マネ「と」印象派 - nichibun.ac.jpaurora/pdf/0301bijutsuforum21-7.pdff1 4・ 、ネレ +mu...

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でで 『関 J ヶさ j レ才L 「た す国 l ド美 旦術 記史 憶学 か会 マイケル・フリード のマ、不強酬と そのアポリア 一九九七年九月アムステルダム ら忘却へ一マネとモダニズム絵画の起源」と題する を行った。ほかの分科会と平行した発表だったが、割 り当てられた総会大講堂は満席の盛況。世界各国か らの参加者たちの大多数が、このカリスマの講演に、ほ とんど異様なまでの期待を抱いていた。 」の晴れ舞台でフリードは、前年に刊行していた『マ ネのモダニズム』の中心的命題を、会議の主題「記憶と 忘却」に即して提出した。それを一言で要約すれば、 一八六三年の世代とフリードの名付けるマネ、ファンタ H ラトゥ l ル、ルグロらが、かつての巨匠たちを想起さ せる制作に心血を注いだのに対し、それ以後のいわゆ る印象派の世代は、もはやそうしたかつての巨匠たち を忘却してしまった、とする仮説である。 マネの《草上の昼食》はラファエルロの失われた作品で マルカント l ニオ・ライモンディの版画により知られる 《パリスの審判》の一部を引き写し、《オランピア》もテ ィチア l ノの《ウルピノのヴィーナス》の焼き直し。さら にフリードは当時ボッティチエルリに帰されていた〈ヴイ ーナスと=一人のプット IV を《オランピア》の観衆を直視 する視線の一源泉とするのみならず、マネをプリミテ 川川口汗叫 マネ 最近のエ 稲賀繁美 ィヴとみる観念連合の形成と関連づける だがこうした古典参照は、マネひとりに特異 ではない。同様にファンタン H ラトゥ l ルの《ドラクロワ礼 讃》(一八六四)は、フィリップ・ド・シャン 1 ニユの《同 業組合主事とパリ市判事たち》(一六四七|四八)を 下敷きにしており、こうした過去の巨匠の記憶との比 較は、当時の美術批評に頻出する修辞でもあったが、 それはク l ルベには見られない現象だ||とフリード は宣告する。 だが、フリードのこの提案は、最初から単なる杜撰 さでは片付かぬ強引さを露呈している。まず、ほかで もない一八六三年にク l ルベがサロンに出展した《法話 の帰り道》は、教会への露骨な当てこすりゆえ、目論み どおり落選となって、かえって話題を撒いていた。すで にクラウス・ヘルディングも指摘したとおり、これはアゴ スティ l ノ・ディ・ム l ジ・ヴェネチア l ノの《酔っ払うシレ ーノス》(腐蝕銅版画)を(反)宗教画へと流用したもの だ仏出。すなわちク l ルベ自身、ほかならぬ一八六三 年に、マネたちに負けず劣らず、過去への参照を制作 手段としていたわけだ。この年、この作品は、同年の 「落選者展」よりもはるかに大きな話題 11l 醜聞|| を世間に撒き散らした。とすればク l ルベの写実主義 と一人六三年の世代とを峻別してみせるフリードの目 i ここで第三にフリードが自説の 80 論みは、ク l ルベのこの間題作を、意図的にか否か「 却」してみせる振る舞いのうえに成り立って なる。ク l ルベの古典引用は「計画的でない」が、一八 六三年の世代の引用は「計画的」であるとするフリー ドの文飾は、あまりに自分勝手で怒意的に過ぎよう。 して見ると、フリ l ドの提唱する「一八六三年の世 代」なる枠組みそのものが、ある選択的記憶と怒意的 な忘却との産物であることも否定できなくなってくる。 それはもう一言踏み込めば、一八六三年を落選者展 の年として記憶することに出発点をみいだす歴史観 ||これをモダニズム一歴史観と呼んでもよいーーをフ リードがなお当然の前提としながら自説を展開してい る、ということだ。すなわちその枠組みを内部批判す ることで、フリードは我知らず、あるいは確信犯として、 その補強に手を貸していることになるはずだ。 第二に、マネ以降の印象派の世代が「過去を清算し た」という、これも一見常識的に納得できるフリードの 主張の裏にも、複雑な事情がある。そもそもマネは 「美術館で学んだことをすべて忘却すべく努力した」と は、一八六七年のゾラの言葉だった。それまで公認さ れていた油彩の塗布技法や構図の基本を意図的に「忘 却」しようとした、というのがゾラの主旨だろうが、そ こには、画面の主題選択においても過去の因習を努め もそもデユレは、そんな古典の変貌をこの一 「マネ「と」印象派―最近のエドゥアール・マネ研究への批判的展望」『美術フォーラム21』 第7号、2003年1月、80-86頁

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Page 1: マネ「と」印象派 - nichibun.ac.jpaurora/pdf/0301bijutsuforum21-7.pdfF1 4・ 、ネレ +mu 一引 μE ヌ 〈「・1 46 ・ 674ivwJ3 、 1 〆,t 時、刈,‘ 1' 込診守

でで『関J催ヶさjレ才L

「たす国l 際ド美旦術記史憶学か会

マイケル・フリード

のマ、不強酬と

そのアポリア

一九九七年九月アムステルダム

ら忘却へ一マネとモダニズム絵画の起源」と題する講演

を行った。ほかの分科会と平行した発表だったが、割

り当てられた総会大講堂は満席の盛況。世界各国か

らの参加者たちの大多数が、このカリスマの講演に、ほ

とんど異様なまでの期待を抱いていた。

」の晴れ舞台でフリードは、前年に刊行していた『マ

ネのモダニズム』の中心的命題を、会議の主題「記憶と

忘却」に即して提出した。それを一言で要約すれば、

一八六三年の世代とフリードの名付けるマネ、ファンタ

ンHラトゥlル、ルグロらが、かつての巨匠たちを想起さ

せる制作に心血を注いだのに対し、それ以後のいわゆ

る印象派の世代は、もはやそうしたかつての巨匠たち

を忘却してしまった、とする仮説である。

マネの《草上の昼食》はラファエルロの失われた作品で

マルカントlニオ・ライモンディの版画により知られる

《パリスの審判》の一部を引き写し、《オランピア》もテ

ィチアlノの《ウルピノのヴィーナス》の焼き直し。さら

にフリードは当時ボッティチエルリに帰されていた〈ヴイ

ーナスと=一人のプットIVを《オランピア》の観衆を直視

する視線の一源泉とするのみならず、マネをプリミテ

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マネ「と」印象派

最近のエドゥアール・マネ研究への批判的展望

稲賀繁美

ィヴとみる観念連合の形成と関連づける。

だがこうした古典参照は、マネひとりに特異な現象

ではない。同様にファンタンHラトゥlルの《ドラクロワ礼

讃》(一八六四)は、フィリップ・ド・シャンパ1ニユの《同

業組合主事とパリ市判事たち》(一六四七|四八)を

下敷きにしており、こうした過去の巨匠の記憶との比

較は、当時の美術批評に頻出する修辞でもあったが、

それはクlルベには見られない現象だ||とフリード

は宣告する。

だが、フリードのこの提案は、最初から単なる杜撰

さでは片付かぬ強引さを露呈している。まず、ほかで

もない一八六三年にクlルベがサロンに出展した《法話

の帰り道》は、教会への露骨な当てこすりゆえ、目論み

どおり落選となって、かえって話題を撒いていた。すで

にクラウス・ヘルディングも指摘したとおり、これはアゴ

スティlノ・ディ・ムlジ・ヴェネチアlノの《酔っ払うシレ

ーノス》(腐蝕銅版画)を(反)宗教画へと流用したもの

だ仏出。すなわちクlルベ自身、ほかならぬ一八六三

年に、マネたちに負けず劣らず、過去への参照を制作

手段としていたわけだ。この年、この作品は、同年の

「落選者展」よりもはるかに大きな話題11l醜

|

|

を世間に撒き散らした。とすればクlルベの写実主義

と一人六三年の世代とを峻別してみせるフリードの目

pfFiレLfヱレと一ここで第三にフリードが自説の

80

論みは、クlルベのこの間題作を、意図的にか否か「忘

却」してみせる振る舞いのうえに成り立っていたことと

なる。クlルベの古典引用は「計画的でない」が、一八

六三年の世代の引用は「計画的」であるとするフリー

ドの文飾は、あまりに自分勝手で怒意的に過ぎよう。

して見ると、フリlドの提唱する「一八六三年の世

代」なる枠組みそのものが、ある選択的記憶と怒意的

な忘却との産物であることも否定できなくなってくる。

それはもう一言踏み込めば、一八六三年を落選者展

の年として記憶することに出発点をみいだす歴史観

||これをモダニズム一歴史観と呼んでもよいーーをフ

リードがなお当然の前提としながら自説を展開してい

る、ということだ。すなわちその枠組みを内部批判す

ることで、フリードは我知らず、あるいは確信犯として、

その補強に手を貸していることになるはずだ。

第二に、マネ以降の印象派の世代が「過去を清算し

た」という、これも一見常識的に納得できるフリードの

主張の裏にも、複雑な事情がある。そもそもマネは

「美術館で学んだことをすべて忘却すべく努力した」と

は、一八六七年のゾラの言葉だった。それまで公認さ

れていた油彩の塗布技法や構図の基本を意図的に「忘

却」しようとした、というのがゾラの主旨だろうが、そ

こには、画面の主題選択においても過去の因習を努め

ずだがそもそもデユレは、そんな古典の変貌をこの一

「マネ「と」印象派―最近のエドゥアール・マネ研究への批判的展望」『美術フォーラム21』 第7号、2003年1月、80-86頁

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て「忘却」しようとした、「現代生活の画家」マネの側面

が二重写しになっている。主題の水準と技法の水準と

いう、本来異なるはずのふたつの問題を、ゾラはなお混

然一体に論じている。これに対して印象派は、主題に

おいても技法においても、美術館の美術を忘却してみ

せた。もはや宗教画や神話画といった主題は古臭く、

また技法においても、アカデミックな仕上げ塗りや、

芝居じみた構図、美術学校仕込みの因循な陰影法、

室内光頼みの彩色法は尊重しない、という判断がそこ

にある。

ところがフリードは、もっぱら主題あるいは構図にお

ける過去との対話を軸に、マネを過去の美術史の総体

と対峠した画家と位置付ける一方で、例えば《アルジ

ヤントゥイユ》(一八七四)(図

1)のような、七

0年代

以降のマネの作品は、印象主義史観で割り切れる「単

純」なものになってしまったと見て、もはや正面から論

じようとはしない。主題や構図の類縁性が失われれば、

過去との対話もまた、いやおうなく断絶するだろう。

とすれば、印象派が過去を清算した、との認識は、印

象派の成立要件と表裏一体で、ほとんど同義反復(ト

ートロジl)に等しくなる。そしてこの過去の清算を徹

底したところからはじめて、線と色彩の自律、というモ

ダニズムの純粋主義の金科玉条が離陸するわけだが、

フリードはなぜか||おそらくはその純粋化の歴史的

末路を一九六

0年代末に自ら見届けたがゆえに?

||そうした絵画の「単純化」にはしぶとく抵抗して

みせる。あたかもマネを印象主義から切り離し、印象

派から救出することこそが、フリードにとってマネのモ

ダニズムをーーさらには自らの歴史家としての存在理

由を||正当化することでもあるかのごとくに。

. テオドール・デユレと一ここで第三にフリードが自説の

一補強に持ち出す証言の扱いが

問題となる。アムステルダムの講演の末尾のみならず

『マネのモダニズム』の終章「コlダ」の最後でも、フリー

ドは、批評家テオドlル・デユレが一八八四年のマネ没

後アトリエ売り立てのカタログ序文に執筆した文章を

特筆大書する。この序文には「絵画そのものの本質的

な価値」(宮

g-oE・E胃EBA5含宮門出

EE・08

ωO円)という表現がみえる。そこには、もっぱら主題にば

かり拘泥する文人たちゃ大衆そして新聞記者たちと

は違って、ただ目利き、愛好者、蒐集家だけが、「絵画

そのものの本質的な価値」なるものを評価できるのだ、

との主張がみられる。「目利きの趣味はたいへんに折衷

的で、ただ絵画がどのように塗装されて(吉宮け)いるか

だけに注目する。そしてその点に関するかぎり、彼ら

の判断は容赦ない」とデユレは続ける。そして先達たち

の作品と並べてみて比較に耐える

(ω050E円宮

gEI

宮EE。ロ)かどうかだけが肝心なのだ、と訴える。マネ

はドラクロワやコロl、クールベの横に置かれでも、そこ

に「自然な位置を占めるだろう」。デユレは、当時の世

評に逆らいつつ、きわめて独断的にそう宣言する。

」の一節を長々と翻訳・引用するフリードは、マネを

印象派の先駆として評価するデユレの価値観は敢えて

見過ごしつつ、このデユレの「顕著にモダニスト的な構想」

のおかげで、過去の絵画はかえってその過去の刻印を

脱ぎ捨て、その現在における輝きにこそ、自らの権威

の証しを求めるべく、いわば変身を遂げたのだ、と解

説する。つまり、印象派が認知されて以降の美術館の

空間にあっても並列展示に耐えるかぎりで、古典は古

典としてあらためて認知し直された、というわけだ。

だがそもそもデユレは、そんな古典の変貌をこの一

節に読み込んでいたのだろうか。素直に読むなら、デユ

レの序文は、当時すでに地歩を固めていた先達を頼り

にして、マネを巨匠の織り成す峰々に伍する高みへと

持ち上げることを意図したものに過ぎまい。もとより

売り立て目録の序文として綴られたこの文章は、売り

立ての成功をより確実にし、あわよくばマネの列神式

を成就させるための、いわばおマジナイだった。「本当の

美術愛好者であるあなた。あなたなら、マネの美質も

お分かりのはず」、と顧客におべっかを使い、巧みに誘

導する修辞法である。ところがフリードは、売り立て

参加者にマネの価値を納得させるための、広告として

の弁舌という、このデユレの文章の刊行時における意図

と文脈とを最初から無視して、これを根本的に読み

替える。印象派成功の後の価値観を当然の前提とし

て、それを出発点に過去に朔り、過去の権威の根拠を

問い直す、というフリードの深読みは、マネの遺産相続

執行人で、売り立て責任者だったデユレの利害とは、お

よそ無縁である。否、より正確には、完全に倒立した

形で重なりあっている。

「絵画の

本質的な価値」

一なにも筆者はここで、このよう

一な荒唐無稽・手前勝手な読み

替えを実行する権利などフリードには認められない、

と言いたいのではない。ただフリードのように、印象派

以降の「絵画の本質的な価値」を前提としてそれ以前

の過去の絵画の権威を聞い直す行為は、あくまで印

象派が市民権を獲得したからこそ可能になったはず。

そしてほかならぬデユレのこの売り立てカタログ序文は、

マネさらには印象派に芸術的市民権||あるいはその弘

前提となる美術市場での商品価値i

を授ける投機

λ普品通幸一

Page 3: マネ「と」印象派 - nichibun.ac.jpaurora/pdf/0301bijutsuforum21-7.pdfF1 4・ 、ネレ +mu 一引 μE ヌ 〈「・1 46 ・ 674ivwJ3 、 1 〆,t 時、刈,‘ 1' 込診守

の一環として綴られたものであることだけは確認して

おきたい。有り体に言えば、フリードの見解は、デユレ

が将来にその出現を願っていた、もっとも理想的な

||それゆえもっとも愚鈍な||批評家の見解を体

現している、といって差し支えない。というのも、フリー

ドは、デユレの「顕著にモダニスト的な構想」に手放しで

賛同することで、デユレがその下に隠していた本来の意

図、すなわちマネから印象派への系譜を「絵画の本質

的な価値」の名の下に、正統なものとして世間に承認

させ認知させようとする営みに含まれていた、政治的

かつ商業的な意図を、もののみごとに見落とす天真嫡

漫ぶりを発揮する結果となっているからだ。

デユレは、この先もっぱら印象派の擁護者として名前

を残すだけでなく、八四年のアトリエ売り立てに先立

つ八三年の遺作展に際しでも、カタログ序文草稿に「ス

ペイン旅行後、マネは明るいパレットを用いるようになっ

た」、と綴っていた盟友ゾラに修正を求めた、現場責任

者ご当人である。スペイン旅行前、すなわち《草上の昼

食》や《オランピア》制作の段階で、すでにマネは明るい

パレットを用いていた、と言い張るのは、美術学校大広

間における遺作展への批評でポlル・マンツも不満げに

漏らすとおり、明らかな論弁だが、そうした能弁を

弄してまで、マネを印象派の先駆に仕立てよう、とこ

れ努めた人物がデュレである。その信念の底には、早期

の日本旅行者として、浮世絵の原色の強烈な色彩こ

そ、日本の自然の忠実な再現であり、マネや印象派の

革新に実証的な根拠を与えるものだ、とする強固な

日本趣味があった。また画商デユラン日リユエルとともに、

この先一人人五年以降、マネと印象派とを新大陸の

未開拓の市場で売りさばく端緒を聞いたのも、ほかな

らぬこのデユレである。

とすれば、そうしたデユレの策略を見事なまでに見

落としたフリードが、それゆえかえって、デュレの術策

にまんまと骸まっていることーーにも無意識なままで

(3)

いることーーは否定できまい。

さらに蛇足を加えるなら、こうしてフランスにおけ

る印象派の市民権確立に、大西洋ごしに貢献してお

きながら、新大陸の美的趣味は、ことマネに関する限

りすこぶる保守的で、メトロポリタン美術館をはじめ

とする購買側は、〈ギタレロ》、《老音楽士〉、《剣をもっ

少年》など、もっぱら六

0年代のスペイン趣味の初期マ

ネーーあるいはせいぜいマネがサロン入賞を目論んで手

心を加えたブランドル風の《ル・ボン・ボック》(一八七

一二一ボストン美術館蔵)||に興味を示すばかり。そ

して、他ならぬフリードは、若き日にメトロポリタン美

術館で、もっぱらこれら北米向けの初期マネに接する

ことで、自らの美的判断を我が目に「刷り込」んだ人

物である。

第三共和制下での

「あるべきマネ像」

の形成

一六

0年代のマネと七

0年代中

一頃以降のマネとに断絶があり、

一またそのどちらに軍配を上げる

かによって、論者の歴史観の知何||印象派に与する

か、それとも過去の巨匠に与するかーーが露呈して

しまうこと。それが、フリードの大著から得られる、

最大の教訓だろう。そしてどのようなマネ像を形成し、

世の中に流通させるかが、第三共和制において掛け金

となっていたことは、マイケル・オlウィッツの研究が明

らかにした。英文では「エドゥワ!ド・マネ再創出一第三

共和制初期における国民芸術の顔の書き直し」、仏語

版では「エドゥアlル・マネ没後の生命日国民芸術と第三

共和制初期における芸術家の伝記」と題された論文で

(4)

ある。ただしその着眼やよし、この論文は大切な論証

に過度の一般化と怒意的な深読みが頻出する。

まずマネ没の時点で、保守的な共和主義陣営が《草

82

上の昼食》や〈オランピア》のマネを忌避しようとしたの

を牽制するために、自由主義的共和派のピユルティー

などが《昼食》や《オランピア》を代表作から外す評価

を下したとする解釈。保守的共和主義陣営がひたす

らこれらふたつの作品を目の敵にしたとの状況判断は、

一八八三年のマネ死亡記事を総覧したかぎりでは、

得られない。ピュルティlの念頭にあったのは、むしろも

っと単純かつ楽天的な図式で、第二帝政下で攻撃に晒

されたマネは、第三共和制になって、共和国政府の手

によってーーーより正確には、ビユルティlの属するガンベ

ツタ周辺の働きかけのおかげでーーー死後の栄光を獲得

しようとしている、という個人的な信念、だろう。それ

をビユルティlは、あたかも既存の事実のごとく、この

時期『フランス共和国』紙で繰り返し宣言している。

たしかに、いやおうなく物議をかもす《オランピア》

の扱いに、ピユルティーもいささか手を扶いていたのは、

オlウイツツの示すとおりだが(『フランス共和国』紙一

八八四年一月七日)、むしろひとつ下の世代のギユスタ

ーヴ・ジェプロワなどが、マネの「美術史上」の位置付け

に腐心するあまり、個々の「作品の質」||ジェプロワ

は《オランピア》と《草上の昼食》が問題となることを、

はっきり意識しているーーーに関しては、さまざまな欠

点を「認めるにやぶさかでない」、といった奇妙な譲歩を

していることも無視できまい(『正義』紙、一八八三年

五月三日)。だがピユルティl、ジェプロワに共通してみ

られる、こうした戦術的譲歩は、あくまで時局へのい

ちなみに、美術学校における回顧展のあと、オテ

ささか隆薄な吋忘であり、これを、かれらの個々の作一値観を形成しつつあった。そしてマネを第三共和制にお

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未開拓の市場で売りさばく端緯を障し犬

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いれ品川NJIC

一山川マトトてF111

ささか軽薄な対応であり、これを、かれらの個々の作

品への絶対的・最終的評価と混同すべきではあるまい。

つぎにオlウイツツは、マネの公的認知に腐心する友

人たちが、そのためマネを印象派からは極力区別しょ

うとした、と述べるが、これも事実に反する無理な一

般化、だ。ほかならぬピユルティーやジェプロワは、印象派

擁護の陣営に立つ批評家だったし、これはフリードも

指摘するように、マネを印象派から隔離するために

「パティニョlル派の主魁」という中立な呼称を採用した、

というオlウイツツの推論は、鼎の軽重を取り違えてい

る。マネをことさら印象派から区別したところで、そ

れでマネへの保守派の敵意をことごとく回避できるわ

けではない。加えてほかならぬ「パティニョlル派」呼ば

わりこそが、絵画におけるコミユナlルという悪口とと

もに、世間に広まった蔑称だったのだから。そしてこの

悪口を、『フイガロ』紙の主幹で保守派を代表する美術

批評家アルベlル・ヴォルフは、マネのアトリエ売り立て

を冷笑的に茶化す記事で、ちゃっかり利用することと

なる。

Tこが力日

昼そ欠 l 、にマ町、 コトそはの印弟象そ派'、、 (J)

あ美Q 堂

はと完雪印ち象て派身のを連滅中ぼかし

ら見ても、すでにひとり遠く後方に取り残されていた、

との認識を、マネ没の時点で、印象派を敵視する陣営

までもが抱いていた(一八八三年のマネ死亡記事に見

えるフィルマン・ジャヴェル『ル・コンスティテュlショネル』

紙、ポlル・ド・カトウ『ル・ジル・ブラlス』紙、アンリ・フ

キエ『十九世紀』紙ほかの見解)。またさらに若い世代

の画家たちーーー遠からず新印象派を称するポlル・シ

ニヤツクなどーーは、印象派への開眼ゆえにマネを評価

しつつも、マネも印象派もともに時代遅れ、と見る価

値観を形成しつつあった。そしてマネを第三共和制にお

ける公認の画家へと認知しようとするブルースト周辺

の政治的な画策に対しては、お国の勲章をいた、だいた

マネなど「敵方に寝返った不実な友」と、自分の配下で

あったはずの印象派の連中から蔑まれでも仕方あるま

い、とする皮肉な観察さえ、ほかならぬ「敵方」陣営か

ら頂戴していた(『祖国』一八八三年五月二日)。そし

てこの寝返りへの悪態は、カミlユ・ピサロが裏書きす

ることとなる(一八八三年十二月二十八日付、息子

リュシアンへの手紙)。

第三にオlウイツツは、一八八四年に先駆的な画家

擁護の『マネ』伝を公刊したエドモン・パジlル||ガン

ベッタ陣営の一員ーーが、プルジョワ社会に楯突く反

逆児マネという印象を打ち消すために、ひたすら「折

り目正しく穏健な」マネ像を提出した、とする。だが

この分析も、いささか視野狭搾を免れない。「画家マ

ネ」はとにかく、少なくとも「人間マネ」は「魅力的で、

感じよく、機知に富む」人物だったとは、『フィガロ』の

アルベlル・ヴォルフ||マネの「友人」を傍称するーーー

のみならず、ボナパルテイストの『祖国』紙(八二年五月

一一日)さえも認めていたし、もっとも辛錬にマネを攻撃

した、極めつきの国粋主義者、エドモン・ドリュモンです

ら、マネの「礼儀正しく愛想のよい」(『自由』八三年五

月三日)様を、あえて否定していない||あくまでそ

れが「画家マネ」を全面否定するための戦術だったとし

ても。つ

まりマネを第三共和制の公認画家に仕立てるため

に、擁護者パジlルが、ことさらマネの人格描写に格

段に配慮を加えた、とのオlウイツツの仮説は、敵方の

反対証言によって、容易に反証できるわけだ。

ちなみに、美術学校における回顧展のあと、オテ

ル・ドゥルオにおけるアトリエ売り立てに先立つ作品展

示が終わった段階(一八八四年二月二日)で、マネの遺

言執行人、デユレはゾラに手紙を遺り、「敵はすべて降

参した、アヴァlルとアブlは別だけど」と記している。

」の年待望のアカデミー-フランセlズ入りを果たした

エドモン・アブlは、遺作展のために美術学校大広聞が

使われるのでは、美術学校で美術の忘却を奨励するよ

うなものだ、として、遺作展の実現に執掬に反対した、

保守派の代表。またアンリ・アヴァlルはジュール・フェリ

ーよりの日和見共和派の体制側批評家だが、かれは、

ガンベッタ派、とりわけ美術大臣を務めたアントナン・

ブルーストへの私的反発からか、マネやその周囲の策動

に対して、人格攻撃とも見られる暴言を吐いていた。

とすれば、マネの人柄に関するガンベッタ派のパジlル

による好意的な記述は、あるいはアヴァlルへの牽制策

だったのかも知れない。だがそれを直接、第三共和制

におけるマネ公認の手段へと一般化するのは、いささか

針小棒大かつ短絡で、釣り合いに欠けた判断だろう。

批評家たちの

政治的分類

一オlウイツツは批評家たちを大

一きく分類するのに、共和派の保

守派、穏健派および自由主義的自然主義者の三分類

を提唱している。保守派とは、美術学校の既得権を保

持しようとする立場で、実際には政治的に一部の(隠

れ)ボナパルテイストや王党派をも含み得る(例えば、

第二帝政の宮廷画家に昇進したジエロlムが、第三共

和制下では、美術アカデミー総裁になる)。穏健派と

は、政治的には日和見とも呼ばれるジュール・フェリー

らの価値観に重なり、第三共和制の国民美術振興策

として、(フランス大革命を評価する)共和国主義を訴

も4811

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える。だがその許容範囲は、せいぜい最近物故したパ

ルピゾン派の風景画家たちまでで、この段階では、およ

そ印象主義を公認する立場ではない。自由主義的自

然主義者は||名称にいささか問題もあるが||、

ガンベッタ周辺で、美術学校の改革を積極的に画策し

ていた政治家たちを含み、マネさらには印象派の殿堂

入りは、カスタニャリやロジェ・マルクスら、この派の官僚

たちをも巻き込み、二十世紀初頭まで、執拘な闘争

が続けられる。

だがこの分類には、それとも斜交いに交差する幾つ

かの補助線を加える必要がある。教会擁護派か反教

会派か、独立派支援か国民美術の確立か、親印象派

か反印象派か、といった軸は、時事的な政治状況とも

連動して、偏角を変える。さらにそこには共和制理念

に則った殿堂入りと、美術アカデミー・美術学校の教

育改革の相克、さらには美術市場における需要との

関係ーーといった複次方程式を想定する必要がある

だろう。仮に独立志向(サロン・デ・ザンデパンダン)か国

民志向(ソシエテ・ナショナル・デ・ザルテイスト・フラン

セ)かを横軸に、印象派への肯定否定を縦軸にとってみ

ると、このあと八

0年代後半から九

0年代にかけての、

官立サロンの崩壊以降のフランスにおける美術集団の

再編成過程を読むための、一応の座標図を描くこと

もできるだろう(どうかお試しあれ)。

マーケティング・一オ1ウイツツの研究は、エドモン・

モダニズムの光と陰一

一パジlルの『マネ」(一八八四)と

遺作展をめぐる批評記事の探索に重点を絞り(ただ

しその新聞記事の肝心な出典が不明確で、引用があ

まりに節約され、時に過度に省略されているのは、い

かにも残念てもっぱら第三共和制におけるマネの公

式な認知の端緒を考察した。だがここには一八八

年のマネの死去の段階での世評分析が欠け、また一八

八四年二月以降の変動が視野に入っていない。すなわ

ち、ほかならぬ遺作展に続くアトリエ売り立ての商業

的な側面が、オlウイツツの研究からは完全に見落と

されている。だがこれについては、私に試論を別途発表

(5)

しているので、ここでは繰り返さない。

ただ、《草上の昼食》や〈オランピア》の去就が、一八

八四年初頭の美術学校回顧展の段階ではさして大き

く取り上げられなかったilあるいは自由主義的共

和派の面々が、さしあたっての抵抗勢力の反発を考慮

して、これらの作品をあえて過小評価してみせた||

」とがオlウイツツの研究から見えてくるとすれば、そ

の直後、状況がおおきく変わっていったことだけは指摘

しておく必要があるだろう。一八八四年二月のアト

リエ売り立て第二日には、《オランピア》を、家族がそ

れなりの価格(一万フラン)で買い戻すために、その直

前に競りに出された《一フテユイユおやじの庖にて》(図

2)||バジlルが最高傑作とみとめた作品ーーと

〈物干し》(図3)||こちらはマラルメが西欧絵画史

に一時代を画したとまで評価した作品ーーとを、ほ

かならぬ競売責任者ご当人のデユレが、体裁を整える

必要から、それぞれ五千フラン、八千フランで買い支え

ておきながら、内部取引よろしき、そうした資金流用

の実態を、一般の競売参加者にはひた隠しにしおおせ

た。かかる舞台裏の||今まではっきりとは認識され

てこなかった||市場操作と隠蔽工作が、《オランピ

ア》の世間体を繕いつつ印象派の地歩を固めるためにな.

されていた、という事実を、ここに再度確認しておこう。

さらにその後、《オランピア》のアメリカ合州国流出

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を懸念したモネが音頭をとった、国家買い上げのため

84

の募金運動

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O年)に至るまで、自由主義的

共和派の面々にとって、絵画市場でマネに商品価値を

付与すべく奮闘することと、マネを第三共和制におい

て国家的に認知させること、さらにそこでの評価を頼

りにして(モネ自身を含む)印象派にしかるべき市場

価格を創設し保証することが、主要な金融的任務と

して認識されていたことだけは、無視できまい。

こうした「新しい絵画」の商品価値形成を巡る背後

の暗闘||商取引の現場ーーを、とりわけドイツ語

圏を中心に研究したのが、ロバlト・ジェンセンの、博士

論文を下敷きにした著書、『世紀末欧州におけるマl

ケッテイング・モダニズム』だ。この書物に関する評価も

(6)

別途述べたので、ここでは紙面の関係で省略する。ただ、

これに加えて、大西洋横断航路を利用した二重価格

操作||二倍から時に十倍を越す価格つり上げーー

によって、パリとニューヨークに跨がるデユランHリュエル画

廊が莫大な稼ぎを得るとともに、また北米での商業

的成功を待って後、翻ってパリや欧州の市場で、印象派

の市場価値再創出に貢献したことは、指摘しておきた

い(ここにもデュレとデユランHリュエルの連携プレイの見

られることは、例えば《挨拶する闘牛士》(図

4)に明

らか)。この事実は、モざヌム美学隆盛の市場的背景

として、けっして仇や疎かにはできない、厳然たる経済

学的事実である。大西洋を跨ぐ商いで、いかなる利鞘

が生まれていたのか、その隠された実態の一斑は、所

蔵者から売買契約の資料参照を許可された幾つかの

作品に即して、別途分析する予定である。

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図2 マネ、{ラテュイユおやじの庖にて〉、 1879年、キャンヴァスに油彩、 92X112cm、トウルネ一美術館

アントナン・ブルーストが「マネのもっとも驚くべき絵Jと述べ、エドモン・パジールが

「マネの絶頂をなすJと評価した作品。 1884年の売り立てで、当時マネの甥として通

っていた、息子のレーンホフが5.000フランで落札したもの、とされてきたが、実際

の売り立て速記録を見ると、勧進元のテオドール・デュレが自腹を切って、家族に

買い戻しのが、裏の真相らしい。

図 1 マネ、{アルジャントウイユ〉、 1874年、キャンヴァスに油彩、 149X115cm、

トゥルネ一美術館

1875年のサロンに出品され、青の水面や「ママレードJよろしきぐちゃぐちゃの背景が

批判された。「外光派からはマネの傑作とのお見立てだjと、批評家のクラルティー

が冷やかし気味に伝えている。マネ没後売り立てで怯マネ夫人によって、全売り立

て作品中最高額の12.500フランで買い戻された。 1889年のパリ万国博覧会に展

示、ベルギーの画家、アンJ)・ヴァン・クツセムが15.000フランで買い取る。

図3 マネ、〈物干し〉、 1875-76年、キャンヴァスに油彩、 145Xl15cm、メリオンf

/'¥ーンズ財団

マラルメがその英文の記事「印象派の画家たちとエド、ウアール・マネJ(1876)で「美術史において一時代を画する作品jと激賞した。 1884年の売り立てでは、画家の弟

ウジエーヌ・マネの所有に帰しているが、これも実際にはデュレが8.000フランを資金供与。{アルジ、ャントゥイユ)(ラテュイユおやじの庖にて)(物干し}と、売り立てに.

現れた、マネの主要な「印象派風jの作品 3点は、ともに家族と売り立て責任者に

よる内部取引によって、世間体を繕った。この段階で、マネ晩年の「印象派風Jの作品には評価額では買い手が付かず、また遺族や売り立て関係者はそれを先刻涼知

の上で、買い戻し資金を準備の上、売り立てに臨んでいたことになる。

図4 マネ、〈挨拶する闘牛士〉、 1866-67年、キャンヴァスに油彩、 171X113cm、ニューヨーク、メトロポリタン美術語

スペイン旅行直後の大作で、題材こそスペイン趣味だが、印象主義を予感させる

強烈な明るさの画面がテ‘ユレの趣味にあったものと推測できる。 1870年デュレがマ

ネより1.200フランで購入。ただし2.500フランの評価額をつけていたマネは、テ.ユレ

に購入価格に関して符口令を敷く。 1894年のテ.ユレ売り立てで、デュラン=リュエル

が10.500フランにて落札。 1898年にニューヨークのハーヴァマイヤ一夫妻に8.000ドル[=40.000フラン]で売却。 1928年メトロポリタン美術館に寄贈される。

私比

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「象徴革命」と一こうした新たな芸術的価値の

アノミ

1の制度化?一

一創出について、「象徴草命」とい

う概念を提唱したのが、ピエlル・ブルデューだった。そ

の『芸術の規則』(一九九二)には収められなかったマネ

論で、ブルデュlは象徴革命の逆説を突いている。つま

り、成功してしまった象徴革命は、成功したために、

その革命たる所以をかえって見えなくしてしまう。と

いうのも、現在の我々が当然としている(視覚的)価値

観こそ、この革命によって打ち立てられたものであり、

草命後の眼鏡||つまり知覚範時ーーに染まってし

まった我々には、革命によってもたらされた価値観が当

然かつ自明とみえ、かつてそこに革命的な侵犯を見て

抵抗した人々の価値観や視覚範臨時は、もはや理解で

きないものとなってしまっているからだ。

実は似たような、歴史の盲目な断絶面のことを、ヴ

アルタl・ベンヤミンも『パッサlジヰで語っていた。つま

ことほ

り、草命の成功を害時ぐ態度は、革命と現在とを連続

させ、草命を通して現在にまで継承された側面を強

調することとなる。ということは、草命がなしとげた

はずの断絶や、伝統を乗り越えようとしてなされた

努力のありかは、革命を祝う姿勢によって、かえって

(8)

隠蔽され、見えにくくされてしまう、と。

」の逆説は、本論で取り上げたマイケル・フリードの

研究に含まれる、一見矛盾した様相を理解するうえ

でも、参考となる。というのも、フリードは、マネとそ

の周辺が引き起こした革命に内在する視点から過去

を振り返りながら、マネ以降の価値観で素直に割り

切れ、解釈されうる作品は、白眼視しているからだ。

マネによる視覚草命の成功ゆえに、かえって忘却され

てしまった、マネ作品と過去との関係を執拘に、場合

によっては過度の深読みも辞さずに回復させようとす

るフリードの欲望。ところがその同じ欲望は、あくま

でマネが成就した視覚草命を前提にして、過去の古典

を、マネ以降の光に照らして読み直す、という欲望と

も一体となっている。

そして、この倒錯した欲望のまっただなかで、なぜか

フリードは、マネによる断絶を「絵画の本質的価値」と

いう言葉で巧みに隠蔽し、印象派以降の市場における

商業的価値を基礎づけた下手人の一人たる批評家デ

ユレの意図を、ものの見事に見落としてしまう。

マネによる象徴革命の魔術は、こうして今なお、そ

の効力を発揮しつづけている。

注(l)||冨oys-Eophhg。町、h』ho号3な50可凶abGEsb『.

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3・∞∞ヤ∞∞む・稲賀繁美「揺らぐエドゥアlル・マネ像」『図書新聞」

二三三四号、一九九七年五月三十一日付け。

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(3)||もっともアムステルダムの学会講演の後で、そうした批判を

持ちかけた筆者に、フリード大先生は||当方のパネル発表をご

覧だったらしく||即座に「お前がイナガか」と見笹め、続いて

「お前の直観が間違っておる」(zgEE巳ggZ505∞一コ)と宣っ

た。いかなる妥協も受け入れようとせぬ独断論者に相応しい、そ

れは毅然たる、見事なまでに自信溢れる態度だった。

(4)||富岳注目出-OZON--dggE∞Eoz向島冨go伸一話題手

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ag-本論文へのさらに詳しい批判は、別途公刊の予定。また稲賀

繁美「美術批評史研究いその最近の動向||一九世紀後半のフラ

ンスの場合」『人文論叢」第一四号、三重大学人文学部、一九九

七年、九一

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一一五頁参照。

(5)||∞匡∞g】宮白宮¥品件。口問己gEgg-∞∞ω一白石立bgozs

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ける二十世紀モダニズム・パラダイム成立とその商業的背景」『図

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25日比仏。F5・NOLEDHgF3・0・5・なお、稲賀繁美「芸術社

会学者としてのピエlル・ブルデュl」『環』十二号、二

OO二年刊

行予定、および、「美術史学への挑戦と逸脱||あるいは学術雑

誌編集者としてのピエ1ル・プルデュl」、石井洋二郎編『文化・社

会・権力||ピエ!ル・プルデューからの展開』(藤原書庖近刊)、も

参照のこと。

(8)!lヴアルタ!ベンヤミン『パッサ1ジユ』、三島憲一ほか訳、岩波

書底。z'E1m-

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〔表紙〕表(左):クロード・モネ、〈睡蓮〉、油彩・キャンヴァス、 93.3X89. 2cm、1907年、ポーラ美術館(ポーラ・コレクション)蔵(財団法人ポーラ美術振興財団提供の写真による)裏(右):ピエール=オーギュス卜・ルノワール、〈レースの帽子の少女〉、油彩・キャンヴァス、 55.1X46.0cm、1891年、ポーラ美術館(ポーラ・コレクション)蔵(財団法人ポーラ美術振興財団提供の写真による)

(Cover) Front cover (Left): Claude Monet,αWater Lilies凶, Oil on canvas, 93.3X89.2cm, 1907, POLA Mu-seum of A同 (POLACollection) (Courtesy of POLA A吋 Foundation)Back cover (Right): Pierre-Auguste Renoir,“Girl in a Lace Haい, Oil on canvas, 55.1 X46.0cm, 1891, POLA Museum of Aパ(POLACollection) (Courtesy of POLA A吋 Foundation)

作家・作品解説

クロード・モネ (1840、パリ -1926、ジ.ヴェル二一)、〈睡蓮〉

モネと言えば.睡蓮、睡蓮と言えばモネを想起するほど、モネと睡蓮の結びつきは深いが、そ

れは1916年から23年にかけて描かれたオランジ.ュリ一美術館の大壁画があるのと、関連作を含

めると130点以上にのぼるとされる多数の作品群があるためであろう。年譜によるとモネが意

識的に睡蓮とかかわり始めたのは、 1890年 (50歳)に1883年から住み始めたジ、ヴェルニーの屋

敷を買い取り、「水の庭園Jと呼ばれるようになった庭を整理するところとなって、睡蓮を植

え始めたのが最初という。ちょうど「ポプラ並木」や「積みわらJ["ルーアンの聖堂」などの

連作をおこなっていた頃であった。これについてモネ自身は、睡蓮を植えたのは楽しみのため

で、これを描こうなどとは思いもよらなかったが、ある時突如として私の池の妖精たちが私の

眼前に現われ出たのだ、というように言っている。

どの作品が最初の作品であるのかは、今の私にはわからないが、「水の庭園Jに関連した作

品で制作時期の早いものとしては、 1892年の〈太鼓橋〉があるようであり、この橋や睡蓮をモ

ネが飽かず描くようになるのは1899年以後とされる。本作は1907年 (67歳)の作として睡蓮に

脂が乗ってきた頃の作と言えようか。ポーラ美術館には本作以外にも太鼓橋を描いた1899年の

〈睡蓮の池〉がある。両者を比べると本作は、太鼓橋がないだけに睡蓮と水に集中していると

言えようが、かといって多くの晩年作のようにもっと睡蓮に接近して、一つ一つの花や葉を大

きく浮かびあがらせるという風でもない。言わば中間的な作品で、例えばボストン美術館の〈睡

蓮、 1) 1905年に似ている。ただしポストンのがやや横長の画面であるのに対し、本作はやや

縦長であるのが異なる。そしてボストンのが夕景であろうか、やや赤みがかっているのに対し、

本作はやや青みがかっている。こうして見てみると当然ながら睡蓮にもさまざまなものがある

ことにあらためて気づかされるが、いずれにしても睡蓮が晩年のモネの中心テーマであり、さ

まざまな展開をおこなってきたモネが行き着いた終着的なテーマであったことは、否定できな

いことであろう。

本稿を執筆するに当っては、池上忠治『モネJ(<世界美術全集18)、小学館、昭和52年)を

参照した。

ピエール=オーギュスト・ルノワール (1841、リモージュ-1919、カーニュ)、〈レースの帽子

の少女〉

花びらのようにふさふさと垂れ下が‘った帽子をかぶった少女。当時帽子は「女性にとっては

身だしなみの一部であり、……外出するときはかならず帽子をかぶっていたJという。同年(1891

年)制作で同じ大きさの国立西洋美術館の〈帽子の女〉と似ている作品であるが、西美の方は

大きく曲線を描く帽子で右向き、袖付きのブラウスで、パックは黄色とグレイの縦二色のカー

テンであるのに対し、本作は今述べた帽子をかぶって左向き、袖なしのブラウスで、バックは

水辺を思わせる横掃きのうす青である。〈帽子の女〉の方がどちらかというと目鼻立ちがはっ

きりしていて、知的な感じがするのに対し、本作はふくよかで愛くるしい。。

ところでこのような比較を今長々とおこなってきたのは、ほかでもない。 1883年頃から1890

年頃までのルノワールの制作期は、普通「アングル時代」と言われて、それまで極めて印象派

的な作風を推し進めてきたルノワールが¥アングル(1780-1867)やラファ工ッ口 (1483ー1520)

に興昧を覚えて、形態の表現に関心をいだいた時期となったが、これを通じて考えられること

は、もともと印象派ははっきりした形態表現を控えてまで動きや光を表現し、もって描写対象