ポストコロニアリズムにおけるアイデンティティ・ポリ...

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Title ポストコロニアリズムにおけるアイデンティティ・ポリ ティクスと本質主義批判 -ディアスポラ、クレオール、 ハイブリディティをめぐって- Author(s) 新垣, 誠 Citation 国際政治経済学研究 = International Political Economy(5): 35 -47 Issue Date 2000-03 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/10583 Rights 筑波大学国際政治経済学研究科

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Titleポストコロニアリズムにおけるアイデンティティ・ポリティクスと本質主義批判 -ディアスポラ、クレオール、ハイブリディティをめぐって-

Author(s) 新垣, 誠

Citation 国際政治経済学研究 = International Political Economy(5): 35-47

Issue Date 2000-03

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/10583

Rights 筑波大学国際政治経済学研究科

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ポストコロニアリズムにおける

アイデンテイティ・ポリテイクスと本質主義批判

ーデイアスポラ、クレオール、ハイブリデイティをめぐって一

Post-colonial Identity Politics and “Essentia1ism:" Diaspora, Creole, and Hybridity

新垣 誠ネ

Makoto ARAKAKI *

This article examines post苧colonial identity politics and the issues on

“essentialism". Discussion begins with the critic of colonial discourses and its process

of su bjecti vity construction based on the “SelflOther" dualism. Post-colonial critics

ar日U巴 thatthe binary opposition is based on“essentialist" notions and assumptions

of a given group, and produces discourses on identity that is exclusive,

homogeneous, and therefore, oppressive. One of their goals is to deconstruct and

de-center such essentialist identitieョ“Diaspora,"“Creole,"and “hybridity" are the

strategic concepts frequently utilized by post-colonial critics to re-narrate the

possibility of non-essential identities. Their intention was highly political. However,

recent deconstructionist and postmodernist trend in academia historically

de-contexualizes and de-politicizes these concepts and discusses essentialism from the

mere theoretical and logocentric p巴rspective.Paul Gilroy, Stuart Hall, and bell hooks

criticize such trend arguing that the issues of essentialism should be contexualized

within a particular group's history and identity politics so that the theory does not

paralyze the political gesture. This article contests such logocentric orientation of the

current trend and its political effectiveness

はじめに

「ポストコロニアル (post-colonial)J、「デイアスポラ (diaspora)J、「クレオール (Creole)J、「ハ

イブリデイティ (hybridity)J などの言葉が日本のアカデミアを賑わしてから久しい。むしろ、今

やそれらが「流行」として去ってしまった感さえある。いくら日本の大学がゼミや講義で「ポスト

コロニアリズ、ム」を取り上げても、それが「流行」としか成り得ない所以は、その主体の欠如にあ

る。ガイ・ヤスコが指摘するように、ほとんどの場合、日本の大学にいるのは「新世界秩序」形成

の中心的国家の内部にいながら、それが支配し排除する人々や地域について自分があたかも無縁の

ように調査、研究、議論する学生や研究者集団なのであるl。だが、その一方、「ポストコロニアリ

* 筑波大学大学院同際政治経済学研究科 (博士課程)

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新垣 誠

ズム」の議論を真剣に受けとめ、自己の発話の位置を常に問いながら、それを日本国内における脱

植民地化の問題として、また新たな状況を切り開くための理論として、研究に取り組む人々がいる

ことも否定できないだろう。

そのポストコロニアルの研究者たちが随時直面する問題が、輸入された理論や諸地域で歴史化さ

れた議論を、 いかにして自らの理論や実践と接合させていくかである。この小論の問題意識も、こ

こから出発する。つ まり、「ポス トコロ ニア リズム」が理論としてだけ受け入れられ、理論的枠組

のなかのみで抽象的・普遍的にその諸概念が語られるアカデミズムの傾向を問題化する。「デイア

スポラ」や「クレオール」、「ハイブリデイテイ」などの概念は、「自己/他者」というコロニアル

な図式を理論的にも政治的にも批判するためのカウンタ ー・ ナラテイプとして形成されたはずだ。

しかし、最近の理論主義的傾向のなかでポストモダニズムや脱構築主義の潮流に呑み込まれ、それ

ら諸概念は文化や集団的アイデンティティを限りなく細分化し脱政治化する言葉として、その意味

をすり替えられている。

そして、小論のテーマである本質主義批判の問題も、これらの諸概念、そしてそれをめぐる議論

に深く関わっている。ポストコ ロニアルにおけるアイデンティ ティ・ポリティクスを語る上で、本

質主義の議論は避けて通れない。本質主義とは、ある集団やカ テゴリー にだけ存在する固有の特質

を認める考え方であるが、問題なのは、その概念が国家や民族、人種や階級などと結びつけられて

抑圧的 ・排除的に機能してき たことである。「自己/他者」というこ分法的コロ ニアル ・アイデン

テイティも本質主義的であり、ポストコロニアリズムの本質主義批判の理由もここにある。本質主

義的言説は、理論上の問題としてだけではなく 、植民地政策な ど現実的な政治と密接に関係しなが

ら排除のメカ ニズムを生産してきた。ポストコロニアル研究における本質主義批判とは、決して抽

象的なレベルでの乾いた議論ではなく、コロニアルな現状への極めて政治性の強い抵抗の手段とし

て生まれてきたのである。そのような本質主義批判が、現実と切り離され脱政治化・ 審美化された

理論上の領域のみで議論される最近の傾向に疑問を投げかけ、本質主義の問題を再考することが、

本稿の 目的である。その為にまず、 「デイアスポラ」や「クレオール」、「ハイ ブリデイテイ」 とい

う概念が、ポストコ ロニアルのアイデンティテイ ・ポリティクスのなかで、本質主義の問題を巡っ

てどのように位置付けられ議論されてきたかというところから話を始める。そしてデイアスポラ(特

に黒人デイアスポラ)の概念を通してアイデンティテイやその歴史性、ま た本質主義批判がどのよ

うに展開されてきたのかを考察する。

コロニアル・アイデンティティとポストコロニアリズムにおけるアイデンティティ・ポリティクス

ポストコロニアリズムが、デイアスポラやクレオール、ハイブリデイティという概念を戦略的に

利用する理由は、その研究潮流が問題化する「排他的アイデンティテイ」や、植民地支配卜におけ

る支配 従属といった社会構造が産み出してきた「暴力的な位階序列の文化間関係」、また、それ

らの基盤となる「自己 (Self)と他者 (Other)J という アイデンティテ イに関する二分法的言説や

その政治的実践を、批判・脱構築するだけでなく、そのような抑圧的・排除的メカニズムを内包 し

た近代の公共性に取って換わる新たな社会形態の可能性を提示してくれるところにある。そして、

1 ガイ・ヤス コは、 日本の大学において、「ポストコロニアル」ディスクールの訪りの主体は日本の教授であり、ポスト コロニアルの知識人が、 自分の生まれた国のこ とを語るのと、アメ リカ人や日本入学者が勝手

にその代表権を主張することは違うと主張する。「ポスト ・コロニアル派批判」刊文況J 7巻、 9号、 1996

年、 40寅。また、冨山もそのようなポストコ ロニアルの知識人の「議論を用語や理論だけ とり トーげて適用

するよ うな真似は、彼 (女)らが行っているネゴンエーションのプロセスを無視することになる」と警告する。(f越境する文化・崩される知の体系 ポスト楠民地主義のアイ デンテ イテイ」、 『折界~ 624号、

1996年、263頁。)

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ポストコロニアリズムにおけるアイデンテイティ・ポリティクスと本質主義批判

これらの文化や民族集団、国家的アイデンティテイに関する抑圧的・排除的な語りは、本質主義を

基盤とする。均質的なアイデンティティを構築し、その神話の効力を維持するためには、外部との

絶対的差異を強調し、内部の多様性を黙殺するための、集団の本質に纏わる言説の生成が必要なの

だ。例え、国家が独立し、植民地支配が去ったように見えても、本質主義的言説によるアイデンティ

テイならびに集団のメンバーシップの管理は、「人種」、「国家」、「民族文化」、「階級」、「性別」な

ど、様々なカテゴリーの断層で現在も続いているのだ。

その意味においても、ポストコロニアリズムの「ポスト」は、必ずしもコロニアリズムの終駕を

意味してはいない。たとえ植民地が「独ー立J したとしても、まだコロニアリズムを問題化せざる終

えない現実において、ポストコロニアリズムは存在するのだ。むしろ、ポストコロニアルという研

究潮流が取り組んでいるのは、'~虫立」を勝ち取っ たとされる地域の現在においても、今なお深く

残るコロニアリズムの文化的後遺症と、「ポスト」が「ネオ」となって反復される危機において継

続されなければならない脱植民地化のプロセスを絶えず問題化していくことにある。「未完の植民

地時代」や「脱植民地化の意味」などの論文で、陳光興は、ポストコロニアル研究の存在が、ポス

ト植民地時代の到来を意味しないことを力説している2。また、ホールは「“ポストコロニアル"

とは何時だった?ーその限界において考える 」において、「ポスト」が「後」を意味しないと

いう単純な議論を越えて、ポストコロニアルの時政や政治性、概念的問題について深い議論を繰り

広げている30 ホールの議論は、ポストコロニアルという言葉の不明瞭さを徹底的に吟味し、理論

的枠組の問題点を厳しく検討したものであるが、そのポストコロニアル研究の問題意識自体を無効

としたものではない。クリフォードに言わせれば、「ポストコロニアルな文化や場所などは存在し

ない」のであり、 rrポストコロニアル』という用語は、現在発生しつつある文脈あるいはユート

ピア的文脈でしか意味をなさない」のだ九 しかし、 rlTポストコロニアル』はたしかに、過去の支

配構造、現在の闘争の位置、想像される未来の聞の、不完全かもしれないが現実的な断絶を描写し

てはいる」ηとする。陳によると、ポストコロニアル研究の「正当性は、コロニアリズムを越えた倫

理的な位置性 (positionality)の肯定的仮定」にあり、その「倫理的な位置とは、コロニアリズム

的影響の歴史性を再考し再検討する場であり、また、我々は永久にコロニアリズムの陰の下で暮ら

す必要はないのだと論じるための、植民地 (coloniality) の 「創造的な外部~J なのである九

ポストコロニアル研究が陳の述べるような位置性の設定をおこなうのは、「コロニアリズム以

降 ・植民地の独立以降」であるはずの現在において、植民地的な支配や収奪のプロセスが、今なお

資本主義諸国の支配体制に脈々と息づき、その国際的資本・情報・文化のヘゲモニーが多国籍企業

の独占支配体制や、国家間・閲家内の貧富の差を拡大しているという危機感にある。そしてその現

状が、「ネオコロニアリズム」として確認されるもう 一つの理由は、コロニアリズムが理想的な「自

己」を確立するために「他者」を構築、抑圧、周縁化してきたプロセスが、様々な地域社会におい

て健在である現実にある。エドワード・サイードが「オリエンタリズム」で描き出した、「西洋」

が、他者である「東洋」との差異において自らを「主体」として表象するシステムは、文脈をかえ

ていたるところに存在しえるのだ。そのシステムによって生産される言説は、西洋の覇権主義的な

政策へと変換されて行くと同時に、政治的・文化的ヘゲモニーとして作動し、植民地支配の道具へ

2 陳光興「未完の植民地時代」、81-125頁、「脱植民地化の意味」、 143-179頁、 『グローパライゼイションのなかのアジア』、伊橡谷登士翁、酒井直樹、デッサ ・モリス=ススキ編、未来社、 1998年。

3 Stuart Hall, "When was ・the posUolonial'? Thinking at the limit," The Post.colonial Qw,stion. lain

Chambers & Lidia Curti eds.. Routledge. 1996. pp. 242-260

4 ジェイムス・クリフォード「デイアスポラJ r現代思惣.n26巻、 7号、 1998年、150-151頁。5 I詰l上、 151頁。6 陳、「脱植民地化の意味」、170頁。

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新垣 誠

と化する。この「自己/他者」というこ分法的・位階序列的かっ支配的・抑圧的な関係を、批判し

ていくのが、ポストコロニアル研究の大きな目的でもある。

サイードのオリエンタリズムに代表されるような、「非西洋的」な「他者」を通して形成される

「西洋的な」アイデンティティは、西洋近代における帝国主義・植民地主義と深い関わりを持つ。

植民地支配という「非西洋的」な '1也者」との遭遇のプロセスを通して、近代における「西洋的」

な自己同一性は確立されてきたのだ。「西1羊/非西洋」というカテゴリーは、「近代/未開」、「文明

/野蛮」、「合理性/不可解」という相反するこ項対立の本質的特質として分節化され振り分けられ

ながら形成されていく。そしてそれを生産・振り分ける作業は、植民地支配を保持するための重要

なプロジェクトでもあるのだ。近代化という単線的な時開設定のなか、植民地主義は被支配集団の

本質的特性に関する言説を形成しながら、その政策に正当性を与えていく。本質主義的な二分法の

図式は、ただ単にカテゴリーとして存在したのではなく、実際の植民地主義政策と深い共犯関係に

あったのだ。

このような植民地の民族独立運動においては、この二項対立の反転を目標とする反植民地主義的

ナショナリズムが、主流な政治運動となることがしばしばであった。そのような運動の中心にくる

のは、民族、文化、歴史、アイデンティティを、やはり本質的なものとして捉える語りであり、二

項対立の従属関係を逆転する作業なのだ。ポストコロニアリズムの視点からすれば、それは植民地

主義を反復 ・再生産し、ネオコロニアリズムへと向かうこ とを意味する。ポストコロニアリズム研

究が問い直すのは、そのような民族運動が目指した「真正なる自己」やその表象をめぐる正確さで

はなく、「自己」生成過程、排除的・ 二分法的アイデンティティの自明性そのも のなのである。

デリダ、フーコ一、ラカン、フロイトなどの構造・ポスト構造主義言説を足がかりにホ ミ・パー

パ、ガヤトリ ・スピヴァ ックらが脱構築を図るのが、この二分法的対立図式であり、本質的自己同

一性の神話である。ファ ノンを引き合いに出しながら、植民地主義言説的二分法に内在する不安定

さを指摘するパーパの議論や、「ネイテ イブとはだれのことか ?Jというスピヴアツ ク問いが問題

化するのは、「自己/他者」の固定化された境界であり、揺るぎない「自己」を擁立するために反

復される本質主義であり、そのプロセスが内包する抑圧的排除のメカニスムなのだ。それでは、「自

己/他者」の差異や本質主義を回避したポストコロニアルにおけるアイデンティティとは、どのよ

うなものなのか。その脱本質的 (ノンエッセンシャル)なアイデンテイティを考える上で重要とな

るのが、「デイアスポラ」であり、その生成過程において不可欠である「クレオール」や 「ハイブ

リディテイ」という概念である。

「ディアスポラ」

近代、特に20世紀は、膨大な人口移動を生み出した。奴隷制度による強制的移動、戦争や植民地

支配の結果としての難民や亡命者、労働移民そして離散民と様々な状況の下で人々は移動してきた。

交通機関の発達や資本のグローパル化も加わり、現在もなお人の移動は続く。しかし、「グローパ

ライゼイシヨン」の一つの傾向が、資本と情報、商品化された文化の流通による地球規模の均質化・

普遍化へ向かう運動とすれば、 「デイアスポラ」は、集団のアイデンテイテイや歴史的記憶と結び

つき、その運動と密接に絡み合いながらも異なった時間性・ 空間性を描き出す70 文化的スタイル、

習慣、流行、商品などを資本、生産、消費の原理で流通させるのが、 グローパライゼイションだと

すれば、ディアスポラとの差異は、双方ともに国家や地域、民族やエスニシティの境界を越えて行

きながらも、ディアスポラが歴史的体験や記憶、精神的紐帯や関係性により深く関わっている点に

7 iグローパライゼイション」の意味は板めて多義的であり、ここでの意味づけは、その現象のイUII泊iであっ

て全てではない。

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ポストコロニアリズムにおけるアイデンテイテイ・ポリティクスと本質主義批判

ある。そしてポストコロニアリズムが、歴史的に文脈化された多様性をデイアスポラという概念で

語る場合、そこに対峠されているのはグローパル化の文脈で、語られる「コスモポリタニズム」など

という非歴史化・脱政治化された多様性であり、グローパル・キャピタリズムというコロニアルな

暴力を内包した巨大なヘケ、モニーの力なのである。

長年、デイアスポラという 言葉は、主にユダヤ人、アルメニア人離散コ ミュニティーを意味して

きた。そのデイアスポラという言葉の (diaspora)語源は、ギリ シャ語の「一面に、方々に」を意

味するデイ ア (dia) という前置調と、「種をまき散らす」という 意味の動詞、スペイロ (steiro)に

ある。ギリシャ人にとって、デイアスポラが意味するところは移住と植民地化であったが、ユダヤ

人やアルメニア人にとっては、不幸で残虐な体験からくる集団的トラウマ、故郷からの追放、長期

の亡命生活など、歴史的体験に基づく離散状況を意味する8。 しかし、近年において、アフリカ黒

人やパレスチナ人など紛争や植民地支配から移住・離散を強いられた集団、また中国人や他のア ジ

ア人集団など、近代が産み出した労働移民の結果、離散した集団も自らをデイアスポラと呼ぶよう

になってきた。

このような新たに市民権を得たディアスポラの現状は、やはりグローパライゼイションと密接に

関わっている。 デイ アスポラ的状況を体験する現実は、常にグローパライゼイシヨンのプロセスと

絡み合っているのだ。しかし、受難の歴史的体験ま たはその記憶が、ポストコロニアルにおけるデイ

アスポラ的形態の生成過程にとって不可欠であるという点において、グローパライゼイ ションと

デイ アスポラとし寸概念は区別される。「グローパライゼイションが資本と情報の『今』のブラッ

クホールに全てを飲み込む運動であるとすれば、デイアスポラはそのような『今』によ って抑圧さ

れ、 否認されたりしている 咋己憶J (過去)の方に向かう」という上野の見方は、グローパライゼ

イションと結びつきながらも、その資本主義や生産至上主義、また植民地主義的暴力への対抗言説

としてのデイアスポラ概念の理論的立場を示唆する9。デイアスポラは、近代的政治単位としての

国民国家や地球規模で拡大してい く資本主義の付帯現象に還元できるものではなく、「国民国家や

グローパル・キャピタリズムの構造に規定され、制限されながらも、デイアスポラ的実践はそれら

を乗り越え、批判する」力を持つへまた、「国民国家やグローパルな技術、そして市場の内部にあ

ると同時に、それらに抗するトランスナショナリテ ィを示している」とクリフォードは主張するiio

そしてデイアスポラ を「共存のための資源、」とし、「コミ ュニテイ、ポリティクス、そして文化的

差異の非ー排除的実践の探求」としたうえで、「“ポストコロニアリズム"のための資源を提供す

る」ものと考えるのだ120

「クレオール」

「クレオール」と いう言説が近年において特に注目を集めたのは、 1989年の 『ク レオール性礼讃』

が出版された時であろう 。その作家の一人であるラファエル・コンフイア ンは、様々な集団が自ら

の出自に関わる文化的価値の再評価を訴えるアンテイルの現状において、「マルチアイデンティ

テイ」とし寸概念を提示する。 その理念は、 「今後、『移動」によ って、世界中で民族や文化の混合

が進み、これまでのように単一民族、単一文化、単一言語そして単一国家という 一元的なアイデン

テイテイの概念ではとらえきれない事態が増えてくるだろうという予測」に基づいている 13。また、

8 Robin Cohcn,ωobα1 Diastoras: An lntroduction, University of Washington Press, 1997, p. ix

9 ..t野俊野「デイアスボラのアジアJ rインパクション』、 101号、 1997年、 57頁。10 7リフォード、 Iデイアスポラ」、 120頁。

11 向上ー、 151貞。

12 IdLl、 120、151頁。

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新垣 誠

「クレオール性礼讃」でおこなった文化的議論に加え、政治的側面からも「領土の終駕」を主張す

る九地球社会の地政の変化に対応して彼が説く「多様性(デイベルサリテ)Jとは、「人類として

の一体感の上に、アイデンテ ィティーはこれまでの国や人種の単一性に収飲するものではなく、多

様な要素を含んで「作裂したもの (エクラットマ ン)になる」という 予想に即したものである150

彼が構想するものは、「国民国家 (エタ・ナシオン)Jに代わるものとしての「横断的国家(メタ・

ナシオン)Jであり、それは「文化的帰属意識に基づいた理念的な 「領土なき』国家」なのだ160

それは、 今福龍太が 『ク レオール主義』で述べるように、「土着性」、「伝統」、「人種」、「民族」、「文

化的アイデンティテイ」、またそれらの概念が暗示する「純粋性」や 「真正」 という固定化・ 本質

化された帰属の領域から脱したところで「クレオール」という現象が生成することを確認すること

で、 ノン ・エッセ ンシャルなアイデンテ ィティの可能性を開花させることでもあるに 「クレオー

ル」な現象のもとに生成されるアイデンテイテイは、 多様性・雑種性を前提としており、コロニア

ル言説が産み出した「白人/黒人」、「自己/他者」の二分法の境界と本質を揺るがし、 無効とする

理論的な力を持つのである。

アイデンティティ・ポリティクスと本質主義批判

ステュアート・ホールも、文化的アイデンテイテイが、固定的なものではなく、極めてハイブリッ

ドなものと前提する。ポスト構造主義的技法で脱構築・脱中心化されたホールのアイデンティテイ

は、連続的で一貫性を持ち、合理的で自意識的な古典的社会科学のアイデンティティとは異なる。

それは言説 (discourse)における主体の位置 (subjectposition) であり、「常に記憶や幻想 (fantasy)、

語り (narrative)や神話を通じて構築されている」のだI80

文化的アイデンティティとは、歴史と文化の言説の内部で創られるアイデンティフイ

ケーションの地点、アイデンテイフイケーションや縫合の不安定な地点である。それ

は本質 (essence) ではな く、 一つの位置化 (positioning) である。 したがって問題の

ない超越的な「起源の提 (Lawof Origin) J に絶対的に保証されることなどないアイ

デンティティの政治、位置の政治が常にあるのである190

ホールの説く文化的アイデンティテ ィは、ノン ・エ ッセンシャルかつハイブリァドなだけでな く、

その歴史的体験や記憶の重層牲に重点を置き、その言説の位置に見出されることから、まさにデイ

アスポラのアイデンティティを想定したものである。黒人デイアスポラについてのインタ ビューで、

ホールはこう語る。

13 ラファエル・コンフイアン rrクレオール性』をめぐってJ r現代思想J 25巻、 1号、 199711'、88良。

14 コンフイアンは、国際資本主義経済の市場拡大という展開に対して「クレオール性」がどのような批判的

立場を取りうるのかという 問題提起をおこ なっている。また、人口移動がますます活発化していくなか、

国家と人種のつながり の自明性も無くなってくるだろうと予測する。向上、 94頁。15 向上、95頁。

16 r国家」という 言葉さえ使ってはいるが、 越境・離散した人 も々全て含めての共同体のイメージは、デイ

アスポラの概念に通ずるものである。同上、 95頁。

17 今福龍太 fクレオール主義』青土社、 1991年、 209頁。

18 認識の絶対的前提であるデカルト的主体は、フロイトやソシュールを始め多くの構造主義、ポスト構造主

義、フェミニスト理論によって脱構築 ・脱中心化されてきた。ホールの説くアイデンティテ ィも、散千tーす

る言説のなかで構成 ・再構成する主体 (subject)の位置 (position)として想定されている。ステュアート・

ホール「文化的アイデンテイテイとデイアスボラJ r現代思想、J 26巻、 4-1昔、 1998年、94頁。

19 向上、 94頁。

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ポストコロニアリズムにおけるアイデンテイテイ・ボリテイクスと本質主義批判

文化的アイデンティティ は固定されません。それは常に雑種混滑的(ハイブリ ッド)

です。しか しそうなるのは、これがまさに特殊な歴史編成、 つまり極めて特殊な歴史

と表現の文化的レパートリーから生じているからです。だから、私たちが暫定的にア

イデンテ イティと読んでいる「位置性 (ポジショナリティ )J を構築することもでき

るのです。 それは単になにものかであるとい うことではないのです。 そうやって一つ

一つのアイデンテイテイの物語が、私たちが選択し同一化する位置(ポジション)に

刻印されていきます。私たちはその特殊性をすべて大事にしながら、もろもろのアイ

デンテイテイ位置の総体(アンサンブル)を生きなければならないのですへ

ここで説明されるアイデンテイ ティも、 その 「位置性」が構築的である点でノン ・エ ッセンシャル

であり、アイデンティ ティの位置が、アンサンプルである点で、ハイブリァドである。ホールにと っ

てのデイアスポラのアイデンティティとは、「本質や純粋性によってではなく、ある必然的な異質

性と多様性の認識によ って、つまり差異と矛盾することなく、差異とともに、差異を通じて生きる

『アイデンティテイ 』という 概念によ って、雑種混活性(ハイブリデイティ)によ って定義される

のである。デイアスポラ・アイデンテ ィティとは、常に自己を新たなものとして、変換と差異を通

じて生産/再生産する。」Zi

クレオールにおいて もディ アスポラにおいても、 常に前提となるのは、 そのアイデンテ イテイが

ハイブリ ッドでノン・エッセンシャルであるという点にある。しかし、ここで留意するべきことは、

ホールも述べるように、それが「特殊な歴史編成、つまり極めて特殊な歴史と表現の文化的レパー

トリーから生じている」点である 22。無批判にハイブリデイテイを強調すること は、無意味な脱構

築主義へと向かうこ とであり、歴史性を無視したハイブリデイティの議論は、グローパライゼイショ

ンやポストモダンの「ノ マ ド‘的」なものの議論に回収され、その政治的批判能力は無効となる。ポー

ル・ギルロイが 『ブラック・ア トラ ンティック』において、大西洋における黒人デイアスポラとそ

の文化形態が、近代と いう歴史性とともに語られる必然、性を強調する理由もここにある。黒人のデイ

アスポラ的経験は、近代の内部にあるのだが、その近代が国民国家という近代的境界内の歴史のみ

では語りえないその場所に、ギルロイはブラック・アトランティッ クを浮上させる。ギルロイが示

すよ うに、奴隷制と いう近代のアンチノミーは、ヨーロ ッパにおける近代国民国家形成過程の外部

で語ることはできないのであり、そのような特殊な歴史性の経路を通ってこそデイアスポラやアイ

デンティテ ィの議論が有効となる。そしてギルロイは、その歴史の重層の深淵から、いかなる限定

された閤家的伝統や民族的基盤をもっ伝統に も還元 しえない、 多様でハイブリッドな黒人デイアス

ポラを描き出す。また、デイアスポラ文化として彼が注目するブラ ック ・ミュージ ックの形成過程

とその製作技術は、極めて近代的でありながら、差異/ハイブリデイテ ィを内包していく 。そして、

その人工的なヴァナキュラ一文化にギルロイは批判的公共圏を構想する。

一このヴァナキュラーにおいて、音楽を聴くことは受動性とは関連しない。それ故に、

最も永続的なア フリカニズムは、 ブラック ・アトランティ ック文化の内容として特定

されないのである。その代わりに、それが見られるのは、これら全ての文化が音楽製

作 ・活用される中心的な場所だけでなく 、遍在する応答領歌 (antiphonal)、西半球に

おける黒人文化の多様性を包み支える社会形態においてなのだ。(中略)物語を語る

20 ステユアー ト・ホール「ある ディアスポラ的知識人の形成J r思想J 859号、1996年、 29頁。21 ホール、『文化的アイデンテイティとデイアスポラ」、101-102頁。

22 ホール、 「あるディアスポラ的知識人の形成J 29頁。

41

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新垣 誠

ことと音楽を作ることは、共にアルタナティブな公共圏に貢献してきたし、そしてこ

れが、非従属的な人種的対抗文化の統合的構成要素としての自伝的自己のドラマ化や

公的自己構築の特有なスタイルの形成や循環への文脈を与えたのだヘ

このようなデイアスポラの文化形態は、ギルロイにとっての「対抗文化 (countercultures)J であ

り、「文化政治 (culturalpolitics) J の出発点でもある。近代からはビートの外れた (offthe-beat)

対抗的歴史、文化的批評を形成する「アルタナテイブ、な公共圏」において、政治と音楽・文化は同

じテーブルにのる。そしてその文化形成に言及しながら綴られる近代性批判としての対抗的歴史は、

その近代が産み出してきた(デイアスポラ形成の原因ともなった)暴力批判によって裏付けられる。

また、そのデイアスポラの経路を通って描かれるユートピア的ビジョンは、奴隷市IJ、人種主義、排

他的ナショナリズムの受難を出発点としている。このユートピア/ディストピア的緊張関係は、デイ

アスポラが故郷の喪失に始まることから、何らかの形ですべてのデイアスポラ丈化に現れている。

そしてそのデイアスポラの緊張関係に彩られた歴史的記憶が、現状が、コミュニテイの存続を維持

するのだ。つまりデイアスポラ文化は「伝統を選択的に存続させ再発見し、それを新たな、ハイブ

リッドな、そしてしばしば敵対的な状況へ“カスタマイズさせ"、“ヴァージョン化する"」のだへ

ポスト構造主義/ポストコロニアルの議論に精通しながらも、ギルロイの描くデイアスポラは、

それを越えたところにある。多くのポストコロニアル研究者が、なかば妄信的に脱本質主義を信奉す

るなかで、ギルロイはデイアスポラとその文化について慎重に議論を進める。ロマン主義的アフロセ

ントリズムを批判し、近代性のアンチテーゼ、としてしか存在しない「伝統」の概念を再考し続けるな

かで、ギルロイは「黒人性」というアイデンティティを本質主義だとして即座に解体しようとはしな

い。むしろ、そのような反本質主義的 (anti -essentialist)視座を、「安易で倣慢な黒人性の脱構築」

と激しく非難するお。そして抽象的かっ脱構築に依存したその視座は、しばしば階級や支配などの政

治的な現実問題において沈黙するのだ。ブラック・アトランティックは、審美的・非政治的デイアス

ポラ空間ではない。それは政治性の内部にいながら、自らの歴史・文化を絶え間なく生成・再生成し

ていくのである。ギルロイは、起源 (Originlroots) や純粋性、血や民族中心主義に回帰しようと

する本質主義 (essentialism) にも、歴史的体験に裏付けられた黒人性や特異性までも脱構築しよ

うとする反本質主義 (anti-essen tialism) にも帰属しない、反一反本質主義 (anti-anti -cssen tialism)

の立場をとる 260

このギルロイの立場は、反本質主義という理論上の問題解決に意義を申し立てるとともに、歴史

的・政治的エイジェントとしての黒人主体を、議論に持ち込むものでもある。「ブラック・アイデ

ンティティは、それを支持し正当化するレトリックが説得的か制度上権威的かで、単に利用され放

棄される社会的・政治的カテゴリーではない」とギルロイは力説する270 ブラック・アイデンテイ

23 Paul Gilroy, The Black Atlantic.' Moder削 tvαndDouble C川tsciousness,Harvard Univcrsity Prcss. 1993, p

200

24 クリフォード、「デイアスポラ」、 137-138頁。

25 Gilroy, The Blαck Atlantic, p. 100.

26 I司上、 pp.99-103。上野はこのギルロイのスタンスを、「ナショナルな 『イギリス性』が成構なら、純粋に超

歴史的な「民族』もありえない。かといってあらゆる民族文化をランダムに結合するポストモダニズムの

非場所性も、しょせん担造された時空、つまりはグローバルな経済と情報が流通する時'苧の影でしかなし、」

と表現する。(上野俊野「ディアスポラの思考」筑摩書房、 1999年、 48-49頁。)しかしながら、ギルロイの

意l渇するものは、このような理論的帰結ではなく、アイデンテイテイの政治性に、より深く関わっている

と思われる。

27 Gil roy, The Blαck Atlantic, p. 102

42

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ポスト コロニアリ ズムにおける アイデンティティ・ ポリ ティ クスと本質主義批判

テイは「板端な構築主義者がどう言おうと、(常に不安定であるにしても)一貫した自己として経

験されるのである。」28そして、なによりもそのアイデンテイティの解体が侵す最大の罪は、歴史的

経験を無効とし、抵抗 (resistance)/解放の主体が形成される位置を消去 してし まうこと にある。

ポストモダニズムの本質的アイデンティティ批判を指して、ベル ・フックスはこう語る。

多く のアフリカ系アメリカ人が、本質主義批判をこころよく思わないのは、それによ っ

て黒人の歴史や体験の特異性、またその経験によって培われた文化や感性が見失われ

る不安にある。この心配への適切な対処は、一方で、本質主義を批判しつつ、 「帝圭験の

権威 (authorityof experience) J の重要さ を強調することである。黒人の「本質」が

あるという考えを否定することと、流浪と闘争の特異な体験によってブラック・アイ

デンティティが構成されてきたことを認めることには、極めて大きな差がある却。

フックスも、コロニアルな状況で、白人の優位性を保つために本質的に構築された固定的で普遍的、

「原始的」で「真正」な黒人のアイデンテ ィティを批判する。しかしながら、ポストモダニズムが

持つ本質主義批判の効力を肯定しつつも、「その批判が、我々が(ポストモダン的)主体 (subject)

になるために、被抑圧者や搾取される人々の闘争を放棄することと同義語になってはならない」と

警告を発する初。 ブラ ック ・アイデンティテ イの構築されてきた特異な歴史的経験、多様な文化的

生産の可能性、抵抗/解放へとつながる黒人の主体性、 これら全てが肯定されて初めて本質主義批

判が、洗練されたポストモダニストや脱構築主義者の戯れをのがれて政治的に有効となるのだ。フッ

クスに言わせれば、自己の歴史性を忘却し、アイデンテイティを解体する余裕と賛沢は、権威的に

アイデンティ ティを構築するパワーを持ったものだけに許される特権なのである。

ホール も、「黒人」というカテゴリーが政治的 ・文化的に構築されたものであり、超文化的・超

越論的人種カテゴリーとして存在しないことを指摘する。「純潔性の終駕 (theend of innocence) J

という表現で本質的黒人主体の終罵を宣言しながらも、それに関わる諸問題が、歴史的に様々な言

説との分断や接合 (articulation)、編成のうちに浮上し、階級、ジェンダー、エスニシティという

カテゴリーによって常に交差、再交差されていることを主張する31。そして「エスニシティ」とい

う概念がはらむ危険性に警告しながらも、その言葉を用いて、黒人の歴史的体験の多様性・重層性

とそれが表象される位置を再確認しようとする。

エスニシティとい う用語は、主体性およびアイデンテ ィティの構築における歴史、 言

語、 そして文化の場所を認めるものであるとともに、あらゆる言語が定位され、位置

づけられ、状況下さ れたものであり、あらゆる知が文脈依存的 (contextual)なもの

であるという事実を認めるものである。表象は、歴史をもっ諸コード、すなわち特定

の空間と時間の言説的編成における一定の位置を有する諸コードのうちに発話が常に

生み出されるからこそ、可能なものである320

28 ギルロ イのこの “acoherent experiential sense of self"という表現は、古典的アイデンテイテ ィ論へのいl

帰としてではなく、 アイ デンティ テイ・ポリテ イクスにおける歴史的・ 政治的エイジェントとしての、ま

た痛み、感情を伴った「白己」として解釈されるべきであろう。向上、 p.102

29 bell hooks,“Postmodern Blackness," Yθαrning: Race, Gender, and CUltUTα1 Politics, South End Press. 1990.

p. 29

30 同上、pp.28-29

31 ステユアート・ホール 「ニュー ・エスニシティ ズJ r現代思想J 26巻、4号、 1998年、 82頁。32 r日l上、85頁。

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新垣 誠

文化的表象や政治的発話の位置も、歴史的に積み重なった言語や文化的コード、ホールが新たな想

いを込めて呼ぶエスニシティとその内部にしか見いだせないのである。ここに、ポスト構造主義理

論を駆使しながらも、歴史性やエスニシティをテクスト上の必然性として織り込んでいくホールの

政治的ジェスチャーが見受けられる。

このような、黒人としてのエスニシティまたは集団的アイデンティテイの歴史性や、その経験に

基づいた文化的実践の継続性と、常に未完でありハイブリッド化されながら生成・再生成されてい

くアイデンティティのありかたを、ギルロイは「変わりながらも同じであるもの (achanging

same) J と表現する330 彼は rf云統」という言葉が、近代のアンチテーゼとしてのみ位置づけられ、

アフロセントリズムや純粋性の名の下に、ローカルに帰属する文化形態やスタイルと、アフリカと

いう起源の間の不可欠な緋の役割を果たす、本質的な語りへと定義づけられていくことを批判する。

また、奴隷制が、集団にとって忘却されるべきネガテイブな歴史的体験として、「伝統」の概念か

ら抹消されることを危倶する。近代性の対抗的歴史としての黒人デイアスポラは、この奴隷制とい

う受難の歴史的記憶を共有することで維持されていくのである。その記憶は音楽文化という「記憶

維持機能 (mnemonicfunction) J によって伝統を構成していき、「変わりながらも同じものの生き

た記憶 (theliving memory of the changing same) J となるヘブラック ・アトランティックとは、

「マニ教的二元論のロジックでは理解不可能な極めて近代的で脱中心的、不安定で非対称な文化的

アンサンフゃル」であり、「非伝統的伝統 (anon-traditional tradition) Jであると定義するヘ 「伝統」

という概念は、その意味作用をめぐって、ギルロイとアフロセ ントリズムとの闘争の場でもあるの

だ。

ここでの「伝統」という言葉は、失われた過去を確認するためにも、またそれへのア

クセスを回復するための補償の文化を名づけるためにも使われるのではない。それは

近代性の対立項にあるのでもなければ、アメリカ諸国やカ リブ海広域の奴隷制以後の

歴史の腐食した失語症的権力と対比されるような健全なイメ ージを想起させるもので

もない。(中略)アフリカの文化形態と黒人デイアスポラの政治的文化の聞には長年

に渡る(最低でも) 二方通行があった。(中略)それら全ては、何が根源、であれ、文

化的そして人種的純粋性への欲望を不可避的に失望させる雑種混滑化 (hybr凶 sation)

と混合 (intermixture)の物語の雑多な構成要素なのだ。これらや他の例を念頭にお

いた上で、伝統というアイデイアを、デイアスポラの会話を可能とするための、名の

無い、回避的な最低限のものとして、検討し、見合わせてみることには意味があるの

だ360

rf云統」 という変わらない表現が、その意味内容・作用を絶えず変化させながらデイアスポラの時

空間を横断してしぺ。ブラック・アトランティックにおいて「伝統」とは、結果としてはではなく、

常にプロセスとして関係性のネ ットワーク上を行き来するものなのだ。

33 Gilroy, The Black AtlaJ1tic. p. xi, pp. 187-223 34 向上、 p.198

35 向上、 p.198

36 向上、 pp.198-199。クリフォードは、常にプロセスとして存在するこのようなギルロイの 「伝統」の捉え

方を、「アイデンティフィケー ションであって、アイデンテイティ ではない。すでに与えられた形態ではな

く、むしろ関係の行為なのである」と解釈する。クリフォ ード、 「ディアスポラ」、 142頁。

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ポストコロニアリズムにおけるアイデンテイティ・ポリティクスと本質主義批判

本質主義批判再考

「クレオール」や「ハイブリデイテイ」、「デイアスポラ」という概念が、ポスト・モダニズムや

ポスト構造主義の議論で目指してきたのは「脱本質化」の運動であり、そうした運動は、エスニシ

ティや集団的アイデンティティを考える上で多大な影響を及ぼしてきた。人種主義やナショナリズ

ム、また純粋性や真正を主張するその他の排他的アイデンテイテイの権威に対するカウ ンタ ー・ナ

ラテ イブとして、本質主義批判はその理論的効力を評価されてきたのである。 しかし、自らの発話

の内容やその位置の政治性に無頓着な反本質主義者や、「パスティシユ」、「コラージユ」などとい

うポスト・モダニズムの審美的語りに多様性・雑種性を回収してしまおうとする脱構築主義者の議

論は、非現実的かつ悪戯に全ての文化的・集団的本質からのユートピア的解放を夢見ているに過ぎ

ない。このような脱政治化された語りは、歴史的体験や政治的現実の遥か彼方で空虚なナラティブ

を生産し蔓延させ続けるだけでなく、文化やアイデンテイティを解体・多元化することで集団的社

会運動や政治的介入を麻庫させる言説を形成する。その政治的虚無主義は、集団的アイデンティテイ

の歴史的テクスト化とコ ンテ クスト化、そして現在も続く脱植民地化の状況に言及し介入を試みよ

うとするポスト・コロニアリズムの運動を無効とするものである。ホール、ギルロイ、フックスの

議論は、そのような脱政治化されたナラテイブに対する厳しい批判なのである。そのような政治的

に無責任な反本質主義に対する批判として、ギルロイのデイアスポラ概念や「反 反本質主義」と

いう視座も評価されるべきである。

本質主義的な文化や集団的アイデンテ イテイ の語りが、反一植民地主義に限らず、様々な被抑圧

集団におけるアイデンテイテイ・ポリテイクスの拠り所として存在してきたことは否定できない。

そのような本質化された文化や民族の語りが、発話する位置を獲得するための政治的闘争において

必要だった状況が歴史的に存在した事実も、やはり否定できない。しかし、そのような語りには、

ギルロイがアフロセントリズム批判で指摘したように、民族中心主義やナショナリズムと共犯関係

に陥り、集団内部の多様性や新たな関係性への可能性を抑圧するメカニズムも内包されているのだ。

このような複雑な歴史的状況のなかで、我々は本質主義の問題をどのように考えていけばいいのだ

ろうか。

ガヤトリ・スピヴァ ックは、言説形成の過程で、本質化や本質主義を完全に回避することは不可

能だとした上で、 重要なのは「…戦略的には、ひとは本質主義をあるがままものごとの描写として

ではなく、ひとがなにかの批判を産み出すために受容しなくてはならない何ものかとして吟味する

こと」だと主張するヘ

戦略は理論的なものを、徹底した(脱)構築的批判することによって効果を発揮しま

す。「戦略」は抵抗の概念一暗聡であって、無関心かつ普遍的であることを前提とす

る「理論」とは違います。(中略)もしも戦略を考えるならば、本質主義批判を主張

するにあたって、その集団が、個人が、人々が、または運動がどういう状況にあるか

を見抜く必要があります。戦略は状況に見合つものであって、戦略は理論ではありま

せんへ

個々の歴史的・政治的状況を無視して、理論としての本質主義の枠のみで考えれば、その普遍性や

政治的無関心の畏に陥ってしまうのである。このスピヴアツクの有名な「戦略的本質主義」という

37 ガヤトリ・スピヴ アツク『ポスト植民地主義の思想』彩流社、 1992年、 94-95頁。38 Gayatri Chakravorty Spivak, Oulside in Ihe Teaching Machine, Roulledge, 1993, pp. 3-4

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新垣 誠

考えは、政治活動や集団的関与の戦略として、理論と実践の接合を問題化したものだ。「わたした

ちは戦略的に、普遍的言説ではなく本質的言説を再度選ぶべきであると思います。…実際わたしは

時々わたしが本質主義者であると言わねばなりません」39と語るスピヴアツクは、脱構築主義者と

して本質主義の危険性にも言及しながら、「…実践について慎重になって、それを否定するといっ

た全面的に反一生産的な身ぶりをするよりも、できる限りそれを用いるようにしてみようではあり

ませんか」と呼びかけるへ

太田好信は、本質主義的アイデンテイテイや文化の語りを本質主義と非本質主義という 理論 上の

対立にのみ還元しではな らないと主張し、「発話のポジション」を問題化する41。文化人類学:の立

場から、本質主義批判を人類学者間の「純粋文化への信仰」を脱構築する有効な議論としながらも、

「現地の人々」が語る純粋な文化を理論上無効なものとして排除し、 「自己表象の権利」を剥奪す

ることに警告を発する。また、ポストモダン人類学が議論 してきたハイブリッドな文化の理論化へ

の反動と、純粋文化への回帰の手段として、現地の文化運動を利用することがあってもな らないと

説く 。 その集団がおかれた歴史的・政治的状況を見極めた上で、 í ~誰が、いつ、何を 目 的にして、

どのような主張を行っているのか」をつねに見分けてゆかなければならない」のだヘ

富山は、ポスト・コロニアリ ズムが問題とする脱植民地化の議論が、「民族や文化の解釈をめぐ

る 『本質主義/非本質主義』などというバカげた議論」 へと展開していることを批判するヘ 理論

の高見から現場における本質化された文化や民族の語 りの神話性を脱構築しようとする学問的潮流

の現状に対し、「文化や民族を歴史的に構築されたも のと考えることは、それが神話であることを

暴いたり、本源的なも のとはほど遠い理論的矛盾をも つものであることを指摘することでは断じて

なし'J と力説するへ そして、アカデミスムにおける「本質主義/非本質主義」という 議論の不毛

さを指摘するギルロイの考えに加え、マクリントックを引用しながら、「歴史的言説を生み出して

いる権力や暴力こそ問題にしなければならない」と 主張するへ 問題化されるべきなのは、文化や

集団的アイデンティティがどのような権力や暴力の作動するプロセスにおいて表象 されるかとい

う、「テキストの歴史性」なのである。そしてそのテキストは、単純に現場の理論や観念的解釈に

回収されるべきではないのだ。また、富山は、今やアカデミズムの中で広く流布する「戦略的本質

主義」という概念にも 意義を申し立てる。

戦略的本質主義という 言葉は、運動を戦略の問題に切 り縮め、研究には本質主義と非

本質主義という 余り意味のない分断を持ち込むことに結果する。記述をめぐる現場主

義と観念的な解釈学は明らかに共犯関係にあるのであり、それはときには、運動にか

かわる活動家の言葉と原理論的な学者の言葉という こつの形をとって、登場すること

になる460

39 スピヴ7':;ク、 『ポスト植民地主義の思想』、27頁。

40 向上、 28頁。41 太田好信 『トラ ンスポジションの思想、』世界思想社、 1998年、 10頁。

42 I百l上、 12頁。「発話の位置」について富山は、発話の位置の問題性を問い詰めながら、その作業の特権的位

置を生み出す危険性について言及している。それは、 「発話の佼世」という形で問題を設?とすることが、 「発

話の位置を問題にしながら新たな発話の位置を占領していくという」プロセスにつながる危険tlである。(r越境する文化・崩される知の体系ーポスト植民地主義のアイデンテイテイ」、 260-261頁。)

43 寓山一郎「赤い大地と夢の痕跡j r <複数文化>のために ポストコロニアリズムとクレオール怜の現在』

複数文化研究会編、人文書・院、1998年、 119頁。

44 向上、 120資。45 向上、120-121頁。46 向上、121-122頁。

46

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ポストコロニアリズムにおけるアイデンティティ・ポリテイクスと本質主義批判

現場の理論にも観念的解釈にも押し流されず、権力や暴力の作動するプロセスのなかで生成される

テキストの歴史性を徹底的に追求することで関係性を築き、外へと繋げていく。そのような作業の

重要性を、 冨山は説く 。

結びに

ポストコロニアリズムが問題化してきた本質主義批判の議論が、アカデミズム内での理論上の不

毛な論議へと収赦していく結果、政治的批判能力を失い、現実における状況介入を困難なものとし

ている。ここに多くのポストコロニアル研究者が、その理論的パックグラウンドであるポスト構造

主義やポストモダニズムという極めて西洋的な理論を、新たな歴史的・政治的状況にトランスレー

トしていき、なおかつ、いかに現地における実践と関係づけられるのかという大きな問題が浮上す

る。「テ、イアスポラ」、「クレオール」や「ハイブリデイテイ」という概念は、コロニアルな状況に

おける「西洋」の普遍化・全体化へのカウンター・ナラティブであり、排他的・抑圧的な権力や暴

力を忘却させないための抵抗の概念であったはずだ。それが流行や審美主義的表現として、また「コ

スモポリタニズ、ム」などという言葉にすり替えられれば、その脱政治性は極めて政治性の高いもの

として新たなコロニアルな状況へと回収されていくだろう。

また、ガイ・ヤスコは「現代型のコロニアリズムは経済という「中立的な」かつ「客観的な』形

式において貫徹される」としながら、ポストコロニアル研究のいう多様性やハイブリデイテイが、

どこまでグローパル資本主義、 GATTや世界銀行、アメリカ箪や [MFなどを問題化できるのか、

その効力を鋭く疑問視するぺ抽象的な本質主義批判では、このような厳しい問いかけに答えるこ

とは到底不可能であろう 。ポストコロニアリズムにおける本質主義批判は、その理論主義ゆえに政

治的プロジェクトを不能化するだけでなく、実践におけるその理論的効果も厳しく問われるという

危機的状況に立たされているようだ480 ここに本質主義を巡る諸問題を、理論として扱うことの限

界が見え隠れする。今一度、我々は、なぜ、本質主義批判が必要だったのか、その原点を見つめ直し、

議離してしま った問題意識を、再びテキストのなかに引き戻す作業を行わなければならない。しか

し、それは理論主義の反動としての現場主義を唱えることでもなければ、単にテキストの歴史的文

脈化で解決される問題でもない。ポストコロニアル研究が立ち返るべきことは、現在における脱植

民地化のプロセスにおいて、冨山が指摘するように「権力や暴力の作動していく プロセスにおいて

生成途上にあるテキストに、歴史化されない歴史の可能性を見いだし、それを場の理論に閉じ込め

ず、書くという実践において外に聞き、今に提示していく」作業であり 49、その政治的実践におい

て、スピヴアツクの言うような、家事に必要とされる毎日の執劫な努力、なのだろう叱 ここに本

質主義批判の問題のみならず、ポストコロニアル研究がいかにして理論を実践に繋げていくのか、

常に自己のポジションを問題化しながら個々の政治状況とのネゴシエー ションのプロセスをいかに

進めていくのか、そしてその体験をいかにして外へと聞き繋げていくのか、という課題が改めて浮

上する。これらの課題は、元々ポストコロニアル研究と共にあった。 そしてこれからも絶え間なく

追求され続けるべき課題なのである。

47 ヤスコ、「ポスト・コロニアル派批判」、 38頁。

48 理論を実践に変えていく政治的効力の問題は、ポストコロニアル研究のみならず、政治的介入を試みる全ての研究領域に共通した課題であろう 。

49 i富山、 「赤い大地と夢の痕跡」、122頁。50 スピヴ アツ ク、 『ポスト植民地主義の思想」、 78頁。

47