初期フランコ体制下における性役割意識の構造: -...

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1 初期フランコ体制下における性役割意識の構造 Ⅰ はじめに 21 世紀初旬のスペイン社会における女性参画は、女性の高学歴化と労働市 場進出などにより、フランコ独裁時と比べ飛躍的に増大したといえる。特に 2004 年に政権に就いた社会労働党による、スペイン初の女性副首相の任命、 大臣職の男女同比率の達成、2007 年実質的男女平等組織法、2008 年平等省の 設立などの一連の男女共同参画政策の効果が大きい 1 一方政府は 2007 年「男女平等戦略的プラン」の序文にて、「スペイン社会に は依然としてステレオタイプや伝統的性役割意識が根強く、これが女性の市民 権行使を阻害している。民主主義の原則はもちろん、スペインが持続的な発展 を遂げるためには女性の能力を有効活用する必要があり、そのためにも性差別 を容認してはいけない。」と現代にも根強い性差別意識が残っている事実を確 認した 2 そして未だにフランコ独裁時代のカトリック国家主義教育の影響が、特に 60 代の管理職世代を中心に残っており、女性の昇進を阻む 「クリスタルの天 井」 の一因となっている 3 。またそれは女性の低賃金、昇進の遅れ、非正規雇用 1 磯山久美子「専業主婦から働く女の時代へ」碇順治編『スペイン』河出書房新社 186-195 2 Ministerio de Igualdad, Plan estratégico de igualdad de oportunidades (2008-2011), 2007 3 齊藤明美「スペインの取り組みと日本への示唆」男女共同参画局『諸外国におけ 初期フランコ体制下における性役割意識の構造: ファランヘ女子部を中心に 齊 藤 明 美

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

Ⅰ はじめに

 21 世紀初旬のスペイン社会における女性参画は、女性の高学歴化と労働市

場進出などにより、フランコ独裁時と比べ飛躍的に増大したといえる。特に

2004 年に政権に就いた社会労働党による、スペイン初の女性副首相の任命、

大臣職の男女同比率の達成、2007年実質的男女平等組織法、2008年平等省の

設立などの一連の男女共同参画政策の効果が大きい 1。

 一方政府は2007年「男女平等戦略的プラン」の序文にて、「スペイン社会に

は依然としてステレオタイプや伝統的性役割意識が根強く、これが女性の市民

権行使を阻害している。民主主義の原則はもちろん、スペインが持続的な発展

を遂げるためには女性の能力を有効活用する必要があり、そのためにも性差別

を容認してはいけない。」と現代にも根強い性差別意識が残っている事実を確

認した 2。

 そして未だにフランコ独裁時代のカトリック国家主義教育の影響が、特に

60 代の管理職世代を中心に残っており、女性の昇進を阻む 「クリスタルの天

井」 の一因となっている 3。またそれは女性の低賃金、昇進の遅れ、非正規雇用

1 磯山久美子「専業主婦から働く女の時代へ」碇順治編『スペイン』河出書房新社 186-195頁2 Ministerio de Igualdad, Plan estratégico de igualdad de oportunidades (2008-2011), 20073 齊藤明美「スペインの取り組みと日本への示唆」男女共同参画局『諸外国におけ

初期フランコ体制下における性役割意識の構造:ファランヘ女子部を中心に

齊 藤 明 美

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の原因となり、男性と同一の労働に携わりながら不安定な雇用形態を強いられ

ている女性労働者の苦悩に繋がっている。

 現代スペインの男女共同参画の状況を考察する際、その前提としてこれまで

の女性の社会的地位や性役割意識の歴史的変遷をふり返ることが重要である。

伝統的にスペインの理想とされる女性像はスペイン・ルネッサンス文学を代表

するフライ ルイス・デ・レオンの『完璧なる妻』に代表されるような「家庭

の天使」であった。また女子教育は良妻賢母教育の事であり、学問は男性の専

売特許とみなされた。女性の仕事も結婚するまでの一時的な「社会勉強」の場

として捉えられ、職種も女性に適職とされていた小学校教師、看護師、図書館

員、事務員、小売業などに限られ、女性の社会活動の場は非常に限られてい

た。このような伝統的な性役割意識は 20世紀初頭、ヨーロッパから新しい思

想を取り入れていた知識人らの間にも見られる。哲学者ホセ・オルテーガ・

イ・ガセットは「男性は論理的で女性は非論理的」と性別による思考力の差を

主張し、彼と同じ「14 年の世代」グループに属した医師であり思想家であっ

たグレゴリオ・マラニョンは男女の身体的差異に着目し「君たち女は子供を産

み、君たち男は働け」と述べた 4。

 この問題を考察する際、フランコ独裁体制の影響を無視できない。スペイン

を共和国派と反乱軍派に二分した市民戦争終了後、総統(カウディージョ)と

して君臨したフランコは、垂直団体と化したファランヘ党を中心に「国民運動

(Movimiento Nacional)」を組織し、中央集権、国家カトリック主義に基づい

た全体主義的な新国家成立を目指した。さらに自由主義、民主主義、共産主義

と同様、第二次共和制時代(1931-1936)に獲得された女性参政権や離婚法

る女性専門職の参画の調査』男女共同参画局 20104 齊藤明美「あるスペイン人女性による戦争と亡命の記録 ―ビクトリア・ケント著『パリの4年間1940-1944』」『駒澤大学外国語論集』 第3号1997

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

などの様々な女性の権利を否定。代わりに伝統的な良妻賢母モデルに回帰し、

女性の活動を再び家庭に限定した 5。このように独裁政権下のスペイン女性は、

男性に従属する「もの」とみなされ、就職、財産の管理などは父親や夫の了承

が必要であり、一人の自律した個人として扱われなかった。

 フランコ独裁体制下の唯一の官制女性団体であったファランヘ女性部

(1934-1977)(Sección Femenina de FET y JONS,以下、SF)は、この良妻

賢母像を全てのスペイン女性に浸透させる教育機関、宣伝機関さらに思想統制

機関としての役割を期待された。 

 本稿では、1975年まで40年間近く継続したファランヘ女性部に関する豊富

な研究蓄積 6 を踏まえ、これまで日本で本格的に取り上げられることの少な

かった SF の活動、使命を明らかにし、1940 年代から 50 年代の初期フランコ

体制における理想とされた女性像と性役割、また女子教育と労働意識に及ぼし

たSFの影響を考察する。併せて、筆者が2002年に行った元ファランヘ女性部

会員でSF講師養成学校卒業生のフランシスカ・ペレス・ガルシアさんのイン

タビュー 7 の結果を通し、内戦、フランコ独裁体制初期に幼少期、青春時代を

5 砂山充子「第12章第二共和国とスペイン内戦」 関哲行、立石博高、中塚次郎編『世界歴史大系 スペイン史 2』山川出版社、2008、105-155頁参照6 SF研究の例として、Encarnación Jiménez. “La mujer en el franquismo. Doctrina y acción de la Sección Femenina”. Tiempo de Historia, nº 83, 1981, pp. 5-15;, María Teresa Gallego Méndez. Mujer, Falange y Franquismo. Madrid: Taurus, 1983; Sánchez López Rosario. Mujer española, una sombra de destino en lo universal. Trayectoria histórica de la Sección Femenina de Falange (1934-1977). Murcia: Universidad de Murcia, 1990;Fernández Suárez,Crónica de la Sección Femenina y su tiempo. Madrid: Asociación Nueva Andadura, 1993、Kathleen Richmond, Las Mujeres en el fascismo español-La Sección Femenina de la Falange,1934-1959-.Madrid, Alianza, 2004等がある。7 フランシスカさんと筆者の出会いは、2001年12月のサラマンカであった。当時の同級生エバさんの下宿先に遊びに行った際、母親の彼女を紹介された。フランコ体制下の女性政策の研究を進めていた筆者にとり、彼女のSFの体験はとても興味深かった。独裁政権が一人の女性に与えた影響、SFという体制側でどのような経験をしたのかという問いに対し、彼女は2002年6月1日、マドリードのご自宅にて1時間半にわたるヒアリングに協力していただいた。

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過ごした一人の女性の人生に与えた独裁政権とSFの影響を分析する。

1 フランシスカさんの生きた時代:スペイン内戦とフランコ独裁体制

 フランシスカ・ペレス・ガルシアさん(Francisca Pérez García)は1927年

4月9日にマドリードにて地元出身のニコラスとエストレマドゥーラ出身のエ

ミリアの次女として生まれた。会社経営の父と主婦の母そして二人の兄弟に囲

まれた幸福な家庭を想像するが、彼女の幼少期は決してバラ色ではなかった。

スペイン内戦が始まった 1936 年に 9 歳だった彼女にとって、共和国側の支配

下にあったマドリードはフランコ派の一家には「針のむしろ」と思われた。

 「両親は共和国側の追跡にいつも怯えていた。兄が捕まりカルタヘナ

(ムルシア県、当時共和国側)に連行されたが、父は直ぐに引き取りに

行った。行く前は黒髪だったが、帰りは真っ白になっていて驚いた。それ

から空腹。恐怖と空腹。これが私の幼少期の思い出。」

 彼女の幼少期がスペイン内戦(1936-1939)と重なったこともあり、その

期間はほとんど学校に通えなかった。終戦直前に、伯父の勧めで一家は郊外に

引っ越し、そこからカトリック修道院系の初等、中等学校に1944年まで通っ

たがそこは居心地が悪く、良い思い出はないという。

 「私の学校は『エリート校』で階級主義がはびこっていた。当時、学内

に二つの階層が同居しており貧富の差がはっきりしていた。私は授業料を

払える富裕層の正規生だったが、貧困層出身の奨学生との扱いの差に驚愕

した。例えば休み時間は違う時間帯に取らされ、奨学生と一緒に遊べな

かった。私達が休憩している間、奨学生は教室の清掃をした。また教会の

ミサでも正規生だけ椅子に座ることを許されたが、奨学生は立ちっぱな

し。彼女達の多くは学校のため、正規生のためにと健気に頑張っていた

が、学校は彼女たちを私たちの一段下に見ていた。私は階級差別が大嫌い

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

であり、学校は嫌な思い出しかない。」

 教員に対しても、「一人だけ好きな修道女の先生がいたが、彼女は戦時中マ

ドリッド中心地で過ごしていたので人生経験が豊富だった。他は世間知らずの

尼僧だった。」と批判的である。また「学内で一番の反逆児」とし服装に関す

る規律を破ることでささやかな反抗をしていたと当時を思い出した。「長そで

を腕まくりすることは禁止されていたが、注意された時だけ従った。」

 彼女が青年期を過ごした 1940年代以降のスペイン社会はどのような状況で

あったか。枢軸国の敗北で終焉した第二次大戦終了後の1940年代はスペイン

にとって厳しい時代であった。1946 年 2 月、国際連合が「ヨーロッパ最後の

ファシスト国家」スペインを排斥決議し、各国大使召還を勧告したが、以後フ

ランコ体制は国際的に孤立した。国内ではファランヘ党、王党派、軍人らを中

心に、国家ナショナリズムと統制経済の下、「スペイン帝国」の復活が目指さ

れたが、国民の生活は内戦の疲弊とその後の国際孤立で苦しかった。だが

1950 年代初頭、米ソ間の「冷戦」が表面化した時から、反共産主義を主張し

てきたスペインは国際舞台に復帰するチャンスを得る。1950 年に国連排斥決

議が解除、1953 年にはアメリカと相互防衛協定を調印し基地提供と引き換え

に経済援助を受けた。さらに1955年には国連に加盟し、国際舞台に復帰を果

たした。以後スペインの経済は回復の兆しを見せ、1959 年にカトリック団体

「オプス・デイ」を中心とするテクノクラートが権力の中枢に参入、経済発展

政策の下、スペインは観光立国として奇跡的な経済回復を見せた 8。

8 フランコやフランコ体制については、関哲行、立石博高、中塚次郎編『世界歴史大系 スペイン史 2』山川出版社、2008、色摩 力夫『フランコ スペイン現代史の迷路 』中央公論新社、2000、武藤 祥「1950 年代におけるフランコ体制の岐路 : 経済成長路線の政治的起源 」『立教法学』76, 279-328 頁 , 2009Javier Tusell. La dictadura de Franco. Madrid: Alianza Editorial, D.L. 1988; Juan Pablo Fusi. Franco, Autoritarismo y poder personal. Madrid: El País, 1985.; Joseph Fontana, (ed.). España bajo el franquismo. Valencia: Departamento de Historia Contemporánea de

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 一見、長期安定と思われるフランコ体制も、国際情勢や時代の変化に機敏に

対応、中心層はファランヘ党員からテクノクラートへと入れ替えられた。以

後、ファランヘ党は国内政治における発言力を減少させたが、SF はその地位

を独裁終了時まで維持した。

 フランシスカさんは内戦直後のフランコ体制成立について「独裁体制であ

り、当時唯一の御用政党(ファランヘ党)の意見が全てだった。また内戦後の

国内は疲弊し、貧困にあえぐ国民は政治よりもその日の食いぶちが第一だっ

た。空腹と失業の重圧の中、人々は国の政治を考える余裕は正直いってなかっ

た。」と当時を思い出した。

Ⅱ ファランヘ女性部の成立と発展

1 ファランヘ女性部の成立(1934年から内戦終了まで)

 次に 1930 年代から内戦終了までの SF の成立と発展について述べる。SF は

1934年にファランヘ党(FEyJONS)の女性部としてサラマンカに誕生した。

1923 年から 7 年にわたり独裁体制を確立した独裁者プリモ・デ・リベラの娘

で、イタリアのファシスト党をモデルにしたファランヘ党創始者のホセ・アン

トニオ・プリモ・デ・リベラを兄に持つピラール・プリモ・デ・リベラが設立

者で、フランコ没 2年後の1977年に組織が解散するまで40年以上一人で中央

代表を務めた。

 SF の黎明期は主に党員やその家族の互助組織として機能し、父親や夫など

を党員に持つ女性を中心に組織された。1936年2月に左派勢力の「人民戦線」

が総選挙で勝利した後、ファランヘ党は非合法化され、同年4月にはホセ・ア

ントニオが逮捕(同年11月処刑される)された。同時にSFも非合法化された

が、SF 構成員は党の地下活動(獄中にいる党員との情報連絡係、武器等の保

la Universidad; Barcelona: Crítica, 1986, Paul Preston, Franco. A Biography, Harper Collins Publishers, London 1993等を参照。

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管など)も受け負い活動を継続した。また1935年から地方支部結成を目指し、

カスティージャ地方、北部の大都市を中心に全国行脚し、県、市町村レベルへ

と組織は序々に拡大していった。ピラールの自伝に、訪問先で人々に党歌で後

に「国民運動」の公式歌となった「太陽に顔を向けて(Cara al sol)」を教え、

一緒に歌ったことが記されている 9。 1936年12月にSFの最初の綱領が制定

され、「祖国や偉大なスペインの伝統を愛し、未来の『スペイン帝国』の発展

のための素地の形成」が理念として掲げられた 10。

 内戦期はファランヘ党がフランコ反乱軍側に味方したことから、SF も反乱

軍地域の支援活動に協力、救護、食料供給、救急看護等などの銃後の守りを

担った。また党員とその家族だけでなく、フランコ側の全ての人々へと支援の

範囲を拡大した。反乱軍が支配を拡大していく中、元共和国政府陣地にいち早

く SFが到着し戦争被害者の食糧支援、救護支援に従事、次第に勢力を拡大し、

内戦終了時には全ての県に県支部を擁するまで成長した。

 一 方、1936 年 9 月 に ト レ ド を 制 圧 し た フ ラ ン コ は 自 ら「総 司 令 官

(Generalísimo)」を名乗り、10 月には「国家首長 (Jefatura del Estado)」と

して反乱軍側の軍事、政治面の指揮権を掌握した。また1937年4月19日に「政

党統一令」を発布、王党派や伝統主義者等の反乱軍陣営は 伝統主義者と

JONS のスペインファランヘ (以下ファランヘ)に束ねられ、以後これを母

体とした「国民運動(Movimiento Nacional)」が推進された 11。この勅令により

既存の全ての女性組織はSFに統一された。

  

9 Pilar Primo de Rivera, Recuerdos de una vida. Madrid: Ediciones Dyrsa, 1983, p. 68.10 María Teresa Gallego Méndez, op.cit., p. 21311 立石博高、中川 功、 関 哲行、中塚 次郎(編) 『スペイン史』昭和堂、1998、207-230頁

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2 フランコ体制下の女性政策とSFの新しい役割

 1939年4月1日に内戦はフランコの勝利で終結、それと同時に第二次共和政

府時代に獲得された民主主義、議会民主制、共和制、地方自治、政教分離、農

地解放などは否定されることになった。また女性参政権、離婚法などの女性の

権利も、フランコは「女性は私領域、男性は公領域」という伝統的性役割意識

や家長父制を基盤とする家族の集合体としての国家形成過程の障害とみなし弾

圧した。

 また内戦で疲弊した国土復興の為、人口政策が重要な課題とされ様々な支援

策や法整備が講じられた。とりわけ健康な若い世代の増加が急務とされ、乳幼

児死亡率の低下と出生率向上支援策が採られた。育児支援金制度が導入され、

子供の数に応じて夫に援助金が支給された。 ナッシュによると、Vallejo-

NájeraやSeverino Azunar等のフランコ体制側の学者も、人口増加政策を新国

家建設成功の大きな鍵を握るものとし国家による出産育児政策を支持したとい

う 12。第二次共和制期に認められた避妊、堕胎手術、市民婚、離婚や選挙権は

ただちに禁止され、財産管理、労働契約の執行や訴訟も夫や父親の許可が必要

になった。また結婚以外 25歳以下の女性は父親の許可なしに家を後にするこ

とが認められなかった。このようにフランコ体制下の女性は、再び公私共に

「永遠の未成年」として父親、夫、息子に従属するに至った。

 ファシズム的な個人独裁を目指す新体制作りはすでに内戦中から準備された

が、同時に女性統制も開始された。戦中は両陣営共に男性不在による深刻な人

手不足を抱える中、専業主婦を含む多くの女性は工場労働者や農業、救護活動

や食料供給などの銃後の援護に従事し、女性の社会参加は飛躍的に増大、社会

12 Mary Nash. “Pronatalismo y maternidad en la España franquista”, Gisela Bock y Pat Thane (eds.). Maternidad y políticas de género. Valencia: Ediciones Cátedra, Universitat de València, Instituto de la Mujer, 1996, pp. 283-303

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

的に容認されていった。

 しかしフランコの勝利が濃厚になると、女性の活動の場を「家庭」に制限

し、良妻賢母として新国家設立に貢献する次世代の育成に従事させようという

動きが再び現れ、まず働く既婚女性が対象とされた。これが法律として明文化

されたのが、1938 年 3 月発布のフランコ体制の基本方針を打ち出した労働憲

章である。第 2編で「国家は作業場や工場 から既婚女性を解放する。」、第12

編にて「家庭は社会を構成する本質的で重要な一員でありその土台である。」

とし、女性を私領域に戻らせ、そこで良妻賢母として国家のために貢献するこ

とを求めた 13。SF内部も同様に、同年6月、ピラール代表から既婚者、未亡人

で子どもを持つ中央、支部組織のリーダーに対し家事育児の優先が周知され、

辞職が要請された 14。

 内戦後、フランコは「国民運動」の下、カトリック教義に基づいた「新体

制」形成を目指すが、この「運動」におけるSFの位置づけが法により明確に

規定されたのが 1939 年 12 月 28 日勅令である。フランコは国家元首の立場か

らSF中央委員会を「国民運動」の従属組織として体制に組み込み、翼賛政党

の意向に反する自律的な活動を禁止した。さらに SF の使命はあらゆる年齢、

階層に属するすべての女性の組織化と教育とされた 15。 また社会奉仕制度

(Servicio Social)を SF の管轄下に移行、以後 SF は、「教育」と「社会奉仕」

という二つの媒体を通して、良妻賢母として家庭から新体制に貢献する女性の

13 Giuliana Di Febo “La Cuna, la Cruz y la Bandera: primer franquismo y modelos de género”. Isabel Morant (ed.) Historia de las mujeres en España y América Latina IV, Madrid, Cátedra, 2008 p. 21814 Pilar Primo de Rivera, “Circular a las casadas,” Delegación Nacional de la Sección femenina, Circular núm.99, Burgos, 24 de junio de 1938, (Pilar Primo de Rivera, Discursos, circulares, escritos. Madrid: Ediciones de Sección Femenina. s/f., p. 105)15 Decreto 28 diciembre, 1939 (Jefatura del Estado).-Falange Española Tradicionalista y de Las J.O.N.S. – Funciones de la Sección Femenina; A.H.P.M. S- 1711, Servicio Social (1939-1970)”

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育成を担うこととなった。

 この新たな SF の役割について、ピラールは会員に「この勝利の日からファ

ランフェ女性による建設的な活動が始まる。」「全ての女性にする家庭科、手工

芸、農業、音楽、体育、政治教育という重要な任務を請け負った。この新たな

仕事に国家の信頼がかかっている。」と激励、「今から地味で根気の要る仕事に

就くが、我々のお陰で清潔な女性、健康な子供、活気のある村、明るい家庭が

増えたと皆感謝するだろう。それが私達にとって大きな恵みとなるだろう。」

と一層の努力を求めた 16。

 次に終戦直後のフランシスカさんとSFの関わりについて述べる。

 フランシスカさんが実際にSFと関わりを持ったのは終戦直後の1940年、13

歳の時にマドリードにて兄と一緒にファランヘ児童部に入会してからである。

入会理由は「軍医隊長だった伯父がファランヘ党員だったので自然に。」と

し、家族の影響がみられる。「私の伯父等は全員ファランヘ党員。中でも彼は

熱心でシンボルの青いシャツを我が家にたくさん持ち込んだ。おかげで両親は

戦時中、共和国側から狙われた」と述べた。その後 SF の入会下限の 17 歳に

なった時点でそちらに籍を移した。

 またSF主催の学童向けの文化、スポーツ活動にも積極的に参加した。「修道

院の学校では学ぶものは何もなかったので熱心にSFのコースに通った。コー

スは毎週木曜日の午後に開かれ、各地方の歌や踊りそして詩の朗読などを習っ

た。素晴らしい教育を授けてくれた SFに参加でき今でもとても満足している。

あらゆる活動に参加し、毎日いそがしかった。」

 毎年夏には女子向けの野外キャンプに参加したという。

16 Pilar Primo de Rivera, “Circular núm. 129” (Pilar Primo de Rivera, Discursos…op.cit., p. 105)

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

 「まだ幼かった頃、ブルゴス県の『白い泉』という名のSFの宿泊施設に

行った思い出がある。コーラス、体操、午後の遠足、キャンプファイアー

と盛りだくさんだった。日直の下でその日の活動が決定され、役割分担も

された。また野生の花で施設内を美しく飾る『花係』も結成された。素晴

らしい教育方法だと思った。もちろん毎日のお祈りと国旗、党旗掲揚は欠

かさなかった。また食堂ではテーブルマナーも叩き込まれた。」

 「人々が考えていたよりも SFの野外キャンプではフェミニンな教育がさ

れていたと思う。キャンプの制服は白いブラウスにスカートとスカーフ。

髪型は自由。大人は宿泊施設責任者、キャンプ長、音楽と舞踊の先生が来

ていた。」

 彼女はスポーツを愛する活発な女の子であった。14 歳の時、SF 主催の草

ホッケーを始めたが、朝の授業に間に合うように午前八時に練習していた。

「よく『泥で顔が真っ黒だよ』とからかわれたが別に気にしなかった。」とい

う。当時スペインではスポーツをする女性は大変珍しく、彼女等は人々の好奇

な視線を受け、時には罵倒されたという。「スポーツをする女性は非常に珍し

かった。ホッケーのスティックを持って家を出ると、街ゆく人は奇妙な目で私

を見た。スポーツをする女子に対する扱いは酷いもので、よく『おとこ女』と

罵倒された。」が、両親を始め、家族、親友の理解はあった。また各地にも SF

支部の女子ホッケーチームが存在し、全国大会も開かれた。そして優秀な選手

を集めスペイン代表チームを結成、外国チームと戦ったという。「私も代表選

手に選出されたが、海外遠征では石を投げられたり、亡命者から『ファシス

ト』呼ばれたりされた。」と当時を振り返る。

 ホッケーの次に興味を持ったのはハンドボールで、週 3.4回夕方に練習し

週末は試合に費やした。リーグ期間中は相手チームのホームグラウンドに遠征

をし、 特にバルセロナのチームと仲がよかったという。SF 運動部のユニ

フォームはカトリック教会がデザインを担当し、簡素でかつ露出度の少ないも

のであったという。ドイツチームとハンドボールの親善試合を行ったが、「あ

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ちらは半そでに短パン、私達は膝がすっぽり隠れるスカートで、そのコントラ

ストが滑稽だった。」と当時を思い出した。

 また当時のチームメイトとの交流も続いており、「彼女らとは40年以上前か

らの付き合いで毎日電話をする仲。職場時代の友人とはたまに夕食に行ったり

するが、本物の友情とは言えない。当時の仲間は私の唯一の親友。」とSFの仲

間との絆の強さを語った。

Ⅲ フランコ体制における理想とされた女性像とSFの使命

1 女子教育

 フランコ独裁体制の教育政策の当面の目標として、第二次共和制時の自由主

義、民主主義的な教育の影響の排除と伝統主義、カトリック主義への回帰が掲

げられ、1938 年 2 月に設置された教育省の指導の下に実施された。具体的に

は世俗主義、男女共学、カタルーニャ語、バスク語などのスペイン語以外の教

育を禁止し、教科書検定制度や司祭等によるカトリック教育の導入がなされ

た 17。

 フランコ体制とカトリック教会は性役割意識に関し共通の認識を持ち、互い

に依存した。カルメ・モリネロは「フランコ体制は教会の影響力が強い保守層

から社会、政治、経済政策の支持を得るためカトリックを支援したが、一方教

会も体制内での社会的文化的地位の向上を目指しフランコの誘いに乗った。」

と分析している 18。

 「身体的特徴から女性の役割は家事・育児に限定するべき」としたローマ教

17 Pastor Inmaculada., La educación femenina en la posguerra 1939-1945, Instituto de la Mujer, 1984, p. 3918 Carme Molinero, “Mujer, franquismo, fascismo. La clausura forzada en un “mundo pequeño”. Historia Social, nº 30, Valencia: Centro de la UNED Alzira, Instituto de Historia Social 1998, p. 103.

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

皇レオ13世の社会回勅「レールム・ノヴァールム(新しきこと)」(1891)や

「夫は頭脳、妻は心」「女性の使命は妻になることであり、夫に従わなければい

けない」としたピオ11世教皇「カスティ・コンヌビイ(結婚の倫理)」(1930)

等のカトリック回勅は、フランコ体制にとって「男は仕事、女は家庭」という

伝統的性役割分業を浸透させるための理論的な裏付けとなり利用された。

 20 世紀を代表するスペイン女性作家のカルメン・マルティン・ガイテの

『スペイン内戦後の愛の慣習』にも教会婚の最中、司祭から新郎新婦に婚姻の

神聖性、永遠性、男性優位、女性の社会的経済的従属が記された「カスティ・

コンヌビイ(結婚の倫理)」が贈られ、作家は「このようにファシズムとカト

リック主義は互いに絡み合い助け合いながら、女性達に生物学的な運命と家庭

や社会における服従を強要したのだ。」と教会と体制の密接な関係を表した 19。

 またエンカルナシオン・ヒメネスはSFとファシズムとカトリック教会の関

係を「SF は 2 つの潮流を泳いでいるといえる。一方では女性の政治的団体を

目指しファシスト党やナチス女性団体を模倣し、もう一方では女性蔑視のカト

リック教会の言うことに従っている。20」とし、女性の政治・社会進出と従属的

な伝統的性役割の間で揺れるSFを分析した。

 一方、フランコ体制下の重要な女子教育機関であったSFは、カトリック主

義や伝統主義に基づきその役目を果たそうとした。ピラールは「母親教育を通

し、子供たちの命を守れ!」というフランコの命令に忠実に従い 21、「女性に

とって家庭は大地である。日常の家事、育児、料理、裁縫、菜園などの私たち

の教育によって、女性を家庭に一生留まらせ、またそこで男性に気持ち良く過

19 Carmen Martín Gaite, Usos amorosos de la postguerra española. Barcelona: Anagrama. 1987, p. 5220 Encarnación Jiménes, op.cit., 1981, p. 14.21 Pilar Primo de Rivera, Discursos…op.cit., p. 26

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齊 藤 明 美

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ごしてもらえるよう努力しなければいけない。」と主張した 22。1938年の第二

回 SF総会の演説でも「祖国に対する女性の真の義務は質素さと陽気さに基づ

いた伝統的な家庭を形成することである」と述べた 23。

 さらに1941年10月発布の勅令により、全ての女子学生に対し家庭科、政治

教育、体育の科目の必修化が定められ、SF 中央委員会はそれらの科目の組織

的な計画、実施、査定を担うことになった。こうしてフランコ体制下の女子教

育における SFの役割はさらに重要性を増した。

 女子教育の義務化に先立ち、実際に指導にあたる女性講師の養成が急務とさ

れた。SFから『育成計画(Plan de Formación)』が出され、その中で、ピラー

ルは女性の教育レベルや最終目標の差異を考慮し、幹部候補生学校から農村女

性を対象とした移動学校までと様々な女性のニーズをカバーする多様多種な教

育機関の設立計画を打ち出した。具体的には SF中央、地方支部の幹部候補生

養成機関である「ホセ・アントニオ大学校」、国立講師養成学校の「イサベ

ル・ラ・カトリカ」、農村指導者国立学校、特別学校、未成年学校、家政学学

校、宿泊訓練施設、移動講座、農園、農業学校などが挙げられた 24。

 科目に関しては『育成計画』の 7 ページ目に、「宗教(カトリックの教義,

道徳、儀式,)」「ナショナルサンディカリズム(ファランヘの主義、倫理、様

式)、」「家庭科(家庭教育、 家計学、 育児学)」「音楽(コーラス、 ダンス)」

「体育(体操、スポーツ、体力テスト)」という5つの科目が全てのスペイン女

性教育の共通必須教科として掲げられていたが、教育内容の範囲、目標、深度

やその到達度は教育機関の種類や対象学生のレベルに対応したものであった。

22 Ibid., p, 2723 Ibid., pp. 12-14.24 Delegación Nacional de la Sección Femenina de FET y de las J.O.N.S. Plan de Formación(2d.ed.), Madrid: Delegación Nacional de la Sección Femenina de FET y de las JONS, 1945. pp. 3-7.

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

なかでもスペイン女性教育の中で最も重要な科目は家事、宗教教育、ファラン

ヘ主義教育であり、その主な目的はフランコ体制、伝統的カトリック主義そし

て家長父制へ絶対服従を誓う女性の養成が期待された。

 講義科目の他にも、コーラス、ダンスや体育などの実技も重要な位置を占め

た。健康な心身の育成はもちろんのこと、特に民族舞踊や歌を通して伝統習慣

の保存と伝承、さらには海外への広告塔という国家主義的な使命も果たした。

そして SFにより各地でコーラスや民族舞踊団が形成され、民族音楽や舞踊の

収集、出版の他、料理レシピの編集の他、中南米を中心に積極的に海外公演を

行い体制の重要なプロパガンダの担い手となった 25。

 さらにSFはイタリアのLos Fasci Femmiliniと同様、農村に生きる女性の生

活や教育に大きな関心を示した。農園学校の開校や図書館や学校の無い過疎地

へ移動教室の派遣を通し、農村女性の衛生知識や教養を向上に努めた。マリ

ア・テレサ・ガジェーゴは、「SFは農村に『働き者で、従順、献身的』という

SFの理想の女性像の具現化の大きな可能性を見出したのでは」と分析した 26。

 さてピラールのスペイン女性の能力や知性に対する評価はどうであったか。

同じ女性でありながら、彼女の意見は伝統的な性役割意識に則り、「(スペイン

女性)は何も発見しない。創造力が欠けている。それは神により男性にのみ授

けられた。私達女性は良くも悪くも男性が作ったものに追従することしかでき

ない。」と知性面での男性優位を説いた 27。

 また『養成計画』によると、当初からピラールのスペイン女性の知的レベル

に対する評価は低く、無教養な女性ほど簡単に洗脳しやすく、ファランヘやフ

25 例として、Delegación Nacional Del Frente De Juventudes. Cancionero (de la Sección Femenina de F.E.T. y de las J.O.N.S.). Madrid: Artes Graf. Fénix, 1943. Movimiento Nacional. Delegación Nacional De La Sección Femenina. Manual de cocina: recetario. Madrid: Alamena, D.L. 1977.26 María Teresa Gallego. op.cit., pp. 113-131.27 Ibid., p. 72

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ランコ体制の理想とする女性像を刷り込みやすいと認識していた。「(略)不幸

なことに多くのスペイン女性は無教養で園児のように扱わなければならず、そ

れは不運と思われるかもしれないが、実際はその方が好都合なのかもしれな

い。彼女等は純粋でとても従順であり、我々の教えをすんなりと消化してくれ

るに違いない。28」また大学などの高等教育における女子教育の向上に関しては

無関心であり、伝統的な教育観に合致していた。一般的に当時の女子教育観は

伝統的性役割意識に基づいており、専門知識を学ぶ高等教育は SFの活動の範

囲外とされた。SF においても、清潔で品行方正、そして多少教養のある次世

代を育てる能力の獲得が女子教育の最大目標とされた 29。

 イサベル・ラ・カトリカ女子教育指導員国立養成学校

 1941 年 9 月 2 日の勅令により、翌年10 月から全国の学校現場で女子教育に

従事する講師の養成を目的としたSFのイサベル・ラ・カトリカ女子教育指導

員国立養成学校がマドリード郊外のパルドに設立され、(1950年ラスナーバス

城に移動)活動が開始された。この学校はホセ・アントニオ指導者養成校

(Escuela Mayor)の組織、運営、授業形態を範とし、軍隊式の厳しい規律の下

の全寮制であった。毎日、旗の掲揚と学内の礼拝堂でのお祈りが義務づけら

れ、身支度についても質素、清潔感が求められ厳しいチェックが行われた。

 高校卒業資格と入学試験合格が入学条件であり、卒業生には講師資格として

最高の「一級免許」が授与され、全国の女子教育機関にて家庭科や政治、音

楽、体育の授業、また SF主催の教育コースの指導が許可された。1944年の講

師養成学校のパンフレットによると、卒業生の使命として、「(スペインの)全

ての若い女性達の政治や体育教育、フランコが率いるファランヘ青年部への加

入促進」が掲げられている 30。

28 Ibid., p. 429 Ibid., p. 430 Seccion Femenina de F. E.T. y de las J.O.N.S. Escuela Nacional de Instructoras “ Isabel

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

教育内容に関しては体制に従順な女性の指導者育成という目標の下、カトリッ

ク教とファランヘの教義であるナショナルサンディカディズムが重要視され

た。授業は宗教や政治教育、歴史などの講義科目と家庭科、音楽、体育などの

実習科目があった。その他に講義科目として組織論、心理学、教育学、衛生

学、一般教養、体育理論なども受講された。

表 1 イサベル・ラ・カトリカ女子教育指導員国立養成学校 時間割 31

時  間 活  動 14:30 休憩7:15 起床、洗顔 15:30 家庭科8:15 ミサ、お祈り 16:30 音楽9:00 朝食 17:30 間食 自由時間9:30 点検 講義 18:15 旗を降ろす10:30 講義 18:30 自習11:30 実習 20:30 お祈り12:30 体育 21:00 夕食13:30 昼食 22:30 消灯

(出典Escuela Nacional de Instructoras “ Isabel La Católica”, El Pardo, Madrid, 1944)

 フランシスカさんは高等学校を卒業後、この「イサベル・ラ・カトリカ」に

2 年間通学した。養成学校の印象とそこでの人間関係について、「教員、寄宿

生に共通して言えるが、尊敬に基づいた良い関係だった。養成校での生活はと

ても充実したもので何の問題もなかった。昼食後に食後の休憩があったが、そ

の時が一番退屈し、騒いだりしたものだ。朝と夜 2 回、お祈りの時間があっ

た。夜のお祈りの後、旗を降ろして就寝した。」と当時を振り返った。

 週末は土曜の午後から日曜の夕方まで自由時間とされ外出が認められたが、

厳しい門限があり、中には規律を破る者もいたという。

La Católica”, El Pardo, Madrid, 1944, p. 131 Ibid.n.pag.

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 「週末は宿舎を出ることが許可されていたので、私は毎週実家に帰った。

門限もあり、日曜の夜のお祈りの時間までに帰らなければいけなかった。

その日の日直が各部屋を点呼して回った。私が日直の時カナリア出身の3

人が門限になっても戻らないという事態に直面した。その旨を校長に報告

したが、『戻るまで部屋で待機しなさい。』と命令され、何時間も待った。

そのうち酔っ払った3人は数人の男性を連れ部屋に現われたが、結局翌日

退学処分にされた。これが宿舎での一番悲惨な思い出。あくまでもこの三

人は例外中の例外であり、ほとんどは規律を順守し門限前には部屋に戻っ

ていた。」と語った。

2 女性と労働

フランコ体制下の女性労働は、労働憲章やカトリック教また伝統的性役割意識

に影響され制限された。

 特に女性専門職は、当時女性の理想とされた良妻賢母像からのかい離や、男

性領域を侵害する「脅威」とされ、その雇用機会が閉ざされた。そして 1939

年 9 月の労働省令により、女性公務員の管理職が禁止され、1944 年には女性

の公証人や外交官等への登用が禁止されるなど、専門職からの女性排除が次々

となされた 32。一方、教職や看護職等は昔から母性との密接な関係により女性

に最適とされ奨励された。このように職業における性役割分業が進んでいっ

た。

 また労働条件に関しても、「女性は男性の扶養下にある」という保守的な考

えの下、また労働市場での男性優位を守るために、女性労働の対価は無償奉仕

または低賃金とされた。働く女性が一人で家族の援助なしに自立することは非

常に難しかった。あくまでも女性の労働は結婚して家庭に入る前の「社会勉

強」、もしくは育児や家事の合間にするものと考えられ、結果として女性の正

32 María del Rosario Ruiz Franco. “Nuevos horizontes para las mujeres de los años 60: La Ley de 22 de Julio de 1961”. Arenal, Vol. 2, nº 2, julio-diciembre 1995, p. 252.

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

規雇用は少なくパートタイムが大部分を占めた。

 SF も例外ではなく、そこで働く女性の雇用は大変不安定で賃金も大変低い

ものであった。1996年、キャサリン・リッチモンドが行った元SF構成員のヒ

アリング調査によると、小学校の課外活動に従事した SF指導員は無給であっ

たという。国立講師養成学校卒業者で中等学校教育の正規の授業(家庭科な

ど)に従事した者も大部分はパートタイムで、複数の学校を掛け持ちしても平

均して月に 200~300 ペセタしか稼げなかったという。1956 年時の県支部代

表の月給は 300 ペセタであったが、1950 年代のマドリードの平均的な家事ヘ

ルパーの月給は家賃等を引いても 350 ペセタであり、SF 職員の低賃金が浮き

彫りになった 33。SFの職員や講師は独身者が多かったとはいえ、低賃金で不安

定な雇用という事情により、ある程度家族の援助が必要であった。結果として

親の援助を期待できる比較的裕福な家庭出身者がSFの職員の大部分を占めた

という。

 フランシスカさんは、指導者養成コース終了後の進路に関して、「各自、出

身地に戻って現地の小学校等や宿泊学校で家庭科、体育、ファランヘ主義の科

目を教えた。私を抜かして全員。私は 5 つほど宿泊学校に短期間派遣された

後、幸か不幸か公務員試験に合格し、その後図書館員として定年まで働き続け

た。『働きなさい』という父親の強い勧めもあり最終的に公務員を選んだ。」と

説明してくれた。フランシスカさんの父親は娘に公務員になることを強く勧め

たが、女性の経済的、社会的自立に好意的な彼の考えは当時ではかなり進歩的

だったといえよう。

  

33 Kathleen Richmond, op.cit., p. 208

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 社会奉仕制度 (El Servicio Social)

 次にSFの統轄の下に置かれた社会奉仕制度(El Servicio Social)のフランコ

体制の女性政策における役割と成果について述べる。SF 講師を中心とした学

校現場での女子教育が幼少期から思春期までの女子を対象とするならば、35

歳までの未婚女性の組織化と教育を担ったのはこの社会奉仕制度であった。

 内戦時のバジャドリードでメルセデス・サンスによるナチスの救済組織を模

倣した戦争被害者の為の慈善組織がその始まりであったが、次第に銃後の人手

不足解消の為、女性の社会奉仕の「徴兵制度」としてフランコから支持される

ようになった。1939年の勅令でこの制度はSFの管轄下に置かれ、内戦後も奉

仕活動を通した女性の国家への忠誠心涵養と良妻賢母教育の場として期待され

た。

 このように 17歳以上35歳未満の女性(精神・身体障害者、子供を持つ既婚

者や未亡人などは免除)で就労等の社会活動を希望する者は、研修受講と施設

実習、計 6 週間の奉仕活動が義務とされた。また公共、民間企業との労働契

約、運転免許証、パスポートの取得、公務員試験受験においても「社会奉仕修

了証」の提出が求められた 34。

 就職を希望する多くの女性と同様、フランシスカさんも社会奉仕に参加し

た。彼女の場合、SF のメンバーの特権として研修受講の免除と実習期間の短

縮が認められ、2か月間だけSF本部の文書館で奉仕活動を行ったという。

 「社会奉仕を避ける女性もいたが、彼女たちが損をするだけだった。『社

会奉仕修了書』なしでは女性は何も社会的活動ができなかったからだ。私

も公務員試験受験の時、その提出を求められた。SF はこの制度を最大限

に活用し、女性の社会参加の意義と自己実現の大切さをスペイン女性に教

34 Ibid., p. 47

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

えようとした。それがピラールの大きな目標であり、ある程度達成された

と思う。」

 実際、内戦後全ての成人女性の教育の手段とされた社会奉仕制度は、期待さ

れた成果を上げられなかったという。キャサリン・リッチモンドによると、

もっぱらこの制度を利用したのは生活のために就労が必要であった低所得層の

女性達であり、働く必要やその意思の無い富裕層などにとって「修了証」は

まったく意味をなさなかったという。一方、1960 年代から国の経済が好転し

海外旅行や自動車を運転する女性も増えたことから、パスポートや運転免許取

得の為に社会奉仕に参加する者が飛躍的に増加した 35。

Ⅳ フランコ体制におけるSFの役割と意義

 独裁政権における SF の位置づけは、男性を主な構成員とした「国民運動」

に従属した組織であり、それはそのまま伝統的性役割意識や家長父制度に支配

されたスペイン女性の姿を映し出したものであった。1939 年の勅令により、

SFは当局の意向に反する自律的な活動は制限されたが、しかしながら 1977年

の解散まで長きにわたり創始者ピラール・プリモ・デ・リベラが代表として組

織を守った。その「長寿」の原動力となったのは彼女の指導力と交渉力に他な

らない。ポール・プレストンによると、彼女がファランヘ党の創始者で内戦中

に処刑後、フランコにより大衆動員の為に神聖化されたホセ・アントニオの妹

であり、また体制側に反抗しなかったので SFは「アンタッチャブル」な存在

であったという 36。フランコとの良好な関係に基づき、ピラールは1937年10月

に国民運動全国会議(Consejo Nacional del Movimiento)のメンバーに選出さ

れ、国政においても発言権を持った。またフランコから後のホセ・アントニオ

35 Ibid., pp 48-4936 Paul Preston, Las tres Españas del 36, Barcelona, Debolsillo, 1999, p. 170

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幹部養成学校となるラ・モタ城を寄贈されるなど、SF はスペイン女性動員や

教育に大きな期待を寄せられた。

 フランシスカさんにとって、ピラールはどのような人物であったか。

 「彼女の外見(男っぽい、荒っぽい)により本来受けるべき扱いを受け

なかった。とても控え目で質素な方。彼女の偉大さは SF の組織を見れば

一目瞭然。一人であれを作り上げたのは、ただ素晴らしいの一言につき

る。中央、地方支部長のピラールに対する信頼は大きく、最終決定は彼女

の判断にまかされていた。リーダーシップと愛嬌が兼ね備わりとても人望

の厚い方だった。」

 ピラールを始め SF幹部の大部分は、独身者で上昇志向があり積極的に社会

活動を営んだ。これはSF が、スペイン社会で一般的に「母性」と「純潔」の

イコンとされた聖母マリアではなく1492年に国土回復運動を完成させスペイ

ンを統一したイサベル女王「ラ・カトリカ」と洗足カルメル会創始者で修道院

改革を行ったアビラの聖女テレサの二人を理想とする女性と掲げたことに象徴

される。聖女テレサは SFの守護聖人となり、イサベル女王の名は国立女子教

育講師養成学校の名称に採用された。これは SF自身が従順な良妻賢母に飽き

足らず、与えられた範囲で自らも国家の為に積極的に貢献しようという意思の

表れと思われる。SF 幹部自身が自らが推奨した伝統的な良妻賢母像から大き

くかい離していたのが特徴的であるが、同時に体制側から認められた数少ない

社会参加の場の枠組みの中で、さらなる活躍の可能性を模索した。

 フランシスカさんによると、幹部以外の普通の会員も、SF を通した社会参

加が入会の大きな動機になっていたという。

 「もともと女性の活動場所は家庭などの私領域に限られていました。活動範

囲を広げる口実としてファランヘ女性部に参加した人も多かった。彼女らは加

入後、娘や妻という伝統的な性役割の範疇を超え、自立しようとした。あれは

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初期フランコ体制下における性役割意識の構造

爆発だった。また女性が野外でスポーツを始めたのもファランフェ女性部が登

場してからだった。SF に参加して良かった。生まれ変わってもまた参加した

い。今でも当時の仲間とは時々顔を合わせるし、また『新しい歩み』という

OG会もあり毎年一回定例昼食会を開いている。」

 一方、SF の様々な活動によってスペイン女性のレベルは果たして向上した

のか。フランシスカさんは否定的だ。

 「様々な意見があると思うが、私は真の意味での女性の教育レベルが向

上したとは思わない。フランコが SF を通して達成したのは家事や育児な

ど母親教育だけだった。一方女性達は政治にまったく無関心だった。学校

での SF の家庭科教育やその後の『社会奉仕』が一旦終わったら、それ以

上フランコもSF も何も特別に女子教育の努力をしなかった。多くの女性

達は恋人を作り結婚し、子供を産んでそれぞれの人生を生きたが、それ以

外の事には興味を示さなかった。私の年代の女性は政治に興味がない者が

多く、フランコが毎日テレビに出ていることさえも知らない者がいた。も

ちろん娘の政治意識に対する両親の考えの影響も大きいと思う。もし私の

両親が共和国派だったら、私も共和国派になっていたかもしれない。また

女性の参政権運動など起こらなかった。もし反対であったとしても、我慢

しなければならなかった。つまり、あの時代は何にも自由に話すことがで

きなかった。」

 良妻賢母として従順に夫や父親に奉仕する女性を理想としたフランコ体制に

とって、女性の政治、社会参加は家庭を礎とする国家秩序を乱すものをして抑

制された。男性女性問わず、国民が政治に無関心であることは体制側にとって

好都合であり、このフランシスカさんの証言は、SF を通しての女性政策がフ

ランコの思惑どおりに進んだ一つの表れといえよう。

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齊 藤 明 美

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Ⅴ おわりに

 フランコ独裁体制は、既存の伝統的性役割意識とカトリックの教えを下敷き

にし、新国家建設の礎である家族を統制し、個人の幸せより国家の繁栄を優先

する国民意識を形成しようとした。その中で女性達は、家父長制度の下、私領

域で「良き妻、賢い母」の役目を果たすことが第一に求められ、公領域におけ

る自己実現の可能性は法や伝統的社会規範により著しく制限された。

 その中でファランヘ党女性部は、唯一の官制女性団体としてカトリック教会

と共に「良妻賢母」教育を通し、女性に国家や男性に従順な「永遠の未成年」

であることを求めた。しかしピラールを始め SF幹部自身等は既存の良妻賢母

像を逸脱し、女性の公領域における活躍の場を模索したが、最終的にはフラン

コによって与えた SFという枠組みの中で彼女等の活動は完結した。これはSF

が一般のスペイン人女性に求めていた女性像(良妻賢母教育)と自らが目指し

た理想との矛盾が、SF の女性政治団体としての限界性に繋がった表れと考え

られる。ピラールを始め SF幹部は、女子教育の場で従来の伝統的性役割意識

に基づいた知性における男性優位を説き、女性は男性に従属するべきとした

が、それは「諸刃の剣」として結局自らの身に跳ね返ってくることとなった。

その影響は民主主義が復活して数十年経った21世紀初頭においても、未だ真

の意味での男女共同参画社会が実現されていないという事実に如実に現われて

いるといえよう。

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齊 藤 明 美

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磯山久美子 「専業主婦から働く女の時代へ」碇順治編『スペイン』河出書房

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砂山充子「第12章第二共和国とスペイン内戦」 関哲行、立石博高、中塚次郎

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立石博高、中川 功、関 哲行、中塚次郎 編『スペイン史』昭和堂 1998