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― 325 ― 1 はじめに 本稿では、1930 年代後半から約 40 年間にわたりスペインにて独裁政権を維 持したフランコ体制における民謡・民族舞踊の政治的な役割について考察す る。今回は特に、当時の民謡の収集・普及・保存で重要な任務を担った管制女 性団体ファランへ女子部(Sección Femenina、SF)の「コーラスとダンス (Coros y Danzas、CYD)」の活動に焦点をあて、内戦後、「勝者」と「敗者」 に分断した国民を、再び「フランコ新体制」の一員としてまとめあげる過程 で、どのように民謡・民族舞踊が国民統合の為に利用されたのか、またその政 治的使命を果たすべく、その形態や性質に変化が加えられたのかについて明ら かにしたい 1 19 世紀の欧州では、フランスやドイツを筆頭に国民国家の形成が試みられ た。その過程において、エルネスト・ルナンの「国民とは日々の住民投票なの フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における 「創られた伝統」:ファランヘ女子部「コーラスと ダンス(Coros y Danzas)」の活動を中心に 齊 藤 明 美 1 ファランヘ、フランコ体制についての日本語の参考文献:武藤 祥「フランコ体 制の形成:「安全」と「正統性」をめぐって、1939-1947 」『國家學會雑誌』116(3・4) (通号 1054) 2003-04. pp.333-394、野上 和裕「権威主義体制とスペイン歴史研究 ‐ フ ランコ体制について」『法学会雑誌』50(1), 2009-08, pp.21-53、スタンリー・G.ペイン 『ファランヘ党 : スペイン・ファシズムの歴史 』 れんが書房新社 1982、関哲行、立石 博高、中塚次郎編『世界歴史大系 スペイン史 2』山川出版社、2008 等。

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

1 はじめに

 本稿では、1930 年代後半から約 40 年間にわたりスペインにて独裁政権を維

持したフランコ体制における民謡・民族舞踊の政治的な役割について考察す

る。今回は特に、当時の民謡の収集・普及・保存で重要な任務を担った管制女

性団体ファランへ女子部(Sección Femenina、SF)の「コーラスとダンス

(Coros y Danzas、CYD)」の活動に焦点をあて、内戦後、「勝者」と「敗者」

に分断した国民を、再び「フランコ新体制」の一員としてまとめあげる過程

で、どのように民謡・民族舞踊が国民統合の為に利用されたのか、またその政

治的使命を果たすべく、その形態や性質に変化が加えられたのかについて明ら

かにしたい 1。

 19 世紀の欧州では、フランスやドイツを筆頭に国民国家の形成が試みられ

た。その過程において、エルネスト・ルナンの「国民とは日々の住民投票なの

フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」:ファランヘ女子部「コーラスと

ダンス(Coros y Danzas)」の活動を中心に

齊 藤 明 美

1 ファランヘ、フランコ体制についての日本語の参考文献:武藤 祥「フランコ体制の形成:「安全」と「正統性」をめぐって、1939-1947 」『國家學會雑誌』 116(3・4)

(通号 1054) 2003-04. pp.333-394、野上 和裕「権威主義体制とスペイン歴史研究 ‐ フランコ体制について」『法学会雑誌』50(1), 2009-08, pp.21-53、スタンリー・G. ペイン

『ファランヘ党 : スペイン・ファシズムの歴史 』 れんが書房新社 1982、関哲行、立石博高、中塚次郎編『世界歴史大系 スペイン史 2』山川出版社、2008 等。

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だ。」に象徴されるフランスの主観的な国民意識や、ドイツに見られた言語や

人種という民族主義的な原理を基盤としたものなど様々なモデルが提示され

た 2。また 1980 年代に入ると、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同

体』(1983 年)、アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』等の近代

的なアプローチによる国民意識形成に関する研究が進んだ。

 なかでも「伝統文化」と「近代国家」形成の関係を分析したエリック・ホブ

ズボウム編の『創られた伝統』(1983 年)は、一般的に太古の昔から受け継が

れてきたものと考えられていた「伝統」の多くが、実は 19 世紀から 20 世紀の

国民国家形成の過程の中で、各国の為政者のイデオロギーを補完すべく恣意的

に「創られた」と示し、前出の2つの研究と共に次世代の研究者に大きな影響

を与えた 3。本論においても、ホブズボウムの「創られた伝統」の一例とし

て、スペインフランコ体制期(1939 - 1975)の民謡と民族音楽をめぐる問題

を検討していく 4。なお、本稿では、スペインの民謡・民族舞踊の歴史やその

特性を直接の研究対象としない 5。

2 谷川稔『国民国家とナショナリズム』山川出版社 19993 エリック・ホブズボウム他(前川啓治他訳)『創られた伝統』紀伊国屋書店1992。我が国においても近年、政治と芸術の関係をテーマにした研究が行われている。谷川稔他『規範としての文化:文化統合の近代史』平凡社 1990、小林和夫「インドネシアにおける『創られた伝統』の萌芽と制度化の端緒」『東南アジア研究』44巻1号 2006, pp.55-77、岩本和子「ベルギーの舞台芸術制作-連邦国家の模索」『国際文化学研究』(16)pp.53-65, 2001, 児玉徹「多民族国家ニュージーランドの映画文化と文化政策について」『文化政策研究』(4)2010, pp.23-42、梅田 英春「ワヤンの人形遣い」になったバリのダラン-バリ州政府の文化政策により剥奪されたダランの宗教性」『東洋音楽研究』(71) 2005 pp.119-128、兒島峰「国家に対峙した「国民文化」の創出 -1960 年代から 70 年代初頭のボリビア , オルロ市の文化政策」『マテシス・ウニウェルサリス』8 (1) 2006, pp.67-99 等。4 SFの資料および先行研究では、主に「フォルクローレ Folklore」という表現が使用されている。この言葉は英語の「フォークロア」がスペイン語になったもので、一般的には昔から受け継がれてきた習慣、進行、儀礼、説話、民謡などやその研究を指すが、現在では主に中南米の民族音楽や民謡、民族舞踊を示すことも多い。本論では紛らわしさを避けるために「民謡・民族舞踊」を用いる。

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

 ファランへ女子部(以下 SF)の研究は、1983 年にガジェーゴ著『女性・フ

ァランへ・フランコ主義』の刊行以来、スペイン現代女性史の主要なテーマの

一つとなり、これまでにも社会奉仕や女子教育、各地域の活動に関するものを

中心に研究の蓄積が見られる 6。しかし民謡・民族舞踊が研究対象として注目

され始めたのは比較的最近で、1996 年のリサラス・デ・メサの論文 7 が本格

的な学術論文として最初であった。2000 年にはカセーロ・エストレージャに

より、CYD の歴史的役割を体系的に研究した『フランコと踊ったスペイン、

ファランへ女子部のコーラスとダンス』8 が上梓され、以後、この分野に関す

る関心が集まった。近年では、CYD の歌や踊り、民族衣装のみでなく、国内

外での宣伝活動や、記録映画に関するものまでと、研究テーマの広がりが見ら

れる。残念なことに、現在まで我が国で SF 及び CYD に関する研究が紹介さ

れる機会は皆無であった。本稿ではこれらの主要な先行業績の論点を適宜、紹

介、整理しながら、フランコ時代における SF の民謡・民族舞踊事業とその

5 スペインのフォルクローレ研究は 19 世紀後半から開始された。1881 年にアントニオ・マチャード・アルバレスにより El Folklore Español という学会が設立された。1922 年にアレハンドロ・ギチョト イ シエラが『フォルクローレの歴史的報告:世界各国(1890 年まで)とスペイン(1921 年)におけるその起源』を出版した。(Alejandro Guichot y Sierra, Noticia histórica del Foklore, Orígenes en todos los países hasta 1890 y en España hasta 1921, Sevilla, 1922. 日本語の文献では濱田滋郎

『スペイン音楽の楽しみ』音楽の友社 2013 などが詳しい。6 SF研究の例として、María Teresa Gallego Méndez. Mujer, Falange y Franquismo. Madrid: Taurus, 1983;FERNÁNDEZ SUÁREZ, Crónica de la Sección Femenina y su tiempo. Madrid: Asociación Nueva Andadura, 1993; RICHMOND, Kathleen, Las Mujeres en el fascismo español-La Sección Femenina de la Falange, 1934-1959-, Madrid, Alianza, 2004; SÁNCHEZ LÓPEZ, Rosario, Entre la importancia y la irrelevancia: Sección Femenina, de la República a la Transición, Murcia: Consejería de Educación y Cultura, Servicio de Publicaciones, 2007 等がある7 LLIZARAZU DE MESA, M. Asunción, “En torno al folklore musical y su utilización. El caso de las Misiones Pedagógicas y la Sección Femenina”, Separata del Anuario Musical, 51, CSIC, 1996. pp.233-2458 CASERO, Estrella, La España que bailó con Flanco. Coros y Danzas de la Sección Femenina, Madrid, Editorial Nuevas Estructuras,S.L. 2000

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「創られた伝統」について検討したい。

 次に、SF の「コーラスとダンス」の活動に関する一次資料について簡単に

述べたい。1977 年に SF が消滅してから、その資料の多くは元 SF 会員同窓会

の Nueva Andadura に保管されていたが、当初、資料へのアクセスは制限さ

れており、資料調査は困難な状況であった。現在ではその会も解散し、アルカ

ラ市にある AGA 公文書館(Archivo General de Administración)、国立公文

書館、スペイン国立図書館などに文書は移譲され、一般の閲覧手続きも簡素化

された。また国立図書館の音楽・視聴覚資料部には、SF の民謡・民族舞踊に

関する出版物や映像資料の他、当時、データ収集に使用されていた質問票など

も保存されており、CYD の研究拠点の一つとなっている。また近年の IT 技

術の進歩により、演技ビデオや出版物のデジタルアーカイブ化も進んでいる。

一部の資料においては、インターネットを介して資料の閲覧、複写申請も可能

となり、情報アクセスの面でも研究状況は好転しているといえよう。

 本論に入る前に、ここでフランコ体制期における SF の位置づけとその役割

を簡単に紹介したい。

 1939 年 4 月にフランコ反乱軍の勝利で内戦が終結した後、スペインではフ

ランコの権威主義に基づく独裁体制が敷かれた。フランコ体制は、主に第二次

共和制政府以前の権力基盤(軍人、政治家、カトリック教会、地元の有力者な

ど)や御用政党であるファランへ党員等で構成された。第二次大戦終了時まで

はファシズム色が強いファランへ党が、1950 年代からはオプス・デイ(カト

リック組織)を中心としたテクノクラートが政府の中核を占めた。民主憲法を

始めとする第二次共和制時代に達成された諸改革は、内戦後白紙に戻され、一

方、共産主義者、社会主義者、無政府主義者、共和主義者等の反フランコ派に

対する粛清が行われた。

 女性の状況も同様で、内戦前に獲得された諸権利(選挙権、離婚の権利な

ど)は剥奪され、国家カトリック主義の下、「良妻賢母」として家庭に収まる

ことが期待された。また 1938 年の「労働憲章」で、既婚女性は職場から「解

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放」され、学校現場でも、男女共学は禁止、性役割分担意識に基づいた教育が

実施された。このように独裁政権下のスペイン女性は、男性に従属する「永遠

の未成年」とみなされ、就職、財産の管理などは父親や夫の了承が必要であ

り、一人の自律した個人として扱われなかった 9。

 SF は、1934 年 7 月 12 日に 1923 年から 7 年間独裁制を敷いた軍人ミゲル・

プリモ・デ・リベラの息子のホセ・アントニオをリーダーとするファシスト政

党の旧ファランへ党の女子部として創設された。SF 代表には党首の妹のピラ

ールが任命され、その他のメンバーもファランへ党員の妻や姉妹などを中心に

構成されていた 10。当初、主に SF は獄中の党員との情報連絡、武器等の保管

や、内戦時には兵士の救護や銃後活動等に従事していた。1936 年の共和政府

によるホセ・アントニオ党首処刑後、1937 年 4 月 1 日にフランコは「政党統

合令」を発布した。それにより旧ファランへと王党派 JONS は合併され、「新

ファランへ党(Falange Española Tradicionalista y de las JONS)」となり、

フランコは自ら党首に就任した。

 1939 年 4 月の内戦終了後、フランコは「国民運動 Movimiento Nacional」11

の下、カトリック教義に基づいた「新体制」確立を目指した。1939 年 12 月 28

日勅令により、「運動」における SF の位置づけが明確に規定された。以後、

SF は翼賛政党「国民運動」の従属組織として体制に組み込まれ、官制女性団

体として良妻賢母像を全てのスペイン女性に浸透させる教育・宣伝・思想統制

機関としての役割を期待された。

 SF の女子教育では、「宗教(カトリック)」「家庭科」、初代党首のホセ・ア

ントニオが提唱した「国家サンディカリズム」が三本柱 とされた。SF は、初

9 齊藤明美「初期フランコ体制下における性役割意識の構造:ファランヘ女子部を中心に」『駒澤大学外国語論集』(9), 2010. pp.1-2610 ピラールSF代表については自伝の PRIMO DE RIVERA, Pilar, Recuerdo de una vida, Madrid, Ediciones Dyrsa, 1983 の他、FERNÁNDEZ JIMÉNEZ, M.Antonia, Pilar Primo de Rivera: El falangismo femenino, Madrid, sintesis, 2008 がある。11 新ファランヘ党のこと。

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齊 藤 明 美

等教育から高校までの公教育の現場や、その課外活動のみでなく、社会奉仕の

場や識字教育などの成人学校、地域における移動教室や保健士の派遣に至るま

で、あらゆる機会を利用して、全国の少女や成人女性の組織化とカトリック伝

統主義に基づいた女性規範の伝達に努めた。

2 ファランヘ女子部の文化事業:「コーラスとダンス」の黎明期

2. 1 フランコ体制下の文化政策(飴と鞭)

 さて、フランコ体制下における文化活動の状況はどのようなものであった

か。1938 年 1 月、フランコ第一次内閣にて国民教育省が設立、その下部組織

である出版検問担当局により、あらゆる種類の文化・教育活動は国家による規

制、検閲を受けることとなった。

 ところで内戦終了後の政府指導者にとって「文化」とは何を意味したのか。

1939 年から 51 年まで教育大臣を務めたイバネェス・マルティンとファランヘ

主義者のライン・エントラルゴ等にとって、「文化」とは、体制の永劫と再生

産を保証するものであり、「スペイン性」やカトリックの信条、また近代性、

合理性から愛国神話を構築するものであると考えられた 12。当局はドイツなど

の全体主義国家と同様、「文化」を宣伝媒体とみなし、飴(推進)と鞭(検

閲)でもって大衆をコントロールしようとした 13。もちろん、音楽活動も規制

の対象となり、反フランコ、反カトリック(性的なものも含む)の内容を含む

作品の制作、登録、演奏が禁止された。スペイン語以外の言語の歌も規制さ

れ、ジャズやスイング、黒人音楽などのラジオ放送や劇場での公演も不可とな

った。また劇場での公演や放送、喫茶店やサロンでの歌や楽器の演奏、さらに

は衣装や振付までもが検閲の対象となった。ダンスホールも公序良俗に反する

12 PÉREZ ZALDUONDO, Gemma. “Música, censura y falange: el control de la actividad musical desde la vicesecretaría de Educación popular (1941-1945)”, Arbor, Vol 187, No 751, 2011, p.87613 Ibidem. p. 876

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

という理由でその多くが閉鎖された。

 映像に関しては、1941 年以降、全ての外国映画はスペイン語への吹き替え

が必須とされ、1974 年まで多数の外国映画の上映が認められなかった 14。

1942 年 9 月に国の文化・情報管理担当部署の国民教育事務次官 により、ニュ

ースドキュメンタリー番組 NO-DO(Noticiarios y documentales)が設置され

た。フランコはこの短編番組を国内外のプロパガンダとして使用し、1976 年

まで全ての映画館において上映前に NO-DO の放映が義務づけられていた。こ

のような状況の中、芸術家たちは検閲を恐れ、政府やカトリック教会を批判す

る内容の作品を自主的に控えるなど、第二次共和制時代に育まれた自由な創作

活動や発表の機会は大きく後退した。

 一方、即急な新国家体制設立を目指した当局は、内戦で疲弊した国民意識を

高揚させるため、文化による国家の統合を意図した。そして「スペイン精神

(españolidad)」の色濃いサルスエラ(スペインオペラ)やコプラ(演歌)、民

謡などの民謡・民族舞踊は奨励されるに至った 15 。この流れの中、SF の「コ

ーラスとダンス Coros y Danzas(以下、CYD)」は、各地の伝統音楽や舞踊の

保存・普及を通して国の文化政策の一端を担うこととなった。

2. 2 ドイツの影響

 果たして SF の「コーラスとダンス」の使命や期待された役割はどのような

ものであったか。この問題を検討する前に、「コーラスとダンス」の誕生の経

緯を辿りたい。

 CYD 誕生には、ドイツやイタリアなどの枢軸国の管制女性団体の影響が大

14 大原志麻「フランコ期の映画における政治文化 ―ベルランガと !Bienvenido, Mister Marshall! の歴史性」、 『翻訳の文化 / 文化の翻訳』(6) 2011-03, pp.45-7415 イタリア・ファシスト体制においても古代ローマやルネサンスなどの伝統的なイタリア文化を称揚し、それをファシズムの偉大さと強引に結びつけようとした。

(田野倉稔『ファシズムと文化』山川出版社 2004. p.33)

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きかった 16。1943 年まで計 16 回、SF は独・伊、ポルトガルに使節団を派遣、

組織体制や団体の運営方法や活動実践などを学んだ。中でもナチス・ドイツ女

子団 BDM(Bund Deutscher Mädel in der Hitlerjugend、以下 BDM)が主要

モデルとなり、民謡・民族舞踊事業に関しても多大な示唆を受けた 17。

 1937 年夏、当時の SF 中央組織の文化・研修部長のカルメン・ウェルナーら

幹部数名が BDM 訪問のため渡独した。ウェルナー は SF の機関紙『Y』1938

年 3 月号に、BDM 主催の音楽ウイーク閉会式で披露されたドイツ女性会員達

による歌と踊りの素晴らしさを伝えた。また BDM 団員の清潔感、品行方正さ

や、団結心、さらには身体能力の高さも絶賛した。ウェルナーは BDM の例に

従い、愛国心の涵養や良妻賢母教育の効果を上げるため、SF の活動にも、合

同演奏や歌唱、体操などを取り入れることを提案した。ただしその導入に関し

てはドイツの方式を丸ごと模倣するのではなく、カトリック信仰などスペイン

の特殊性に十分配慮する必要性も説いた 18。1938 年 4 月、ナチス・ドイツの

「全国女性指導者」ゲルトルート・ショルツ = クリンクの公式招聘を受け、ピ

ラール SF 代表の初渡独が実現した。かの地で SF 代表はヒットラーとの会見

16 田野倉稔『ファシズムと文化』山川出版社 2004. p.32 「音楽という表現方法はイデオロギーを伝達するのに適した媒体かもしれない。オペラの盛んな二つの国、イタリアとドイツが全体主義的イデオロギー支配されたのは偶然の一致ではないようだ。音楽には酩酊を増幅し、認識力を鈍化する効果があるのかもしれない。群衆が一体となってある歌を合唱するとき、個人は意識の外に飛び出して、ある精神の高揚に達することになる。」17 BDM についての日本語の参考文献は、桑原ヒサ子「ナチ女性の社会活動における戦略としての母性 -- ナチ・イデオロギーと女性の地位向上のはざまで」 『人文社会科学研究所年報 / 敬和学園大学』 (9) 2011. pp.37-70 などがある。18 MARTINEZ DEL FRENSO, Beatriz, “La sección Femenina de Falange y sus relaciones con los países amigos, Música, danza y política exterior durante la guerra y el primer franquismo (1937-1943)”, p.364, En Pérez Zalduondo, Gemma y Maria Isabel Cabrera(ed) Cruce de caminos: intercambios musicales y artisticos en la Europa de la primera mitad del siglo XX, Granada, Editorial Univrsidad de Granada. 2010

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

の他、ナチス政府主要機関を訪問、首脳陣と意見交換を行うなど、西独の女性

団体の友好確立に向けて大きな第一歩を踏んだ。以後、継続的に SF 指導者候

補生向けのドイツ研修が実施された。現地ではナチス党大会見学や BDM メン

バーとの合宿、キャンプファイアー、体操セミナー受講の他、BDM の教育施

設見学が行われ、帰国後、その経験が SF の活動の中で生かされることが期待

された 19。

2. 3 SF中央文化部の役割

 その後、ドイツの先例を手本に、SF 内にも音楽やスポーツ活動の導入が試

された。1938 年 1 月の第二回全国総会(Consejo Nacional) にて、「文化・研修

サービス」(El servicio de Cultura y Formación de Jerarquías)が設置され、

SF の中央機関の組織体系が確立された。翌年 1 月の第三回総会では、4 つの

部と共に「文化・研修部」が新設され、以後、SF のフォルクローレ事業は主

にこの部の管轄となった。文化部は、家庭科教育課、研修課、図書館課、音楽

課の 4 つの下部組織で構成されていた 。このように音楽に関係する活動は音

楽課(Departamento de Música)の管轄に置かれ、民族音楽やカトリック音

楽の普及・保存が主な目的とされた 。 

 ピラール代表はこの総会の講演の中で、「国家統一には次の 3 つが基本とな

る。1.国家サンディカディズム 2. 音楽(各地域の民謡が全国民によって知

られ歌われた時、人々の共通理解が深まる。)3. 地域(tierra)」と述べ、愛

国心の発揚や国家統合における「音楽」の重要さを主張した。このように民

謡・民族舞踊は SF の主要活動の一つとなった 20。さらに音楽やダンス活動を

通してスペイン女性の精神文化レベルの向上や「良妻賢母」の育成も目指され

た。SF の文化活動は純粋に芸術を楽しみ、会員の創造性を涵養するというこ

とよりも、政治的社会的意義が最重要視されていたといえよう 21。 

19 MARTINEZ DEL, op.cit., pp 369-37120 LLIZARAZU, op.cit., p239

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齊 藤 明 美

 2. 3. 1 インストラクター養成

 音楽課発足後の緊急課題として、音楽インストラクターの養成があった。

1938 年に著名な音楽家ラファエル・ベネディト監修の下 22、ビーゴにて第1

回目の養成コースが開催された(出席者 20 名)23。以後、2 回目サモーラ(24

名)、3 回目バジャドリッド(36 名)、翌年にはマラガ(18 名)、バルセロナ

(約 200 名)と各地で継続的にコースが実施されるに至った 24。授業内容は、

音楽教授法や民謡・民族舞踊学などの座学と、発声法やコーラス編成法などの

実践科目の二本立てであった。当初は、ダンスよりコーラスに力点が置かれて

いたが、各地で次々とグループが生まれるに伴い、自然と、ダンスも重視され

るようになった。

 ダンスは 1938 年の体育教育課による体育教育指導者養成コース(サンタン

デール)でも体操などと共に教えられ、同年 10 月 29 日の第一回青少年体育発

表会(セビリア)にて 6 つの民族舞踊が披露された。このように、SF のダン

ス教育は音楽課と体育教育課の二つの管轄下に置かれることとなった 25。

 SF 音楽課の次の課題は、各地の民謡を歌うコーラスグループの結成であっ

た。原則として SF 会員のみがメンバーとなれたので、コーラス活動を通し

て、民族音楽の普及のみでなく、地域女性の SF への組織化が目指された。SF

は各地方のグループに、自主コンサートの企画や、地域に伝わる音楽の収集を

要請したが、当初は内戦による物質的精神的損失や予算不足などで期待通りに

はいかなかった。

21 MORALES VILLENA, Amalia, Mujeres, Género, Trabajo Social y Sección Femenina. Historia de una profesión feminizada y con vocación feminista. Granada, Universidad de Granada, 2010, p.32222 その他、詩人ディオニシオ・リドゥルエホ、民謡研究者マルエル・ガルシア・マトス、歴史家・作家ラモン・メネンデス・ピダル、元オリンピック選手ルイス・アステギらがSFの顧問として名を連ねた。23 CASERO, op.cit., p.4124 Ibidem. p.4125 Ibidem. p.47 

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

 2. 3. 2 メディナ・デル・カンポ戦勝祝賀式典

 このような状況の中、1939 年 5 月 30 日、SF 主催のフランコの内戦勝利を

称える式典が、バジャドリード県メディナ・デル・カンポにて開催された。会

場には主賓のフランコや軍関係者のみでなく、ドイツやイタリア女性団体の来

賓も招待され、また全国から約一万人の会員が駆けつけた 26。式典はファシズ

ム、カトリックとスペインの地域性がミックスしたもので、当時のフランコ体

制のあり方を象徴していた。フランコは、内戦中の SF の銃後の貢献に感謝を

述べ、戦後の国家再建期における良妻賢母教育・養成機関としての新たな役割

を示した。そして期待の証として、開催地内にあるラ・モタ城を SF に提供し

た 27。主催者のピラール SF 代表は、「内戦後、私達女性の使命は家庭にあ

る」と述べ、フランコの要請に応じた 28。以後、SF は従来のファランヘとい

う政党の枠組みに留まらず、全国の女性を国家精神(espíritu nacional)の下

に統合、教育する管制女性団体としてフランコの国民運動に組み込まれること

になった。

 式典の中で一際目を引いたのは会員によるコーラスと踊りであった。ベネデ

ィット監修による 2000 人のコーラスや体操発表の他、各県の特産物の贈呈式

が行われた。各県の民族音楽をバックに、各地域の民族衣装を身につけた会員

が次々にフランコに特産物(フルーツ)を献上した。軍関係者には手縫いの刺

繍が施された旗が贈られた。この贈呈式のデモンストレーションは SF 使節団

がイタリア研修でムッソリーニを訪問した際、ファシスト党女性団体 Massaie

Rurali から同様の歓迎を受けたことからヒントを得たという。この「農民・

農村」のイメージは、元来農業国であるスペインを支える基盤である認識か

ら、その名の下に内戦で分裂してしまった人々を統合する力を持っていると考

えられた。以後、この農村のイメージはフランコ期の様々な式典に効果的に使

26 MARTINEZ DEL, op.cit., pp378-379, PRIMO DE RIVERA, op.cit., p.14527 RICHMOND. op.cit. p.3228 MARTINEZ DEL, op.cit., p.378

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われることとなった 29。

 また、トレドやグアダラハラなどのカスティージャ地方の民謡の他、セビリ

ア(アンダルシア地方)のセビジャーナス民謡や、ガリシアのガイタやバスク

やバレア―レス民謡など、各地の民族衣装をまとった計 19 地域のグループに

よる歌とダンスが披露され、このメディナ戦勝記念式典は、SF のコーラス・

ダンスグループが初めて公式式典で民族舞踊を披露した記念すべき日となっ

た。

この伝統音楽、民族舞踊と民族衣装の共演が功を奏して集会は盛況のうちに

終了した。ピラールは、同年 5 月雑誌『Y』16 号に「メディナ・デル・カン

ポ集会」を寄稿、「ダンス、歌、民族衣装は SF の将来にとって重要な3つの

要素になる」と主張した 30。

 また 1939 年の第3回 SF 総会にても SF 代表は、音楽や舞踊の人々の心を一

つにする力とその政治的利点について、以下のように示した。

 「カタルーニャ人がカスティージャの歌を歌い、カスティージャ地方でも

サルダ―ナ(バルセロナの民族舞踊)や el Chistu(バスク地方のたて笛)

が知られ、アンダルシアの民謡の持つ深淵さと哲学が理解され、……五万か

ら六万人の様々な出身地の人々が一つの歌を合唱するために集まった時、そ

の時こそスペインの人々や地域が一つになったといえるのではないか。」31

 フランコは内戦後、マドリードを中心とする中央集権体制の下、地方自治を

廃し、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語の公共の場での使用を禁止し

た。これらの地方の音楽を推奨するピラール代表は一見矛盾しているように見

えるが、はたしてそうであろうか。彼女は自叙伝にて、SF の文化事業の相談

29 ORTIZ. Carmen, op.cit.30 MARTINEZ DEL, op.cit., p.37931 Juan de Alcaraz “El arte mucial en la nueva España. La Falange quiere que se cante bien”, Fotos, seminario nacionalsindicalista, 27-1.1940(MARTINEZ DEL, op.cit., p.382)

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

役であった学者ラモン・メネンデス・ピダルの「本物の探求、各地に根付いた

文化を尊重することが大事。」に言及した上、「各地の特殊性を尊重するために

も、カタルーニャ、バスク、ガリシアの人々はそれぞれの言葉で歌うが、それ

はあくまでもスペインという一つの共同体の範疇の中で認められるのだ。」と

述べている 32。カタルーニャやバスク語の歌詞を独立した「言語」ではなく、

「スペイン語の一方言」と位置づけることにより、民族音楽の多様性をあえて

認め、彼らの独立意識の「ガス抜き」の役目を期待したのだろう 33。

 このメディナ・デル・カンポ集会の成功の後、会員による歌と踊りの発表は

SF のみならず政府の公式行事に欠かせないものとなった。 1940 年の第一回

内戦戦勝記念日にも、当時マドリード県の文化部長で、後に 30 年以上 CYD

の責任者となったマリア・サンペラージョの提案により、全国各地広場に SF

会員が集まり、歌とダンスで記念日を祝った 34。

 2. 3. 3内戦後の独伊管制女性団体との関係

 さてここで内戦後の SF と独・伊女性団体との関係について少し述べた

い 35。SF はフランコ体制の下部組織であったので、中央の外交方針の影響を

受けたのは当然だった。1939 年 9 月、ドイツによるポーランド侵攻で第二次

世界大戦が勃発したが、スペインは内戦後の疲弊を抱えていたこともあり、中

立を宣言した。その後も、1940 年 6 月には非交戦、1943 年 10 年には中立に戻

るなど、枢軸国と連合国の間でバランスを取りつつ戦況を伺った。SF はこの

方針に従い、1941 年 2 月にフランコがムッソリーニと会見を行うまで、これ

まで盛んであった独・伊管制女性団体との相互公式訪問を中断した。だが、こ

32 PRIMO DE RIVERA, op.cit., pp. 24933 しかしこの多文化への「寛容さ」も 1944 年 3 月に方向転換され、出身地以外の歌 と 踊 り を 学 ぶ こ と が 禁 止 さ れ た。Circular 222 Delegada Nacional 1944 3.10

(CASERO, op.cit., p.46)34 CASERO, op.cit., p. 4735 MARTINEZ DEL, op.cit., p.385

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の間、全ての交流が途絶えたわけでなかった。SF 機関紙『Y』30 号(1940

年 7 月)には、1940 年夏にマドリードの SF 幹部養成学校にて、イタリア人講

師による屋外リズム体操(cultura rítmica)の講座が開かれたことが記録され

ている 36。同年 11 月にはマドリードで同講座の発表会が行われた。シューマ

ンの曲の伴奏でリズム体操が演技されたが、『Y』34 号にも「初めてスペイン

でリズム体操の教育的効果を示した行事であった」と評された 37。

 1941 年に枢軸国間の女性団体の交流が再開されると、同年 4 月 30 日には、

独 BDM 幹部養成学校一団(校長1名、成績優秀者 12 名、BDM 幹部数名)

の 7 週間のスペイン訪問が実施された。一行はサンタンデ―ルやバルセロナな

どの SF 施設にて講習会や行事に参加、マドリードではピラール代表と会見、

組織や活動についての意見交換を行った。各地の訪問先では、現地の SF 会員

による歌やダンスの歓迎を受けたという。SF の対外文化交流の研究者ベアト

リス・マルテイネスは、「歌・ダンス・スポーツ」は、「1、言葉が通じない者

同士のコミュニケーションの手段として有効。2、グループでの演技は、規律

性と一体感を示す方法として良い。しかも軍隊行進よりも柔和で芸術的。」と

その政治的有益性を述べている 38。

3 SF「コーラスとダンス」事業の本格化

 これまで SF の活動において「コーラス」と「ダンス」が本来の娯楽や芸術

の枠を超え、どのように教育的(女子の情操教育、体育、規律心)、政治的目

的(共同体の一体化)を与えられたのか、または式典等で「ショー」として利

用されるようになったのか、その経緯を概観してきた。この章では、これらの

活動がどのように SF の組織に本格的に組み込まれ、いかなる使命を与えられ

36 “Educación física. Labor de la Delegación Nacional de la Sección Femenina como preparación de los mandos” Y, 3037 “Las camaradas de la Falange en un recital de danzas”, Y. 34 (noviembre de 1940) (MARTINEZ DEL, op.cit., p 389)38 MARTINEZ DEL, op.cit., p.392

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

たのかを考察する。

3. 1 「コーラスとダンス」の組織化

 コーラスとダンスの潜在力を SF の活動の中で最大限に発揮するためには、

実際に演技するグループの結成が大前提となった。SF 研究のパイオニアであ

るガジェーゴによると、1941 年の時点で、すでに全国で 284 のコーラスグル

ープ、27 の舞踊団、計 5558 名が活動していたという 39。これらのグループ

は、主に音楽インストラクター養成コース卒業生を中心に、各地域の住民や学

校、SF 少女団などの単位で結成された。メンバーは、インストラクターの指

導の下、週一回ほど集まり練習に励んだ 40。

 SF 以外にも、政府垂直組合の労働者向けに文化、芸術、スポーツを推進し

た「教育と休暇」も、コーラス・ダンスグループを組織していたが、プロ志向

で男性メンバーも存在したのが特徴であった 41。一方、SF はアマチュアで、

あくまでも音楽を通した女子教育を主眼としていたことが「教育と休暇」と大

きな違いである 42。

 1942 年の第 4 回 SF 全国総会には、文化部内に「コーラスとダンス」の担当

機関が正式に設置された 43。以後、これまで場当たり的に行われてきたコーラ

スや舞踊の活動は、中央からの指令に従い組織的に編成されることになった。

同年 SF 教員向け雑誌『Consigna』別冊に SF による各地の民謡や民族舞踊の

発掘や保存に関する特集が組まれ、大々的に宣伝された 44。

39 GALLEGO. op.cit. p.81 一年後の 1942 年、全国のグループ数は約 350 に増えた。(LIZARAZU.op.cit., p239)40 CASERO, op.cit., p.4841 垂直組合の「教育と休暇」について : Molinero, Carme. La captación de las masas. Política social y propaganda en el régimen franquista. Madrid, Cátedra, 2005. pp.145-15142 AÑÓN BAYLACH,Amparo, MONTOLIU SOLER Violeta, “Los coros y danzas de España, Transmisores del patrimonio cultural valenciano”, (http://www.racv.es/files/Los_coros_y_danzas.pdf) p.11. p.21.43 Ibidem. p.9

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3. 2 学校教育における音楽とダンス

 学校教育においても、音楽とダンスの女子教育への効果が期待された。1939

年 12 月 28 日勅令により SF はフランコから正式に女子教育を任され、1941 年

6 月 30 日省令にて、全国の女子高等学校で「家庭科」「体育」「政治」の三教

科が SF 講師により指導されることとなった。音楽は裁縫や料理と共に「家庭

科」に、ダンスは「体育」のカリキュラムに組み込まれた 45。またこの三教科

は 1944 年には中学校 46、1946 年には小学校でも必修科目となり 47、学校教育

における SF の影響力の強化が伺える。また、SF 主催のキャンプファイヤー

や林間学校などの課外活動の場でも、少女達の規律心や情操教育の一環とし

て、歌、ダンス、体操が積極的に取り組まれた。

 とりわけダンスは、伝統的な性役割意識に基づいた「女性らしい動き」の身

体観を植え付けるために絶好であった。この身体観は「君たち女は子供を産

み、君たち男は働け」と男女の身体的差異に着目した医師グレゴリオ・マラニ

ョンや、「身体的特徴から女性の役割は家事・育児に限定するべき」としたロ

ーマ教皇レオ 13 世の社会回勅「レールム・ ノヴァールム(新しきこと)」

44 AMADOR CARRETERO, Pilar, “La mujer es el mensaje, Los Coros y Danzas de Sección Femenina en Hispanoamérica”, Feminismo/s, 2, diciembre, 2003 p.10345 AMADOR CARRETERO, op.cit., p.103 SF の女子体育教育については ZAGALAZ SÁNCHEZ, María Luisa “La educación física femenina durante el franquismo. La sección femenina” Apunts, 65 2001, pp.6-16, ARAQUE HONTANGAS, Natividad,” la educación física como moldeador del cuerpo y de la mente en el Instituto Femenino de Enseñanza Media Isabel la Católica, de Madrid(1939-1984), Cuadernos Unimetanos 21, 2010, pp.9-2046 FERNÁNDEZ JIMÉNEZ, op.cit., p.22447 RICHMOND, op.cit., p.224 女性雇用は大変不安定で低賃金であった。1996 年、リッチモンドが行った元 SF 構成員のヒアリング調査によると、小学校の課外活動に従事した SF 指導員は無給であったという。国立講師養成学校卒業者で中等学校教育の正規の授業(家庭科など)を行った者も大部分はパートタイムで、複数の学校を掛け持ちしても平均して月に 200 ~ 300 ペセタしか稼げなかった。(RICHMOND, op.cit., p.208)

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

(1891)や「夫は頭脳、妻は心」「女性の使命は妻になることであり、夫に従

わなければいけない」と述べたピオ 11 世教皇「カスティ・コンヌビイ(結婚

の倫理)」(1930)等のカトリック回勅などが理論的な裏付けとなっていた。

おとなしく、たおやかで、礼儀正しく、控えめだが愛嬌のある身のこなしが求

められる一方、腰を振りながら歩くなど男性を刺激するような動作は批判され

た 48。

3.3 「全国コーラスダンスコンクール」の開催

 1942 年に「コーラスとダンス」が SF の組織に正式に組み込まれて以来、特

筆すべきこととして「全国大会」の開催がある。このコンクールは、ピラール

代表の、「音楽インストラクター学校卒業生の地方での活躍への期待と、その

成果の発表の場を提供したい。」という意向から始まった。1941 年に、SF 音

楽課にて準備が開始され、翌年 2 月 27 日に第一回全国コーラス・ダンスコン

クールが開催されるに至った。この大会はコーラス部門、ダンス部門、コーラ

ス・ダンス合同部門で構成され、3 つの地方予選(県→地方→ブロック(全国

で4区)を勝ち抜いたグループが、マドリードの全国決勝大会に出場、それぞ

れ 2 つの課題曲と自由曲1曲を披露した 49。第1回大会には、38 県から 74 の

コーラス、24 のダンス、18 の合同グループが出場、バルセロナのグループの

優勝にて盛会のうちに閉幕した 50。カセーロは、その成功の理由の一つとし

て、参加者は内戦後の鬱屈した気持ちを歌と踊りで晴らそうとしたのではと考

えた 51。

48 MIRAMONTES BUSTO, Beatriz, El poder en el folklore: los cuerpos de No-Do (1943-1948), TRANS, revista transcultural de música, 16, 2012, pp.9-11 (http://www.sibetrans.com/trans/articulo/407/el-poder-en-el-folklore-los-cuerpos-de-no-do-1943-1948)49 CASERO, op.cit., p.48 50 ORTIZ, Carmen “Forclore, tipismo y política. Los trajes regionales de la Sección Femenina de Falange. Gazeta de Antropología, 2012, 28(3) http://www.gazeta-antropologia.es/wp-content/uploads/GA-28-3-01-CarmenOrtiz1.pdf51 CASERO, op.cit., p.48

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齊 藤 明 美

  ま た こ の 大 会 は、 国 の 文 化 管 轄 機 関 で あ っ た 国 民 教 育 事 務 次 官

(Vicesecretaría de la Educación Popular VEP)の民謡・民族舞踊振興政策と

一致したので、国家機関による宣伝の後押しを受け、大会成功に有利に働い

た。マドリードの全ての新聞メディアは、VEP から大会の告知と記事を掲載

することを義務づけられたが 52、このことは SF の民謡・民族舞踊事業が、国

の文化政策の枠組みの中に位置づけられたことの表れと考えられる。

 この全国大会は 1942 年から 1976 年の間に計 20 回行われ 53、特に 1940 年代

後半から 1960 年前半が全盛期であった。参加者数も回数を重ねるたびに増

え、1943 年の第二回大会では、コーラス 203 グループ(5075 人)、ダンス 114

グループ(1368 人)が参加した。当初は、コーラスが多かったが、17 年後の

第 14 回大会(1959 - 1960)ではコーラス 920 グループ(18556 人)、ダンス

1572 グループと(23378 人)が参加し、コーラスからダンスへと人気の変化

が見られた。審査については、歌や踊りの実演と共に、作品のオリジナル性

(新たに発掘された民謡であれば高得点)やその正統性、衣装なども評価の対

象となった 54。

 カセーロは、初期の大会の審査員の大部分が男性により占められていたこ

と、また男性の参加は楽器演奏のみ認められ、男性の踊り手は 1960 年代前半

まで認められなかったことなどを例に、コンクールの場においても審査する側

(男性)、審査される側(女性)という性役割分担が見られたことを指摘してい

る 55。

 フランス人研究者 BARRACHINA, Marie Aline は、ファシズムの特性であ

る大衆扇動手法の観点から「SF は当初、大人数による体操発表(マスゲーム

のような)などの全体主義的な趣向を目指していたが、この全国大会開催によ

52 PÉREZ ZALDUONDO, op.cit., p.88353 CASERO, op.cit., p.48-49 1960 年代後半から 2 年に一度の開催となった。(AÑÓN BAYLACH. op.cit, p.13)54 LLIZARAZU, op.cit., p.24255 CASERO, op.cit., pp.48-49

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

り地域の小規模グループによる民謡・民族舞踊の舞台発表へと方向変換し

た。」と述べている。第二次世界大戦時の枢軸国の弱体化に伴い、次第にファ

シズムから伝統主義、国家カトリック主義へと重心を移していったフランコの

姿勢が明確に表れているといえよう 56。

 SF はこのコンクールにどのような意義を求めていたのか。まず、各地域で

忘れ去られていた古い民謡や舞踊を実際に観衆の前で発表し鑑賞することによ

って、五感を通してスペインの精神や、愛国心の涵養を図ろうとした。また上

位入賞を目指すことで、チームの団結力も生まれ、自然と地域の活動も活性

化、それによる新規グループの増加も期待されたと思われる。当時、公共の場

で歌ったり踊ったりすることは風紀を乱すと咎められていたが、SF の活動は

特別に容認されていたので、SF は「コーラス・ダンス」という誰にでも親し

みやすい余暇活動を「餌」に、新規会員増加を狙ったのだろう。

4 「創られた伝統」:SF版民謡・民族舞踊の形成

 SF の民謡・民族舞踊政策の一環として、コンクールと同様、各地域の民謡

や舞踊の収集、保存、普及が大きな課題とされたが、具体的にどのような取り

組みがなされたのか。

4. 1 民族音楽・舞踊の収集

 ここでは収集活動の手順について、カセーロの研究を参考に明らかにした

い。当初各地で編成されたコーラス隊のレパートリーを充実させるため、SF

文化部音楽課が音楽教師養成コース卒業生へ、出身地の伝統音楽の収集を要請

したのが始まりであった 57。当初、異なる地域の歌やダンスが混ざりその正統

56 BARRACHINA, M. “Notas sobre los Coros y Danzas de la Sección Femenina (1938-1952)” en Els Orígens de les Associacions Corals a Espanya, J. Carbonell i Guberna. 1998, pp. 109-118 57 CASERO. op.cit., p42

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性が薄れるのを避けるため、各地域の SF のコーラスグループは、それぞれの

出身地の民謡のみ扱うことが許されていた。そのため、レパートリーを充実さ

せるためにも、各地の「埋もれている」民謡の「発掘」が緊急課題となった。

以後、SF 文化部音楽課の指示を受け、音楽インストラクターなどの専門家や

地方会員、協力者等により「草の根」の収集活動が行われた。以下、具体的に

収集の手順を見ていきたい。

 第一段階として収集対象となる作品の選別がなされた。地域を代表する民謡

が対象となり、現代的なものや、カトリック精神、フランコ体制に反する作品

は除かれた。また作品を決めるにあたり、必ず事前に中央の許可を得なければ

ならなかった。

 まず、各市町村支部から県支部文化部へ候補作品リストが提出され、県の審

査を通った物のみ、中央の文化部音楽課へ引き継がれ、そこで最終的な判断が

下された。カセーロによると、必ずしも全ての市町村に SF の地方支部が設置

されていなかったことや、文化部が不在の県支部が存在したことも、調査に対

する会員のモチベーションやデータの信ぴょう性においての地域差が見られた

原因としている。

 中央音楽課の許可が下りると、第二段階に進み、中央より派遣された担当者

による現地調査が行われた。この調査団は一般的に、振付記録担当者1名と、

歌詞・楽譜記録担当者1~2名より構成され、主に音楽教員や CYD メンバー

などが駆り出された。活動資金も出たがその額は少なく、担当者は2、3日し

か現地に滞在できなかった。またその収集方法も、中央から実践的かつ適切な

指導を受けることが少なく、現地に向かった担当者は、各個人のやり方でデー

タを集めた。その結果、調査データが統一性に乏しいという事例が、カセーロ

による元 CYD 団員のインタビューから報告されている 58。この資金不足と担

当者教育の問題は、地域による取り組みの「温度差」にもつながった。特に資

58 CASERO, op.cit., p.83

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フランコ体制期下の民謡と民族舞踊における「創られた伝統」

金面に関しては、当然のごとく、SF の予算のみでは不足したので、裕福で音

楽や地域ナショナリズム意識の高いバルセロナなどの地域では、より多くの個

人寄付が集まった。また、SF の資金は全国一律ではなく、前年度のコンクー

ルでの実績によって定められていたので、大会成績が良い地域ほど増額、その

逆の場合は減額された。加えて収集係員や協力者の資質も地域により大きな差

があり、これらの要素も、最終的なデータの良し悪しに反映されるに至っ

た 59。

 通常、現地調査には SF の地区幹部、地域のCYDメンバーや音楽教員が携

わったが、なかでも「移動教室(Cátedra Ambulante)」という寒村への教育

と文化の普及を目指した移動式学校の教員の協力が不可欠であった 60。移動教

室の担当者は、短期間しか滞在しない中央派遣の調査委員と異なり、3 カ月ほ

ど現地に定住したので、地域住民と密接に関わる機会に恵まれていたからだ。

また、地元の人々から民謡作品を収集するのみでなく、彼らにその振付や歌を

指導し、地域の「伝統芸能」の保存にも協力した。「移動教室」最終日には発

表会を行い、生徒による地方の歌と踊りが披露されたりした。

 第三段階は、地方で集めたデータを質問票に記入し、マドリッドの音楽課に

ファイルを送ることであった。質問票の内容は、全国共通で項目は以下の通り

である。

1作品タイトル、2派遣地、3作品発祥の地、4収集場所、5振付詳細、6 コン

パスとリズム、7 発祥年、8必要な楽器とその数、9必要な踊り手の人数、10

由来、11 歴史、12 伝承者、13 伝承者の履歴、14 初演グループ名と日付、15 コ

ンクール出展の有無、日付、16 その他、17 衣装、18 ダンス伴奏 Copla 付属音

楽(歌詞と楽譜は添付)。

59 CASERO, op.cit., p.87 60 LLIZARAZU, op.cit., p.241

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また書類の末尾に県の文化課担当者と収集実施協力者2名の署名が必要とされ

た 61。

 カセーロはマドリード、サモーラ、グアダラハラ、アリカンテから提出され

た 4 つの調査票を検討したが、情報の濃淡には個人差が見られ、また多くの情

報が不明確で約全体の 4 分の1のみ信憑性に問題が無かったという。このよう

な情報の不確かさは、前出の資金面や担当者の資質の問題の他、内容の充実よ

りも数を求めた中央文化部の姿勢が表れているという 62。

4. 2 「南のファンダンゴス」を例に

 次に視点を変えて、一つの作品がどのように SF によって収集・習得・普及

されたのか、またその産物としての「創られた伝統」について考察したい。そ

のために「南のファンダンゴ(Los fandangos del Sur)」という民謡を扱った

ベルランガの論文「ファランヘ SF における民謡・民族舞踊の活用:グラナダ

を例に」を紹介したい 63。

 「南のファンダンゴス」は、20 世紀初頭まで、スペイン南部グラナダのお祭

りやお祝いの場でよく歌い踊られた民謡である。ギター、打楽器、バイオリン

の演奏の下、老若男女とも自由に歌い踊ったという。基本的に楽器と歌は、そ

の土地のアマチュア男性が担当し、ダンスは大部分の住民が踊れたという。こ

の民謡は、19 世紀までに祝祭の場でよく演奏された「油灯の踊り」(Bailes de

candil)が原型となっている。この「油灯の踊り」は、参加者の楽しみだけで

はなく、村に住む男女の出会いや、交際の公式表明などの「社交の場」として

の役割も果たした。また、歌、踊り、楽器演奏とも、即興が基本で、「愛の告

白」等を即座に歌詞に織り込まれ、地域の方言もふんだんに用いられ、郷土色

61 CASERO, op.cit., p.9162 ibidem, p.9463 BERLANGA, Miguel Ángel, “El uso del folklore en la sección femenina de Falange: el caso de Granada”, en Henares, Ignacìo(ed.) Dos décadas de cultura artística en el franquismo (1936-1956), pp.115-134 

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豊かであった。また演奏者の他に、「踊りの長」(Alcalde de Baile)という仕

切り役が置かれ、主に喧嘩の仲裁や男女間の仲介に当たった。

 1940 年代に SF によって「南のファンダンゴス」の収集が開始されたが、当

時、一部の農村部 64 やお年寄りを除き、既に一般人の間では忘れ去られてい

たという。このような困難な状況の中、どのような収集活動が行われたのだろ

うか。

 まず、情報提供者を探すことから始まった。大都市よりも高齢者の多い小規

模農村が主に調査地として選ばれたが、現場では拒否されることも多く、協力

者集めは簡単ではなかった。農作業などの仕事がひと段落する夕方、集会場な

どに土地のお年寄りに集合してもらい、そこで実際に歌い踊ってもらった。S

F係員はそれを見ながら、その場で振付や歌詞、リズムを覚え記録したが、こ

のデータ収集作業は容易ではなかったという。ベルランガは次のように収集作

業に関する問題点を整理した 65。1)協力者不足(作品の形骸化による)、

2)専門知識の欠如(協力者や SF 担当者とも、音楽や舞踊の専門知識に乏し

かった)、3)機材の問題(当初、録音機は無かった)、4)口承伝達 5)時

間不足(数日の滞在)。

 このような悪条件の中、SF によって記録された「南のファンダンゴス」

は、引き続き SF インストラクターや CYD メンバーによって習得され、都市

部の小・中・高校や SF の施設等にて様々な年代の女性達に教えられた。また

コンクール出場を目指す CYD グループのレパートリーにも加えられた。

 べルランガはこの収集・習得の過程で、SF により作品に手が加えられたの

ではと指摘している。先述の通り、情報収集活動は物質的、技能的にも困難を

極めたので、適宜、データの「空白」を埋めるために情報の補てんが行われ、

64 ネバダ山脈山麓のアルプハラや地中海沿岸のサロブレーニャ、アルムニェカルの農地の他、北東地方の小村など。65 BERLANGA, op.cit., pp.128-129

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意図的なアレンジも多く見られたという。またコンクール上位入賞が狙えるよ

う、審査委員受けするような作品に作り変えられた。大会では都会的で洗練さ

れたものが好まれたので、「男女の情愛」や「祭りの要素」等、本来の土着性

が薄められた。またコンクールでは上演時間が定められているので、振り付け

や演奏、歌詞に至るまで前もって準備されたものが演技され、その結果、元来

「南のファンダンゴ」が持っていた即興性が否定された。ダンスの隊列に関し

ても、観客や審査委員へのアピール効果を狙い、本来の一組のペアを囲むU字

型から複数のペア構成へと、より舞台映えするものに変更された。歌い方にも

洗練さが追及され、歌詞の一小節を細かい音符で引き伸ばして歌う「メリスマ

(melisma)」やこぶし、地方の方言や訛りなどが避けられ、歌い手の個性や歌

の持ち味が削がれた。また出演者も前もって決められており、以前頻繁に行わ

れていた客席からの「飛び入り」もご法度となった。

 このように SF 版「南のファンダンゴス」は、本来の純粋に参加者全員が楽

しむお祭りの要素や、男女の出会いなどの社交の意味合いが排除され、舞台用

の「エンターテイメント」として洗練された作品として再生し、結果として、

本来の郷土色が薄れることになった。

4. 3 SFによる民謡・民族舞踊の創作

 このような SF による民謡・民族舞踊の作為的な「創作」は、全国各地でも

行われた。特に「過激な男女の情愛」を含む振付や歌詞は、カトリック信条に

反するとされ削除の対象となった 66。本来、男女ペアが基本のセビジャーナス

(セビリアの踊り)も、CYD においては 1950 年代まで女性同士で踊られた 67。

66 古くからカトリック教会にとって典礼的規律から外れる「激しい欲情を解放するダンス」は異教徒的慣習と見なされ、禁止制裁や教皇教令によって制限の対象となった。トレド公会議(587 年)、「ダンスあるいは輪舞の淫らな動きに対する」教皇ザカリアスの教令(774 年)、「教会内での女性によるダンス」を非難した教皇レオ5世説教、「聖なる場所での輪舞と聖務の間のダンス」を禁じたトリエント公会議

(1562 年)詳しくは アニエス・イズリーヌ『ダンスは国家と踊る』慶応義塾大学出版会、2010、pp.12-13

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また集落の長が 6 人の女性から花嫁を選ぶ様子を描いた「エル・コリ・コリ

(el corri corri)」というスペイン北部ヒホンの民族舞踊も、SF によって聖母

マリアを讃える女性コーラスを付け加えられたことによって、元来の意味合い

が薄められた 68。

 このような SF による「創作」は民族衣装にも適応された。カトリックの教

義に倣った「慎みのある」服装が推奨され、体のラインが強調されないよう、

胸元は浅い襟ぐり、また夏でもストッキングや長袖の着用が求められた。さら

にターンなどでスカートがめくれてしまった時に太ももを隠すため、「ポロ

ロ」という膝丈の白い半ズボンの着用も義務付けられた 69。

 民族衣装は、民謡やダンスと共に SF の民謡・民族舞踊収集・普及活動の三

本柱の一つとなったが、その状況は 2012 年のカルメン・オルティスの論文に

詳細に説明されている 70。オルティスはその論文の中で、各地の民族衣装につ

いて、従来のものと SF 版コンクール用衣装との比較を行い、どのような変化

が見られたか分析したが、歌や踊りと同様、衣装においても SF による「創

作」が見られたと述べている。例えば、地味な労働服よりも、舞台映えするお

祭り用の華美な服が衣装として選ばれ、またその際、踊りやすいように軽い生

地に変えたり、スカート丈を短くしたりしたという。

 このようにフランコ期の民謡・民族舞踊は、歌詞、振付、衣装にいたるま

で、規制の対象となった。SF の手により、各地の民謡は、本来の娯楽性や男

67 新しい時代に対応するため、1957 年より CYD 全国大会に男性ダンサーの参加が認められた。また 1962 年からすべてのグループに男性参加が義務付けられた。ミラモンテスは女性が男役をやる場合でも、「男役」は「女性役」と比べより力強く踊り、より高く飛んだり腕を上げたりしていたと観察している。(MIRAMONTES, op.cit., pp.15-16)68 CASERO, op.cit., p.6469 「ポロロ」は今でも民族舞踊の衣装の下着として使われている。70 ORTIZ, Carmen, op.cit.

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女の出会いなどの社会的慣習、土着の要素が削除され、カトリックに基づいた

女子教育(精神と身体面)や政府プロパガンダ政策に沿うよう、様式化、洗練

化された作品として「再生」された。

4. 4 SF版民謡・民族舞踊の普及

 これまで概観したように、SF はフランコ体制下の政治・文化政策に沿った

「新しい民謡・民族舞踊」を創ったが、その普及の段階で何が起こったのであ

ろうか。

 民謡・民族舞踊の「画一化」がその一例として挙げられる。例えば、前出し

たファンダンゴに関しても、実際は村単位で多種多様な形式が存在していた

が、コンクール上位入賞を目指し、多くのグループは地元のものでなく、成績

優秀地域の振付を模倣した。その結果、ある特定の地域のファンダンゴのみが

「スタンダート」として演じられるようになった。皮肉にもコンクールの実施

により、元来豊かであった各地の民謡の多様性が失われるに至った 71。

 さらに興味深いのは、この画一化された SF 版民謡・民族舞踊が、現在のス

ペインにて「伝統音楽・舞踊」として紹介、普及され続けている点である。リ

サラスによると、今日グアダラハラ地方で伝えられている民謡・民族舞踊の大

部分は、SF によって発掘・普及されたものであるという 72。他の地域でも同

じ状況が見られるが、これは 1975 年のフランコ没を受け 1977 年に SF が消滅

した後でも、引き続き多くの地域にて旧CYDメンバーを母体とする団体によ

り民謡の保存・普及活動が継続されたことと大きく関係している 73。

71 以前は地方ごとに異なる歌詞が歌われていたが、SF 版のファンダンゴは単に、「“Viva Guadix es mi tierra.”(我が故郷、グアディックス万歳)」など単に地名を入 れ 替 え た だ け で「(地 名 ) の フ ァ ン ダ ン ゴ 」 と 呼 ば れ る よ う に な っ た。

(BERLANGA, op.cit., p.129)72 LLIZARAZU, op.cit., p.24573 特にポルトガル国境沿いのエストレマドゥーラやムルシア、マドリード、グラナダ、レバンテ地方で盛んである。

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 またこれらの団体の活動が、刺繍、布、仕立てなど民族衣装制作に欠かせな

い伝統工芸の継承や産業の生き残りに一役買っていることは注目すべき点であ

る。

 フランコ時代では、SF により国の民謡・民族舞踊事業が独占されていた

が、フランコ政権崩壊後、次第に SF の流れをくまない団体も次第に現れ、SF

によって失われた本来の古い民謡の復元・普及が徐々に行われていることも見

逃せない 74。

 各地で SF 会員らが収集した民謡・民族舞踊のデータは、SF 中央音楽課に

て専門家により整理された後、その多くが唱歌集、民謡や民族舞踊の教本、学

術書や民族衣装のカタログとして編纂された 75。1953 年には SF により『スペ

インの歌と踊り(Canciones y danzas de España)』が出され、SF 文化顧問の

ラモン・メネンデス・ピダルにより以下の巻頭言が寄せられている。「SF の

スペイン民謡・民族舞踊の発掘・保存の継続的な活動は誠に称賛に値する。今

回初めてこのような出版物が誕生したが、短期間でこのような立派な成果を出

せたのは素晴らしい。この本は、人里離れた村々に伝わる美しい民謡・民族舞

踊をその色彩と優雅さとでもって完璧に再現している。」76

 数ある SF の民謡に関する書籍の中でも、1942 年に FET 青少年戦線(Frente

de Juventudes)によって編纂、出版された『SF 歌集(Cancioneros)』はとり

わけ重要と考えられる。これは、全国の児童、学生への推薦曲を集めたもの

で、各地の SF 施設、初等中等教育の音楽の授業にて使用された。内容は 6 部

74 AÑÓN BAYLACH, op.cit., p.2775 音楽顧問であったラファエル・ベネディトは FET より『La música através del tiempo』 を、フォルクローレ研究家でSFの顧問も務めたマヌエル・ガルシア・マトスは SF からマドリード、エストレマーラなどの地域別のフォルクローレ解説書を出した。また 1967 年から 3 年間、民族衣装の郵便切手シリーズが販売された。76 Canciones y danzas de España, SF de FET y JONS, 1953, p.1 (CASERO, op.cit., p.112)

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構成で、総数訳 600 ページの中に、1)各地の民謡 339 曲 2)クリスマスキ

ャロル 40 曲 3)古歌、ロマンセ 72 曲 4)コーラス 50 曲 5)宗教歌 22

曲 6)FET 党歌1曲が集録されている。低学年は斉唱、高学年は合唱へと

習熟段階を踏んだ構成になっており、最終的にコーラス隊結成を目標としてい

たことが伺える。またプロローグには「スペイン民衆の精神の自然な共鳴であ

るスペインの代表的な歌を親しむことによって、少年少女達は愛国心を養い、

それにより私達の祖国の完全統一が成し遂げられる。77」と音楽の政治的社会的

使命について明確に述べられている。

 さらに SF の民謡・民族舞踊事業の成果は印刷媒体だけでなく、映像記録と

しても残されている。SF の要請により、1956 から 1976 年までの CYD 全国コ

ンクールの様子が唯一の管制ドキュメンタリ制作媒体 NO-DO により録画され

たものが、現在マドリードの国立フィルムライブラリーに保管されている 78。

さらに教育・スポーツ・文化省 HP(2013 年時点)にて 234 のコーラス・ダン

スグループの実演VTRを見ることができる 79。

 また民族衣装もアルゼンチンのスペインアート美術館に衣装、装飾品含む計

728 点が展示・保管されている。これは 1947 年夏にアルゼンチンのペロン大

統領の妻、エバ・ペロンがスペインを訪れた際、ピラール SF 代表が贈呈した

全国 50 地方のコーラスグループの民族衣装コレクションであり、スペイン本

国のものよりも状態も良く充実した内容となっている 80。またアルゼンチン文

化省のデジタルコンテンツ事業の成果により、インターネットからの閲覧も可

能である 81。

77 Cancioneros, SF de FET y JONS, Madrid, . 1943. p 7 (http://www.cervantesvirtual.com/obra/cancionero--1/)78 MIRAMONTES BUSTO, Beatriz, op.cit., p.2 79 http://www.mcu.es/archivos/MC/AGA/DANZAS/Danzas.html80 ORTIZ.Camen. op.cit.81 http://www.acceder.gov.ar/es/buscador/cd:Museo_de_Arte_Espanol_Enrique_Larreta.67

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5 おわりに

 本稿では、フランコ政権の管制女性団体ファランへ女子部の「コーラスとダ

ンス」が、民謡・民族舞踊の収集・普及・保存を通して、いかに「新国家」の

文化政策に貢献したか、その歴史的意義を検討してきた。

 内戦後、フランコは「祖国の再建」を目標に、政治体制や法制度の確立、イ

ンフラの整備、人口問題の解決のみでなく、カトリック伝統主義とフランコ主

義に基づいたイデオロギーの普及を緊急課題とした。そして教育と文化は「新

体制」に忠実な国民育成のため、直ちに国家による統制対象となった。検閲制

度の下、政府やカトリックに反する出版物、映像、さらには外国文化などが制

限された一方、「新スペイン」正統化のため、レコンキスタや大航海時代等の

「スペイン帝国」の栄光の歴史に焦点が当てられ、民衆に「スペイン性」を鼓

舞するため、各地域に伝わる歌や踊りなどの民謡・民族舞踊が奨励された。

 この民謡・民族舞踊のプロパガンダとしての政治利用は、第二次大戦時まで

友好国であったナチス・ドイツやムッソリーニのイタリアからヒントを得、フ

ァランへ女子部(SF)ピラール代表により具現化された。以後、SF 中央組織

の文化部音楽課が中心となり、指導者養成コースの開講、コーラスグループの

結成、全国コンクールの開催や、各地に伝わる民謡や民族舞踊の収集・保存が

行われた。また女子教育の現場でも良妻賢母教育の一環として民謡の指導がな

された。このように SF はフランコ体制下の民謡・民族舞踊保存・普及に大き

く貢献したが、一方、SF 側も民謡・民族舞踊を会員募集の手段や、体制内で

の SF 自体の生き残りの方便として利用していたことは興味深い。

 また本稿では SF 版民謡・民族舞踊がどのような性質を兼ね備えていたのか

検討した。本来、民謡や民族舞踊は、その土地に住む民衆の日常の営みから自

然に生まれ、お祭りや私的なお祝い事の場で口承伝達されたものである。SF

はその政治利用のため、政府や SF の都合の良い様にそれを「加工・修正」

し、「伝統の再生産」を行ったといえよう。収集、保存、普及の各段階で、歌

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詞、振付、民族衣装などから体制やカトリックに反する要素が除かれ、元来の

即興性や、男女の出会いなどの社会的意味合いも打ち消された。その結果、

SF により民謡・民族舞踊は、民衆の手から奪い取られ、コンクールや公式行

事などで観客に披露される洗練された「ショー」へと変容された。

 現在、民謡・民族舞踊として伝えられている民謡や踊りの多くは、SF によ

り採集・保存されたことや、地方の民謡・民族舞踊グループの多くは旧 SF 会

員が母体となることからなど、1977 年の SF 解散後も、民謡・民族舞踊におけ

る彼女たちの足跡は伺える。その評価は分かれるとしても、ファランヘ女子部

のスペインの民謡・民族舞踊に与えた影響は大きく、SF の民謡・民族舞踊事

業は一定の成功を収めたといえよう。SF の「コーラスとダンス」は、国内に

おける女性の組織化やイデオロギーの伝播手段として貢献したが、中南米や欧

米を中心に海外におけるフランコ政権のプロパガンダの役割も果たした。今

後、この点についても更なる検討が必要である。