アルベール・ロンドルと両大戦間のジャーナリズム - nanzan...

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― 87 ― アルベール・ロンドルと両大戦間のジャーナリズム 外国語学部 真 野 倫 平 はじめに アルベール・ロンドル(18841932)は両大戦間のフランスで活躍したジャーナリ ストである。彼は政治記者としてキャリアを積んだ後、第一次大戦後は特派員として 世界を駆けめぐり、さらに社会問題に鋭く切り込む数々のルポルタージュを発表した。 彼は『徒刑場にて』で徒刑場の苛酷な環境を、『ビリビ ダンテは何も見ていなかった』 でフランス軍懲治部隊の非人間性を、『狂人たちのもとで』で精神病院の患者たちの 悲惨な境遇を、『黒檀の大地』でフランス領アフリカにおける黒人奴隷売買の実態を、 『ブエノスアイレスの道』で南米のフランス人女性売春の現状を明らかにした。これ らのルポルタージュは大きな反響を引き起こし、しばしば関係当局の対応をうながし て改革を行わせる結果になった。こうしてロンドルは同時代における最も影響力の大 きなジャーナリストになった。1932年の突然の死によってその活動は断たれたが、 彼の仕事は後の世代のジャーナリストに大きな影響を与えた。今日ではその名は新人 ジャーナリストの登竜門である「アルベール・ロンドル賞」に残っている。 ロンドルについてはこれまでにいくつもの研究書が書かれている 1 。本論ではまず、 彼の生涯を概観しながら、その主要作品を紹介する。次に、両大戦間のジャーナリズ ムの状況を確認したうえで、彼のジャーナリストとしての特徴を明らかにする。最後 に、幾人かの研究者の解釈を参照しつつ、彼のルポルタージュにおける社会批判とそ の影響について検討する。以上の作業を通じて、このジャーナリストが残した仕事の 現代的意義を探ってゆきたい。 南山大学ヨーロッパ研究センター報 第 23 号 pp.87‒100 1 ロンドルの代表的な伝記としては、ポール・ムッセ『アルベール・ロンドルあるいはルポルター ジュの冒険』(1972)とピエール・アスリーヌ『アルベール・ロンドル リポーターの生涯と死』 (1989)がある。Paul Mousset, Albert Londres ou l aventure du grand reportage, Bernard Grasset, Paris, 1972 ; Pierre Assouline, Albert Londres. Vie et mort d un grand reporter 18841932, Balland, 1989 ; rééd. Gallimard « Folio ». また、フランスの代表的なジャーナリストを扱ったジャン・ ラクチュール『歴史を待ちきれぬ者たち』(2009)の一章はロンドルに当てられている。Jean Lacouture, Les Impatients de l histoire. Grands journalistes français de Théophraste Renaudot à Jean Daniel, Grasset, 2009.

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  • アルベール・ロンドルと両大戦間のジャーナリズム(真野倫平)

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    アルベール・ロンドルと両大戦間のジャーナリズム

    外国語学部 真 野 倫 平はじめに

     アルベール・ロンドル(1884―1932)は両大戦間のフランスで活躍したジャーナリストである。彼は政治記者としてキャリアを積んだ後、第一次大戦後は特派員として世界を駆けめぐり、さらに社会問題に鋭く切り込む数々のルポルタージュを発表した。彼は『徒刑場にて』で徒刑場の苛酷な環境を、『ビリビ ダンテは何も見ていなかった』でフランス軍懲治部隊の非人間性を、『狂人たちのもとで』で精神病院の患者たちの悲惨な境遇を、『黒檀の大地』でフランス領アフリカにおける黒人奴隷売買の実態を、『ブエノスアイレスの道』で南米のフランス人女性売春の現状を明らかにした。これらのルポルタージュは大きな反響を引き起こし、しばしば関係当局の対応をうながして改革を行わせる結果になった。こうしてロンドルは同時代における最も影響力の大きなジャーナリストになった。1932年の突然の死によってその活動は断たれたが、彼の仕事は後の世代のジャーナリストに大きな影響を与えた。今日ではその名は新人ジャーナリストの登竜門である「アルベール・ロンドル賞」に残っている。 ロンドルについてはこれまでにいくつもの研究書が書かれている1。本論ではまず、彼の生涯を概観しながら、その主要作品を紹介する。次に、両大戦間のジャーナリズムの状況を確認したうえで、彼のジャーナリストとしての特徴を明らかにする。最後に、幾人かの研究者の解釈を参照しつつ、彼のルポルタージュにおける社会批判とその影響について検討する。以上の作業を通じて、このジャーナリストが残した仕事の現代的意義を探ってゆきたい。

    南山大学ヨーロッパ研究センター報 第 23 号 pp.87‒100

    1 ロンドルの代表的な伝記としては、ポール・ムッセ『アルベール・ロンドルあるいはルポルタージュの冒険』(1972)とピエール・アスリーヌ『アルベール・ロンドル リポーターの生涯と死』(1989)がある。Paul Mousset, Albert Londres ou l ’aventure du grand reportage, Bernard Grasset, Paris, 1972 ; Pierre Assouline, Albert Londres. Vie et mort d ’un grand reporter (1884―1932), Balland, 1989 ; rééd. Gallimard « Folio ». また、フランスの代表的なジャーナリストを扱ったジャン・ラクチュール『歴史を待ちきれぬ者たち』(2009)の一章はロンドルに当てられている。Jean Lacouture, Les Impatients de l ’histoire. Grands journalistes français de Théophraste Renaudot à Jean Daniel, Grasset, 2009.

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    1 アルベール・ロンドルの生涯

     ここではまず、ポール・ムッセとピエール・アスリーヌの伝記に基づいて、ロンドルの生涯をたどることにする。彼は1884年にヴィシーで金物職人の息子として生まれた。1901年に17歳でリヨンの炭鉱会社の会計係に就職した。リヨンでは小説家アンリ・ベローらの友人を得て、仕事のかたわら詩作と友情の生活を送った。1903年に文学者を志してパリに移り、ジャーナリストとして記事を書きつつ詩作を行った。『時を追って』(1904)をはじめとする4冊の詩集を刊行し、その一方でリヨンの地方紙『ル・サリュ・ピュブリック』に、編集長エリー=ジョゼフ・ボワのもとで記事を執筆した。1906年に当時の四大日刊紙のひとつである『ル・マタン』紙の国会担当記者となった2(当時ガストン・ルルーが同紙の特派員を勤めていた)。 1914年に第一次大戦が始まると、ロンドルは陸軍省の担当記者となった。1914年9月にランスの町がドイツ軍に砲撃され大聖堂が火災に遭った。取材の命令を受けた彼は、戦禍で鉄道網が分断されていたため、カメラマンとともに自転車で現地にたどり着き、都市の混乱と大聖堂の火災を記事にした。「平原はまだ熱かった。積み藁の向こうに敵兵の死体がドイツ軍の進軍の最前線をしるしづけていた3」に始まるこの記事が、ロンドルにとって最初の署名記事となった。 その後、ロンドルはバルカン戦争直後のトルコ情勢について取材旅行を願い出たが、編集部に拒絶され、『ル・マタン』紙を辞職した。彼は『ル・プチ・ジュルナル』紙の記者となり、バルカン半島に渡ると、セルビア、ギリシア、トルコ、アルバニアを取材した。1917年に帰国すると、クレマンソー内閣の厳しい検閲のもとで戦場の取材を続けたが、次第に当局から要注意人物とみなされるようになった。1919年には戦後処理に揺れるイタリアを取材するが、その記事がクレマンソーの怒りを買ったことで、『ル・プチ・ジュルナル』紙を罷免された。 1919年にロンドルは『エクセルシオール』紙の記者となり、9月にフィウメ占拠を行ったダヌンツィオにインタビューを行った。11月に中東のダマスカス、12月にイェルサレムと、第一次大戦の戦後処理の係争の地を取材している。1920年3月には数年来望んでいたソヴィエト取材を実行に移し、レーニンとトロツキーの肖像を描き、ソ

    2 ラクチュールは、ロンドルが初期の国会担当記者の時代に読者の反応に対する鋭敏な感覚を身につけたと考える。「国会担当記者の7年間で、アルベール・ロンドルは、自分の通信記事が果実をもたらす前に根を下ろす土壌を知ることを学んだ。徒刑場の件でそのことが明らかになるだろう」(Jean Lacouture, op. cit., p. 186)。

    3 Albert Londres, Câbles & Reportages, Arléa, 2008, p. 21.

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    ヴィエト体制の悲惨な現状を報道した。1922年にアジア旅行に出発し、日本、中国、フランス領インドシナ、インドを取材した。これらのルポルタージュは大きな評判を呼び、ロンドルのジャーナリストとしての名声は日増しに高まった。 1923年はロンドルにとって転機の年となった。彼は『エクセルシオール』紙を辞職し、創刊したばかりの『ル・コティディアン』紙に移った。彼は「フランスの発見」と題してフランス各地を記事にしたが、やがてルール占領の記事をめぐり会社の方針と対立し辞職した。その後『ル・プチ・パリジャン』紙と契約したが、その編集長はかつて『ル・サリュ・ピュブリック』紙にいたエリー=ジョゼフ・ボワであった。ここにボワとの8年間にわたる密接な共同作業が始まる。 ロンドルは次の取材対象に徒刑場を選んだ。彼はフランス領ギアナのカイエンヌを取材し、徒刑囚たちの肖像と彼らの置かれた苛酷な状況を記事にして『ル・プチ・パリジャン』紙に掲載した。彼はそこで、囚人を矯正するはずの徒刑場が囚人を永遠に縛りつけ、彼らから社会復帰の機会を奪っている現状を暴露した。「徒刑場は、きちんと定められ調整された不変の懲罰装置ではない。それは計画も型もなしに不幸を生産する工場である。そこに徒刑囚を鍛え直すための型を見出そうとしても無駄である。その工場は彼らを押しつぶすだけであり、破片は散り散りになる4」。ロンドルはさらに、植民地大臣に宛てた公開状において徒刑場の改革を訴えた。これらの記事は大反響を呼び、後に徒刑場が廃止されるきっかけとなった5。 記事はやがて本にまとめられ、『徒刑場にて』(1923)として刊行された。これ以降、記事をまず新聞に発表し、さらにそれをまとめて本にして出版するというのがロンドルのひとつのスタイルとなる。彼の友人の作家アンリ・ベローがアルバン・ミシェル社で「グラン・ルポルタージュ」というシリーズを創設し、『徒刑場にて』はその第一弾となった。それは文学とジャーナリズムの融合した文学的ジャーナリズム6という新ジャンルの誕生をしるしづけるものであった。 1924年、ロンドルは次の取材対象として、北アフリカにあるフランス軍の懲治部隊であるビリビを選んだ。そこは上官による恣意的な暴力が支配する地獄のような世

    4 Albert Londres, Œuvres complètes, Arléa, 2008, p. 14.5 『徒刑場にて』の刊行後、ルイ・マラン議員による徒刑場改革が行われた。ロンドルは1924年9月の『ル・プチ・パリジャン』で「徒刑場は廃止された」と宣言したが、これは言いすぎであり、実際はギアナ徒刑場は1937年まで存続した。

    6 「一方の出版者の天職と他方の著者の天職が正確に符合した。[…]こうしてアルベール・ロンドルは自らの署名とギアナでの冒険物語によって、『書店のジャーナリズム』というこの新たな変化の真の大使となったのである」(Pierre Assouline, op. cit., p. 368)。

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    界であった。「これが軍隊刑務所の成果である! これはフランスにとって大きな恥辱である。[…]軍隊の正義を治めているのは規律ではなく無秩序である7」。記事は5月に『ル・プチ・パリジャン』紙に掲載され、今度は陸軍大臣に宛てた公開状が添えられた。『ビリビ ダンテは何も見ていなかった』(1924)は再び大反響を呼び、とりわけ軍隊関係者の反発は大きかった8。結局、陸軍大臣により調査委員会が派遣され、土木作業場の廃止等の改革が行われた9。同年、ロンドルはスポーツの分野に取り組み、ツール・ド・フランスの取材を行った。彼は自転車に特別な関心はなかったが、選手たちを「街道の徒刑囚たち」と呼びその苛酷な戦いを描いた。 1925年、ロンドルは精神医学を取材対象に選び、フランス各地の精神病院の実態を取材した。取材するうえでさまざまな障害にぶつかった彼は、狂人を装い病院にもぐりこむことまで試みた。彼はそこで、精神病院が患者の治療よりも、患者の社会からの排除を優先させていることを批判した。「われわれの義務はわれわれを狂人から解放することではなく、狂人を狂気から解放することである10」。その意味で、これもまた精神病院という牢獄に幽閉された囚人たちの取材であった。記事は『ル・プチ・パリジャン』紙に掲載された後、『狂人たちのもとで』(1925)として出版された。同書は好評をもって迎えられたが、一方でアリエニストと精神科医の強い反発を呼んだ。同年11月、ロンドルはシリアのエッドゥルーズ山地で起きたシリア大反乱を、1926年5月にはワルシャワで五月革命を、夏には港湾都市マルセイユを取材した。 1927年、ロンドルは白人女性売買を取材するためにアルゼンチンに赴いた。毎年多くのフランス人女性が組織的に南米に送られ、売春に従事させられていた。彼はブエノスアイレスで女衒と売春婦を取材し、「やくざ社会」の実態を明らかにしたうえで、社会的貧困が女性たちを売春に追いやっていると指摘した。「女性の売春の根底には

    7 Albert Londres, Œuvres complètes, p. 191.8 元下士官でドゥエラの看守であったフランシス・ドレは『アルベール・ロンドルは何も見なかった』(1930)を出版してロンドルに反駁した。Francis Doré, Albert Londres n’a rien vu. Deux ans à Biribi, Paris, Figuière, 1930.

    9 ドミニク・カリファ『ビリビ フランス軍植民地徒刑場』(2009)によれば、ロンドルの書はジョルジュ・ダリアン『ビリビ』(1890)とならんで、ビリビの存在を問い直した重要な作品であった。それは世論を動かし改革をうながしたが、その効果は一時的なものであった。「しかしこれらのキャンペーンは効果がなかった。世論において平和主義が反軍国主義に続き、ビリビの問題は土木作業所の閉鎖の後は下火になった。[…]軍隊徒刑場が再び問題になるにはアルジェリア戦争を待たねばならない」(Dominique Kalifa, Biribi. Les bagnes coloniaux de l ’armée française, Perrin, 2009, p. 54―55)。

    10 Albert Londres, Œuvres complètes, p. 258.

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    飢餓が存在する。一瞬たりともこの点を見失ってはならない11」。これらの記事は『ブエノスアイレスの道』(1927)として刊行され、再び大反響をもって迎えられた。 ロンドルがかつてギアナの徒刑場で取材した徒刑囚ウジェーヌ・デュードネが脱走した。彼はアナーキストのボノ団の一員として有罪判決を受けて服役していた。彼の無罪を信じるロンドルは、ブラジルで彼に接触し、『ル・プチ・パリジャン』紙上でキャンペーンを展開し、ついに恩赦を獲得した。その記録は後に『脱走した男』(1928)として刊行された。 1928年、ロンドルはフランス領西アフリカを取材し、いまだに黒人奴隷売買が存続している事実を明るみに出し、植民地会社による奴隷の非人間的な扱いを批判した。「憔悴し、監督に乱暴に扱われ、ヨーロッパの監視から離れ[…]、傷つき、やせ細り、悲嘆に暮れ、黒人奴隷たちは大量に死んでいった12」。記事は『ル・プチ・パリジャン』紙に掲載され、今度は植民地相に宛てた請願書が添えられた。これらの記事は『黒檀の大地』(1929)として刊行され大反響を呼んだが、一方で植民地推進派の激しい反発を呼んだ。 1929年、ロンドルはユダヤ人迫害の問題に取り組んだ。彼はロンドンでシオニズム組織を取材したあと、中央ヨーロッパに赴き、チェコ、トランシルヴァニア、ポーランドでユダヤ人の足跡を追い、彼らの迫害の歴史を描き出した。さらに、パレスティナでユダヤ人とアラブ人の双方の取材を行い、今日まで続くパレスティナ問題を明るみに出した。記事は『ル・プチ・パリジャン』紙に掲載された後、『さまよえるユダヤ人は到着した』(1931)として刊行された。 1930年、ロンドルは今度はイスラーム教徒を取材対象に選び、聖都メッカに潜入する計画を抱いた。しかしメッカ取材は実現せず、やむをえず紅海沿岸の真珠採り漁師の取材を行った。伝統的な真珠取りの技術と漁師の苛酷な生活を描いた記事は、翌年に『真珠採り』(1931)として刊行された。1931年、ロンドルはバルカン半島に赴き、内部マケドニア革命組織のテロリストを取材した。記事は『ル・プチ・パリジャン』紙に掲載された後、『コミタージ』(1932)として出版されたが、これが彼の生前に刊行された最後のルポルタージュとなった。 1931年秋、ロンドルは次の取材地に中国を選んだ。彼は当時、長年の苛酷な取材で疲弊し、編集長のボワとも不仲に陥っていた。中国の取材旅行をめぐりボワと衝突したロンドルは、『ル・プチ・パリジャン』紙を辞職した。彼は『ル・ジュルナル』

    11 Ibid., p. 469.12 Ibid., p. 630.

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    紙と破格の条件で契約を結び、1931年末に中国に向けて出発した。1932年1月に上海に到着し、『ル・ジュルナル』紙に記事を掲載して日中戦争の経過を報告した。しかし彼は並行して別のテーマで取材を行っていたという。5月にフランスへの帰途につき、中国からフランスに向かう客船ジョルジュ・フィリッパール号に乗船した。しかし航海中に火災が発生し、67名の犠牲者が出た。その中にロンドルも含まれていた。中国での取材原稿は火災で消失し、その内容は不明である。この火災と彼の不慮の死については、事故か謀殺かをめぐってさまざまな憶測があるが、真相は闇に包まれている13。

    2 ロンドルのジャーナリストとしての特徴

     50年に満たない短い生涯にもかかわらず、ロンドルはジャーナリストとして目覚ましい仕事を成しとげた。彼は特派員として世界中を駆けめぐり、第一次大戦後の揺れ動く国際情勢をさまざまな角度から描き出した。そしてさらに、徒刑場、ビリビ、精神病院、植民地、売春宿といった、一般人の知らない領域に潜入し、隠された真実を明るみに出した。それでは、両大戦間のジャーナリズムの状況を確認しながら、ロンドルのジャーナリストとしての特徴について検討することにしよう。 ロンドルが活躍した時代はヨーロッパのジャーナリズムの転換期であった。帝国主義の時代以降、国際情勢への関心はますます高まり、世界を駆けめぐるジャーナリストは華々しく脚光を浴びた。その一方で、第一次大戦中のプロパガンダ的報道に対する反動として、ジャーナリズムへの不信が広がった14。そのような状況においてジャーナリストのイメージは、非凡な文才と豊富な知識を備えた特権的存在から、現場に飛び込み独自の視点から情報を集める行動者へと変貌する。「20世紀初頭には、偉大なジャーナリストは立場の明確な才能ある論争家であった。[…]しかし彼らは肘掛椅子からほとんど動かなかった。戦争終了以来、精神的動揺、帝国の開放、国際的対立のせいで、優先順位が多少変わった。偉大なジャーナリストとはまず、偉大な旅行家

    13 ロンドルの最後の取材と帰途のフィリッパール号の事故については、さまざまな研究がなされている。Régis Debray, Sur la mort d ’Albert Londres, Arléa, coll. « Arléa Poche », 2008 ; Jean-Paul Ollivier, Mon père, Albert Londres et le « Georges Philippar », éditions Glénat, 2010 ; Bernard Cahier, Albert Londres, Terminus Gardafui. Dernière enquête, dernier voyage, Paris, Arléa, 2012.

    14  「『ジャーナリストほど非難される職業はない。これほどへつらわれる職業もない』。ロベール・ド・ジュヴネルが『同士たちの共和国』でそう書いたのは1913年だった。この職業は当時、このような明らかな逆説に陥っていた」(Pierre Assouline, op. cit., p. 65―66)。

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    であり、ペンと現場の人間である15」。ロンドルの活動はまさしく、このような時代の要請に応えるものであった。 すぐさま現場に駆けつける行動力、苛酷な環境に順応する適応力、簡潔で明晰な文体、主観的体験に基づく臨場感あふれるレポート、これがリポーターとしてのロンドルの身上であった。「彼の文章は短く、単純で、直接的である。主語、動詞、補語。これが彼の理想の書き方である。簡潔さが規則である。[…]早く、速く。アルベール・ロンドルは自分自身をルポルタージュの舞台に乗せる。それが彼の物語の軸となり、原動力となる16」。その意味で、ランス砲撃に関する最初の署名記事は、すでに彼のこうしたスタイルの一端を示している。 しかしロンドルは、特派員として事実を伝えるだけでは満足しなかった。1923年のギアナの徒刑場の取材が、彼のジャーナリストとしての意識を大きく変えることになる。彼は徒刑場の囚人たちと言葉を交わし親密な関係を結んだ。これらの恐るべき重罪人たちは、一人ひとり接してみると、弱さを抱えた普通の人間にすぎなかった。それは社会から排除され不遇に苦しむ周辺者であった。「正義よ! なんじは今日まで私にとってただの言葉にすぎなかった。なんじは女神となり、私はもうその視線に耐えられない。懲罰において各自にふさわしい罰を与えることができる、まっすぐで自信に満ちた魂の持ち主は幸いである。私の良心は自分の認識にそれほど自信を持てない17」。 ロンドルはこれらの周辺者に対して終生特別な関心を抱くことになる。それはあるときは徒刑囚、あるときは軍隊懲罰者、あるいは狂人、ユダヤ人、黒人奴隷、そして売春婦や女衒であった。『ブエノスアイレスの道』において、ロンドルはこれらの発言力を持たない者たちに、自らの声を貸し与えることを宣言する。「社会が自らを脅かすものや、養いきれないものを処分する穴の中に、私は降りてゆこうとした。誰も見ようとしないものを見ようとした。既判事項を裁こうとした。[…]もはや話す権利を持たない者たちに、たとえ小さくても、声を貸すのは称賛すべきことだと私は考えた18」。 そのときジャーナリストの役割は一変する。それはもはや社会を冷静に観察する傍観者ではない。それは圧政や貧窮に苦しむ犠牲者に救いの手を差し伸べ、社会の不正を正す者となる。アスリーヌはこの変化についてこう説明する。「この生来の傾向は

    15 Ibid., p. 285―286.16 Ibid., p. 357.17 Albert Londres, Œuvres complètes, p. 100.18 Ibid., p. 469.

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    1923年以降さらに顕著になり、そのとき、読者に情報を与えるために編集部に雇われたこの給与付き遊歩者は、過ちを正す者に変身する19」。そのためにジャーナリストは、社会の病巣を白日のもとに置く必要がある。たとえそれが善良な市民に不快な思いをさせ、ときには被害者自身に痛みを与えるとしても。ロンドルは『黒檀の大地』において、ジャーナリストの使命をこう定義する。「われわれの職業は人を喜ばせることでも、人に迷惑をかけることでもなく、傷口にペンを差し入れることである20」。 ロンドルのこのような挑戦的な姿勢は、ときに激しい反発を呼んだ。しかし彼はおのれの方針を曲げようとせず、編集部と衝突して新聞社を替えることもしばしばであった。ロンドルが『ル・コティディアン』紙を辞職したさい、「あなたのルポルタージュはこの新聞の路線に合わない」と言う同僚たちに対して答えた「リポーターはひとつの路線しか知らない。鉄道路線だ21」という言葉は、ジャーナリストの独立不羈の姿勢を表すものとして知られる。 ロンドルはこうして「過ちを正す者」として、風車に立ち向かうドン・キホーテのように、社会に巣食う不正を次々と暴き出した。読者は熱狂し、そのたびに掲載紙の発行部数は跳ね上がったという22。世論の熱狂はしばしば当局を動かし改革を実行させるに至った。ムッセはロンドルの圧倒的な人気と影響力についてこう述べる。

    12年か15年のあいだに、フランス人は彼の記事を読むことに慣れてしまった。彼が不正を告発し、大衆が既判事項と思い込んでいた多くの状況に証拠を突きつけて異議を唱えるとき、彼を信頼することに慣れてしまった。12年か15年のあいだに、大衆は無意識のうちに、うまくいかないことが暴かれて修正されるために、アルベール・ロンドルを頼りにするようになっていた23。

    3 ロンドルの社会批判とその影響

     ひとりのジャーナリストがこれほどまでに大きな影響力を発揮したことは注目に値

    19 Pierre Assouline, op. cit., p. 355.20 Albert Londres, Œuvres complètes, p. 541.21 Pierre Assouline, op. cit., p. 301.22 「公衆は[…]彼の毎年の調査を期待に胸をふくらませて待っていた。そのたびに、『ル・プチ・

    パリジャン』紙だけを取り上げても、発行部数は飛躍的に跳ね上がった」(Paul Mousset, op. cit., p. 365)。

    23 Ibid., p. 18.

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    する24。ここで幾人かの研究者の見解を取り上げ、ロンドルのルポルタージュにおける社会批判とその影響について検討することにしよう。 アスリーヌは、ロンドルの社会批判は大きなスキャンダルを引き起こしたが、かならずしも反体制的な性格を持っていなかったと指摘する。たとえば『ビリビ』において、ロンドルは軍隊刑務所の苛酷な現状を暴露したが、それが軍部や植民地政策への攻撃となることを巧みに回避していた。

     アルベール・ロンドルの弁論の力はそこから来ていた。もし彼が軍隊刑務所の廃止を推奨したら、訴えは聞き入れられ、事件は解決済みとなり、彼自身は危険な反体制派か無責任な理想家に分類されただろう。しかし彼は公衆と指導者たちの心を動かした。なぜなら彼は軍隊もその体制も非難しなかったからである。彼はそれらに敬意を払い、下士官たちにイスラエルの罪を負わせ、古すぎる組織の改正を呼びかけたのである。 […]というのもアルベール・ロンドルは、ビリビにおいてもカイエンヌと同様に、スキャンダルを激しく告発しながらも、巧みに反軍国主義や反植民地主義に陥らないようにしていたからである。社会は揺さぶられた、しかし彼はその土台となる柱には決して触れなかった25。

     『黒檀の大地』における植民地批判についても同様の点を指摘できる。ロンドルは同書でアフリカにおけるフランス植民地の荒廃と黒人奴隷の置かれた苛酷な状況を暴露した。しかし彼は同時代の多くの知識人と同様に、基本的にはフランスによる植民地開発を支持していた26。それゆえ彼が求めるのは、あくまで植民地の人道的で効率的な経営であり、決して植民地の廃止ではなかった。「彼は政府のアフリカ政策の透明性を増すよう訴え、膿を出すよう世論を誘導した。[…]彼の言葉は憤りの言葉で

    24 もちろんその背景には、当時はルポルタージュの創成期でジャーナリストの競争がそれほど激しくなかったという事情もある。「現代の特派員は不運である! アルベール・ロンドルは幸運である! 彼は何日も、ときには何週間も使うことができた。それにひきかえ今日の特派員は絶え間なく腕時計と相談しなければならない」(Ibid. , p. 43)。

    25 Pierre Assouline, op. cit., p. 391.26 1922年にフランス領インドシナを訪れたさいにロンドルが書いた記事は、そのあまりに楽天的な植民地像ゆえに多くの植民地住民の反発を買ったという。「多くの植民地住人はこのイメージについて決してアルベール・ロンドルを赦さないだろう。[…]ロンドルは昔からエピナル版画の征服と平定の解釈に親しんできただけに、あまりに理想主義者であった」(Ibid., p. 262)。

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    ある。しかし彼の発言は蜂起への呼びかけではない27」。 『ブエノスアイレスの道』における売春批判についても同様のことが言える。ロンドルは、南米におけるフランス人売春婦の苦境を描きながら、かならずしも売春斡旋行為そのものを非難しなかった。それは、女衒と売春婦のあいだに、一方的な搾取ではなく相互的な協力があると考えたからである28。結果として、ロンドルは売春婦のみならず女衒に対しても寛大な理解を示し、売春の現状を容認することになる。「社会の周辺者や逸脱者の肩を持つあまり、彼は情夫と鎖につながれたその連れ合いを、カイエンヌの徒刑囚やビリビの留置人と一緒くたにした。これは後者の人々にとってあまり愉快なことではなかった29」。 アスリーヌは、ロンドルは特定の政治的党派性を持っていなかったと指摘する。「彼は伝えるべき政治的、社会的メッセージを持たなかった。[…]社説はまったく彼の専門ではなかった30」。ムッセも同様に、ロンドルには一貫した思想的体系が欠けていたと指摘する。「アルベール・ロンドルは、その政治的判断のいくつかが示すように、ゴビノーともトクヴィルともまったく似ていない。彼は本質的にひとつの眼であり、ひとつの心であった31」。ロンドルには政治的な党派性や思想的な体系性は希薄であった。しかしそれゆえに彼の記事は、かえって党派を超えた広範な読者に受け入れられる結果になった。 別の研究者の見解を取り上げよう。ディディエ・フォレアスは『黒檀の大地におけるアルベール・ロンドル』(初版1998)において、『黒檀の大地』に描かれたアフリカ像を分析する。フォレアスによれば、ロンドルのアフリカに関する記述には、当時流行していたエキゾチシズムや人種理論の影響は見られない32。ロンドルは同時代のステレオタイプに左右されることなく、自らの目でアフリカの現状をとらえ、主観的なビジョンをそのまま読者に提示する。読者はジャーナリストに同一化し、その個人

    27 Ibid., p. 490.28 「幸運なことに、『やくざ社会』がある。やくざ社会とは女性を活用する男たちの組合である。[…]それはひとつの同業組合である。いや、ひとつの国家である」(Albert Londres, Œuvres

    complètes, p. 416)。29 Pierre Assouline, op. cit., p. 461.30 Ibid., p. 201.31 Paul Mousset, op. cit., p. 149.32 「このルポルタージュにはエキゾチシズムのかけらもない。この時代には稀なことである」(Didier Folléas, Albert Londres en Terre d ’ébène, arléa, 2009, p. 71)。「しかしながら、1920年代の旅行者においてはかなり例外的なので記しておくと、『黒檀の大地』には深遠で理論化された人種主義は絶対にない」(Ibid., p. 75)。

  • アルベール・ロンドルと両大戦間のジャーナリズム(真野倫平)

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    的な体験を追体験する。フォレアスはこのようなスタイルに、後のニュー・ジャーナリズムに通じる方法を認める33。フォレアスによれば、ロンドルのルポルタージュは裁判のように構成されている。すなわち、ロンドルは悲惨な現状を説明なしに読者の目の前に置き、読者は陪審員として自ら判断を下すことを迫られる。「われわれはこうして一気に陪審員になる。われわれは、人間の条件の悲劇に立ち会い、それから憤慨し、次に赦しを与え、そして改革を求めるよううながされる。最終的に、啓示者にして造物神、検事にして弁護士であるジャーナリストは、すべての者のために憐憫と理解を求める。どれほど哀れで軽蔑すべき者であれ、誰もが持つはずの尊厳の名において34」。とはいえ、この裁判はかならずしも植民地主義を一方的に糾弾するものではない。党派性を超えて「すべての者」を理解しようとすることは、ともすれば責任の所在を曖昧なままにしてしまう35。 ジェラルディーヌ・ミュルマンは『ジャーナリズムの一政治史』(2004)において、社会の不正と戦うジャーナリストという「アルベール・ロンドル神話」を解体しようとする36。彼女はアスリーヌが指摘する1923年の断絶についても、それ以降の「過ちを正す者」という役割についても懐疑的な態度を取る37。ミュルマンによれば、ロンドルのジャーナリストとしての特徴は、異質なものを説明するのではなく、異質なままに示そうとする姿勢にある。そこでは、主体である「われわれ」と対象である「他

    33 「次に彼は自分の感情、自分の笑い、自分の憤懣をわれわれに共有させる。[…]われわれはしまいに彼に同一化する。アルベール・ロンドルはたまたまひとつの命題を擁護する――彼は読者が自らそれを発見して自分のものにするにまかせる――それを明確に述べることなしに。このやり方は多くの点で、何年か前にニュー・ジャーナリズムと呼ばれたものと類似している」(Ibid., p. 82)。

    34 Ibid., p. 78.35 たとえばロンドルは『黒檀の大地』において、植民地の荒廃の責任を宗主国に求める。「過ちは誰にあるのか。過ちは植民地よりも本国にある」(Albert Londres, Œuvres complètes, p. 541)。また『ブエノスアイレスの道』では、女性売春の責任を貧窮を放置するフランス社会に求める。「責任はわれわれにある。それを逃れるのはやめよう」(Ibid., p. 472)。とはいえこのような漠然とした追及は責任の所在をかえって曖昧にしてしまう。

    36 「おそらくこの点についてロンドルのエクリチュールを分析するためには、彼のルポルタージュがその時代に引き起こした反応や、しばしば持ち出される『アルベール・ロンドル神話』にあまり影響されてはならない」(Géraldine Muhlmann, Une histoire politique du journalisme. XIXe-XXe siècle, « Points », Presse Universitaire de France, 2004, p. 158)。

    37 「実際、より『社会参加』したこれらの新たなテクスト[…]を検討するかぎり、断絶を語るのはいきすぎであろう。そしておそらく『過ちを正す者』という表現も言いすぎである」(Ibid., p. 165)。

  • 南山大学ヨーロッパ研究センター報 第 23 号

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    者」の境界は、伝統的なジャーナリズムにおけるように確認され補強されるのでも、ニュー・ジャーナリズムにおけるように破壊され解消されるのでもない38。その意味で、同時代に与えた社会的影響の大きさにもかかわらず、ロンドルは基本的に非政治的なジャーナリストである。「反対に、明らかにすべきはあるがままの異質性であり、異質なものの到来が引き起こす紛糾である。それはまさに、世界を『われわれ』と『他者』に二分することの困難である。その意味でこの視線は政治的により『明確』でない39」。ミュルマンは「リポーターはひとつの路線しか知らない。鉄道路線だ」というロンドルの有名な言葉についても、ジャーナリストの政治的自由の宣言ではなく、非政治的である自由の宣言と解釈する40。ロンドルは対象と一定の距離を保つことで、対象を説明なしで読者の目の前に置き、読者に自分で判断を下すよううながすのである。「これは実り豊かな距離である。この距離は物事を異質なものにし、それを見るリポーターの背後に集まった人々に問いを投げかける41」。

    おわりに

     アルベール・ロンドルは両大戦間のフランスにおいて、社会問題に鋭く切り込む数々のルポルタージュを発表した。彼は大衆の興味を引くものを嗅ぎつける嗅覚と、現場に飛び込む行動力、その世界を生き生きと描き出す筆力を備えていた。結果として、彼のルポルタージュは読者の熱狂的な支持を獲得し、関係当局の対応をうながして改革を行わせることになった。 とはいえすでに見たように、ロンドルは決して反体制的な思想の持ち主ではなかった。彼は人並みの愛国者であり、政治的党派性はむしろ希薄であった。彼が選んだ取材対象、すなわち植民地、異民族、犯罪者、売春婦、精神異常者などは、いずれもベル・エポックの大衆ジャーナリズムが好んで取り上げた主題であり、20世紀初頭の

    38 この点において、ミュルマンはフォレアスと異なり、ロンドルとニュー・ジャーナリズムの相違を強調する。「たしかに、この異質性は『われわれ』を試練にかける。しかしこのルポルタージュの目的は、ニュー・ジャーナリズムにおけるように、この異質性を測定し、それが何であれ(失敗を覚悟で)理解しようとし、『われわれ』と『他者』の境界をできるかぎり動かすことではない」(Ibid., p. 169)。

    39 Ibid., p. 158.40 「ロンドルはここでリポーターが自分の階層と異なる政治的路線を取る権利を擁護しているのではない。それを取らない権利を擁護しているのだ。それは社会参加の権利についての言葉ではなく、いわば参加しない権利についての言葉なのだ」(Ibid., p. 164)。

    41 Ibid., p. 184.

  • アルベール・ロンドルと両大戦間のジャーナリズム(真野倫平)

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    ブルジョワ社会の一般的な関心を反映している。彼はただ、これらの対象の隠された部分に光を当てることで、読者の新たな関心を呼び覚ますすべを心得ていた。 ロンドルのルポルタージュが大きな反響を引き起こしたのは、決してそのスキャンダラスな内容のせいだけではない。彼は記事の党派性を抑えることで、より広範囲の読者の心をとらえることに成功した。また、対象を説明なしに読者の目の前に置くことで、読者自身がそれについて主体的に判断を下すよううながした。すでに見たように、ロンドルのこのようなスタイルは現代の多くの研究者の関心を呼び、さまざまな解釈を引き出している。その意味で彼が残した仕事は、ジャーナリズムとその社会的影響を考えるうえで、今日なお重要な問題を提起している。

    付記

     本論文はJSPS科研費26370373ならびに2016年度南山大学パッへ研究奨励金I-A-2の助成による研究成果の一部である。