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カミュにおける殺人と潔白 三 野 博 司 1Le meurtre et lʼinnocence chez Camus Hiroshi MINO 要 旨 未完成の作品はつねにその欠落を私たちの夢想で満たすように誘ってやまない。カミュの遺作『最初の人間』につ いては、欠落部分はあまりに大きく、作者がどのような全体像を構想していたのか、また完成したあきつきにはどの ような作品として読者の目の前にあらわれることになったのか、予想はむずかしい。ただ、この作品は、完成してい れば、彼の作家としての20年のキャリアを集大成する作品となり、それまで彼が追求してきた主題が深化、発展する ことになったはずだ。そして、彼にとって重要な主題のひとつ、それは殺人である。じっさい、メルソーにはじま り、ムルソー、カリギュラ、マルタを経て、タルー、カリャーエフ、クラマンスまで、カミュの作品にはおびただし い殺人者たちがあらわれる。そして、彼らの多くに共通しているのは、人を殺めながらも潔白への執着を捨てきれず にいることだ。本稿では、これら人の殺人者たちを順次論じたあとに、『最初の人間』の主人公ジャックもまた殺 人者となるはずであったことを、残された断章から明らかにする。カミュの構想では、ジャックは、第二次大戦のレ ジスタンスおよびアルジェリアにおける民族対立のなかで殺人に手を染めることになっていた。不条理、反抗に続い て、カミュが構想した第系列の主題は「愛」であり、『最初の人間』はその中心的作品となるはずだった。潔白を 失った殺人者は、無垢の象徴である母の寛大な愛へと戻っていくのだ。それゆえ、未完成に終わった『最初の人間』 の欠落を埋める私たちの夢想は次のようなものとなる。――主人公は、母のもとを去ったあと、殺人者となって潔白 を失うが、最後には母のもとへと帰還し、潔白の象徴としての母の愛によって救済される……。 ABSTRACT Une œuvre inachevée nous tente toujours par son manque, que nous cherchons à remplir par notre rêverie. Pour ce qui est du Premier Homme, le manque semble un peu trop grand à remplir et il est impossible dʼimaginer la conception totale que Camus en avait et ce que serait cette œuvre, une fois achevée. Ce roman est une compilation dʼ une vingtaine dʼ années de la carrière de l ʼ écrivain, et les thèmes quʼ il a creusés jusque-là devraient y être développés et approfondis. Et un de ses thèmes les plus importants est le meurtre. En effet, de Mersault à Clamence en passant par Meursault, Caligula, Martha, Tarrou et Kaliayev, nous rencontrons de nombreux meurtriers dans l ʼ œuvre de Camus. Et ce qui leur est commun, cʼ est quʼ ils sont fortement attachés à l ʼ innocence bien quʼ ils commettent un meurtre. Dans cet article, après avoir traité par ordre de ces meurtriers, nous montrons, par lʼanalyse des fragments laissés, que Jacques, héros du Premier Homme, devrait lui aussi être meurtrier. Dans la conception de lʼauteur, le héros commet un meurtre pendant la deuxième guerre mondiale et lors du conflit des races en Algérie. Après lʼabsurde et la révolte, lʼamour est le sujet du troisième cycle de Camus, dont Le Premier Homme devrait être lʼœuvre la plus importante. Le meurtrier qui a perdu son innocence retourne vers lʼamour indulgent de la mère innocente. Cʼest pourquoi nous pouvons ainsi remplir ce manque : le héros, après avoir quitté sa mère, perd son innocence en devenant un meurtrier, mais finit par être sauvé par lʼamour de sa mère qui est un symbole de lʼinnocence. 1放送大学奈良学習センター 所長 放送大学研究年報 第34号(2016125136Journal of The Open University of Japan, No. 342016)pp. 125136 125

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カミュにおける殺人と潔白

カミュにおける殺人と潔白

三 野 博 司1)

Le meurtre et lʼinnocence chez Camus

Hiroshi MINO

要 旨

 未完成の作品はつねにその欠落を私たちの夢想で満たすように誘ってやまない。カミュの遺作『最初の人間』については、欠落部分はあまりに大きく、作者がどのような全体像を構想していたのか、また完成したあきつきにはどのような作品として読者の目の前にあらわれることになったのか、予想はむずかしい。ただ、この作品は、完成していれば、彼の作家としての20年のキャリアを集大成する作品となり、それまで彼が追求してきた主題が深化、発展することになったはずだ。そして、彼にとって重要な主題のひとつ、それは殺人である。じっさい、メルソーにはじまり、ムルソー、カリギュラ、マルタを経て、タルー、カリャーエフ、クラマンスまで、カミュの作品にはおびただしい殺人者たちがあらわれる。そして、彼らの多くに共通しているのは、人を殺めながらも潔白への執着を捨てきれずにいることだ。本稿では、これら7人の殺人者たちを順次論じたあとに、『最初の人間』の主人公ジャックもまた殺人者となるはずであったことを、残された断章から明らかにする。カミュの構想では、ジャックは、第二次大戦のレジスタンスおよびアルジェリアにおける民族対立のなかで殺人に手を染めることになっていた。不条理、反抗に続いて、カミュが構想した第3系列の主題は「愛」であり、『最初の人間』はその中心的作品となるはずだった。潔白を失った殺人者は、無垢の象徴である母の寛大な愛へと戻っていくのだ。それゆえ、未完成に終わった『最初の人間』の欠落を埋める私たちの夢想は次のようなものとなる。――主人公は、母のもとを去ったあと、殺人者となって潔白を失うが、最後には母のもとへと帰還し、潔白の象徴としての母の愛によって救済される……。

ABSTRACT

 Une œuvre inachevée nous tente toujours par son manque, que nous cherchons à remplir par notre rêverie. Pour ce qui est du Premier Homme, le manque semble un peu trop grand à remplir et il est impossible dʼimaginer la conception totale que Camus en avait et ce que serait cette œuvre, une fois achevée. Ce roman est une compilation dʼune vingtaine dʼannées de la carrière de lʼécrivain, et les thèmes quʼil a creusés jusque-là devraient y être développés et approfondis. Et un de ses thèmes les plus importants est le meurtre. En effet, de Mersault à Clamence en passant par Meursault, Caligula, Martha, Tarrou et Kaliayev, nous rencontrons de nombreux meurtriers dans lʼœuvre de Camus. Et ce qui leur est commun, cʼest quʼils sont fortement attachés à lʼinnocence bien quʼils commettent un meurtre. Dans cet article, après avoir traité par ordre de ces meurtriers, nous montrons, par lʼanalyse des fragments laissés, que Jacques, héros du Premier Homme, devrait lui aussi être meurtrier. Dans la conception de lʼauteur, le héros commet un meurtre pendant la deuxième guerre mondiale et lors du conflit des races en Algérie. Après lʼabsurde et la révolte, lʼamour est le sujet du troisième cycle de Camus, dont Le Premier Homme devrait être lʼœuvre la plus importante. Le meurtrier qui a perdu son innocence retourne vers lʼamour indulgent de la mère innocente. Cʼest pourquoi nous pouvons ainsi remplir ce manque : le héros, après avoir quitté sa mère, perd son innocence en devenant un meurtrier, mais finit par être sauvé par lʼamour de sa mère qui est un symbole de lʼinnocence.

1) 放送大学奈良学習センター 所長

放送大学研究年報 第34号(2016)125︲136頁

Journal of The Open University of Japan, No. 34(2016)pp. 125︲136

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三 野 博 司

序章

 未完成の作品はつねにその欠落を私たちの夢想で満たすように誘ってやまない。カミュの遺作『最初の人間』は、1960年1月4日、作者が自動車事故で46歳の生涯を終えたとき、所持していた鞄の中から発見されたものだ。推敲のあとがまったくない140頁の走り書きであり、全3部が予定されていたと思われるが、カミュが書き残したのは第1部と第2部の初めの2章だけ、全体の3分の1ほどだ。未完成というより、エスキスにすぎない。欠落部分はあまりに大きく、カミュがどのような全体像を構想していたのか、また完成したあかつきにはどのような作品として読者の目の前にあらわれることになったのか、予想はむずかしい。 残された草稿では、主人公ジャックの少年時代が生き生きと描かれる。これと並行して、亡き父の生涯を探求する40歳のジャックが提示されるが、こちらについてはその職業を始めとして不明な点が多く、私たちは彼について多くを知るわけではない。さらに草稿の第2部冒頭において少年ジャックはリセに入学するが、物語はここで中断しており、その後40歳までの彼については、まったく書かれることがなかった。 プレイヤード版全集には「補遺」として、プランや断章が収載されている。そこには思春期以降のジャックを素描する断章も散見されるが、これらはまさに断片でしかなく、完成された作品を想像するには不十分である。だが、そのなかにひときわ私たちの目を引くものが4つある。それは、ジャックおよび最初の人間と呼ばれる主人公が殺人を犯す場面である。この4つの断章についてはのちほど詳細に分析することになるが、その前に『最初に人間』に至るまでのカミュのすべての作品にあらわれる殺人者たちを検討しなければならない。なぜなら『最初の人間』はカミュの作家としての20年のキャリアの集大成なのであり、それまでの作品において彼が追求してきた主題が深化、発展しているはずだからだ。そして、彼にとって重要な主題のひとつ、それは殺人であった。じっさい、メルソーにはじまり、ムルソー、カリギュラ、マルタを経て、タルー、カリャーエフ、クラマンスに至るまで、カミュの作品にはおびただしい殺人者たちがあらわれる。そして、彼らの多くに共通しているのは、人を殺めながらも潔白への執着を捨てきれずにいることだ。『ペスト』の登場人物タルーは、たとえみずからの意に反して殺人者となっても、「潔白な殺人者」(Ⅱ, 210)2)

でありたいと願う。潔白な殺人者、これはカミュが用

いた撞着語法のなかでも最も注目に値するものだろう。潔白と殺人というこの相矛盾した二つの主題をめぐって、カミュの作品をたどってみよう。

第1章『幸福な死』

 アルジェリア時代、カミュは若い仲間たちと劇団を立ち上げたが、そこから生まれた集団創作の戯曲『アストゥリアスの反乱』を別にすると、彼の作品に最初にあらわれる殺人は、『幸福な死』の主人公メルソーによるザグルー殺害である。未完に終わった若き日の野心的な小説を、カミュは殺人場面によって始めた。もとはといえば第1部の最後に置かれていたこの場面を、物語の展開を先取りする形で、カミュは冒頭に移動させたのだ。これには、同じく殺人場面で始まるマルロー『人間の条件』の影響が指摘されてきた。しかし、チェンによる暗殺はテロリスト・グループの政治的任務を帯びたものであり、「不安が重くのしかかる夜」3)に遂行されるが、メルソーの行為は、半身不随者からの依頼によるいわば自殺幇助であり、晴れやかな天候のもとでなされる。小説冒頭、メルソーが登場する場面はこのように描かれる。「凍えた大いなる歓喜、不安げな小鳥たちのするどい鳴き声、仮借ない光の氾濫、それらがこの朝に潔白(innocence)と真実の表情を与えていた」(Ⅰ, 1106)。殺人が犯される前に世界の潔白がお膳立てされる。そして、ザグルー殺害が実行されたあとも、「青い空から小さな白い無数の微笑が落ちてきて、 世界はメルソーに微笑みかける」(Ⅰ, 1107)。カミュは、彼の作品における最初の殺人を描くにあたって、殺人とはおよそ似つかわしくないこのような晴れやかで明澄な舞台を用意したのだ。 ザグルーを殺害したあと、第2部において、メルソーは中央ヨーロッパの旅に出る。まずプラハでの暗い不吉な体験を経て、次に彼はイタリアの太陽によって蘇生するが、 そのときザグルーの思い出がよみがえる。

そのときメルソーは、ウィーンを発って以来ただの一度も、自分の手で殺した男としてザグルーを考えたことがなかったことに気がついた。彼は自分のなかのこのような忘却の能力を再認識したが、 そ れ は 子 供 や 天 才、 清 廉 潔 白 で あ る

(innocent)人間だけに見られるものだった。潔白で(innocent)歓喜に動転している彼は、自分が幸福にふさわしい人間であることをやっと理解

2)  カミュの著作からの引用については、引用文のあとに、ガリマール社のプレイヤード版『カミュ全集』全4巻(2006年、2008年)の巻数をローマ数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)で示し、頁数を記した。Ⅰ Albert Camus, Œuvres Complètes, tome Ⅰ, Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 2006.Ⅱ Albert Camus, Œuvres Complètes, tome Ⅱ, Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 2006. Ⅲ Albert Camus, Œuvres Complètes, tome Ⅲ, Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 2008.Ⅳ Albert Camus, Œuvres Complètes, tome Ⅳ, Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 2008.

3)  André Malraux, La Condition humaine, in Œuvre complètes, tome Ⅰ, 《Bibliothèque de la Pléiade》, Gallimard, p. 512.

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カミュにおける殺人と潔白

した。(Ⅰ, 1154)

 ここでメルソーは、 殺人者であることを自覚するが、それは同時に自分の忘却能力と潔白(innocence)を認めることである。ここでは卓越した忘却能力をもつものとして、子ども、天才、清廉潔白である人間があげられている。潔白の象徴としての子どもは、今後カミュの作品において繰り返しあらわれることになる。メルソーが幸福になる資格を得るためには、まずみずからの潔白を確認することが必要なのだ。 アルジェに戻ったメルソーは、幸福の実現を目指してシュヌーアに別荘を買うが、やがて冬が近づいてくる。「メルソーは苦くて香りのきつい匂いを激しく吸いこんだが、それは今宵、大地と彼の婚礼を祝して捧げられたものだった」(Ⅰ, 1187)。こうした大地との婚礼のなかで、 彼はひさしぶりにザグルーを思い出す。「彼は、かつてその心の潔白(innocence)のなかでザグルーを殺したときと同じ情熱や欲望のふるえで、この緑の空と愛に濡れた大地を、その心の潔白のなかに受け入れた」。ここでは心の潔白ということばが二度用いられる。まずザグルー殺害の時における潔白が確認され、次には世界との婚礼における潔白がそこへ重ねあわせられるのだ。 続く最終章で、メルソーは病気に倒れ、かつて「死を与えた者がこんどは死を迎えることになる」 (Ⅰ, 1193)。みずからの死を目前にして、彼はようやく自分を幸福へ導いてくれた男に追いつくことになるのだ。「彼はそれまで遠い存在と感じていた男に対して強い兄弟愛を抱き、彼を殺すことで永久に二人を結びつける婚礼を完成させたのを理解した」(Ⅰ, 1194︲5)。メルソーの殺人は、自分が殺した相手の遺志を受け継ぎ、彼と一体化するために必要な儀式であった。たしかに、メルソーはカミュの作品に登場する最初の殺人者であるが、その行為はあいまいである。殺人は相手の同意の上で、ひそかに遂行され、彼は犯罪者として訴追されることもない。メルソーには罪の意識はまったくなく、みずからの潔白を確信している。のちの作品に見られるような殺人と潔白の相克は、ここにはまだあらわれていないのである。

第2章 『異邦人』

 『幸福な死』において、カミュはメルソーの潔白を繰り返し強調した。他方で、『異邦人』の主人公の潔白はテクスト上で明示されることはないが、読者にそれを感じ取らせるような技法が用いられている。メルソーと異なり、ムルソーの行為は法廷において明白な犯罪として審理の対象になる。にもかかわらず、読者にはムルソーが潔白に見えてしまう4)。第1部の終わり、浜辺の場面では、容赦ない太陽の暑熱が共犯者と

なる。 運命に支配されるギリシア劇の主人公のように、なによりも太陽、そして海、偶然がムルソーを殺人へと導くのだ。 逮捕された日、ムルソーは、アラブ人たちが収監されている一室に入れられる。彼らから何をしたのかとたずねられて、彼は「アラブ人を殺した」(Ⅰ, 182)と答える。このことばによってアラブ人たちは押し黙り、彼らとムルソーの会話は途絶えてしまう。しかし、1週間後の予審判事の前において、彼はすでに自分が殺人を犯したことを忘れている。「外に出るとき、ぼくは握手するため彼に手を差し出そうとした。 だが、ちょうどそのとき、自分が人を殺したことを思い出した」(Ⅰ, 175)。メルソーは、ヨーロッパに旅立ったあとザグルー殺害のことを忘れ、 イタリアに至って、子どもや天才、潔白である人間だけに見られる忘却の能力を再認識した。ムルソーもまた、殺人を忘れる能力においてメルソーに劣らないといえるだろう。 公判が始ると、ムルソーに殺意があったかどうかが議論の焦点となる。検事は、ムルソーがなぜひとりで泉へ戻ったのか、なぜ武器を持っていたのか、なぜまさにその場所へ行ったのかと追究する。それに対してムルソーは「それは偶然です」(Ⅰ, 192)と答えるだけであり、殺意を認めることはない。証人として喚問された養老院の門番は、質問に答えながら、ムルソーが母の顔を見ようとしなかった、 そしてたばこを吸い、眠り、カフェオレを飲んだと語る。それに対して、ムルソーはこのように反応する。「そのときぼくは法廷全体を高揚させる何ものかを感じた。そして初めて自分が罪人であることを理解した」(Ⅰ, 193)。ここで、ムルソーは初めて自らが罪人であることを理解するが、それはアラブ人殺害に対してではなく、母の死に対してなのである。検事の弁論では、殺人そのものから、母の埋葬時におけるムルソーの無感動な態度へと議論がずれていく。 弁護士はいみじくも叫ぶ。

「けっきょく、彼が告発されているのは、母親を埋葬したからですか、それともひとりの男を殺したからですか」(Ⅰ, 197)。彼のことばは、この裁判の特異性を要約している。 法廷において、ムルソーが無罪だと主張するのはレーモンだけである。「レーモンはぼくのほうにちょっと合図をして、それからすぐにぼくが無罪(innocent)であると言った」(Ⅰ, 196)。だが、ムルソーをアラブ人殺害へ導いた一連の出来事の発端は、近所でも評判の良くないこの男の頼み事を受け入れたことである。およそ潔白とは縁遠いレーモンの主張は説得力をもたず、ムルソーが無罪であるという判断についても、彼はその根拠と理由をまったく提出することができない。当然のことながら、レーモンの主張は裁判長にまじめに取り合ってもらえない。 公判2日目、検事の弁論が終わった後しばらく、沈

4)  これについては、三野博司「〈殺人〉を語る三つのディスクール」(『カミュ研究』第1号、日本カミュ研究会、青山社、1994年、p. 34︲9)を参照。

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黙が廷内を支配するが、やがて裁判長はムルソーに発言を促し、付け加えることがあるかとたずねる。そこでムルソーは、自分の行為の動機について、「それは太陽のせいだ」(Ⅰ, 201)と述べて、廷内の笑いを引き起こす。だが、第一部の浜辺の場面を記憶している読者は、同じように笑いはしないだろう。「太陽のせい」で殺人を犯すという非合理な事態を十分読者に納得させることができるかどうか、それが『異邦人』という小説の鍵である。 死刑判決が下ったあと、独房を訪れた施設付き司祭に向かって、ムルソーは長広舌をふるう。「殺人罪で起訴され、母の埋葬に際して涙を流さなかったことで処刑されたとしても、それがどうだというのか」(Ⅰ, 212)。ここでムルソーははっきりと、自分が起訴されたのは殺人罪であるが、処刑されるのは母の埋葬に際して涙を流さなかったからだと明言する。そして、司祭を追い返したあと、ムルソーは「すべてを生き直す用意がある」と言うが、彼にとって生き直すとは自分のこれまでの生を語ることである。みずからに刑を下した人間の裁きの不条理性を逆に裁きかえすためにこそ、彼は語りを必要とする。こうした意図のもとに、彼は自分の物語、すなわち『異邦人』の物語を語る。みずからが罪人だとは思っていないムルソーであっても、自分が殺人を犯したという事実だけは無視することができない。自分の殺人行為を語りながら、同時にみずからの無罪を証明するという一見不可能な試みを、 彼は言説の詐術によって成し遂げようとするのだ。「太陽のせいで」、すなわち運命の不条理によって殺人を犯すことを余儀なくされ、その結果これまた不条理な人間の裁きによって死刑を宣告された男の物語が、ムルソーによって語られる。この巧妙な語りの技法によって、無実の殺人者という神話が生まれることになる。こうして殺人者でありながら、ムルソーは最後にはキリストのように処刑されることにより、潔白を保証されるのだ。実際、1958年に書かれた「アメリカ大学版への序文」において、カミュは、ムルソーのなかに「われわれに値する唯一のキリスト」(Ⅰ, 216)を描こうとしたのだと述べた。

第3章『カリギュラ』

 戯曲『カリギュラ』におけるローマ皇帝は、ムルソーとは異なり、 自覚的な罪深い殺人者として描かれる。ただ、彼が殺人者になるには世界の不条理を認識するという契機があった。幕が上がると、貴族たちが出奔した皇帝カリギュラについて語る。彼らは口をそろえて、皇帝は「申し分ない」「理想的な」(Ⅰ, 328)

「文学に夢中の少年」(Ⅰ, 329)であり、ひとことで言えば「まだ子どもなのだ」と言う。続いて登場したケゾニアもまた、カリギュラを指して、異なったことを言うわけではない。「彼は子どもだわ」(Ⅰ, 334)。カミュにあって子どもは無垢(innocence)を体現する存在である。だが、3日間の放浪ののち、舞台に登場

したカリギュラはすでに変貌を遂げている。妹であり恋人であるドリュジラの死をきっかけに、彼は殺人者となることを決意したのだ。彼はこう宣言する。「われわれの必要に応じて、この連中を、勝手に定めたリストの順序に従って殺していくとしよう」(Ⅰ, 335)。彼の行為は、 無慈悲な神々の殺人をまねたものであり、神々への挑戦である。また同時に、これは「教育なのだ」(Ⅰ, 336)とカリギュラが言うように、貴族たちにこの世の不条理を知らしめようとする教化的な意味をもっている。 このカリギュラの横に、カミュは二人の人物を配した。ひとりはカリギュラと同世代の若者シピオンである。 第1幕の終わりに、 カリギュラとシピオンが、

「大地と人間の足とのひとつの調和」(Ⅰ, 356)を主題とした詩を二人でうたう場面がある。カリギュラもまた、自然の美を、その至福の瞬間を知らないわけではない。彼はそれをドリュジラの死の前には享受していただろう。しかし不条理の論理に忠実であろうとする彼にとっては、もはや夕暮れは心やすまるときではない。 感動するシピオンに、 皇帝は冷たく言い放つ。

「おまえは善のなかで純粋なのだ、おれが悪のなかで純粋であるように」(Ⅰ, 357)。カリギュラはシピオンの潔白を羨望しているが、彼自身は自分の潔白を断念したのだ。メルソーやムルソーとは違って、殺人者は無垢ではあり得ないことを彼は知っている。対話の最後に、カリギュラはシピオンの詩には「血が欠けている」と言って、若き詩人を怒らせることになる。カリギュラにとってもっとも重要な主題は殺人であり、彼はそれをシピオンの詩に見出さないのだ。しかしながら、カリギュラに父を殺されたシピオンは、ケゾニアに「彼を殺したいのでしょう?」(Ⅰ, 354)と問われて、「そうです」と答える。彼もまた殺人への誘惑に抗しがたい自分を感じている。しかしシピオンは、有害な皇帝を排除しようとするケレアの誘いに応じることはなく、殺人に手を汚さず、潔白なまま旅発つことになる。すでに殺人に手を汚し、後戻りできないカリギュラと、その手前で踏みとどまるシピオン、カミュは二人の異なった青年像を提示した。 カリギュラの横に配置されたもうひとりの人物、それは彼より年長の世代に属するケレアである。第3幕では、 カリギュラとケレアとの長い対話が展開される。ケレアは言う。「論理的であろうとすれば、私は殺したり、所有したりせねばならないでしょう」(Ⅰ, 369)。ケレアは皇帝の理解者である。彼は自分もまた殺人者になる可能性があることを承知している。 だが、彼は自由を無際限にまで押し進めるならば、「生きることも、幸福になることもできない」ことを知っており、有害な皇帝は消えるべきだと言う。それに対して、カリギュラは、ケレアが自分を殺そうとしていることを知りつつもそれを防止しようとはしない。陰謀の証拠である書字版に松明を近づけた彼は、溶けていく板を見ながらこう言う。

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カミュにおける殺人と潔白

お前の顔に潔白(innocence)の朝が立ち上るのだ。[……]なんと美しいことだ、潔白の人間とは、なんとも美しい。俺の力に感嘆するがよい。神々でさえも先に罰してからでなくては潔白を与えることができないのだ。(Ⅰ, 371)

 神々の殺人をまねることでカリギュラは潔白を失った。ここでは潔白をケレアに与える演技をすることによって、彼は神々にもできないことをなそうとする。だが、ケレアのほうでは、そのような偽りの潔白を望んではいない。彼は有害な皇帝を排除するという自分の使命を果たすのである。 最終場、舞台でひとり、鏡に映った自分の姿を見て、カリギュラは自分の罪を自覚する。 「カリギュラ! おまえにも、おまえにも罪がある。そうではないか、 少し多いか、 少ないかだけだ!」

(Ⅰ, 387)しかし、カミュは『カリギュラ』を1941年にひとまず書き上げた後、この箇所の書き直しを行った。1944年版では、全体が短縮されたが、同時に潔白

(innocence)という語が二か所で加えられた。自分にも罪があると認めたあと、 カリギュラはこう言うのだ。「だが、 裁き手のいないこの世界、 だれも潔白

(innocent)ではないこの世界でだれが俺を糾弾できようか!」だが、そのあとで、彼はケレアと貴族たちが自分を倒そうと準備する武器の音におびえる。「潔白(innocence)が自分の勝利を準備しているのだ。どうして俺が彼らの立場に立てないのだ!」(Ⅰ, 387)この世界ではだれも潔白ではないと断言したカリギュラは、そのすぐあとで前言を修正し、自分を殺す者たちの潔白を、そしてその潔白の勝利を認め、さらに自分が彼らの立場、すなわち潔白の立場に立てないことを嘆いている。それまでケレアを別にして、貴族たちはつねにカリギュラによって侮蔑され嘲弄されてきた。なぜカミュはこのような唐突とも見える加筆を行ったのだろうか。それを考えるには、1941年と1944年の時代の変化、すなわち第二次大戦が引き起こした時代状況が反映していると見るのが適切だろう。カリギュラは、第一幕においてすでに「おれがペストに代わるのだ」(Ⅰ, 379)と宣言していた。当時、ナチズムは「褐色のペスト」と呼ばれた。カリギュラがナチズムを体現しているなら、それを打倒した貴族たちにレジスタンスの闘志たちの姿を見ることは可能だろう。こうしてカミュは、最後には罪深い独裁者が潔白な闘志たちによって倒され、潔白が勝利を収めるという物語を採用しようとしたのではないだろうか。

第4章『誤解』

 『カリギュラ』に続いて、カミュは戯曲『誤解』を書いた。この戯曲の筋立てである母による息子の殺人は、カミュ自身がアルジェの新聞で知った事件に基づいており、すでに『異邦人』においてムルソーが牢獄で読む新聞の断片として現われていた。『誤解』には

殺人者は2人いる。マルタとその母である。旅人の金品を奪うため、2人はこれまですでに何度か殺人を犯してきた。しかし、母親はいまでは殺人に疲れて、今回を最後にしたいと言う。そして、ついには殺した男が息子であることを知ると、生きようとする意欲を失ってしまう。「人殺しならだれでも、私のように、心がからっぽになって、何の役にも立たず、将来もなくなってしまう時期があるんだと思うよ」(Ⅰ, 488)。母親は、殺人のあとようやく待ち望んでいた休息を手に入れるが、結局のところ休息は死のなかにしかないのだ。 他方で、マルタは、殺人は彼女が夢見る国、すなわち「太陽があらゆる疑問を消してくれる国」(Ⅰ, 460)に行くために必要なのだと言って、正当化を試みる。

『幸福な死』においては、メルソーが幸福になるために必要だった金はザグルーによって与えられた。 だが、ザグルーのような出資者がいないマルタがこの土地から出発するには、資金を強奪する必要がある。また、メルソーが幸福になる土地は彼にとって身近なものだ。ひとたびヨーロッパへ旅立ったあと、彼は自分の国に戻ってくる。他方で、マルタにとって幸福になることのできる土地は遠い異国である。 マルタと異なり、兄のジャンはこの土地を離れて、太陽の国へ行くことができた。彼はいわばメルソーの兄弟となることに成功したのだ。だが、ジャンには、メルソーと違って家族がいる。彼は自分が得た幸福だけに満足せず、母と妹にも幸福をもたらそうと、太陽の国で得た妻とともに祖国に帰ってくる。この帰郷が彼の命取りとなるのだ。マルタを前にして、ジャンは彼女が夢見る国の魅力を語る。「あの土地では春は喉をつまらせます……」(Ⅰ, 477)。ジャンの話は、マルタに殺人の決意を固めさせる結果になる。 ジャン殺害に手を染める前、マルタは母に向かってこう言う。「そうよ、 彼は無警戒すぎるのよ、 潔白

(innocence)な人間だといわんばかりの態度がやたらに目につくわ」(Ⅰ, 473)。この潔白が罪深いマルタを苛立たせる。そして、ジャンを薬によって眠り込ませることに成功したあと、彼女は今度は母にこう言うのだ。

私はためらっていたわ。でも、彼は私が行きたいと願っている国の話をしたの。私の心を動かすことに成功したおかげで、彼はかえって私に武器を渡すことになったのよ。無邪気な態度(innocence)はこうして報いを受けるわけよ。(Ⅰ, 485)

 ジャンが犠牲者となったのはその無邪気な態度(innocence)のせいだと、マルタはおくめんもなく言い放つ。カミュの作品に登場する殺人者たちの大部分は、多少とも潔白・無垢(innocence)への渇望を抱いているが、マルタはむしろ潔白への軽蔑を示す点において特異な存在であるといえる。 当然のことながら、彼女は太陽がすべてを焼き尽くす国、すなわち無

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三 野 博 司

つ者の清らかさで──この戦争に参加したのであり、清らかな手のまま──こんどは不正と自分たち自身に対する偉大なる勝利の清らかさで──そこから出るだろう。(Ⅱ, 11︲12)

 ここでカミュは「清らかな手(les mains pures)」「清らかさ(pureté)」という語を用いているが、つまりは自分たちフランス人の潔白(innocence)を確信しているといってよいだろう。戦争とは組織的な大量殺人であるが、 犠牲者の側には潔白があるというのだ。 しかし、戦争が終わり、対独協力者粛清の時期を経て、カミュは自分自身の潔白に対して疑念を抱くようになる。粛正にたいしてフランソワ・モーリアックが寛容をもとめる呼びかけを行ったとき、彼は1944年10月『コンバ』紙上で、人間の正義の名において粛正を完遂すべきだと言明して、モーリアックとのあいだに論争が展開された。やがて、カミュは、正義が往々にして虐殺へといたることを認め、ブラジャックの助命嘆願書に署名するが、そのブラジャックが処刑されると大きな衝撃を受けることになる。1946年、『コンバ』に発表された一連の論説は『犠牲者も否、死刑執行人も否』と題されており、そこでカミュは、「殺人に同意するような人びとの仲間には今後決して入らないだろう」(Ⅱ, 454)という選択を示し、犠牲者であることも、死刑執行人になることも拒否すると宣言した。 同じ時期、カミュは、『ペスト』の草稿にタルーの告白を書き入れた。第4部の終わり、タルーは、その長い告白の冒頭部分で、リユーにこう言う。「ぼくは若かったとき、自分が潔白(innocence)だと考えて生きていた。つまり何も考えなど抱いていなかったということだ」(Ⅱ, 204)。これとほぼ同じ文が、1945年11月の『手帖』に記されている。「青春時代を通じて、ぼくは自分が潔白(innocence)だと考えて生きていた。つまり何も考えなど抱いていなかったのだ。だが、今日では……」(Ⅱ, 1034)。潔白とは子どもがそうであるような無自覚な状態として存在するが、しかし人が考え始めたとき、それは失われ二度と取り戻すことはできない。タルーの告白には、あきらかに作者の声が反響している。 タルーは、少年時代のある日、自分が検事の、すなわち死刑を宣言する人間の息子である事実を知り、そこからひたすら逃亡を図ることになる。彼は自分の生きている社会が死刑宣告という基礎の上に成り立っていることを知り、これと戦うことによって殺人の問題と決着をつけようとする。こうして、死刑制度に反対し、政治活動に身を投じたタルーだが、しかし結局は、 その試みがむなしいものであったと悟る日がくる。「たとえ遠くから、 また善意からであるにせよ、今度は自分が殺人者になったことを、ぼくは長いあいだ恥じていた、死ぬほど恥ずかしく思ってきた」(Ⅱ, 209)。息子を殺したことを知って自死へと向かう『誤解』の母親を別にすれば、カミュの作品の登場人物の

垢の国へ行く資格はなく、この日陰の国で果てることになる。 メルソー、ムルソー、カリギュラ、マルタ、これらの殺人者たちは、病死、処刑、暗殺、自死とその形態はさまざまであるが、全員が物語の終わりにおいて死を迎える。ただ前二者の殺人者が潔白を保ったまま死を迎えるのに対して、あとの二人は罪深い殺人者として死んでいくのだ。

第5章 『ペスト』

 第二次大戦のドイツ占領体験から生まれた寓意小説『ペスト』では、殺人者は大量殺戮の疫病に置き換えられる。カミュの作品では子どもはつねに潔白の象徴であるが、オランの町では、その子どもたちも大勢ペス ト の 犠 牲 と な っ た。「 こ の 罪 の な い 者 た ち

(innocents)に与えられた苦しみは、彼らにとってはつねに実際そうであるがままの姿、すなわちひとつのスキャンダルと思われていた」(Ⅱ, 181)。そしてさらに、 いっそうスキャンダルだと思われる事件が起こる。オトン判事の息子がペストに倒れ、苦しい闘いの試練を受ける。少年の周囲には主要な登場人物たち全員が集まり、この顛末を固唾をのんで見守ることになる。実のところ、それは「ひとりの無垢な(innocent)人間の断末魔」(Ⅱ, 181)を長い時間にわたって目の当たりにすることであった。その場にはパヌルー神父もいたが、彼はかつて説教において、ペストは罪深いオラン住民に対する神の罰だと述べた。少年の死のあと、医師リユーは激しくパルヌー神父に言う。「ああ、少なくともあの子に罪は無かった(innocent)。あなたもおわかりでしょう!」(Ⅱ, 184)物語のクライマックスに置かれたオトン判事の息子の死は、ペストによる犠牲者たちの潔白を象徴する出来事である。 ペストは春に到来し、盛夏に猖獗を極めたあと、秋にも勢力が衰えず、冬になってようやくオランから去っていく。解放に喜ぶ市民たちの姿を見て、語り手である医師リユーはこう考える。「人間たちはいつも同じだ。しかし、それが彼らの強みであり、無垢なところ(innocence)でもある。そして、そこにおいてこそ、あらゆる苦悩を越えて、リユーは彼らと一体であると感じるのだ」(Ⅱ, 248)。オラン市民はペストの犠牲者であり、災禍と戦い、その難局を耐え抜いたのだ。犠牲者の潔白(innocence)は、解放に喜ぶ市民の姿によって確認される。語り手であるリユーはそうした彼らとの一体感を抱き、彼もまたみずからの潔白を確信している。この市民たちの潔白には、ナチスから解放されたフランス人の姿が反映しているだろう。 すでに大戦の最中に、カミュは、ナチスと戦うフランス人たちの潔白を主張していた。1943年、彼は『ドイツ人の友への手紙』の第1の手紙において、こう書く。

私たちは清らかな手のまま──犠牲者と確信をも

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カミュにおける殺人と潔白

者として立ち上がる。「われわれは潔白だ(innocents)![……]潔白なのだ、殺人者にはわかるのか、潔白がどういうことなのか!」(Ⅱ, 334)ペストと闘うディエゴの武器は潔白である。これは、ついには殺人者である女秘書の羨望を引き起こすことになり、 彼女は

「殺すことで、自分が殺す人たちの潔白をうらやむようになる」(Ⅱ, 361)のだと告白する。殺人者である女秘書は潔白を失うが、他方で殺される犠牲者の側には潔白が保証される。『戒厳令』は全体として『ペスト』の単純化された戯画のような作品であるが、ここでもタルーの複雑な苦悩が、殺人者と犠牲者、罪ある者と潔白な者というわかりやすい二項対立に置き換わっているといえるだろう。 ディエゴは、ついには恋人ヴィクトリアとカディスの町の両方を救うために命を捨てることになる。みずからの死を覚悟したディエゴは、ペストのやり口はわかっているのだと言う。

殺人をなくすために殺さなければならないし、不正をただすためには暴力に訴えなければならない。何世紀も前からそうなのだ! 何世紀も前から、君のような支配者たちは世界の傷を治すという口実のもとにその傷を悪化させてきたのだ。

(Ⅱ, 358)

 これは同時代におけるカミュの殺人に関する考察から生まれたものである。この論理によって人間は殺人を重ねてきた。さらに、ディエゴは、個人の錯乱による殺人を政治的に制度化された殺人からきっぱりと区別する。

ぼくが軽蔑するのは死刑執行人だけだ。君が何をしようとも、あの人たちは君よりも偉大なのだ。もし彼らがひとたび人を殺すことがあっても、それは一時的な錯乱のせいだ。ところが、君は法と論理によって殺戮を犯す。(Ⅱ, 359)

 ディエゴは、組織的殺人に対して、情動的殺人を擁護する。『反抗的人間』の序説の冒頭において、カミュは情熱による犯罪と論理による犯罪の区別を論じているが、いまの時代に横行する論理的犯罪とは、「人類愛とか、超人崇拝によって正当化された殺戮」(Ⅲ, 64)のことである。この大著では、反抗の歴史をたどりながら、それが論理的殺人へといたる恐れがないかどうかを検討するために、形而上的あるいは歴史的反抗の二世紀が考察の対象となっている。カミュにとって殺人はつねに重要な主題であったが、この時期、彼の批判の矛先はとりわけ論理によって正当化された殺人へと向けられていた。 『戒厳令』では、第一部から第三部へとディエゴの変化が顕著である。第一部では、彼はペスト患者であり、その意味で他者を死への道連れにする存在だ。しかし、第二部の終わりで彼は自分の恐怖に打ち勝ち、

なかで、タルーは殺人者たることを恥じる最初の人物である。 そしてタルーの長い告白の結論は次のものだ。

だからこそ、災禍と犠牲者があるとぼくは言うのだ。その他にはなにもないんだ。もし、そう言いながらも、ぼく自身が災禍になったら、少なくともそれに同意することはしない。 ぼくは罪なき

(innocent)殺人者になるよう努めるだろう。(Ⅱ, 210)

 「犠牲者も否、死刑執行人も否」の死刑執行人が、タルーの告白においては「災禍」 に置き換えられている。しかし、彼は犠牲者であることも災禍であることも拒否すると言うだけではなく、みずからの善意にもかかわらず災禍になってしまう恐れがあることを指摘している。それゆえ彼は、たとえ災禍となった場合でも、少なくともそれに同意しないことよって潔白な殺人者の道を探し求めようとするのだ。メルソーやムルソーは無自覚的に潔白な殺人者であったが、タルーはみずからの意志によって、潔白をかろうじて保持しようと望むのである。『ペスト』においては、オラン市民の潔白を信じることができたリユーの物語にタルーの告白が付加されることによって、殺人と潔白の主題はいっそうの深まりを見せるようになったと言えるだろう。

第6章『戒厳令』

 『カリギュラ』の暴虐な独裁者にはヒトラーの姿が重なっていた。ナチスによる大量殺戮は『ペスト』では病菌によって、いっそう象徴的かつ普遍的に表象された。そして次に書かれた戯曲『戒厳令』では、それはひとりの登場人物として形象される。この「論理の快楽のために殺す」(Ⅱ, 322︲3)殺人者はペストと呼ばれ、カディスの住民に向かって、大仰な演説を行う。「今日以後、諸君は秩序正しく死ぬことを学ぶのだ。[……]すべての者がリストの順序にしたがって、たったひとつの死にかたをする。諸君は、カードに記入され、もはや気まぐれに死ぬことはできないのだ」

(Ⅱ, 322)。ペストが命ずる殺人は、『カリギュラ』における暴君のローマ皇帝の場合と同様、恣意的なものでしかない。だが、実質的には同じように専制的な支配にほかならないが、カリギュラがみずからの狂気性と有罪性を意識しているのに対して、 ペストの場合は、みずからに正義と秩序があると信じている。こうして殺人は制度化され、正当化される。それこそが全体主義的支配の特徴なのだ。ここで殺人を命じるのはペストだが、それを実行に移すのは女秘書である。彼女は手帖を所有し、そこに記載された市民の名前に線を引いて抹消することによって殺人を犯す。こうして殺人は管理され、事務的処理の一環となる。 この殺人者であるペストに対して、ディエゴが反抗

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三 野 博 司

に、革命が名誉を切り捨てるようなことがあれば、ぼくは革命に背を向けるだろう」。ステパンとの議論のなかで、カリャーエフはまず正義を望んだ。次に彼は正義と潔白を求める。そしてさらにここで名誉を付け加える。この正義と潔白と名誉こそ、殺人者であるカリャーエフが守り抜こうとするものである。 だが、2日後、ふたたび大公暗殺へ出かける前にカリャーエフは逡巡を見せ、同志であるドーラを前に、こう告白する。「ぼくは殺すことは簡単だと思っていた。思想があれば、そして勇気があれば十分だと思っていた」(Ⅲ, 29)。だが、いまでは、カリャーエフの殺人に関する考察は変化し、彼の苦い結論はこうだ。

「この悪のすべて、この悪のすべて、それがぼくのなかにも、他の人たちのなかにもあるんだ。殺人、卑怯、不正があるんだ」。2日前、ステパンとの対話のなかで彼は「潔白、名誉、正義」こそを望んだ。しかしいまでは、それらと対立する「殺人、卑怯、不正」が、自分のなかにも、そして他の人びとのなかにも支配していると認めざるを得ない。カリャーエフは、いまでは殺人を犯す自分にはもはや潔白は不可能だとわかっている。しかし、彼はそれでもその先へ進もうとして、ドーラに向かって断言するのだ。「憎悪より遠くへ行くのだ。[……]そこには愛がある」。それを受けたドーラの応答によって、戯曲はここからカリャーエフとドーラの束の間の愛の場面へと移行するが、しかしそれはカリャーエフが言いたかった愛とは別ものだろう。もはや愛と言うことばでしか言い表せないもの、殺人と憎悪の先にあるもの、それはカミュが不条理、 反抗に続く第3の系列において見出そうとした

「愛」と無関係ではないだろう。 最終幕、カリャーエフ処刑の知らせを待つドーラは、アネンコフに言う。「もう二度と、私たちは子どもに戻れないんだわ。ボリア、最初に殺人を犯したときから、 子どもらしさは消え去ってしまうの」(Ⅲ, 47)。子どもらしさは潔白の同義語であるが、殺すことで潔白は失われてしまう。そこへカリャーエフ処刑の知らせがもたらされて、ドーラが発することばはこうだ。「今日こそ彼が正当化されるのよ。[……]ヤネックはもう殺人者じゃない。[……]彼は子ども時代の喜びへと帰っていったんだわ」(Ⅲ, 51)。殺人によって失われる潔白を取り戻す唯一の手段として、ロシアのテロリストは自分の命を差し出すことを選んだ。それはまた、殺人が引き起こすニヒリズムに陥らないためにカミュが提示することができた唯一の解決法でもある。ドーラのせりふはその勝利宣言であるが、しかしその悲壮な口調は「潔白な殺人者」たりうるための困難さをも示しているだろう。

第8章『転落』

 『転落』における語り手クラマンスは、パリでは弁護士をなりわいとし、しばしば 「善良な殺人者」(Ⅲ, 704)の弁護の労を取ったと言う。「善良な殺人者」と

ペスト患者である印をはぎ取る。自分の力で潔白を確実なものにするのだ。そして第三部に至ると、ペストとのやり取りのなかで、恋人と自分の町を救うために自分の命を投げ出すことを宣言する。『手帖』において、不条理、反抗に続く第3系列の主題として、カミュは「愛」を考えていた。ディエゴは、反抗によって目覚めたあと、さらにその先へ、愛の方向へと進む人物として描かれる。

第7章 『正義の人びと』

 カミュが殺人と潔白の主題をさらに深く追求することになるのは、テロリズムの問題をめぐってである。

『正義の人びと』では、ロシアのテロリストたちがこの問題について議論する。第1幕、セルゲイ大公殺害の任務を引き受けたカリャーエフは、ドーラに向かって自分の信念を語る。

二度と殺人を犯さない世界を建設するために、ぼくたちは殺すのだ。大地がついには潔白な人びと

(innocents)で満ち溢れるためにこそ、ぼくたちは犯罪者となることを受け入れるのだ。(Ⅲ, 13)

 本来は相反するものである殺人と潔白が、ここでは関係づけられる。ロシアの民衆の潔白を実現するためにこそ、テロリストたちはみずから殺人者であることを受け入れる。しかし、『戒厳令』のディエゴはすでに、ペストのやり方は殺人をなくすと称して殺人を犯すことだと批判していた。ディエゴがここで批判する殺人者と、民衆の潔白のために殺人を犯すテロリストたちとは、どこが異なるだろうか。そして、そのようにして殺人者となったテロリスト自身は潔白なのだろうか。この困難な問題をめぐって、戯曲は展開される。 潔白のためには殺人も必要であることを覚悟していたカリャーエフであるが、大公の馬車に子どもたちが同乗していることを知ったとき、爆弾を投げることをためらう。ここからステパンとの論戦が始まり、彼は、ステパンの主張の背後に別の種類の専制政治の存在を嗅ぎ取り、「それが幅をきかせると、ぼくは正義の人たろうと努めているのに、殺人者にされてしまうだろう」(Ⅲ, 22)と言う。だが、正義を主張するのはステパンも同じである。 彼もまた正義の人びとなのだ。だが、カリャーエフは正義の上に、さらに潔白を要求する点において、ステパンとは異なる。彼は言う、「人間は正義だけで生きているのではない」、人間に必要なのは、「正義と潔白(innocence)」(Ⅲ, 23)だと。しかし、ステパンは応酬する。「おれは、潔白がいつの日かさらに大きな意味を持つために、潔白を無視することを、また多くの人びとに無視させることを選んだのだ」。それに対するカリャーエフの反論は次のようなものである。「子どもを殺すことは名誉に反することだ。もしいつの日か、ぼくが生きている間

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カミュにおける殺人と潔白

ずからの意図とはまったく無関係に、多くの子どもたちの虐殺の原因となったのだ。こうして、イエスさえもが有罪である世界では、罪なき者はだれもいない。 クラマンスは、自分の記憶のなかを遡行して、ひとつひとつ過去の忌まわしい体験を想起し、ついにはロワイヤル橋での自殺者にいたるのだが、それですべてではなく、さらに罪深い経験が思い出される。クラマンスの語りのなかで、これだけが唯一年代を確定できる事件であり、連合軍が北アフリカに上陸した年であるから、1942年のことだとわかる。彼は、トリポリで死に瀕していた仲間の水を飲み、その死を早めてしまった。「ええ、飲んでしまったんです、確かにそうなんですよ。どのみち死んでいくこの男よりも、私のほうが他の連中に必要とされているんだからと、そう自分に言い聞かせながら」(Ⅲ, 755)。とはいえ、この間接的な殺人も、その信憑性は確実とはいえない。彼は、「それが実際の体験だったか、それとも夢だったかさえ今でははっきりしませんが」と付け加えることを忘れない。 クラマンスは、自分の語りの最後で、ファン・アイク『神秘の子羊』の祭壇画に触れる。かつてそのうちの1枚のパネル『公明正大な裁判官』がゲントの教会から奪われたが、いまは彼がそれを秘匿しているというのだ。「正義が決定的に潔白(innocence)と切り離されるのです。潔白は十字架の上、正義はこの押入の中です」(Ⅲ, 757)。 カリャ ーエフは「正義と潔白」

(Ⅲ, 22)こそが人間には必要なのだと言った。だが、ここでは正義と潔白が切り離される。潔白は十字架にかけられて息絶え、正義は押入れに閉じ込められる。正義の人であると同時に潔白でもあろうとしたカリャーエフたちの努力は報われない。 クラマンスの結論とは、 次のようなものである。

「政治においても哲学においても、私は、理論の上では人間に潔白(innocence)を認めず、実践の上では人間を罪人とみなすことに賛成なのです」(Ⅲ, 758)。もはや潔白な者はどこにも存在せず、万人が罪人であり、たがいに相手の罪を裁こうとしている。カリギュラもまた、この世界では「だれも潔白(innocent)ではない」(I. 387)と宣言したが、しかし彼の場合は、その直後に有害な暴君を倒すものたちには潔白があることを認めた。『転落』の作品世界はクラマンスの独白だけで成り立っており、ここには潔白である他者はどこにもいないのだ。

第9章『最初の人間』

 『最初の人間』では、主人公ジャックは作者カミュ自身と同じ時代を生きると設定されている。それは、ジャックの父の世代の体験である第一次大戦5)から、40歳のジャックが直面するアルジェリア独立戦争へと

は、タルーが望んだような「潔白な殺人者」ではないにしても、やむを得ない事情、状況のせいで殺人者とならざるを得なかった人びとであり、それはまた『戒厳令』 のディエゴが「一時的な錯乱のせいで」(Ⅱ, 359)で殺人を犯すとして擁護した者たちである。こうして、クラマンス自身は殺人者を弁護する立場にあり、無謬の彼はだれからも批判を受けることがないと思い込んでいた。 しかしながら、セーヌ川の自殺者の記憶が戻ってきたときから、クラマンスには有罪性の意識が生まれることになる。彼の安心立命の立場は脅かされ、自分だけは無罪であると信じていた確信が次第にゆらぎはじめる。だれもが彼の罪を糾弾し、裁こうと待ち構えているように思われる。実際に若い娘を見殺しにしたのかどうかを知ることは問題ではないし、それはだれにもわからない。重要なのは、彼が他人と同様に有罪であると気づいたことである。ムルソーの殺人は明白な事実であったが、彼自身には罪の意識はほとんどなかった。 クラマンスの場合は殺人の事実はあいまいだが、彼には有罪の意識が明白である。『ペスト』のタルーは、現代においてわれわれはペスト患者であることをまぬがれないと言いつつも、「潔白な殺人者」 たらんと努めようとした。だが、クラマンスは、潔白な殺人者などというものの存在が可能だとは考えない。もはや潔白はどこにもないのだが、だからこそ彼はいっそう失われた潔白への愛惜を抱いている。

人間の心に浮かぶもっとも自然な考え、本性の奥からわき上がるようにおのずと到来する考え、それは自分が潔白(innocence)だという考えです。

[……]だれもがどんな犠牲を払っても自分が潔白でありたいと願っています、たとえそのために人類全体と天を糾弾することになっても。(Ⅲ, 733)

 彼にとって、 潔白は約束事としての 《jeu》(ゲーム・演技)のなかにしか存在しない。次の告白には、サッカーと芝居を愛した作者カミュ自身の声が反響している。「大入り満員の日曜日のサッカーの試合と芝居、私がこれまで変わることなく熱愛してきたこの二つ、それだけがいまでも自分が潔白(innocent)だと感じることのできる場所なのです」(Ⅲ, 737)。潔白に憧れながらも、クラマンスはいたるところに有罪性を見つけ出す。彼によれば、イエスでさえ 「自分にまったく罪がない(innocent)わけではないと知っていた」

(Ⅲ, 748)。というのは、「両親が彼を安全な場所へと連れだすあいだに殺されたユダヤの子どもたち、それがどうして彼のせいでないと言えるでしょうか」。カミュの作品において、子どもは無垢の象徴である。しかし、イエスは、彼自身がまだ幼子であったとき、み

5)  『最初の人間』における第一次大戦については、アニェス・スピケルによる詳細な分析がある。Agnès Spiquel, 《La Grande Guerre dans Le Premier Homme》, in Études camusiennes, No 12, Société japonaise des Études camusiennes, Seizansha, 2015.

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 ジャックがモンドヴィを訪れたとき、農夫ヴェイヤールは、この土地におけるフランス人とアラブ人の抗争の歴史を振り返る。彼によれば、殺し合うのはアルジェリアの土地の特性である。「つねに戦争があった

[……]正常なのは戦争なのです」(Ⅳ, 853)。このヴェイヤールのことばを受けて、医師は入植者たちが体験した苛酷な試練について語り、植民地化を拒む者たちとの血なまぐさい抗争を想起したあと、次のように言い添える。「そこで、最初の犯罪者に遡るというわけです、おわかりでしょう、彼はカインと呼ばれていました。それから戦争になり、人間たちはとりわけ残忍な太陽のもとで苦しんでいます」 (Ⅳ, 858)。『最初の人間』の表題は人類の始祖であるアダムを想起させるが、 その息子であるカインは人類最初の殺人を行う。 カインについての言及は「補遺」にもあり、そこではこう書かれている。

 後方の章。カビリアの人質となった村。性器を切り取られた兵士─掃討、など。少しずつ植民地化の最初の発砲にまでさかのぼること。しかし、なぜそこで止まるのか? カインはアベルを殺した。技術的な問題:一章を割くか、それとも対旋律として?(Ⅳ, 933)

 カミュは、民族抗争を植民地化の起源に遡及して描くだけでなく、さらに人類の起源にあった殺人へと至り、そこから考察することを考えていた。このように、人間はその起源以来、争いと殺人を逃れることができない。すでに見たようにジャックの父もまた、第一次大戦の戦場で人を殺めていた。そして、主人公ジャック自身も、戦争の時代を生きるのであるからには、殺人とまったく無縁であることはできないだろう。カミュの作品における数々の殺人者を論じてきた本稿の最後に、ジャックの殺人を取り上げることにしよう。

(3)ジャックあるいは「最初の人間」の殺人 少年時代と40歳のジャック、その間には何があったのか。残された原稿は、第2部冒頭、主人公がリセに入学した時点で終わっている。思春期以降のジャックをカミュはどのように描こうとしていたのか、どのような体験が彼を待ち構えているのか、それは残されたプランや断章から推測するしかない6)。プレイヤード版『最初の人間』の『補遺』によると、カミュは、ジャックそして「最初の人間」が殺人を犯す場面を構想していた。 『補遺』の二つ目「ノートとプラン」はカミュが自動車事故死したときに持っていた鞄の中にあった「黄色いノート」と「青いノート」の二冊であり、「黄色

続く戦争と殺人の時代であった。

(1)殺人者としての父 第一次大戦はまず、40歳のジャックの墓参によって喚起される。サン=ブリウーの墓地で、彼は死んだ父が今の自分よりも若かったことを知って、衝撃を受ける。ここで父は「不当に殺された子ども」(Ⅳ, 754)と呼ばれて、『ペスト』のオトン判事の息子と同じく罪のない(innocent)犠牲者の仲間に入るのだ。 父の探索を始めたジャックは大きな成果を得ることはないが、それでも父に関するいくつかの情報は得られる。そこでは、父が示した暴力への嫌悪と忌避が強調されている。1905年、20歳のとき、 モロッコ戦争で、むごたらしい殺戮の現場を目撃し怒りをあらわにする父、また殺人犯ピレットの死刑執行を見に行ったあと蒼白になり何度も嘔吐する父の姿が描かれる。父の物語はおぞましい殺人とそれに対する嫌悪や恐怖に密接に結びついており、そして彼自身は戦場で暴力的に殺された。しかし、戦争ではひとは相互に殺し合うのだから、兵士である犠牲者はじつは加害者となる可能性を排除できない。私たちは父に関する次の一節に注目したい。

 頑健で厳しい男、生涯働き続けて、命令に従って人殺しを行い、避けられないことはすべて受け入れたが、しかし心のどこかで誇りを傷つけられることを拒んでいた。(Ⅳ, 779)

 勤勉で平凡な男の姿が提示されたあと、命令に従って「人殺し」をしたと続けられる。それがモロッコ戦争なのか第一次大戦なのかは明示されていないが、戦場において父は殺人を犯したのだ。父は避けられないこととして殺人を受け入れたが、正義のためにやむをえず殺人に手を染めながらもなおかつ潔白であることを望んだ『正義の人びと』のテロリストと同様に、それでもなお自分の誇りを守ろうとしたのである。

(2)殺人の土地─アルジェリア 40歳のジャックの近辺では、アルジェリア戦争が、母を脅かすテロとしてあらわれ始めている。彼が母の住む家の窓から通りを眺めているとき、 ごく近くで

「爆発音が鳴り響き」 (Ⅳ, 784)、休日の平穏をかき乱す。ジャックは通りへ降りていき、そこで嫌疑をかけられていたアラブ人を知人のカフェの店内へと入れて守ってやる。彼が群衆のもとに戻ると、そのなかのフランス人労働者がジャックにこう言う。「やつらは皆殺しにすべきだ」(Ⅳ, 786)。このテロは、お互いに殺し合う歴史がいま始まろうとしていることを示している。

6)  ピエール=ルイ・レイはこのように書いている。「私たちが思春期のジャックと別れる瞬間から、父の墓前にたたずむ彼を再発見する瞬間まで、青年時代の年月まるごとが抜け落ちている。プランの下書きによれば、そこではアルジェリアにおける〈政治的活動〉と同時にまた〈レジスタンス〉が扱われるはずであったと予想される」(Pierre︲Louis Rey, Le Premier Homme d’Albert Camus, Gallimard, 2008, p.29)。この「アルジェリアにおける〈政治活動〉」と「レジスタンス」においてジャックが殺人を犯す場面が構想されていた、というのが私たちの考えである。

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カミュにおける殺人と潔白

かにあったものである。1から9bisまで10の章に分けられているが、その第1章「Ⅰ教育」は「カイエ」のタイプ原稿の8頁と8枚の自筆草稿からなる。この自筆草稿はプレイヤード版で5頁あり、23個の断章を含んでいる。それらは長さも主題もまちまちだが、ここにはジャックの名前は出てこない。ただ書名としての

『最初の人間』ではなく、作中人物としての「最初の人間」が6つの断章で登場する。そのうち3つは1er

Homme と表記され、他の3つは1o Homme となっているが、この1o Homme が殺人を犯すと見なされる断章が二つある。 ひとつはアラブ人サドックを扱った断章であり、その後半で「最初の人間」が彼の友人と一緒に殺人を犯す場面が描かれる。

 サドック 1)若い戦士。私の仲間。36年の危機。 2)以後、私の友人になる。相手に裏切られたため、 イスラム教徒の風習に戻る。 結婚そして

[一語不明]。 3)テロリスト。(その場にいながらも黙っている母親と彼の場面。どんな犠牲も払うが、私の母だけは犠牲にしない。彼女はすぐあとで傷つけられる。) のちになってヨーロッパ人の友人の妻が犯され殺される。最初の人間とその友人は急いで武器を手に取り、共犯者を捕まえて懲らしめ、それから犯罪者を追いかけて、取り押さえて殺す。あとになって、彼はそれを恥ずかしく思う。歴史とは血を流すことなのだ。(Ⅳ, 953)

 これまた断片的な記述なので推測するしかないが、ここではアラブ人のサドック、そして「私」の母が登場し、民族間の抗争とそこで生じる殺人が記述されている。この争いに「最初の人間」も関わり、ヨーロッパ人の友人の犯され殺された妻の仇を討つために、友人とともに殺害者を殺す。タルーがそうであったように、あとになって彼はそれを「恥ずかしく」思う。そして、「歴史とは血を流すことだ」と、あのモンドヴィの医師が語ったような歴史観が付け加えられている。 「最初の人間」による殺人を語るもう一つの断章は、次のものである。

 最初の人間。裏切り者。 アルジェリア育ちのフランス人。彼はフランス本国でアラブ人のために弁護したあと故郷に帰る。排斥され、最後には、暴動のなかで、母を守るためにアラブ人を殺害する。(Ⅳ, 954)

 ここでは、「最初の人間」が暴動のなかで母を守るためにアラブ人を殺す。カミュの作品の主人公がアラブ人を殺害するのは、ムルソーに続いてこれが二人目である。だが、草稿本文の第1部第5章の爆弾テロに

いノート」のほうは26頁あり、長短さまざまな161の断章から成っている。それぞれの断章の主題は多種多様であり、断章間の連関はない。そのうちジャックの名前があらわれる断章はわずかに4つ。 その1つは

「ジャックの父」なので、ジャック本人に関する断章は3個だけである。そして、注目すべきことに、そのうちの2個が殺人に関わるものであり、最初のものはわずか2行の短い断章である。

 ジャックはそれまですべての犠牲者と連帯していると感じていたが、いまでは死刑執行人とも連帯していることを認めるのだ。 彼の悲しみ。 定義。(Ⅳ, 938)

 ここに見られる「犠牲者」および 「死刑執行人」という語は、カミュが1946年に発表した論文「犠牲者も否、死刑執行人も否」を想起させる。この論文と同時期に書かれた『ペスト』のタルーの告白において、タルーは殺人に加担したことを「恥ずかしく」思うが、それでも「潔白な殺人者」の可能性への希望をまだ抱いていた。カミュはそれを『正義の人びと』において追求することになる。しかしながら、その後に来たジャックの場合には、犠牲者の側に付こうとしながらも死刑執行人の仲間であったことに気付いたあとには

「悲しみ」だけが残るのだ。 タルーは自分の告白のなかで、彼がどのように殺人に関わるようになったかはあきらかにしてはいない。しかし、ジャックについては、黄色いノートにあるもう一つの断章が、それをかなり生々しく具体的に記述している。

 ジャックは地下組織の編集室から逃亡するときに追っ手を殺す(相手がしかめっつらをして、よろめき、少し前に身体を傾げた。そこでジャックは激しい怒りにかられた。彼は相手の喉を下から上へ向かって何度となく殴ったが、すぐに首の下に大きな窪みができ、嫌悪と怒りに逆上して今度は右腕で相手の目を殴った……)……それから彼はワンダの家に向かった。(Ⅳ, 944)

 地下組織の編集室は、カミュ自身が関わっていた地下新聞『コンバ』を連想させる。これを先ほどの「犠牲者」と「死刑執行人」の断章と重ね合わせて見ると、ジャックがレジスタンス活動のなかで身を守るために殺人を犯し、犠牲者の側から死刑執行人の側へと移行してしまうというストーリが構想されていたと考えることができるだろう。 「黄色いノート」に収められたこの二つの断章のほかに、あと二つ、今度はジャックの名前は現われないが、「最初の人間」と呼ばれる主人公が殺人を犯すことを示す断章がある。『補遺』 の三つ目「『最初の人間』のためのエレメント」は、1960年1月初めにカミュがルールマランからパリへ送ったスーツケースのな

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Page 12: Le meurtre et lʼinnocence chez - oujlib.ouj.ac.jp/nenpou/no34/34_12.pdfカミュにおける殺人と潔白 カミュにおける殺人と潔白 三 野 博 司1) Le meurtre et

三 野 博 司

うだ。だからこそ、ジャックが戻っていくところとしては、いつまでも潔白であり続ける母のもとしかないだろう。 『補遺』では、息子が母のもとに帰還して赦しを請うという物語を描いている断章がいくつかある。そのひとつは次のものである。

 おお母よ、おお優しい人よ、愛しい人よ、私の時代より偉大で、あなたを支配する歴史より偉大な母、私がこの世で愛したすべてのものよりも真実である母よ、あなたの闇のような真実の前から逃れ去ってしまった息子を許しておくれ。(Ⅳ, 920)

 カミュはアルジェリア時代に仲間座のためにジッドの『蕩児の帰宅』を翻案したことがあった。また戯曲

『誤解』は20年を経て母のもとに帰ってくる息子の物語である。聖書の挿話にあらわれる蕩児の帰宅の主題は、カミュにとって早くから親しいものだったが、彼は『最初の人間』の終結部でそれをふたたび取り上げることを考えていた。 1958年『裏と表』の序文で、カミュは自分の夢見る作品である『最初の人間』の構想を述べている。

 この作品の中心にまたしてもひとりの母親のすばらしい沈黙と、この沈黙に釣り合う愛や正義を取り戻すためのひとりの男の努力を置くことを想像すること、それを妨げるものはなにもない。人生の夢のなかで、その男は自分の真実を見出し、死の土地でそれを見失ったあと、戦争や叫喚、正義や愛への狂熱、最後に苦悩を経て、死さえもが幸せな沈黙であるような静かな祖国へと帰っていくだろう。(Ⅰ, 38)

 ここに示された主人公のたどる道、すなわち「戦争や叫喚、正義や愛への狂熱、最後に苦悩を経て」とあるこの過程で、主人公は第二次大戦のレジスタンス、さらに祖国アルジェリアの民族抗争に関わることになると予想される。おそらく、カミュはさまざまな挿話を構想していたことだろう。そのうちのどれが最終的に採用されて、『最初の人間』が完成したときに生かされることになったのか、予測はつかない。ただ、私たちが着目した四つの断章によって、カミュが可能な複数のバージョンの一つとして「殺人者ジャック」を構想していたと推察することはできるだろう。 そして、この殺人に手を染めることになった主人公が帰っていくべき場所とは、母の沈黙の世界である。不条理、反抗に続く「愛」の系列の小説として企画された

『最初の人間』は未完成に終わったが、その欠落を埋める私たちの夢想は次のようなものとなる。 主人公は、母のもとを去ったあと、殺人者となって潔白を失うが、最後には母のもとへと帰還し、潔白の象徴としての母の愛によって救済される……。 (2016年10月3日受理)

おいて、母の身に危険が及ぶとき、ジャックは通りへ降りて嫌疑をかけられたアラブ人を守った。フランス人とアラブ人の抗争の際に見せる主人公の行動が、補遺と草稿本文において、「最初の人間」とジャックとでまったく異なって示されている。 以上見たように、『最初の人間』の『補遺』には、ジャックあるいは「最初の人間」が殺人を犯す場面が構想されている。ジャックは第二次大戦のレジスタンスの行動において、「最初の人間」はアルジェリアにおける民族対立のなかで、それぞれ殺人に手を染めてしまう。その限りにおいて、彼らはカミュの作品の主人公の忠実な後継者なのだ。だが、これまでの殺人者たち、とりわけタルー以降の殺人者たちは、殺人者であることを恥じながら、なおかつ潔白の可能性をさまざまに希求していた。では、ジャックにとって、潔白はどこに見出すことができるのか。最後にそれを探ってみよう。

(4)潔白と許しと愛 少年時代のジャックは、「無垢(innocence)のなかで一日中を支配していた」(Ⅳ, 823)。そして、リセの入学試験に合格した彼の新しい門出は、「貧者たちの暖かくて無垢な(innocent)世界から」(Ⅳ, 849)引き離されると描かれている。これまでのカミュの作品の登場人物たちがそうであったように、潔白は子ども時代にこそあったのだ。だが、子ども時代から抜け出したときから、潔白は失われることになる。 不条理、反抗に続いて、カミュが構想した第3系列の主題は「愛」であり、『最初の人間』はその中心的作品となるはずだった。では、潔白を失ったジャックを受け入れるような寛大な愛は、どこに見出せるのだろうか。ここで私たちは、小説冒頭に置かれた、ジャックを身ごもった母が馬車でモンドヴィへと向かう場面を思いだす。

だが、 この顔には何かしら印象的なものがあった。単に疲労やそれに類するものによって一時的に顔に刻まれる仮面のようなものではなく、むしろ無垢な(innocents)人たちがいつも浮かべている優しい放心と無心の様子であり、それが美しい顔立ちにつかのまあらわれていた。(Ⅳ, 742)

 母こそは無垢(innocence)の象徴である。ジャック誕生の場面はキリスト生誕を想起させ、母は無原罪のマリアのような存在として描かれる。そして、少年時代のジャックにとっては、母親だけが「その優しさが信仰を思わせる唯一の人物であった」(Ⅳ, 842)のであり、彼は毎日のように、「母の慎ましい微笑や沈黙が生み出す日々の神秘」(Ⅳ, 845)に出会っていたのだ。さらに、40歳になったジャックにとって、母の姿はかつてとほとんど変わらない。彼は30年の歳月を越えて、「奇蹟のように若い同じ顔に再会」(Ⅳ, 774)するのだ。母の周りではまるで時間がとまったかのよ

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