jac.or.jpjac.or.jp/info/iinkai/kaiho/196908yamar1.pdf定価一部50円 290-196908 第290号...

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定価一部 50円 290号 昭和 44年 8月10日 発行 (毎 月10日発行) 290-196908 昭和 44年(1969年 ) 8月(No.290) 建買 日本 山岳会 (J.A.C.) エベ レス ト第二次偵察隊 ……………・1 エベンス トの 慎察 ……… 藤田佳宏 2 会員の登山白書 ……… 藤島敏男 ¨。 3 峰偵察隊帰国歓迎会 ………………・3 23回 ウェス トン 坂倉登喜子 4 ウェス トン で唄 う歌 ………………・4 ドン・ ウーズ氏 を迎え る …………… 6 ダ ウラギ リー第三報 …………………・6 訪 ロソ連 アル ピニス ト ……………… 7 1968年 HOK… …… 吉沢一郎 8 会員通信 東北の低い山二つ……… 古沢 …・5 H,K便 ……………… 新貝 5 パ ールの旅 ………… 沼倉寛二郎 …・ 5 会務報告 七月定例理事評議員会 ………………・9 指導研究委員会 …………………………10 第二五二回小集会 ……………………10 婦人懇談会報告 ……・・……・・…………10 図書室便 り 新刊図書受入報告 定期刊行物受入 …… 洋書受入報告 ……… 図書委員会報告 …… その他 ・・・・ lo ・・・・ 10 ・・・。 10 ・・・・ 10 ・・・・・・・・・・ 1 ……… 9 …… …・9 ……… 9 ………・9 女性登山者指導者研修会 …… 山岳図書交換即売会 ………… 会員訃報 ………………………・ ソ連隊か ら ペナン ト寄|キ :::]… ・・ 安全登山十則 ………………… 二次 派遣 = ―南 す= 編成 に全 を投入 ゆる 点で リハ もの であ わち 実な この ため 岩層 岩質 傾斜 どの 断か はん 具類を 食糧そ のテ どを行な 隊の 成 への をし りと 考え てい 部は 象観 らびに を行 本隊 つな とは 番待ち ろま なわ 備は 完了し 否は 天候 ろま いと念 願し 計画 によせ 各位 大変な もの 募金 他に 援と 協力 願うも であ (写 真は 南壁 の第 次偵 察隊は わば 将校斥 候隊 であ 汎な 況偵 と判 ……この 的に 多 くの た隊は 他に ないと 思わ 定か ら出 での 週間 から の到 での かし偵 察隊 目的を した これ 本会の 会 の厚 いい 持つ とで いえる のだ 思う その 報 むずか さは 八〇〇〇 メー 度と 共 本格的な岩登 始まる てい の 困難 もの を 肌に 感 であ エベ メー でに各 国に 登頂さ 持つ 苛 自然の 様 は体 エベ 員会 とはい なお の第 さは ささ い ない てや 未踏の をよ れば ものに なる うこ とは想像 に難 ない ものの 偵 報告 エベ にも ク・ 綿 な計 準備 去の てい け 壁と ない と エベ 委員 内外 〇年 度の でこ を成 功さ 年以降 が目 白押しに 許 請を てい る 状か 以降 こと 出来 ないと 思わ らで 秋の 偵察隊は 綿 もと の 本隊 第二 30 荷物 下旬 田発 12 発二 20 本隊六 羽田 ズに 集 名の ンズ 下旬 建設 10 日I 15 45 偵察 行ない 登す る予 三 分し 名は下山 下旬 はBC て越 ング どを であ 大塚博 山指 研修 ( 大) 女性 のための 研修 左記 要項にて います この は文 主催 国的に 参加者 を募集 するも ので会 せん ▽ 主催 本山 日― 二十 省立 研修 (富 千寿ケ 原) 研修 講演 指導 〇円( 集合 費を ず) ▽応 資格 以上 則と して山 年以上の 募集 五十名 切日 日( 申込 順締切) 要項 本山 岳会 に 備え (1) -551-

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Page 1: jac.or.jpjac.or.jp/info/iinkai/kaiho/196908YAMAr1.pdf定価一部50円 290-196908 第290号 昭和44年8月10日発行(毎月10日発行) 昭和44年(1969年) 8月号(No.290) 建買日本山岳会

定価一部 50円第 290号 昭和44年 8月 10日発行 (毎月 10日発行)290-196908

昭和44年(1969年 )

8月 号 (No.290)

建買 日 本 山 岳 会

(J.A.C.)

目 次

本 文エベレスト第二次偵察隊……………・1

エベンス トの慎察………藤田佳宏… 2

二会員の登山白書………藤島敏男 。̈3

工峰偵察隊帰国歓迎会………………・3

第23回 ウェス トン祭…坂倉登喜子… 4

ウェス トン祭で唄う歌………………・4

ドン・ウーズ氏を迎える…………… 6

ダウラギリー第三報…………………・6

訪ロソ連アルピニス ト……………… 7

1968年度のHOK………吉沢一郎… 8

会員通信

東北の低い山二つ………古沢 肇…・5

H,K便 り。………………新貝 勲…。5

ネパールの旅…………沼倉寛二郎…・5

会務報告

七月定例理事評議員会………………・9

指導研究委員会…………………………10

第二五二回小集会……………………10

婦人懇談会報告……・・……・・…………10

図書室便り

新刊図書受入報告…

定期刊行物受入……

洋書受入報告………

図書委員会報告……

その他

・・・・lo・・・・10・・・。10・・・・10

・・・・・・・・・・ 1………。9

………・ 9

………。9

………・9

女性登山者指導者研修会……

山岳図書交換即売会…………

会員訃報………………………・

ソ連隊からペナント寄|キ

:::]… ・・

安全登山十則…………………

エベレスト第二次偵察隊派遣

=―南壁の試登をめざす==

のメンバーを編成し、南壁の試登に全

力を投入し、あらゆる点で十分なリハ

ーサルを行なうものである。

すなわち、安全確実なルート

の選

定、このために、岩層、岩質、地形、

傾斜l雪崩、落石などの判断から、酸

素器具、登はん用具類を初め、食糧そ

の他のテストなどを行ない、本隊の成

への軌道をしっかりと見極めたいと

考えている。

そして、隊員の

部は越冬し、気象観

測ならびにシェルパ

訓練などを行な

って

本隊につなぐ予定で

ある。

今年の末には、あ

とは

″本番待ち″と

いうところまで、す

なわち、あらゆる準

備は完了し、成否は

天候次第というとこ

ろまで、確率を高め

たいと念

ブ()。この計

によせ

る、会員各位の声援

は大変なもので、今

後募金その他につい

てもより

一層のご支

援とご協力を願うも

のである。

(写真は

エベレスト南壁)

エベンスの第

一次偵察隊は、いわば

将校斥候隊であ

った。広汎な状況偵察

と判断、対外折衝など……この隊ほど

時間的に多くの制約を受けた隊は他に

ないと思われる。決定から出発までの

一週間。そしてベースキャンプに入

てからモンスーンの到来ま

の二週

間。しかし偵察隊は所期の目的を果た

し、無事帰国した。これはひとえに、

本会の会員層

の厚さ、いいかえれば会

の持つ力の結果とでもいえるものだと

思う。

その報告によれば、南壁のむずかし

さは、八〇〇〇メートルからで、その

高度と共に本格的な岩登りが始まるで

あろうといわれているが、その困難さ

の容易ならざるものを肌に感ずる次第

である。

エベンスト八、八四八メートルは、

すでに各国によって登頂され、その高

さの持つ苛酷な自然の様相は体験され

エベレスト委員会

たとはいえ、なおかつ、その第

一級の困

難さは、いささかも減じてはいない。

ましてや、未踏の南壁をよじて頂きに

立とうとなれば、それは、いま人類が

体験し得る最上級のものになるであろ

うことは想像に難くない。

その容易ならざるものの偵察報告の

結論として、エベンストにも

ィー

・ポイントがある。綿密な計画と、

周到な準備をも

って過去の記録を生か

していけば、南壁といえど不可能では

ないと。

エベンスト委員会は、内外の情勢判

断から、 一九七〇年春の

一度のチャン

スでこれを成功させたい。それは七

年以降は十数ヵ国が目白押しに許可申

請を行な

っている現状からして、 一九

七〇年以降に持越すことは出来ないと

思われるからである。

って秋の偵察隊は、綿密な計画の

もとに来年の本隊に準ずる強力な八人

第二次偵察隊日程

7月30日 荷物船積

7月下旬 先発

一名羽田発

8月12日 先発二名カルカッタ合流

8月20日 本隊六名羽田発

9月4日 カトマンズに集結

9月上旬 一五四名のキャラバンを編

成カトマンズ発

9月下旬 BC建設

10

15

45

偵察を行ない八、○○Om

l八、五〇Omまで試登す

る予定

その後隊を三分し、四名は下山、■

月下旬帰国、四名はBC付近にて越冬

観測ならびにルート観察、シェルパの

トンーニングなどを行なう

であ

る。      (文責

・大塚博美)

お 知 ら せ

女性登山指導者研修会

九月二十八(土)から二十三日(大)

まで立山登山研修所で、女性のための

登山指導者研修会を左記要項にて行な

います。この研修会は文部省との主催

で全国的に参加者を募集するもので会

員、非会員を問いません。

▽主催 文部省、日本山岳会

▽期間 九月二十日―二十三日

▽場所 文部省立山登山研修所

(富山

県千寿ケ原)

▽研修内容 講演、講義、実技指導

▽費用 約四〇〇〇円

(現地集合

上父

通費を含まず)

▽応募資格 年令十八歳以上、原則と

して山歴三年以上の女性

▽募集人員 五十名

▽締切日 入月末日

(申込順締切)

研修要項、申込用紙は日本山岳会ル

ームに備えてありますから至急ご連絡

下さい。

(1)-551-

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290-198908

エベレストの偵察

一次偵察隊長

五月十四日、アイスフォールの直下

標高五、三八Omの地点にB

cCを建

て、翌十五日には隊員シェルパ、ロー

カル・ポーターの全員でアイスフォー

ル下部においてトレーニングを行な

た。十

六日より、いよいよC

oIへのル

ートエ作。山登りは案ずるよりは行な

うが易し、B

oCから見たアイスフオ

ールは

一体どこから手をつけていいの

か、どのへんにルートを求

める

べき

か、全く見当もつかないが、登り始め

れば案外ルートは開けるものだ。も

とも、いつもトップに立

っていた植村

とシェルパの

一人は、時々つま

っては

右に左に登

ったり下りたり、大変なア

ルバイトだ

ったようだ。それでも三日

日、つまり十八日にはアイスフォール

の中、標高五、八五OmのC

oI予定地

までトレースを終えた。ルートエ作に

三日を費したこのB

・CとC

oIの間

は、標高差約五〇Om、要所要所にロ

ープが固定され、氷壁に縄梯子をかけ、

クンバスには丸太の橋がかけられた。

こうしてルートが完全に開けると、

早朝

コンデイションのいい時だと僅か

に三時間足らずで行かれる

よう

にな

った。二十

一日にいよいよC

・Iを建

設。ここはB

・Cから見ると丁度航空

母艦のように見える氷塊の右手で、近

寄ると二十m位はあろうか、大きな氷

壁。この下をトラバース、右手に縄梯

子を登

った所が平坦に開らけており、

当初ここをテント場と予定していた。

いざテントを張る段にな

って私はな

んとなく不安な気持がして、再度周囲

を調べてみた。まさか崩れるとは思え

ないが、もし崩れるとしたらやはりこ

の付近からのようだ。ちょうどこの地

点からアイスフォールの傾斜が全体と

して強く落ち込んでおり、テント地の

上部にはクンバスが走

っている。どう

も気にな

ってしかたがない。かといっ

て他にいい所も見当らない。しかし気

になる。それだけの理由でテント地を

クンバスを

一本渡

った

一〇〇m上部に

移させた。午前十時三十分頃、荷物を

移動させ、テントを建てている最中、突

然、地響きと轟音が起きた。つい今し

がたまでテント地と予定していた隣り

の、あの航空母艦のような大氷塊が、

雪煙の中に沈んで行くのが見えた。実

感としてはゆ

っくりとそして静かに…

…。雪煙が消えてからは、今までここ

からは見えなかったローラが見える。

実に運がよかった。だが

いテ

ント地とて快適な所ではない。撤収す

るまで僅か五日のうちに、テント下に

亀裂が入り、協には十五釧ほどのクレ

バスがあ

った。C

・Ⅱへのルートエ作

のため、数日はこのテントも必要であ

るが、いったんトレースされればここ

は荷物の中継集積場所として原則的に

は居住しないようにするのがよいだろ

う。五月二十四日、C

・Ⅱはアイスフ

オールを越え、ウエスタン・クームに

った所、標高六、一五Omの付近に張

った。西稜寄りのため、ここからは南

壁は見えない。しかし、様相は

一変し

て、混沌とした荒れた感じは全くなく

静寂で、神々の座にふさわしく、正面に

はローツェ・フェースが手の届きそう

な近くに見える。ここからサウス・コ

ルまで、実際には中に三ヵ所のテント

を設けるのだが、見た感じでは

一日、

せいぜい二日もあれば行かれ

よう

に感じられ、山の持つ大きさと高さを

痛感するばかりだ

った。この日、夜半

から翌二十五日早朝にかけて、約七、

八時間、猛烈な強風が吹きまく

った。

これは二十三日夜八時三十分のカト

マンズ放送の天気予報でモンスーンの

影響で、

「ここ

一両日のうちに山ぞい

は荒れる」の予報通りのことであ

った

が、 一時はB

・CもC

・I、C

・Ⅱと

も飛ばされるのではないかと心配した

程であ

った。しかし夜明けと共に風も

おさまり、C

oⅡの相沢、植村、それ

にシェルパの四名で南壁直下標高六、

五〇Om付近の取付点まで行

って、偵

察を行ない、翌二十六日に全員B

oC

に下山した。昼近くにな

って雪が降り

始めた。いよいよモンスーンに入

った

のだ。しかし、何と運がよかったのだ

ろう。強風が吹き始めた二十四日の晩

は、てっきりこれはもう駄目かと思

たが、二十五日の偵察の日

一日持ち続

けてくれた。 一口にいってモンスーン

前の

一週間の好夫を掴めと

いわれ

が、私達は完全にその波に乗

ったと・言

える。しかも無風快晴の八日間であ

た。ただ残念なのは予想外にモンスー

ンが早く、南壁の試登ができず、南壁

直下に予定したC

・Ⅲ用の器材食糧を

そのままかつぎ下ろしたということで

った。

南壁は

一九五

一年のシプトンの隊の

報告によると、エベレストの南峰から

真南にのびるリッジを南西稜と称し、

この稜とサウス。コルに通ずる南東尾

根との間を南壁

(サウス・フェース)

と記してあるが、私はエベンストの頂

上からイエロー

・バンドを頭とし、扇

型にひろがる壁、つまり南

西稜

を含

め、南東尾根から西尾根までの大岩壁

を南壁

(サウス・バットンス)として

とらえたほうが現実的であると思う。

さてルートは南壁の中央

に標

八、〇〇〇mから八、二〇〇mほどに

かけて大きな雪のバンドがあり、その

下部には平均斜度約4515o度の雪の大

きなルンゼが走

っており、

一応ルート

として考えられた。ただし、落石、雪

崩の危険は当然考えなければいけない

から、このルンゼの両サイド、もしく

は付近の岩稜をルートとして考えても

よい。いずれにしても、雪のバンドの

ある八、○○Om付近までは、ルート

はこのルンゼを中心とした付近となろ

う。そして雪のバンドの上部正面は、

約四〇〇mの切り立

った壁であり、こ

れは登れない。そしてこの壁の上が頂

上直下のイエロー

・バンドである。ル

ートはこの切り立

った四〇〇mの壁を

避け、左右に別れる両ルートが考えら

れるが、右に入れば南方の

コル付近

に、左に行けば西尾根に通じる。いず

れにしても、これらは途中からイエロ

・バンドに出るルートもあるであろ

うが、南壁の上部に関しては、双眼鏡

で二〇〇〇m以上も離れて

の観察

は、はっきりしたことはわからなかっ

た。全

体として、私達は下から見た感じ

としては登れるという判断

てき

た。これは岩登りの対象として考えた

場合、決して登りにくい岩場ではない

と考えたからで、問題は果して八、○

○Om以上で、私達が三、○○Omそ

こそこの岩場で、登

ってきていた今ま

での岩登りが、どの程度生かされ、通

用するかどうかという点だと思う。酸

素が少ない。寒い。風が強い。これだ

けを考えてみても並大抵のことではな

いだろう。羽田からカトマンズに入る

途中、 ニューデリーにおいて

一九六五

年のインドのエベンスト隊の隊長

コー

リー氏に会うチャンスを持

ったが、そ

の時彼は

「エベンスト登山の問題は、

一日で言えばその高さにある。つまり

八、八四八mという高さのも

つ意味

を、あらゆる点から考えればわかるこ

とだ。」と言

って

いた。このたびの偵

察行でえた私の結論は、南壁登攀の第

一の鍵は、高度馴化と酸素であ

って、

これさえうまくいけば決して登れない

壁ではないと思

ったことである。

名峰富士 山の出現か ら中世 の信仰登 山

近世 の山林検分登 山, 日本 山岳会の設

立 を経て,マ ナスル登頂にいたる登 山

二千年の歩み を,豊富な資料 をもとに

数 々のエ ピソー ドを織 りこみなが ら興

味深 く綴 るわが国唯一の本格的登 山史

山 崎 安 治 著

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(2) ―-552-

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290-1969・ 8

二会員の登山白書

昭和四十三年の元旦は遠山川上流、

下栗部落で迎えた。

「時又」図幅の右

下の方に、や

っと見出される小さな村

だ。年末年始のスキー地などは、考え

ただけでもゾ

ッとするし ・、家にいれば

ドザ

ッと持ちこまれる、年賀状に脅や

かされる。重装備の冬山という年頃で

はない。だが山には登りたい。探しあ

ぐねた末に、

「赤石岳」図幅左端にあ

る御池山

(一九〇五m)を登ろう、と

いうことにな

って、はるばるこんな山

奥まで、や

って来たのだ。下栗部落も

平家の落人

(おちうど)が先祖らしい

が、われわれも、スキー族や登山大衆

に、押しまくられた落人みたいなもの

だ。しかし落人とはいえ、決してショ

ンボリしてはいない。日もまあ達者な

方だし、足腰も年のわりには丈夫であ

る。同

勢九人、雪をふんで登りにかかっ

たが、だんだん雪は深くなる、粉雪が

舞ひはじめる、膝を没しやがて腰まで

もぐる雪を押しわけて、頂上まで五時

間を要した。晴天ならば赤石、聖、上

河内と素晴らしい眺めの筈だが、舞う

粉雪に何もみえない。 一同が腰もおろ

せないほどの、せまい頂上で立ったま

ま乾杯ということにな

ったが、コップ

についだビールが、アッというまにシ

ャリシャリと凍りかけたのだから、相

当気温は低いようだ

った。

こんな元旦の山頂だ

ったが、二日は

晴れに晴れて、谷の奥にズラリとなら

ぶ雪の山々は、ほんとうに素晴しい眺

めだ

った。この日、程野から大河原

越えた地蔵峠も、ひっそりした好まし

い峠だ

った。

さてこのような滑り出しで、年間の

実績はどんな具合か、振返

ってみると

一月0御池山―地蔵峠 登高メートル

一四四

一メート

(同行深田、近

藤、村尾、川喜田、望月、松本義、

黒柳、村尾息

0柳沢峠―板橋峠―落合―白沢峠―

天科 六五五メートル

(望、同息)

二月0十谷温泉―御殿山―十谷峠―新

倉 一二四九メートル

(川崎、望)

0猪丸―日原峠―数馬l船久保―乗

越―除毛 九八〇メートル

(望)

四月0鳥沢―倉岳山―橋倉鉱泉―雁ケ

腹摺山―猿橋―三頭山―鞘口峠―ク

キ沢 一八七

一メートル

(近、村、

望)

0桃ノ木鉱泉―櫛形山―久保平 一

二〇〇メートル

(望、外

一)

五月透門―玉原越―奈女沢鉱泉―吾妻

耶山―仏峠―川古―茂倉―三国山

二四五八メートル

(単独)

六月柳沢峠―大菩薩峠―黒岳―焼山

一〇六九メートル

(近、村、外

一)

九月若松―大倉峠―沼鉾峠―玉梨温泉

―早坂峠―沼沢沼―早戸 一五三九

メートル

(川崎、望、外

一)

十月末丈岳―只見湖―片貝池 一二五

九メートル

(深、近、村、川喜、川

崎、望、伊倉、桜井、貝森、五十嵐)

一月子持山―中山宿―小野子山―十

二ケ岳 一五八四メートル

(深田夫

妻、近、村)

十二月平林―池ノ茶屋―櫛形山。古関

釈迦ケ岳―精進峠 一七九七メート

(近、村)

年間総計 一七、 一〇二メートルと

なり、前年も、その前の年も二万四千

メートルを越したのに、大変な減少で

ある。そこで登高メートル発案者の近

藤恒雄君に、同君の実績はいかがと伺

いを立てたところ、左記の報告に接し

た。

一月0前出 0下仁田某

・々岩峠―荒

船鉱泉―物語山 一〇

一メートル

(村、外

一)

二月0矢大臣山、大滝根山 九二

一メ

ートル

(村、外

一)

0十谷峠越え 一〇二三メートル

(村)

四月0前出 0高塚山、竜馬ケ岳、岩

岳 一一三四メートル

(村、高田)

五月金沢―笈ケ岳

(幕営)

一一三四メ

ートル

(深、村、市村、中川)

六月0前出 0三国峠、赤沢山 九六

四メートル

(村、外

一)

い焼石岳―経塚山―夏油温泉

 一七

六二メートル

(村、川崎、望月、山

田)

七月早池峯山、五葉山 二六

一三メー

トル

(村)

八月0富士山お中道巡り 一〇六〇メ

ートル

(村)

0折立峠―薬師岳―五色―

一ノ越

三〇八〇メートル

(村、三辺)

九月箱根明神岳 八六九メートル

(家

人)

十月前出、十

一月前出、十二月前出。

回数も十七回と私の十二回より多い

し、登高メートルは二四、五

一七メー

トルに達し、同君の登山史上最高とい

う。どうしてこんな大差が生じたかと

いえば私が幕営に気乗りしな

った

り、焼石岳、早池峯は既に登

った山だ

し、真夏の富士山や北アルグスは真平

御免といっていたので、こういうこと

にな

ったのである。 一方、よく行をと

もにする望月達夫君も近来暇がないな

いといいながら、小刻み登山、寸暇登

山、抜打ち登山、行きがけの駄賃登山

等がいよいよ堂に入

って、恵那山、御

神楽岳、平ケ岳などにも登

ったようだ

が、いずれも私は登

ったことがあるの

で、たとえ誘われても腰を上げなかっ

たろう。

しかし成績不良といっても、年間延

べ三十四日、山旅に過ごしているのだ

から、いつか見た厚生省だかのレジャ

―白書では、二十代三十代

に比

べる

と、七十代は

一泊以上の旅行をする率

は低いとあ

ったが、これでもかといい

たいところだ。

近藤君は村尾君との名コンビで、益

々快足快調、縦横無尽に登る勢いだか

ら、これからどんなことになるか、予

断をゆるさない。

さて四十三年の大晦日は、はるばる

新潟から参加の笠原藤七君、恒例の伊

エビ持参の川喜田君を加え、同勢八

人身延に集り、殊勝にも久遠寺に参詣

したから、四十四年はさだめし

一同、

山運にめぐまれることであろう。

工峰偵察隊帰国歓迎会

第二五三回小集会

エベンスト第

一次偵察隊帰国歓迎報

告会は七月八日午後六時半から高輪和

彊館で行なわれた。吉沢副会長のあい

さつと藤井評議員の乾杯のあと、藤田

隊長から報告があ

った。

次いで毎日新聞相沢特派員

(会員)

の説明で、スライドの映写がなされ、

その後松方三郎隊長のあいさ

つが

り、最後に、大塚博美常務理事から、

今秋十月から十

一月上旬まで、八名ほ

どクライマーを偵察隊として出し、約

半数は、現地に残してこようかと思

ている。来春の本隊は、報道関係を除

き、科学班を含めて二十二―三名にし、

七月十二日、十三日には、すでに隊の

ために用意してある向井ビ

ルの四階

で、初の準備委員会をもち、スキー隊

との黒い霧のうわさはなにもなく、今

後、種々の問題については、それぞれ

協議してゆくっもりであるとしめくく

つた。        (渡部節子)

〔出席者〕

一膝田佳宏、植村直己、菅

沢豊蔵、 相沢裕文、

松本清、 岡部紀

正、池元善秋、出田興生、平柳

一郎、

藤井運平、川上隆、村山雅美、宮崎英

子、星野重、松村潤、川村旭、鷲見竹

由、宮内勝男、小沢明夫、芳野赳夫、

日下田実、坂本肇、佐藤久

一朗、小池

恭弘、鈴木昭、新島義昭、松田雄

一、

宮崎善人、 安間荘、 木戸晃、 西山正

三、篠原健、斎藤桂、田村宏明、渡辺

嘉男、都筑竜、芳野菊子、安田武、原

田達也、重藤秀世、片桐理

一郎、今村

千秋、 鹿野勝彦、 石塚吉生、 田口三

郎助、奥山章、小倉正高、副島広之、

河野幾雄、塚越雅則、花崎洋、節田重

節、小島甫、加治甚吾、広島三朗、神

原達、 高橋正彦、 武田満子、 関本

男、滝紘之、冨田美知子、瀬名貞利、

松原善志、鈴木和信、大塚博美、佐藤

之敏、 磯弥須彦、 井上毅

一、 服部

彦、官下秀樹、田辺寿、高橋善数、吉

川昭、関田美智子、長尾悌夫、大森薫

雄、横山誠之、品川俊人、川上忠義、

村石幸彦、和久俊雄、細井隆司、村井

米子、久保田保雄、谷口現吉、神崎忠

男、大森弘

一郎、福田良、竪野正三、

西風建、 関章司、 松永敏郎、 木村俊

郎、片山全平、沼倉寛二郎、中島寛、

小栗孝康、小俣武男、松方三郎、芳野

満彦、 牧野内昭武、 中尾正武、 中川

武、村岡利夫、梨羽時春、相田昭、長

田正行、渡辺兵力、 中村賢二、 赤瀬

暁、長田義則、加納巌、岩永信雄、森

川洋佑、 野口末延、 八島晃、 飯塚誠

一、田中正智、染谷忠夫、亀井英二、

雁部貞夫、錦織英夫、岡本清

一、中島

伊平、徳田憲正、古畑勇、渡部節子、

島田巽、千葉重美、上田売吉、上田富

雄、北島光子、小暮勝義、木村勝久、

矢田城太郎、市川正、加藤勝義、広羽

清、須田紀子、諸岡

一次、千々岩玄、

平野真市、 和田豊司、 村井葵、室田

一、 仮屋園茂雄、 川森左智子、 作美

修、池田錦重、中村進、吉岡義彦、佐

藤礼子、菊池修身、近藤恒雄、伊藤博

夫、深田久弥、荻野和夫、河野長、佐

藤テル、岸元士、浜野吉生、松下肇、

織内信彦、山野井武夫、田代儀雄、土

肥正毅、武藤晃、寺村栄

一、樋口満、

吉沢

一郎    (以上 一七〇名)

(3)-553-

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290-196908

第23回ウ

ェストン祭

倉登喜

北アルプスの山開きを兼ねて、例年

六月の第

一日曜日に行なわれていたウ

ェストン祭が、今年は地元信濃支部の

準備の都合により、 一週間後に延期さ

れ、六月八日梓河畔ンリーフ前におい

て、多数の参会者を迎え、盛大に行な

われた。東京から日高元会長、三田会

長、沼倉評議員、加藤理事、尾崎喜八

氏等が出席され、エーデルワイズ

・ク

ラブよリコーラス隊として平野先生他

女性ばかり三十二名が参加した。

〃新雪の徳本峠越え〃

六月七日、例年行なわれる記念山行

徳本峠越えは、珍らしくも新雪に見舞

われ、待望の穂高の姿が見られなかっ

たのは残念だ

った。

ウエストン師の辿られたこの峠越え

ルートから上高地に入

ってこそ、参加

する意義があるということで、午前七

時頃島々宿入回の橋のたもとに約百名

(男性三〇%女性七〇%)が集合した。

安曇村婦人会の人々から朝食時間にお

茶やお菓子の接待を受け、受付で、エ

ーデルワイズの記念章を貰

って出発を

った。出発に際し塚本信濃支部長お

よび安曇村村長の挨拶を受け、山行リ

ーダーの注意等あ

って、七時四十分島

々宿を出発した。

今年もまた大勢の参加者が徳本峠に

登り着いた瞬間、残雪の雪ひだを深く

刻んだ穂高の姿に、大先輩が感激され

たと同じように、穂高との対面に期待

をかけて新緑の島々谷を遡

って行

た。私たちも幾度この緑にむせかえる

ような徳本峠

への道を辿

ったことだろ

で、また或る年は小梨の花が自く散り

敷く丘の上で、岩魚止めのひなびた山

小屋付近の昼飼では、何時も地元の方

たちの心尽しの山菜料理やお茶の接待

が心うれしいものであ

った。

午前中晴れていた空は、午後から小

雨となりやがて峠への登りにかかる頃

からみぞれになり、徳本峠では終に吹

雪とな

った。

待望の穂高は見えず、寒さにふるえ

上りながら峠を越えると、ところどこ

ろに残雪を踏むようになる。雪消えの

後に

〃しょうじょうばかま″や

″いわ

かがみ〃がゆれ咲き、樹間に

〃さんか

よう〃や

″みやまかたばみ″が自く浮

き、 〃わすれなぐさ〃に似た

〃えぞる

りそう″が青い光の中に点描する。こ

の下山路はいつも心で歩く緑のプロム

ナードだ

った。

そんな道を足早に自砂出合に下山、

或る年は化粧やなぎの羽毛の舞う中

 十六時三十分、全員無事上高地に到着

した。いつもながら信濃支部役員の皆

様に最後まで見守られながら、入山で

きて幸であ

った。

小梨平キャンプ場にはテントもちら

ほら、シーズン前の静かな上高地は、

冷たい雨に濡れて、水品のようにすき

透る梓川の流れに、したたるような柳

の緑は、ひとしおつややかに若い人た

ちの心をうつものがあ

った。

〃小梨花咲く上高地ウェストン祭〃

六月八日、小鳥のさえずりが雨上り

の空に響いて、上高地に壮麗なばら色

の夜明が訪れた。

「穂高が新雪で真白

……うわ―お天気よ」の声にカメラを

って河童橋に飛び出す。

刻々に朝の陽光が奥穂の新雪に輝き

始めてそれをとりまく山々がほんのり

と雪をつけ、シュガーをふりかけたよ

うな造形美だ。岳沢の谷も真白く雪に

被われ、まるで早春の頃の姿を見せつ

けた。なんという光景だろう。何だか

目頭が熱くな

ってボーツとなる、カメ

ラのピントが合わない感じだ。本当に

言葉では表現できない感激に満ちた朝

った。こんなチャンスは何十年に

度しかない幸運かも知れない。生きて

この感激を味わうことの喜びは大きか

った。

徳本峠の上で見ることの出来なかっ

た穂高が、こんなにも鮮明に、こんな

にも気高く眺められようとは、夢にも

思わなかった……と上高地に初めて来

た女性たちは

「あまりの素晴しさにし

びれてしま

った」という言葉でこの感

情を表現していた。何年間か毎年上高

地に心ひかれて訪れた私でさえ、今年

のような新雪の穂高との対面は予期せ

ぬ感激であ

った。

午前九時半碑前に集り、十時の開会

直前までNHKテレビその他報道陣の

録音希望で山の歌を続けたが、本部役

員や地元代表者の着席を待

って、碑前

祭は開会した。

まず

エーデルワイズ

・クラブによる

″歓びの歌〃の合唱につれて式が始ま

り、最初に塚本信濃支部長の挨拶があ

り、上高地の自然保護のため、大正池

から先へ自動車の乗入れ禁止の意向を

のべられ、参会者に呼かけの言葉があ

った。事実沢渡まで道が改修されてマ

イカー族の数が激増し現にウ

ェストン

祭開催中、反対側から入

って来た車が

参会中の人波を分けて通るなど、許さ

れるべき情景ではなかった。

塚本支部長の言葉は全く郷土愛の現

われであり、自然保護につながるもの

と思われた。

次に

″山の花″の合唱が始まると安

曇村小学校児童及支部の女子会員によ

る花束の贈呈があり、ウ

ェストンのレ

リーフは色彩美しく飾られた。次は地

元の安曇村村長や杉本市長両氏の挨拶

に続いて、三田会長の挨拶があ

った。

それに引続き講演会に移り、日高元

(4) ―"イ

ウェストン祭で唄う歌

日本山岳会に入会して間もなく、私

は初めてウェストン祭に参加した。今

年で早くも二十三回目を迎えたが、何

時からか日本山岳会主催の歌の講習会

がき

っかけで、毎年ウェス■ン祭に、

山の歌を捧げるために参加するように

った。

若漢堂刊行の戸野昭氏が編集された

歌の本、山で唄う歌IとⅡをテキスト

として、この中から、″歓びの歌″ ″山

の花″

″別れの歌〃この三曲

を選

で、その当時指導して下さった立教の

平野先生に引続き上高地までおいで願

って今日まで下手ながらも歌い続けて

来たわけだ。初めてのウ

ェストン祭で

上高地の大正池を訪れた時、船に乗

た上高地の主、常さんが、陽焼けした顔

で迎えてくれたのが、上高地の穂高を

バックにしたフアストシーンだ

った。

中日の小屋に泊

って新茶を御馳走に

ったのは初めての常さんの歓迎の印

しであり、私には最後のささやかな心

づくしの渋茶でもあ

った。それから暫

くして上高地に生き続けた常さんが山

を愛し続けて他界された便りを聞いた

が、それ以来常さん無き上高地は淋し

い気がした。ウ

エストン祭

はそ

の当

時、夜はキャンプファイヤーをや

った

り、五、六人で信濃支部の人たちとコ

ーラスをしたりの状景をNHKが報道

していたが、何となくその時々に間に

合せのプランで呼出され、私たちはず

いぶん困

ったこともあ

った。

昭和三十年

エーデルフイス・クラブ

が日本山岳会婦人部の下部組織として

生れ、団体加入して以来、前記平野先

生指導によるコーラスグループが、東

京より大挙してウェストン祭に歌の奉

仕を始め、その前後に上高地付近の山

へ登るチャンスを得るようになり、西

へ、涸沢へ、徳本峠

へと毎年のウ

ストン祭が待たれるようにな

った。

毎年ウ

ェストン祭に参加して歌う友

は変るが、上高地の自然の美しさは変

ることがない。山で唄う歌も相変らず

で何かこのへんで考えねばなるまい。

と思うようにな

った。

〃JACクラブソング″

ェストン祭が済んでの帰り道で、

加藤理事と歩きながら、お話したのが、

JACクラブソングのことであ

った。

なぜウェストン祭に日本山岳会の歌

をうたわないのか、もし山

へ登る人た

ちが、心から愛唱できるような、また

ェストン祭にふさわしいような歌詞

の入

った歌があ

ったら、どんなに歌い

甲斐があるだろうかと話し合

った。

まず会員から作詩を募集して、専門

家に作曲して貰い、ウ

ェストン祭で発

表会を行な

っては如何だろう。

もしあの新緑に輝く上高地の空に、

胸を張

って歌えるような、 〃JACク

ラブソング″を作

って頂け

たら

と思

う。いつかその感激の日を上高地で迎

えられるように……私たちは上高地梓

河畔にいつまでも、いつまでも若い山

の好きな全国の女性と共に

〃JACク

ラブソング〃を歌い続けて行きたい思

いである。

今年のウ

ェストン祭では、牧先生の

お友達で学校の先生が、卒

業す

る女

性に贈る歌として

〃エーデルワイスの

歌〃を作詞されたものを、私たちが歌

ってはと、牧先生から送

って頂いた。

この歌を初めて今年のウ

エストン祭で

った。歌詞もリズムも私たちにピッ

タリでとても皆たのしく歌

った。

広島市の喜多紀世雄先生作詞、古関

裕而先生作曲の花そのものの歌、今度

はクラブソングを是非上高地で歌いた

いものと思うのである。(板

倉登喜子)

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290-196908

会長、沼倉評議員、加藤理事諸氏のお

話の後、最後に尾崎喜八氏が

〃命あっ

て今年もまた、あの上高地

へ私は行

く、明神、前穂、奥穂、西穂、ずらり

穂高の尖峰にかこまれた、世にも美し

い、男らしい谷間へ行くのだ……〃と

何時もと同じあの詩の朗読の一瞬、ジ

ーンとくるその詩の一節

一節を、その

たくみな自然の描写を心で聞いた。そ

の後各地から来た祝電の披露があり、

一最後に

″暫し別れてまた会いたい〃と

F…‥エーデルフイズ

・クラブ

による

″別れ〃の曲合唱で、十

一時頃ウェス

トン祭は晴天に恵まれて終了した。

今年の記念講演では加藤泰安氏のお

話を私たち女性会員は最も印象深く聞

くことができた。今回のウ

ェストン祭

の参加者の七割が女性で、

「最近非常

に山

へ登る女性が増えたが、山は愉し

むもので、決してアラスカヘでも出掛

けるような恰好で、大きな荷物を背負

って、女らしさを失なうごとき山歩き

はしないように……」と、いつもなが

らのューモラスなお話で面白かった。

今年は尾崎、三田、加藤、小原諸氏も

御夫人同伴で参加されたが、常連の藤

木九三御夫妻の姿が最近見られないの

は淋しかった。

近年ウ

ェストン祭といえば、北アル

プスの山開きと、交通公社のカレンダ

ーにも年中行事の

一つに取

り上

れ、駅頭には長鉄のポスターが掲げら

れ、全国的にテレビ、ラヂオでその様

子が時のニュースとして報導されるよ

うにな

った。しかしウ

ェストン祭がた

だ単なるお祭りさわぎでしかないとい

う向きもあるが。

四月に行なわれる地元の開山式が本

当に神主さんによるお祭行

であ

て、六月の山開きは全国の山を愛する

人たちがウェストン師の業蹟

え、音をしのんで、いつまでも上高地の

自然を保つためにと祈る人達の集りで

あり、花を捧げ、歌の奉仕をする純粋な

心の現れであるといいたいのである。

しかしウ

ェストン祭もひとつこのヘ

んで日本山岳会が、上高地という日本

のスイスに集

って来る人たちに、お祭

りさわぎだけではない、何か大いにプ

ラスになるような、精神的にも行動的

にも全国の山を愛する人たちのための

,新しい行事計画を、指導的な立場にお

いて、なすべき時期が来ているのでは

ないかと感じた。

会 目員 通 信

東北

の低

い山

―七時雨山と階上岳―

 

沢  肇

五月二日の快晴に花輪線の荒屋新町

から七時雨山

(一〇四〇メートル)に

登りました。この山は名前を聞くとひ

どく風流な感じですが、古歌にも古句

にも別に縁はなさそうです。頂上付近

はひどいヤブでしたが展望はすばらし

く、岩手山から八幡平への山々をゆっ

くりとながめわたすことができまし

た。谷

文晃の日本名山図会にこの山が出

ていますが、文晃は盛岡の方からスケ

ッチしたらしく頂上は

一つにな

ってい

ます、が実際の頂上は南北二つに分れ

ていて麓から仰ぐと美しい双三角の山

容です。三角点は北峰にあります。

五月七日、八戸から階上岳

(七四〇

メートル)に登りました。市内から山

麓まで通うバスはひどい凸凹の田舎道

をほこりを巻き上げながら走ります。

しかし登山道はよく整備されて、公園

の中を行くようでした。

山頂には岩の間に

一等三角

り、いかにも広漠とした原野の中に立

つ山らしく広大な展望でした。

(折か

ら九戸の大山火事が見られました)。

私はしばらく目を閉じて冬のきびしい

ころのこの山の景色を想像してみまし

た。―

‐真白な原野、冬の大

海、鉛色の空――、階上岳がも

っとも

北辺の山らしい姿を見せるのは冬のさ

中ではないでしょうか。五月の明るい

陽光の中で、そんなことを勝手に空想

してから山を下りました。

七時雨山、階上岳ともに人気のない

静かな山でした。

oK 便

一緒にいました。カンピンデイオー

ルは駄日で

(だめなことはわかって

いますが)、トンキング

でギルギ

トの方

へ、ディランとハラモシュの

中間から南へ延びている尾根の末端

の山

(六

一〇〇

m位)へ登れればや

ると言

って行きました。

※関学のイストルオナールはまだ来て

いませんが、彼らもリエゾンの派遣

の件でもめると思います。BCは多

一緒でしょう。

※写真家の自川氏がきて、ルンコーの

方まで行くとかで出かけました。こ

の件については帰

ってから、小山と

二人でゆっくり報告します。

※その他横山君

(新潟大OB)が

一人

で、鈴木君

(政孝)の来るのをチ■

ラルで待

っています。

(吉沢宛)     チトラルにて

パー

の旅

エベンスト遠征を来年に控え是非そ

の周辺を見分したく三月十

一日早朝羽

田を後に十四日午後カトマンズに安着

しました。途中バンコクで四十キロ余

りの荷物

(テント食糧等)はもて余し

気味です。予定では十四日

「ヘリ」で

ルクラに着陸、クムジ

ュンを根拠とし

てイムジャ氷河まで辿るはず

でし

が、飛行機事故や天候の都合で予定を

変更、ポカラに入ることにしました。

カトマンズに着いた晩大使館の松沢

氏と会食の際に、東海支部のマカール

登山が昨日(3/13)許可にな

った由、

現在ネパールに山やさん、フーテン族

を含めますと日本人が五十人余り滞在

とか、私達にとって貴重な二日間はカ

カニ丘やバドガオン等を探る。日中は

東京の初夏の気候です。容姿が日本人

的なネパール人には親しみさえ感じら

れます。朝市には日本の大根やねぎ等

がはんらんしていました。これはマナ

スル隊の移植による副産物

そう

す。十七日にポカラに飛び、十五キロ

奥地のアンナブルナ山麓のタルデまで

ジープで入る。ここから登路七キロは

ロバを雇い、酷暑にあえぎ夕方タルデ

に辿リテントを張

ったとたん大雷雨に

散々です。

翌日稜線からのアンナプルナの展望

を期待したのでしたが昨日のような圧

観さはなく頂上をのぞかれた程度でが

くり、四人のポーターを雇い

(日当三

五〇円)のんびリポカラヘ下山しまし

た。松沢氏の好意によるローヤル機の

使用がや

っと許可になり私達五人

(上

村、林田、小原、西田氏)と護兵付で

十九日黎明のカトマンズを後に念願の

エベンスト上空へ、躍る心地本音は恐

ろしさで

一杯でした。未だ朝のとばり

から醒めぬエベンストが視界に入る。

山容の凄まじさに驚きとうれしさがご

っちゃ、夢中でシャッターを切るが窓

ガラスは凍りついてどうにも

らな

い。余りにも規模の巨大さに圧倒度肝

を抜かれる。ローツェの東南稜からヌ

ブツェの上空をかすめエベンストに接

近する私達は丸で月世界にでも吸い込

まれて行く感じは表現する言

遠くカンチ、ローツエ、エベンスト

岩稜が陸続とした、モルゲンロートの

美しさはまことに圧倒的、上空を数回

旋回、明けたばかりのカトマンズに無

事帰着する。容易によせつけそうもな

いエベンストの南岩壁ロー

ェの雪

稜、恐しい様相を露呈しているクンプ

ー氷河のセラックは脳裡から離

れな

い。翌日空路バグドグラ経由ダージリ

ンに入りました。ヒナ段式の街は風格

があり山麓

一帯は日光杉に勝る欝蒼と

繁る見事さに驚く。

(三月二十五日)

 

員  勲

永らく御無音に打過ぎ申訳けござい

ません。入国以来約四〇日たちました

(六月二

一日)。戒厳令下のパ国では総

て決裁権が国防省にあ

って、許可取得

に相当手間どりましたが、六月

一六日

無事文書を入手、リエゾンも決定、今、

チトラルに荷物と隊員集結、六月二三

―二四日、キャラバン開始です。とに

角、政府のスロモーぶりには呆れまし

た。入

山は非常に厳しく、昨年みたいに

はいきません。それにまた、われわれ

のような大部隊になりますと、かくれ

て入ることは出来ませんし、 一寸苦労

しましたが、何とかここまで漕ぎつけ

ました。今からはわれわれの努力次第

なので、どうにかや

っていける自信は

っております。

次に情況御報告します。

※チ

ェコのナンガ

・パルバットは二名

凍傷で

一時中止しましたが、またや

り出しました。

※JAC山陰支部、許可取得できず、

結局トレキングで、六月二

一日、チ

トラルよリキャラバン開始。しかし

チェック

・ポストがうるさいので、

どうなるかはわかりません(四名)。

※京都の小山隊

(四名)はイスラマで

(5)-555-

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D こなしυοИ

290-1969・ 8

Kaspin

AleksandrO

IBudanOv

Peter

ElchibekOv

Vadim

KuzmlnKirill

SavvOn

Sergeiノ

OAACの

ドン

oM

oウーヅ氏を

迎える

去年の一〇月、バークリーに住む、

アメリカ山岳会の元老、フアーカール

さんの家で同山岳会の支部総会があっ

た時、私のところへ寄ってきて、来年は

日本を訪れる予定にしているからよろ

しくと言ったのが、同会の古い会員、

∪o日こ

〓・ダ「oo鮎∽氏であった。

ところでこの四月、香港から突然彼

から手紙が来て、ニュー・ジーランドや

イランに遊んで今、マニラ経由で日本

に向っているということがわかった。

次に来たのがマニラ発五月二一日の

もの、それから最後が別府からの葉書

であった。東京から大阪の新大阪ホテ

ルヘ電話をかけたら丁度奥さんのリン

ダさんがいてや

っと直接話し合うこと

が出来た。

そして私は

一橋OBの佐藤之敏君と

一緒に六月八日の日曜の朝、羽田に二

人を迎えたのであ

った。

あとで二人に旅行中で何が

一番嬉し

かったかと聞いたら、羽田で二人が出

迎えてくれたことだ

と言

っていた。自分

の経験から言

っても

私はさもありなんと

ったことである。

モノoレールに乗

って浜松町、それか

らタクシーで銀座東

急ホテル。それから

数日は彼らの自由行

動に委せた。日光な

どに行

って関東の

部の山と湖と河の風

景を満喫したようで

ある。

e     六月

一五日の日曜の夜行

ik。

tO‐    で二人は佐藤君に導かれ上

nn

na    高地

へ向

った。雨季の雨に

Chi

 

 

 

やられはしたが、北穂高

Vt     登

ったようだ。

0〉      そして三人は二〇日の朝

東京

へ帰

ってきた。佐藤君

には大変な迷惑をかけてし

まったので、何らかの形で

入り合せをしなければなら

ないと思

っている。

午後私は彼らをホテルか

らJACのルームヘ案内し

た。七時からスライドの映

写。思

ったより沢山の人に

来て頂いたので私はホッと

した。

一日は丁度私の休みの

土曜日に当

っていたのでハ

トバスのお伴をした。そし

て翌三二日の日曜、私は六時半に家を

出てホテルヘ行き、雨の中をタクシー

で羽田へ。九時、出国手続きをしに行

く二人を後ろから見送

って別

れた。

八〇〇パナム

一〇AMで彼らは日本で

のよい思い出を胸にハワイヘと向

った

のである。ル

ームで語るドン・ウーヅ氏

×     ×

 

 

 

 

×

彼は

一九〇三年二月三日の生れであ

るから私と年は同じである。 一九二六

年、科学々士(化学)、 一九三

一年、文

学修士、高等学校と大学予科で化学を

教えること三七年半、このほど引退、

というのが彼の職業歴。奥さんもドイ

ツ語その他で三

一年間教壇に立

ってい

たという。

ドンの登山歴を紹介すると次のよう

になる。

AAC(一九三〇年)、カナダ山岳会

(一九二八年、終身会員)、シエラ

・ク

ラブ(一九三三年、終身会員)、マザ

ス(一九六二年)。

〔登山地域〕

カナダ、アメリカ、メキショ、ノル

エー、ウエールズ、スペイン、フラ

ンス、スイス、オーストリア、イタリ

ー、ューゴースラビア、ニュー

・ジー

ランド、ペルー、ウガンダ、ケニア、

タンザ

ニア、日本。

〔主な登山〕

ロブソン、レニアの新ルート、ウォ

デイントン西峰、マッターホルン、モ

ン・ブラン、ビツ・バデイーン、アイ

ガー、グロス・グロックナー、シャル

モー、グレポン、ポポ及びイスタ、ル

エンゾリ。

ウーヅ氏と幾日かつき合

って私はア

メリカ人のある種のタイプを感じとっ

たような気がした。平たく言えばお喋

べりでチャッカリ屋でチョコマカとし

ているということである。そうでない

アメリカ人を私も沢山知

っているが、

前のような型の人もいるということは

記憶しておいてよいと思う。

予め事務的に合理的に約束しておい

てから事に当る。後でいやな思いをす

るより、そうしておいた方があとくさ

りがない。注意すべきことではないか

と思う。         (吉沢)

◆ダウラギリー(AAC)◆

――第二報――

AACはカトマンズ発五月二日付の

電報を受取

った。それによると、A

RとJ

。Dは同日午後早くヘリコプタ

ーでカトマンズに着いた。二人の話し

は次のようにな

っている。

四月二八日の朝、登山隊は二組にな

って荷揚げをしていた。 一つは三七八

mから四五四二mへ、他は四五四二

mから五

一八二mへ。(略字前号参照)

人工登攀用具とクンバスに渡す竿を

った上の隊は、正午に五

一八二m地

点に到達した。彼らが竿をクンバスに

渡していると、突然ナダンの轟音が聞

えた―

と同時に巨大な氷ナダンが落

ちて来、彼らを浚

って、そこから

一五

m下にデブリをつく

った。

・Rは現場にいたが無傷

で残

た。(前号参照)彼は直ちに仲間の捜索

を行な

ったが何も発見出来なかった。

一時間ばかりしてから氷河に沿

って下

りながら捜したが生きているものの姿

はなかった。そこで彼は三七八〇

m地

点におり、異変を他の者に知らせた。

それで又全員で現場に登

って行き仲

間を探したが発見したのは、軽い用具

の断片だけであ

った。

捜索を終

ってから下り四五四二mで

一夜を明かし、翌日三七八〇

mに下

た。四月三〇日、J

・Dはジ

ョモソム

に下り、事故を外部に知らせ、 一寸し

た医療のことで何かを回収するため先

に下

っていたA

・Rにあ

った。

AAC

ニューズ

(五月

一一日号)に

よると、クリンチ会長がこの登山隊の

経過を報告した。登山許可を得たのが

三月

一一日、三週間で強力な登山隊を

組織してダ峰の南東稜に向

ったと

う。尚同会はこれに対し、 一二六万円

の援助を行な

っていた。 

 

(吉沢)

ノ′ 

 

)′・

(6) 一

δ―

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『訪日ソビエト

oアル

ピニストと、パニー

ル登山について』

安 川

茂 雄

去る五月三〇日、ソ連アルピ

ニスト

六名

(一名は三日遅れる)が横浜につ

いた。メンバーは功労スポーツマスタ

ーで登山部長のカスピン氏をはじめ、

ブダーノフ(ンニングラード)、サボン

ナ(レニングラード)、トーリア

(モス

クワ)、バージム(タシケント)の四氏

と遅れて来日したクズミン氏

(モスク

ワ)で、以前にグルジア共和国からの

ソ連アルピニストの来日はあ

ったが、

ソ連選抜のパーティは今回が最初であ

ろう。

それだけに今回の来日パーティは、

モスクワ、ンニングラード、タシヶン

トなど、登山部門のインストラクター

で、まず登山王国

〃日本〃の視察とい

ったところだ。

七千m級の山をもつソ連では、三千

m級の山しかないわが国について殆ん

ど予備知識をも

っていないらしく、ピ

ッケル

一本、アイゼン一足さえ持

って

来ないのだから、ハイキングぐらいの

気持ちでやって来たのであろう。

五月三

一日、装備すべてを支給し、

五合目から富士山頂

へ登り、三千mの

山の氷雪にはいささか予想外であ

った

らしい。

一行のメンバーの大半は、七千m級

の山頂を

一〇座以上も登り、いわばベ

テランoアルピニストである。なかで

もトーリアは四〇歳をこえていたが、

最も現役に近く、三ッ峠でRCCⅡの

若手メンバーとザイルを組んで、 一分

の遜色もないバランスを示した。英国

の登山家ノイスがパミールで死んだ時

も彼は同行しており、ブダーノフと共

に実力ぶりは

一番かに見えた。

六月三日、立山連峰ホテルに

一行は

泊り、四日に剣沢小屋に入った。彼ら

のグリセードは特異で、その体力は瞳

目すべきものであ

った。

五日に

一行は別山尾根から剣山頂を

踏んだが、三千mの山としては、その立

派さに驚いていた。おまけに翌日から

丸二日間、季節はずれの吹雪となり、

剣は冬山そのものの相貌とな

った。

クズミンはこの剣沢での第

一日に合

流してきた。彼

はダ

ムの研究家で、

剣岳の山頂に立

つ一行

クロヨンの視察を

熱望し、六月八日

に佐伯富男の案内

で、トーリアと

ノ越経由でクロヨ

ンヘ向

った。

九日、 一行は芦

寺を見

ち、富山名鉄ホテ

ルに

一泊した。

〇日には京都を回

遊し、 一一日東京

有楽町駅前のンバ

ンテでリセプショ

ン。深田久弥、吉

一郎、佐藤久

朗、上田哲農などが出席し、吉沢さん

がJACを代表してメ

ッセージ

(英

語)を朗読し、あとは山の話しで賑わ

った。

六月

一三日午前

一一時、 一行は横浜

から出航した。五月三〇日から約半月

間の彼らの滞日であ

ったが、 一行は十

分に満足したとのことであった。

私たちはこの

一行との交換登山とい

う形で七月五日に横浜を発つ。ソ連領

パミールのレーニン峰その他六千mの

セルビスキー(六七

三二m)、スベルト

フオーフ(五五四

一m)、ラ

・ジキナー

ヤ(五五四

一m)、アクチァリ

スキ

(六七八〇

m)などの山々である。

すでに昭和四

一年のカフカズ登山以

来、RCCⅡ中央アジア登山委員会で

は、パミール、天山、コンロン等の中

央アジアヘの夢を企図していた。漸く

今年、パミールヘの入山許可がおり、

宿願の

一端が果せることにな

った。

そこでパーティの編成にかかり、隊

長上田哲農

(57歳)、隊員安川茂雄

(43

歳)、松本竜雄

(37歳)、佐内順

(29歳)

の四名が今年度の隊員とし

て選

た。平均年令四

一歳、ひどく老朽なパ

ーティとな

ったが、これもご愛嬌。

七千mへの登頂は、それ自体魅力の

あるものではない。しかし、日本人の

未踏のパミールヘ踏み入れることへの

情熱――それは年令ではなく、年令以

上に山

へ抱くパッションであろう。

カスピン氏は言

った――日本の山は

確かに四千m峰すらない。しかし、山

の貴さは山の高さではなく、そこに登

る人間の心の豊かさである。まさしく

日本の山の高さは、良き山仲間をえて

七千m以上の登山の楽しさを伝えてく

れた―

尚、 一行が署名した記念ペナントを

JACに私が寄贈した。 

 

(以上)

(注

・吉沢記)六月

一一日に招かれて

リセプションの席に出た時、

私は予めタイプしていった歓

迎の辞を朗読した。

その中で私は―フルジ

エワ

リスキーやコズ

ロフのことか

ら、現代ではアバラコフ兄弟

やクズミンなどと優れた登山

家が出ていると述べた。

ところがそのクズミン自身

が私の筋合いに腰

かけ

て、私の下手な英語に耳を傾

けていたのには驚いた。

それにもう

一つ驚いたこと

がある。それは私の右斜め向

うに席を占めていた小さなお

客さんにどうも見覚えがある

ので、

「君はオブチニコフで

はないか、ロンドンのUIA

Aでギ

ッペンレイターと

一緒

に会った、あのアナトリでは

ないか、私を覚えているか」

と聞いたところが、彼も思い

出したと見え、 ニコリと笑

て私に手を差出した。全くの

奇遇であ

った。

安川君の書いた前文の中に、トーリ

アというのはアナトリの愛

であ

が、彼は

「共産主義峰」を三つの異な

ったルートから登っている豪の者。ク

ズミンの名前とともに、パミール、コ

ーカサス、天山の登攀史を見れば、し

ばしばお眼にかかる名前である。

尚、その記録については左記のもの

などを参照せられたい。

日本山岳会の

「会報」または

「山」

・二五三―二五四号

>■

”oイ洋oく(田村俊介訳)

「ソ連の四つの七千m峰」

・二六七号

∽・〓・∽”くくoロ

(田村俊介訳)

「ソ連領パミール、天山初登頂史」

尚、このサボン氏も今回の訪日者

の中に見られる。

290-196908

レバンテの歓迎会で

o「岩と雪」(一三号、 一九六八年)

〓・>・OcaN〓o江

(田村俊介訳)

「ハン・テングリとその周辺」

又、最近の外国隊パミール登山隊の

記録としては左記のものがある。

〇>NυZ①ミ∪①NHoo『

へ^〇∽け①【嘱①】oF】∽oFO 

””【●軍‐”X‥

o①鮎〓】〇●・ ドΦO『

,ヽ」ンOFけ ()br】ハ‐

で日〓∞〓o鮎①H ”Ch 鮎①目】

”中r r①‐

●中●..く〇●

同・【”oF

コヽ””【∽v

ゝr・『・・ ドΦO∞‐H

へご′口oけH中”●

一”Xo①鮎〓い〇● け〇 けF①

「”員■【∽・HΦOヽ..げて

”・<ゞ●中∽

・バニスについては、

「山」二八

七号及び、

「山と漢谷」八月号

(一九

六九年)参照。レーニン峰付近の略図

はA

・JのよりÖAZにある方が、同

じ図であるが大きく見よい。

(7)-557-

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400YeYe Qara一Pania

た゛

スο

くの

Fc⊃天す〇

395

315C場

1968)

一α。

correspond withthat of in the mapof Jerzy Wala,

3-Figure numbers

Poland,

Jinal GOI9

0.

Moghalan

(Mo8hlang)

346

ro YoshizawKM

4 5 7 8

S Karibe,

Enlarged frOm J.

L∪NKHOSourcesi

CZeChOS10Vakia, 1965

TOkal University,1967

Tokyo Unlverslty Of

Education,1968

『一九六八年度のH

・K

について』

吉 沢 一 郎

H・Kにおける日本以外の国の昨年度の

活動については、二八七号に表示しておい

たが、それらについての一応の感想と、日本

隊の行動の概略をまとめてみようと思う。

最初は外国隊について述べる。

特に目立

ったのは最近は日本隊がえらく

嫌われているワハーン地域に、オーストリ

ア他四ヵ国が入っていることである。洵に

怪しからん話しであるが、これは政治的あ

るいは経済的または社会的な密接なコネが

ないことから来ているようである。

ところが今年は有力なコネと熱

っぱい折

衝の結果、少なくとも

一、二隊は入れるよ

うな形勢にある。これは嬉しい情報で、北

側から未踏の六〇〇O

m級を幾つか稼いで

きてくれると思うと楽しみである。

昨年はオーストリア隊がとうとうルンコ

II

(六九〇二m)の東西両峰

(ど

っちが

最高峰かは未詳)を陥入れ、鈴木政孝君ら

が登

ったⅡ峰

(【≧●澪ro■目”く”♂8∞日)

も北側から第二登がなされた。

イタリー隊の登

ったルンコIⅡの西峰が

(六三〇〇

m)にな

っているが、これは

上図の位置のものと思うがどうだろう。

一九六五年にチェコ隊の登った

〓8●”

∪5L

(oω∞o日)とな

り、南峰の

∞8

(oおい日)がメーナとな

った。

南側のコトガズ氷河からペギ

ュ峰

一、二峰が他のオーストリア隊に登られて

いるが、六〇〇O

m級なら上図の範囲内で

も右手の方に幾つか残

っている。どれが未

登かは自分で調べて行

ってみること。

・Rに移ると何と言

っても皆が狙

って

いたコヨ・ゾムが登られてしまったのは残

念である。序でにその周辺の山が幾つか初

登されているが、六〇七二mの峰がダス・

バール・ゾムとな

っているのは腑におちな

い。ヤシンの近くに古くからその名前の山

(六五二八m)があるからである。

二八七号に、グルーバー君から送

ってく

れた地図を縮少して紹介したが、従来まで

のoFF”●∽”●(ONお日)と思

って

いた

が、これをみると

のoorr鶴

∽鶴

とな

って

いる。ゴカールと読むのであろう。

スワートのガブラル谷からチトラル側の

マナリ氷河に入ると、左岸に国”ご日σ〓と

いう六〇〇〇

m級その他が残されている。

夏休みに行くところとしては面白いのでは

ないか。

ここで二番目の問題に移ろう。

去年日本からH

oK及びH

・Rへ行

った

のは合せて八隊になる。旨く行

ったのもあ

るが、悲しい結果に終

ったのもある。

まずいい方から言うと大垣隊のシャー

・アンジ

ュマン

(六〇二六m)がある。

これはセントラルH

・Kで残されていた最

後から二番目の六〇〇O

m級である。あと

一つはバンダコーの北峰の北にある六〇四

四m峰だが、尾根上の

一寸した瘤に過ぎな

いという説もある。

東京教育大学OB隊はチュティヅム峰に

は失敗したがその南側のショゴログ峰に登

って来た。ここへは今年山陰隊が入る予定

にな

っている。

早稲田隊は第二登だが、ウシュコ氷河か

r”●∞鶴

〓”〓

(ざ8日)をやった。

学習院隊はH・Rののoご∽rNoヨ

(88

日)中級の山だが初めての試みとしては完

全にやってくれた。

悲しい結果にな

ったものの

一つは愛知学

院大隊である。第三者の私には立入

った批

判は出来ないので、これは隊長に考えても

らうことにしよう。

札幌医大隊は、南アトラク峰

(六二四

m)に登

ったが、 一人の遭難者を出してし

まった。

婦人アジア隊のイストル・オ・ナール

(七

四〇三m)登頂には問題があるらしいが、

これはスワタ君に委せる。

(8) ―-558-

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七月定例理事評議員会

(3日7時、本会会議室)

▽出席者 深田、吉沢副会長、辰沼、

山崎、大塚、飯野、広谷、川上、藤

田、長尾、浜野、野上、小倉、牧野

内、中島各理事、津田、藤井、折井、

金坂、沼倉各評議員、堀田監事

▽議事

① エベンスト登山関係(大塚、藤田)

藤田理事より第

一次偵察隊の行動日

程と偵察結果につき報告があ

った。大

塚理事より準備体制などについて次の

報告があ

った。

0 七月二日のエベンスト委員会で準

備委員会委員候補者、準備委員会設置、

実行予算について検討が行なわれた。

準備委員公募の結果百十六名の申し出

があり、当面選考せず、全員参加して

もらい十三向井ビル四階の準備事務所

で顔合わせを行な

って、最終的に五、

六十名にしばりたい。

0 実行予着昇は当初の企画予着昇九千万

から

一億としたい。

い スキー隊との件については六月十

日外務省で、六月十九日ネパール大使

館でバンダリ大使、シャハ書記官同席

の上、本会三田会長、日高名誉会員、

辰沼、大塚、松田各理事、スキー隊高

橋、中野、高島、三浦、松下、古村

(万

博リ

ェゾンオフイサー)が集り話し合

った結果、両隊とも七十年プンモンス

ーンに入山することを承認した上で問

題あれば個々に話し合いをするとの合

意に達し、これを英文にして三田、高

橋のサインの上でネパール大使に提出

した。従

って許可の件は当初の通り七

十年プンということがクリアされた。

290-198908

い 毎日新聞についてはその後体制も

固まり、内山氏がエベンスト後援事務

のため専従されることにな

った。松方

隊長と毎日新聞斎藤主幹との話も行な

われた。

0 会員募金は最低千万円を目標にし

たい。

▽報告

◎海外連絡        (大塚)

・シェラクラブの第

一陣が七月十三日

に来日する。歓迎会は九月十三―四日

日光光徳牧場で行なうことを検討して

いる。

・ネパールのバンダリ大使が帰国し外

務省の要職に就任されるので七月二十

八日国際文化会館で日ネ協会と共催で

歓送会を開く。

・本年度のUIAA総会はチェコのプ

ラハで開かれるが、ちょうどモスクワ

にそのころいる本会々員田村俊介氏に

本会代表として出席してもらう。

②日本山岳協会関係    (広谷)

協会の指導委員会が懸案の指導員間

題の検討を行なうため設けられ、本会

から谷口現吉氏に出てもらうことにな

った。

③山岳の件        (中島)

六十三年の山岳は七月初旬に発送可

能である。六十四年は原稿依頼済で、

年内に発行したい。

④山日記の件      (牧野内)

一月

一日発行を目標にしている。

読みものはエベンスト、南極、山と人

の三テーマにしたい。

⑤医療委員会       (長尾)

七月二十日から富士山診療所を開く

が、 一部医師の予定がたたない。何と

かうめたい。

③学生部の件       (浜野)

日本山岳学生連盟設立総会を九月下

旬開く予定で、当分の間連絡場所を日

本山岳会としたい。日山協に対しては

担当の小島六郎氏と連絡をとっている

が日山協加盟は見込みがある。

⑦図書委員会       (野上)

松方三郎氏からジオグラフイカル・

ジャーナルが寄贈された。

③婦人懇談会       (小倉)

・六月二十八日代々木

ュースホテルで

懇談会を開いた。

・七月十七日ビールパーティをやる。

・九月二十二日から行なう婦人登山研

修会は文部省と主催する。

・その他         (飯野)

恒例の年次晩餐会は十二月五日

(金

曜日)平河町のマツヤサロンで開く。

 

 

りヽ 

山岳図書交換即売会

先年好評をいただきましたこの催し

を本年も十月二十五日

(土)午後四時

から六時まで本会ルームで行なう予定

ですのでご協力ください。

お手持ちの本で不要のものがありま

したら、たとえ雑誌の

一部でも結構で

すのでご出品ください。左記出品目録

は八月末日までに本会図書委員宛お願

いします。

○書名、著者名、発行所名、希望価

(または委員会

一任)

二五四回小集会

九月十

一日木

曜日、午後六時半から本会ルームで行

ないます。講演者と題名はまだ決定し

ておりません。

ソ連隊から

ベナント寄贈

RCCⅡとの交換登山のため、五月

三十日―六月十三日の二週

にわ

り、全ソスポーッ協会登山部長カスピ

ン氏

(スポーツ・マスター)以下六名

が来日し、富士登山ならびに剣岳周辺

において登山を行な

ったが、六月十

日RCCⅡ主催の歓迎会の席上、本会

より出席した吉沢、深田両副会長に対

し、同隊全員のサイン入のペナントが

寄贈された。

叙  勲

日大理工学部教授の会員中原万次郎

氏が左記の通り春の叙勲の栄を受けら

れました。お祝い申上げます。

▽中原万次郎氏

(会員番号九三七番)

勲四等旭日小綬章

会 員 訃 報

酬制刺=到周(会員番号一三四五)

かねて病気療養中のところ、六月十

二日。渋谷日赤病院で逝去、七十八歳。

氏は明治二十三年十二月

一日鳥取県生

れ、貞江夫人とともに早くから夫妻で

山を歩かれた。戦前は日本登高会で活

躍し、昭和十九年推されて東京岳連の

理事長をつとめたこともある。温厚な

人がらは誰からも敬愛され

「オヤジさ

ん」の尊称で多くの岳人から親しまれ

た。阿

江正造氏

(会員番号八九二番)

昭和四十四年

一月八日死去。七十四歳。

氏は明治二十七年三月二十八日生れ。

大正十三年六月本会入会。大阪スキー

クラブ会長を長年つとめられた。

本会はつつしんで哀悼の意を表する

指導研究委員会

▽日時 六月三日

(午後六時半)

▽場所

本会ルーム

▽出席者 池田、堀川、川崎、金坂、

山崎、大森、長尾、関日、広谷

委任、芳野、川上、吉田

▽昭和四十四年度の方針について検討

し、それぞれの分担を決めた。

①指導集会

0冬山登山技術講習会 例年のごと

く会員および会員紹介者で初級―中級

を対象とした講習会を十二月上旬富士

山で実施する。

(企画

・堀川、関口)

安 全 登 山 十 則

(英国山岳評議会作制 )

(こ れは JACの 会員への警告ではなく,紹介である。I.Y。 )

1)地図で計画せよ。2)周章てて大きなものにぶつかるな。もっと漸進的にせよ。3)仲間と行き,いつも離れるな。経験が積むまで責任者になるな。

経験を積んでも,10人が限度である。4)最悪条件を目標にした準備。よい履物,暖衣,ア ノラック,全員

に対する予備の着衣と食糧,地図,呼子,電気灯,磁石の用意を忘れぬこと。

5)充分の時間,それ以上の余裕,落着き,急 く゛な,しかし時の労費

もいけない。6)岩や石を投げたり,踏み落してはいけない。地方の規則を知り,

それを遵守する。7)天候に注意,数時間でまるで変ってしまうこともある。悪変した

時,向 う見ずに進むな。下ることを恐れてはいけない。8)経験のあるリーダーなしで, 岩, 雪, 氷の登攀をしてはいけな

い。

9)道に迷 っても,周章てた り,駆け下 りては い け な い。皆離れず

に,じ っくりと自分の位置と,最良の下山路を確かめよ。10)自 分の通るルー トと,帰宅の予定を残して行く。下界の友人が予

期していなかったところへ出たら,そ こへ電話するなり,無駄な

捜索手間を省くため,警官に連絡せよ。

―Alan iBlackshaw's ``Mountaineering"―

(9)―-559-―

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290-1969・ 8

ハ担当

・芳野、大森、松永)

0婦人のための登山技術研修会 婦

人懇談会起案の研修会が予定されてい

るが運営上の協力、相談に応ずる。

(担当

・村木、長尾、浜野、関口)

い遭難予防に関する集会 冬山を前

にして警告的要素もあるので例年のご

とく十月下旬に実施する。参加者、内

容などより考えて学生部、集会、遭対

と協議して行ないたいパ企画

・川崎、

錦織、牧野内)

0谷川岳規制地域

への入山手続 手

続方法などを徹底させるため会報に再

掲載し、特に学生部等の団体会員に対

する取扱いをPRするパ担当

・広谷、

松永)

Q講師依頼、派遣、支部、 一般より

依頼された場合、その都度委員会にお

いて検討して決める。

(担当

o広谷)

②調査研究

0指導員制度、現行の制度、諸外国

の制度を集め検討、委員会としての見

解を明かにするパ担当

・山崎、広谷)

0登山技術指導要綱 当会の登山講

習会は毎年実施されているが講師が流

動するにつれて指導方法も変る傾向が

ある。従

って当会の指導要

し、指導の部0にて実施研修するパ担

・芳野、松永、広谷)

い雪崩の事例資料、過去十年間の雪

崩による遭難事例を集収し、検討を加

える。

(担当

・金坂)

0研究、検討のための委員会 八月

初旬二回に分けてミーティングを行な

い、010、01いについて

の企

案、②10、②10、②lいについて

の検討などを行なう。 

 

 

(広谷)

二五

二回小集会

六月二十六日

本会集会室で村山雅美氏の「極点旅行」

の話があ

った。まず三つの極点、昭和

基地、日本が観測することにな

ってい

る東径三十度から四十五度の位置など

の説明があり、とくに他国のように飛

行機が使えないため、①マイナス六十

度でも働ける。②四千メートルでも動

ける。③耐久力六千キロメートル。④

五ヵ月間の車中生活を満たす機能を持

つもの。⑤重量八トン以内という要望

を出したこと。

車の色はつやけしの黒にしたので保

温性に富み、室内では三十八度に上昇

したこともあったなどの苦心談から、

昨年九月二十八日に出発、十二月十九

日極点に到達、今年二月十五日無事基

地に帰るまでの観測、調査の方法、ア

メリカ基地の様子など興味深い話を美

しいスライドとともに見せていただい

た。参加者五十余名  (武田育子)

婦人懇談会報告

六月二十

一日土

曜の夜から

一泊で渋谷オリンピック記

念青少年センターの東京代々木

ュース

ホテルで婦人懇談会集会をや

った。

夕食を囲みながら九月下旬の文部省

と日本山岳会主催の立山登山研修所で

の婦人登山者研修会を婦人懇談会が世

話役となることにな

ったのでそのいき

さつを村井米子氏から説明があった。

共同生活で膝をまじえ、会員相互の

親ぼくを

一層深めた。出席者二十名。

(斎藤かつら)

便

新刊図書受入報告

(昭

o44o6)

神奈川県観光課寄贈

『観光かながわ』昭44o3

『横浜

・川崎』昭44

・3

『鎌倉

o江ノ島と周辺』昭44o3

『三浦半島』昭44

o3

『箱根

・湯河原と周辺』昭44

o3

『丹沢大山

・相模湖周辺』昭44o3

あかね書房寄贈

0薬師義美著

『逢かなるヒマラヤーわ

がネパール踏査行―』昭44・5

実業之日本社寄贈

0金久昌業編

『関西ベスト

ハイ

グ』

(ブルーガイドブ

ックス48)昭

44

山崎安治氏寄贈

0山崎安治著

『日本登山史』昭44

・6

白水社刊

定期刊行物受入

(昭

・44

o6)

〔部報

・会報類〕

『えぞ』Zo・ドドΦoNIHΦoト

『北海道自然保護協会会報』Zo・、

『兵庫山岳』Zo・器ヽ登山研修所特

集号

トトーo

『愛知県山岳連盟海外登山研究会会

誌』Zo。Nトトーo

『国立公園』Zo。Nωい.310

『京都山岳』Zo。いNΦ.oΥ‐o

『名古屋山岳会月報』ZoL∞.31

『日

oL

∞ヘトー

『O

レポ

O。N∞P

N∞〇

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りヽ

『札幌山岳倶楽部部報』

『低山』Zo・卜、。31o

『山と雪』Zo・ド∞トミーo

〔雑誌〕

『アルプ』ZO・H∞o

『地図』Zo。Nい

『岳人』Zo。いいい、81「

⌒ヾ)『〓】バ問”』Zo・ドいい。oΦI‐ヽ

『山と漢谷』Zo。ω↓o.oolq

〔その他〕

0富山県教職員山岳研究会

『ヒンズー

クシ踏査隊計画書69』

②盛岡山岳会

『北ボルネオキナパル山

登山計画書』

洋書受入報告

(昭

o44

o6)

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このたび参考図書として左記の二冊

を図書室に備えましたので、来室の際

は十分御活用ください。

0小学館

『日本分県地図―世界原色百

科事典別冊―』昭42

o7

②旺文社

『エッセンシャル和英辞典』

昭44

・2

図書委員会報告

六月

一九日 六時三十分から本会図

書室深

田、武田、川上、大橋、細井、野

0各委員分担の件

深田

(委員長)

小林

(総務)

山崎

(総務

・洋書)大橋

(展示

・集会)村

(部報

・会報)

倉知

(洋書)

武田

(地図及び日本国際地図学会関係)岩

(洋書目録

日本図書館協会関

係)細井

(寄贈

o欠本補充)雁部

(海

外遠征資料)稲田

(新刊書)川上

(索

引)丸山

(和書目録)野上

(委員会担

当理事)

②年間行事計画の件

イ、 一〇月

「図書交換即売会」

(第二

回)七月の委員会にて同時決定

口、 一二月第八回

「この

一本展」テー

「エベンスト」

ハ、二月

「山岳図書を語るタベ」山岳

図書に造詣の深い方々を囲んでの

懇親会

0日本図書館協会加盟の件

JACの図書室が整

って行

れ、他の図書館の動き、運営方法など

の外の情報を手に入れ、それらを活動

に反映させていくべきだ、という意見

から日本図書館協会

(JLA)の特別

会員Cクラス

(年間会費三千円)に加

盟することに決定した。

0図書寄贈の件

イ、松方三郎氏より

「08∞Su〓8】

〕oc‥性」深田、細井両委員に運

搬依頼、近日中にルームに届く予

定。

口、伊倉剛三氏より、諸橋轍次編

「大

漢和辞典」

ハ、中尾健式氏より

「>ぼ〓①『O民―

・L」寄贈の話があり、 野上繊事

再確認。

り雑件

イ、図書購入の件

・「エッセンシャル和英辞典」

「日

本分県地図」「>

∪中0〓〇●鶴くOh

Ooom『”oアて」

・国際地図学会

「明治以後の地図目

録」購入決定

・小学館

「世界地図帳」購入決定

口、複写機の管理規定原案。野上理事

作製。

ハ、本年度定例図書委員会は毎月第三

木曜日とする。ただし、七月は第

,大曜日。

。S

(ナンバ11)

JAC図書室も、いよいよ日本図書

館協会に加盟が決定し、オズオズと専

門図書館部会などに顔を出すことにな

りそうです。図書館界の孤児

(?)だ

ったJACも、山ならぬ海の中

へ乗り

出し、最初はさながら帆のないヨット

のごとく心細い旅を続けることでしょ

(10) 一

θ一

Page 11: jac.or.jpjac.or.jp/info/iinkai/kaiho/196908YAMAr1.pdf定価一部50円 290-196908 第290号 昭和44年8月10日発行(毎月10日発行) 昭和44年(1969年) 8月号(No.290) 建買日本山岳会