ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学 url right - …...(71)...

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一橋論叢 第99巻 第1号 (ア0) バウアーの へーゲル左派に思想史上の独自の位置を与える あるとすれぱ、それは二つの否定、すなわち神の否定 哲学の否定とではないだろうか。へーゲル左派はへーゲ ルにおいて「完結」した哲学の一つの解体として、いま や宗教を批判し、哲学を世界のうちに実現し、かつ止揚 せんとする。人間はついに己れの普遍的にして自由なる 自己意識の真理に達したのだ、という確信。啓蒙主義の 系譜に連なるこの確信を「真理」にまで高めようとする へーゲル左派にとって、現在は世界史上の転回点であっ た。1だが、それにもかかわらず、へーゲル左派は現 実の実践的な成果を生むことなく、運動としては未展開 のままに終息を遂げてし支う。 へーゲル左派は、かかる非現実性のゆえに の理論と対比的にのみとらえられてきた。しかし クスが一時的にもせよへーゲル左派と問題を共有し、 かも、この問題圏からしか自己の理論を展開しえなかっ たことを考えれば、事はマルクス自身がいうほどにも切 れてはいないはずであろう。このことは、とくにブルー ノ・・バウアーの自己意識の哲学とマルクスの関係につい て妥当する。バウアーは『聖家族』その他の批判ゆえに つねにマルクスにとって否定的にしか現われていないよ うにみえるけれども、よく知られている.ことく、バウア ーは一八三九年-四二年にはマルクスの同行者以上の存 在であったし、一八四三年以降もマルクスの理論形成に η

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Page 1: ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学 URL Right - …...(71) プルーノ・バウアーの自己意識の哲学 重大な影を落としている。パウアーの自己意識の哲学は、

一橋論叢 第99巻 第1号 (ア0)

ノ .

バウアーの自己意識の哲学

   序

 へーゲル左派に思想史上の独自の位置を与えるものが

あるとすれぱ、それは二つの否定、すなわち神の否定と

哲学の否定とではないだろうか。へーゲル左派はへーゲ

ルにおいて「完結」した哲学の一つの解体として、いま

や宗教を批判し、哲学を世界のうちに実現し、かつ止揚

せんとする。人間はついに己れの普遍的にして自由なる

自己意識の真理に達したのだ、という確信。啓蒙主義の

系譜に連なるこの確信を「真理」にまで高めようとする

へーゲル左派にとって、現在は世界史上の転回点であっ

た。1だが、それにもかかわらず、へーゲル左派は現

実の実践的な成果を生むことなく、運動としては未展開

         渡  辺  憲  正

のままに終息を遂げてし支う。

 へーゲル左派は、かかる非現実性のゆえに、マルクス

の理論と対比的にのみとらえられてきた。しかし、マル

クスが一時的にもせよへーゲル左派と問題を共有し、し

かも、この問題圏からしか自己の理論を展開しえなかっ

たことを考えれば、事はマルクス自身がいうほどにも切

れてはいないはずであろう。このことは、とくにブルー

ノ・・バウアーの自己意識の哲学とマルクスの関係につい

て妥当する。バウアーは『聖家族』その他の批判ゆえに

つねにマルクスにとって否定的にしか現われていないよ

うにみえるけれども、よく知られている.ことく、バウア

ーは一八三九年-四二年にはマルクスの同行者以上の存

在であったし、一八四三年以降もマルクスの理論形成に

η

Page 2: ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学 URL Right - …...(71) プルーノ・バウアーの自己意識の哲学 重大な影を落としている。パウアーの自己意識の哲学は、

(71) プルーノ・バウアーの自己意識の哲学

重大な影を落としている。パウアーの自己意識の哲学は、

マルクスの理論と実践にとって否定的意味をもつにして

も、空無ではなかった。むしろ、それはマルクスの理論

を培養したのであって、それをただ非現実的だと決めつ

けたところで、マルクスを理解することにもならないで

あろう。

 さらにいえば、実はパウアーとマルクスの関係は、未

だに確定的とはなっていない。これにかんしては二つの

ことを指摘しなけれぱならない。1第一は、いわゆる

「ブルーノ.バウアー間題」である。現在のパウアー研

究によれぱ、バウアーは一八四四年の自己批判を経て、

自己意識の哲学をいわゆる「批判的批判」へと転ずるの

であり、マルクスが『聖家族』で批判したのは批判的批

判としてのバウアーであった、という了解が一般的であ

^1〕る

。しかし問題は、自己批判によってバウアーは原理を

転換したのかどうか、である。私見によれぱ、パウアー

はあくまでも自己意識の哲学を原理的に貫いており、そ

れゆえにこそ自己批判も可能であったように思われる。

ここにはバウアーの連続と非連続とがある。しかもマル

クスの批判もまた、たんに「批判的批判」に限定されて

はいない。研究は、こうした問題への内在をなお十分に

はなしえていない。

 第二は、バウアーを批判するマルクスとは、いかなる

 「マルクス」かという間題である。マルクスは、一八四

五年-四六年の『ドイツ・イデオロギー』において「以

前の哲学的意識の清算」をはかった、といわれる。この

哲挙的意識がとくにドイツのイデオロギー的意識をさす

として誤りでないなら、それは、フ才イエルバッハ哲学

と並んで、バウアーの自己意識の哲学もまたふくむもの

であったにちがいない。ここから、マルクスがバウアー

の自己意識の哲学を上揚していく過程は『聖家族』・『ド

イツ.イデオロギー』にはじまるかの通念も生まれてき

たように思う。しかし、顧みてみれぱ、すでにマルクス

は『経哲草稿』においてバウアーの批判的批判の批判に

及ぴ、さかのぽつては一八四三年の『ユダヤ人問題によ

せて』においてパウアー批判を開始していたのである。

あるいはバウアー批判そのものに『草稿』以前と『聖家

族』以後では断絶があるとする解釈もありえし犯が、し

かし、ここに批判の一貫性をみないわけにはいかないで

   o 〕                 〔3〕

あろう カくて『経哲草稿』のバウアー批判が本質的に

η

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橋論叢 第99巻 第1号 (72)

イデオロギー批判に達していたとするなら、ここから翻

って『草稿』の評価、また『草稿』と『ドイツ.イデオ

ロギー』との関係等が全般にわたって間題とされなくて

はならなくなる。何よりも問題なのは、マルクスが自己

意識の哲学を止揚する過程が内在的に明らかにされてい

ないということである。

 かくて、マルクスーバウアー関係には、なお解明され

るべき多くの問題がある。ーとはいえ、本稿で主要に

                      ^4)

問題とするのは、マルクスーパウアー関係ではない。以

上に述べたことからして、この関係を離れて問題を設定

できないことも明らかであるが、それにしても、まずは

ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学への内在を果たし

てみなくてはならないであろう。本稿は、自己意識の哲

挙の構造と、それが一八四四年に蒙る「転換」とを再構

成すること、ここに課題を眼定する。

(1) <oq一.声津鼻P、ミ婁喜ま雨害、H臭ω9幕oq彗け6a・

 ω.冨旧ー二〇-U.旨o■o昌串自一Hざくo§竈雲恕s昌婁富ミ~宍・

 ミミき■昌o昌竃α尻鶉ざo目蜆片艮o5s一〇・胃・〔邦訳『マ

 ルクス思想の形成』ミネルヴ7書房、七九頁〕

(2) たとえぱ、バウアーとマルクスを主魑的に論じた回1

 ぜンは、『草稿』までのマルクスの概念とパウアーのそれ

 との関連をつけようとするあまり、事実上マルクスのバウ

 ァー批判に一つの断層をみとめ、かつ『聖家族』の批判は

 もっぱらパウァーの側の急旋回と係らせて論じている。

 o-N.射畠昌一専§o饒§ミ§軋宍畠ミミ昌、きHポ雪品毒

 εミ一や§uI8N・

(3) 『草稿』のパウァー批判の性裕づけは、ほとんど論じ

 られていない。例外的に、村上俊介「ブルーノ.バウアー

 批判としての『経済挙・哲学草稿』」(『尊修経済学論築』

 第ニニ巻第一号、一九七八年八月、所収)がある。私の見

 解を詳論することは別稿に譲ることとしたい。

(4) マルクスーバウァー関係にかんしては、とくに、良知

 カ「マルクスと真正理論のテロリズムーブルーノ.パウ

 ァー論1」(『初期マルクス試論』未来社、所収)、参照。

1

 バウアーへの内在は、自已意識の哲挙という構成をと

って現われざるをえないバウアー自身の問題を共有する

こと、つまりは実体と自己意識の関係をバウアーがいか

に問題としたのかを把握すること、によってしかありえ

ない。

 実体と自己意識の関係如何。問題構成そのものがすで

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(73) ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学

にへーゲルの『現象学』の了解を前提しており、さしあ

たっては実体も自己意識も『現象学』の脈絡において了

解されている。問題は、へーゲルが一体性において把握

したとされる笑体と自己意識の関係は一つの矛盾だ、と

いうにある。矛盾は止揚され解体されなけれぱならない。

バウアーは実体を自己意識に還元することによって矛盾

を止揚し、自己意識の哲学を基礎づける。パウアー自身

は必ずしも系統的に論じていないこの過程を、まずは再

構成せねぱならない。

 周知のように、へーゲルは『現象学』において、真な

るものは実体としてではなく、主体としても把握されね

ぱならぬこと、あるいは実体は本質的に主体であること

を論じ、真なるもの、絶対者を直接的な実体、即自的な

普遍としてとらえるだけでなく、自己展開をとおして己

れを完成する全体として、すなわち自己を対自的に隈定

しつつ、かつ自己自身のうちに反省的に還帰する普遍的

               ↑)

実体として把握すべきことを高唱した。主体としての実

体とは精神のことであり、具体的に顕現したものとして

は共同体、人倫を意味する。へーゲルはかかる実体11精

神を以上のごとくに主体たらしめると同時に、この実体

を自己の本質・目的とする人間11自己意識をとおして実

体が具体的に精神として現われることを論じ、かくして

究極的には、普遍的実体と自己意識の和解として、絶対

精神・絶対知のエレメントを獲得せんとしたのである。

だが、バウアーは、絶対者が人間H自己意識にとっての

真理、人間の本質・実体をなし、自己意識をたんなる契

機とすることと、自己意識が実体をも創造する主体たる

            ^2〕

ことは、一つの矛盾だと考える。

 バウアーは『無神論者・反キリ.スト者へーゲルを裁く

最後の審判のラッパ』(一八四一年、以下『ラッパ』)に

おいて、みずからは敬慶主義者を装いながら、へーゲル

の秘教的な哲挙、すなわち自己意識の哲学を暴こうとす

る。『ラヅバ』によれぱこうである。-へーゲルの宗

教観の根底には実体性関係が存在する。宗教とは、真な

るものn普遍としての神という実体の存在を認め、自我

              ^3)

をこの実体と関係づける行為である。自我はこの普遍の

うちで自己を放棄し、普遍的実体の契機となる。普遍的

実体は総体性として、一切を、したがって自我をも己れ

に帰せしめ、かくて絶対精神として、有隈な精神n人閲

のうちにはじめて自己を開示し、自己の意識に達する。

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一橘論叢 第99巻 第1号 (74)

それゆえへーゲルによれぱ、宗教は絶対精神の自己意識

  ^4〕

である。ここでは、普遍が有隈な意識において自己を知

ることと、有隈な意識が普遍のうちで自己の本質を知る

ことは一つの同一の行為である。-だが、実はへーゲ

ルは以上の実体性関係をも止揚してしまう。実体の自己

意識が自我・人間精神の自己意識であるとすれぱ、この

自己意識の外に実体は存立しうるのか。いまや人間の自

己意識こそが一切となり、みかけ上実体に帰せられてい

                     ^5)

た普遍性は自己意識に帰することになるであろう。つま

り秘教的へーゲルにとっては、自己意識としての自我こ

         (6〕

そ真の実体なのである。したがって-バウアーによれ

ぱ-へーゲルがシュライエルマヅハの感情神挙に反対

したのは、この理論があらゆる真理を自我のうちに引き

いれたがためではない。反対に、それが神という実体か

らも自我の有限性からも解放されていないという不徹底

          ^7)

をとがめているのである。だからへーゲルが実体性関係

を認めたというのも、自我の有限性を否定する契機とし

てのみのことであって、かくして、この過程の最終の成

           、  、  、  、  、

果として「現笑に己れを無限なものとして措定し、実体

                     ^8)

の普遍性を己れの本質としてとりこんだ自己意識」が生

成してくるのである。

 同じことは、バウアーによれぱ、へ-ゲルの世界精神

についてもいえる。世界精神が人間H自己意識の歴史に

おいてはじめて現実性を得るというなら、自己意識こそ

           ^9)

「世界と歴史の唯一の威カ」であり、歴史は自己意識の

生成と展開以外の意味をもたないであろう。

 のちに論ずるように、実体なり歴史なりを自己意識に

還元するというのは単純な過程ではないけれども、とも

かく、アダム・スミスが労働を私的所有の本質と認める

ことによって人間にとって外在的な対象としての宮を止

揚したと-マルクスがいうのと-同じ意味で、パウ

アーもまた、自己意識を一切の実体の主体的本質ととら

え、これによって自己意識から超越した威カを止揚せん

としたのである。自己意識は人間に等しい。したがって

バウアーがさしあたり確認することは、人間u自己意識

の外に真なるもの、絶対者が超越的に存在するのではな

い、ということである。

 だが、実体の自己意識への還元は、すでにバウアーの

言からも知られるように、実体をトータルに拒否して、

たとえぱシュティルナーのいう、ことき「唯一者」たる自

μ

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(75) プルーノ・パウアーの自己意識の哲学

我を原理的に肯定することではありえなかった。バウア

                 、  、  、  、

-は実体を主体的本質たる自己意識に還元したのであっ

て、したがって自己意識が実体を自己のうちに引き受け

てこそ、実体は真に止揚される、とするのである。バウ

ァーの場合、この準位にあっては、実体は自己意識の本

      ^皿)

質H目的である。さきには実体を自己意識に還元するこ

とが問題であったとすれぱ、ここでは実体はあくまで自

己意識の実体たるべき本質として現われる。

 実体を自己意識の本質とする実体観は、啓蒙主義の宗

教批判、およぴへーゲル哲学の成果である。へーゲルは・

啓示宗教の三位一体としての神を、精神の概念の生成と

して解釈した。三位一体は、未だ区別の措定されていな

い抽象的普遍性としてある精神が、自己を展開し、特殊

性.区別を措定しつつ、かつこの区別において自己の許

にある、という構造を示している。つまり三位一体は、

精神n自己意識の本質ないし在り方が、宗教的表象にお

いて措定されたものにほかならない。己れの他在におい

て自己の許にあることは「自由」といわれる。自己意識

の本質は自由にある。バウアーもまた、実体において発

見される自己意識の構造を、すなわち自由を、自己意識

         ^u〕

の本質とするのである。

 還元はなによりも実体の本質論的分析にもとづいてい

る。実体そのものが二重化され、自己意識の本質と既成

の超越的現存とに批判的に分析されることによってはじ

めて、遼元は可能となる。笑体-自己意識の関係は、こ

うしてまずは自己意識の内在的関係にまで遺元されるの

である。しかも、この還元そのものも二重の過程を辿る

のであって、これまで述ぺたように実体が解体されて自

己意識の本質に還元されるとすれぱ、他方では、自己意

識そのものが自己の普遍的本質を対象とし、それを我が

ものとすることによってのみ、還元は完成されることに

なろう。自己の普遍的本質”自由を対象とする自己意識

        ^ど

は「普遍的自己意識」と規定される。あるいは自己の本

質そのものを対象とするゆえに「無限な自己意識」とも

             ^13)

「自由な自己意識」ともいわれる。バウアーの「自己意

識」概念は、したがって基本的に二義あることになる。

一つは個別的な有限な人閥個人としての自己意識、いま

一つは普遍的自己意識、である。バウアー本来の「自己

意識」は後者である。そして実体と自已意識の関係は、

いまや普遍的自己意識と個別的自己意識の関係として、

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一橋諭叢 第99巻 第1号 (76)

自己意識に内在的に現われることになろう。バウアーが

多くのところで自己意識の高揚宰孟σ冒胴を語るのも、

まさしく、普遍的自己意識への高揚が、実体を自己意識

に還元することと一つであり、それが原理的に要請され

ているからにほかならない。

 近代の社会思想・哲学が、一般に、自然権と自然法、

感性と理性、傾向性と道徳性などの二元的関係のアンチ

ノミーのゆえに、両者の一体性をいわぱ「遣徳的に」要

請するほかなかったとすれぱ、この点にかんしてへーゲ

ルは一歩進んだ地点にまで達していたといいうるであろ

う。詳論するまでもなく、へーゲルは普遍的自己意識を

教養を経て獲得されるべきものとしてとらえ、アンチノ

ミーを「解決」した。バウアーにとってもこの意味での

教養⊥筒揚が成就されるべきものとしてあった。そして

バウアーは、自己意識そのものの高揚によって、実体を

、  、  、  、  、

現実的にも自己意識に還元しようとしたのである。

(1) く㎝-1崖晶具勺豪;昌彗o]晶庁ま叩O色ω冨眈・き驚-ミミぎ

 [ミミ]一一二〇霊邑畠一巨一鼻嘗ξ一望」一ω・畠-鼻

(2) 一八四五年に執筆された『フォイエルバツハの特性描

 写』の冒頭でも、同じ趣旨が繰り返される。<賦-・}彗o■

 ○宇目『印斥冨H尿F寿■目O妻耐勺里-o『げ陣o-♂}旨…ミ暗S冨乱、餉「膏ミミ.

 、畠ミ臼薯ミさ一一〇〇ま一巳Pω一ω・o0N・〔邦訳『へーゲル左派論

 叢』第一巻、一一八頁〕

(3)く。口一』彗膏一皇雨き竃§こ舳こ§蔓雨・9、一。ミ、き軸、

 ミ祭&軋§きざ受§§軋」ミミミ迂§一■o号、何畠含一ω・

 寓・〔邦訳『へーゲル左派論叢』第四巻、六六員〕

(4) <oq-。きミ一ω・S.〔邦訳、六七頁〕

(5) <o司F§}ω、a。〔邦訳、七二頁〕

(6) <o目-■き§一ω.a・〔邦訳、七四頁〕

(7) くo日一二S}ω。寒。〔邦訳、七三員〕バウァー解釈にか

 かわるので二旨しておけぱ、バウァ、はここで有隈な自己

 意識を原理とし。たのではなく、かえって、それとは対立す

                    、  、  、  、

 る実体的な自己意識を原理とする。パウァーは実体主義で

 はないが、実体的本質を否定するわけではない。

(8) き§一ω。a、〔邦訳、七三-七四頁〕

(9) §きω・き.〔邦訳、八二頁〕

(10) <県§}ω、S.〔邦訳、六八頁〕     .

(u) くo目rきミ一ω.ご9〔邦訳、一七九-一八O員〕

(12) きミ一ω.a、〔邦訳、七四頁〕

(13) 目昌貝寒味蚤卜§ミe§軋冊、昂ミ錆}§ミs、

 ■o号N掃一〇〇企“ω一Hαω・

n

床ミ§“

自己意識の哲学は、本質的に観想的な哲学ではない。

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(η) プルーノ・パウアーの自已意識の哲学

さしあたって原理を構成するさいには実体を酎諭帥い自

己意識に還元したとはいえ、これを以って完結してしま

うわけではない。自己意識の哲学は、自己意識の外に存

するような一切のものが真理性をもたぬことを、実践的

にも確証しなければならない。だが、それはいかにして

可能に、否、現実的になるのであろうか。

 パウアーは『ラヅバ』において、へーゲルに仮託しつ

つ、既存のあらゆる制度、国家、宗教を批判すべきこと

を語っている。i哲学はいまや「現に存在するものと

      ^1)

存在すべきもの」とを区別する。この当為こそ真なるも

のであり、現実的妥当性をかちとるべきものである。か

くして哲学は行為に、実践的対立にまで至り、己れの高

次の現実を産出しなければならないのである。

 この脈絡で論ずるべきは、バウアーが「当為」を語っ

ているということであろう。バウアーは「当為」を止揚

したとされるへーゲルのうちから当為を立てる。したが

                      ^2)

ってたしかにバウアーはフィヒテの原理に立ち返るとは

いえ、普遍的自己を確信するにすぎない精神に、すなわ

ち道徳性に後退するわけではない。すでにへーゲルは

『現象学』において道徳性の「際限のない当為」を論じ、

普遍的自己と個別的自己との一体性を自己意識の共同性

                   ^3〕

のエレメントのうちに実現すべきことを示唆しており、

また『法哲学』にいたっては「関係と当為」としての道

                     ^4〕

徳性を人倫において止揚する理論を構想していた。バウ

アーもまた人倫を普遍的自己意識のエレメントとしてと

らえ、この共同性において当為を語るのである。

 バウアーによれぱ、個人は類なしにはありえず、類は

         ^5)

個人なしにありえない。類とは人間の普遍的実体H本質

であるとともに、それが顕現した共同体、すなわち人倫

を意味してもいよう。そして、バウアーの自己意識の哲

                   ^6〕

学は「万人の公共事にして万人の普遍的行為」たるべき

共同体を固有のエレメントとして実現されるのである。

このことをバウアーはキリスト教と関連づけて、こう述

ぺている。-キリスト教徒は、己れの魂のために、類

を否定し、すべての現世的諸関係と人類の普遍的利害と

から身を退け、人聞をはじめて人間たらしめる、ことき諸

                     ^ア)

関係をも蔑視し放棄しなけれぱならないとされる。また・

キリスト教徒はあらゆる人間的目的を犠牲にし、自己愛

    ^8〕

を否定する。だが、もはや人間を宗教的彼岸につなぎと

めることなく、人間を人間そのものに至らしめ、人間を

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一橘諭鐙 第99巻 第1号 (78)

      ^9〕

人間と合一しよう、と。かくして人間の合一のなった共

       ^10)

同性が人倫であろう。普遍的自己意識はかかる人倫を己

れの現実として形成しなけれぱならないのである。

 パウアーの自己意識の哲挙は、したがって人倫の哲学

                      ^11)

である。バウアーによれば、真なるものは人倫であり、

そしてその最高形態が「国家」なのである。実体を否定

したバウアーが国家を自己意識の現実とするのは矛盾し

ているようにみえる。だが、そうではない。一八四一年

の論文『キリスト教国家と現代』においてバウアーは、

啓蒙主義が国家を「人倫的自己意識の包括的な顕現」と

          (”〕

なるように変革したことに論及し、国家が人倫の成果と

           、  、  、  、  、  、  、  、  、

して成就されるならば、実体性すら止揚され、自己意識

の内面性や創造的無隈性は最高度に認められることにな

        ^u)

るだろう、と述べた。すなわち、かかる国家においては

自己意識は己れの普遍性を突現する、というのである。

だから、すぐれた意味での国家は「普遍的自己意識の行

^u〕

為」なのであり、また「解放された自己意識の普遍性の

                  元)

客観的現存としてとらえられるときにのみ」国家は真に

概念的に把握されることになるのである。

 バウアーが人倫を普遍的自己意識の形成すべき現実性

としていた二とは明らかである。ここでバウアーは、 一

八世紀の啓蒙主義を超える。へーゲルの『現象学』が、

啓蒙主義は否定的普遍性のゆえにかえって「自己意識の

               (16)

否定」でもある、と指摘したように、バウアーもまたフ

ヲンス啓蒙主義の隈界が、人間を「人類学的にのみ、つ

まり特定の、自然によって規定された主体としてのみ」

とらえて、民族精神なる高次の規定を看過したところに

       ^η)

ある、とみている。バウアーはかかる啓蒙主義批判のゆ

えに『法哲学』にいう人倫の概念にしたがって、自己意

        ^18〕

識の哲学を構想したのである。

 このことと関連して、バウアーが国家を、つまり政治

を論ずるということ自体について;貢述べておく必要が

あろう。バウアーは周知のように一八四四年になると、

己れの理論の現実を自由な政治的制度のうちにみたこと

の「幻想的錯誤」を自己批判する。ここからバウアーが

自己意識の哲学をも原理的に否定したかにとらえる解釈

も生まれるのだが、バウアーには人倫と自由な政治的制

度の明確な区別があった。何故に人倫を自由な政治的制

度と一体的にとらえたのか、という問題そのものは、自

己意識の哲学の幻想性として論じられるべきであるが、

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(ア9) プノレーノ1パウアーの自己意識の哲学

それにしてもバウアーが政治をも超えた人倫のうちに普

遍的自己意識の現実をみていたことは、やはり確認して

おかねぱならないであろうと、私は考える。

 さて、普遍的自己意識の現実性が穣極的に規定された

となれぱ、ますます現存の国家・制度と自己意識の実践

的対立は顕わになってくるであろう。パウアーにとって

の「当為」とは、この対立において現われるものである。

ここではもはや、存在するところのものを概念において

把握し、これによって「現実との和解」をもたらそうと

するへーゲルも突きくずされる。バウアーは、理性的な

ものは現実的であるとする論理を共有しつつ、現実的な

ものとの和解をしりぞけるのである。バウアーはかかる

対立をいかにして止揚するのか。

 ;冒でいえぱ、この課題を遂行する実践こそ、バウア

    、   、

1特有の批判であったといいうるであろう。-へーゲ

ルは『法哲学』において自己意識の普遍性への高揚を、

したがって人倫性を、何によって基礎づけていたか。へ

ーゲル自身がはたして国家を真に人倫的な理念の現実性

として構成しえていたかどうかは疑問であり、また単純

に述べることもできないけれども、少なくとも理論上は、

           ■

人倫は市民社会における自己意識のつくる無隈の区別と

教養として形成される普遍性によって基礎づけられてい

      ^19)

たよヶに思われる。しかし、バウアーはーもとより私

見であるが-『法哲学』に市民社会と国家の或る断絶

をみてとったのではあるまいか。へーゲルはついに市民

社会がそれ自体として人倫性にまで高揚することを構成

しえていない。だからこそ人倫的普遍性は君主と官僚制

に収救してしまったのではないのか。バウアーの論理か

らすれぱ、このような体制を認めるわけにはいかないで

あろう。碧言すれぱ、バウアーは、自己意識の哲学を万

人の普遍的仕事として実現しようとするかぎり、人倫的

自己意識を真に普遍的に創出する課題を担わなくてはな

            、   、

らない。この課題の実践が批判だったのである。

 、 、                          ^20〕

 批判とは人間に「あらためて自己を認識させること」

と規定される。それは、現存するあらゆる諸関係、宗教、

キリスト教国家等に矛先を向けるのであるが、主要な目

的はそれによって万人のうちに普遍的自己意識の高揚を

生みだすこと、にある。ここに自己意識の哲学の現実性

          ^21)

がかかっているのである。

 、  、

 批判の非現実性を云々することはたやすい。あるいは、

η

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一橘論叢第99巻第1号(80)

バウアーは自己意識の普遍性をまともにとりすぎたとい

えないこともない。しかし、こうした評定はともかくと

して、いまは問題の一般性を確認しておきたい。すでに

普遍的自己意識への高揚について論じたところで指摘し

たように、近代が一つのアンチノミーをかかえている以

上、近代の哲学1-理論は、一般に、感性と理性の矛盾、

個と類の矛層をまぬがれることができず、結局、外在的

な抽象的法の普遍性のうちにかろうじて一体性を保持す

       ^警

るほかはなかった。けれどもへーゲル以後に生きるバウ

アーは、普遍的自由を、抽象的な法を超えて現実的に問

題としなけれぱならない。だからこそバウアーは『暴か

れたキリスト教』で、宗教にたいする人類の勝利ととも

                       ^23)

に来たるであろう「一切の生活諸関係の総体的な変革」

を語りもしたのである。これがバウアーのいう人間的解

放である。幻想であったにせよ、パウアーはかかる解放

 、   、

を批判によって闘いとろうとしたのである。

(1)

(2)

(3)

(4)

宙彗2,8§§一ω.oo~.〔邦訳、九八員〕

<寧&§一ω・ミ.〔邦訳、九01九一員〕

くσq-一=晶♀弔}脾目o昌艘δ-oo日庁.民ミ一田〇一μω一ミ〇一

く但一匡ooo色一〇昌目2{邑o自oo『、巨-畠oo巨o創鶉宛8冥m一

 串ミ一■pメωIN0α.

(5)く㈱一.}彗3b婁§§o申詩9§§ミき§ユ9巨邑

 奏一巨實艘冒旨お・ω・Nω・〔邦訳『へーゲル左派論叢』第四

 巻、三〇一頁〕

(6) きミ一ω。曽.〔邦訳、三一五頁〕

(7) く餉一、き§一ω.αo.Is。〔邦訳、二九三-二九七頁〕

(8) バウァーは、自己愛こそ「真の有為な人間の第一の、

 最も必要な特性」(§軋二㎝.ミーヨ.邦訳、三〇〇員)であ

 ることを認め、一八世紀のフランス人が自己愛の個値を認

 めるに至ったのは人類の巨大な進歩である、と考えている。

(9) <o目一.き這。oo,S。〔邦訳、二五六頁〕

(10) 人倫には二つの契機が存在する。一つは個人H自己意

 識という主観性の契機、もう一つは自己意識の実体をなす

 共同性という契機、である。人倫的自己意識は、莱同性を

 已れの自由の基礎H実体とみなし、それによって共同性と

 自己とを結合する。人倫的自己意識の現実としての共同体

 が人倫である。

(11) くE■ω彗鶉一、o薯ミミ一ω。-Nド〔邦訳、 一四四頁〕

1(u) く胴-.}芭■o“ 一〕0H 0チH尿叶-Oまo ω叶円凹け目■O 目自㎜^w『ONO岸-

 巨一き§塞ぎ㌧sミ§§“、さ、きミ竃ぎミ泳竃§§亀ミs軋

 宍§皐z『.ごメo.旨邑Ho。含一ω・塞9〔邦訳『資料ドイ

 ツ初期社会主義』二四一貢〕

(13) くo筥-.きミ一老『、ごo〇一-P-自己Hoo昔一ω.㎞お.〔邦訳、二

 四三員〕

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(81) プルーノ・バウアーの自己意識の哲学

(14) き§一≠『。H畠一“言邑Hoo阜ピω.aN■〔邦訳、二二八

 頁〕

(15) ξ舳き老『・ごo。し9■冒二〇。ξ一〇〇.9o.〔邦訳、二四四頁〕

(16) <oq-.}晶♀巾冨冨昌竃o-ooq{耐ーミミ一}o.少ω.む㌣

 {ωα-

(ーア) <o目-.田彗耐■b§§ミSミ軸Oミ“包§§ミω1巨㎞.〔邦訳、

 三五〇頁〕

(18) このことは、概念において同一であるということであ

 って、パウアーがへーゲル的な塔主制論をいだいていたこ

 とを意味しない。

(19) <o目F国晶具市巨-畠o勺巨oo鶉射8巨m.ミミ一b旦-“ω.

 ωooo.

(20) 田彗員b註寒膏吻§ぎき、、ミき&“ミs軋§辻ミ耐暗§雨

 \ミ驚~祭雨署ざ章N饒ユo}一旨庄奉-巨宰冨膏-Oo竃一ω.N〇十

(21) ここであらかじめ述ぺておけぱ、普遍的自己意識への

              、  、

 高揚を課魎としているかぎり、批判は本質的に個別的自己

 意識との、つまり「犬衆」との対立を孕んでいるというこ

 とである。一八四四年の「大衆H敵」論は自己意識の哲学

 に内在するものである。

(22) もとより、ハーバーマス『公共性の構造転換』の指摘

 するごとき「市民的公共性」がイデーとして実質をもって

 いたことを否定するものではない。

(23) 由彗而■b§§ミ零ミ耐O¥、這§きミさω。S.〔邦訳、二

 九四貢〕

 、  、

 批判ーバウアー1はいまや、既成の「転倒せる世

界」との闘争におもむく。しかし、既成の世界にたいす

 、  、

る批判の関係は、たんに否定的であるのではない。実体

-自己意識の関係は少なくとも二重であり、そして、自

己意識の哲学が実体H本質を原理とするかぎり、この原

理の水準において再度、二重の関係を反省してみなけれ

ぱならないであろう。なぜなら、一切を自己意識に還元

し、自己意識の本質を獲得したとなれぱ、既成の世界も

また自己意識の行為としてとらえられることになるが、

同時に、それが自己意識の本質とたがうことはいかなる

根拠によるものかが問題化するだろうからである。

 この脈絡では、既成のものは「疎外」と規定される。

問題は、自己意識が何故に己れの本質に反して自己を疎

外するか、である。再三述べるように、バウアーは世界

と歴史の真の実体を自己意識としたのであるから、この

問題を自己意識の構造的本質に内在的に解かねぱならな

い。およそ一般に、疎外論は、人間本質とか人間本性と

かを前提とするかぎり、っねに本質の疎外の歴史的な発

81

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一橋論叢 第99巻 第1号 (82)

生根拠への間いを避けることができない。かくしてバウ

アーは自己意識の歴史的生成に立ち返らねばならないで

あろう。これはしかし本質と係わりのない歴史的な事柄

にすぎないのではない。むしろ疎外は、自己意識の構造

の一般性において、存在論的に把握されなけれぱならな

い。つまり自己意識の展開そのもののうちに疎外という

差異の原理を措定せざるをえないであろう。

 バウアーは、疎外の生成を宗教史に即して論究してい

る。バウアーにとって宗教は、普遍的自己意識の概念を

成立させる実体根拠であった。しかし、いまや宗教は自

己意識の哲学を構成する歴史的な契機となる。シュトラ

ウス『キリスト教教義学』にたいするバウアーの書評に

                      ^1〕

よれば、宗教の歴史は自己意識の成立史なのである。

 さて、宗教は、それ自体としては自己意識の行為であ

る。しかるに宗教にあっては、普遍的本質は神として人

間に対立して現われ、したがって自己意識の行為は自己

                     ^三

意識の受動性として、他者の行為として現われる。つま

り自己意識の無限性と本質とは自己意識から疎外された

存在として現われる。だが、この宗教的疎外は、それが

いかに人間の本質と矛盾し、人間そのものの本性に惇る

ものであるとしても、バウアーによれぱ、やはり「人間

       ^3〕

本質の必然的帰結」である。バウアーは『暴かれたキリ

スト教』においてこう述べている。-人間は人間とし

ては自然の産物ではけっしてなく、人間自身が自由に形

成するものである。だから人間の本質が知られ発見され

ることにいずれはなるとしても、まずはかかる本質を人

間は疎外せざるをえなかった。このようにして歴史の展

開において自己自身と矛盾するに至ることもまた、人間

              (4)

の本性にして定めではあったのだ。

 自己意識は、世界を措定することによって区別を措定

                       ^5〕

し、自己の産出するもののうちで自己自身を産出する。

これがバウアーの描く自己意識の構造である。だが、何

故に自己意識は歴史において自己を疎外するのか、問題

はこの論理・構造であろう。

 さしあたウては宗教の成立根拠についての所論からみ

よう。バウアーは、宗教を恐怖・無知・貧困・不幸等と、

つまりはかかる事態を生みだした世界の在り方と結ぴつ

けて論じている。ドルバックの宗教論に同意しながらバ

ウアーは、宗教とは「本質にまで高められた人間の恐怖

およぴ精神の貧困・空虚」であり、世界の本質として直

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(83) ブルーノ・パウアーの自己意識の哲学

                 (6)

観された「世界の不幸」なのだ、と述べる。とくにキリ

スト教は、古代国家の設落にさいして世界や歴史そのも

のに古代が感じとった嫌忌・絶望の念を表現した幻想な

         ^ア〕

のだ、ととらえている。そのかぎりで宗教は、世界の不

完全さの表現であり、完成された宗教たるキリスト教は

             ^8)

世界の完成された不幸なのである。バウアーによれぱ宗

教の存在は、人類と歴史の隈界-受動性や不自由-

      ^9)

を表現している。ところで、世界・歴史は自己意識の展

開にほかならない。したがって宗教的疎外は結局のとこ

ろ自己意識の隈界性に、未完成に根拠をもつことになる

だろう。宗教は「人間の未成熟の客体化された表現」に

すぎず、つまりは「人間が己れの本質をなお自己自身の

うちに発見しておらず、したがって疎遠な存在として考

         ^m〕

えずにはおれなかった」ことの証明なのである。

 だがしかし、これは説明になっているのだろうか。何

故に人間は己れの本質を疎外するのかと問うて、それは

己れの本質を知らなかったからだ、というのは、たんな

る同義反復の域を出ないのではなかろうか。バウアiは

『現代のユダヤ教徒とキリスト教徒の自由になりうる能

カ』(一八四三年、以下『能カ』)において、宗教の真の

                       ^11)

源泉は人間u自己意識の自已欺聴にあるとしているが、

これも詰まるところは自己意識の未完成に根拠を求める

ことと同じである。したがって一向に分明でない、とい

わなけれぱならないが、これはしかし、バウアーの自己

意識の哲学の然らしむる帰結でもあったろうと恩われる。

-自己意識の構造は、たしかに世界と自己意識の相即

を示してはいる。しかし、それはなんら歴史的な規定性

を間題としていないのであって、当然のことながら、こ

こには自己意識の形成が、したがって未形成が前提され

ている。この形成と未形成を原理として要請するかぎり、

自己意識の哲学にとって歴史は形成史、しかも自己意識

みずからの形成史として現われざるをえないであろう。

そして、歴史は自己意識の知の諸形態の歴史とならざる

をえないであろう。だからこそ、バウアーにあっては、

知のエレメントが、また創造的-偶然的-発見が、

歴史の画期を形づくりうるものとなるのである。たとえ

ぱ、自然的賜物とされる人権といえども、バウアiから

        ^12)

すれぱ「近代史の所産」にすぎない。いまや疎外の根拠

の問題は自己意識の形成史の問題となる。

 宗教史はこのような自己意識の形成史である。バウア

83

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一橋論叢 第99巻 第1号 (84)

1は宗教史を基本的に、自然宗教、ユダヤ教、キリスト

教に区分し、キリスト教に「疎外の完成」をみいだして

いる。すなわち、キリスト教は、人間を人間そのものと

                    ^”〕

して疎外することによって「もっとも深い疎外」を完成

し、かくして疎外のもとで自己意識をも完成した。-

キリスト教は、人類を自然的精神から最終的に解放した

が、この解放は、偉大な人倫的利害からの自由、世界や

人間関係、、歴史からの疎外、学間・芸術からの離反、自

己愛と人類の価値の否定、人間の内奥そのものの空虚化、

   ^^)

であった。それゆえここでは人間の真の白由は没落する。

だが他方、キリスト教は、たとえ宗教的形態であろうと

1つまり神として1人間の本質の普遍的概念を、内

包している。だからキリスト教は非人間性の極みである

とともに、純粋かつ無制約的な人間性の宗教的表象にほ

    ^蝸)

かならない。キリスト教は矛盾そのものである。

      、   、

 バウアーの批判は、こうしたキリスト教観を基礎とし

ている。バウアーによれぱ、キリスト教のうちに自己意

識の本質を発見したのは一八世紀の啓蒙主義である。こ

の意味で啓蒙主義は普遍的自己意識への最後の決定的な

前進をなし遂げた。そしてバウアーは、このようにとら

えることによって、自己意識の哲学を自己意識の形成史

の真理として、歴史的に正当づけることになるのである。

自己意識の哲学はついに発見された歴史の真理である。

           、   、

したがって既成の世界と批判との対立はいまや非真理と

            ^比〕

真理の対立となって現われる。普遍的自己意識は完成さ

れた自己意識として、未完成の自己意識に必ずやとって

かわらずにはいないであろう。

                       、   、

 原理はすでに歴史的に完成されている。それゆえ批判

は、この原理の高みにおいて自己を貫徹するほかはない。

そしてそれが遂行されたときに、人類は自己を解放し、

己れの本質にしたがって自由を実現するであろう。人類

の勝利の日は近い。バウアーは一八四二年-四三年に繰

り返しこの確信を表明し、『能カ』では、「キリスト教お

よび宗教一般の解体を一つの既成事実として認め、人類

の宗教にたいする勝利を確実なものにするような歴史的

             ^η)

運動が遠からず起こるであろう」と述べもした。かくて

、  、

批判はこの運動を創出し、人間的解放を成就すべく、現

            、  、  、  、

代の「征伐」におもむく。純粋批判は、それがあえなく

潰えたときに現われたのであった。

 (1) く早民…員宛9昌色O目一冒申ω苛彗P冒o9ユ蜆一.

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(85) ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学

 5序Ω豊す昌巴島富ご-豪冨『oq窃oまg艘}竃同算色o匡昌胴

 自目ら-昌肉胆昌貝昌岸匝o『ヨooω昌耐目ミー窃o目竃-峯津一ま一

 、雨ミξざ㌧§き§¥ミさ、ミ汁竃§§意ミs軋宍s婁“2『.

 s一蟹1』鶯昌』彗Hooお一ω-o0N.

(2) くoq一.ω睾5■、o竃ミミ一ω.oolHoo。〔邦訳、 一一七-一

 一八頁〕

(3) }豊o■b§§ミs迂雨o“、室§§ミω.N00.〔邦訳、三

 〇六頁〕

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

<oq-.き迂。一ω、No.18。〔邦訳、三〇六頁〕

<o竈-.き}、。ω。Hご.〔邦訳、三四六員〕

きミ一ω.H01Hr〔邦訳、ニニ五頁〕

<o口Fき§一ω。ooい・〔邦訳、三二=頁〕

<o目-。さミ一ω.H-。〔邦訳、二二五員〕

<o司-・き§〔邦訳、二二六頁〕

}嘗自雪一b㌣味ミ軸い§ぎ軋ミ、§き&♪oo.sI{〇一

<o目F民豊o■冒o句岬巨oqぎ川Fま『5暮何昌』自ρ雪

自目o

 ○チユ黒o目一宇9 N目毛0HOω■’ぎ“、}Sミ嵩~~§昌ミ~銭 b余雨ミSミ}

 軋ミ吻き§ぎN冒一9冒O冬一鼻胃艘胃旨む一ω1筆’〔邦欲

 『資料ドイツ初期社会圭義』二八四員〕

(12) ω寧自雪一肉oS冨-o昌一2§冒PUざ9ユ㎜艘oチ仙O司■σo目眈-

 一〇耳9…一b雨ミξざ㌧s¥、§きミ一2『.N仁蟹.』嘗一=彗Hooむ一

 〇〇.oo午

(13) 札ミき乞『’N♪Noo.盲目轟『Ho。ま一ω.8.

(14) <oq-.吋彗o■b§§ミSぎ砧Oぎ註§§ミoo18ムポー軍.

 〔邦訳、二五〇、二八二、二八六員〕

(15)く。有一・霊毒一墨巨。・蚕戸一三婁ミ§蒔§§暗事帖§一

 ω。3。〔邦訳、二八四頁〕

(16) パウアーが『ユダヤ人問題』において、ユダヤ教とキ

 リスト教の対立を「根底においては人間精神の梱異なる発

 展段階の対立」とみるのも同じ論理である。<o目一・田彗員

 bミ㌧ミきミ翁♪■冨冒mgミo掃Hooむ一ω.sls.〔邦訳

 『へーゲル左派諭叢』第三巻、二九-三〇頁〕

(17)固豊貝}警耐片筆二三向“sミs§S§~蒔b売§一ω.N9

 〔邦訳、二九〇頁〕

w

 一八四四年にバウアーは一八四二年の誤謬を自己批判

し、一つの「転向」を行なう。だが、それはいかなる自

己批判なのだろうか。最後に、いわゆる「純粋批判」期

における自己意識の哲学の運命をみておかなくてはなら

ない。

 バウアーは論文『いまや何が批判の対象であるか』に

おいて、彼の「大衆1-敵」論を自己批判に重ねてこう述

べている。1理論1-批判がみせかけの同盟者、すなわ

ち政治的な啓蒙のなされた大衆と訣別すべき時期はつい

85

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一橘諭鍍 第99巻 第1号 (86)

に来た。この転換はそもそも最近に生じたものではない。

しかし、理論の真の決定的発展は政治を趨えていたにも

かかわらず、理論は、一八四二年には政治を論じている

かの外見をとらざるをえず、己れの理論の実現を自由な

政治的制度のうちにみてしまった。これは、理論の幻想

的錯誤であり、一八四二年の誤謬の一つであった。だが

   、  、

いまや批判は、白己を純化し、自己批判し、己れの真に

                ^1〕

意図するところを純粋に追求するのだ。-バウアーに

    、  、

よれぱ、批判はユダヤ人問題にかんしても同じ誤謬を犯

   、  、

した。批判は理論的には政治的解放の本質と人間的解放

の本質を区別しえていたが、後者が自由な政治的制度の

うちに実現されるという幻想にとらわれた。だが、それ

                     ^2〕

は批判にとっては一つの象徴でしかなかったのだ。

 バウアーは自己意識の哲挙を自己批判したのだろうか。

たしかに一つの「転向」があり、政治的啓蒙  人権の

恩想ーによる解放という構想を棄てたとしてよいであ

ろう。したがって国家概念も国家概念としては棄てたの

かもしれない。しかし、それは自己意識の哲学の断念を

意味しはしない。むしろ自己意識の哲学は自己批判の前

提にさえなっているといえないだろうか。そもそもバウ

アーが政治的啓蒙と批判…理論とを区別しえていたとい

うのは、それ自体が幻想ではないか、といわれるかもし

れない。マルクスのなすバウアー批判も、核心は人間的

解放と政治的解放の混同、というところにあった。しか

し、バウアーは両者を区別しないのではない。バウアー

                    ^3)

にとって壮本来の政治的解放は問題にならない。批判が

「政治を超えていた」というバウアーの言は、たんなる

言いのがれではなく、それ自体としては正当な言い分と

して認めておかなくてはならぬであろう。すでに述べた

ように、自己意識の哲学は単純に啓蒙主義と等しくはな

いし、人倫もまたイデーとしては政治と等しくはないか

らである。

 へーゲルの人倫は、普遍的意志と特殊的意志の一体性

たる善の実現である。換言すれぱ、普遍的自己意識の完

全なる現実態であって、イデーとしては自由が実質的に

実現されているのでなくてはならないはずであろう。バ

ウアーもまた、へーゲルが構想したイデーを原理とし、

           、  、

この原理の高みにおいて批判を遂行したのであを。否、

バウアーはへーゲルを超えて人間の諸関係をトータルに

変革しようとしたのである。だから、バウアーはけっし

86

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(8ア) ブルーノ・パウアーの自己意識の哲学

てたんなる意識の改革をめざしたのでもない。ここまで

は、自己意識の哲挙のもつ射程として確認しうることで

あろうと、私は考える。

               、  、

 しかし、それにもかかわらず、批判は「悲劇的に」現

実を離れ、幻想に帰した。それは何故なのであろうか。

1この場合に、私はバウアーを一八四一年-四三年と

一八四四年以後の二つの時期に分けて、前者を本来のバ

ウアーととらえているわけではない。すでに述べたよう

に、二つの時期を裁然と区別するような断層は存在しな

いのであって、純粋批判の幻想を語るのであれば、自己

意識の哲学そのものに根拠を求めなくてはならない。

 自己意識の哲学の非現実的本質は、二点指摘できるよ

、つこ田心、つ〇

 一つは、普遍的自己意識の基礎づけの問魑である。自

己意識の哲学は、個別的自己意識の普遍的自己意識への

高揚を前捷する。この高揚は一つの「実体転化」である

だろう。しかし、このような高揚はいったい何によって

根拠づけられていただろうか。これを論ずるさいに肝腎

    、  、     、  、

なのは、政治と人倫とを区別することである。政治と区

別される人倫は、個別化された自己の本質を止揚する実

質的な普遍性n共同性において成立する。バウアーが両

者を区別しえていたことは認めてよい。問題は、人倫が

はたして政治と異なる基礎づけをなされていたか、とい

うことである。たしかに人倫はイデーとしては政治的啓

蒙とは異なる境位に構想されており、教養によって獲得

されるともいわれるけれども、これはかの「実体転化」

を要講しただけで、現実的に基礎づけえたとは恩われな

い。何よりもバウアーが政治的啓蒙の幻想にとらわれた

というのが、それの証左となろう。人倫とは、本質的に

は政治的啓蒙の極隈のイデーでしかなかったのである。

-実はバウアーの「大衆1-敵」論はこのことをこそ示

している。バウアーが「大衆のうちにこそ精神の真の敵

         ^3〕

は求められねぱならない」というのは、大衆を精神にま

で高めなくてはならず、しかも「或る者を高めようとす

             (4)

るなら、それと闘わねぱならない」からであるが、この

ようにして大衆を敵とすることによってさらけだされる

のは、批判1-理論の根拠のなさではないか。

 もう一つ指摘すべきは、批判の在り方の問題である。

バウアーは、世界と歴史を目己意識に還元したがゆえに、

一切の問題を自己意識の形成に、したがって知の問題に

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一橋論叢 第99巻 第1号(88)

帰せしめた。すでに論じたように、歴史は、自已意識み

ずからのつくりだす自己形成史として、自己知の諸形態

の展開となった。しかも自己意識の哲学に至つて自己意

識は完成を遂げた、とされた。この確信のあるかぎり、

批判は知的批判として自立していかざるをえず、かくて

現実との媒介を失ったのである。バウアーは本来、実践

的1-現実的な知をめざしていた。しかし、きわめてラデ

ィカルにみえた「自己意識への還元」ゆえに、バウアー

は自己意識の形成を自己意識の知の形成を同一ならしめ、

現実性を知の現実性と化し、知の現実性をも失わせしめ

、たのである。          .

 とこ6で、自己意識の哲学のもつ以上のような限界が、

たんにバウアー一人の個性によるものではないことは、

行論からもうかがえるところであろう。近代の啓蒙主義

のイデーたる個別と普遍の一体性も「イデオロギー」で

しかなく、へーゲルさえも自已意識の哲学の本質的な幻

想を共有していた、といわねぱならない。バウア、は、

政治的啓蒙にかんする錯誤を自己批判したときに、それ

 によってかえって近代のさらに深い共同的幻想にかえっ

た。かくして自己意識の哲学は近代の現実ーブルジヨ

ア社会-から離れて、みずから自己を疎外してしまっ

たのである。

 マルクスがバウアーを批判するに至るのも、かかる幻

想性ゆえのことであった。マルクスにとっては-『独

仏年誌』期のマルクスにとってはーへーゲルの法哲学

も本質的には近代の政治的解放の思弁的な表現でしかな

い。つまり、ル愉はせいぜいのところ政治的解放の完成、

市民社会の解放でしかない。この了解を前提すれば、た

しかにバウアーは政治的解放を人間的解放とみなしてい

る、という批判も成り立つであろう。マルクスがいかに

してこうした見解に達したか、私見を述べるべきであろ

          ^5)

うが、いまは立ち入らない。むしろここで述べておきた

いと恩うのは、自己意識の哲学の幻想性を批判したとき

に、マルクス自身もまた、バウアーと同じ問題をかかえ

ていたと。いうことである。

 マルクスは普遍的人間的解放を私的所有の止揚によっ

て基礎づけるのだが、このさいに問魑となるのは、第一

に、マルクスのいう人間的解放とは何か、ということで

あろう。イデーとして普遍的自己意識の実現と異なると

ころがあるのだろうか。マルクスの場合に現実的な媒介

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(89) ブルーノ・パウアーの自已意識の哲学

は失われていないといってもよいが、それにしても個別

と普遍の媒介はマルクスにとっても問題としてのこされ

ていよう。第二は私的所有の止揚そのものが、人間個人、

つまりは自己意識の高揚を前提しはしないか、という間

題である。いずれもマルクスの人間的解放論の基礎づけ

にかかわる間題であって、こうした間題を解決せずして

は、バウアーの自己意識の哲学を止揚することはできな

い。要するにマルクス自身の「自己意識の哲学」を現実

的に展開せずには不可能である。こうした内的な係り抜

きに、マルクスがとくに一八三九年から一八四六年まで

ブルーノ.バウアーと接点をもちつづけたということの

意味を解き明かすことはできないだろう、と私は思う。

 ブルーノ.パウアーの自己意識の哲学は、へーゲル哲

単の一つの純粋な極隈である。純粋になった哲学が弱体

化するのはやむをえないとしても、しかしそれは、へ-

ゲルに総括される近代の理性的u普遍的自己意識の問題

性をきわだたせてもいるのである。マルクスがバウアー

を真に批判しうるとすれぱ、それは、この間題性の枠組

みそのものを止揚するときでしかないであろう。マルク

スーバウアー関係はこのような脈絡において間われなく

てはならない。

 (1) <oq一・団彗員ミ鶉ζ貢斗qoHOooq竃黒竃{o實宍鼻寿’

  ヲ一」、翁舳§良§トき§§、-N&§暑箏巨冨oq.くo自}-}芭竃i

  葭o津o。.旨旨-o。哀一ω.8-串.〔邦訳『資料ドイツ初期社会

  主義』三〇四-三〇五頁〕

 (2) <o口一・き§一ω.豊-塞一〔邦訳三〇七-三〇八頁〕

 (3) ■彗員z2鶉冨ωo亭奉o■書雪2o-邑g宇棊9仙目一

 』}晴耐§軸ぎ雨トミミ富§、-N雨}§奏一国9津ポU8.Hoo企ω一ω1ω.

(4)ω彗貝婁凹二蜆二〇薫尉・9。貝。量彗{忌・肉ま算

 巨一」膏雨§&§卜§§§、-Nミ§事=宙津o。一ω.8.〔邦訳、

 三一〇頁〕

(5) さしあたり、拙稿「『独仏年誌』のマルクスの理論転

 換」(二橋論叢』第九六巻第三号、一九八六年九月、所収)

 参照。

                  (一橋犬学講師)

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