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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 富本憲吉の英国留学以前 : ウィリアム・モリスへの関心形成の過 (Tomimoto Kenkichi's Schooldays before his Visiting London for the Study on William Morris) 著者 Author(s) 中山, 修一 掲載誌・巻号・ページ Citation 表現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81002869 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002869 Create Date: 2018-06-19

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Kobe University Repository Kernel

タイトルTit le

富本憲吉の英国留学以前 ウィリアムモリスへの関心形成の過程(Tomimoto Kenkichis Schooldays before his Visit ing London for theStudy on William Morris)

著者Author(s) 中山 修一

掲載誌巻号ページCitat ion 表現文化研究6(1)35-68

刊行日Issue date 2006-11-13

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 102454681002869

URL httpwwwlibkobe-uacjphandle_kernel81002869

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研究論文|copy2006 神戸大学表現文化研究会|2006年9月8日受理|

Article | copy2006 SCBDMMT Kobe University | Accepted on 8 September 2006 |

富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程

Tomimoto Kenkichis Schooldays before his Visiting London for the Study on William Morris

中山修一 Shuichi Nakayama

概要

のちにとりわけ陶芸の分野において大成し日本

の近代を代表する工芸家のひとりとなった富本憲吉

(一八八六―一九六三年)は学生時代に一番親しか

った南薫造が当時ロンドンにいたこともあって徴兵の

関係から早めに卒業製作を仕上げると一九〇八年一

一月末ころに室内装飾を学ぶとともに美術家であり

社会主義者であったウィリアムモリス(一八三四―一

八九六年)の実際の仕事に触れるために私費で英国

に向けて出発した

本論文はいかにして学生時代に富本はモリスの

思想と作品に関心をもつようになりモリス研究のため

の英国留学を決意するに至ったのかにかかわって現

時点で私にとって利用できるすべての資料に即しなが

らその詳細を明らかにすることを目的としている

本稿の前半において郡山中学校時代に友人の嶋

中雄作を通じて富本はモリスを知るようになり自らも

当時の日本における唯一の社会主義運動の機関紙で

あった週刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」

の抄訳を読んでいたことや一九〇四年に東京美術学

校に入学すると文庫に所蔵されていた『ステューディ

オ』のなかのモリス関連の 大二八点の図版からモリス

作品を知るに至った経緯について明らかにされている

さらに続けて私は日露戦争に対する富本の政治的信

条や夏目漱石の「文芸における哲学的基礎」に関す

る講演から富本が得た知見にも触れたうえでエイマ

ヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著

作および彼の公的生活』を含む三冊の書物のなかの

何冊かを読んだことがおそらく富本の英国留学を決

定づける要因になったことを示唆している

後半においては学生時代に富本が製作した三つ

の作品である東京勧業博覧会(一九〇七年)に出品

した《ステインドグラス図案》『翠薫遺稿』の装丁お

よび卒業製作の《音楽家住宅設計図案》について分析

しその特質と意味について論じているその結果こ

の時期富本はとりわけステインドグラスや文字表現

さらには西洋文化以外のもうひとつの異文化に対して

強い関心をもっていたことが明らかにされている

キーワード富本憲吉南薫造ウィリアムモリス嶋中

雄作『平民新聞』東京美術学校『ステューディオ』

日露戦争夏目漱石エイマヴァランス《ステインド

グラス図案》『翠黛遺稿』《音楽家住宅設計図案》

Abstract Tomimoto Kenkichi (1886-1963) was one of the greatest ceramists who established his own philosophy and work as part of Japanese modernity In order to see the actual work of the artist and socialist William Morris (1834-1896) and to study interior design he quickly completed his graduate work and then left for England at his own ex-pense around the end of November 1908 This was in part because not only had he wanted to avoid conscription into the army but also Minami Kunzo one of the closest friends in his schooldays was already in London

The purpose of this article is to clarify in detail how in his schooldays he was interested in Morriss philosophy and work and decided to visit London to study them using all the materials I have to date been able to consult

The first half of my paper shows that when he was a stu-dent in Koriyama Junior High School he not only knew about Morris through the guidance of his friend Shima-naka Yusuke but also read a partial translation of Morriss News from Nowhere in the weekly Heimin Shimbun which was the only newspaper for the socialist movement in Ja-pan at the time I also show that entering into Tokyo Art School in 1904 he had a chance to see at most 28 plates of Morriss work in The Studio at the library Subsequently I refer to Natsume Sosekis lecture on the philosophical base in literature for the students at the School as well as Tomi-motos political belief against the Russo-Japanese War before demonstrating that some of three books including Aymer Vallances account William Morris His Art his Writings and his Public Life probably helped Tomimoto to decide to visit London

In the latter half of the paper I also discuss the charac-ters and meanings of three works made in his schooldays Design for Stained Glass displayed in the 1907 Tokyo In-dustrial Exhibition a cover design for the Late Suitais Writings and his graduate work Design for a Cottage for a musician The paper demonstrates that at the time he was particularly interested in stained-glass work lettering arts and cultures other than Western cultures Keywords Tomimoto Kenkichi Minami Kunzo William Morris Shimanaka Yusuke The Heimin Shimbun Tokyo Art School The Studio Natsume Soseki The Russo- Japanese War Aymer Vallance Design for Stained Glass The Late Suitais Writings Design for a Cottage

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

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はじめに

周知のとおり富本憲吉(一八八六―一九六三年)

はとりわけ陶芸の分野において大成した日本の近

代を代表する工芸家のひとりである富本は東京美

術学校(現在の東京芸術大学)入学以前からまだ日

本にあってはほとんど紹介されていなかったヴィクトリ

ア時代の詩人であり社会主義思想家でありまた同時

にデザイナーでもあったウィリアムモリス(一八三四―

一八九六年)に関心を抱き徴兵の関係から卒業製作

を早めに提出すると当時親友の南薫造がすでにロ

ンドンに滞在していたこともあって一九〇八(明治四

一)年の秋私費でモリスと室内装飾を研究するために

イギリスに渡ることになるそして一九一〇(明治四三)

年の六月に帰国するとその後エイマヴァランスの

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』を底本とする評伝「ウイリアムモリスの話」を

一九一二(明治四五)年の『美術新報』の第一一巻第

四号と第五号に二回に分けて発表する1

モリスの何に興味をもって富本はイギリスに渡ったの

であろうかそして富本はイギリスの地でモリスについ

て何を学び何を日本へ持ち帰りいかなるかたちで

その後の活動の栄養分としたのだろうか

本稿ではモリスの富本への影響を予見をもって

過大視することも過小視することもなく富本が実際に

書き残したものや信頼にたりうる周辺の資料を可能な

限り正確に援用することによってとりわけ渡英以前

にあって富本がどのようにしてモリスを知るに至った

のかについて焦点をあて富本の英国留学以前のモリ

スへの関心形成の過程を明らかにすることが主たる目

的とされている

1 一九〇四年までの日本におけるモリス紹介

晩年富本は自らの英国留学の目的を次のように

語っている

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした2

ここから読み取れるのは主たる富本の英国留学の

目的が「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という強い願望に起因していた

ことであるそこでまず戦前昭和期までの日本におけ

るモリス紹介の全体像を概観しておきたいと思う

ウィリアムモリスは周知のように一八三四年三月

二四日にロンドン北東郊外のウォルサムストウにある

〈エルムハウス〉において父ウィリアム母エマの三番

目の子として生まれたそして一九三四(昭和九)年に

は生誕百年を記念してロンドンのヴィクトリアアン

ドアルバート博物館で「ウィリアムモリス」展が開催さ

れ一方日本にあっては日本橋の丸善においてヰ

リアムモリス誕生百年祭記念「文獻繪畫展覧會」が開

かれた

さらにこの年には川瀬日進堂書店から『モリス記念

論集』が刊行されたそのなかに所収された論文「文獻

より見たる日本に於けるモリス」において執筆者の富田

文雄は明治期から昭和初期までのモリスを紹介した

文献にかかわって社会主義者詩人工芸家の三つ

の側面から詳述したうえで以下のようにその特徴を

要約している

扨て以上を通じて見ます時大體次の二つの

ことが言ひ得るのではないかと考へるのでありま

す即ちその一つは日本に於てはモリスの社會

思想に關聯した方面の紹介が も盛に行はれた

こと次が文學方面であるがこれとても思想上の

取扱ひが主となつてゐる樣でありそして 後が

工藝美術の方面でこの方面は も盛に行はるべ

くして而も も振つてゐない事實今一つのこと

は何れの方面を見てみても時代から見て大正

時代の後半に於て も盛に紹介されたことの二

つでありますそしてこの二つの事實は結局日本

に於けるモリスの紹介は主として世界に於けるか

のデモクラシー思潮氾濫の波に乘つて行はれた

ものであることを物語るものであると考へるのであ

ります3

そして富田は日本で紹介された個々のモリス文献

について専載本を一〇点半専載本を五点雑載

本をその程度によって三ないしは一点としたうえでグ

ラフにまとめている【図1】この統計資料からわかるこ

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

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とは明治二〇年代の中頃から文献をとおしてモリス

紹介が行なわれるようになり初期の小さなピークが日

露戦争の開戦前後に起こるも衰退しさらにその後

いわゆる社会主義運動の「冬の時代」を経たのち一

九二〇(大正九)年から一九二五(大正一四)年にか

けての期間に再び大規模なうねりが隆起していること

であるそしてまたこのグラフからこの期間の紹介

の中心が社会主義思想家としてのモリスの側面にあ

ったことも理解できるこれが一九三四(昭和九)年

までの日本におけるモリス紹介のおおかたの全体像

であった

富本憲吉が東京美術学校に入学するのが日露戦

争開戦直後の一九〇四(明治三七)年の四月である

おりしもこの時期は日本におけるモリス紹介の初期の

小さなピークを迎えたときにあたるそれではそのとき

までにあって具体的にはどのようにモリスは日本へ紹

介されていたのであろうか

牧野和春と品川力(補遺)による「日本におけるウィ

リアムモリス文献」のなかには一九〇四(明治三

七)年以前のモリス紹介の文献として書籍と雑誌を

あわせて一八点が挙げられている4それに依拠し

ながら代表的な事例を紹介するとすればおおむね

以下のようになる

初の文献は一八九一(明治二四)年に博文館か

ら刊行された澁江保の『英國文學史全』【図2】で「第

二章 近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム

モーリス 一八三四年生」5 という名前と生年のみの記

載が認められる

そしてモリスが死去した一八九六(明治二九)年には

『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し次のように報

じている執筆者名は「B S」のイニシャルのみである

老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃

思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲

報に接せんとは長く病床にありしウ井リヤムモ

リス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開き

し程もなく俄然病革りて去る十月三日彼は六十

三歳を一期として此世を辭し同六日遂にクルム

スコット墓地に永眠の客となりぬという彩筆を揮

て文壇に闊歩すると四十年ロセッテス井ンバ

ルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の

諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず

まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり

或は過去の實物保存の為めまた將來社會民福

の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ

其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは

到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の

英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し併

せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶると

ころあるべし6

ここからこの追悼文は「地上の楽園」を中心としたモ

リスの詩の解説が賛美の基調でもってはじめられるわ

けであるが注目されてよいのは上で引用した書き出

しの文のなかにあってわずかながらもモリスが工芸

家や社会主義者であったことも連想させるような記述が

なされていることである

さらに一九〇〇(明治三三)年には『太陽』におい

て上田敏もラファエル前派の詩人としてのモリスに

言及し「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の

徒なる歌人と自ら稱し『地上樂園』(一八六八―七

〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」7 と短く紹介

している

『帝國文學』や『太陽』以外においてもこの時期

『早稻田文學』『國民之友』『明星』などの雑誌をとおし

て断片的に紹介された形跡はあるもののとりわけ社会

主義者としてのまとまったモリス紹介は一八九九(明

治三二)年に出版された『社會主義』においてがおそら

くはじめてであった著者の村井知至は「第六章 社

會主義と美術」のなかで社会主義者へと向かったウィ

リアムモリスの経緯をジョンラスキンと関連づけなが

ら次のように描写していた

ジヨンラスキンとウ井リアムモリスとは當代美術

家の秦斗にして殊にモリスは美術家にして詩人

なりhelliphellipモリスも亦ラスキンの感化を受けたる一

人にして彼と同じき高貴なる精神を持し己れの

位置名譽をも顧みず常に職工の服を着し白晝

ロンドンの街頭に立ち勞働者を集めて其社會論

を演説せりhelliphellipラスキンは寧ろ復古主義にして

モリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至

つては二者全く其揆を一にせり彼等は等しく現

今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に

於ては到底美術の隆興を見る可はずhelliphellip今日

の社会制度を改革せざる可らずと主張せり如此

にして彼等は遂に社会主義の制度を以て其理

想となすに至れりhelliphellipモリスは社会主義者の同

盟の首領として死に抵る迄運動を怠らざりき8

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

38

こうした社会主義者としてのモリスはその後週刊

『平民新聞』の紙面を通じてさらに紹介されていくこと

になる

周知のように週刊『平民新聞』とは幸徳秋水や堺

利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日

に創刊号が刊行され創刊一周年を記念して第五三

号に「共産黨宣言」を訳載するとしばしば発行禁止

にあい一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六

四号をもって廃刊に追い込まれた日本における社会

主義運動の 初の機関紙的役割を果たした新聞であ

る発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面

にはエミールゾラ右壁にはカールマルクス本棚

の上にはウィリアムモーママ

リスの肖像が飾られていた」9

この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介される

のは「社會主義の詩人 ウヰリアムモリス」という表題

がつけられた一九〇三(明治三六)年一二月六日付

の第四号の記事【図3】においてであったこの記事は

一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた村

井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転

載したものであった10おそらくその間この本は発行

禁止になっていたものと思われるそれに続いて一九

〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七

日付の第二三号までの連載をとおして一八九〇年に

社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載された

モリスの「ユートピア便り」がはじめて日本に紹介され

ることになるそれは「理想郷」と題され枯川生(堺利

彦)による抄訳であったそして連載後ただちにその

抄訳は単行本としてまとめられ「平民文庫菊版五銭

本」の一冊に加えられるのである11 【図4】

したがって美術学校入学以前にあって文献をとお

して富本が知りえた可能性のあるモリスはおおよそ

上述のような雑誌類によって紹介されていた主として詩

人としてのモリスさらには単行本や『平民新聞』のなか

にあって記載されていた社会主義者としてのモリスとい

うことになるしかしそれはいまだ断片的なモリスにつ

いての情報にとどまっていただけではなくとくに工芸

家としてのモリスについてはほとんど紹介がなされてお

らず全体的なモリス像の紹介という点からは程遠いも

のであったしかもモリスのような社会主義思想家の

紹介はこの時期からさらなる官憲の圧迫の対象となり

その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高まりを迎え

るまで衰退の途を余儀なくされるのである

2 週刊『平民新聞』をとおしてのモリスとの出会い

晩年の一九六一(昭和三六)年に富本憲吉の

「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談

会が開かれたそのなかで「helliphellip[英国へ]行く前から

モリスを研究するつもりで」という英国留学とモリス研

究についての質問に答えて富本はこう述べている

そうです私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がお

り嶋中がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういうことを研究していた

し私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた

それにモリスのものは美術学校時代に知っていた

しそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

た南薫造

がイギリスにいたものですからフランスに行くとごま

かしてイギリスに行った12

富本と同郷の嶋中雄三は大正昭和期の社会運

動家でのちに東京市会議員などを務める人物であり

富本とは六歳年上にあたるしかし中央公論社に一

九一二(大正元)年に入社しその後社長を務めること

になるのは弟の嶋中雄作であり上で引用した「中央

公論の嶋中雄三」という富本の記憶には混乱がみられ

る一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作

はしたがって一八八六(明治一九)年六月生まれの

富本と同学年だった可能性があるものの富本は郡山

中学校雄作は畝傍中学校に当時在籍しており中学

校時代にふたりのあいだでどのような交流がありとりわ

けモリスがどのようなかたちで話題になっていのかはわ

からないしかし雄作は兄雄三の影響のもとに中央

公論社入社以前から社会運動とりわけ女性の権利拡

張に関心をもっていた可能性もあり13嶋中兄弟のそう

した政治的社会的関心を通じて富本も社会主義や

モリスについての知見を得ていたのであろう双方が中

学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購

読数はおおよそ二四部であった14当時富本家で購

読されていたことを示す資料は残されていないした

がって富本が「中学時代に読んでいた」という『平民

新聞』も嶋中兄弟によって貸し与えられたものだっ

たのかもしれない

富本がモリスを知ったのはこうした『平民新聞』に

掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおし

てであったとくに「理想郷」は社会革命後の新世界を

扱っていたこの物語の語り手(語り手はモリスその人

と考えてよいだろう)は革命後に生まれるであろう新

しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

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わされた夜疲れ果てて眠りにつき翌朝目が覚めて

みるとすでに遠い昔に革命は成功裏に終わり理想

的な共産主義の社会にいる自分を見出した語り手

が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働汚

染される自然苦痛にあえぐ生活からは想像もつかな

い全く新しい世界がそこには広がり労働と生の喜

びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んで

いたこれを読んだとき富本にはモリスが描き出し

ていた革命後の理想社会はどのようなものとして映じ

たのであろうかそれはわからないしかし社会が変

化することの可能性そしてそれを成し遂げるにあた

っての時代に抗う力の生成さらにはその一方でそう

した行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在

これらについては少なくとも理解できていたであろう

こうして富本はこの時期確かにモリスの社会主義の

一端に触れることになるのであるそれはちょうど主

戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく

反戦論などなすすべもなく御前会議でロシアとの

交渉が打ち切られ対露軍事行動の開始が決定され

た時期であり一七歳の青年富本が郡山中学校の卒

業を控え美術学校への入学を模索しようとしていた

まさにそのときのことであった

3 東京美術学校の教師たち

富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は決

して明確なものではなかった

当時私は石彫りに心を動かし自分でも一度

手掛けてみたい気持ちもあったのでなんとなく美

校を志した15

周りの反対はあったものの富本は一九〇四(明治

三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置く

ことになる16しかし専門的な分野については富本

にとって全くの未知の世界であった

中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入

つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を

(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた同じ室の

生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに

話して居たのを聞いた事があるhelliphellip當時は非常

に耳新らしくそう云ふ新語や上級生のする事を

一生懸命で眞似たものである17

この時期美術学校は学生たちにとって必ずしも

居心地のよいものではなかった富本の二年先輩に

あたる西洋画科に在籍していた南薫造はその当

時の実技の授業について日記のなかでこう不満を

漏らしている

学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんもの

であった

学校で彫刻とか云ふのをやった土で変なことを

するのである皆なも左官らしいとか云ふて居た

僕も大ひに不満であった18

そうした学生からの不満はその後も続いた富本より

遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に

入学した光雲を父に光太郎を兄にもつ高村豊周が

後年回顧するところによるとその当時のその学校の様

子は以下のようなものであった

学校では二十一二の青年の生活におよそ縁

のないクラシックな物ばかり作っているたとえば

一年の時に作った筆筒は自分の欲望から生ま

れたデザインでは決してないクラシックな物ばか

り載っている本を見てこんな物をこしらえればよ

いのだろうと見よう見真似のデザインをして先生

の所へ持っていくと何がいいのかわからないが

いいと言うからそれを作るhelliphellipしかし私たちは

ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい

するとこの筆立は一体誰のために作るのだろうと

いう疑問が起ってくる19

富本自身も美術学校の学生だったころの自分の

製作に対する姿勢を振り返り暗澹たる思いにかられ

ている

学生時代の事を思いおこすと先生から菊なら

ば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生してお

き文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑

誌――を見るhelliphellip全体見たあとで好きな少し衣

を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の

場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様

と考へ[て]居た事もあるhelliphellip人も自分も随分平

氣でそれをやった近頃は一切そむな事が模様

を造る人々にやられて居ないか先づ自分を考

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

40

へるとタマラなく恥かしい20

過去の作例に縛られた製作雑誌や本からの模倣

教師の前にあっての受身的な態度使用者不在の

製作物こうしたことに対する疑問や不満は言葉で

は表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらし

たことであろう

入学すると富本は「学校へはあまり顔を出さず年

中下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた

自分でやるだけでは満足せずおそらく日本では 初

のマンドリンバンドを作った」21美術学校での教育は

富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった

しかしそのとき結成されたマンドリンのサークルでの

人的交流はその後の富本に大きな意味をもたらすこ

とになるそれは南薫造と知り合い深い友情を形成

することができたことに由来する南は富本の二年前に

入学しその後一足先に一九〇七(明治四〇)年に

渡英するそして南は富本の英国留学の指南役を果

たすことになるのである

マンドリンのサークルの中心人物は岩村透であっ

た嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた

森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴

い一八九九(明治三二)年に岩村は「西洋美術史」

の授業を美術学校から嘱託されているそしてパリ万

国博覧会見学のための解嘱をはさんで一九〇二(明

治三五)年からは同学校の教授の職にあった

一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して南は

追悼文を『美術』に寄稿しそのなかで当時のマンドリ

ンのサークルについてこう回想している

自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議

な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]

先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だ

つたそれで先生を發頭人として音樂の會合が

學校の中に拵えられた日が暮れても有象無象

が蝋燭の下に集まつて時の過ぎるのも知らず

コールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの

動物園と競爭で吐鳴つた當時先生はマンドリ

ンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンド

リンをやる事になつた今日の如く樂器が容易に

手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出

來なかつた22

この数人で構成されたサークルのなかに南とともに

富本も加わっていたのであるそれでは教室にあって

の岩村はどのような教師だったのであろうか南は

同じくこの追悼文のなかで西洋美術史の教授として

の岩村を次のように追想している

先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ

這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ今

から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の

一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる

美術學校も無論まだ本館が焼けない以前であの

古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込

んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせ

られる時は實に二時間が誠に早やく立つて仕舞

ひ其の痛快な先生一流の論法には全く魅せら

れて片唾を飲んだものだつた23

岩村は学生を魅了してやまない名講義の主であっ

たようであるそして南や富本が学生であったころま

でにすでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫

報社一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社一

九〇六年)の二冊を著わしていたその後第四次の

外遊から帰国すると一九一五(大正四)年には岩村

にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアムモリス

と趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味

叢書第一二篇)24 をすでに南が趣味叢書第七篇とし

て『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出

版することになるのである

ところで小野二郎はこの岩村の論文「ウイリアムモ

リスと趣味的社會主義」に着目し次のようにモリスを

巡る岩村と富本の関係について述べている

その岩村でもモリスについてのまとまった記述は

一九一五年(大正四年)の「ウイリアムモリスと趣

味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである

helliphellip

しかし岩村は一九〇二年より一三年間東京

美術学校教授として美術史建築史を講じていた

のだから先の発表された論議の対象から見て

当然モリスの思想と運動についてしかもあやまた

ぬ文脈において紹介していたに違いない富本

が岩村からモリスについての知識と興味とを植え

つけられたという事実はほぼ間違いないことと思わ

れるが今そのことの意味は問わぬ25

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 2: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

35

研究論文|copy2006 神戸大学表現文化研究会|2006年9月8日受理|

Article | copy2006 SCBDMMT Kobe University | Accepted on 8 September 2006 |

富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程

Tomimoto Kenkichis Schooldays before his Visiting London for the Study on William Morris

中山修一 Shuichi Nakayama

概要

のちにとりわけ陶芸の分野において大成し日本

の近代を代表する工芸家のひとりとなった富本憲吉

(一八八六―一九六三年)は学生時代に一番親しか

った南薫造が当時ロンドンにいたこともあって徴兵の

関係から早めに卒業製作を仕上げると一九〇八年一

一月末ころに室内装飾を学ぶとともに美術家であり

社会主義者であったウィリアムモリス(一八三四―一

八九六年)の実際の仕事に触れるために私費で英国

に向けて出発した

本論文はいかにして学生時代に富本はモリスの

思想と作品に関心をもつようになりモリス研究のため

の英国留学を決意するに至ったのかにかかわって現

時点で私にとって利用できるすべての資料に即しなが

らその詳細を明らかにすることを目的としている

本稿の前半において郡山中学校時代に友人の嶋

中雄作を通じて富本はモリスを知るようになり自らも

当時の日本における唯一の社会主義運動の機関紙で

あった週刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」

の抄訳を読んでいたことや一九〇四年に東京美術学

校に入学すると文庫に所蔵されていた『ステューディ

オ』のなかのモリス関連の 大二八点の図版からモリス

作品を知るに至った経緯について明らかにされている

さらに続けて私は日露戦争に対する富本の政治的信

条や夏目漱石の「文芸における哲学的基礎」に関す

る講演から富本が得た知見にも触れたうえでエイマ

ヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著

作および彼の公的生活』を含む三冊の書物のなかの

何冊かを読んだことがおそらく富本の英国留学を決

定づける要因になったことを示唆している

後半においては学生時代に富本が製作した三つ

の作品である東京勧業博覧会(一九〇七年)に出品

した《ステインドグラス図案》『翠薫遺稿』の装丁お

よび卒業製作の《音楽家住宅設計図案》について分析

しその特質と意味について論じているその結果こ

の時期富本はとりわけステインドグラスや文字表現

さらには西洋文化以外のもうひとつの異文化に対して

強い関心をもっていたことが明らかにされている

キーワード富本憲吉南薫造ウィリアムモリス嶋中

雄作『平民新聞』東京美術学校『ステューディオ』

日露戦争夏目漱石エイマヴァランス《ステインド

グラス図案》『翠黛遺稿』《音楽家住宅設計図案》

Abstract Tomimoto Kenkichi (1886-1963) was one of the greatest ceramists who established his own philosophy and work as part of Japanese modernity In order to see the actual work of the artist and socialist William Morris (1834-1896) and to study interior design he quickly completed his graduate work and then left for England at his own ex-pense around the end of November 1908 This was in part because not only had he wanted to avoid conscription into the army but also Minami Kunzo one of the closest friends in his schooldays was already in London

The purpose of this article is to clarify in detail how in his schooldays he was interested in Morriss philosophy and work and decided to visit London to study them using all the materials I have to date been able to consult

The first half of my paper shows that when he was a stu-dent in Koriyama Junior High School he not only knew about Morris through the guidance of his friend Shima-naka Yusuke but also read a partial translation of Morriss News from Nowhere in the weekly Heimin Shimbun which was the only newspaper for the socialist movement in Ja-pan at the time I also show that entering into Tokyo Art School in 1904 he had a chance to see at most 28 plates of Morriss work in The Studio at the library Subsequently I refer to Natsume Sosekis lecture on the philosophical base in literature for the students at the School as well as Tomi-motos political belief against the Russo-Japanese War before demonstrating that some of three books including Aymer Vallances account William Morris His Art his Writings and his Public Life probably helped Tomimoto to decide to visit London

In the latter half of the paper I also discuss the charac-ters and meanings of three works made in his schooldays Design for Stained Glass displayed in the 1907 Tokyo In-dustrial Exhibition a cover design for the Late Suitais Writings and his graduate work Design for a Cottage for a musician The paper demonstrates that at the time he was particularly interested in stained-glass work lettering arts and cultures other than Western cultures Keywords Tomimoto Kenkichi Minami Kunzo William Morris Shimanaka Yusuke The Heimin Shimbun Tokyo Art School The Studio Natsume Soseki The Russo- Japanese War Aymer Vallance Design for Stained Glass The Late Suitais Writings Design for a Cottage

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

36

はじめに

周知のとおり富本憲吉(一八八六―一九六三年)

はとりわけ陶芸の分野において大成した日本の近

代を代表する工芸家のひとりである富本は東京美

術学校(現在の東京芸術大学)入学以前からまだ日

本にあってはほとんど紹介されていなかったヴィクトリ

ア時代の詩人であり社会主義思想家でありまた同時

にデザイナーでもあったウィリアムモリス(一八三四―

一八九六年)に関心を抱き徴兵の関係から卒業製作

を早めに提出すると当時親友の南薫造がすでにロ

ンドンに滞在していたこともあって一九〇八(明治四

一)年の秋私費でモリスと室内装飾を研究するために

イギリスに渡ることになるそして一九一〇(明治四三)

年の六月に帰国するとその後エイマヴァランスの

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』を底本とする評伝「ウイリアムモリスの話」を

一九一二(明治四五)年の『美術新報』の第一一巻第

四号と第五号に二回に分けて発表する1

モリスの何に興味をもって富本はイギリスに渡ったの

であろうかそして富本はイギリスの地でモリスについ

て何を学び何を日本へ持ち帰りいかなるかたちで

その後の活動の栄養分としたのだろうか

本稿ではモリスの富本への影響を予見をもって

過大視することも過小視することもなく富本が実際に

書き残したものや信頼にたりうる周辺の資料を可能な

限り正確に援用することによってとりわけ渡英以前

にあって富本がどのようにしてモリスを知るに至った

のかについて焦点をあて富本の英国留学以前のモリ

スへの関心形成の過程を明らかにすることが主たる目

的とされている

1 一九〇四年までの日本におけるモリス紹介

晩年富本は自らの英国留学の目的を次のように

語っている

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした2

ここから読み取れるのは主たる富本の英国留学の

目的が「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という強い願望に起因していた

ことであるそこでまず戦前昭和期までの日本におけ

るモリス紹介の全体像を概観しておきたいと思う

ウィリアムモリスは周知のように一八三四年三月

二四日にロンドン北東郊外のウォルサムストウにある

〈エルムハウス〉において父ウィリアム母エマの三番

目の子として生まれたそして一九三四(昭和九)年に

は生誕百年を記念してロンドンのヴィクトリアアン

ドアルバート博物館で「ウィリアムモリス」展が開催さ

れ一方日本にあっては日本橋の丸善においてヰ

リアムモリス誕生百年祭記念「文獻繪畫展覧會」が開

かれた

さらにこの年には川瀬日進堂書店から『モリス記念

論集』が刊行されたそのなかに所収された論文「文獻

より見たる日本に於けるモリス」において執筆者の富田

文雄は明治期から昭和初期までのモリスを紹介した

文献にかかわって社会主義者詩人工芸家の三つ

の側面から詳述したうえで以下のようにその特徴を

要約している

扨て以上を通じて見ます時大體次の二つの

ことが言ひ得るのではないかと考へるのでありま

す即ちその一つは日本に於てはモリスの社會

思想に關聯した方面の紹介が も盛に行はれた

こと次が文學方面であるがこれとても思想上の

取扱ひが主となつてゐる樣でありそして 後が

工藝美術の方面でこの方面は も盛に行はるべ

くして而も も振つてゐない事實今一つのこと

は何れの方面を見てみても時代から見て大正

時代の後半に於て も盛に紹介されたことの二

つでありますそしてこの二つの事實は結局日本

に於けるモリスの紹介は主として世界に於けるか

のデモクラシー思潮氾濫の波に乘つて行はれた

ものであることを物語るものであると考へるのであ

ります3

そして富田は日本で紹介された個々のモリス文献

について専載本を一〇点半専載本を五点雑載

本をその程度によって三ないしは一点としたうえでグ

ラフにまとめている【図1】この統計資料からわかるこ

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

37

とは明治二〇年代の中頃から文献をとおしてモリス

紹介が行なわれるようになり初期の小さなピークが日

露戦争の開戦前後に起こるも衰退しさらにその後

いわゆる社会主義運動の「冬の時代」を経たのち一

九二〇(大正九)年から一九二五(大正一四)年にか

けての期間に再び大規模なうねりが隆起していること

であるそしてまたこのグラフからこの期間の紹介

の中心が社会主義思想家としてのモリスの側面にあ

ったことも理解できるこれが一九三四(昭和九)年

までの日本におけるモリス紹介のおおかたの全体像

であった

富本憲吉が東京美術学校に入学するのが日露戦

争開戦直後の一九〇四(明治三七)年の四月である

おりしもこの時期は日本におけるモリス紹介の初期の

小さなピークを迎えたときにあたるそれではそのとき

までにあって具体的にはどのようにモリスは日本へ紹

介されていたのであろうか

牧野和春と品川力(補遺)による「日本におけるウィ

リアムモリス文献」のなかには一九〇四(明治三

七)年以前のモリス紹介の文献として書籍と雑誌を

あわせて一八点が挙げられている4それに依拠し

ながら代表的な事例を紹介するとすればおおむね

以下のようになる

初の文献は一八九一(明治二四)年に博文館か

ら刊行された澁江保の『英國文學史全』【図2】で「第

二章 近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム

モーリス 一八三四年生」5 という名前と生年のみの記

載が認められる

そしてモリスが死去した一八九六(明治二九)年には

『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し次のように報

じている執筆者名は「B S」のイニシャルのみである

老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃

思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲

報に接せんとは長く病床にありしウ井リヤムモ

リス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開き

し程もなく俄然病革りて去る十月三日彼は六十

三歳を一期として此世を辭し同六日遂にクルム

スコット墓地に永眠の客となりぬという彩筆を揮

て文壇に闊歩すると四十年ロセッテス井ンバ

ルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の

諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず

まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり

或は過去の實物保存の為めまた將來社會民福

の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ

其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは

到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の

英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し併

せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶると

ころあるべし6

ここからこの追悼文は「地上の楽園」を中心としたモ

リスの詩の解説が賛美の基調でもってはじめられるわ

けであるが注目されてよいのは上で引用した書き出

しの文のなかにあってわずかながらもモリスが工芸

家や社会主義者であったことも連想させるような記述が

なされていることである

さらに一九〇〇(明治三三)年には『太陽』におい

て上田敏もラファエル前派の詩人としてのモリスに

言及し「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の

徒なる歌人と自ら稱し『地上樂園』(一八六八―七

〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」7 と短く紹介

している

『帝國文學』や『太陽』以外においてもこの時期

『早稻田文學』『國民之友』『明星』などの雑誌をとおし

て断片的に紹介された形跡はあるもののとりわけ社会

主義者としてのまとまったモリス紹介は一八九九(明

治三二)年に出版された『社會主義』においてがおそら

くはじめてであった著者の村井知至は「第六章 社

會主義と美術」のなかで社会主義者へと向かったウィ

リアムモリスの経緯をジョンラスキンと関連づけなが

ら次のように描写していた

ジヨンラスキンとウ井リアムモリスとは當代美術

家の秦斗にして殊にモリスは美術家にして詩人

なりhelliphellipモリスも亦ラスキンの感化を受けたる一

人にして彼と同じき高貴なる精神を持し己れの

位置名譽をも顧みず常に職工の服を着し白晝

ロンドンの街頭に立ち勞働者を集めて其社會論

を演説せりhelliphellipラスキンは寧ろ復古主義にして

モリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至

つては二者全く其揆を一にせり彼等は等しく現

今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に

於ては到底美術の隆興を見る可はずhelliphellip今日

の社会制度を改革せざる可らずと主張せり如此

にして彼等は遂に社会主義の制度を以て其理

想となすに至れりhelliphellipモリスは社会主義者の同

盟の首領として死に抵る迄運動を怠らざりき8

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

38

こうした社会主義者としてのモリスはその後週刊

『平民新聞』の紙面を通じてさらに紹介されていくこと

になる

周知のように週刊『平民新聞』とは幸徳秋水や堺

利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日

に創刊号が刊行され創刊一周年を記念して第五三

号に「共産黨宣言」を訳載するとしばしば発行禁止

にあい一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六

四号をもって廃刊に追い込まれた日本における社会

主義運動の 初の機関紙的役割を果たした新聞であ

る発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面

にはエミールゾラ右壁にはカールマルクス本棚

の上にはウィリアムモーママ

リスの肖像が飾られていた」9

この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介される

のは「社會主義の詩人 ウヰリアムモリス」という表題

がつけられた一九〇三(明治三六)年一二月六日付

の第四号の記事【図3】においてであったこの記事は

一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた村

井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転

載したものであった10おそらくその間この本は発行

禁止になっていたものと思われるそれに続いて一九

〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七

日付の第二三号までの連載をとおして一八九〇年に

社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載された

モリスの「ユートピア便り」がはじめて日本に紹介され

ることになるそれは「理想郷」と題され枯川生(堺利

彦)による抄訳であったそして連載後ただちにその

抄訳は単行本としてまとめられ「平民文庫菊版五銭

本」の一冊に加えられるのである11 【図4】

したがって美術学校入学以前にあって文献をとお

して富本が知りえた可能性のあるモリスはおおよそ

上述のような雑誌類によって紹介されていた主として詩

人としてのモリスさらには単行本や『平民新聞』のなか

にあって記載されていた社会主義者としてのモリスとい

うことになるしかしそれはいまだ断片的なモリスにつ

いての情報にとどまっていただけではなくとくに工芸

家としてのモリスについてはほとんど紹介がなされてお

らず全体的なモリス像の紹介という点からは程遠いも

のであったしかもモリスのような社会主義思想家の

紹介はこの時期からさらなる官憲の圧迫の対象となり

その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高まりを迎え

るまで衰退の途を余儀なくされるのである

2 週刊『平民新聞』をとおしてのモリスとの出会い

晩年の一九六一(昭和三六)年に富本憲吉の

「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談

会が開かれたそのなかで「helliphellip[英国へ]行く前から

モリスを研究するつもりで」という英国留学とモリス研

究についての質問に答えて富本はこう述べている

そうです私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がお

り嶋中がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういうことを研究していた

し私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた

それにモリスのものは美術学校時代に知っていた

しそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

た南薫造

がイギリスにいたものですからフランスに行くとごま

かしてイギリスに行った12

富本と同郷の嶋中雄三は大正昭和期の社会運

動家でのちに東京市会議員などを務める人物であり

富本とは六歳年上にあたるしかし中央公論社に一

九一二(大正元)年に入社しその後社長を務めること

になるのは弟の嶋中雄作であり上で引用した「中央

公論の嶋中雄三」という富本の記憶には混乱がみられ

る一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作

はしたがって一八八六(明治一九)年六月生まれの

富本と同学年だった可能性があるものの富本は郡山

中学校雄作は畝傍中学校に当時在籍しており中学

校時代にふたりのあいだでどのような交流がありとりわ

けモリスがどのようなかたちで話題になっていのかはわ

からないしかし雄作は兄雄三の影響のもとに中央

公論社入社以前から社会運動とりわけ女性の権利拡

張に関心をもっていた可能性もあり13嶋中兄弟のそう

した政治的社会的関心を通じて富本も社会主義や

モリスについての知見を得ていたのであろう双方が中

学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購

読数はおおよそ二四部であった14当時富本家で購

読されていたことを示す資料は残されていないした

がって富本が「中学時代に読んでいた」という『平民

新聞』も嶋中兄弟によって貸し与えられたものだっ

たのかもしれない

富本がモリスを知ったのはこうした『平民新聞』に

掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおし

てであったとくに「理想郷」は社会革命後の新世界を

扱っていたこの物語の語り手(語り手はモリスその人

と考えてよいだろう)は革命後に生まれるであろう新

しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

39

わされた夜疲れ果てて眠りにつき翌朝目が覚めて

みるとすでに遠い昔に革命は成功裏に終わり理想

的な共産主義の社会にいる自分を見出した語り手

が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働汚

染される自然苦痛にあえぐ生活からは想像もつかな

い全く新しい世界がそこには広がり労働と生の喜

びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んで

いたこれを読んだとき富本にはモリスが描き出し

ていた革命後の理想社会はどのようなものとして映じ

たのであろうかそれはわからないしかし社会が変

化することの可能性そしてそれを成し遂げるにあた

っての時代に抗う力の生成さらにはその一方でそう

した行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在

これらについては少なくとも理解できていたであろう

こうして富本はこの時期確かにモリスの社会主義の

一端に触れることになるのであるそれはちょうど主

戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく

反戦論などなすすべもなく御前会議でロシアとの

交渉が打ち切られ対露軍事行動の開始が決定され

た時期であり一七歳の青年富本が郡山中学校の卒

業を控え美術学校への入学を模索しようとしていた

まさにそのときのことであった

3 東京美術学校の教師たち

富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は決

して明確なものではなかった

当時私は石彫りに心を動かし自分でも一度

手掛けてみたい気持ちもあったのでなんとなく美

校を志した15

周りの反対はあったものの富本は一九〇四(明治

三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置く

ことになる16しかし専門的な分野については富本

にとって全くの未知の世界であった

中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入

つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を

(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた同じ室の

生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに

話して居たのを聞いた事があるhelliphellip當時は非常

に耳新らしくそう云ふ新語や上級生のする事を

一生懸命で眞似たものである17

この時期美術学校は学生たちにとって必ずしも

居心地のよいものではなかった富本の二年先輩に

あたる西洋画科に在籍していた南薫造はその当

時の実技の授業について日記のなかでこう不満を

漏らしている

学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんもの

であった

学校で彫刻とか云ふのをやった土で変なことを

するのである皆なも左官らしいとか云ふて居た

僕も大ひに不満であった18

そうした学生からの不満はその後も続いた富本より

遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に

入学した光雲を父に光太郎を兄にもつ高村豊周が

後年回顧するところによるとその当時のその学校の様

子は以下のようなものであった

学校では二十一二の青年の生活におよそ縁

のないクラシックな物ばかり作っているたとえば

一年の時に作った筆筒は自分の欲望から生ま

れたデザインでは決してないクラシックな物ばか

り載っている本を見てこんな物をこしらえればよ

いのだろうと見よう見真似のデザインをして先生

の所へ持っていくと何がいいのかわからないが

いいと言うからそれを作るhelliphellipしかし私たちは

ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい

するとこの筆立は一体誰のために作るのだろうと

いう疑問が起ってくる19

富本自身も美術学校の学生だったころの自分の

製作に対する姿勢を振り返り暗澹たる思いにかられ

ている

学生時代の事を思いおこすと先生から菊なら

ば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生してお

き文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑

誌――を見るhelliphellip全体見たあとで好きな少し衣

を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の

場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様

と考へ[て]居た事もあるhelliphellip人も自分も随分平

氣でそれをやった近頃は一切そむな事が模様

を造る人々にやられて居ないか先づ自分を考

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

40

へるとタマラなく恥かしい20

過去の作例に縛られた製作雑誌や本からの模倣

教師の前にあっての受身的な態度使用者不在の

製作物こうしたことに対する疑問や不満は言葉で

は表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらし

たことであろう

入学すると富本は「学校へはあまり顔を出さず年

中下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた

自分でやるだけでは満足せずおそらく日本では 初

のマンドリンバンドを作った」21美術学校での教育は

富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった

しかしそのとき結成されたマンドリンのサークルでの

人的交流はその後の富本に大きな意味をもたらすこ

とになるそれは南薫造と知り合い深い友情を形成

することができたことに由来する南は富本の二年前に

入学しその後一足先に一九〇七(明治四〇)年に

渡英するそして南は富本の英国留学の指南役を果

たすことになるのである

マンドリンのサークルの中心人物は岩村透であっ

た嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた

森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴

い一八九九(明治三二)年に岩村は「西洋美術史」

の授業を美術学校から嘱託されているそしてパリ万

国博覧会見学のための解嘱をはさんで一九〇二(明

治三五)年からは同学校の教授の職にあった

一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して南は

追悼文を『美術』に寄稿しそのなかで当時のマンドリ

ンのサークルについてこう回想している

自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議

な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]

先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だ

つたそれで先生を發頭人として音樂の會合が

學校の中に拵えられた日が暮れても有象無象

が蝋燭の下に集まつて時の過ぎるのも知らず

コールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの

動物園と競爭で吐鳴つた當時先生はマンドリ

ンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンド

リンをやる事になつた今日の如く樂器が容易に

手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出

來なかつた22

この数人で構成されたサークルのなかに南とともに

富本も加わっていたのであるそれでは教室にあって

の岩村はどのような教師だったのであろうか南は

同じくこの追悼文のなかで西洋美術史の教授として

の岩村を次のように追想している

先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ

這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ今

から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の

一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる

美術學校も無論まだ本館が焼けない以前であの

古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込

んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせ

られる時は實に二時間が誠に早やく立つて仕舞

ひ其の痛快な先生一流の論法には全く魅せら

れて片唾を飲んだものだつた23

岩村は学生を魅了してやまない名講義の主であっ

たようであるそして南や富本が学生であったころま

でにすでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫

報社一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社一

九〇六年)の二冊を著わしていたその後第四次の

外遊から帰国すると一九一五(大正四)年には岩村

にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアムモリス

と趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味

叢書第一二篇)24 をすでに南が趣味叢書第七篇とし

て『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出

版することになるのである

ところで小野二郎はこの岩村の論文「ウイリアムモ

リスと趣味的社會主義」に着目し次のようにモリスを

巡る岩村と富本の関係について述べている

その岩村でもモリスについてのまとまった記述は

一九一五年(大正四年)の「ウイリアムモリスと趣

味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである

helliphellip

しかし岩村は一九〇二年より一三年間東京

美術学校教授として美術史建築史を講じていた

のだから先の発表された論議の対象から見て

当然モリスの思想と運動についてしかもあやまた

ぬ文脈において紹介していたに違いない富本

が岩村からモリスについての知識と興味とを植え

つけられたという事実はほぼ間違いないことと思わ

れるが今そのことの意味は問わぬ25

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 3: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

36

はじめに

周知のとおり富本憲吉(一八八六―一九六三年)

はとりわけ陶芸の分野において大成した日本の近

代を代表する工芸家のひとりである富本は東京美

術学校(現在の東京芸術大学)入学以前からまだ日

本にあってはほとんど紹介されていなかったヴィクトリ

ア時代の詩人であり社会主義思想家でありまた同時

にデザイナーでもあったウィリアムモリス(一八三四―

一八九六年)に関心を抱き徴兵の関係から卒業製作

を早めに提出すると当時親友の南薫造がすでにロ

ンドンに滞在していたこともあって一九〇八(明治四

一)年の秋私費でモリスと室内装飾を研究するために

イギリスに渡ることになるそして一九一〇(明治四三)

年の六月に帰国するとその後エイマヴァランスの

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』を底本とする評伝「ウイリアムモリスの話」を

一九一二(明治四五)年の『美術新報』の第一一巻第

四号と第五号に二回に分けて発表する1

モリスの何に興味をもって富本はイギリスに渡ったの

であろうかそして富本はイギリスの地でモリスについ

て何を学び何を日本へ持ち帰りいかなるかたちで

その後の活動の栄養分としたのだろうか

本稿ではモリスの富本への影響を予見をもって

過大視することも過小視することもなく富本が実際に

書き残したものや信頼にたりうる周辺の資料を可能な

限り正確に援用することによってとりわけ渡英以前

にあって富本がどのようにしてモリスを知るに至った

のかについて焦点をあて富本の英国留学以前のモリ

スへの関心形成の過程を明らかにすることが主たる目

的とされている

1 一九〇四年までの日本におけるモリス紹介

晩年富本は自らの英国留学の目的を次のように

語っている

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした2

ここから読み取れるのは主たる富本の英国留学の

目的が「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という強い願望に起因していた

ことであるそこでまず戦前昭和期までの日本におけ

るモリス紹介の全体像を概観しておきたいと思う

ウィリアムモリスは周知のように一八三四年三月

二四日にロンドン北東郊外のウォルサムストウにある

〈エルムハウス〉において父ウィリアム母エマの三番

目の子として生まれたそして一九三四(昭和九)年に

は生誕百年を記念してロンドンのヴィクトリアアン

ドアルバート博物館で「ウィリアムモリス」展が開催さ

れ一方日本にあっては日本橋の丸善においてヰ

リアムモリス誕生百年祭記念「文獻繪畫展覧會」が開

かれた

さらにこの年には川瀬日進堂書店から『モリス記念

論集』が刊行されたそのなかに所収された論文「文獻

より見たる日本に於けるモリス」において執筆者の富田

文雄は明治期から昭和初期までのモリスを紹介した

文献にかかわって社会主義者詩人工芸家の三つ

の側面から詳述したうえで以下のようにその特徴を

要約している

扨て以上を通じて見ます時大體次の二つの

ことが言ひ得るのではないかと考へるのでありま

す即ちその一つは日本に於てはモリスの社會

思想に關聯した方面の紹介が も盛に行はれた

こと次が文學方面であるがこれとても思想上の

取扱ひが主となつてゐる樣でありそして 後が

工藝美術の方面でこの方面は も盛に行はるべ

くして而も も振つてゐない事實今一つのこと

は何れの方面を見てみても時代から見て大正

時代の後半に於て も盛に紹介されたことの二

つでありますそしてこの二つの事實は結局日本

に於けるモリスの紹介は主として世界に於けるか

のデモクラシー思潮氾濫の波に乘つて行はれた

ものであることを物語るものであると考へるのであ

ります3

そして富田は日本で紹介された個々のモリス文献

について専載本を一〇点半専載本を五点雑載

本をその程度によって三ないしは一点としたうえでグ

ラフにまとめている【図1】この統計資料からわかるこ

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

37

とは明治二〇年代の中頃から文献をとおしてモリス

紹介が行なわれるようになり初期の小さなピークが日

露戦争の開戦前後に起こるも衰退しさらにその後

いわゆる社会主義運動の「冬の時代」を経たのち一

九二〇(大正九)年から一九二五(大正一四)年にか

けての期間に再び大規模なうねりが隆起していること

であるそしてまたこのグラフからこの期間の紹介

の中心が社会主義思想家としてのモリスの側面にあ

ったことも理解できるこれが一九三四(昭和九)年

までの日本におけるモリス紹介のおおかたの全体像

であった

富本憲吉が東京美術学校に入学するのが日露戦

争開戦直後の一九〇四(明治三七)年の四月である

おりしもこの時期は日本におけるモリス紹介の初期の

小さなピークを迎えたときにあたるそれではそのとき

までにあって具体的にはどのようにモリスは日本へ紹

介されていたのであろうか

牧野和春と品川力(補遺)による「日本におけるウィ

リアムモリス文献」のなかには一九〇四(明治三

七)年以前のモリス紹介の文献として書籍と雑誌を

あわせて一八点が挙げられている4それに依拠し

ながら代表的な事例を紹介するとすればおおむね

以下のようになる

初の文献は一八九一(明治二四)年に博文館か

ら刊行された澁江保の『英國文學史全』【図2】で「第

二章 近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム

モーリス 一八三四年生」5 という名前と生年のみの記

載が認められる

そしてモリスが死去した一八九六(明治二九)年には

『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し次のように報

じている執筆者名は「B S」のイニシャルのみである

老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃

思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲

報に接せんとは長く病床にありしウ井リヤムモ

リス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開き

し程もなく俄然病革りて去る十月三日彼は六十

三歳を一期として此世を辭し同六日遂にクルム

スコット墓地に永眠の客となりぬという彩筆を揮

て文壇に闊歩すると四十年ロセッテス井ンバ

ルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の

諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず

まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり

或は過去の實物保存の為めまた將來社會民福

の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ

其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは

到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の

英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し併

せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶると

ころあるべし6

ここからこの追悼文は「地上の楽園」を中心としたモ

リスの詩の解説が賛美の基調でもってはじめられるわ

けであるが注目されてよいのは上で引用した書き出

しの文のなかにあってわずかながらもモリスが工芸

家や社会主義者であったことも連想させるような記述が

なされていることである

さらに一九〇〇(明治三三)年には『太陽』におい

て上田敏もラファエル前派の詩人としてのモリスに

言及し「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の

徒なる歌人と自ら稱し『地上樂園』(一八六八―七

〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」7 と短く紹介

している

『帝國文學』や『太陽』以外においてもこの時期

『早稻田文學』『國民之友』『明星』などの雑誌をとおし

て断片的に紹介された形跡はあるもののとりわけ社会

主義者としてのまとまったモリス紹介は一八九九(明

治三二)年に出版された『社會主義』においてがおそら

くはじめてであった著者の村井知至は「第六章 社

會主義と美術」のなかで社会主義者へと向かったウィ

リアムモリスの経緯をジョンラスキンと関連づけなが

ら次のように描写していた

ジヨンラスキンとウ井リアムモリスとは當代美術

家の秦斗にして殊にモリスは美術家にして詩人

なりhelliphellipモリスも亦ラスキンの感化を受けたる一

人にして彼と同じき高貴なる精神を持し己れの

位置名譽をも顧みず常に職工の服を着し白晝

ロンドンの街頭に立ち勞働者を集めて其社會論

を演説せりhelliphellipラスキンは寧ろ復古主義にして

モリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至

つては二者全く其揆を一にせり彼等は等しく現

今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に

於ては到底美術の隆興を見る可はずhelliphellip今日

の社会制度を改革せざる可らずと主張せり如此

にして彼等は遂に社会主義の制度を以て其理

想となすに至れりhelliphellipモリスは社会主義者の同

盟の首領として死に抵る迄運動を怠らざりき8

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

38

こうした社会主義者としてのモリスはその後週刊

『平民新聞』の紙面を通じてさらに紹介されていくこと

になる

周知のように週刊『平民新聞』とは幸徳秋水や堺

利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日

に創刊号が刊行され創刊一周年を記念して第五三

号に「共産黨宣言」を訳載するとしばしば発行禁止

にあい一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六

四号をもって廃刊に追い込まれた日本における社会

主義運動の 初の機関紙的役割を果たした新聞であ

る発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面

にはエミールゾラ右壁にはカールマルクス本棚

の上にはウィリアムモーママ

リスの肖像が飾られていた」9

この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介される

のは「社會主義の詩人 ウヰリアムモリス」という表題

がつけられた一九〇三(明治三六)年一二月六日付

の第四号の記事【図3】においてであったこの記事は

一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた村

井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転

載したものであった10おそらくその間この本は発行

禁止になっていたものと思われるそれに続いて一九

〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七

日付の第二三号までの連載をとおして一八九〇年に

社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載された

モリスの「ユートピア便り」がはじめて日本に紹介され

ることになるそれは「理想郷」と題され枯川生(堺利

彦)による抄訳であったそして連載後ただちにその

抄訳は単行本としてまとめられ「平民文庫菊版五銭

本」の一冊に加えられるのである11 【図4】

したがって美術学校入学以前にあって文献をとお

して富本が知りえた可能性のあるモリスはおおよそ

上述のような雑誌類によって紹介されていた主として詩

人としてのモリスさらには単行本や『平民新聞』のなか

にあって記載されていた社会主義者としてのモリスとい

うことになるしかしそれはいまだ断片的なモリスにつ

いての情報にとどまっていただけではなくとくに工芸

家としてのモリスについてはほとんど紹介がなされてお

らず全体的なモリス像の紹介という点からは程遠いも

のであったしかもモリスのような社会主義思想家の

紹介はこの時期からさらなる官憲の圧迫の対象となり

その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高まりを迎え

るまで衰退の途を余儀なくされるのである

2 週刊『平民新聞』をとおしてのモリスとの出会い

晩年の一九六一(昭和三六)年に富本憲吉の

「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談

会が開かれたそのなかで「helliphellip[英国へ]行く前から

モリスを研究するつもりで」という英国留学とモリス研

究についての質問に答えて富本はこう述べている

そうです私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がお

り嶋中がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういうことを研究していた

し私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた

それにモリスのものは美術学校時代に知っていた

しそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

た南薫造

がイギリスにいたものですからフランスに行くとごま

かしてイギリスに行った12

富本と同郷の嶋中雄三は大正昭和期の社会運

動家でのちに東京市会議員などを務める人物であり

富本とは六歳年上にあたるしかし中央公論社に一

九一二(大正元)年に入社しその後社長を務めること

になるのは弟の嶋中雄作であり上で引用した「中央

公論の嶋中雄三」という富本の記憶には混乱がみられ

る一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作

はしたがって一八八六(明治一九)年六月生まれの

富本と同学年だった可能性があるものの富本は郡山

中学校雄作は畝傍中学校に当時在籍しており中学

校時代にふたりのあいだでどのような交流がありとりわ

けモリスがどのようなかたちで話題になっていのかはわ

からないしかし雄作は兄雄三の影響のもとに中央

公論社入社以前から社会運動とりわけ女性の権利拡

張に関心をもっていた可能性もあり13嶋中兄弟のそう

した政治的社会的関心を通じて富本も社会主義や

モリスについての知見を得ていたのであろう双方が中

学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購

読数はおおよそ二四部であった14当時富本家で購

読されていたことを示す資料は残されていないした

がって富本が「中学時代に読んでいた」という『平民

新聞』も嶋中兄弟によって貸し与えられたものだっ

たのかもしれない

富本がモリスを知ったのはこうした『平民新聞』に

掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおし

てであったとくに「理想郷」は社会革命後の新世界を

扱っていたこの物語の語り手(語り手はモリスその人

と考えてよいだろう)は革命後に生まれるであろう新

しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

39

わされた夜疲れ果てて眠りにつき翌朝目が覚めて

みるとすでに遠い昔に革命は成功裏に終わり理想

的な共産主義の社会にいる自分を見出した語り手

が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働汚

染される自然苦痛にあえぐ生活からは想像もつかな

い全く新しい世界がそこには広がり労働と生の喜

びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んで

いたこれを読んだとき富本にはモリスが描き出し

ていた革命後の理想社会はどのようなものとして映じ

たのであろうかそれはわからないしかし社会が変

化することの可能性そしてそれを成し遂げるにあた

っての時代に抗う力の生成さらにはその一方でそう

した行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在

これらについては少なくとも理解できていたであろう

こうして富本はこの時期確かにモリスの社会主義の

一端に触れることになるのであるそれはちょうど主

戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく

反戦論などなすすべもなく御前会議でロシアとの

交渉が打ち切られ対露軍事行動の開始が決定され

た時期であり一七歳の青年富本が郡山中学校の卒

業を控え美術学校への入学を模索しようとしていた

まさにそのときのことであった

3 東京美術学校の教師たち

富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は決

して明確なものではなかった

当時私は石彫りに心を動かし自分でも一度

手掛けてみたい気持ちもあったのでなんとなく美

校を志した15

周りの反対はあったものの富本は一九〇四(明治

三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置く

ことになる16しかし専門的な分野については富本

にとって全くの未知の世界であった

中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入

つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を

(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた同じ室の

生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに

話して居たのを聞いた事があるhelliphellip當時は非常

に耳新らしくそう云ふ新語や上級生のする事を

一生懸命で眞似たものである17

この時期美術学校は学生たちにとって必ずしも

居心地のよいものではなかった富本の二年先輩に

あたる西洋画科に在籍していた南薫造はその当

時の実技の授業について日記のなかでこう不満を

漏らしている

学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんもの

であった

学校で彫刻とか云ふのをやった土で変なことを

するのである皆なも左官らしいとか云ふて居た

僕も大ひに不満であった18

そうした学生からの不満はその後も続いた富本より

遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に

入学した光雲を父に光太郎を兄にもつ高村豊周が

後年回顧するところによるとその当時のその学校の様

子は以下のようなものであった

学校では二十一二の青年の生活におよそ縁

のないクラシックな物ばかり作っているたとえば

一年の時に作った筆筒は自分の欲望から生ま

れたデザインでは決してないクラシックな物ばか

り載っている本を見てこんな物をこしらえればよ

いのだろうと見よう見真似のデザインをして先生

の所へ持っていくと何がいいのかわからないが

いいと言うからそれを作るhelliphellipしかし私たちは

ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい

するとこの筆立は一体誰のために作るのだろうと

いう疑問が起ってくる19

富本自身も美術学校の学生だったころの自分の

製作に対する姿勢を振り返り暗澹たる思いにかられ

ている

学生時代の事を思いおこすと先生から菊なら

ば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生してお

き文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑

誌――を見るhelliphellip全体見たあとで好きな少し衣

を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の

場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様

と考へ[て]居た事もあるhelliphellip人も自分も随分平

氣でそれをやった近頃は一切そむな事が模様

を造る人々にやられて居ないか先づ自分を考

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

40

へるとタマラなく恥かしい20

過去の作例に縛られた製作雑誌や本からの模倣

教師の前にあっての受身的な態度使用者不在の

製作物こうしたことに対する疑問や不満は言葉で

は表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらし

たことであろう

入学すると富本は「学校へはあまり顔を出さず年

中下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた

自分でやるだけでは満足せずおそらく日本では 初

のマンドリンバンドを作った」21美術学校での教育は

富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった

しかしそのとき結成されたマンドリンのサークルでの

人的交流はその後の富本に大きな意味をもたらすこ

とになるそれは南薫造と知り合い深い友情を形成

することができたことに由来する南は富本の二年前に

入学しその後一足先に一九〇七(明治四〇)年に

渡英するそして南は富本の英国留学の指南役を果

たすことになるのである

マンドリンのサークルの中心人物は岩村透であっ

た嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた

森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴

い一八九九(明治三二)年に岩村は「西洋美術史」

の授業を美術学校から嘱託されているそしてパリ万

国博覧会見学のための解嘱をはさんで一九〇二(明

治三五)年からは同学校の教授の職にあった

一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して南は

追悼文を『美術』に寄稿しそのなかで当時のマンドリ

ンのサークルについてこう回想している

自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議

な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]

先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だ

つたそれで先生を發頭人として音樂の會合が

學校の中に拵えられた日が暮れても有象無象

が蝋燭の下に集まつて時の過ぎるのも知らず

コールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの

動物園と競爭で吐鳴つた當時先生はマンドリ

ンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンド

リンをやる事になつた今日の如く樂器が容易に

手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出

來なかつた22

この数人で構成されたサークルのなかに南とともに

富本も加わっていたのであるそれでは教室にあって

の岩村はどのような教師だったのであろうか南は

同じくこの追悼文のなかで西洋美術史の教授として

の岩村を次のように追想している

先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ

這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ今

から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の

一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる

美術學校も無論まだ本館が焼けない以前であの

古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込

んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせ

られる時は實に二時間が誠に早やく立つて仕舞

ひ其の痛快な先生一流の論法には全く魅せら

れて片唾を飲んだものだつた23

岩村は学生を魅了してやまない名講義の主であっ

たようであるそして南や富本が学生であったころま

でにすでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫

報社一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社一

九〇六年)の二冊を著わしていたその後第四次の

外遊から帰国すると一九一五(大正四)年には岩村

にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアムモリス

と趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味

叢書第一二篇)24 をすでに南が趣味叢書第七篇とし

て『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出

版することになるのである

ところで小野二郎はこの岩村の論文「ウイリアムモ

リスと趣味的社會主義」に着目し次のようにモリスを

巡る岩村と富本の関係について述べている

その岩村でもモリスについてのまとまった記述は

一九一五年(大正四年)の「ウイリアムモリスと趣

味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである

helliphellip

しかし岩村は一九〇二年より一三年間東京

美術学校教授として美術史建築史を講じていた

のだから先の発表された論議の対象から見て

当然モリスの思想と運動についてしかもあやまた

ぬ文脈において紹介していたに違いない富本

が岩村からモリスについての知識と興味とを植え

つけられたという事実はほぼ間違いないことと思わ

れるが今そのことの意味は問わぬ25

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 4: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

37

とは明治二〇年代の中頃から文献をとおしてモリス

紹介が行なわれるようになり初期の小さなピークが日

露戦争の開戦前後に起こるも衰退しさらにその後

いわゆる社会主義運動の「冬の時代」を経たのち一

九二〇(大正九)年から一九二五(大正一四)年にか

けての期間に再び大規模なうねりが隆起していること

であるそしてまたこのグラフからこの期間の紹介

の中心が社会主義思想家としてのモリスの側面にあ

ったことも理解できるこれが一九三四(昭和九)年

までの日本におけるモリス紹介のおおかたの全体像

であった

富本憲吉が東京美術学校に入学するのが日露戦

争開戦直後の一九〇四(明治三七)年の四月である

おりしもこの時期は日本におけるモリス紹介の初期の

小さなピークを迎えたときにあたるそれではそのとき

までにあって具体的にはどのようにモリスは日本へ紹

介されていたのであろうか

牧野和春と品川力(補遺)による「日本におけるウィ

リアムモリス文献」のなかには一九〇四(明治三

七)年以前のモリス紹介の文献として書籍と雑誌を

あわせて一八点が挙げられている4それに依拠し

ながら代表的な事例を紹介するとすればおおむね

以下のようになる

初の文献は一八九一(明治二四)年に博文館か

ら刊行された澁江保の『英國文學史全』【図2】で「第

二章 近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム

モーリス 一八三四年生」5 という名前と生年のみの記

載が認められる

そしてモリスが死去した一八九六(明治二九)年には

『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し次のように報

じている執筆者名は「B S」のイニシャルのみである

老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃

思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲

報に接せんとは長く病床にありしウ井リヤムモ

リス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開き

し程もなく俄然病革りて去る十月三日彼は六十

三歳を一期として此世を辭し同六日遂にクルム

スコット墓地に永眠の客となりぬという彩筆を揮

て文壇に闊歩すると四十年ロセッテス井ンバ

ルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の

諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず

まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり

或は過去の實物保存の為めまた將來社會民福

の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ

其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは

到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の

英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し併

せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶると

ころあるべし6

ここからこの追悼文は「地上の楽園」を中心としたモ

リスの詩の解説が賛美の基調でもってはじめられるわ

けであるが注目されてよいのは上で引用した書き出

しの文のなかにあってわずかながらもモリスが工芸

家や社会主義者であったことも連想させるような記述が

なされていることである

さらに一九〇〇(明治三三)年には『太陽』におい

て上田敏もラファエル前派の詩人としてのモリスに

言及し「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の

徒なる歌人と自ら稱し『地上樂園』(一八六八―七

〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」7 と短く紹介

している

『帝國文學』や『太陽』以外においてもこの時期

『早稻田文學』『國民之友』『明星』などの雑誌をとおし

て断片的に紹介された形跡はあるもののとりわけ社会

主義者としてのまとまったモリス紹介は一八九九(明

治三二)年に出版された『社會主義』においてがおそら

くはじめてであった著者の村井知至は「第六章 社

會主義と美術」のなかで社会主義者へと向かったウィ

リアムモリスの経緯をジョンラスキンと関連づけなが

ら次のように描写していた

ジヨンラスキンとウ井リアムモリスとは當代美術

家の秦斗にして殊にモリスは美術家にして詩人

なりhelliphellipモリスも亦ラスキンの感化を受けたる一

人にして彼と同じき高貴なる精神を持し己れの

位置名譽をも顧みず常に職工の服を着し白晝

ロンドンの街頭に立ち勞働者を集めて其社會論

を演説せりhelliphellipラスキンは寧ろ復古主義にして

モリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至

つては二者全く其揆を一にせり彼等は等しく現

今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に

於ては到底美術の隆興を見る可はずhelliphellip今日

の社会制度を改革せざる可らずと主張せり如此

にして彼等は遂に社会主義の制度を以て其理

想となすに至れりhelliphellipモリスは社会主義者の同

盟の首領として死に抵る迄運動を怠らざりき8

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

38

こうした社会主義者としてのモリスはその後週刊

『平民新聞』の紙面を通じてさらに紹介されていくこと

になる

周知のように週刊『平民新聞』とは幸徳秋水や堺

利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日

に創刊号が刊行され創刊一周年を記念して第五三

号に「共産黨宣言」を訳載するとしばしば発行禁止

にあい一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六

四号をもって廃刊に追い込まれた日本における社会

主義運動の 初の機関紙的役割を果たした新聞であ

る発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面

にはエミールゾラ右壁にはカールマルクス本棚

の上にはウィリアムモーママ

リスの肖像が飾られていた」9

この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介される

のは「社會主義の詩人 ウヰリアムモリス」という表題

がつけられた一九〇三(明治三六)年一二月六日付

の第四号の記事【図3】においてであったこの記事は

一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた村

井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転

載したものであった10おそらくその間この本は発行

禁止になっていたものと思われるそれに続いて一九

〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七

日付の第二三号までの連載をとおして一八九〇年に

社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載された

モリスの「ユートピア便り」がはじめて日本に紹介され

ることになるそれは「理想郷」と題され枯川生(堺利

彦)による抄訳であったそして連載後ただちにその

抄訳は単行本としてまとめられ「平民文庫菊版五銭

本」の一冊に加えられるのである11 【図4】

したがって美術学校入学以前にあって文献をとお

して富本が知りえた可能性のあるモリスはおおよそ

上述のような雑誌類によって紹介されていた主として詩

人としてのモリスさらには単行本や『平民新聞』のなか

にあって記載されていた社会主義者としてのモリスとい

うことになるしかしそれはいまだ断片的なモリスにつ

いての情報にとどまっていただけではなくとくに工芸

家としてのモリスについてはほとんど紹介がなされてお

らず全体的なモリス像の紹介という点からは程遠いも

のであったしかもモリスのような社会主義思想家の

紹介はこの時期からさらなる官憲の圧迫の対象となり

その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高まりを迎え

るまで衰退の途を余儀なくされるのである

2 週刊『平民新聞』をとおしてのモリスとの出会い

晩年の一九六一(昭和三六)年に富本憲吉の

「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談

会が開かれたそのなかで「helliphellip[英国へ]行く前から

モリスを研究するつもりで」という英国留学とモリス研

究についての質問に答えて富本はこう述べている

そうです私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がお

り嶋中がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういうことを研究していた

し私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた

それにモリスのものは美術学校時代に知っていた

しそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

た南薫造

がイギリスにいたものですからフランスに行くとごま

かしてイギリスに行った12

富本と同郷の嶋中雄三は大正昭和期の社会運

動家でのちに東京市会議員などを務める人物であり

富本とは六歳年上にあたるしかし中央公論社に一

九一二(大正元)年に入社しその後社長を務めること

になるのは弟の嶋中雄作であり上で引用した「中央

公論の嶋中雄三」という富本の記憶には混乱がみられ

る一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作

はしたがって一八八六(明治一九)年六月生まれの

富本と同学年だった可能性があるものの富本は郡山

中学校雄作は畝傍中学校に当時在籍しており中学

校時代にふたりのあいだでどのような交流がありとりわ

けモリスがどのようなかたちで話題になっていのかはわ

からないしかし雄作は兄雄三の影響のもとに中央

公論社入社以前から社会運動とりわけ女性の権利拡

張に関心をもっていた可能性もあり13嶋中兄弟のそう

した政治的社会的関心を通じて富本も社会主義や

モリスについての知見を得ていたのであろう双方が中

学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購

読数はおおよそ二四部であった14当時富本家で購

読されていたことを示す資料は残されていないした

がって富本が「中学時代に読んでいた」という『平民

新聞』も嶋中兄弟によって貸し与えられたものだっ

たのかもしれない

富本がモリスを知ったのはこうした『平民新聞』に

掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおし

てであったとくに「理想郷」は社会革命後の新世界を

扱っていたこの物語の語り手(語り手はモリスその人

と考えてよいだろう)は革命後に生まれるであろう新

しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

39

わされた夜疲れ果てて眠りにつき翌朝目が覚めて

みるとすでに遠い昔に革命は成功裏に終わり理想

的な共産主義の社会にいる自分を見出した語り手

が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働汚

染される自然苦痛にあえぐ生活からは想像もつかな

い全く新しい世界がそこには広がり労働と生の喜

びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んで

いたこれを読んだとき富本にはモリスが描き出し

ていた革命後の理想社会はどのようなものとして映じ

たのであろうかそれはわからないしかし社会が変

化することの可能性そしてそれを成し遂げるにあた

っての時代に抗う力の生成さらにはその一方でそう

した行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在

これらについては少なくとも理解できていたであろう

こうして富本はこの時期確かにモリスの社会主義の

一端に触れることになるのであるそれはちょうど主

戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく

反戦論などなすすべもなく御前会議でロシアとの

交渉が打ち切られ対露軍事行動の開始が決定され

た時期であり一七歳の青年富本が郡山中学校の卒

業を控え美術学校への入学を模索しようとしていた

まさにそのときのことであった

3 東京美術学校の教師たち

富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は決

して明確なものではなかった

当時私は石彫りに心を動かし自分でも一度

手掛けてみたい気持ちもあったのでなんとなく美

校を志した15

周りの反対はあったものの富本は一九〇四(明治

三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置く

ことになる16しかし専門的な分野については富本

にとって全くの未知の世界であった

中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入

つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を

(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた同じ室の

生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに

話して居たのを聞いた事があるhelliphellip當時は非常

に耳新らしくそう云ふ新語や上級生のする事を

一生懸命で眞似たものである17

この時期美術学校は学生たちにとって必ずしも

居心地のよいものではなかった富本の二年先輩に

あたる西洋画科に在籍していた南薫造はその当

時の実技の授業について日記のなかでこう不満を

漏らしている

学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんもの

であった

学校で彫刻とか云ふのをやった土で変なことを

するのである皆なも左官らしいとか云ふて居た

僕も大ひに不満であった18

そうした学生からの不満はその後も続いた富本より

遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に

入学した光雲を父に光太郎を兄にもつ高村豊周が

後年回顧するところによるとその当時のその学校の様

子は以下のようなものであった

学校では二十一二の青年の生活におよそ縁

のないクラシックな物ばかり作っているたとえば

一年の時に作った筆筒は自分の欲望から生ま

れたデザインでは決してないクラシックな物ばか

り載っている本を見てこんな物をこしらえればよ

いのだろうと見よう見真似のデザインをして先生

の所へ持っていくと何がいいのかわからないが

いいと言うからそれを作るhelliphellipしかし私たちは

ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい

するとこの筆立は一体誰のために作るのだろうと

いう疑問が起ってくる19

富本自身も美術学校の学生だったころの自分の

製作に対する姿勢を振り返り暗澹たる思いにかられ

ている

学生時代の事を思いおこすと先生から菊なら

ば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生してお

き文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑

誌――を見るhelliphellip全体見たあとで好きな少し衣

を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の

場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様

と考へ[て]居た事もあるhelliphellip人も自分も随分平

氣でそれをやった近頃は一切そむな事が模様

を造る人々にやられて居ないか先づ自分を考

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

40

へるとタマラなく恥かしい20

過去の作例に縛られた製作雑誌や本からの模倣

教師の前にあっての受身的な態度使用者不在の

製作物こうしたことに対する疑問や不満は言葉で

は表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらし

たことであろう

入学すると富本は「学校へはあまり顔を出さず年

中下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた

自分でやるだけでは満足せずおそらく日本では 初

のマンドリンバンドを作った」21美術学校での教育は

富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった

しかしそのとき結成されたマンドリンのサークルでの

人的交流はその後の富本に大きな意味をもたらすこ

とになるそれは南薫造と知り合い深い友情を形成

することができたことに由来する南は富本の二年前に

入学しその後一足先に一九〇七(明治四〇)年に

渡英するそして南は富本の英国留学の指南役を果

たすことになるのである

マンドリンのサークルの中心人物は岩村透であっ

た嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた

森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴

い一八九九(明治三二)年に岩村は「西洋美術史」

の授業を美術学校から嘱託されているそしてパリ万

国博覧会見学のための解嘱をはさんで一九〇二(明

治三五)年からは同学校の教授の職にあった

一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して南は

追悼文を『美術』に寄稿しそのなかで当時のマンドリ

ンのサークルについてこう回想している

自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議

な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]

先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だ

つたそれで先生を發頭人として音樂の會合が

學校の中に拵えられた日が暮れても有象無象

が蝋燭の下に集まつて時の過ぎるのも知らず

コールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの

動物園と競爭で吐鳴つた當時先生はマンドリ

ンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンド

リンをやる事になつた今日の如く樂器が容易に

手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出

來なかつた22

この数人で構成されたサークルのなかに南とともに

富本も加わっていたのであるそれでは教室にあって

の岩村はどのような教師だったのであろうか南は

同じくこの追悼文のなかで西洋美術史の教授として

の岩村を次のように追想している

先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ

這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ今

から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の

一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる

美術學校も無論まだ本館が焼けない以前であの

古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込

んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせ

られる時は實に二時間が誠に早やく立つて仕舞

ひ其の痛快な先生一流の論法には全く魅せら

れて片唾を飲んだものだつた23

岩村は学生を魅了してやまない名講義の主であっ

たようであるそして南や富本が学生であったころま

でにすでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫

報社一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社一

九〇六年)の二冊を著わしていたその後第四次の

外遊から帰国すると一九一五(大正四)年には岩村

にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアムモリス

と趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味

叢書第一二篇)24 をすでに南が趣味叢書第七篇とし

て『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出

版することになるのである

ところで小野二郎はこの岩村の論文「ウイリアムモ

リスと趣味的社會主義」に着目し次のようにモリスを

巡る岩村と富本の関係について述べている

その岩村でもモリスについてのまとまった記述は

一九一五年(大正四年)の「ウイリアムモリスと趣

味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである

helliphellip

しかし岩村は一九〇二年より一三年間東京

美術学校教授として美術史建築史を講じていた

のだから先の発表された論議の対象から見て

当然モリスの思想と運動についてしかもあやまた

ぬ文脈において紹介していたに違いない富本

が岩村からモリスについての知識と興味とを植え

つけられたという事実はほぼ間違いないことと思わ

れるが今そのことの意味は問わぬ25

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 5: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

38

こうした社会主義者としてのモリスはその後週刊

『平民新聞』の紙面を通じてさらに紹介されていくこと

になる

周知のように週刊『平民新聞』とは幸徳秋水や堺

利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日

に創刊号が刊行され創刊一周年を記念して第五三

号に「共産黨宣言」を訳載するとしばしば発行禁止

にあい一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六

四号をもって廃刊に追い込まれた日本における社会

主義運動の 初の機関紙的役割を果たした新聞であ

る発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面

にはエミールゾラ右壁にはカールマルクス本棚

の上にはウィリアムモーママ

リスの肖像が飾られていた」9

この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介される

のは「社會主義の詩人 ウヰリアムモリス」という表題

がつけられた一九〇三(明治三六)年一二月六日付

の第四号の記事【図3】においてであったこの記事は

一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた村

井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転

載したものであった10おそらくその間この本は発行

禁止になっていたものと思われるそれに続いて一九

〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七

日付の第二三号までの連載をとおして一八九〇年に

社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載された

モリスの「ユートピア便り」がはじめて日本に紹介され

ることになるそれは「理想郷」と題され枯川生(堺利

彦)による抄訳であったそして連載後ただちにその

抄訳は単行本としてまとめられ「平民文庫菊版五銭

本」の一冊に加えられるのである11 【図4】

したがって美術学校入学以前にあって文献をとお

して富本が知りえた可能性のあるモリスはおおよそ

上述のような雑誌類によって紹介されていた主として詩

人としてのモリスさらには単行本や『平民新聞』のなか

にあって記載されていた社会主義者としてのモリスとい

うことになるしかしそれはいまだ断片的なモリスにつ

いての情報にとどまっていただけではなくとくに工芸

家としてのモリスについてはほとんど紹介がなされてお

らず全体的なモリス像の紹介という点からは程遠いも

のであったしかもモリスのような社会主義思想家の

紹介はこの時期からさらなる官憲の圧迫の対象となり

その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高まりを迎え

るまで衰退の途を余儀なくされるのである

2 週刊『平民新聞』をとおしてのモリスとの出会い

晩年の一九六一(昭和三六)年に富本憲吉の

「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談

会が開かれたそのなかで「helliphellip[英国へ]行く前から

モリスを研究するつもりで」という英国留学とモリス研

究についての質問に答えて富本はこう述べている

そうです私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がお

り嶋中がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういうことを研究していた

し私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた

それにモリスのものは美術学校時代に知っていた

しそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

た南薫造

がイギリスにいたものですからフランスに行くとごま

かしてイギリスに行った12

富本と同郷の嶋中雄三は大正昭和期の社会運

動家でのちに東京市会議員などを務める人物であり

富本とは六歳年上にあたるしかし中央公論社に一

九一二(大正元)年に入社しその後社長を務めること

になるのは弟の嶋中雄作であり上で引用した「中央

公論の嶋中雄三」という富本の記憶には混乱がみられ

る一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作

はしたがって一八八六(明治一九)年六月生まれの

富本と同学年だった可能性があるものの富本は郡山

中学校雄作は畝傍中学校に当時在籍しており中学

校時代にふたりのあいだでどのような交流がありとりわ

けモリスがどのようなかたちで話題になっていのかはわ

からないしかし雄作は兄雄三の影響のもとに中央

公論社入社以前から社会運動とりわけ女性の権利拡

張に関心をもっていた可能性もあり13嶋中兄弟のそう

した政治的社会的関心を通じて富本も社会主義や

モリスについての知見を得ていたのであろう双方が中

学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購

読数はおおよそ二四部であった14当時富本家で購

読されていたことを示す資料は残されていないした

がって富本が「中学時代に読んでいた」という『平民

新聞』も嶋中兄弟によって貸し与えられたものだっ

たのかもしれない

富本がモリスを知ったのはこうした『平民新聞』に

掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおし

てであったとくに「理想郷」は社会革命後の新世界を

扱っていたこの物語の語り手(語り手はモリスその人

と考えてよいだろう)は革命後に生まれるであろう新

しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

39

わされた夜疲れ果てて眠りにつき翌朝目が覚めて

みるとすでに遠い昔に革命は成功裏に終わり理想

的な共産主義の社会にいる自分を見出した語り手

が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働汚

染される自然苦痛にあえぐ生活からは想像もつかな

い全く新しい世界がそこには広がり労働と生の喜

びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んで

いたこれを読んだとき富本にはモリスが描き出し

ていた革命後の理想社会はどのようなものとして映じ

たのであろうかそれはわからないしかし社会が変

化することの可能性そしてそれを成し遂げるにあた

っての時代に抗う力の生成さらにはその一方でそう

した行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在

これらについては少なくとも理解できていたであろう

こうして富本はこの時期確かにモリスの社会主義の

一端に触れることになるのであるそれはちょうど主

戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく

反戦論などなすすべもなく御前会議でロシアとの

交渉が打ち切られ対露軍事行動の開始が決定され

た時期であり一七歳の青年富本が郡山中学校の卒

業を控え美術学校への入学を模索しようとしていた

まさにそのときのことであった

3 東京美術学校の教師たち

富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は決

して明確なものではなかった

当時私は石彫りに心を動かし自分でも一度

手掛けてみたい気持ちもあったのでなんとなく美

校を志した15

周りの反対はあったものの富本は一九〇四(明治

三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置く

ことになる16しかし専門的な分野については富本

にとって全くの未知の世界であった

中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入

つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を

(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた同じ室の

生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに

話して居たのを聞いた事があるhelliphellip當時は非常

に耳新らしくそう云ふ新語や上級生のする事を

一生懸命で眞似たものである17

この時期美術学校は学生たちにとって必ずしも

居心地のよいものではなかった富本の二年先輩に

あたる西洋画科に在籍していた南薫造はその当

時の実技の授業について日記のなかでこう不満を

漏らしている

学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんもの

であった

学校で彫刻とか云ふのをやった土で変なことを

するのである皆なも左官らしいとか云ふて居た

僕も大ひに不満であった18

そうした学生からの不満はその後も続いた富本より

遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に

入学した光雲を父に光太郎を兄にもつ高村豊周が

後年回顧するところによるとその当時のその学校の様

子は以下のようなものであった

学校では二十一二の青年の生活におよそ縁

のないクラシックな物ばかり作っているたとえば

一年の時に作った筆筒は自分の欲望から生ま

れたデザインでは決してないクラシックな物ばか

り載っている本を見てこんな物をこしらえればよ

いのだろうと見よう見真似のデザインをして先生

の所へ持っていくと何がいいのかわからないが

いいと言うからそれを作るhelliphellipしかし私たちは

ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい

するとこの筆立は一体誰のために作るのだろうと

いう疑問が起ってくる19

富本自身も美術学校の学生だったころの自分の

製作に対する姿勢を振り返り暗澹たる思いにかられ

ている

学生時代の事を思いおこすと先生から菊なら

ば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生してお

き文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑

誌――を見るhelliphellip全体見たあとで好きな少し衣

を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の

場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様

と考へ[て]居た事もあるhelliphellip人も自分も随分平

氣でそれをやった近頃は一切そむな事が模様

を造る人々にやられて居ないか先づ自分を考

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

40

へるとタマラなく恥かしい20

過去の作例に縛られた製作雑誌や本からの模倣

教師の前にあっての受身的な態度使用者不在の

製作物こうしたことに対する疑問や不満は言葉で

は表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらし

たことであろう

入学すると富本は「学校へはあまり顔を出さず年

中下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた

自分でやるだけでは満足せずおそらく日本では 初

のマンドリンバンドを作った」21美術学校での教育は

富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった

しかしそのとき結成されたマンドリンのサークルでの

人的交流はその後の富本に大きな意味をもたらすこ

とになるそれは南薫造と知り合い深い友情を形成

することができたことに由来する南は富本の二年前に

入学しその後一足先に一九〇七(明治四〇)年に

渡英するそして南は富本の英国留学の指南役を果

たすことになるのである

マンドリンのサークルの中心人物は岩村透であっ

た嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた

森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴

い一八九九(明治三二)年に岩村は「西洋美術史」

の授業を美術学校から嘱託されているそしてパリ万

国博覧会見学のための解嘱をはさんで一九〇二(明

治三五)年からは同学校の教授の職にあった

一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して南は

追悼文を『美術』に寄稿しそのなかで当時のマンドリ

ンのサークルについてこう回想している

自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議

な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]

先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だ

つたそれで先生を發頭人として音樂の會合が

學校の中に拵えられた日が暮れても有象無象

が蝋燭の下に集まつて時の過ぎるのも知らず

コールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの

動物園と競爭で吐鳴つた當時先生はマンドリ

ンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンド

リンをやる事になつた今日の如く樂器が容易に

手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出

來なかつた22

この数人で構成されたサークルのなかに南とともに

富本も加わっていたのであるそれでは教室にあって

の岩村はどのような教師だったのであろうか南は

同じくこの追悼文のなかで西洋美術史の教授として

の岩村を次のように追想している

先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ

這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ今

から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の

一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる

美術學校も無論まだ本館が焼けない以前であの

古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込

んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせ

られる時は實に二時間が誠に早やく立つて仕舞

ひ其の痛快な先生一流の論法には全く魅せら

れて片唾を飲んだものだつた23

岩村は学生を魅了してやまない名講義の主であっ

たようであるそして南や富本が学生であったころま

でにすでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫

報社一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社一

九〇六年)の二冊を著わしていたその後第四次の

外遊から帰国すると一九一五(大正四)年には岩村

にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアムモリス

と趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味

叢書第一二篇)24 をすでに南が趣味叢書第七篇とし

て『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出

版することになるのである

ところで小野二郎はこの岩村の論文「ウイリアムモ

リスと趣味的社會主義」に着目し次のようにモリスを

巡る岩村と富本の関係について述べている

その岩村でもモリスについてのまとまった記述は

一九一五年(大正四年)の「ウイリアムモリスと趣

味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである

helliphellip

しかし岩村は一九〇二年より一三年間東京

美術学校教授として美術史建築史を講じていた

のだから先の発表された論議の対象から見て

当然モリスの思想と運動についてしかもあやまた

ぬ文脈において紹介していたに違いない富本

が岩村からモリスについての知識と興味とを植え

つけられたという事実はほぼ間違いないことと思わ

れるが今そのことの意味は問わぬ25

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 6: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

39

わされた夜疲れ果てて眠りにつき翌朝目が覚めて

みるとすでに遠い昔に革命は成功裏に終わり理想

的な共産主義の社会にいる自分を見出した語り手

が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働汚

染される自然苦痛にあえぐ生活からは想像もつかな

い全く新しい世界がそこには広がり労働と生の喜

びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んで

いたこれを読んだとき富本にはモリスが描き出し

ていた革命後の理想社会はどのようなものとして映じ

たのであろうかそれはわからないしかし社会が変

化することの可能性そしてそれを成し遂げるにあた

っての時代に抗う力の生成さらにはその一方でそう

した行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在

これらについては少なくとも理解できていたであろう

こうして富本はこの時期確かにモリスの社会主義の

一端に触れることになるのであるそれはちょうど主

戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく

反戦論などなすすべもなく御前会議でロシアとの

交渉が打ち切られ対露軍事行動の開始が決定され

た時期であり一七歳の青年富本が郡山中学校の卒

業を控え美術学校への入学を模索しようとしていた

まさにそのときのことであった

3 東京美術学校の教師たち

富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は決

して明確なものではなかった

当時私は石彫りに心を動かし自分でも一度

手掛けてみたい気持ちもあったのでなんとなく美

校を志した15

周りの反対はあったものの富本は一九〇四(明治

三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置く

ことになる16しかし専門的な分野については富本

にとって全くの未知の世界であった

中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入

つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を

(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた同じ室の

生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに

話して居たのを聞いた事があるhelliphellip當時は非常

に耳新らしくそう云ふ新語や上級生のする事を

一生懸命で眞似たものである17

この時期美術学校は学生たちにとって必ずしも

居心地のよいものではなかった富本の二年先輩に

あたる西洋画科に在籍していた南薫造はその当

時の実技の授業について日記のなかでこう不満を

漏らしている

学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんもの

であった

学校で彫刻とか云ふのをやった土で変なことを

するのである皆なも左官らしいとか云ふて居た

僕も大ひに不満であった18

そうした学生からの不満はその後も続いた富本より

遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に

入学した光雲を父に光太郎を兄にもつ高村豊周が

後年回顧するところによるとその当時のその学校の様

子は以下のようなものであった

学校では二十一二の青年の生活におよそ縁

のないクラシックな物ばかり作っているたとえば

一年の時に作った筆筒は自分の欲望から生ま

れたデザインでは決してないクラシックな物ばか

り載っている本を見てこんな物をこしらえればよ

いのだろうと見よう見真似のデザインをして先生

の所へ持っていくと何がいいのかわからないが

いいと言うからそれを作るhelliphellipしかし私たちは

ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい

するとこの筆立は一体誰のために作るのだろうと

いう疑問が起ってくる19

富本自身も美術学校の学生だったころの自分の

製作に対する姿勢を振り返り暗澹たる思いにかられ

ている

学生時代の事を思いおこすと先生から菊なら

ば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生してお

き文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑

誌――を見るhelliphellip全体見たあとで好きな少し衣

を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の

場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様

と考へ[て]居た事もあるhelliphellip人も自分も随分平

氣でそれをやった近頃は一切そむな事が模様

を造る人々にやられて居ないか先づ自分を考

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

40

へるとタマラなく恥かしい20

過去の作例に縛られた製作雑誌や本からの模倣

教師の前にあっての受身的な態度使用者不在の

製作物こうしたことに対する疑問や不満は言葉で

は表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらし

たことであろう

入学すると富本は「学校へはあまり顔を出さず年

中下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた

自分でやるだけでは満足せずおそらく日本では 初

のマンドリンバンドを作った」21美術学校での教育は

富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった

しかしそのとき結成されたマンドリンのサークルでの

人的交流はその後の富本に大きな意味をもたらすこ

とになるそれは南薫造と知り合い深い友情を形成

することができたことに由来する南は富本の二年前に

入学しその後一足先に一九〇七(明治四〇)年に

渡英するそして南は富本の英国留学の指南役を果

たすことになるのである

マンドリンのサークルの中心人物は岩村透であっ

た嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた

森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴

い一八九九(明治三二)年に岩村は「西洋美術史」

の授業を美術学校から嘱託されているそしてパリ万

国博覧会見学のための解嘱をはさんで一九〇二(明

治三五)年からは同学校の教授の職にあった

一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して南は

追悼文を『美術』に寄稿しそのなかで当時のマンドリ

ンのサークルについてこう回想している

自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議

な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]

先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だ

つたそれで先生を發頭人として音樂の會合が

學校の中に拵えられた日が暮れても有象無象

が蝋燭の下に集まつて時の過ぎるのも知らず

コールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの

動物園と競爭で吐鳴つた當時先生はマンドリ

ンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンド

リンをやる事になつた今日の如く樂器が容易に

手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出

來なかつた22

この数人で構成されたサークルのなかに南とともに

富本も加わっていたのであるそれでは教室にあって

の岩村はどのような教師だったのであろうか南は

同じくこの追悼文のなかで西洋美術史の教授として

の岩村を次のように追想している

先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ

這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ今

から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の

一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる

美術學校も無論まだ本館が焼けない以前であの

古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込

んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせ

られる時は實に二時間が誠に早やく立つて仕舞

ひ其の痛快な先生一流の論法には全く魅せら

れて片唾を飲んだものだつた23

岩村は学生を魅了してやまない名講義の主であっ

たようであるそして南や富本が学生であったころま

でにすでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫

報社一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社一

九〇六年)の二冊を著わしていたその後第四次の

外遊から帰国すると一九一五(大正四)年には岩村

にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアムモリス

と趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味

叢書第一二篇)24 をすでに南が趣味叢書第七篇とし

て『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出

版することになるのである

ところで小野二郎はこの岩村の論文「ウイリアムモ

リスと趣味的社會主義」に着目し次のようにモリスを

巡る岩村と富本の関係について述べている

その岩村でもモリスについてのまとまった記述は

一九一五年(大正四年)の「ウイリアムモリスと趣

味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである

helliphellip

しかし岩村は一九〇二年より一三年間東京

美術学校教授として美術史建築史を講じていた

のだから先の発表された論議の対象から見て

当然モリスの思想と運動についてしかもあやまた

ぬ文脈において紹介していたに違いない富本

が岩村からモリスについての知識と興味とを植え

つけられたという事実はほぼ間違いないことと思わ

れるが今そのことの意味は問わぬ25

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 7: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

40

へるとタマラなく恥かしい20

過去の作例に縛られた製作雑誌や本からの模倣

教師の前にあっての受身的な態度使用者不在の

製作物こうしたことに対する疑問や不満は言葉で

は表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらし

たことであろう

入学すると富本は「学校へはあまり顔を出さず年

中下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた

自分でやるだけでは満足せずおそらく日本では 初

のマンドリンバンドを作った」21美術学校での教育は

富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった

しかしそのとき結成されたマンドリンのサークルでの

人的交流はその後の富本に大きな意味をもたらすこ

とになるそれは南薫造と知り合い深い友情を形成

することができたことに由来する南は富本の二年前に

入学しその後一足先に一九〇七(明治四〇)年に

渡英するそして南は富本の英国留学の指南役を果

たすことになるのである

マンドリンのサークルの中心人物は岩村透であっ

た嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた

森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴

い一八九九(明治三二)年に岩村は「西洋美術史」

の授業を美術学校から嘱託されているそしてパリ万

国博覧会見学のための解嘱をはさんで一九〇二(明

治三五)年からは同学校の教授の職にあった

一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して南は

追悼文を『美術』に寄稿しそのなかで当時のマンドリ

ンのサークルについてこう回想している

自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議

な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]

先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だ

つたそれで先生を發頭人として音樂の會合が

學校の中に拵えられた日が暮れても有象無象

が蝋燭の下に集まつて時の過ぎるのも知らず

コールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの

動物園と競爭で吐鳴つた當時先生はマンドリ

ンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンド

リンをやる事になつた今日の如く樂器が容易に

手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出

來なかつた22

この数人で構成されたサークルのなかに南とともに

富本も加わっていたのであるそれでは教室にあって

の岩村はどのような教師だったのであろうか南は

同じくこの追悼文のなかで西洋美術史の教授として

の岩村を次のように追想している

先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ

這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ今

から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の

一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる

美術學校も無論まだ本館が焼けない以前であの

古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込

んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせ

られる時は實に二時間が誠に早やく立つて仕舞

ひ其の痛快な先生一流の論法には全く魅せら

れて片唾を飲んだものだつた23

岩村は学生を魅了してやまない名講義の主であっ

たようであるそして南や富本が学生であったころま

でにすでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫

報社一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社一

九〇六年)の二冊を著わしていたその後第四次の

外遊から帰国すると一九一五(大正四)年には岩村

にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアムモリス

と趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味

叢書第一二篇)24 をすでに南が趣味叢書第七篇とし

て『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出

版することになるのである

ところで小野二郎はこの岩村の論文「ウイリアムモ

リスと趣味的社會主義」に着目し次のようにモリスを

巡る岩村と富本の関係について述べている

その岩村でもモリスについてのまとまった記述は

一九一五年(大正四年)の「ウイリアムモリスと趣

味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである

helliphellip

しかし岩村は一九〇二年より一三年間東京

美術学校教授として美術史建築史を講じていた

のだから先の発表された論議の対象から見て

当然モリスの思想と運動についてしかもあやまた

ぬ文脈において紹介していたに違いない富本

が岩村からモリスについての知識と興味とを植え

つけられたという事実はほぼ間違いないことと思わ

れるが今そのことの意味は問わぬ25

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 8: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

41

小野は富本が学生だったころに「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」において論じられている知見が

すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆してい

るのであるがしかしこの論文はその冒頭において

岩村自身が若干触れているようにアーサーコムトン

=リキットの『ウィリアムモリス――詩人工芸家社会

改良家』26 を底本として語られているものであり原著

の刊行が一九一三年であることからしてコムトン=リキ

ットのモリスに関する記述内容を講義をとおして岩村

が富本に教授することは不可能だったことになるまた

それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形

跡は残されておらずしたがってもし岩村の口から

モリスに関する話題が提供されていたとしても必ずし

もそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではな

くときおり断片的に話しにのぼる程度の私的なもので

あった可能性の方が高い27

それでは西洋美術史の教授である岩村からモリス

に関する知識を授けられていなかったとすれば富本

は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を

得たのであろうか

渡辺俊夫と菊池裕子は大沢三之助を挙げて次の

ように指摘している

東京美術学校建築主任教授であった大沢三之

助は一九〇六マ マ

年から一九〇九マ マ

年までの滞欧中

にハムステッドガーデンシティを訪れているハ

ワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想

に触れた大沢は一九一二年に「ガーデンシチ

ーに就て」という論文を発表しているその中で

大沢は人間生活にとっての自然で健康的な環

境を考慮することが「都市計画」において重要であ

ることを力説している大沢の教えた学生の一人

富本憲吉も中世主義者となりモリス崇拝者となっ

た富本が設計した《音楽家住宅》は卒業制作

であった多くのイギリス本家の田園都市の住宅

の場合同様これもイギリスの伝統的なコテージに

由来するハーフティンバー造りのコテージ様式の

ものである28

ここで富本が美術学校に在籍していた時期(一九

〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に大

沢の動向に触れてみたいと思う

大沢は一八九四(明治二七)年七月に帝国大学

工科大学造家学科卒業後大学院へ進学翌年一

二月に一年志願兵として入営しさらに翌年将校試

験に及第すると一八九七(明治三〇)年三月に陸軍

歩兵少尉として任官している大沢の美術学校とのか

かわりはこの時期「建築製図」と「構造大意」の授業

が嘱託されたことにはじまるこの後入隊のために一

時解嘱された期間もあったが一九〇二(明治三五)

年に同学校の教授に任命され「建築史」「建築意

匠術」および「建築製図演習」を担当することになる

しかし日露戦争の開戦に伴い一九〇四(明治三

七)年七月には召集令に接し近衛後備歩兵第四連

隊へ入営する召集が解除されたのは翌年の一〇月

のことであったそして文部省からの被命のもと一九

〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年

一〇月まで建築装飾の研究のためアメリカイギリス

フランスイタリアへ海外渡航することになる大沢の

留学期間中図案科の「建築学」の授業は東京帝国

大学工科大学助教授の関野貞に嘱託されたロンド

ン滞在中の大沢は富本のよき指導者としての役割を

務め帰国後の一九一二(明治四五)年には主とし

てイギリスでの研究をもとに『建築工藝叢誌』に四回

に分けて「ガーデンシチーに就て」というタイトルで

論文を発表するそして一九一四(大正三)年に宮

内庁技師に転出するのである29

こうした略歴から判断すると建築について大沢が富

本に教授することができたのは一九〇五(明治三八)

年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしての

わずか約一年二箇月だったことになるこの時期まで

にラスキンの中世主義やモリスの思想や実践につい

て大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見

当たらないまた一方ですでに述べたようにこの時

期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本の

モリス理解は確かに進んでいたとしても富本自身が

自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなこ

とはなかったそのような傍証から推量するとこの時期

大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となりモ

リス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点

で受け入れるのは困難なように思えるしまた富本

が卒業製作に入るときにはすでに大沢は洋行の途に

上っておりそのような経緯からしても富本の卒業製

作に大沢の直接的な影響があったとは考えにくいの

ではないかと思われる

さらに 近の論調に目を向けると松原龍一は

展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなか

で「美術学校では大沢[三之助]や岡田[信一郎]か

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 9: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

42

らウィリアムモリスの話は聞いて興味をもっていた富

本ではあるが一九〇八(明治四一)年一一月ウィリ

アムモリスの工芸思想を実地に見聞しさらに西洋建

築を見るために卒業制作《音楽家住宅設計図案》を

早く完成し私費で渡英したのであった」30 と述べモリ

スに関する知見を富本に授け英国留学を促した可

能性のある教師のひとりとして大沢とともに岡田信一

郎を示唆している岡田は一八八三(明治一六)年

の生まれで富本よりも三歳年長であった東京帝国

大学工科大学を卒業すると翌年の一九〇七(明治

四〇)年につまり二四歳のときに「日本建築学」お

よび「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監

督」が美術学校から嘱託さているしかし嘱託された

のちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年

と七箇月のあいだに岡田が何か学術的な文章を発

表した形跡はなくしたがってこの時期の岡田の学

問上の関心を明確にすることはできない岡田の 初

の発言は嘱託として三年が経過した一九一〇(明治

四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31

をテーマにとった討論会においてであり同年には

「建築と現代思潮」32 と題された論説も発表しているが

少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められ

ないしたがって仮に岡田が富本にモリスについて

話をしていたとしてもそれは富本の知識を大きく超

えるような岡田独自の研究成果に基づくまとまりを

もったモリス論に類するものではなかったのではない

だろうか

高村豊周は後年学生時代を振り返り「大正四年

頃にこういっては悪いが工芸科の先生でウィリアム

モーママ

リスの名前を知っている先生はいなかったのでは

ないかと思う」33 と述べている一方富本の書き残した

もののなかにも川端玉章の日本画の授業についての

回顧談はあるもののそれ以外の教師たちの授業につ

いての具体的な記述はいっさい存在しないそのよう

に見ていくと学生時代の富本に「美術家であり社

会主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい」と

いう思いをかきたたせ英国留学を決意させるほどまで

に強い影響力をもった教師たちは当時富本の周りに

はいなかったと判断するのが自然なように思われるし

いやただそれだけではなく帰国後の南薫造に宛て

た複数の書簡から推し量ると疑いもなく卒業後の富

本は彼らに対して強烈な反感さえ持ち合わせるように

なっていたのであった34

4 文庫での図案学習と『ステューディオ』のなかの

モリス

それでも富本は彼の記憶違いでなければこれもす

でに引用により紹介したように確かに「モリスのものは美

術学校時代に知っていた」それではどのようにして学

生時代に富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであ

ろうかそのことが明らかにされなければならない

富本の学生時代は「先生から菊ならば菊と云ふ実

物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館

に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生

たちのあいだで日常化していたようである富本はこ

うした外国雑誌からの参照について別の箇所でさら

に詳しく以下のように述懐している

helliphellip此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云

ふ題が出たとしてそう云ふ種類のものならば大

抵ステユデオかアールエデコラシヨンを借りて

コーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來

得る限り早くhelliphellipパラパラと只書物を操るhelliphellip

コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾

も見つかると透き寫しするに も良く出來た蠟引

きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである

helliphellip寫した小さな紙片を_室なり下宿なりに持ち歸

つて茶碗の把手を入れかえ模樣の一部を故意

に或は無理に入れかえて先ず下圖が出來上が

つたものと心得て居たhelliphellip

色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居

る彼れは大きい袋に幾つ持つて居るそれが

我々仲間の模樣の出る根源又その人の偉さに

も非常に關係ある樣に考へて居たhelliphellip學校の

文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず光

澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上か

ら線を引いた樣な跡が一面にある此れが作品

の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの

跡である

當時は此れを唯一の勉強方法と考へて未だ題

の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り

切りで寫しに寫した又何う云ふ書物に如何な模

樣があるか今度文庫で如何な模樣の書物を買つ

たとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35

富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ

以上のようなものであったらしく「先生の新らしく作られ

た模樣を見た事もなければhelliphellip盛むに運動や雜談に

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 10: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

43

油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間36」は

空しくもこうして過ぎ去っていったのであるそして富本

はこの「記憶より」と題された一文を次のように締め括

るのである「此の告白に類する模樣學習の記憶を書

いた理由は前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得

な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ

事である只ソウ信じておきたい37」この文章が書かれ

たのは一九一四(大正三)年で絶望にも近い苦悩の

末に「模様から模様を造らない」という製作理念へ

換言すれば過去の参照の拒絶という強い決意へ富

本が到達した時期に相当するここで富本は偽ること

なく学生時代の学習方法を告白することによって決

然とそれを否定し模様製作の新たな領域つまりは

個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしてい

るのである確かにこの時期富本は旧い体制と価値

観からの脱却を果敢にも試みようとしていたまさしくそ

れは富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであ

ったおそらく富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美

術学校時代の教育実態に関する告白とそのときの

教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる

罵声に近い反感とはそのような意味において表裏を

なすものであったのではなかろうかしたがってこれ

もまた日本の工芸教育における旧来の徒弟制度か

ら近代的な学校制度への移行期の早い段階に認めら

れうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なの

かもしれない

さてそれはそれとして本稿で後述することになる

東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作につ

いての検討に際してもその背景としてこうした外国

雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなけれ

ばならないのはいうまでもないがその前に本題にもど

ってここで検討されなければならないのはそうした

学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されて

いた外国雑誌をとおして富本は「モリスのもの」を知り

えたのではないかという論点なのであるそれでは当

時の美術学校では富本が挙げている「ステユデオか

アールエデコラシヨン」のような外国雑誌の購入の

様子はどのようなものであったのであろうか

明治三〇年代半ばの学生用の参考書とりわけ外

国雑誌はある教師の紹介するところによると以下の

ようなものであった

雜誌類にて も有名なるは佛のGazette des

Beaux-Arts Revue de Lart Ancien et Moderne

及びArt et Decoration(前二雜誌各々一年分代

價 凡 そ 卅圓毎 月 一 回發行 ) 英の Art journal

Magazine of Art International Studio(各金八圓よ

り十二圓位迄孰れも月一回發行)獨のKunst und

Decoration Moderne Kunst及び伊のLArte Ital-

iana Enporium等に御座候此外圖畫敎育家又

畫學生向け雜誌としては米のArt Amateur (月

一回一年凡そ十圓)Art Interchange(凡そ前同

樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の

Artistなぞ御座候38

おそらくこうした外国雑誌が富本が学生であったこ

ろにも文庫において購入されていたものと思われる

そのなかで富本がのちに書き残した文章にも唯一『ス

テューディオ』への言及が認められこの雑誌が学生

時代のみならずそれ以降にあっても富本にとって欠

かすことのできない英国の美術やデザインに関する

主たる情報源となっていたようである39

富本が「モリスのもの」といっているのはおそらく

「モリスの作品」を意味しているのであろうそれでは富

本が創刊された一八九三年から英国へ向けて日本

を離れるまでにあって『ステューディオ』に掲載されて

いたウィリアムモリスに関する作品の図版とは一体

どのようなものであったのであろうかそれをまとめたも

のが【表1】である図版が掲載された記事数は総計

一〇点で図版は延べにして二八点となるこのなか

には単にモリスのデザインだけではなくモリス商会

によって製造されたものや室内の一部にモリス作品な

いしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の

図版も含まれている富本のいう「モリスのもの」という言

葉を『ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定

して考えた場合これがそのすべてであった極めて

少数としかいいようがない

5 社会問題への関心とエイマヴァランスなどの書物

それでは『ステューディオ』のような外国雑誌以外

でこの時期富本がモリスに関する情報を手に入れる

機会はなかったのであろうかまた美術に対する関心

は別にして当時の富本の社会へ向けられた関心はど

のようなところにあったのであろうか郡山中学校に在

籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は富本

が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年

一月二九日付の第六四号をもって官憲の弾圧により

廃刊へと追い込まれたこの号は全頁赤刷あかずり

で一面ト

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 11: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

44

ップに「終刊の辭」が掲げられその一部は次のような

ものであった

嗚呼あ あ

平民新聞へいみんしんぶん

は如 此かくのごとく

にして生い

き如 此かくのごとく

にして死し

す又また

憾う ら

み無なか

る可べ

き也な り

否い

な平民新聞へいみんしんぶん

の名な

は惜お

からざるに非あ ら

ず社会主義運動し や く わ い し ゆ ぎ う ん ど う

は更さ ら

に之これ

よりも重おも

きを奈可い か ん

せん盖けだ

して聞き

く蝮蛇ふ く だ

手て

を螫さ

せば荘士そ う し

腕わん

を解と

くと今いま

は断だん

ずべきの秋也と き な り

故ゆえ

に吾人ご じ ん

は 涙なみだ

を揮ふる

ふて茲こ ゝ

に廃刊はいかん

を宣言せんげん

す40

一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れ

たのが富本であったその廃刊に接し富本はどのよう

な思いを抱いたのであろうかおそらく中学校時代に

この新聞を一緒に読んだ嶋中雄作とそのとき何か連

絡を取り合ったかもしれないもっともその証拠となる

ものはないしかし少なくとも何らかのかたちでふたり

の交友は中学校卒業以降も続いていたものと思われ

る嶋中は一九一二(大正元)年九月に早稲田大学

を卒業し中央公論社に入社した一方のちに富本

の妻となる当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一

枝)はそれに先立つ同年の一月に『白樺』に掲載さ

れた南薫造と富本の「私信徃復」41 を読み単身安堵

村にはじめて富本を訪ねているそして一年後の一

九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の

群に對して」42 を寄稿するのであるもしかすると紅吉

を中央公論社の嶋中に紹介したのは富本だったのか

もしれないその一方で嶋中は同年の七月婦人の

自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなど

が起こした青鞜社の動きに注目し主幹に就任したば

かりの瀧田樗陰に進言して『中央公論』夏季臨時増

刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けているこ

れがそののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発

点となるものであった翌一九一四(大正三)年一〇月

に富本と一枝は結婚したそしてその後も富本と妻

一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代ま

でをとおしてしばしば掲載されていくのであるこれは

この間政治や社会に対する関心が問題意識に程度

の差こそあったとしても三人のあいだで何がしか共有

されていたことを意味するのではないだろうか

「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週

刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなっ

たとき嶋中に会ってそのことについて論じ合ったか

どうかは別にしてもその当時の富本の政治的信条は

明らかに一枚の自製絵はがき【図5】に表われており

そこから推し量ることができるこの絵はがきは一九〇

五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩

師の水木要太郎に宛てて出されたものである中央に

「亡国の会」という文字が並びその下の三つの帽子に

矢が貫通しているこの自製絵はがきがはじめて一般

に公開されたときのキャプションには「亡国の会 陸

軍海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と

官僚への露骨な反感」43 と書き記されているこの年

八月に日露講和会議が開始されると合意内容に国

民の不満は高まるも陸海軍の凱旋がはじまると一転

して市中は異様な昂揚感に沸き返った富本のこの自

製絵はがきはちょうどこの時期に出されているこの

間美術学校では六月はじめには一日臨時休業して

日本海海戦の祝捷会を開き東郷平八郎大将に感謝

状を贈呈することを満場一致で可決しているし一〇

月末に大沢三之助大尉が解隊され教授職に復帰す

るとその暮れには凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅

川楼で開かれている44富本の目にこの年の一連の

出来事がどのように映っていたのかは水木に宛てた

一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている

そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって

『ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会っ

た工芸家モリスと『平民新聞』などを通じて中学校時

代からすでに知っていた社会主義者モリスとはそのと

きどのようなかたちでつながったのだろうか極めて

興味のあるところであるがそれはわからないその当

時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量か

ら判断するとおそらく富本にとってモリスというひとり

の人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となって

いることの意味は謎に包まれたままでこの時期正

確に理解することはできなかったのではないだろうか

あるいはそのこと自体が実は富本に想像力をかきた

たせることになりモリスへの強い関心のもとに英国へ

の留学を決意させる誘因となったともいえなくはない

しかしそれにしても当時の富本のモリスに関する知識

の範囲は狭すぎるだけではなく量的にもあまりにも少

なすぎ一般的にいって留学を決意するに至るにふ

さわしいものではなかったようにも思われるそれでは

何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた

可能性は残されていないのであろうか

まずひとつ考えられるのはこの時期エイマヴァ

ランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作お

よび彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンに

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 12: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

45

おいて刊行)45 を入手しそれを読んだ可能性の有無

である英国から帰国すると富本は一九一二(明治

四五)年に二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリ

アムモリスの話」を発表することになるがそのときの

底本に使われたのがこのヴァランスの書物であった

しかし富本がこの本を入手したのが美術学校に在

籍していたときなのかロンドンに滞在していたときな

のかそれとも帰国後なのかそれを確定する資料が

なかったもし美術学校に在籍していたときにこの本

を入手し読んでいたとすればどうだろう美術家であ

るモリス社会主義主義であるモリスそして詩人であ

るモリスの全体像はこの時期しっかりと富本に把握

されていたことになるそしてもしそうした仮説が設定

されうるとするならばその書物に触れた結果「美術

家であり社会主義者であるウイリアムモリスの仕事

に接したい」という強い思いのもとに富本は英国留学

を決意することになったとする説明の合理性は明ら

かに一段と高まっていくことになるもちろんその場合

は「モリスのもの

は美術学校時代に知っていた」(以

下同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は「図

版をとおしてモリスのもの

は美術学校時代に知ってい

た」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく

「モリスについて書かれたもの

は美術学校時代に知っ

ていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる

必要性も出てくるであろうし同じく「夜大抵おそく迠

モーママ

リスの傳記を讀むで

居る46」という『美術新報』へ

の投稿を前にして富本が南薫造に書き送っている手

紙のなかの文言は「夜大抵おそく迠モーリスの傳記

を讀み返して

居る」という意味を含むものとして再解釈

されなければならないことになる確かに美術学校在

籍中にヴァランスの『ウィリアムモリス』を富本が読んだ

ことを立証するにふさわしい明確な根拠を現時点で

利用可能な資料のなかに見出すことはできないそれ

でも「美術家であり社会主義者であるウイリアムモ

リスの仕事に接したい」という英国留学の動機にかか

わる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをこ

こで担保しようとするならばこの時期にこの本を富本

が読んでいたと推断したとしてもとくに大きな障害は

残らないのでないだろうかなぜならば 晩年に富

本は自分のイギリス留学の経緯を回顧してこう述べ

ているからである

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのはhelliphellip

在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

スラーや

図案家で社会主義者のウイリアムモリスの思想に

興味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった

からでもある47

富本のいう「在学中に読んだ本」これがまさしく

ヴァランスの『ウィリアムモリス』だった可能性はないだ

ろうかもしそうであったとするならば当時の富本の社

会問題への関心と照らし合わせると「図案家で社会

主義者であるウイリアムモリスの思想」は極めて鮮烈な

印象を美術学生である富本に刻印したことになるヴァ

ランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかでい

みじくも次のようなことを述べていたのである

彼の芸術と彼の社会主義はモリスの考えによれ

ば一方が一方にとって不可欠なものとして結び

付くものであったいやむしろ単にひとつの事柄

のふたつの側面にしかすぎなかった48

モリスの考えるところによれば社会主義を欠いた芸

術もなければ芸術を欠いた社会主義もなく両者はま

さしくコインの裏表のような一体化された関係のうちに

認められうる存在であったもし富本がこの時期にヴァ

ランスのこの書物を手にしていたとするならばそのな

かにみられるこうした芸術と社会主義にかかわる記述

が間違いなく富本の目にとまったであろうしかし富

本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に

購入された記録は残されておらず一方残されてい

る記録によれば二冊のモリス関連の書籍がそのときま

でに購入されていたのであった49

ここで注目されてよいのはそのうち一冊の『装飾芸

術の巨匠たち』のなかでルイスFデイが「ウィリアム

モリスと彼の芸術」と題した論文をとおしてモリスの主

要作品について図版とともに詳しく紹介していたことで

ある明らかにここでの紹介は図版の豊富さと適切さ

という点において『ステューディオ』の記事やヴァラン

スの書物における紹介を凌ぐものであったしかもこの

論文においてもモリスの社会主義の輪郭について言

及されている果たして富本はこの論文を文庫で読

んでいたであろうかこれを特定する資料も残念なが

ら現時点で見出すことはできないそれにもかかわら

ず英国留学の動機にかかわって「在学中に読ん

だ本から英国のhelliphellip図案家で社会主義者のウイリア

ムモリスの思想に興味をいだきモリスの実際の仕事

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 13: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

46

を見たかったからでもある」という 晩年の富本の述懐

に記憶違いがないとする前提に立つならばこのデイ

の「ウィリアムモリスと彼の芸術」という論文もヴァラン

スの『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および

彼の公的生活』という書物と同様に「在学中に読ん

だ本」のなかに加えることができるであろうしそれが

誘因となって図版だけでは満足できず「モリスの実際

の仕事」を見るために富本は英国留学へ向けての関

心を形成していったとする推断の可能性も排除するこ

とはできないのではないだろうか

さらに加えてもうひとつ注目されてよいのはもう一方

の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する

講演』であるこれには六つの講演録が所収されてい

るがそのうちのふたつがモリスの「パタンデザイニ

ングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なの

である前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて

後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演された

ものである講演録であるために図版は存在しないが

この「パタンデザイニングの歴史」と「生活の小芸術」

は現在においてもモリスのデザイン思想を理解するう

えでの極めて重要なテクストとなっている当時文庫に

収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどう

かを根拠だてることは『装飾芸術の巨匠たち』の場合

と同様にできないしかし読んでいたとするならば週

刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳

によって成り立っていたことを考え合わせるとモリスの

実際の文章に直接触れる機会を富本ははじめてここ

でもったことになる

富本のいう「在学中に読んだ本」とはしたがって

『ウィリアムモリス――彼の芸術彼の著作および彼の

公的生活』「ウィリアムモリスと彼の芸術」が所収され

た『装飾芸術の巨匠たち』および「パタンデザイニ

ングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築

物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの

書物のすべてであったかそのうちの一冊か二冊だっ

たかの可能性が現時点で残されることになるであろう

6 夏目漱石の講演「文芸の哲学的基礎」

こうして富本がモリス関連の書物や雑誌を読みま

た軍人や官僚への反感を募らせながらも一方で

「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に

座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」まさに

そのころであろうか学生のあいだから短歌や俳句など

の文芸に対する熱が高まり五年前に発足していたも

のの休眠状態にあった校友会文学部が再興されそ

の第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二

〇日に上田敏と夏目漱石を招いて開催された上田

敏はすでに『太陽』においてラファエル前派の詩人

としてモリスに言及していたし夏目漱石は『我輩は

猫である』の発表以降すでに小説家としての名声を

博しちょうどこの時期東京帝国大学と第一高等学校

へ辞表を提出し朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公

表するのを間近に控えていたおそらく富本もこのふ

たりの講師に関心をもちこの講演会に出席したものと

思われるふたりの講演内容を実際に再現することは

困難であるが漱石に関してはその講演速記に大

幅に手が加えられ五月四日から二七回に分けて朝

日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」からある

程度読み取ることは可能であるこのなかに理想と

技巧に触れた箇所があるがもしこの箇所が実際の

講演で述べられていたとすればおそらく富本はと

りわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろう

か漱石は理想と技巧についてこう指摘している

のである

helliphellip文藝は感覚覺的な或物を通じてある理想

をあらはすものでありますだからして其の第一

義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來な

ければ存在の意義が薄くなる譯であります此

理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價

値が出てくるものと存じます此の理想のない技

巧家を稱して所謂市氣匠氣のある藝術家と云

ふのだらうと考へます市氣匠氣のある繪畫が何

故下品かと云ふと其畫面に何等の理想があら

はれて居らんからである或はあらはれて居ても

淺薄で猍小で卑俗で毫も人生に觸れて居

らんからであります50

富本は生涯にわたって職工と美術家を区別した

「たとえば絵具をこしらえるとかその絵具を巧くくっつ

けるとかきれいな色を出すとかいうのは職工の仕事で

すその絵具を使って立派なものを創作するのが美術

家の仕事であります51」こうした考えを富本に用意させ

ることになった出来事のひとつがひょっとするとこの

若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれないあ

るいは富本は漱石のいう「理想」をそのとき関心を抱

いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない

富本はその後漱石との面会の機会を得ることにな

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 14: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

47

るそのときの思い出を富本は京都市立美術大学

(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩

年に学生たちに語っている52富本が漱石を訪問し

た時期はいつだったのだろうかそしてそのときどの

ようなことが話題にのぼったのであろうか漱石はこ

の講演会の約半年前から毎週木曜日の午後三時か

ら「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し若

い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題

にした歓談を楽しんでいたしたがって漱石の講演

を聴いた富本がその感激を胸にただちに単身「木

曜会」に出席したという仮説も全く考えられないこと

ではないがそれを跡づける証拠はなく利用できる

周辺の資料から総合的に判断すると訪問の時期は

富本が『美術新報』に「ウイリアムモリスの話」を発表し

た一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが

妥当なように思われるもしそうであれば漱石と富本

の歓談は双方に共通するイギリス生活の話題からは

じまってモリスのことへと発展していった可能性もある

もっとも漱石自身は美術学校での講演の翌月に刊

行された東京帝国大学での講義の記録である『文學

論』のなかでは前任者のラフカディオハーン(小泉

八雲)と異なりモリスに関しては「Wm Morris」という

名前のみしか言及しておらずそれを考えるとモリス

についての関心はそれほど大きいものではなかったに

ちがいない53しかし富本を漱石に紹介したのは橋

口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされる

と同時に漱石に絵の個人指導をすることになる津田

青楓だったのではないかと推量されもしそれが正し

ければそうした装丁談義の文脈のなかにあってモリ

スが顔を出していた可能性もあるというのも漱石に

とっての二冊目の著書となる短編集『漾虚集』の装

丁にかかわって江藤淳が次のようなことを述べている

からである

扉と目次カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは

橋口五葉挿絵を描いたのは中村不折で漱石

はその出来栄えに大層満足であったいうまでも

なく『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたの

は漱石自身の意図で彼はこの本をその頃英国

でウィリアムモリスらによってさかんに試みられて

いたような文学と視覚芸術との交流の場にした

いと思っていたのである54

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は

実際にはモリスが亡くなってすでに一〇年が経った

時期でありしたがって「その頃英国でウィリアムモリ

スらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試

みられていた」とする江藤の指摘は内容は別にしても

時期については明らかに誤認なのではあるがしかし

江藤が述べているようにこのころからモリスの例に倣

って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば

そしてまたその翌年の講演の場所が美術学校であっ

たということを考慮に入れるならば確かにその形跡は

「文藝の哲學的基礎」には残されていないもののその

講演のなかでモリスの本づくりについて触れられること

が仮にあったとしても何ら不思議ではなかったしさら

にはその後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが

話題として登場していたとしてもそれはそれとしてこ

れもまたとくに不思議なことではなかったなぜならば

ちょうどその時期津田と同じく富本の関心も書籍装

丁の仕事へと向かいはじめており55漱石の関心と直

接つながるものだったからであるあるいはまた時期

が重なっていることを考え合わせると逆に漱石との

会話をとおして富本の書籍装丁への関心はこのとき

一段と高まったのかもしれない

7 東京勧業博覧会と処女作《ステインドグラス図案》

漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として

講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三

月二〇日から上野公園内に設けられた三つの会場

で東京府の主催による勧業博覧会が開催された漱石

は朝日新聞入社後の第一作としてこの年の六月か

ら『虞美人草』を連載しそのなかに夜のイルミネイシ

ョンに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入

れることになる一方富本にとってはこの博覧会が

いわゆる処女作の公開の場となった展示会場の「東

京勧業博覧會美術館は第一號館の東に位し面積

七百四坪あり工學士新家孝正氏の設計にしてロー

マンレナイサンス式の建築」であった56 【図6】「中央

より南半分を日本畫陳列場とし北半分の東を西洋畫

及圖案部西を彫刻物其他の陳列場57」に充てられた

したがってこのときの富本の出品作品である《ステー

ヘンドグラツス圖案》【図7】はこの美術館の北半分の

東側に陳列されたことになる

この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ第二

部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および

工芸図案)の監査はこのふたつの部門をとおして便

宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分け

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 15: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

48

て行なわれた全体としての監査数は一九九〇点

そのうち合格数は八四三点であり第一一科の建築図

案に限れば監査数合格数ともに五点で第一二科

に限れば監査数一九九点合格数は一四一点であ

った美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査

部長を務め第一一科の審査の主任を塚本靖が第

一二科の主任を福地復一が担当した58塚本は渡欧

のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで美

術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾

史」の嘱託教員を務めた人物で一方福地は「helliphellip

明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授

となったが校長岡倉覚三と対立して辞職し同三〇

年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ

helliphellip[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌

三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともにパリ

から持ち帰った美術品工芸品諸種の印刷物の展覧

会を開きアールヌーヴォーを紹介した」59 人物であ

ったもっとも富本の作品が何か賞を受けた形跡は

『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない

さてそれでは富本は出品作である《ステーヘンド

グラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか

後年富本は自分が美術学校時代に受けた教育を振

り返り次のように述懐している

helliphellip私は半年ほどのうちに入学はしたがいやにな

ったその気持ちを今から推して考えてみると教

える人がその実技を一度も経験したことのない図

案家という人でありその教えることが実技から遊

離浮動していたことが原因であったらしいhelliphellipそ

れで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60

この引用からもまたわかるように富本は学生時代

の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていたしたが

ってこの博覧会へ出品を決意したときも学外への出

品であったにもかかわらず製作へ向けての指導を教

師たちに仰ぐようなことはなく独力で完成させようとし

たのではないかと推測されるそこで富本は授業での

課題製作のときと同じような要領で何度も文庫に足を

運び自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい

図版を探し出すために必死に外国雑誌に目を通した

ものと思われるそして 終的に選択されたものが『ス

テューディオ』のなかのエドワードFストレインジの「リ

ヴァプール美術学校のニードルワーク」61 において使

用されていた図版【図8】と同じく『ステューディオ』の

なかのJテイラーの「グラスゴウの美術家デザイナー

――EAテイラーの仕事」62 において使用されていた

図版【図9】であったにちがいなかった前者の作品は

フローレンスレイヴァロックの《アップリケと刺繍による

ハンドスクリーン》である「ハンドスクリーン」とはう

ちわのことであり製作者はリヴァプール美術学校の女

子学生であった当時ロンドンにあった王立ニードル

ワーク学校を別にすれば地方にあってはこのニード

ルワークの分野では校長のFVバレッジの指導のも

とにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげて

いた後者の作品はEAテイラーの《ステインドグラ

スの窓のためのデザイン》である製作者のテイラーは

一八七四年の生まれでおそらくグラスゴウ美術学校

で学びCRマッキントシュの友人でもあった一九〇

一年のグラスゴウ国際博覧会ではグラスゴウの家具

製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ翌年

のトリノ博覧会では家具やステインドグラスを出品して

いる今日控え目で繊細な彼のデザインはマッキン

トシュの手法の完成版としてみなされている

富本はまず《アップリケと刺繍によるハンドスクリー

ン》の図版の上に紙を置き手前の女性を引き写し写

し取られた女性を《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加え

ていきさらに右上の余白にlsquoGATHER Ye ROSES

WHILE Ye MAYrsquoの文字列を二行に分けて配置するこ

とによって基本となる構図を完成させたのではないか

と考えられる次に富本はこのヴァースの意味にふさ

わしく女性の左手にバラの花をもたせ女性の身体

の律動的な動きにあわせて新たに孔雀らしき尾の長

い二羽の鳥を一体化させながらうら若き美しい乙女を

象徴する作品へとさらに全体と細部とを調整しステ

インドグラスにふさわしい 終的な図案をつくり上げて

いったものと思われる

明らかにこの作品に使用されているヴァースは一

七世紀に活躍したイギリスの詩人ロバートへリックの

韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用

でありその第一連は下に示すとおりである63

Gather ye rosebuds while ye may

Old Time is still a-flying

And this same flower that smiles to-day

To-morrow will be dying

(Robert Herrick ldquoTo the Virgins to Make Much

of Timerdquo)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 16: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

49

時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい

時はたえず流れ行き

今日ほほえんでいる花も

明日には枯れてしまうのだから

(へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)

ここでひとつの疑問が発生するそれでは富本は

どのようにしてヘリックの詩を見出したのであろうかお

そらく詩集なり書物なりを参照したと思われるがそれ

が何であったのかを特定することはできないしかし

EAテイラーの別の作品にステインドグラスの窓の

ための水彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよ

い》(寸法は一五七times一五八センチメートル製作年

についてはこの作品を所蔵しているグラスゴウ博物館

群のファイルには記載されていないが一九〇四年こ

ろと推定されている)【図10】がありそれにはバラの

花に囲まれた乙女の左右にlsquoGATHER YE ROSEBUDS

WHILE YE MAYrsquoのヴァースがふたつに分割され配

置されているこの作品は『ステューディオ』で紹介さ

れた形跡はなくもし富本がこの作品を別の外国雑誌

なり資料なりで見ていたとすればそこから引用した

可能性もある

富本の作品のなかに認められるこのヴァースについ

てさらに次の二点を指摘しておかなければならない

ひとつは原文のlsquoROSEBUDSrsquo(バラのつぼみ)から

lsquoBUDrsquo(つぼみ)が抜け落ち単にlsquoROSESrsquoとなってい

ることである富本にとって何か特別の意味があったの

かもしれないが表記上の単純なミスの可能性もある

あるいは予定していたスペースにうまく配置すること

ができなかったためにやむを得ず部分的な削除が

行なわれたのかもしれないもうひとつはlsquoWHILErsquoの

文字に関してであるそのなかのlsquoLErsquoの処理の仕方

つまりlsquoLrsquoのもっているスペースにlsquoErsquoを入れ込むような

手法はマッキントシュの手法として一般的によく知ら

れていたがマッキントシュだけに限らず文字に精通

しスペーシングを意識した人びとのあいだにあっても

当時広く見受けられた用法であった富本は『ステュ

ーディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われて

いたこうしたアルファベットの文字表現の細部に対し

てあるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾

向に対して注意深い視線を向けていたことになるそ

してそうした観察と影響はその後たとえば卒業製

作の作品のなかで使用される文字や英国留学を前に

してロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封

筒の表書き【図11】などにさらに引き継がれていくこと

になるのである64

いまひとつの疑問は乙女の前後に配置されている

二羽の鳥についてであるがこれを描くために富本が

典拠した図案は何だったのであろうかその鳥が孔雀

であればその当時ヨーロッパで流行していた代表的

な装飾モティーフのひとつであり一九〇〇年のパリ万

国博覧会以降美術学校のなかでもアールヌーヴォ

ーに対する熱気が漂っていた65 こととあわせて勘案す

ると意外にも身近なところにそのインスピレイションの

源はあったのかもしれないただ鳥の顔の表情に限

っていえばあたかも七世紀末期の『リンデスファーン

の福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描

かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿さ

せるような図案となっている

こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は他人

の作品から主たるインスピレイションを得てどうにか形

をなすことになったわけであるがしかしこの作品の

製作をとおして結果的に富本はその後の製作上の

伏線となるステインドグラスに対する関心作品の一

部に文字を使用する手法に対する興味そしてさらに

はうちわを利用した作品への共感といったものへの手

がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだ

ろかそれこそがあえていえばこの時期の富本にと

っての確かな成果となるものであった

8 英国留学への思い

この東京勧業博覧会にはマンドリンのサークルを

通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた《花

園》と題された小品で生い茂る草木に囲まれたふた

つの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図

12】この作品の出品に先立って南は自分のヨーロ

ッパ留学について思いを巡らせはじめていた岡本隆

寛によると「helliphellip[南は]美校時代の日記に卒業を間

近にひかえた明治三九年一二月に学友と一緒に正

木校長黒田清輝岩村透を訪ね留学先について相

談したことを記している66」したがってこの作品は留

学を控えた南の準備作品ともいえるものでここに描か

れている情景はすでにヨーロッパの片田舎に対する

南の憧れが反映されているのかもしれない博覧会の

会期は七月三一日までであったがもう夏休みに入っ

ていたのであろう南は安堵村の富本を訪ねている

「古びた北の六畳」67 でふたりは語り合った話題は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 17: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

50

ヨーロッパのこと美術の行く末そして帰国後の将来

などなどおそらく尽きることがなかったであろうそして

南は七月二四日横浜港から博多丸に乗り込みイ

ギリスへ向けて出航することになるのである残された

富本の胸の内はどのようなものであったであろうか

文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図

案学習手本として実作を示すことのない教師たち社

会主義への官憲による弾圧日露戦争後の凱旋に酔

いしれる国民いずれをとっても富本には不満だった

だろうそして何よりも中学校時代から関心を抱いて

いたウィリアムモリスの存在が気にかかっていた富本

の英国留学への関心もこうして徐々に高まっていった

ものと想像される

それに加えてすでに引用によって紹介したように

卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景と

して「徴兵の関係があったので」と富本は述べており

このことについても注意を払わなければならない

徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち

一八八三(明治一六)年の改正を経て一八八九(明

治二二)年には本格的な大改正が行なわれ一段と厳

しい国民皆兵制となっていたしかしこの改正徴兵令

にも若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)

は残されていた「第三章 免役延期及猶予」の第十

七条から第二十二条までがそれに相当する68特定の

階層に属する若者たちのあいだでみられたそうした

免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは

当時決してめずらしいことではなかったようであるたと

えば漱石は一八九二(明治二五)年に徴兵を避け

るために「分家届」を出し「北海道後志国岩内郡吹上

町一七 浅岡方」に籍を移し北海道平民になってい

る69また富本より二歳年上で一九二一(大正一〇)

年に文化学院を設立することになる西村伊作は日露

戦争時召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出す

と神戸からシンガポールへ渡航している70その後に

あっては一九一〇(明治四三)年に「大逆事件」に

関連して西村家は家宅捜索を受け叔父の大石誠之

助は翌年処刑されている富本一家が新宮の西村家

に約一箇月間滞在し交流を深めるのは一九一七

(大正六)年のことであった

本人が述懐しているとおり富本の心になかにも徴

兵を免れたいと思う気持ちがあったそしてこの理由が

外国留学を家族に説得するうえでの も有効な材料に

なったのではないだろうかさらにいえば「美術家とし

てのモリス」は別にしても「社会主義者としてのモリス」

を研究するという渡航目的はどう見ても家族に理解

してもらえるものではなかったであろうそのために

「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」もあえて伏せ

たうえで美術家の留学先として当時一般的であった

「フランス」を持ち出し家族の了解を得ようとしたので

はないだろうか富本が「フランスに行くとごまかしてイ

ギリスに行った」と述べていることにはおそらくそのよ

うな富本固有の事情が関係していたものと思われる

いずれにしてもどの国に行こうとも富本にとって海外

へ留学をするということと徴兵を逃れるということとは

表裏をなすものであったおそらく南薫造にもそのこ

とはあてはまったのではないだろうか

南が日本を立った夏以降富本も自分の英国留学

を真剣に考えるようになっていたしかし南と違って

教師たちに相談した形跡はないそしてついに自分

の思いを家族に切り出す時期が来たそれはその年

の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことで

あったそのときの帰省の主な目的は妹の問題を話し

合うためであったおそらく結婚の問題だったのでは

ないだろうか以下の複数箇所の引用はすべて一九

〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書

き送った長文の書簡からの抜粋である71

僕は此の冬妹の話や何かで歸国した火桶を囲

むで幾度相談したって話がマトマラヌかへって

問題外の僕の方が早くカタヅイた祖母存生中に

外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する

事をゆるされた

意外にもすんなりと留学の話は家族の同意を得る

ことができたよほどうれしかったのであろう思いは

すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ

何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコー

トとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と

手を握り合う事が出来るか

そして古い八畳間に寝転がり高い天井を見詰め

ているといまロンドンで南は何をしているのかが頭に

浮かぶそして続けて自分のロンドン生活について次

のような具体的な質問をしている

次の便でたづね度き事は(失礼なれど)

一ケ月何程の金かゝり候哉

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 18: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

51

建築図案を研究するに僕等の様なものに良き

方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)

細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え

後に富本はこの書簡を次の一首で締め括るので

ある

漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ

仲麻呂思ひ君思ふ夜や

こうして富本は英国留学の願いが叶い冬休みが

終わると再び上京し学校へもどることになったこの

書簡のなかには「夜だけ語学に費やす心算で拾一日

に東京へ上る」と記されている

9 『翠薫遺稿』の装丁

ちょうどこのころ富本は東京勧業博覧会へ出品した

《ステインドグラス図案》に続く学生時代の二作目と

なる製作に取り組んでいるそれは松村豊吉編集に

なる『翠薫遺稿』の装丁であった「翠薫すいたい

」とは遠山正

蔵の雅号で「今村勤三の慫慂を受け同[明治]三十

六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選県会議員と

して竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注

いだ72」文人肌の政治家であった

ところで富本憲吉の父の豊吉は一八九七(明治三

〇)年三月に死去し憲吉は一〇歳にして家督を継い

でいるそのとき憲吉の後見人として富本家から依頼

を受けた人物が遠山正蔵であった「この人は明治九

年(一八九六)生まれ憲吉より一〇歳年長だが当時

まだ二〇歳そこそこの青年である実をいうと彼も生後

間もなく父を亡くしており憲吉の父親豊吉がこの遠山

正蔵の後見人となって育てたいきさつがある73」

また富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校

に入学しているがそのときの教頭が水木要太郎で

あった水木家略年譜によると水木は一八八七(明

治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると幾つか

の学校の教員を歴任したのち三〇歳になる一八九五

(明治二八)年に奈良県尋常中学校(郡山中学校)の

教諭に着任し同年には奈良の地方史に関するふた

つの著作を著わしていた74水木は博学多才で多

芸多趣味の人であったらしくその周りには水木を慕

う若者たちが集まるようになった遠山はそれを「不得

要領會」と称し水木宛に会則を送っているがそのな

かでその会員として「岩井今村松村富本遠山」

の名前が挙げられている75

この『翠薫遺稿』は遠山が亡くなった一周年祭にあ

わせて水木との相談のうえで私家版として一九〇八

(明治四一)年一月に発行されたちょうど富本が海外

留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる

「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め

その装丁の仕事が会員でもあり美術学校の学生で

もあった富本に依頼されたものと思われる

この表紙のデザインが【図13】である編者の村松は

その「はしがき」の末尾にこの本の装丁にかかわって

四つの箇条書きを付け加えているそのなかでまず

「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ表

紙についての説明として「エジプト人は死に對して雄

大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫

するを選む」を書き記したうえで石工がいま彫ってい

るのが遠山氏の紋所でありその上の横列の文字が

「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説してい

る76富本はピラミッド内部の石室に想を得て横たわ

る死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻ん

でいる場面を図案化したものと思われるがすでに彫ら

れている「エジプト文字で遠山なる語」はどれほど正

確なものだったのであろうかこれについて山本茂雄

は次のように述べている

[大阪の]千里で大英博物館展を見る「ヒエログリ

フ入門」を館内売店で購入helliphellipこれによって長

年の宿題を解くことが出来た

宿題と云うのは[富本]憲吉先生の本の装丁

の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある

helliphellipエジプト文字が憲吉先生ので云う如く正し

く「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である

憲吉先生一流の洒落でそれらしくデタラメを並

べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた

結論的にはデタラメをではなかったが誤った表

記になっていたhelliphellip

しかし美術学校在学中の先生がエジプトに

強い関心を持ちヒエログリフの知識も聞きかじっ

ておられたことが想像できる77

確かに東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも

旺盛な文字への関心が見受けられたがこの作品では

アルファベットからエジプト文字へと関心が移りその

広がりを見せている一方でさらに想起しなければな

らないことは富本が美術学校を選択した動機がす

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 19: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

52

でに引用によって示したように「石彫りに心を動かし

自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」というこ

とであるこの作品のモティーフを見ると石を彫ること

への関心が入学以来持続していたようにも思われる

英国留学から帰国すると富本はさらに今度は焼き

物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことにな

るが「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じなが

らもこの間「彫る」ことへの関心が一貫して維持され

ていたと考えられなくもないまた書籍の装丁という意

味においてはすでに山本が指摘しているようにこの

作品が富本にとっての事実上の第一作となるもので

あったこの作品は木版画ではないしかしあえて推

量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば

土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と石を「彫

る」ことに類似して版木を「彫る」ことによって成立する

木版画とは方向性を異にする製作方法であるように

考えられるがそうした問題に対するおもしろさについ

てもこの作品の製作を発端として徐々に富本の造

形感覚のなかにあってこの時期萌芽しようとしてい

たのではないだろうか

さらにここで指摘されなければならないことはこの

作品が当時のヨーロッパ文化とは異なる別の文化

への関心を体現しているということである『ステューデ

ィオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れて

いた文化だけではなくそれ以外の文化に対しても

富本の目は確かに開かれておりその後にあっても持

続的に引き継がれていくそれを考えるとそうしたもう

ひとつの異文化への眼差しも同じくこの時期に富本

の視野のなかにあって芽生えはじめようとしていたと

いえるかもしれないそれにしてもどのようにして富本

は当時エジプト文字に関心をもつようになったのだろ

うかその経緯や理由はいまのところ謎のままとなっ

ているしさらにはその二年後に実際に富本がエジ

プトの地に足を踏み入れることになろうとはそのとき誰

が予想しえたであろうか

10 卒業製作《音楽家住宅設計図案》

おそらく富本はこの『翠薫遺稿』の仕事を終えると

予定どおり一月一一日に上京したであろう上京すると

夜は英語の勉強に費やしたものと思われるそうする

うちに夏休みも終わり卒業製作の時期を迎えた富

本の回想するところによると「私たちの美術学校時代

には卒業制作期というものがあったつまり卒業前年の

九月から翌年三月までは学科をやらず制作にかかり

きるわけであるhelliphellipそこで[図案科に属する]建築

部の私は夏休み家に帰るとさっそくアトリエ付き小

住宅の設計にかかり九月学校へ行って下図を先生

に見せた担任は岡田信一郎先生でhelliphellipこの先生

に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞く

と『よろしいちゃんと仕上げたら卒業させよう』とい

ってくれたこれをもとに私はだれよりも早くどんどん

制作を進めて行ったそして十月にはワットマン全紙

(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の

図面を描きあげたhelliphellip卒業制作を急いだのは実

はかねて私費で海外留学のもくろみがあったからで

ある78」こうして富本の卒業製作は人より早く卒業

を前にして完成した

この作品は東京藝術大学大学美術館で公表され

ている限りでは富本のいう「十何枚」から構成されて

いたのではなく家屋全体の外観が描かれた透視図

【図14】一階平面図(SHEET 2)【図15】二階平面図

(SHEET 3)【図16】四方向からのそれぞれの立面図

(SHEET 4-7)断面図(SHEET 8)【図17】そして詳

細図としての一階ホール(HALL)の窓に使用するス

テインドグラス案(SHEET 9)【図18】 の合計九点から

構成されておりそのすべてに英文で《DESIGN

FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記

載されている縮尺は一階平面図(SHEET 2)から断

面図(SHEET 8)までがすべて五〇分の一でステイン

ドグラス案(SHEET 9)が二分の一となっている間取

りの特徴として実際には富本のいう「アトリエ付き小

住宅」とは異なり一階の居間(DRAWING RM)に連

続させて舞台(STAGE)のついた音楽室(MUSIC

RM)が設けられていることを挙げることができるそし

てそれに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出す

ことができる一階ホールの玄関(PORCH)側壁面の

下部に暖炉(INGLE)が備えられているが断面図

(SHEET 8)をよく見ると音楽家の家にふさわしくこ

の暖炉の上部パネルにひとりの男性がマンドリンのよ

うな楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれてお

りこの壁面パネルに描かれた横に長い一枚の装飾

用の絵が富本の作品をさらに特徴づけているのであ

る【図19】

以上が簡単なこの作品の概要と特徴であるがさら

に個別に幾つかの点を指摘することができる

まずこの作品の表題についてであるこれまでこの

作品は《音楽家住宅》とか《音楽家住宅設計図案》

などと異なった幾つかの名称で呼ばれてきたおそら

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 20: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

53

くこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって

そのように呼ばれてきたものと思われるしかし富本

の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表

題しか書き残されていない富本の学年の卒業式は

富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日

に構内会議室において開催されあわせて成績品展

覧会が縦覧されたそのときの「卒業生姓名及卒業製

作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには

「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されて

いる79このことから判断すると渡航前に富本自らが

学校へ題目届を提出したのかその後の提出の時期

に誰かが代わりに提出したのかはわからないがいず

れにしても届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》

だったことになるしかし同じく『東京芸術大学百年

史』のなかに記されている図案科同期卒業生の寺尾

熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており

「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もありその場

合は《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことに

なるだろうし一方あくまでも作品のなかに記載されて

いる表題に忠実であろうとするならば《DESIGN FOR

A COTTAGE》がとくに英語で表記を行なおうとする

場合正式な作品名となるのではないだろうかまた

実際にこの作品が製作され完成したのは一九〇八

(明治四一)年の秋のことであった作品のなかに製作

年として「1909」の文字が認められるのは卒業式が行

なわれる実際の卒業年である翌年の西暦年をあらか

じめ書き記したものと思われる

次に検討しなければならないのはこの住宅が音楽

家のための住宅であったということである前述のとおり

富本はマンドリンのサークルに属していたおそらくそ

のことがこのテーマを選んだひとつの大きな理由だっ

たのではないだろうかすでに紹介したように富本は

「学校へはあまり顔を出さず年中下宿にとじこもって

マンドリンをひいてばかりいた」このことをここで想起

するならば暖炉の上部パネルに描かれた楽器を抱

えた一見孤独そうにも見える男性は富本その人を

表わしているのかもしれないとはいえこうした芸術家

の住宅をテーマにした設計は必ずしも富本個人のみ

に帰属するような特殊なものではなかった

この時期イギリスにあっては「田園への回帰」や「簡

素な生活」がとくに工芸家たちのあいだでひとつの生

活信条となっておりアーツアンドクラフツの新しい

実践形態になろうとしていたたとえば一八九三年に

はアーネストジムスンがバーンズリー兄弟とともにコ

ッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし

一九〇二年にはCRアシュビーの手工芸ギルド学

校が総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイ

ーストエンドからチッピングキャムデンへ移転し遅

れて一九〇七年にはエリックギルが自分の工房をロ

ンドンからディッチリングの村へと移動するのである

したがってこうした田園生活を愛する建築家や工

芸家たちの信条の高まりを受けて『ステューディオ』に

おいてもまた当時この種のテーマに関連する記事が

頻繁に掲載されることになるlsquoCottagersquo lsquoSuburban

Housersquo lsquoVillage Architecturersquo lsquoDomestic Architec-

ture rsquo lsquo Picturesque Cottage rsquo lsquo Country House rsquo

lsquoWeek-End Cottagersquo lsquoCountry Cottagersquoに関する記

事までをも含めるとその数は膨大なものになるが美的

な住宅や芸術家のための家に限定したとしてもたとえ

ばJBギブスンが執筆した「美的な住宅」80CFA

ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介

記事81さらにはMHベイリースコットの執筆による

「芸術家の家」82 などがこの雑誌のなかに散見され

おそらく富本もいつものように文庫に入り頻出するこ

うした記事と図面が掲載された頁をめくりながら参照

すべきものを食い入るようにして探し求めていたのでは

ないだろうか明らかに富本だけでなくイギリスの美術

やデザインの動向に関心をもつ当時の美術学校の多

くの学生たちにとってもこの『ステューディオ』が貴重

な情報源としての役割を果たしていたであろうし彼ら

はそれを栄養分として自らの製作に反映させていっ

たものと思われる

三番目に指摘されてよいのは一階平面図(SHEET

2)にみられる細部の表現についてである富本の一階

平面図を見ると樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯め

るために戸外に設置されたlsquoTANKrsquoの位置までもが正

確に描かれている平面図にこのことまでをも記載する

ことは当時は必ずしも絶対的必要要件ではなくむし

ろ例外的であったようであるそうであるとすればそれ

は旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語ってい

るのではないだろうかそれと同様のことが玄関から

入ったホール左手の暖炉についてもいえる暖炉を設

置すること自体は決してめずらしいことではなかったが

一般にはこれはlsquoFireplacersquoという名称で呼ばれて

いたようであるしあえて平面図のなかにその名称を

記入しなければならないものでもなかったらしいしか

し富本はそれをlsquoINGLErsquoとうい名称でもって表記して

いる正式にはlsquoINGLENOOKrsquoであろうがこの表記は

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 21: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

54

富本が幅広く英文資料を渉猟しそのなかから用例を

探し出し自分の作品に転用したものではないかと思

われる富本の細部に対する関心と注意力はこのよう

なところにもその痕跡をとどめていると見ることができ

るであろうこのlsquoINGLENOOKrsquoについては大沢三之

助が帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する

「ガーデンシチーに就て」という論文をとおしてその

後詳しく紹介することになる83

さらに四つ目として富本の作品にみられる文字の

表現についても若干ここで触れておきたい建物全

体のデザインはマッキントシュの影響の痕跡はほとん

ど認められずあえていうならばむしろベイリースコッ

トの作風に近いものを感じさせる一方この卒業製作

に表われている文字のデザインが全体としてマッキン

トシュの手法やレイモンドアンウィンやCFAヴォイ

ジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているよう

に思われることは富本が東京勧業博覧会に出品した

作品《ステインドグラス図案》を分析した際にすでに指

摘したがここでは個々の文字表現についてその特

徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う

ひとつの特徴は前述のとおり富本の卒業製作は

計九点の図面と図案から構成されているが一枚目の

透視図で外観が描かれた作品のなかの文字について

はカッパープレート体の文字が使用されており残り

の八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見るとSHEETナン

バーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使

用されている文字にはその当時の建築図面にしばし

ば見受けられるようなローマン体を変形してアウトライ

ン化した文字が用いられていることであるもうひとつの

特徴はこれは一例に過ぎないがlsquoDESIGNED

DRAWN BY KTOMIMOTOrsquo【図20】のなかのlsquoSrsquo

lsquoNrsquo lsquoErsquoに関する細部の文字があえていえばいわ

ゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることで

あるそして三番目の特徴として本来の部分には

lsquoANDrsquoないしはlsquoamprsquoが使われるべきところであるがこ

の箇所に富本独自のデザイン化された一種のモノグ

ラム(ないしはマークと呼ばれるもの)が挿入されてい

ることを挙げなければならないもっともモノグラムや

マークそれ自体については当時のひとつの流行でも

あり『ステューディオ』のなかにあっても紹介されてい

た経緯はあるしかしいずれにしてもこの九点から

構成される富本の卒業製作には多様な文字やモノ

グラムにかかわる習作が含まれており総じていえば

まさしく富本にとってこの卒業製作は文字デザイン

の実験の場ともなっているのである帰国後の富本の

作品にはしばしばアルファベットを含めて文字が

表現の重要な要素として用いられることになるが図

案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ

関心がすでにこの時期から芽生えていたといえるの

ではないだろうか

後に一階ホールの窓に用いることが想定されて

つくられたステインドグラス案(SHEET 9)について

いうまでもなくこの作品はステインドグラスのための

図案としては前作の《ステインドグラス図案》に続く

富本にとっての二作目にあたるしかし主題はもは

や人物から船へと変化している全体の透視図から判

断すると富本の作品にみられるこの一軒のコテッジ

は自然に恵まれたとあるイギリスの郊外か田舎の

美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に

建設されることが想定されているように見える一方

ステインドグラス案を見ると大海原を一杯に風を受

けて走る帆船がモティーフとして選ばれている大海

の帆船をモティーフにしたデザインはこの時期ウィ

リアムダモーガンのタイルにしばしば適応されている

しまた『ステューディオ』のなかにもそうした帆船に

想を得たステインドグラスのための図案が確かに認め

られるしかしそれはそれとして富本はこの作品を

とおして山と海を対比させようとしたのではないだろう

か論証を抜きにして連想を伴った自由な解釈がこ

こで許されるならば果たしてこうした一種の詩的な解

釈に妥当性があるかどうかは別にして具体的にいえ

ば設定されている敷地は富本の生まれ育った自然

の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられ

たかのように見えるし一方帆船はまさしくこれからイ

ギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた

荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのよう

にさえ思えてくる

それはそれとしてすでに引用により示したように

晩年に富本は自分の英国留学の目的について

「図案家で社会主義者のウィリアムモリスの思想に興

味をいだきモリスの実際の仕事を見たかった」一方で

「室内装飾を勉強することだった」と述懐しているおそ

らく卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前

作の《ステインドグラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実

製作をとおして「室内装飾」への関心が一段と高まり

このことが富本を英国にかりたてるひとつの誘因にな

ったものと思われる

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 22: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

55

11 ロンドンへの旅立ち

かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った

すでに本稿の冒頭で紹介したように富本が「普通の

美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは当時ロ

ンドンには南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生としておられ

たので指導してもらうに好都合のため」であったそれ

では美術学校時代から深い友情で結ばれていた南

薫造は別にするとここに名前が挙がっている白滝幾

之助石橋和訓大沢三之助の三人は富本が日本

を離れる時点までにあってどのようなかたちでロンドン

の地に足を踏み入れていたのであろうか

富本より一三歳年上の白滝は美術学校卒業から

数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に渡米の

途についているそして自らが出品していたセントル

イス万国博覧会を見学するとニューヨークへ移りそ

こで苦学しながら絵の勉強を行なうイギリスに渡るの

は一九〇六(明治三九)年の秋のことでありその後

パリにおいて画業に励み再びロンドンにもどるのが

一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったこの

とき白滝は一時高村光太郎と同宿しているがここから

白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる石

橋は美術学校の卒業生ではない富本よりちょうど一

〇歳年長で富本が美術学校に入る前年の一九〇三

(明治三六)年に渡英している南は一九〇七(明治四

〇)年九月にロンドンに着いているので石橋と南の交

流もそれ以降のこととなる石橋は文部省主催の美

術展覧会であるいわゆる「文展」に一九〇八(明治四

一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している一方

大沢は一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の

途に上ると同年三月に渡英し翌年八月にはロンド

ンで開催された第三回万国美術会議に出席している

したがって南の到着以前にすでに大沢はロンドンに

いたことになる

以上が富本が渡英する以前の白滝石橋大沢

の足取りであるこれから判断すると白滝と石橋に

ついては渡航する以前から日本で富本が面識をも

っていたのかどうかは疑わしくロンドンに着いてはじ

めて会った可能性の方が高い大沢についても富

本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残

されておらず大沢がロンドンにいることは南からの

書簡で聞かされていたかもしれないがしかしそれ

もよくわからないそのように考えると南を別にすれ

ば「当時ロンドンには南薫造白滝幾之助石橋和

訓のような先輩がい大沢三之助先生が文部省留学

生としておられたので指導してもらうに好都合のた

め」という富本の回顧談に出てくる人間関係について

の記述内容は出発の時点で十分に富本に掌握さ

れていた事柄ではなく実際にはロンドン到着以降

に結果的に生じた人間関係のように思われてくるも

しそのことが正しければ渡英に先立ち富本が本当

に頼りにしていた人間は南薫造ただひとりだったと

いうことになる

いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた

一九〇八(明治四一)年一一月一六日に友人たちが

集まり富本を送る別れの宴が開かれた席上ロンドン

にいる南に宛て全員で似顔絵つきの寄せ書きをして

いる以下はそのときの富本の文章である

拾一月拾六日

此週土曜にいよいよ東京をたつと云うのでアチラ

でも酒コチラでも馳走大モテ昨年君がやつた

通りの事を繰りかえして居る

今日森田蒲生井上寺尾僕五人相會して

豚を喰ふ 談ハナシ

が君の事に及むだ皆君の知って

居る人だ

サヨナラ84

このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」

といっているが残念ながら正確にはいつ横浜なり

神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すこと

はできない85したがってシベリア鉄道を使った陸路

だった可能性も全くないわけではないいずれにして

もこうしてこの時期つまり一九〇八(明治四一)年

の一一月末か場合によってはその翌月に富本は

「美術家であり社会主義者であるウイリアムモリスの

仕事に接したい」という思いを胸に秘め無二の親友

であった南薫造を頼りにロンドンに向けて旅立って

いったのであった

結論

富本自身が自らの英国留学に触れた文書記録とし

て以下の三点が残されている年代順に列挙すれば

初のものは富本が「重要無形文化財保持者」い

わゆる「人間国宝」に認定されたのを受けて文化庁によ

って編集された『色絵磁器〈富本憲吉〉』所収の「自伝」

のなかに認めることができる出版されたのは富本の

死去以降の一九六九(昭和四四)年であるが一九五

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 23: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

56

六(昭和三一)年にすでに口述されていたその箇所

を再びここに引用する

徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描

き卒業を目の前に控えて一九〇九ママ

年十ママ

月にイ

ギリスに私費で留学しました普通の美術家と違

い留学地をロンドンに選んだのは当時ロンドン

には南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先

輩がい大沢三之助先生が文部省留学生として

おられたので指導してもらうに好都合のためで

ありましたが実はそれよりも美術家であり社会

主義者であるウイリアムモリスの仕事に接したい

ためでした

次に一九六一(昭和三六)年に「作陶五十年展」

を記念して座談会が開催されその記録が『民芸手

帖』に掲載されているがそのなかで富本は質問に答

えるかたちで留学以前における自分のモリス研究の様

子に触れているこれが二番目に相当するもので以

下に再度紹介する

私は友達に中央公論の嶋中雄三マ マ

がおり嶋中

がしよママ

つママ

ちゆママ

うそういう[モリスに関する]ことを研究

していたし私も中学時代に平民新聞なんか読ん

でいたそれにモリスのものは美術学校時代に知

っていたしそこへもつママ

てきていちばん親しかつママ

南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行

くとごまかしてイギリスに行った

後は一九六二(昭和三七)年の日本経済新聞に

掲載された「私の履歴書」のなかにみられる言及で富

本は自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧し

ているこれもここに再度引用しておきたい

留学の目的は室内装飾を勉強することだった

フランスを選ばずロンドンをめざしたのは当時

ロンドンには南薫造白滝幾之助高村光太郎と

いった先輩友人たちがいたからでもあるがもう

一つ在学中に読んだ本から英国の画家フィマ マ

ラーや図案家で社会主義者のウィリアムモリスの

思想に興味をいだきモリスの実際の仕事を見た

かったからでもある

以上の三点が富本自身による自分の英国留学に

ついて回想した文書記録のすべてである

ここでまず問題にされなければならないのはこの

文書記録の信頼性である本稿においてもすでに言

及しているがこのなかには富本の記憶違いや勘

違いが幾つか含まれているたとえば渡航の年月に

ついては「一九〇九年十月」と記されているが実

際には一九〇八年一一月末(一二月だった可能性も

ある)だったし「中央公論の嶋中雄三」については

事実は中央公論社に入社するのは兄の雄三では

なく弟の雄作であったさらには「当時ロンドンに

は南薫造白滝幾之助石橋和訓のような先輩がい

大沢三之助先生が文部省留学生としておられた」と

富本は述懐しているが南を別にすれば「高村光太

郎」を含め彼らの消息について渡航以前の時点で富

本が正確に把握していたかどうかは疑問の残るところ

であり原稿執筆の際にロンドン滞在時の体験をも

とに結果としてこうした人間関係を跡づけたものと考

えられる同様に「フィスラー」(現在における一般的

表記は「ホイッスラー」)についても富本が美術学校

時代にとくに強い関心をもっていた形跡は見当たら

ず富本の記憶違いであった可能性の方が高いよう

に思われる86

現時点で利用可能な資料を正確に用いながら上

記三点の文書記録の記述内容を精査しそうした記憶

違いや勘違いを取り除いたうえで富本の英国留学の

経緯を再構成するとおおよそ次のようになる

郡山中学校時代に友人の嶋中雄作を通じてウィリア

ムモリスを知り自らも『平民新聞』を読み東京美術

学校に入学してからはモリスのものを知るとともに読

んだ本からモリスの思想に興味を抱くようになりまた

一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあっ

て徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると一

九〇八年一一月末ころに室内装飾を学ぶとともに

美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事

に触れるために私費で英国に留学をした

これが誤謬や重複を排除したうえで英国留学に

関して富本自身が語っている三つの回顧談を総合的

にまとめたものであるそして同時にこれが本稿執

筆における前提となる部分でもあった果たしてこの

ような前提を構成する個々の内容はどのような事実

関係において全体として成り立っていたのであろうか

そうした英国留学以前にあっての富本のモリスへの

関心形成の過程についての実態を明確化することが

「はじめに」においてすでに述べているように本稿の

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 24: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

57

主たる目的となるものであったそのために以下の

諸点について実証的な手法により考察と検討を加え

結果として幾つかの点についてその実態を明らか

にすることができたがそれ以外の点については示

唆ないしは言及するにとどまることになった

第一に富本が週刊『平民新聞』から得たモリスに

関する知見は村井知至の『社會主義』のなかのモリス

に関する部分を転載した「社會主義の詩人 ウヰリアム

モリス」という表題がつけられた第四号の記事と第八

号から第二三号にかけて部分的に訳載されたモリスの

「理想郷」(今日にあっては一般には「ユートピア便り」

という名称で呼ばれている)であり美術学校の文庫で

閲覧できたと思われるモリス関連の作品の図版は『ス

テューディオ』に限っていえば数にして 大二八点で

あったことを明らかにした

第二にこれだけでは「美術家であり社会主義者

であるウイリアムモリスの仕事に接したいため」に英国

留学を決意した根拠としては必ずしも十分なものであ

るとは断定しがたいため富本のいう「在学中に読ん

だ本」がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼

の芸術彼の著作および彼の公的生活』「ウィリアム

モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠た

ち』および「パタンデザイニングの歴史」と「生活の

小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催によ

る芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであった

かそのうちの一冊か二冊だったかの可能性が現

時点で残されていることについて言及したうえでそれ

らの本を読むことによっておそらく富本のイギリス留学

の主要な動機が決定づけられたことを示唆した

第三にモリスに関する知見を富本に授け英国留

学にかりたてた教師たちについてこれまで具体的な

名前を挙げて何人かの研究者によって指摘されてきた

がどの教師についてもそのような形跡はほとんど見

当たらずまた授業や学習方法そのものについても

富本は強い不満を感じていたことを明らかにした

第四に当時の富本の政治的信条にかかわって

日露戦争という背景のもとに軍人や官僚に向けられた

反感のありようを紹介するとともに他方で夏目漱石

の講演がその後の富本の美術に対するひとつの立

脚点を提供しえた可能性について示唆した

第五に学生時代の三つの作品である東京勧業

博覧会への出品作《ステインドグラス図案》『翠薫遺

稿』の装丁および卒業製作《音楽家住宅設計図案》

について分析を行ない可能な限り個々の作品の成り

立ちとインスピレイションの源を明らかにしあわせて

それらの作品にみられる特質とりわけステインドグ

ラスへの関心文字表現に対する興味彫ることやうち

わへの愛着さらにはもうひとつの別の異文化への眼

差しなどが総じてこの時期の富本に萌芽しつつあっ

たことを指摘したさらにそれに関連してこうした一

連の実製作をとおして富本の「室内装飾」への関心

は一段と高まりこのことが英国留学へ向けてのひと

つの誘因となったことを示唆した

そして 後に六番目として南薫造との友情の形成

過程と富本の英国留学にかかわる南の役割について

明らかにするとともに富本のような若者たちを当時取

り巻いていた徴兵制についても言及した

以上のような考察の結果により留学以前にあってど

のようにして富本は美術家であり社会主義者であった

モリスに強い関心を抱くようになり英国への留学を決

意したのかそのプロセスの一部がある程度まで明らか

になったものと思われる今後富本のロンドン時代つ

いてはしたがって本稿での考察の結果を踏まえな

がらその実態がさらに解明されていかなければならな

いそれは次の課題として引き継がれていくことにな

るであろう

本稿執筆にあたり貴重な助言と資料を与えていた

だきました富本憲吉記念館の副館長で富本研究家

でもある山本茂雄さんに心からお礼申し上げます同

様にモリス関連の図書の購入調査を行なっていただ

きました東京芸術大学附属図書館にも特別の謝意を

表しますまた本稿は多くの友人に支えられながら完

成しましたお一人おひとりのお名前をここに挙げるこ

とは差し控えますがいただきました友情に深く感謝し

ますそして 後に所蔵作品ないしは所蔵資料の図

版を本稿に使用することを快く許可していただきました

富本憲吉記念館グラスゴウシティーカウンシル(博

物館群)[Glasgow City Council (Museums)]東京藝術

大学大学美術館さらには個人所蔵家ならびに仲介の

労をとっていただきました広島県立美術館のそれぞれ

の関係者のみなさまに対しましてもこの場を借りて

お礼を申し上げます

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 25: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

58

表1 『ステューディオ』 (1893-1908年) におけるウィリアムモリス関連の作品図版

図版掲載記事 lsquoArtistic Houses By J S Gibson FRIBArsquo The Studio Vol 1 No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 214-226

図版キャプション [1] The Entrance Hall Stanmore Decorated by Messrs William Morris and Co [2] A Settle by Messrs W Morris and Co in the Old Swan House Chelsea [3] The Staircase Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [4] A Vestibule at Stanmore Hall Messrs W Morris and Co [5] The Dining-Room Stanmore Hall Messrs W Morris and Co

図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Arts and Crafts Exhibition Society at the New Gallery 1893rsquo The Studio Vol 2 No 7 October 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 2-27

図版キャプション [1] Arras Tapestry Designed by William Morris Executed by Morris amp Co 図版掲載記事 Aymer Vallance lsquoThe Revival of Tapestry-Weaving An Interview with Mr William Morrisrsquo The

Studio Vol 3 No 16 July 1894 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-101 Ⅲ

図版キャプション [1] A Morris Tapestry Designed by Sir E Burne-Jones BT for Stanmore Hall [2] A Tapestry Panel by Morris amp Co

図版掲載記事 G W lsquoThe Manchester Arts and Crafts Second Exhibitionrsquo The Studio Vol 5 No 28 July 1895 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 128-140

図版キャプション [1] Inlaid Piano-Case Morris and Co [2] Top of Piano-Case Morris and Co [3] Arras Tapestry ldquoSalisbury Angelsrdquo Designed by Sir E Burne-Jones BT Executed by Messrs Morris amp Co

図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition 1896 (Third Notice)rsquo The Studio Vol 9 No 45 December 1896 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 189-205

図版キャプション [1] Embroidery in Filoselle on Silk Designed by Messrs Morris and Co Executed by Flora J Hayman

図版掲載記事 lsquoReviews of Recent Publicationsrsquo The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 200-208

図版キャプション [1] Silk Embroidery ldquoThe Flower Potrdquo from ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons) [2] Arras Tapestry ldquoFlorardquo by Morris and Co the Figure by Sir Edward Burne-Jones From ldquoWil-liam Morrisrdquo (Bell and Sons) [3] Arras Tapestry (Morris and Co) at Stanmore Hall from a Design by Sir E Burne-Jones From ldquoWilliam Morrisrdquo (Bell and Sons)

図版掲載記事 lsquoThe Cupid and Psyche Frieze by Sir Edward Burne-Jones at No 1 Palace Greenrsquo The Studio Vol 15 No 67 October 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 3-13

図版キャプション [1] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South-West Corner) [2] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (North Wall) [3] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South Wall) [4] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (West Wall) [5] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (South and West Walls) [6] The Cupid and Psyche Frieze at No 1 Palace Green (East Wall)

図版掲載記事 lsquoThe Arras Tapestries of the San Graal at Stanmore Hallrsquo The Studio Vol 15 No 68 November 1898 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 98-104

図版キャプション [1] Arras Tapestry at Stanmore Hall [2] Arras Tapestry at Stanmore Hall [3] Arras Tapestry at Stanmore Hall [4] Arras Tapestry at Stanmore Hall [5] Arras Tapestry at Stanmore Hall

図版掲載記事 lsquoGarden-Making By Edward S Priorrsquo The Studio Vol 21 No 91 October 1900 Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 28-36

図版キャプション [1] Example of Orchard Garden Originally Laid Out by William Morris 図版掲載記事 lsquoThe Arts and Crafts Exhibition at the Grafton Gallery Second Noticersquo The Studio Vol 37 No

156 March 1906 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp 129-144 Ⅹ

図版キャプション [1] Pendant and Chain ldquoBriar Roserdquo by Margaret Awdry and WM Morris (2006年9月 橋本啓子作成)

(注1)図版が掲載されている記事は必ずしもモリス作品を主題としたものとは限らない

(注2)図版にはモリスのデザインやモリス商会の製造品だけではなく室内の一部にそれらが使用された施工例等も含まれている

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 26: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

59

図1 戦前昭和期までのモリス受容の統計グラフ

図2 澁江保 『英國文學史全』の表紙

図3 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリア

ムモリス」

図4 『理想郷』の目次と原著者ウィリアムモリスの肖像

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 27: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

60

図5 水木要太郎宛の富本憲吉自製絵はがき(富本憲吉

記念館所蔵)

図6 新家孝正の設計による東京勧業博覧会美術館の外観

図7 東京勧業博覧会への富本憲吉の出品作《ステーヘン

ドグラツス圖案》

図8 Fレイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド

スクリーン》

図9 EAテイラーの《ステインドグラスの窓のためのデ

ザイン》

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 28: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

61

図10 EAテイラーのステインドグラスの窓のための水

彩画《時のある間ま

にバラのつぼみを摘むがよい》(グラスゴ

ウシティーカウンシル博物館群所蔵)

Fig 10 E A Taylorrsquos Gather ye rosebuds while ye may

a watercolour for a stained glass window Glasgow City

Council (Museums)

図11 明治44年11月16日付南薫造宛富本憲吉書簡の封

筒表書き(個人所蔵)

図12 東京勧業博覧会への南薫造の出品作《花園》

図13 富本憲吉による松村豊吉編『翠薫遺稿』の表紙デザ

イン(富本憲吉記念館所蔵)

図14 《音楽家住宅設計図案》(学生制作品3283)の外観

透視図(東京藝術大学所蔵)

図15 《音楽家住宅設計図案》の1階平面図(SHEET 2)

(東京藝術大学所蔵)

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 29: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

62

図16 《音楽家住宅設計図案》の2階平面図(SHEET 3)

(東京藝術大学所蔵)

図17 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)(東京

藝術大学所蔵)

図18 《音楽家住宅設計図案》のステインドグラス案

(SHEET 9)(東京藝術大学所蔵)

図19 《音楽家住宅設計図案》の断面図(SHEET 8)の部分

(東京藝術大学所蔵)

図20 「SHEET 2」から「SHEET 9」のなかの製作者名の文

字表現(東京藝術大学所蔵)

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 30: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

63

図版出典

図 1 富田文雄 「文獻より見たる日本に於けるモリス」 『モリ

ス記念論集』 川瀬日進堂書店1934年202頁

図 2 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年

図 3 『平民新聞』第4号1903(明治36)年12月6日(『週

刊平民新聞』 近代史研究所叢刊1湖北社1982

年33頁)

図 4 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民

社1904年

図 5 13 富本憲吉記念館のご好意により複製

図 6 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵

図 7 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「圖案之部」

77頁

図 8 The Studio Vol 33 No 140 November 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 151

図 9 The Studio Vol 33 No 141 December 1904 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1997 p 223

図10 グラスゴウシティーカウンシル(博物館群)のご好意

により複製

Fig 10 Reproduction by Courtesy of Glasgow City Council

(Museums)

図11 個人所蔵家のご好意により複製

図12 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の「西洋畫之部」

の71頁

図14-20 東京藝術大学大学美術館のご好意により複製

1 富本憲吉 「ウイリアムモリスの話(上)」 『美術新報』

第11巻第4号1912年14-20頁および富本憲吉

「ウイリアムモリスの話(下)」 『美術新報』 第11巻第5

号1912年22-27頁

この評伝「ウイリアムモリスの話」のおおかたの骨子

がエイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』を底本とする翻訳とし

て成り立っていることについては以下の拙論におい

てすでに論証した

中山修一 「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再

読する」 『表現文化研究』第5巻第1号神戸大学表現

文化研究会2005年31-55頁

2 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記

録工芸技術編1)第一法規1969年72頁口述された

のは1956年

3 富田文雄 「文獻から見たる日本に於けるモリス」

『モリス記 念 論 集 』 川 瀬 日 進 堂 書 店 1934年

196-197頁

4 牧野和春品川力(補遺) 「日本におけるウィリアム

モリス文献」 『みすず』第18巻第11号みすず書房

1976年33および39頁

5 澁江保 『英國文學史全』 博文舘1891年218頁

6 『帝國文學』第2巻第12号帝國文學會1896年

88-89頁

7 上田敏 「『前ラファエル社』及び近年の詩人」 『太陽』

第6巻第8号臨時増刊「一九世紀」博文舘1900年

180頁

8 村井知至 『社會主義』(第3版) 労働新聞社1903

年43-44頁

なお本稿において使用したのは1903年刊行の第

3版であるが『社會主義』はこの第3版をもって発行

禁止になったようである1899年に刊行された初版は

以下の書物において復刻所収されている『社会主

義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集

第Ⅳ期 キリスト教と社会国家篇)日本図書センター

2004年

9 日本近代史研究会編 『画報 日本の近代の歴史 6』

三省堂1979年136-137頁

10 この記事は二重かぎ括弧で括られており記事のあと

に次のような注釈が加えられている

「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主

義』中に記せし所を摘載せしもの也以てウヰリアム

モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」

(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社

1982年33頁)

11 ヰリアムモリス原著 『理想郷』 堺枯川抄譯平民社

1904年

そのなかの広告文で『理想郷』についてはベラミ

ーの『百年後の新社會』と比較して次のように書か

れている

「此書は英國井リアムモリス氏の名著『ニュース

フロムノーホエア』を抄譯したるものであります[同

じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は

經濟的で組織的で社會主義的でありますがモリ

スの『理想郷』は詩的で美的で無政府主義的であ

ります此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣

として我等の眼前に浮かぶであらう卅七年一二月

初版二千部發行」

12 富本憲吉式場隆三郎對島好武中村精座談会

「富本憲吉の五十年」 『民芸手帖』39号1961年8月

6頁

13 嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下

のとおりである

「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた畝傍

中學を經て早稻田大學哲學科に學びこの年[大正元

年]の九月卒業したばかりである學生時代には島村

抱月にもつとも傾倒ししたがって自然主義文學運動

には深い興味を有つていたごとくであつた當時聲名

高かつた中央公論社であつたから大きな期待をもつ

て入社したのであるが入つてみるとその組織は家内

企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた

helliphellip明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は

いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが大

正期に入ると澎湃として個人主義思想が擡頭してき

た特に婦人問題が重視せられて婦人の自覺と解放

が叫ばれたこれに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥

などの『靑鞜社』の運動であった嶋中はこの動きに注

視し[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して

『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめてこれを『婦

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 31: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

64

人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)」

(『中央公論社七〇年史』 中央公論社1955年

13‐14頁)

14 『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新

聞直接讀者統計表」には読者数が府県別に掲載さ

れておりそれによると富本憲吉が暮らしていた奈良

県は「八」と記されているそしてこの統計表には「右

は直接の讀者のみですこの直接讀者に約二倍せる

各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本

社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられて

いるこれから判断すると奈良県は直接の読者が8

名売捌所を通じての読者が約16名合計約24名とい

うことになる(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1

湖北社1982年283頁)

15 『私の履歴書』(文化人6) 日本経済新聞社1983

年191頁[初出は1962年2月に日本経済新聞に

掲載]

16 東京美術学校は1900(明治33)年に入学規定を改正

し新たに仮入学制度を設け翌年から実施している

「仮入学制度は明治二十五年以来本校入学志

願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを

課してきたところが実技力不足で不合格となる例が

多かったのでその救済措置として設けられたもので

希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中

学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書

を添えて願書を提出し許可された者は四月中旬よ

り約三ケ月間毛筆画と木炭画彫塑の実技授業を受

けたのちに実技試験を受け合格者は九月の新学

期より予備の課程へ入学することとなった」(『東京

芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』 ぎょう

せい1992年76頁)

富本の仮入学に関していえば1904(明治37)年4月

の仮入学生は公立中学校卒業生70名府県知事の

推薦による師範学校卒業生7名香川県工芸学校卒

業生2名の計79名であった同年9月富本は同学校

の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている

(同書250および262頁を参照)

なお同書(166-167頁)によると「本校における授

業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二

月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至

明治三十六年』においてでありそれ以前にはこのよう

な記録は無い以下その全文を掲載する」としたうえ

で「各科授業要旨」には「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ

卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との修業

年限についての記述があり「豫備ノ課程」については

「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科西洋畫科圖按

科漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科彫金科鍛金

科鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志

望科ノ實技ヲ乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科

ノ實技ヲ各其_室ニ就キテ學修セシム」と規定されてい

るそして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リ

テ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言

が添えられている

以上の記述内容を総合すると富本が在籍していた

当時の東京美術学校の教育課程にあっては学生は

初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし「假入

學及競爭試験に合格」した者が9月に正規の新入学

生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思わ

れる)へ迎えられその後志望する各科での専門科

目の学習を3年経たうえで本科4年目の 終学年で

卒業製作に取り組んでいたものと思われる修業年限

は5年であった富本が籍を置いた科は「圖按科」で

あったが「豫備ノ課程」の在籍中から志望する「圖按

科」の実技を一部受講していたものと思われる

17 富本憲吉 「記憶より」 『藝美』1年4号1914年8頁

18 大井健地 「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講

義(上)」 『研究紀要』第1号広島県立美術館

1994年1頁

19 高村豊周 『自画像』 中央公論美術出版1968年

93頁

20 宮崎隆旨 「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」

『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵金銀彩の

世界』(同名展覧会カタログ) 奈良県立美術館

1992年11頁

21 『私の履歴書』(文化人6)前掲書193頁

22 南薫造 「岩村先生追想」 『美術』第1巻第11号1917

年20-21頁

23 同文20頁

24 岩村透 『美術と社會』(趣味叢書第十二篇) 趣味叢

書発行所1915年

なお本書の巻頭に所収されている「ウイリアムモリ

スと趣味的社會主義」が脱稿されたのは1915(大正

4)年11月(同書37頁を参照)

25 小野二郎 「《レッドハウス》異聞」 『牧神』第12号

1978年80頁

26 Arthur Compton-Rickett William Morris Poet

Craftsman Social Reformer A Study in Personality E

P Dutton and Company New York MCMXIII (1913)

27 富本憲吉が美術学校の学生であったころに「富本が

岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけら

れた」という従来の通説には必ずしも根拠があるわけ

ではないことについては以下の拙論においてすでに

論証した

中山修一 「岩村透の『ウイリアムモリスと趣味的社

會主義』を再読する」 『デザイン史学』第4号デザイ

ン史学研究会2006年63-79頁

28 渡辺俊夫菊池裕子 「ラスキンと日本――1890-1940

年自然の美生活の美」 水沢勉訳渡辺俊夫監修

『自然の美生活の美――ジョンラスキンと近代日本

展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature for Art Art for

Life)』(同名展覧会カタログ) 自然の美生活の美展

実行委員会1997年88頁

29 大沢三之助の略歴を記述するに際しては主として下

記の二著を参照した齟齬がみられる箇所については

前後の関係に照らしてより信頼性のあると思われる方

を優先して採用した

『復刻大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 ア

テネ書房2004年140-141頁なお本書は『大日本

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 32: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

65

博士録 第五巻』(發展社出版部1930年)を復刻した

ものである

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二

巻』 ぎょうせい1992年26196256315362お

よび404頁

30 松原龍一 「富本憲吉の軌跡」 『富本憲吉展』(京

都国立近代美術館朝日新聞編集の同名展覧会カ

タログ) 朝日新聞社2006年13頁

ただしこの論文には注が存在せずまた本文

中で「[富本は]美術学校では大沢や岡田からウィリ

アムモリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述さ

れている箇所の前後においてもそれを根拠づける

説明はなされていない

また山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」にお

いて富本とモリスに関連して当時の東京美術学校

の教師たちについて言及しているがこの論文も上

で挙げた松原論文と同じく注が存在せずまた本

文中の言及箇所の前後にあってもそれを実証する

にふさわしい論述がなされていないのでそれを手が

かりに言及されている内容の妥当性を再検証する

ことは困難になっているそこで富本とモリスを巡っ

ての当時の教師たちに関する 近の論稿のもうひと

つの事例として以下にその当該箇所を引用するに

とどめておきたい

「美術学校でも[東京帝国大学の]建てる教育より

も一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られ

ていたものと思われるhelliphellip[富本憲吉が美術学校

に入学した]明治37年当時すでに『美的教養の思

想』はラスキン等の哲学的思想家を中心にして日

本では語られていた富本もまた当然その環境のな

かにいた東京帝国大学ではなく東京美術学校だ

ということはより積極的にそれらを知る環境にあった

ということでもあるそこで自ずとラスキン流の総合

芸術としての建築を知り生活空間をも思慮に入れ

たデザイン空間ということを自然体で学んでいたに

ちがいないやがてモリスを受け入れる準備はここ

でできていたものと思われる当時東京美術学校に

はそうした教養を与えるに足る[西洋画の]和田英

作[西洋画の]岡田三郎助[西洋美術史の]岩村

透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸

いだった」(山田俊幸 「富本憲吉のデザイン空間」

『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ松

下電工汐留ミュージアム2006年10頁)

なお日本におけるジョンラスキンの受容過程につ

いは以下の書物において詳しく論じられている

渡辺俊夫監修 『自然の美生活の美――ジョンラス

キンと近代日本展(Ruskin in Japan 1890-1940 Nature

for Art Art for Life)』前掲書

31 「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関

野貞ほか」藤井正一郎山口廣編著 『日本建築宣

言文』 彰国社1973年33-48頁および岡田信一

郎 「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」 『建築

雜誌』282号1910年278-283頁

32 岡田信一郎 「建築と現代思潮」 『建築雜誌』280号

1910年183-197頁

33 高村豊周前掲書151頁

34 たとえば西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対し

ては1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡

において富本憲吉はこう酷評している

「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は

実に嬉しい特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテ

イフな繪に對する感想が気に入ったアノ文章は美

術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術

の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教

科書にしたい様な気がする」(『南薫造宛富本憲吉

書簡集』(大和美術史料第3集) 奈良県立美術館

1999年39頁)

また図案科の「教授」についても1911(明治44)年

1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において次

のように心の内をさらけ出している

「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木

造建築全部灰となった原因は今未だ解らないが僕等

が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は

焼けた外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あ

るのに敬愛すべき建築物が先きへママ

焼けて厭やな奴は

世にハビコルアゝ――」(同書12頁)

なおこの時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇

田実嘱託は岡田信一郎と関野貞であった具体的に

名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は

その後の南薫造宛富本書簡にも認められる(同書

1633および41頁を参照)

ただしこの時期に富本がどうしてこれほどまでに美

術学校時代の教師たちに批判的であったのかその

理由や内容を示す明確な資料は残されていないした

がって書簡にみられる表現を真意から離れた富

本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリック

として解釈する可能性の余地が全くないわけではない

しかしそうした解釈の含みがわずかに残されているに

しても彼らに対して富本がたとえ恩師といえども少

なくとも当時決して好感をもっていなかったことだけは

上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に

明らかであろう

35 富本憲吉 「記憶より」前掲文9-10頁

36 同文10頁

37 同文同頁

38 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書236頁

39 たとえば次の箇所で富本憲吉は『ステューディオ』

について言及している

「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた矢張り第

一に[バーナード]リーチのものを見る今の自分とは

遠い氣がする恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時

には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ

リーチは矢張り英國人だった」(富本憲吉 『窯辺雜

記』 生活文化研究會1925年116頁)

40 『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1湖北社1982

年517頁

41 南薫造 「私信徃復」 『白樺』 1912年1月65-68頁

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

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『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

66

42 尾竹紅吉 「藝娼妓の群に對して」 『中央公論』1月号

1913年186-189頁

43 『毎日グラフ』4月25日号毎日新聞社1982年7頁

44 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書309315および333頁

45 Aymer Vallance William Morris His Art his Writings

and his Public Life George Bell and Sons London

1897

なお以下の『ステューディオ』においてこの本につ

いての書評が掲載されている

The Studio Vol 12 No 57 December 1897 Hon-

No-Tomosha Tokyo 1995 pp 204-206

46 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書41頁

47 『私の履歴書』(文化人6)前掲書198頁

48 Vallance op cit p 305

49 東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果富

本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに

エイマヴァランスの『ウィリアムモリス――彼の芸術

彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance Wil-

liam Morris His Art his Writings and his Public Life)

が文庫において購入されていた記録は残されていな

いことが明らかになっているこのことはもし富本が在

学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば

自ら購入したか嶋中雄作のような友人に貸し与えら

れていたことを意味するであろう

なお富本が在学中までに文庫において購入されて

いたウィリアムモリスに関連する書物は以下の2冊

(所収論文数は3編)であり購入年月の記録はともに

1902(明治35)年2月となっているこれは富本が美術

学校に入学する2年前の時期にあたる

William Morris lsquoThe History of Pattern Designingrsquo

Reginald Stuart Poole Lectures on Art Delivered in

Support of the Society for the Protection of Ancient

Buildings Macmillan London 1882 pp 127-173

William Morris lsquoThe Lesser Arts of Lifersquo Ibid pp

174-232

Lewis F Day lsquoWilliam Morris and his Artrsquo Great

Masters of Decorative Art The Art Journal Office

London 1900 pp 1-31

50 「文藝の哲學的基礎」 『漱石全集第十三巻 評論 雜

篇』 夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)1936年

98-99頁

漱石はまたこの論文の執筆にあたっての事情を次

のように述べている

「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依

頼された余は朝日新聞社員として同紙に自説を發

表すべしと云う條件で引き受けた上面倒ながら其速

記を[校長である正木直彦]會長に依頼したhelliphellip偖

速記を前へ置いて遣り出して見ると至る處に布衍の

必要を生じて遂には原稿の約二倍位長いものにして

仕舞つたhelliphellipこの事情のもとに成れる左の長篇は

講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず實は講

演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論

文と見て差支なからうと思ふhelliphellip余の文藝に關する

所信の大要を述べて余の立脚点と抱負とを明かにす

るは社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信

ずる」(同書32-33頁)

51 文化庁編集 『色絵磁器〈富本憲吉〉』前掲書79

52 柳原睦夫 「わが作品を墓と思われたし」 『週刊 人間

国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社

2006年18頁

このなかで柳原は自分が京都市立美術大学の学

生だったころ富本本人から聞かされた漱石との出会

いの場面について次のように回想している

「富本先生は夏目漱石の知遇を得ていますイギリス

留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません

漱石の思い出話はリアリティーがあり秀逸のものです

先生は煎茶好きで仕事の手を休めては『おい茶に

しよう』と声がかかりますこの日のお茶うけは当時貴

重な羊羹でした漱石の話はここから始まるわけです

『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や僕に一

切れ羊羹をくれて残りは全部自分で食べよったあん

なことをしたら胃病になるわなあ』まるで昨日の出来ご

とのようです」

53 1907年に大倉書店から出版された『文學論』は1903

年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学

における夏目漱石の講義録であるそのなかにおける

ウィリアムモリスへの言及箇所は以下のとおりである

『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』 夏目漱石

刊行會(代表 岩波茂雄)1918年499頁

またラフカディオハーンは1896年から1903年まで

東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として

講義を行なっているがその講義録である以下の書物

のなかでハーンはひとつの章を設けてウィリアム

モリスについて論じている

『ラフカディオハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』

(第2版) 篠原一士加藤光也訳恒文社1993年

322-368頁

54 江藤淳 「解説」夏目漱石 『倫敦搭 幻影の盾 他

五篇』(岩波文庫) 岩波書店1995年237-238頁

55 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉家染物

店』が刊行されるのが1912年であるそれ以降書籍

や雑誌の装丁は富本のライフワークとなるまた京

都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開

催されるのも1912年のことでありそのとき富本をはじ

め藤島武二南薫造高村光太郎たちが賛助出品し

ている(『美術新報』第11巻第7号1912年32頁)

津田富本ともに1910(明治43)年に帰国している

そのことから判断するとふたりの出会いは帰国後か

ら「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われる

したぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも

おそらくこの作品展開催の前後の時期だったのでは

ないだろうか

一方津田は夏目漱石の著作の装丁を手掛けるよう

になった経緯を後年次のように語っている

「明治四四年に私は上京して職をもとめてあるいた

が画をかきながら生活のできる適当な職がなく困って

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 34: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

中山修一 「富本憲吉の英国留学以前 ― ウィリアムモリスへの関心形成の過程」

67

いたそのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』

の装釘をやってくれということになりそれを手はじめに

[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるように

なったそのうち漱石も私にやらしてくれるようになっ

たhelliphellip漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思っ

たのかそれとも私が困っていたから稼がせてやろう

という気があったのかも知れない何れにしても三重吉

が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を

世間に発表するいい動機になった」(津田青楓 『漱

石と十弟子』 朋文堂新社1967年298頁)

しかしこの本のなかには津田が富本を漱石に紹

介したことを裏づけるような記述は存在しない

56 『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられ

た説明文の一節なお本書には奥付が欠落しており

したがって編者名刊行年月日出版社名を特定す

ることができないこれについては同書巻頭に所収の

「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東

京府知事男爵千家尊福」と記載されておりそこから推

し量るしかないなお口絵は「東京勸業博覧會美術

館外景」富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖

案》は「圖案之部」の77頁に南薫造の作品《花園》は

「西洋畫之部」の71頁に掲載されている

57 東京市史編纂係編 『東京勧業博覧会案内』 裳華房

1907年19頁

58 『東京勸業博覧會審査全書』 興道舘本部1908年

171-175頁

この本は3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本

したものでそのうち第二部(美術および美術工芸)

および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果

が所収された報告書は以下のとおりである

『東京勸業博覧會審査報告』巻壹東京府廳1908年

59 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書123頁

60 富本憲吉 「わが陶器造り(未定稿)」辻本勇編 『富

本憲吉著作集』 五月書房1981年30頁

61 Edward F Strange lsquoNeedlework at the Liverpool

School of Artrsquo The Studio Vol 33 No 140 No-

vember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

147-151

62 J Taylor lsquoA Glasgow Artist and Designer The Work

of E A Taylorrsquo The Studio Vol 33 No 141 De-

cember 1904 Hon-No-Tomosha Tokyo 1997 pp

217-226

63 外山滋比古ほか編 『英語名句事典』 大修館書店

1984年327頁

64 東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表

現への『ステューディオ』の影響のうち卒業製作の作

品に用いられている文字表現に限っていえば土田真

紀が次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている

「アーツアンドクラフツのコテージ建築を思わせる

『音楽家住宅』設計案は美術学校で学んだ成果とい

うよりイギリス留学に向けての準備制作といった感じを

与えるタイポグラフィーにはスコットランドの建築家マ

ッキントッシュの影響も窺われる恐らく雑誌『ステュデ

ィオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思わ

れるが世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主

題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り

上げているのは富本の留学の行方を暗示するものと

して興味深い」(土田真紀 「工芸の個人主義」

『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代helliphellip光り耀

く命の流れ』同名展覧会カタログ三重県立美術館

1995年217頁)

65 当時の東京美術学校におけるアールヌーヴォーに向

けられた関心の背景はおおよそ以下のとおりである

「helliphellip[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当

時のパリはアールヌーヴォーの全盛時代であり博覧

会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから

低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比に

おいてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに

十分の迫力をもっていたそれ以前は純粋美術と応用

美術を故意に区分し応用美術を見下していた美術家

も図案への関心を強め彼らが帰国するや明治三十

四年頃から各種の図案団体が生まれ各地で図案の

懸賞募集が盛んに行われるようになったそれまでの

日本の工芸は応用美術という語が示すように概ね絵

画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げること

に終始しまた本校の図案科においては本来は創造

のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古

典からの借用となりそれが新鮮味のある図案の制作

を妨げていたがここに漸くにして図案革新への気運

が生じたのであった」(『東京芸術大学百年史 東京

美術学校篇 第二巻』前掲書121-122頁)

66 岡本隆寛 「南薫造日記について」岡本隆寛高木茂

登編 『南薫造日記関連書簡の研究』(調査報告書)

1988年3頁

この論文のなかで続けて岡本は次のように述べて

いる「[教師たちとの相談の結果]ここではベルギー

かフランスがよかろうと薦められ南自身はベルギーに

行くことにしようと書き残しているしかしその後の日

記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記

していない」(同論文3頁)

このことから推量すると南薫造は富本憲吉が近い

将来イギリスに来ることを見越して留学先をベルギー

からイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけ

ではないこの場合すでにこの時点で富本の英国留

学の思いはある程度固まっていたことになる

67 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書1頁

68 松下芳男 『徴兵令制定史』 内外書房1943年

543-544頁

69 小田切進 「略年譜」 『新潮日本文学アルバム2 夏

目漱石』 新潮社1993年105頁

70 西村伊作 『我に益あり』 紀元社1960年147-148

71 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書2-3頁

72 辻本勇 『近代の陶工富本憲吉』 双葉社1999年

20-21頁

73 同書20頁

74 『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべ

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006

Page 35: Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館¡¨現文化研究,6(1):35-68 刊行日 Issue date 2006-11-13 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin

『表現文化研究』第6巻第1号 2006年度

68

て』(同名展覧会カタログ) 国立歴史民族博物館

1998年106頁

75 松村豊吉編 『翠薫遺稿』(私家版)1908年24-25

76 同書3頁

77 山本茂雄 「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」

『あざみ』第2号富本憲吉研究会1992年32-33頁

78 『私の履歴書』前掲書197-198頁

79 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』

前掲書448頁

80 J B Gibson lsquoArtistic Housesrsquo The Studio Vol 1

No 6 September 1893 Hon-No-Tomosha Tokyo

1995 pp 215-226

81 lsquoAn Artists Cottage Designed by C F A Voyseyrsquo

The Studio Vol 9 No 19 October 1894

Hon-No-Tomosha Tokyo 1995 pp 34

82 M H Baillie Scott lsquoAn Artists Housersquo The Studio

Vol 9 No 43 October 1896 Hon-No-Tomosha

Tokyo 1995 pp 28-37

83 大沢三之助 「ガーデンシチーに就て(四)」 『建築

工藝叢誌』(第一期前篇第六册)1912年20-21頁

84 『南薫造宛富本憲吉書簡集』前掲書6頁

85 現在富本憲吉記念館には一枚の写真はがきが残さ

れている写真はいすに座る富本憲吉を横から撮っ

たもので表には「渡英の記念として」という文字と

水木要太郎の宛名と明治41年12月14日の日付が書

き記されている住所の記載はないのでおそらく封筒

に入れられて投函されたものと思われるもしこれが

出発前に日本から出されたものであればこのときまで

まだ富本は日本にいたことになるしロンドンで投函さ

れたものであればすでにこのときロンドンに到着して

いたことになるもちろん船上から出された可能性を

否定することもできないこれは富本がいつ日本を

発ちいつロンドンに着いたのかを判断するうえでの

手がかりを与える貴重な資料であることには間違いな

いがしかしいまのところこれだけでは消印のつい

た封筒が存在しないために決定的な証拠資料とな

りえていない

86 学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は以下

のとおり留学が許されたことをロンドンにいる南薫造

に伝える書簡に唯一認められる

「聞きたい事云ふママ

たい事山々クリスマスは何うだった

ロンドン搭音楽プレラフワエリスト[ラファエル前派]

の作品フィマ マ

スラーhellip――」(『南薫造宛富本憲吉書簡

集』前掲書2頁)

しかしこの一節は南が関心をもっていたラファエ

ル前派やホイッスラーの作品についてそれらがどう

だったのかを富本の方から聞いているように読めるも

っとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程

度の関心をもっていたことを否定することはできないが

一方英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強

い興味をもつようになった可能性も残されているとい

うのはロンドンに到着した直後ではなくロンドンを離

れる直前に富本はホイッスラーに関する以下の書物

をサウスケンジントンの書店で買い求めているからで

ある

Mortimer Menpes Whistler as I Knew Him Adam and

Charles Black London 1904

そこで推論になるが「在学中に読んだ本から英国

の画家フィマ マ

スラーや図案家で社会主義者のウィリアム

モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみら

れるホイッスラーに関しての「読んだ本」とは「在学

中に」ではなくそのとき購入しその後に読んだ本の

ことを指しているのではないだろうかそのことの妥当

性は別にしてもいずれにせよ英国留学の目的のひ

とつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラー

に特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさ

わしい資料は現時点で見出すことはできないなお

ロンドンで富本が買い求めた本は現在富本憲吉記念

館に所蔵されておりその本には購入の時期と場所に

関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店に

て」と記されている

執筆者について

中山修一(なかやましゅういち)

神戸大学教授専門はデザイン史新しい学問領域としての

デザイン史学の日本における発展のために2002年に設立さ

れたデザイン史学研究会の創設者のひとりでありその代表

も務める英国にあっては1988年から王立芸術協会会員

2003年からブライトン大学客員教授また 近では2008年に

オクスフォードのバーグ出版社から年3回刊行予定の学術雑

誌『近代工芸』の諮問委員会に招待される 近の論文に

「富本憲吉の『ウイリアムモリスの話』を再読する」 『表現文化

研究』第5巻第1号神戸大学表現文化研究会2005年「岩

村透の『ウイリアムモリスと趣味的社會主義』を再読する」

『デザイン史学』第4号デザイン史学研究会2006年など

E-mail shuichinkobe-uacjp

Notes on the Contributor Shuichi Nakayama is Professor in the history of design at

Kobe University and is also a co-founder and the Chair of

the Design History Workshop Japan which was established in

2002 for the development of design history as a new area of

academic study in Japan In Britain he has been a Visiting

Professor at the University of Brighton since 2003 as well as a

Fellow of the Royal Society of Arts since 1988 He was also

recently invited to the Advisory Board of the Journal of

Modern Craft a tri-annual academic publication which will be

launched by Berg Publishers Oxford in 2008 His recent

articles include lsquoRereading ldquoThe Story of William Morrisrdquo

by Kenkichi Tomimoto Journal of Cultural Studies in Body

Design Media Music and Text vol 5 no 1 Kobe Univer-

sity 2005 and lsquoRereading ldquoWilliam Morris and AEligsthetic

Socialismrdquo by Iwamura Toru Design History Issue 4 De-

sign History Workshop Japan 2006