ヘルマン・ヘッセの『ヘルマン・dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/db...ヘルマン・ヘッセのfヘルマン・ラウシャー』について-87-...

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- 85- 人文研究 大阪市立大学文学部紀要 52 3 分冊 2000 85 ~105 ヘルマン・ヘ ッセの 『ヘルマン・ ラウシャー』について ヘ ッセの ご く初期 の作品 の一 つであ る Fヘルマ ン・ラ ウ シ ャーJ は1901 ヘ ッセ24 歳の時に,スイスのR. ライ ヒ書店か ら出版 され た。 正 確 な標 題 は rヘルマ ン・ラウシ ャーの遺稿 の文 と詩. ヘルマ ン・- ッセ編」(Hinterlassene SchriftenundGedichteDonHermannLauscher. Herausgegeben yon HeT・maTmHesse)であ る. そ して 6 年後の1907 年 ,デ ュ ッセ ル ドル フの ラ イ ンランデ書店 か ら刊行 された新版 で は書名 は単 に HermannLauscher故め られ,さらに 「ルール」 と 「眠 られぬ夜 々」 の 2 篇が新たに増補され た。 1 本作品はスイスの作家バウル・イルクの好意的な計 らいによって,かの有 名な出版者 S. フィッシャーの認 めるところとな り,やがて彼か らヘ ッセに寄 稿の依頼がなされ, 2 その結果次 の大 きな成功作 rベー ター・カーメ ンチ ント』 (1904) が 出版 され る運 び とな るので あ る。 そ うい うわ けで この作 品 はヘ ッ セの作家 と しての基盤 を形成 した もの とも言 え るので あ る。 次にヘ ッセの実生活を少 し潮 って眺め,また本作品成立当時の創作活動 に 触れてみたい。14 歳でマウルプロンの神学校に入学 したものの,思春期の内 面 の嵐 に襲 われ た彼 は学 校 か らの逃亡 ,神経衰弱 ,自殺未 遂 ,転 校 した カ ン シュタッ トの高校 か らの退学 と,まさに危機的状況 にあ った。故郷 カル フで ハ イ ン リヒ・ペ ロ ッ トの塔 の時計工場 の見習工 とな ったが , これ に もな じま ず,この時すでに18 歳 に達 して いた。 3 r 自伝 素 描J(1924)の中で彼 はその 時 の様子 を次 の よ うに書 いて い る。 「つづめて い うと, 4 年間以上,何をや ら (1093)

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人文研究 大阪市立大学文学部紀要

第52巻 第3分冊 2000年85頁~105頁

ヘルマン・ヘッセの 『ヘルマン・

ラウシャー』について

図 越 良 平

ヘッセのごく初期の作品の一つである Fヘルマン・ラウシャーJ は1901年

ヘッセ24歳の時に,スイスのR.ライヒ書店から出版された。正確な標題は

rヘルマン・ラウシャーの遺稿の文と詩.ヘルマン・-ッセ編」(Hinterlassene

SchriftenundGedichteDonHermannLauscher. Herausgegebenyon

HeT・maTmHesse)である.そして6年後の1907年,デュッセル ドルフのラ

インランデ書店から刊行された新版では書名は単に HermannLauscherと

故められ,さらに 「ルール」と 「眠 られぬ夜々」の 2篇が新たに増補され

た。1

本作品はスイスの作家バウル・イルクの好意的な計 らいによって,かの有

名な出版者S.フィッシャーの認めるところとなり,やがて彼からヘッセに寄

稿の依頼がなされ,2 その結果次の大きな成功作 rベーター・カーメンチント』

(1904)が出版される運びとなるのである。そういうわけでこの作品はヘッ

セの作家としての基盤を形成 したものとも言えるのである。

次にヘッセの実生活を少 し潮って眺め,また本作品成立当時の創作活動に

触れてみたい。14歳でマウルプロンの神学校に入学 したものの,思春期の内

面の嵐に襲われた彼は学校からの逃亡,神経衰弱,自殺未遂,転校 したカン

シュタットの高校からの退学と,まさに危機的状況にあった。故郷カルフで

ハインリヒ・ペロットの塔の時計工場の見習工となったが,これにもなじま

ず,この時すでに18歳に達 していた。3r自伝素描J(1924)の中で彼はその

時の様子を次のように書いている。「つづめていうと,4年間以上,何をやら

(1093)

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せても,私は万事失敗っづきで,どうしようもなかった。どの学校 もおいて

くれず,何の修業にも長 くしんぽうできなかった。私を役に立っ人間に しよ

うという試みは,すべて失敗に終り,しばしば不真面目と人をさわがせ,逃

走と脱線とをひきおこした。」(GS.Ⅳ.S.473)ところが彼に転機が訪れる。

すなわち,1895年10月,ヘッセ18歳の時,テユービンゲンのへッケン-ウア-

書店の店員募集に応募 し,そこの徒弟 (Buchhandlerlehrling)として採用

されたのである。4すでに13歳で詩人以外の何 ものにもなりた くないと決意

していた彼であり,また家に祖父伝来の多くの書物に恵まれて良い読書環境

にあったためであろうか,書店の実務は相当厳しいものではあったが (日に

10時間から12時間の労働),勤勉に勤務につき,その合間を縫 って読書 に没

頭 し,「厳格な自己教育」を自らに課 して彼独自の精神世界の樹立に努める

のである。5

その独学の中心はゲーテの読書であり,またレッシンダ,シラー,ギ リシ

ア神話,ウェルギ リウス,ホメロスにも取組んだ。6 さらに彼は ドイツロマン

派の作家ブレンターノ,アイヒェンドルフ,ティーク,シュライアーマッ--,

シュレ-ゲルの作品や手紙を読み,文学史の概観に努め,とりわけノヴァ-

リスに魅了された。71898年10月ヘッセは書籍販売店員 (Sortimentsgehilfe)

に昇進 し,この頃から創作活動にも携わるようになる。そしてこの年の11月

には詩集 『ロマン的な歌』(RomantischeLieder)(ドレスデ ンのE.ピールソ

ン書店),1899年 6月にはリルケが賞讃 した r真夜中過 ぎの一時間J)(Eine

StundehinterMittemacht)(ライブチッヒのオイゲン・ディーデリヒ書店)

が出版された。8

テユービンゲン時代に-ッセはまた小さな友人仲間 「小文芸サークル」

(petitc6nacle)にも加わった.へッケンハウアー書店での在職期間 (4年

間)は1899年 7月末をもって終わる。そして同年9月中旬よりスイスのバー

ゼルにあるライヒ書店に書籍販売店員として勤めることになる。9 『ヘルマン・

ラウシャー』はこの間に彼の勤務する書店から刊行されたのである。

ヘッセは幼年時代を過ごしたバーゼルの町に再び行きたいという強い希望

を持っようになっていた。それは単に過去への郷愁からではなく,新たな視

野を広げるためであった。すでに彼はスイスの画家ペックリーン (B6cklin)

を好み,また,かってバーゼルで大学教授を務めたニーチェの著作に没頭 し

ていたし,さらにはこの地の偉大な歴史家ヤーコプ・プルク-ル トの書 も読

んでいた。書店に勤めるかたわら彼は父の推薦で国立文書館員R.ヴァッカー

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ヘルマン・ヘッセの Fヘルマン・ラウシャー』について -87-

ナーゲル家を訪問し,そこで多 くの少壮学者たちと知 り合いになる。哲学者

ヨーエル (CarlJoel),美術史家ヴェルフリーン(HeinrichW61fflin),大学

教授メ-ツ (Mez),神学者ベル トレ (AlfredBertolet),歴史家- ラー

(JohannesHaller)がその人たちである。10 -万,牧師のラ・ロシュ (La

Roche)家とも交際し,そこの美 しい娘エリーザベ トは憧保の対象 として詩

に歌われ,rベーター・カーメンチント』の中では美 しく気品のある女性 とし

て登場するし,『ヘルマン・ラウシャー』でもその名がたびたび現われるよう

に,いわばヘッセの理想の女性像となっているのである。

バーゼルではヘッセは何時間も美術館で過ごすこともあり,造形美術によっ

て感覚的に美 しいものに眼を開かれることになる。11 そ して,これ と並んで

スイスで彼は美 しい自然にも親 しむようになる。 まず四林湖 (Vierwald-

StatterSee)の周辺を歩き,日曜日にはジュラ地方,シュヴァルヅヴァル ト

南部へ-イキング,夏冬の長旅ではベルン上部地方のグリンデルヴァル ト,

ゴット-ル ト峠までも足をのばす。またフイツツナウやプルンネン付近の湖

ではボー トを漕ぎ,何時問も小船の中で横になるが,この様子は 『ラウシャー』

の 「1900年の日記」にみごとに描かれている。12 ッェラーはヘッセのこうし

た体験のもつ意味について,「自然と伝統はそれ以後の生活に伴 うあの偉大

な救いとなる」13と述べている。『ヘルマン・ラウシャー』 の出版後,ヘ ッセ

は念願のイタリア旅行に出る。(1901年 3月下旬から5月中旬まで) 7月に

は徴兵検査を受けるが,強度の近視のため不合格となる。その後故郷カルフ

にしばらく滞在 し,9月 1日から14 同じくバーゼルにあるヴァッテンゲィー

ル氏の書店に勤めることになる。これは,文学的仕事をするための自由をよ

り多 く得るためであった。この書店にはすぐれた上司もおり,居心地がよかっ

たので,翌1902年 5月,ライプチヒの書籍出版博物館(Buchgewerbemuseum)

から助手の誘いがあったにもかかわらず,それを断わり,1903年春 (第 2回

イタリア旅行の前)まで,1年半の間,そこに在職 したのである。15 この間,

カール・ブッ.セの編集 によ る 『新 ドイツ拝情詩 人』 (Neue Deutsche

Lyriher)シリーズの第 3巻がヘッセの 『詩集』(Gedichte)(1902) として

出版された。これは母に捧げられたが,彼女は出版直前に病のため亡 くなっ

た。16 そしてこの後に,先に述べたS.フィッシャーか らの原稿依頼が来たの

である.『ベーター・カーメンチントJ)(1904)の大成功により,今や生活 も

安定 したヘッセは9歳年上のマリア・ベルヌーイと結婚 し,ボーデ ン湖畔の

農漁村ガイエンホ-フェンに移 り住み,創作に専念することになる。

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以上ヘッセの実生活の状況と,彼の創作活動における 『ヘルマン・ラウ

シャー』の位置づけについて概観した。後に (1934年)ヴィ-ガントはこの

作品を評 して,次のような讃辞を述べている。「もしもこの作品がすでに30

年以上前に印刷され世に出たことを知 らないならば,これは円熟したヘッセ

が虚構 したものだと思うことだろう。それほどこの作品は強く光り輝き,内

容の点で純粋で濃いものがあり,こよなく賞讃される幼年期の思い出の記に

ひけをとらないのである。」17

本作品の構成と個々の章の成立は次のようになっている。18 (ら 「初版の序

(VorwortdererstenAusgabe)」(7巻本全集版で約 2ページ),② 「私の

子供時代 (MeineKindheit)」(22ページ)(1895年末成立),③ 「11月の夜.

テユービンゲンの思い出 (DieNouembeT・naCht.EinTabingerErinnerung)

(13ページ)(1899年春或いは夏成立),④ 「ルール.ある青春の体験,E.T.A

ホフマ ンに捧 ぐ (Lulu.EinJugenderlebnis,den GedachtnisE.T.A.

Hoffmannsgeu)idmet)」(41ページ)(1900年 2月から6月にかけて成立),

⑤ 「眠 られぬ夜々 (SchlafloseNachte)」(22ページ)(1901年成立),⑥

「1900年の日記 (Tagebuch1900)」(24ページ)(1900年成立),⑦ 「最後の

請 (LetzteGedichte)」(1900年夏と秋に成立)各章の内容は,幼少年時代

の回想(②),青年時代の奔放な生活の描写(③),メルヘン風の短編(④)19,

モノローグ風の散文(⑤),青年時代の思索的な日記(⑥)そして詩であり,全

体としてバラエティーに富んだものとなっている。 しかも④では随所に詩や

歌が挿入され,彩りを添えている。分量的には新版で追加 された中間部の

「ルール」の章が最 も長いが,他の章は 「11月の夜」がやや短いはかはだい

たい同程度の長さで安定 した構成になっている。

但 し,注目すべきことは二種のヘッセ全集版 [GesammelteSchriften(1957)(7巻本),GesammelteWerhe(1970)(12巻本)]には,どういう

理由からか「最後の詩」の部分は削られてしまっている。個々の詩は,一方の

全集版 (GS.Ⅴ)の詩の巻に収められてはいるが,どの詩が本作品中のもの

であるかは判別できない。20 全集版編集の際に作者がこの部分を不要と考え

たのか,それとも単に編集者が詩を重複 して載せるのは不都合だと判断 した

のか。もし前者だとすれば,それなりの意味があるが,後者だとすれば作品

そのものが作者の意図に反したものとなり問題である。 しかし,いずれにせ

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ヘルマン・ヘッセの 『ヘルマン・ラウシャー』について -89-

よ全集版に頼って読む以上,それが決定稿と考えたい。

この作品は初版においてはいわゆる編集者虚構形式をとっている。 Ⅰで示

したやや長い標題からも明らかなように,ヘルマン・ラウシャーなる作家の

遺稿をヘルマン・ヘッセが編集・出版するという形式である。作者名を直接前

面に出さず,匿名を用いるこの種の手法は,後に,最初エーミール・シンクレー

ル作として刊行された 『デミアン』(1919),次いで無名の一市民が主人公-

リー・-ラーの残 した手記を編集 して物語る形式の 『荒野の狼』(1927),そ

して,さらにはカスターリエンの宗団の一員がやはり主人公 ヨーゼフ・クネ

ヒトに関する遠い過去の資料に基づいて物語る 『ガラス玉演戯』(1943)に見

られ,-ッセの好みの手法となっている。彼が 『ラウシャー』でこのような

手法を用いた理由は後ほど考察するとして,この 「序」はそれ自体読者を作

品の世界へ導き入れるのに重要な役割を果たしている。(全集版で も初版の

長い標題はすでになく,単に HermannLauscheT・となっているが,それで

も 「初版の序」はそのまま附されている。このことからも 「序」の重要性は

明らかである。)

「序」によると,ヘルマン・ラウシャーという名は今はじめて公にされるも

のであるが,仮名で出ている彼の作品はすでに限られた読者層にはなじみの

深いものである,とあり,語り手が冒頭のこの言葉によってまず読者にラウ

シャーの 「実在性」を信 じさせる.一方,常に憂苦な気分に陥り文学的な話

題に関 しては盛んに皮肉を発 してはまた沈黙 し,酒を浴びるほど飲んだ後,

別れてはどなく旅先で急逝するというこの一種異様な雰囲気を漂わせる人物

に読者は思わず好奇心をそそられる。さらに,主人公の,自分の匿名を守り,

すでに印刷されたものを再度公にしないようにという願いを敢えて破ってま

で発表 したという点に,是非ともこの薄命の人物の人生を語り伝えたいとい

う編者の強い意志を読者は感 じるのではないか。仮にこの 「序」がないとし

た場合,後に続 く内容・形式の異なる各章は個々に遊離 した状態となって,

読者を戸惑わせるかもしれない.そして,キーワー ドとも言うべき 「一人の

近代的な唯美主義者であり変わり者である彼 (ラウシャー)の特異な魂の記

録」(93)という言葉が大きなテーマを提示し,作品全体に統一性を与えて

いると考えられるのである。

次に語 り手の問題について考察したい。「私の子供時代」の物語 り形式は1

人称形式であり,-ルマン・ラウシャーと考えられよう。続 く 「11月の夜」

と 「ルール」は3人称形式をとっているが,いずれもラウシャーの遺稿とい

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う視点から見れば,これも一応彼が語り手となっているとみてよい。 これ ら

2つの章ではともにラウシャーが登場人物となっているが,これは語 り手が

自分をいわば客観視 しているのである。「眠られぬ夜々」と 「1900年の日記」

では,すでに述べたように前者がモノローグ的性格をもっものであり,また

日記は当然のことながら,人が直接自分の思いを表明するものであるか ら,

ラウシャーが語り手となった1人称形式である。 しかし厳密に考えれば,一

般に小説というフィクションにあっては,語り手即作者 (作家)とは必ず し

も言えないので,今の場合においても生身のラウシャーが直ちにすべての章

の語り手と(1人称形式の場合でも)みなすべきでないのかも知れない。つま

り 「作家」ラウシャー自身は背後に隠れていて,フィクションとしての語 り

手を別に立てていることも考えられるのである。

もともとヘルマン・ラウシャーが虚構の人物である上に,このような複雑

な手法を取り入れたヘッセの意図は何だったのか。1907年の新版の 「序」で

彼はこの作品の初版について,それが 「偽名を用いて,当時危機にまで高まっ

ていた自分の青年の夢想に決着をっける」ものであったことを述べ,さらに

次のように続けている。「当時私は自分が作り出し,死んだものとしたラウ

シャーとともに,私自身の夢想を,それが取り除かれたと思えるまで,葬 り

去ろうと考えた。この小著はごくわずかの部数でほとんど公にすることなく

刊行され,私の友人仲間の外に知られることはほとんどなかった。」21さらに

1941年版の 『真夜中過ぎの一時間」の序文にも 『ラウシャー』に言及した部

分がある。「そもそも 『ラウシャー」は,世界と現実の一部をわがものとし

て,世間嫌いと高慢による孤独化から逃れるための試みであったが…」22ベ

ンダーはヘッセが 「むきだしの告白」を嫌っていたことを指摘 し,自分の体

験を,亡くなったヘルマン・ラウシャーの遺稿の中へ移 しかえたと述べてい

る。23 またミレックは,ヘッセが (幼少年時代の)回想,日記,詩は偽装を

凝らさずに出版するにはあまりに個人的な性格のものであると感 じていたら

しいこと,この種の文学的 トリックによってのみ,作品の構成要素である種々

の部分を書物の形で出版することが正当化され,受け入れられるようになる

ことを彼が確信していたと説明している。24

ところでヘッセがその心情を打ち明けた時の 「危機」とか 「孤独化」とは

いったい何であろうか。すでにⅠにおいて述べたごとく,書店員として過ご

したテユービンゲン時代は,彼にとって厳しい自己教育の時期であった。忙

しい勤めのかたわら寸暇を惜 しんで読書に没頭していたため,友人たちとの

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ヘルマン・ヘッセの 『ヘルマン・ラウシャーJ)について -91-

交際はあったにせよ,.やはり彼はアウ トサイダーで独行者であ り,25 やがて

次第に引き込みがちになって行 く。それに加えて文学研究 もロマン派作家に

傾斜 したこともあって,ますます現実から離れた夢想の世界に沈潜するよう

になったのである。26 ッェラーは,ヘ ッセが1897年10月,両親宛の手紙で

「私はず っと以前か ら芸術家のモラルは美学によって置 きかえ られ ると,堅

く信 じています」27と書いたことに注目し,その危険をはらむ唯美主義を指摘

している。28

しか し1907年の新版で標題が HeT・mannLauscheT・と簡潔になったことは,

rベーター・カーメンチ ンu の執筆によって自己の内的危機を克服 したため,

もはや自分を隠すための殊更なテクニックを必要としなくなったためではな

かろうか。ただ,この新版に全集版の場合と同様 「初版の序」 も附されてい

たかどうかは,原本の参照が不可能なため定かではないが,新たな多少長め

の 「r-ルマン・ラウシャーJ版のための序」が附けられていたことは確かで

ある。29

さて,もし仮にこの新版で 「初版の序」が省かれたとすればどういうこと

になるか。 この場合はヘッセが編集 した 「ラウシャーの遺稿」 という設定は

なくなり,当然のことなが ら作者ヘッセが語 り手として全面に押し出てくる。

もっとも作品そのものがフィクションであることに変わりはないか ら,やは

り生身のヘッセというわけではないが,彼であるという印象は俄然強くなる。

少なくとも1人称形式の部分である 「私の子供時代」,「眠 られぬ夜々」 およ

び 「1900年の日記」においては語 り手がラウシャーというわけにはいかなく

なる。「眠 られぬ夜々」の中の 「第 4夜」の部分で,語 り手が11月の天候の

悪いある日,詩人ヘルマン・ラウシャーに会 った時のことを語 る個所がある。

,,DerverstorbeneDichterHermannLauscherlebtenochundwanderte

indenaltenStrabenderStadtBernumher."(179) 或いはまた

"[...]undindieserSekundesahichinseinenAugengum erstenmal

denflackerunden,traurigenGlanzdeslrrsinnszucken.̀̀ (179)1人称形式の物語でラウシャー自身が自分のことをこのように書 くのはやは

り不自然であろう。従 ってこの場合はむ しろ,ヘッセが物語 っていると考え

る方が読者には受け入れやすいといえる。一万,3人称形式の 「ルール」 の

章の最後には次のような記述がある。(旅立っラウシャーの歓送会のために

用意 してあった花火が不注意から次々と発火 し,大騒ぎになり,その間にルー

ルと哲学者 ドレーディヒウムが姿を消 して しまった後の記述である。)

(1099)

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,,AIser[-Lauscher]andernTagsinallerFr屯heverreiste,warvon

dersch6nenLulunochkeineSpurgefunden.DaLauscheT・Sicksogleich

insAuslandbegab,hanneT・abeldenferTWenVerlaufderDingein

Kirchheim heinerleiMitteilungmachen.DeanerselbeT・hatdieuor-

stehendeGeschichtederWahrheitgem邸 aufgeschrieben."(169)

(イタリックは筆者)

もしも 「ルール」の章がラウシャーの遺稿だとすれば,彼が自分を3人称で

登場させているわけで,イタリック体の部分 も,さなが ら他人 ごとのよ うに

書いたことになり,それなりに読者に一種のユーモアを感 じさせる。 これに

反 し語 り手がラウシャーでなく一応ヘッセだとすれば,同 じく Daか ら最

後までの部分によって,読者はそれまでヘッセが物語 っていたものが,実 は

ラウシャーの書 き留めていたものに基づいていることに気づかされることに

なる。

「1900年の日記」では,最後か ら6番目のバーゼルで記 した日付な しの 日記

に "IchhattedorteinlangesGesprachmitHesse,[...]"(214)という

文があり,今一つ最後から4番目の,同じくバーゼルでの日付のない日記 に

は "HessewillmireinenArtikel也berTieckabjagen,denerdochbesser

kennenmdBtealsich.̀̀(214)という記述が見 られるが,この 日記 もラウ

シャーの遺稿とすれば,読者はここでのヘッセの登場をごく自然に受 け入れ

ることが出来る。 しかしヘッセが語 り手だとすれば,1人称形式の日記 の中

にこのような形で同名の人物が現われるのはやはり不自然な印象を免れない。

以上,語 り手の問題について考察 してきたが,多少,手法上の事柄に拘泥

した感がないでもない。すでにヘッセ自身の本作品に対する態度表明か ら,

また先のベンダーの解説からヘッセが自分の体験をラウシャーなる人物に託

して描いたということが重要なことは言 うまでもない。ヘルマン・ラウシャー

のファース トネームが-ッセを暗示 していることはまず疑いないであろう.

もとよりフィクションである以上,厳密にどこまでが-ッセの実人生 と一致

しているのかは必ず しも明確ではないし,それを逐一検証するつもりもない。

・本章では特に主人公ラウシャーに焦点を絞って眺め,同時にそこに反映 し

ているヘッセの姿を探ってゆきたい。まずこの上なく読者の興味を惹 き強い

(1100)

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ヘルマ ン・ヘ ッセの Fヘルマン・ラウシャー』 について -93-

感銘を与えるのは冒頭の「私の子供時代の思い出」であろう。ここには子供の

成長過程が3歳の終りから14歳の学校時代に至るまで実に生き生きとした筆

致で描かれ,内容的にも何らの難解な個所もない。その内容は,幼い頃,高

所から谷を見せられた時の恐怖,家の庭の後ろから始まる広々とした牧場と

そこでの無邪気な遊び,息をはずませる蝶の観察,都会への恐れ,夕日に向

かって歩む両親の,さながら一幅の絵のような気高い姿,子供に物語を語る

優しい母の面影,パルバラの鐘の謂れとその恐怖,理性の目覚めによる苦悶,

学校での教師の横暴極まる態度,次第にすさんで行 く生活,父への反抗と感

激的な和解,バイオリンをもらってからの音楽への熱中,父による歴史と文

学への開眼,ゲーテの詩の朗読による心の落ち着きなど,その描写の迫真性

には目をみはるものがあり,全編中の白眉と言っても過言でなかろう。子供

時代を描くことにかけては抜群の筆の冴えを見せるヘッセの,これは若いこ

ろの好例のひとつである。 しかし,書き手の方には昔を懐かしむ気持ちと同

時に,憂いと淡い悲しみが伴っているのである。

"SooftichinGedankendenWegmeinesLebenszurBckgehe,Sooft

GberfalltmicheinemildeTrauerum dietausendvergesseneTage.Es

lebtniemandmehr,mirvonmirselberzuerz孟hlen,unddergr6鮎re

TeilmeinerKinderjahreliegtunerschlosseninunbegreirlicher,goldener

GIBckseligkeitwieeinWundervormeinerSehnsucht."(98)

自分のことを語ってくれるものがもはやいない,という言葉には孤独の色が

強く疹み出ている。そしてこれに続 く文では,人にとって子供時代が無縁の

ものとなり,忘却の淵に沈んでしまうのは,人間生活が不完全で充実 してい

ないことによるという意味のことが述べられている。(98)或いはまた,子供

の質問に対する大人たちの無関心と無理解に悩みを抱いている。

"IchlittunterzahllosenFragenohneAntwortundrandallmahlich

heraus,dabdenbefragtenErwachsenenmeineFragenoftunwichtig

undmeineN6teunverstandlichwaren."(103-104)

そして次の言葉には大人たちへの失望感さえ読み取れる。

"Wievielernster,reinerundehrfGrchtigerwBrdedasLebenvieler

Menschen werden,Wenn sieetwasYon diesem Suchen und Nach-

Namen-FragenauchtiberdieJugendhinadsinsichbewahren!̀̀ (104)

(Suchen)は子供の探求心,(Nach-Namen-Fragen)は子供が事物の名称を

あれこれ質問することである。一般に人は長じるにつれて新鮮な好奇心も次

(1101)

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第に薄れ,平凡な日常性の中に埋没するのが常であるが,これはそのことに

対する警告ではあるまいか。

次に,教師たちの横暴さに対する強い憤りも表明されている。 彼 らは生

徒の遠慮がちにする質問に乱暴な返答をするのみならず,信 じやすい子供の

素朴さに答えるに噸笑をもってするのである。(113)そ してこのように子供

の心を傷っけるのが一般的な風潮であった様が,弾劾の気持ちを秘めて述べ

られている。

,Ichwei息,da且ichnichtallein insolcherWeisegelittenhabeunddabmeinUnwilledarBberundmeineTrauerum zerst6rteundver-

kBmmerteTeilemeiner]ungenSeelenichtdieVerbitterung eines●

nerv6senEinzelnen ist;denn ich habe von vielen diese Klagen

geh6rt."(113)

しかし粁余曲折はあったにせよ,主人公は理解ある父と優しい母によって,

最終的には思春期の危機を乗り越えることとなった。最後の,山上でのゲー

テの詩を父が朗読する場面はこよなく美しく,こうしてこの章は平穏のうち

に終るのである。

以上,子供時代の懐かしい追憶の他にやや繋りのある部分に着目したが,

それは子供対大人という関係の中で人生の意味を深 く探ろうとするヘッセの

意図を汲みたかったからである。井手責夫氏はヘッセの関心が絶えず幼年期

へ向かうことの意味について次のように述べておられる。「そ してこのよう

な幼児への憧憶がヘッセにおいてつねに新たにされるということは,ヘッセ

がっねに生々と新鮮に外界を把え,絶えずそれと自分とを対比し,つねにいっ

さいを根底から把握 しようとする彼の根本的態度の反映にはかならない。そ

してまたじっさいこの態度においてのみ人は自分を新たにし,日常性の中に

埋没することなく,たえずより新しい視野を獲得 し得るのである。」30

次の 「11月の夜」では,ラウシャーをはじめいわば大学生崩れといった若

者たち数名が11月のテユービンゲンで嵐の夜,酒場に繰り出しては,にぎや

かな酒談義をはじめ,たわいのない会話の中に時を過ごす様がユーモラスに

描かれている。そして痛飲するラウシャーのやや捨鉢的な態度が垣間見られ

る。彼はその夜の荒れた天気の方が,日向をぶらつくより気に入っていると

言ったり,友人が帰宅し眠ることを勧めるのを断固はねつける。(126)さら

には,そもそも人生が生きがいのあるものではないとまで言い放っ。-

,,Weilessich屯berhauptnichtlohntzuleben;dennLebenohneZweck

(1102)

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ヘルマン・ヘッセの Fヘルマン・ラウシャー』について -95-

ist6d,undlebennitZweckisteinePlage."(121) 目的のない人生は

不毛だとし,逆に目的のある人生も苦 しみだとして受け容れられないのは,

ジレンマに陥った一種■の厭世的態度ではなかろうか。ちなみに彼の持ってい

るタバコ入れが毒蛇の皮で作ったもの(122)であるのもその荒んだ心の反映

のように思われる。この章はヘッセのテユービンゲン時代を背景にしている

が,ここには前章で眺めた,立ち直って充実感に満ちたラウシャーの姿はも

はや見あたらぬ。なお,ここでの登場人物の学士候補生オットー・アーバー

はテユービンゲン大学神学部の ドクター候補者で実名で出ている。最後の場

面で自殺をするエーレンデルレは,実名バウル・エーバーハル トで,ヘッセ

のマウルプロン神学校時代の同窓生である。後にテユービンゲン大学学生に

なるが1898年 3月はじめピス トル自殺 した。ゼ-ベルゲェッツァについては

詳細は不明である。31

「ルール」の章は本来 r王女 リリアJ)(PrinzessinLilia)の標題で独立 し

た作品として雑誌に掲載されたものである。32副題に 「E.T.A.ホフマンの思

い出に捧 ぐ」とあるように,物語そのものが謎めいた幻想的なものになって

いる。ベットガーがこの章を 「メルヘン風の短編」と呼んでいることはⅡで

すでに述べた.この物語の特徴は,本来の物語の中にさらに法律学のドクター

候補生カール・--メル トの見た王家アスク家にまつわる不気味な没落の物

語が組入れられ,両者がラウシャーの無意識に作りあげた詩によって互いに

関連づけられるという二重構造になっていることにある。--メル トの夢の

内容をラウシャーが全 く知るはずもないのに,それを詩作 したという点に神

秘性が凝集されている。

本来の物語は若者たち同士の明るい友情と美 しい女性ルールをめぐる恋愛

を描いている。その背景には,ヘッセがテユービンゲンを去 り,故郷カルフ

に帰る前の1989年8月,「小文芸サークル」の友人たちとこの作品の舞台に

なっているシュヴァーベン・アルプの麓の町キルヒ-イムで数 日楽 しく陽気

に過ごした体験がある。そしてその折彼は作中の女性ルールのモデルである

ユーリエ・-ルマン(JulieHellmann)(旅館「王冠屋」の主人の従妹) と出

会い恋心を抱 くのである。33 ルールは神聖で理想的な美の具現化 ともいうべ

き存在であり,ラウシャーはじめ他の男性たちにとっても憧懐と敬愛の対象

となっている。ラウシャーの彼女に対する恋愛感情は,作品から受ける印象

ではいくぶん誇張されているのではないかと思われるほど熱烈であるが,ヘッ

セ自身のユーリエ宛のかなり長い手紙を読むと,あながちそうでもないこと

(1103)

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がわかる。「なぜ僕が計画に反してあんなに長 くキルヒ-イムに止まってい

たか,なぜ別れが僕にあんなに辛かったか,多分お気づきだったで しょう。

あなたにさよならを言うとき,僕の手と声とが震えそうだったのが,お目に

止まらなかったでしょうか。[…]朝起きると,今日九一 日あなたに会えな

いことが耐えられないのです。あちこち歩いて,とにかく何かしてみようと

します。でも,何にも夢中になれないのです。絶えず眼を閉じて,あなたの

姿をまざまざと思い描かずにはいられないのです。そしてその美 しいすらり

とした姿が,一日中,静かにやさしく僕の心を占め,はかの考えをみんな追

い払ってしまうのです。」34(1899年8月26日故郷カルフからユー リ工に宛て

た手紙)[ちなみに手紙の最初の呼びかけが 「ルールの君 に!」(Andas

Lulum畠dele!)と小説中の人物名になっているのも興味深い.] これは手紙

の最初の部分であるが,この後延々と彼女への讃美が続 く。何とも若いヘッ

セの純粋な微笑ましい姿がここにはある。 しかし,彼は同時に,自分をユー

リ工に押しつけるものではない,自分の気持ちを分かってほしいだけと自制

の気持ちをも伝えている。このような作品外の事実を知ることによって,作

品の世界が読者に一層近づき,親しみやすいものになることは言 うまでもな

い。

ここで 「小文芸サークル」(petitc6nacle)について少 し触れてお くと,

これはヘッセがテユービンゲン時代の最後の2年間に加わった小さな,若い

友人仲間の会であり,ルー トヴィヒ・フインク(後に医師で作家になる)(作品

中ではルー トヴィヒ・ウ-ゲルの名で登場),カルロ(或いはカール)・ハメレ-

レ(後に法律家で哲学者)(カール・--メル ト),オスカー・ル ップ(後に法律

家)(オスカー・リップライン)が所属 しており,後にはシェ-ニヒ(ヴィンゴ

ルフの名で登場),オットー・エーリヒ・ファーバー(後に弁護士)(ェ- リヒ・

テンツァー)が加わり全員で6名から成っていた。35

ベットガーの説明によると,このサークル名は,1820年代フランスのロマ

ン派作家たちが,その結社を 〈C6nacle)と呼んだのに倣 って名づけられた

ものである。「小文芸サークル」の会員は週に一度午後7時半から11時まで,

「鱒亭」或いは他の旅館で会を開き,また互いに家を訪れ,近郊へ遠足に出

かけ,詩を朗読 したり,哲学的・美学的問題について議論を交わし,ツェ-ザ

ル・フライシュレン(C且sarFleischlen),デーメル(Dehmel),ファルケ(Falke),

ホルツ(Holz),リリエンクローン(Liliencron)のような現代詩人たちと接触

することなったという。36 作品中でも森の中での活発な議論の様子が描かれ

(1104)

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ヘルマン・ヘッセの rヘルマン・ラウシャー」について -97-

ている。(「ルール」の第 4章(143-150)」

ところで,その議論の際,ラウシャーは自分の詩人としての生活を顧みて,

新鮮な空気を得るために,「この狭苦 しい学生生活」 と 「いやな学生気質」

(144)を逃れて外国へ行きたいという希望を洩らすのである。彼はすでに芸

術家にとって十分な以上の知識を吸収 したことを悔やみ,さらには次のよう

な含蓄ある考えを人々の前で披渡するのである。

"AberBildungundWissenschaftistzweierlei.DasGefahrliche,was

ichim Sinnehatte,istdieverdammteBewuBtheit,indieman sich

allmahlichhineinstudiert.Allesmu息durchdenKopfgehen,alleswill

manbegreifenund messenk6nnen. Manprobiert,man mibtsich

selber,suchtmachdenGrenzenseinerBegabung,experimentiertnit

sich,undschlieBlichsiehtmanzuspat,ddB mandenbessernTell

seinerselbstundseinerKunstinくねnuerspotettenunbewuBtenRe-

gungenderfraherenJugendzurachgelassenhat."(144)(イタリックは

筆者)

これは知識の偏重によってすべてを論理的に分析し解明し尽 くさねば満足し

ない学問的態度に対する反発である。人間には,知的側面からは捉えること

ができないが根源的に宿っているものがあることの示唆であろう。一方,ラ

ウシャーは最近出した本のことが気がかりであると告白し,次のように言う。

"IchmuBwiederausden Vollensch6pfenlernen,andieQuellen

zurGckgehen.MichverlangtnichtsosehretwasNeueszudichten,als

eintGchtigesStackfrischundungebrochenzuleben.[...]Ichm∂chte

l...]Marten,tisdieVersezumirhommen,Stateihnenatemlosund

angstlichTtaChjqgen."(144)(イタリックは筆者)

いかなる本の出版が気がかりなのかは定かでないが,引用部分から察するに,

恐らく十分な充実 した人生体験に基づいたものでないか,或いはいたず らに

技巧を凝 らすか,時間に追われて書き上げたものかも知れない。「ルール」

の章では 「11月の夜」におけるほど,ラウシャーの生活は荒んではおらず,

表面的には友人たちとの明るく楽しげな交流と,ルールとの恋愛に心の高揚

があった。 しかし,こと創作に関する限り,心に何か満たされぬものがあっ

たのである。

「眠られぬ夜々」では不眠症に悩む主人公が,芸術の女神 ミューズをマリ

アと名づけて話 しかけ,また一部分会話を交わす形をとってはいるが,実際

(1105)

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には独白ともいうべきものである。ベットガ-はこの部分を 「幻想のそ して

孤独のモノローグ」37と規定 している。 ここで物語 られ ることは必ず しも読

者に明快に理解できない。一例を挙げれば,主人公がかつて創作 した短編小

説をマリアが読み,その悲 しい個所まで来ると,彼女は本を途中で投げ出 し

て逃げたとあるが,いったいいかなる本でいかなる内容のものなのか。推測

の手掛かりさえもない。それに,そもそもここで登場するミューズとい うの

は何なのか。眠れぬ自分のベッドのそばに座 り,「ふるさとの歌,子供の歌,

恋の歌,郷愁や憂愁の歌」を歌って くれた (170)というのはどういうこと

なのか。 ミューズは詩人の美に寄せる想念が形象化され人格化されたものな

のではなかろうか。主人公のかつて体験 した種々の出来事 (例えば創作活動

や恋愛など)が,眠れぬ夜に脳裏に現われては消え,苦 しみと,ときには甘

い慰めをもたらすのではないか。いずれにせよ厳密に論理的な脈絡を辿ろう

とすると迷路に入 り込んで しまう。

ところで,すでにⅢでも手法上の点から多少触れたが,この章 (「眠 られ

ぬ夜々」)ではラウシャーの危機的状態を示す描写が挿入 されている。11月

の荒れ模様の天気の中,ベルンの町をさすらう彼のうらぶれた姿がそれであ

る。

"[...]dazukam dieunwirtlicheRauheitdesTages,Sodaaderarme

Heimatloseharterals]eam Zwiespaltseinerkrankhaftreizbaren●

SeeleundandenErinnerungenseinesunsteten,zerrissenenundfrucht-

losenLebenslitt."(179)

ここにはもはや 「ルール」の章で登場 した快活で外国へ行 くことに希望をっ

ないでいるラウシャーの姿はない.そして 「その不運な生涯の終わりの頃に

はひどい飲み助となっている」(180)のであり,目には 「狂気」(Irrsinn)

(179)の色さえ閃 くのである。ところで,ここでも不思議な現象が描かれて

いる。落ちぶれたラウシャーがブロンドの髪のマ リアのことを話す くだりで

ある。(180-181) 彼女がラウシャーと一緒 に緑のベ ンチに腰かけ, 1冊の

大きな本を読んでいたということを聞い瞬間,語 り手は (一応ヘッセとして

おく)真 っ青になり,マリアと一緒にいたのは自分だったと言い,心を取 り

乱す場面である。 しかもそれはラウシャーの死の少し前に起こったことになっ

ている。 これはいわゆる ドッベルゲンガ- (分身)のモティーフとみなして

さしつかえないのではないか。ラウシャーの姿は実は語 り手の無意識を映 し

出した像と考えられるのではないか。はたしてこの章の 「第 8夜」の終わり

(1106)

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ヘルマ ン・ヘッセの Fヘルマン・ラウシャーJについて -99-

近 くで,語り手は自分が埋葬される光景をミューズに話 しているが (188),

これは勿論死の予感であろう。

ヘッセはこの 「眠られぬ夜々」の章で詩の成立過程についての考えと詩に

対するある種の疑念を表明している。まず,詩が初めから完成されたものと

して生 じるのでないことを述べた後次のように言う。

"Ichweib,WievielinnerstesLebenundwievielrotesHerzblutjeder

einzlgeeChteVersgetrunkenhabenmub,eheeraufseinenFii&n

stehenundwandelnkann."(182)

詩の成立にはいかに真の厳しいそして内容豊かな人生経験が必要であるかと

いうことであろう。一方,詩というものが,「どんなに美 しくともやはり事

物の底まで汲み尽くしていない」(182)という感情を拭いきれないのである。

それとともに,将来望み通りの詩を書けないうちに命が尽きるかも知れぬと

いう焦燥感に苛まれるのである。

"[...]dieseimmerengerdrBckende,furchtbareAngstzusterben,

ehedergetr且umteTonerklang,zusterbenohneErfBllungmacheinem

lebenlangenWartenundVorbereiten!"(183)

これと並んで人生を厭う気持ちが例えばェレオノーレと別れた後の次の言葉

にうかがわれる.、 "[...]undda且eskaum wertist,gelebtzu

werden."(186) さらには実りをもたらさず空 しく流れ去 った人生に対す

る無力感 も生 じている。 "EineSekunde,eineMinute,nocheine,

Wiedereine,undso rinnteinTropfendeskurzen Lebensum den

andernfremdundunaurhaltsam anmirvorbei."(188)

上に見た個所から明らかなように,文学へのある種の懐疑感,将来の創作

に対する不安,失われた時間への喪失感と空虚感が主人公の気持ちを覆って

いたのである。ところで,ラウシャーの死の原因には一切触れられていない。

或いはそれは過度の飲酒によるものかも知れぬ。或いは絶望の果ての自殺か

も知れない. しかし,あまりこの問題を穿聖するのは大 して意味がないであ

ろう。 むしろこれはヘッセに訪れた内面の危機を,書 くという行為を通 じ

て客観化 し,清算 したことの象徴的意味を担っていると解したい。

最終章の 「1900年の日記」には,1900年4月7日に始まり同年 9月16日ま

での問の15日間の日記と日付なしのものが6日分収められている。その内訳

は4月のが2日,5月のが5日,6月のが1日,9月のが7日となっている。

書かれた場所はバーゼルが圧倒的に多く14回,同じくスイスの景勝地フイツ

(1107)

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ツナウ(Vitznau)が 6回,アクセンシュタイ ン(Axenstein)が 1回を数え

る。最後の日記で詩人は旅に出る決意を述べており(215),前章 「眠 られぬ

夜々」において,うらぶれたラウシャーがベルンの町をさすらったのが11月,

その後はどなく亡 くなったとあるか ら,恐 らくこの日記 は同 じ年に,しか も

特に9月に集中的に書かれたのかも知れぬ。最後の方で日付のない日記が現

われて来たことについて,ベットガーは,破綻 した芸術家の心が時間に対 し

てますますむ無関心になり,意志力が徐々に消え行 くことの示唆であると解

釈 しているが,38当然これは人生の終蔦につながることである. 日記の内容

は文学論,恋愛,自然の讃美,自己の生活の反省,不眠の苦 しみ,抑圧 され

た感情の噴出等多岐にわたるが,とりわけ自然描写,特に湖に映える色彩の

美とその変化の模様が実に克明に観察され,まさにヘッセの美意識がここに

集中している感がある。 Ⅰにおいて,ヘッセがスイスに移 り住んだとき,自

然に親 しむようになったことを述べたが,そのときの体験がもとになってい

ることは言 うまで もない。そしてこの日記では何よりも,慰めと豊かさを与

えるものとしての湖が前面に出てくるのである。

,,DerSeewirktnochleisemach.SeineSch6nheitistunerschapflich

undistjetzt,daalleBergenochtiefenSchneehaben,nochfrischer

undreiner.Sooffichihnschonbesuchte,eristimmerwiederneu,

uollTrostundReichtum."(196)(イタリックは筆者)

そして何とも言い表わし難い微妙な色彩の変化は,重力の法則からの解放感

と現実か ら融け去 る感情を与えるのである.- "einGefQhlderBefreiung

vom GesetzderSchwere,einGefBhlderAuf16sung,alslagemeine

SeelekGhlundohnevonmirzuwissenaufdemschwelgendenSeebusen●

ausgebreitet,ganzAther,gangFarbe,ganzSch8nheit." (196-197) i

Lてこの感情は芸術や詩や哲学によっても未だ与えられたことのない高揚感

と安 らぎなのである。(197) 詩人が自然とその美の中に投入する様 には,

さながら法悦とも言 うべきものが感 じられる。実際彼は美に対する称賛と憧

憤とを 「私の宗教」と呼び,この世の一切をひたすら美的視点から眺めよう

とするのである。

"Ichwei息nun,da且meineReligionkeinAberglaubeist,da且essich

lohnt,alleh∂rperlichenundgeistigenDingenurinihrenBeziehungen

zurSchBnheitzu betrachten und da息 diese Religion Erhebungen

schenkenkann,dieanReinheitundSeligkeitdenenderMartyrerund

(1108)

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ヘルマン・ヘッセの 「ヘルマン・ラウシャー」について -101-

Heiligennichtnachstehen."(197)(イタリックは筆者)

湖に映える色の調子,配合,光の屈折等についてヘッセは精根込め精微を

極めて描いており,到底ここに引用し尽くせるものではない。ベットガ-お

よびシュトルテはこの美の描写のなかに印象主義的傾向を認めている。39 し

かしこうして美の中に浸りながらも 「美をおおまかに喜んで楽 しむことが出

来ない」(202)ということは,いわば詩人の宿命なのだろう。というのも,

作品に結晶させるには美を 「解体,追求,分析して芸術的な方法で再建 しな

ければならない」(202)からである。そして ここでも将来の詩作に対する

不安が頑を掠め,表現手段としての言葉の限界を思い知 らされるのである。

"ObderTagnochkommenwird,anden ichinWortendieseFlut

YonbuntenSeligkeitenundfarbigerregtenMomentenwerdezuEnde

dichtenk6nnen?[...]VielleichtistesGberhauptderSprachenicht

m6glich,dem individuellforschendenundgenie&ndenAugeauchnur

bisBberdieerstengr6berenNuancenwegzufolgen.̀̀ (202)

他方,季節の移り変わりは心に微妙な変化をもたらす。秋めいて来た牧場

とそこから聞こえる鈴の音は詩人に 「苦 しい別れの気持ち」(206)を呼び覚

ます。それは解放された自然の中での生活から都会での 「身を削る生活」へ

移ることである。「多 くの人間,多 くの書物,嘘と自己欺輔 と暇つぶ し」

(206)の中で過ごさねばならない窮屈な生活である。そして秋によって触発

された別離の感情は次第に哀愁と充足感の得られない絶望に変わって行 く。

(もっとも悪天候に馴染むように,それに慣れたと書かれてはいるが。) こ

のような心の状態から生 じてくるのは苛酷な自己凝視である。心を測りしれ

ぬ深い海とみなし,そこに自己の芸術の根源があると考えつつも,実現の覚

束なさに嘆息するのである.- "[...]wahrendichaufunfruchtbaren

FeldernKrartundJugendvergeude."(208) そして注目すべきことは,

ここでも前章で見た不眠状態が描かれていることである。(9月10日の日記)

10時間にわたる苦 しい不眠の中で生じたことは,「抑圧された魂 (Seele)と

残酷で圧制的な思想 (Gedanke)との戦い」(208-209)であった。井手貞夫

氏はこれを 「ヘッセの二元の苦悩」40と呼んでおられる。

"DabegannichzufBhlen,[...]daJSallesUnterdrGckte,anKetten

Gelegte,Halbgebandigte,inmirerbittertunddrohendandenFesseln

zerrte.[...]freigelassentaumeltedieganzeuntereWeltinmirhervor,

zerbrachundverh6hntediewe迫enTempelundknhlenLieblingsbilder."

(1109)

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(209)

理性によってそれまで押さえ込まれていた意識下の世界が今や反逆を開始 し

たのである。 しかもそこに詩人はかつての子供時代の面影を見て親 しみさえ

感 じる。 しかしそのことがまた同時に 「鋭い苦痛」(209)をもたらすために,

この二元対立の狭間で疲れ果て虚脱状態に陥るのである。そして将来ともこ

の夜の恐ろしい体験を思い出して悩むことを予感 している。(211) それに

しても最後から3番目の日記(日付なし)は極めて短いものだが,わざわざフ

ランス語で書かれている。- "Ah!cen'estpointgaitourslesjours,

laboh白me!"(あ ,ゝ日々に楽しきこととてなし,ボヘ ミアンよ !)(214)

この言葉がヘッセの創作なのか,それとも何か出典があるのか,不明だが,

いずれにせと深い絶望感を感 じさせる文言である。さらにまたヤーコプ・ベー

メの書 「キ リストへの道」のなかの,真面目な信仰と新しい再生への真剣な

決意を求める警告的な文に対 してもラウシャーは,その言葉の一つ一つに

「感激と信仰の力と永遠の若さ」(215)を認めながらも,「不信の読者」(215)

である彼はそれにただ羨望と郷愁を覚えるのみである。

「初版の序」にも述べられていた 「ラウシャーの日記にあるあの厳しい自虐

的な真理愛」(93)という言葉を思い浮かべながらこれらの日記を読むと,

確かにミレックが指摘 したように,後の r荒野の狼Jの主人公ハリー・ハラー

の姿が現われてくる。彼(ミレック)は次のように述べている。「ラウシャー

は,-ラーが感 じやすい独行の人であるのと同じく潜在的な荒野の狼として,

何よりも人生の観察者,人生に参加 していない者,理想的なものに身を捧げ,

現実的なものを軽視する極端な個人主義者として姿を現わす。彼は-ラーと

同様,人間的なかかわりを持ちたい欲求に苦 しめられるが,-ラーと同 じく

断念することを心得ており自虐に夢中になる。身を苛む疑いに苦 しめられる

にもかかわらず,常に自己の唯美主義への信仰を確信しているのである。ちょ

うど-ラーが周期的な疑いの発作に襲われた後彼の文化の理想とプラトニズ

ムへの信仰を守り通しているように。」41現実世界を疎みひたす ら美の世界

に沈潜するという内面の危機と,すでにみたように言語による美の表現の可

能性に対する疑念が,ラウシャーをして破局へと導いたと言えるのではない

か。

(1110)

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ヘルマン・ヘッセの rヘルマン・ラウシャー』について -103-

文 献

作⊂⊃I)E)

HermannHesse,GesaTnmelteSchriften i,Ⅳ,V.Berlin/Frankfurta.M.

Suhrkamp1958.(-GS.Ⅰ,Ⅳ.Ⅴ)(7巻本全集)[但 し,rヘルマン・ラウシャー」

(GS.Ⅰ)からの引用の場合および関連個所参照の場合ページ数のみを記す。]

HermannHesse,GesaTnTnelteWeT・he1,ll.Frankfurta.M.:Suhrkamp

1970.(-GW.1,ll)(12巻本全集)

[邦訳書]ヘルマン・ヘッセ r青春時代J)- ヘルマン・ラウシェル- 芳賀埴訳,人文

書院,初版1953年,12版 1959年。

ヘルマン・ヘッセ 「青春時代」くヘルマン・ラウシェル)原健忠訳,角川書店,

1957年。

ヘルマン・ヘッセ r自伝素描J高橋健二訳。(ヘルマン・ヘッセ全集10F東方

巡礼J,新潮社,1957年.)

(訳文については上記の書のものを拝借ないし参照させていただいた。)

書 簡

HermannHesse,GesamTnelteBT・iefeI.Frankfurta.M.:Suhrkamp1970.(-GB.Ⅰ)

ヘルマン・ヘッセ研究全編・訳 F-ッセからの手紙- 混沌を生 き抜 くために」, 毎日

新聞社,1995年。(-ヘッセからの手紙)(訳文については本書のものを拝借 した。)

ヘッセに関する参考文献

U.Apel(Hrsg.),HeT・Tnann HesseIPeT・SOnen and Schlasselfiguren in

seinem Leben.EinalphabetischesannotieT・teSNamenuerzeichnisnit

saTntlichenFundstellen inseinen WerhenzLndBriefen.MitUnter-

stQtzungdesKomiteesderInternationalen-HermannHesse-Kolloquien

inCalw.Bd.I(A-I),Bd.Ⅱ(J-Z)MGnchen:K.G.Saur1989.(-Apel)

F.B6ttger, Berlin.・HerTnannHesse.Leben・WeT・h・Zeit Berlin:Verlag

derNation51982.(-B6ttger)

J.Mileck,HerTnannHesse.DichteT・,SzLCheT・,BehenneT・MGnchen:C.

Bertelsmann1979.(-Mileck)

M.Pfeifer,Hesse-KoTnmentarZuSaTntlichenWerhen.MGnchen:Winkler

1980.(-Preirer)

H.Stolte,HeT・mannHesse.WeltscheuzLndLebensliebe.Hamburg:Hansa1971.(-Stolte)

S.Unseld,HerTnannHesse.-eineWeT・hgeschichte.Frankfurt.a.M.:

Suhrkamp1974.(-Unseld)

B.Zeller,Her・TnannHesseinSelbstzeugnissenandBilddohumenten.

ReinbekbeiHamburg:Rowohlt1973.(rowohltsmonographien85)(-Zeller)

(1111)

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-104-

高橋健二 『ヘッセ研究jヘルマン・ヘッセ全集別巻,新潮社,1960年.(-高橋)

井手貴夫 『ヘルマン・ヘッセ研究J(第1次大戦終了まで),三修社,1972年.(-井手)

1 PreiferS.67.

2 ZellerS.47.

3 高橋 276ページ (年表)0

4 ZellerS.31;PfeiferS.38.5 ZellerS.33.

6 ZellerS.35.

7 ZellerS.35.

8 PreiferS.38.

9 PfeiferS.38;Zqller(S・39)によれば,へッケンハウ7-の店主ゾンネヴァ

ル トが,ヘッセの新たな就職のために証明書を書いたのを8月31日としているが,

高橋氏 (75ページ)は証明書そのものの訳文を載せ,書かれた日付を7月31日と

しておられる。

10 ZellerS.40;Mezについては Apel(Bd.Ⅱ.S.664)に大学教授とある。

11 ZellerS.41.

12 ZellerS.43.

13 ZellerS.43.

14 ZellerS.46;Preirer(S.39)では8月 1日からとある。

15 ZellerS.46;PreirerS.39.

16 ZellerS.47;高橋276ページ (年表).

17 UnseldS.15.[HeinrichWiegandくDieNeueRundschau),1934よりの引

用]

18 成立時期については PreirerS.67-75. -

19 Battger(S.82)は (Marchennovelle)と呼んでいる。

20 上掲の2種の訳書には次の9編の詩が載せられている。

『黒い騎士』(DerschwarzeRiueT・)(GS.V.S.440),『わが恋に寄せて 1,2』

(MeineT・LiebeI,Ⅱ)(GS.V.S.469-470),『とは言え』(Dennoch)(GS.V.

S.470),『哲学』(Philosophic) (GS.V.S.470-471), 『マ リアの歌』

(MarienliederⅡ)(GS.V.S.483),『これが僕の悩み』(DasistTneinLeid)

(GS.V.S.471),『旅音楽士』(Spielmann)(GS.V.S.431),『イタリアの夜』

(ItalienischeNacht)(GS.V.S.425),『マ リアの歌』(MarienliederⅢ)

(GS.V.S.484)なお,今一方の全集版 (GW.1)には 『これが僕の悩み』のみ

が収められているにすぎない。

21 PfeiferS.67.[(VorredezudieserAusgabe)(GW.ll.S.20-21)からの

引用] なお,GW.Ⅰとあるのは誤り。

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ヘルマン・ヘッセの 『ヘルマン・ラウシャー』について -105-

22 PfeiferS.67;UnseldS.14.[『真夜中過ぎの一時間』の序 (GW.ll.S.19-20)

からの引用]

23 PfeiferS.68.lHansBenderin (Nachwort) zuHermannLauscher

Stuttgart:Reclam 1974,S.132からの引用]

24 MileckS.31.

25 ZellerS.34.

26 ZellerS.35.

27 GB.I.S.34;ZellerS.36.28 ZellerS.36.

29 GW.ll.S.21-22.

30 井手 248ページ。

31 PfeirerS.70.

32 PreirerS.70.但 し,雑誌名は記載されていない。

33 Zeller(S.39)ではユーリ工は旅館の主人の姪一とあるが,Preirer(S.70)では

旅館の主人はユーリ工の従兄 (Vetter),Apel(Bd.Ⅰ.S.379)でもユーリ工は

旅館の主人の従妹 (Base)となっている。

34 GB.I.S.60-61;ヘッセからの手紙14ページ。

35 ZellerS.39;PreirerS.71.但 し,Zellerでは Sch6ning となっているが,

Apel(Bd.Ⅱ.S.860)の説明では Schanigが正 し・く,Sch6ning は誤 りとあ

る。その他の人物については ApelBd.Ⅰ.S.179(Faber),S.227(Finckh),

S.348(Hammelehre),Bd.Ⅱ.S.817(Rupp)を参照。

36 B6ttgerS.75.

37 B6ttgerS.81.

38 B6ttgerS.82.

39 B6ttgerS.82;StolteS.29.40 井手 278ページ.

41 MileckS.32.

(1113)