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人文研究大阪市立大学文学部紀要 45 巻第 8 分冊 1993 21 頁,_ 46 -21- マーラー・ ミュラーの 『フ ァ ウスト 博士』 ー シ ュ トゥノレム ・ウント ・ドラングと民衆文学のあいだ- 広瀬千 マーラー・ミュラー (MalerMuller ヒ ・ミュラー (FriedrichMuller) というが,画業を天職とこころえ, 自ら マーラー (画家〉と名乗ったため,通常そう呼ばれている。彼はゲーテと同 じ年の生まれであるが,その境遇は上流市民階級のゲーテとは大いに異な り,プファルツの小さな町のパン屋兼宿屋の息子として生まれた。ギムナ ジ ウムの生徒であったときに父親を亡くしたため中退し,家畜の世話をし,家 業を支えなければならなかった。その後ツヴァイブリュ ッケンの美術学校で 絵の修業をし,ついでマンハイムの美術学校に移っている 。1774 年か ら 4 間プファルツ選定侯の宮廷画家の職にあり, 1778 年から死ぬまで絵の修業で ローマに滞在したが,画家として成功を収めることはできなかった。 この間 1774 年に詩人としてのデビューを果たし,それまでの現実感の薄い Idylle (回国詩〉に日常生活のリアルな描写を導き入れ, Idylle ジャンルの変革者と して現在にいたるまで高い評価を受けている。劇作は,本論が取り扱う 『ファウスト博士J の他に,同じくドイツの伝説に材をとった 『ゴーロとゲノ フェーファ j (1781) などがある。彼の劇作は,シュトゥルム ・ウント ・ドラ ング的な要素を濃厚にたたえているが,それはゲーテ,レンツ,クリンガー, ヴァーグナーなどの劇作とはかなり異なったものである 。 ミュラーの故郷プファルツの農民生活を歌った Idylle W 羊毛刈り j (Die Schaf-Schur) のなかに,彼の芸術観を表明している部分があるので,まずそ れを取り上げてみたい。羊飼いの父親とその息子が歌のことで言い争いをし ている。素朴で自然な「古い歌」を大事にする父親は,知的で技巧的な「新 (613) ー±型 Fー, .

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人文研究大阪市立大学文学部紀要第 45巻第 8分冊 1993年 21頁,_46頁

-21-

マーラー・ ミュラーの 『ファウスト 博士』

ーシュ トゥノレム ・ウント ・ドラングと民衆文学のあいだ-

広瀬千 一

マーラー・ミュラー (MalerMuller 1749~1825) は,本名をフリードリ

ヒ・ミュラー (FriedrichM uller)というが,画業を天職とこころえ, 自ら

マーラー (画家〉と名乗ったため,通常そう呼ばれている。彼はゲーテと同

じ年の生まれであるが,その境遇は上流市民階級のゲーテとは大いに異な

り,プファルツの小さな町のパン屋兼宿屋の息子として生まれた。ギムナ ジ

ウムの生徒であったときに父親を亡くしたため中退し,家畜の世話をし,家

業を支えなければならなかった。その後ツヴァイブリュ ッケンの美術学校で

絵の修業をし,ついでマンハイムの美術学校に移っている。1774年か ら4年

間プファルツ選定侯の宮廷画家の職にあり, 1778年から死ぬまで絵の修業で

ローマに滞在したが,画家として成功を収めることはできなかった。この間

1774年に詩人としてのデビューを果たし,それまでの現実感の薄い Idylle

(回国詩〉に日常生活のリアルな描写を導き入れ, Idylleジャンルの変革者と

して現在にいたるまで高い評価を受けている。劇作は,本論が取り扱う

『ファウスト博士Jの他に,同じくドイツの伝説に材をとった 『ゴーロとゲノ

フェーファj(1781)などがある。彼の劇作は,シュトゥルム ・ウント ・ドラ

ング的な要素を濃厚にたたえているが,それはゲーテ,レンツ,クリンガー,

ヴァーグナーなどの劇作とはかなり異なったものである。

ミュラーの故郷プファルツの農民生活を歌った IdylleW羊毛刈りj(Die

Schaf-Schur)のなかに,彼の芸術観を表明している部分があるので,まずそ

れを取り上げてみたい。羊飼いの父親とその息子が歌のことで言い争いをし

ている。素朴で自然な「古い歌」を大事にする父親は,知的で技巧的な 「新

(613)

ーー±型Fー,

.

-22 -

しい歌」を好む息子と対立している。そこへ学校教師が持参した 「新しいJIdylleの本を見て,彼はこう批判する。

「こんなしろものは,心底楽しくも,心底悲しくもないわし、。みんな頭のな

かのこさえものだ。寛大さだとかなんだとか,百もごたくを並べるが,学校

教師のおしゃべりと同じで,農民には何の関係もないことだ。毎日わしらの

自の前で起こること,心に響くこと,そんなことについては一言 も触れてお

らん。Jl

学校教師は反論して言 う。

「もし詩が,あんたの言うよ うに,自然、な,ありふれた,簡単なものである

とすると,才能を内に感じている人間は,自,然、を見回し,あちこちに注意を

払い,ひとがよく 言うよ うに人間を研究するだけでよい。そして心に感じる

ところを書き伊せばよいということになる。そんなことは,まったくもって

簡単なことだ。 しかし,学問のある者にとって,それかなんだというのだ。

どこに高貴なところがある。どこに趣味のよさや,美や,学識があるという

のだ。J2

ミュラーはこの対話のなかに,彼の文学の基本姿勢を表明している。学校

教師の,主張するような,主知的で高尚な詩とは,単に Idylleというジャンル

の枠を越えて,同時代の教訓性や理念性の勝った啓蒙主義的文学や美的,技

巧的文学全般を指し示していると考えることができる。ミュラーはそれに対

して,上述の父親の口を借りて,自然で (naturlich)素朴な (naiv)文学を

主張している。

彼の芸術観には,故郷での現実の自然体験が大きな影響を与えている。彼

は小さい時から,民衆が生活を営む自然に接し,人間と自然が濠然、一体化し

た風累a になれ親しんで育った。こうした自然体験のなかから,彼の Idylleは

生まれた。彼の Idylleの世界は,人も物象も空間も感覚的な生気をおび,独

自のイメージと雰囲気にみち,すべてが大地から生じた実在性をそなえてい

る。こういう,いわば土の匂いのするリアリティをミュラーは求めたのであ

る。

「自然、」はシュトゥルム・ウント・ドラングの詩人たちにとって,芸術創造

の最高の基準となる概念であったが, ミュラーもある詩において,芸術家に

ついて次のように歌っている。

神がおまえに与えた目と心のままに

(614)

マーラー・ミュラーの 『ファウスト博士j -23-

おまえの世界を観るがよい

[ . . . ]

とりわけ自然、を信頼せよ

自然のあとをたどってこそ,おまえは芸術家なのだ

自然がなければ,芸術とは何ものか

児戯に等しい無駄骨折りだ 3

シュトゥルム・ウント・ドラングの運動を担った人々は異口同音に, i自

然」を唱え,その名のもとに,生の実態を反映し,生の実感を表現した芸術

を求めた。彼らの考え万は,おおむねリアリスティ ックな表現という点で一

致してはいるが,彼らの創造した芸術は,その関心の向き方によ って,さま

ざまな現われ方をした。ゲーテは,自然の根源的生命力と人間の内面の呼応

に関心を向けた。 レンツやヴァーグナーは社会的現実に同を向けた。 レンツ

はまた, i自然、」という概念、のもとに,個性的なものを重視し,そのためにカ

リカチュア的表現を多く用いた。ク リンガーは心理的な方面に関心を抱き,

異常心理を表現した。ミュラーは, i自然Jという名のもとに,民衆を含めた

人聞を,その生活が営まれる環境,その雰囲気,それをとりまく自然のなか

に,それらと一体のものとして捉えようとした。

彼の『ファウスト博上』にも,土の匂いのする民衆が春場し,その演劇空

間の実在感を高めている。たとえば,ユダヤ人のイーツィクとマウシェルが

独特の俗語をもちいて滑稽なやりとりをする場面や,裁判所の下役人シュト

リックとファングの対話の場面,また点景として現われる夜回りなどには,

それぞれの生活圏の匂いが漂っている。彼らの場面には,民衆的なものの雰

囲気が,滑稽なグロテスクさのなかにリアリティをもって捉えられている。

ミュラーは以上のように,民衆的リアリズムとでも呼ぶべき芸術手法を採っ

ているが,他方彼の文学のもうひとつの特色は,おそらく彼の絵の才能と深

く結び、ついていると思われる豊かなイメージ性である。陰影と色彩にみちた

イメージによって彼は, 情景に独自の雰囲気を生じさせる。『ファウスト博

士』から例をあげると, ファウストが悪魔を呼び出すために真夜中の森に入

り,悪魔が現われるとされる十字路に立つ場面で、の彼の台詞は,次のように

なっている。

「真夜中だ。善良な生きものはすべて眠っている。一一墓場や,刑場からは

呪わしい霊どもが立ち昇ってきて,空中をさ迷いはじめる。彼らの永劫の罰

(615)

-24ー

を受けた肉体は朽ちてゆく 。一一それらは,巣のうえで卵を抱いている泉の

ように,おのれの縄憾のかか っている場所を守 っている。一一おれは覚悟か

できてしゅ。一一月が夜の胸のなかにもくりこむ。まるで眼下の地上で起こ

ることを見たくないかのようだ。Jここにはファウストの内部の幻惣と外的情景とがひとつに融合し,独自の

不気味な雰開気かかもしだされている。

2

とュラーの rファウスト時士jは未完に終わり,四つの断片が残されたが,

そのうち披も大きな断片である, 1幕に相当する部分 『ファウスト博士の生

涯と死Jの出版にあた って,彼はRij書きをつけ執筆の動機と意図について次

のようなことを述べている。

彼は, rファウスト』の物語に,子供の時からなれ親しんできた。成長しで

も,それは常に彼を喜ばせ,驚嘆させ,いつもそれは 「イマジネーションを

かきたててくれる装置」であった。そして,その主人公を邪悪な,あるいは

くだらない人物だと考える人々に対して,弁護したいという思いが次第に大

きくなってきた。li不リ己心 (Eigennutz)と自己愛(Eigenliebe)が世界を動

かす装間である」 とすれば, iこの強力で桁はずれな男 (derstarke, grose

Kerl) Jには,自分の満足を追求する権利がある。その際彼は,勇気をもって

いるがために,世界を越え出ていくことになる。人生において,ひとは自分

を越え出ていこうとする瞬間をもっ。「きわめて優れた男は,法や正義にかま

わずに,自分を越え出ていこうJとするものだ。 s

もうひとつ要領を得ない「前書きjを整理するとだいたい以上のようにな

る。つまりミュラーの意図は,一方では民衆本や人形跡jに表現されたファウ

スト伝説の民衆的で空惣的な世界を戯曲化することにあり,他方,その主人

公にシュトゥルム ・ウント ・ドラング的ないわゆるほroβerKerl“「桁はず

れの人間」を表現し,なおかっミュラー自身の世界に対する願望や悩みもこ

の主人公に託して表現することにあった,といえる。それ故, ミュラーの

『ファウスト博士Jは, レッシングやゲーテの『ファウストJに較べると,

「ファウストJ伝説の民衆本に内容や雰囲気がはるかに近い。そしてまた両者

と異なり, シュトゥルム ・ウント ・ドラング的な,願望と自己の現実の姿の

落差から生まれる焦燥感や悩み,周聞の世界との不調和から生ずるアウトサ

(616)

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..

マーラー・ミュラーの 『ファ ウスト博士j -25-

イダー的意識がひとつのテーマとなってもいる。そこで本論では,まず民衆

本にまとめあげられた『ファウストJ伝説がどのようなものであり,それを

素材としたその後の演劇がどのように展開したかを概観し, ミュラーの作が

それらとどのような関係にあるのかを検討し,その後この作のシュトゥル

ム・ウント・ドラング的側面を検討したい。

3

ファウスト (GeorgFaust 1480頃,_1540)はルターの同時代に実在した

人物で,ヴィッテンベルク,エールフルト,インゴルシュタットなどの大学

町で,医学,天文学,を修め,錬金術に通じていた。伝承では魔術を研究し,

霊を呼び出し,予言をしたとされる。ヴェニスでは飛行を試み,最後には犬

の姿をした悪魔にさらわれたと言い伝えられている。6

フランクフルトのシュピース (JohannSpies)によ って刊行された 『ヨー

ハン・ファウスト博士の物語~ (Historia Von D. Johann Fausten 1587)は,

こうしたファウストの伝承をもとに書かれたものであり, ファウスト伝説の

原型となる民衆本である。ミュラーとの関連を考慮しながら,その内容の要

点を述べておく。7

ファウストは,ワイマール近郊ロートに生まれた。神学を学び,博士とな

るが,魔術に凝り,神学者の名を捨て,医学博士を名乗り,また占星術をな

す。〈ファウストのおこなったとされる 「黒魔術J(Nigromantia)は, ミュ

ラ一作においても,周囲からファウストの主たる罪として非難されているも

のである。)彼は天地の秘密を窮めんがため,霊の力を借りようと,呪文で呼

び出す。霊(悪魔)メフォストーフィレス8とファウストは契約を結ぶ。24年

聞を期限として,前者は後者に仕え,そのあらゆる望みをかなえるかわりに,

後者はキリスト教信仰を捨て,期限がくれば身体も魂も悪魔のものとする,

という契約内容である。ファウストはヴィッテンベルクで研究と享楽の生活

をおくる。女房をもらいたいというファウス トの希望をメフォス トーフィレ

スは抑えるかわりに,魔術を用いて毎晩異なる女の盗で現われ,ファウスト

の相手をすると約束する。ファウストは霊の教示で,天文家,占星術師とし

て有名になる。ファウストのもとに地獄の 7霊が訪れる。(地獄の 7霊のモ

ティーフは,マーロウ (ChristopherMarlowe)の『フォースタス博士の悲

劇JJThe Tragical History 01 Doctor Faustus (1605)では 7大罪悪に形を変

(617)

-26-

えて現われ,人形芝居や, レッシングおよびミュラーの『ファウスト博士』

においては, 民衆本どおり 7霊として表わされる。〉 ファウストは天空を旅

行し,また,メフォストーフィレスの翼のある馬に乗り世界の国々をめぐる。

バチカン宮殿では法王に悪戯をしかけ, コンスタンチノープルのサルタンの

宮殿で悪ふざけをする。そしてドイツ皇帝のもとで魔術を披露する。(ミュ

ラ一作で,ファウストがスペインの宮殿に滞在するのは,上述のモティーフ

のヴァリエーション。)ファウストはユダヤ人から金を借りるが〈この モ

ティーフは, ミュラ一作では変形されているが, ファウストが窮地に陥り,

結局悪魔の力を借りざるをえない羽目になる重要なモティ ーフである),魔

術でユダヤ人をだまして金を返さずにすます。その他,百姓や馬喰を魔術で

たぶらかす。近所の信心深い老人が,神にそむいたファウストをいさめ諭す。

(この老人が ミュラ一作では,ファウストの父に変換され,重要な役割を果た

す。)この老人の教えで,ファウストは悔い改めようとしたが,メフォストー

フィレスの脅しにあい, 2度目の証文を書かされる。 ファウストは淫行を重

ねる。ギリシアのヘレナを呼び出し,すっかり惚れ込む。彼女は男の子を生

む。24年目,契約の終りの年,ファウストは地獄で永劫の罰を受けることを

恐れ嘆く 。そして契約の切れる日の前夜,学生たちを前に,神に背かぬよう

にとめ警告の演説をする。期限の時が来て, ファウストは見るも無惨な死を

遂げる。ヘ レナと息子は,彼の死と共に消える。

ここには,天地の秘密を究めたいという知的探求心,地上の快楽のあくな

き追求,という非宗教的,人間中心的テーマと,キリスト教の否定とそれに

対する後悔, という宗教的テーマとが合体している。ある論者は, この民衆

本に現われたようなファウスト像は,ルネサンスと人文主義の時代に特徴的

なシニカルな冒険家という性格像と,永劫の罰を下された魔術師というキリ

スト教的,中世的モティーフとが融合したものだと,解説している。9

シェイクスピアと同時代のイギリスの劇作家マーロウの戯曲『フォースタ

ス博上の悲劇』は,民衆本に依拠し,さまざまのモティーフをそこから取り

入れつつ,知的巨人としてのファウスト像を打ち出した。フォースタスは,

哲学から神学にいたるまで地上の学問の不完全と無力を実感し, i利益, 悦

楽,権力,名誉,全能」をもとめて魔術に向かい,悪魔の力を借りる。彼の

魂をめぐって善天使と悪天使が争い(このモティーフはマーロウの独創),彼

は魔術による悦楽と後悔との聞を揺れ動く。契約の期限が来て,彼は罪の意

識と恐怖のうちに,苦しみつつ神に祈るが,悲惨な最期をとげる。10

(618)

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マー ラ ー・ ミ ュラーの『ファ ウスト博士~ -27-EEEa句

伽川,

よよ・手、

マーロウの作を頂点として,その後 『ファウスト』素材は,民衆の噌好に

あったスペクタクルや魔法劇に変化していく 。18世紀には,マーロウによ っ

て導入された道化が大きな役割を担い 〈とくにウィーンで),パロディー, /。

ントマイム,人形劇,歌謡劇 (Singspiel),茶番劇などという形で 『ファウス

トJ劇は流行する011 18世紀後半にな って,時代精神である, 啓蒙主義的で,

市民的,倫理的な精神に彩 られたファウスト像が現われる。 レッシングの

『ファウスト』断片である。そして シュトゥルム・ウント・ド ラングの時代に

入り,ミュラーの 『ファウスト博士』 が現われ,さ らにゲーテの 『ウル・フ ァ

ウスト 』が書れることになる。

次章ではミュラーの作とは対照的なレ ッシングの 『ファウスト 』について,

少しくわしく検討し, ミュラーの 『ファウスト博士Jの特質を探る一助とし

句。

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レッシングの 『ファウストJ断片は, 彼の 『最近の文学に関する書簡J

Briefe, die neueste Literatur betre.万endの第 17書簡 (1759年 2月 16日)に

添えられたものである。この書簡で彼は,フランス古典劇に盲従したゴット

シエートを批判し, ・イギリスの演劇, とりわけ シェイクスピアを称賛した。

注目すべきは彼が, iわれわれの古い戯曲はたくさんのイギリス的な面を

もっている」として,その代表例として 『ファウストJを挙げていることで

ある。彼は,それについて次のように述べている。

「シェイクスピアの天才のみが考えだせるような,たくさんの場面がそこ

にはある。 ドイツで:は,どれほど 『ファウスト博士』 が愛好されてきたこと

であろう。それに今でも,部分的に愛されている。わたしの友人のひとりが,

その古い草稿を保管しており,わたしにそれを見せてくれた。そこにはたし

かに多くの偉大な点がある 0 ・君は,それを読んでみたいとは思わないだろう

か。ここにあるのがそれなのだ。ファウストは,地獄の最も速い霊を召使と

して要求する。彼は呪文を唱える。7人の霊が現われる。そして第 2幕の第 3

場はこんな風に始まる。J12

実際にはレッシング自身の筆になるこの場面では,ファウストの求めに応

じて 7人の悪魔が現われ,誰が一番速いかというファウストの問いに答えて

次々と自分の能力を宣伝する〈人形芝居などに見られる, rファウスト』劇の

J

f.~

(619)

28 -

伝統的モティーフ)。レッシングの rファウス トJは,他に怒魔の朱会の場1111

を表わした序幕の紫揃と,ファウストの前に箆がl:[j現する 1務が妓).cいる

(完全に仕上がっていない〉。さらに, プランケンブノレク cc.l~. von BJancken .. burgレッシングと親交のあったプロイセン七官で作家)が伝える,戯IHJの枇

初と最後の部分の内容, およひ'エンゲjレ (J.J. EngeJレッシングと組子α

ったベルリンの劇場長,者:述家)の記憶にもとづく,恕!躍の集会のj訪問の

IJ}現が資料として残されているJ これらの断片をつなぎあわせ,総合する

と骨およそ次のような劇の輪車J~ ,が浮かび上がる'0

,J1,,:iいゴシ ック式教会で怨!躍が集会を聞き, IiJt回であるサタンに,おのおα

がV¥,かなるZ与を人間界に与えたか,自分たちの活動報告をする。町を焼

払った,船|習を枕めた,盟諸・を誘惑し,疎通と殺人をおかさせた,など。品

後の恕!躍が報告する。人IH-]界に判lの飽児を発見した。この却にはたたひとつ

の衝動,r学!?jjと知識への渇fi'lJ(プランケンプルクによる)しかない。こう

いう射が民衆の教師になることは,惑魔にと って危険極まりないことだ。そ

1で判lか らこの男を噂うことを考えたが,つけこむl~ も弱点もない(エンゲルによる}, と。そこでサタンは答える。「それな ら,そいつは伶ーのものだの

他のどんな的熱をもっている奴より,確実に倫・のものになる。J(プランケシ

プルグによる)メフィストーフィレスがこ lの仕事を引き受ける。そしてファ

ウストの求めに応じて怒雌たちが出現する。この後のr:f:',JU1部分の構似は現存

しない。最後に,恕j庭たちがファウストをわがものとし,勝利の敬を取って

いるとき天!こか 1ら天使の声が聞こえるorおまえたちは,人間性と学1M]に勝利

したのではない。神は人|聞を永遠に不幸にせん lがために,地も日t'lな衝動

伴 fHIと知l識への衝動- -ffi却を人IHJjlfこ与えたわけではU 。おまえたち力

主たもの"今手i,こ入れたと思い込んでいるものは,幻 (l>hantom) Iにすぎr

いのだJ(プランケンプルクによる)"と。突は天使は,怒魔がファウスト lを

ると知って, ファウストの幻を作りだしたのであ 1り,感魔はこの幻を

3手lにーさまざまの試みを行なったのである。悪魔がファウス |トを手に入れ

ようとする|瞬間に,この幻は消える。しかし,幻の像に起こったことをファ

生のなかでl体験している。このような夢を通して与えられた瞥告に

ファウス |トは感謝しー以前にもまして「真実と尖徳」を守ろうとする。(エン

ゲルによる〉

曲部が, プランケンプルクやエンゲ}Iレの記憶に基づいた資料 1しカ

紅く,確実{さにカ)'j.る点もあるが,およそのファウスト像と劇 1の基本的t

(620)

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マーラー・ミュラーの 『ファウスト博土~ - 29 -

怨は以上のとおりである。一見してわかることは,ファウスト像がいちじる

しく理惣化,精神化されていることである。彼の魔術へ向かう動機は,知へ

の衝動であり, もろもろの人間的欲望は排除されている。 とくに民衆本では

ファウストの行動の線本的衝動が有能的欲望となっていたが, この点でレ ッ

シングは完全に民衆本から離れている。また, ファウストの内部での, 信仰

と反信仰である魔術との葛藤という,この素材の伝統的なキリスト教的テー

マも,残された構想でみるかぎりあまり問題にされていない。 レッシングは

シェイクスピアを称賛しつつ,みずからは 「占い戯曲」素材に平等蒙t義的な,

人間教育的テーマを与えた, といえる。

たしかにレッシングは, 一方では IrJ品、素材」の悪魔的雰間気を戯曲に導

入しようと試みてはいる。冒頭で,古いゴシック式教会の祭摘に窓魔を配し

て,彼らの悪業の数々を報告させている。 しかし, レッシングはいかにも彼

らしく,観客の市民倫理的感覚を傷っけないよう周到な配慮をしている。た

とえば,第一の悪魔が敬度な貧者の家に稲妻を放ち,焼き払っ九と 三えばサ

タンは愚かな奴だと叱りつける。金持ちから金を取り上げ,貧者のかまどに

それを投げ込めばよいのだ。そうすれば貧者は誘惑できるし,金持ちは絶望

させられる。こいつは二重の利益だ。敬度な貧者をなお貧しくするようなこ

とをすれば,そいつはますます神にしがみつくことになるぞ,と言う。第 一;

の悪魔が船団全部を嵐で沈没させてやりました, と報告すれば, この裏切り

者と怒鳴りつけ,その船団の乗員は他国に行って掠奪や殺人を次々と働くこ

とになっていたのだ,と 言う。また,第 3の官能の悪魔は,恋する女が眠っ

ているところに行き,彼女の官能をかきたてる。 これはエロティックなイ

メージだが, この悪魔はこの女にキスをするにとどまる。

レッシングは,サタンに悪を装おわせっつ,そのE5葉を通じて観客の道徳

心を満足させるような,巧みな表現をもちいている。また,市民的節度も守

られている。

以上のような,人間教育的効果を狙ったレッシングの『ファウストJは,

シュトゥルム・ウント・ドラングの詩人ミュラーの『ファウスト博士Jとは

まったく異なる方向性をもつものである。ミュラーの作は,ある意味では

レッシングの作に対する批判と捉えることもできょう。

ミュラーは『ファウスト博士』の「前書き」で,執筆当時, レッシングや

ゲーテが『ファウストJを執筆していることは知らなかったといっているが,

レッシングの『ファウストJ断片が添付された第 17書簡はすでに 1759年に

(621)

-30一

発行されており,文学に関心のある人々の問ではこのことはよく知られてい

た。ミ ュラーはレッシングの 『ファウストJについては,ある程度知ってお

り,その啓蒙主義的『ファウス卜』に対して,シュトゥルム ・ウント・ドラ

ング的 『ファウストJを書く ことも執筆にあたってひとつの動機となったの

ではないだろうか。

ミュラーとレッシングの関係について付言しておくと, ミュラー自身の後

年の回想によれば,彼は 1777年 1月にマンハイムでレッシングに会ったお

りに, ~ファ ウスト博士J の最初に出版された断片, ~ファウストの生涯の重

要場面Cs(1776年)を見せている。レッシングはそれに対して,聖書の放蕩息

子の話にならって,ファウストを後悔と贈罪のうちに救いへと導くとよい,

と助さしている。ミュラーは自分の作品全体の構想を説明し, レッシングは

それに対して,悪魔の存在がもう信用されない時代なのだから, ミュラーが

この素材を, 生真面目な調子ではなく,アイロニカルな調子で扱うのは結構

なことだ, と答えている。14

ミュラーが彼の rファウスト博士Jにどのような結末を考えていたか,資

料は残されていない。 しかし, 2章で紹介した彼の「前零きJから推定する

と,この劇は 自己拡大的なシュトゥルム・ウント・ドラング的必roβer

Kerl“の悲劇に表現の重点が置かれており, ファウストの「後悔と賄罪」 と

それによる 「救済Jは少なくともメインテーマとはならなかったであろう。

なお興味深いことだが,ミュラーは後年カトリックに改宗し (1780年),シュ

トゥルム・ウント・ドラング的な精神傾向から離脱していったが,晩年は韻

文による『ファウスト』劇の執筆にカを注いだ。この『ファウストJ劇は,

l幕の一部が 1850年に印刷された他は,その膨大な量の原稿がフランクフ

ルト大学に眠っているそうだが, この韻文稿では,ファウストは神に対する

反逆者として現われ,その罪を般うという, レッシングの助言に沿ったテー

マを扱っているそうである。15

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5

ミュラーの『ファウスト博士Jは5幕からなる予定であったが,未完のま

まに終り,次の四つの断片が残されている。『ファウスト博士の生涯と死,第

1 部~ (Doktor Fausts Leben und Tod. Erster Theil. 1778年印刷,第 1幕に

相当する。量的にも,内容的にも断片のなかで,もっとも充実している),

(622)

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マーラー・ミュラーの 『ファウスト博士J) - 31 -

『ファウストの生涯,第 2 部~ (Faust冶Leben.Zweiter Theil.第 2幕のうち

の最初の 2場面に相当する。はじめてレクラム文庫に印刷された。成立年

は,第 l部の後それほど時を経ないと推定される), rファウストの生涯の重

要場面~ (Situation aus Fausts Leben. 1776年印刷。第 1部に次いで重要な

断片), rファウストの旅行~ (Fausts Spazier Fahrt.残されたミュラーの草稿

中にあったもの)016

ミュラーの『ファウスト博士』は,作品名は有名だが,俗語,隠語のたぐ

いが多出し,読みにくいこともあ って,あまり作品内容は知られていないの

で, ここで組筋を述べておきたい。

『ファウスト博士の生涯と死,第一部』

地獄の頭目ルーツィファーが,廃境のゴシ ック式教会に地獄の悪魔を集

め,地上の世界の様子を嘆く 。王侯か らしもじもにいたるまで,みんな神経

がまいっている。「もはや罪をおかす力も十分に残っていないような,こんな

衰弱した連中のなかで,悪魔を演じるのはもうやりがいのないことじゃ。」 貧

乏の悪魔,快楽の悪魔,文学の悪魔,絵画の悪魔などの悪魔たちが,地上で

の活動を風刺とアイロニーをこめて報告する。ルーツィファーはメフィス

トーフィレスに,地上の 「唯一の偉大な男」に会いたい,と言い,メフィス

トーフィレスは確約する。 つづいて二人のユダヤ人の場面。彼らの会話か

ら推測すると, ファウストが彼の全財産を預けていた両替商ゴ、ルトシュミー

トが行方をくらました。またファウストは, ゴ、ルトシュミートと共に逃げた

二人のモーゼル人にユダヤ人が金を貸す際の保証人にもなっていたらしし、。

つづいてファウストの書斎の場面。 ファウストは自分が全財産を失ったこと

をいまだ知らない。彼は夢想に耽りつつ,気分が高揚していき,自分の血管

のうちに 「神が燃え上がる」のを感じる。シュトゥルム・ウント ・ドラング

的な心情を吐露するモノロークーがつづ、く。

自分が破産状態に陥ったこどを知ったファウストは, この損害を埋め合わ

せるため,町外れの廃境となっている塔のなかで聞かれている賭博に加わ

る。賭博は禁止されている。ファウストの父が,息子が黒魔術 (Nigro-

mantia)に凝っていると聞いて,心配して町〈インゴ‘ルシュタット)にやっ

てくる。この町には,ファウストを宿敵と狙うえせ学者のクネリウスがいる。

クネリウスはファウストを逮捕させるために,役人を賭博の開かれている塔

ヘ行かせる。

(623)

- ,32-

ファウストが最後に手元に残っていた金を全部すってしまった時,盤 (.IU~

)があなたの友だとi画きかける。友ならば,その柾を見せよというのにLえて霊は,財産,名誉と地位,官能の快楽,学問と芸術をそれぞれ象徴する

ものの姿の幻影をファウストに見せる。そこでファウストは箆に救いを求め

る。認は異邦人の盗をして現われ,観ff:)学者だと名乗る。熔の戸口には役人

が押 し寄せている。箆は,それを手にすると飛ぶことができる本をファウス

トに与え"í借り (Schuldigkeit) は忘れるな」と言う。昂がパタンと開~,

ファウストは空中を飛び去る。

ファウス iトの友人たちと学生たちが,広場でクネリウスを泉の上までitiい

日lめているl。彼らは.クネ リウスがファ ウストをIIJJから追い出そうとR・1.ITliiし,

ユダヤ人をけしかけ,破阪恥な手紙を各所に送り つけ,ファウストを危|治犬

忠人に仕立てあげた, と非難する l。 クネリウスは,ほうほうの体でその~~,応、"_れ lる。

ファウストの父は息子の家を肪れ,邪恕な道にl足を踏み入れた息子lを民!i問

iし,蹴める。彼|は:,ファウス |トが感魔にとりつかれ,恐ろしい運命をたどZ

.,ω'hhhl

制,AH

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。そこへ,

,女々しい感情に負L

の峡笑カ

という

芝、なと

には聞こえない。 畝

ファウスト 1は蘇の十字路に行き,供え物をして悪魔を|呼び出す僧北l移仔江 U う。 7人の悪魔lが次々に現われ, その後メフィストーフィレスが投糊する。

眠っているファウストを陥に,メフィス lトーフィレスが次のように独内すZ

ところで,第 1郎は終わる。もうすぐおまえは俺のも|のだ。長い聞の計画カ

るのだ。 liI眠れ,たっぷり|眠れ,そしておまえの一番大切な宝石,

えの璃を俺に与えよ。J ! 11 なおエピソードとして, 7 7ウス lトlの友人たちが,若い二人の女性を"後

人の気難しい伯父から引きさらって家にかくま弘というモティーフが削 |倒込まれている。友人のひとりヘルツが女装してこの伯父をだましつれ回

という笑劇的内容o I ~t

,~

ファウストの住限,

吋 1部のクネリウスが学生たちにひどいめにあった日の翌日の事。クネリ

ウスの友人ザンデルの女房が,クネリウスに熱をあげているだとか,クネリ

ウスがザンデJiレの妹に結婚を約束しておきなが 1ら逃げた'.だとかいうことカ

(1624)

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マーラー・ミュラーの 『ファ ウスト博士~ -33-

話題になっている。また,クネリウスが,金のためなら悪魔とでも結婚する

と言 うなど,まったくの道化芝居的笑劇。

『ファウストの生涯の重要場面J

悪魔との契約の後 12年がたっている。 ファウストはスペインの宮廷に滞

在しており,アラゴ、ニアの女王に魅せられている。女王がファウストの杯に

酒をつぐ至福の瞬間,メフィストーフィレスが現われる。〈他の人には見えな

い。〉 彼は,残りの 12年が経過し契約が切れた後の, ファウストの悲惨な運

命を,恐ろしいイメージで生々しく描写した後,契約書を取り出し,ファウ

ストに契約破棄のチャンスを与える。メフィストーフィレスはファウスト

が,契約破棄をしてもとのみすぼらしい人間に戻る勇気がないのを見越し

て,ファウストが悦楽と地獄の苦しみとのジレンマに苦しむのを,サディス

ティックな喜びをもって眺める。

『ファウストの旅行』

『ファウストJのもとにオッフェンロッフォ〈開いた穴の意〉という悪魔が

やって来て,地上から地獄にやってきた劇団が上演した 「巨人族の戦い,別

題文人の戦いJと題する芝居の話をするなど,文学界をカリカチュア的に風

刺した一場。

6

ミュラーの 『ファウスト博士』が,民衆本からどれほどさまざまのモ

ティーフを得てきたかは,いままで述べてきたことから明らかで、あろう。ま

た,単にモティーフのみならず,民衆的雰囲気という点でも, ミュラーは民

衆本の世界を受け継ごうとしている。第 1章で述べたユダヤ人の場面や,裁

判所の下役人の場面,あるいはファウストの友人や学生たちにその雰囲気が

表わされている。 民衆的という点でいえば,ファウスト像そのものも,レッ

シングやゲーテ作に比して,民衆本により近いということは言えよう。ミュ

ラーのファウストは, レッシングのファウストのように,啓蒙主義的理想像

である知の探求者ではないし,ゲーテの『ウル・ファウストJの主人公のよ

うに板源的なものとの合ーを希求する精神的巨人でもない。彼は,名誉や才

能,富などというもっと世俗的で個人的なものへの欲求に捉われている。ま

(625)

ーーーーーー圃

-34ー

た,破産状態の窮地からやむなく魔術に向かうなど,超人的なところが少し

もない,人間臭い存在である。そういう意味では,魔術の力を借りて地上的

欲望を充たそうとする民衆本のファウストに近い存在である。ただし,伝承

のルネサンス時代のファウストが,生命力にあふれ,活力に富んでいるのに

比べて, ミュラーのファウストは, 不安と悩みを抱える 18世紀のメランコ

リカーである。この点については,後に考察したい。

民衆本の魔術的,悪魔的雰囲気は,ファウストが真夜中の森で悪魔を呼び

出す場面や,あるいはファウストの父が見た夢(メフィストーフィレスが見

さセたと推測される〉というかたちで巧みに戯曲に取り入れられている。

ファウストの父は彼に,自分の見た夢を次のように語る。

「わしは,おまえが賛沢な食卓についているのを見た。わしや,家族の者か

らは顔を背けて,おまえはぞっとする娼婦を腕に抱き締めていた。この女は

杯に血を注ぎ,それをおまえの唇にあてがった。おまえは一一飲んだ。そし

て,悪魔がおまえの足元の地面をくりぬき,恐ろしいわなを仕掛けるのを,

おまえは知らなか った。一一息子よ,おまえは倒れた。 一一おまえが倒れる

音を聞し hた。一一おまえに呼び掛けようと思ったが,舌がいうことをきかん。

息が苦しいの苦しみがわしの内臓をヲ|き裂いたのじゃ。一一 おお一一わしは

突っ伏したまま,大声でうめいたので,おまえの母さんが目を覚ました。母

さんは叫びながらわしのうえに覆いかぶさり,震える老いた手でわしを掴ん

だ。一一母さんも夢で,おまえが滅びるのを見たんじゃ。 一一おまえがわし

の操の脇腹にナイヌを突き立て,肉を切り裂き,体から心臓を挟りだすのを

母さんは見たんじゃ。一一不安で汗びっしょりになって,わしらは抱き合っ

ていた。そして,おお神よ,神よ,わしらは日を覚ましているのに,おまえ

を見たんじゃ。雷鳴のなかを,髪の毛を逆立て,おまえがわしらの頭上を飛

んでいくのを。そして,悲しげなおまえの声が遠くに聞こえるばかりじゃっ

た。J17

夢とも現っともつかぬ父親の体験を通して, ミュラーは巧みに戯曲の魔術

的,悪魔的雰ltfl気をもりあげることに成功している。このようなイメージは

後のロマン主義のホフマンにみられるような怪奇・幻想のさきがけとみなす

ことができる。

民衆本と並んでミュラーの『ファウストJに影響を与えた民衆的要素は,

人形芝居であった。その影響は, この戯曲の種々のコミカルな道化的要素に

顕著に現われている。ユダヤ人,クネリウス,ザンデル,裁判所の下役人シュ

(626)

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マーラー・ミュラーの 『ファ ウスト博士~ - 35-

トリックとファングなどは,内面の欠如した,人形芝居的人物として表現さ

れ,笑劇的効果をあげている。 7人の悪魔が出現し自己紹介する場面なども,

人形劇の伝統に則って表現されている。彼らの出現の仕方そのものが,人形

芝居的である。すなわち,悪魔たちは, ファウストの求めに応じて雷鳴と稲

妻と共に一斉に地面から半身を突き出す。ファウストが従者を探していると

言えば,全員が 「俺がなる」と言っ て,姿をすっかり現わす,という具合で

ある

ミュラーは, ゴットシエート以来,啓蒙主義時代の演劇に抑圧されていた

民衆的なもの,民衆劇的要素を,意識的にふたたび演劇に回復した。『羊毛刈

りJに出てくる父親は,高尚な文学に対してt I自然、」で 「素朴」な文学を主

張したが,ミュラーの 『ファウスト博士Jの民衆的要素には,この父親の(し

たがってミュラーの)主張が, 具現されていると言えよう。

7

ミュラーの 『ファウスト博士』 は,未完に終わったか ら全体がどのような

ものであったかということは言えないが,残された断片か ら判断するかぎり

でも,エピソードが多く,各場面がゆるやかに結合しつつ全体をかたちづく

るという構成になっていたということは, 言える。このことはひとつには,

それが,個々のエピソードの羅列,集積を基本構造とする民衆本を素材とし

たことによる当然、の帰結であっただろう。 しかしそれに留まらず, ミュラー

は意識的にそのような構造を取り入れている,ということも 言える。

シュトゥルム・ウント・ドラングの演劇は,その先駆となったゲーテの

『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』に見られるように,シェイクスピアを範

として,多種多様な人物を登場させ,さまざまの出来事を生起させ,大きな

演劇空間をつくる,というのがひとつの大きな特徴であった。ミュラーも,

『シェイクスピア』と題する詩で彼を讃え,また『ファウス トの生涯の重要場

面Jにt Iシェ イクスピアの霊に」という献辞をつけるなど,シェイクスピア

の礼賛者であった。『ファウスト博士~. においてミュラーは,シェイクスピア

ならびにその後に続いたシュトゥルム・ウント・ドラングの劇作家たち

(ゲーテやレンツ〉の刺激のもとに,民衆本の多種多彩な内容と雰囲気を取り

込むために,意識的に,多数の断片的場面を集積し,それをモザイクのよう

に組み合わせ,劇j全体を作り上げていくという手法をとっている。

(627)

36 -

断片的場面の集積という手法を,意識的に用い,新しい演劇を作り上げた

のはレンツであっ た。彼の場合には,場と場の間に省略があり,場と場は暗

示によってつなぎ合わさ れ,ハンドルングはそれだけ早く進行していく〈と

くに『軍人たちj)。レンツは,このような手法で彼の言う「人聞社会の写し

絵」を作り出し,市民社会の実態と問題性を浮き彫りにするような劇を生み

出しfこ。

ミュラーの場合には, レンツのような鮮明な方法論的怠識はない。彼の場

公,場と場は並列的に、逆べられるが, レンツにおけるように,それによって

ハノドルングが終結に向かつて推進されていくということはない。彼の場合

に,侭場のモザイク的、並列は,主と して民衆的雰|羽気,魔術的,窓魔的雰!川

知といった雰回以の醸成のための,演劇空間の多彩化を問的としていると手a

えよう。このため,場と場のつながりが弱く,出来事の肉果関係が鮮明でな

いという欠点がある。たとえば,ファウストが全財産を無くした経緯も,あ

ちこちの場面を総合してようやく 推し量るしかないし, コールトシュミートお

よびその鳩ミンヒェンとヴァーグナーおよびファウストとの関係もよく判ら

なし、。悪魔の化身であろうと推測されるゴッテスシュビュールフントに関し

でも明瞭なイ メー ジがつかめなし、。そして一番大きな暖昧さは, 主人公たる

ファウストにある。彼の人物像は暖妹模糊としている。

泌劇では一般に,動機と行動の 一貫した肉果関係が求められる。符稀の

『ファ ウストJ劇についてみても,マーロウ作ではファウストは,学問の無ノJ

を実感し,全能のブJを求めて魔術に向かう。レッシング作では,知への衝動

がファウストを魔術ヘ向かわせる。ゲーテ作では,学問への失望と似源的自

然への憧僚が,ファウストを地霊へと向かわせる。ミュラ一作の湯合にはし

かし,そのような精神的なカがファウストを魔術ヘ駆り立てるのではない。

彼ははるかに受け身である。彼が魔術へ向かうきっかけは,全財産を失った

ことである。彼は|自分が陥った苦境を逃れるために,悪魔に救いを求める。

しかしさまざまな内的欲求〈これについては後に考察したしつもまた,魔術

に向かう要因である。 こうしたファウストの行動の動機の唆昧さのために,

動機と行動のー貸した図巣関係が示されず, ミュラーの『ファウスト博士』

は,跡jのダイナミックなハンドノレング展開のカを失ってしまっているのであ

る。これは演劇としては大きな欠陥である。この欠陥が,このjlJが未完に終

わらざるをえなかった要因であろう。

ファウスト像の暖i昧さは,何に起因するのか。ミュラー|は,伝説の行動的

(H2S)

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旨p

ー・晶・弘司h・2 、

マーラー・ミュラーの『ファウスト博士~ • -37 -

異端者に, シュトゥルム・ウント・ドラング的な屈折した自我を重ねあわせ

て表現しようと試みた。そこに,ファウスト像の暖昧さが生じ,その結果,

~ 11 劇としてのダイナミズムは失われることになったが,悩めるメランコリカー

. ー• ..

'"

ー軍主

という,時代の精神や気分を映したファウスト像が出来上がることになっ

た。次章では, こうしたファウスト像について考察する。

8

書斎の場でファウストは,モノローグにより彼の胸中を吐露する。以下に

その要点を,略述と引用で示す。

「すべてか,さもなくば無あるのみだ。J平和も満足も追求できない中途半

端な生き方など何になる。「ひとつ跳躍すれば,実行できるというのに。」 心

に抱いていることを実行する力さえあれば。夢想のなかで、考えついたイデー

は,人間の無力のせいで,白日夢のように死んでしまう。どれほどの意欲を

もって俺たちはこの世に生まれてくることか。そしてほとんどの意欲が,ど

んな結末を迎えることか。「なぜ,この五感をもった生きものは感情において

留まるところを知らぬのか。実行の力は小さく限られているというのに。夜,

俺のファンタジーは, しばしば金色の雲にのって上昇する。その時俺に何が

できないことがあろう。俺はあらゆる芸術のマイスターになる。[. • • ]画

家詩人音楽家,思想家一一ヒュペーリオンの光に口づけされ,プロメテ

ウスの松明で暖をとるすべての者,そんな者に俺はなりたい。 しかし,だめ

だ。心のなかで、はそれができるのに,いざ実行となると,俺は子供にすぎぬ。

俺は,筋肉の下に脈打つ血管のなかに,神が燃え上がるのを感じる。[. • • ]

俺のなかに沈黙しているすべての神々よ,おのれの存在をこの世に知らしめ

るために,百の声をあげて現われ出でよ。一一俺は,蔓をのばし,奮をつけ,

繁茂したい。一一大きく一一大きく一一。俺の魂の上を,海の嵐のように波

がたち騒ぐ。それは俺を呑み込む。すっかり。一一それから?思いきってそ

れをつかむべきか?おれの頭上,雲のなかに巨像がそびえ立つ。その頭は,

月を越えて伸びている。一一俺は近づかねばならぬ。一一俺の心を映す偶像

よ。巧みさ,精神の力,栄誉,名声,学問,実践,力,富, この世の神を演

ずるあらゆるものが呼びかける。神だ。飽くなき獅子が,俺の内部から吠え

る。第一位の,最高の人問。(本を投げ出す。〉行け,俺の邪魔をするな。頭

がくらくらする。俺が高まろうとすると,おまえは俺を引きずり降ろそうと

(629)

-38ー

する。豊かな希望を遠くでちらつかせて,なおさら俺を貧しくする。J18

ミュラーのファウストの特徴はその夢想性である。夢想のなかで彼は,自

分以上の存在になれる。彼の夢想の向かう先はあまりにも漠然、としている

が,モノローグから判断すると,天才的な芸術家的才能を得,それによって

名声を得ることが,その中心の内容で、あるらしい。そうした才能を,彼は自

分自身の内に予感してはいる。 しかし,それを芸術創造へと転換させること

が彼にはできない。彼の夢想と現実との事離が,彼をメランコリックにさせ

る。このファウスト像は,まさしくミュラーその人の自画像である。ミュ

ラーは画家として,詩人として,芸術創造に苦闘い芸術によって名声を得

たいという,強い願望を抱いていたが,十分にその願いはかなえられること

はなかった。彼の芸術家としての強い自負心と,焦燥感とがこのファウスト

のモノローグに映しだされている。暖昧模糊としたファウスト像も,このよ

うな芸術家像として解釈すると,ある程度の一貫性が生じる。

上述のような,夢想的な芸術家気質のファウストに,破産という現実が襲

いかかっずくる。自己内部の葛藤に加えて,自己と現実世界との葛藤が彼を

苦しめる。彼の悪魔へいたる道は,この二重の葛藤から逃れるための,残さ

れた唯一の道である。その彼の内面的な筋道をたどってみる。

ファウストは, I俺のまわりに漂い,俺の心に映しだされる黄金の夢,それ

を一度見れば,あまりにも魅惑的なので,それを離れるのが,苦痛だJ19 と語

り,夢想の世界に浸ると思えば,また親戚の者から託された金を失ってし

まった〈ゴ、ルトシュミ ートに自分の金と一緒に預けたらしい)ことで自責の

念に駆られたりもする。失った金を取り戻そうとして,賭博に走り,残りの

金もすべて失う。悪魔の助けで窮地を脱した後,彼は,友人たちとの違和感

を強め,自分のようなアウトサイダー的存在の悲しみを語る。

彼は,牧歌的な自然のなかで調和的に暮らす素朴な人々の幸せと自分とを

引き比べて,こう語る。「そういう人は,自然の懐で喜びに包まれ,生活にお

いても,楽しみにおいても,完全に幸せの子供だ。一一しかしいつも上へ昇

ろうとする衝動をもち,一一思考と共に高まろうとし,一一常に自分自身と

戦いながら,この人生のつらい巡礼をはじめる者は,悲惨だ。一一そういう

者は,清らかな乳房から生命の力を俺たちの血管に注ぎ入れてくれる優しい

母を忘れている。しあわせな,悲しみを鎮める時を与えてくれる母なる自然

を忘れている。J20

父親がファウストを諌めて彼のもとを去った後,悪魔の峡笑を聞いて,

(630)

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句..

マーラー・ミュラーの 『ファウスト博士J . -39 -

ファウストは言う。

「俺はこの世のあらゆるものと縁を切るぞ。[• • . ]この世の屈辱,禁欲,

自己犠牲,信仰。[. • . ]あの世でたっぷり希望をもつために,この世ではす

べてを諦めるのか。[. . . ]渇望する心を満たす希望もなく,悪臭を放っ低

俗さのなかを,いつまでも,いつまでも這い回るのか。一一 人知れず,人生

の大波に呑み込まれて消えるのか。 [. . . ]俺の決心は決まった。一一一俺は

決めた。一一それが幸であろうと,不幸であろうと。J21

こうしてファウストは,悪魔を呼び出すにいたる。

以上のように,ファウストが悪魔の手に身を委ねるにいたった動機は,単

ーではない。そのきっかけは,彼の破産であるにしろ,夢想と現実との事離

からくるメランコリー,偉大なものへの憧慣,日常的生の現実と彼の内面と

の組低から来る厭世感といった,彼の心の状態が彼を悪魔に向かわせる真の

動機となっている。 この彼の心の状態は,明瞭な方向性をもつものではない

から,ファウストは積極的行動に出ることはない。彼は,個々の場面のエピ

t i I .ソードの波間に浮き沈みを繰り返し,さまざまの内面吐露を行なうのであ

り,そのためにハンドルングは,不鮮明なぼやけたものになってしまう。

シュトゥルム・ウント・ドラング的感情の過剰が, このような,劇としては

不完全なものを生み出したと言うことはできょう。

しかし,現代の我々は,人間の行動における動機と行為の因果関係の暖昧

さ,あるいはその聞の結び、っきの希薄さや,時には欠如を体験し,また,動

機が複数で鮮明ではないということを,現実世界においてさまざまに体験し

ている。そういう現代の目から見れば,動機と行為の鮮明な因果関係を作り

出し,行為は動機の論理的帰結だとする,古典的な演劇に較べ,あるいはひ

とつの理念のもとに整然と組み立てられた演劇に較べ,不鮮明で,カオス的

印象を与えるミュラーの『ファウスト博士Jは,現代的な要素をもっている

と言いうるのではないだろうか。

9

ここで, ミュラーの『ファウスト博士』のもうひとつの特徴である風刺的

な面について触れておきたい。ミュラーは, レッシングと同じく(おそらく

彼にならって),劇の冒頭に悪魔の集会を設定したが,その場を利用し,悪魔

の口を通して, ミュラー自身の生きている現実世界をカリカチュア的に表現

(631)

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マーラー ・ミュラーの 『ファウスト博士j -41-

芸術においても,民衆的なものに対する親近感を抱いていた。 こうしたこと

のために彼は, "Genie“や "groβerKerl“に対して距離を置き, それに懐

疑を抱くことになったのではないか。

『ファウスト博士Jには,他のところにも "Genie“や "groβerKerl“に対

する懐疑的ないし榔織的表現が散見される。クネリウスは, ファウストにつ

いて, Iまともな人間なら,奴にはがまんがならなし、。臆病者で,モラルがな

い。一言で言 って,天才 (Genie)だよJ23と言 う。ファウストは,彼を諌め

にきた父親が彼のもとを辞した後, I俺は,桁はずれの人間 (groserKerl)

に堕落してしまったJ24 と嘆く 。また, rファウストの旅行』では,地上か ら

地獄にやって来た劇団が演ずる芝居の題目は, I巨人族の戦い,別題文人の戦

いJ(titanomachia oder der Dichter Streit)25 という。 これも "Genie“や

ほroβerKerl“を自負するシュトゥルム・ウント・ドラングの詩人たちに対

する郷撒であろう。

それでは,シュトゥルム・ウント・ドラングの演劇全般において "groser

Kerl“が肯定的存在として捉えられているかというと 必ずしもそうではな

い。たとえば,シュトゥルム・ウント・ドラングの演劇!の代表的な必roβer

Kerl“である,クリンガーの 『双子Jのグエルフォは,兄弟殺しをおかすにい

たる病的精神の持ち主であり,劇中で断罪されている。 レンツでは, 主要人

物に "groβerKerl“は現われないが,副人物としてそれは現われる。『家庭

教師』のベルク少佐や『新メノーツァ』のドナ・ディアーナがそれであり,

もっぱらカリカチュアとして表現されている。

グエルフォは自己の妄想と現実の軍離を経験するなかで,病的精神状態に

おちいり,破滅する。ベルク少佐は自己の空想的願望と現実との不離のため

にメランコリーにおちいる。"groβerKerl“という人物形象には,多くの場

合,現実と空想,夢,妄想、(否定的な場合〉あるいは理想〈肯定的な場合〉

との聞に引き裂かれ,メランコリーに陥った人物というイメージが付きま

とっているように恩われる。ファウストもまたそういった怠味では, "gro-

βer Kerl“である。基本的には,彼の空想や夢と,現実との事離が,彼をメラ

ンコリカーにし,破滅へといたる悪魔の術へ,彼を向かわせるのである。彼

の悲劇は芸術家の悲劇とみなすこともできょう。

ミュラーの風刺は, レンツにおけるように,広く社会的現実を捉えたもの

ではない。むしろ彼の視野は,自分の関心の芸術の領域に限られていた。彼

の風刺は,身近な文学界に向けられるときに,その冴えをみせた。とくに,

(633)

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マーラー・ ミュラーの『ファウスト博:1:J -43 -

「ファウストは,大主壮語で膨れあがった若者で,彼が心に不満を感じると

き,それにふさわしい請を受ける。[• . • ] ミュラーの場合には,あの形而

上的苦悩というものが問題となっていない。神話の点のぷ味かす っかり彼の

制野から抜け法ちている。J31

グンドルフもまた,ゲーテの作に上七してミュラーの 『ファウスト博士Jに

は「哲学的,人間的問題Jが欠けていることを指摘しているが, 一応ミュラー

の泣かなイメージ性は評価した。彼は rシェイクスピアとドイツ精神Jのな

かで, rファウスト博士Jは 「古い時代の細部を生き生きと只象的に描写し,

色彩的な言葉の力もみせた,デュラ一時代の絵l両J32だと述べている。

nf~G 背 I I 現代の文学史も基本的にグンドルフの見解を受け継いでおり,たとえば次

川 7I I のような評価がなされている。

ミュラーの『ファウスト博 J:Jlには,ゲーテの 『ファウストJにおけるよ

;州jll| うな!日人的な飛朔はない。彼は, 1"使命力にみちた,濃い色彩で,さまざ、まな

内溶のからみあったものを創りだす。Jさまざまなエピソートは人生の写し

!針。 U 絵であるが,個々の側速は薄い。物語,風刺,カリカチ ュア,そして悲嘆カ

liMl らなる苛妙な混合物ができあがっている。「ゲーテ問機にミ ュラーも,古い来

りf!e ! I 材を巨人主義の観点から作り替える可能性をもっていたのに,彼はファウス

人bell トの,それ日身の本質から沸き出てくる無限の衝動を,真の芸術的な形盗へ

つ1つ ij と形づくることも,キリスト教の善と患の闘争を解決し,形而上的に深化さ

よりbh せることもできなかった。J33

ミュラーの『ファウスト博:iJJは,ゲーテの作と比較されることで,ゲー

叫 l テのテーマを某準とした観点,巨人主義や形而上的深みから批判されること

都 ! が多いが,それはミュラーの怖附刻とは異なるものであり,無いものねだ

りだと言わざるをえなし、。もっとも先に考察したように, ファウスト像の核

の無い唆昧さが,劇のダイナミックな展開を阻害し,結局はこの作が断片に

終わらざるをえなかったその大きな理由であるのだから, この作には劇作品

tb i として大きな欠点があるのは事実である。この,作品の本質にある断片性,

刊行

未完成さが,現在においても評価があまり高くない大きな理由である。

本ti命ではしかし, ミュラーの『ファウスト博士Jの文学史的意義をできる

かぎり肯定的に引き出すように試みた。文学史的意義というのは, この作品

がシュトゥルム ・ウント ・ドラングのなかに占める特異性を認めることであ

る。すなわち,ヘルダーが提日目したような,民族的,風土的文学をこの作は

実践しているということである。古いドイツの伝承をイメージ豊かに,濃密

(635)

-44ー

な芥I]t-)x¥をそなえさせて戯曲化 し,その伝承をシュト ゥルム・ウ ント・ ドラ

ンク的テーマと合体させようとした ミュラーのこの作は,独自な位置を占め 11 .~. J

ている。さらに, シュ トゥルム・ ウント ・ドラングの演劇jにおけるシェイ ク

スピア受谷のなかて,詩的言語やイメージは比較的おろそかにさ れた部分で

あるか, ミュラーはそのイメージの豊かさ で, ドイツにおけるシェイ クスピ

ア受谷に新しい境地を開いたと 言える。本論でも, ミュラーの色彩感豊かな

イメーシについては,引用の際にもっとめて取り上げたつもり である。

Text . Friedrich Muller, genannt Maler Muller: Fausts Leben. Nach Hand-

schriften und Erstdrucken. Hrsg. von lohannes Mahr.

Stuttgart CReclam Universalbibliothek) 1919.

以降 FaustsLebenと表記する。

1 . Friedrich Muller. genannt Maler Muller: Idyllen. Hrsg. von Peter-Erich

Neuer. Stuttgart (Reclam Universalbibliothek) 1911. S. 11.

2. Ebd.. S. 81.

3 . Einem rRisenden Maler ins Stammbuch geschrieben. Maler Muller : Gedichte.

lri: Sturm und Drang, Dichtungen und theoretische Texte. Bd.2 Hrsg. von Heinz

Nicolai. Munchen 1911. S. 1291.

4 . Fausts Leben. S. 92.

5. V g1. cbd., S. 6ff.

6. V g1. Elisabeth Frenzel: Stolle der Weltliteratur. Stuttgart 1992. S. 218.

7. V g1. Volksbucher des 16. ]ahrhunderts. Eulenspiegel. Faust. Schildburger. Hrsg.

von Bobertag. CDeutsche National-Literatur 25. Band) Tokyo 1913. S. 113ft.邦

dR:松浦純訳『ファウスト博士 付人形芝居ファウスト』国書刊行会 1988年.

8. "Mephostophiles“なお ミュラーは "Mephistophiles“と "Mephistopheles“を

混在させている。ゲーテは "Mephistopheles“と表記。

9. V g1. Frenzel, a.a.O., S. 219.

10. V g1. Christopher Marlowe: The Tragical Histoη 01 Doctor Faustus. With

introduction and notes by William Modlen, M.A.Oxon. London 1948.独訳:C.

Marlowe: Die tragische Historie vom Doktor Faustus. Stuttgart CReclam Uni-

versal-Bibliothek) 1985.邦訳:平井正穂訳『フォースタス博士の悲劇J筑摩世界

文学体系 18.1915.

(636)

-咽.

-『,J

マー ラー・ ミュ ラーの 『ファ ウス ト博士J

11. V gl. Frenzel, a. a. 0., S. 220f.

12. Lessings Werke. Hrsg. von Kurt Wolfel. 2. Band. Frankfurt am Main 1967. S.

616f.

-45-

13. V gl. Lessings Werke. 1. Band S. 251ff.

14. V gl. ein Brief von Maler Muller an eine Ungenannte. Rom, 14. 9. 1820. In:

Lessings Werke. 1. Band. S. 650f.

15. V gl. Fausts Leben. Nachwort von Johannes Mahr. S. 234ff.

16. この四つの断片はすべて, 上記のレクラ ム文庫に収められている。

17. Fausts Leben, S. 85.

18. V gl. ebd., S. 28f.

19. Ebd. S. 42.

20. Ebd. S. 20.

21. Ebd. S. 87.

22. Ebd. S. 19f.

23. Ebd. S. 31.

24. Ebd. S. 87.

25. Ebd. S. 131.

26. Almanach der deutschen Musen auf das ]ahr 177欠In:Zei tgenossische Rezep-

tion. Fausts Leben. S. 195.

27. Nurnbergische gelehrte Zeitung auf das ]ahr 1799. Ebd. S.199ff.

28. Frankfurter gelehrte Anzeigen. 1799. Ebd. S. 203.

29. Berlinisches Literarisches Wochenblatt. 1777. Ebd. S. 195f.

30. A llgemeine deutsche Bibliothek. 1782. Ebd. S. 209.

31. Franz Horn: Die schone Literatur Deutschlands. wahrend des achtzehnten

]ahrhunderts. 1813. Ebd. S. 215.

32. Friedrich Gundolf : Shakespeare und der deutsche Geist. Munchen und Dussel-

dorf 1959. S. 231.

33. Geschichte der Deutschen Literatur. Hrsg. von Helmut de Boor und Richard

Newald. 6. Band 1. Teil. S. 279.

J. 1)

J

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