その到来は、オイルショック(第一次)eba-kogiseminagamine/20141223...Ⅲ....

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. 繁栄期の終焉と選択肢の新しい多様性 1973 年~1989 年) 第7章 共通の新しい時代 1970 年代、オイルショック後、新しい時代 経 済 その到来は、オイルショック(第一次) 近東やアフリカ、ラテンアメリカの石油輸出諸国の組織である OPEC によって、1 バレ ル当たりの石油価格が約 3 米ドルから約 12 米ドルへと急激に引き上げられた 1979 年の第二次オイルショック・・・ 1 バレル当たりの原油価格は約 16 米ドルから 24 米ドルへと上昇 石油高騰 全般的インフレ効果 エネルギー供給が限界に達した

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Ⅲ. 繁栄期の終焉と選択肢の新しい多様性

(1973年~1989 年)

第7章 共通の新しい時代

1970年代、オイルショック後、新しい時代

経 済

その到来は、オイルショック(第一次)

近東やアフリカ、ラテンアメリカの石油輸出諸国の組織である OPEC によって、1 バレ

ル当たりの石油価格が約 3 米ドルから約 12米ドルへと急激に引き上げられた

1979年の第二次オイルショック・・・

1バレル当たりの原油価格は約 16米ドルから 24米ドルへと上昇

石油高騰

全般的インフレ効果

エネルギー供給が限界に達した

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非西側諸国へのヨーロッパの依存性が明確に

もう一つの激変

1973年、ブレトンウッズ通貨体制の終焉

ブレトンウッズ通貨体制・・・固定為替相場制度

アメリカ主導で 1944 年に西側諸国によって創設

基軸通貨としてのドルが基盤

この基盤の上で、世界貿易は繁栄

国際的な市場開放の原則

アメリカ合衆国

・・・特にベトナム戦争のために膨大な負債

その結果、

安定した強いドルを基礎としていたブレトンウッズ通貨体制は困難に

合衆国の負債はドルへの持続的な圧迫

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国際的な資本の流れ・・・インフレ危機に脅かされるドルから

西ヨーロッパの通貨、とりわけ西ドイツのドイツ・マルクと

スイス・フランへと逆転

ニクソン政権は 1973年、固定為替相場制度の解消を通告

・・・西ヨーロッパの輸出経済にとって全く新たな状況

輸出収益・・・通貨変動に従属

しばしば予測が非常に困難に

二度のオイルショックとブレトンウッズ通貨制度の終焉という出来事は、

新しい時代の始まりの最も明確な標

劇的転換

以下、五つの経済的な新展開・・・ゆっくりと浸透

① 経済成長の緩慢化、

② 通貨・経済政策におけるマネタリズムの新たな強い影響、

③ 従来の公的部門の規制緩和と民営化、

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④ 新たなグローバル化、

⑤ 工業社会からサービス社会への移行

成長の緩慢化

OECDの算定によれば、1970年代中頃には、西ヨーロッパの年間実質経済成長率は

短期間で約 4%から 2%をわずかに超える程度にまで低下

フランス、イタリア、オーストリア、フィンランド、ノルウェーのような、いくぶん高

い成長を維持していたヨーロッパ諸国においても、成長率はたいてい明らかに低下

当時のヨーロッパ人にとってのショック…驚きと不安

三つの理由・・・・

繁栄の終焉

インフレ激化

・・・1970年と 1980年の間の公式発表によれば、

物価がヨーロッパ全体で平均して約 2.5 倍に上昇

西側の価格安定の模範国スイスにおいてさえ、物価は 1.5倍以上に

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1920年代前半に絶望的なハイパー・インフレを経験したドイツとオースト

リアにおいては、インフレに対する不安はこのような否定的な経験を持た

なかったフランスやイギリスにおけるよりもはるかに際立っていた。

1980年代・・・インフレが再び抑制

・・・今度は大量失業

大量失業・・・景気後退のたびごとに増大、

それに続く景気上昇局面でも以前の水準に戻らず

構造的な失業問題

1970年代初頭までの西ヨーロッパの失業率

・・・わずかに 2%を超える程度・・・換言すれば、ほぼ完全

雇用の状態

70年代後半からの失業率、上昇・・・OECDの算定

西ヨーロッパ平均で 1980年にすでに 6%、

1989年には 10%にも達し、

1990年代、さらに増加

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低い失業率を維持した長い繁栄期が、なぜ 1970年代後半に終わりを迎えたのか?

第一の説明・・・成長率の低下をヨーロッパの成長の平常状態への復帰

50年代から 70年代前半までの高い経済成長は、全く異常なもの

第二の説明・・・その原因をグローバル化の新たな世界経済状況

世界経済競争の激化と、

それに伴って現れた

生産立地と職場のヨーロッパからコストの比較的安い第三世界への移転

・・・外的な世界経済の諸条件が極めて重要

第三の説明・・・主要な原因は、ヨーロッパ経済の内的な欠陥

あるものはイノヴェーション力の低下

それは、

強力な福祉国家、

労働組合の強い権限、

時代遅れでかつ経済とかけ離れた教育システム、

ヨーロッパの企業家の非効率性あるいはリスクをとる姿勢の弱さ

などによってもたらされたとする。

・・・・サッチャーリズムによる批判の観点

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あるいは、工業社会の終焉

19世紀以降のヨーロッパの経済成長は、工業社会を基礎に

ヨーロッパはそれに代わるダイナミックな選択肢を発見できず

1950 年代と 1960 年代における自動車部門のような、成長の鍵と

なる部門を作り出すような新しい重要な技術革新が欠如

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マネタリズム

支配的な経済政策の構想の転換

1970年代までは、ケインズ主義が完全に支配的ではないにしても主要な役割

・・・この経済政策構想は、

国内の経済政策や福祉国家の建設にも国際的な経済政策にも同じように影響

それは不幸な結果を招いた戦間期の経済政策から学び、

もっと実りある政策を実現しようと努めた。

イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズ、

彼の名をとって命名された「ケインズ主義」の創始者は、

自らブレトンウッズ通貨体制の設立に参加

この通貨体制はケインズ主義の重要な要素

反循環的景気政策の経済政策原理

・・・景気後退期における国家支出と国家負債の増加の許容、

反対に、景気上昇における国家支出と国家負債の削減

近代福祉国家の建設と国家的な教育部門の拡大を通じた労働力の

高度化・・・ケインズの雇用創出政策の重要な構成要素

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ケインズ主義は 1940年代後半から 1970年代中頃まで、

すなわち繁栄期の間には、

とりわけイギリス、ベネルクス諸国家、スカンディナヴィア諸国

の社会民主主義政権に、

同じくドイツ連邦共和国の大連立にも、影響

それだけではなく、保守政権もこの経済政策構想の諸要素を受容

ケインズ主義・・・1970年代以降、多くの批判を受ける

批判の論点・・・ケインズ主義的な経済政策は、

1970年代のインフレの決定的原因とみなされた。

また非常に拡大された国家的補助金の決定的な原因

・・・この補助金は利益享受グループの抵抗に抗して再び削減するのは政治的に非常

に困難

さらに、

柔軟性のない国家官僚機構の、そして総じて国家の比重の継続的な増大の決定的な

原因

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マネタリズム・・・ケインズに反対するラディカルな立場、

すなわち、市場の調整能力への完全な信頼、

外国為替相場の完全な自由放任、

景気への国家の不介入、

福祉国家拒絶

代表的マネタリスト

とりわけヨーロッパの経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエクと

彼のアメリカ人の同僚ミルトン・フリードマン

このいわゆるマネタリズムの構想が政治的決定に最初に出現したのは、

1973年ニクソン政権の固定為替相場制から撤退において

その後、

1980 年代にこのマネタリズムの政治的・経済的影響力は頂点に

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西ヨーロッパの経済学・・・大々的にこの学説を志向

ケインズ主義から離反

西ヨーロッパの諸政権、またヨーロッパ委員会でも、影響力を増大

とりわけ次の三つの目標が西ヨーロッパの経済政策をますます特徴づけるようにな

った。

すなわち、

①国家財政の安定化と国家負債の削減、

②通貨の安定性とインフレの克服―実際にインフレは1980年代に弱まっ

た―、そして最後に、

③多くのサービスからの国家の撤退

各国の政府、ヨーロッパ共同体も、そして後にはヨーロッパ連合も、同調

1990 年代に共通通貨が構想されたとき-とくにドイツ連邦共和国の

圧力で-、EU共通通貨への参加にも、各国の義務として国家負債の

制限と低インフレ率が課せられた。

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規制緩和

第三の新たな傾向・・・従来の公共セクターにおける民営化・規制緩和の政策

規制緩和と民営化・・・五つの分野で

第一の分野・・・国営企業の再私有化

この国営企業は、第二次世界大戦直後に銀行と鉄鋼・自動車産業、鉱山、エネル

ギー供給、通信の分野における特に重要な大企業の国有化によって、とりわけイギリスと

フランスで成立したもの

国営企業の再民営化の先頭に立ったのは、1980年代イギリスのサッチャー政権

・・・サッチャーリズム

第二の分野・・・従来の公共サービス部門における民営化・・・ゆっくり進行

すなわち、鉄道、

港湾、

空港、

航空会社、

郵便、

電話、

都市交通経営、

電気・ガス・水道供給およびゴミ回収

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第三の分野・・・メディア

戦間期からラジオとテレビで国家の放送局が支配的であった

・・・政府がたいてい政治的世論に自身の影響力を保持しようとしたため

1980年代以降の規制緩和・・・民営放送局の認可

・・・これは次第に公共放送局よりも多くの聴衆や視聴者を獲得

第四の分野・・・70年代以降、民営化されたのが、

商品の国家的品質管理、

地下・高層建築物、ならびに建物、乗車券管理の技術的監督

さらに、行政機関や大学・学校の評価さえもが民営化

第五の分野・・・福祉国家、都市計画、健康と教育の分野

民営化が議論

国家介入のこの分野では、すでにずっと以前から―国や地域によって異なっては

いたが―、社会保障や貧困者保護、病人看護のためのたくさんの民間施設が、私立の、と

いっても多くは教会が運営する学校や大学が、さらには、私経済的な都市再生事業―大部

分は非営利だが部分的には利潤追求も行う―が、存在していた。

これらの領域においては、民営化と規制緩和は 1970年代と 1980年代にはまだ周

辺的な現象に留まっていた。国家的な社会支出はただ一時的に削減されるだけで、長期的

に見ればむしろさらに増加した。

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全体として、規制緩和と民営化の場合、経済の生産性のいっそうの向上や商品のさらな

る多様化だけでなく、窮屈になった公的予算の節約、公的管理部門の効率性の上昇と脱官

僚主義化も問題となった。

こうした期待は、私的独占、物価上昇、サービス悪化といった危険に直面して、かなら

ずしもいつも実現されるとは限らない。

規制緩和と民営化はふつうは弱体な国家によってではなく、ただ強力な政府によっての

み遂行され得るものであった。そのうえ、国家はしばしば最後の統制手段を手元に残して

おき、それどころか民営化された企業を国営企業よりも厳しく統制し、規制することがで

きることもまれではなかった。

グローバル化

さらに1970年代と1980年代は新たなグローバル化によって特徴づけられた。もっとも、

ヨーロッパの歴史におけるこの第三のグローバル化が、

実際に 1970年代と 1980年代の時期に初めて起こったのか、

それともすでに第二次世界大戦直後から始まっていたのか、については意見が分かれて

いる(詳細は第九章を参照されたい)。

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工業社会からサービス社会への移行

第五の根本的な経済的変化

・・・同時代人にははるかにわずかにしか気付かれなった。

就業構造における工業の優位からサービス業の優位への移行

ヨーロッパ全体(トルコ・ソ連は除く)では、1970 年には少なくともまだ

約 8千 3百万人の就業者を擁していた工業がかろうじて最大の産

業部門

サービス業には当時 8千万人のヨーロッパ人が従事

工業優位はその後も、いくつかのヨーロッパの地域を特徴付けていた大工業都市で

は目に見えるものだった。

しかしそれは当時すでに危機に瀕していた。

それに対して、すでに1980 年には 1 億 2 百万人の就業者

を擁するサービス業が最大の産業部門。

工業はこの時点でもたしかに 8千 5百万人の就業者数を保持していたが、

今や第二位の部門に留まった。

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もっとも、ヨーロッパ人はこうした変化をほとんど知らなかった。

それはサービス業の仕事が空間的にそれほど集中しておらず、大工場のように壮大に目

に見えるものでもなかったからである。

それだけではなく、人々はなおも工業を近代経済の原動力として信じており、そのう

え当時は誰もヨーロッパの就業部門を全体としては考察しなかったからである。1990年代

以降、ようやくヨーロッパ人は次第にこの変化に気づくようになった。

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社 会

新しい時代の始まりの合図

・・・1967年 7月の西ベルリンととりわけ 1968年 5月のパリにおける市街戦

1968年 5 月はこの間に、一つの神話に。

神話化は 1973年の最初のオイルショックやブレトンウッズの終焉よりも強力

この神話

・・・・三つの決定的な要素

第一に、68年 5月はある根本的な変化ののろし、国民や社会的諸価値に関する新しい

よりリベラルな理解ののろしであると見なされている。

第二に、学生たち、すなわち当時の社会における小さな集団が、この変化を実現する

際の主要なアクターと見なされている。

第三に、若い成年層とおよそ 30歳以上の年長世代の間での、極端な場合には暴力さえ

も伴った激しい世代間衝突が、68年 5月と結び付けられている。

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68年 5月・・・実際には単純に新しい時代の始まりではなかった。

まだ完全に繁栄期にあったのになぜ劇的転換が?

それなりの理由

三つの理由・・・決定的

まず第一に、年長世代と若い世代の完全に対立する経験が互いに衝突

年長世代は第二次世界大戦、独裁と占領、戦後の窮乏の経験とヨーロッパの再建

における個人的貢献の記憶がいまだになお鮮明で、彼らは戦争の道徳的・人間的

なグレーゾーンについて理解していた。

それに対して、若い世代は自らの経験を繁栄期からのみ、そして―西ヨーロッパ

の大部分において―民主主義からのみ得ていた。彼らは戦争と戦後の窮乏を年長

者の話でしか知らず、またそれゆえに業績や獲得物だけでなく当時の社会の欠点

も見ていた。

さらに第二に、ヨーロッパ社会は劇的な経済的・社会的変容の、すなわち労働、家族、

消費、価値、福祉国家、都市、教育の急速な変化の強い印象のもとにあった。

それゆえ、社会の根本的な変革可能性と計画可能性、将来への全く新しい展望とよりよ

い未来のための社会への強力な介入は、この時代の基本的な経験であった。

最後に第三に、当時のヨーロッパの一般大衆は、民主主義を再び構築したという印象が

強く残り、1945年以後の大きな希望、そしてファシズム的なタイプであれ、この間に生ま

れた共産主義的なタイプであれ、独裁体制に対する完璧な不信感を堅持。

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同時に、人々は当時の模範的な民主主義諸国が―特にアメリカ合衆国、さらにはフラン

スとイギリスも―、最も非人道的な戦争を、すなわちベトナム戦争とアルジェリア戦争、

そしてマレーシアとケニアでの血なまぐさい植民地戦争を遂行していたこと、

そのうえ国内でも、アメリカでは公民権運動やアフリカ系アメリカ人に対して、

フランスではアルジェリア人に対して、

そしてイギリスではアイルランド人に対して、

その時々に抑圧的な措置をとっていたことにいら いらしていた。

ドイツ連邦共和国(西ドイツ)やフランス、イタリアにおける路上での衝突の際に、国

内の紛争に対して訓練されていなかった警察が投入され、負傷者や時には死者さえも出し

たことで、若い世代の間でのこうした失望感は一層強まった。

68年 5月・・・たしかに重要なシンボル

四つの重要な変化が繁栄期後のヨーロッパ社会を特徴付けた。

すなわち、①将来に対する新しい懐疑主義、

②生活水準改善の遅滞、

③社会的選択の新しい多様性、そして、

④新しい国際的な結合・収斂

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将来への懐疑

最初の重大な変化・・・将来に対する見方が大きく転換

繁栄期に発展した楽観的な将来像

・・・社会計画や社会科学の専門家および未来学者が影響力のある地位に

しばしば歴史的伝統に対する強い懐疑とも結合

いまや、懐疑的な将来予想・・・国家的な計画や社会政策への批判や、

福祉国家、都市計画や保健政策、教育政策に対する批判、

社会科学の専門家に対する批判

などの増加

「ノー・フューチャー」・・・ポピュラーなスローガン

こうした批判の増加の背景事情

三つの全く異なる政治環境に由来

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まずはじめに特に、ヨーロッパの社会政策に対する市場自由主義的批判の強化

新自由主義の主張

福祉国家、さらには保健政策や教育政策の中に限度を超えた官僚仕事を見た。

この官僚仕事・・・コスト高

・・・ヨーロッパ経済のグローバルな競争力を損ない、

しかも個人のイニシアティヴを制限し、

それによって、

ヨーロッパ社会のイノヴェーション能力を衰弱させるもの

こうした見方からすれば、

福祉国家、保健制度、都市計画と教育の諸制度の周囲に利益団体やネ

ットワークの環境全体が成長し、

それがヨーロッパ社会の固定性をもたらし、

社会政策の自由化を非常に困難にしたのである。

しかし、ヨーロッパの社会政策に対する批判は 1970年代以降、強力な国家介入を支持す

る層においても強まった。

この観点からは、繁栄期の終焉の後、とりわけ福祉国家の機能不全や欠陥、誤った方向

への発展が批判された。

新たな貧困と第四の老齢グループ、つまり人生の最後の段階にあって介護を必要とする

老齢の人々の世話の問題を処理する上での福祉国家の無能さ。地域の隣人ネットワークの

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破壊や個人の社会的孤立、新たに建設された市区におけるサービスの不十分さといった問

題をもたらす過激な都市改造。巨大な保健組織、大きな社会官僚機構と大病院、そこでは

個々のクライアントが見失われてしまった。超満員のマスプロ大学。これは同時に女性や

移民に対しては十分な機会を提供しなかった。

最後に、繁栄期の社会政策に対する批判は、さらに違ったやり方で新しい社会運動から

もたらされた。新しい社会運動はとりわけ国家的社会保障、保健制度、都市政策と教育の

過度の官僚主義化、それらが市民と疎遠であること、個々のクライアントのニーズとの隔

たり、さらには彼らの弱体な組織をも批判した。それゆえ、新しい社会運動は、比較的小

規模で見通しのきく組織やクライアントのより多くの参加を求めたのである。

生活水準と社会的不平等

第二・・・生活水準と社会的不平等の変化

およそ四半世紀にわたってヨーロッパ人が享受していた並はずれた豊かさの増大は持続

しなかった。

生活水準はほんの少しずつしか改善されず、それどころかいくつかの次元では悪化した。

今やヨーロッパ人は、これまでに達成したことで間に合わせること、将来もほんのわず

かな改善しか期待しないことに慣れなければならなかった。

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四つの主要な生活水準の次元のすべてにおいて、すなわち

所得、

住宅事情、

教育機会、

健康状態において、大きな前方への飛躍が終わった。

所得

繁栄期に異常に跳ね上がった所得上昇はその勢いを失った。

西ヨーロッパの製造業においては、たしかに 1970年代には、第一次オイルショックの後

や経済成長が落ち込んだ後も、まだ数年の間、賃金は名目上、毎年 10%ほど上昇していた。

1980年代に成長率が落ち込んでもなお、名目上は年 3%から 5%を維持していた。

だが、この所得増加は単に紙面上の数字にすぎなかった。

物価上昇がこの所得増加分を再び大幅に食いつくした。

OECDの算定によれば、工業における実質賃金の上昇は、

すでに 1970年代に年わずか 2%かそれより少なく、

1980年代には通常わずか 1%以下にすぎなかった。

消費も 1980年代の西ヨーロッパでは、増加のスピードが 1970年代と比べて半分以下に

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ヨーロッパの東側でも・・・似通った展開。

二つの事例・・・

まずハンガリーでは、実質賃金は1950年から 1970年代初めまでの間に 2倍になり、

1970年代の終わりまではたしかにさらに上昇したが、

その後 1980年代には落ち込んだ。そのため 1980年代の終わりには、実質賃金は少

なくとも 1970年の水準をごくわずかしか越えていなかった。

ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、平均的な労働収入は

1950年と 1975年の間に 3倍になったが、

その後 1975年と 1989年の間には 25%しか増加しなかった。

ヨーロッパ人は新たな所得動向を受け入れ、追加的な消費を断念しなければなら

なかった。

教育機会

もはや 1950年代や 1960年代ほど急速には改善されなかった。

同一年次の中での学生の割合は、

1950年代から 1960年代にヨーロッパ全体でほぼ 4倍になり、

4%から 15%に増加。

それに対して 1970 年代から 1980 年代には、この割合は 15%から 34%と 2倍に

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なったにすぎず、もちろんそれによって、もはや劇的な上昇の可能性はない水

準の進学率に達した。

公的予算の、それとともに教育予算の不足が、そして教育のテーマに関する公

衆の関心の減退が、家計所得の上昇の緩慢化と同様、このダイナミズムにブレ

ーキをかけた。

健康状態

1970年代と 1980年代には、もはや繁栄期ほど目立った改善はみられなかった。

最も厳しいがもちろん非常に複雑でもある指標、すなわち平均余命は、それ以前よりも

ゆっくりと増加した。

ヨーロッパ全体としては、

1950年代と 1960年代には男性ではまだ 5年も、女性では 6年も増加した

それに対して、

1970年代と 1980年代には男性ではわずかに 3年だけ、女性ではわずかに 4年だけ

この平均値の裏で、ヨーロッパ内部での著しい相違、

それどころか一部には、発展した社会での男性の平均余命の異常な減少と

東ヨーロッパでの女性のその停滞

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社会的不平等

社会的不平等の動向の転換

1980年代以降、社会的不平等が再び大きくなり始めた。

1950 年代と 1960 年代には、経済学者たちは所得格差、とりわけ最上層と最下

層の間の格差の減少を観察していた。

傾向転換・・・多数の理由

失業率の増加、

福祉国家の危機、

それと並行して現れた労働組合の交渉力の低下、

若干の分野での法外な初任給とそのほかの分野での職業の見込みの

みじめさという大学卒業生の労働市場の分裂、

変化した家族構造、

その中でしばしば貧困生活を送る片親家族が増加

国家の租税政策の変更、すなわち高所得への課税の引き下げ

国の貧困状況報告・・・1980年代以来、前よりも強い警告を発信

これは新たな貧困環境の発生

もはや工業労働者からではなく、

むしろありとあらゆる職業の長期失業者、

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片親家族、

麻薬中毒者、

また移民や政治的庇護を求める人々

新たな多様性

・・・第三の根本的な社会的変化

ヨーロッパ社会の多様性の増大

・・・個性化

唯一の社会モデルからの乖離の三つのプロセス

第一に、諸個人の社会的、宗教的、政治的な環境との緊密な結びつきからの乖離

たとえば、市民的環境、工業労働者階級、農民や小市民の環境、さらにはカト

リックや福音主義の環境からの諸個人の乖離

第二に、国民国家、労働組合、教会、企業、職業団体のような社会的な大組織に対

する忠誠心の減退

またしばしばこうした忠誠心に結び付いていた従順さ、誠実さ、規律といった

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価値の抑制。

第三に、人々を束縛する唯一の家族モデルの解体が進行

新たな結びつきの発展・成熟

より親密で、しばしば空間的に限定された地域ネットワーク、

活動グループ、協会、社会運動との、

そしてまた宗教的なグループ化との結びつきの再興隆

この新たな結びつきは、しばしば限られた期間しか維持されず、

生涯を通じた結びつきは以前よりまれになった。

しかしながら、社会的なアンガージュマンの高い評価と強さは維持された。

とりわけ若年層はこの個性化のプロセスにおいて繁栄期の間とは違って、家族や職業、

そして社会的な様々な選択肢の間で決断を迫られることになった。

それに関連した価値変化を特徴づけるために、1980年代の社会科学においては「ポスト

物質主義」という論争的な表現が提起された。これによって、個人の自己実現、個人の人

権、諸個人の間での関係の質、文化の尊重、国際的な開放性、これらが特に高い価値を獲

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得したことが表現されるべきだとされた。

この個性化の一般的なプロセスは、様々な社会的領域、すなわち家族、労働、消費、移

民、そして都市における重要な変化と結び付いていた。

ヨーロッパの東側と西側の様々な地域の間の比較においてだけでなく、北ヨーロッパ、

地中海世界と狭い意味での西ヨーロッパの間の比較においても、多様性はヨーロッパの家

族を特徴付けた(第五章参照)。当時、ヨーロッパ人にとっては、家族生活の中で、また自

分の社会における家族モデルにおいて、自分・ ・

自身・ ・

の・

選択肢が以前より大きく多様化したこ

とは新しいことであった。家族の外部に対する開放化の一般的な傾向に従うかどうか、家

族の様々な構成員―子ども、青少年、夫、妻―がより多くの時間を家庭の外で、幼稚園や

学校、大学での勉強、あるいは外での労働に費やすかどうか、ヨーロッパ人はこうしたこ

とについて以前よりも頻繁に自分自身で決めることができた。また、子ども中心の家庭に

向かう傾向に従い、それに両親の考えを合わせようとするかどうかも、自分たちで決める

ことができた。

またヨーロッパ人は以前よりも強く、非常に異なった結婚・家族モデルの間で選択を行

った。すなわち、所得を稼ぐ男性と主婦としての女性による核家族の古典的な家族モデル、

両親が二人とも職業に就いているモデル、片親家族―たいていは母子家庭―のモデル、親

が異なる子どもが同居する「パッチワーク家族」のモデル、生涯子どもを持たない家族の

モデル。そして、両親が経済的に同じ地位にある新しい結婚のモデル。ここでは同じ職業

の結婚パートナーが自分たちの経営で、例えば共同の診療所や建築事務所で一緒に働いて

いる。

労働に際しても選択の多様性は拡大した。

これは部分的には、ベルトコンベヤー式に同一製品が大量に生産される工場生産の古

典的形態の減退と関連していた。製品が幅広く多様化したことで職階制が変化し、仕事場

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は以前より多面的になり、柔軟性や業績志向、イノヴェーションへの積極性と着想の豊か

さが重要な労働価値となった。

職業経歴も一層多様になった。

失業の増加によって、人々は職業選択に際してさらなる柔軟性が要求され、職業上の

方向転換がより頻繁に求められた。

さらに、子どもをもつ既婚女性の就業の増加・・・男性の古典的な職業経歴よりもさら

に大きな柔軟さを要求

これらの理由すべてから、職業経歴の新たなタイプが台頭

そこでは失業や職業教育、あるいは家庭の事情による就業の中断が増加

それらは古典的な職業経歴に取って代わったのではなく、

一つの職業やそれどころか一つの企業への生涯にわたる所属と併行して発展

新たなタイプの重要性がどれほど大きくなったのかについては、今日まで議論が

続いている。

同様に、消費における選択肢もより多様なものとなった。

その決定的な理由は実質所得のわずかな増加、

もしくはそれどころか完全な停滞であった。

生活水準向上に関する大きな飛躍は―多くの者にとっては―過去のこと

その上、ヨーロッパ人の大多数は、それ以前の時期には消費の進歩を意味していたよ

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うな財、すなわち冷蔵庫、テレビ、作り付けの戸棚、自動車を所有

それゆえ通常は、他の人との社会的差別化は、繁栄期にはまだそうであったようにセ

ンセーショナルな新製品を追加的に消費することや、同一の主要な財をさらに購入するこ

と――第二の住居、三台目の自動車、あるいは四台目のテレビ――によってではなく、む

しろ異なる消費財や消費スタイルへのコスト的には中立的な転換によって可能となった。

消費のあり方が非常に多様化したさらなる決定的な要因・・・とりわけ西側ヨーロッパ

では、生産へのエレクトロニクスの投入による消費財の多様化

自動車のような複合的な製品の場合、1950 年代や 1960 年代とは異なり、多様性が著し

く増大し、全く同一の製品が製造されることは極めてまれになった。確かに、消費の新た

な多様性は、人々の社会環境との結び付きが弱まり、それに伴い環境順応への圧力が弱ま

ったこと、そして人々が今や様々な環境からの消費要素を結合したこと――たとえばラー

ドを塗ったパンにワイン、ハンチング帽にネクタイ、フットボール狂のテニスの試合など

――からも生じた。最後に、消費のあり方の多様性は、ヨーロッパ人がヨーロッパ大陸の

外へ頻繁に旅行するようになったことによっても増大した。ヨーロッパ人はそれによって

異なる消費スタイルや生活様式を知り、それらをヨーロッパに取り入れ、ある時はアジア

式、ある時は地中海式、またある時は北アメリカ式の食事をするようになった。

ヨーロッパの諸社会は移民を通じて同様に多様化。

1970 年代以降、次第に認識されるようになったのは、西ヨーロッパの工業諸国への大量

の移民の場合―ヨーロッパ周辺部からだけでなく、地中海地域の南部や東部からもやって

きたが―、一時的な労働滞在ということが問題ではなく、むしろ、それが就業外国人とそ

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の家族の永続的な定住をもたらすということだった。

1970 年代初頭に新たな経済状況に直面して大部分の西ヨーロッパ諸国が全般的に募集を

ストップしたにもかかわらず、移住は続いた。

この移民はとりわけ故郷に残されていた家族が後からやってきたものだった。

しばしば周縁化された、若い、未婚の、職業訓練を受けていない外国人労働者たちに代

わって、次第に、非常にさまざまの職業に携わる新たな移民マイノリティが登場し

た。

その中には、小売・卸売業者、銀行業者、レストラン所有者、医者、弁護士、聖職者、

芸術家、ジャーナリスト、学者といった職業の者もいた。

彼らはヨーロッパの諸社会の中にますます、異なる宗教――これはしばしばイスラム教

であったが――だけでなく、特有の生活様式や固有の価値を持ち込んだ。

都市の発展

居住の在り方に新たな多様性を提供

1970年代と 1980年代には、三つの選択肢が次第に表面化

第一の選択肢

1950 年代と 1960 年代に優勢だった選択肢、すなわち都心から拡大する郊外や衛星都市

の巨大な世帯用住宅網への転出という選択肢―これは南ヨーロッパでも広がったのだが―、

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あるいは、住居ブロックや高層マンションへの転出という選択肢は、引き続き重要であっ

た。

第二の選択肢

それに加えて、都市への回帰という新しい選択肢、都心の住まいの再評価が、若い単身

者や子育ての時期を終えた年配の夫婦のみならず、若い家族の間にも現れた。とりわけヨ

ーロッパの北部ではこれは新たな選択肢であった。

しかしながら、ヨーロッパの南部ではこの選択肢は決して本当に放棄されたことはなか

った。

第三の選択肢

最後に、全く新しいというわけではないが次第に多く選ばれるようになった選択肢とし

て、田舎での居住

自分の国の農村地方やヨーロッパの南部でセカンドハウスの数が急速に増加

遠距離通勤者

ほとんど農民がいない、もともとは都市の職業グループに属した人々が住む、

そうした新しい村々が出現

都市の再開発・・・居住の選択肢の多様化に対応、ゆっくりと順応

撤去再開発―街路区画や都市区画の全体的な取り壊しと新たな建設――と並んで、

慎重な都市改造、

古い建物や都市地区の近代化、

過密化した中心地区の疎開と活性化、

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放置され工場の建物や港湾施設の住居や商業地区への改築、

無愛想な車の通り抜け通りから歩行者天国への改築

こうしたことが公的私的な都市計画の新しい混合の中で、次第に進展

都市間の競争・・・個々人の選択肢の拡大

社会の多様性の拡大と国家の社会政策の合い団での困難・摩擦

国家の社会政策は部分的には社会的・文化的な同質性への要求を固持

部分的にはこの新たな多様性に巻き込まれ、それに順応し、時にはそれをさらに奨励

この摩擦はヨーロッパ委員会の政策にも現れた。

委員会は一方では特別に厳格な、そして激しく議論されたヨーロッパの統一化政策を、

とりわけ経済ではバナナの曲がり方の標準化などという信じがたい統一化までも、追求し

た。

委員会はそれと同時に、内的な多様性や生産的な市場競争の哲学、そして標準化の押し

付けによるのではなくて競争を通じて最良の規則と成果を引き出すフィルターの哲学も次

第に発展させた。

このような選択肢の多様性の拡大は、狭い意味での社会に限られなかった。文化や政治

もより一層多様なものとなった。ラジオやテレビの番組も豊富になり、社会運動はさらに

多様化し、有権者の流動性は政党の数と同様に増大した。

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結 合

第四に、1970 年代と 1980 年代のヨーロッパにおける諸国民社会の間の社会的結合は、

繁栄期とは異なった展開を見せた。

とりわけ西ヨーロッパでは、一方での社会的結合のダイナミズムの抑制と、他方におけ

るコミュニケーションおよびメディアの国際化の推進力の間で、新たな矛盾が生じた。

空間的な流動性によるヨーロッパ諸社会の間の結合は、1970 年代と 1980 年代の時期に

は、1950年代や 1960年代と同様の速度では進まなかった。1970年代初期の間にたいてい

の西ヨーロッパ諸国で就業のための移住をストップしたことから、これら工業諸国への移

住にブレーキがかけられた。後を追う家族の移住はたしかに続いたが、たいていの西ヨー

ロッパ諸国において、外国人住民の割合はもはやそれ以前のように急速には上昇しなかっ

た。西ヨーロッパでは、外国人の割合は繁栄期の間におよそ 3倍になった後、1970年と 1990

年の間には 3.2%から 4.5%に増加しただけであった。1970年代のスイスと 1980年代のフ

ランスでは、外国人の割合は落ち込みさえした。

ヨーロッパの内側での国家間の移住から生じるヨーロッパ内部の結合も、その後は深化

しなかった。

ただヨーロッパの北部では、国際的な移住の新しいあり方、とりわけ高度の専門知識・

技能の持ち主のそれが、現れ始めた。すなわち、国際的な労働市場への一層の参加であり、

それは頻繁な外国への移住と、頻繁な帰国もともなうものであった。

いずれにせよ、フランス、ドイツ、イギリス、オランダ、ノルウェー、スイスとスウェ

ーデンではほとんどのところで、外国からの移住のみならず、外国への移住も増加した。

若いヨーロッパ人の外国の大学への留学の数も、12万 3,000人(1975年)から 22万 8,000

人(1989年)へと増加した。だが、これも繁栄期におけるほど急速な増加ではなかった。

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国際観光旅行

この時期には国際観光旅行も、もはや以前の時期と同じような速度では増加しなかった。

ヨーロッパの観光大国の一つ、フランスでは、外国人観光客の数が 1970年と 1987年の間

には 2,100 万人から 3,700万人に増加したが、1950年から 1970年までの間には 4倍にも

なった。

連邦共和国(西ドイツ)は、観光国というよりむしろビジネス旅行の国であったが、そ

の数は 1970年の約 750万人から、1989年には 1,500万人弱に増加した。それに対し、繁

栄期には外国人旅行者の数は、およそ 100万人強から 800万人へと、まさに跳ね上がった。

年金生活者や金利生活者のヨーロッパ南部への移住だけは、1970年代以降、明らかに増

加した。これらの理由すべてから、外国人男性と外国人女性の結婚も―我々が少なくとも

若干のヨーロッパ諸国について知っているように―、もはや繁栄期におけるほど急速には

増加しなかった。1970 年代と 1980 年代に全体として、移住、旅行、家族関係を通じたヨ

ーロッパ諸国間の結合は、たしかに後退はしなかったが、繁栄期と比べれば、そのダイナ

ミズムが著しく失われてしまった。1990年代になってようやく、それはふたたび新たなダ

イナミズムを獲得した。

例外は学問であった。これはまさに 1970年代以降、国際化の推進力を経験した。

学者の外国滞在が増加し、それが経歴の中で重要な役割を演じるようになった。大学教

員が外国から客員教授に招聘されることが以前より頻繁になった。国際的な博士課程プロ

グラムが設置され、外国の研究所が拡大されるか新たに設立された。新しい国際的な学問

言語、すなわち英語の出版物が、自然科学だけでなく、人文科学のかなり多くの分野にお

いても増加した。外国の大学に通う大学生の数も急速に増加した。

この国境横断的な社会的結合のダイナミズムにブレーキがかけられた背景には、部分的

には、国民国家の諸政府が 1970年代初期に移民抑制政策や外国人労働者の受け入れ中止政

策をとったこと、そして 1980年代末に政治的な庇護を求める人々の流入を抑制する政策を

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とったことがあった。

少なくともそれと同じ様に重要だったのは、ヨーロッパの経済成長の緩慢化であった。

それによって労働力需要や、外国からの移民への需要も落ち込んだ。その上、実質所得が

もはや繁栄期におけるほど急速には増加しなかった。

それによって、外国旅行や留学、そこから生まれる社会的結合も、もはやそれほど急速

には増加しなくなった。同時に、国境横断的な労働市場もまだ一般的には確立していなか

った。それは 1990年代以降、高い移住率をもたらした。たしかに、ヨーロッパは、国民国

家的な社会的閉鎖性と国際的分断の新たな段階に陥ることはなかった。しかし、それでも

国境横断的な結合の緊密化は緩慢になった。

国境横断的なコミュニケーションの発展は、全く違った経過をたどった。これは 1980年代

に、国際化の推進力を強く受けた。決定的な技術革新が国際的なコミュニケーションをダ

イナミックなものにした。1970年代以降に西ヨーロッパの電話利用者の多数が自由に使え

るようになったダイヤルシステム(自動電話交換方式)が、国際通話を根本的に容易にし

た。国際通話のために電話局で複雑な申告手続きをしたり、折り返し電話を長い間待たな

くてもすむようになった。さらには、この時期からようやくほとんどすべての西ヨーロッ

パの家庭に固定電話が備え付けられるようになり、国際的な結合が強まった。

1980年代以降に広まったテレファックスによって、外国へのテクスト送付にかかる時間が、

手紙の場合の数日間からファックスでは数秒間に減少した。テレグラフはたしかにファッ

クスと同じくらい早かったが、実際には長文のテクストを文字どおりに、ましてや画像ど

おりに、まずまずの費用で送ることはできなかった。西ヨーロッパのいたるところで、電

報の数はダイヤルシステムとファックスの導入によって著しく減少した。同様に、航空便

によって国際的な郵便配達の速度は著しく高まった。といってもいくつかの国では地上で

の配達が遅かったために、国際郵便の速さも相変わらずブレーキがかかった。

他のヨーロッパ諸国に関するメディアの情報伝達の一層の緊密化、それと同時にヨーロッ

パ諸国間の新たなメディアの結合は、1970年代と 1980年代の経過の中でのメディアの国

際化によって突き動かされた。さらには、国内のメディアの報道もますます国際的になり、

ヨーロッパ化した。人々は自分たちが読んでいる新聞から、時とともに共通のヨーロッパ

のテーマについてますますたくさん知るようになった。こうしたテーマについては、ヨー

ロッパの新聞では同じような時期に報道されただけでなく、同じような重みで報道された。

ジャーナリストの国際的な経験も深まり、他のヨーロッパ諸国の新聞雑誌からの引用もま

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すます頻繁に行われるようになった。

さらに、コミュニケーションを通じたヨーロッパの結合のさらなる深化のための、きわめ

て決定的な前提条件が増大した。すなわち、外国語の知識である。外国語の、とりわけ英

語の知識が多くのヨーロッパ諸国において増えた。とっても、国ごとに大きな違いはあっ

た。1980年代以降、広告とサービス部門がますます多く英語を利用し始めた。これはこの

外国語が大衆言語への道を歩んだことのひとつの指標である。

文化

ヨーロッパの文化史においては、この時期には、経済史におけるオイルショックや社会

史における 1968年 5月のようなセンセーショナルな出来事は起きなかった。だが、この分

野においても 1970年代以降、一連の新たな展開が見られた。それは、ヨーロッパ懐疑主義

への回帰、メディアの民営化、しかしまた文化のヨーロッパ化への新たな衝撃、といった

慣用句で表現され得るものである。

文化の方向性や価値の転換を示すひとつの出来事があったとすれば、それは 1972年にデニ

ス・メドウズ(Denis L. Meadows)によってまとめられたローマ・クラブの報告であった。

一見すると、これは文化とほとんど全く関係がなかった。メドウズは、これまでの世界経

済成長のあり方が、2100年までに環境汚染とエネルギー備蓄の枯渇のため不可避的に終わ

りを迎えるだろうと予測した。この報告はほとんど間もなく、工業化時代の古典的な経済

成長に対する高まる懐疑のシンボルとなった。また、繁栄期の未来楽観主義の放棄、ヨー

ロッパ啓蒙主義の伝統における人類の生活状況の持続的改善やその普遍的な発展について

の進歩信仰の放棄、国家の介入や計画への信頼の放棄、自然科学であれ社会科学であれ近

代化構想を伴う諸科学に対する信頼の放棄、こうしたことのシンボルとなった。たしかに、

これらの諸観念はそれ以前にも、すべてのヨーロッパ人に共有されていたわけではなかっ

たが、西ヨーロッパにおいて、また別の仕方ではあったが東ヨーロッパでも、多数意見と

なっていた。古典的な進歩楽観主義からの新しい離反も、必ずしも全てのヨーロッパ人か

ら支持されたわけではなかったが、それでも大きな影響力を持った。

ポストモダンとポップ・アート

文化の方向転換と新たな懐疑からポストモダンが現れた。それは建築と同様に芸術にも、

さらには学問にまで強烈な影響を及ぼした。「ポストモダン」という表現は新しいものでは

なかったが、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの 1979年の著作によって

衝撃を与えられた潮流の自称として、1970年代の終わりに急速に広がったi。この思想潮流

は特にミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、それにジャン・ボードリヤールのような

フランス人哲学者、さらにはリチャード・ローティやヘイドン・ホワイトのようなアメリ

カ人もしばしば引用した。

「ポストモダン」は多義的であり、簡単にまとめることはできない。いずれにせよ、その

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中にはこの時代の全般的な危機感が表現されていた。この思想潮流の中心には、もはや将

来への直線的な発展ではなく、むしろ偶然と混沌が存在していた。近代化と普遍主義は否

定的な概念となった。啓蒙主義の誤った判断と暗い側面が、極端な場合にはホロコースト

への連続性なるものさえもが浮き彫りにされた。客観的な現実性の存在が根本的に疑われ、

知は結局のところ言語的構築物、あるいはそのような言語的構築物の再解釈であるとみな

された。それゆえ、メディアとメディアによって生み出された現実性は新しい最上位のテ

ーマとなった。言語は監獄であると見なされ、個人は現実性の新たな解釈によってそこか

らなんとか逃れることができるだけだとされた。脱構築は最も重要な学問的方法であり、

それによって政治権力や政治秩序が批判され、弱められるべきものとされた。その中心的

な価値は個人の自由であった。

芸術や建築、そして学問においても、ポストモダンは個人の自由を、すなわち既存の構想

の束縛からの完全な自由を求めた。『何でもあり(Anything goes)』はこうした潮流の重要

なライトモチーフであった。建築においては、ポストモダンは直角の鉄骨・ガラスの建築

構造物に、すなわち画一的・近代的な、バウハウスからインスピレーションを得た様式の

拘束に取って代わった。それはしばしばかなり昔の形式を引用し、形式の遊びを持ち込ん

だ。学問においては、ポストモダンは厳格な社会科学的諸理論の束縛を拒否し、物語、空

間、ミクロ世界、身体的・人間的経験に、総じて肉体を持ち血の通った人間に目を向けた。

非理論的な疑念が理論的諸構想による説明に取って代わった。ポストモダンはしばしば自

然科学的・社会科学的方法の回避と哲学や精神・芸術の諸科学の再評価をも意味していた。

こうしたことと密接に結び付いていたのが、もう一つの新たな展開、ポップ・アートであ

った。ただし、これもまた簡単に要約することはできない。1970年代以降、ポップ・アー

トは社会における芸術の地位を変えた。ポップ・アートによって、そしてまたポップ・ミ

ュージックによっても、高貴な芸術―これは社会から隔絶させられ高い教養水準を要求し

ていたが―と、それが激しく批判する大衆消費との間の古い切断が放棄された。ポップ・

アートは大衆消費や大衆メディアを受け入れただけでなく、近代的なメディアや宣伝広告、

漫画や映画の画像、表現様式と技術も利用した。ポップ・アートはわざと芸術の通俗化の

側に立ち、もはや教養市民層にではなく、むしろ近代的な大衆消費者に訴えかけた。古典

的芸術の美の理想像との関係は意識的に断たれた。ただし、ポップ・アートをたんに宣伝

やハプニングに分類するとすれば、それは誤った理解であろう。その全く反対に、芸術家

たちはそれ以前と同じくらい真剣に、自らの役割を教育者と見なしていた。

メディア

ポストモダンとポップ・アートは、メディアの変化と非常に密接に結び付いていた。1980

年代以降、メディアは新しい方向に展開した。民営化と国際化が重要な新しい傾向であっ

た。ただし、これは西ヨーロッパについてのみ言えることである(東ヨーロッパとの相違

については次章で述べる)。

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民間テレビ放送が 1980 年代に規制緩和政策と国家予算の不足を背景に凱旋行進を始めた。

それ以前の時期には、民間のテレビ放送はわずかのヨーロッパ諸国においてのみ、すなわ

ちイギリス、オランダ、ルクセンブルクにおいてのみ、アメリカと同様に地歩を占めてい

た。1980年代になると、これがたいていのヨーロッパ諸国に急速に導入された。フランス、

西ドイツ、スカンディナヴィア諸国では少数の巨大な民間放送局が、それとは逆に、イタ

リアとオランダでは数え切れないほどの小さな放送局が誕生した。民間放送局とともに、

テレビに広告が、もっと言えばテレビ広告の激しい拡大と視聴率志向が現れ、ニュース・

教養番組ならびにドキュメンタリーが削減され、娯楽番組や、アメリカを手本にして製作

されたクイズ番組・トークショーが優勢になった。当時からアメリカのテレビ映画がヨー

ロッパ市場を支配している。アメリカのテレビ映画はヨーロッパの作品よりも安く、国際

的な嗜好に合わせて製作されていたからである。民間のテレビ放送はまもなくヨーロッパ

の視聴者の支持を獲得し、国にもよるが視聴者の半数から四分の三に見られた。テレビ放

送市場はそれによって著しく拡大した。

民間テレビ放送の、そしてテレビ放送の発展による他のメディアへの刺激の決定的な影響

は、メディア供給の、すなわち娯楽番組もニュース、評論、ドキュメンタリーも、もはや

見渡すことができないほどの多様さであった。権威ある国営のテレビ放送やラジオ放送、

あるいは権威ある新聞記事―こうしたものは大多数の視聴者あるいは読者がかつて知って

いたものであり、それゆえそれについて皆が話題にしていたのだが―は、ますます珍しく

なった。

もっとも、1970 年代と 1980 年代には、テレビ放送の興隆は他のメディアを駆逐してしま

うものではないことが、改めて立証された。映画だけは継続的な減退を経験したが、これ

もヨーロッパの一部においてのみであった。それとは逆に、他のメディア、すなわちラジ

オ、活字メディア、書籍、劇場はさらに成長した。もっともそれらはテレビメディア優位

の下に著しく変化し、テレビが入り込んでいないニッチを見つけた。

その上さらに 1980 年代以降、メディアはますます国際化し、とりわけヨーロッパ化した。

この過程は民間と国家の、また国内と国外のアクターによって促進された。すなわち、テ

レビ放送やラジオ放送の民営化とともに、国際的なメディア・コンツェルンが誕生した。

それらは様々なヨーロッパ諸国においてテレビ・ラジオ施設を、さらには新聞や書籍出版

社も所有した。たとえば、ルクセンブルクの RTL、フランスの CGE、ドイツのベルテルス

マン・コンツェルンのようなコンツェルンである。各国の新聞や雑誌、すなわちイギリス

の『フィナンシャル・タイムズ』、同じ出版社から出されている『エコノミスト』、フラン

スの『ル・モンド』、スイスの『チューリッヒ新聞』は、国外の市場で地歩を固めようと努

力した。その際、とりわけ『フィナンシャル・タイムズ』が成功を収めた。同誌はまもな

くイギリス以外の読者が過半数となった。

その上、1980年代には、たしかに成果は非常に限られていたが、新たなヨーロッパ・メデ

ィアのプロジェクトもヨーロッパ共同体(EC)によって始められた。すでに 1950 年に設

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立されたが周辺的なものに留まっていたユーロヴィジョンの他に、SEPTによってヨーロッ

パ・テレビ放送の設立に向けたヨーロッパ・テレビ各局の新たな提携が計画された。しか

し、そこからは 1990年代に二カ国の独仏文化テレビ放送が生まれただけであった。技術的

発展も国際化に貢献した。すなわち、新たな受信技術、衛星放送受信用パラボラアンテナ

やケーブルテレビが 1980年代に普及したが、それによって外国からの放送を見ることが以

前より簡単にできるようになった。

ヨーロッパ・文化フェスティバルとヨーロッパ文化政策

メディアの国際化と密接に関連して、1980 年代には音楽、演劇、映画、美術館・博物館

の分野でヨーロッパ文化フェスティバルの第二の拡大が始まった。多くの都市や地域は

1980年代に、殖産とスポーツと並んで文化が、地域の経済発展や観光をめぐる国内とヨー

ロッパでの競争において、名をあげる重要なチャンスとなることを発見した。それゆえ、

都市や地域ネットワークは以前より頻繁に文化フェスティバルを提唱した。特にセンセー

ショナルで野心的なプロジェクトは、1983年に始まった「ヨーロッパ・オデオン座」であ

る。これはジョルジオ・ストレーラーによって主導され、全ヨーロッパから劇団をパリへ

招いた。このプロジェクトから 1990年に「ヨーロッパ劇場連盟」が生まれた。

1980 年代にはヨーロッパ共同体(EC)もヨーロッパ文化政策のイニシアティヴを握った。

たしかに、ECはすでに 1960年代後半以降、ヨーロッパ文化のための諸宣言を出しており、

1980 年代にはこの宣言政策を 1980 年の「ヨーロッパ文化空間」のための宣言によって、

そして 1989 年のヨーロッパ文化憲章によって続行した。だが、1986 年の統一ヨーロッパ

法手続きによってようやく、EC は実際に文化政策の権限を獲得した。二つの最も有名な、

そして抜きん出た成功を収めた ECの文化プログラムはこの時期に始められた。すなわち、

1985年以降に毎年連続して開催され、一年間ずつヨーロッパ文化首都になる都市を指名す

るコンクール、そして、1987年に設立されたエラスムス計画―これはヨーロッパの大学間

の学生交流のための計画(ソクラテス計画の名前で継続された)―である。ただし、これ

ら二つの計画は1990年代以降になってようやく、十分な影響力と多大な成果をもたらした。

ヨーロッパ論争

こうしたことを背景にして 1980年代以降、ヨーロッパの知識人や研究者が再びヨーロッ

パについて激しい論争を始めた。この論争にはピエール・ブルデュー、ジャック・デリダ、

ブロニスワフ・ゲレメク、アンソニー・ギデンズ、ユルゲン・ハーバーマス、ジェルジー・

コンラート、リヒャルト・レーヴェンタール、エドガール・モラン、アルティエロ・スピ

ネッリのような著名な知識人が参加した。ヨーロッパの専門家ネットワークは、たとえば

政治学(1970年の政治学ヨーロッパ・コンソーシア)や歴史学(1982年のリエゾン・グル

ープ(Groupe de liaison)、1989年の研究者ネットワーク「ヨーロッパ・アイデンティティ」)

の分野において設立された。ヨーロッパ論争は戦後すぐの時期とは別のテーマを問題にし

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ていた。それはもはや根本的な危機状況におけるひとつのヨーロッパについての議論や、

ヨーロッパ諸機関の完全な欠陥についての議論ではなかった。

東ヨーロッパでは、この論争はソ連モデルから共通のヨーロッパ・モデルへの方向転換の

問題に取り組んだ。ただしその際には、東中央ヨーロッパの同等の地位での編入が求めら

れた。西ヨーロッパで特に論争の対象となったのは、1950 年代と 1960 年代の並はずれた

繁栄期の後の、そして 1970年代初期の間には失敗と見なされていたヨーロッパ統合の深化

が始まった後の、硬化した、非革新的な、アメリカと日本の下位に転落したヨーロッパで

あった。その上、この論争はしばしばヨーロッパ諸機関、EC、ヨーロッパ評議会の政策に

対する批判も含んでいた。それだけではなく、論争はしばしば文化やヨーロッパの諸価値、

そしてヨーロッパの多様性、あるいは冷戦の前線を超えたヨーロッパの統一の問題に取り

組んだ。ヨーロッパの文化はしばしば、ヨーロッパの経済や政治よりも共通のヨーロッパ

を一つにする絆だと見なされた。

このヨーロッパ論争の再燃にはいろいろな理由が挙げられる。緊張緩和政策や、さらには

ヨーロッパを舞台とした核戦争の危機の沈静化によって、冷戦における東西ブロック間の

対立は、ヨーロッパ人にとって特に1980年代にはその結合力の多くを喪失した。さらには、

ECの政治的強化が進んだ。その上、脱植民地化が、植民地帝国の諸空間から、新しい、そ

れと同時に古いヨーロッパ志向の空間への方向転換のための空間を創り出した。グローバ

ル化を多くのヨーロッパ人は誤って外部からの経済的・文化的侵入と思い込んだのだが、

それは、世界におけるヨーロッパのこれまでとは違った役割について議論する欲求を高め

た。

政治

経済、社会、文化において新たな時代の到来を告げるように見えたあらゆる出来事、す

なわちオイル・ショック、1968年 5月、成長の限界についての報告は、ヨーロッパの政治

にとっても極めて重要な新しい挑戦であった。これらの出来事は、政治においても、新た

な、しかしいつもというわけではなかったがこの時期を特徴づける新しい展開を誘発した。

民主化

1970 年代と 1980 年代はヨーロッパに根本的な民主化の推進力をもたらさなかった。こ

の間は大部分の国々にとっては、独裁と占領体制からの離脱と民主的憲法の制定といった

戦後期のような劇的な時期ではなかった。ヨーロッパの東の部分ではいかなる民主化の傾

向も認められず、また、西の部分ではすでに大部分の国々において民主主義が定着してい

た。それにもかかわらず、1970年代と 1980年代の時期は、ヨーロッパの「第二の民主化」

と呼ばれた。それを支持する理由は二つ挙げられる。すなわち、南ヨーロッパにおける民

主主義の貫徹と西ヨーロッパにおける民主主義の変化である。

ヨーロッパの南部、すなわちポルトガル、スペイン、ギリシャにおいては、サラザール、

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フランコ、ギリシャの将軍たちの独裁が取り除かれ、議会制民主主義が導入された。その

理由は多岐にわたる。ポルトガルとギリシャでは、独裁政権の外交上の失敗が重要な役割

を演じた。すなわち、ポルトガルのアフリカでの植民地戦争の失敗とギリシャのキプロス

併合の失敗である。スペインの場合、独裁の終焉は独裁者の死と国王の人柄にかかわると

ころが大きかったが、工業化と観光によるスペインの経済的近代化にも関係があった。そ

れらによってスペインの人々の間に期待が生まれたが、それはフランコ独裁体制とは相容

れなかった。

そのうえ、スペインでは、またギリシャでも、内戦との時間的な隔たりが大きくなるとと

もに、民主主義的な政治的和解への信頼が高まった。さらにこれら三つの国すべてにおい

て、1950年代以降の大量の移民を通じた、豊かで民主的なヨーロッパの工業諸国との密接

な結合が独裁体制の没落に寄与した。ヨーロッパのリベラルで豊かな社会での経験を持っ

た移民の帰省や再移住が、南ヨーロッパの独裁体制の受容基盤を掘り崩すことを助けた。

独裁体制から民主主義への微妙な過渡期に左右の反民主主義諸勢力がクーデターを企て権

力の奪取を試みたが、三つのすべての場合に、最後には西ヨーロッパの民主主義体制によ

る市民社会的、国家的な支援が重要な役割を果たした。南ヨーロッパにおける独裁体制の

終焉はたんなる地域的な出来事にはとどまらなかった。それはヨーロッパ全体に対するシ

グナルの意味も持っていた。それは西ヨーロッパ民主主義体制の、少なくとも自らの大陸

での貫徹可能性を合図するものであった。

そのうえ、既存の西ヨーロッパの民主主義体制も変化した。繁栄期とは異なり、社会運動

のなかで、労働組合はもはやそれほど明白に支配的ではなかった。1970 年代と 1980 年代

は、むしろ新しい諸社会運動の全盛期であった。それらは政治的世論をかき立て、政府に

圧力をかけ、政党システムさえも変化させ、それから 1990年代に再び弱体化した。新しい

社会運動は目標設定や抗議の方法、担い手となったグループにおいて、世代・性別の構成

において、そして東と西の間で異なっていた。

1960年代後半の学生運動の後、多数の市民運動や国際的なネットワークが出現したが、と

りわけ五つの新しい社会運動が現れた。政治的な地域・ ・

運動・ ・

はすでに 1960年代に現れ、その

後も局地的な運動にとどまっていたが、国際的に結びつくようになった。この運動は、西

ヨーロッパだけのことだったが、地域の自治を公然と要求することができた。それに対し

て、東ヨーロッパでは、それはむしろ地域的アイデンティティの強化のなかに現れた。と

いうのは、自立的な社会運動は政府によって認められなかったからである。

長期的な観点から見れば成功した新しい女性・ ・

運動・ ・

は、男女同権に向けた女性のさらなる権

利保障のための政治的諸決定だけでなく、価値観念、心性、生活様式における性別役割の

変化をも促した。それゆえ、この運動は政治的な異議申し立てのほかに、とりわけグルー

プ会合、映画や文学、新聞雑誌、女性向けの書店やカフェ、自助を通じた自己経験を拠り

所とし、さらに学問的な女性研究にも依拠した。1970年代初期以降、長期的には同じよう

に成功した新しい環境・ ・

運動・ ・

は、一方では覚書やマニフェスト、議会への請願書、専門家の

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報告書、そして学問的分析といった古典的な政治的諸手段によって活動し、他方では、い

くつもの小グループやグリーンピースやロビン・ウッドのような影響力のある国際機関に

よる、メディア効果を持ったイベントや演出で活動を展開した。

これらよりもその影響力の点で限定的であった 1980年代初期以降の平和・ ・

運動・ ・

は、著しく国

際的になり、特に大規模なデモや集会、さらには覚書や報告書、そして独自のシンボルに

依拠した。最後に、東ヨーロッパにおいて同様に 1970 年代に反体制・ ・ ・

運動・ ・

が現れ、1980 年

代に拡大した。この運動は市民権・人権の保障や平和の確保、環境保護といった諸目標に

おいては、たしかに西ヨーロッパの社会運動と基本的に違いがなかったが、共産主義独裁

体制の極端に困難な諸条件の下で行動した。反体制運動は東ヨーロッパでは公式な世論と

しては認められず、それゆえ地下や西ヨーロッパの世論に支えられていた。

Abb. 3. ムートランゲンの中距離ミサイル反対デモでのハインリヒ・ベル、1983年

同時に、古典的な政治的諸環境も変化した。これは繁栄期にはたいていはまだほとんど

無傷であった。古典的政治環境はふつうはその構成員に生涯の忠誠を期待し、彼らを多様

な地域的な団体や祝祭、ネットワーク、そして社会的儀礼の中で結びつけていた。それら

は独自の新聞を持ち、個人的な苦境においてしばしば支援や保証を提供し、それと引きか

えにその政治環境の社会的・政治的な指導的人物への支持を、とりわけ選挙の際に期待し

た。もちろん、それを理想化してはならない。それらは内部の対立を調停するための独自

の方法を備えていた。さらに、そうした政治環境は個人の社会的・政治的な選択の幅を著

しく縮めた。そのうえ、それらは民主主義における政治過程の根本的な諸要素、政治的妥

協の発見や安定した議会主義的連合政権の形成を困難にした。

だが、この政治的諸環境の存在によって、ふつうは政治選挙の予測可能性が高かった。政

治的環境は 19世紀に政治的な大衆動員によって次第に生まれたものだが、二つの世界大戦

の政治的大変革を相当程度に乗り越えた。しかし、教育の向上や広範囲にわたる福祉国家

の保障、新しいメディアへのアクセス、そして人々の空間的な移動が増加したこと、これ

らによって政治的諸環境は、1970 年代と 1980 年代に著しくその結合力を喪失した。若い

成年層はいまや前よりも容易に、彼らの両親の政治環境から離れた。学生運動はかなりの

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部分、そのメンバーと彼らの家庭の昔からの政治環境との断絶に基づいていた。

とりわけ選挙の際には、このような政治環境との結びつきの弱まりがはっきり確認でき

るようになり、同時代人の観察者によっても正確に記録された。浮動的な有権者、すなわ

ち、環境所属を通じて生涯にわたって既存政党に結びつくということがなく、むしろ選挙

ごとに投票行動を新しく決め、しかもしばしば選挙の直前まで未決定だという有権者、こ

の割合が、女性でも男性でも著しく増大した。それゆえ、選挙闘争が変化した。投票者の

環境所属を確かめるための確認選挙という性格は弱まり、票を獲得するために目標を掲げ

た選挙公約や候補者の個人的魅力の発揮による宣伝の選挙闘争という性格が強まった。

政治的諸環境のこうした弛緩は、結果として政党システムや政治的世論の幅広い多様性

をもたらしたが、そのあり方はもちろん国ごとに大きく異なっていた。政党システムがほ

とんど変化しなかったイギリスにおいては、その影響は最も少なかった。大部分の大陸の

民主主義諸国においては、その影響は比較的大きかった。新たな諸政党が現れ、たとえば

左側のスペクトルでは緑の党やその他の諸政党が、しかし他方では右翼急進的な諸政党も

出現した。政党のスペクトルはどこでも非常に多様化し、それによって組閣は非常に複雑

化した。

さらなる変化は、繁栄期に専門家や学者が手にしていた政治的権威の低下であった。政

治的な諸決定のための学問的予測とそれにともなう調査研究は相変わらず重要であったが、

政治は専門家や学者の勧告をあまり尊重しなくなった。オイルショックのような専門家が

予見しなかった出来事、経済循環の操作可能性についての景気専門家の判断の誤り、研究・

開発のセンセーショナルで致命的な失敗―たとえば、1950年代にコンテルガーン睡眠薬の

導入が多数の新生児に奇形をもたらしたこと―、そしていく人もの学者が利害政治に密接

な結びつきを持っていたことも、専門家や学者の政治的な栄光を損なわせた。

暴力

この時代のその他の重要な政治的変化は、ヨーロッパ人の暴力に対する考え方に見られ

た。この展開は矛盾を含んでいた。一方では、1970年代初期にポルトガル植民地モザンビ

ーク、アンゴラ、ギニアビサウの独立によって最後の植民地戦争が、それと同時にヨーロ

ッパの対外関係上の軍事力の投入が終結させられた―ただし、1982年のイギリスのアルゼ

ンチンとのフォークランド戦争を例外として度外視すればであるが。ヨーロッパ人の中で

は―国連憲章と合致して―、戦争は外交的利害の追求の正当な形態としてはますます拒否

された。人権とそれにともなう国家的・私的な暴力からの保護が、1970年代以降、西ヨー

ロッパの外交政策の、またヨーロッパ共同体のそれの、重要な要素となった。第二次世界

大戦の恐怖、さらには超大国間の核戦争におけるヨーロッパの大部分の完全な破壊に対す

る不安が、その効果を表した。そのうえ、自分たち市民に対する国家の暴力行使の最も極

端な形態としての死刑が廃止されることが、1980年代までにますます頻繁になった。ヨー

ロッパ評議会は 1983年に、ヨーロッパ人権条約の議定書において平和な時代における死刑

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の廃止を決議し、それによって、加盟国がこの議定書に署名し、少なくともこれ以上死刑

を執行しないことを実現した。東側ヨーロッパでも 1970年代と 1980年代には、スターリ

ン主義的な極端な暴力、無数の人間の殺害と数百万の人間のソ連の巨大なグラーグへの連

行が、過ぎ去った歴史になってしまっただけではなかった。ポスト・スターリン主義の自

らの市民に対する暴力、すなわち 1953年の東ドイツ、1956年のハンガリー、1968年のチ

ェコスロヴァキアでの暴動の際のデモに対する暴力的な鎮圧も、1970 年代と 1980 年代に

は繰り返されなかった。たとえワルシャワ条約機構加盟諸国のソ連路線からの逸脱の際に

行われた軍事的介入のブレジネフ・ドクトリンが存続していたとしても、さらには、東側

ヨーロッパの人々が秘密情報機関によって引き続き厳しく監視され、そして激しい嫌がら

せがなされたとしても、またその際に個々人に対して暴力が行使され続けたとしても、そ

して、ポーランドでは何千人もの逮捕を伴う戒厳令の布告があったとしても、である。

他方、西側ヨーロッパにおいては、1970年代の間、国内の紛争での暴力行使が、四つの国

において一時的に増加した。西ドイツでは「赤軍派(RAF.)」の左翼テロによって 60 人以

上が死んだ。イタリアでは「赤い旅団....

」の左翼テロによって 400人以上が犠牲者となった。

イギリスでは北アイルランド紛争においてこれまでに合わせて 3,000 人以上の死者を出し

ており、スペインでは「バスク祖国と自由(ETA)」によって 800人以上の死者を出してい

る。それゆえかなり多くの歴史家が、1970年代を第二次世界大戦以来のヨーロッパにおけ

る最も恐ろしい 10年と呼んでいる。

政治的危機と弱い国家

東側ヨーロッパでも西側ヨーロッパでも、国家はこの時期に信用喪失の危機に陥った。

政治エリートに対する批判が高まった。世論調査は多くの西ヨーロッパ諸国において、狭

い意味での政府に対する信用だけでなく、議会や裁判所、警察、軍隊といったその他の政

治諸機関、およびメディアや労働組合に対する信用も低下したことを示していた。東側ヨ

ーロッパにおいては、1970年代以降、反体制運動が強まった。チェコスロヴァキアでの憲

章 77、ポーランドでの「労働者防衛委員会(KOR)」、後には数百万人の加盟者を擁した対

抗的労働組合・連帯、東ドイツからのヴォルフ・ビーアマンの 1976年の追放を契機とする

若干の知識人の抗議、1980年代後半の東ドイツでの抗議運動といったものである。

政治エリートへの批判の増大や市民参加が一層強まったこと、そして政党の多様化、しか

しとりわけ新たなテロの暴力への反応として、経済的困難と政治的緊張状態の時期におけ

る国家の機能不全や民主主義の新たな危機に対する不安が現れた。政治的世論のかなりの

部分が、第二次世界大戦後に生まれ、1950 年代と 1960 年代の繁栄期には安定していた、

いわゆるヨーロッパの晴天民主主義が、経済的・政治的に困難な時期をもはたして乗り越

えることができるのかどうかについて疑念を抱いていた。

国家の機能不全に対する不安がさらに強まったのは、国家が公共の場において物理的な存

在感を多方面で減少させたからである。警察官の近隣地域への徒歩パトロールがしばしば

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取りやめられた。郵便配達人は路上での国家のもう一つのシンボルであった―郵便局が公

営であった限りで―が、一日の間にもはや二度も三度も現れることはなくなり、一度きり

になった。国からの毎月の年金が郵便局で局員から支払われることはますますまれになり、

その代わりに銀行から振り込まれるようになった。電信会社、郊外や小さな町の駅、そし

て郵便局の支所のような、国家の存在を感じさせる場所が、しばしば合理化によって整理

された。地方では多くの国立学校や市町村役場が閉鎖され、地域の中心の学校や中央集権

化された行政機関によって代わられた。国家権力を印象的に代表するように作られた 19世

紀の建築物も、全く控えめな、純粋に機能的な建築物に代えられ、民間の建物と区別がつ

かなくなった。ヨーロッパの国家が公共空間から後退して行くこうした傾向を、少なから

ぬ歴史家が「脱領域化」と呼んでいる。西ヨーロッパの国家は国民総生産の配分にはます

ます大きく関与していたが、同時に、公共空間においてはますます目に見えない存在とな

った。

国家の弱さ対する不安は、グローバル化によってさらにかき立てられた。とりわけ、年

間売上高がしばしばヨーロッパの小さな国々の国家予算よりもはるかに大きく、各国政府

と租税優遇や誘致条件について交渉できた国際的な企業に対しては、国民国家の交渉力が

ひどく弱まったように思われた。国民国家の決定権はエネルギー問題や環境問題の国際性、

さらにはいくつもの流行病の国際性に直面して疑問視されることになった。たとえば、1986

年のウクライナ・チェルノブイリにおける原子力発電所でのメルトダウンのような核エネ

ルギー事故による被害に対しては、世界的な石油価格の上昇に対して、あるいは、たとえ

ば 1977年/78年のロシア・インフルエンザや 1980年代以降のエイズの蔓延のような世界

的流行病に対してと同様に、個々の国家はほとんど成果を挙げることができなかった。さ

らには、グローバル化とともに深刻化した国際的な人身売買や国際的な麻薬・資金洗浄の

犯罪集団に対しても、ヨーロッパの古典的な国民国家は弱体であると思われた。

冷戦

1970 年代と 1980 年代は、全体としてはどちらかと言えば冷戦における緊張緩和の時期

であった。もっとも、この緊張緩和状態は 1979年から、二つの超大国の間の 5年以上にお

よぶ再度の激しい緊張により中断された。緊張緩和の時期¥の始まりは、軍拡競争の実質

的な制限をもたらした二つの条約によって告げられた。すなわち、ミサイル防衛システム

の制限のための 1972 年の ABM 条約と、とりわけ大陸間ミサイルの制限に関する SALT-

Ⅰ条約である。その年のうちにヨーロッパにとって特に重要な移動式ミサイルシステムの

制限についての交渉が始まった。ただ、これに関する条約の締結はようやく 1979年に実現

されるべきものとされた。それに対して、ヨーロッパにおける兵力削減についての交渉は

成果がないままであった。

同時に、1972年にはヨーロッパにおける安全と協力についての多国間交渉が始まった。こ

れには二つの超大国の他、トルコを含むすべてのヨーロッパ諸国が、さらには NATO 加盟

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国のカナダも、参加していた。多国間交渉は 1975 年のヘルシンキ宣言でもって終わった。

これは三つの部分(いわゆるバスケット)から構成されていた。第一バスケットは信頼醸

成措置、とりわけ相互の内政不干渉や、特にソ連にとって重要だった領土不可侵の尊重に

関するものであった。第二バスケットは経済的・科学的な協力についての取り決めを含ん

でおり、第三バスケットはヨーロッパにおける人々の移動のさらなる自由や人権遵守のさ

らなる改善についての規定を含んでいた。このバスケットは、東側ヨーロッパにおいて反

体制者たちがこれを引き合いに出すことができたために、1970 年代後半から 1980 年代に

かけて、きわめて重要なものとなった。こうした国際的なヨーロッパの緊張緩和政策は、

西ドイツの緊張緩和政策―すなわち、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の東方政策、1970年

から 1973年にかけて西ドイツがソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキアの間で

結んだ諸条約―によって、全く決定的に促進された。

この緊張緩和期は二つの展開によって中断した。1979年のソ連のアフガニスタンへの進駐

はアメリカ合衆国の対抗措置を引き起こした。アメリカはアフガニスタンのムスリム・ム

ジャーヒディーンを、とりわけ武器提供によって援助した。こうして一種の代理戦争が展

開した。その中でアメリカ合衆国はパキスタンやサウジアラビアの支援を得て相当な成果

を上げた―もっとも、この紛争はヨーロッパにはほんのわずかしか関係しなかったが―。

そのうえ、ソ連はさらにヨーロッパの東部においても、SS-20型の新たな中距離核ミサイル

を配備したが、それはもっぱらヨーロッパに限定された核戦争の可能性を生み出したこと

で、とりわけ西ヨーロッパの人々に脅威を与えた。それまで熱い核戦争が抑制されていた

決定的な理由、すなわち、二つの超大国自身・ ・

の・

領土に確実にもたらされる壊滅的な損害の

予測が、ヨーロッパを犠牲にする中距離核ミサイルによって有効に働かなくなるという脅

威があった。

そこから、西ヨーロッパ諸政権の、とりわけヘルムート・シュミット首相とハンス‐ディ

ートリッヒ・ゲンシャー外相の下でのドイツ連邦共和国政府の影響力の下で、1979年のい

わゆる NATO 二重決定によってアメリカ合衆国とソ連との間での新たな軍拡競争が生まれ

た。この決定はソ連に対して中距離核ミサイル制限についての交渉を要請した。交渉によ

って解決に至らない場合、アメリカの中距離核ミサイル・パーシングⅡの、さらには新し

い、レーダースクリーンで捉えることが非常に困難な巡航核ミサイルの中央ヨーロッパへ

の配備が通告された。そのうえ、アメリカのレーガン政権は 1983年に、発射されたソ連の

ミサイルを宇宙空間で撃墜することを目的とした「戦略防衛構想(SDI)」プロジェクト―

最終的には実現されなかったが―を計画した。アメリカ合衆国とソ連の間での軍縮交渉は、

1980年代初期に打ち切られた。

この新たな軍拡競争は西側ヨーロッパの人々と、さらには東側ヨーロッパの人々のなか

にも、熱い核戦争の多大な恐怖を生み出した。それゆえ、西側の平和運動と東側の平和グ

ループに莫大な数の人々が殺到した。1981年から 1983年にかけてのオランダ、ベルギー、

西ドイツでの大規模な平和デモには、そのつど数十万人の参加者が馳せ参じた。東側ヨー

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ロッパには多数の平和グループが出現した。これらは共産主義体制の公式の平和プロパガ

ンダとは異なる路線を追求し、ソ連の国家元首フルシチョフから国連に贈られた彫像、ソ

連の彫刻家イェヴゲニ・ヴッチェティチュ(Jewgeni Wutschetitsch)の「剣を鋤に」に、

新たな解釈を施した。1950年代とは異なって、1980年代初期の軍拡競争はヨーロッパ人の

抵抗に遭遇した。それは一部には 1970年代の緊張緩和政策が大きな期待を生み出し、その

期待が裏切られるのをよしとしなかったからであり、また一部にはアメリカ合衆国のベト

ナム戦争と 1968年のワルシャワ条約機構のプラハへの進駐が、ヨーロッパ人のなかに軍事

行動に対する多大な不信感を生み出していたからであった。

その後に再開された緊張緩和政策は、ソ連共産党の新書記長ミハイル・ゴルバチョフの

政策と密接に結びついていた。ゴルバチョフは 1985年の権力掌握後ただちに、軍備管理の

会談を再開した。もっとも、すでに 1984 年/85 年に、アメリカ合衆国の側からもこの会

談の実現が目指されていた。アメリカ大統領ロナルド・レーガンとゴルバチョフとの間で

の 1986年のアイスランド・レイキャビクでの会談に際して、そしてそれに続く「中距離核

戦力全廃条約(INF条約)」において、ヨーロッパからあらゆる中距離ミサイルを撤退する

ことが合意された。軍備支出によるソ連国家予算の完全な過剰負担は、ソ連の軍備縮小政

策の決定的な要因であった。ソ連の軍事支出はほとんどアメリカ合衆国のそれと並ぶくら

いの高額であった。しかしながら、アメリカ合衆国と比較してはるかに弱体なソ連経済に

よっては、この費用をいつまでも負担することはできなかった。ゴルバチョフは軍備縮小

政策によって、同時に近代化を達成し、社会主義のより大きな求心力を獲得しようとした。

ヨーロッパ統合

繁栄期の終わりに、1969年の国家・政府首脳のハーグ・サミットが希望に満ちた新たな

始まりを約束したが、その後、ヨーロッパ共同体は 10年以上もの長い停滞期に陥った。と

いっても、わずかとはいえ、またしばしば過小評価されたのではあるが、改革への萌芽も

みられた。1980年代後半になってようやく、ヨーロッパ共同体は新たな旅立ちに成功した。

これは、われわれが取り扱う時期をはるかに越えて持続した。ハーグ・サミットは仏独主

導の下で、特に三つの大きな改革プロジェクトを提示した。これらが 1973年からの時期の

指針となった。三つとは、ヨーロッパ政治連合、ヨーロッパ経済・通貨連合、そして、裕

福なヨーロッパ北部へのヨーロッパ共同体の地理的拡大であった。

ヨーロッパ政治連合のプロジェクト、すなわち政治的協力の深化については、ベルギー

首相レオ・ティンデマンスが 1974 年に、1970 年の慎重なダヴィニョン報告よりも著しく

先に進んだ野心的な報告書を発表した(第四章参照)。ティンデマンスは議員の直接選挙に

よる欧州議会の影響力の拡大、閣僚理事会における多数決制、欧州委員会の影響力拡大、

通貨問題やエネルギー、対外安全保障における共同体の権限の拡大を提案した。彼の提案

のうち二つだけはその後の 1970 年代の経過のなかで実行に移された。1975 年には欧州理

事会、すなわち国家元首・政府首脳の定期的な会合が、ヨーロッパ共同体の新たな中心的

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な決定中枢として創設された。さらに 1979年には直接選挙が欧州議会に導入され、それに

よって議会の評価が高まった。議会の代表たちはもはや各国の議会によって派遣されるの

ではなく、むしろ並行して行われる全ヨーロッパ的な選挙において直接的に選ばれた。ヨ

ーロッパ人の有権者のおよそ三分の二が、1979年のこの選挙に参加した。それはその後の

どの選挙より高い投票率だった。

ヨーロッパ経済・通貨連合のプロジェクトは、ルクセンブルク首相ピエール・ヴェルナ

ーの野心的なプロジェクトが挫折した後、1970年代のグローバルな通貨動乱のなかで大幅

に力を失っていた。それでも 1979年には、ヨーロッパ共同体のイギリスを除く全ての加盟

国が、仏独主導の下で、ヨーロッパの通貨システムのために連携し、加盟国の通貨の間で

の相場を狭い変動幅に制限し、それによって通貨安定の地域的ゾーンを整えた。たしかに、

このヨーロッパの通貨システムはまだ共通通貨を創り出してはいなかった。しかし、それ

にもかかわらず、諸国民国家の通貨・経済政策のゆっくりとした自発的な接近をもたらし

た―ただし、並はずれて強大な、次第に批判を受けるようになったドイツ・ブンデスバン

クの優位の下で。

ヨーロッパ共同体の北部への拡大も、1969年のハーグ・サミットで予期されていた以上

に困難であることがわかった。交渉は 1973年にイギリス、アイルランド、デンマークにつ

いてのみ加盟を実現した。ノルウェーは 1971 年に国民投票によって加盟条約を拒否した。

それに加えて、イギリス加盟後、ウィルソンとサッチャーのイギリス政府が、共同体への

イギリスの財政分担について追加交渉で繰り返し困難な問題を提起し、それによってヨー

ロッパの将来計画を背後に追いやってしまった。ヨーロッパ共同体の南部への拡大―これ

は 1973年から 1975年にかけてのギリシャ、スペイン、ポルトガルの独裁体制の崩壊以降

に展望が開けたのだが―も、ゆっくりとしか前進しなかった。1980年代半ば以降のヨーロ

ッパ統合の新たな飛躍の前には、ギリシャだけが 1981年に加盟国として共同体に受け入れ

られた。

こうしたヨーロッパ統合の停滞、ハーグ・サミットの大構想からの転落―それは時には

「重苦しい年月」とか「ユーロ硬化症」の時期と呼ばれ、あるいはオランダ外相ヴァン・

デア・シュテールにならって「停止、後退、逃避」の時期とも呼ばれたがii―、その理由は

何であったのか?1970年代のオイルショックとブレトンウッズ通貨体制の終焉に対する反

応のなかで生まれた国民国家間の経済政策の溝は、当初、共通の経済・通貨連合のために

不可避な妥協にとってあまりにも深すぎた。ブレトンウッズ体制終焉後のグローバルな通

貨体制に対するヨーロッパの共同責任の意識は、まだ十分には成長していなかった。その

うえ、経済成長率の低下が多数の政府の選択肢を狭めた。また、ヨーロッパ共同体は、グ

ローバルな紛争と緊張緩和政策では権限を有していなかったので、それらのアクターでも

なかった。

1980年代半ばにようやく、ヨーロッパ統合の新たな飛躍が始まった。1986年のルクセン

ブルクでのサミットに備えて、フランス、ドイツ、イタリアのイニシアティヴによって採

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択された単一欧州議定書は、1957年のローマ条約の最初の重要な修正であり、とりわけ四

つの大きな変化をもたらした。単一欧州議定書は、最終的なヨーロッパ経済圏の実現のた

めに 1992年 12月 31日という目標の日付を設定し、経済・通貨連合の目標をもう一度確認

した。それはヨーロッパ共同体に、環境政策、研究政策、技術政策、社会政策といった経

済的に重要な諸分野においてより多くの権限を付与した。それは閣僚理事会における多数

決制の適用を拡大し、欧州議会により大きな立法権限を与えた。といっても、欧州議会に

は欧州委員会の任命権限は引き続き与えられなかった。

特に重要になったのは域内市場と通貨連合のプロジェクトで、これは 1985年に欧州委員

会の委員長に任命されたジャック・ドロールによって主導された。域内市場プロジェクト

は国民国家による数多くの経済的障害を除去することを通じて商品、サービス、人と資本

のための共通市場を目指すべきものとされた。この域内市場プロジェクトは、国家介入で

はなくてむしろ国家的な障壁の解体が、すなわち自由化と規制緩和が、成長の決定的な刺

激剤と見なされていた時代に適合していた。

しかしながら、ドロールは―単一議定書に予定されていたように―通貨連合の建設のた

めの新たなイニシアティヴも発揮した。彼の指導下の専門家委員会によって、1989年に新

たな日程表が詳しく定められた。それは諸通貨を調和させることから始め、欧州中央銀行

の設立を経て、共通通貨の創設にまで導くものとされた。この計画は 1989年 6月、すなわ

ちベルリンの壁崩壊の 5カ月前に、マドリッドのサミットで採択された。

ヨーロッパ共同体の南への拡大の完了も、西ヨーロッパの統合の飛躍的発展の合図とな

った。これは北への拡大のように裕福な国々―アイルランドは例外であるが―への拡大で

はなく、比較的貧しい南ヨーロッパ諸国への拡大であった。これらの諸国が共通の経済圏

における競争の圧力に耐えるためには、共同体のはるかに強力な金融上の連帯が必要だっ

た。それだけに南への拡大は困難であった。しかし同時に、南への拡大は、ヨーロッパ共

同体にとって特別な成果でもあった。なぜなら、南の三つの国において、独裁体制の崩壊

後に共同体の圧力もあって民主主義体制が導入されたからである。ヨーロッパ共同体の政

策は、NATO とは違って、のちには欧州評議会とも異なって、民主主義国家だけを加盟国

として受け入れるというものだったが、その政策が貫徹可能であり、民主化への最も効果

的な刺激であることが証明された。

このヨーロッパ統合の新たな高揚の結果として、市民のヨーロッパ共同体への支持も増

大した。1970年代以降、欧州委員会の「ユーロバロメーター」の委託により実施された世

論調査によれば、ヨーロッパ共同体においてそれを良いものであると考える市民の割合は、

1980年の約 50%から 1990年の約 70%に増加した。1980年にはまだ回答者のおよそ 20%

がそれを悪いものと考えていたが、1990 年にはわずかにおよそ 5%だけになっていた。欧

州選挙への参加は、1989年には投票率 63%で、現在と比較して高い状態を保っていた。ヨ

ーロッパレベルの連盟やネットワーク―それらはたいていは国民国家的・地域的な諸組織

のヨーロッパ的な連合ないし枠組みであったが―の数は、1970 年代と 1980 年代に著しく

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増加した。

このことと関連した新たな飛躍の要素は、ヨーロッパ共同体の政治問題化であり、ヨー

ロッパ統合の反対者並びに支持者による、また、知識人や政治学者、法律家、経済学者の

ヨーロッパの専門家ネットワークによる、ヨーロッパ共同体の政策についての次第に活発

化した公的論争であった。たしかに、ヨーロッパ・メディアは生まれなかったが、各国の

メディアで、今や同じような時期に同様の重要性をもって、国際的なネットワーク化の一

層の緊密化のなかでヨーロッパ政治について報道がなされた。こうした政治問題化の諸理

由は、つぎのようなものであった。すなわち、欧州議会への直接選挙の導入、ヨーロッパ

共同体の権限拡大、特に域内市場と通貨連合のプロジェクトをともなう単一欧州議定書に

よるヨーロッパ諸条約の改革、さらにまたヨーロッパ共同体の地理的拡大、様々な論議を

呼んだ新たな加盟国の参加、そしてそれに付随した、激しく議論され公衆を動員して行わ

れた国民投票、そして欧州委員会がとりわけ政治学、経済学、法学からのヨーロッパ鑑定

をますます必要としたことであった。

こうした政治問題化に直面して、ヨーロッパ共同体においては、根本的なヨーロッパの

諸決定がもはやもっぱら閉ざされたドアの向こう側で会議を開く諸政府、諸利益グループ

や専門家たちだけによって下されることはありえず、むしろ市民も共同体に含めなければ

ならないという認識が次第に広く受け入れられた。それゆえ、ヨーロッパ共同体は 1980年

代以降、ヨーロッパ市民を共同体にしっかりと結びつけるための政策を発展させた。ヨー

ロッパ共同体は、ヨーロッパのシンボル、すなわちヨーロッパの旗、ヨーロッパの歌、そ

してヨーロッパの旅券を新しく考案した。それに加えてヨーロッパ文化政策をスタートさ

せ、ヨーロッパ・メディアの設立―もっとも、成果はほとんど挙がらなかったが―を試み

た。さらに、共同体は「社会的ヨーロッパ」を発展させた。すなわち、共同体内部の移民

に対してそれぞれの国の社会国家を開放し、ヨーロッパ憲章における被雇用者の諸権利を

1989年の被雇用者のために保障した。欧州議会の直接選挙やこの議会の漸次的な権限拡大

も、このような政策の枠内にあった。

ヨーロッパ統合のこうした新たな躍進はどのようにして達成されたのか?西ヨーロッパ

経済がダイナミックなアメリカ合衆国と日本の後塵を拝するという差し迫った危機が交渉

を促した。これは共同体に対する財政負担についてのイギリスとの困難な追加交渉におけ

る妥協と、ヨーロッパ農業市場の改革によって容易にされた。そのうえ、このヨーロッパ・

プロジェクトは 1980年代半ば以降の新たな緊張緩和政策によって、再び以前より政治的な

緊急性を獲得した。それはもはや、しばしば冷戦の緊張期にそうであったように意識の周

辺に押しやられることはなかった。さらには、世論と欧州議会の圧力も強まった。欧州議

会は 1984年にヨーロッパ連合のプロジェクトを議決し、それで政府首脳に圧力をかけるこ

とによってイニシアティヴを発揮した機関であった。最後に、実績で人気のある政治家が

決定権を有する地位を占めていた。ダイナミックで創意に満ちたジャック・ドロールが 10

年間にわたって欧州委員会の委員長であり、ヨーロッパの世論と諸政府をヨーロッパ・プ

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ロジェクトに向けて動員すべきことを心得ていた。フランス大統領フランソワ・ミッテラ

ンとドイツ連邦首相ヘルムート・コールは、ヨーロッパ・プロジェクト貫徹のために緊密

に協力し、摩擦が無いということはなかったが、状況の強制を洞察して頻繁に会談した。

全体としてみれば、1970 年代と 1980 年代は、数多くの共通のヨーロッパの発展―もちろ

んそれらに対してヨーロッパ内部での深刻な相違もあるにはあったが―をともなった際立

った独特な時期であった。経済においては、1973年のオイルショック、西側ヨーロッパの

経済成長率の激しい下落、東側ヨーロッパの消費財の欠乏、これらは新たな時代を予告し

た。この新たな時代は、西側ヨーロッパにおいてはさらに、工業社会からサービス社会へ

の移行によって、マネタリズムの構想の新たな優位、各国内での規制緩和、しかしヨーロ

ッパ・レヴェルでの再規制によって、そして東側ヨーロッパにおいては、投資の抑制によ

る生活水準の保障にこれまで以上に高い優先度を置く対抗綱領によって、最後にはグロー

バル化の新たな躍進によっても特徴づけられていた。

社会的な新しい時代は、東側ヨーロッパでも西側ヨーロッパでも、1960年代末期以降の

抗議運動によって、また、エネルギー不足や環境破壊、新しい都市の不毛性や新たな流行

病に直面して、際限のない成長や裕福といった楽観的な将来予想が終わりを迎えたことに

よって予告された。都市、社会保障、教育、人生経歴についての上からの統一的な計画に

対して、とりわけ西側ヨーロッパでは人生選択の多様性に新たな高い価値が置かれるよう

になったが、東側ヨーロッパでも国家に対抗する人生設計の自律化が一層強化された。

文化においては、テレビやラジオの民営化、メディアの国際化、ポストモダンとポップア

ート、さらには国際的な文化フェスティバルの拡大とヨーロッパ文化政策が、たしかにも

っぱら、あるいは主として西側ヨーロッパにおいてであったが展開した。だが、東西ヨー

ロッパの間での文化交流は、文化的領域においては一層親密になった。ヨーロッパについ

て 1980年代には論争が起きたが、東と西のヨーロッパの知識人や専門家たちが同じように

これに加わった。

1970年代は西ヨーロッパのいくつかの国においてはテロ暴力の 10年であったと同時に、

南ヨーロッパでは独裁制の終焉という予期しなかった驚くべき民主化の 10 年でもあった。

だが、東側ヨーロッパでも西側ヨーロッパでも、経済的な諸困難によって、抗議運動によ

って、エリートや上からの計画に対する新たな不信感によって、さらには超大国に対する

不信感、すなわちベトナム戦争によるアメリカ合衆国に対する不信感と、プラハ進駐およ

びその後のアフガニスタン戦争によるソ連に対する不信感によって、国家は激しい挑戦に

晒された。国家の政治的圧力はいたるところで増大した。ただし、西側では緊急事態の規

定と監視に限定され、民主主義の実際の弱体化はなかったが、東側ヨーロッパではそれと

は逆に、政治的自由化の撤回や以前より厳しい政治的抑圧や人権の制限から、広範に抗議

が巻き起こった国ポーランドにおける戒厳令布告に至るものまであった。

さらには、1970年代の間に超大国のグローバルな軍備縮小交渉に加えて、ヨーロッパ独

自の緊張緩和政策のフォーラム、全欧安全保障協力会議(KSZE)が生まれ、多大な影響力

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を持つヘルシンキ宣言が出された。ヨーロッパ統合、1970年代初期のその大規模な構想と

1980年代半ば以降のその新たな躍進、またその地理的拡大も、たしかに、さしあたりは西

側ヨーロッパにおいてのみ影響を及ぼした。しかしながら、後の全ヨーロッパの連合のた

めの重要な前提諸条件がそれによってすでにつくり出されていたのである。

1970 年代からヨーロッパの歴史の新たな時代が始まったことは、歴史家の間で議論の余

地がない。それに反して、この時代の評価については論争がある。相当数の歴史家がこれ

をむしろ没落の時代とみなしている。すなわち、繁栄期の終焉、大量失業と新たな貧困の

始まり、将来に対する楽観や確信の消失、福祉国家や都市計画の危機、テロリズムと国家

の監視の拡大、啓蒙主義や合理性への批判、緊張緩和の希望が裏切られたこと、そしてヨ

ーロッパ統合の封鎖と硬化、このような時代と見なしている。

その他の歴史家はこれをむしろポジティヴな時期と見なしている。すなわち、正常な経

済成長への復帰、エネルギー節約的な態度、環境保護や都市の生活の質、そして健康に対

する感受性の高まり、順応への圧力の減少と人生の選択肢の拡大、新たな民主化とテロリ

ズムに対する民主主義諸国家の能力証明、緊張緩和とヨーロッパ統合の新たなチャンス、

そしてゆっくりとしたソ連モデルの挫折、このような時期と見なしている。

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i Jean-François Lyotard, La condition postmoderne. Rapport sur le savoir, Paris 1979.

(小林康夫訳『ポストモダンの条件』水声社、1986年) ii ゲアハルト・ブルン『ヨーロッパ統合』シュツットガルト、2002年、228ページ(Gerhard

Brunn, Die europäische Einigung, Stuttgart, 2002, S. 228.)