の「自我」

インド哲学の中の、この種の「究極的な自我」の観念は、《バガヴァット・ギータ

ー》という経典の中に、容易に見つけ出すことができるし、また、最も人々に知れらて

もいる。《バガヴァット・ギーター》の中の「自我」は、最高の境地を主張しない宗派

以外、それはほぼ、完全にインド哲学の重要な宗派(+のもの)と同じである(注意し

て頂きたいのは、ある種のインド教(=ヒンズー教、以下同様)の宗派は、「究極的な

自我」を主張しない。ややこしいのは、我々は、これらの異なる宗派も、「インド教」

と呼びならわしていることである)。ここで言う所の「自我」は、不生不滅、永恒不変

なもので、また誰かが創造したものでもない。

彼らは、人々に肉体、心霊及びすべての俗世的な事物を放棄した後、この境地を「自

我」として執取せよ、と教え導く。この観念は、人々を頗る鼓舞し、または人々を激励

することができる。というのも、彼らが執取する所の新しい「自我」は、古い「自我」

よりさらに価値があり、真実味があり、また(人から聞いた所では、ヒトラーの)兵士

たちにも有効であった。

本書は、非常にはっきりと、「自我」または「真正なる自我」とは何かを解説して

おり、私は、我々の言語で解説するよりは、(+その内実を)更に明確化できると思い、

その中のいくつかの章を採録して、検討したいと思う。

ただし、もし採録するには文章が長すぎる時、そして、注釈が必要な時、私は注釈

を加えたいと思う;特に重要だと思える教理については、興味のある読者の方々に、更

に深く検討していただけるよう、私は元々のサンスクリットも紹介したいと考える。

以下は、《バガヴァット・ギーター》の中で、「自我」の特徴を説明する、いくつ

かの詩文である。

(一)ソレ(「自我」を指す)は無生で、無滅、また不存在であり、不出生である;

ソレは、無生で、恒常で、永存しており、己自らで具足しており、肉体が切り刻まれて

も、ソレは害を受けない。(第二章、第 20 詩節)。

(二)武器をもってしても、ソレを切り刻むことはできず、火もソレを焼くことは

できない;水はソレを濡らすことはできず、風もまたソレを吹き乾かすことはできない。

(第二章、第 23 詩節)

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(三)ソレは、切り刻むことはできず、ソレは火を恐れず、水を通さず、風で乾か

すこともできない;ソレは永恒で、全能で、移動しないもので(原文=不可移動)(訳

者注)、恒常不変で、かつ、永久に存在するものである。(第二章、第 24 詩節)

(四)ソレは、形象がなく、想像することができないし、改変することもできない。

ゆえに、ソレを認識したならば、あなたは永遠に遺憾(=残念に思う事)がない。

(五)ソレはすべての事物の中に存在し、かつ破壊することができない、誰も、こ

の永久に隕滅(=墜落して滅する事)することのない物質を破壊することはできない。

(第二章、第 17 詩節)

(六)我々の霊魂(ママ、以下同様)が肉体の中に存在して、子供から青年になり、

青年から老人になるように、「自我」はこの身体から別の身体へと、身体を交換する。

(第二章、第 13 詩節)

(七)一人の人が、敗れた服を脱ぎ棄てて、別の新しい服を手に取るように、この

「化身(ママ、以下同様)」は同じく、損壊した躯体を捨て去り、新しい躯体に入る。

(第二章、第 22 詩節)。

(八)この個体が、殺人を犯せるとか、または殺されるとかと思う、二種類の人間

は、皆、無知なのである。事実は、ソレは殺人もできないし、殺されることもない。(第

二章、第 19 詩節)

(九)ソレは、すべての生物を創造し、かつあらゆる生命の中に存在するが故に、

己の任務を完成させる、という行為を通して、ソレを崇拝する人々は、完全なる美を獲

得することができる。(第十八章、第 46 詩節)

(十)すでに「自我」を(低レベルか、または俗世に)降服させた人は、寒さ、暑

さ、悲しみ、嬉しさ、栄誉または屈辱の中において、彼の「自我」は(+いつでも)同

質である。(第六章、第7詩節)

(十一)世俗の目から見て、もし、あなたが、ソレが継続しながら不断に生滅して

いると思えたとしても、ソレのために悲しんではならない。

(第二章、第 26 詩節)

ここで、私は以下の説明を加えたいと思う。上記の詩文の中の「ソレ」「化身(マ

マ、以下同様)」はすべて、「自我(ママ、以下同様)」を表している。この「自我」

は、不生、不滅、不変なる「自我」で、仏教徒なら皆、これらは「無為法」または、涅

槃であることを知っている。彼らが言う所の「『自我』は万事万物に遍在している」は、

我々が受け入れている所の「涅槃の本質は、いたるところ遍在する、不在はない」また

は「無為法は一切の事物に遍在する」という言い方とは、非常に酷似しているのである。

彼らが言うような、「自我」から変成した所の「化身」とは、ソレが、心身の壊滅に従

って消失したりすることはない、ということを意味している。というのも、ソレは、か

つて生起したこともないし、(+それが故に)消滅することもないからである。

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すべての生命の期間の中で、(+ソレは)永遠に同じ(+本質をもつもの)であり

つづけるが、ソレが、肉体またはその他の世俗の事物から超越し、抜け出した時、この

境地を「解脱」と呼ぶ。この境地に到達した時、「自我」は「真正なる自我」(訳者注)

に変成する。解脱を獲得した後、ソレは「真正の自我」または「最高の自我」と見做さ

れ、ソレは一般の「自我」とは異なる(+ものとなる)。一般の「自我」は、人間の本

性が執着する所の「自我」であり、言い換えれば、(+人々が)心身に執着して、心身

を「自我」となす所の、そういうものである。

涅槃は「法」であって、「自我」ではない

読者の方々は、以下の事をしっかりと理解して頂きたい。ここで言う所の「真正な

る自我」は、決して心霊(ママ、以下同様)等ではない。というのも、心霊には、依然

として生と滅があるのであるが故に。適切な名詞がないために、私は仕方なく、元の経

典と同じく、ソレを「自我」と呼ぶ。ある種の法師は、無為法の境地・境界(または元

素)は、有為法の境地・境界(または元素)の核心である、と言う。言い換えれば、有

為法の生・住・異・滅は、無為法の核心的要素に依っているのであり、彼らは、この無

為法を「真正なる自我」または「涅槃」と称しており、かつ、我々に、この種の「自我」

を追求するように教え、導くのである。

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そして、この種の「自我」は、すべての煩悩を取り除いたか、または世俗の事物を

放棄した後に出現するもので、彼らはこれを確固として、仏法である、と言っている。

この種の言い方が、もし、擬人化したもの、または通俗的な言語で表現したものでない

ならば、仏陀の法語に対して、重大な誤解が含まれているものである。

仏陀の教義は、インド教(=ヒンズー教)の観点とは違って、人々に「自我」を追

及するよう導くことはないし、人に「自我」に執着するよう指導することもないし、「真

正なる自我」を拠り所にするよう、教えることもない。反対に、仏陀は人々に、心霊が

解脱して、どのような種類の「自我」にも執着しなくなるよう、各種の我執を完全に放

棄するよう教え、導いた。仏陀の言った「『自我』は『自我』の拠り所」という言葉は、

ある種の人々は、前の「自我」は、後ろの「自我」の拠り所で、ソレは「自我」または

涅槃であると理解し、かつ、後ろの「自我」は、一般の人々が執着するところの「自我」

なのであると、解説している;

この種の理解は、まさに仏陀の本意から遠く離れるものであって、(+この種の観

点は)その他の宗教によって、吸収されたのである。実際、「真正なる自我」または「涅

槃」を拠り所とする観念は、インド教と同じであり、この事は、以下の詩文の中から見

出すことができる。

(十二)一人の人間は、「大我」に依って「自我」を昇華させるが、「自我」を悲

しませてはならない。というのも、「大我」は(小我または一般の「自我」の)真正な

る友であるから。しかし、「大我」もまた敵になることもある。(第六章、第 5 詩節)

(十三)一人の人間が「大我」に従う時、「大我」は彼の友となる;しかし、人が

いまだ「大我」に征服されていない時、「大我」は彼の敵となる。(第六章、第 6 詩節)

この学派の観点をはっきりと理解するために、我々は、必ず以下の事に思いを馳せ

る必要がある。ここでいう所の「大我」は、「法」または「法の定律」で、かつ、涅槃

とは同じものであると考えられている。この「自我」または「法の自我」は、それを受

け入れる人に対しては友好的であり、または比喩を使って言うならば、「法我」は「法」

の力に服従する人には友好的であり、「法」を拒否・排斥する人に対しては、この「自

我」は、彼らの敵になる。故に、人々がこの「自我」を拠り所とする時、まずは、ソレ

に服従しなければならない。

この「自我」とは、「法」を指し、「法」または定律は、「大我」の中に含まれる。

言い換えれば、彼らにとって、同じものまたは同じものであるとみなされたものは、す

べて「大我」と呼ぶのである。仏教は、この種の「自我」または「法我」を自己の「自

我」とみなすことはしない。たとえそれが無為法であっても、それをただ「法」として、

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認めるだけである。仏陀が「『自我』は『自我』の拠り所」と言うとき、その中の二つ

の「自我」は、普通一般の「自我」を意味し、どちらの「自我」も苦を受けているため、

自分で自分を助けなければならないし、または、自己を自己の拠り所としなければなら

ないのである。しかし、一人の人間が、自分自身を助けるというのは、一体どのように

すればよいのであろうか?

人は、仏法を修すること、特に仏陀の金口によって述べられ、伝わった仏法、たと

えば、「自我」を取り除くために、または執着を取り除くために修習する「四念処」

(Satipaṭṭhāna)等(+の修習)を通して、自己を助けることができる。「自我」を取

り除いた後、人は、何等の拠り所も必要がなくなり、「法」だけが彼と共に存在する;

有為法は、これまで通りに変化しつづけているが、有為法はソレの始まりの時の一

如たる状況と変わらず、静けさを保持している。この種の境地においては、一人の人間

に「自我」はなくなり、その時、仏法を自分の財産にように見做して、仏法に執着する、

ということもないし;または、ソレを庇護所と見做して、仏法の支援を頼むということ

もないし;涅槃に執着しないが故に、ソレを拠り所にすることのできる「自我」だと見

做して、ソレへ助けを求めるということもしない・・・無明によって誤解する場合を除

いては。というのも、涅槃はただの「法」の一種にすぎないのであるから。

仏教と《バガヴァット・ギーター》の違い

次に、私は再び《バガヴァット・ギーター》の中から、いくつかの詩節を引用して、

それらが指し示す教法は、ほぼ区別ができない程、仏教と非常によく似ており、両者は

共に、相似ている本質を有している事、唯一の差異は、その中の一つには「自我」があ

り、もう一つの中には「自我」がないということ(+を説明したいと思う)。

(十四)虚偽なる者は、真実には存在しない

(訳者注)。真実なる者は、永遠に存在する。

両者における真理は、ただ、すべての事物を見通すことのできる真正なる「自我」

によってのみ、知られることができる。(第二章、第 16 詩節)

(十五)この粗い肉体の「自我」は、永遠に、行為の影響から離脱することができ

ない。すでに行為、行動の中から解脱したソレ(自我)は、正確・適切に「すでに真正

なる解脱をした人」と呼ばれるべきである。

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(十六)いまだ行為を手放していない人について言えば、善と悪、そして、善悪の

果報を兼ねて具備することは、彼らの行為の果報であるが、すでに解脱した人について

言えば、すなわち、後有を受けないのである。(第十八章、第 12 詩節)

(十七)すでに解脱した人は、清浄と智慧にあふれており、かつ、全く懐疑という

ものがない。「彼」は、端正なる行為に対して、怒るということはないが、端正でない

行為を行う事は、決してない。(第十八章、第 10 詩節)

(十八)(+その人の)心智はいかなる事物にも執着せず、自己を調伏する。その

上、完全に貪愛を取り除いた人は、執着を断っているが故に、すべての束縛から完全に

解脱している所の、最高の境地に到達している。(第十八章、第 49 詩節)

(十九)おお!あなた!昆帝(Kunti)家族の構成員、すでに、最高の境地に到達

した人が、如何にして永恒を持することができるのかということを、私の所から(+そ

の知識を)知り得るが、これこそが、最高レベルの知識なのである。(第十八章、第

50 詩節)

(二十)自己を浄化できる智慧を追い求め、不断に自己を正し戒め、音とその他の

器官の外塵を捨て去り、かつ、愛と恨を、滅し、除け。(第十八章、第 51 詩節)

(二一)寂静なる場所において、沈静を保持し、少欲知足であり、身・口・意を調

伏し、常に禅の修習をし、かつ、煩悩のない人を拠り所とせよ。(第十八章、第 52 詩

節)

訳者注:虚偽なる者は真実なる存在ではありえない、とも訳せる。

(二二)利己的(+な心)、自己中心的(+な心)、偽善、欲望、憤怒と貪婪を取

り除き、利己的でない、平和な人になる。この種の境地に到達した人は、永恒者になる

条件が整ったのだ、と言える。(第十八章、第 53 詩節)

(二三)永恒者になり、かつ「大我」の中において喜悦を感じる人は、永遠に愁い

がなく、二度と何かを追い求めるということもなく、彼は万物と一体化・合一する。そ

して、「自我」に誠心誠意忠実である人、と見做される。(第十八章、第 54 詩節)

(二四)一人の人間が、忠誠をもって尽せば、その結果「私とは誰か、私とは何か」

を正確に理解する(+ということが起こる)。

一人の人間が、そのように正確で誤りなく、本質に立った「自我」を認識したなら

ば、その時即刻、最高の境地に到達することができる。(第十八章、第 55 詩節)

これらの詩節から、我々は、それらが如何に仏教と酷似していて、かつ、同様の教

理で満たされていて、唯一異なるところは、それらには「自我」(または「真正なる自

我」とも言う)、すなわち永遠の後ろ盾があることだ、ということが見てとれる;

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しかしながら、仏教は「自我」を完全に取り除いて、ただ「法」ーーその上、この

変化する「法」は、自然に変化してしまうものでーーのみを残すべきであると考えてい

る。

上記の内容を検討する事は、主題と関係がないように見えるかもしれないが、しか

し、実際は、それは我々に、インド教(=ヒンズー教、以下同様)と仏教とが、どれほ

ど似通っているかを知らせてくれるが故に、(+これを比較検討することは)実は非常

に重要なことなのである。当然ながら、我々は、この相似ている二種類の観点の間にお

いて、異なるのは「自我」についてであり、インド教の目標は、「自我」の追及にあり、

彼らが「自我」を手に入れたとき、それが解脱であり、それを幸福であると見做し、智

慧または心霊が「自我」を証悟した時、それはすなわち、幸福なる境地なのである、と

彼らが言うのを、知っている必要がある。このことは、次に引用する最後の二首の詩節

の中に、はっきりと見て取ることができる。

(二五)一人の人間が、すでにすべての欲望を捨て去り、かつ「自我」の影響を受

けて満足する時、彼は、安定した心を擁するのだ、と言える。(第二章、第 55 詩節)

(二六)風に吹かれないような場所に置かれた蝋燭の光が、揺れ動かないように、

一人の、すでに心性を調伏した行者は、その訓練された心霊によって静かに座り、「自

我」を目標にした瑜珈(=ヨーガ、ヨガ)を楽しく修練する時もまた、動揺することが

ない。(第六章、第 19 詩節)

我々は、最後の一首の詩節から、彼らの瑜珈または禅の修習の目的は、「自我」を

証悟すること、また成功裏に「自我」を見つけることを終点としていることが分かる。

そして、その後には、彼らは楽しげに、涅槃とは「自我」のことであると認め、ソレが

すなわち、「真正の自我」であることを発見すること、または「真正の自我」を探し求

めることに満足し、それをもって、彼らが以前、間違って導かれ、執着していた所の虚

偽の「自我」と取り換える、という訳である。ある種の仏教徒は、涅槃は「真正の自我」

であると執着するが、これはインド教と同じで、彼らは、何かのモノを涅槃と見做した

いと執着するのである;

実際は、「自我」の思いが(+少しでも)存在すれば、真正なる涅槃は出現するこ

とはなく、涅槃が本当に顕現した時、「自我」の感覚は、その時即刻、消失するのであ

る。

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ジャイナ教(=ジナ教)の「自我」: ジャイナ教は「自我」即ち涅槃であると

主張する

次に我々は、ジャイナ教(また「尼乾子の教義」とも言う)の教理を研究して、そ

れと仏教の教義がどれほど似ているかを見てみたいと思う。

仏陀の時代の始めから、この教派は、仏教と並立し、大雄(mahāvīra)(また「尼

乾陀子若提子」Nigaṇthanāṭaputta ニガンタ・ナータプッタとも言う)が、彼らの教主

である。彼が説法した時間は長くはないが、しかし、彼の教法は、後になって、大量に

演繹されて、それは、浅くて明確で分かり易い教義になった。しかし、その本旨は、依

然として変わることがない。

簡単に言えば、「自我」を目標にして探し求めるもので、その例えとして、彼の、

以下のような詩がある:

すべての内観を修習する人は、その中に「自我」を発見する;

そして、有漏が完全に消失した後、「自我」の目標に到達することができる。(第

218 章、《真実集》Sārasamuccaya より採録)

ジャイナ教でも、涅槃という言葉を使うけれども、彼らはサンスクリットの涅槃

(nirvāṇa)を用いている。関連する資料を見ると、彼らは涅槃と「自我」は、完全に

同じものであると考えていることが、はっきりと見て取れる。それは、以下の詩文にも

表れている:

善逝者とは、すでに最高の涅槃に到達した人である、涅槃は、あらゆる邪悪な境地

を解脱したのであり、「自我」の自然な特性でもある。(Āpata Suvarūpa より採

録)

この詩文によって、我々は、彼らが涅槃を「自我」だと見做していて、また、涅槃

とは、苦痛と、すべての邪悪な事物から解脱した境地であると言い、また、ちょうど湿

り気が水の特性であるかのように、この「自我」は自然なる特性である、と言っている

ことが、分かる。簡単に言えば、彼らは、涅槃に到達することはすなわち、「自我」を

完成させることで、「自我」を完成させることはまた、涅槃を証悟することなのだ、そ

して、これこそが真正なる「自我」などだ、と言うのである。

我々は、更に以下の事を、発見することができる。彼らの「業」と涅槃の概念は、

仏教のそれと極めて酷似していることを。彼らの教義の中では、「自我」が出現した時、

業の影響力は消失する、という。これはちょうど、仏教で、一人の人が涅槃または最高

の境地に到達した時、古い業の影響力は消失し、二度と再び新しい業を造らない、と言

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っているのと同じである。ジャイナ教の経典の中一つに、庫那達庫那達阿闍梨

(kunadakunadā-cāriya)が作成した《真実集義》(Samayasāra)、第 198 詩節の中

に、こういうことが書かれている;

貪・瞋・痴、これらは皆、業を造る煩悩である、それらは、正見を持つ者の上には

発生しない;

故に、業力は、「自我」を証悟した人に、重大な苦痛を齎すことはない、というの

も、彼らにはすでに煩悩が取り払われているから。

また、現代のジャイナ教の大師布拉馬恰里・錫塔拉・普拉沙達(Brahmācarī Sītāla

Prāsada シーターラ・プラーサダ)は言う:ジャイナ教の言い方に基づくと、涅槃とは

「自我」が業力の影響から解脱したことであり、業を造るという知覚から解脱したとき

に、到達することのできる境地または特質である。この境地は、粗い身体であろうと、

微細な身体であろうと、各種の形体の中から抜け出しており、ソレはすべての世俗的な

苦痛の止息する場所であり、ソレは幸福、平和と光明にあふれ、永恒であり、二度と再

び破壊されることはない。

仏教は「自我」を取り除いてのみ涅槃を証悟できると言う

前述の文言から、ジャイナ教もまた、仏陀がパーリ経典《布咤婆楼経》において述

べたとおりの、無形の形体ーー意識ーーを否定しているのと同じく、粗い肉体と霊体を

否定していることが分かる・・・というのも、ソレが追及する所の目標は、業力から解

脱した境地なのであるから。故に、一人一人の学習者には、再度しっかりと覚えておい

て欲しい。この教派の観点と仏教の観点は、どれほど似ているだろうか、ということを。

もし、我々が心ここにあらずして、自分の考えで(+仏教の)教義を解説したならば、

我々は知らず知らずの内に、仏教の教理をその他の教派の教義と混同・曲解してしまう

ことが起こるだろう。ここで言う所の「どれほど似ていることか」とは、この二種類の

教理は、大部分の所では同じであり、部分的に差異があるだけで、特に違う所は、仏教

には「自我」の観念がない、という部分である。

仏教は、一人の人が、徹底的に自我感を排除したときにのみ、涅槃に到達する事が

できる、と言う。この種の観点は、その他の教義と比べて、ただ小さな一歩しか違わな

いけれども、しかし、我々が子細に注意を払わなければならないのは、我々の教義は、

この小さな一歩の故に、その他の教義と完全に異なるものとなった、ということである。

仏教は、智慧を証悟する時、完全に「自我」を取り除くが、その他の教義においては、

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依然として「自我」が存在する。我々は、依然として「自我」の存在する智慧が正見で

ある、という言い方を受け入れる事はできない。

このジャイナ教の大師は、続けて言う:清浄なる境地における「自我」と、以前、

塵俗の世界において汚染された、または隠されていた「自我」は、同じものであり、か

つ、その始めからずっと、我々の元々の「自我」であったものである、と。 しかし、

汚染された時、ソレは自己を見失う。というのも、塵俗の世界または煩悩がソレをコン

トロールし、それ(=コントロールされたもの)が「自我」となるからである。真正な

る「自我」は、本質的には、解脱を得るために奮闘努力するものであり、または、塵俗

の世界からの解脱を勝ち取るものであり、かつ、常に、これをもってソレの使命とする

ものである。

これこそが、《羅摩衍那》(Rāmāyaṇa ラーマーヤナ)の詩節の中に書かれている

ことである: 小鳥は生まれながらにして飛べる、河は、当然、(+下流へと)奔流す

る、「自我」の存在は、ソレの任務を完成する為である。

この理論は、明確に以下の事を主張する。人は、解脱しているかいないかにかかわ

らず、いつもずっと「自我」を擁している、と。この部分は、仏教の教理と大いに異な

る。振り返って、上帝(=神)を信じ奉ずるインド哲学について思いを馳せる時、我々

は、彼らの、この方面における卓越した創意を、もう一度確認することになる。彼らは、

上帝こそが「自我」であり、他のものではありえない、という。

「自我」は万事万物に遍在しており、存在しない所はなく、「自我」を上帝として

尊敬する人は、ソレを「梵」と呼ぶ。彼らは、「梵」を擬人化された上帝と見做すのは、

比較的低レベルの考えで、これらの人々が、更に智慧に富み、「梵」とは何か、「自我」

とは何かを理解できるようになる前、彼らに(+真理を)このような形で理解させるの

は、必要なことなのである、と言う。という事は、「梵」を擬人化された上帝と考える

のは、ちょうど家の周囲を取り囲んだ壁、または鎖のようなもので、主な用途は、彼ら

を束縛し、このことによって、彼らが比較的強固な堅信なる信仰を持つようにするもの

なのである。

この点を鑑みて、私は突然、我々自身の事に思いを馳せた。涅槃を真正なる「自我」

だと比定するのも同じことで、それはまるで家の周囲を取り囲んだ壁を造るようでもあ

り、または縄で囲うようでもある。その主要な目的は、彼らを真正なる教義の中に引き

入れることである。これは、彼らを孤独にして、拠り所にできるどのような「自我」も

ないという状況の下においておくよりは、まだましなのであって、後々になって、彼ら

は、己自ら、この種の最後の「自我」を捨て去ることができるかもしれないのである。

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西洋の学者の「自我観」 :「自我」は永遠不滅の霊魂

Baij Nath Khanna は彼の著作《バガヴァット・ギーターの光》の中で、以下

の観念がよく理解できるように、我々を導いてくれる。「自我」は業力の影響を受けず、

ソレは神の領域にあり、物質世界とソレは無関係で、「自我」は至高で無上なるもので

ある。上帝(=神)は、永恒であり、それは時空の制限を受けない;無生のものであり、

ゆえに、永遠に死ぬことはない。「自我」は全くもって、壊滅したり死亡したりするこ

とはなく、ソレには始まりもなく、故に終わりというものも、ない。これらの説明は、

当該の宗教の信徒にとっては、極めて心を奮い立たせるものである。というのも、これ

らの説明は、彼らをして、一人の人間の真正なる「自我」は「自我」であり、上帝もま

た「自我」であるならば、両者はおなじものとなるからである。

または、もっとはっきりと言ってしまえば、上帝は全体で、一人一人の個人は、そ

の部分であり、「自我」が時空の制限を受けないが故に、時間、長短、または如何なる

ものをもってしてもソレを量ることはできない。故に、小さい「自我」というものもな

く、大きい「自我」というものも、ない。事実上は、ソレは同じものである。一人の、

「自我」を知る人間は、上帝と合一して一体となる。上帝は「宇宙我」であり、世界の

全体に存在する人々は、また同じものである、と言うこともできる。

すべての生物もまたこのようで、そして、それは唯一の(+存在である)霊魂であ

り、言い換えれば、それは世界または人類の本質である。この道理が分かる人は、霊魂

と合一して、一体化することができる。これは、キリスト教で言う所の、人は上帝と一

体になる、と同じで、最後には永遠に一個の「自我」が残る。それがいわゆる、永恒な

る「自我」である。前に述べた言い方によれば、読者は、まずは甲乙の評定を試してみ

るべきだ。この種の「最高修法者の自我」の論点は、どれほど高くて深いもの(または

精妙で深いもの)であるか、また、読者は、更に一歩進んで、以下の事を予想すること

ができる。

もし、この種の主張を超越するような哲学があれば、それはなんと精妙で深いもの

であることか!

そして、特別に、この種の哲学は他でもなく、それは仏教哲学だった、という訳で

ある!

振り返って仏教哲学を評定する前に、我々は、西洋の哲学に越境して、その中に、

異なる「自我観」がないかどうか、彼らの言う「自我観」が、前に述べたものより、よ

り完璧であるかどうか、研究してみたいと思う。

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しかしながら、歴史的資料を見てみるに、「自我」の哲学が、仏陀の時代のインド

において、すでに澎湃として発展している時、ヨーロッパでは、いまだ「無為法」哲学

の陽光を浴びることはなかった(この種の哲学に関して、何一つ知らず、無知であった)。

仏滅の後、少し時代が下ったローマ時代、ヨーロッパはようやく、この種の学説に少し

ばかり触れることができるようになったが、その大部分は、社会学の方面の学説であっ

た。ヨーロッパにおける形而上学の発展と成就は、近代になってからの事である。いわ

ゆる形而上学とは、心霊と神秘的自然(+現象)の学説であり、そして、疑いもなく、

東方の哲学の観念は、すでに広範囲に西洋思想の基礎の中に、滲みわたっているのであ

る。というのも、フェニキア人とバビロン人は、遠く仏陀の時代より以前からインドと

接触しており、故に、西洋哲学が形成されるより以前の古代において、インドとパキス

タンをつなぐ陸路は出来上がっていたのであり、いくつか(+の道路)は遠くローマに

通じていたのである。

しかし、我々は、今は歴史を語らない。ただ、その始まりから現在に至るまで、西

洋の哲学が発展した基礎とは何かを問題にし、かつ、今現在手に入る資料の中から、彼

らの「自我観」を研究してみたいと思う。それぞれの時期における西洋の哲学者は、東

方の哲学者と同じく、大きく二種類に分けることができる。その一つの派は、「自我」

はあると言い、もう一つの派は、「自我」はないと言う。「自我」があると主張する学

派の哲学は、主に、道徳的な観点に立つ学説と、行為因果論と業力の宗教からきており、

故に、彼らは行為の執行者として、または行為の果報の受取人として、また、苦痛を恐

れた為に、「自我」を必要としたのである。

「無我」を主張する学派の哲学は、物質主義によって生じた、科学的な理念から来

ており、その後に、心理と精神のレベルへと発展したものである。この派の「無我観」

が過度に発展した時、虚無主義が生まれた。ただし、ここでは、我々はただ「自我」に

関する観点をのみ検討し、かつ彼らの発展のレベルを研究してみようと思う。

★以下は、ブッダダーサ尊者による、西洋の学者の自我観の紹介です。要点のみ概

略紹介いたします(訳者)。

(1)Ciceroーー「自我」は思考でき、行動でき、感覚し、また果報の受取人であ

る。

(2)Baileyーー「自我」とは上帝(=神)である。

(3)Epictetusーー「自我」とは霊魂である。

(4)Goetheーー「自我」は永遠に仕事をする(+者である)。

(5)Charles Wesleyーー「自我」は永遠に存在する。

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(6)Addisonーー「自我」は不朽で静かなる者である。

(7)Longfellowーー「自我」とは永遠に不変なる個体(=個人)である。

(8)Montgomeryーー「自我」は宇宙最高の霊魂である。

(9)Woedsworthーー「自我」の源は上帝(=神)である。

(10)W.C.Somervilieーー「自我」とは物質を信頼せず、単独に存在しているも

のである。

(11)Juvenalーー質、量が大いなるものが「自我」である。

(12)Jeremy Taylorーー霊魂は、すべての味(=感官と知識)を感知する。

(13)Lord Averburyーー「自我」とは不朽の本体である。

総論:仏法と各種の観点の比較 我執があるとき、重荷、苦痛がある

上帝(=神)に関する観点または教義を主張する(+人々の)その目的は、彼らの

信徒を屈服・仕えさせ、かつ、それに対して疑問を持たずに規則を守らせることにある。

ゆえに、これらの観点は威圧性のあるもので、独立的な考えと行為を許さない。一切の

事柄は、完全に上帝に依存する。

この種の観点は、低いレベルの「自我」の教義と見做され、大多数の、教育を受け

ていない野蛮人、または限定的に、子供向け、または幼稚な者に向けた教義である。人々

は成長した後、この種の束縛から抜け出して、自己の「自我」を主張し、己の力で事を

なし、自分のために事をなして、上帝のために何かをすることはなくなるし、子供のレ

ベルに合わせた上帝(+の観念)に依存するということもなくなる。

彼らは、業力または善悪の応報を信じ、彼ら自身が嫌でさえなければ、何回も輪廻

するかも知れない。彼らは、生命における制限を受けながら行う行為の後に(+因果の)

応報を受け取るが、上帝の専制ーー上帝が彼らの唯一の今生を賜与し、生きている間の

行為を記録して、後日の審判に備えるーーを受けることはない。この種の個人的「自我」

信仰を信じるのは、上帝を信じるよりはレベルが上であり、比較的独立性がある。この

種の信仰を持つ人は、次には、善業をなすか、または、己を極度に浄化することを通し

て、至高の安楽と、永久不変の「自我」を獲得することができる。我々は、東方の哲学

においても、西洋の哲学においても、この種の意義における「自我」は皆、同質である

ことが分かる。

しかし、第二レベルの「自我」ーー人は己自身で「自我」を持っており、それは上

帝に属する「自我」ではないーーという事ではあっても、それでもって、究極的な独立

を果たしたわけではない。というのも、人は依然として、「自我」に監禁されており、

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この牢獄は、自己中心的、自我の膨張、自己陶酔と自己憐憫に満ちていて、かつ、知ら

ず知らずの内にうぬぼれ・自己満足、自己愛(=ナルシシズム)と自己崇拝(=俺様意

識)の炎で己自身を焼き尽くしているのである。そうであるから、仏教の観点から言え

ば、この種のレベルの「自我」が、苦痛の終点である、とは認めない。

我々は、以下の比喩を見てみよう思う:ある人が森の中に入り、木の上に木の実が

成っているのを見つけた。彼はこの新鮮な、おいしそうな果物を見つけて大いに興奮し、

すぐにそれを摘み始め、彼のバッグに満杯になるまで詰めて、それを肩に担ぎ上げた。

最初、彼はとりたてて重いとは感じなかったが、一時間ほど歩いた後、彼はだんだん愉

快でなくなり、疲れてもきて、重さを感じるようになった。それで、彼は、比較的出来

のよくない果物を捨て去り、良い物だけを残し、最後には、最もよい果物だけを、取り

分けた。暫くして、彼は、たったこれだけの果物でもやはり重いと感じる様になり、彼

は一部分を食べてしまい、一部分を捨てて、手元に何も残らないようした。それでも疲

れを感じた彼は、気が重く疲れていたので、横になって休むことにした。

暫く経って、彼はある所に金塊の山がある事を発見し、その金塊を拾いに行った。

彼は金塊を肩に背負い、急いで家に帰ろうとした。

彼が背負った金塊の重さは、先ほどの果物よりさらに重かったものの、どこから彼

の気力が来るのかわからない(+が、彼は、それを担いで歩くことはできた)。しかし、

暫くして彼は、耐え難いほどの重い負担を感じて、いくつかの金塊を捨てるか、沿道に

隠すかして、最後には、ただただ疲れ果てた彼にでも、もてるだけの少しばかりの金塊

だけを残した。しかし、暫くすると、彼はまた、金塊よりも更に貴重な宝物を発見した

ので、彼はこの宝物を拾いあげたが、その重さは、先ほどの金塊よりもなお、重かった。

それを運ぶ彼の気力がどこから来るのか、我々は知らないけれども(+彼はまたそれを

運んだのだが)、結局、彼はその宝物の内のいくつかを捨てないわけにはいかなった。

というのも、彼は思いがけず宝物を手にしたために、興奮してあちらこちら走りま

わったので、ますます疲れてしまい、彼は結局、一つまた一つと、宝物を投げ捨て、全

部を投げ捨てたとき、彼は、二度と再び重荷を背負う事はないし、心臓も動悸が早く成

る事もないので、ようやく自分が愉快であることを感じた。最後のダイヤモンドを捨て

たとき、彼はリラックスして呼吸し、気持ちは爽やかになった。例え、このダイヤモン

ドが瑕疵のない、完璧なものであり、重量も軽く、持とうと思えば持てなくもないもの

であったとしても、彼は、最後には、それを捨てた。というのも、それは、身体的な負

担にはならないけれども、心霊を圧迫するから、である。

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実際は、一粒の完璧なダイヤモンドを携帯するか、保存しても、彼にとって、何等

の困難はないし、特に緊張する事はないし、このダイヤモンドを身に着けても、重量を

感じることもなかったけれども、彼が耐え難かったのは、それが彼の心を「圧迫」する

事であった。ゆえに、彼は最後の一粒のダイヤモンドさえも、捨ててしまったのである。

「自我」を手放せば、苦痛は止息する

この物語と、「自我」を持つということはよく似ていて、「自我」を利用して、自

分の好きな、どんなこともできる。時間の長短に関係なく、永遠にそうあり続けたけれ

ば、「自我」は、そうすることができる。しかし、彼は最後には発見する。「自我」の

持ち時間が長ければ長いほど、「自我」が彼に与える負担・重荷は益々長く、重くなる。

彼は、いっそうの事、「自我」などいらぬ、と言い、いかなる物であっても、彼はそれ

を担ぐのを止めた。これこそが、彼が受け入れるべきもので、「自我」の束縛に抗うこ

とを通して、人は、そのことによって、更に一歩進んで、「自我」の中から解脱するこ

とができる。

そしてそれより以後、二度と再び重荷を担ぐことのない幸福、安らぎと静けさを享

受することができるのである。しかし、もし、重荷を担うのが好きで、そのことを通し

て幸福になろうとする人がいたならば、その人はもはや二度と進歩することはなく、ま

た、進歩する事の優越を理解することもできないし、体験することもできない。彼はこ

の種の境地に粘着し、他人に向かって、これこそが、究極の幸福であると宣揚する。前

に言った通りに、総じて、「自我」を擁する境地は、ソレがいかに管理のしやすいもの

であっても、それどころか、意のままにすることができるとしても、しかしひとたび、

「自我」が(+その人の上に)ありさえすれば、「自我」による重荷ーーその人はその

人の「自我」に満足しているのではあるがーーがある、ということを示している。

個人の「自我」は、一種の実体と見做すことができ、一人の人間の心霊が、いまだ

この実体を超越していない時、執着しながら、または激しながらこの実体と共にいて、

彼がそのようにするのが非常に嬉しいのだとしても、そこには執着と重荷が、存在して

いる。しかし、もし、「自我」が何であるかを二度と感知することのない個体(=個人)

であれば、そこにのこされたものは、ただ純粋な「法」のみになる。これが「無我」で

あり、仏教で宣揚する所の「苦痛を滅却する最終的な目的」でもある。故に、「外道修

法最高者の自我」がいかに高尚であろとも、少しばかり残っている煙の跡のようで、ソ

レは、非常に繊細な実体に転化する。

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この種の負担・重荷は、《布咤婆楼経》の中で言われている三種類の「自我」(+

の負担・重荷)ほど明確ではないけれども、しかし、それは、誰かを騙して重荷を背負

わせるよりはまし、というほどには、よくもないのである。我々は完全に「自我」(ま

たは「自我」への認知)を手放し、ただ「法」だけを残さなければならない。

有為法の部分は、その特性に合わせて不断に運行しているが、無為法の部分は、そ

の特性によって、一切の事物と行為を超越している。これこそが、苦痛の止息または「無

我」である。どのようにして「無我」の境地に到達するのかという話は、これ以降に研

究・発表する。

(1939 年 タイ・チャイヤー県法施社図書館にて。ウェーサカ祭の日に)