instructions for use - huscap...jih harnero bpemeh汚3tho,li. hoctpohhhe onpe,li....

92
Instructions for use Title 二つの論争 : ゲルツェンのツルゲーネフとバクーニンとの論争に寄せて (I) Author(s) 外川, 継男 Citation スラヴ研究, 15, 1-91 Issue Date 1971 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/5005 Type bulletin (article) File Information KJ00000112929.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

Upload: others

Post on 31-Dec-2019

5 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

Instructions for use

Title 二つの論争 : ゲルツェンのツルゲーネフとバクーニンとの論争に寄せて (I)

Author(s) 外川, 継男

Citation スラヴ研究, 15, 1-91

Issue Date 1971

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/5005

Type bulletin (article)

File Information KJ00000112929.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

Page 2: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

つ の 論 争

一一ゲノレツェンのツノレゲーネフとパクーニンとの論争に寄せて一一(1 )

タト J I ! 継 男

(13 次〕 V 「土地と自由j

t土 じ めに VI ゲノレツェ γ,バターニンと「ポーラン

I プロローグ ド問題j

II 『再び古い主題による変奏曲』 VII ゲノレツェン,パクーニンと「第一イン

111 ロンドンの『鐘』 ターナショナノレj

IV 『終りと始め』 VIII F昔の同志への手紙』

〈以上本号〉 IX エピローグ

CTpaHHoeロOJIO)l{emleMOe, KaKOe-TO HeBOJIbHOe juste milieu B CJIaBHHCKOM Bonpoce:

ロepe,lI.HHMH兄 qeJIOBeK3ana,lI.a, nepe,lI. HX BparaMH qe瓦OBeKBOCTOKa. 日33Toro CJIe瓦yeT,

qTO ,lI.JIH Harnero BpeMeH汚 3THO,lI.HOCTpOHHHe onpe,lI.eJIeHH匁 Hero,lI.匁TC兄.

nHeBHHK fepu.eHa, 17 Ma民 1844

はじめに

19世紀の 40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

く知られている。後に「西欧派Jと「スラブ派Jと呼ばれるようになった才能ある若者た

ちが,それぞれサークル (KPY)l{OK) を形成して当時西欧の思想界で問題となっていたあ

らゆる社会思想,哲学を論じ為った。これらの若いインテザゲンツィアは,そのほとんど

が地主貴族の家柄に生まれ,今Bから見るならば,その数も想設以上に小人数であり,生

活態度や趣味の上でもきわめて homogeneous なー握りの知識人であった。後らの肖像に

ついては,作家・思想家としては凡宥であったが,すく、、れたジャーナリスト的感覚を身に

つけていた同時代人のアーンネンコフがその F文学的回想Jの中で「素晴らしき十年」と

して措いている iら さらにこの持代を論じた多くの研究者の中では,同じタイトノレのパー

リンの短いがすぐ、れたエッセーがL、くつかの興味ぶかし、示唆に富む指摘をしているの。

1)口.B. AHHeHKoB, JlHTepaTypHhIe BocnOMHHaヨ白鳥 M.1960このほかにも11.11. OaHaeB, JlHTe-

paTypHhIe BocnOMHHaHH兄, M. 1950 (邦訳,パナーエフ F支学的回想U,井上満訳 1-11,岩設文

章)A.兄 OaHaeBa,BocnoMHHaHH冗, M. 1956, A. 11. KOrneJIeB, 3anHcKH, EepJIHH, 1884があ

る。

2) Isaiah Berlin,“A Marvellous Decade, 1838-48: The Birth of the Russian Intelligentsia," Re-adings in Russian History, edited by S_ Harcave, Vo1. 1, N. Y., 1962, pp. 344-362

0 これは最初,Encounter, IV (June, 1955) pp. 27-39 I'こ揚載され, B.B.C.からも放送された。

Page 3: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト JII 継男

イギリスの一般の知識人を対象としたこのエッセーの中でバーザンa,留保をつけなが

らも,文学や芸術に対する「フランス的」態度と「ロシア的J態震の相異をつぎのように

説明している。

19世紀のフランスの作家は,総体として,自分たちが purveyorだと信じていた。後ら

は知識人とか芸街家の自己自身及び公衆に対する義務というものは,できるだけすぐれた

作品を作ることにこそあるのであって,もし画家ならば可能な隈り美しい絵画を,作家な

らばできる限りすぐれた作品を書けばそれでよいのであり,芸術家の髄人的生活は,大工

の私生活が公衆と関揺がないのと同様に公生活とは関係ないものだと考えていたというの

であるc テーブ、/しを作ることを大工に頼む場合,大工がその仕事によき動機を持っか否

か,あるいは彼が妻子とうまく暮しているか否かはまったく問題にならなL、大工の品行

が悪いからといって,彼の作ったテーブ、ルの品位がさがると言うのは馬鹿げたことである。

このような批判は大工としての彼のメリットを云々する場合にはおよそグロテスクなもの

であると彼らは考えていた。

これは極端な例かもしれなL、が, およそこのような「フランス的J な態度は, 19世紀

のロシアの大部分のすぐれた作家たちによって,はげ、しく拒否されたところであった。し

かもそれは単に論理的あるいは社会的額向を持った作家の場合だけで、はなく,芸街のため

の芸術を信じていた唯美主義的傾向の作家についても言えるのだと,ノミーリンは指摘して

いるのである。

「ロシア的」慈度というの法,く少なくとも 19世紀の場合〉人間というものを分けるこ

とのできないものと考えるところにある O したがって人間が何かを為すとすれば,それは

彼の全人搭をもってするのであって,よきことをなし,真実を語り,美しきものを作るこ

とこそ伎の義務である。もし彼が小説家ならば,伎は小説家として真実を語るべきだし,

バレーの踊り子ならば,その踊りを通して莫実を表現すべきだというのである。

さらにロシアの作家は誰でもが,公けの場において証言をしているのだと自覚してい

た。したがって,どんなささいな嘘も,真理に対する信熱の欠おも,憎むべき犯罪と考え

られた。おそらくトルスルイの場合は文字通りこれを極端なまでに実行した例であろう

が,ロシアの作家の中でも,もっとも酉欧的で,芸術の純粋性と独立性を誰よりも信じて

いた「審美的なj ツルゲーネフの場合でさえも,社会と道徳、の問題こそが人生と芸術の中

心課題であるとの確告から免れえなかった,とバーリンは説明しているのである円

L 、ずれにせよゲルツェン,バクーニン,ヅノレゲーネフというこの三人のきわだった個性

が,ともにこのような知的風土の中で育った代表的四十年代人であったことは否定すべく

もなL、また彼らはともに,ツルゲーネブの作品の言葉を借りて言うならば,六ト年代の

1) 1. Berlin, ibid., pp. 356-3580 なおツルゲーネフにおける政治と芸術の問題については R.E. Matl-

aw,“Turgenev's Novels: Civicまesponsibilityand Literary Predilection,円 inRussian l'hou-

gJ:t and Politics, Cambridge Mass., 1957, pp. 249-262参照。 この中で Matlawは, ツノレゲーネフの政治的意見と美学的判眠江本費的に異なっていた。政治はツルゲーネフの芸術的ピジョンにと

って alien なものであり,ツルゲーネプ告身の致治と芸術のご分が, それらを芸能的に結合する彼の能力に影響を与えていたと言っている。 p.250, 2540

2

理「

Page 4: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

:一子j の世代に対して. r父j のI1t代に属する代表的インテリゲンツィアでもあった。

以下における「二つの論争j は,六十年代にゲノレツェンによって書かれた二つの書筒形

式の論文『終りと始めj] (ツルゲーネフあて〉と. w昔の同志への手紙j](パクーニンあて〉

を取り上げて,それをさまざまな角度から見てゆこうとするものであるが,これらの中で

取り上げられた問題は,ゲルツェン自身その自伝の中で四十年代をふりかえって「後に仕

上げられたすべてが.この時代に関係 Lている;と言っているようにの, いずれもこの間

十年代の論争とふかくかかわりを持つものである円きらに,このような公開の害関形式の

論争というものも,以上に紹介 Lたノミーリンのいう「公げの場における証言j というロシ

アに特徴的な思想的雰国気と切り離すことのできない関係にあることも,われわれは最初

に確認しておかなければならないう

ゲノレツェンはその生涯に数多くの公開の書筒形式の論文を発表しており,これはある意

味で伎の「妻子みのスタイルJで、あったとも言えるが2) 1861年の農奴解設令をはさんで,こ

のような形式の論文は数を増し.それぞれが相手を設定した上で、の論争の形をとるように

なってくるわ。 ゲソレツェンの立場からするならば.一方にほカトコーフ,チチェーリンと

いったリベラノレ右派と.アクサーコフ兄弟,サマーリンに代表されるスラヴ主義者がおり,

伯方にはチェルヌイシェフスキー, ドブロワューボフら!lrnJ時代人』誌による「新しい 111:

代j のラジカルな若者がL、fこっそしてそのいず¥れとも彼は論争を交えているし,政治的な

立場という点からするならば.それらの論争を通して考察した方が,現実の状況の中にお

けるゲノレツェンの位置づけはより明確になるであろう 4ら しかし,以下に見るように,ツ

ルゲーネフおよびパクーニンを相手としたこれら「二つの論争Jにおいて江, rロシアと

ヨーロヅパム「ナロードとインテリゲンツィアJという西ト年代にさかのぼるロシアの忠

思界の中心的テーマが,二ト年の長月を経て,より深められ,明らかな形となってあらわ

。A.11. fepueH, C06paH羽eCOl.JHHeHHH B TpHJ¥uaTH TOMaX, T. IX, CTp. 1120 li過去と思索2第凶

部第 24章。以下においてこのアカデミー薮の作品書鍔集を引}討する場合は巻数と頁数のみを記す

こととする。

のこれと並んでゲルツエンの「好みのスタイルj とLて社話形式があげられるが,このスタイルの必

然性については拙稿「ゲルツエンの『向う岸から』についてJ!iスラヴ研究JINo. 14, p. 5参照。

3) CM. c.,U. JIH回 Hep,“3nHCTOJI兄pHbIe UHKJIbI B ny6JIHUHCTHKe fepueHa rneCTHぇec兄TblX

rOJ¥OB," np06JIeMa H3ylJeHH冗 fepueHa,M. 1963, CTp・189-214

4)農奴解放前夜においてゲルツエンがチチェーリンに代表されるリベラルな持営と次第におf立Lてゆ

く過程については岩間徹氏がすでに摂っている。「ロシア・インテリゲンツィア一一一法秩序と午命

-J岩間徹儒 Z変革期の社会1鍔茶の水書穿, 1962, pp. 113-134

さらにこれらの問題を全面的に扱ったものとしてはJ1eMKeの古典的ともいうべき OqepKHOCBO・

60J¥HTeJIbHOrO J¥BHiKem既“rneCTH瓦ec完TbIXrOJ¥oB," Cn6. 1908 が多くの素材を提供してくれ

るO 近年のソピエト史学のグループ訴究による, PeBOJI泊 UHOHHa兄 CHTyaUH完 BPocc部 iB 1859-

1861 rr. M. 1960, 1962, 1963, 1965, 1970の五巻の論支集と,二つの業績立1.M. JIeBHH, 06江J.ec-

TBeHHoe J¥BHiKeHHe B POCCHH B 60-70-e rOJ¥bI XIX BeKa, M. 1958と H.f. CJIaぇKeB沼町 O可-

epKH HCTOpHH o6LUecTBeHHo註 MbICJIHPOCCHH B KOHue 5{)..x-HaミIaJIe60・Xro江OB XIX BeKa, 瓦.1962もとくに参考となる。西fJlJJの研究も少なくないがここでは F.Venturi, Roots ('f Reval-

ution, N. Y., 1960, E. Lampert, S,Jns ag.ιzinst Futhers, Oxford, 1965をあげるにとどめる。なお

H.託.MyxHHa こよれば革命後 1959年春までに農奴解放前後を扱った文献は 1,921の多数にのぼ

るがこのうち自由主義の運動を最上げたのはわずか八編である。 CM.J1eBOJIIOUHOHHa兄 cHTyaUH匁

B POCCHH B 1859-1861 rr叶 M.1960, CTp・522-527

3

Page 5: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

オ工てくるのである。

ツノレゲーネフにあてられた『終りと始め』が書かれたのは 1862'"'-'63年のことであり,

バクーニンあての『昔の同志への手紙』はそれから 6年たって 1869年に書かれた。 この

間にゲノレツェンの見解,とりわけ慶史とロシアの未来に対する見方がどのよにう変化ない

し発展しまたどの部分が変らなかったか,ということも本論を通して明らかとなろう。

ゲFノレツェンとツノレゲーネフの論争についていうならば, 1954年より 65年にかけてゲル

ツェンの著作・書簡集がソ同盟の科学アカデミーから出版され,またツルゲーネフについ

ても 1961年から 68年にかけて全集の一部としてお巻の書簡集が同じく科学アカデミー

から出版されたことによって,従来よりもはるかに詳細な研究が可能となった。これらの

著作集,全集には最新の研究成果をとりいれた,くわしい注がついていて,とくにツルゲ

ーネフの書簡の場合には,いままで用いられてきた《口区CbMaK.江M.KaBeJUiHa H l1B. C.

TypreHeBa K AJI. l1B. fepu.eHy C 06'匁CHHTeJIbHbIMH npHMellaHH兄MH M. 瓦parOMaHOBa,

)K.eHeBa, 1892>>には入っていないものも含まれている。またこれよりもはるかに詳細な解

説がほどこされ,手紙の日付も正されている O これに加えて,ゲノレツェンがロンドンの昌

由出版所から出していた『北極星~ (1855 '"'-' 1862)が 1966年から 68年にかけてファクシ

ミワ版で出版され, さらにまた全号揃った形で、はソ同盟でも四つの国書館にしかなかっ

た1) IJ'鐘Jl(1857 - 67)が同じくファクシミワ販で 1962年から 64年にかけて出版された

ことによって,書簡の背景となる事実もずっとくわしく研究しうるようになった。このこ

とはゲルツェンとパクーニンの関係についても言える。

研究史の上でいうならば,ゲノレツェンとツルゲーネフとの関係は, 40年代を対象とした

ものにJ1.B.naBJIOBの <<11.C. TypreHeB H A.日.fepu.eH (K HCTOpHH B3aHMOOTHOllleHH員

B 40・e rO~bI>)わがるり, 60年代についてはB.oaTypHHcKH誌の <<fepu.eHH TypreHeB>>め

と 3.KoraH の <<TypreBH f,句u.eH>)めがあって,これらを参照することができた。めいず

れも参考になったが,それぞれ史料上や紙数の説限からして十分問題を究めつくしている

とは言い難し、。この問題は,あえて言うならば文学史家と歴史家の谷間になって取り残さ

れている。

ゲ、ノレツェンとパクーニンについては,史料としてギイヨーム販,スチェクロフ抜,ゴー

ロス・トノレーダ販,ブリ/レ版のパクーニン著作集・史料集の誌かに,とくに書簡としてはド

ラゴマーノフの編集した <<nHCbMa MHX. AJI. oaKyHHHa K AJI. l1B. fepu.eHy H H.立JI.

OrapeBy, )K.eHeBa, 1896>>がある。一方研究の方はソピ‘エト時代になってからはコジミー

ンの論文以外きわめて少なく,最近になって,ピルーモヴァの著作のがあらわれたが,い

ずれも両者の関係を全面的に扱ったものではない。η 以下の論文はこれまでの研究成果を

。3.TI. B33HJIeB3, <<KOJIOKOJI>> repueH31857-1867 ff., M. 1949, CTp. 11. 2) Y可.330. OpJIOBCKOfO oe.ll.. HH-T3, T. 17, 1963, CTp. 9-36.

3) <<l1cTOpHQeCK減 配CTHHK>>,SlHB. 19∞, CTp. 203-228.

4)託.C. TypreHeB (K 50-JIeTHIO CO .lI.狂完 CMe予TH)COOpHHK CT3Te益, JI. 1934, CTp. 107-132.

5) このほか H. B. BHHHHKOB3,“日OJIeMHK3H. C. Typr‘eHeB3 C A. H. repueHoM B 1862-1863 rr."があるが未だ見ていない。

6) H. TIHpyMOB3, B3KyHHH, M. 1970 7)このほかの文献についても同様のことが言える。 CM.A. H. repueH, CeMHH3pl拍, M-JI, 1965,

CTp. 261-264

4

-;-yc

Page 6: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つ の論争

生かしながらも,できうる日艮り崇史料にあたって f二つの論争」をその背景にまでさかの

ぼって明らかにすることをめざすものである。

(本論における日付は潰例に従い,ゲノレツェンがロシアを去る 1847年以前は露潜を,そ

れ以後は新麿を用いた。〉

I ブロ司ーゲ

1840年の初めにゲノレツェンは五年におよぶ流刑が;I干されて首都に帰って来た。そしてそ

こに幾つかの「新しいサークノレ」を見出すが,とくにその中でも彼の注吾を惹いたのは,

「パクーニンとベザンスキーを長とするスタンケーヴィチの友人たち」のサークルと,

「後にスラヴ主義者と呼ぼれるようになった」人びとのクVレープとであった~

これらのサークノレの中にゲノレツェンは「古き戦土J.1"昨日の人間j として受け入れら

れ,とくにへーゲ、ノレ哲学を会るごとく摂取しつつあったノくクーニンやベリンスキーたちの,

はげしい哲学的渦の中に巻きこまれる 2)。

五年前に当時最新のサン=シモン主義を学んだまま知的社会から遠く離れていたゲ)レツ

ェンにとって, ロシアの豆、空、の「調子,関心, 研究ーーーすべてが変ってしまった」めこと

が大きな繁きで怠ったことは想録に難くなL、しかも,彼らの自分とはまったく異なる

「土台,武器,言葉J をくらべてみるときの, 勝敗の帰趨は一見して明らかであった。こ

こから六年にわたるゲルツェンの「死物狂いのへーゲ、ノレ主義J (0刊 3iIHHhI詰 rereJIH3M)5)

の時代が始まるので為るが,へーゲル哲学をめぐってのノミクーニンとの論争6) も開始され

るの

当時ベリンスキーは, 1"すべての現実的なものは理性的である」というへーゲ Iレの命題

を文字通りに受けとって,それならば「われわれの上にのしかかっているこの奇怪な専制

政治も理性的であり,存在しなければならなくなるj というゲルツェンのするどい指摘を

受げなげればならなかった。この二人の間に立ってパクーニンは,両者を「和解させるた

めに説暁 L,説得 Lょうと努めたjが,次第に「ときどき考えこむj ようになったといわ

れるη門

当時のパクーニンの何よりの望みはへーゲル哲学のメッカたるベルリンへ留学すること

であった。このため彼は両親にあて長文の手紙を書き竺費用の枯出を懇願したが,息子の

「ドン・キホーテj 的「空想、j 癖を危供していた父親は.すぐに金を送ることは不可能だ

。repueH,IX , 9, 16, 400 ゲ/ルレツエンは

グ一ユンと知り合つたと書いている力が"これは 40年はじめの誤りであろう o T. VII, 343

2) repUeH, IX, 18, 21

3) repueH, IX, 16 4) repueH, IX, 40 5) 1842 - 45年のゲルツエンの日記参照。(とくに 1842年4月13日 7月29日, 9月初日 12月27

日, 1844年4月四日等)

6) re予ueH,IX, 23 7) r匂 ueH,IX, 22-23.金子幸彦訳 F退去と a思索1,筑摩書房, 1, 1964, p. 268

8) 1840年3月24日の書簡o M. A. EaKyHHH, Co6paHHe co可HHeHH員 HnHceM no江 pe.ll.aKUI記 長日

c npヨMe可aHH克MH10. M. CTeKJIOBa, T. 11, M., 1934, CTp. 392-407 (コルニーロフは日付を 3

月22日としているがこれは誤りである〉。

5

Page 7: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )1¥ 継男

が,将来 1,500ルーブルまでは出してやろうとの返事を書いた01) <<La mer germanique>>

の夢をいかにしても捨て切れぬバクーニンは,そこで、友人たちを物色してゲノレツェンに呂

をつける。

「こ@らんのように,ゲノレツェン,ぼくはくだくだしい中国式儀礼は抜きにして,君に単

純,卒直に頼むのだ。君から金を借りるのは,愚かな,またつまらぬ空想、を満たさんがた

めでは決してなし、。ひとえにぼくの生涯の唯一の人間的な吾的を達成したし、がためにほか

ならなL、oJ2)

かくてゲルツェンから 2,000ルーブノレの金を無期援に借りたパクーニンは, 1840年 8月

29日クロンシュタットの港から乗船し翌ヨロシアを去って行った3)っつい先頃のカト

コープとの喧嘩から友人は誰一人として見送りに来ず,ひとりゲノレツェンだけが去り行く

友を見送ったので、ある。

「汽揺がネパJ!Iを出るやすぐにバルト迩のはげ、しい風が,もっと冷い奔流とー諸になっ

てわれわれに襲いかかった。船長はやむなく引返すことを命じたのこの引返しはわれわれ

二人にとってこの上なく辛いことに思われたのパクーニンは何年もの間これでお別れだと

思っていたベテルブルグの海岸が再び接近して来るのを悲しげに眺めていた。埠頭にはそ

こここに兵士や税関吏や警官やスノζイの不吉な姿が使い古した傘の下で震えているのが見

られた。

私はパクーニンにベテルプノレグの陰惨な光景をさして,あの素晴しいプーシキンの詩を

引用した……パクーニンは岸に降りようとしなかった。出発の時間まで船室で待っていた

かったからである。私は彼から去った。黒いマントに身を包み,無情な雨に持たれた伎の

大きなからだが今も思い出される。船言に立って彼は私に最後の挨拶をするために帽子を

振っていた・…..J4)

十一年後にゲ、/レツェンはこの時の様子を,このようにミシュレに書き送っている。

* ヰ*

バクーニンはゲノレヅェンよりもわず、か二歳年下で、あるが,ツノレゲーネフは六歳半も若

く,はじめてゲ/レツェンとツノレゲーネフが知り合ったのは 1842年頃, モスクワにおいて

であったとツルゲーネフ自身後年上院の査問委員会へ回答している530 バーヴロフの研究

1) TaM >Ke, CTp. 478 A. A. KOpHHJIOB, MOJIO瓦blerO)lbl MHXaHJIa 5aKyHHHa, M. 1915, CTp・437-438.

2) M. A. 5aKyHHH, Y Ka3. CO可., T. II, CTp. 422 (1840年 4月 20日の書需〉

3) KOpHHJIOB, rOぇblcTpaHCTBH註 MHXaHJIa5aKyHHHa,瓦.1925, CT予・ 5

4) repueH, VII, 343-344. 5) 11. C. TypreHeB, nOJIHOe co6paHHe COl.J祝日eH沼詰 HnHceM, nHCbMa, T. V, M., 1963, CTp. 391 ;

1863年 4月 313付書需(以下本書を引用する場合は巻数と頁数のみを記す〉。

6

E

Page 8: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

によれば,おそらく 1843年の前手と考えられるがひ, いずれにしても両者の関係は年齢

的なへだたりもあって, 1848までは表面的なものであったということができょう 230

ツルゲーネフがドイツへ留学したのは,パクーニンよりも二年前の 1838年 5月のこと

であり,この年の 9月から二学期間、スタンケーグィチやグラノーフスキーらと共にベル

リン大学で、学んだめ。翌 1839年の秋.母親に呼ばれて一度ロシアに帰ったあと. 彼は

1840年の一月半ぽに再び国外にHL四カ月間イタザア旅行を Lた。スタンケーヴィチと個

人的にもっとも窺しくなったのがこの時期である。しかしこの年 6月,スタンケーヴィチ

は結核で、不惜の客となる門このときのツルゲーネフのふかL、悲しみは設がベルリンからグ

ラノーアスキーに書送った手紙の中に見ることができるのの

ツルゲーネフがベルリンでパクーニンと知己になるのは、このイタリアの尿から沿って

からであるが,両者の関係は急速に親密の度合を深め, 40年から往年の冬には二人は同

乙下宿で暮すまでになるめろ この年の五月に再びロシアに帰ったツルゲーネブは夏を自分

の領地のスノミースコエで送り, 10丹にはノミクーニン家を詰問しプレムーヒノで一週間をす

ごした。等敬する兄の友人であるツルヂーネフをノくクーニンの妹のタチャーナが恋するよ

うになったのはこの持のことであったの。

この墳のツルゲーネフはモスクワ大学の教授になることをのぞみ(1826年にダヴ 4 ー

ドフが去って以来空需となっていたポスト),ブィヒテを再読しプラトンの『共和国三の注

手:をしているη。

一方パクーニンについては,ゲノレツェンがつぎのように当時の姿をったえている。

「パフーニンははじめその意気込みと才能と思いきってする結論の大胆さによってベルタピエチズム

リンの教授連を大L、に驚かせたが、 まもなくドイツの学[Hjの寂静主義に退罰して,これと

子を切るようになった〔パクーニンは関争以外に思惟と現実の間の二律背反を解決するす

べを克なかったので、ある{そして設は次第次第に革命家となっていった内設はアーノノレ

ド・ルーゲの指導するぞハレ年誌下によって‘ ドイツの教授連中の不毛で貴族主義的で非

1) JI. B. naBJIOB, l1. C. Typr‘eHeB H A. H. fepueH.一一K HCTOp沼H B3aHMOOTH0U1eHH詰 B 40-e

ro瓦bI,YqeHbIe 3anHCKH, OpJIOBCKH註 rocy)lapCTBeHHbI負 ne江arOrHqeCKH註 HHCTHTyT,T. 17,

OpeJI, 1963, CTp. 100 この中で著者立,ツルゲーネフの「ファウスト論jがゲルヅエンの「科学

におけるジレツタンテイズム」の直接の影響れこ書かれたと言っているが CCTp.14), いずれにせ

よ,パクーニンやベリンスキーほどの現しい交擦はゲルツェンとの間にはなかった。

2i当時のゲルツェンの柱霞書簡の中でツルゲーネフについて言及されているのは 1844年 3月 1Bの

ケヅチヱルあて手紙と, 1846年 1丹2日のベリユ/スキーからゲルツェンにあてた子抵ぐらいで,そ

の謁子も通 1)1. 、っぺんのものであるつ

3) Henri Granjard, Ivan Tourguenev et les courantsρolitiques et sociaux de son temρs,Paris, 1954,

pp. 73-74.

4) 1840年 7月4日付ツルゲーネフのグラノーフスキーあて書簡参照。 DuCbMa,1, 191-193.

5)マガルシヤヅク注,当時のパクーニンが友人に喜子かれてい主かったことから,彼に惹かれたのは多

分ツルゲーネブひとりだったろうと言ってしる o Oavid Magarshack, Turgenev-A Life, London,

1954 p. 53.

6) KOPHHJIOB, fO)lbl CTpaHcTB町長 MHXaHJIaEaKyHHHa, CTp. 74, 91. Granjard, ibid., p. 74.ツル

ゲーネフが f猟入日記Jの材料を得たのがこの夏のスパースコエでの生活であったとマガルシヤヅ

クは記している。 Magarshack,ibid., p. 54

7) Granjard, ibid., p. 97

7

Page 9: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト )11 継男

人間的な学聞の理解に抗議をとなえる若い文土の{中間に嘉するようになったのであるは1)

ツルゲーネフがプレムーヒノを訪問した頃,パクーニンはドレスデンに投し,この地で

発禁鬼分を受けた《ハレ年誌》に代ってこの年から再刊されるようになった《ドイツ年

誌》の編集長で島るアーノノレド・ノレーゲと知己になった% 上述のゲルツェンの文章が示

しているように,彼は青年へーゲノレ派に急速に近づき,早くも翌 1842年の 10月には《ド

イツ年誌〉に有名な処女論文『ドイツにおける反動』を執筆するようになる汽彼がツル

ゲーネフや弟妹と別れて一人ですごしたこの 1841年から 42年にかけての冬が「パクーニ

ンの転向の決定的な時期jだったことは E.H.カーも記しているの。

ロシアに戻ったツルゲーネフは,翌 1842年の 7月末にドレスデンに来て, このすっか

り変ったパクーニンを見出すことになる。当時パクーニンはまさに前述の『ドイツにおけ

る反動Jを執筆中で為り,ツノレゲーネフがこの論文の校正や出販に立ち会ったことは疑い

の余地がなし、。またパクーニンがこの年下の友に,新たなへーゲル左派の福苦を伝道しよ

うと懸舎になったことも間違いのないところである的。

しかし二年誌にはパクーニンの精神的権威に唯々諾々と服していたツノレゲーネフも,今

度は容易に説得されることはなかった。この理由についてグランジャールはつぎの二点を

指摘している。第ーにツノレゲーネフが「昌分の精神的指導者が革命的理想のドン・キホー

テとなった」と感じたこと。言葉をかえて言うならば弟子からすればなによりもー・二年

前に舗が自分に教えた信念を裏切ったという心理的反壌があったということである。さら

に第二として,一一この方がより重要であるが一一,一年間のスパースコエの領地におけ

る国菌生活が,ツルゲーネフをして「祖国の社会的,政治的現実j については自分の方が

パクーニンよりもよく知っているのだとの確信を与えたということがあげられるの。

それならば彼はいかなる「環実」を把握したのであろうか?この点に関して,i長田早々

内務省に奉識して「試験の形でj書かされた Fロシアの経済とロシアの農民についての若

干の意莞~7) とL、う論文がわれわれに多くの示唆を与えてくれるように思われる。新しい

アカデミー販の『ツルゲーネフ全集』の注釈によれば.設が内務省に勤務するように決心

したのは,この 1842年の夏から秋にかけてのドレスデン滞在中と推測され, しかもその

理由として, ["""ロシアの農民を農奴たることから解放する仕事に力相応に援助」するために

は,内務省がもっとも適していると考えたからであったといわれる% いずれにせよツル

ゲーネフは,形式的には 1845年のはじめまでく『自伝』によれば 1843年十こは早くも休職

をとっているが〉ヘ官吏として生涯ただ一度の勤務についたので、あった。因みに当時の

1) fepUeH, VII, 356. 2) Granjard, op. cit., p. 98, E. H. Carr, Michael Bakunin. N. Y., 1961 pp. 113-114 3)ゲルツェシはこの年 (1842年)8丹 15日の呂記の中ではじめてこの雑誌について触れ,ドイツ哲学

はこれによって講壇から生活の中に入り,社会主義的な革命的なものになったと激重している。(T. H, 223)

4) E. H. Carr, op. cit., p. 1140大沢正道訳『バクーニンJl.現代思瀬社,上, 1965年, p. 154 5) Granjard, op. cit吋 p.996) Granjard, op. cit., p. 99-1∞. 7) TypreHeB, CotJHHeHHH 1, CTp. 45θ-472. 8) TaM )Ke, CTp・629.9) TaM 双 e,XV,207.

8

ザ 一一一一一一一一十"CT 'P"'''W'''''IIr-_'

Page 10: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

内務大臣レフ・ベローフスキー(1792- 1856)は, 若い頃デカブリストの「福祉協会j

のメンバーだったこともあり,精力的な反農奴制主義者であり,ツノレゲーネフの直属上司

たる特別官房の長は言語学者・作家として一家をなしたウラジーミル・夕、、ーりく1801-

1872)であったり。

ところでツルゲーネフの農奴制に対する見解は『猟入日記iなどの作品や書簡を通して

もうかがし、知ることができるが,このように論文の形でまとまったのはほかになく,また

後のゲ/レツェンとの論争ともふかい関係があるので, 1842年 12丹 23,24日の日付のある

この論文を以下におし、てやや詳細に検討することとしたい。勿論これが当局に呈出する公

文書である以上,そこに「公式的な修辞的謁子」が見られるのはやむをえないが,全集の

注釈者が言うように「それでも意昆の内容において,未来の作家は邑分自身の思想を表現

しようと努めたJ2) と言ってよいであろう。

まず言頭においてツ/レゲーネフは,自分は専門に経済学を学んだとは言えないが,かつ

て塵史や地理を学びへ また経験や読書によって怠る程変かなりな量の知識を身につけた

ものであち,今後国家の経済を研究すべく全時間を捧げる決心をしたので,その証拠とし

て本論を執筆した次第であると述べている 4)。

ところで農民問題は, ロシアのみならず,フランスでもイギザスでもドイツでも重要な

問題になっているが,とくに農業国であるロシアにとってこの問題はその未来を左右する

きわめて大切な毘題である 5)。 さらにまた歴史的に見て, ロシアと西欧との間には地主=

農民関係に大きな相異がある。即ち,西欧では地主貴族はf副長民族であり,農民は被征寂

民族であるのに対して, ロシアでは貴族も農民も同じ人種であって,同ーの言語を話して

いる。そして自家が一つの大家族をなしその長に父なるツアーリ (Uapb-6aTlOllIKa)が

あった。まずこロシアには西欧に見られたような封建制が存在しなかった代りに,家父長的

な関係があった。このような関係法,一方ではロシアの風俗習噴や宗教心の純粋性と結び

ついているが,能方からするとロシアの市民的発達 (rpa淑~aHCKoe pa3BHTHe) を担むこ

とにもなっておりの, どうしても変化せざるをえないものである。これを最初に押し進め

たのがピョートル大帝で、あり,この「偉大な統治者」のおかげでロシアはヨーロッパの強

国となったが,それでも多くの未解決の問題が残されたままになっている。われわれはこ

の事業を引き継いで完成させなければならないのであって.いたずらにピョートノレ大帝の

なした仕事を恐怖をもって挑めたり,民族の発達をおしとどめようとすること法,われわ

れの現在と未来に対する不信と呼んで然るべきであろう η, とツノレゲーネフ法スラヴ主義

1) TaM )Ke, CTp. 630.ダーりが政治的には保守的見解の持ち主であったことについては 1970年9丹

プリンストン大学の Prof.Joachi思 T.Baerが北大文学部における講演の際に詳述している O

2) TaM )Ke, CTp. 629. 3)ツルゲーネフのモスクワ大学時代における,歴史や地理の学習についてはB.A. rpOMOB民,

江eH円z可主詑eCKαH詑e3aロ滋CK沼 Ty予reH詑eBaロor、eorpac争TI夜を磁H,日CTOpHH,CTaTHCTHKe, 3aKoHo~aTeRbcTBy 日中sROCOQ>HH,"TypreHeBcKH負 c60予HHK,T. 1, M円 1964,CTp. 212-228参照。

4) TaM )l{e, CTp. 459. 5) TaM )l{e, CTp. 46ο. 6) これは,チチヱーリンに見られる如く西欧派手ベラリストの中心的考えである。

7) TaM )Ke, CTp. 461-462.

9

Page 11: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

者を批判している。

し、ずれにせよ,わが国の経済を見るとき,そこに移りかわり 〈ロepexo)l.)が始まってい

るのを認めないわけにはゆかなし、。古いものが執搬に残っているが,次第に新しいもの

が,導入されて勝利を占めつつある。私立かなり長い間ロシアの農村で,即ちあの肥沃な

オザョーノレ県で育ち,生活したものであるが,そこにおいてロシアの農民と地主を親しく

知る機会を持った。これらの農民を間近に見てみると,彼らの理解の早さ,善良さ,生ま

れながらの英知に惑心しないわけにはゆかないのであるが, くりかえして言うが,後らの

以前の地主との関係が変ってしまったのに気づかざるをえなL、。昔の純朴な家父長制が消

え失せてしまったのに,いまだに合法的な確国とした関採がそれに代って生まれていな

L 、。わが国の農民の生活が完全に保障されているとは言い難いのである。ところで個人的

な熟練や計葬にもとづく工業の運用は,あり余る誌ど莫大な富をもたらすが,これは本質

的に信頼できるものではない。反対に農業は,土地そのものと同誌に確固不変なものであ

って,過度にわたらずとも農民の生活を十分に保障することができるものであるoo

しかしロシアの農地を見るに.その大部分は耕作状態が悪く,地主をも農民をも十分満

足させるには程遠いものがある。しかしてこの理自には次のものがあげられよう O

く1) 第ーに,数人の耕作地が入り交って存在する,いわゆる可epecrrO~OCHOCTb B~a)l.­

eH凶の問題がある。この点今5ロシア各地で行われている土地の境界をきめる作業〈戸-

3Me)KeBaHHe 3eM倒的はきわめて有益である。共同所有幻の廃止こそロシアにおいては理

性的経済への第一歩である。それぞれの地主が自分自身の境界と資産と利益を知るように

なることが必要であって,所有権がはっきりせぬうちは,より以上の改善も実行されえな

いのである。

(2) 第二に,地主と農民の関係が法的にはっきりしていないことがあげられる。オブ

ロークもバールシチナも地主の一方的な窓意で決定されている状態である。この点パーノレ

シチナの方がオブロークよりも,もっとはっきりしていな1..,3)。賦役農民の大部分は,い

わば,自分の旦那の所でパンにありついている有様である。このような状態は早く改めな

ければならなし、したがって,貴族の農民に対する関係を定める陛下の勅命はきわめて有

効であるに相違ない。

(3) 第三は,わが国における農業,畜産,林産が学問的にきわめて不溝足な状態にあ

ることがあげられる。これ法大土地所有者の怠慢と,小地主の時間不足,資金不足からき

ている。もし自分の子で土地を耕作しながら,農民が満足することも生活を保障されるこ

ともないならば,所有者が富裕になることはありえない,というのは論争の余地のない真

理である。

(4) 第四にあげられるのは,商取引と農業が完全に均衡を保っていないことである。

不作の年には農民を食わせられないとこぼし,豊作すぎれば植が下がるとの嘆きは,向度

耳にしたかわからなし、。政府の施策で凱謹のための予備の貯蔵産を設けたりして,必要不

。TaM>Ke, CTp. 462-463. 2)強調一原文

3)第 III章におけるツルゲーネフの自分の領地におけるパーノレシチナからオブロークへの改革参照。

10

z

Page 12: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つ の論争

可欠な施策をきびしく監視しなければならなL、。これに加えて,わが国の道路の不満足な

状態、や,流通資本の不足も改善されなければならない。

(5) 第五に指縞さるべきは,わが国の農民における市民感悟や法律を遵守する気持が

未発達なことである。ロシアの農民もわれわれと同じように法の保護下にあるのだが,自

分自身を市民とは感じていない。立は誰よりもロシア人の訟拐さと理解の早さを確信して

いるものであるが,一方ではこの理解の早さというものを,おかしなたとえで恐縮だが,

揺の敏捷さに比較せずにはL、られないのである。したがって,もし農村の若者の教育に関

する陛下の勅令が出るならば,喜ばずにはL、られなL、00 わず、か読み書きができるだけで

も,文言にくらべるならどれ誌どすぐれているかわからなL、しかし読み書きができるだ

けでは,市民惑請は生まれて来なL、。フランス中部諸県の文言率はわが国とさほど変らな

いが,市民感清という点では大きな相違がある。しかしこの誌な惑靖の発達ーには時をかさ

ねばならなL、。理解を徐々にのひろめくnoc代田HHoepaCnpOCTpaHeHHe nOH兄T目的,とく

に致府の効果的な込霊を待たねばならない。現在のところ農民は自らの状態を不安定で当

にはならぬものと感じており,時として自分自身の財産をもなげやりに,ほとんど嫌悪を

もって扱っている。しばしば,欽酒にふけってわれを忘れようとするのもここから来てい

るの

(6) 第六として,今日ではもう時立に適さなくなってしまった.弘前の家父長的習慣

から受け継いで、来た告Ij変があげられるの地主の邸内にあまりにも農奴が沢山L、ること,農

民に食料の供給が確課されないところから来る必然的な結果.罵泥棒・盗f支等々が問題と

なってくるめつ

(7) 最後には,貴族の社会的精神(061ll.eCTBeHHhI註JlYX) の欠如が指摘されなければ

ならなL、。わが国の地主の中には白分の農民の所有権を移転する者がある。また貴族の中

には土地の細分化をやめて英国流の長子相続を主張する者会礼、る。しかし冒頭でも述べた

ように,ウィリアム征報王に従ったノルマンの騎士の後喬たる英国の貴族と,ツアーりに

恭)1固なるわが国の貴族とは,充生的にも職分の上からもまったく異なるものである n 白河

の民族の皇室史や生活の中にしみこんでいる現象にさ力道らうのは不可能でもあれば,罪なこ

とでもあるっその上ロシアの土地は広く.そこには多くの持主が必要である。わが自の住

民の大部分は農村人口であり, ヨーロッパ・ロシアにおいてすら都市人口はたかだか一割

にすぎなL、たしかにわが自の良村の生活積習は変らなければならないが,この変化はゆ

っくり,徐々にの (MeえλeHHO,nOCTeneHHO)行われるべきであるのそしてすべての貴族階

級がこの変化に参加するのでなければ.これ辻遂行されないであろう吟。一言でいうなら

ばこの点に関してあらゆる中央集権はほとんど有害であるように私には推測されるのであ

1)第 III章におけるツルゲーネフの〈読み書きと初等教育普及協会》案参照。

2)強調一引用者。のちに見るように nOCTeneHOBllI,HHa とL、う考えはツルゲーネフにおいて中心的

なものであって,これは生罷変わることがなかった重要な概念である。

3)第 III章 1859年 11月 3日付イヴアン・アクサーコフへの手紙参照。

的強調一引用者。

5)ツルゲーネブにおいてかかる見解は農奴解款の前後を通して A 貫して変らなかったところであ っ

た。

11

Page 13: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

る1)。

それならばどのようにしたらこの昌的が達成されるでるろうかすこの問題の完全な解決

はおそらく次の世代が享受するところであろうが,二,三の意見をここに提出してみた

L 、。

わが国の経済の不備を述べながら,私は意、国的に農奴の身分 (KpenOCmHOe COCmOflH-

ue)2) については触れなかった。いわゆる奴禁事~ (pa,llCTBO) 3) はロシアの真の必要につい

て完全に無知な輩の空虚な大言壮語の'拾好な話題であった。奴害事舗というのは非キザスト

教的概念、であって,キリスト教国には存在すべきではないし,またかつて存在したことも

なかった。しかし問題はそんなことではなし、イギザスの職工の状態はわが国の農民より

ももっと奴隷と呼ばれるにふさわしく,またドイツではどこよりも遅れて農奴解放の行わ

れたメルレンブルグにおいて,つい先頃も地主の殺害が行われた。ここでは農民は人格的

には岳由であるが,その地方の少数の地主に依存しており,この地主たちが自分のもとを離

れた農民を雇わないように申し合せをしたのであった。またボへミアに居た時私は,解放

された農民が地主台帳によっていわゆる世襲財産裁判で追害されるのを一度ならず日撃し

たことがある。このような諸外国の例は見ならうべきではないし,わが国の現在および未

来の諸制度は,まったくこれと法異った起源と性格を持つものである。ロシアの <<.MUp))4)

や CTapOCTbは, ドイツの GemeindeやSchulze とは大きな桔違がある。しかしドイツ

農業のやり方を研究することは大いに参考にはなる530

農民の生活を改善したり,あるいはたとえば農民の共同体に裁判制度を確立したり,共

同体内部の行政を改善すべきとの提案は何度も耳にするところである O しかしこのような

ことがなかなか行われない理由はまったく理解できる。家族関係というのはその精神から

いって法的に決定し難いものであり,わが国の地主と農民との関係は家族関係に類似した

ものであったからである。わが国の農民の未来についての課題の解決はひとえに地主にか

かっており,農民の生活も変らなければならないの。

以上において私はわが国の経済の欠陥を指指してきたが,近年における多くの改善につ

いても言及すべきであろう。分別ある地主たちは,次第に古い昔からの関孫を変えようと

努力している。

私は以上の意見を統計によって裏付けるべきなのだが,経済学上の知識の不定からそれ

はせずに,もっぱら自分自身の経験や専門家の意晃にもとづいて述べてきた。家内農奴,

御料地・国有地農民についてなどの重要な問題にも触れなかった。

前に私はロシアにおける農民階級の問題は,ロシア国民全体の問題と結びついていると

言ったが,さらにわが罰民の未来に関しては,ひとりわれわれが考えているのみでなく,

全ヨーロッパも考恵しているのである。たとえば学問の国ドイツはわが国のことをフラン

1) TaM Ae, CTp. 463.-468. 2)強諒一一原文。

3)当時の噴黒では農奴制もこのように表現された。

4)強講一一一原文

旬以上に見られるま口く,ツルゲーネフの農奴制に対する態震は,廃止自体よりも,廃止したあとの地

主=農畏関係,農民の生活をどのように保障するかにより大きな関心が向けられていた。

6) TaM Ae, CTp. 468-469.

12

Page 14: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つの論争

スよりもはるかに理解し,スラヴ的要素を理解し,評価‘しようと努めている。そのフラン

スにおいてすら <<Colosse aux pieds d'argilω 〈粘土足の巨人〉という古い比味は愚

かしいものだと感じ始めている。そしてロシア冨民の中にしっかりした,いきいきとした

破壊することのできない原理があるのを認めないわけにはゆかなくなってきている。イギ

リスはどうかといえば,われわれを立派な競走相手として尊重している C 最 近 Fタイム

ズ』紙はイギリスとロシアとを比較して,偉大な性格はどこよりもイギリスとロシアに品

られると結論しているのである O しかし函ヨーロッパの学者にλ ラゲ的民族性の幽玄な意

味などと言っても受け入れられるものではなし、。なぜならわれわれ自身いまだにあきらか

な独自註にまでは到達してないからである。この独自性は芸術作品や学問等すべてにあら

われて,イ也の民族も認めぬわけにはゆかぬものなのである O われわれはヨーロッパの一民

族である1)ばかりか,故あって東洋と西洋のirjl介者の立場におかれている。ただロシア的

であるからといって,すべてロシア的なものに盲従したり,西欽,とくにドイツを忍知ら

ずにく卒直に言うが〉非難することがあってはならないの。

われわれの丙抱たるロシアの農民は,より教養ある自国の泊動家から献身的な援lJ}Jを期

待してよし、。この点でわれわれは,わが函の政府の指導の下に,詩人の次の三業をくりか

えすことができるのである O

栄光と善とをのそ、みつつわれわれは恐れを持たずiこliiIを視る九

以上かなり詳細に 24歳のツルゲーネフの論文を見てきた。ここにおいてわれわれは 20

年後の論争との国孫において,まずつぎの諸点を確認すべきであるう O その第ーは当時の

彼がすでに後に切らかにした一如く,ロシアもまたヨーロッ λ l¥';肢の一つであり,過去の家父

長的な語関係をいまだ残しながらも,次第に市民的秩序の確立に向って進んでおり,また

Jffiまざるをえないと考えていたことである o vJi 0~ との控史的相違をツアーリズムの特殊i生

や地主=農民関係に認めながらも,ツルゲーネフは,民放の独自性は芸術や学HiJU)領域に

こそ現われるのであって,この点ロシアは未だその段階にまで到達していないと考えてい

たのである O これはすでに死んだグラノーアスキーをはじめカヴ、ニーリンやチチヱーリン

ら西欧派自由主義者に共通の見解と戸ーってよいであろう O 第二の}~~~は . WtiJ~改革へのイニ

シアチブを政府と貴族に凡ていたこと,そしてこの改革の事業が一夜にして行われるもの

ではなく,漸進的にくrrOCTerreHlfO) f J"われるべきものと考えていたことである。この i-i斬

)[主義くrrOCTerreHOB凹 HHa)J の主張は近年のソビエト史学でまったく訟り上げられておら

ず,最近の『歴史百科辞典J にもこの項目はないが心, 19 ut紀ロシアの自由主義の思主!

を考える上で無現できないものと足、わJLるO そして以上の二点はその後三0年以上たって

も全く変ることがなかったし、わばツルゲーネフのえりベラリズムムの該ともいうべきもの

であることをまずもって確認 Lなけわばなら向。さらに第三としてわれわれはこの論えに

1)強諒一ーヲIjf 1者。2) TaM )Ke, CTp. 469-472.

:~)ブーシュキンの“CTaHC" から,主誌のみ語数に変えてう 1I1I している G

4) rソピヱト大 (1科辞典1 には簡単な説明があるの

13

Page 15: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

見られる現実認識を指摘したい。前tこわれわれはパクーニンの「転向」に対するツノレゲー

ネフの批判的態度の突にある彼の現実認識の自覚を問題にしたが,この点は後年のゲノレツ

ェンとの論争においても,終始後が主張して譲らなかったところであった。自分の方がロ

シアの現実を,農弐の本当の姿を知っているのだという自負が後年のツノレゲーネフの態震

には翼々見られるのであるが,そのような姿勢がすでにこの論文にもあきらかに見ること

ができる。そしてかかる農民の真の姿に対する彼の認識が後に F猟人日記』の中に見事に

形象化されることは言うまでもあるまし、。以上のようなツルゲーネフの論言を,彼がわず

か二ヶ丹前にドレスデンで読んだに違いないノくクーニンの rドイツにおける反動』りの次

のような結びの文章と比較するとき,再者のちがし、はもはや決定的であると言ってよいで

あろう。

「疑いもなく人類の大部分をなす人民は貧しい階級であり,すでに理論的にはその権利

が認められてはし、るものの,いまだその出身と地泣から貧しい状態に,無学に運命づけら

れている。したがってそれは事実上奴懇の身分であるのだ一一本来この階級こそ真の人民

であり,復らは至る所において恐るべき議相を呈し自分たちにくらべて号弘、教の人員を

計算し始めている。そしてすでに万人によって認められている吾分たちの権利の実際の規

定を要求するようになってきているのだ。すべての人民,すべての人が何かある予惑に満

たされている。いまだ器官が昇率痔していない人はすべて,解放という言葉を発する近つ寺き

つつある未来をば,胸を高鳴らせつつ期待を持って見ている。ロシアにおいですら,この

われわれが殆ど知ることのない,しかし偉大な未来が前途にあるに棺違ない雪に覆われた

はてしなき王国においてすら,雷雨を予告する黒雲が薮いつつある。ああ,空気は患苦し

く,嵐を含んでいる。

さればわれらが迷える兄弟たちに大声で呼びかけよう O 悔い改めよ/海い改めよ f天国

は近づきたりと……

ひたすら破壌し滅ぼすが故に永遠の精神を信じようではなL、か。それこそはあらゆる生

の尽きることなき永遠に創造的な源泉なのだ。破壌への情熱は同時に創造的な情熱であ

るのJ2)

ゲノレツェ γがこのパクーニンの論文を読んだのは, 1843年の 1丹 713のことであった。

作者がパクーニンであるとは夢思わず, I一フラ γス人j とのみ思し、こんでいため筏は,こ

の日の自記に次のように記している。

「芸術的ですばらしい論文だ。これはフランス人(私はフランス人を知っているが〉の

中でへーゲノレを理解し, ドイツの思J准を理解したほとんど最初の人物だ。これは民主主義

の党深の大きな,公然たる,荘重な声だ。力に満ち,現在と未来の全世界の共惑を得るに

1) M. A. BaKyHHH, YKa3. CO可., T. III, M., 1935, CTp. 126-148.

2) TaM泌 e,CTp. 148.

3)この論文は JulesElysardというベシネームで書かれ, しかもタイトルの次にかっこして「ーフヲ γス人の論議j 之Lて発表きれた。

14

lT

Page 16: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

違いないとしづ確信に滋れているc 伎は権力を持っている保守主義者に手をさしのべてい

るが,それによって彼らの時代錯誤的な志向の意味をおどろくほどはっきりとあばいて見

せ.人類に呼びかけている。始めから経りまで論文全体が実にすばらしL、。フランス人が

ドイツの学問を一一一勿論理解した上で・だが一一まとめて一般化する時には Betatigungl)

( Tj-!EJJ)の偉大な局面が表面に出てくる。ドイツ人に(主未だこのための言葉はなし、。また

この点についてわれわれ;土ほんの片三しか言えないだろうりの

ほとんど手離しの礼設である O 当時のゲノレツェンがおそらく漠然、と心に感じていたこと

を一人のフランス人が胸のすくような論調でよくぞ表現してくれたとの気持がここには見

られる。ところでツノレゲーネフがロシアの農業問題につき論文を書き,パクーニンが!日体

制の総体的破壌への呼び、かげをしていた時に,ゲルツヱン自身はロシアにあってどのよう

に現実を見ていたので三うろうか。ゲルツェンは 1842年から 45年までの 4年間, 昌記をと

びとびにつけており,これによってわれわれは当時の伎の内面的苦悩や問題意識をかなり

よく知ることができる。当時の彼はへーゲノレ哲学の研究からへーゲル左派へと接近し, 主

たスラヴ主義をはげしく批判するとともに倍人的な共感をも示しているのであるが,ロシ

アの実際の経済,とくに良業問題に対する直接の1X1心はこの日記からはあまり見ることが

できなL、この点で、はわず、かに 1843 午 6 月 ~O f1の日記につぎのような記述を見出すこと

ができるくらいである。

ムジ-?

「ああ,身のまわりを眺めるなら…一-貧しい,貧しいロシアの百姓たち。彼らの状態を

改善する手段の大詰分はすでに準儲ができているのに.地主の貧欲と国在地!良民の整理の

つカJ主状態が彼らをこのようなありさまに陥らせている O 伎らの生活を見ていると賛沢に

暮していることが何か恐ろしい罪のように思われる。このあたりの百姓はふだんは決して

肉を食わなL、。ノミンも欠乏しがちで,すこし豊かなものでもキャベツを食べている。家肢

と一緒に毎日どうにかこうにか飢え死にしなL、でやってゆくのが精一杯だ。貯えなどまっ

たく思いもよらない。馬も牛も死んでしまって,百姓はもうどん底だっ働き手の多い所は

もう少しましな暮しをしているが,こんなのは多くなL、。彼らの貧しい畑のかたわらにi工

百牲の手で耕やされた地主の豊かな煩が,毅物のむらが,乾草の!討があるー一一ーなんと天使

の立nき自己犠牲か!今日となり村の貧民たちが窓辺にやって一来た。毎日地主に一人残らず

仕事に追い立てられているのだ。彼らにパンのないことは一見してわかる。もしパンさえ

あって,地主の良心が正しいもので,腹一杯食べられたら.彼らはそれ以上は何もヲ‘主な

いのだ。われわれは(古代の〉。剣認とに驚いている。しかし,はたしてーltt紀もたった

ら人びとはわれわれのことを。われわれのひどい残忍さを,人間性の欠如を驚かないであ

ろうか?はたしてわれわれがスザナムのの植民若やインドのイギリス人よりも良いという

ことがあろうか '"l¥. 、や. h,fLhれの ;fが主仏、のだろ江ぜ、ならわが戸!の良民の万が野玄人よ

1) )J;j(交のまま O

2) repu.eH, II, 256-257.

;-0引用者の指入。

4) オラ γ ダ官flギアナ。

lラ

Page 17: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

りも良いからだ。要するに絞らは生活の重い十字架を悲しく背会い,暗い生活を送ってい

る。前途に三うるのは答7fIJ, 凱え, 賦役一ーもし小作人なら新兵にひっぱられるか〈地主

の)1)邸にとられることだ。J2)

そしてこのすぐあとにゲノレツェンは,後年ツノレゲーネフとの論争で問題になった共同体

についての見解をつぎのように書いている。おそらくこの記述は,後に授がくつかえし奏

でたあの「変奏曲Jの「主題」たる「共同体を核として資本主義を経ずに直接社会主義」

へという考えが「萌芽Jの形で出てくる最初のものである。

「われわれのスラヴ主義者たちは,共同体の原理について論じ,わが国にはプロレタリ

アートはなく,耕地の分割があると Lう O すべてこれはよき萌芽であるが,また未発達に

もとずくものでもあるの。たとえばベドウィン人にはヨーロッパのエゴイスチックな性格

の所有権はなし、。しかし他方で彼ら(スラヴ主義者)4) は,そこには自己自身に対する尊

敬がないということ,あらゆる圧追に愚かにも耐えているということ,郎ち,このような

状態で生きることはとてもできないということを忘れているのだ。その耕地が自分の耕地

でなく,妻,娘,息子すら自分昌身のものでない時に,私的所有の意味での所脊権がわが

国において発達しなかったということが驚くべきことであろうか?奴隷にどのような権利

があるというのか?それはプロレタザアートよりも悪く resくもの〉であり,畑を耕やす

道具で追うる。主人が彼らを殺せないというのは, ピョートノレ時代にある地方で樫の木を伐

ることができなかったのと同じで,裁判の権利が与えられた時にはじめて人間たり得るの

だ。 1200万の人間が hors1a loi (法隼外)におかれている。 Carmenhorrendum (恐る

べき法よりぬ

先に見たツノレゲーネフの論文とくらべるならば,日記ということもあろうが,問題に対

するゲルツェンの姿勢は理論的というよワは,むしろ感情的であり,情緒的ですらあるo

そしてこれは単に年齢の問題だけで、はないように思われるo 年からいうならばこの日記を

書いたときゲFノレツェンはすでに 31歳になっていた。やはり相違は両者の気質, 性格にか

かわる根本的なものと考えないわけにはゆかないようである。

当時のゲノレツェンは理論的にも私生活の上でもまさに岐路 (a 1a crois毛e des chemi-

ns)の に立っており,上に見るようにスラヴ主義者の主張する共同体的原理についても,

それをプロレタジア化を防ぐ「よき萌芽」と評価しながらも,他方ではこの原理と個人的

原理をいかに調和させるかということを考えあぐねていたので、あった。くある意味でこの

二律背反の止揚こそ伎の生涯を通しての問題であったと,今日われわれは言うことができ

ょうρ ツノレゲーネフのように,政府や貴族による「漸進的な」改革に全揺の信頼をかけ

1)引用者の挿入。

2) fepueH, II, 287-288. 3)第 II章 31----33頁参照。

4)引用者の挿入。

5) TaM >Ke, CTp. 288. 6) H. Granjard, "Herzen a la croisるedes chemins", Revue des Etudes Slaves, t. XXXV, Paris

1958, pp. 57-76.

16

Page 18: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

て安んじていることは,なんと Lてもゲノレツェンにはできないことであった。一度ならま

だしも,二度におよぶ読刑1)の経験が,彼の権力への不信をいっそう強めたことは否定で

きない事実であろう。われわれは先にツ/レゲーネフにおける現実認議を問題にしたが.認

識が現実的だからといって問題解決の手段・方策が現実的だということには必ずしも宮線

的につながるものではあるまL、おそらく当時のロシアの状態を「出口のない現状Jn と

定義した時.このゲノレツェ γの現実認議を否定L得るものはあるまL、のそれならどこに

ilt口j を見出したらよいのか?構造的な改革が,あるいはパグーニンの主張するような

すべてを誠ぼしつくす徹底的な草合的破壊か?あるいは道はこの二つしかなし、のか?この

ような問題意識が生涯を通してゲソレツェンに執掲につきまとって離れなかったので、あり,

さちに言うならばゲノレツェンのゲノレツェンたる所以ば,かかる問題の追求において幾多の

曲折を経ながらも追求の姿勢そのものは死ぬ主で崩すことがなかった点にあるσ そしてこ

のことをわれわれは以下の「二つの論争j において詳紹に見てゆくであろう。

袋発

ゲノレツェンがその家肢とともにロシアを去って「あこがれの地Jであるパリに [fづったの

は,この日記を書いてから 3年半ほどたった 1847年 1月 19日のことであるの「ベルリン,

ケノレン,ベルギ-Jを「半,i夢うつつ iに通りすぎて,伎がノミリの「ライン・ホテノレjに

旅装をといたのは三月も末であった汽

「わたしは宿にとどまっていることができな治るったσ わた Lは服を者て.あてもなしに

外へ出たろパクーニンやサゾーノフをさがすために。 rueSt.-Honore (サントノレ街),シ

ャンゼリゼ←ー←すべてこれ〆らは,わた Lにとって,むかしから窺 Lい名前だ。すると本当

にパクーニンがすがたを現わした。

わたしはある町角で伎に出会った。設は二三人の知人とつれ立って歩いていた。モスクワ

にいたときと同じように,たえず立ちどまったり,巻きたばこをもった片手をふりまわし

たりしながら,彼らになにかを宣伝していた。このときは設の宣伝も結論なしにおわっ

た。わたしがそれを中断したからである。そしてわたしは授といっしょに,わたしの至iJ若

でサゾーノフをおどろかせるために出かけたり4)

ゲ/レツェンのノミクーニンとの出会L寸土クロンシュタットの港で、別れてから七年ぶりであ

った。当時のパクーニンは, プノレードンやジョノレジュ・サンドら一部のフランス人を除げ

ば, 1"何人かのロシア人やポーランド人としか会わず,語、遁生活を送っていたJりといわれ

る。ゲノレツェンは彼やサゾーノフに会ってヨーロッパの諸情勢を開くとともに,設らに長

近のロシアのニュースを伝えたが,これはバクーニンを落胆させるに十分であった。

。ゲノレツエンは 1841年 7月からまる一年間ノヴゴロドヘ追敬さました。

2) repu.eH, 11, CTp. 278 (1843年 4月 21司の自記〉。

3) repu.eH, X, CTp. 16. 4)τaM LKe, CTp. 17. W過去と思索j金子主主彦言〈,筑患者bJ,11, p. Y.

5) repu.eH, VI1, 345.エリスベ fレグはブルードンの措か,ノレイ・プランの名をもあげている。完.3JIbC-6epr, repu.eH, )KH3Hb H TBOp可eCTBO,M., 1956, CTp. 214.

17

Page 19: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

「彼らは政党や結社や内閣の危機〈ニコライのもとでわや,反政府的行動(1847年に

わが語られるのを期待していた。それなのに私は大学の講塵について,グラノーフスキ

ーの公開講義。 について,ペリンスキーの論文について,大学生や神学生の状況について

語った。彼らはあまりにもロシアの生活から切ち離されており,全世界的革命の関心2)や

フランスの問題に入りこんでしまっていたので, わが国における『死せる魂』めの出現が

二人のパスケーヴィッチ元自由や二人のフィラレート主教の任命より重要なのだということ

がわから誌かった。ただしい情報もなく,ロシアの新聞も雑誌もなしに,彼ちはなにか理

論的に,またあらゆるへだたりが人為的にうかびあがらせる記震によってロシアと関課し

ていたのであったoJ4)

七年の裁月がパクーニンをロシアの社会や思想界の動きから遠ざげてしまったのは事実

であろうのだがこの時はゲルツェ γ も自分が生還三度とふたたびロシアの土を詰めないと

は考えてもいなかったしさらに長年のロシアからの別離がロシア社会の現実への無知に

つながるとして後にツルゲーネフから批判されるようになるとは夢にも思わなかったに違

いない。

パクーニ γはこの年 11月 29日に行われた, 1831年のポーランドの蜂起の記念日にお汁

る演説5)がたたって,パリを追放されてプリュツセノレへと去るの。そして翌 1848年 2月 23

日に草命の知らせを開いて,三E後にはすでにパりに戻ったo rパクーニンは若返り, 自

分のすべての力と精力的な活動力が発展する可詫詮を辻じめて惑じたJ7)のである。そし

て早くも三丹?こはオーストリアのスラヴ人に対するプロパガンダのためにノミリを去ってプ

ラハに向った。

f也方ゲノレツェンの方はローマで二月革命のニュースを開き,五月になってようやくパリ

へと戻る 083 したがって両者はすれちがって会っていない。めふたたび二人が出会うのは

この持からさらにお年余たってパクーニンがシベりアから税出してロンドンのゲルツェ

ンの許へ身を寄せた 1861年 12月のことである。

1848年の革命をこの二つの個性がどのように経験したかは,それ自体はなはだ興味ある

テーマであるが,いまは触れなし、。パクーニンは文字通り革命の実設家として全ヨーロッ

パに知られる活動をしたのに対し,ゲルツェン法ゲノレツェンなりに,静観者というよりは

一入の証人としてこの革命に全力を尽して関わったと言ってよい的。これを証明する彼の

著f乍 f向う岸から』はゲノレツェン自らが呼んでいるようにこの内面の「たたかいの記念

。これについてはrep只eH,II, 111-115及び 1843年 11月2413, 12月 11日, 21日の日記 (II,316,

319, 320)参照。

2)強調一一一票文。

3) If'死せる魂3のゲノレツエンに与えた強烈な印象については 1842年 7月 29呂の日記 (II,220)参照。

4) repu.eH, X, 323 5)この時の潰説については M.A. EaKyHHH, YKa3. CO可叶 T.III, CT手 270-279参照。

6) repu.eH, VIJ, CTp. 345. 7) repu.e民 VII,CTp. 345. 8)拙稿「ゲルツエシの〈向う岸から》についてJíi スラヴ研究~ No. 13, p. 6参照。

9) re予u.eH,X, 35δ.

10)拙訳『向う岸からjl,現代患瀬社, p.5.

18

Page 20: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

碑j と呼んで然るべきものであり,そのことについてはすでに論じた~

1842年の末にロシアに戻ったツノレゲーネフが,ふたたび国外に出たのは 1845年の 5月

のことであるが,この時は高フランスを旅行して半年たらずでロシアに帰った。伎がつぎ

に外国に出たのは 1847年 1月で,二月革命をはさんで今度は 1850年 6月まで三年半の長

きにわたって国外で生活を送っているの。

彼が二月革命の報を耳にしたのは, 2月 26日の朝のことであったっそれより少し前に

パザからブリュッセノレに来ていた伎は‘「フランスが共和国になったぞ!J という叫F びを

ベッドの中で開き, 1その日のうちに鉄道でパザへ発った。j国境ではすでにレールがはず

されていて,荷馬車を使ったりしてようやくパリにたどりついた。途中克た三色旗が彼に

11793年, 1794年をわれ知らず思い出させたのJ3)パリに到著したツ/レゲーネフは「至ると

ころで三色の記章や武装した労{義者やノくリケードの破壊された石などj を見かけため。 こ

の時の彼が,事態にどのように対処し革命の勃発をどう考えたかは, 1月 17日から 4JJ

29 Elまでの書簡が一通も残っていないのでこれを直接うかがし、知ること誌できない九ツ

ルゲーネブ自身が当時を回想して書いたのは,これより 30年もたったあとのことであり、

それも《灰色眼鏡の男(1848年の思い出から)>>と《仲間の使いく1848年パザの 6月事件

の歴史からのエピソード》というタイトルでいずれも文学作品としてであるの。

前者の『灰色眼鏡の男3というのは,ツノレゲーネフかブリュッセルに発つ前, まだパリ

にいて毎日パレ・ロワイヤノレのキャフェ「ラ・ロトンドj に通っていた頃,ムッシュー・

フランソワと名乗るえたL、の知れない「灰色にいぶしたレンズをはめこんだ錆び7こ鉄縁の

眼鏡を鈎鼻にはさんだ一人の男jη から,革命の予告と,さらにノレイ・ボナパルトのクー

・デターの予言とを聞いた話で?ある。しかもこの中には「当時ノ去リにいた,知らぬ者なき

著名なア・イ・ゲ(ノレツェン)J坊が登場して, ツノレゲーネフにこの「灰色眼鏡の男j がス

パイだから気をつげるように注意するエピソードまで出てくる。しかし前述のように,ゲ

ノレツェンは前年の末からイタリアに行っていて,革命後三ヶ月近くたった五月にならなけ

れば,バリに戻って来ていないのであるから,このエピソードは事実に反するしまた

「灰色眼鏡の男Jの予言もあまりにもうがちすぎていて,はたしてどの程度事実にもとづ

くものであるか疑問なしとしないc的この点は話としてよりよく出来ている『仲間の使い』

も同様であって, グランジャーノレが指擁しているように, 1874年の lemanuscrit parisien

O前掲拙稿「ゲ/レヅエンの 7向う岸からjについてj。2) TypI、eHeB,口HCbMa,1, 640-641. 3) TypreHeB, Co可HHeHH気, XIV, 128-129. 4) TaM )f{e, CTp. 130. 5) Cf. Granjard, Ivan Tourguenev, p. 206. この点について最近日.A. BaCHJIb司王OB の日記が公

刊された。これは『仲間の使l'Jlの背景を先lるによい資料である。“Typr‘eHeB0 peBOJI即日目OHHOM

napH)f{e 1848 rぺJhITepaTypHoeHaCJIeλCTBO, T. 76 (1967) CTp. 342ーお8.6)邦訳ツノレゲーネフ,く 1)原久一郎訳『文学と生活J!. 1949,創芸社。「灰色眼鏡の男J,r仲間がよこ

LたJo(2)中村融訳『文学的回想U].角JII文庫「灰色隈鏡の男Jr仲間の復L、j。

7) TypI‘eHeB, Cο可日HeHH兄, XIV, 110. 8) TaM )f{e, 125. 9) Cf. Magarshack (op. cit., p. 101) も同じ疑関を呈している。

19

Page 21: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト川継 11j

には 1871年のノζ リ=コミューンの印象が見てとれる。。

しかしこの草命をツルゲーネフがどのように見ていたかは,これら二つの{乍品と 5fJ 15

日付のヴィアノレド夫人あての手紙2)からある程度うかがし、知ることができるように思われ

る。この 5月 15日というのは,パリの民衆が致府のポーランド独立運動への援助拒否に

抗議して,大規模なデモを行い,議会にまで浸入した日であるが,この日一日マドレーヌ

から議会の辺りを歩きまわって事態を目撃したツノレゲーネフは政時による鎮圧を見て, I秩

序が,ブノレジョワが今回は勝利しました。もっともなことです。J3) と記し強く印象に残

った点として三つをあ庁ている。そのーは,民衆が議会に浸入したにも拘らず,議会の周

辺の外的秩序4)がずっと保たれており,兵i家は蜂起した民衆をできる眠り慎重に取り扱っ

ていたという点である。第二は群衆の中を欲深げな満ち足りた顔つきで,シロップや葉巻

を売り廻っていた商人の完全な無関心さっそして最後に, Iこのような瞬間における民衆

の惑情Jがツルゲーネフにはどうしても理解できないように思われたということである O

「誓って申しますが,私には彼らが向を欲しているのか,何を恐れているのか,果して

彼らが草命的なのか反動的なのか,それとも単純に秩序の友なのか推測することができま

せんでした。彼ら立雷雨の終るのを待っているようでした。一一それでも私はしばしばブ

ノレーズ5)を着た労働者にたず、ねました……彼らは待っていたので、す……彼らは待っていたアイロ昌一 7アタ Fテイ

のです!歴史とはそれではいったし、何でしょうか?……摂理, 11再黙,皮肉,それとも宿命

でしょうか?……」の

ここに見られるツルゲーネフの調子は,完全に第三者のそれであると言ってよし J九そ

してそれは同じくこの日一日,事態の動きを目撃したゲノレツェンの「革命は敗れたのだの

このつぎは共和国が敗れるであろう…-一議会が勝ったのだ。君主制の原理が勝ったのだ。

晩の九時ごろ私は家に帰った。心は重かった。J8) とL、う調子と,同じ第三者とは言いなが

ら何と大きな相違があることだろうか。さらにこの椙違はゲルツェ γ といっしょに開いた

あのラシェルの「ラ・マノレセイエーズj の印象ゃへ 六月事件の記述1のにおいて一層あき

らかになる。「私はバリケードのこちら側でも向う1JtUでもたたかうのは似つかわしくなか

。Granjard,ibid., p. 206, n. (21). f1aBJIOB, YKa3. COlJ., CTp. 26.

2) TypreHeB,日沼CbMa,1, 299-304.これには Relationexacte de ce que j' ai vu dons la journee de lundi 15 mai (1848)と題がつけられて, 1898年にフランスと P シアの雑誌に発表された。 CM.1,589.

3) TaM )Ke, CTp. 303.

6 強調一一ー原文

5) 当時ブルーズ(仕事差)を着ていることの意味は『仲間の夜\,,~で説明されているo6) Typr‘eHeB, TaM )Ke, CTp. 304. (……原文〉

7)アーンネンコフはこの時のヅノレゲーネフの作家としての日,才能を高く評価している。 AHHeHKOB,

YKa3. COlJ., CTp. 396-397.

8) repueH, V, CTp. 132-133.

9)ツルゲーネフの印象は『灰色眼鏡の男jに,ゲルツエンのそれは f向う岸から』の中の「嵐のあ

とJtこ晃られる。

10)ツノレゲーネフの『仲間の使¥"Jjとゲノレツエンの『嵐のあと』および F退去と患蒙』の中の「家寵の

悲劇の物語 I一一1848年一一」参照。

20

マ 一一一一一一一一 一ー- -1'r ー マF 司.,- ... 間材育- .. n

Page 22: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論!ff

ったJO というツノレゲーネフの言葉と, r IT'なぜ私は労働者から銃を受け取って,バリケー

ドの向う側に残らなかったのだろう?~もし跨丸に当って倒れたとしても,私はまだ二,

三の確信をいだし、て墓に入れたで、あろうに……jめというヂノレツヱンの言葉は両者の本質

的指遣を端的に示している汽

ゲ/レツェンはこの 1848年の革命を, 自分の全存在をかけて受けとめ, 草舎の敗北に耐

え,この苦悩を通して F向う辛からJというきわめてユニークな作品を生み出したのの-

jJツ/レゲーネフの方はあくまでも第三者として.この革命を見ている。しかしその彼も亦,

革命のさなかにおける自己の経験を通して. r歴史とはいったし、何であるのかJ考えざる

をえなくなったのであるめの しかしツルゲーネフがこの疑問を疑問として残したまま,そ

れを直接には作J1として結実化させなかったのにたL、し,ゲノレツェンの方はこの疑問を思

想、の次元で、議底的に追求しその結果を?向う岸からJに結晶化したのである。だが両者

の抱いた疑問と田容はその後十数年を経て二人の論争の一つの焦点となる。

足三J)が勝手iを祝っていたこの1f.の麦じ tpう,ゲノレツエンば「母国のことばで,腹を立て

たり, ぐちを言ったりしていたのめ この頃設の家と同じ建物にツチコーフ一家が住んで,

両方の家へツノレゲーネフはアーンネンコフといっしょに「毎日のようにたずねてJ¥'、ったの

この頃設は鼓曲 <<rぇeTOHKO, TaM II pBeTbC5D>を書いていて,それを当時まだ 19歳だっ

たナターリャ・ツチコーヴァに読んでやったり,主た時には控鶏の真似をして子供たちを

択しがちぜてもいる 7)門 このようなツルゲーネフに対して、ゲルツェ γが庇護者自宅〕な「寛

大な」日で見ていた的のに対l. ゲルツェンの妻は,あかちきまに謙悪を示しているめの

Lかしゲノレツェン家の中で.このようなツルゲーネフの内面の悩みを,はたして晃抜いて

いた者があったかどろかは, ろだがわしし、。おどけた表面とはまったく反対に, 1;度の内面

ばベツミステックな暗い気持で、謂たされていたのであった10L

との 1848年の冬かち翌年にかけて, パリには伝染病がはやり, 冬にiヱゲノレツェソの下

の摂がチブスにかかった門とのときツルゲーネフば干空中に葵星空室でア γそニアを買いに行

n TypreHeB, TaM JKe, CTp. 139. 2i rep江eH,X, 231.

3) ゲノレヅヱンと比較してのツルゲーネフの ((C∞1detachment>>については Freeborn も最近の研究で言及Lているo Cf. R Freeborn, TurgPn{,v, Oxf. Univ. Press,1960, p. 16.

4i前嬉拙稿参需。

目前場5丹 15日付ヴィアルドラ突入あて害構参照。なおパーヴロフは, 1848年の章命に女、jするツノレゲーネフの「どっちつかずの態度句BO詰CTBeHHo)Jを指摘し,一方では反動の残黙さを摘発しながら

地方では吉然発坐的た民衆の力に悉れを示Lている左言っている。 TIaB.nOB,YKa3. COq., CTp. 24.

6i repueH, X, 229、H.A. Ty可KOBa-OrapeBa,BocロOMHHaHHH,M., 1959, CTp. 280 H c.ne江.

7) H. A. TyqKOBa-OrapeBa, YKa3. COq., CTp・281-282.

8i TIpo争.託B.I1BaHoB, l1. C. Typr‘eHeB, iK沼3Hb-.nHqHOCTb-TBOp可eCTBO,HHJKHHb, 1914, CTp. 599. 9) H. A. TyqKOBa-OrapeBa, YKa3. COq., CTp. 282.

lOiヴイアルド夫人あて 10丹20日付, 1849主f1月 10日付の書簡参照。 ヅノレゲーネフ自身はこのよう

なおどけた態度を<<Safetyvalve>>と呼んでいた。 Cf.Magarshack, op. cit., p. 104.なおこの頃の

ヅノレゲーネフの <<spleen>>については Haumantも記Lている。 E,Haumant, Ivan Tourguenief; La vie et l'oeuvre, Paris, 1906, p. 51-52.

21

Page 23: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外月i継男

き,ゲノレツェン夫妻といっしょに看病に当ったが。翌年の初夏には今度はツルゲーネフ自

身がコレラにかかってゲルツェ γの看護を受けている。この時ゲノレツェンは妻や子供らを

皆ヴィノレ・ダグレーの母の家にやって,ひとり残って彼を介抱したので、あったわ。

ツルゲーネフとゲノレツェンが,もっとも身近かにつきあったのはこの 1848年から 49年

にかけてであり,この頃の彼はゲルツェン家の「客というよりは家族の一員Jめ と言って

よかった。 1849年の 6JLゲ/レツェン一家はパリからジュネーヴへ避難するが,この頃か

ら当時パリに在住していたロシア人の間十こ,ゲノレツェンの亡命の噂が流れ出したの。そし

てこの噂を耳にしたツノレゲーネフは, 7 J1 31日付の手紙でつぎのようにゲルツェンに書

いている。

「君のある意留について開いたーーだが多くの人が後に称讃するであろうことをぼくは

詰めない。なぜなら,君にとってこうすることはシャンパンをー瓶飲みほすのと同じくら

い自然、なことだからだ。君は好漢 (CJI8BHhI詰 M8JIhlめだ一一そしてぼくは君がとても好き

なのだ・"Jo5)

そして翌 50年の 6月にツルゲーネフはロシアへ帰るのであるが,その直前の 6月 22日

付のゲノレツェンあての手紙はつぎのようである。

f親愛なるアレクサーンドル,了度君が出発したの一時間後にぼくは村7)から出て来た。

どんなにこのことが残念だったか想像できるだろう一一ロシアに婦る前にもう一度君に会

えたらどれほど嬉しかったことか一一そうだ,兄弟。ぼくは帰るのだ。荷物はみんな納めら

れ,明後日にはパりを去る。一週間後,来週の土曜にはもうシュテッチンから乗船してい

ることだろう。一一君の手紙や書類は全部ぼくが届ける。信じてくれて大丈夫だ一一たと

え君が住所を知らせ7なくても一一ぼくは君との約束を必ず実行する。とりきめたように本

や雑誌はエルン嬢の名でロスチャイルドへ送ろう。今日彼の所へ行って,この件を知らせ

ておこう。一一今度君に手紙を書くのはいつだか,ロシアでぼくに何が待っているかは神

のみぞ知るだ。一-mais le vin est tire - il faut le boire. (酒旗は抜かれた。飲まねば

ならない。〉ーーなにか重要なことが起ったら <<Journaldes Dるbats>> に m-r Louis

MorrIset de Caenの名で広告を出してぼくに知らせてくれることができょう。ぼくはこ

の雑誌を読むから君がぼくに言いたいのだということがわかろうというものだーーさら

ば,親愛なるゲノレツェン。多幸を祈る。ぼくは君の代りに君の友達全部を抱擁しよう。彼

らと君のことを語ろう。オガリョーフたちの情報を同じ宛先で書くようにしよう。元気で

できるだけ頑張ってくれたまえ。君の奥さんと子供さんたち全部にしっかと握手する。へ

1) repueH, X, 235. 2) TaM >Ke, 43-44. 3) naBJIOB, YKa3. COl{., CTp. 35.

4)ゲJレツエンがロシア政府の需国命令を斬って, はっきり亡命の決意を毘めたのは 1850年 9月のことである。

5) TypI‘eHeB, nHCbMa, 1, 353. 6)ゲfレツェンはこの時パリをたってニースへ移った。7)ツノレゲーネフは当時, クノレタヴネノレ (Courtavenel)に在んでいた。

22

可了干 F

a‘ 嶋

Page 24: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

ノレヴェーグと彼の奥さんによろしく。

もう一度君を抱擁しつつ,君の

イー・ツルゲーネフJl)o

11 !i再び古い主題による変奏曲』

1856年 7月,ツルゲーネフは 6年ぶりに外忌へ出た。前年の三月ニコライ一世が死んで

新帝アレクサーンドノレ二世が部位し,この年の三月には三年近く続いたクリミア戦争も終

ってロシアは「新しい時代Jvこ入っていた。 1856年になると国外旅行の制限も幾分緩和

さJL,ロンドンに来るロシア人もぽつぽつ増えてきたの。

クザミア戦争の始った 1853年にロンドンに「自由ロシア出張所jを設立したゲルツェン

は. 55年には『北極星』の第一号をtHL, 56年の四月にはロンドンにオガリョーフ夫妻

を迎えて,さらに『ロシアからの声Jを出版する準備をすすめることになる。

ニコライ一世の死の知らせにゲノレツェンがどれほど狂:喜Lたかは, 1855年 3月 3日付の

マーリア・レイへノレにあてたつぎの子紙の調子が何よりもよく示しているo

I~ 、や,おめでとうの

おめで、とうの

おめでとう。

われわれは酔ったの

われわれは狂った。

われわれは若返ったoJ3)

そして,この年 4月 6nに第一号を出した『北極星Jの中で,新帝アレクサーンドル二

i止にあてて復は以下のように祝福の言葉を書き送ったっ

IP生下,あなたの治世はおどろくほど宰せな星の下で始りました。あなたの上には血のしみも

なげれば,あなたには良心の苛麦もありません。

あなたの父親の死の知らせが,あなたに殺害者の名をかぶせることもありませんで L

た。王座につくためにロシアの血を浴びて広場を通ることもあなたには不要で、したし死刑

をもって人民に時位を知らせる必要も島りませんでしたの。

あなたにはやさしさが期待されています。

。TaM)Ke, CTp. 385-386. 2) 3. n. 5a3HJIeBa,五OJIOKOλfepu.eHa1857-1867 rr., M., 1949, CTp・53.3) fepu.eH, XXV, 242. 4)いうまでもなくパーヴェル一世の殺害とアレクサーンドノレ一世の即位。デカプリストの処刑とユコ

ライ一世の部位をさす。

23

Page 25: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

あなたには人間的な心が期待されています。一一

あなたは稀にみる幸せな方です 1

外JlI継男

さだめしあなたはロシアを愛していることでしょう。そして怠なたはロシアの民衆のた

めに多くのことを一一実に多くのことを為すことができるのです。

もとより私の旗はあなたの旗で、はありません。私は変りょうのない社会主義者ですし

あなたは専制君主なのですから。しかしあなたと私の旗の間には一つの共通のものがあり

えます。一ーまさにそれは人民への愛であり,このことを問題にしてきたので、す。

陛下,ロシアの言葉に白出を与えられますよう……われわれに自由な言語を与えられま

すよう…

農民に土地を与えられますよう。それでなくても土地は後らに属するものなのですか

ら。

お急ぎ下さv,! 将来農民が血を流す破自にならぬよう,彼らを犯罪的行為と流血とか

ら救われんことを…………Jl)

ここに見られるのは,あきらかに上からの改革への期待である。そしてその姿勢は要求

というより懇願に近く,ここに r50年代のゲノレツェンの自由主義的な動揺と錯覚の証拠J2)

をソピ、エトの研究者は見ているo

翌 1856年 3月 30日,パリにおいてクリミア戦争の平和条約が蘇結された。その翌日執

筆された「前進〆 前進/Jと題する f北極星』第二号の巻頭論文において,ゲルツェン

は再び言論の自由と,土地をつけての農奴解放の旗印をかかげて,政府に速やかな改革を

要求する 3)。しかしそれだけではなし、。この論文には 1849年以来,伎が「くワかえし発展

させてきたJ4) テーマである「ロシア的社会主義」の思想、がまたしても示されているので

あるの。

ロシア社会がブルジョア西欧社会とは本質的に異なるものであり,共同体的土地所有を

基礎に独自の社会主義を発展させる可能性があるとの主張は, 1849年 1月から 2月にかけ

て <<LaVoix du Peuple>>誌上に連載された <<LaRussie>>と題する論文から始って, 1850

年の《マッツィーニ宛てのーロシア人の手紙>>,翌日年の《ロシアにおける革命思想の発

達>>,と《ロシア人民と社会主義,コレージュ・ドク・フランス教授 J.ミシュレ一氏への

手紙>>, 1853年の《ロシア襲奴制》と《洗礼を受けた財産>>,そして 1854年の《ロシアと

。repu.e民 XII,272-274: nOJI兄pHa兄 3Be3江aHa 1855, KHHra nepBa克, φaKCHMHJIbHOeH3.l1.., M.,

1966, CTp・11-14.(句読点は後者による〉。

2) repu.eH, XII, 539. (注釈〉

3) TaM >Ke, CTp. 306-312, nOJI匁pHa兄 3Be3ぇaHa 1856, III -X 4) JIemm, nOJIHOe co6paHHe co可HHeH班員, H3瓦.4-e, X"III, 11. 5)この「ロシア的社会主義」の形成については,筆者は前に本誌で扱った。“Surla formation de la

theorie du socialisme russe chez Herzen." Wスラヴ研究JINo. 4, pp. 87-103.

24

一、す「

Page 26: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つの論争

吉い世界》というように,過去 5年間に七編もの論文1)においてゲノレツェンがくりかえし

述べてきた「古い主題Jであった。

ゲノレツェンがロンドンにあってその出版活動を通じてしだL、にロシア国内への影響力を

高め,亡命革命家のあいだにも名声を帯するようになったこの期間に,国内に怠ったツノレ

ゲーネフの方も《村の一ヶ月>> (1850),くく猟人日記)> (まとまった一掃の形でi主1852年に

初めて出る), <<三つの出会い)>(1852), <<ムームー)>(1854), <<余計者の誌記)> (1850ーの

ち 1856に新版), <<ファウスト)>(1855), <<ノレージン)>(1856)とつぎつぎに作品を発表して

いる。

しかしこの六年間のロシアにおける生活法設にとって必ずしも幸福なものではなかっ

た。

「私にはエジプトのスフインクスのようにじっと動かずにヴェーノレをかぶった巨大な陪

し、影,ロシアが待っていることでしょう O それが後になって私を呑み込むかもしれません

……J2) とパリを去る童話iにヴィアノレド‘夫人に不吉な言葉を送った筏a,はたして 1852年

にゴーゴリの死を悼む文章めを発表したかどで, I一ヶ月警察署に拘禁の憂呂をみたあと

で,田舎に住むべく送還されたJ4)のであった。 ツルゲーネフの不吉な予惑は事実となっ

たのである O スフインクスの庁Il¥'、影Jが援の上に容赦なくの Lかかってきたのである O

この時伎はアレクセイ・トノレストイ伯のすすめで e 皇太子アレクサーンドル大公に身のあ

かしを立つべくつぎのような手紙も書いた。

「私は当昂に競従しなかったり,その章、志にさからったりすること法考えてもみません

でしたし,それだけでなく,なんらかの法律違反を犯すなどとは夢にも思ってみませんで

した。もしも私の行動が,たとえわず、かで、も不寂従と見なされる可能性がありますならば,

ただちにこの論文を破棄するでありましょう。百下私にはこれ以外のいかなる罪も考えら

れません。そして警察による拘禁を受けておワます一一今後のことは不明であります。私

の健京が首都の医者ーにより診察をしばしば受けることを必要としていますだけに,これは

私にとってなおさらつらいところであります。かかる状態にあります故に,私は~下のご

寛大なる込置と,いとおき庇護とをひたすら乞い顕うのみであります……J5)

しかしこの「拘束,つづいて毘舎への室生活j は援にとって「疑う余地なき利益をもたら

すJことにもなった。なぜならそれは授の丹羽心の網白金、らこぼれ落ちたで、あろうロシア

の生活の諸側面に接近せしめた」めからである O

かくて 1852年の五月からほぼ一年のあいだ,ツノレゲーネフは心ならずもスパースコエの

領地ですごすことになった。 ゴーゴリの死を悼んだ伎の論文が「口実にすぎないことJ.

1) これらは《ロシアの農奴制〉が英文で, {j洗礼を受けし財産》がロシア語で書かれたほかはすべて

フラ γ ス語で書かれた。

2) TypreHeB, f1HcbMa, 1, 382. (1850年 5月 168)。3) TypreHeB" C01JHHeHH兄 XIV,72-73に所訳。

4) TaM )Ke, CTp. 74-75. 5) TypreHeB,口HCbMa,II, 382. (1852年 5月 98)0 6) TypreHeB, Co可HHeHH丸 XIV,75.

25

Page 27: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

当昂の真のねらいが伎の「文筆活動の禁止j にあることは彼岳身にもよくわかってL、た。

彼にとって 11852年は春がなLゴことはたしかだったが, Iそれよりももっと悲しいこと

は国外を旅行するあらゆる望みに訣別しなければならないことJl)であった。約束したゲ

ルツェンへの手紙L ロシアにいた六年間一通も出していなし、。もとよりロシア当局の帰

国命令を拒否して亡命の決意を屈めたゲノレツェンからは,一通の喪ワもなかった。ゲノレツ

ェンがツノレゲーネフのロンドン来訪を耳にしたのは 1856年 8月のことであるがわ, 8月は

じめにロシアを発ったツノレゲーネフはベルリン,パリを経て 8月 31日にロンドンへ到着

し, 9月 8日まで滞在した330

この日ゲノレツェンはマノレヴィーダ・フォン・マイゼンブークにつぎのような手紙を書き

送っている。

「ツルゲーネフが今日発ちました。後はわれわれに多くの興味ある話をしてくれました

が,中でも面白かったのは,ベテノレプノレグの烈しい若者たちが私、を真に熱愛しているのに

たL、して,汎スラヴ主義者が怠を憎んでいることです。そしてことさら奇妙なことは,私

がモスクワよりもベテノレブノレグではるかに愛されていることですoJ4)

この短い一文はじつにさまざまな内容を含んでいる。おそらくこの話の中でツルゲーネ

フは,当時のベテルブ、ノレグの大学生の傾向や,彼らの間に人気のあった『同時代人』誌の

批評部門を担当していたラジカルなチェルヌイシェフスキーのこと,さらにはつい先頃く

わだてられた,チェノレヌイシェフスキーをやめさせてアポロン・グリゴーザエフをその嘉

とがまに据えるという噂5)などを詳細に話したことであろう。あるいはまたチヱノレヌイシ

ェフスキーの「芸術観」を「ばかげたものjめだと苦笑しながらゲルツヱンに語ったかも

知れない。

ところで「モスクワよりもベテルブルグで」ゲルツェンがより愛されているとはどうい

うことであろうか。ローゼンターりの比較的最近の研究η によれば,当時の自由主義陣営

のうちもっとも大きなグループは,モスクワのアレクサーンドノレ・スタンケーヴィチめの

グループと,ベテノレブルグのカヴェ-!Jンのそれであった。前者は 1855年にグラノーフス

キーが死んだあと彼に近かったスタンケーヴィチを中心に組織されたもので,スタンケー

ヴィチ自身はオノレ万ナイザーというだけでイデオロギー的に指導する力はなかったといわ

。TypreHeB,DHCbMa, 11, 55. (1852年 5月 1313付ヴィアルド夫妻への手紙〉。

2) rep江eH,XXVI,l 8 (1856年 8月 16日マーリア・レイヘルあて手紙〉。3) TypreHeB, DHcbMa, 11, 643, III, 654. 4) repueH, XXVI. 23. 5) JIeBHH, 06mecTBeHHoe .lI.BH>KeHHe B POCCHH B 6O-70-e rO.ll.bI XIX BeKa, M., 1958, CTp. 113. 6) 1855年 8月 613ボートキンとネクラーソフあて手紙 (TypreHeB,DHcbMa, 11, 3∞-301.員この手

紙には披のチェルヌイジエフスキーの芸術観に対する批判がよく出ている。さらに1856年 11月 28B付トルストイあて手紙を参照するとこの点はより明らかである〉。

7) B. H. P03eHTaJIb,“日.lI.e誌HbIeueHTpbI JIH6epaJIbHOrOぇBH>KeHH兄 BPOCCHH HaKaHyHe peBo嶋

JIIOUHOHHO良 cHTyaUHH",PeBOJIIOU沼OHHa兄 cHTyaUH兄 BPOCCHH B 1859-1861 rr., M., 1963, CTp・372-398.

8) これは若き呂のツノレゲーネフの部友たり Lニコライ・スタシケーグイチの弟である。

26

司. .

r--

Page 28: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つの論争

れている。むしろその点ではチチェーリンが呂立ったが, そのほかにクドリャーフツェ

フ,パブスト, コノレシ,ポートキン,ケッチェノレらがし、た。一方ベテノレブルグのグループ

は 40年以来のミリューチン元弟のグループを継ぐもので, 官吏などが多く, モスクワの

グループにくらべるとよりプラクテイカルだったと言われている九彼らは単に集会に出

たり,雑誌で論ずるだけでなく,農奴解放についての具体的プランを作って,動揺する政

清の尻を叩くなど実擦的な活動もしていた。

ゲノレツェンとの関係について言うならば,一時ゲ‘ノレヅェンに接近の姿勢を示し, 1857年

までは f鐘』を自分たちの陣営に引き入れようとつとめたチチェーザンは, 1858年の末

に至って有名な「起訴状」を発表してゲ〉レツェンと完全に手を切ることになるのである

がへこのときカヴヱーりン,アーンネンコフ, ツノレゲーネフらがチチェーリンの期待に

反してこの「起訴状」に反対しこの旨ゲルツェンに告げているという事実がある 330 と

すればベテノレプノレグの後に,ゲ‘ノレツェンと手を結ぶ急進的額向の若者以外tこ, このザベラノレ

な二陣営のゲノレツェンに対する態度の相違も考えられよう。

L 、ず、れにしても,ツノレゲーネフがロンドンに来た 1856年の秋は,チェノレヌィシェフスキ

ーに代表されるラジカノレな若者の登場と,カヴェーリン,チチェーワンに代表される自由主

義陣営の形成4) さらにアーンネンコフ, ドルジーニンらに代表される右派の「純粋芸能」

の主張などで, ロシアの思想、界は大いにわきたっていた。そしてツルゲーネフ自身は穏健

な自由主義者としてこれら再極端の局に立っていたということができるように患われる。玲

しかし以上のことはし、ずれも推測の域を出なL、。ツルゲーネフがゲノレツェンと六年ぶり

に会って,具体的に何を語ったかは,これを直接示す史料がないからである。わず刀ミにツ

ノレゲーネフがベテルブ、ノレグのコノレバーシンにたのまれてゲ、ノレツェンの作品を出張する許可

をとりついでやったこととの, ゲノレツェンによい銃を買うようにたのんだことぐらいがは

っきりしている。この件についてゲルツェンはおどけてつぎのようにツルゲーネフに書い

ている 730

f猟入閣下

関下の愛顧される従者たるそれがしは,月曜くあるいは火曜)に CockSpur Street

tこ急ぎ参り,次の特別文書にてお知らせ致すべく侯。」吟

1) P03eHTaJIb, YKa3. CTaTb沼, CTp. 390. 2) TaM )Ke, CTp. 383.

3)瓦eBsH,YKa3 COlJ., CTp. 80.岩間徹「ロシア・インテヲゲンツイアJ.Ii変革揺の社会』毎茶の水書男. 1962, p. 122.チチェーリン自身もその『回語、記』においてこのような意見の「二分j を認め

ている。 BocnOMsHaHs匁 BopscaHsKOJIaeBslJa 41四 epHHa,MOCKOBCKs員 yHsBepCHTeT,T.II,

CTp・29.4 これはカヴヱーリン自身の表現でもある。 CM.P03eHTaJIb, YKa3. CTaTb兎, CTp. 372.

5)口.r.口yCTBO益τ¥I1BaHCe戸、eeBHlJTypI、eHeB,113 Kypca JIeKUl議 nosCTOpHH pyCCKO邑JIHT事

epaTypbI XIX BeKa, M., 1957, CTp. 41-42. 6) 1856年 10月 31日付ツ/レゲーネフのコノレバーシンあて手紙, 11月 10日のゲルツエンあて手紙及び

ゲ/レツエンの 10完 278 付ツルゲーネフあて手紙参照。

7) 1856年 11月 88付の手紙。

8) repueH, XXVI, 46.

27

Page 29: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外)[1継男

問題はそのつぎの一節である。

「今日君。 に約束した手紙を書き終えた一一とうがらしと Westlndian pickles が入

っているやつだ。題は

《再び古い主題による変奏曲

(11. C.への手紙)>)

となろう o

これが問題だ。ぼくはわざと 11.C. としたが, もしかするとこれはイッポドローム・

スホザネートわととられるかも知れなし、。 まあ, とにかく君の命令次第でどうにでもな

るO 印刷はさらに二ヶ月後になるだろうーーとにかく一筆してくれたまえりめ

<<11. C.>>がツルゲーネフのイニシアノレで、あることはいうまでもなL、。ゲノレツェンはこの

書簡形式の論文を公刊するにあたって,その内容からみてツノレゲーネフに多少なりとも迷

惑のかかるのをおもんぱかって,このように打iJl.、合せたのである。これに対してツノレゲー

ネフはすぐに返事を書いている O

「…イッポドローム・スホザネートの名前には読をか治通えて笑った。…結構だ。遠恵し

ないでやってくれたまえ。ぼくは多大の興味をもってその手紙を期待している。ロシアに

いた時にも,ぼくは君と知己であり,君が好きだということをかくしたことはなL、。まし

て今では誰の前でもこのことを卒室に認めることができるりの

しかしこれから一ヶ月ほどして書かれたゲルツェンへの手紙では,この点について童、見

が変ってくるのである。

「…ぼくがよく会う(ニコライ〉・ア〈レクサーンドロヴィチ〉・メ(リグノーフ〉が,

君の手紙の冒頭にくる二字について気になることを言うのだ。伎はこれを危いと断言する

のだが,ぼくはとるに足りないことだと確信している。ただ手紙そのものの中でわれわれ

の会った時たまたま出た話を詳しく書くことはしないでもらいたし、oJ5)

これに対してゲルツェンは, Iちゃんとした人物j ならわかるだるうし, そうでない人

間には不要なことだから匿名にしようと心安く答えての, この書簡形式の論文を『北極

1)手紙の諒子が変る。

2) HrrrroAPoM Cyxo3aHeT一一名前は競馬場でおrrrrOJIHTの駄語落か。姓の方はロシア人にはあるが

Cyxo3a瓦bIH(尻の覆せた〉のこれまた駄潜落か,結局「競馬場の痩せ尻Jぐらレのところであろ

う。

3) TaM iKe, CTp. 46-47. 4) TypreHeB, nHCbMa, III, 26 (1856年 11月 10B)。5) TaM LKe, 44 (12月 6日〉。

6) repueH, XXVI, 51 (12月 8-9日村〉。

28

τ1 一一寸....----~,宅T →司下加叩聞骨 一一一一一一一一一一一

Page 30: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

星Jの第二号に《口HCbMOK... .>)とだけ付して発表した130 しかもそれだけでなく執筆の

日付もおくらせて「ロンドン 1857年 2月3日」と慎重に記すことも伎は忘れなかった。こ

れがL、ずれもツルゲーネフの名前や,伎との会話が当局i二感知されることを避けてのカモ

フラージュになったこと i土いうまでもなLJ30

ところでこの『再び古い主題による変奏曲』の内容であるが,まず冒頭においてゲルツ

ェンは,八年前に『向う岸から』の中で書いた自分の考えが,本質的にはまったく変って

いないことをことわっている。

当時からゲノレツェンの見解に対してロシアの自由主義的知識人が非難したのはつぎの二

点であったと伎は自ら言っている。 s[Jちその第一辻. 10分の西欧観が, いまでもわが国

には必要である信念をゆるがすものであるJ ということ,第二は, 1吉分のロシア観がス

ヲヴ主義者に自分を近づけるものであるJという二点であるお。

しかしニコライ一世が死んで,新しい皇帝の下でロシアが農奴解放とか検誌や芥刑の窪

rt:とかの問題をめぐってわきたっている時に,いまだに「民族の格の t下についてや真理

の国民性についてスコラ的弁論j を云々していることは,退屈でもあればな庁かわしくも

あるの自分もスラヴ主義者のL、くつかの論文を読んでみたが.恐怖と嫌悪なしには読めな

かった。もし彼らが権力についたら.それこそ第三部も顔まけのひどいことをやり j討すこ

とだろう。私がこのようなスラヴ、主義者に近いとはまったく心外だっしかも君たちのスラ

ヴ主義者との論争はまったく向の役にも立っていない。彼らは現実のめロシアをまったく

知らない「化け物Jなのだから, ¥まっておくのがよいのだと,まずはじめにゲルツェンは

白分とスラヴ主義者との相達を強調しているおろ

そ Lて次に彼は,自分の西欧主義と、いわゆるリベラ/しな f西欧主義EJとの相違がど

こにあるかを説明する。

r~1・たちはヨーロヅパの思想を愛 L ている-T!、も主たそれを愛しているの! これこそ

エジプト,インドヵ、らギリシャ,ローマにま台まり.カトリシズム e プロテスタンテイズ

ム. ラテン民族.ゲノレマン民挨の f全堅史の思想、」であって. もLこの思想がな治、ったらクピエテズム

「われわれはアジア的寂静主義かアフリカ的愚鈍に陥っていたことだろう〕 ロシアはこ

れらの思想をもってのみの,偉大な人類の遺産を継承することができるのであって、「この

点で,われわれの見解は完全に一致しているつ」ただ違う点;ヱ, 彼らが fヨーロッパの今

自の生活がこれらの思想、にふさわしいものではない」ということを知ろうともしないし.

また知ることを恐れているということにある O 彼ら比ヨーロヅパで実現しなかったような

思想が,どこかほかの所で実現される筈はないと考えているが. r憲史の発生学がこのよ

うな結論を正当化することはまずあるまい心たとえ新しい社会思想がヨーロヅパの現在

1) nOJH1:pHa兄 3Be3.l1.aHa lR57宅 CTp.291-305.

2) CM. fepueH, XII, 563.

3) fepueH, XII, 423.

4)強講一一原文。

5) TaM iKe, CTp. 424.

6)強調一一一罪文。

29

Page 31: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継 男

の生活にふさわしくないとしても,そのことからこの思想がどこにも適合しないものであ

ると結論づけることはできなし、。たとえばヨーロッパの理想のー側面たるアングロ=サク

ソンの理想が,大西洋の彼方のアメリカにその表現を見出したとは言えないだろうか,と

ゲノレツヱンは例をあげて説明する%

ついで彼は『向う岸から』において展開した歴史観をあらためてくりかえす。即ち. I歴

史の中では,発展の道はきわめて緩漫なものでありそれは本質的に単純ならざるものなの

だりすでに出来上った結果や成功した場合だけと顔をつき合せているわれわれには,歴

史の発展の途上で起った不成功の例がよくわかっていなし、。完全に生をまっとうしないも

のの中に他のものにとって代られるといった場合のあることがよくわかっていないのだ。

マンモスや魚竜は象やワニにとって代られ,エジプトやインドはギリシャやローマにとっ

て代られた。しかしだからといって,これらのものが犠牲になったということは言えな

L 、なぜなら,彼らはその生を生きたことによって自分の子供にではないが,地のものに

遺産をつたえたからである。

あるいは,抑圧された大衆が独占者の手から科学によって発達した力を奪いとるかも知

れないし,あるい誌ブノレジョワジーが政府権力に依拠して大衆を抑圧するようになるかも

知れなし、。科学は国家形態や民族性めとは関係なしにヨーロッパ的生活の偉大な結果とし

て残り,まさに人々の重荷となった歴史的形態を変えるかも知れなし、。いずれの場合で

ふ思想は救われるのであって,問題の本質はここにある。

ヨーロッパの未来についていうならば, I私はそれが最終的に決定されたものとは考え

ないはめとゲルツェンは『向う岸から』その他でくりかえし言ったことをここでくりかえ

す。しかしどんなにひいきめに見ても,卒直に言って十年近く「書物や理論でなしに,集

会や広場Jで現在のヨーロッパの政治生活や社会生活を見てくると,近い将来によい解決

があるものとは考えられなし、。一方には工業の病的ともいえる片寄った発達と富の集中と

があり,飽方には大衆の未発達と革命政党の未熟と動揺がある。「この上なく恐ろしい流

血の戦いなしにフソレジョワジーが近いうちに崩壊したり古い国家体制が一新することは予

見できないり しかし,その「決定を君と一緒に待つことは私にはできなL、。君い髪はす

っかり自くなり,私ももう 44歳になる」のだからめ。

しかし,ヨーロッパの外を見るならば,そこに「二つの活動的な国j を見ることができ

る。アメリカとロシアのがそれである。これら「成長するものは若いものである。」 しか

しロシアはアメリカと同じように成長しつつある力であるが,植民地でも外国の侵轄によ

って出来た国でトもなく,自らの土地に確固として存在する独自の世界である。アメリカは

なだれのようにあらゆるものを押し流して前進するが, ロシアは水のように周囲を浸す。

「ロシアはアメリカとは違う法則で拡大するのだoJb) アメリカで発展した思想は純アング

。TaM)髭e,CTp. 425.

2 強調一一原文。

3) TaM混乱 CTp・426.

4) TaM )Ke, CTp. 427.この表現は 7年後に『鐘』の中でツルゲーネフを批判した言葉「白髪のマグダ

レーナj を想起させる。

5)強調一一原文。

6) TaM双 e,CTp. 428.

30

車写事

s

Page 32: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

ロ=サクソン的なものであって,そこには強い人民と弱し、政府という自治の思想、がある。

アメリカが将来社会主義にどう対越するか,言うのはむずかしL、。そこには会社〈組合〉

的精神,連合の精神は大いに発達しているがー ロシアに見られるような農村共同体はない

からである。

これに対してロシア;ヱーまったく特別な段界であるのその生理学的性質は,アジア的で

もヨーロッパ的でもないスラヴ的なものである。ロシアはヨーロッパの運命に参加してい

るが, ローマ詰,封建制,カトリシズム,プロテスタンテイズムといったヨーロッパの緊

史的長続を持たず,その過去の約束ごとから免れている O わが国の生活の基礎には,土地

の共産的所有 (KOMMYHHCTHQeCKOeB~a江eHHe 3eM反応〉をfTっている農村共同捧があり,

そこでは選挙によって弐表をえらんで管理し,それぞれの農民の年貢をただしく決めてい

るO そしてすべてこういった制度は,たとえ抑圧され歪められた状態と,.tl、いながら.最

悪の時代を生き設いて,現在でも行われているのである九

ヨーロッパの*でもブルードンとかマッツィーニとかカーライル, ミジュレといったま

じめな人びとは, ロシアに特別の注意をはらってきたが,三十年にわたるニコライの治計上

が終って新しい時代に入った今日で(i.未来への力と権利辻否定すべくもなLJL すでに

アレクサーンドル二社はアラグチヱーエフの屯田制を廃止した L.軍事的専制はい主や過

去のものとなりつつある。

わが国には,ヨーロッパがつまづいたような敷居はない。良村の生活の自然なやりブ).

フソレジョワジーの欠如、{白のものをやすやすと自己のものに取入れる能力といったもの

は,われわれを Lてすでに出来土って疲れきった民捺よりも一歩先んじさせているのだ。

もしわれわれのまだ閉まっていない地盤の上に唯一の確自たるものがあるとすれば‘そ

れは畏村共同体であり,これをこそ保持しなければならないっ

ロシアにおける共同徐についての論争を読んだが.面白いことは面白いがどうも問題の

本質をついているように思えないの農村共同体の始まりが先祖から伝来のものだったかあ

るいは国家が作り出したものか.地主のものだったか大公のものだったか,農奴(じ1](ヱ共同

体を強化 Lたか否か。すべてこれらの問題は明らかにする必要があろうが. rわれわれに

とって何よりも大切なのは現状なのだ。J3)国家も農奴制もそれぞれこの伝来の共同捧を誌

持してきたっ「土地の共同体的所有. ミーノレ. 選挙はわが国の黒土と同ビようにヨーロッ

パにはない地盤であり,事TLい社会生活はそのt-.でこそやすやすと或長することができる

のだの」だヵ、らこそ自分は, 病み疲れたヨーロッパの死のはなの苦しみに背を向げて. 岳分

がロシア人であることを内心で喜んでいるのだの

ロシアが現在入りつつある時代はカ¥つてなL、足ど弔:大な時ー期だのロシアは小さな政治的

改革ではなしに,巨大な経済的心変革に,農奴解放に誼面しているのだのそれだけではな

L 、われわれは暴力的薮局なしに,問題の解決を社会と国家が手をたず、さえてやろうと L

ているのだ。われわれは 1..地の所有権や‘労働手?と生産手段の関係をこわ Lて打:りなおす

1) TaM )Ke, CTp. 430.

2)強諒一一一原文。

3) TaM )f¥e, CTp. 431. 4)強課一一車交。

31

Page 33: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

ょう要請されているのだ。これは未来の成長への輝かしい龍進ではないだろうか。われわ

れの歴史的行為の新しいプログラムはこのようにすこぶる単純なものだ。{可を為すべきか

を知るためには,特別な才能は不必要であって,目がありさえすればよいのだ。ただ政府

の臆病と不器用と怖気とが道を見るのを妨げ,貴重な時を空費させているのだ。ニコライ

時代の冬が去って,血管に凍りついた血が溶け,収縮していた心臓が再び生き生きと鼓動

を開始したこの時を利用しなくてもよいものだろうか九

機は熟している。機関車は燃料を焚いて走り出す準備ができている。足りないのは大胆

な手だけだ。

われわれの機関士に知らせよう。人民はそこに力と大胆な思想を感じさえするならば,

ピョートノレの野蛮もエカテリーナの淫蕩も許してきた。しかし無制限の権力を持ちなが

ら,状況を愚かしく利用し悪ふざけをするようなときは決して許さないであろう。しかし

アレクサーンドル二世のよき心がこのような愚かなまねをするようなことは島るまい。

ヨーロッパには近い将来に可能性はないだろう。もし自分がロシア人でなかったら,と

うの昔にアメヲカに渡っていたことだろう。

しかし私は運命論者でもないし,宿命を信じてもいない。吉然、と歴史とは,日毎に, t些紀ごとに,遅くなったり速くなったりしながら,また新しい道を切開いたり吉い道に出っ

くわしたりしながら進むのだ。「私は発達の可能性について語っているのであって, そh

が不可避だと言っているのではない。-一…けだし諸民族の生活においては,きわめて多く

のことが人物や意志に依害しているからだ。JI私はわが心と知性とで歴史がまさにわれわ

れの戸口をノックしているのを感じている。J2) もしわれわれがそれを開かなかったら,ア

メリカやオーストラリアにお鉢が廻るかも知れなL、。われわれが大きな力を持ちながら,い

たず、らにこの力と時間とを空費しているとは何と残念なことか。いつになったらこのこと

がわかるのだろうか!ニコライの死を開いた時,われわれは「薪しい時代がロシアに訪れ

たjと言った。そうだ,時代を新しくめするのだ。そのためには決心しさえすればよいのだ。

しかしアレクサーンドノレ二世の改革の歩みはなんと遅々たることか。このような状態で

は今自のプロイセンの状惑に到達するのにさえ 200年もかかってしまう。なんで皇帝や政

府は未だにニコライ時代のヨーロッパの恨みを買うような愚かな政策を追っているのだろ

うか。ピョートノレはオーストリアのためにハンガリーを抑正するようなまねはしなかっ

た。アレクサーンドル二世はポーランドでいったし、何をやっているというのだ。早く夢か

らさめなければならない。め

われわれは農民が地主の権力から解放されることを欲している。もとよりこれは夢では

ない。われわれは政需に援助ではなく,妨害せぬように求めているのだ。

ヨーロッパはすべての持てるものと同様,保守的になってしまって,自らの富を利用す

ることすらできないでいる。「われわれには大切なものは何ひとつないりり勿論,賓しさ

。TaM>Ke, CTp. 432. 2) TaM >Ke, CTp. 433.

3)強謂一一原文。

4) TaM >Ke, CTp. 434.早くもここでアレクサーンドル二世への期待と並行してのちに皇帝への決定的

不信の原因となる「ポーランド問題jが言及されているのは在自に価する。

5) TaM, >Ke, CTp. 436.

32

て-...

Page 34: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

がそれだけで自由につながるか,それとも奴隷割につながるかはfぜとも言えない。 bZ廷の

原理からは反対の結論が出る。この点で私はスラヴ主義者ではなく,彼らの思想の中のあ

るものに出会ったのだち弘がどういう点におし、て「モスクワの文学的i日教徒」と同調する

か,わかってもらえたことと思う。

われわれの自的は同じはず、だ。人民の自由な発援を妨げている柵をとつはずし人民自

身の政府の自覚をうながそう。

「それ故に私は君への長い手紙を次の言葉をもって締めくくろうっ

仕事をしよう。われわれのために十分働いてくれたロシアの人民のために仕事をしよ

う。Jl)

すで、に見たようにゲノレツェンの共同体への者日は 1843年 6Jj 28日の日記に明らかであ

り,十数年へだてたこの文章の中にわれわれはまったく同じ表現、同じ発想法を見出し

て,ある意味では設の思想、の変化のなさ,ないし一貫性に一驚を禁じえなし、。しかしゲ/レツ

ヱンは 1848年の革命の挫折を経験してこの共同体への期待を一段と強め,論文 <<LaRus-

sie>>以下において,これをもって将来特殊なロシア的社会主義の核となるべきことをくり

かえし主張してきたのであった。だがかつての18友たるロシアの「西欧主義者j たちにし

てみれば, この点が大きな疑惑とも不満ともなっていたのである。 ツノレヂーネブにもっ

とも近かった18友グラノーフスキーもこのことに関してゲゾレツェンを何度も批判してい

るの。「西欧の欠点を見て君はスラヴ主義者に傾き,ホミヤコーフやアクサーコフに手をさ

Lのべようとしている。もし此処で暮していたら,別のことを言っただろうりぬというグ

ラノーフスキーの言葉は.ゲ‘ノレツェンにとってまったく無視することのできぬものがあっ

たに違いないちそこで伎はこの「変奏曲Jの中で,まず自分とスラヴ主義者とがどの点で

類似しており,どの点で本質的に違うのか明らかにしたかったのである。伎にしてみれば,

すでに幾度となくくりかえしてきた主張をあらためてくり返すことに少なからぬためらい

と恥じらいを感じたことが推測されるのこの論文の表題がそれを示している c しか L,ツ

ノレゲーネフに会って直接ロシアの論壇の自分に対する批評を耳にしたとき, I再びJ この

点について自分の立場をはっきりさせるべきだと心を決めたのであろう。また「新しいi時

代j に入ったロシアがし、つまでも改革をためらい.知J義人があいかわらず「スコラ的j な

論争をたたかわしていることも,ゲルツェンから見るならぽ,いかにもじれったいことに

思われたに違いなL、。「主題j はたしかに「古L、j が,このあせりが「変奏曲」の随所に

新しいトーンとなって出ている。それだけではないっ彼がロンドンの「岳由ロシア出版所j

で出していたそれまでの文書は, I大きな国難と極秘のうちにJ4) ロシアに持ち込まれ,ご

く一部の人々にしか読まれなかったのが,新'r去のI![J位後『北極星』が出版されるようにな

。TaM)Ke.

2)グラノーフスキーのゲルツェンあて書簡参照。 γIHTepaTypHoeHac~e瓦CTBO T. 62, CTp. 86-104.と

くに 1851年 5-----6丹 (CT予.99), 1853年 8月 (CTp.100), 1855年5月末-6月始め (CTp. 102-103)の部分にこの点ははっきりと出ている O

3) TaM )Ke, CTp. 103. 4) TaM )Ke. CTp. 102.

33

Page 35: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト J11 継男

ると今までよりははるかに多くの人に読まれるようになったという背景。も執筆の動機と

してあったに違いない。

このように考えてみると,上記の論文はツノレゲーネフのロ γ ドン来訪を一つのきっかけ

として書かれたのは疑いないとしても,その意図はツノレゲーネフとの個人的な関係をはる

かにこえて, ロシアに屠るかつての友人や論敵にあらためて自分の立場を説明し,改革を

前にして彼らの不毛な論争にとどめをさすことをめざしたものと考えることができる。し

たがってこの書筒形式の論文もワシネルのいう「宛先なき手紙J2) のーっと考えるべきで

あり,ゲノレツェンはもとよりツルゲーネフもこのことを十分承知していたものと思われ

る。というのは,この時のツノレゲーネフが『北極星』を読んでいて,折にふれゲノレヅェン

に感想を書き送っていたにも拘らずへ この論文についてはまったく言及していないから

である。

後年の再者の論争との関係について一言するならば,ここでゲノレツェンがスラヴ主義者

とのみならず, リベラノレな西欧主義者とも次の三点で相違していると主張している点は記

掻さるべきであろう。即ちその第ーは,ゲノレツェンが西欧社会が歴史的に受け継いできた

思想を,人類に普遍的なものとして,ロシアもまたこれを継承すべきであると考えなが

ら,ロシアの発展の道は西欧とは壁史的にも「生理学」的にも異なるものであると考えて

いたこと,第二に,今後のロシアの発展が農村共同体を核とし,さらにそこに西欧の個人

の原理をはじめとする思想を導入することによって可能である(必然、ではない〉としてい

ること,そして最後にその発展の第一歩として,一日も早くロシアに根本的な改革が行わ

れねばならず,それは何よりも農奴の解放と言論の自由とをまずもって獲得しなければな

らないということである。しかもこの最後の点については,アレクサーンドノレ二世の改革

への期待をいまだ保持しながらも,もし透巡したり,農民の期待を裏切ることがあるなら

ば,下からの革命は避けられないとゲ.ノレツェンは考えていたことは特記せねばならない。

このような改革を蔀にしての彼の焦燥惑が『ロシアからの芦iや f鐘j の発行に搭み切

らせたということができるのである。そしてゲルツェンとツノレゲーネフをはじめリベラル

な西欧主義者との関のみぞが,ますますラジカノレになってゆく『鐘』の諒子とともに, し

だL、に埋めることができないほど大きくなってゆくことをわれわれは以下において見るで

あろう。

III ロンドンの『鐘』

1857年 7月 1日. rr謹~の第一号がロンドンの自由ロシア出版所から F北極星J の付録

という形4)で発行された。この間の事情をナターワア・ツチコーヴァ=オガワョーヴァは

1) 3JIbC6epr, YKa3. COq., CTp. 399. 2) C.瓦.瓦質問Hep,YKa3. CTaTb冗, CTp. 194.

3) TypreHeB,口百CbMa,III. 130 (1857年7丹 17Bの手紙入 180- 181 (1858年 1月 7Bの手紙〉。

のこの付掃という文字詰 1861年 12月 22日発行の No.117まで付されており,それ以後詰消えてい

る。

34

問一 z

Page 36: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

次のように F回想、記』の iいこ記しているの

「私たちがこの家に移って間もなく,私の岩合わせたとこるでオガリゴーフが昼食のあ

とゲノレツェンにこう言いました。

一ーところでアレクサンドル, IJ北極星』も『過去と思索』もし、いけど, これ(1必要な

ものではなL、。これはわれわれの味方との対談ではないのたとえ二週間に一度,月に一度

でもよいから規則正しく雑誌を発行することがぜひ必要だろうっロシアに対しても抱に対

しでも自分たちの見解と要望を述べたらどうだろう。

ゲノレツェン誌この考えにすっかり夢Iドになりましたっ

一一そうだ,オガリョーフーーと授は意気こんで叫びましたの一一雑誌を出それ『鐘』

という名をつけよう。雀ケ丘で二人きりだったように,二人だけで、ヴェーチェの鐘を鳴ら

すのだっだれかがそれに容えるだろうっ」

つづけて彼女はこの計画に対して,ツノレゲーネフがどのように反応したかをすぐあとに

書いている。

「この日から彼らは『鐘』のために論文を準掃し始め. しばらくしてからこのロンドン

のロシア人の機関紙の第一号が出ました……彼〈ゲノレツェン 引用者〉はこれを至るとこ

ろに送り,まもなくロシアでもその存在が知られるようになりましたっその当時イヴァ

ン・セルゲエーヴィッチ・ツルゲーネフがパリからやってきましたっオガリョーフとゲル

ツェン辻彼にこの喜ばしいニュースをつたえ, ITコ鐘Jの第一号を彼にも示しましたのしか L

イヴァン・セルゲーヴ f ツチはこの計画にまるっきり賛成しませんでしたのデザケートな

作家であり,またたく士、まれな才能と洗壊された趣味の持ち主で、もある授は. IJ北極星』と

『過去と思索』の出張には喜んでいましたが,つねに致治的見解や志向からかけ離れてい

ましたので,英冨で孤立している二人がはるかに遠い習の仲間と活発な対談を交わ Lて,

その国の中に言うべき言葉を見出しその国が必要とするものを理解できるというように

はとても考えられなかったのですの

一一いや,それは不可詫だ一一一とイヴァン・セルゲーヴィッチは申しました一一一そんな

空想立捨てるべきだ。君たちの力を分散しではならなし、のそれに君たちには沢山の仕事が

あるじゃないかっ『北極星』と F過去と思索J。それに君たちは二人っきりだ。

一ーしかしもう仕事は始っているんだ。続げなければならない一ーと彼らは答えまし

fこっ

一一成功はおぼつかないよっそれに文学は多くのものを失うことにもなろう。一一イヴ

ァン・セルゲーヴィッチは一生懸命反対しましたっJl)

このように雑誌 f鐘』はオガリョーフの提案をゲルツェンがし、れて創刊されるに至った

のであるが,この点についてはゲ、ルツェン自身も後年ツルゲーネフにあてた手紙の中で述

べているの。ところでこの時のツルゲーネフのロンドン訪問は, 先の 1856年の初秩につ

1) H. A. Tyl.JKOBa-OrapeBa, YKa3. CO可., CT予・ 111-112.

2) repueH, XXVII, 265 (1862年 11月 22B付〉。 本論83頁参照。

35

Page 37: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

ぐ二回目のもので 1857年の 5月 24日から約一ヶ月にわたっている1)0 U鐘Jを創刊しよう

とし、うオガザョーフの提案はこの年の春のことと誰挺されるがわ, ツノレゲーネフの訪問ま

でには大体準備のできていたことが,ゲノレツェンの 5月 25B討ミシュレあての手紙でわ

ヵ、る。

この手紙の中で彼はミシュレにツ/レゲーネブを紹介するとともにめ, 16月 1fJから,ア

クティヴで完全に政治的な反体制の月背誌を出します。われわれはロシアとポーランドに

のみ限定するつもりです。J4) と言っている。出販の技備的な面や駿路拡張には,チェ/レネ

ツキーやトホルジェフスキーなどのポーランドの亡命革命家をはじめとして,身分も国籍

もさまざまな亡命者が協力して着々と準備が進められた530

しかしこの企画に対するツノレゲーネフの態度は,いま見たツチコーグァ=オガザョーヴ

ァが「回想Jしているように,決して好意的なものではなかった。彼の白からすれば,第

一にロシアから離れて実状にうといゲ、ルツェンたちが,はたしてロシア宮内の世論を動か

すほどの力を持ちうるか否か,政府に対する批判の行きすぎが,かえってマイナスの結果

を生むことになるのではないかとの危慎があったに違いなし、。さらに『退去と思索Jを読

んで, 1"強き好き印象J6) を受けたツノレゲーネフにしてみれば,なによりもこの作品の完成

をのぞみ,ゲノレツェンがあまりにもジャーナワスティックになることによって, 1文学が

多くのものを失う j ことを懸念したのであろう。

そして,このようなツルゲーネフの予見は,早くも『鐘Jの第一号にあらわれることに

なる。

言論の自由と農奴の解放と地主の農奴に対する殴打の廃止の三つのスローガンをかか

げ, 1沈黙は賛成のしるしであるj として,今こそ自由な声,くVivosvoco) をロシアの

内外であげよう‘との呼びかけを「序文j にかかげたこの第一号は, 1雑録j の中で皇太后

アレクサーンドラ・フェオードロヴナの西ヨーロッパ旅行を痛烈に議刺し,農奴説支持者

である彼女とアレクサーンドル皇帝との徴妙な対立関係までもすっぽぬいた円

ゲノレツェンのこの一文は「センセーションを巻き起しjめ とくに宮中ではかなりなショ

ックを受けたと言われるの。ツノレゲーネフもこのことを心配し, 7月 17日の書簡でゲノレツ

ェンに対し,第三部の長官がオノレロープに代って反動で知られたドノレゴ、/レーコフ侯になっ

たこと,憲兵が再び怠生活にまで干渉するようになってきたので慎重に行動することを求

めている1930

1) TypreHeB, nHCbMa, III, 654. 2) Oa3HJIeBa, YKa3. COlJ., CTp. 59-60.

3) ツルゲーネフは 1月8日付の手紙でゲルツエンにミシュレを紹介して抵しいと頼んでいる CTypre・

HeB,口HCbMa,III, 69)。4) repueH, XXVI, 93-94.

5) Oa3HJIeBa, Y Ka3. CO可., CTp. 61-62.

6) TypreHeB, nHCbMa, III, 77 (1857年 1月 16日ゲルツエンあて)。7) KOJIOKOJI,φaKCHMHJIbHOe s3.ll. M., 1962, BbmycK 1 CTP, 8-9. 8) repueH, XXVI, 112 (1857年 8丹 14EIツルゲーネフあて〉。

9) TypI‘eHeB, OHcbMa, III. 513-514.

10) TaM >Ke, CTp. 130.

36

ーァー十一室Zーでア塩語、(L.t.~.; F

Page 38: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つ の論争

しかしもう ~)jでツルゲーネプ辻この F鐘』のためにコチュベーイ事件1)について資料

を送り, できるだけ平くこれを誌上に発表するよう頼むなど協力もしている。2) このこと

は『鐘J の沼二号(1857 年 8 月 1 日〉にのった r ロシアにおける革命2 や第四号~,こ掲載さ

れた『アレクサーンドル二世への手紙』が示すように,上からの平和で改革的な道がロシ

アにおいても可能であると当時-のゲ‘ノレツェンが考えていたことと関係がある。

この「ロシアにおげる革命』と題する論文は,農奴解放白iJのゲ‘ルツェンの見解がもっと

もよくまとまって表現されているものと考えられるので以下においてこれを見ることとす

るO

まず冒頭においてゲルツェンiL ロシアが改革の 1!]iJ夜」にあるだけでなく,すでにそ

の中に入っており,世論は改革の不可避なること.いまや政府も「発達と変化と進歩の新

L 1., ¥局面Jに引き入れられたのだと述べている。

しかしロシアでは革命の前に通常見られるような徴候はなく,人びとは静かに新しい政

府を好意をもって見守っているのロシアでかつてあった根本的改革はピヨートル一社とい

う一人の人間によるもので.それはフランス革命のような流血の間争を生むことがなかっ

たの「疑いもなく. 蜂起や公然たる闘争は革命のもっとも強力な手段であるが. 決して唯

一ーのものではない。JJW史的に見ても.フランスで血で血を洗う戦いが行われていた時に,

英国はゆっくりと Lた足取りで巨大な変化をな Lとげた。職業的な草命家はこのような平

和な道を好まないが‘われわれは「心から平和で人間的な発展の道の方が流車の道よりも

よしとするJものである δ しか LI同時にニコライ時代の statuquoの停滞よりは,突発

的で制御されない発展を同じように心からよ LとするJものである。3)

陛下は改革をのぞまれているが,それならば人民の者求を理解しようとしている人ひ、と

を抑えつける代りに,これら人民と共に生きている人たちの声に耳を傾けなければならな

L 、ピョートルー1出丸専制権力と個人的な力に立脚して人民の意志に反して,改革を行

ったが,現在の政府ば「進歩的テロ j に頼るべきではないっ少数ではあるがロシアには人

民のために人民と共に進もうとしている人びとがL、る。これらの人たちは西ヨーロッパの

人びとにくらべて社会問題の論議にはなれていないかも知れないが,彼らよりも若く,伝

統にとらわれていなL、o Lカh も彼ら;土西欧の「偉大な不幸j を見て,成長も Lた L,考え

深くもなっ?こ。

今日ヨーロッパのすべての政府は.土地所有の問題,労働とその報酬の問題,共同体と

プロレタリアートの問題字の一前で、恐れおののいている。これらの問題の解決こそアレクサ

ーンドル二世に課せられた「磨史的使命Jでほないだろうかの Lか し こ れ ら の 課 題 の前

で,政府のみならず,われわれも亦問題のむずかしさに昌信を失っているのが現状である。

われわれはロシアの汚点を癒しがたし、ものと考えて,よく外国人の訟で赤くなったものだ

じ 1853年 6月ボルタワの大地主コチュベーイが自分の鎮地の管理人であるオーストリア国籍のザリ

ツマンを撃って負善寺さぜたにも拘らず,罪を関われず逆にザリツマンカ;拘禁された事件。 CM.Typ reHeB,口HCbMa,III, 538.

2) TaM )Ke, CTp. 176 (1857年 12月 22B付ローマからの手抵〉。この資料は『鐘』の第 7号(1858年

12月 1日〉に『非公開の裁判は何を意味するかよと題されて掲載された。

3) KOJIOKOJI, BbIIlyCK 1, CTp. 11.

37

Page 39: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

が,このような自信のなさは早く捨て去らなければならない。

ロシアの人民は遅れていると言われる O 彼らは自分たちを圧部している貧困や無権利に

なれてしまっているのだとも言われる O しかし人民大衆の歩みは,動き出すやおどろくほ

ど巨大なものだ。われわれが為さねばならないことは,このような人民を新しい生活に導

くというよりも,後らの昔からの生活習賓が抑えつけているところのものを取り捺いてや

ることであるつ

われわれはよくロシアの人民と比較して,外国の人民がはるかによいと考えているが,

たとえば革命詣のフランスの農民の状態は現在のロシアの農民と変るところがなかった。

彼らは貯えるどころか餓死しないでいるのが,やっとだった。そして一片のパ Yのために

絶望的な戦いをしたのである。そしてその結果はどうだったろうか。立たして革命の理想、

は実現されただろうか。半世紀もたってみたらフラ γスほ市民的聖物売買とプノレジョワ的

墜落の下に弱り衰えてしまったではないか。「われわれが同様な草命をしなければならな

いということはないのだ。われわれには加の課題があり,その解決のための力も到なもの

なのだ。J1)

フラ γスの歴史的慣習が何世紀ものあいだかかって形成され,フランスの諸鋭度もまた

この国民の積習や生活に深い根を持っていることを忘れてはならなし、。わが国にはこのよ

うな「封建制や都市の生活やカトリシズムj と歴史的につながるものは何もなL、。わが国

にあるのは「皇帝の独裁と農村的生活慣習 (MMrrepaTopCKa匁瓦限切TypaM Ce.nhCKM首OhIT)J

である。ピョートル一世とともに始ったロシアの「再建」は,数々の外国の制震をモデル

として取入れたが, 根底にあるところの農村はまったく変ることがなかった。「これを変

えることはきわめてむずかしいことで通うろう。それに必要なことでもあるまL、つまったく

反対にこの上にこそ未来のロシアが築かれなければならないのだ!J2)

軍事的専制やドイツ的守禁制から,もっと単純で人民的な富家構造の京理に移ることは

勿論容易なことではあるまL、。しかしそのための捧害がどこにあるのか正しく知ることが

第ーである。

陛下は官房や役人どもによって正しく事態を見ることができないでいる。そして忠言を

しうるような人たちは,あたかも永の上の魚のように声を出さずに無益にのたうちまわっ

ている。ピョートルの事業を継続するためには,彼がモスクワ時代と訣別したように陛下

もベテルプルグ時代と訣別しなければならなし、。これらの人為的な統治の道具はもう古い

ものになってしまっている。「権力を手に,一方では人民に依拠し 地方ではロシアのす

べての思考する教養ある人びとに依拠するならば,現在の致府はし、かなる危険もなしにお

どろくべき事業をなしとげうるであろう。

アレクサー γ ドノレ二世のような状態は,ヨーロッパのいかなる君主にも与えられてはい

ないのである。しかし多く与えられるものは,また多くを求められるものでもある!J

このようなロシアの特殊性を前提にした上aで、のツアーリによる平和な根本的改革への期

。TaM>Ke, CTp. 13. 2) TaM >Ke, CTp・14.

38

a邑

Page 40: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

待,t,~鐘J の第四号にのった『室帝アレクサーンドル二世への手紙』にも同じようにあ

らわれている。先に見た『北極星』第一号にのったアレクサーンド‘ル二世の即位を祝し

その改革を期待する気持ちが依然、として自分たちには統し、ていることをゲ.ルツェンはこの

中でもあらためて断言している1)。

このようなゲ、ルツェンの態度はツルゲーネプから見れば先の皇太后に対する調刺よりも

はるかに好ましいものであった。

この点についてツルゲーネフは 1858年 1月7日付'のローマからの手紙でゲ、ルヅェンに

次のように書いている。

r......ぼくは『鐘』のすべての号に君の陛下へあてた手紙のような論文が書かれ得ない

ことは承知しているのしかし《わるふざけ>>(ωrpHBOCTbめは不必要だのとくにロシアで

まったく真面目な事業が準備されている現在ではなおさらだ円二つの勅書とイグナーチェ

フあての第三番の勅書はわが国の貴族層にかつて聞いたこともないような恐慌をまき起し

たの表面上は覚悟をしているがその下にはこの上なく鈍い頑固さがかくされている円恐怖

もあればけちな考えもあるのしかしもう後へさがることはできなL、 levin est tire--il

faut le boire. (酒瓶は抜かれた一一一飲まねばならなL、。)J2ヲ

ツルゲーネブにしてみれ,t:,皇室に対するふざけた調子は, ~鐘』の権威を下げ、 ロシ

アの心ある知識人をかえって遠ざけるものに思われたのであるのしかしゲ、ルツェンは必ず

しもそうは考えないσ ツルゲーネフのいわば個人的忠告を一般化し公けの場に出 Lて反

論ずるの彼は『鐘』の第八号で.r笑L、」は新しき生命の成長を阻止せんとするすべての

古いものに対する「武器」であるとして,アリストパネス以来の笑いの歴史について語

1) • ともするとロシア人が冗談に対して侮辱を感ずる一方‘ }二からの日朝罵には忍耐ぶかい

のはなぜであろうかと,かつて 15年前にベリンスキーの提出した疑問をあらためて持ち

出している830

ツルゲーネフとしてもこのようなゲ、ルツェンの考えをまったく知らなかったとは思われ

なL、先の皇太后を調刺した一文の上には. r目に見える笑いの蔭に目に見えない涙があ

る!Jめ というゴーゴリの言葉が記されてあったことを彼が見落したとは考えられぬ。し

かしツルゲーネフの目からみれば.いよいよアレクサーンドル二世が解放の事業に乗り出

さんとした矢先に, しかもロシアにはこの事業にあきらかに反対する地主貴族が沢山いる

のに,このような皇室に対する誹認はともすれば反動勢力を助長するものと考えられたか

らであろう。

ここでツルゲーネフが記しているアレクサーンドル二世の勅書が, 1857年 11月20日り

1) TaM >Ke, CTp. 30.

2) TypreHeB, OHcbMa, III, 181. 3) KOJIOKOJI, BbmycK 1, 65-66 4) TaM >Ke, CTp. 8. 5) この日付は皇帝の署名の日付である。ナジーモフ勅書の公布は 11月24日ということになっている

が,これは散密にいえば公布されたのではなく,小部数が印制されて総督や貴族団長に送付された

にすぎなかった。 Cf.Terence Emmons, The Russian Landed Gentry and the Peasant Emanci. ρation of 1861, Cambridge, 1968, p. 51, D. 4

39

Page 41: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

(露暦〉にヴイノレノ也二県の総替であるナジーモフに与えられたものと, 同年 12月5日

(再〉ベテルブ、ノレクー総督のイグナーチェブに与えられたものであることはいうまでもな

L 、。ただ fイグナーチェフあての第三番自の勅書」というのはツルゲーネフの誤りで,こ

れは第二番目であって,第三番目の勅書は同年 12月24Bにニジェゴロト県知事にあてら

れたものである九先の 1足7日付のツノレゲーネフの手紙は露震で 12月26日であるから,

はたしてローマの彼方丸、ち早くこのニュースをキャッチしていたかどうか疑わしいが,お

そらくこのころのロシアからのニュースには多少の混同があったことも推挺される。

し、ずれにせよこのナジーモブあての勅書は農奴解放への具体的な第一歩をなすものであ

るが,これに対して「直ちに反応を示したのはりベラリスト達Jのであって, 12月28日

にはカヴェーリンの提案でこの勅書の精神を称え,解放事業を政府が一貫して行うよう督

励するための宴会がモスクワで開かれているめ。

ロンドンの『鐘Jもこのニュースを 1852年 1月 1日付の第 7号のトップに「農民の解

放!Jと大きな見出しをつけて掲載し「われわれは農奴身分の解放にふみ出したアレク

サーンドル二世への挨拶をもって新しい年に入った……このことをもって新しい年を始め

うることはわれわれの幸せである。この年がロシアにとって真に新しい時代となるよう

に。」と述べている430

このように解放に対する明瞭な意図が皇帝からはじめて具体的に示されたことはめ, ゲ

ノレツェン自身にとって大きな喜びであった。彼は『鐘』の第 9号の冒頭につぎのように書

いている。

1<<ガリラヤ人よ,汝は勝てり!>)われわれは容易にこのように言うことができる O な

ぜならわれわれの戦いには自尊心や利己心は混入してはいないからだ。……アレクサーン

ドル二世が最初の勅書に署名して,自らが農民解放をのぞみ.その側に立っているという

ことを全国民に言明して以来,われわれの彼に対する立場は変ったのだー

アレクサーンドノレ二世の名は今後歴史に麗するものである。彼の治世がたとえ明日終っ

たとしても,あるいは少数の独裁者の反抗やパーノレシチや答期jを支持する者の反乱によっ

て倒されたとしても,このことは変らなし、。農民の解放は彼によっての始められたのであ

り,来るべき世代はこのことを忘れないであろう!J7)

しかしこのような手離しの称讃の末尾にゲノレツェ γがつぎのような言葉を付しているこ

とをわれわれは注呂せねばなるまL、。

1)菊地昌典 Fロシア農奴解放の研究』御茶の水書房, 1964, 301頁C

2)菊地,前提書, 307頁。

3)問書, 308-309頁。

4) Ko♂OKOム BbInycK1, CTp. 51.この署名は P.4. となっているが,オガリョーフの手になるもの

である。 Oa3HJleBa,Y Ka3. CO可叫 CTp.83. 5)解放についての皇帝の意留はこれよりも前 1856年 3月初日〈露屠〉モスクワにおいて郡貴族団長

らを前にしての演説において示されたが,まったく具体的なものではなかった。

6)強調一一原文(アカデミー寂による。ファクシミリ販にはなし、〉。

7) KOJlOKOJl, BbmycK 1, cTp.67 (1858年 2月 15B付第 9号〉

40

子 I

Page 42: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論 争

「われわれに関して言うならば,われわれの前途は定っている O われわれは解放する者

と共に,解放する隈り1)一緒に進むのだ。この点においてわれわれは全生涯を通じて一貫

している。J2)

そして平くもここに述べられているゲルツヱンの危洪が E鐘~の 18 号にあらわれるこ

とになる。 1858年 7月 1日付の巻頭論文は「アレクサーンドノレ二世は即位の詩にロシアが

抱いた期待を実現しなかった」吟として批判を開始するのである。皇帝は解放の道へ踏み

出したと患ったとたん,思、い重してしまった。「右へ行くか左へ行くか」はわからないが,

問題は彼を取り巻く反動的官掠の声しカミ耳に入らないということにある。「ツアーリは人

民に手をさしのべようとされ,人民はその手を取ろうとするが,パーニンとその一味にさ

えぎられて届かなし、。これこそアリストパネス的請景である 1Jのわれわれの主張を読者

は胸に手をあててよく考えてもらいたい。いったし、どこに「実現不可能な要求や,政治的

ユートピアや蜂起への呼ひ、かげjりがあるというのか .. ? !l鐘』は農民解放の勅書が出て以

来変ったかも知れなし、。われわれは論争を一部犠牲にしても政府に近づいた。なせ手なら政

野の方がわれわれに近づいたからだ。しかし本質的にはわれわれの道は何ら変っていな

L 、。反動的な政治を否定 L.現代的な.進歩的な統治をよしとしてきただけであるのアレ

クサーンドノレ二世が流血の革命の時代に終止符を打って,平和なやり方で古い専制からよ

り人間的で自由なロシアを建設するように,事実われわれには思えたのだ。勅書が出てか

ら宇年の間,われわれは一貫してその実現に努力してきた。このような努力がもしむくわ

れないとしたら.それは改革の事業に反対する腐敗せる一部の貴族が皇音の足をひっぱっ

ているからにJまかならなL、。われわれ;土生ける者の声が皇子去にまで達するように,検関の

廃止,解放事業の公開をここに要求する。ゲノレツヱンはこのように述べたあとで. u鐘Jの

エピ?グラフに揚げた Vivosvoco! の意味をあらためて強調するのであるつ

このようなロシアにおける反動勢力の拾頭に関しては, 5月初日付のノミリからゲ、ルツェ

ンにあてたツノレゲーネフの手紙にも見られる。この中で彼は, ロシアの秘密警察が『撞』

の発売禁止をパリにおいて画策している事実を告げたあとで,チトーフ,カヴェーリン,

シチェルパートフら自由主義陣営の退陣と,新文相コヴァレーフスキーや皇太子の教師と

してチトーフに代ったグリムのことについて最新のニュースを知らせている630 慎重なツ

ルゲーネフはこの中で,当局の嫌疑を受けることをおもんぱかって.口外せぬよう頼んだ

のであるが,ユーリー・サマーリンらからも同種の情報を入手したゲルツェンは,この事

実を『黒い内関』と題して『鐘Jの第 20号(1850年 8月 1日付〉にすっぱぬいたっ7)

しかしツノレゲーネフにおいても皇帝その人に対する期待は,はっきりあらわれている。

いま見たゲルツェンあての手紙の末尾はつぎのようになっているO

1)強調一一原文〈アカデミー薮による。ファクジミリ坂にはなLつ。

2) TaM me, CTp. 68.

3) KoλOKOJI, BhmycK 1, CTp. 141 (強調一一諒文)

4) TaM me, CT予.142.

5) TaM me.

6) TypreHeB,ロHChMa,III, 219, 563.

7)五OJIOKOJI,BhmycK 1, CTp. 161-163

41

Page 43: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト JII 継男

fしかしぼくはいまでもアレクサーンドノレ・ニコラーエヴィチに期待をかけている。多

分伎はわれわれが想段する以上に悪い連中に取り巻カ通れているのだろうが,それにしても

だ。友達の普によろしく,君を抱擁する。水曜にはロシアに発つc ベルリンから君に書こ

うの Addio.愛する祖国ではむずかしい出来事がぼくを待ち受けている。JD

この時ツノレゲーネフの帰国をうながしたのは, ロシアにいる友人たちからの手紙であっ

た。マーイコフは餅造的な,社会的な仕事をするためにロシアが彼を必要としていると言

ってきたがへ それ以上にアクサーコフ老人のパセティックな「誼冨の運命が決められる

時に人は異冨の土地に生きることは許されないj との呼びかけはめ, 地主として領地をど

うこうするより「社会の一員Jとしてなすべきことをするためにロシアに帰る必要をツノレ

ゲーネフに熱っぽく説いたものであった。

* 併発

ツルゲーネフはベルリンからも,またまる一年にわたるロンア滞在期間中にも,ゲノレツ

ェンにあてて一通の手紙も書いていなし、。そしてこの時の伎は,めずらしく長期間を領地

ですごすことになった。 1858年 6月末から 11月中旬までの期間と,翌 1859年の 4丹はじ

めから約 1ヶ月の,のべ半年間にわたってツルゲーネフはスパースコエの持ち村で「農民

との諸関係の謂節」のに当った。この年 8月 11司ヴィアノレド夫人へあてた手紙の中で彼

は,秋からは自分の農奴に土地の半分を譲り,年貢(オブローク〉を支払うように改め,

自分の土地は農夫をやとって耕やさせることになろうと述べている530

スパースコエに着いた翌日,設はオリョーノレまで行って県の農奴解放準備委員会の選挙

に立会うことをのぞんだが,選挙はすでに終っていた。現地で、見た農奴解放の事業はツル

ゲーネフの自にも容易ならぬものにうつった。もっとも反動的な人間が委員に選ばれただ

けでなく,政野の任命する委員が委員会に加っているとしづ事実がまずはじめにこのこと

を痛感させたからである。「まったく奇妙な時代にわれわれは生きているものだ!… Qui

vi vra verra. (時がたてば、わかるだろう。)Jのとこの時彼は友人チェノレカースキーへ書き送

っている。

さらにこのような政府の改革事業への不信は, [J鐘』におし、てより強くあらわれるよう

になる。 8月 15日討の第 21号は Fもはや農民解放はない/Jlというセンセーショナルな

題の下に,ゲノレツェンとオガリョーフによって, ロストーフツェフを長くする農民問題中

央委員会の改革案を皇帝が認可されぬよう要請しているのである。この改革案によれば,

ヴォーロスチの長は貴族によって貴族から選出されることになるが. 1"地主が長官として

残れば,農奴身分が廃止されないJ7) ことはあきらかだからである。

1) Typr‘eHeB, OHcbMa, III, 219-220 2τypreHeB H Kpyr <<coBpeMeHHHKa>>, M-凡 1930,CTp. 346

3) 1857年 12月 20B付の手紙。 Cf.Granjard,op. cit叶 p.275

4) TypreHeB, OHcbMa, III, 230 (1858年 8月 11日付ポリーヌ・ヴイアルド夫人への手紙。〉

5)τaM Ae.

6) TaM Ae, CTp. 227 (1857年 7月 21日付の手紙。〉

7) KOJlOKOJl, BblIすCK,1, CTp. 169.

42

E u 晶 a畠~... <11也.-幽圃.値...., , ..

Page 44: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つ の 論争

ところでツルゲーネフはこのスパースコエ滞在中も,他方ではシギ撃ちの大旅行をした

り1) 夏中長編小説《貴族の巣》の執筆もしたりしているの。そして 11月にはそスクワに

戻り,冬の間をずっとベテルプノレグですごした330 しかし翌 1859年の二月末には「陛下の

命j によってポーランド語の新聞 <<Slowo>>が発禁となり,編集者イオサファト・オグル

イスコがベトロパヴロフスク要塞監獄に監禁される事件が起った。この新開く遇二回発行)

はもともとリベラノレで、妥協的な性格のもので怠ったといわれるが, 2丹21日の紙上にポー

ランドの亡命政治家イアヒム・レレーヴェルの編集者オグノレイスコとベテノレブ、ノレグ大学教

授アントン・チャイコフスキーあての書簡を掲載し,且つこれに同情的な言葉を編集部が

付けたことが当局の怒りを招いたのであるの。

前にツノレゲーネフがゲルツェンへの手紙で予告した政府の反動化は一つ一つ事実となっ

てあらわれた。

彼はただちにこの事件に関し, 3丹 17日に皇帝アレクサンード、ノレ二世へ書簡を送った

が,これは 7年前のゴーゴリ追悼事件で首都を追放された時に未だ皇太子で、あった皇者へ

さし出した手紙につづく二度呂のものであって,この中には当時のツノレゲーネフの皇寺に

対する態度や,改革の事業への期待がよくあらわれている。

「至仁なる国父陛下!

陛下にお手紙をさしあげる前に私は数ヨ間龍蕗致しました。かかる行為が非難すべき

ものかも知れなし、ことは私とてもよく承知しておりますが,ロシア人として,陛下の臣民

として,またかつて陛下の暖き庇護を蒙り.恩恵を記官、している者と致しまして陛下に御

説明申し上げますことは聖なる義務と考えるに至った次第で、あります。私は告らの意図が

完全に清廉潔白であることを確言いたしておワますが,もし私の表現に不適当なる醤所が

ございましたら陛下のご寛恕を乞うものであります。

私が睦下に対して抱いている感情は説明の要もありません。私は他のすべてのロシア人

とかかる感情を共にしております。農民解放の大事業に賢明にも着手され,これを毅然と

して遂行されておられる君主一ーすでにこのことのみをもってしても後の世の称讃と臣下

の愛とは永久にゆるぎないものとなったのであります。しかし乍ら,陛下のご名誉がなによ

りも輝くべき臣下の者の中に,政宥の行動一一ーロシアにとって幸せにもこれまでに陛下の

欝伐を記念してまいりましたかの精神を認めえない者のおりますことを陛下のお耳に入れ

るということを,私の長心は命ずるのであります。罪なき者が監禁されるということ一ー

もしそれが法の字句,本質の前でなしに行われ,二つの民族の合体と和合というもっぱら

理にかなった独告の昌的をもっ雑誌が発禁されておりますということは,一一ーこれら同種

のやり方はすべて珪下に忠実なる者を悲しませ,生まれた信頼を取り徐き,いまだ不幸に

もわが国民の岳覚においては弱き法の精神をゆるがせ,権力が自らの支柱と期持する国家

と個人の利益の最終的融合の時期を廷期せしめたのであります。陛下,過去四年間におき

1) Typr‘eHeB, OHcbMa, III, 230-231. 2) TaM )l{e, CTp. 230, 236.

3) TaM )l{e, CTp. 655.

4) TaM )l{e, CTp. 648-649.

43

Page 45: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 m 継男

まして,世論がかくも一致して政府の擁策に震対を表現したことは未だかつてありません

でした。先見の明ある政府がどれほどかかる表現に注意すべきか。またこの事実を陛下の

ご考震に供すべきか否かを勝手にきめることは許されないのであります。

弘独な声たりとも玉座に達するこの幸せな時代とは言いながら,本は自分の孤独な声が

何の意味も持たぬことは承知し、たしております。しかし私は自分が一般の人びとの共通の

確信を述べているのだと考える疑いえぬ根拠を有するものであります。これらの人びとは

陛下からごらんになられて巴ご不審を持たれるかも知れませんが,陛下を信ずることは誰よ

りも屈く,ひたすら陛下ひとりにその期待をおかけしているのであります。彼らの自に

は,ロシアの安寧と発展とは政府の成功と結びついているので島り,そのためにはあらゆ

る犠牲もいとわぬ覚悟が出来ているのでありますc 願わくは陛下,われらが祖国のいと美

しく光栄ある未来への確信を,すべてのロシア人の胸にあって陛下への期待を支えている

この確信を,ひきつづき抱かれんことを。

至仁なる国父陛下!

陛下の忠実なる僕

イワン・ツノレゲーネフJO

ここに見られるアレクサーンドル二世への期待は,調子こそはるかにへりくやだっている

が,先に見た『鐘』の呼びかけと本質的に同一である。この時期にはまだツルゲーネフ

も,ゲソレツェンも,ともに新帝へ改革事業遂行ののぞみをかけ,それを祖止せんとする政

府部内の高官や反動的貴族層に警戒と怒りを抱いていたということができる。皇帝はあく

まで農奴を解放せんとしているが,皇帝をとりまく反動達がその足をひっぱっているから

には,何よりも彼らのなしている事実を珪下に告げ,彼らを改革の事業から追放しなけれ

ばならないというのが二人に共通の考えであった。そしてその場合ツルゲーネフにあって

は,世論を形成している教養ある階級と政府との連携が一番重要であって,もしこの連携

が失敗するならば改革の事業も必ずや挫折するに違いないとの確信が胸中にあった。日頃

の言動から見て,きわめて慎重で国内の事情にも通じていた彼が,この時期に皇帝へあて

て室接手紙を書いた事実は,まさに以上の如き確詰にもとづくものと考えてよいで三うろ

う。しかし彼やゲノレツェンよりも一堂代若いよりラジカルな額向の若者たちにしてみれ

ば,このような期待は甚だ甘い,現実の何たるかを知らぬ貴族の夢と思われたのである。

後らのツノレゲーネフやゲノレツェンに対する一一ーさらにひろくは 40年代の貴族千ンテリゲ

ンツィア全体に向けられた一一手きびしい批判は,早くもこの項からジャーナリズムの世

界に登場するようになる。

1858年 10月 1日付の『鐘』の第 25号には,円、まだにアレクサーンドノレを告す、ること

は空しいことである」めというベテルプルグからの「編集者への手紙j が掲載された。

「アレクサー γ ド、ノレがどれほど迷いこんでしまったか見てみよ! 彼は自らの忠実なる

臣下にどれほどの圧迫を加えんとしていることか! もしも人民が完全な自由ではなく,

1) TaM )Ke, CTp. 397-398. 2)瓦OJlOKOJl, BhInycK t CTp. 201.

44

Page 46: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

半分の自由を与えられるとき,これに対して反抗しないだろうかは。と手紙の筆者ははげ

しい意見を述べているつ

これに対してチチェーリンは 12月 1日討の『鐘』の第 29号に反論を寄せ「ロシアの思

考する人の大部分J2)の名において『鐘』がロシアにおいて f力」でもあり「権威J3)でも

あるこの時に, I自分ののぞみを実現するために葎と斧を取ることを呼びかける」のは,

あたかも「しずかにじっと療養していなLすればならない病人が,激しい発作にかられて吉

分の蕩を突っついて喪主せる」めにも等しい愚かなことであると警告した。彼に言わせれ

ば、農奴解放の事業は未だ諸についたにすぎず, 政府が結論に達する前に, r決定的なこ

とを言うことえできなし、。」何世紀にもわたって続いてきた制度や諸関係が,わずかに二・

三ヶ月で一挙に変ると考えるのは誤りであり, I時が必要」であり「忍耐が必要」なので

ある汽も LIJ鐘』が f穏鍵で,慎重で,理性的な論議」をするなら「政府の信頼j も得

られるのに,これで、は政府を「恐れさせるだけ」である。そしてこれを喜んで「これこそ

岳由主義的額向の末路なのだ」と手を叩くのはひとり反動だけであるとしてチチェーリン

はくりかえし「忍耐」と「槙重」とを F鐘j]vこ要求する。

なぜ、なら政治活動として必要なことは「単に自的だけではなく手段をも考雇に入れるjの

ことだからである。「どのような手段によって百的に到達するのか一一愚かなる流血の道

で、か,平和で市民的なやり方でか」ということを F鐘』は「第二義的Jvこしか考えていな

L 、。しかもロシアの若者は円、まだ内的な嵐を湛え忍ぶ習賓がなし、」のでロシアにおいて

は[→ほかのどこよりも致治的プロパガンダは有害J7) なのである。 Lか Lロシア「社会は

自由の権利を理性的な岳制によって買いとらねばならぬ。J

このようにしてチチヱーリンはゲルツェンに対してふたたび「アレグサーンドノレ二世に

対し協力するよう呼びかけるJb)ことを求めたのである。これが『鐘Jの誌上その後数回に

わたって行われた例の「起訴状」論争のきっかけとなったのは前に触れた通りで怠る 930

かくしてゲノレツェンはひとりロシア宮内の反動のみならず,チチェーリンに代表きれる西

欧的市民秩序の確立をめざして政府との協力において平和裡に上からの改革を押し進めん

とする自由主義陣営からも批判の対象とされるようになるのであるの

* * *

ところでツルゲーネフ段先のアレクサーンドル二世への手紙を書いた一年前の 1858年

1) TaM >Ke, CTp. 202. 2) TaM >Ke, CTp. 236. 3)τaM >Ke, CTp. 237. 4) TaM >Ke, CTp. 238. (但Lこの頁ftは誤って 138になっている。〉

5) TaM泌 e.6) TaM >Ke, CTp. 237. 7) TaM >Ke, CTp. 238. 8) TaM >Ke, CTp. 239. 9)チチェーリ γの見解を支持する見解は F鐘』の第 32-33号(1859年 1月 1日)に,これを反駁す

るゲルツェンの意見に共惑を寄せる読者の手紙は第 32-33号,第 39号 (1859年 4月 1B),第 40-41号(1859年 4月 15日)に掲載された。 これを見ると, ロシアの世論もまた二分されていた

こと !J;才ヲカミる。 CM.Ba3HJIeBa, YKa3. COq., CTp. 124

4ラ

Page 47: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

可V

外 JII 継男

1月にチェノレヌイシェフスキーの編集する f同時代人』誌上に作品《アーシヤ》を発表し

たが,これは同年 4月 fアテナイ』誌上チェノレヌイシェフスキーによって《ランデブーに

おけるロシア入》と題する一文において癌烈に批判されるところとなった。チェルヌイシ

ヱフスキーに言わせればこの「純粋に詩的で観念的なJ作品における暖味で弱し、性格の主

人公がなした「裕悪さはわれわれの社会のいわゆる上品な人びととか最上の人びとのきわ

めて多くがなすかも知れないものであって,これは多分われわれの社会に深く根ざした流

行病の徴候にほかならないり1)彼の目から見れば,このような人聞は, I何ひとつ偉大なも

の,生き生きとしたものを理解することに慣れていなし、。なぜなら彼の生活があまりにも

卑小で、魂の抜けたものであり,彼が慣れ親しんできたあらゆる関係や仕事がこれまた卑/ト

で魂の抜けたものだったjからである230 このような主人公が「あたかもわれわれの社会

の何か貢献者とか,われわれの文明の代表者,われわれの最上の人j であるかのように考

えることは,まさに「くだらぬ夢想jでしかない九 ロシア社会のさし追った構況の中で、

考えるならば,かかる主人公を措くよりも,もっとなすべきことがほかにあろう。もっと

現実の要求に直接にこたえるような仕事をなすべきではないか。しかし実状はどうだろう

か。この点で「われわれののぞみとは反対に,現状を理解し健全なる思想に沿って行動し

てもらいたいと思っている人びとの明敏さと精力に対するわれわれの期待は日毎よわくな

っていっている。少なくともこれらの人びとが分別ある忠告は開いたことがないとか,自

分たちの状態について説明をうけたことはないということだけは,言わせないようにすべ

きだ。jめという言葉の中に彼の苛立ちが見てとれるc

この《アーシャ》につづいて前述の《貴族の巣》が 1859年 1月『詞時代人』に発表され

るや,今度はチヱノレヌイシェフスキーのみならずドプロリューポフもはげしい批判を展開

することになる 530 これら 60年代のラジカルな若者たちとツルゲーネフとの関係について

は,単に美学理論やイデオロギー的椙異にとどまらず,人間の生き方,価値観をも含めた

いろいろな問題が,当時の社会の現実との関係であらためて論ぜられるべきであろうの。さ

らにまた後らとゲ、ノレツェンとの関係についても, Iはじめにj 述べた如く, それ自体独立

したテーマで扱われるべきであるが, さし当ってここでは, 1859年 6月末のチエルヌイ

シェフスキーのロンドン訪問について,ツノレゲ{ネフが少なからぬ関心を抱いていたとい

うことだけは指橋しておかねばならなし、。周知のようにこの時のチエルヌイシェフスキー

の呂的は, !l鐘』の第 44号 (1859年 6月 1B)にゲノレツェンが <<verydangerous!!!>> と

題する一文を発表して『同時代人』誌の傾向,とくにドブロジューボフの論文《オブロー

。H.r. 4epHbI出eBCKHH,口OJIHOeC06paHHe co弓HHeHI至急 , T. V, M. 1950, CTp. 166.

2) TaM抵 e,CTp. 167. 3) TaM嵐広 CTp.171-172.

4) TaM >Ke, CTp・172.5) H. Granjard, Turguenev et Cernysevskij dsns les tmnees 60's. Notes prises tlU cours de lit・

terature russse. revues et corrigeesμr M. le professeur Granjard, editeesρ'ar le grouρe des

etudifl'nts en russe, Paris, 1958, pp. 17 et suiv. め 1970年 7月の「スラプ研究施設」の研究報告会において,この問題をめぐって出かず子氏が報告さ

れひきつづいて討論が行なわれた。この点についての出氏の論文が期待される。医みにこのことにつ

いてのヴェントーリーの記述も十分ではないように思われる。 Cf.F. Venturi, Rωts of Revolution,

N.Y., 1960, p. 157.

46

4 【・F

d .<'

Page 48: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの 論争

モフ主義とは何か》を批判したことに関して,ゲノレツェンの誤解をとき正確な情報を提供

することによって両者の一致点を見出さんとすることにあった九 このチェルヌイシェフ

スキーのロンドン訪問について,ヅルゲーネフは 9月 16f1付の手紙でつぎのように間L、

ただ Lている。

「明日ぼくはロシアに帰る…・一君に手紙を書いたのは,じつはチヱルヌイシェフスキー

が君を訪れたということが本当なのかどうか,彼の訪問の目的が何であったのか,また伎

が君の気に入ったかどうかききたかったからだoJ2)

しかしゲ〉レツェンはこのことについてツルゲーネフに何も返事しなかった。ロシアに帰

る設の代ちに,パヲにいる二人のロシア人にあてて事の詳細を書き送るようにというツル

ゲーネフの依頼もかなえられなかった。ゲルツェンにしてみれば,きわめて政治的な徴妙

な問題を単に好奇心を持った第三者に書き送ることがためらわれたので、あろう九いずれ

にせよこの手紙の冒頭で言っているように.この夏を例年通り屋外ですごしたツルゲーネ

フは. 6月のはじめ一週間ほどロンドンに滞在して「毎日のようにJ4) ゲルツヱンに会っ

たあと,パリで二ヶ月を送って 9月末にはまたロシアに帰つため。

前の年に自分の持ち村でオブロークへの「切りかえJを行った彼は,この年も 9月末か

ら12月はじめまでをスパースコエですごし, 前年にひきつづいてバールシチナをオブロ

ーグへ変更する仕事をしている。

しかしここで注意しなければならないのは,彼の定めた小作料が決して農民にとってあ

りがたいほどの少額ではなかったという事実であるc ツルゲーネフの定めた「ーデシャチ

ーナ当り銀三ループリ jめと Lづ額は, この手紙を受け取ったアーンネンコフが減額をす

すめているように,標準よりも 2倍近くも高いものだったのである 7〉C

ところで当時のツルゲーネフの農民観は,スラヴ主義者イヴァン・アクサーコフにあて

たつぎの手紙の中にもっともよく見てとれる。 この年 11月 3日付の手紙の中で彼はつぎ

のように書いているの

「…...農民とはほとんど至る所で願謁にお互いの境界をはっきりさせま Lた。(もち論

。チェルヌイジヱフスキーのロンドン訪問に関しては,コジミーンとネーチキナとの間に有名な論争

がある。 D.n. K03bMlfH, noe3瓦KaH. f. 4epHbI凶eBCKoroB JIOH江OHB 1859 r. lf ero nepero・

BOpbl C A.日.fepueHoM. <<1-13BecTbH A.日.CCCP, OTぇeJIeHlfeJIHTepaTypbl H兄3blKa))1953, Bbm. 2.ネーチキナの反論は TaM )Ke, 1954, Bbln. 1.さらにこれに対するコジミーンの回答は

TaM )Ke, 1955, B1部. 2. 最 近 の研究については T.日.YcaKlfHa,“CTaTb匁 fepueHa<<Very

dangerous !!!>> lf nOJIeMHKa BOKpyr 06JIH可lfTeJIbHO負 JIHTepaTypblB )KypHaJIHCTlfKe 1857-1859

rr." PeBOJI回日現OHHa匁 cHTyau郎 BPOCClflf B 1859-1861 rr. M. 1960今 CTp.246-270所i民参照。

2) TypI‘eHeB,口HCbMa,III, 340.

:め CM.TaM )Ke, CTp. 62か621.

4) TaM )Ke, CTp・303(1859年 6丹 21n付マルコーウ、イヅチへの千紙入

5) TaM )Ke, CTp. 655.

6) TaM )Ke, CT予.359 0859年 11月 4A付アーンネンコフへの手紙〉。

7) TaM )Ke, CTp. 627.

47

Page 49: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 魅男

昔の土地の分は残したままです。〉復らを移住させました〈養成をえた上で〉。そしてこの

冬から彼らはすべてーデシャチーナにつき銀三ノレーブりのオプロークになります。私はあ

えて申しますが,彼らには新しい秩序が大いに不溝なのです。しかし吉い秩序1)に立ち返

えることができないということは彼らにもわかっています。農民は《領主》と)]Ijれる吉tr

に,わが国でいうところのコサックになってしまって,手当り次第領主の所から引き抜い

て行きます一一一穀物も木材も家畜などもです。私にはこのことが完全に理解できますが,

最初私たちの所でも材木が消えてしまいました。それをいまでは誰でもが気遣いのように

売っている往末です…・いわれわれの所にはしらふの者はし、ません。ひどい辞つばらいの住

みかになってしまいました。上からの指示が与えられぬ限り,ーデシャチーナとか農奴一

人あたりとかし、うのではなく,土地の小作料の上に坐りこんでいる農民はこのようになり

ましょう。ミールについて,オープシチナについて, ミーノレの貢任割についてはこの前近

では誰一人耳を額けたがりません。怠はこれが行政的,財政的手段の形で農民の上に課せ

られるべきだとほとんど確信していますが,彼らは勿論賛成しなL、でしょう。ということ

は,彼ら辻法律的見地からもしこういうことができるなら自主裁判制め (C3MOCy)lCTBO)と

してのみミールを評価しているからで,決してそれ以外ではないからです。J3)

ここには,畠分が親しく経験した事実がそのまま語られている。ツルゲーネフにしてみ

れば,二年の領地での改革の経験から,農畏がそれを利己的に利用していること,単に斌

役から小{乍苦手j震への「切りかえ」ひとつ取ってみても,農員岳身の-muに大きな問題が あ

り. ミーノレの問題もスラヴ主義やゲノレツェンが理想化したり,また政府が行政的に利用し

ようと思っているのはかけ離れた実状があることを指摘したかったので、あろう。おそらく

彼の本音は,ロシアの農民については《猟人日記》の作者であり,実際に現実酉で農民と

接触して多少なりとも改革をやった自分が誰よりもよく知っているということにあったの

であろう。そしてこのような気持は,遠くロシアを離れて現実の動きから十年余も遠去か

っていたゲソレツェンに対して,後年の論争に捺してより明瞭な形で示されるのである。

* 長持

翌 1860年の春,ツルゲーネフはまたも国外に出てまる一年をロシアから離れてすごし

た。 8月のはじめにはロンドンに 4Bほど滞在したあと, 9月までの約 20日間をワイト島

のヴヱントナー (Ventnor) で、送ったが,この有名な避暑地にはロシア人も少なくなかっ

た4hここでツルゲーネフは小説《父と子》の構想にとりかかったが53,同時にロシアに初

等教育を普及させるための協会の創設の計画もしているの。彼はこの案を友人たるアーン

。強調はいずれも原文。

2)強調はいずれも原文。

3) TaM )Ke. CTp. 357-358.

4) TypI‘eHeB, nHCbMa, IV, 116 (1860年8丹 18日付ラムベノレト夫人あての手紙〉。5) TaM双 e.

6) TaM )Ke, CTp. 120 (1860年8月 31!3付アーンネ γコフへの手紙。)CM. TaM )Ke, CTp・496-497

48

.-. 毛

Page 50: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

ネンコフをはじめ,クルーゼや H.兄ロストーフツェフ1)らの協力を得て作製し2Lベ テ

ノレブ、ノレグやモスクワの知識人に検討してもらうことを計画したが。,その内容はつぎの如

きものであった。

今日ロシアにおける読み書き,初等教育の必要はすべての人が痛感しているとこるであ

って,政府もまた軍隊における読み書きの普及を配車、し,億人でも日曜学校や都市・農村

に学校を設立したり,人民のために安価な本を出版するなどしている。これらの努力は貴

い,共感を呼ぶものではあるが,それぞれがぽらぽらで旦つまた十分保証もされていな

L 、。今やこれらの倍々の努力を一つにまとめる時が来ているよう t二思われる。この目的か

ら<<読み書きと初等教育普及のための協会》の設立をここに提案する430

この目的を実現するためには,わが国のあらゆる階層の協力と政府の庇護が強く期待さ

れる。政暦が解放する人々を教育することは,政府を助けその事業を継続することであっ

て,われわれは彼らをもう一つの奴隷観一一郎ち無教青から解放せんとするものである O

われわれは国民の教育をめざすものではない。それはこの協会の手に余るものであって,

協会のなさんとするところは, もつばら基礎的な初等教育一一一読み書きと,神の提,初等

算数とごく初歩の歴史・地理の普及に限られる。このために協会はその自的として次の五

項巨を行う。

a) 学校の設立

b) 学校を設立せんとする者への鵠助

c) 廉儲な教科書,指導要織の出版

の 協会の機関紙として《月報》の出版

e) 読書室の設立5)

ここで学ぶ者は初等教育に限るが故に.協会の出版物は

心 部数が多く,廉倍で,誰でも,どこでも入手出来なければならなし、。

b) 内容はそれにふさわしいものたるべきで, I人民に対してはまじめに, 誠実に, 完

全な尊敬をもって接Lなければならぬ。j

c) 教科の内容はアルファベット.習字.法律.義務についての初歩的記述,算数,地

理,自然科学,技術,農学.畜産,広い意味での経営昔、

疑いもなく政府はわれわれの目的に共感を示すであろう。農民解放に関する内務大臣の

貴族への言11示にも,私立学校の創設の必要性が卒直に述べられているではないか。

必要な資金は会員の毎年の払込金と寄F討をもってあてる。〈会費は年銀三ループリを考

えている。〉会員は農民をも含めあらゆる身分のものを勧誘するのまた望むならば農村共

同体も会員たりうる。もしあらゆる階級の女性が会員たることに同意するなら,協会にと

1) これは解放令編纂委員会の長たるヤーコブ・ロストーフツエブの息子でこの持ワイト島にいた。

CM. TaM me, CTp. 116. 2)前半はツルゲーネフが書き,後半はアーンネンコフが書いた。 CM.TypI‘eHeB, Co可HHeHH克.XV,425. 3) TypreHeB, nHCbMa, IV, 121, 497. 4) TypreHeB, Co可賢HeHH完, XV, 245. 5) Ta九me,CTp. 246-247.

6) TaM me, CTp. 248.

49

Page 51: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト 111 継男

ってとくに喜ばしいことである。

さし当って 80人ほどの会員が集まれば協会の開設は可能であろう。会員の中から中央

委員会のメンバーを総会の同意を得て決める。中央委員会はベテノレブ、ノレグに量かれる。総

会は年に一変,協会創立自に関かれる。

以上の案についてご意見をお持ちの方は,パリのツルゲーネフかベテノレフソレグのアーン

ネンコフにお寄せ下さると有難い九

ツルゲーネフの草稿には,この案を送る人のリストが書かれてあったが,その中にはカ

ヴェーリン,チェルヌイシェフスキー,コヴァレーフスキー,ガラーホフ,クラエーフス

キー〈以上ベテルブルグ),アクサーコフ,カトコーフ, バブスト,ケッチェノレ, ホミヤ

コーフ〈以上モスクワ〉らの名が見られるの。そして事実彼法これを以上の人々のほか,ゲ

ノレツェンとオガリョーフにも送っているめ。

チェノレヌイシェフスキーはこの計画に慎重な態度をとったが4〉, ドプロリューボフの方

は F呼子』の 1860年 6月号で茂肉な扱いをしている。彼はこの案をリベラリズムの中途

半端な性格のものと受け取ったので、あった530他方ゲソレツェンの方は,ツルゲーネフからぜ

ひ意見を関かせてほしいと頼まれているのにめ, 何も言っていなし、。おそらく{乍家の一時

の気まぐれとして重視しなかったのであろう。その証拠に彼は二年後につぎのように皮肉

な調子でツルゲーネフに書いているのである。

「ぼくは君をかつて一度も政治的人間と考えなかったし,今も考えていない。たとえ君

がワイト島でロビンソン・クルーソ_7)と共にアルファベットについて語ったにしても

だ。J8)

おそらくゲルツェンの言う通りであろう。しかしこの時期のツルゲーネフは,一人のロ

シア人として,一人の市民として多分生涯のいかなる時期よりも社会への貢献をまじめに

考えていたに違いなし、。このことは今みた計画からも,また以下に見るアレクサーンドル

二世への手紙からもはっきり言うことができる。しかし 80人ばかりの会員を集めて,年額

三ループりばかりの会費で学校を建てたり,教科書を発行したりできると考えていたとす

れば,まさに「ドン・キホーテJ的と言わねばならぬ。事実はツルゲーネフもこの計画を

一部の友人に配布はしたものの,実擦に印崩することはなかったし,計画だけに終って実

現はされなかった。以下に見る皇帝への手紙も下書きだけ書いてやめている。やはり彼の

中の「ハムレットJが計画の実行を思いとどまらせたので三うろう o さらに付け加えるなら

。TaM>Ke, CTp. 249-252. 2) TaM >Ke, CTp. 425. 3) TaM >Ke, CTp. 426.

4)可epHbI臨eBCK班員, YKaa.CO可咋 T.XIV, CTp. 409. (1部O年 9Jj 24日ドブロリューボプあての手紙)。5) CM. TypreHeB, COl認 HeHHH,X V, 426.

6) TypI‘eHeB, nHCbMa, IV, 128く1860年 9月 18日付の手紙〉。7)前十こ出てきたグルーゼの名をもじっている。

8) repueH, XXVII, 261 (1862年 11月 1自付の手紙。〉

ラG

Page 52: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

ば, rその前夜」のロシア社会の現実法,このような計画を真剣に問題にするほど怒長な

ものではなかったとも言うことができょう。

ワイト島を 9月 1Bに発ったツノレゲーネフは 9月 2日から 5[::1までロンドンに滞在し

た。しかしこの時にはゲルツェンにもオガリョーブにも会わずにノミりに培ってしまってし、

る130

その後彼は翌 1861年の 5月誌じめまで,パリと近郊のクールタヴネルですごしたが,こ

の期間に書いたアレクサーンドル二世への請願文の草稿がフランスのスラヴ学の泰三,アン

ドレ・マゾンによって発見され,パリの国立図書館に保存されていたのが,最近の全集に

はじめて公刊されたので,これを換討することにするっこの草案法訂正や書込みの多いほ

んの下書きであってお, 皇帝に送られることはついになかったが3) この時期のツルゲー

ネフの考えが何よりもよく出ているのと,後に克るようにゲ‘ノレツェンとも少なからぬ関係

があるので翻訳の形で紹介するの

i至仁なる国父謹下!

われわれの莫撃なる確告を藍下の御前に提出するに当り.あるL、は陛下が調不審を抱か

れるのではないかとの危填を禁じえません。現下の混沌たる時代にあっては,この上なく正

しい言葉も力を失い,最も清廉なる意図も疑惑を招いておりますのしかしわれわれは謹下

が私どもの言葉を開き入れられ,われわれの章、国を知り給わんことを望むものであります。

われわれは謹下を告頼し,政府の更迭を考えぬのみか,権力に懇穎せんとする人びとに

属します。

この権力が農民を解放しましたことをわれわれは志れませんでしたし,全ロシアもわれ

われと共に忘れることはないでありましょう L

控下,われわれは控下を信ずるものであります。しかし,われわれはわが祖国の理性的な

自由と,われわれの正しき良き発達をも望んでおります。われわれは誠実且つ卒重に玉産

に近づき,われわれのツアーりが世論に耳を傾けられ.その人民の希望に注意、を払われん

ことを顕うものでありますの

これらの希望の正当性を証明することは致しません。またすで、に政府によってその幾っ

かが認められた宅かくも多くの改良について言及することもいたしますま L、巨下祖国に

とって,あたかも呼吸のために空気が必要なるごとく.さし追って必要なることを控下の

前に申し上げます。これこそわれわれの祖国に対する愛と陛下への信販が命ずるところで

あります。

われわれは懇願いたします。

1) 捧刑の完全な廃立

2) 裁判の公開

3) 政府の収支の毎年の報告とその検査への参加

4) 県会 (ry6epHcKHeC06paHH的の活動範囲の拡大

1) TypreHeB,日夜CbMa,IV, 128 (1860年 9月 18日付ゲルツエンあての手紙〉。

2) TaM iKe, 393頁の写真参照。

3) TaM iKe, CTp. 651

51

Page 53: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外川継男

兵卒の勤務年限の短縮

5) 分離派の抱の臣下との平等化。

控下! あるL、はかかる言葉は犯罪でもあり愚かでもあると壁下に申すものがあるか

も知れませんのわれわれの懇願を要求と呼び¥かかる要求をなすこと誌菌を暴力的な変革

の道へ導くものであるとさらに付け加えるものがあるかも知れませんO しかしかくの如く

申すものをお信じにならぬよう,われわれは陸下に懇願いたします。われわれは反対に,

富民の正当なる希望をかなえられることによって,控下が永久にあらゆる破痛の可語性を

掠去され.御身のまわりに社会のあらゆる最良の生き生きとした力をお集めになり,すべ

ての軽卒にして性急なる熱中を根本から断ち切られることになるのだとあえて考えており

ます。謹下,陛下はかつて貴族のあつまりにおいていみじくもこう申されました。《余に

諸君のために立つ可能性を与えよ》と 2)。われわれにも,陛下のすべての臣民にも,われわ

れの指導者としての陛下のために一致して確国として立つ可能性をお与え下さL、。どうか

ロシアの幸せと陛下の権力や皇室の御繁栄とを切り離すような考えはお詳しになりませぬ

ように。控下,自分が十分に権利のある市民とも感ずることなく,非偽善的な臣下ともな

りえない者をお話じになって下さL、。ご吉身の胸に開いてみて下さし、。それはわれわれの

希望がし、かに穏龍で清棄なるものであるか,さらに今の各瞬間虫丸、かに大切なものである

か,陛下が今もってその上に立たれうる,このかつてない致府と人民の団結がし、かに偉大

なものであるかを告げることであちましょう。ロシアは陛下に対L.いまだかっていかな

るツアーヲに対しでも呼びかけなかったような呼びかけをしているのです。監下はすでに

多くのことをロシアになされました。陛下ご自身がお始めになられた道に沿ってさらに前

進して下さL、。われわれは砦陛下のあとにつづいて進むことでありましょう。」め

ここに晃られるツノレゲーネフの意図はきわめてはっきりしている O 農奴解放を岳前にひ

かえてロシアの世論が志と左に大きく分裂し,政府の施策がともすれば左への警戒心と,

右からの圧迫によって挫折してしまうのではないかとの焦操感のあったことは否定すべく

もなし、もしも改革の事業が失敗に終ったら, ロシアは「破局Jの危機にさらされるであ

ろう。いまこそ皇帝はその傑近の反動的意図を断冒として斥け, リベラノレな進歩的知識人

の意見を採用されて当初の意図に蓮進されるよう伏して「懇願jするというのである。

ところでツルゲーネフはこの皇帝への請願を, 1860年秋にゲノレツェンからの紹介状を

持ってパリにやって来たジャーナリストのアルトクール・ベンニめに示しベンニは 1861

年初夏にこれをロシアへ持って行った530

このツルゲーネフの皇膏への請願文は,その後 20年たってラーヴロブによって誤って

めこのあと 6)3.出肢を一般法の下におくこと。 6.法に則ること o B.検毘の廃止というのがあって,

捕されている。

めこれ は者名な 1856年 3月 30Sのモスクワの貴族への演説をさす。

3) Typl‘eHeB, nHCbM3, IV, 393-395. 4)ベンニは 1857年にポーランドからロンドンに来て,英国国籍を得た。 CfepueH,XXVII, 674)。

ジャーナリストとしては <<PYCCKl品目HB3JlH.n>>や <<CeBepH3冗 TIqeJI3>>に参加し,またゲルツエ

ンの文書をロシア国内に配布した。 CTy予reHeB,nHCbM3, IV, 665)。5)τypreHeB.日夜CbM3,IV, 650.

52

一一一一一一 一ープ「マーマ「寸「タ川町 y

Page 54: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

ツノレゲーネフの f憲法草案」として紹介されたものであるが1) ベンニ自身はツノレゲーネ

フの名を出さずにこれをロシア各層の名士に見せて賛成の署名を得んとしたが成功しなか

った230 それのみか当局の嫌疑すらも招いてしまった汽この年の 8月 (露歴〉 スパース

コエにツノレゲーネフをたずねたベンニは,彼の賛成を得た上で、ツノレゲーネフの名は出さず

にこの請願文の内容をロンドンのゲ、ノレツェンに手紙で知らせたが,これは二ヶ月もかかっ

て 11月にようやく毘いているの。 このように遅れた理由はツルゲーネフ邑身がこれをロ

シアからパリに持ち帰った上で司ゲ〉レツェンに送ったためで、ある 530 したがってゲルツェン

はこれがツノレゲーネフの手になるものと法知らずにつぎのようにベンニに書き送ってい

る。

|君の手紙はごらんの如く二ヶ月もおくれてようやく昨日届きましたの一..一君の提案さ

れる請願は今日の反動の時期には若をも多くの人をも破滅させることになるかも知れませ

ん。君が書いている請願は穏健なものですし, (重要な問題一一農民の土地の巽戻し一ー

については触れていませんが〉多分悪くないものでしょう。しかし首尾よく何事かをやり

とげるということはとてもできますま L、在自身手紙の中で弱点について触れていますの

このような企画は土着の人間だけがうまくやりとげることができるので,君はあまりにも

ロシアの環境を知らなすぎますのもし若の請願の思想、が社会の要求にかなっているもので

あるなら, うまくゆくでしょうち君は多分何もしないでL北、のですn しっかりした思想を

持つだけでは不十分です。いつでも用意された手段をはっきり知っていなければなりませ

んO 若は『鐘3の配布の成功と請願の国難について語っています巧君がロシア人の間に真

の市民権を獲得しロシアの生活のあらゆる(……5りを本当に知るまでは, 君にとって

やjが出来,何が出来なL、カミはあきらかです。藷願について言えば,誌はこれがわれわれの

意思と一致しているように感じさせようとしています。多分君は『鐘Jをほとんど読んで

いない人たちと話したのでしょうちきっと彼らはわれわれが賛成することはできないと卒

直に言ったかも知れませんわしたがって.われわれはこのような請願に対してはドルコソレ

ーコフの語願を邪魔しないのと同じようにきs魔しない7) ことができるだけです・・一一」め

ゲノレツェンの目から見たらこの英国国籍の一人の外国人の書いた請願文は,とりたてて

邪魔しないというだけの毒にも薬にもならないものと思われたので、あるの。 ロシアの現状

を知らないところから来る甘い期待というこのゲルツェンの批判を,もしツルゲーネフが

1) <<BecTHHK HapOJlHO益 BOJIH>>1884年の中の“11.C. TypreHeB H pa3BHTHe予yccKoroo6ll1.ec-

TBa".

2) TypreHeB nHCbMa, IV, 649-650.

3) repueH, XXVII, 647. 4) TaM )Ke, CTp. 194 (1861年 11月訪日付ベンニあての手紙〉。5) Typr‘eHeB, nHCbMa, IV, 290 (1861年 9丹 25日ゲルツエンあての手紙〉。6) この笛所は原文で欠落している。

7)強調一原文。8) repueH' XXVII, 194 (1861年 11月19日付の手紙〉。9) これに加えて,ゲノレツェンはベンニがロシア政府の第三部と関係があるのではないかとの疑念も抱

いていた。 Typr‘eHeo,nHCbMa, IV, 650.

53

Page 55: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

読んだら苦笑したかもしれなし、。さきにゲルツェンに対して,ロシアから長く離れている

ことによってロシアの実状にうとくなったと批判したツルゲーネフ自身が,今度はまった

く反対に閉じ批判にさらされているのである。しかしこれは現実を知る,知らないという

よりも,農奴解放令前夜の現状をどう認識しているかの相異にもとづくものであろう。

1860年の末から 1861年の初めにかけて, ロシア国内のさまざまなグループがアレクサー

ンドル二世に請願を行ったと言われるがl) ゲノレツェンはもはやこのようなものにはまっ

たく魅力を感じられなくなっていたのである。

ツルゲーネフがパリでこの請頴を書いた頃から,近く解放令が発布されるらしいとの噂

が耳に入るようになってきた。 1860年も暮れのことであった。

IV !l終りと始めJ

ツルゲーネフがゲルツェンに対してロシアにおける農奴解放令がし、よいよ発布されるに

至ったことを告げたのは 1861年 2月下旬のことであった。

「君にまたもっとも確実な形での知らせる。一一解放に関する勅令が近く出される。ほ

かのいかなる噂も信じないように。勅令の主な反対者は誰だと一一君は思う y(ガガーリ

ンは言うまでもない,勿論だが〉ムラヴィヨーフとクニヤジェーヴィッチそれに…… A.

M.ゴルチャコーフ公だ!! 伯父の手紙によると吹雪をともなったひどい寒さが大きな被

害を与えたそうだ。すべての報道が断たれて,家畜も死んだ等々……J3)

しかしゲルツェンの方も内務省の部長であるB.n.ベルツォーフの兄弟である文学者

の 9.口.ベノレツォーフからすでにより詳細な清報を入手しておりめ. 2月 24日付の長男

アレクサーンドルへの手紙で、は,解放令の公布が 3月 4日という日取りまでつたえてい

る530

局知のように農奴解放令は,この年の 3月 3日(露麿 2月 19B)に皇帝アレクサーンド

ル二世の署名をえて,半月後の 3丹 18日に公布された。 ツノレゲーネフはゴロヴニーンな

どから龍もってこのことを知らされており.3月 13自の手紙でゲノレツェンにその事実を知

らせたが炊きらに 3月 26日にはゲルツェンにつぎのように書き送っている。

「親愛なるアレクサーンドル・イワーノヴイヅチ。

1) TaM挺 e,crp. 651.

2)強調ー原文。

3) Typr‘eHeB, nHCbMa, IV, 197 (1861年 2月 22......, 24EI C?)付の手抵。〉なおこれ注目HCbMa K-

瓦M.KaBe.1IHHa H l1B. C. TypreHeBa K A.1I. l1B. fepueHy では 2月 13日 C?)となっている。

CTp. 136. 5) fepueH, XXVII, 638.

5) TaM iKe, CTp. 137.

6) TypI‘eHeB, nHCbMa, IV, 205.

曹三

54

• 竃守、 可。

Page 56: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

偉大なる日の翌日,ということは 3月 6fjに書いたアーンネンコフの手紙の写しを君に

送るC ごらんのように面白いものだ。いままでのところ電報は(印刷されたものも錨人の

ものも)全ロシアが完全な沈黙をもって布告を受け取っていると一様に語っている。布告

白身はあきらかにフランス語で書かれ,誰かドイツ入によって不細工なロシア語に翻訳さ

れたものだ九《患恵的に調整する》とか《良き家父長的諸条件》とかし、う委員の句がある

が,ロシアの百姓は誰一人わかるまし、。しかし事柄自体は理解することだろう。そして問

題は可能な限り,かなり良く行なわれた。

ここにいるわれわれは一昨日教会に析薦に行った。司祭わが短いが,感動的な説教をさ

れ,ぼくはそれに落涙した。ニコライ・イワヌィッチ・ツノレゲーネフめはあやうく声をあ

げて泣くところだったO そこには(デカブリストの〉老ヴォノレコーンスキー公もいた。た

くさんの人が. Lかしその前に教会から出て行ったき」め

ゲゾレツェンはこの手紙を受け取って,オガリョーフと連名でニコライ・ツ/レゲーネフに

f祝賀」を述べるとともに,ヴォノレコーンスキー公にもよろしく伝えてもらうよう頼ん

だわ。 またイワン・ツノレゲーネブに対しでも解放令の全文があったら送ってくれるよう依

頼 L. 同時に, ロンドンで子大祝宴」を開濯し,そこに「すべてのロシア人を招待する」

旨を告げたの6)

『鐘』の 4月1日付第 95号は大見出しで解放令の発布をのせ「アレクサーンドル二註

は多くのことを,実に多くのことをされた。いまや彼の名は彼以前のすべての皇子宮よりも

高く立っている……解放7)の言葉が述べられた!皇帝は認められた。これは壁大な事だ。

しかしすべてではない。言葉は事実とならねばなちぬ。解放が真のものにならねばなら

ぬ。」めとして「第一歩」につづく「第二歩Jを呼びかけた。そしてこの号の末尾には先の

ツルゲーネフへの手紙で予告された祝宴の案内がつぎのように掲載された。

;ーロンドンの自由ロシア出張所と f鐘』の発行者は. 4月10日迄ウエストホーン・テラ

スのオルセット・ハウスにて農民解放の開始を視います。すべてのロシア人は吟, いかな

る党派であれこの撞大な事業に共感する者は,兄弟として迎えられるでありましょう。J10)

1)実はモスクワの府主教フィラレートに記草が委ねられ,可法大臣ノ之ーニンが校訂した。 CM.TaM >KかCTp. 550.

2)パリのロシア大使蕗附属教会司祭ワシーリエフ。

3) ニコライ・ツルゲーネフは従来はこの農奴解放を手離しで歓迎したように記されてきたが,必ずしも

そうではなしまた伎とイワン・ツルゲーネフとの隠にこの頃頻繁な意見の交換のあったことが,最

近の研究で指掃されている。 CM.T. f OJIOBaHOBa,“H. 11. TypreHeB 0 KpecTb兄HCKO負pe中opMe."

<<PYCCKa匁 JbfTe予aTypa>>,1961, No. 4, CTp. 134-142.

4) TypI‘eHeB, nOCbMa, IV, 211. (かっこの中は原文)

5) fepueH, XXVII, 143 (1861年 3月 28日付の手紙)0

6) TaM >Ke. (同日付〉。

7)強調ー原文。

8) KOJIOKOJI, BbmycK, IV, CTp. 797. 9)強調一原文。

10) TaM >Ke, CTp. 804.

55

Page 57: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継 男

しかしこの「祝宴は暗いものJOになってしまった。「ワルシャワで流された新しい血が

「乾杯を不可能にさせてしまったjめからである。

この年2月 25日,ワルシャワにおいて 1831年のグロホフの会戦を記念するデモが行わ

れたが,その折群衆の中に騎馬憲兵が突入して多くの負傷者と逮捕者を出した。この事件

に抗議して 27日にはさらに大規模なデモが行われ,前回よりももっとひどい弾圧に会い,

軍隊の発砲によって五人が殺され,多くの者が傷を負った。 3月 2日にはこの五人の死を

追悼する民衆のデモがまたしても行われ,これにはワルシャワの住民の半数近くが参加し

たといわれる。しかしこの時デモは総督ゴルチャコーフの考えで,軍隊を出動させなかっ

たため整然と行われて,犠牲を出さずにすんだ。しかしアレクサーンドル二世はこの処置

に不満で 3月 5自にはゴルチャコーフあてに「必要とあれば内域から砲撃するj ょう命令

している九四月のはじめになるとポーラ γ ド各地に賦役その他に反対する農民運動が起

こり, 954の村と 16万 3千の農民がこれに加ったとしづ 043

ゲノレツェンの許にこの事件が伝ったのは,まさに農奴解放令を祝う宴の数分前であっ

た530 翌日彼は1i'1861年 4月 10日とワルシャワの殺害』と題する一文を書き, その中で

「ああ,アレクサーンドル・ニコラーエヴィッチ,あなたはまたなんでわれわれから祝宴

を取り上げたのか?なぜあなたはそれを台なしにしたのかrJと訴え. Iポーランドの無

条件,完全な独立j と「ロシアとポーランドの兄弟の団結j を呼び、かけたのであったの。

このポーランド問題をきっかけに,ロシアの世論は次第にナショナリスティックな色彩

を強め,二年後の 1863年の挫起において f鐘』の孤立{とは決定的になるが, その最初の

きざしが早くもここに現われたので、ある。

ゲノレツェンとツノレゲーネフとの関係について言うならば,この時の祝宴のみじめな結果

を知らせた以下の 4月 15日付の手紙に見られるように,オガリョーフに対するツルゲーネ

フの冷たし、態度が加って,ゲノレツェンの手紙にはじめてきびしい調子があらわれるように

なる。

「ぼくが君に書かなかったのは,ロシアの祝宴については何ひとつよいことが言えない

からだ。天気といい,客の数といい,全然未知のロシア人の人数と L北、〈最初はきっと 50

人もいただろう),まったく予期せぬほど素晴らしかったのに,なにもかもがワルシャワの

流血によって台無しになってしまった。すべてが葬式みたいだった……。

。repueH,XV, 65. 2). TaM >Ke.

3) B. r. PeByHeHKoB, nOJIbCKOe BOCCTaHHe 1863 r. H eBpone員CKaSlぇHnJIOMaTHSI,JI. 1957, CTp.

82-83.

4) 11. M. BeJISlBCKa民 A.11. repueH H nOJIbCKOe HaUHOHaJIbHO・OCBOOO瓦HTeJIbHOe .llBH誕 eHHe

6O-x ro瓦OBXIX BeKa, M. 1954, CTp. 28.なお二月事件と農民運動の関係については,板東宏fポ

ーラ γ ド革命史研究L 青木書居, 1968年, 44頁参照。

5) E. H. Carr, The R仰宮anticExites, London, 1949, p. 249.酒井只男訳, Ir浪漫的亡命者支こちj!,

筑摩書穿, 1953年, 243頁。なおツチコーヴア=オガリョーヴァによれば,この報せはワルシャワか

ら殺害の現場写真を受け取ったばかりのトホルジェーフスキーによってもたらされた。 TyllKoBa-

OrapeBa. YKa3. co屯, CTp. 181. 6) KOJIOKOJI, Bl逗nycKIV, 805 (1861年 4月 15日付第 96号〉。

56

.~. Z、会

Page 58: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

ここでぼくはごく内密の1)問題を提出する。というのは君が話さなければこのことにつ

いては誰も知らないし.また今後とも知ることはあるまい。

この前君が訪れたとき,ぼくは君のオガリョーフに対する態度になにか反目があるのに

気がついた。ぼくにとってこれは辛いことだったがぼくは黙っていた。君が人との付き合

いで,気まぐれで,据び了こ点がなくもない示威的ふるまいが好きだということを知ってい

たからだ。君との手紙のやりとりはぼくが正しかったことを証明した。君に是非にとたの

み, クルーゼについて(けちなつまらない男だ)たず、ねたものの,オガリョーフの論文に

関する問題に対しての君の返事はついにもらえなかった。この論文は疑いもなく学校計画

と同じ程注目に値するものだのぼくは黙っていたし,今も黙っていられたらと思う。しか

し君はそちらへ行ってしまったから,どういうことになっているのか是非ともきかなけれ

ばならなL、まさか君ははらみ女の様に賛成ときめて腹をふくらせているのではないだろ

う… ..'J2)

ここでゲルツェンカ礼、っているオガリョーフの論文とは『鐘』の第 89号(1861年 1月

1日)に載った『新年に』と題する署名入りの論文のことで,すでに 1月 5日付の手紙で

ゲノレツェンはツノレゲーネフにこれに対する意見を求めていたのであるが ツルゲーネフは

必ず読んで返事すると言いながらめ, うちすてて返事を書かなかった。

ツチコーヴァ=オガザョーヴァの『思想、Jによれば,すでに 1856年 9月はじめにツルゲ

ーネフがロンドンを訪問した際ゲルツヱンとオガリョーフの前で『ファウスト』を読んだ

時に,これに対しオガリョーフが「きわめてきびしい批評をした」ことから両者の関係が

まずくなってしまったといわれる♂ してみれば両者の反吾はずいぶん根の深い,いわば

最初は信人的なものであったのが,さらにイデオロギー的問題をここに加えて,より面倒

な事態になったと言ってよいであろう O

ところでこの F新年にJと題するオガリョーフの論文は. If'鐘Jlの第 89号全部を埋める

ほどの長文であるがり, その中で伎は,従来の主張たる共同体的土地所有,昌治,体加の

廃止,裁判の公開といった主張のほかに,全住民の選挙によるオープラスチの議会,およ

びここから送られる議員によって構成される国会 (rocyJl.apCTBeHHaSl COlO3Ha兄瓦YMa) の

創設など 21項吾におよぶ要求をかかげて町農奴解放後のロシアの諸改革をかなり詳細に

打ち出したものである。したがってゲルツェンにしてみれば従来の『鐘Jの主張を集約し

たこの論文を一人でも多くの知人に読んで、もらって.支持を得たかったのであろう。それ

がオガリョーフの手になるものとはし、え, ツ/レゲーネフが完全に依頼を裏切ってまったく

返事を書かずに無視したことが黙過できなく思えたに違いなL、。先の手紙のいつになくき

びしい調子がこれを示している。

1)強謂一罪文。

2) fepueH, XXVII, 145-146. 3) TypreHeB, DHcbMa, IV, 177 (1861年 1月9日討の手紙〉。

4) TyQKOBa-OrapeBa, YKa3. CO可., CTp. 288. CM. TypreHeB,口HCbMa,III, 24 (1856年 11月613付ボトキンあての手紙〉。

5) KOJIOKOJI, BblnycK IV, 745-752. 6) TaM me, CTp. 750-751.

ラ7

Page 59: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 '11 継男

L 、ずれにせよツノレゲーネフとオガリヨーフとの間のわだかまりが1) これ以後の『鐘』

の急進化にともないさらに大きくなり,それがゲノレツヱンとツルゲーネフとの関係にも後

に見るように影響を及ぼすようになるのである。

農奴解放令が発布され,その内容が『鐘』の編集者たるゲノレツェ γとオガリョーフにも

届き,立つまたロシア各地域毎の解放に捺しての条件の相違や,これにプロテストする農

民運動の様子が次第に判明するにつれて, [J鐘』の調子は次第にツアーリ政府に対する批

判の色を濃くしていった。 1861年の後半は『鐘iの窟訴点をなすがペ同時にこの頃がも

っともこの小冊子の読まれた時期で、あって,発行部数は 2,500部に達した九 この部数広

f同時代人」誌でさえ, 6,000部以下であったこと, ロシア国内のみならずツアーザ政府

によって菌外でもその販売が禁止されたり妨害されたりしていたことを考えるならば,当

時として異例なほどの大部数であったと言ってよし、。さらに『建』の性格からして,実際

の読者は発行部数の三倍はあったろうとも推測されている九

f鐘』が農奴解放の実状主こ批判を打ち出したのは 1861年 6月 15日の第 101号からであ

るがa) この巻頭の論文に『新しい農奴誕の検討』 と題された,これもオガリョーフの手

になるものであった。この中でオガリョーフは「設婿は真剣に人民の解放を考えてはおら

ず, ツアーリは本質的にはいかなる解放も欲してはいないりの として「一般に農奴制は

廃止されなかった九人民はツアーりによってだまされたのだ!J吟と痛烈な批判を行って

いる。

ゲルツェンもまた同じ号に n861年 4月 12日』と題する一文を書き,有名なベズドナ

の農民反乱めと,アプラクシン蒋軍による 150人の犠牲J,ならびにアントン・ベトロー

フの処荊を怒りをもって伝え, 1進歩と自由思想の政府が……ポーランドの血をなめたあ

と,下へくだって一一血がぬるぬるする!Jと攻撃の調子を強め, 1喜由!自由 !Jへの呼

びかけをここに打ち出したω。

ひきつづき F鐘j]の第 102号(1861年 7月 1日〉には『人民には何が必要かyj]と題

。その証拠に 1856年から 1862年までの 7年聞にツルゲーネフからオガリョーフにあてた手紙はわずかに一通でその一通も本を借りるよう頼んだ短いものである。 TypreHeB,nHCbMa, IV, 158 (1860年 11月 20Bの手紙〉。

2) Ea3HJIeBa, Y Ka3. CO可., CTp. 169. 3) TaM Ae, CTp. 136. Venturi, op. cit., p. 104.

4) Ea3HpeBa, TaM >Ke, CTp. 137. なおこの著の中でパジレーヴアは当時駐露大使たりしピスマルクがロシア語のテキストに f鐘』を用いていたという興味ある事実を紹介している。 TaM 抵 e,CTp・156.

5)その前の第 98'"99号,第 100号にロシア各地における農民反乱と,致既による弾在を通信員の報

道として掲載している。6) KOJIOKOJI, BblIIyCK IV, CTp. 845.

7)強調一票文。

8) TaM滋 e,CTp. 848. 9)この事件についてはヴェ γ トワーリにくわしい。 Cf.Venturi, op. cit., pp. 214-218.

10) KOJIOKOJI, CTp. 849.

58

守γ~

Page 60: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つの論争

る巻頭論文(署名なし1つが載り, I土地は人民以外の誰にも属さないものであるJ2) こと,

人民にとって必要なものは「土地と自由と教育j にほかならないと主張した。ぬ

「何世紀もの間,人民は事実上,土地を所有し,事実上.土地のために汗と血を流して

きた。それが紙の上にインクで書いた心命令によってこの土地が地主やツアーザの財産と

して没収されたのであった。土地と共に人民自身もまた不自由な身とされ,これが法であ

り神の正義であると彼らに認めさせようとした。しかし誰ひとりこれを認めたものはし、な

かった。人民を法の命令に従わせるために鞭で打ち,銃で狸撃し,流用jにし,苦役に処し

た。人民は黙っていたが,それでも認めはしなかった。不法な事実から正しいことが現わ

れることはなL、迫害によって人民も届家も共に荒廃しただけであった。

いまや前のようにやってゆけないことはあきらかとなった。事態を改めることが企てら

れた。四年の問書類が書かれては,また書き改められた。ついに事が決まって人民に岳由

が宣言された。いたるところに将軍や官吏が送られて事告が読まれ,教会としづ教会で祈

祷が行われた。ツアーリのために.自由のために,自らの未来の幸福のために祈l蓄がなさ

れたとレうことである O

人民は信じた。喜びそして訴り始めた。しかし将軍や官吏が解放令a)を読み始めるや,

自由は単に言葉の上だけで,事実の上で与えられたものではないことがわかった。新しい

法令の中では.1:),喜志の法はただ~Ijの紙に,つまり転写さむたので怠った。パールシチナも

オプロークも以前と同様地主にささげられ, もし自分の据立小屋と土地が欲しいなら自分

の金で票実せというのである……将軍や官吏が自由について語るのを開いた人民は理解す

ることができなかった一一一地主や官吏の答荊のもとにあって土地もない自由とはいったい

何であるのか。かくも長ずべきやり方でだまされる人民は信ずることを欲しなかった。四

年もの問自由をえさにその言葉で、われわれをあやつってきたツアーリが,いまや実際には

昔と同じパールシチナやオブローグや答7flJや殴打を与える筈はありえないと彼らは言って

いる。」の

一方ロシア園内においても,ベズドナの反乱のあと最初の宣言たる F大ロシア人Jの第

1号が6月に出され, 9月には第 2号と時を同じくしてミハーイロフとシェノレグノーフの

F若き世代へJの呼びかけも出てη, ラジカノレな反政府運動が活発化するとともに,夏ご

ろからは秘密結社《土地と自由>>(第 V 章参照〉の創設も始められるようになる。め

1) これもオガリョーフの手になるもので為る。 CM.H. H. HOBHKOBa, PeBOJI泊 UHOHepbl1861 rOJI.a.

M. 1968, CTp. 29.

2) KOJIOKOJI, CTp. 853強調一原文。

3) TaM滋 e.CTp. 854.

4)強謁はいずれも原文。

5)強講一原文。

6) TaM )f{e. CTp. 853. 7) H. H. HOBHKoBa. YKa3. COq,. CTp. 29.

8)兄 11.J1HHKOB, PeBOJIIOIJ.HOHHa兄 60pb6aA. 11. fepIJ.eHa H H. n. OrapeBa H <<3eMJIH H BOJI完》

1860-x rOJI.OB, M. 1964, CTp. 151.

59

Page 61: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

* 券発

解放令の発布にあたって,パザの大使語付教会で、新譜を捧げたツノレゲーネフは,この年

も五月から九丹までをロシアですごし九月も末になってパリに出てきた。この夏スパー

スコエでベンニに会ってアレクサーンドノレ二世への藷額文について話し合ったことは前に

見た通りである。彼は 10月 7B討でゲルツェンに手紙を書乞再会したし、旨告げるとと

もに,ベンニからの長文の手紙をあづかっていると知らせたが1) これに対しゲノレツェン

はロシア政府の「第三部が自分を葬り去ろうとしている」から「ロンドンから出ないよ

うJvことの志告の手紙を受けとった言告げて, さらにベテノレブ、ノレグ大学の閉鎖に関して述

べている幻。さらに彼誌ツノレゲーネフに「君のところには『鐘』の全号があるか-ZJともき

いているが, この手紙の産後に出たく10月 15日)ff'鐘Jの第 109号は Eベテノレプノレグ大学

閉鎖さる!~の記事3) を載せるとともに f大ロシア人』第 2 号の全文も掲載した%

つぎのゲノレツェンのツノレゲーネフあての手紙は 10月 28日付のものであるが, この中で

伎は「昨呂大使舘からオガリョーフが景族の身分を剥奪された旨通知があった」と述べた

あと 円玉くはアレクサーンドノレ二世が急速に歎目になってゆく (nOJIeTHT K 羽 pTY)よう

に信じ始めている。」りと書いている。さらに彼は手紙の終りに「すぐに『鐘』を 11月 1B vこ

送る」と告げたが,これは『巨人は自覚めつつある U と題する論文が掲載された第 110

号のことである。

「ロ νアでは大学が閉鎖された。ポーランドで、は汚れた警察によって教会さえ閉ざされ

た。理性の光も宗教の光もない!麗の中で後らはし、ったL、どこへわれわれをつれてゆくと

いうのか?後らは狂ったのだ一一彼らと一緒に落ちたくなくば,やつらを4駁者会からひき

づりおろせ 1しかし諸君,若者は学問から締め出されて,一体どこへ身を震くべきかす

耳を傾けて聞かれよ。一一霞とても開くのは妨げえないだろうからO ドンからウラルか

ら, ヴオノレガからドニエプノレから,巨大なるわが祖国のいたる所から坤吟が大きくなり,不

平の声があがっている一一一これこそあきあきさせるEえのあとの嵐によってたち始めた海の

波の最初の尻える音だ。人民の中へ!人民の方へ!ここにこそ学問の追放者たる諸君の場

所がある。……君たちに名誉あれ!君たちは新しい時代を開きつつあるのだ。諸君にはさ

さやきの時代が,遠まわしのほのめかしの時が,禁書の時代がもう過去のものになってい

ることがわかったのだ。君たちは国内では今でも秘密裡に出版をしているが,公然とプロ

テストしている。弟である君たちに名誉あれ!われわれは遠くから祝福をする!ああ,わ

れわれが.ベテルプルグにおける学生の目的を読んだ時, どれほど胸が高鳴fJ,涙がこぼ

1) Typr唱eHeB,flHcbMa, IV, 290. 2) iepueH, XXVII, 185.く1861年 10月 1213の手紙〉。

3) KO.1l0KO.1l, Bbn. IV, CTp. 916. 4) TaM >Ke, CTp. 913-914.

5) iepueH, XXVII, 190. 6)強調はいずれも原文。

60

一司'開''‘守

Page 62: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

れそうに主ったか諸君が知ったなら 1JO

ここにおいてゲ、ノレツェンはロシアにいる若者たちに,大学の閉鎖を機会にはじめて「人

誌の中へ !Jの呼びかけをしている。もはや皇帝にも政府にも期待は持てなくなった。[室

内にあっては農民運動を抑圧し,大学を閉鎖、 L,国外ではポーランドで多くの血を流し

た。かくてゲ、ルツェンはあらためてロシアの若い良心とエネノレギーとに期待をかけるよう

になるo (第 V 章参照〉

* * *

さきの記事から二ヶ見ほどたった 1861年 11月 228. ~鐘』の第 113 号はトップにつぎ

のような笥単な記事をかかげた。

「ミハイーノレ・アレクサーンドロヴィッチ・パクーニン,サンフランシスコに。彼は自

由の身となった!パクーニンはシベリアを脱出して,f3本を経由しイギリスに舟っているo

このことを喜びをもってパグーニンのすべての友に知らせる。J2)

ゲノレツェンがパクーニンのシベリア脱出の知らせを聞いたのは 10月 138のことである

が3) 10月 15日のパクーニンの十ン・フランシスコからの手紙はつぎの言葉をもって始

っている。

「友ょ!ぼくはシベリアからの説出に成功した。アムー/レ汚に沿っての長い旅,縫革E海

峡の沿岸,日本を経由して,いまサン・フランシスコに着いた。しかしこの長旅はぼくを

消耗させた上に,そうでなくても幾許かの費用を要した。もし善い人にぶつかってニュー

ヨークまでの 250ドソレの金を貸してもらえなかったら,大いに因惑したことだろう。遠く

離れた此延で、は友人も知人もいない。ニューヨークには 11丹 188ごろ着くだろう。ぼく

の討算では君はこの手紙を 11耳目 Eごろ受け取ることになるから,月末には君の返事が

ニューヨークに窟くだろう。ぼくのためにロシアから君あてに金が送金されることを望ん

でし、るのしかしそれが駄目でも 500ドルをぼくあてニューヨークに送ってくれるように頼

む....., J4)

このあとバクーニンは 11丹28ftで鉛の上から手紙を書き5h さらにニューヨークから

も手紙を書き,重ねて送金を頼んだ7h これに関してゲノレツェンは 11Jj 20 8にツルゲー

ネフにあててつぎのような手紙を送っている。

1) KOJIOKOJI, CTp. 918. 2) KOJIOKOJI, CTp. 941. 強諒一原文。

3) fepロeH,XXVII, 185 (オガリョーフ夫妻あての手紙〉。

4)口HCbMa.M. A. 5aKyHHHa K A .11. fepu,eHy H H. n. OrapeBy, CTp. 188-189. 5) TaM iKe, CTp. 191-192. 6) TaM iKe, CTp. 193.

61

Page 63: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

「今日ぼくはもうニューヨークに来ているパクーニンからの第三の手紙を受け取った。

11月 16自には着いていたのだ。彼はロシアからの金を待っている。彼の親友たちがくこ

れは秘密だが〉十分集めたことをぼくは知っている。しかしそれはどこにあるのだTぼく

は 2,∞0フラ γ送ったがそれ以上送れなし、。ボトキンにぼくあて 500送るようにさせてく

れ。もし設が欲するならぼくの所にパクーニ γのための金が送られてきた時に 1,000でも

500でも戻そう。奔走してみてくれたまえり1)

この手紙に対してのツ/レゲーネフの返事はわかってい記いが2) その後再三ゲノレツェン

からパクーニンを援助する資金についての手紙が行って,結昂ツノレゲーネフも「今後無期

限で毎年 1,500フラ γをバクーニンに与える」ことにし,さし当って 500フランをただち

にパりからロンドンに送る旨約束した。め

パクーニンがついにロンドンのゲルツェンの許に姿を現わしたのはこの年も押しつまっ

た 12月 2713の夕方であっため。 ゲノレツェンはツノレゲーネフにあて, オノレセット・ハウス

の自宅でイギリスの労働者の代表がパクーニンの到着を視すべく来ることを 1月はじめの

手紙で告げたが5) 設はついにパりから藤をあげることなく, ロンドンに来たのはそれか

ら四ヶ月余もたった 5丹の中旬のことであったの。パクーニンとオガザョーフはすぐにで

もツノレゲーネフが飛んで、来るものと期待していたが, ゲ、ノレツェ γはこのようなのぞみを一

切抱かず,この点で二人を「ロマンチシスト」と呼んでからかっている。η

パクーニンはロンドンへ来るや,ただちにその活動を開始し 1862年 2月 15日付のE鐘』

の第 122-123合併号に附録の形で『ロシア,ポーランド,すべてスラヴの友らへiと題

する長文の論文を発表した%ところでこの号にはオガリョーフの筆になる <<XOぇ cy瓦e6>>

と題する巻頭文が掲載されているが,これは『鐘Jの従来の主張をさらにラジカノレに押し

進め,人民の名においてツアーリと貴族に,あらゆる身分の平等化.官僚制の廃止, ミー

ノレの自治の導入を要求したものであった。め

パクーニンとオガリョーフが具体的な闘争へと信熱を燃やしていったのに対しゲルツ

ェンは半歩身をひいてロシアの進むべき道について患いをこらしていた。設は 1862年 1

丹 113付の F鐘』の第 118号に <<Mortuos plango... (死者を悼む……)>>1のと題する一文

を寄せたが,またしてもこの中であの F古い主題による変奏曲』が新しい背景の中でかな

1) fepneH. XXVII, 2∞. 2) TaM誕 e,crp. 677. 3) TypreHeB, nHCbMa, IV, 325. (1861年 1月 25日の手紙〉。の こ のあたりの描写は E.H.カーの『パクーニン』第四章にくわし L、。

5) fepneH, XXVII, 206. 6) TypreHeB, IV, 657. 7) H. BOrOCJIOBCK霊感, TypreHeB, M. 1959, CTp. 325. 8)豆OJIOKOJI,Bbln. V. crp. 1021-1028. 9)瓦OJIOKOJI,CTp. 1017. CM. E.JI. PY.llHHUKa完, H.日.OrapeB B pyCCKOM peBOJIIOUHOHHOM .llB-

目滋eHHIま, M叫 1969,crp. 265. 01)託OJIOKOJI,crp. 981-983.

62

警曹 ~

v

Page 64: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

でられている。それは以下のようである。

1852年ーから 10年たって.過ぎた過去をふりかえってみると,ある者はイギリスへ, あ

る者はアメリカへと去ったが,多くのすぐれた人が死んで、行った。生き残った者も老けこ

んでしまった。この間ロシアでも「不満と反対からJIさまざまな空論家が西ヨーロッパ

のたわごとJをくり返すようになったが,これらはすべて根のないものであった。このよ

うに書き出してゲルツェンはまず西欧の事物の無批判な摂取を批判するのである。これが

チチェーワンらいわゆるリベラル西欧派に対するあてつけであることは言うまでもない。

ところでヨーロッパにはさまざまな理想はあっても,生活慣習 C6hlT) は一つである O

この慣習はながし、戦いの中で形成されたものでヨーロッパにとってはきわめて自然なもの

であるが, ロシアはそれを忘れて西欧文明のファサードと形式だけを取り入れてきた。

それならばロシアはどうすべきか。西欧文明の形式だけを摂取するのではなく,その内

容をも自己のものとなすべきだろうか。ある L寸土ロシア独自の歴史的要素をこそ発展させ

るべきだろうか。

しかしヨーロッパはもはや限界に達しており,社会・政治生活のあらゆる面で根本的改

革の必要性が痛感されている O しかしヨーロヅパ文明の継子たるロシアにはかかる限界は

ない。西欧社会の上に重くのしかかっている古い廃撞は,いまだ建設すら行われていない

ロシアにはまったくなし、これは素晴らしいことだ。ロシアには惜しむべきものがないの

だO もLわれわれに惜しむものがあるとすれば.それはあの残患な父祖の思い出ではな

く.後らに泣かされ,痛めつけられた人々でこそある。しかし彼らを悼むことはできても,

われわれが呼ひ、かけることができるのは,君たち,生ける人ひ、とだけであるO

この『死者を悼む……』一文には内容的に格別新しいものは何も含まれていないが,ゲ

ノレツェンにしてみれば,多くの期待を抱きながら死んでいった人び、とのことを考えるにつ

けても,現実のロシアは彼らの期待とは反対の方向へ進んでいることが耐えられなかった

のであろう c 死んでしまった人びとはもはや再び生き返らぬ以上.生き残ったわれわれは

沈黙を守るべきか,と L、う気持が最後の呼びかけに見てとれる。さらにこの一文はこのあ

と半f下ほどして書かれた『終りと始め』のいわば前奏をなすものでもあった。

この年の 5月ヰI匂にツノレゲーネフは 5日間ほどロンドンを訪れたが1) パリに帰った直

後伎はアーンネンコフにあててこの持の訪問をつぎのように書いている幻。

[・・・ー・のぼくはロ γ ドン訪問について君に話したし、が, このつぎ会うまでみなとってお

いた方がよいだろう。ただひとことーーまったく人生とは何と薄清な風車であることか!

このようにして人を苦しみに変えると君は言いたいのかし、?いや塵芥に変えるだけだ。し

じ TypreHeB,nnCbMa, IV, 644. 657. 2) TaM >Ke, CTp. 388 (1862年 5丹 18Bごろの手紙〕。

3)…は原文。

63

Page 65: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト JII 継男

かしすべてこういったことは比稔的なことだ。」

この手紙の調子こそ f比稔的」で判然、としないが,第-vこ言えることはこの持彼がロン

ドンで、パクーニンと甚だ酉白からぬ再会をしたということ1) 第二にゲノレツェンとも論争

を交えたという事情があった2)。以前から反目していてオガリョーフとの間にも.Ii室童』の

第 115号に掲載された解放令の変更をツアーリに要請する署名等をめぐって,やりとりが

あったこと法充分推測される九 ツルゲーネフにしてみればまさに四面楚歌の思いであっ

7こことだろう。

このときのツルゲーネフのゲルツェンとの論争は,すでに見てきた f再び古い主題での

変奏曲』やIiMortuosplango...…Jで論ぜられたところと同じテーマ,即ちロシアと西欧

との壁史的比較, ロシア文明と西欧文明との関係,さらにロシアの現状と今後の進むべき

道等々に関するものであった。そしてゲルツェンはこの時の論争をきっかけとして以上の

問題をめぐって f鐘』誌上に 9自にわたって八編もの『終りと始め』と題する長文の論文

を書くことになるのであるが心, そのことを彼はツルゲーネフがロンドンからパリに帰っ

た直後つぎのように予告している。

デア V?チカ

「さらばだ。 Bonvoyage,そしてまた。……もし君が本当に君の弁論法で負わせたぼく

の傷に膏薬をはってくれる気があるなら f死の家の記録』を送ってくれc ……

ぼくは君に一一われわれの論争について前衛的な手紙 (aBaHrapAHoenUCbMO) を書く

つもりでいる。…….t)

ゲルツェンの方もツルゲーネフとの論争で深手とは言えぬまでも,かなり深刻に考えさ

せられる破目になったことがこの手紙からわかるo Ii死の家の記録』については, この年

一月に <<BpeMH))誌から別冊で出されたのを帰留するツルゲーネフに依頼したものである

が,絶対にすっぽかすことがないように四度も大きな文字で表題を書いている。

このようにして書簡形式の論文『終りと始め』が『鐘Jの第 138号(1862年 7月 1日〉

から連載されるようになるが,これは『フランスとイタリアからの手紙』にはじまるゲル

ツェンの思想のいわば集大成とも言えるものであって,文体の上でもツノレゲーネフを意識

。TaMiKe. 645. 2) fepueH, XVI, 403. XXVII, 222. CM. M. K. 豆JIeM8H,HB8H CepreeBHQ TypreHeB, 0司epK

iKH3HH H TBOpQeCTBa, JI.. 1936, CTp. 152.なお後のツルゲーネフの反論の手紙を参照。3) TypreHeB, DHCbM8, V, 48-50,51 (1862年 10月 813付ノレギーニンあて手抵および湾呂村ゲノレツヱ

γあて手紙)0fepueH, XXVII, 264-265 (1862 年 11 月 2213 付ツルゲーネフ~て手紙〉。

4) r第一書簡J-第138号 (1862年 7月 1日)0r第二書簡jー第 140号 (8J1 1 13)0 r第三書簡jー第142号く8月 22日)0r第図書第jー第 144号 (9月 4日〉。および「追記J一第 145号(9J1 15日〉。

「第五書簡」ー第 148号 (10月22日)0r第六書類j一第 149号 (11月113)0 r第七書鯖J-第154

号 (1863年 1丹 15日)0r第八書簡J-第156号 (2丹 15日〉。

5) fepueH, , XXVII,222.く1862年 5月 21日の手紙〉。強調一原文。

,‘ー・6

64

句 τ

Page 66: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論 争

したためか,きわめてすぐれたものであった% 以下績を追ってこれを見てゆくこととす

る。

〔第一書簡〕

1-親 Lい友よ,かくて君はもう決定的にこれ以上行こうとはしなくなった。豊かな秋の

みのりの中で,長いるのうだるような夏のあとで. ものうげに葉をふるわせている木詮の

公園で、休みたいというわけだ。日の短くなることも,山の頂きが白くなることも,ときど

き陰気な冷い空気の流れが吹きすぎることも君を恐れさすことはなL、むしろ君にはわが

国のあの春の雪どけの膝までっかる泥淳が.JI!のはげしい18濫が,雪の下から顔を出す裸

の大地が恐ろしいというわけだσ そうだ,未だわれわれが得ていない秋の収穫の前の,嵐

や震や豪雨や呂でりやは;干しい労働によって切り離されたわれわれの期待全般の方がむし

ら君には恐ろしいのだ・ー…J2)

ゲノレツェンはこのような比町長的な言葉をもって手紙を書き出し,つづいて次のように文

章を書き進めている。

ぼくには君の恐れがよくわかるつ君がすっかり出来上った市民生活の形態に惹かれ,粗

野でまだ踏みならされていない道のつづく生活が厭わしいものに思っていることも理解で

きる。ぼくの知人の中には. 1848年の革命のあとアメザカへ渡ったものの,そこでのあま

りにも荒げづりの生活に耐えられなくなってヨーロッパへ再び、舞い戻った者もいるのまた

フランスでは二月革命のさなかに,大衆の合唱を開きたくないばっかりに,バリからロン

ドンへ逃れた歌の教師の例も見た。

ところで現在のロシアには,パリとアメリカから入び、とが逃れた二つの原因が, ともに

存在しているo I人も制度も,教養も野蛮も. 1可世紀も前に死んだ過去も何世紀もの後に

生まれ出る未来も一一あらゆるものが発酵と解体の状態にある。J3)

かつて君は西欧世界の思想4)を擁護した。しかしこれ止まったく不必要なことだったの

だ。西ヨーロッパの思想や科学は,誰でもが認めている人類の椙続財産なのだ。いまや君

は西ヨーロッパの生活形態までをも長子相続権として移さんと欲している。そしてヨーロ

ッパの歴史的に形成された生活状態何回T) だけが人類の進歩の美的要求にふさわしいも

のであり,この生活状態だけが知的・芸術的生活に必要な諸条件を与えるものだと考えて

いる。芸街はヨーロッパに生まれたのであって,それ以外の芸術は存在しないというわけ

マ声

れ」。

ダンテ,ブオナロッティ,シェークスピア, レンプラント,モーツアルト,ゲーテとい

った入び、とは確かに西ヨーロッパに生まれたしそれを議論する者は一人もあるま L、。し

。CM.I1BaHoB-Pa3yMHHK, I1CTOpH兄 pyCCKO詰 06lll.eCTBeHHO誼 MblCJlH,T. 1, Cn6., 1911, CTp. 378, Freebo主n,op. cit., p. 136.

2) KOJlOKOJI, Bbln. V. CTp. 1141. fepueH, XVI, 131. 3) KOJIOKOJl, CTp. 1141. fepueH, XVI, 131.

心強調一原文。

65

Page 67: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

かし現在のヨーロッパの何処に新しい芸術が,創造的で生き生きとした芸術が存在するだ

ろうか。いつでも同じベートーヴェンのくり返しではないだろうかねc

それはいったい何故だろうか。原因はヨーロヅパのプチ・プル根性 (.MeU{a1-lcmoo)のに

こそある。その中では芸術が塩づけの野菜のように萎れてしまうのだ。このプチ・プル根

性の中にある二つの才能は《中庸と正確 (yMepeHHOCTbII aKKypaTHOCTb)>> である。「し

かしこれは全然芸術的ではないりわ

ヨーロッパがめざしている理想はこのプチ・プル性のである。「道に面した小窓のつい

た小さい家。息子は学校に,娘には着物を。労働者にはつらい労働をというわけだ。これ

こそまったくか、の港とし、うものだ!--havre de grace ! Jめこの「プチ・プノレ性6) こ

そ所有権の無条件の専制にもとづいた文化の最後の言葉であり,貴族制の民主化,民主昔話

の貴族化なのであるり

アメリカ合衆国は中産階級だけの国であるが, ここにもプチ・プノレ摂性は残った。 ドイ

ツの農民は耕作するプチ・プルであり,あらゆる国の労働者も,これまた未来のプチ・ブ

ルなのである。そしてこのプチ・プル根性と共に偲性が失われてゆく。

プチ・プル性の支配は,土地なき解放7)に対する答である。人びとを解放し土地を少

数の選ばれた者に緊着させた結果で忘る。一文の金のために夢中になって働く大衆が勝を

占め,自らの流儀で享楽し世を支配する。彼らにとって強力な悟性やオヲジナルな知性

などというものはまったく不必要なのであるo

J. S. ミルの言葉を告りるなら, いまや西欧社会の至るところに「集団化した月並み

(conglomerated mediocrity) Jが存在している%しかもここから脱出することは,きわめ

て難しし、。今司支配しているブルジョワジーの蔭に,ブルジョワ的生活をめざす侯補者が

更に多く 9)¥,、るからである。土地なき世界,都市優先の世界,極端な所有権の世界には他

に救いの道はなく,すべてはプチ・ブノレ根性をめざして進んでいる。われわれの自から見

ればこれは退歩なのに,農民やプロレタザアートには教養とも発展ともうつるらしい。

このようなプチ・プル根性は以龍にも怠ったが,これほどひどいものではなかった。昔

は何よりも理想と確信が,誇り高い騎士の精神があった。われわれの《神はわが櫓》や

《マルセイエーズ》は一体何処へ行ってしまったのだろうか。

ワイト島 1862年 6月 10日

1) KOJlOKOJl, CTp・1142.fepueH, XVI, 1350

2)強調ー原文。イワノフ=ラズームニクがつとに指擁したように Me出aHCTBOの摸念はひとりゲルツツエンのみならず.19世紀ロシア・インテリゲンツィアの思想においてきわめて重要である。イワノーフ=ラズームニクによればインテリゲンツィアがインテリゲンツィアたる一つの指標は aHTH-

MemaHCTBOということですらあった。YlBaHoB-Pa3yMHHK,1.{TO TaKoe HHTeJIJIHreHUH完, oeJlpヨH,1920及び YKa3.CO可., CTp. XIX s CJle.ll.

3) KOJlOKOJl, CTp. 1143. fepueH, XVI, 136. 4)以下においては ((MemaHCTBO>>を「プチ・プル根性Jまたは「プチ・プル性Jと訳す。5) KOJlOKOJl, TaM >Ke. fepuel王, XVI. 137.

6)強課ー原文。7)強調ー原文。8) KOJlOKOJl, CTp・1144.LfepueH, XVI, 141. 9)強調一原文。

66

マF ー--~ 司F 官'畑、問官F マー-,-一一一一一一一 一一 一母 r~

Page 68: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

以上に見られるように, I第一書簡」はフランス革命後のブ‘ノレジョワ西欧社会を 6hlT あ

るいは moeursの面からするどく分析したりものである。そしてその援誌にある唾棄すべ

きプチ・プル根性の存在を,彼はモラリスト的観察眼をもって見抜いている。この点での

指摘はすでに『フランスとイタリアからの手紙』や『向う岸からJにも見られるが,今日

の「大衆社会」の心理的状況がすでに 100年も前に適確にとらえられているの誌あらため

て評価されるべきであろう。

さらにここで、法芸術や科学の普遍性が取り上げられているが,この点がツノレゲーネフと

ロンドンで議論した焦点の一つで、あったことは容易に想段される。ゲ、ノレツェンは芸術や科

学が人類に共通の相続財産であり.それらを生み出したのがもっぱら西ヨーロッパ社会で

あったことを認めつつも.いまや初期の創造的精神は完全にプチ・ブ、ノレ担性の中に見失わ

れてしまっていることを指摘するのである。この裏には, ul匂う岸から』その他でくり返

し述べてきた彼の主張一一郎ち吉代ギリシア・ローマの普遍的文明が,没落せんとするロ

ーマ社会において創造的精神を喪失し,むしろ遅れたあの暗いゲルマンの森のワノレワーノレ

によってこそ受け継がれたのだとの考えがあった。冒頭の引用はこれを象徴的に語るもの

であるが,この点は「第五書簡」でさらにくわしく述べられている。

〔第二書簡〕

つづく第二書簡;上前の芸指論,科学論をうけて,近代ヨーロッパの竪史をマッツィー

ニ?こ例をとって論じたものである。

マッツィーニがその全生活を革命運動に捧げていることは男知の通りであるが. ヨーロ

ッパで 40年以上暮したこのイタリアの革命家は.現在のヨーロッパの生活には私、かな

るイニシアテプ》も存在しないという結論に到達した。期ち「探守思想、も革命思想、も単に

否定的な意味しかもっていない」との結論であるの。

ヨーロッパにおける革命の波が 1789年に勝利を収めたことは疑い得なし、が,しかしあら

ゆるものがこの波におおわれ,再び波の表面に胴体のない頭が浮かび出たとき,人びとは

はじめて詞か恐ろしい欠落を感じざるをえなかったn 解放された力はたがし、に切り離さ

れ,その後疲れて立ち止ってしまったの被ちは向も為すことがなく,あたかも B錆労{動者

が仕事を持つように, 日々の事件を待ちうけるだけであった。持よりもいけないのは,は

っきりとした呂的がないことであった。しかし目的がなければ,それを作り出せばよい。

どんなことでも目的になりうるからである。ナポレオンはこのことを確信していた。彼自

身が目的となり,戦争が呂的となった。そして革命の波が,思想、を押し流すよりも,もっ

と多くの車を流したのである。マッツィーニにはこのことがわかった。そして彼は決定的

な判決を下すに先立って政治的な壁の向うを見てみた。その時彼の自にうつったのが,ゲ

1) フリーボーンはこの論争を通じてのゲルヅエンの分析的方法を,ツルゲーネフの syncreticな銀述

と比較している。 Freeborn,op.:cit., p. 137.

2) KOJlOKOJl, CTp. 1158. fepueH, XVI.:143.

67

Page 69: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

ーテの偉大なエゴイズムであった。その泰然たる無関心ぷりと,人間の事象を岳然科学的に

実験的に見ょうとする知識欲とであるo さらに彼の呂には,自らを責めるパイロンのこれ

また巨大なエゴイズムもひときわ強くうつった。その主人公はマッツィーニに大きな欝撃

を与えた。しかしバイロンの主人公には客観的な理想、が,吉念が欠如していた。マッツィー

ニの活動的な精神は,このような病気の診断書に溝足することはできなかった。彼は新し

い時代の言葉,イニシアテプをさがして古代ローマを中心とするイタザアの統一と解放。

にそれを見出したのである230

しかし狂信的なマッツィーニは誤った。そして彼の誤りの巨大さが,カヴーノレの成功と

単一なるイタワアとを可能にしたのであった。

だがわれわれにとっては設がどのように問題を解決したかはそれほど重要ではない。よ

り大切なことは,西ヨーロッパにおいては人が既製のフォームから自らを解放し,自分の

足で立つようになると,とたんに事業がうまくゆかなくなり,発展が脇へそれてしまう,

ということである。そこで革命家も保守主義者も民族主義の原理をもって欠如せる京理に

代えることによって,このようなうまくゆかないという不満な気持をあざむくことにな

る。マッツィーニは民主的思想の何か空しさめを自覚して,イタリアのドイツ人からの解

放をかかけ'た。ここにおいて彼の局関のすべてが卑浴なるものに,小さなものになってし

まったと工丘ミノレは指摘しているの。

ところで歴史と自然における発展は,その針路から外れるものではないと言われるが,

はたしてそうであろうか。一般的法郎が同じものとして残るのは言うまでもないが. f国々

の場合になるとまったく梧反する現象となってあらわれる場合もある O たとえば,同じ引

力の法則に従いながらも鉛は落下するのに綿毛は飛ぶ,といった具合にである。

しかして現在のプルジョワ文明・資本主義国家は,土地なきプロレタリアートの上に,

所者権の無制限な承認の上に,きわめて一面的に,いわば踏型的に発達してきたものであ

る。 J.s. ミルはプルジョワジーの震勢とともに,生活が卑小化L.個性が欝滅して,あ

らゆる精神生活の墜落が始ると言っているが,これは決して英冨に限ったことではない。

あるいは何らかの危機が来て,このような堕落への道から西欧諸国を救い出すことがある

かも知れないが,それがどこから来るか弘も知らないし, ミノレも知らない……5)

ワイト島 1862年 7月20B

このようにしてゲルツェンは,近代西欧社会の歴史をマッツィーニを摂jにとって論じ,

ミノレめの言葉を援馬しながら西欧社会の行きづまりをくつかえし述べている。われわれに

とって特に輿味あるのは,ブ、/レジョワ社会における民主主義の「空しさJから,民族主義

1)強調はいずれも原文。

2) KOJIOKOJI, TaM滋 e.fepueH. XVI, 144. 3)強認はいずれも濠文。

4) KOJIOKOJI, TaM iKe. fepueH, XVI, 145. 5) KOJIOKOJI,釘F・1159.f句 ueH,XVI, 148. 5) J. s.ミfレについてはゲルツエンは f過去と思索』の中で一章〈第 6部第 3章付蕪〉をさいて論じ

ている。

68

ヲ '1玉

Page 70: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

が発生してくるとの指摘である O 調知のようにゲノレツェンはマッツィーニと錨人的にもつ

き合いがあり, 11過去と思索J の中でもこの多少ならずファナテックな革命家の姿を見事

に措いているが1)ここでのべられているゲーテやパイロンに対する注昌は,ゲルツェン

自身の経験でもあった。ところでマッツィーニにおけるナショナリステックな要素は,そ

の中央集権への確告とともに,パクーニンがその後 70年代の初頭になんども舌鋒するど

く攻撃したところであったお。その問題がここではごく箆単に触れられているわけである

が,必ずしも直線内に結びつかない民主主義と民族主義の間の徴妙な関係は,ゲ/レツェン

の場合すぐあとに「ポーランド問題Jをめぐって,具体的な形で解決を迫られるようにな

ることを後に見るであろう〈第 VI章参照〉。

* 券発

ところでゲノレツェンは,以上の第一,第二書簡について, 1862年 8月22日付の手紙で,

ツノレゲーネフにつぎのように質問を発したっ

「君はぼくの君にあてた一連の書簡体の作品 σ終りと初めJl)を読んだろうか一一それ

らに満足したか,それとも援を立てたか一一お願いだから言ってくれ。

諒の号を送るσ 現5の号もすぐに送ろうの一 返事を待っている。」め

これに対しツルゲーネフはノミーデン・パーデンからすぐに返事を書いた。

「親愛なるアレクサーンド/レ・イワーノヴィッチ一一ー第ーに即刻の返事に惑童話するO し

かし第二に君が自分のこの二つの作品 CII終りと初めjj)がぼくを怒せるかもしれないと考

えたことに対して一一一詩的な言一葉で、言うなら いささかおかんむりでいる。たったL、ま

読んだところだが(読み出したときには,それがぼくにあてられたものだということは想

像もしなかったが,そのあとすぐに気が付いた0),この中に君のすべてを見出した。君の詩

的な頭脳も,とくに素手く深く視る才能も,君の高潔な魂のひそかな疲労等々も。しかし

だからといって,これはぼくが完全に賛成したことを意味しない……ぼくには.君が問題

をこのように提出したとは患われない。ぼくは一一言葉のあらゆる意味で必ずしもたやす

いことではないけど一一君と同亡雑誌に返事を書く決心をした。君の方はお原典、だから,

ぼくの名前は秘密にしておいてくれ。そしてもしも出来ることなら他人の吾をくらまして

ほしい。一連間後には君に返事を送りたし、と患っている一ーもうそれに取りかかった。ア

ここで見る通ワ,この時にはツルゲーネフは比較的好意、ある受け取り方をしており.自

分のこの書簡に対する反論を『鐘3に送ろうとすら考えていた。しかしこの時たまたまパ

。第 5部第 37章,第 6部第 2章等。

2) Archives Bakounine, <<Reponse d'un Internationale a Mazzini>> vol. 1・(1), pp. 1-12. <<La The-

ologie politique de Mazzini>> pp. 19ー7R<<Article“Contre Mazzini">> vol. 1-(2) pp. 77-101.

3) repueH, XXVII, 252.

4) TypreHeB[nHCbMa, V, 40. (1862 年 8~YJ 27日付の手紙〕。

69

Page 71: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

ーデン・パーデンに来た駐仏ロシア大変キセリョーフから口頭で f警告」を受けて,彼

はこの計画を患いとどまり汽 結員以下に見るようにツノレゲーネフの長論は,もっぱらゲ

ルツェンへあてた私信の中で、行われるようになるのである。

〔第三書簡〕

つぎの第三書簡は 8月10日執筆の日付になっているが, 冒頭においてゲルツェンは,

この夏中ずっと悪天侯がつづき,もしかしたら地球に亀裂でも生ずるので誌ないかとの不

安がヨーロッパ中にひろがっていたという噂を述べたあとで, rしかし, この亀裂もオリ

ョール県までは届かないだろうから, 君を恐れさすことは何もないわけだJ2) と具体的な

地名をあげている。これはそのすぐ前の, r詩人としてまたイデアリストとしての君は」云

々と Lづ表現とともに,当時のロシアの知識人に立すぐにツルゲーネフを想起させる表現

と考えてよ乙、。さきに見た「他人の百をくらませてほしし、」という頼みを結果的には裏切

ることになったが,ツルゲーネフの手紙をもらった時にはすでにこの論文ののった『鑑』

誌発行されたあとであった。

ところでこの書簡の主題は前の書簡で論じたマッツィーニの形象を普遍化して, r革命

のドン・キホーテJを論じたものである。「革命のドン・キホーテ」とは神の王国ならぬ

地上の人間的王国を狂信的に信じ,共和国の到来を確信して疑わない献身的革命家の謂で

あるO 彼らは 18世紀の山娠のいわば頂上をなす人びとであり,最後にはついに敗れ去っ

た 90年代の使徒たちでもある。彼らの多くは人民のために働いたあとで非業の死をとげ

たが,生き残った人びともいまや悲しい姿をさらしているO 子も孫も彼らの仕事を受け継

いではくれなし、。そのジャコパン的言辞は周菌の者をおびやかすだけで,人びとは彼らの

白くなった髪をさしては,立ち去ってゆく。ヴィクトール・ユーゴーの小説の中の「不幸

な人びとJがたいてい老人であるのもむベなるかなである。彼らは子供たちから断絶して

おり,信房の中の惨道土よりも家庭の中では孤独である。しかしユーゴーもほとんど見落

しているが,彼らの苦しみは,自らの正しき行為が不必要だということを自覚せざるを得

ないことにこそあっため。

この 90年代の狂信的で理想主義的な「父Jをその「子j とくらべるならば, r子」の方

が慎重で思恵分別があり,あきらめているところは「父Jよりも年上のようにすら思われ

る。さらに帝政時代り近衛騎兵の制服をめかしこんだ「孫Jになると,もつばら自分の地

位を利用するためにうまく出世することだけを考えている。したがってこれら三つの世代

の関には自然な関係や均衡は破られていて,世代の有機的な相続が歪められてしまったと

しか思われないの。

以上のように述べてゲルツェンはユーゴーの『レ・ミゼラプノレ』等を批評したあとで,

世代論からまたしても歴史論を展開する。しかしこれは f向う岸から』の中でリアリスト

1) TaM滋 e,CTp. 516及びつぎの書樺参照。

2) KOJIOKOJI, CTp. 1173. repu.eH, XVI, 150. 3) KOJIOKOJI, CTp. 1174. repu.eH, XVI, 154. 4) KOJIOKOJI, CTp. 1175. repu.eH, XVI, 155.

70

Page 72: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

たる「中年の男Jと「医者j が述べている歴史観1)のくりかえしである。

すなわち種が成熟してしまったところでは,産史は停止するか,少くとも発達のテンポ

はにぶってくる c これは民族や国家についても言えるのであって,発達の最後の状態に近

づけば近づく鼠ど,自らが世界の文明の中心であると思いこむようになる。シナがそのよ

し、例だが,今日のヨーロッパも,イギリスやフランスはさまざまな矛盾を抱えながら,自

分たちが世界で一番進んだ国であると思っている。

すくなくとも目に入る隈りでは,いたるところ白髪と簸と屈んだ背中とが見える。遺言

と出棺と「終りJばかりが見える。「だれもが『始め』をさがし求めているが一一一それは

理論と抽象の中にしかない心2)

ここで初めて本書の表題である『終りと始め』の意味があきらかになる。しかしこれま

での書簡で述べられてきたのは, もっぱらそのうちの「終りJだけであって,まだ「始めJ

は出てこない。「終りJとは言うまでもなく, プチ・ブ、ノレ性によって象徴される西歌的生

活の衰退であり,創造的精神の喪失である。ここで論ぜられた主題は,前にゲノレツェンが

『向う岸から』の中で(とくに第 V 章の <<Consolatiω の中で〉述べたところとほとん

ど等しいと言ってよい。

〔第図書簡〕

これは 1862年 9月 1日付の本文と,同年 9月 7日付の追記『終りだ! 終りだ!j] と

から成っており,その中でゲルツェンは前の書簡につづいてフランス革命以後の西欧社会

の変化を歴史的に概観しているの

まず初めに彼は去年自分の所にサラトフの友人が来て,パリもずい分退屈だとこぼして

いったが,退屈と言えばロンドンの生活もひどいものだn それではどうしてこう退屈なの

か.主ずその原因を考えてみることに Lょう,と話のいとぐちを切っている。

ゲルツェンはまず 19世紀初頭以降の西欧の植民地戦争とアメリカ合衆国の高北戦争を

取り上げ,民主主義者が奴事案能を維持すべく戦い,共和主義者が不可分なる国家という奴

隷制のために戦ってきたことを皮肉に叙述する。

西欧社会の行きづまりは学問の領域についても言えることであって,歴史も法律も宗教

も,すべてが純粋知識の枠におさまってしまい.あたかもそこにおいてクモの巣にからま

って動けなくなったような状態が今ヨの西欧科学の姿である汽かかる科学によれば,人

類の進歩というものは.あたかも貴人のおしのび旅行の如きものであって,宿場宿場に馬

が待っていて,定められた目的地へわれわれを運んでくれるものとされていた円そこへ突

如として勃発したのが二月革命である。しかして「この蝿はクモの巣にはひっかからないj

ものであったの

ついで七月革命のよ七較的弱い雷撃が起り,これによってニーブールとかへーゲルとかい

1)蔀掲拙稿参照。

2) KOJIOKOJI, CTP・1176.repueH, XVI, 157. 3) KOJIOKOJI, CTp. 1191. repueH, XVI, 163.

71

Page 73: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

ったE入も一撃の下にやられてしまった。ここでも教条主義が勝利をおさめ,オノレレアン

家とともに, ジャーナリストやコレージュ・ドク・フランスや経済学が玉座の最上段に座っ

た。それからまた 10年たったが, 何ひとつうまく行ったものはなかった。 ドノゾ・コル

テスの欲したりようには芙霞はカトザックにならず,幾人かのドイツ人が欲したように 19

世紀が 13世紀に戻ることもなかった。大衆がフランス涜の友愛や死も, ブルードン流の

尊敬すべき貧因も,平和な社会のための国際法も,断乎として欲さないからである。

いったし、人類はどこに行くというのであろうか。つい数ヶ月前にも琴星が地球にあやう

くぶつかるところだったということだが,今日でなくとも明吾には人びとの噂のようにこ

の地球に一大亀裂が生じるかも知れない。

このようにして「第四書簡」は繋り,ついで『終りだ 1 終りだ!.!lと題する追記がつ

づいている。

「……そうだ親愛なる友よ,この地球の上に乗って行くわれわれが,どこへ行きあたる

か知るのはむずかしし、。それは背後には琴星が,足下には亀裂の可能性が怠るという理由

ばかりからではなし、われわれは奇妙な同志と同じ車に乗ワ合わせ,途中下車も停止も進

路修正もできないまま疾走しているからだ023

-・・

先 E私はマッツィーニに会って 3)別れを告げたが,これはつらいものだった。私は設の

事業の成功を告じていなかったし,彼も完全には信じていなかった。マッツィーニとガリ

バノレディというこの二人の最後の「革命のドン・キホーテj は祖国と人間の尊厳の名にお

いてオーストザアとフランスとイタリアの銃剣に託して,わずか一握りの同志と共に立ち

上ったのだ。私の前に坐って, 負傷して蒼白い痩せたマッツィーニはこう言った。「そう

で、す。われわれは亡びるかも知れません。しかしイタリアはわれわれの滅亡に我慢できな

いでしょう !Jと。 r我漫できますよ」と私は言いたかったが,口に出しては言わなかっ

た。西E後に,すべては終った吾、 さながら何ものかが心の中で裂けてしまったようであ

った。これら聖なるドン・キホーテが居なくなることによって,生活はもっと貧しく,月

並みなものになることだろう o それなのにわが国の雑誌めでは「かかる人間は所詮暴徒に

すぎなし、」として片づけられている,

人間というものは恐ろしく矛盾したものだ。死んでゆく人の枕辺にあって,だんだん力

尽き,怠絶えてゆくのを見ながら,あたかも死を待ちうけてはいなかったかの如く枢のそ

ばで号泣する。きればわれわれも矛震したものになろうか630

1) 11向う岸から』第 VIII章「ヴア fレデガマス挟ドノゾ・コルテスとローマ皇帝ユリアヌスj参照。

2) KOJIOKOJI, CTP・1197.fepu.eH, XVI, 165. 3) 1862年8月 25'" 6日ごろのことである。

4) 1862年8月 29日,ローマを解放せんとするガリパノレデ 4指標下の義勇軍はアスプロモンテにおい

て敗れ去った。

5) <<CeBepHaH nqeJIa>>第 226号 (1862年 8月22司〉。

6) KOJIOKOJI, CTp. 1198. fepu.eH, XVI. 167.

72

'主

Page 74: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

この追記が,つい十日ほど前に体験したマッツィーニとの別離と,その後の彼らの悲し

い敗北から矢もたてもたまらず執筆したことは,あきらかである。ゲ、ノレツェンにしてみれ

ば彼らが敗れ去ることは初めからわかワきっていたし止めたとて止められるものでない

ことも,はっきりしていた。しかし「革命のドン・キホーテ」たる彼らの敗北を必然、的な

ものとして見通しながらも,実際に彼らが敗れ去ったあとで完全な第三者として冷い批評

を下すことはゲルツェンにはできなかった。最後の自期を含んだー匂がこの内面の「矛盾」

を反映している。このような理想を追求し,ついに舞れた人びとへの愛情は『向う岸か

ら』の「若者j にも「黒衣の夫人Jvこも見られたところであり,さらには,この追記の執

筆直後にゲルツェンが会ったポーランド、の中央民族委員会の代表たちに対して彼が後に抱

いた感慨で、もあった。(第 VI章 fゲノレツェン・パクーニンとポーランド問題」参照、〉。

* 券発

他方ツノレゲーネフから見るならば, この書簡が自分とのかつての論争からびどく逸脱し

てしまっていると患われたのも無理からぬところであった。これら「第三,第図書簡j を

読んだあとで,設は 10月8B付の手紙でゲ、ノレツェンにつぎのように書き送っているが,こ

れは事実上,以上の書簡に対するツノレゲーネフの反論となっている。

I rr鐘』にのった手紙に対するぼくの回答に関してだが,もうすでに何頁かの下書きを

書いたから君に晃せようと思っているが,君がぼくに宛てて書いていることがすべての人

に知られている上に, rr鐘JJに印崩しないようにと半ば公けの 1)警告をこっそり受け取った

のでちょっとストップしてしまった。一般大衆にとってこれは本質的に大したことではな

いが,ぼくにとっては重要なことかも知れなL、。ぼくの主な反論は以下の如きものだ。君

は本来ぼくとの関係において,このように問題を出してはし、なかった。ぼくはーーゴーゴ

ワの表現を借りれば一ーヨーロッパ的原理と制度の流れの影2)に去ったのだ。もしぼくが

25裁だったら,またiJljの行一動をしたかも知れない。一一自分吉身のためだけで、なく J¥民の

ためにも。ロシアにおける教養あるめ階綾の役割は文化を人民に伝達することにある。そ

してそれを受け取るか拒否するかは人民岳身が決めることだ。ピョートル大帝もロモノー

ソフもこの役割の中で活躍し,またこの役説を革命的行動に移すものがあるとは言え,本

質的にはこれはつつましい役諒なのだ。しかしぼくに言わせれば.この役割は未だ終つて

はいないのだ。それなのに,君たちは反対に(スラヴ主義者の如く〉ドイツ的思考のプロ

セスをもって,ほとんど理解もせず理解もされない人民の本質から,人民がその上に生活

を打ち建てるべきだと君たちが考える諸原理を抽象しては,霧の中でぐるぐる廼りをして

いる。そしてよち重要なことは,君たちが本質的には革命を拒否していることだーーなぜ

なら君たちが敬服するところの人民というのは parexcellence (この上なき〉保守主義者だ

からだ一一一そしてなめし史の外套を身にまとい,ぬくぬくとした泥だらけの掘立小屋に住

み,いつも淘やけがするほど太鼓腹を満腹させながら,あらゆる市民的義務や告発的行為を

嬢悪するようなプノレジョワジーの萌芽すら持っている一一読らは君が書簡の中で、措いた西

1)強調ー原文。

2) 3)強調はいずれも原文。

73

Page 75: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト )11 継男

ヨーロッパのプノレジョワジーのきわめてはっきりした特設をすべて未来に留保している C

べつに遠くへ行ってみる必要もなし、。わが国の商人たちを見てみたまえoぼくは抽象する,

とし、う言葉を用いたが,故あってのことだ。君たちがロンドンでぼくの耳にタコができる

ほど語ったゼームストヴォりだが,この評判部れのゼームストヴォむというやつは,実際

のところはカヴエーリンたちの言う父祖伝来の生活積習めと同じような長い間かかって作

り上げた杭上の空論だということがはっきりした。ぼくは夏中シチャーポフめに取っ組ん

だが〈本当に取っ組んだのだ!)今日でもぼくの確信はなんら変ってはいない。ゼームス

トヴォ 5) とはどれか任意の同じ力をもった西欧の言葉が意味するものとまったく同じもの

を意味するか, あるいは何ものをも意味しないかどちらかだ。シチャーポフ流めの意味

は,百姓にとっては百中の百というように何だかわからないものだ。君たちは自分らの発

見した《ゼームストヴ;:f,アルテーリ,オープシチナ》とはまたちがった別の三位一体を

見出すべきだ。ある L寸土また,このロシアの人民の努力によって菌家・社会形態に付加さ

れた特別な観度というのは,われわれ熟憲反省する人間が一つの範轄に入れるには未だ十

分解明されていないのだということを自覚すべきだ。さもないと,人民の前で自己卑下し

たり,人民を歪めたりするおそれがある。人民の信念を神聖で高潔なものと呼んだり,ある

いはパクーニンが最近のパンフレット 7)でほんのー頁書いているように,人民に対して不

幸にして愚かなものという洛印を押すようになる。彼について言うなら, 21頁で《もしツ

アーリが全人民的なゼームスキー・ドクーマを召集しなければ, 1863年にはロシアに恐ろ

しい災が起る》と言っている。もし彼が望むなら,ぼくはどんな賭をしてもよ L、。ツアーり

はいかなる召集もし主いだろうし-1863年はとりわけ静かにめすぎるだろう。 Esgilt-?

((賭けに)承知かい-ZJぼくは邑分の予言が,春にロンドンで一一覚えているかい一一ウ

スターフナーヤ・グラーモタめについて言ったのと同じように的中するだろうと確信して

いる。あの時はただ年末までにはその半分が提出されるものと考えた点で詞違っただけだ

ーーしかしそれらは今で誌ほとんど全部提出されている。さあ, I日友よ信じたまえ。生き

生きとした革命的プロパガンダの唯一の支点は,パクーニンが頚棄し,土地から切り離さ

れ,裏切者と呼んだロシアの教養ある措級の中の少数にこそあるということを。いずれに

せよ,君には他の購読者はし、ないのだ。さあ,これで十分だろう。 Dixiet animam meam

salvavi (われ辻言えり,しかしてわが霊魂を救えり 10)0)ぼくはそれでもなお君を心から愛

している。そして君の手を囲く握る。

君の HB.ツノレゲーネフJll)

1) 2) 3) 5)強調はいずれも原文。4) 1860年代の革命的思想家,カザン大学歴史学教援 A.n.γチャーポフ(1830- 1876) のこと。

彼の著作であるfゼームストヴォとラスコール』についてゲルツエンはこの年2月 20Bの手紙でツルゲーネフに読んだかどうか質問している。 repueH,XXVII, 213, 689.

6)強諒一票文。7)パクーニンの論文『ロマーノフ,プガチョーフあるいはベステリ ?JIをさす。

8)強調一原文。9) 1861年の農奴解放令後,地主と前の轟奴との関係を定めた法規。10) この慣毘句には裏に「われは警告せり。故に伺らの責任も負わずj とLづ意味もある。11) TypreHeB, nHCbMa V, 51-53.

74

守 4 ・司厚

Page 76: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

ツノレゲーネブの反論はあきらかである。フリーボーンが指摘しているように1) ゲノレツェ

ンの主張がともすれば散漫であるのに対 L, ツノレゲーネフの回答は直接的でするどい。ま

ず第ーに彼は,ゲルツェンやオガリョーフにある人民の調設化をはっきり否定し人民が

本質的にはすぐれて保守的なもので. ゲ、ノレツェンの嫌悪するところのプチ・ブ、ノレ性すら萌

芽の形で持っていると断言している。これがツルゲーネフ自身の領土也での農民との間に持

った経験に根ざすものであることは.いままでの経過からして言うまでもあるまし、。ゲノレ

ツェンに始まるロシアの「人民主義」は,その思想、の核に人民への負震や人民崇拝を持つ

ものであったが,現実の人民が彼らの考えている理想像とは己ど遠いものであることを後

に「人民の中へ!Jの革命家たち法身をもって体験しなければならなかった。作家ツルゲ

ーネフの透徹した誤は,すでにこのことを見抜いていたとも言える。

ゲ‘ノレツェンも fフランスとイタリアからの手紙』や F向う岸からJの中で,いかに民衆

というものが気まぐれで,忘患の徒であるかを指摘し後らにおける保守的な額向やプチ

・ブル的性格を適確に見抜いている。これは設が西致社会の中でいわば第三者として冷静

に事態を観察しえたことと. さらには前に見たゲ、ノレツェン自身の言葉を倍りるならば,書

物によってではなし広場で,集会で,大衆の中に入って経験したところからなしえたこ

とであった。しかしロシアの人民について彼は本当に彼らの中に入って体験したところは

ほとんどなかったと言ってよ L、。おそらくこの持までロシアの文学者の中で,真の意味で

民衆とともに生活し彼らの良きにつけ悪しきにつけ,矛盾に満ちた複雑な姿を実際に見

て,それをヴ f ヴィッドに描き出したのは, ドストエフスキーが最初であろう。『死の家

の記録』はこの点でまさに記念碑と呼んで然るべきfF品であり, これをゲ、ノレツェンがツノレ

ゲ、ーネフに是非送るように頼んだことは,きわめて象徴的である O

第二に以上二との関連においてツルゲーネフが問題にしているのは, ロシアにおける「教

養ある階級の役害むである O 彼法それをもって,全人類に普遍的な文明〈ということ法事

実上近代西洋文明ということになろうが)を,人民に伝達することにあると,はっきり定

義づけている。それを受け取るか否かは人民自身の決めることであるが, ピョートノレ大帝

やロモノーソフに始まるこの仕事は未だ完了してはし、ないというのが彼の立場である。こ

の点ツルゲーネフの西欧主義は一貫して変っていなL、。そしてこのような立場が, ロシア

昌内の反動的貴族層や. さらには保守的で, プチ・ブ、ノレ的要素をも秘めた人民に対する不

信にもとづくものであることは,今まで、見たところからもあきらかである。しかも彼は,

この役割が本来ひかえめで. 1"つつまししゴものであるということまでことわっている。そ

れならば社会の諸矛盾はどのように解決さるべきかというならLi.それは「漸進的に」改

革してゆくよりほかに方法がない.というのが,ツルゲーネフの「漸進主義」の立場であ

る。

第三にツルゲーネフが指捕していることは.ゼームストヴ才といい,アルテーりといい,

オープシチナといい, これらのものは学者〈シチャーポフ〉や評論家〈ゲノレツェン,オガ

リョーフ及びスラヴ主義者〉によってロシアに国有のすぐれた制度で、あると主張されてい

1) Freeborn. op. cit.. p. 137.

75

Page 77: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

るが,これは実態をよく知らない者の空論だということである O それらの制度がはたして

将来への発展の可能性を秘めた一つの範曙として確立しているかどうかは,まだあまりに

も多くの留保を含んでいるということをツルゲーネフは言いたかったのである。ゲルツェ

ン自身もこのことは認識していたので、あって,伎はこれらの制度がそのままで将来のロシ

アの社会主義の基礎になりうるとは一度も言っていなし、。なりうる可能性があるというこ

とをくりかえしているのである (r第八書簡』。そしてその根底には,後が『向う岸から』

の中で詳紹に述べた,必然、性を排し可能性を主張せんとする歴史観があったことをわれわ

れは知っている九それならば,ここでのゲルツェンとツルゲーネフの見解の桔違は両者

の歴史観,人間観にもとづく基本的な桔異に由来するものであることをここに確認すべき

であろう。

最後にツルゲーネフが言っているのは,パクーニンやオガリョーフにおける現実認議の

誤りである。彼らは来年にでもロシアに革命が起るようなことを言っているが,こんなこ

とは絶対にあワえない,というのがツルゲーネフの賭けの内容であるc この点でゲルツェ

ンが,パグーニンやオガリョーフとは異った現状認識をしていたことをわれわれは以下に

見るであろうがく第 V,VI章参照L 事実から言うならば, ロシア園内に関する限り,

ツルゲーネフの方が賭に勝ったとも言える。革命的反乱はロシア国内ではなくポーランド

に起ったからであるc そしてこの事件を契機にロシアの世論は一段とナショナリスティッ

クな色彩を濃くし右傾化して行き, lF鐘』は孤立イとするようになる。 ツノレゲーネフの指

携したように「教養ある措級」がそれから離れていったからである。

しかし結論を急ぐことはあるまし、。ゲルツェンはひきつづき「第五書簡Jを書いている

からである。

〔第五書簡〕

これは『鐘』の第 142号 (10見 2213 付〉に発表され, 執筆の日付は 10月 15日となっ

ているが.アカデミー販ではどういうわけかこれが落ちている。

書簡の冒頭でゲルツヱンは『退去と思索』の一部に予定して 1855年に書いてこの時ま

で公刊されなかったところの2) 若き日に読んで強い印象を受けたフランスの歴史小説

『アルミニウス』を回想している。

この小説のテーマは,古代ローマの没落とゲルマン世界の勃輿という二つの世界の「衝

突Jを,壮大な歴史的事件に場面を取らずに, もっぱら「静かな家庭生活」の中に描いた

ものであって,これを読んだ時には将来自分も亦これと同じような「衝突Jに遭遇するよ

うになるとは夢にも思わなかったとゲルツヱンは述べている。

彼の目から見るならば,古代ローマとゲルマン世界の関係は,今日の西欧社会とスラヴ

世界の関係によく似ている。われわれスラヴ入はワルワールであり,その文明はほんの表

面的なものだが, くりかえして言うが,われわれには「あの西欧的旗廃の,伝統的な, し

り前掲拙稿参照。

めこれは後に第5部「家庭の悲劇iの物語jの中に挿入された。

76

'1 ,~

Page 78: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

がし変りやすい洗練さはほど遠いものである。」り反対に茜ヨーロッパの生命力を失った文

明の中に生きている人びとの心の中には,多くの損われた.人為的な.老人くさい矯熱が

混入しており.後らは羨望ゃうぬぼれや.実現できぬ快楽やいやしい利己主義にとりつヵ、

れている。

このような自分の考え立,今でも変っていなし、。なるほどロシア人はたしかに粗野だ

いそれを誇っているようなところすらある。外国でよく晃かけることだが,ロシア人は

サロンでも大きな声で話をする L,努若無人な笑い声を立てる。食堂でも禁J塵に抗議し

ー較に西欧社会で認められている習慣に従おうとしなL、。しかし何世代もかかって作られ

た文明というものは,いわぽ年代もののブドー酒にも似ていて.真似られるものでもなけ

れば,一度に2)取り入れられるものでもない。

ところでロシア貴族を晃てみると.なにか無理に地主の邸に集めさせられた吉姓にも似

た不細工なところがある。後らはツアーりの命令で伝統的な生活から切り離され.民族の

生活の悪い側面だけを頭酉に保っている。吉分に対しても他に対してもタターノレ的とでも

言える軽揮を抱いている。貴族的名誉もなければ市民的自主性もない。

しかし賓族の中にも古代の英雄や中世の騎士にも比せられる若き獅子たちがし、た。デカ

ブリストがそれである。彼らはあきらかに発れることを知りながら,若い世代を新しい生

活に目覚めさせるために立ちあがったのであった。

それにくらベ茜欧文明社会に吹き荒れている砂漠の熱嵐とはし、かなるものか。進歩につ

ぐ進歩,自由なる制度,鉄道,改革,電報といった類のことか。多くのよきことが為され,

多くのよきことが積み重ねられたの Lカる L熱風は吹きに吹く o I死者を思い起せj という

が左目くめ。

以上に見る如く,ゲルツェンはこれまでくりかえし述べてきた吉代社会の没落とゲ、ルマ

ン民族の勃興とを現代西欧社会とスラヴ世界の関係になぞらえ,未来は粗野ではあるが若

L 、後者に属することを主張している。さらにロシアの貢族の大部分の退完とデカブリスト

に代表される少数の貴族のヒロイズムを対比するが,同じ「教養ある搭級の役割」と言い

ながらツノレゲーネフの考えているところと,ゲルツヱンの考えとの間にいかに大きな揺り

があったかは一目瞭然であろう。

ゲノレツヱンはスラヴ世界がその共同体を核として将来社会主義社会へ脱皮する擦に,西

致近代社会において確立した「個人の京理」を導入することが絶対に不可欠であると考え

ていたが,そのためにはいわば「酵母」の役割をなすインテリゲンツィアの存在がどうし

ても必要だと主張している4九 これとツルゲーネフのいう西欧文明の伝達者としての「つ

つましい役割」とを比較するならば,両者の相異はよりあきらかである O さらに後に見る

ように,パクーニンにおいては,革命は人民自身が行うものであって,革命的インテリゲ

ンツィアはその発火点となるべきだとの思想があったが.ここにおし、て三人の見解の相異

1)託OJIOKOJI,CTp・1222.repUeH, XVI, 168. 2)強諒一原文。

9) KOJIOKOJI, CTp. 1223. repueH, XVI, 171. 4)前揚拙稿(仏文〉参照。

77

Page 79: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

が一段と浮き彫りにされる。ツノレゲーネフもパクーニンもその立場ほはっきりしていた。

ゲルツェ γ もさまざまな屈折を持ちながらその姿勢において法基本的に一貫していた。そ

して三人は三様にあの四十年代にさかのぼる「ロシアにおけるインテリゲンツィアの役

割」をめぐって二十年の歳月を経てこのように明瞭に分れてくるのである O

* ー*

この「第五書簡」を書いたあとでゲノレツェンはふたたびツノレゲーネフに手紙を書き,彼

の読後惑を求めているi弘前に引用した九ぎくはかつて一変も君のことを政治的人間だと

考えたことはなかったJ云々の手紙はこの時のものである。

これに対しツノレゲーネフは 11月 4Bfすの手紙でつぎの援に回答している。

「… F鐘dIvこのった君の最後の書籍についてだが,前のすべてのと同議,賢明で,繊細

で,美しし、。しかし結論もなければ応用もなし、。しかしこれほどくりかえして外的に素晴ら

しく内的に醜い西欧と,外的に説く内的に素晴しい東方とを対量されると,どれほど賢明

な人にもなお存するごまかしがあるように思われてくる。ごまかしというのは,第ーには

複雑でなくわかりやすいからであり,第二に al'air d'etre trるsingenieuse (気がきいて

巧妙であるかのように見える〉からだ。しかしぼくにはすでにそこに使い古され,見えす

いた意図が感じられる←ーいかに君の雄弁をもってしても,このごまかしを大きくロを開

いた墓穴から救い出すことはできま L、。この墓穴の中でごまかしが,へーゲノレやシエザン

グの官学だとか,フランスの共和制だとかスラヴの種族的生活慣習だとか一一遠憲なしに

付け加えさせてもらうなら一一偉大なる社会主義者ニコラーイ・プラートノヴイヅチ2)の

論文などと entres bonne compagnie. (きわめて仲よく〉横たわっているわけだ。

君の言っている砂漠の熟成めはひとり西欧だけでなく.わが匿にも吹き荒れている一一ー

それなのに君はほとんど四半世紀(16年間〉もロシアから離れていたので,頭の中でロシ

アを改作してしまったのだ。君がロシアのことを思うにつけ悲哀を惑ずるのは傷ましいこ

とだ。しかし本当のところ,この悲哀は君の想録以上に悲しいものだということは信じて

くれのそしてこの点ではぼくは君以上に人間嫌い(ミザントロープ〉だ。ロシア人は虐待

され鉄の鎖をつけられたミロのヴィーナスではない。それは姉と同じような娘だ。ただお

尻が少し大きいだけだ一一そして彼女はもうくー・…め〉一ーやがて婿たちと同じようにほ

っつき歩くことになることだろう。まあ.オストローフスキーの言葉でし、うなら,姉妹中

の醜い娘というところか。見弟よ, もう少し一生懸命ショーベンハウアーを読む必要があ

る。

だけど,これで十分だろう。君のこれからの書籍を待ちこがれている。そして君の手を

握る。

。repu.eH,XXVII. 262 (1862年 11月 1日付〉。

2)オガリョーフのことである。

3)強調ー罪文。

4)原文において欠けている。く生娘で誌なLうの意か。

78

Page 80: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つ の論争

君のI1B. ツ/レゲーネフー11)

かなり辛採な返答である。しかし論旨は一貫している。ロシアが丙欧諸国と同じ家接の

一員であり,西ヨーロッパに荒れくるっている近代化の嵐はすでにもうロシアにも来てお

り,やぷては姉たる西欧諸国と同じ運命を妹たるロシアもたどるにち 7)~¥,、ないという主張

がそれである O

さらに作家たるツノレゲーネフのするどい目は, ゲ‘ノレツェンの文章の美質を認めながら

も,そこにある種のいつわり,ごまかしを見抜いている。哲学とか社会主義とか共和制と

かし、ったさまざまのものがスラヴ主義者のいうロシア的伝統の優越性や.ゲノレツェンおと

くいのロシアの若さと一緒になって.ある鍾の手品の種をなしている,というのである。

手紙の最後に触れられているショーベンハウアーに関しては,その後の論争の中で向度

か言及されるが,ツルゲーネフは早くからこの哲学者に注目していたと言われる九 しか

し全集の書簡中にその名が出てくるのはこの持がはじめてである。グランジャールによれ

ば, ゲ、ノレツェンも亦ツノレゲーネフのすすめで,すでに 1855年ごろにはショーベンハウア

ーの <<DieWelt als Wille und Vorstellung>> を読み,その後も何度か読みかえしてい

るsh ツルゲーネブについて言えば,彼の 1848年の革命の挫折以来心の中に抱いてきた

ペシミズムが,農奴解放後のロシアの現実に対するどうにもやりきれぬ気持と, 11父と子』

に対する若い位代の批判とからより強められ, 1862年以後は一段とショーベンハウアーの

哲学. とりわけその政治的スケプテ f シズムに惹かれるようになったということが指婦さ

れている的。ツルゲーネフのこのペシミズムは散文詩<<瓦aBOJIbHO!>> (1862 - 64)や《口p-

H3paKH>> (1863),さらには長編小説《煙>>(1865 - 67)におし、て明瞭に出てくるが,そこに

おけるショーベンハウアーの影響は疑いの余地がない5h しかしショーベンハウア iの場

合そのペシミズムは「美的静観」に最後に逃げ場を見出すことができたが,ツルゲーネフ

の目からすれば,これもまた他の芸街的創造を含めた人間の創造一般と同じようにある種

の「わなJでしかなかったの。上記の作品を通しての彼の思想は, Iこのうつろなる幻の世

界において.死だけが唯一の現実的なもの」休日pH3paKH>>)であり,所詮人生は同じむな

しい常みのくりかえしにすぎないく《且aBOλbHO1>>)として,ゲ、ノレツヱンとはまた違った意

味で人間の進歩を否定するものであった730

L 、ずれにせよツルゲーネフには, この f第五書簡J こ自分が以前すすめたショーベンハ

ウアーの西欧文明へのペシミズムがゲ、ノレツェンによってたくみに西欧社会の否定のトーン

として利用されていることが見てとれたのである。伎にすれば. これも一種の「ごまかし

。TypreHeB,V, 64-65. 2) H. Granjard, Ivan Tour guenev et les courantsρolitiques et sociaux de son temps, Paris, 1954,

p.325.

~O Granjard, ibid., pp. 325. ゲルツェンがこの作品をはじめでとりあげたのは王lt極星~ 1-1855 .こ

おいてであった。ファクシミリ販 245頁,注 44参照0

4) Granjard, ibid., pp. 324-:327. 5) ibid., p. 324.

6) ibid., p. 330. 7) ibid., p. 328-329.

79

Page 81: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

と思われたのであろう。さらに, ロシアを離れて何年にもなるゲノレツエンのロシア観その

ものも,同じく想像上の産物としか考えられなかったので、ある。現実のロシアの「悲哀は

君の想像以上に悲しいものだj としサ表現の意味するところは甚だ重く旦つ深い。

〔第六書簡〕

つづく 10月20B付のこの書簡では,かつて『向う岸から』で述べられたゲノレツェンの

「自然的歴史観j 怠るいは「種の歴史観j とでもいうべき主張があらためてくりかえされ

ている。

自然においてはあらゆる生成・形成が,それぞれの種の受胎のときに決定された原理に

従って発達するc しかし新たな要素や条件や環境が発達の傾向を変えることもまた可能で

ある。個性とか特殊性1)はこのようにして生まれる九 しかもこのことは植物のみならず

動物についても言えるところである。一般にわれわれは完成した形しか見ることになれて

いないが,それぞれの種が今日の形をとるまでには多くの志向や,進歩や, avortement C流

産〉や平均化があったので忘る。

さらにこのことは人類の歴史についてもあてはまる。人類の中には自らに適合した形態

を作りあげ,いわば歴史に勝ったものとあれば,現に活動と戦いの中に歴史を創造しつつ

あるものもある。また第三として,すべての飽の種のために肥沃な土壌を準備する役割を

もっているものもある。

ところで自分には,西欧世界が何かある限界にまで到達してしまったように思われる。

そこでは少数の活動的な人びとすら新しい思想にふさわしい形態を作り出すこともできな

ければ,古い理想と訣別することもできず,さらにはこの出来上ったプチ・プル的国家

が,中国的形態が中国にふさわしいようにゲルマン=ラテン民族の生活形態にふさわしい

と公然、と見なすこともできないでいる。しかしてこれと同じような例を,われわれはかつ

てローマ社会の末期にも見たことがある。彼らもまたその限界にまで到達して, ワルワー

ルにとって替られたの彼らは新しい原理を自らのものとすることができなかった。今日の

西欧文明もこの点では同様である。「カトリシズムの最後の言葉は宗教改革と革命によっ

て語られた。それらがカトリシズムの秘密を暴露したのである。神秘的な壊罪3)は政治的

解放4)によって解決された…………入口における信仰,愛,希望が,出るときには自由,

友愛,平等になったのである。Ja)

「ゲノレマン=ラテン世界は 1789年の勝利につづくどよめきと狂奔の中に終りを告げ

たりそしてその余震は 1848年まで続いたが, nec plus ultra (もうそれ以上何ものもな

L 、〉。

学問についても道徳についても同じことが言えるつ生命を失った科学には生ける人聞の

芦は居かず,初期のキザスト教徒の時代には大胆で薪しかったモラノレも古びてしまった。

。強調ー原文。

2) KOJlOKOJl, CTp・1229.rep江eH,XVI, 172-173. 3) 4)強講はいずれも原文。

5) KOJlOKOJl,釘p.1230. repu.eH, XVI, 176.

80

Page 82: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つの論争

1848年のあの結実することなき事件は,絶望のプロテストであった。それは創造ではなく

破壊であったが,破壊されたものは反対に一段と強固になった。民主的共和制のユートピ

アは,地上の天国の夢と同じように消え去ってしまった。カトリシズムと革命の全人類的パt9オテイズム

志向は世俗的な愛国主義に席をゆずり,名誉島るスローガンは民族の唯一にして侵すべか

らざる名誉となってとどまった130

18世紀の最後のモヒカン族たる革命のドン・キホーテは,眠ることを欲さず,出来うる

限り大衆を場動しようとする。しかし言葉すくなきプチ・ブ、ルは眠りを欲し,進歩や自由

について何やらはっきりせぬことをもぐもぐつぶやいている O

ここでもまた同じ主張がくりかえきれている。この「第五書簡j は 11月 1日付の『鐘』

に掲載されたが,これを読んだツルゲーネフは,すぐにパリからつぎのようにゲルツェン

に書いてきた。

1-何という手紙のやりとりか.親愛なるアレクサーンドル・イヴァーノヴィッチ 1 お

そらくぼくの中にこのような文句を見出すことは若の気に召すま L、。今日の手紙は『鐘J

にのった君の最後の書簡によって書く気を起されたものだ。

君はまれに見るほどのデリケートさと敏感さをもって境代人の診断をやっているの一ー

しかしいったL、なぜそれがめlp記 es(両足動物)>>一般ではなくて,どうしても西欧の人

間でなければならないのか? 君はまるで慢性療のあらゆる徴侯を検討して.すべての疾

患は患者がフランス入であるということに由来すると宣伝する医者に似ている。ミスティ

シズムと絶対主義の敵である君が,ロシアの毛皮外去に対してはミスティックに敬服して,

未来の社会形態の偉大なる天桔や新しさやオリジナリティといった,要するに君があれほ

ど哲学者に対して笑った dasabsolute (絶対的なるもの)一ーをその中に見出してLι。

君たちの偶像はすべて破壊されてしまったーーしかし偶像なしには生きられない一一それ

ならその恩恵がほとんど何も知られていないこの新しい不可思議な神に祭壇を築けばよい

一一再び祈り,信じ,期待できるというわけだっこの神は君たちの期待することは何ひと

つとしてしなし、。君たちに言わせれば,これは外的権威によって強制的に接木された,一

時的,偶然的なものだからだ一一君たちの神は君らの憎むものを熱烈に愛 L,君らの愛す

るものを憎悪する一一この神はまさに君らが伎のために拒否することを受け入れる一一君

たちは目をそむけ,耳をふさぐ一一一そして懐疑主義にはうんざりしているすべての懐疑主

義者に特有のあの超狂告的な悦惣さをもって《春の新鮮さ,恵みの嵐>>等々についてくり

かえす。歴史も文献学も統計も一一君たちにとっては何でもなし、。たとえばわれわれロシ

ア入が言語の上からも人種的にもヨーロッパと Lづ家族に <<genusEuropaeum>>に属する

ということ一一従ってまさに生理学の変ることなき法則からしても同じ道を歩まねぽなら

ないという疑いの余地なき事実も,君たちにとっては何でもないのだ。ぼくはまだかつ

て,カモ科に属しているカモが,魚のようにえらで呼吸するかもしれないなどという話は

開いたことがなし、。それなのに君たちは,心の痛みと疲労と,からからに乾いた舌の上に

1) KOJIOKOJI, CTp. 1231. fepueH, XVI, 180.

81

Page 83: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト JII 継男

新雪の粒をのせたし、とし、う渇望とから,すべてのヨーロッパ人にとって,ということはわ

れわれにとっても貴いあらゆるもの一一文明,法秩序,革命そのものすら手当りしだし、に

攻撃する一一そして若者の頭を君たちの未だ十分に発酵していない社会主義的・スラヴ主

義的至福で一杯にしては,彼らを酔ってふらふらした状態で、世の中へ突き放す。そこで彼

らは一歩進むやつまづく破百になるというわけだ。君たちがすべてこうしたことを良心的

に,誠実に,憂いに満ち,心の底から熱烈な自己犠牲をもってやっていることはぼくも疑

ていないしこのことは,君も告じているだろう。……しかしだからと言ってよりたやす

くなるというものでもなし、二つに一つだ。前と同じように革命やヨーロッパの理想に奉

註するか,あるいはすでにそれらが破産してしまったことを信じて,あえて両方の1)目で

特徴を見た上で,すべてのヨーロッパ人の前でわ guilty(有罪〉と言うか。その場合に

は,君も個人的にはヨーロッパの救世主と同じように本質的に誌詰じていないロシアのメ

シアの新たな到来があるなどとは,はっきりした形でもほのめかした形で、も例外にしても

らいたくなし、。君は言うかもしれなL、。これは恐ろしいことだ。人気を失うかもしれない

し事業を続けることもできなくなるかもしれないと……〈ぼくはそれに〉養成だ汽一

方では君が現在しているように行動することは不毛でもあると考えるし地方では,ぼく

は君が真理だと思ってL、た¥,、かなる結果に対しても驚かないほどの十分の精神力を君自身

の中に持っていると,君の意に反しても予想しているからだ。もうすこし待ってみよう O

だが,目下のところはこれで十分だろう。

敬具

I1B. ツノレゲーネフ。J4)

先の返事と同様,ここにおいてもツルゲーネフはかなり辛嫌にゲルツェンを批判してい

るO そしてその場合の彼の主張は一貫して変っていなし、。ロシアがヨーロッパに属するか

否かということは, 三十年誌にチャアダーエフによってはじめて取り上げられて以来へ

四十年代の西欧派とスラヴ派の間で激論がたたかわされたところであったが,ここでツル

ゲーネフは,はっきりと言語の上からも人種の上からもロシアがヨーロッパに属すること

を自明の理とした上で〈カモがえらで呼吸するか 1),ゲノレツェンがスラヴ的メシアニズ

ムをもって若者を迷わしていることを,はげしく批判している。前の手紙に書いたゲルツ

ェンの「ごまかしj の実態が,ツルゲーネフの目からみてどこにあると思われたか.この

返事にはっきり示されている。さらに倍人的にもゲルツェンをよく知っていた彼は,ゲル

ツェン自身すらこのようなスラヴ的メシアニズムを心の底で信じていないことを確信して

いた。ゲルツェ γが懸命になってヨーロッパの衰退を説けば説くほど,ツルゲーネフにし

てみれば, i狂信的」にも「ごまかしJ~こも思われたのである。

一方ゲルツェンの方は以上の 11月4日と 11月8日付のツノレゲーネフの手紙に対してつ

ぎのように返事を書いた。

。2)強識はともに原文。

3)かっこ内は引用者の挿入。

4) TypI‘eHeB, V, 66-a (1862年 11月8自付の手経〉。

5)拙稿「哲学書簡ー翻訳及び解説-JWスラヴ研究JlNos. 6-9参照。

82

Page 84: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つむ論争

「ぼくは一月ほど前君にかなう悪意のある手紙を書いたのだが,告分の家の机の中にし

まっておいた。その後君の『終りと始めJの最後の書箆を反駁した手紙が届いた。 J呂の評

価は間違っているが.これについて書くことは気がすすまなL、。君は自分がショーベンハ

ウアーと一緒に(ショーベンハウアーについては,ぼくはエンゲルソンと《北極星》第一

巻に,ということは 1855年に書いたことがある九)ニヒリストになってしまったことに

気づいているだろうか……第一に若はその鋭い観察力からしてぼくとオガリゴーブが仲の

よい親密な関係にあるのを知っていながら,どうしてぼくにるてた手紙の中で彼の論文を

罵ることを賢明なことだと思っているのだろうか?諺二として,ぼくはすべて公けの場で

行われる誠実な行為は,すくなくともいやいや雄娠した交性よりも非難に対して多くの道

理を付加するものだと思っているo sはオガリョーブのどんな社会主義について語ってい

るのだ? どんな意見に,いかなる結論に君は不満足で,賛成できないのか? なぜ伎の

長心的な仕事をノミクーニン流のデマゴギーの fatras(こ:':1.;...の山〉と同列に置くのだ?

『鐘』はオガリヨーフが作ったものだ。

「ヴェーチェ』もオガリヨーフが作ったものだ。もっともこれは君たちの家系には気に

入るまいが……しかしこれによってわれわれは分離派教徒と通信が持てるようになったのザ炉

れ」っ

かつてボトキンがぼくに対 L.われわれは農奴的解放についてずし、ぶん書いてし、るが

一…解放のためには決起を云々する論文をもって代えてはならなかったのだと言ったこと

がある……ボトキンはミリューチンと話すたびに,そのあとで保守的になる一一君は若い

世代にわ遺恨を持っていて.老人みたいに始終がみがみ言っている一一彼らが身近なのを

よいことにしてO

君がこれらの文章を全ロシアの丈壇の大御所のようではなく,ぼくが憤慨しながらも愛

している人間として読んでくれることを,今後にのぞんでいるO

Addio

A. ゲ/レツェンJ3)

ここではもっぱらツルゲーネフが 11月 4日付の手紙で書いた「偉大なる社会主義者ニ

コラ一千・プラートノヴィッチj に対する弁護が行われている。前にも触れたようにツル

ゲーネフとオガリョーフとの関係は.信人的な恨みもからんでかなり以前からよくなかっ

たが,後にみるように〈第 V 章〉オガリヨーフの起草したアレクサーンドル二tttへのゼ

ムスキー・サボール招集の請願をツルゲーネフがついさきごろ拒否したことも加わって,

両者の間はいっそう悪化していた。かねてからツルゲーネフのオガリョーブに対する「反

目J(第 III章参照〉に心を痛めていたゲ/レツェンは, ここにおいて論争の本質を忘れて

猛然とオガリョーフの擁護に立ち上ったので、ある。しかしこの手紙の最後で暗示してい

るように, ゲノレツェンから見るならばツノレゲーネブの立場は, しだいにボトキン流の「保

守主義Jfこ傾いていっているように思われたのであるう。すくなくとも現実の政治に背を

。79頁の註 3)参燕。

2)強調一原文。

3) repueH, XXVII, 264-265. (1862年 11月 22日の手紙〉。

83

Page 85: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

タト j話継男

向けて,ショーベンハウア一流の懐疑主義から,ツノレゲーネフ自身が『父と子』で描いて

若い世代の関に物議をかもしたあのすべてを否定する Fニヒリスト」に近づいたように考

えられたので、あろう。この「ニヒリスト」をめぐって二人は後年何震か論争をかわすよう

になるが,今はふれない。

これに対してツルゲーネブはただちにつぎのような返答を寄せた。

「親愛なるアレクサーンドノレ・イヴァーノヴィッチ。君が自分の意、留を変更して,ぼくに

悪意のある1)手紙を送ってくれなかったことを残念に思っている。悪意のある手紙でも,

旗を立てた手紙よりまだましだ。しかしぼくは非難をしかえそうとはまったく思わない

ーーとにもかくにも君が返事してくれたことを嬉しく思ってしι。たしかにぼくは自分の

反論に対して反駁がなされるものと期待していたーーしかし君がぼくの少なくとも記憶し

ている譲りでは,オガリヨーフや,そう彼の理論と言った方がよい,彼の理論に対して全

熱辛諌でもなければ非礼でもない暗示に腹も立てれば,ふかく悩みもしたということはわ

かった。悪かった。このことは言わなかったほうがよいということを認める。そしてこれ

ほど君が共感を抱いている傑について君を苛立たせるようなことは,今後ひとことも言わ

ないと約束しよう。しかしこれだけはぜひ言っておきたし、が,ぼくの上述の理論に対する

嫌悪の中には<<姫娠した女性》の嫌悪のような愚かなものはなにひとつ春在しない。ど

うしてそのように考えるか君に詳細に述べることもできるが,君を説得させることは望ん

でし、ないし再び君を怒らせることを怖れもする。

だからこの問題は,サィース2)の偶援のようにわれわれの間だけで,見通しのきかぬ覆

いの下に置いておこう。

君のニヒリズム33についての非難もいただきかねる。(ところで, これは運命だ。ぼく

はこの石を投げたのに一一それがぼくの頭に当ったわけだ。〉ぼくはニヒリストではない。

なぜならぼくは自分の理解しうる限りで,全ヨーロッパ家族4) (勿論ロシアも含めてだが〉

の運命の中にある悲劇的な側面を見ているということだけからもそうだ。それでもぼくは

ヨーロッパ入だ一ーとして青年時代からその下に立っているこの旗を愛し,信じてL、る。

君は一方の手でそのめ旗竿を伐り, もう一方の手で未だわれわれには見えない何らかの旗

竿をつかんでいる。これが君の仕事だ。一一そして多分君は正しいのだろう。しかし君

がぼくに何か副次的な目的〈寄生虫を養う満足といったような〉や,若い世代に対する憤

慨といったありもせぬ気持を付け加えたのは正しいとは言えなし、。どうしてそうしたんだ

? これは君に対して,君は確信からではなく虚栄心等から語ったり,書いたりしている

といって非難するのに似てはいないだろうか? このようなたぐいのあて推量や控造は,

卒直に言ってわれわれにとってふさわしからぬものだ。

君の手を臣く握り,君の壮健を祈る。君がぼくを愛しているというのは,ぼくにとって

大いに嬉しいことだ。よく考えてみれば君のぼくに対する不溝が何の理由もないことに気

。強調ー原文。

2)ジラーの詩 <<Dasverschleierte Bild zu Sais>)をさす。

3)め強露はいずれも原文。

5)強調ー原文。

84

Page 86: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

づくことを確信している O

敬具

HB.ツノレゲーネフJ1)

この手紙の調子はなかなか複雑であって,言外にもかくれた意味や感慢のあることが見

てとれる。ツルゲーネフにしてみれば,なぜゲノレツェンがむきになってオガザョーフを擁

護したのか当初酉喰ったに違いなL、。しかし作家の鋭い自はそこに理屈を抜きにした人間

関係の機徴をいち早く見抜いて. Iさわらぬ袴にたたりなしJと避けたのが感じられる。し

かし最低これだけは是非言わなければならないと思ったことは.はっきり言っている。

「ぼくはヨーロッパ人だj云々がそれであるo Iニヒワスト j という評儲の誤りもまた甚だ

しL、。いずれにせよ.二人の間のどうにも埋めがたい需が,ツルゲーネフによってはっき

り見て取られたことが,手紙の調子ににじみ出ている。「そして多分君は正 Lいのだろう j

とLづ表現ふ君には君の行くべき道があり.それはそれでよいのだ,といった,っきは

なした態度が背後に感じられる。

この手紙を受け取ったゲ、/レツヱンは,今度はすぐに返事を書いた。

l……君の手紙受け取った一一一ぼくが『終りと始めJの最後の論文に対する君の批評に

答えなかったことを非難し,旦つぼくを黙らせるまで攻撃したことを多分遣様に思ってい

るようなので,昌己弁護のために一筆する。しかし君を慰めることができるだろう。ぼく

は 1863年の『鐘』にのる一連の書簡の続きの中で(勿論手紙のことは言及せずに)君に

返答をするつもりだ。手紙の中で tetea tete (顔をつき合わすの〉はうんざちだ。なお,

君は誰かが(多分カトコーフ,チチェーリン,シェド=フェロッティ,パーヴロフそしてチ

マーシェフだと思うが〉ぼくの書くすべてが産栄心からだと言っていると,怒って引合い

に出しているが,いったいどうしてそんなことに腹を立てるのか一一一ぼくが金のために書

こうと,退屈だから書こうと何であれ,そんなことは糞くらえだ。問題は--was geleistet

Ist (行きついたところ〉一一よいものか悪いものかにある・・・…

ニヒザズムが君の頭上に落ちたということだが一一一これは第一に砲丸を高く投げる力に

はよくあることだ…ー・はるか頭上たかく投げて,その頭の上に落ちてくるというやっさ。

しかしくりかえして言うが君の最後から二番目の手紙は,チェノレヌイシェフスキーやドブ

ロリューボフたちのニヒザズムとは正反対の熱意、や苛立ちとはまったく反対の疲れや絶

望わの完全なニヒワズムを環わしている。

その証拠に君は観念論的なニヒザストにして仏教徒にして死をたたえるところのショー

ベンハウアーの権威を利用したではないか。(だけど伎のことを思い出させてくれたこと

は君に感謝するρ

君がオガリョーフの理論3)の攻撃の秘密をぼくに明らかにしてくれなかったことは大い

:1) TypreHeB, V, 72-73 (1862年 11月25S入2)強調はいずれも原文。

3)強調一原文。

85

Page 87: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

に残念だ。一一ぼくがし、かなる批判にも援を立てることはありえなし、。ただ君の賓成で、き

ない法案の解釈の分れ目が exempligratia (例として〉晃られたらと希望してし、る。一一

今までのところは,傷ついている人びとに石を投げることは,推娠した女の気まぐれとま

ではゆかなくとも,男の娃娠ぐらいふざけたものだとぼくは思っている。一一君はその解

釈でぼくに患を施してくれた。きっと役に立つことだろう。

今後ぼくは一一君の御承諾をえて一一論争を終えることにしようり。

二人の手紙をくらべて読むと,打打発止の打合いを晃る患いがする。お互いが相手の言

葉を利用したくみな比犠を用いて筆の進むままにやりあう様は,まさに壮観な見物と言

ってよ乙、。しかしここでも述べているように,ゲノレツェンはもっぱら自分の主張を『終り

と始め』の中で展開してきたし,これからもつづいて「第七,第八書簡j の中で主張する

ことになるのに対し,ツルゲーネフの方は,もっぱら私信の中でしかできなかった。そこ

にツノレゲーネフのもどかしさが感じられる O しかしつぎの 12丹3日付の手紙は, この点

で今までの手紙とはやや調子を異にし,言葉の上の打合いはやめて,論争の的をしぼって

発言しようとしている態震が見られる。ツルゲーネフにしても,おそらく今までのような

務でやり合うことは「うんざりするJ思いだったのであろう。

「窺愛なる友よo 誰だか思い出せないがどこかの賢者が,いかに賢明な人間といえども

この上なく明らかな誤解から免れることはできないといって言た。われわれにはこの謡言

が当っていないだろうか? 自分自身考えてみよう。たとえば,ぼくは君の仕事の理由に

童栄心をさがすことは,寄生虫を愛するのと同様ばかけzたことのだという点で,岳分が間

違っていた。しかし君は自分が働くのは虚栄心からではないと主張して援を立てている。

ぼくがショーベンハウアーの名をあげるのと,君は権威に服従するとぼくを非難する。

一一ぼくがオガザョーフについてほんのひとこと言ったことには援を立てないで,ぼくの

質問に答えてくれと言うと,君はぼくが君のことを《黙らせるまで》攻撃したことを遺憾

に思っているのではないかと皮肉に当て撞量したりする等々。どうかこういう調子は願い

下げにしよう。はげしく議論した方がよ L、。ただ ricanemets C冷笑〉や言い残しは一切

なしにして友人としてやろう。この点でぼくが (sansle sa voir一自分でも知らずに〉罪

ありとせば,君tこ許しを乞うまでだ。一一そして bastacosi (それが全部だ〉。

君はぼくが作家としてのオガザョーフを嫌っている理出を述べるよう要求している。ぼ

くは喜んで君の言うことに従うが,手紙の上では,これはきっと根も葉もないのことにな

るだろうと,思わずにはいられない。手紙の上で論拠を引用したり,数えあげることが不

可能だということ辻君岳身よくわかるだろう。一一ただぼくにとってそれらが実際に存在

するものであり,且つぼくが生理的にも心理的にもまったく姫娠してはいないということ

だけは信じてもらいたい。ぼくがオガリョーフに共感を持てないのは,第一に,彼はその

論文でも手紙でも会話でも,ぼくの賛成できない共同所有等々の奇妙な社会主義理論を宣

。repueH,XXVII, 265-266 (1862年 11月 29-30日の手紙〉。

2)強講一京支。

3)強講一原文。

4)強講一軍文。

86

調Y 1理主

Page 88: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

伝しているからだ。第二に,復は農奴解放等の問題において,現在の民衆の生活と彼らの

要求についておどろくべき無理解を示したからだ。このことは現状の理解の仕方について

も言えるの第三として最後に,彼がほとんど正しいところでもくたとえば裁判制度の改

革).自分の見解をまったく才能の欠如した,重し沈帯した支離滅裂の暴露的な言葉で

述べているからだのしかし君自身もこのことは惑じていないまでも. [J鐘Jlが次第に!駄吾

になり,大衆が冷淡になっている明白な事実から疑問に感じてはし、るだろう。まったく政

治的亡命者の耳には,ツアーリの耳に入りにくいのと同じくらい入りにくいものだ。した

がってそこまで聞かせるのは友人の義務だ。 <<u鐘Jはオガザヨーフが牛耳るようになって

から,ずっと読まれなくなった>)--pシアではこの文句比英国で truism(自明の理〉と

呼ぼれているものになった。そしてこのことは理解できる。ロシアで『鐘』を読んでいる

人たちは,とても社会主義どころではないσ 彼らは君が万折れ矢尽きて退陣したまさにそ

の批判を,純粋に政治的なアジテーションを必要としているのだ。パクーニンの解放令に

抗議する文章の二分のーりと,オガリョーフの社会主義的論文2) とを印剥した F鐘Jlは,

もはやゲノレツェン的3) U鐘Jlではなし、。ロシアが理解し愛していたようなかつてのめ『鐘J

ではないの日下のところ,ぼくが君主こ言えるのはこれがすべてだの

此の地で君の可愛い娘さんたちと会うのは大きな満足だの設女らにできるだけのことは

しょうの君の手を握る。故然として君を愛しつつO

日B. ツルゲーネフ Ji)

この手紙にはこれまでの暗示ゃあてこすりはほとんど晃られなL、。ツルゲーネフはかな

り卒直に自分の気持を書いている。もともと設はゲノレツェンとバクーニンやオガリョーフ

の間には政治的見解の上ではっきり一線が画されており.ゲノレツェン自身も内心では『鐘』

の急進化をにがにがしく患っていたに違いないと考えていた。これは一面において当って

いないわけではない。農奴解放以来のロシア国内の農畏問題に対する鋭い指摘と,ツアー

リ致府に対する非難は. IF鐘』の中でもっぱらオガリョーフによってなされてきたからで

あるわゲノレツェンはむしろ「ポーランド問題Jvこ対する致宥の弾圧政策の批判により大き

な力を入れていたn

しかしこの手紙の中でツルゲーネフがオガリョーフを批判している三点のうち,すくな

くとも最初の二点はゲルツェン自身にも当てはまるものであったの農村共同体を基礎とし

ての社会主義への移行の主張は,決してオガリョーフによってではなく,まさしくゲノレツ

ェンその人によって十数年来説かれてきたことであるし民衆の生活とロシアの現状に対

する「おどろくべき無理解」ぶりも,オガリョーフより十年近く前にロシアを去ったゲノレ

ツェンにより妥当するところだったからであるの

1)話出のパグーニ γの論文 Fロシア,ポーランド及びすべてのスラヴの友へ』は後半が掲載されずに

経った。

2) オガリョーフのれ、くつかの問題の整理~ C [J鐘~第136-138号(1862 年 6 月 15 日一 7 月 1 S)J

等をさす。

3) 4)強調はいずれも原文。

5) TypI‘eHeB, V, 73-75.

87

Page 89: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 JII 継男

かつて『鐘Jの発刊に際してその成功を危ぶみ,ゲノレツェンの才能の濫費を惜しんだツ

ルゲーネフの予言は,次第にその形をとっていったかに見えた。『鐘Jはもうかつての『鐘J

ではなくなってしまった,というツルゲーネフの言葉にはいろいろな思いがこめられてい

たことだろう。はたしてこの時からーケ見余してポーラ γ ドに革命的蜂起が起り,かねて

から時期早尚をとなえていたゲルツェンは,これを悲しい気持で, しかしむのまからの共

感をこめて支持するが,ロシア園内のiit論はこれを境にはっきち『鐘』に背を向けるよう

になるのである。〈第 VI章参照〉

しかし F繋ちと始め』は未だ終ってはし、なし、。翌 1863年 1見 5Bの f鐘』にはひきつ

づき次の書簡が掲載されている。

〔第七書箆〕

この書簡の E付は前年の 12月 29Bになっており,前半は論文調であるが,後半はこれ

もまたゲルツェンの「好みのスタイル」である対話形式になっている。

まずはじめに彼は,これまでの六書簡につぐこの書簡を,六B鋤いたあとの日曜にたと

えて, くつろいだ休日について物語る。しかし英国ではこの B曜というのはこの上なく退

毘な自になっている。六日のあいだ毎5同じたく%、の退屈な仕事をしそのあとでようや

く訪れるこの日が,何らなすところない最も味気ない吾になっているというのである。

ところで今昌の教養ある階級の一部を克ると,彼らは連うたかも若き告の夢と未だ克ぬ結

婚の幸せとを憂いをこめて物思うオールド・ミスにも似ている。このようなヨーロッパの

もっとも発達した階震の憂欝というのは,実現せぬ夢と環実蔑視の間にはさまれたいつわ

れる状態からきている。そしてさらにその根底には,ヨーロッパ社会がすでに若き呂を過

ぎてしまったということが指捕されねばならない。かつての苦労や戦いのあとで,静かだ

が退屈な B々が訪れた。そしてこの「西欧文明の最終的形態がプチ・プノレ佳で、ある。Jl)

浅瀬に乗り上けγこと患ったキリスト教も,宗教改革の石の港で静かにおさまっている

し,革命も産礁したと患ったらリベラリズムの静かな砂浜で憩っている。このりベラザズ

ムというのは,政治的なよしなしごとの中ではかなりきびしい方であって,よりを交穏な政

府に対するたえざるプロテストと不断の服従とを合体することに成功した230

西欧世界はこのような寛容な教会と飼い麟らされた革命とによって,落着きをとりもど

し,平均化きれてしまった。この息苦しさに耐えかねて,パイロンはギリシヤへと去り,

フランクフルトに穏壊していたショーベンハウアーも,セネカのように死の進歩を認めて

それを救い主として歓迎したのであった・ー…だがこのことをもってしてもヨーロッパの生

活が静寂と結晶化へ変化することは何ら妨げられなかった。個性は擦り切れ,すべて擦立

った個人的なものは滑らかになってしまった。人びとは隣人の生き方や個人の運命に無関

心になり,炭鉱の災害も鉄道事故も,今呂何人死に,明日は荷人死のうと,あたかも個人

1) KOJIOKOJI, BbInycK VI, CTp. 1278. repu.eH, XVI, 183 2) KOJIOKOJI., CTp. 1278. repu.eH, XVI, 184.

88

n τ..-w 霊a・・~_.~ョーヨ

Page 90: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二つの論争

的不幸であるかの如く見なされている。人間が高品のように,ーまとめにして数ではから

れるように在ったので‘あるo

この講ち足り気なヨーロッパにおL、て,今日だれが真剣に社会主義について考えている

だろうか! はるか彼方で雷鳴が聞こえるが,鎧戸は閉ざされ,稲妻も見えない。

ついでゲルツェンは場面を変え, 八年前に描いた会話体の中編小説<<I1oBpe)K}J.eHHbIH>>

の主人公たるエヴ、ゲーニィ・ニコラーエヴィッチにたまたまロンドンで会ったことにして,

このかつてのペシミストと会話をすすめている。イタリアにおいてガリノくノレディと共に戦

った設は,医者である友人のフィリップ・ダニーロヴイッチと共に,すでに現員はテキサ

スに渡ろうとしているところであった。窮待した戦争は起らず,ヨーロッパの生活は彼ら

をうんざりさせるに十分だったからである。エグゲーニィ・ニコラーエヴィッチから見れ

ば,西ヨーロッパの園長vi¥'、まや疲れ果てて,体患を欲している。すでに彼らは溝ち足ち

た生活の中にあるo r資本も熟練も秩序も中庸も, 必要なものは何でもあるり「かつては

むずかしい問題L 愛すべき夢もあったが,今やすべてが落着いてしまった。プロレタリ

アートについての問題も静かになった。Jl)それではロシアはどうかと言えば, クヲミア戦

争後は誰も恐れなくなった代りに, もはや期待もしていなし、。未来の期待に生きるのもよ

いが,言下のところは官吏が賄賂をとワ,地主がし、がみ合っているのを止めさせないこと

にはどうにもならぬ。

これに対してゲ/レツェンは,だからといってテキサスに行くことは逃避ではないか,

「オランダ的安らぎに入り,フジマメの雑炊のために最良の夢と聖なる努力に別れを告げ

る」ことにはならないかと疑問を提するO しかしエヴゲーニィ・ニコラーエヴィッチは,

このヨーロッパの「墓のま口き安らぎはオラン夕、、流のそれより悪い」ものであると悲しく頭

をふるばかりであるわ。

以上の会話体の描写の内容は,本質的にはし、ままでの書簡と変らず,またF向う岸から』

の中で「中年の男Jと「若者j との関に仔われた会話とも同じである。ヨーロッパ社会の

みならず, ロシアの現状にも満足できなければ,それこそテキサスにでも行くほかはある

まし、。ツノレゲーネフの指摘したゲノレツェンの「疲労j は,援の分身であるこのエヴゲーニ

ィ・ニコラーエヴィッチにはっきりあらわれている。会話の最後で彼は,一生暗い地下で

穴を堀りつづけるモグラの話をしているが,いくら通路を作ってもそれを見ることもでき

ないモグラの中に,人間の営みのむなしさが暗示されており. rこのモラノレをもってJゲソレ

ツェンは庁終りと始め』の第一部と 1862年の最後の丹を閉じJている O

ツノレゲーネフへの約束にもかかわらず,この書箆はまたしても「古い主題」のくりかえ

しに経っているO ただ西欧社会の行きづまりに対する考察は.いままでより一段と徴に入

り絹をうがって,人間の心理や気分のひだまでを適確に晃通しているところは,モラリス

トと Lてゲノレツェンの面白がよく出ている。

1) KO.7IOKO.7I, CTp. 1280. repueH, XVI, 189.

2) KO.7IOKO.7I, CTp. 1281. rep誕百, , XVI, 191,

89

Page 91: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

外 )11 継男

〔第八書簡〕

『終りと始めj の最後をなすこの書簡は翌 1863年 1月 15日に書かれ 2丹 15F:l付の

『鐘2の第 156号に掲載された。 1足2213の蜂起の宣言をもって開始されたポーランドの

革命的反乱はすでに口火が切られ,この号の巻頭には『ポーランドにおける犯罪』と題す

るゲノレツェンの一文も亦掲載されている。

この書箆は, u鐘』を手にした一人の紳士がゲルツェンの部屋にあらわれて, ゲルツェ

ンを「愛しその才能を尊敬するJが故に, u終りと始めJを「終ワにすべきJだと言うと

ころから始まる。復に言わせれば,著者たるゲノレツェンは語りかける読者の「年齢も環境

もJ知らず, ヨーロッパとその文明に対する不敬によってロシアの読者に「きわめて有害

な影響を与えているj からである130 このような主張が今まで晃てきたツノレゲーネフの手

紙の調子にきわめて近いことは言うまでもあるま L、c ゲノレツェ γは相手がなぜ『怒りと始

めJ を書くのかと質問したのに対し, r自分の真理だと思うことを書いているのであり.

真理に無関心でいられない人は誰でもその真理を広めたし、という弱さを持っている」と答

えている。そして若者に悪影響を与えるとの批判には,古来ソクラテスもヴォノレテーノレ

もシラーもベリンスキーも,みな同じ批判にさらされてきたし,さらにこの点でロシアの

若者はニコライ時代のひどい環境の中でも「堕落する」ことが少なかったから,吉分t主心

を安んじていられると返答している。

さらに栢手はゲノレツェンが「よき解部学者Jではあるが. r悪しき産科医」であって,現

代人の病気の原因を,患者がフランス人であるとかドイツ人であるということに求めてい

ると批判しているが,いままでのツノレゲーネフの手紙を見てきたわれわれにはこの発言

が,とりもなおさず彼の反論そのものであることがわかる。それなのにゲルツェンは死体

ばかり解剖してきたことにうんざりして,今度は《未来の外套を,共同体の外套を.社会

主義の外套》を讃美するようになった。懐疑主義から義務や仕事を引出してきては.人民

にあらゆる善を期待し未来の社会形体の独創性を説くが,現実を晃ょうとはせず,超狂

信的な悦惚さをもって耳をふさぎ, 呂を閉ざしている。ゲルツェンも若者たちもなか主力、

酔をさまそうとはしなし、。ゲノレツエンたちにとっては塵史も,文献学も統計学も,すべて

これら反駁し難い事実が二束三文の何でもないものになっている O

以上の発言はツノレゲーネフの手紙の中の言葉そのままのくりかえしと言ってよ L、この

あとゲルツェンはそれでは一体何が疑うことのできない事実なのかと質問するが,栢手は

ツノレゲーネフがまさしく手紙の中でト述べたこと.即ち「われわれロシア人は言語的にも人

種的にもヨーロッパの家族に genuseuropaeumに属するものであり,従って,生理学の

不変の法期そのものからも,同じ道を進むべきだJと答えている。

このような批判に対してゲルツェンは, r第七書簡」 まで述べてきた主張をつぎのよう

にまとめて反論している。

即ち,発達の全体図は予見することのできぬ無限のバリエーションを排除するものでは

ない。発生的に同じだからといって biography が同じになるということにはならない。

1) KOJIOKOJI, CT手 1297.rep託銀.XVI, 193.

90

r>:;

Page 92: Instructions for use - HUSCAP...JIH Harnero BpeMeH汚3THO,lI. HOCTpOHHHe onpe,lI. eJIeHH匁Hero,lI.匁 TC兄. nHeBHHK fepu. eHa, 17 Ma民 1844 はじめに 19世紀の40年代がロシアの社会思想史の上できわめて特異な一時期であったことはよ

二 つ の論争

カインとアーベノレは兄弟だったのに.両者の経壁はまったく違うものになったで誌ない

か。このようなことは種についても言える。カそがえらで呼吸しないことはた Lかだが,

fよりたしかなのは石英がハチスズメのように飛ぶことはなし、」ということだ。それに学

問ある友人は知らないかもしれぬが,君はきっとカモにも大動脈が下をこ曲ってエラを作る

ような枝娠に分れる一瞬があったことを知っているだろう O

私はプチ・ブノレ性というものが, ロシアが巨ざしている最終的な形態だとは思わない。

あるいはロシアが fプチ・ブノレ的時期を経過するりことがあるかも知れなし、。またヨーロ

ッパの諸民族自身別の生活に移ることもあるかも知れなし、。ひょっとしたらロシアがまっ

たく発達しないこともありうる。しかしこれはまさに豆藍註2)であって, したがって別の

可能性もあるわけだ。J3)

「ヨーロッパとアジアの間に心ひろく散在しているロシアの富民は, ヨーロッパ諸富民

の共通の家族のなにか従元弟に属しており,ほとんど西欧の家族の年代記には参加したこ

とがなかった。J

f今自までロシアは何ひとつ自らのものを発展させなかったが,何ものかを保ってき

た。一・…ビザンツの影響は多分もっとも深いものである。」その後ピョートルの改革が行

われ,人民の沈黙と譲歩の中tこ国家だけが大きくなっていったorこれは幼定期にはよく

ある話である。」 しかし現在ではその成長が止まってしまったことを, 誰ひとりとして疑

うものはない。九、まや昌分の足で立つ時がきている。J

われわれは力の糞しさを.政府の視野の狭さを残念に思っている。しかしこれは設府な

どというものではない。大学のえらい先生がたは. r生理学の不変の法員むを教えている

が genuseuropaeum vこ属するなどと説くこともこれと同類の古いたわ言に新しい装いを

こらしたものにすぎない。

f自然の中にも生の中にも.新しい動物の種や歴史の運命や冨家形態を予訪したり直止

するいかなる独占も手段もないのである。それらに限界をつけること法,不可能なだけで

ある。未来法過去の主題によって即興曲を作る。発達の相や生活形態が変るだけでなく,

新しい民族が作られ民族性が作られる O そしてその運命はまた別の道を進むのだ。J5)

以上においてツルゲーネフにあてられたゲ、ノレツェンの八つの書簡形式の論文『経りと始

め』は終っているが,論争そのものはまだ終つてはL、なL、。われわれは以下においてそれ

を見てゆくであろう O く以下続く。 Cannopo,5 HO匁6p兄, 1970)

u付記〕 本稿は昭和 45年度文部省科学諦究費による研究成果の一部である。

1) 2) 4)強諒はレずれも原文。

3) KOJIOKOJI,白p.1298. fepll.eH, XVI, 196. 5) KOJIOK句、 crp.1299. fepll.eH, XVI, 198.

(47頁の注(1 ) tこ Yoshio1羽AI,“TheLondon Meeting of Herzen and Chernyshevsky in June

1859" , 工学院大学 f研究議叢』第 8号, pp.1-20を付け加えたL、。本積執筆後筆者は読む機会

を得たが,この論文の中で,今井氏はコジミーンとネーチキナの論争を紹介するとともに,その背

景を論じている。〕

91