日本の始まり - z会の伝来...
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日本の始まり
日本は島国ですが,われわれの祖先は,いつ頃,どのようにして日本にやって来た
のでしょうか。また,当時の人々はどのような生活を送っていたのでしょうか。日本
の旧石器時代について,ふりかえってみましょう。
[1]日本の旧石器時代
●氷ひょう
河が
時代⇒日本列島は大陸と陸続き。
●ナウマン象・マンモス・おおつのじかなどの大型動物を追って,人々が大陸から日
本へやってくる。
[2]旧石器時代の生活
●打だ
製せい
石せっ
器き
⇒石を打ち欠いてつくった石器。
…狩りや木の実の採集などを行う。
●簡単な小屋や洞くつ・岩かげなどに住み,獲え
物もの
を求めて移動する。
●岩いわ
宿じゅく
遺跡⇒群馬県にある遺跡。1946年に関東ローム層から打製石器が発見され,
1949年の調査により日本における旧石器時代の存在が明らかになる。
旧石器時代 縄文時代 弥生時代
1万年前 3 2 1 2 3
1 日本の旧石器時代
氷河時代の日本列島
現在の陸地�
0 1000km
当時の陸地�
野尻湖�
岩宿�
さらにくわしく氷河時代は100万年前から約1万年前まで続き,寒さのきびしい氷
ひょう
期き
が4回,やや温暖な間
かん
氷ぴょう
期き
が3回,交互におとずれました。
さらにくわしくナウマン象は朝鮮半島を通って,マンモスはシベリアを通って,日本にやってきたと考えられています。長野県の野尻湖
の じり こ
からは、ナウマン象やおおつのじかなどの骨の化石が多く出土しています。
関連岩宿遺跡が発見されるまで,日本には旧石器時代は存在していなかったと考えられていました。
紀元前4 世紀
紀元後1 世紀
*「要点」は『Z Study サポート』に1年分をまとめて掲載。実際の教材ではサイズはB5です。
高校受験コース 中学2年 社 会 ハイレベル・スタンダード 「要点」見本
気候の大きな変動によって,日本の自然のようすや人々のくらしは,大きく変化し
ました。このころから人々は,土器を使うようになりました。ここでは,縄文時代の
ようすや人々の生活について学習しましょう。
[1]縄文時代
①時期
●約1万年前に氷河期が終わり,海面が上昇して日本列島ができる。
●縄じょう
文もん
時代⇒約1万2000~1万年前ごろから,紀元前4世紀ごろまでの時期。
②自然環境の変化
●気温の上昇などで大型動物が絶滅し,しか・いのしし
などの小動物が増加する。
●森林が広がり,食用となる木の実,植物が増える。
③土器の登場
●食料を煮たきするための土器がつくられる。
●縄文土器⇒厚手でもろいものが多い。
…表面に縄なわ
目め
の文様がついているものが多いことから,
縄文土器とよばれる。
[2]縄文時代の生活
①生活
●狩り⇒弓矢や犬を使う。
●採集⇒木の実や植物・貝などをとる。
●磨ま
製せい
石器⇒表面を鋭くみがいてつくる。
●骨こっ
角かく
器き
⇒動物の骨・角などでつくったつり針・もりなど。
②住居・社会
●竪たて
穴あな
住居⇒地面を掘り下げ,上に草ぶきの屋根をかける。
●広場のまわりに数軒の竪穴住居が並び,むらをつくる。
●貝塚かいづか
⇒人々が捨てた貝がらや,動物・魚の骨などが積も
った場所。
…当時のごみ捨て場。
●貧富の差のない平等な社会。
…狩りや採集は集団で行い,食料は平等に分ける。
③風習
●自然を神として信仰する。
●土ど
偶ぐう
⇒主に女性をかたどった土製の人形で,豊かな食料
を願うなどのまじないに使われた。
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2 縄文時代
縄文土器
さらにくわしく縄文時代の遺跡は中部・関東・東北地方に多いので,これらの地方は食料に恵まれて人口も多かったと考えられています。平均寿命は男女とも30歳程度でした。
さらにくわしく世界の歴史では,磨製石器と土器を使い,農耕・牧畜が始まった段階で新石器時代に入ったとされます。日本の縄文時代は,磨製石器と土器が登場しているので一応新石器時代に分類されますが,農耕・牧畜はまだ本格的には行われていませんでした。
関連1877年にアメリカ人の動物学者モースが大森貝塚を発見し,日本で最初の発掘調査が行われました。
土偶
約1万年ほども続いた縄文時代が終わると,日本は弥生や よ い
時代に入りました。縄文時
代とくらべて,弥生時代のようすや人々の生活は,どのように変化したのでしょうか。
中国や朝鮮など大陸との交流にも注目してみましょう。
[1]弥生時代
①時期
●弥生時代⇒紀元前4世紀ごろから,紀元後3世紀ごろまでの時期。
②稲作いなさく
の伝来
●稲作⇒紀元前4世紀ごろ,朝鮮半島・中国から北九州に伝わる。
…西日本に広まった後,東北地方にまで伝わる。
③金属器の伝来
●青銅器・鉄器が稲作と同時期に伝わる。
●青銅器⇒主に,祭りのための宝物,むらのかしらの
地位を表す道具などとして使われる。
…銅鐸どうたく
・銅剣どうけん
・銅どう
鏡きょう
・銅矛どうほこ
など。
●鉄器⇒木製農具をつくるための工具,武器などに使
われる。
…鉄は貴重であったため,石器も広く使われてい
た。
④土器
●弥生土器⇒薄くて丈じょう
夫ぶ
なものが多く,装そう
飾しょく
が少なく
質素。
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PPPPOOOOIIIINNNNTTTT縄文時代の人々は縄文土器や磨製石器を使い,竪穴住居に住んでいた。
3 弥生時代
銅鐸
関連銅鐸は,祭りのときに使われたつりがね形の青銅器で,表面に狩りや米づくりのようすが描かれたものもあります。
関連東京都文京区弥生で発見されたことから,弥生土器とよばれます。
発展Step Up!
縄文時代の風習
自然条件に生活が大きく左右された縄文時代には,呪じゅ
術じゅつ
的な風習が数多く見られました。成人
になるための儀式として,抜ばっ
歯し
(前歯を抜く)が行われました。また,石に囲まれた大きな立石
をつくったり,死者を埋葬まいそう
するときに魂が生き返らないようにと,手足を折り曲げて埋葬したり
しました(屈葬)。
PPPPOOOOIIIINNNNTTTT弥生時代には,稲作が広まり金属器が使用された。
[2]弥生時代の生活
①生活
●低地に水田をつくり,稲作を行う。
…木製の農具で耕たがや
し,稲もみをじかにまき,石包いしぼう
丁ちょう
で穂をつみ取って収穫する。
●高たか
床ゆか
倉そう
庫こ
⇒収穫物を貯蔵するためにつくられた倉庫。
②住居・社会
●稲作に適した低地に,竪穴住居をたててむらを形成する。
●たくわえた食料・用水などをめぐって争いが増える。
…支配者が現れ,貧富・身分の差が生じる。
●有力なむらはまわりのむらを従える。
…各地に小国ができ,支配者は豪族や王に成長。
●吉よし
野の
ヶが
里り
遺跡⇒佐賀県にある弥生時代の大規模な集落跡。二重の濠ほり
をめぐらし,物
見やぐらや高床倉庫がつくられた。
解答
� 旧石器時代 � 貝塚 � まじないなどに使われた。 � 稲作 � 高床倉庫
チェック問題
� 打製石器が使われ,狩りや採集が行われていた時代を何といいますか。 ( )
� 縄文時代の人々が貝がらなどを捨てた当時のごみ捨て場を何といいますか。 ( )
� 縄文時代につくられた土偶は,どのようなことに使われたと考えられていますか。簡単に説明しなさい。
( )
� 金属器と同時期に大陸から日本に伝わったものは何ですか。 ( )
� 弥生時代に,収穫した穀物を保存するためにつくられた倉庫を何といいますか。 ( )
まとめ
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日本列島の成立�
▲�
▲�
▲�
旧石器時代�・打製石器�
縄文時代�・磨製石器�・縄文土器�・貝塚,土偶�
弥生時代�・稲作・金属器�・弥生土器�・高床倉庫�
さらにくわしく農耕によって安定的な食料生産が可能になったため,人口が増え,むらの規模は大きくなりました。このような中,農作業やむらの運営の中心となる指導者が生まれ,またたくわえた食料の差などによる貧富の差も生じるようになりました。さらに,農地や用水の確保などをめぐってむら同士の争いも発生するようになりました。
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国の出現~大和政権の成立
弥生時代の後半,日本は数多くの小国に分立し,3世紀には西日本で邪や
馬ま
台たい
国こく
が栄
えました。当時の日本のようすを見てみましょう。
[1]紀元前後ごろの日本
●倭わ
には100余りの小国が分立。
…中国の歴史書(『漢書かんじょ
』地ち
理り
志し
)に記録が残る。当時,
中国では日本を倭,日本人を倭わ
人じん
とよんでいた。
●1世紀半ば,倭の奴国なのくに
の王が漢(後漢)の皇帝に使いを送
り,皇帝から金印を授けられる。
[2]邪馬台国
①3世紀の東アジア
●中国⇒漢がほろび,魏ぎ
・呉ご
・蜀しょく
の3国に分かれて争う。
●日本⇒西日本で邪馬台国が栄える。
…中国の歴史書『魏ぎ
志し
』倭わ
人じん
伝でん
に記録が残る。
②『魏志』倭人伝による邪馬台国のようす
●女王の卑弥呼ひ み こ
が30余国を従える。
…占い・呪術によって政治を行う。
●王から奴ど
隷れい
までの身分の違いがある。
●239年,卑弥呼は魏に使いを送る。
…魏の皇帝から,金印・銅鏡100枚と「親しん
魏ぎ
倭わ
王おう
」の称号を与えられる。
1 小国の分立と邪馬台国
弥 生 時 代 古 墳 時 代 飛鳥時代
紀元前 1 2 3 4 5 6 7世紀1世紀
金印に刻まれた文字
PPPPOOOOIIIINNNNTTTT邪馬台国の女王卑弥呼は,30余国を従え,中国の魏に使いを送った。
さらにくわしく江戸時代であった1784年,福岡県志
し
賀かの
島で,「漢
かんの
委わの
(倭)奴国王なのこくおう
」と刻まれた金印が発見されました。印面は1辺2.3�,重さ109�で,奴国の王が後漢の光
こう
武ぶ
帝てい
から授けられた金印といわれています。このときの記録は,中国の歴史書である『後漢書』東
とう
夷い
伝に残されています。
3世紀後半ごろから大和地方(奈良県)を中心とする地域に,王や豪族の墓として
古こ
墳ふん
がつくられるようになり,この時期には大和(奈良県)を中心とする地域に大和
政権とよばれる政権が生まれました。そのようすを見てみましょう。
[1]古墳文化
①古墳の出現
●古墳⇒各地の国を支配する王や豪族の墓。
…古墳の大きさは,地位や勢力の強さを示す。
●3世紀後半から4世紀にかけて近畿・瀬戸内海沿岸地域に古墳が出現し,以後各地へ
広がる。
●大和地方(奈良県)には巨大な古墳が多くつくられる。
●古墳がつくられた3世紀後半から6世紀ごろまでの時代を古墳時代という。
②古墳の種類
●円墳えんぷん
,方墳ほうふん
,前方後円墳ぜんぽうこうえんふん
などがある。
●前方後円墳には巨大なものが多い。
●大仙だいせん
(大山)古こ
墳ふん
⇒大阪府堺市にある日本最大の前方
後円墳。世界でも最大級の墓。
…仁徳にんとく
天皇の墓とされている。
③古墳からの出土品
●はにわ⇒人物・家屋・馬などをかたどったものや円筒えんとう
形
の素焼きの焼物。
…古墳の周囲や頂上に置かれる。
●古墳内部の石室・棺かん
に,死者とともに鏡・玉・剣・武器・馬具などが納められる。
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発展Step Up!
邪馬台国の位置
『魏志』倭人伝には,邪馬台国の位置に関する記録も残されています。しかし,その方角や距
離などが正確に記されていないことから,江戸時代以降,多くの学者が研究を続けてきましたが,
現在もなおその位置は確定していません。研究者の意見は大きく分けると九州説と大和やまと
(畿内)
説の2つになりますが,邪馬台国の位置の確定は日本の統一の時期とも大きく関係してきます。九
州説をとれば日本の統一は邪馬台国がほろんだ3世紀末になりますが,大和説をとれば邪馬台国
の勢力が北九州にまでおよんでいたことになり,3世紀前半には邪馬台国による日本統一が成し
とげられたことになります。
2 古墳文化と大和政権
さらにくわしく
近畿地方のほか,日ひゅう
向が
(宮崎県),筑紫つくし
(福岡県),出雲いずも
(島根県),吉き
備び
(岡山県),毛
け
野ぬ
(群馬・栃木県)などには大きな古墳がまとまってつくられていることから,これらの地域には有力な豪族がいたことがわかります。
馬型のはにわ
[2]大和政権の成立
●3世紀後半から4世紀ごろ,大和地方の有力な豪族が連合して大和やまと
政権をつくる。
●5世紀には,九州から東北地方南部までを統一する。
…大和政権の支配者は,中国では倭わ
王おう
,国内では大王おおきみ
とよばれた。
[3]大和政権の外交
①4世紀の東アジア
●中国⇒国内が分裂し,5世紀には遊牧民
族の北朝と漢民族の南朝に分かれる南北
朝時代となる。
北部…高コ
句グ
麗リョ
が勢力を伸
ばこう
すく
。 り
南部…小国を統一して百ペク
済チェ
と新シル
羅ラ
がおこる。くだ
●大和政権は百済や,小ら
国が分立していた
加羅カ ラ
(任イム
那ナ
)地方の国々と結び,高句麗
やか
新ら
羅とみま
戦な
う。
②中国との関係
●5世紀ごろ,大王が中国の南朝に使いを送る。
…倭王としての地位と,朝鮮南部の支配権を認めてもらうため。
[4]大陸文化の伝来
●渡と
来らい
人じん
⇒朝鮮半島・中国から日本に移り住んだ人々。
…大陸の優れた文化を日本にもたらし,朝廷の記録や財政の仕事にたずさわる。
●生産技術の伝来⇒鍛か
冶じ
,造船,須す
恵え
器き
(かたい質の土器),養蚕ようさん
,機はた
織お
りなど。
●土木技術の伝来⇒かんがい用のため池,堤防づくりなど。
●学問の伝来⇒漢字・儒教。
●仏教の伝来⇒6世紀前半,百済の王から仏像や経典が公式に伝えられる。
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●朝鮮半島⇒
高句麗�
倭�
北 朝� 新羅�百済�
加羅(任那)�
南 朝�
洛陽�(ルオヤン)�
さらにくわしく大和政権のもとでは,豪族は,氏
うじ
という祖先を共通にする集団をつくり,姓かばね
をあたえられて代々朝廷の決まった仕事を受けもつことになっていました。これは,豪族を,大王中心の支配体制に組み入れるためのしくみで,これを氏
し
姓せい
制度とよんでいます。大和政権に従った地方の豪族は,国造
くにのみやつこ
・県主あがたぬし
などに任命されて地方の政治をまかされ,朝廷に貢
みつ
ぎ物を納めました。
関連「大王」に代わって「天皇」という称号が用いられるようになるのは,7世紀の天てん
武む
天皇のころからです。
さらにくわしく大和政権は,大和王権,大和朝廷などといわれることもあります。朝廷とは中央の政庁のことで,大王を中心に政治の行われた場所をさします。
5世紀ごろの東アジア
しら ぎ
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解答
� 奴国 � 邪馬台国 � 大仙(大山)古墳 � はにわ � 大和政権
チェック問題
� 1世紀半ば,中国の後漢に使いを送り,中国の皇帝から金印を授けられた国を何といいますか。
( )
� 3世紀,30余りの小国を従え,女王卑弥呼が支配していた国を何といいますか。 ( )
� 世界最大級の墓といわれる大阪府堺市にある前方後円墳を何といいますか。 ( )
� 古墳の周辺や頂上に置かれた素焼きの焼物を何といいますか。 ( )
� 3世紀後半から4世紀にかけて,大和地方の豪族が連合してつくった政権を何といいますか。
( )
まとめ
小国の分立 奴国の王が漢に使いを送る
邪馬台国 『魏志』倭人伝の記録
女王卑弥呼による統治
古墳文化 王や豪族の墓
前方後円墳→大仙古墳は世界最大級の墓
大和政権 大和地方の豪族が連合して成立
大王による支配
朝鮮半島に進出→百済・加羅と結ぶ
渡来人の活躍
発展Step Up!
倭の五王
5世紀初めから約100年の間に,5人の大王が中国の南朝(宋そう
)に使いを送ったことが,『宋書そうじょ
』
という中国の歴史書に記されています。『宋書』倭国伝には,「倭の五王」が,日本の大王として
の地位と,朝鮮南部を軍事的に指揮する権利を認めてくれるよう,使者に貢ぎ物とともに手紙を
もたせていたことが記されています。五王のなかの最後の王である武ぶ
は,埼玉県の稲いな
荷り
山やま
古墳で
出土した鉄剣に刻まれた「獲ワ
加カ
多タ
支ケ
鹵ル
大王」と同一人物とされ,雄ゆう
略りゃく
天皇ではないかと考えられ
ています。