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1 特定非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス 2014年7月 NRA NEWS 17 第7回資料展終わる これまでの栄のギャラリー・チカシンか ら金山の都市センター11階のまちづくり広 場に会場を替えて、6月10日から22日まで (月曜休館)12日間にわたって開催した第7 回資料展は、無事終了しました。 昨年までに比べ、格段に写真点数が多く、 関連する資料や地図も展示したところ、多 くの方が目を向けており好評でした。 また、海外のLRTの写真についても目 にする機会がないだけに見入る人が目立ち ました。 15日に開催した服部会員の講演会は、当日、鉄道友の会の総会と重複したにも関わらず、用意した60 席を遥かに上回る92名もの方々が、名古屋市電の歴史や海外のLRTの話に聞き入っていました。 今回、初めて講演会出席者に対してアンケートを行った結果、6割近い方から回答を頂くことができ、 資料展、講演会のいずれもが好評であったことが分かり、開催した意義がありました。なお、アンケー ト結果については、別途、報告書を作成しましたので、詳しくはそちらをご覧ください。 会場を都市センターに移したことで、平日の会場担当者の配置が不要になり、楽になった反面、来場 者の生の声を聴く機会が、土曜・日曜に限られるという状況となりました。一長一短がありますが、場 所柄通りすがりではなく、目的を持っての来場が多いだけに、じっくりと見てもらえたのは確かでした。 期間中の来場者数は、2,901人で、一日平均では242人でした。ただし、これは11階への総来場者数で あり、展示会場へ足を運んでくれた数は、この7割から8割の間、つまり2,000人から2,300人の間(一日 平均167人~192人)になろうかと思われます。 とてもよかった 37.0% 無回答 1.9% 普通 5.6% とてもよかった 51.9% よかった 37.0% 普通 7.4% あまりよくなかった 1.9% 無回答 1.9% 展示会のアンケート結果 講演会のアンケート結果 よかった 55.6%

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特定非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス 2014年7月

NRA NEWS №17

第7回資料展終わる これまでの栄のギャラリー・チカシンか

ら金山の都市センター11階のまちづくり広

場に会場を替えて、6月10日から22日まで

(月曜休館)12日間にわたって開催した第7

回資料展は、無事終了しました。

昨年までに比べ、格段に写真点数が多く、

関連する資料や地図も展示したところ、多

くの方が目を向けており好評でした。

また、海外のLRTの写真についても目

にする機会がないだけに見入る人が目立ち

ました。

15日に開催した服部会員の講演会は、当日、鉄道友の会の総会と重複したにも関わらず、用意した60

席を遥かに上回る92名もの方々が、名古屋市電の歴史や海外のLRTの話に聞き入っていました。

今回、初めて講演会出席者に対してアンケートを行った結果、6割近い方から回答を頂くことができ、

資料展、講演会のいずれもが好評であったことが分かり、開催した意義がありました。なお、アンケー

ト結果については、別途、報告書を作成しましたので、詳しくはそちらをご覧ください。

会場を都市センターに移したことで、平日の会場担当者の配置が不要になり、楽になった反面、来場

者の生の声を聴く機会が、土曜・日曜に限られるという状況となりました。一長一短がありますが、場

所柄通りすがりではなく、目的を持っての来場が多いだけに、じっくりと見てもらえたのは確かでした。

期間中の来場者数は、2,901人で、一日平均では242人でした。ただし、これは11階への総来場者数で

あり、展示会場へ足を運んでくれた数は、この7割から8割の間、つまり2,000人から2,300人の間(一日

平均167人~192人)になろうかと思われます。

とてもよかった

37.0%

無回答 1.9% 普通 5.6%

よかった 55.6%

とてもよかった

51.9% よかった 37.0%

普通 7.4%

あまりよくなかった 1.9% 無回答 1.9%

展示会のアンケート結果 講演会のアンケート結果

よかった 55.6%

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1 ダイナモーターの時代

1910年頃から1930年にかけ、1200Vのち1500V

の電鉄において、制御回路などの低圧電源として

ダイナモーター(DM)が造られた。両側整流子

の低圧側より600~750Vを取り、制御回路などに

用いた。

省電モハ1は、大正初年よりGE製のDM装備

車が60両余造られ、大井川鉄道では昭和40年頃ま

で使われた。ED10形・ED22形の一部・ED31

形・名鉄のモ3100形・デキ300形・デキ370形・デ

キ400形等でも使われた。

最近(平成26年)廃車になった名鉄デキ300形は、

大正15年三菱製の301・302がDMを装備、303~306

(昭和2~4製)の制御電源は1500Vの抵抗落し

であった。

大正14年から昭和4年にかけて製造されたデキ

370形もDMを装備、デキ400形もWH(ウエスチ

ングハウス)のDMであった。

また、ED22形・デキ300形・デキ370形・デキ

400形のDMはクラッチを介してコンプレッサー

も駆動したが、戦時中クラッチの鋼材が入手困難

になり、コンプレッサーモーター専用とし、制御

電源は1500V抵抗落しとした。

DMは現在でもリニア鉄道館のモハ1形や近江

鉄道のED31形で見られる。

WH社のYE10形ダナモーターの結線図(名鉄

デキ300、370、400形)

モーターで駆動したコンプレッサーはWH社の

D-3-LA形で、同じモーターでブロワ(形式

不明)も回した。

デキ200・300・370・500形にはブロワ―モータ

ーが付き、強制通風した(デキ306はなし)。

デキ600形は短区間用で、ブロワも助士席もなか

った。

2 カーボンシューの時代

昭和17年頃から銅が不足し、パンタ、ポールと

もカーボンシューが用いられるようになり、ポー

ルでは鉄や合金シューも試みられた。

名鉄岐阜軌道線ではカーボンシューのポール

(右上写真)が長く使われ、昭和20年代後半でも

撒水電車や納涼電車はカーボンシューのポールを

使っていた。

3 名古屋電気鉄道の初代デワ1

デワ1形は小柄ながらGE58、50㏋モーターを

持ち強力だったが、貨物輸送の目論見の誤算から

完成と共に失業し、過半はワ代用となった。

B18制御器は名古屋市電の新車に使ったが、G

E58の行方は不明。やっと戦中になって、箱は名

鉄のワフ50に、台車は東名港用のサ50に使われた。

4 名鉄車両現場の思い出2

〇 昭和26年、オールクロスシートの3850形が

生まれ、4両編成で特急に使われた。当初は機器

のトラブルにより1M3Tで走ることもあり、

運休が多発した。主原因は新型のPT35形パン

タの追従性不足で、離線により、制御電源(100

V)が落ちてHB(高速度遮断器)が動作するた

めであった。対策として1500Vの母線を全車へ

引き通したが、のちPT42形パンタへの換装に

よって解消した。PT35形パンタは、今も大井

川鐡道の元南海の21000形で使用中である。

〇 昭和30年、5000形には新型のPT41形パ

ンタが使われたが、100km/hの連続力行には不

十分な性能で、さらに改良型のPT42形が造ら

れた。PT42は優秀であり、パノラマカーやそ

れ以後の車両にも同系が使われた。

一方、シングルアーム化は、日本の他の鉄道

と共に世界の趨勢に遅れた。

〇 昭和30年、5000形特急車が完成、年末にか

けて試運転を続けた。この間、豊明付近の切通

しで枯草火災が二度も発生し、消防が出動する

事態となった。原因は、初めて採用したHSC

白井 昭の一口メモ

ダイナモータースイッチ

1500~1200V

ダイナモーター

750~600V

3

ブレーキにありと判明した。ブレーキの制御を付

加空気溜(WH社オリジナルは補助空気溜)で行

う仕様としたことにより、弱いブレーキが掛かり

放しになるためであった。これを改良すると直ち

に問題は解消した。

これは、実は本質的に大きな問題であった。こ

の理由が分からぬ人は、A弁の分からぬ人である。

5 120km/hへのアプローチ

パノラマカー7000・7500系の完成に伴い、当時

110km/hだった最高速度を120km/hに向上して特急

のスピードアップを図るためのテストが繰り返さ

れた。力行は問題ないのだが、ブレーキには特別

の制御を要した。ポイントにも対策を施して

120km/h運転を実現した。これが実現したのは、昭

和63年にパノラマ・スーパー・1000系登場後の平

成2年からであった。

今、国府駅の通過速度は120km/h・太田川駅のそ

れは115km/hである。

6 デカ351物語

愛電のデカ351は、大正10(1921)年、電1の廃

車発生品のBWH(ブリティッシュWH)モータ

ーを使って生まれた貨電で、4ケMで強力だった。

制御器はEE(イングリッシュ エレクトリッ

ク)よりQ2を、台車はブリル76Eを輸入、空制

はアリスチャルマーだったと思う。

昭和3(1928)年、WH製パンタを装備して西

尾車庫に移り、昭和18年頃、旧西尾線の廃止が決

まると電装を外し、鳴海工場の一番東に放置され

ていたが、間もなく解体された。塗色は終わりま

で茶色であった。ブリル台車・台枠・電装品は他

車へ転用されたのだろうが、その行方は不明であ

る。サ2170は昭和17製であるし、デキ850はデキ50

の2軸化(→デキ30)による発生品を利用して製

造したと思われるからである。

7 白井宅のお宝紹介

(1)EE社 DB-1K4コントローラー

写真は、1926年頃のEE(English Electric)社

のDB1-K4コントローラーのフェイスプレー

トで、名鉄のモ510形に使用されたものである。

デッカーシステムの旧型DB-1コントローラ

ーには、DB1-A・B・Ⅽなどがあり、世界各地

に今も残っているとのことである。京電には-D、

岐阜(美濃電)には-Gがあった。

本品はEEとなって最後の形式で、いわゆる新

型DB1である。以後、日本ではKR-8などのデ

ッドコピー品が各社で大量に造られ、今日に至る

まで広く使用されている。

※本品は堀会員が保管することになった。

(2)HLのマスコン

WH(WESTING HOUSE)製1500V車用のマスコン、

TYPE 15Dである。最近、NRAの香ノ木会員に譲

渡した。

これはかつて名鉄東名古屋港線で使用したモ

3791に装備されていたものでこの車両、元はとい

えば東濃鉄道のモハ112(←西武クモハ151)のも

のであった。

▲ 作画:白井 昭

4

特に「カチ・カチ」とノッチを刻む音は懐かし

いものである。 ※上記3枚の写真は香ノ木会員による。

(3)ブラウンボベリー(BBC)のマスコン

アプト式電気機関車ED41形に使われたスイス

のブラウンボベリー社製マスコンのフェイスプレ

ートであり、大柄なものである。

横川機関区の友人から頂いたもので、千頭の鉄

道博物館への寄贈を考えている。

(4)名鉄のイギリス製品 M&G台車の銘版

名古屋電気鉄道(名電)は、明治時代GE

(General Electric)系の電車用機器を多用してい

たが、明治末期から大正初期の郊外線の延長期に

は、名電(郡部線用)のデシ501~538、SC3及

び愛知電気鉄道(愛電・現名鉄常滑線)の電1・電

2形の1~15の54両は、モーター・制御器・台車

をイギリスから輸入している。

モーターはBWH(ブリティッシュWH)のE

C221、制御器もBWHのT1C、台車はM&G

(マウンテンギブソン)のラジアル台車を使用した。

昭和のボギー車時代になると、M&G台車は、

名鉄ではデキ30形・ミ3・モ40形・モ85などに残

ったのみで、武豊の火薬庫電車(日本油脂武豊工

場専用線1)や全国のローカル電車に売却された

ものを除き、処分された。

EC221モーターは、前述のデカ351・デキ50形・

デキ850形・起(おこし)線用モ40形等に転用され、

一部は昭和30年代まで使われた。

写真は、安城支線で働いていたモ85とその台車

に付けられていたM&G台車のメーカーズプレー

トである。本来M&Gの台車は、手ブレーキだが、

大正9年頃に空制に改造され、機器も名古屋市電

の1000形と同じ米国のアリスチャルマーを用い、

その工事にはドイツ人捕虜の助言を得たという。

本銘版は、名鉄資料館へ寄贈した。

M&G WARNER TRUCK

PAT №15059‐05 LICENSE UK №43167

CONSTRUCTED BY

THE M&G TRUCK & ENGINERING CL

TRUCK № 3372 35 TYPE

LONDON & NOTTINGHAM

▲ 銘版の写真と文字

※ T1Cコントローラーの写真は前号9頁の「18昭和30

年1月の名鉄岐阜工場で見た電車」に掲載済み

8 蒲郡線のSL、6250形

昭和16年頃の名鉄蒲郡線のイギリス製SL3両

集結は有名だが、13、709はすぐ東名港に取られた。

昭和18年からは明治海軍航空隊建設のために省

の稲沢機関区から6250形が蒲郡線に入った。期間

は昭和18年夏から19年の初めまでで、ト200形を2

両ほど牽いて、東幡豆~米津(碧西線)を無休で

走った。洗缶の時は稲沢に帰ったが、代機も6250

形が入線した。

東幡豆に石材積み込み用の臨時側線と木造水槽

が造られ、立体交差した幡豆石材軌道東線の真上

にト(貨車)が入った。

米津駅の西に広場が造られ、資材はここから航

空隊までトロッコで運ばれた。6250形の話は、記

録が残されていない。私より二年歳下の澤田幸雄

氏(西尾市在住)は、このトロッコを押したそうだ。

東幡豆の設備は戦後まで残ったが、航空隊への

トロッコ軌道は取り外され、米津のヤードに集積

されていたのを見ている。

6250形は昭和21年秋には名鉄渥美線でサツマイ

モを運び、名古屋市民の命を助けた。この間、昭

和19年初めから西尾線(旧)のレール撤去、次い安城支線のモ85

5

で碧西線の37㎏レールを30㎏に変え、その37㎏レ

ールを使い、新名古屋~金山橋間の複線建設が行

われ、豊川市内線の建設が進んだ。

また、昭和19年には堀田と福地に便槽を設け、

名鉄のトム900形に木造タンクを積んで、名古屋市

民の糞尿を運び、福地で全域の農家にこれを売っ

た。この貨物列車は、名古屋市全焼後廃止された。

福地のタンクは現存している。 ※ 本誌№13、6頁の「13 名鉄のオワイ列車」に福

地のタンクの写真あり。

9 名鉄神宮前西駅と貨物駅

太平洋戦争の開戦と共に工員輸送の比重が大き

くなり、常滑線が多客化し、これまでの神宮前駅

(東駅)では旅客がさばけなくなった。昭和17年

に広い神宮前西駅(通称:神西駅)が運河跡に開

設された。豊橋線は2両編成だが、常滑線はMT

Mの3連で、昭和18年からはデキ600が牽引する丸

産列車4両編成に拡大された。

戦後、神宮前西駅は、新舞子や河和への海水浴

輸送でにぎわったが、昭和37年に東海道線を乗り

越す複線跨線橋が完成し、常滑線が金山方面に直

通するようになり、旅客の西駅は廃止された。

昭和16年まで常滑線の貨物はずっと伝馬町をヤ

ード・貨物駅として扱ってきたが、軍事輸送の拡

大によって愛知製鋼や東名港の貨車がパンク状態

となり、昭和17年頃、電車ホームの南側に写真(本

頁下)の神宮西貨物駅を作った。しかし、いつも

ワム・ポ・タキ等の貨車のパンク状態は変わらず、

伝馬町ヤードにも流し、鉄道省の露橋ヤードをも

使うことで救われた。

戦後は再び貨車で満杯となった。東名港の重工

業、山崎川の石炭、愛知製鋼、常滑の陶器などで

活況を呈していた。下の写真は昭和31年12月に撮

ったものだが、その列車も15両、300tで定数一杯

だった。

このヤードの貨車は全て国鉄熱田駅に直通し、

昭和20年から40年まで常滑線の大量の貨物は、熱

田駅のC58がヤードに入って受け渡しをした。

熱田駅の入換機は、戦前は長らく6250形であ

ったが、戦後C58に代わった。いずれも先頭は

北向きだった。

常滑線の貨車は熱田駅からEF15などで各地へ

向かったが、下りは稲沢ヤードの大入換えなどで

貨車の歩みは遅かった。

上の写真は、昭和31年5月、名鉄からの引き揚

げを神宮前東駅から写したものである。

その後、常滑線山崎川信号場から分岐する側線

(燃料工場)への石炭運搬用のトムは漸減、昭和40

年頃東名古屋港一帯の専用線・側線の管理を名古

屋臨海鉄道に移管、昭和42年に8500形DLをフィ

リピンへ売却することで、常滑線の貨物は廃止さ

れ、貨物駅は消えた。

神宮西貨物ヤードは昭和10年頃まであった熱田

運河を埋め立てた上にあり、今はショッビングセ

ンター「パレマルシェ」の駐車場ビルになってい

る。

10 戦後、名鉄の貨物輸送

名鉄では戦前、戦後を通じて貨物収入が大きく、

貨物に従事する人は、旅客輸送関係者よりも大き

な力を持っていた。

戦後の昭和25年

~40年は、日本の

復興に伴い、名鉄

の貨物輸送も最盛

期であったが、当

時の名鉄幹部はア

メリカに学んで、

昭和30年頃より貨

物は名鉄運輸のト

ラックへ、旅客は

特急電車10分毎運

転との方針を立て

たのであった。

しかし、現実に

は高速道路もなく、神宮前西貨物駅のデキ400が引く列車

C5825の牽く列車

6

国道1号は江戸時代並みの道路では、鉄道貨物の代

わりはできず、名鉄沿線の荷主は自身で国鉄払い

下げの貨車を大量に買い入れ(車籍は名鉄)、駅

の貨物用配線の拡張も荷主の力(三河一色など)

でどんどん拡充し、昭和30年~40年は名鉄貨物の

最盛期となった。

名鉄自体も昭和37年には、ハワイアンブルーに

塗ったワム6000形貨車を新造している。

結局、国鉄貨物の自滅により名鉄貨物も全廃が

できたのであった。

昭和30年代、旧豊橋線(東部線)、常滑線とも

15両編成の貨物が次々と来て、三河線も重量貨物

になるとデキ300形では力不足で、デキ600形が応

援することもあった。

神宮前東駅からの旧豊橋線の貨物も戦後フル輸

送が続いたが、貨物ヤードのあった堀田駅は貨物

廃止で高架化(昭和44年)が実現した。

11 小牧飛行場線のDL化

名鉄は昭和30年に米軍から8500形DLの払い下

げを受け、新川工場で全整備の上、東名古屋港線

(重工業輸送)と小牧飛行場線(ジェット燃料輸

送)で、700形・1000形SLに代わって使用を始め

た。

DL8500は低速だが強力で、SLと違い急勾配

で停まりそうになっても停止や空転しなかった。

DLの教育は私が担当したが、8500形の低圧、

高速モーターや二段減速の近代設計は運転士に分

かるはずもなかった。電気モーターなのに水没も

平気で、水に弱い日本車と大差があった。伊勢湾

台風での復旧では主役となったのは承知のことで

ある。

昭和48年にフィリピンに売却してからも長く走

りつづけ、その丈夫さに驚いた。

下の写真は、昭和31年10月の撮影で、このころ

の主力戦闘機はF86で、大量に飛んでいた。

12 東名古屋港駅・大江駅の輸出車両

昭和17年頃、日車の鳴海工場で造った満鉄の客

車が東名港へ行くのを見た。緑色の車体に大きな

Ⅲのマークが付いていた。

朝鮮戦争(昭和25年)では、日車製のタキが大

量に東名港へ運ばれ、大江にも留置されていた。

USA70000代だったと思う。

大型SLのミカイも送られたが、見込み生産の5

両ぐらいは、昭和40年代まで日車の側線に留置さ

れていたが、解体された。

ボギー車は仮台車を履き、ワム等は新堀川から

船で名古屋港へ運ばれ、SLは落し込み式式のダ

ブルボギーのシキ1形で東名古屋港駅へ送られた。

2軸ボギーのシム1は国内の市電の車体輸送が

多く、東名古屋港は関係なかった。

神宮西の国1付近を行くシキ1とSLの写真を

「鉄道ピクトリアル」?に出した記憶がある。

13 名古屋電気鉄道13形

名古屋電気鉄道(→名古屋市電)の開業時、電

車は12両(1ダース)であったため、以後の初番が

13(通称13形)・38(同38形)・88となった。

13形と38形は7つ窓と8つ窓、ペックハム台車の

ホイルベースが異なるが、電気品はGE800形モー

ター1台、R11コントローラーと共通仕様だった。

シングルモーターの38形は、2個モーター88形な

どよりのろかった。LSBとなった頃からはGE

247モーター等になり、岐阜(美濃電)のDK30

装備車並みに高速化された。しかし、大正12年の

LSCからはMB35モーターになり、出力は大き

いが、スピードは大したことはなかった。

14 明治村へ来た名電1号形(札幌電軌22号)

この6月に札幌から明治村へ来た22号は、名電の

13~37のグループ(いわゆる13形)で、ペックハ

ム台車、7つ窓、1個モーターであるが、明治村

の制御器はWH社製のB18制御器で1個モーター

を扱っており、22号本来のGE社のR11制御器は

失われている。原型の主電動機はGE800であった

が、昭和35年に復元の際、40形の機器を流用した

ため、制御器同様WHの電動機に変わったという。

DL8584の牽く燃料輸送列車。SLは1017

7

▲ この6月明治村に里帰りした名電1号形(実

質は13形) 撮影:藤井

15 名古屋市電の電気品

名古屋電鉄(名古屋市電)38形は、GE800形25

馬力(12Kw)モーター1台にGE社R11制御器を

装備していた。

88形は最初、シーメンス製の2個モーターで、

以後、GEのほかWHやデッカー製が加わった。

デッカーとWH制御は、早々と淘汰され、GE

249(247)(40㏋)とWH323(33㏋・25Kw)

が大量に使われ、150形にも使われた。なかでもG

E249は最高に速く、ボギー車の1000形も同一であ

った。これはDK30を装備した岐阜の車両並みに

よく走った。

名鉄では古い電車であっても制御器、モーター

の形式、規格がよく残されて明確なのに対し、名

古屋市電のそれは記録性に欠け、不明確な事項も

多い。

戦後の記録でもLSBやLSCの制御器をKR

8とする等の無知もあり、僅かに昭和49年の交通

局発行の『名古屋を走って77年』の記述は正確で

ある。

しかし、有名なGEのB18形制御器なども「直

並列制御器」で片づけられ、形式の分かるのは1800

形のAB52のみである。

GEのB18制御器の使用は100番代から始まり、

鋼体化の150形に多く使われた。フェイスプレート

は、真鍮梨地にロマン書体であったが、大正中期

からB54に変わり、鋼製、黒塗り、ゴシック文字

となり、LSB等に多く使われていた。

B18やB54は全国各地で使われたので、記録さ

れていると思う。

全体として戦後しばらくは単車の電気品の記録

もあったが、その後の変化により失われた。他の

都市でも残っている所は無いのではないか。

名古屋市電ではLSC(338~)より国産機器を

採用、デッカーシステムのDB1-Kをコピーした

KR-8とMB35モーター(35㏋)となった。

16 各地であった電制テスト

全国の直接制御器では検査後の走行テスト記録

を残すことが実行されていた。ただし、中小会社

のトラムは別。各車庫の長い試験線で、全ノッチ

投入後、直ちに電制最終に投入し、完全に停止す

るまでノッチを戻さない。もし、途中で戻すと制

御器は焼けてしまう。制動中、車輪は滑りながら

ゆっくりと回っている。このテストは戦後行われ

なくなった。

大津や伊香保の降坂用は例外にして、直接制御

車での電制常用は稀であった。

17 名市電、名鉄の天井灯

市電2軸車の200番代~389(LSB,LSC)

は花形の優雅な電灯がついていた。市電1000形も

同様だったが、鋼体化で1050形になると管形電球

になった。電球は30CP位で明るかった。

名鉄の大正9年製モ350形も唐草セード(シェー

ドともいう。電球の傘)をモニターに斜め下向き

に2列に取り付けており、昭和40年頃まで使われ

た(写真あり)。このセードは戦前「すずらん灯」

と呼ばれ、美しかった。モ400形も同じセードであ

った。モ450形(初代)は「嫁入り電車」と呼ばれ

たほど豪華だったと言われるが、私は見ていない。

名鉄のモ600形(初代)・モ1060形以降は丸型の

グローブとなったが、モ1060形~モ3300形などの

1500V車の電球15個直列の天井灯は、球切れを探

すのが大変だった。

モ3400形の金色、角形、和風の灯具は歴史に残

るほどに豪華で美しいものであった。その写真は

戦前の小糸製作所のカタログに掲載されていた。

18 名古屋電気鉄道 二つの168形 明治45年、名古屋電鉄郡部線(鉄道線)に168

形38両などが使われた。車号は市内線(軌道線)

の8つ窓(のちのウバ車)の続番だったが、大正3

年に市内線に新型(落し屋根→新型化)が現れ、

168~と附番された。168形は後の名古屋市電LS

Aで、量産されたため鉄道線の168形と併存したと

思われる。

外見上は高床で、バッファーと2等車を示す青

帯で市内線の168形と区別できたが、事務的には不

便だったと思われる。

大正7年、鉄道線の168形はデシ500形に改称、

昭和初年にはボギー化でモ40形(清州線)、モ45

▲ 作画:白井 昭

8

形(八百津線)となり戦後まで走った。

デシ500形の仲間のSC2(→モ85)だけはドイ

ツ人の助けを受け、空制化された。アメリカのア

リスチャルマー製の機器は、名古屋市電1000形と

同じなので、この頃空制化されたと思われる。

名古屋市電のLSA~LSC(アッパ)のうち、

LSA、LSBは屋根端のRが小さく、車内の桁

はRが付いていた。LSCはRがきつく、車内桁

は角のままで、ランプはいずれもすずらん灯形だ

った。

官鉄系の客車(ホハ系)も落とし屋根でデッキ

と入口の上は唐草模様が施されていた。明治37年

頃から屋根端がR付きに改造されている。

落し屋根

・ドア無しが多い。

(例)

SSA(ウバ車)

ホハニ4100形

R付き屋根 ・ドア無し

(例)

LSA~LSC

(アッパ)

・ドア付き

(例)

SC2(モ85)

ホハ12000形

19 伊藤 剛さん亡くなる

同氏はこの6月24日に亡く

なられた。94歳であった。

昭和16年頃、日車で海南島

向けのホキを設計した。

中国より帰国されると、私

は時々日車へお訪ねした。昭

和32年頃、名古屋市電の800

形を設計。模型のSL「オー

ルドブラックジョー」も造られた。

家が近いので、私たち夫婦で家を訪ねたことも

あり、多くのことを教えていただいた良き先輩で

あった。なかでも米軍捕虜時代の話は面白かった。

※ 写真は、昨年2月、名古屋市科学館の名古屋模型鉄道

クラブの運転会で撮影(藤井)

前号の「白井 昭の一口メモ」訂正

6頁の「10 大井川鉄道の井川線廃線ウォーク」

の1行目、11月を「10月28日」にご訂正頂きたい。

事務局からお知らせ

博物館明治村の名電1号形の塗装について協力

この6月28日から公開された「名電1号形」の塗

装の考証について、明治村から協力の依頼があり、

今年1月18日に事務所に明治村の学芸員など3人が

来訪した。会員所有の着色絵葉書や資料を提示し、

当時の札幌の着色絵葉書や名古屋で走ったウバ車

で塗られた小豆色が無難ではないかと示唆しまし

た。また、当時、マスコミで流れた「名電1号」

という呼称は、1号電車と勘違いし、誤解をまねく

ので「名電1号形」としては、と指摘したところ、

その後は、これが使われた。

このことがあって、公開前日の27日の内覧会(記

念式典)に2名が招待されたので、藤井理事長と堀

会員が参加しました。

寄付・寄贈 2014年前期も会員をはじめ大勢の方から多数の

資料(書籍・雑誌・写真・資料・地図等)を寄贈し

て頂きました。厚くお礼申し上げますと共に、NRA

の貴重な財産として保存活用させて頂きます。

寄贈者名(敬称略)・会員外:石川治美、高橋啓

(順不同)・ 会員:氏名省略.

作画:白井 昭

NRA NEWS №17 2014.7.19

編集及び発行

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1・第3土曜日の午前10時からです。

時間がありましたら、ぜひご参加ください。