ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識...ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識...

24
65 ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 朱     然 戦後の日本人は,平和という戦争反対の意識が定着している一方,戦争責任の意識 があいまいである。平和が左翼のイデオロギー,戦争責任の否定が右翼のイデオロギー というのは,戦後の思想の図式になっているが,衝突するはずの左翼と右翼のイデオ ロギーが併存しているという奇妙な現象が起こっている。われわれは,左右の政治的 対立を超えて,それ以前の原因究明を行う必要にせまられている。 そもそも責任は,自我があってのものであり,決定する主体がないと,責任を求め ようもない。丸山真男などの戦後知識人は,日本における主体の欠如を指摘した。近 代的自我は,戦争責任に関する意識のあいまいさの原因解明に大きな示唆となる議論 である。本論文は,さらに近代的自我の存立条件として,国民のアイデンティティ,ナ ショナリズムの役割を指摘したい。 一方の平和の意識は,別に主体などと関係なく,素朴な意識にそのまま根付くこと ができる。主体の欠如によって,平和と戦争責任のあいまいな意識という現象を説明 することができる。その深層には,ナショナリズム形成の問題があると指摘したい。 近代化というプロジェクトは一直線に進むものではない。ナショナリズムは近代化 の重要な部分として,挫折しながら形成されるのである。本論文は,戦争認識を切り 口に,日本の近代化におけるナショナリズムを再考したい。 1 はじめに 戦後の日本人は戦争が悲惨だという平和を求める意識を強く持っている。しかし,な ぜ戦争が起こるのか,とくに先の大戦は誰が起こしたのかという戦争の責任に関しては, はっきりした意識を持っていない。「主体を除いた戦争が糾弾された」 1) ことになる。 「日本の学生にアウシュビッツや中国侵略の話をして感想を聞くと,だれもが戦争は二 度と起こしてはならない。真の平和を維持すべきだと,同じような模範回答を寄せる」 2) 今の日本人と戦争の話題をすれば,誰でも似たような経験をするであろう。戦争自体は 否定するが,戦争責任は認めない。「震災が悲惨だ」をいうように,「戦争が悲惨だ」を いう。この戦争認識のあいまいさについて,「極端な場合,偽善とウソ」 3) と感じられて

Upload: others

Post on 24-Jan-2020

6 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 65

    ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識

    朱     然

    戦後の日本人は,平和という戦争反対の意識が定着している一方,戦争責任の意識があいまいである。平和が左翼のイデオロギー,戦争責任の否定が右翼のイデオロギーというのは,戦後の思想の図式になっているが,衝突するはずの左翼と右翼のイデオロギーが併存しているという奇妙な現象が起こっている。われわれは,左右の政治的対立を超えて,それ以前の原因究明を行う必要にせまられている。そもそも責任は,自我があってのものであり,決定する主体がないと,責任を求めようもない。丸山真男などの戦後知識人は,日本における主体の欠如を指摘した。近代的自我は,戦争責任に関する意識のあいまいさの原因解明に大きな示唆となる議論である。本論文は,さらに近代的自我の存立条件として,国民のアイデンティティ,ナショナリズムの役割を指摘したい。一方の平和の意識は,別に主体などと関係なく,素朴な意識にそのまま根付くことができる。主体の欠如によって,平和と戦争責任のあいまいな意識という現象を説明することができる。その深層には,ナショナリズム形成の問題があると指摘したい。近代化というプロジェクトは一直線に進むものではない。ナショナリズムは近代化の重要な部分として,挫折しながら形成されるのである。本論文は,戦争認識を切り口に,日本の近代化におけるナショナリズムを再考したい。

    1 はじめに

    戦後の日本人は戦争が悲惨だという平和を求める意識を強く持っている。しかし,な

    ぜ戦争が起こるのか,とくに先の大戦は誰が起こしたのかという戦争の責任に関しては,

    はっきりした意識を持っていない。「主体を除いた戦争が糾弾された」1)ことになる。

    「日本の学生にアウシュビッツや中国侵略の話をして感想を聞くと,だれもが戦争は二

    度と起こしてはならない。真の平和を維持すべきだと,同じような模範回答を寄せる」2)。

    今の日本人と戦争の話題をすれば,誰でも似たような経験をするであろう。戦争自体は

    否定するが,戦争責任は認めない。「震災が悲惨だ」をいうように,「戦争が悲惨だ」を

    いう。この戦争認識のあいまいさについて,「極端な場合,偽善とウソ」3)と感じられて

  • 66 社会科学 第 47 巻 第 3号

    もしかたがなく,どうしてあいまいな戦争認識になったのか。

    これまでの戦争認識の研究の到達点として,吉田裕(2012)『日本人の戦争観』を挙げ

    ることができる。吉田の研究によって,日本人の戦争認識のあいまいさの根底に,西洋

    とアジアに対する「ダブルスタンダード」があることが明らかになった。しかし,外部

    への目線は別として,日本自身の近代化の道程において,戦争認識はどのように形成さ

    れているのかは,十分に解明されたといえない。

    吉田のほか,重要な先行研究として,大嶽秀夫(1993)『二つの戦後・ドイツと日本』,

    加藤典洋(1997)『敗戦後論』,藤原帰一(2001)『戦争を記憶する』,小熊英二(2002)『民

    主と愛国』,色川大吉『明治精神史』(2008),日本国際政治学会編『歴史認識と国際政治』

    (2017)がある。大嶽の研究は政治史の視座からドイツと日本の戦後の路線が違う原因を

    解明した。しかし,思想史のほうの問題はまだそのまま残っている。加藤の論説は伝統

    的諸価値と外来の理念の分裂の立場で,日本の戦争認識をとらえたが,戦後を一括りに

    して議論し,戦後における思想背景の変化が欠落した。藤原の研究は戦争認識における

    主体性の欠如を指摘し,大きな示唆になっているが,主体性の構成の条件までは明らか

    にしたわけではなかった。小熊の研究によって,戦争認識もふくめて,戦後の思想の研

    究水準は大きく押し上げられた。また,愛国を上からのものだけではなく,下からのも

    のとしてとらえる立場は非常に示唆的である。ただ,M・フーコーの生権力のように,愛

    国の概念を大きく広げたゆえ,フーコーにおける何でも権力というアポリアのように,か

    えって愛国の概念が使いづらくなった。愛国の概念の限定に関して,色川大吉が政治エ

    リートや知識人による「支配イデオロギー」と一般民衆の「生活意識」4)を区別したこと

    は示唆になる。本論文で使う愛国あるいはナショナリズムの概念を,「支配イデオロギー」

    に限定し,一般民衆の「生活意識」は「支配イデオロギー」の背景として扱うことにす

    る。『歴史認識と国際政治』(2017)において,等松春夫は歴史解釈から歴史認識を区分

    し,政治的なものとして歴史認識の定義を明確化したのは,本論文の研究の基盤の一つ

    となっている。

    本論文は先行研究を踏まえ,日本自身における原因として,ナショナリズムと戦争認

    識の関連を提示し,哲学によって戦争認識と関連思想の構成と条件を指摘する。

    結論を先にいうと,戦中から戦後に発生した,「精神が物質に勝つ」から「物質が精神

    に勝つ」への心情の逆転によって,戦後日本人の戦争認識が形成されたのである。また,

    明治・大正期,戦後初期とコンテクストが違う現代において,精神と物質,愛国と民主

    との再統合こそ今の政策課題であることを指摘したい。

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 67

    第 2節ではまず時代順に日本のナショナリズムの発生,形骸化,消滅の道程を概観し,

    第 3節で日本のナショナリズムを一つの理念型にまとめた上,戦争自体の否定とあいま

    いな戦争意識の併存という現象に説明を与えようと,結論を出したい。

    2 日本の近代化におけるナショナリズムの変容

    2.1 「日本特殊論」と「近代化論」

    日本社会のとらえ方に関して,戦後初期,講座派マルクス主義が非常に大きな影響力

    をもっていた。日本人にとどまらず,E・ノーマンなどアメリカの学者も似たような発想

    を持ち,「占領軍内部で改革に従事したほとんどの人々に共有された」5)。それは,日本

    を半封建的社会ととらえ,正常の道から逸脱した日本に,民主主義などをもたらす発想

    である。

    「日本特殊論」に対する反動として出たのは「近代化論」であった。その代表的な論者

    は E・ライシャワーである。講座派マルクス主義が影響力を失ったあと,「ライシャワー

    の日本史観は,今日でもなお欧米において,近代日本史の一般的な解釈として主流を占

    めている」6)。

    「近代化論」は,「戦前の日本における成果の側面,殊に 20 世紀初頭に発展した民主主

    義の伝統を高く評価している。そして,戦後日本の民主主義は大正時代の自由主義的風

    潮への回帰であるとしている」7)。ことに,「天皇を日本の政治におけるリベラル勢力を

    代表する人物と見ており,軍部のコントロールから自由になれば,きっと日本の民主化

    を推進する役目を果たしうる」と見ていた 8)。ライシャワーにとって,1931 年から 1945

    年の時期における「軍国主義やなんかは一時の脇道」9)に過ぎず,軍部による権力掌握と

    いう偶然によって,日本は戦争へと進んだのである。要は,戦前の日本において,戦後

    と同じような民主主義を見出す立場である。

    本節において,民主主義を中心に,日本の戦前から戦後への軌跡を追ってみたい。講

    座派マルクス主義とは逆の立場で,戦後の日本では,民主主義に隠れたナショナリズム

    が欠落したことを指摘したい。

    2.2 明治・大正期のナショナリズム

    近代における価値観としての民主主義は,議会制民主主義と地方自治によってなり

    たっている。日本の場合では,議会制度も地方自治も 19 世紀末の明治期に作られたもの

  • 68 社会科学 第 47 巻 第 3号

    であり,その意味では,近代化論者たちが戦前の民主主義を評価したのも無理がない。し

    かし,戦前の議会制民主主義と地方自治は果たして今と同じ意味なのか,まず戦前期の

    地方自治から確認したい。

    幕末期には,加藤弘之が『隣草』において,地方制度と立憲主義の整合性に言及した。

    加藤は(立憲主義が)「郡県の清朝にて之を用るは適当せることなるべけれども,若し三

    代の如き封建の世に之を用いてはその利害如何なるべきや」と,幕末の日本の状況に合

    わせての設問に対し,「封建にても郡県にても此政体を能く用ることを知れば,決して之

    が為に害を生ずることはなかるべし。……従い封建と雖も人和を破らざらんことを欲せ

    ば,必上下分権の政体を立てずして叶わざるなり」10)と答え,郡県制か封建制かという

    技術的な議論の有用性を否定し,上下分権こそ目指すべき政体であると主張した。そし

    て,上下分権によってはじめて「真忠」が達成できるという 11)。この議論は,後の明治

    期の地方自治につながっている。

    明治期ひいては戦前期の地方制度の根幹を定めたのは山県有朋であった 12)。そもそも

    地方を自治にしたのは,帝国議会を開くに際して,地方を「国家と休戚をともにする」よ

    うな,財産を有した名望家によってかためることが目的であった 13)。政府は不偏不党の

    姿勢をとらなければならぬとして,政党内閣の成立を明治政府の「落城」14)と見た山県

    にとって,地方自治は明治維新の成果を守る防波堤の一つに違いない。

    このように戦前の地方自治は,地方分権・地域主権のコンテクストの中で語られてき

    た戦後の地方自治と明らかに違う意味を持っている。戦後の地方自治は中央集権に対抗

    するものであり,戦前において集権(郡県制)か分権(封建制)かということ自体が大

    した問題ではなかった。地方自治によって,明治維新の成果を地方においてかためるこ

    とが目的であった。戦前の地方自治は自己目的の地方自治ではなく,イデオロギー付き

    の地方自治であった。だからこそ,大正デモクラシー期において,地主層を支持基盤に

    した政友会が知事公選と両税移譲を目玉政策に掲げた 15)ことも,何の不思議もない。地

    方分権 =民主主義という戦後の価値判断は存在していなく,首長公選や財源移譲を主張

    する者が進歩的などということは全然なかったのである。戦前において,中央集権か地

    方分権かは技術的な議論でしかなく,それ自体は別に価値判断に関わるものではない。天

    皇制の日本国家を守ることこそ戦前の地方自治の目的であった。

    以上を持って,戦前期の地方自治の意味を確認した。次は民主主義のもう一本の柱,議

    会制民主主義の戦前を概観したい。

    日本の議会制民主主義は,民権派の議会開設運動という前史を持っている。鳥海靖,安

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 69

    丸良夫の結論に依拠し,明治期の民権派の特徴を確認したい。

    地方自治の議論に対応して,「民撰議院という制度は,人びとの能動性に支えられるこ

    とで実現される国民国家樹立の不可欠の文明的方策として,開明的政府官僚や明六社グ

    ループが重視していた」16)。そして,議会開設を主張する「民権派の基本思想は,民権の

    発展こそが国権の発展を支えるとする民権 =国権型のナショナリズムであり,それこそ

    が王政復古の大号令や五箇条の誓文に表明されている天皇の意思だとされた。こうした

    意味で民権派は,明治維新と明治国家の正統性原理の延長線上にある反対派であり,自

    分たちの方が公的正義を代表する真の正統だと信じた」17)。すなわち,「立憲体制を樹立

    して国民を国政に参与せしめ,天皇を中心に官民一体となって,欧米列強と並立する富

    強の国を建設するという基本的な国家目標は,政府(保守派を含めて)と民権派がおお

    むね共有するものだった」18)。

    以上で確認したように,明治期の民権派は,議会制民主主義自体に価値を見出す戦後

    の日本人と明らかに違う立場をとっている。戦後の議会制民主主義は独裁政治に対抗す

    るものであり,戦前の議会はむしろ天皇制という「独裁政治」を守るためのものであっ

    た。民権派が理想とした議会は自己目的のものではなく,あくまでも明治維新の成果を

    守る制度の一つである。議会を信頼するか藩閥を信頼するかについて,民権派は山県有

    朋などの元老と違うが,明治国家を守るという問題意識はむしろ共通している。実際,「馬

    場(辰猪),中江(兆民),大井(憲太郎)のような左派の指導者たちも,フランス革命

    やロシアの虚無党の轍を踏むことを恐れて,民権を発展させることによってのみ皇室を

    安泰にすることができるとした」19)。安丸良夫が指摘したように,「こうした政治理念は,

    天皇の権威の蹉跌のあとに成立した社会に住み慣れた今日の私たちには奇異に見えるけ

    れども,明治の日本社会ではむしろ通念的なものだった」20)。民権派が開く演説会で,自

    由万歳と天皇万歳の蓆旗が並んでいる光景はそういう時代の雰囲気を象徴したものであ

    る 21)。

    明治時代が終わった後,日本は大正デモクラシーの時代に入った。吉野作造と河上肇

    を例にして,当時の知識人の雰囲気を確認したい。吉野も河上も,演説会が終わると「天

    皇陛下万歳」を三唱するのは有名な逸話であろう。現代人に奇異にうつるかもしれない

    が,当時において,これはむしろ普通であった。実際,東大新人会のような急進的な団

    体でも,「天皇陛下万歳」はつきものであった。「大正 8年 2月 11 日の紀元節の日,新人

    会は日比谷公園に約 1000 人の学生たちを集め,衆議院に向けて普通選挙促進のデモ行進

    をした。最後は皇居前で「天皇陛下万歳」を三唱して解散した」22)。もしいま紀元節に大

  • 70 社会科学 第 47 巻 第 3号

    勢を集め,皇居前で「天皇陛下万歳」など叫んだら,異常にうつるであろう。時代の雰

    囲気のこの違いは,大正デモクラシーの性格の一端を明らかにしているのである。大正

    デモクラシーはデモクラシーが自己目的の運動ではなかった。

    大正デモクラシーの花形の一つとして,旧制高校の学生文化があった。寮歌を通じて

    旧制高校の雰囲気をさぐれば,「自治」は一番大事なポイントであることにすぐ気がつく。

    京都大学吉田寮という現代の自治寮を例にとれば,今の「自治」は「管理」に対抗する

    ものである。しかし,旧制高校の寮歌を聞くと,自治とは世の中をよくするためという

    意気込みは感じ取ることができる。たとえば,一高の寮歌「春爛漫の」の歌詞,「自治の

    光は常暗の國をも照す北斗星,大和島根の人々の心を梶を定むなり,若し夫れ自治のあ

    らずんば,此國民を如何にせむ」,当時の学生自治はそれ自体から価値を見出す自己目的

    のものではなかったことがわかる。

    大正デモクラシー期の代表的な政治家として,藩閥や政党と妥協せず,一貫して護憲

    運動を行った尾崎行雄を挙げることができよう 23)。昭和初頭,普通選挙が行われた際の

    尾崎の演説によって,当時の政治家の議会制民主主義についての理解を確認したい。

    「立憲政体は国家本位の政体である。豪族あることを知って国家あることを知らない時

    代には封建政治が行われた。将軍あることを知って国家あることを知らない時代には武

    家政治が行われた。立憲政治は之に反して,人民が皆君国あることを知って,総ての問

    題を国家的見地から判断するだけの能力を備えて始めて行うことのできる政体である。

    従って勝ち負けその事よりもその結果国家に及ぼす利害如何,こう考えるのが国を愛し,

    世を憂うるものの正しき道であることを信じます」24)。尾崎が理想とする議会制民主主義

    は,独裁政治に対抗すること自体に価値を見出すようなものではなく,「国家」のための

    政体である。尾崎にあっては,民主と愛国は対立したものではなく,統合したものであ

    る。

    以上で概観したように,ナショナリズムはしばしば天皇崇拝にはなるが,戦前期の民

    主主義の根底にあるものである。戦後の民主主義は自己目的であるのに対し,戦前の民

    主主義はナショナリズム付きであった。つまり,戦前の民主主義は,中央集権を否定す

    る地方分権,独裁政治を否定する議会制度,管理を否定する自治などといった,間違っ

    たものを否定し,その存在自体がよいようなものではない。ナショナリズムによって目

    的を規定されたようなものである。

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 71

    2.3 昭和戦前期のナショナリズム

    この時代は日本のナショナリズムが具体性を失って形骸化し,人々を抑圧する精神運

    動となった。

    昭和期に入ると,明治天皇はもとより,藩閥などもほぼいなくなって,政府・軍部(明

    治憲法下で軍部は政府から独立し,天皇直属である)を横断する調整役 25)が消えてしまっ

    た。近年の研究によって,昭和天皇および宮中勢力は,天皇の政治力低下を受けて,意

    図的に政治への関与を控え,天皇の権威の維持につとめたことが明らかになった 26)。こ

    のようにして,日本政府は統一した政策を打ち出す能力を失った。

    この事態を象徴するようなできごとは斎藤隆夫の「反軍演説」と政府・軍部の対応で

    ある。斎藤は,中国との全面戦争は何を目的にするのか,どんな方法で解決するのかを

    政府・軍部に対して追究した。

    「唯徒に聖戦の美名に隠れて,国民的犠牲を閑却し,曰く国際正義,曰く道義外交,

    曰く共存共栄,曰く世界の平和,斯くの如き雲を掴むような文字を列べ立てて,そ

    うして千載一遇の機会を逸し,国家百年の大計を誤る・・・

    歴代の政府は国民に向って頻りに精神運動を始めて居る,精神運動は極めて大切

    でありまするが,精神運動だけで事変の解決は出来ないのである・・・

    此の大事変を前に控えて居りながら,此の事変の目的は何処にあるかと云うこと

    すらまだ普く国民の間には徹底して居らないようである。・・・

    支那事変は如何に処理せらるるものであるか,其の処理せらるる内容は如何なる

    ものであるか,是が相当に分らない」27) 

    斎藤の追及に対し,米内(光政)首相は「東亜新秩序建設の使命」や「支那事変処理

    に関する帝国の方針は確乎不動」など抽象的な答弁をすることしかできなく,陸軍当局

    は答えることすらしなかった。民主主義とナショナリズムが表裏の関係をなしていた明

    治・大正期とかわって,日本政府の政策能力の低下につれ,ナショナリズムは内容を失

    う抽象的な精神運動への道を歩んだ。

    このような事態に対し,軍部においても精神に物質の基盤をもたらすような努力が見

    られる。たとえば陸軍省経済戦研究班班長の秋丸次朗中佐は,有沢広巳などの経済学者

    に,国力が弱い日本が米英に勝つ科学的な方法を諮問したことがあった。ただ,経済学

    者たちの検討の結果は,日本の国力が弱いことを再確認しただけで,経済学でも有効な

  • 72 社会科学 第 47 巻 第 3号

    解決方法を出せるわけではなかった 28)。

    このようにして,戦時中の政府・軍部は統一した政策もなく,科学的な方法もなく,む

    ろん民主主義などは論外で,精神運動を強化する方向に進むしかなかった。精神が物質

    に勝つというのは反常識なことで,国民にすんなりと浸透できるようなものではない。意

    識が反常識にまで発展すれば,リアリティからかけ離れることになり,天皇崇拝のナショ

    ナリズムは,明治・大正期の下からのナショナリズムから上からのナショナリズムへと

    変質した。昭和戦前期に,政府・軍部がひたすら天皇崇拝のナショナリズムを国民に押

    しつけるという抑圧的な雰囲気の中,日本は敗戦した。

    敗戦直後,東久邇宮内閣は「一億総懺悔」という方針によって,精神が物質に勝つと

    いう戦時中の観念を維持しようとした。要は精神が物質に勝つ自体は正しく,日本が敗

    戦した原因は精神力が足りなかったことで,よって精神力の足りなさを懺悔すべきこと

    である。この説は長年にわたって反常識なナショナリズムを押し付けられ,現場で苦し

    んできた国民にとって,当然受け入れられるものではない 29)。「敗戦を境として,現人神

    天皇観や世界支配の使命などという,国体の特殊な優越性についての狂信的妄想的側面

    は,あっさり脱ぎ捨てられ」30)たのである。

    以上で概観したように,昭和戦前期では,政府・軍部の政策能力が低下した中,天皇

    崇拝のナショナリズムは精神が物質に勝つという反常識のものに変質し,国民の反発を

    受けて影響力を失った。

    2.4 戦後期のナショナリズム

    戦後になって日本のナショナリズムは途上国的なナショナリズムとして復活したが,

    高度成長につれて消滅した。

    高度成長が始まる前の戦後初期,日本の知識人は日本が後進国との意識を持ってい

    た 31)。混乱と改革の時代の雰囲気の中で,日本の知識人は明治・大正期の天皇崇拝のナ

    ショナリズムを捨てたが,先進国との大きな経済格差に直面し,大国への「不快感,反

    発,抵抗」32)といった途上国的なナショナリズムを獲得した。この途上国的なナショナ

    リズムは,戦時中の精神運動への反発を根底に持ち,政治エリートに対する不信感を含

    んでいた。

    しかし,経済成長さえ成功すれば,途上国的なナショナリズムはいずれリアリティを

    失い,消えるものである。途上国的なナショナリズムとは別に,戦後の政治エリートが

    新たなナショナリズムを創出できるかどうかは,日本でナショナリズム自体が存続でき

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 73

    るかどうかに関わる問題であった。なお,注記したいのは,「はじめに」で述べたとおり,

    本論文でいうナショナリズムは政治エリートか知識人による「支配イデオロギー」をさ

    し,一般民衆の「生活意識」は直接あつかっていない。

    しかし,戦後初期の政治エリートは,「国民意識の変化を完全に読み間違っていた」33)。

    「日本の政治エリートは元来,ドイツの政治エリートとは違って,天皇制ファシズムに対

    する深刻な反省はなく,それどころか,敗戦直後には皇室の維持を何よりの政治課題と

    考えていた」34)。彼らは男女平等の見直し,言論出版の自由の制限,天皇の元首化など国

    民の反感をかうような改憲案を掲げ,国民が政治に対する不信感はさらに深まった。

    国民意識からかけ離れたことと復古的な傾向は,鳩山一郎だけではなく,吉田茂にも

    見られることであった。たとえ吉田は道徳の退廃,愛国心の欠如を克服するように国民

    教育を進めた。教育勅語の復活など,吉田の国民教育は「明治国家体制の復活を目指す

    要素を濃厚に帯びていた」35)。当然でありながら国民の懸念と反対を引き起こすこととな

    り,かえって「深刻な亀裂を生み出すことになった」36)。この復古的な傾向は岸内閣の崩

    壊によって行き詰まった。

    復古的な「政治主義」の失敗を受け,鳩山,岸信介,吉田より一世代下の池田勇人は

    低姿勢と所得倍増をかかげた。池田その人は全然低姿勢ではないが,政策としてナショ

    ナリズムの再建を行わなかった 37)。ナショナリズムの再建が断念された後に,国民の戦

    時中の精神運動への反発は,素朴な不信感としてそのまま残った。高度成長の中,福田

    赳夫のいう「昭和元禄」が示したように,戦後の「物質文明と消費主義の中で生きる人

    びとの常識」38)として,物質が精神に勝つ意識が定着した。

    ナショナリズムは自国のアイデンティティが不可欠である。明治・大正期のナショナ

    リズムは,天皇崇拝という新たなアイデンティティを確立した。昭和戦前期には,政府・

    軍部の政策能力の低下によって,天皇崇拝のナショナリズムは形骸化した。戦後初期の

    ナショナリズムは,日本の前近代性と米国の圧力をともに否定し,祖国再建という途上

    国のアイデンティティを確立した。高度成長期に入った後,日本は先進国への仲間入り

    を果たした一方,途上国的なナショナリズムが影響力を失い,日本はそのままナショナ

    リズムを持たない時代に入った。

    3 ナショナリズムと戦争認識の関連

    第 2節で日本近代のナショナリズムが発生,形骸化,消滅の過程を概観した後,本節

  • 74 社会科学 第 47 巻 第 3号

    では,ナショナリズムと戦争認識の関連を解明する。そして,ナショナリズムの不在と

    いう内部の原因によって,戦後日本人の戦争認識―平和主義でありながら戦争責任を

    認めないという奇妙な現象に説明を与えたい。

    3.1 近代的自我とナショナリズム

    本論文はカント哲学を基礎に,認識と責任の両領域における近代的自我を概観し,次

    は近代的自我とナショナリズムの関連性を指摘したい。

    カント哲学において,人間の領域は「人間の経験的認識の対象としての自然,存在の

    世界」と「人間の行為及び人倫の世界,当為の世界」39)からなっている。人間の活動は

    認識と道徳の両方を含んでいることである。戦争認識でも,戦争観と責任意識の両方が

    あって,それぞれ認識と道徳の領域に対応している。認識と道徳の領域はそれぞれ下に

    示したように構成されている。

    認識の領域(存在の領域):感性,悟性,理論理性

    道徳の領域(当為の領域):意志,格率,実践理性

    まず認識の領域から見ると,最初の「感性は客観の側から認識の質料として経験的に

    与えられるものを受け取るときの認識能力」である。ただ,「感性によって得られる直観

    は,まだ経験的な多様性を免れることができない」40)。

    次は悟性が登場する。「経験的認識に真に綜合的な統一を与えるのは,真に自己同一的

    な自我の認識,つまり自己意識の同一性に基づいていなければならない。I・カントはこ

    れを悟性の最高の権能として統覚と呼ぶ」41)。悟性というのは「われ思う」に見られるよ

    うな,近代的自我のことである。なお,デカルト以来,精神は基本的に物体に相対する

    ものであり,このような意味で,近代的自我はまた精神と言い換えることができる。

    その次の理論理性は,経験的な法則を超えた,必然性と普遍性を持った無制約な自然

    法則のことである。ただ厳密的に言えば,認識の領域からは理論理性自体を検討するこ

    とができず,「認識できないが思考はされる」42)のである。

    認識の領域をまとめると,自我によって,感性と理論理性がはじめて結び付けられる

    のである。カントの名言,「内容なき思想は空虚であり,概念なき直観は盲目である」は

    この結びつきを表現している。

    人間活動のもう一方,道徳の領域において,感性に対応するのは意志である。「感性的

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 75

    存在者としては,人間は欲求の対象(質料)によって意志を触発され,快および不快の

    感情によって左右されている」。要は「自愛すなわち自分の幸福」43)を求める素朴な感情

    である。

    次の格率とは,「自分の利益になるようにするというような主観的な実践的原理」44)で,

    「個人的な原則」45)である。これは認識の領域の悟性に対応するもので,実践における自

    我である。

    その次の実践理性とは,「客観的であってどんな理性的存在者にも妥当する法則であ

    る。この実践的・道徳的法則は,自然法則と同じように普遍妥当性を持つ」。認識の領域

    と違って,「理論理性によっては認識されえなかった物自体の世界が実践理性に開かれ

    た」46)。

    道徳の領域をまとめると,自我によって,意志と実践理性がはじめて結び付けられる

    のである。カントの名言,「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し

    うるように行為せよ」はこの結びつきを表現している。

    以上は認識の領域と道徳の領域にわかれて検討したが,当然のことながら,「自由に基

    づく道徳は,現象界の中でその目的を実現すべきものであり,理論的と実践的という二

    つの観点も同一の人間能力に基づいている」47)。この同一の人間能力こそ近代的自我で,

    連続性と統一性をもって感性をまとめ,意志を規制するのである。

    しかし,この近代的自我は無条件に実在するものではない。たとえフーコーの理解で

    は,近代的自我は 18 世紀末にはじめて出現したのである 48)。

    出現した時期はともかく,近代的自我がまったく存在しない場合を考えてみたい。も

    ちろんこれはかなり極端な場合であり,類型化したものである。

    認識の領域において,近代的自我がないと,認識における感性と理念型が分断し,概

    念によって現象を把握することはできない。感性は活気をもつが,雑多であり,ころこ

    ろ変わる。一方の理念型は体系的で安定しているが,無条件で抽象的である。感性と理

    念型の分断では,特定の現実がどんな条件で起こるのかという思考をすることはできな

    く,現実と理念型の比較をするしかない。これでは理念型に照らして現実を評価するよ

    うな神学論争が起こる。

    道徳の領域において,近代的自我がないと,道徳における意志と理念が分断し,目的

    をたてることも,責任を持つこともできない。意志自体は盲目的な衝動であり,安定し

    ている理念と乖離するのは当然である。理念を自ら吟味し,自分に適用させた格率こそ,

    意志を方向づける目的である。また,もし行為が完全に意志に規定されるような本能的

  • 76 社会科学 第 47 巻 第 3号

    存在だったら,その場その場の状況によって,行為を完全に予測することができ,行為

    の自由などは不可能であろう。「自由が不可能であるなら,倫理もまたありえない。人間

    の道徳に自由の余地がおよそ存在しないとすれば,どのように道徳すべきかという問い

    そのものが端的に無意味となるだろう」49)。連続性も統一性もない行為なら,責任もあり

    えないのである。

    カントは,「他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気」50)によって,近代的自

    我がなりたつとしている。その後の学問の進展では,近代的自我というのもカントのい

    うような個人的なもの,意識的なものではなく,社会的なもの,歴史的なものとして相

    対化された。また実感としても,孤立しながら絶対的な理性を信ずるほど強い人間像は

    反常識的である。M・ホルクハイマーが指摘しているように,「カントの自律的な主体の

    さらに奥底,人間の魂の深みで働いているものこそ実は社会である」51)。

    この自我形成における社会の働きかけに関して,L・アルチュセールのいうイデオロ

    ギーの諸装置は非常に示唆的なものである。

    アルチュセールは国家に「イデオロギーの二重化された反射的(鏡像的)な構造」を

    見出し,「諸主体への呼びかけ,主体(大文字の主体)への服従,普遍的な再認,絶対的

    な保証」52)といった過程を経て,近代的自我が形成されるという。もっとも,アルチュ

    セールは,構造によって主体を解体し,「主体や主体化を服従する臣民や服従する臣民化

    という形でとらえて」53)批判する立場である。しかしそれを逆にとらえれば,近代的自

    我はまた「優越した権威に服従する」ことによって,「発意の中心である自由な主体性」54)

    を手に入れるのである。坂上孝によると,アルチュセールにおいて,「個人を主体として

    構成する仕組,つまりイデオロギー」55)なのである。

    ところで,アルチュセールのいうイデオロギーの諸装置はいかにできたのか。F・マイ

    ネッケは「世界市民的啓蒙の時代から国民国家の時代へ」56)と,啓蒙からナショナリズ

    ムへの時代変化をとらえた。そして,B・アンダーソンは「資本主義と印刷術が収斂する

    ことによって,新しい想像の共同体の可能性が生まれた」57)として,すなわち国民主義

    (ナショナリズム)だとしている。 アンダーソンにあっては,国民とは「人々の心の中に

    想像された文化的構築物である」のに対し,「国家は社会学的実体,機構」58)である。そ

    して,Y・ディヌールによると,「国家のエゴの存在は,記憶の程度に,国民が過去の経

    験を単一の実体にいかにして結びつけるかの程度にかかっている」59),その過程では,「自

    分たちを定義するのに歴史が重要である」60)。国民国家とは,ナショナリズムによって正

    当化された国家のこと,アルチュセール流にいえば,抑圧装置だけではなく,イデオロ

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 77

    ギーの諸装置をも併せ持った国家のことである。

    アルチュセールの議論によって,近代的自我と国民国家の出現の共時性はすんなりと

    理解できる。個人的な啓蒙だけでは,社会現象としての近代的自我は形成できず,ナショ

    ナリズムというイデオロギーがあってこそ近代的自我が普遍的なものになる。

    以上をまとめると,近代的自我があって,概念的な把握と責任ある行為と可能になる。

    この近代的自我はナショナリズムといった社会的なものがあってはじめて,条件付けら

    れるのである。

    3.2 日本のナショナリズムと戦争認識

    ここから,近代的自我とナショナリズムの理論に依拠し,日本のナショナリズムと戦

    争認識の分析に入りたい。

    明治期に,「民衆がこれまでお上として一体視していた政府と国家を分離する」61)よう

    になった。ここにおいて,日本に政府から独立するようなナショナリズムが成立し,明

    治国家はイデオロギーの諸装置をもつ国民国家への道を歩み始めた。

    戦前のナショナリズムは天皇崇拝の形をとっていた。安丸良夫の研究によって,「近代

    天皇制の歴史においては,天皇個人の意思や能力と,天皇が体現するとされる権威的な

    ものとの間に大きな懸隔があり,後者は前者に比べたはるかに巨大な絶対性の刻印を帯

    びていた。こうした懸隔が生じたのは,広範な人びとが天皇の権威を介して自らの願望

    や欲求に普遍的な意味を与え,自らの中からその可能性と活力を汲み出そうとして,権

    威ある中心を求めたからである」62)。

    アルチュセールは,この過程を次のように描いている。「諸主体と<主体>との間にお

    ける,また諸主体自身の間における,相互的再認,さらに究極的には主体の自分自身に

    よる再認,こうしてすべてはうまくいっているということの,そして諸主体が現に自分

    たちがそうであるところのものを認め,それ相応に振る舞うならば,すべてはうまくゆ

    くだろう,つまりかくあれかし(アーメン)!となるということの絶対的な保証」63)。日

    本では,アーメンは「天皇陛下万歳」のことであろう。

    このようなナショナリズムは,二・二六事件に参加した青年将校の一人,磯部浅一の

    手記によって確認したい。「陛下,日本は天皇の独裁国であってはなりません。重臣元老,

    貴族の独裁国であるも断じて許せません。明治以後の日本は,天皇を政治的中心とした

    一君と万民との一体的立憲国であります。もっとわかりやすく申し上げると,天皇を政

    治的中心とせる近代的民主国であります。左様であらねばならない国体でありますから,

  • 78 社会科学 第 47 巻 第 3号

    何人の独裁をも許しません」64)。

    天皇崇拝は天皇というときには復古的,反近代的な文脈で語られる存在を中心として

    いるため,また具体的な人間によって天皇像を演出しているため,変化しつつある時代

    の雰囲気に遅れをとってしまう不都合な面を確かに持っている。それにしても天皇崇拝

    は,キリスト教における神の受肉のように,抽象的な崇高さを具体的な象徴によって表

    現し,感性と理念型を結びつける機能を果たしていた。

    しかし二・二六事件の後,天皇崇拝のナショナリズムはますます精神運動へと変質し,

    一億総懺悔論の失敗によって,影響力を失ったことは,第 2節で確認したとおりである。

    戦後初期,丸山真男などの戦後知識人は,「国家に抗する市民」65)を提示し,近代や主

    体性などの議論,すなわち戦後思想を展開した。丸山は日本の精神史的伝統から「主体

    的決断の契機を欠除する部落共同体や無限定に抱擁的な固有信仰の伝統」66)を読み取っ

    て,精神,文化の改革を主張した。「丸山真男などの近代主義者」67)は経済決定論に反発

    してマルクス主義から距離をおく点において,ライシャワーなどと共通している。ただ,

    ライシャワーは戦前の日本から民主主義を中心に近代性を読み取ったのと逆に,丸山真

    男たちは日本的なものから前近代性を読み取った。

    丸山たちの「戦後思想の最大な弱点となったのは,言葉では語れない戦争体験を基盤

    としていたがために,戦争体験をもたない世代に共有されうる言葉を創れなかったこと

    であった」68)。その「背景となっていた戦争の記憶」は,「1960 年代から急速に風化し」,

    「言語にならない心情」69)というよりどころを失った丸山の近代主義も,形骸化の道をた

    どることになった。要するに,コンテクストを失った近代や主体性のような言葉は,絶

    対的にある理念型とかわらなく,自己目的の民主主義の思想に回収されるようになった。

    また,竹内洋の研究によると,以下に示すように,戦後知識人の感情は庶民感情と必

    ずしも一致したわけではなかった。

    「戦後の論壇(左派・リベラル)知識人と非論壇(右派・保守)知識人や庶民感情

    とのくいちがいといえば,悔恨共同体にしてからがそうである…丸山のいう悔恨共

    同体は二度と過ちをくりかえすまいという感情共同体であるが,もう一つの悔恨共

    同体の極みは,ペリー来航から切歯扼腕した日本がついに敗戦になってしまうこと

    から,今度こそはうまくやろうという…総合雑誌に代表されるような戦後思想のメ

    ジャーな言説空間では,ここでいうもう一つの悔恨共同体や無念共同体感情が内在

    的に掬い上げられることはほとんどなかった」70)。

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 79

    カントの場合と同じように,丸山のいった主体性も個人的な啓蒙に終わり,社会的な

    ナショナリズムにはなれなかった。丸山のような学者は,「特定の分化を超えた普遍的な

    価値のステージで仕事する」コスモポリタンであるが,大多数の人々は「ある一定の文

    化環境に規定されたさまざまなコミュニケーションの体系のなかで仕事をしている」71),

    マイネッケのいう国家国民である。主体性,あるいは近代的自我を実現するには,イデ

    オロギーの諸装置,ナショナリズムが不可欠である。

    戦時中,日本の占領地や戦場に行った人々は,現場で何が起こっているのか,現地住

    民はどんな生活をしているのかがわかる。その世代は,感情として責任意識を持った人

    が少なくない。しかし,理念として自己否定できるほど強い個人はそんなに多くはなく,

    普通はなんとなく自分は悪くないと思いたいであろう。日本人としてのナショナリズム

    が戦後に再建されなかったことは第 2節で確認したとおりである。あるのは,わたしは

    仲間はずれではない,わたしは普通だという心情だけである 72)。物質が精神に勝つとい

    う戦後の意識の中,白黒をつける精神自体は理屈付けだとされ,わたしは中国に行って

    人を殺したわけではない,わたしは戦後生まれだというような素朴な感覚が優位にたっ

    ている。戦時体験がリアリティを失った後,感情的戦争責任が消え,日本人は理論的戦

    争責任をもつこともまたなかった。

    下は高度成長期以後,日本人の意識の区分を示している。

    感性(民間右翼)(自我の欠如)理念型(左翼)(自我の欠如)意志(保守政党)

    民間右翼はなんとなく日本がすばらしいと言いたくて,風土や歴史,いろいろと理由

    付けようとするが,「言語化されにくい」73)ものとして,直感にとどまっている。越智武

    臣が嘆いた「保守と反動とが混同され,「進歩的」でなければインテリたるもののコケン

    にかかわるように思うこの国の風習」74)の中,右翼の知識人が非常に少なく,民間右翼

    はその直感を理論化してイデオロギーにする能力まで持たない。あるのはただ,体系的

    思想にも定義にもできない心情なので,アルチュセールのいう普遍的再認を担えなく,イ

    デオロギー装置として近代的自我を確立する機能は期待できない。このような意味にお

    いて,明治・大正期の天皇崇拝と違って,戦後の民間右翼の発想は感性と理性を結びつ

    けるようなナショナリズムにはならないのである。

    また,左翼の側を見ると,民主主義や平和,科学のような言葉は,普遍的なものとし

    て日本に定着した。これらの言葉は自明の理でそのまま正しく,反対するなどはいいに

  • 80 社会科学 第 47 巻 第 3号

    くいであろう。しかし,イデオロギーとしての近代的自我(精神)が欠如すれば,人間

    は真理を批判することも選択することもできなく,能動性も自由もありえないのである。

    人間は真理を前にしてなすすべはなく,真理のめでたさと現実の暗黒さを再確認するし

    かないのである。理念型はリアリティを帯びるには,特定の文脈による条件付けと目的

    に照らしての決断が不可欠である。J・ダワーは,「平和と民主主義の実現は,永遠の戦

    いです。それは決して終わることはありません」75)という。永遠の戦いとは,S・キルケ

    ゴールの,キリスト者であることの勝利ではなく,キリスト者になることの戦闘 76)と,

    同じ意味であろう。真理を地上で実現する人間精神の決断と責任である。

    ナショナリズム -近代的自我の欠如のために,左翼は平和と民主主義を理念型として,

    無条件によいもの,自己目的のものとしてとらえ,ただ現状とのくいちがいを批判する

    だけである。戦争認識に関して,平和がいいというのは無条件なものになり,当時の文

    脈において日本はなぜ戦争に進んだのか,日本人がどんな状況において目的をたてたの

    かという思考が欠落した。平和という理念型をもって当時の日本を評判すれば,愚かな

    戦争,そして,軍部が悪かったしか見えてこない。また,自らの目的をたてる自我がな

    いので,平和自体はよい,戦争自体は悪い,戦争をする目的などは後からの理由付けで

    しかない。このように,別に日本人が戦争に参加したのも,他国の人間が戦争に参加し

    たのも,平和と比較すると,単に悪いとしか言いようなく,どちらに戦争責任があるわ

    けでもない。目的をたてる主体の自由を信じなく,すべての戦争の目的はただ権力者に

    よる欺瞞だとすれば,責任もありえないのである。

    リベラルな知識人が戦後の言論界で圧倒的な影響力を持っている中,戦後日本人の戦

    争意識が形作られた。真理として平和を信じている一方,物質が精神に勝つといった敗

    戦国のニヒリズムを克服することなく,人間精神による選択と責任は持たない。

    ところで,民間右翼にはならなく,保守政党はどうなるのか。戦後の「保守主義は,進

    歩的イデオロギーに比べて,理論的には無体系であると一般に言われる」77)。 保守政党

    は「社会主義・共産主義を否定する恒常的連立」と 78)いう包括政党であったのは,政治

    学で普遍的に確認されたことである。カントのいう意志のように,とくに思想信条など

    もなく,その場その場の事情によって判断し,行動するわけである。

    政治の場において,左翼と保守政党の争いは,そのまま理念型と政策の争いとして現

    れる。精神の欠落によって,理念型による現実批判はできるが,問題設定はできない。た

    とえば安全保障の分野において,「1955 年以後は,日本国内の革新勢力が一定数を占めて

    いたことにより,一定規模の自衛隊と憲法第 9条の並存という膠着状態が続いてきた」79)。

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 81

    日本の国防にどんな選択肢があるのかという問題設定ができなく,自衛隊の活動範囲を

    軍隊の何パーセントに制限するのかという駆け引きとなる。消費増税の場合も同じく,日

    本の社会保障ではなく,消費増税何パーセントかの駆け引きとなる。問題設定と政策の

    選択ができないので,数は力という腕力沙汰の状況が続いている。 

    以上をまとめると,ナショナリズムが再建されなかったため,戦後の日本は精神が欠

    落した。よって,日本人は感性,理念型,政策に分断し,なんとなく日本がいいという

    感性,平和や民主主義といった理念,その場しのぎの政策を持つが,白黒をつけ,判断

    して責任をとる精神に欠けている。戦争認識に関しては,戦争反対の理念を強く持って

    いるが,責任を持つことはできない。

    3.3 ドイツのナショナリズムと戦争認識

    精神運動に対する反動として,敗戦後の虚脱感は,日本だけではなく,他の国にも見

    られる現象である。たとえば,第一次大戦の敗戦後,ドイツでは「個々の政策や政党で

    はなく,政治それ自体への反感」80)が蔓延していた。ただ,政治に対する反感は精神に

    対する反感にならないどころか,「文化や精神の領域を腐食してしまうような,合理主義

    的でブルジョア的な物質主義的文明とその政治に対する容赦のない批判」81)として現れ

    た。匕首伝説に見られる神話にによって,精神としてのナショナリズムがまもなく復活

    したのである。

    第二次大戦の敗戦後,ドイツは「日本の場合と同様,大衆の間には,虚脱感,無関心

    が蔓延していた。それはとくに,ナチス時代に教育を受け,前線でその青春時代を過ご

    した若者たちに一般的であった」82)。ただ,「ナチズムによる厳しい迫害の経験を通じて,

    復活した政治エリート」にとって,「すでに近代的な制度として高度な段階にあったワイ

    マールの制度が再建されればよく,それを運用する精神,文化の変革が求められた」83)

    という,一種のドイツ的なものの復活として戦後改革が行われた。よって,「西側ドイツ

    においては,ワイマール時代との制度的連続性が強い」84)のである。

    また,ワイマール肯定とは別の種類のドイツ肯定も存在した。「第二次大戦後の西ドイ

    ツ史学の主流的見解は,第一次大戦におけるドイツの戦争責任を認めず,ヴェルサイユ

    条約は戦勝国によっておしつけられたもの」と見る。そして,「ナチズム体制はヴェルサ

    イユ体制」が原因でできたものである。このように,もともと自由と民主主義に向けて

    歩んだ「第一次大戦前と第二次大戦後は連続」し,ナチズム体制という逸脱の時代はド

    イツ史にはめられたものにすぎないのである 85)。

  • 82 社会科学 第 47 巻 第 3号

    もっとも,「ドイツ特殊の道」論を主張する H・ヴェーラー,J・コッカなどの歴史社

    会科学派は逸脱説の神話性を指摘している。しかし,ワイマールにドイツ的なものを求

    めるのか,第一次大戦前にドイツ的なものを求めるのかの区別はともかく,精神とナショ

    ナリズムはそのまま肯定されることが,日本と違うところである。第二次大戦の責任を

    認めることは,ドイツ的なものを回復することでもある。このようなナショナリズムは,

    神話だとしても,ドイツ人の戦争認識の基底にあるものである。

    なお,戦争責任をめぐる日独比較の分野では,先行研究が膨大にあり,代表的なもの

    をあげると,粟屋憲太郎ほか『戦争責任・戦後責任』,佐藤健生・フライ編『過ぎ去らぬ

    過去との取り組み』,石田勇治『過去の克服・ヒトラー後のドイツ』がある。『戦争責任・

    戦後責任』は,日本人の責任意識のあいまいさの背景に,「日本人の間に見られるコン

    フォーミズム(大勢順応主義)や過度の出世競争(出世民主主義)など,要するに,古

    い共同体的行動様式と社会の急速な近代化との独特の結合」86)があると指摘している。

    『過ぎ去らぬ過去との取り組み』は,「民主主義を戦闘的なまで積極的に推進しようとし

    たドイツと,戦争放棄や非核三原則に見られるごとく平和主義をむしろ自らの戒め,な

    いしは歯止めとして消極的な形で推進した日本との違い」87)を明らかにし,「勝てば官軍」

    式の物質優先の意識が日本人の責任意識のあいまいさの根底にあると指摘している。『過

    去の克服・ヒトラー後のドイツ』は戦後ドイツでの思想の変遷と政治過程を追って,責

    任意識が戦後ドイツに定着した過程を描いた。総じて,戦後,近代的自我を再建できた

    か否かによって,日本とドイツは責任意識の違いが生じたということが,日独比較の先

    行研究からも確認することができる。

    4 結 論

    第 2節で日本におけるナショナリズムの変容を確認し,第 3節でナショナリズムと戦

    争認識との関連を分析した後,本論文の結論をまとめたい。

    日本の近代化に関して,本論文は講座派マルクス主義,ライシャワーなどの近代化論,

    丸山真男など戦後知識人の市民社会派(近代主義)の論点に触れつつ議論を展開した。表

    1は本論文の立場を示している。ナショナリズムという近代的自我を実現するプロジェク

    トは,敗戦によって中断されたが,現代の文脈で行うことが必要である。精神によって

    問題設定し,物質を手段として持つのと,民主を愛国によって目的付けて,重さをもつ

    ようにするのを,ナショナリズムの再建によって目指すことである。

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 83

    表 1 「戦前」に対する評価の比較

    講座派マルクス主義 ライシャワー 丸山真男 本論文

    戦前・戦後の断絶 ○ × × ○

    戦前の肯定 × ○ × ○

    自我の重視 × × ○ ○

    出所:筆者作成

    もう一度戦後日本人はなぜ平和主義でありながら戦争責任を認めないのかという問題

    に立ち戻ると,答えはすでに出たであろう。すなわち,戦時体験がリアリティを失った

    あと,素朴な感情的戦争責任が消えた。しかしながら,ナショナリズムが再建されなかっ

    たため,日本人は理論的戦争責任をもつこともまたなかった。戦時中の精神が物質に勝

    つという精神運動は,戦後そのまま逆転し,物質が精神に勝つというニヒリズムとして

    残った。ナショナリズムによる条件付けがないと,近代的自我もまた成り立たない。平

    和と民主主義は理念型として真理となったが,ニヒリズムによって,日本人は自ら是非

    を判断し,責任をとる精神を失った。

    ただ,戦後日本では,ナショナリズムの再建によって,戦争認識の問題を解決しよう

    とする動きはあった。たとえば,京都府知事を 7期(1950 年~ 1978 年)つとめ,いわゆ

    る革新知事の代表格とされた蜷川虎三である。

    旧軍人が平和国家建設の目障りとされた時代に,蜷川は京都府単費で,毎年,遺族を

    靖国参拝に行かせた(当時は戦犯の合祀はまだ行われていない)。蜷川の演説で確認する

    と,

    「われわれの同胞先輩が血を流して勝ち得たのは,この憲法ただ 1つなのです」88)。

    「現に,あれだけの海軍とあれだけの陸軍をもっていてさんざんやっつけられた

    じゃありませんか,しかも,やっつけられた軍隊を指揮していたものが,いまのう

    のうとわれわれの先頭に立ってえらそうにしておる。また戦争をやろうとしている

    わけです。経済獣と軍国主義が一体となって,そして経済大国を謳歌しているって

    ことはこれから戦争をやろうということなんです」89)。

    負け戦を指揮したものによって,日本人は「土地も失い,ひどい目にあってきた。

    また今もひどい目にあっている」90)。

    「いわゆる軍国主義的な,大国主義的な考えを捨てて,平和な日本を築きあげよう,

    そのためにはなんといっても社会生活の安定と個人生活の充実ということで,それ

  • 84 社会科学 第 47 巻 第 3号

    が暮らしを守るということです。…ことに基本的人権の尊重には明確な規定を与え

    ている日本国憲法がしっかり守られ,国民の暮らしの中にいきいきしみこんでいる

    でしょうか…府民の皆様も,この好ましくない現実をよく見極められて,住民運動

    として,わたくしたちの暮らしを守り,経営を固めるために,ご精進を願いたいと

    存じます」。

    蜷川は憲法が兵隊さんのおかげだという形で,平和などの理念をナショナリズムに

    よって基礎づけた。この発想は府民から熱烈に支持された。蜷川は左翼系で政府与党と

    対立しているが,遺族会など,社会党・共産党の地盤を大きく超えた府民の支持によっ

    て,日本の知事ではじめて 6回当選,7回当選を果たした。

    工夫すればナショナリズムは再建できる,蜷川虎三の試みの紹介をもって,本論文を

    とじたい。

    注1 )藤原帰一(2001)『戦争を記憶する』125 頁。2)朝日新聞社(1995)『日本とドイツ』239 頁。3)藤原帰一(2001)『戦争を記憶する』125 頁。4)色川大吉(2008)『明治精神史(下)』283 頁。5)大嶽秀夫(1993)『二つの戦後・ドイツと日本』73 頁。6)尾形勇等(2001)『20 世紀の歴史家たち(4)』282 頁。7)同上 278 頁。8)同上 273 頁。9)ライシャワー(1982)『日本への自叙伝』63 頁。10)加藤弘之(1861)『隣草』。11)河野有理(2014)『近代日本政治思想史』135 頁。12)川田稔(1998)『原敬と山県有朋』118 頁。13)大山梓編(1966)『山県有朋意見書』189 頁。14)隅谷三喜男(2006)『大日本帝国の試煉』176 頁。15)粟屋憲太郎(1983)『昭和の政党』176 頁。16)安丸良夫(2007)『近代天皇像の形成』270 頁。17)同上 270 頁。18)鳥海靖(1988)『日本近代史講義』13 頁。19)安丸『近代天皇像の形成』277 頁。20)同上 270 頁。

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 85

    21)牧原憲夫(2006)『民権と憲法』28 頁。22)尾崎護(2008)『吉野作造と中国』236 頁。23)楠精一郎(2006)『大政翼賛会に抗した 40 人』32 頁。24)大久保周八編(1928)『普選代議士名演説集』11 頁。25)岩波新書編集部編(2010)『日本の近現代史をどう見るか』42 頁。26)茶谷誠一(2009)『昭和戦前期の宮中勢力と政治』356 頁。27)藤原彰(1988)『日中全面戦争』280 頁。28)牧野邦昭(2010)『戦時下の経済学者』58 頁。29)吉田裕(2012)『日本人の戦争観』29 頁。30)安丸『近代天皇像の形成』308 頁。31)小熊英二(2014)『民主と愛国』12 頁。32)浅羽通明(2004)『ナショナリズム』275 頁。33)小熊『民主と愛国』817 頁。34)大嶽秀夫(1993)『二つの戦後・ドイツと日本』84 頁。35)大嶽秀夫(2005)『再軍備とナショナリズム』37 頁。36)同上 37 頁。37)富森叡児(1994)『戦後保守党史』158 頁。38)安丸『近代天皇像の形成』308 頁。39)生松敬三等編(2011)『西洋哲学小事典』379 頁。40)城塚登編(1974)『西洋哲学史』71 頁。41)生松『西洋哲学小事典』381 頁。42)生松『西洋哲学小事典』381 頁。43)城塚『西洋哲学史』74 頁。44)同上 74 頁。45)生松『西洋哲学小事典』382 頁。46)城塚『西洋哲学史』75 頁。47)同上 76 頁。48)岡本裕一朗(2015)『フランス現代思想史』113 頁。49)熊野純彦(2011)『カント』16 頁。50)カント(篠田英雄訳)(1979)『啓蒙とは何か』1頁。51)細見『フランクフルト学派』50 頁。52)岡本『フランス現代思想史』90 頁。53)同上 127 頁。54)同上 91 頁。55)阪上孝等(2000)『アルチュセールを読む』22 頁。56)尾形勇等(2001)『20 世紀の歴史家たち(3)』21 頁。57)樺山紘一編(2010)『新・現代歴史学の名著』139 頁。

  • 86 社会科学 第 47 巻 第 3号

    58)同上 147 頁。59)マクミラン(真壁広道訳)(2014)『誘惑する歴史』94 頁。60)同上 95 頁。61)牧原『民権と憲法』28 頁。62)安丸『近代天皇像の形成』298 頁。63)アルチュセール(西川長夫等訳)(2005)『再生産について』381 頁。64)河野司編(1989)『二・二六事件獄中手記・遺書』288 頁。65)小熊『民主と愛国』826 頁。66)安丸『近代天皇像の形成』285 頁。67)大嶽『二つの戦後・ドイツと日本』82 頁。68)小熊『民主と愛国』799 頁。69)同上 800 頁。70)松本健一(2011)『日本の失敗』393 頁。71)浅羽通明(2004)『ナショナリズム』282 頁。72)中根千枝(1994)『タテ社会の人間関係』47 頁。73)浅羽『ナショナリズム』26 頁。74)河野健二編(1977)『世界の名著』82 頁。75)樺山紘一編(2010)『新・現代歴史学の名著』251 頁。76)坂部恵等編(2008)『命題コレクション哲学』267 頁。77)河野『世界の名著』85 頁。78)的場敏博(2012)『戦後日本政党政治史論』25 頁。79)小熊『民主と愛国』819 頁。80)樺山『新・現代歴史学の名著』39 頁。81)同上 39 頁。82)大嶽『二つの戦後・ドイツと日本』61 頁。83)同上 82 頁。84)同上 84 頁。85)樺山『現代歴史学の名著』183 頁。86)粟屋憲太郎ほか(1994)『戦争責任・戦後責任』259 頁。87)佐藤健生・フライ編『過ぎ去らぬ過去との取り組み』297 頁。88)京都府職員研修所(1969)「研修通信第 54 号」5頁。89)京都府職員研修所(1972)「研修通信第 183 号」5頁。90)京都府職員研修所「研修通信第 54 号」5頁。

    参考文献浅羽通明(2004)『ナショナリズム』筑摩書房。朝日新聞社編(1995)『日本とドイツ』朝日新聞社。

  • ナショナリズムの変容と戦後日本人の戦争認識 87

    L・アルチュセール(西川長夫等訳)(2005)『再生産について』平凡社。粟屋憲太郎(1983)『昭和の政党』小学館。粟屋憲太郎ほか(1994)『戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社。生松敬三等編(2011)『西洋哲学小事典』筑摩書房。石田勇治(2014)『過去の克服・ヒトラー後のドイツ』白水社。色川大吉(2008)『明治精神史(下)』岩波書店。岩波新書編集部編(2010)『日本の近現代史をどう見るか』岩波書店。大久保周八編(1928)『普選代議士名演説集』大日本雄弁会講談社。大嶽秀夫(1993)『二つの戦後・ドイツと日本』日本放送出版協会。大嶽秀夫(2005)『再軍備とナショナリズム』講談社。大山梓編(1966)『山県有朋意見書』原書房。尾形勇等(2001)『20 世紀の歴史家たち(3)』刀水書房。尾形勇等(2001)『20 世紀の歴史家たち(4)』刀水書房。岡本裕一朗(2015)『フランス現代思想史』中央公論新社。小熊英二(2014)『民主と愛国』新曜社。尾崎護(2008)『吉野作造と中国』中央公論新社。樺山紘一編(1989)『現代歴史学の名著』中央公論新社。樺山紘一編(2010)『新・現代歴史学の名著』中央公論新社。川田稔(1998)『原敬と山県有朋』中央公論新社。河野健二編(1977)『世界の名著』中央公論新社。I・カント(篠田英雄訳)(1979)『啓蒙とは何か』岩波書店。京都府職員研修所(1969)「研修通信第 54 号」京都府。京都府職員研修所(1972)「研修通信第 183 号」京都府。楠精一郎(2006)『大政翼賛会に抗した 40 人』朝日新聞社。熊野純彦(2011)『カント』日本放送出版協会。河野司編(1989)『二・二六事件獄中手記・遺書』河出書房新社。河野有理(2014)『近代日本政治思想史』ナカニシヤ出版。阪上孝等(2000)『アルチュセールを読む』情況出版。坂部恵等編(2008)『命題コレクション哲学』筑摩書房。佐藤健生・N・フライ編(2011)『過ぎ去らぬ過去との取り組み』岩波書店。城塚登編(1974)『西洋哲学史』有斐閣。隅谷三喜男(2006)『大日本帝国の試煉』中央公論新社。茶谷誠一(2009)『昭和戦前期の宮中勢力と政治』吉川弘文館。富森叡児(1994)『戦後保守党史』社会思想社。中根千枝(1994)『タテ社会の人間関係』講談社。日本国際政治学会編(2017)『歴史認識と国際政治』日本国際政治学会。藤原彰(1988)『日中全面戦争』小学館。

  • 88 社会科学 第 47 巻 第 3号

    藤原帰一(2001)『戦争を記憶する』講談社。細見和之(2014)『フランクフルト学派』中央公論新社。牧野邦昭(2010)『戦時下の経済学者』中央公論新社。牧原憲夫(2006)『民権と憲法』岩波書店。M・マクミラン(真壁広道訳)(2014)『誘惑する歴史』えにし書房。松本健一(2011)『日本の失敗』岩波書店。的場敏博(2012)『戦後日本政党政治史論』ミネルヴァ書房。安丸良夫(2007)『近代天皇像の形成』岩波書店。吉田裕(2012)『日本人の戦争観』岩波書店。E・ライシャワー(1982)『日本への自叙伝』日本放送出版協会。