ハイデッガーにおける想像力論の可能性...−182−...

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ハイデッガーにおける想像力論の可能性─カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして −180− ハイデッガーにおける想像力論の可能性 ──カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして── 渡 辺 英 之 WATANABE Hideyuki なるほど確かに、『純粋理性批判』をめぐるハイデッガーのカント論考は、解釈としても注 解としても、牽強付会の感を否めない 。ハイデッガーは『純粋理性批判』第一版に依拠して、 感性と理性、現象の多様と思考との断絶を架橋する第三項として、構想力(想像力)を根源と して指定する 。そのような解釈を、カント自身の明快ならざる議論の錯綜が許容するのも確 かである。ではあるがしかし、理性批判を通して理性の権限を批判的に検証する批判主義の帰 趨が想像力(構想力)に委譲されるというのは、やはり解釈としては適正さを欠いている。と はいえハイデッガーの独特な解釈が、カントにおける理性の可能性をめぐる根本的的問い、す なわち論理主義と経験主義の狭間で人間理性の有限性に依拠して理知の可能性とその限界を決 着づけようとする困難な課題を共有しているのも確かである。その点でケンプ・スミスによる たとえば図式論の評価は、カテゴリーと直観との異質性に由来する問題そのものを遮断する ことでカントの努力を不要な拘泥と一括しているが 、そのようなやり方は、超越論的演繹を めぐる問題の困難を同時に度外視することにしかならない。ハイデッガーの指摘する通り、第 一版では超越論的演繹論から図式論にかけて、超越論的構想力が議論の要として登場している。 そこでハイデッガーが、カントともに見ていたのは何だったのだろうか? 想像力の根源性と 可能性、話題の中心をそのように名指すなら、そこで課題はカント解釈の適正さの評価ではな く、ハイデッガーの存在論的探究における想像力論の意義づけとその可能性の射程ということ になる。 『存在と時間』を公刊したマールブルク時代のハイデッガーは、存在論的探究を現象学的方 法と共働させ、アリストテレス時間論やカント超越論的哲学を手引きとした現象学的方法論の 基礎構築を通して、「時間と存在」をめぐる論考を精力的に進めている。中でも講義録「カン ト『純粋理性批判』の現象学的解釈」(1927年)とフライブルク時代就任後の公刊著作『カン トと形而上学の問題』(1929年)の二つの論考は、『純粋理性批判』第一版に定位して想像力=

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Page 1: ハイデッガーにおける想像力論の可能性...−182− ハイデッガーにおける想像力論の可能性 カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして

ハイデッガーにおける想像力論の可能性─カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして−180−

ハイデッガーにおける想像力論の可能性──カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして──

渡 辺 英 之WATANABE Hideyuki

 なるほど確かに、『純粋理性批判』をめぐるハイデッガーのカント論考は、解釈としても注

解としても、牽強付会の感を否めない1。ハイデッガーは『純粋理性批判』第一版に依拠して、

感性と理性、現象の多様と思考との断絶を架橋する第三項として、構想力(想像力)を根源と

して指定する2。そのような解釈を、カント自身の明快ならざる議論の錯綜が許容するのも確

かである。ではあるがしかし、理性批判を通して理性の権限を批判的に検証する批判主義の帰

趨が想像力(構想力)に委譲されるというのは、やはり解釈としては適正さを欠いている。と

はいえハイデッガーの独特な解釈が、カントにおける理性の可能性をめぐる根本的的問い、す

なわち論理主義と経験主義の狭間で人間理性の有限性に依拠して理知の可能性とその限界を決

着づけようとする困難な課題を共有しているのも確かである。その点でケンプ・スミスによる

たとえば図式論の評価は、カテゴリーと直観との異質性に由来する問題そのものを遮断する

ことでカントの努力を不要な拘泥と一括しているが3、そのようなやり方は、超越論的演繹を

めぐる問題の困難を同時に度外視することにしかならない。ハイデッガーの指摘する通り、第

一版では超越論的演繹論から図式論にかけて、超越論的構想力が議論の要として登場している。

そこでハイデッガーが、カントともに見ていたのは何だったのだろうか? 想像力の根源性と

可能性、話題の中心をそのように名指すなら、そこで課題はカント解釈の適正さの評価ではな

く、ハイデッガーの存在論的探究における想像力論の意義づけとその可能性の射程ということ

になる。

 『存在と時間』を公刊したマールブルク時代のハイデッガーは、存在論的探究を現象学的方

法と共働させ、アリストテレス時間論やカント超越論的哲学を手引きとした現象学的方法論の

基礎構築を通して、「時間と存在」をめぐる論考を精力的に進めている。中でも講義録「カン

ト『純粋理性批判』の現象学的解釈」(1927年)とフライブルク時代就任後の公刊著作『カン

トと形而上学の問題』(1929年)の二つの論考は、『純粋理性批判』第一版に定位して想像力=

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京都精華大学紀要 第三十八号 −181−

構想力を根源として真相暴露する探究として、カント批判としても独特な解釈としても突出し

ている。ちなみに後年のカント論、『物への問い』(1935年)、『有についてのカントのテーゼ』(1961

年)では、構想力論は、かつてのように議論の前面に登場することがない4。

 そこで本論考のテーマ、ハイデッガーにおける想像力論の可能性である。時期は限定される

にしても、存在者から区別される存在そのものを終生の探究課題としたハイデッガーが、想像

力の内にみていた可能性とは何なのだろうか。想像的次元に定位することで、つまり空想的挙

措により存在そのものの開示は成就するのだろうか。直観や認識の可能性を新たに展開するこ

とで留保される存在経験は、想像的に開かれるのだろうか。しかし、存在開示と想像との関わ

りをそのように素朴に予断するのは早すぎる。存在論と想像力論との共働可能性を厳密に究明

するには、その可能性そのものについての予断も含めて、想像力に関する様々な予断や独断を

括弧に入れ、人間存在と拡がりを等しくする想像体験として純粋に切り出すような現象学的慎

重さが必要である。そのためにもまず、『純粋理性批判』第一版に定位するハイデッガーの独

特な想像力=構想力解釈が、ハイデッガーの意図する通りに再構成されなければならない。次

にハイデッガーの解釈の独自性をさらに際立たせるために、その解釈の適正さをカントの内在

的解釈と対照することで、検討する。以上をふまえて最後に、存在論的探究における想像力の

限定的意義づけが、ある種の可能性を開示する地平創設の試みとして究明されることになる。

第一節 ハイデッガーによる超越論的演繹論の解釈

 『純粋理性批判』第一版に定位するハイデッガーのカント解釈は、超越論的感性論と超越論

的論理学との、したがって直観と思考との断絶を、構想力(Einbildungskraft)を基底に据えて架

橋しようとする試みとして有名である。構想力が、直観と思考といういわば異種的なる二項対

立を媒介・統合する。こうした性急ともいえるカント解釈の妥当性については、大いに議論の

余地がある5。しかし考察の開始場面であるこの段階では、解釈の妥当性如何をめぐる問題を

遮断し、ついでにカントそのものに準拠する精密な考察も先送りすることで、構想力の根源性

に到るハイデッガー=カントの思想の道だけを<解釈>として、その所論の独自性を際立たせ

ることにする。

 まず、議論の核心部分を切り出すために、「概念の分析論」に続く「原則の分析論」の主題

構制を確認しよう。

 カテゴリーの超越論的演繹、すなわち純粋悟性概念の客観的妥当性の論証の要諦は、次の二

つのテーゼにある。

 「悟性に関するすべての直観の可能性の最高原則は、直観のすべての多様は統覚の根源的総

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ハイデッガーにおける想像力論の可能性─カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして−182−

合統一の諸制約にしたがう、というものである」(①B S.136)。

 他方では、「直観における多様なものの総合統一は、アプリオリに与えられたものとして、

私のあらゆる一定の思惟にアプリオリに先立つところの統覚の同一性そのものの根拠である」

(①B S.134)。

 直観における多様の綜合統一は、統覚の根源的同一性を前提してのみ可能であるが、同時に

根源的統覚の同一性は、自己証示の根拠として直ちに直観の多様の綜合統一を含んでいる。根

源的統覚の同一性と、直観の多様の綜合統一の両者は、互いに他を条件づけ合い、含意し合っ

ている。このようにして、直観とカテゴリーが、統覚を媒介として互いに呼応し合うという論

理的必然性が証示される。しかしそれだけでは、カテゴリーが可能的経験の対象についての経

験的認識を可能にするという程度の、議論の大前提が確保されたにすぎない。

 概念が経験を可能にする場合、カテゴリーがいかにしてアプリオリな認識を可能にするの

か? 直観をカテゴリーのもとに包摂すること、カテゴリーを現象に適用することは、具体的

にいかにして可能なのか? 要するに、直観とカテゴリーといった異種的なる両者が、いかに

してひとつの経験を構成しうるほどに、内的に連合しうるのか?

 この問いに答えて登場するのが、悟性の図式、すなわち「純粋悟性概念が使用されうるため

の唯一の感性的条件」(①B S.175)である6。説明しよう。

 直観と悟性、あるいは感性と思考は、徹底して異種的である。感性が事象の直接的感受であ

るのに対し、思考は概念を用いた没時空的・理念的な理解だからである。たとえば人は、「ネ

コの鼻の頭の冷たさ」について語ることができる。しかしネコの鼻の頭のひんやりした感じを

表現する言葉などは存在しない。それは直観的感受の体験であって、できるのは示差的差異を

枠づける概念を用いてそれを類比的に指示することだけである。にもかかわらず、直示的で一

回的な比類ない体験であるはずの感触体験は、常にすでに時空内で身体的に局在化され、言語

的分節によって可能になっている。他方概念を本義とするはずの言葉は、感受を枠づける素材

としてそれ自身が感受されている(好きな数字、嫌いなひらがな、卑猥な言葉等々…)。この

ように、直観と概念は徹底して異種的であるにもかかわらず、直観の概念化と概念の直観化と

の交錯ともいうべき転義的具体化において、常にすでに出会っている。その出会いを可能にす

る第三の契機、それが図式である。

 「一方ではカテゴリーと、また他方では現象とそれぞれ同種的であって、しかもカテゴリー

を現象に適用するような第三のものがなければならぬことが明らかになる。この媒介的表象は、

(経験的なものを一切含まない)純粋表象であって、しかも一方では知性的であり、他方では

感性的なものでなければならない。このような表象が、超越論的図式(Schema)である」(①B

S.177)。

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 図式は概念に「形象」(Bild)を供与する。ただし図式は、対象の単なる形象から区別される。

それは概念を感性化する際の規則を表す。この意味で、図式は感性化された概念である。さら

にまた、図式は概念化された直観である。それは超越論的なものとして、一般に形象というよ

うなものを供与するという地平設立の働きだからである。

 直観と思考との断絶を、このように図式を介して媒介することは、単に直観および思考の図

式性を論定するにとどまらない。それは両者から区別される認識の第三の契機である構想力を、

浮上させる。なぜなら、「図式はそれ自体常に構想力の所産にすぎない」(①B S.179)からである。

それによって、ハイデッガーとともにいえば、構想力は、直観と思考という二つの幹を可能に

する根として、幹を支える超越の根拠となるのである。

 すると「有限な存在者の認識能力を構想力に還元することによって、すべての認識は単なる

構想に貶められはしないだろうか?」(② S.138)。この疑問に答えるために、さらに構想力を

純化しなければならない。

 さて、<解釈>が根拠として指定するのは、再生的構想力から区別される産出的構想力であ

る。以前に知覚されたものを単に現在化する表象作用である再生的構想力は、派生的構想力に

すぎない。それに対し産出的構想力は、対象の形相を自由に作為する表象作用である。それは

対象の具体的産出に関わるものではなく、対象性一般の純粋形象のようなものを可能にする条

件として働く。そのようなものとして対象の超越を可能にする条件である産出的構想力こそが、

超越の根拠として指定される「超越論的構想力」である。

 しかし想像力はひとつの表象の働きとして、すでに出会われた形象の再生に常に準拠してい

るのではないのか。そこで端的に問うことにしよう。超越論的構想力とは何なのか?超越論的

構想力は、いかにして可能なのか? またそれはどのように直観と悟性とを仲介するのだろう

か? 問題は、超越論的構想力として根源的に機能する図式性の意味である。<解釈>の論考

を要約し、しかる後検討してみる。

 <解釈>によれば、超越論的構想力は、直観と悟性とを単に外的に結ぶ紐帯なのではない。

幹を発現させる根として、構想力が根拠である。根拠が根拠づけられるものからしか遡示され

ないように、超越論的構想力は、直観と悟性それぞれの異化においてしか証示されない。この

意味でまず、純粋直観は、それ自身から形象を形成的に与える純粋構想力であることによって

根源的でありうる。純粋直観は形象を受容するが、この受容作用はそれ自身の内に、自らを供

与するものを形成的に自己自身に与える作用を内含している。「純粋直観の受容作用は、それ

自身において今の形象を与え、しかも今すぐを予視し、いましがたを顧視するのでなければな

らない」(② S.174)。それを可能にするのが構想力の純粋な形成作用である。「超越論的構想

力が純粋な形成的能力としてそれ自身において時間を形成する」(② S.187)。かくして直観は、

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構想力の自発性に仲介されて、はじめて受容的であることができる。次に、思考についてはど

うだろうか。悟性は、統一の地平を自ら表象的に予め形成する作用であり、超越論的図式性に

おいて生起する形成的自発性である。その際悟性は図式を産出するのではなく、図式をもって

操作する。そして図式は、超越論的構想力の所産である。その時純粋悟性は、純粋な自発性な

のではない。純粋悟性ないし純粋思惟は、超越論的図式性のもとで自由に構想する働きとして

は、「受容的自発性」である。「この意味において純粋思惟はそれ自身において追補的にではな

く受容的であり、換言すれば純粋直観である。この構造的に統一的な受容的自発性は、したが

ってそれがある所以のものでありうるためには、超越論的構想力から発現しなければならない」

(② S.154)。このように直観を、自発性を経由させて思考に連接し、また概念の能力である悟

性を、図式の受容を通して直観と近接化する、こうした媒介を可能にするのは、それ自らが直

観でもあり、同時に概念操作の働きでもある構想力以外にはない。

 以上の論考の帰趨を検討してみよう。

 超越論的構想力は、形象の造形を可能にする地平を予め創設するものとして超越論的根源で

ある。それは悟性に図式を供与する構想力として、受容的自発性である。さらに構想力は、現

在しない対象を直観において表象するものとして、感性に属する自発的受容性である。「超越

論的構想力」には、こうした異種的なる規定が合流している。こうした異種間混淆が可能なのは、

超越論的構想力が根拠として、根拠から発現する当のものに自らを告示し、告示しながらそれ

自身は背景に退避するからである。そのようなものとして、<解釈>=ハイデッガーは、超越

論的構想力の正体を、時間そのものとして取り押さえる。 「超越論的構想力が純粋な形成能

力としてそれ自身において時間を形成し、発現させるとすれば、超越論的構想力は根源的時間

であるという前述の命題を回避する余地は、もはやない」(② S.187)。

 超越論的構想力は、時間そのものであるがゆえに、それ自身は時間的なもの、内時間的なも

のとしては捉えられない。だからこそ逆に、自発性と受容性、能動と受動、産出と所産などの

対立を繰り広げつつ架橋するひとつの地平として現成しうる。それは、想像力に関して何を帰

結するのだろうか。想像力が、現実性と可能性、既知と未知、現前と不在とを架橋する開かれ

た地平であることを意味するのである。他方ではしかし、想像力は、超越論的時間化の働きと

して、どこまでも人間の有限性と結びついている。現実性を可能性に、既知を未知に、現前を

不在の彼方に開いていく働きは、同時に可能性を現実性に、未知を既知に回収し、不在を現前

と誤認する働きでもある。このようにして超越論的構想力の超越論的根源性は、現実の超越論

的観念性に行きつくのである。

 その帰結においても、論考の進行においてもカント的である<解釈>のこうした徹底化を、

しかしカント自身であれば承認しないだろう。認識の客観性を基礎づける究極を、想像力に求

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めると、最終的には真実と虚偽の反転にまで行きつくからである。しかしだからこそ存在者か

ら区別される存在そのものに定位するハイデッガーは、人間の有限性の最基底を想像的なもの

の内にみる。存在そのものは現象に対する徹底した他者であるが、現象の外部に物自体として

疎外されるのではない。ハイデッガーは、他者である存在そのものが存在者の内に逆説的に顕

現している事態に忠実であろうとするからである。

 以上の考察に準拠して、ハイデッガーは、カント自身による第二版の叙述の変更を、超越論

的構想力という根拠からの「退却」として論難する7。第二版におけるカント自身の叙述では、

構想力の代わりに論証の要となるのは、超越論的統覚である。いわば現象の多様を意識の経験

として取りまとめる「私は考える」の統覚意識が、根源として名指される。それははたして経

験の実相から根源我の知的直観への退却なのだろうか。しかしすでにみたように、カントの問

題構制に依拠して論証構造を跡づけるにしても、カントの論証の枠内では、構想力にかぎらず、

超越論統覚や判断力や感性の多様への準拠など、いずれも一つの経験を人間に可能にする条件

として度外視できない。次節では、カントの証明構造についての内在的解釈を参照することで、

ハイデッガーによる解釈の妥当性を検討する。

第二節 カントによる超越論的演繹論の要諦

ハイデッガーの解釈に基づいて第一版(および第二版)の論証の要を超越論的構想力にみる

としても、構想力の強調はカントに即してはいささか過剰に思われる。またそれの可能性を認

識の基礎づけとその限界設定の土俵で評価するのも困難である。他方カント自身による第二版

への叙述の変更は、超越論的統覚論を前面に打ち出すことで、堅固な論証構造を議論に付与す

ることになったように見える。と同時に、その論考の更なる拡がりと奥行きが、第二版の論述

の難解さと相俟って、その整合的解読を難しくしたのも確かである。とりわけ、D・ヘンリッ

ヒの指摘する「二段階証明の問題」8 に即して演繹論の証明構造を整理するとき、カントの議

論は様々な要因の条件づけの錯綜を論考の各局面で正当に位置づける慎重さを要することが判

明する。そこで以下では、ヘンリッヒの論考を手引きとして、カントの演繹論の内在的解釈を

試みる。

 すでにハイデッガーとともに第一版に即して概略づけたのだが、カテゴリーの超越論的演繹

の課題とは何だろうか? 変更点を顧慮して議論を第二版に即して辿り直そう。

 悟性の純粋に内在する概念として発見されることで形而上学的にその普遍性を正当化された

悟性のカテゴリーは、その客観的実在性を経験に即して証示しえない。カテゴリーは悟性に内

在する主観的機能であって、現象の多様から抽出される与件ではないからである。カテゴリー

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はそもそも客観的に実在する事象ではない。ではあるがだからこそ、カテゴリーは機能として、

客観的認識の可能性の条件として必然的に経験を条件づける。そこで問題が登場する。

 「純粋悟性概念は、……感性のすべての制約なしに諸対象一般に関わり、そしてそれらは経

験に基礎づけられていないので、アプリオリな直観においてもいかなる客観をも提示できない。

だから純粋悟性概念は、自らの使用の客観的妥当性と諸制限に関して疑念を喚起する」(①B

S.120)。

 その使用の客観的妥当性と諸制限に関する疑念、それに応答しようとするのが演繹論の課題

である。その際、使用の客観的妥当性に関する疑念とは以下である。

 「悟性の諸カテゴリーは、そのもとで諸対象が直観に与えられる諸制約を我々にはまったく

表示しない。したがってもちろん諸対象は、我々にとって現象できるが、必然的に悟性の機能

に関係づけられねばならないということはなく、したがって悟性が諸対象のアプリオリな諸制

約を含むであろうということもなしに現象しうるのである。ここに……一つの困難が出現する。

つまり、どのようにして思惟の主観的諸制約が客観的妥当性をもつべきであろうか、どのよう

にして思惟の主観的諸制約がすべての認識の可能性の諸制約を付与すべきかという困難であ

る」(①B S.122)。

 これはカテゴリーの普遍性に関するものではなく、その適用の妥当性に関わる困難である。

なぜなら諸対象一般の概念がアプリオリな制約としてすべての経験の根底に存するならば、し

たがってアプリオリな諸概念の客観的妥当性は、カテゴリーによってのみ経験が可能であると

いうことに依拠するのであれば、アプリオリな諸概念は経験のアプリオリな諸制約として認識

されねばならないという原理に基づく超越論的演繹の論証は、目論見としては、必然的かつア

プリオリにカテゴリーと経験の対象との関係を証示するからである。

 だからこそそこで、使用の制限に関する疑念が同時に問題となる。カテゴリーが普遍妥当す

る思惟の条件であるならば、いかにして感性的経験の対象にのみ制限されるのか。妥当性が経

験に制限されることでその客観的妥当性が証示されるのなら、カテゴリーのアプリオリな普遍

性はどうなるのか。

 明らかに、カテゴリーにおいて問題化しているのは、単に普遍妥当性ではなく、その適用の

客観的妥当性と制限についてであり、そこでは一貫して、悟性と感性との、思考の原理と現象

というふたつの異質性の出会いが問題となっている。

 そこで第二版で、異質な両者を繋ぐのは、超越論的統覚と呼ばれる、根底的な自己意識であ

る。ここで議論は、小論第一節の冒頭に連接する。ここで重複を避けずに再度強調されるべきは、

統覚の根源的同一性は、一つの意識における表象の総合から遡示される統一にすぎないという

事実である。

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 「直観において与えられる多様に対する統覚のこの全般的同一性は諸表象の総合を含み、こ

の総合の意識によってのみ可能である」(①B S.133)。

 統覚の同一性は、その産出機能をもって認識の可能性を絶対的に基礎づけるのではない。だ

からこそそこで思考の妥当性は一定の限界内で、つまり直観との関わりと関連づけることで、

適用の正当性が証示されなければならない。

 以上の脈絡に関連づけることで、ヘンリッヒの指摘する「二段階証明の問題」を考察しよう9。

 カントは演繹論第20項で、演繹前半の成果を次のように集約する。

 「感性的直観において与えられた多様なものは、必然的に統覚の根源的総合統一のもとに属

する。……ところでしかし、諸カテゴリーは、与えられた直観の多様がこれらの判断する論理

的諸機能に関して規定されているかぎり、まさしくこうした判断する論理的諸機能に他ならな

い。それゆえ、与えられた直観における多様なものはまた必然的に諸カテゴリーにしたがう」(①

B S.143)。

 ところが次の21項の注解では、超越論的統覚に依拠した20項までの演繹は、多様が経験的直

観に与えられる仕方を捨象しなければならず、後に(26項で)、感性において経験的直観が与

えられる仕方を考察することで、経験的直観の統一について明らかにされると予告される。そ

して以上により、すなわち議論の前半と後半とが合わさることで、「演繹の意図がはじめて完

全に達成される」(①B S.145)と明記する。

 以上が、ヘンリッヒのいう第二版の証明構造、すなわち議論の前段と後半とが相俟って一つ

の演繹論を構成するという「二段階証明」である。これはカント自身の意図に正しく添った議

論の構成であるが、問題は内容の見極めが非常に困難なことである10。ヘンリッヒの卓見に準

じて整理するなら、議論の後半は原理を個別に詳説する付則ではない。

 その際、演繹の後半部でまず、最も重要な命題として強調されるのは、カテゴリーの使用の

諸限界の規定である。「諸カテゴリーは、経験的直観への諸カテゴリーの可能な適用によって

のみ以外には、直観を介して諸物についてのいかなる認識をも我々に提供しない」(①B S.144)。

そこから、すなわち使用の限界内で、後半の議論の中心に登場するのが、知性的総合と区別さ

れる産出的構想力の「形態的総合(figürliche Synthesis)」(24項)であり、また第一版でも演繹

論の冒頭に位置づけられた「把捉(Apprehension)の総合」(26項)なのである。

 論旨は明快ではないが、理には適っている11。

 すべての感性的直観は、そのもとでのみ感性的直観の多様が一つの意識にまとまりうる制約

としてのカテゴリーにしたがう、と演繹されるだけでは十分ではない。その使用の限界内で、

つまり経験的直観との関わりにおいてのみ、本来の認識が可能であるその仕方の概略が示され

なければならない。次のように考えられるだろうか。難解な用語にこだわらず、少し柔軟に整

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ハイデッガーにおける想像力論の可能性─カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして−188−

理してみる。

 カントによれば、経験的直観に依拠することがなければ、カテゴリーは認識をもたらさない。

それは、訪れたことのない外国旅行について、事前に細部まで遺漏なく行き先とそこでの行動

予定を知悉したとしても、実際に旅行するまでは認識を獲得できない、そういうことだろうか。

実際に行くまでは、その国が実際にあるかどうかもわからない。でも知識の現実存在は体験的

に確かめられずとも、調和的に了解されている世界という意味地平の整合的共有により、常に

すでに生きられている。それは経験知の事柄であって、認識成立の可能性の不可欠の条件に関

わるものではない。ならばたとえば、ドストエフスキーの小説を読むことで、あるいは最近の

話題作「アバター」や「インセプション」をみることで、人は何を認識することになるのだろ

うか。小説の読解は言語により造形された虚構世界の体験であり、映画鑑賞は、動画の編成に

より造形された擬似的現実の虚構体験である。それらは、先に挙げた事前の空想旅行の類比だ

ろうか。それとも旅行に行くという現実の体験を類比するものだろうか。答はどちらでもあり、

どちらでもない。本を読むことと映画を見ること、それはそれとしては現実の体験である。印

刷された作品は、享受するためにはひと繋がりの一本の線状の連鎖を読むことで、読者の中に

造形された世界を規格通りに結実させる。映像化された虚構世界は、時空条件の制約や因果の

轍を易々と超越したり反転させるが、それは編成された映像が体験として結実させる現実的効

果の制約をお約束として超えるものではない。あえていえば、書かれた文字を最後から逆に読

むことも可能だが、それでは文意は伝わらない。主人公を襲うモンスターは、見ている画面か

らとび出して観客を襲うことはない。写像体験は、その媒体に即してそれぞれが独自の体験で

はあるものの、世界という意味地平の調和的連関を支える人間的経験の基礎的次元の可能性に

依拠して、共通の土俵における自由変更の操作としてのみ可能なのである。

 だからこそ、直観一般を悟性のカテゴリーで思惟する際の「知性総合」だけでは十分ではない。

そこで構想力が、すなわち「対象が現在していない場合にも直観において表象する能力」によ

る「形態的総合」が、認識のアプリオリな超越論的統一にのみ関わるものとして登場しなけれ

ばならない。ここで第二版の演繹論は、第一版の演繹論の導入部と交差することで、構想力に

おいて合流する。

 ここでは論旨を補充するために、第一版の文章から引用する。

 「各々の直観は多様を自らの内に含むが、もし心性が時間を諸印象の相互継起において区別

しないとすれば、その多様は多様として表象されないであろう」(①A S.99)。その区別を可能

にする通覧作用、そして通覧作用を総括する働き、それが「把捉の総合」である。

 そこから以下が、第一版での演繹論の結論である。

 「純粋統覚が、すべての可能的直観における多様の総合統一の原理を提供する」(①A S.117)。

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京都精華大学紀要 第三十八号 −189−

しかしながら、「統覚の超越論的統一は、認識における多様のすべての合成の可能性のアプリ

オリな制約としての構想力の純粋総合に関係づけられる。……統覚に先立つ構想力の純粋(産

出的)総合の必然的統一の原理は、すべての認識の、特に経験の可能性の根拠である」(①A

S.118)。

 それに対し、演繹論の最終部に構想力を論定する第二版での結論はこうである。

 「感性的直観の多様を連結するものは構想力であるが、構想力は自らの知性的総合の統一に

関しては悟性に依存し、把捉の多様に関しては感性に依存する。ところで、すべての可能的知

覚は把捉の総合に依存するが、把捉の総合そのものつまりこうした経験的総合は超越論的総合

に、したがってカテゴリーに依存するので、すべての可能的知覚は、したがって経験的意識に

常に至りうるすべてのもの、すなわち自然のすべての現象も、その結合に関してはカテゴリー

にしたがわなければならない」(①B S.164-165)。

 結論部だけで比較しても、両論の違いは明らかである。第一版に依拠するハイデッガーの強

い論難とは逆に、第二版における超越論的統覚論は、二段階に分かれる議論の前半部分の要を

成すにすぎず、むしろ構想力を終盤に登場させることで、図式論への円滑な橋渡しを可能にし

てさえいる。そこからすると、議論の終盤における超越論的構想力の強調にもかかわらず、む

しろ超越論的統覚の指摘によって議論を一挙に集約する第一版の議論は、超越論的統覚による

深遠な議論の完結とも解しうるものである。

 議論の整合性からしても、認識論上の各モメントの均衡配分からしても、第二版の演繹論の

説得力と優位は否定しがたいように見える。カントの議論に内在し、その論証の前提条件を共

有すると、そうした帰結は避けがたい。だからこそ逆にいえば、構想力に準拠する第一版に定

位するハイデッガーがカントとともにみていた想像力論の可能性は、こうしたすべての議論の

前提条件に関わるものであるということ、いわばそれを転回することで、「時間と存在」をめ

ぐる問題を、俎上に乗せるためのものだということになる。

 次節では、その可能性を、概略的に考察する。

第三節 構想力の根源性をめぐる考察

 ハイデッガーの存在探究における想像力論の射程をカントの問題構制から照明し、逆にカン

トの超越論的問題構制をハイデッガーの視圏から問い返すという、いささか錯綜した本論考の

順序からすると、以下では小論本来のテーマを究明するために、想像力の架橋する働きを、図

式論に即して具体的に検証するべきところである。しかしこれについては、副タイトルを図式

論論考とした同タイトル論文に委ねることにして、以下ではこれまでの考察の総括を通して、

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ハイデッガーにおける想像力論の可能性─カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして−190−

思考と感性、知性と直観との間に位置する想像力の両義的働きの可能性をハイデッガーに即し

て考察することにしたい。そこでこれまでの議論を受けるなら、第一版と第二版の異同に関し

て問われるべきは、構想力と超越論的統覚との関わりであろう。

 問題の核心に切り込むために、ケンプ・スミスによる注解から、超越論的統覚に対する批判

を取りあげよう。 

 「統覚の我思うは、経験的判断においてのみ表現されうるのであり、しかもそれは、内的感

官の結果であるどころか、内的感官の可能性を予め条件づけるのである。とすると、我思うと

内的感官とはどんな関係にあるのだろうか? 我思うを認識することは、自我 ‐ 意識的反省

の可能性、すなわち、自我による自らの直接的覚知の可能性をカントが否定することと矛盾す

るのではないだろうか? 純粋統覚すなわち我思うは、カントの言明では判断「我あり」と等

価であり、それゆえ主観の現実存在の主張を含む。このことは、一方では現実存在の認識は感

官によってのみ可能であるという批判理説と矛盾し、他方では、カテゴリーを現象領域にかぎ

る批判的限定と矛盾するのではないか? 純粋統覚の我思うが非経験的実在に関わり、また自

己の現実存在を述定するというような主張は、いかにして上で述べた内的感官の理説と調停さ

れうるというのであろうか?」12。

カント自身による批判的論考の基礎を掘り崩すような外面的な注解ではあるが、あえて問題

意識を共有してフラットに考えてみる。

 超越論的統覚、すなわち一切の表象に伴うことができるのでなければならない我思うの我は、

どこにどのように存在するのか。カントの批判主義的究明のプログラムによれば、何かが現実

的に存在するためには、その何かは事象として直観に与えられ、知覚され、カテゴリーにした

がって判断されなければならない。しかし自我そのもの、客観的認識を根源的に条件づけるも

のとしての私はそのようには与えられない。私は私に対して、現象する何かではない。我思うは、

同時に我ありを端的に自己確証するような知性的自己意識である。批判全体が依拠する全荷重

の要となる根源は、超越論的統覚として、認識の事実において遡示されるにすぎない。内容を

制約する形式であるかのように。

 同型的に問えば、カテゴリーは、一体どこに存在するのか。それはもちろん現実存在するも

のではない。それとして感性的に現象するものではないので。しかしそのようにいうことで、

純粋悟性概念の現実存在が疑問視されるのではない。カテゴリーはそれとして与えられ、事象

的にあるものとして認識されるのではなく、事象が現実存在として認識されるその条件として

臨在する。それはどこかにあるものではない。だからどこにもないものとしてそれはある、と

いうよりも、現実存在しない認識の事実から遡示される条件形式として存在する。だから純粋

悟性概念は、現実存在しない形式として、しかも経験に由来しない対象一般の様相の違いを成

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京都精華大学紀要 第三十八号 −191−

立させる機能として、超越論的に存在する。

 カテゴリーは、そのように機能として発見される。形而上学的演繹を思い起こそう。

 カテゴリーは、対象一般に関係する唯一の概念である。その普遍性は、経験から抽出された

類的普遍性ではありえない。概念は否定的差異にもとづく。Aであるという規定は、ただちに

非Aではないという否定的折り返しを規定として含蓄してしまう。だからといって、論理学的

分析により抽出された形式でもない。論理的形式化は一切の内容を捨象することで成立するが、

カテゴリーは概念として、一定の内容により対象一般を規定する本質をもたなければならない。

そこでカテゴリーは、思考されるものの内容的区別に依拠することなく、思考する働きの差異

として、したがって機能として与えられる。 

 「カテゴリーとは、それによって対象一般の直観が判断のための論理的機能の一つに関して

規定されたものとしてみなされるような対象一般の概念である」(①B S.128)。

それゆえ、感性が触発に基づくのに対して、概念は機能に基づき、両者は相俟って認識成立

の契機となるのだから、カテゴリーそのものの現実存在が問題化することはありえない。それ

はまさしく認識において、機能として働いており、発見され、演繹され、また可能性が証示さ

れるならば、その機能としての存在を確証するからである13。

 他方超越論的自我は、統覚する機能として自らを確証するのではない。それは現実存在する

ものとして、一切の働きのもとに居合わせなければならないからである。それは総合する働き

を通して遡示される極として存在する。そのような極として存在、それは特殊な差異により限

定されるような私ではない。それは素朴にいって、人称を欠いている。それは誰であっても構

わない匿名性において、誰でもない。誰でもない誰かは私ではない。私は、誰でもない誰かと

して常にすでに居合わせる私である、そういうことなのか。奇妙にも、私を私たらしめるため

に必要なのは、端的なる我思うの自己同一性ではない。私は私である。私=私。この源初の同

一性の自覚こそが私の意識を可能にしている源初の出来事そのものであるとするなら、この自

覚は主語と述語との断絶を経由してしか可能にならない。曰く、私は私であるは、私は非私な

らざる何ものかとしての私であるということによって可能である。私=私、すなわち私≠非私。

端的にいえば、私は私であるために、私を二重化する必要がある。したがって、私は端的に私

なのではなく、私のうちに私ならざる他者の契機を胚胎させることで私になる。比喩的にいえ

ば、私のうちに、私に対する距離がある。私の中の距離、私の内なる深淵が、私を私たらしめる。

だから、気づいたときには常にすでに私であるにもかかわらず、私は私であろうとする。文学

的にいえば、私は私のうちに距離をもち、だから憧れる。私は、源初の分裂、起源の同一性か

らのズレ、追い越しえない現在からの遅れにおいてしか存在しない。その意味で、私は起源に

おける想像的距離に養われている。源初の私があるのではなく、はじめに虚としての私の創設

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ハイデッガーにおける想像力論の可能性─カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして−192−

がある。これこそがまさしく、ハイデッガーが超越論的構想力の根源性という指摘によって取

り押さえようとした現象学的真相すなわち時間性の生起にほかならない。ハイデッガーが超越

論的エゴではなく、超越論的構想力にみていた可能性とは、存在そのものが自らを存在者とし

て委譲するという事態に忠実であるための地平創設である。それは何故に、想像力でなければ

ならないか。超越論的エゴの働きをさらに積極的に深化させると、カントの視点では誤謬推理

に陥るからである。ハイデッガーはいわば、カントの主題構制を正しく継承する努力の結果と

して、構想力の究境を時間そのものとして真相暴露しようとする。

 そこで次に残された疑問、想像力と時間との関わりを思惟しよう。第一版に依拠するハイデ

ッガーの目論見では、この関連を図式論の前に証示するのが以下の三種の総合の働き、すなわ

ち①直観における把捉の総合、②想像における再生の総合、③概念における再認の総合であ

る14。

 ハイデッガーは強引に、三種の総合を根である構想力の成果として集約する。

 「経験的、心理学的に受け取られた場合には、知覚と想像力と思惟は心の三つの能力であるが、

主観をその超越論的な性質において、そのオントローギッシュな根本体制において受け取るな

らば、これらの能力のすべては純粋で時間に関係づけられた総合の内に、すなわち超越論的構

想力の総合の内に根拠づけられている」(③ S.338)。

 いかにしてか。三種の総合を一つの時間として内的に関連づける「共属性」(③ S.358) によ

ってである。要約しよう(Vgl.,③ S.340ff.)。

 あらゆる今としての今は、直観されるためには、今の純粋な継起へと先行的に方向づけられ

多様な集め取る働きを、すなわち把捉の総合を含んでいる。しかもそこで把捉は想像力の純粋

な様態である。

 再生の総合において問題となるのは、現に呈示されたものを、多様の把捉的統一性の内で、

再び眼前に導き出すこと。そのために、表象されたものは心性に保持されることができなくて

はならない。そして既在を現に呈示する働きはもちろん、ないを現にあるものとして保持する

想像力の働きである。

 次に再認の総合について。再生は、再認に条件づけられている。流れ去りを同じものの再認

として同一化できなければ、再生は不可能である。そこで概念による同一化作用が、時の変移

を貫く持続の基体として先行的に論定される。

 すると根拠として真相暴露されるのは、同一化を可能にする統覚の同一性なのか。しかしハ

イデッガーは、第三の再認の総合を、あるものの統一連関を先取りして保持すること、獲得さ

れる全体を先取りして受け取りつつ企投する働きに転釈し、それを「予認の総合」へと強引に

読みかえる。そのようにして三種の総合は、把捉と再生と予料における共属性において、時間

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京都精華大学紀要 第三十八号 −193−

性そのものの出来事として取り押さえられる。

 「カテゴリーの根源は、三つの総合が時間という根拠に基づいて共属している以上、時間そ

れ自身であることになる」(③ S.365)。

 ならばなぜ、共属性を一つの時間として同一化する根底として、統覚の同一性が根拠として

論定されないのか。

 答はこうである。

 「総合の三つの様態がそこに向かって手を伸ばすところのものは、それ自体において根源的

に一なるものであり、したがってこの統合するものはすでに包括しており、一なる時間の地平

をその三つの境域において開かれたものとして現に呈示する」(③S.389f.)。

 それは自己自らにとどまる自我の同一性なのではない。

 「根源的な働きそれ自身のこうした統一性としての主観は、手を伸ばすという仕方で本有的

にそれ自身の外に歩み出るところのあるものである。……主観がこのように手を伸ばしつつ歩

み出ることを、我々は主観の脱自態、主観の脱自的な根本性格と名づける」(③ S.390)15。

 主観の脱自態とは何か。それは主観が、自己であることを停止するような自己棄却のことで

はない。自己が自己でありながら自己でないという逆説を、主観である私は体験における変化

としていつもすでに生きている。同じものが別のものに変化しうるのは、別のものが同じもの

の変化だからである。同じものが同じものなのは、別のものに変化しうることによってである。

立ち止まりつつ流れる時の謎。存在するのは今だけなのに、不在の過去、予料されるだけでけ

っして到来しない未来に隈取られることなしには、今は今ではありえない。しかも不在に条件

づけられる現在として、今はとどまるのではなく、たえず流れつづける。それは、常にそれ自

身でないことによってそれ自身である。このような逆説的な事柄の生起そのものの出来事とし

て、存在そのものは思惟される。存在そのものと存在者との差異との関係を問う地平は開かれ

る。ハイデガーが、超越論的統覚ではなく、構想力にみていたのは、こうした事態を考察の俎

上に乗せるための流動的な地平生成なのである16。

 それははたして、日常素朴に意味される想像力だろうか。なるほど確かに、想像力の準備す

る地平は、合理的思惟の狭さを突き抜ける可能性をもちうる。しかし放恣な空想は、真実と虚偽、

真相と虚相との相互参照にまで行き着くと、学的探究の地平を風化しかねない。ならば想像力

の可能性についての論考は、学的探究の地平を突き抜けて、実践的探究に委ねられるべきでは

ないのか。それを問うことで、純粋理性批判を検討の土俵に設定した小論の主題構制は、別の

より広い問題構制の土俵に移ることになる。

 

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ハイデッガーにおける想像力論の可能性─カントの超越論的演繹論解釈を手引きとして−194−

<注>下記の主要文献を引用する場合には、以下の数字で示した。

なおカントの『純粋理性批判』からの引用には慣例にしたがいカント原版(Originalausgabe)

のページ数を用い、第一版(1781)をA、第二版(1787)をBと表記した。

①  A:I. Kant, Kritik der reinen Vernunft , 1. Auflage 1781, Kant’s gesammelte Schriften, Hrsg. von

Königlichen Preuβischen Akademie der Wissenschaften, Bd.Ⅳ, Berlin 1911.

  B:ders., ibid. 2. Auflage 1787, Kant’s gesammelte Schriften, Bd.Ⅲ, Berlin 1911.

② M.Heidegger, Kant und das Problem der Metaphysik , Frankfurt a.M.1991.

③  ders., Phänomenologsche Interpretation von Kants Kritik der reinen Vernunft , Gesamtausgabe

BD.25, Frankfurt a.M. 1995.

④ ders., Die Frage nach dem Ding , Gesamtausgabe BD.41, Frankfurt a.M.1987.

⑤ ders., Kants These über das Sein, in:Wegmarken , Gesamtausgabe BD.9. Frankfurt a.M. 1978.

1  「言葉が述べるところのものからその言葉が述べようと欲するものをもぎ取るためには、いかなる解釈

も必然的に暴力を用いなければならない」(② S.202)。とは、自らの挙措に対するハイデッガー自身

による評言である。

2  「著作全体のこの最も中心的な問に関していえば、第一版は原則的に第二版に対して優先するべきであ

る」(② S.197)。

3  N.Kemp Smith, A Commentary to Kant’s‘Critique of Pure Reason’ , London 1918, pp.334-335. ちなみ

に不要な拘泥というのは、趣旨をまとめた筆者のいい方ではあるが。「カントが図式を、カテゴリーと

直観とに付け加わる第三のものとして、また両者を媒介するものとして叙述していることは、彼が自

らの問題を誤解の招くやり方で定式化した一つの結果である」。

4  ハイデッガーがカントを検討の俎上に乗せる際の一つの特徴であるが、各著作の後半では、純粋理性

批判のある局面が中心的に取り上げられる。②では図式論が、③では第一版の三種の総合が、④では

図式論を除く原則の分析論が、そして⑤では再び超越論的統覚が、というように。⑤では、存在の思

索からカントの表象的存在概念が問題とされているが、そこでは構想力について触れられることがな

い。

5  「しかし、すべての経験の可能性の制約を含み、それ自身は心性の他のいかなる能力からも導来されえ

ない三つの根源的な源泉(心の性能または能力)がある、すなわち感官と構想力と統覚とである」(①

A S.94)。第一版のみに依拠して、感性と悟性とを媒介する第三項を構想力に指摘するにしても、感性

と悟性をともに可能にする根源力、というなら誤謬推理に陥ることになる。

6  小論第一節のタイトルにもかかわらず、ここで概念の分析論から原則の分析論の前半に位置する図式

論に踏みこむのは、ハイデッガーの意図に沿って、超越論的構想力の媒介機能を議論に導入するため

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京都精華大学紀要 第三十八号 −195−

であり、演繹論の課題を批判哲学的論考全体から意義づけるためである。

7  ハイデッガー自身による評価については、「§31 ……超越論的構想力からのカントの退却」に詳しい

(Vgl.,② S.160ff.)。

8  「それゆえ演繹論全体の効果的な解釈の基準は、次のように表現できる。すなわち第20項と第26項の二

つのパラグラフは、見かけとは違い、異なった結論をもつ二つの論議とみなされるべきであり、これ

ら二つの議論がいっしょになって超越論的演繹論の証明を構成するということである。我々はこの課

題を、二段階証明の問題と名づけよう」。D.Henrich, Die Beweisstruktur von Kants transzendentaler

Deduktion, in: Kant:Zur Deutung seiner Theorie von Erkennen und Handeln , hrsg.von G.Prauss

,Köln 1973, S. 91.

9  ヘンリッヒは当該論文において、第二版の二段階証明の解読に即して演繹論の全体を、カテゴリーの

妥当性の証明が、カテゴリーが直観に関係づけられる可能性の論究に結びつけられる必然性において

解読し、第二版の説得力を証示しようとしている。

10  「カントの本文はきわめて錯綜しており、論証と暗示に満ちているので、その構成を突き止め、批判哲

学の全体系を担ういる証明構造をこの構成の内に探り当てることは、相当な困難を伴わずに成功する

ものではない」(Henrich, ibid., S.90)。

11  というのも、ここでは同じテーマに関する二つの証明ではなく、二つが合わさることで演繹論を構成

する二つの議論が求められなければならない、というのがカント自身の明記する解説だからである。

12 Kemp Smith, ibid., p.322.

13  カテゴリーの形而上学的演繹および超越論的演繹についてカントの厳密な証明構造の整合性について

は、『カント超越論的論理学の研究』(山口修二著 渓水社 2005年)を大いに参照した。

14  概念の分析論、第二章純粋悟性概念の演繹は、第一版では、第二節:経験の可能性へのアプリオリな

根拠についてとして、1直観における把捉の総合について、2構想における再生の総合について、3

概念における再認の総合について、という三段の総合をめぐる議論が登場する。それに対して第二版

で第二節:純粋悟性概念の超越論的演繹では、結合一版の可能性→統覚の根源的総合統一について、

となる。

15  時の脱自的性格についてハイデッガーは、マールブルク時代の講義録『論理学の形而上学的な始源根

拠』(1928年)の後半部ですでに集中的の取りあげている。Vgl., Metaphysische Anfangsgründe der

Logik im Ausgang von Leibniz ,§12, Gesamtausgabe Bd.26, Frankfurt a.M. 1978.

16  ハイデッガーの究明しようとする時間の逆説的様相については、拙稿「『現象学の根本問題』における

ハイデッガーの現象学的時間論」(京都精華大学紀要第32号 2007年)を参照。