「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研...

15
『社会契約論』の人間論的基礎 一一 S面的譲渡論研究(2)一 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ た場合,市民的秩序のなかに,正当にして確実な政治上の原則がありうるかど うカ㍉これを私は研究したい」これはr社会契約論』冒頭の文章である。ここ で我々はまず,rあるがままの人問」とrありうる法」とが結びつけられてい ることに注意すべきである。決してrあるべき人間」が前提され,rあるべき 法をとらえようとしているのではない。ともすると,ルソーのr契約論』は, あるべき理想の社会,一種のユートピアを提示していると理解されがちであ る。即ち,現実とは切断され,現実にありえない社会の構想であるとされるの (1) である。果してそうであろうか。先の文章は,明らかに,ルソーが現実の人問 から出発して,いかなる法の原理がありうるかという問題を追究しようとして いることを示しているのではないだろうか。この点は,『契約論』の世界の理 解のし方にとって極めて重要な点である。 そこで,『契約論』の内的原理,及びそのよってたつ基盤を明らかにするた めには,まずもってこの「あるがままの人間」,『契約論』の前提としての現実 の人間を吟味する必要があろう。しかしながら,『契約論』においては,ルン (2) 一は必ずしも具体的に,その前提を明確にしてはいない。特に『定稿』におい てそうである。少なくとも『ジュネーヴ草稿』においては,第1編第2章「人 類の一般社会について」という章において,現実の人聞と,その人問のおかれ た現実的な状況についての一定の見解が示されている。しかしこれは『定稿』 において削除されている。 ところで,この吟味にあたっては次の二点に注目したい。一つは,ルソーに 1

Upload: others

Post on 17-Aug-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

『社会契約論』の人間論的基礎

一一 S面的譲渡論研究(2)一

渡 辺 茂 樹

  「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

た場合,市民的秩序のなかに,正当にして確実な政治上の原則がありうるかど

うカ㍉これを私は研究したい」これはr社会契約論』冒頭の文章である。ここ

で我々はまず,rあるがままの人問」とrありうる法」とが結びつけられてい

ることに注意すべきである。決してrあるべき人間」が前提され,rあるべき

法をとらえようとしているのではない。ともすると,ルソーのr契約論』は,

あるべき理想の社会,一種のユートピアを提示していると理解されがちであ

る。即ち,現実とは切断され,現実にありえない社会の構想であるとされるの  (1)である。果してそうであろうか。先の文章は,明らかに,ルソーが現実の人問

から出発して,いかなる法の原理がありうるかという問題を追究しようとして

いることを示しているのではないだろうか。この点は,『契約論』の世界の理

解のし方にとって極めて重要な点である。

 そこで,『契約論』の内的原理,及びそのよってたつ基盤を明らかにするた

めには,まずもってこの「あるがままの人間」,『契約論』の前提としての現実

の人間を吟味する必要があろう。しかしながら,『契約論』においては,ルン

                              (2)一は必ずしも具体的に,その前提を明確にしてはいない。特に『定稿』におい

てそうである。少なくとも『ジュネーヴ草稿』においては,第1編第2章「人

類の一般社会について」という章において,現実の人聞と,その人問のおかれ

た現実的な状況についての一定の見解が示されている。しかしこれは『定稿』

において削除されている。

 ところで,この吟味にあたっては次の二点に注目したい。一つは,ルソーに

                                1

Page 2: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

 一橋研究第30号おける社会性(sOciabilit6)の問題であり,それは,ピチエ(piti6)の問題と

深く関連しているものである。もう一つは,ルソーの意志論である。この二点

は,「あるがままの人間」から出発して,ルソーが,社会形成の客観的・原理

的な可能性を何に見出そうとしているのかを知る上で特に重要な点である。そ

してまた私は,それらの点の解明から,ルソーの『契約論』が,徹底した下か

らの社会形成理論であること,「哲学者たち」即ち,啓蒙の自然法思想家の批

判を通して,広く民衆の主体的解放を意図した,まさしく普遍的な人間的基礎

の上にたつ社会形成理論であることを示したい。

1.ルソーにおける社会性の問題について

 社会性に関するルソーの見解には,かなり微妙な問題点が含まれている。社

会性の原理を肯定しているのか否定しているのか,他の自然法思想家達のよう

には単純に判別し難い。そこにルソーの独自の理論的立場があり,他の思想家

達との関係を見ることができる。近代の自然法思想に特徴的な社会性の問題

は,ある意味でその思想家のイデオロギー的立場を知る上で,最も重要なもの

であ私自然法のとらえ方を,この社会性の問題についての見解に集中して探

ることができるともいえるほどである。

 まず,自然法思想の伝統においては,ホッブズを例外として,ほとんどの者

が,人間の本性上の原理として,自然的な社会性の原理を肯定し,社会契約

論,あるいは社会=国家形成理論の重要な支柱としてい礼典型的にはグロチ

ウスであり,プーフェンドルフ,あるいは百科全書派もほとんどこの原理を継

承している。またロックも,必ずしも同じ意味においてではないが,基本的に

社会性の原理を受け入れ,またフランスには,モレリの社会性の主張がある。

 このような中にあってルソーはどうであろうか。まず,よく知られているよ

うに,ルソーは,自然状態においては,社会性の原理を導入する必要はないと

している。一見するとこの見解は自然的社会性の原理を否定し,その点におい

て,ホッブズの見解と類似しているように見える。しかし,両者は,自然状態

について,戦争状態とするか平和状態とするかという対立において見られるよ

 2

Page 3: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

                      『社会契約論』の入間論的基礎

うに,全く相異なることは言うまでもあるまい。そして,ルソーのホッブズに

対する根本的な相違点が,自然人の自己保存の情念についての,自尊心(amOur

propre)に対する自己愛(amOur de sOi),また自己愛の活動を和らげるもの

としてのピチエの主張にあることも承知の如くである。

 そこでまず,ルソーにおいては,このピチエが,他の諸条件と相まって,自

然の平和状態を,あるいは,人間の共存を保証するものとして設定されている

ことにおいて,社会性の原理と一定の関連をもっているといえる。従ってここ

ではひとまず次のことを指摘するにとどめておこう。即ち,ルソーは,人間本

性上の特質として,ホッブズにおけるように,自然的社会性を原理的に否定し

たのではないこと,またしかし,ルソーの自然状態は,別の独自な観点から,

それ自体として調和・均衡が保たれるとされるのであり,事実上ピチエは発動

の機会をほとんどもたず,それ故に,社会性の原理は何ら介入する必要がない       (3)ということである。

 ところで,社会性の原理が最も問題となるのは自然状態から社会状態への移

行,及び,社会秩序の確立の可能性の根拠の問題においてであ乱この点につ

いてのルソーの見解は明確である。ルソーは自然状態から出る動機として,あ

るいは社会状態の秩序を保証するものとしては,自然的社会性の原理を,究極

的に拒否している。

 しかし,この点についてのルソーの主張の根拠も単純なものではない。ただ

単に,人間本性上の問題として,伝統的観念を否定しているのではないからで

ある。まず,ルソーにおいて,自然状態から社会状態への移行は,rいくつか           (4)の外的な原因の偶然の協力」によるものとされている。例えば,r言語起源論』

においては,自然の天変地異が人間の結合を促し,その結果人間は社会的にな      (5)るとしている。いずれにせよ,ルソーは人問本性が動因となり,それ自身が発

展した結果として社会をとらえることを拒否している。このルソーの見解は,

神義論と深く関連している。というのは,ルソーは現実は悲惨で不幸な状態で

あるととらえ,その状態が人間本性そのものによるものではないことを証明す

る必要があるからである。結局のところ,社会状態への移行をどう理解するか

                                 3

Page 4: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

 一橋研究第30号によって,社会性の原理の導入のし方が異ってくると言えよう。

 次に,最も問題となるのが,社会形成における自然的な社会性の原理の介入

の問題である。既に,移行問題において,ルソーの理論的立場はある程度明確

になってはいるが,より深く考察してみる必要がある。

 先に,自然的な社会性の原理と一定の関係をもつとしたピチエは,まずルン                (6)一の設定において,r理性に先立つ原理」であり,rいっさいの反省に先立つ自      (7)然の純粋な感情」としていることに注意する必要がある。ここでひとまず,ピ

チエは理性,あるいは反省能力と対立している。しかしより重要なルソーの見

解は次の点にある。ルソーによれば,ピチエはr未開人においてはおぽろげで                                 (8)はあるが活発で,文明人においては発達しているが弱い感情にほかならない」

のである。このルソーの見解は,『不平等諭』においては,より具体的に展開

されていない。それはr言語起源諭』及びrエミール』に示されている。それ

らからルソーの見解を要約すれば,ピチエはまず何よりも自然の感情ではある

が,その真の発達は,人問の諸能力,即ち反省力,判断力,想像力,あるいは

理性の発達と相伴う時にのみありうるということである。

 ところで,ルソーにおいて,そうした理性その他の人間的諸能力の発達は,

全て社会の発達と共にある。従ってピチエを一定の社会性の原理としてとらえ

てみれば,社会性の原理と社会形成の関係は,伝統的な自然法思想におけるも

のと全く逆になっていることが分る。まさしく,ルソーからみれば,そのこと

は原因と結果のとりちがえに他ならないのである。更に,ルソーにおいて,も

し仮りに伝統的な社会形成理論を認めるとしても,先に示した,社会性の原理

と理性との結びつき方が,非常に問題なのである。

 グロチウスにおいて典型的に見られるように,社会性の原理は,自然法原理

の二大支柱として理性と共に設定されているものである。他の自然法思想家も

何らかの意味で,人問理性を前提として社会性の原理を主張する。ルソーもそ

れを決して原理的に否定していない。しかし,問題は,果して理性の発達は,

社会性の真の発達と結びつくかという点にある。ルソーは明確にそれを疑問視

しているのであり,それは,『不平等論』第二部全体を通じて示されている。ル

 4

Page 5: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

                      r社会契約論』の人間論的基礎

ソーによれば,社会の発達,言い換えれば社会関係の拡大は,確かに理性その

他の人間的諸能力の発達を促す。しかし,そのことは必然的に,人間の自己保

存の情念の変質を伴う。即ち,自己愛の自尊心への変質であり同時にピチエも

また変質する(d6naturer)。理性は,自尊心を生み出し,反省がそれを強める

のである。従って,理性はピチエの発達を促すどころか,ただ,個人的な利害

計算の理性としてのみ機能し,人間相互の対立と競争を激化させる。そしてつ

いには,富者の理性の優位によって,貧者に対する圧迫の体制としての政治的

社会=国家の成立に至るとルソーはみている。即ちルソーにおいては,理性と

社会性の原理との結合は,全く成り立たない前提でしかない。それどころか,

ルソーが鋭く見抜いたことは,その前提は全て,事実の弁証,現実の国家形成

の正当化の強力な基礎であること,あるいは現実の国家への批判をなすとして

も,結局は,社会秩序の安定を理性的な啓蒙君主に期待することにとどまると

いうことである。

 こうした点は,つきつめれば結局,現実の社会の発展に対してどういう態度

をとるかによっていると言えよう。ルソーの鋭い現実批判意識は,楽観的,肯

定的な自然法思想家に対する根底的な批判を投げかけることになる。

 確かに,ある意味ではルソーは社会の現実的発展に対して徹底して悲観的で

あり,文明に対して全面的な否定を投げかける。こうした現実の社会に対する

ペシミスティックな認識としてはホッブズと極めて類似しているところがあ

る。ホッブズの自然状態論とは,まさしく,そうした現実をそのまま理論化す

ることによって成り立っているものに他ならない。しかしここでルソーのピチ

エの設定が,ホッブズとの全面的な対立においてなされていることを思い起さ

なくてはならない。既に明らかなように現実の人間の基本的情念が自尊心であ

るというルソーの見解は,社会の発達による自己愛の変質の結果として示され

ているのであって,決してホッブズにおけるように,人問本性上の特質ではな

い。ここにおいて,ホッブズの分析的方法に対するルソーの発生史的方法が意       (9)義をもつのである。ルソーが自然法思想家全体に与えた批判点,即ち,彼等の

言う自然状態とは結局社会状態に他ならないという点も,ルソーのこの発生虫

                                 5

Page 6: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

 一橋研究第30号的方法によって論証されているものである。

 このルソーの発生史的方法による自然状態の描写,そこにおけるピチエ論は

次の諸点において重要である。第一には,ピチエは徹底して,自然的にして人

類共通の普遍的特性であり,rどんなに堕落した習俗といえども破壊するのが

困難なものである」とされていることである。従って,確かに文明人においては

現実に効力は弱いものでしかないのであるが,決して打ち消されたり,喪失さ

れたりするものではない。ただ,利害心と結びついた人為的な情念である自尊

心によって,いわば沈黙させられているにすぎない。そこでもし何らかの方法

によって,この利害心,あるいは自尊心を再度変質させ,正常な理性の発達と

結びつくことが出来れば,自然の感情は再びその力を発揮することが出来ると

いう展望をもつことは,原理的には可能である。このいわば第二の変質(d6-

naturatiOn)こそが『契約論』の一つの課題,即ち人間論的課題である。そし

てまた,「あるがままの人間」から出発し,『不平等論』の帰結からは一見絶望

的に見える状況から,秩序ある社会の形成の可能性を展望しうるのも,こうし             (lO)たピチエの特質によるのである。

 第二点としては,ピチエが文明人において弱いのは,必ずしも全般的なもの

ではないという点である。ルソーは,r不平等論』において,未開人における

ピチエの力を語りながら,あわせて下層民においてもまたこの感情が強く生き

ていることを述べている。そしてこの下層民に対置されているのが理性あるい

は反省力をもった「哲学者」に他ならない。ルソーの理論的努力というもの

は,この理性的,反省的能力においては劣る下層民,広くは民衆が,理性中心

の時代にあっては結局正道され,正当な自然的権利を保証されず,社会の主体

的構成員として認められないこζを鋭く感じとったところから出発しているの  (1I)である。

 さて,こうして「あるがままの人間」の前提条件をピチエを中心とする社会

性の問題において考察してきた。そして,現実から出発することからも,ある

一定の社会形成の可能性を解明することが出来た。しかし,現実の文明社会に

おける人間の情念が自尊心であり,理性と結びついている以上,一般的には杜

 6

Page 7: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

                      『社会契約論』の人間論的基礎

会形成の前提としてピチエを設定出来ないことは明らかである。更にまた,ピ

チエは本来自然的な感情であり,人間相互の共感能力としては重要な意味をも

つとはいえ,ピチエがそのまま社会形成能力とはいい難い。いわば社会性の感

情的基礎とも言うべきものであり,社会形成におけるよりも,社会秩序の安定

性の基礎としての役割において重要な意味をもつものである。そこで次に,こ

のピチエ加えて,社会形成により強い基盤として,他にどのような前提条件を

見出すことが出来るか,それを更にrあるがまま人間」のうちに探ってみた

い。

2.ルソーの意志論について

 既に考察してきたように,『契約論』の前提とする「あるがままの人問」に

おいては,各人の自己保存の追及は,基本的に自尊心の情念,即ち自己優先

(Pr6f6rence)の感情によって導かれている。従って各人の利害は,相互に対

立し,社会は無秩序であり,そのままにおいては秩序ある体制に向う自然的傾

向はない。まさしくこの限りにおいてはホッブズの戦争状態と変るところはな

い。そこで,ルソーはこの現実からどのようにして法の原理にもとづく社会を

ありうるものとして展望しようとするのだろうか。この点の解明を意志論に関

連づけて考察する際には,先の社会性の問題以上にホッブズと対比することが

有効な手段である。

 ルソーとホッブズとの対比において把握する必要があるのは,現実の人間の

悲惨と悪の原因の問題である。くり返すまでもなく,ホッブズの見解は,悪の

源泉を人間の本性にあるとするものであり,ホッブズはそこで性悪説をとって                           (12)いる。ルソーはそれを原因と結果のとりちがえであると指摘し,自らの性善説

を対置し,そこから出発して現実の悪の現象を説明しようとしているのであ(13〕

る。

 ところで,まずルソーの性善説について若干解明しておく必要があろう。ル

ソーの性善説はある意味で次のことばに集約されているとみることが出来る。                                 (14)ルソーによれば,rよいことを望まないでいることは私の自由にはできない。」

                                 7

Page 8: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

 一橋研究第30号ここに示されているように,人間が善なるものであるというのは,善を行うか

否かという意味においてではなく,人間は本来常に善を欲する存在であるとい

う意味で理解する必要がある。神は人間が悪いことをすることを欲してはいな

                      (15)い。しかし「神は人間が悪いことをするのを妨げない。」人間は悪をなしうる

し現実に悪をなしている。しかし悪を欲してなすのではなく,善を欲しながら

悪をなしているのである。人間は意志において常に善性を保っている。これが

                       (16)ルソーの性善説の核心であり,「一般意志は常に正しい」という時,一つには

この意志の善性が基礎となっているのであ糺

 ところで,ルソーは更にホッブズと対立する重要な見解を提出している。そ

れは,ルソーが常に人間をこうした善を意欲する力をもった能動的な存在者

(εtre actif)としてみようとしている点である。ホッブズにおいては,人問

が悪をなすのは自尊心の情念によるものとされる。確かにそれは自己保存のた

めの積極的行為の結果ではあるが,その行為の動因は全く情念によるものとさ

れる。このことはルソーから見れば,人問を原理的に受動的存在としているこ

とになる。何故なら,人間が感情,あるいは情念をもつことは人間の自由にな

らないからである。このような意味で人間は一方では受動的存在である。しか

し他方,人間は意欲し,判断し,選択するという能動的な力(fOrce active)

を持っている。これこそが,r不平等論』でいわれた,動物と区別される人間                  (17)の特質としての「自由な動因(agent libre)」に他ならない。そして「意志は                  (1畠)感官から独立し」「いつも何かを欲する力」を人間はもっている。そのことに

おいて人間は,肉体的欲求から由来する情念から自由であり,能動的な存在者

なのである。

 そこでルソーによれば人間が悪をなすのは,能動的行為のための人間的諸能

力を悪用し,濫用することによるのである。しかしまた「能力の悪用それ自体          (20)が,能力を証明している」のである。「我々が悲惨になり悪人になるのは,能力              (21)をまちがってもちいるからである。」我々はいつも善を欲する力はもっている

が,それを実行する力があるとは限らない。あるいはより正確に言えば,欲す

ることと実行することがつり合うとは限らない。まさしく,欲することを行う

 8

Page 9: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

                      r社会契約論』の人間論的基礎

ことが出来る者こそが真に能動的な存在であり,自由な者である。神がそうで

あり,人問もまた神によってそのようにつくられていて,自然人においては欲

求とカの均衡が保たれているが故に幸福であり,自然状態は平和なのである。                         (22)r欲望と能力の間の不均衡のうちにこそ我々の不幸がある。」しかし社会の発

達は欲望をかきたて増大させ,それがカを越えるとき,同胞の援助が必要とな

る。こうした相互的欲求の生み出すのが一般社会といわれるものであり,ディ

ドロが人類社会の基礎としてとらえようとしたものである。しかし既に明らか

なように,こうした一般社会は「みじめになった人問に対して確かな救済を与  (23)えない」のである。

 こうしたルソーの見解からr契約論』を理解する手がかりとなるべき諸点が

見出される。第一に,『契約論』の課題のうちで最も重要なものの一つは,人

間の意志に実行する力を与えること,いい換えれば,人間の利己的情念の内に                             (24)潜む害への意志を解放し,それにつり合った実行するカを与えること,そして

意志を真に活動させ,人問自身の幸福を実現すること,諸能力を濫用せず,真

にその目的のために指導していくことである。

 この課題において,ルソーがrあるがままの人間」から出発したということ

は,ルソーの極めて積極的な姿勢を示している。というのは人間の意欲するカ

のうちに,利己的情念を越える人問の能動的な実践カをみることによって,一

見絶望的にみえる自尊心の総体からも真実の社会の可能性への展望を開こうと        (25)しているからである。そしてまた,害への意志の結合体である一般意志は法の

基礎となるべきものであるから,法は原理的にrありうる」ものとなるのであ

る。この人間の実践カを基礎とした社会形成理論は,啓蒙思想一般に特徴的な,

「哲学老たち」の理論的理性(raisOn thξ0rique)に,人民の実践理性(raison

pratique)を対立させ,それを基軸として啓蒙の閉鎖性を打破しようとしたこ         (26)とを知ることが出来る。

 次に,先にあげた『契約論』の課題の追及におけるルソーの発想の転換の問

題をとりあげる必要がある。もはや明らかなように,意志とカの一致という課

題は,利己的情念による個人的利害の追及の内からは達成出来ない。また設立

Page 10: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

 一橋研究第30号される社会=国家の役割とは,ルソーの場合決して諸個人間の利害調整ではな

い。即ち,個人単位において問題を解決することは出来ず,また諸個人の権利

擁護のための共通の公的権力の設定によって達成出来る課題ではない。ここに

おいて,問題解決は,諸個人のうちにではなく,社会そのもの,より正確に

は,諸個人問の関係の内的構造のうちに求められなくてはならないということ

が,問題提起されてくるのである。そしてその社会とは,単なる諸個人の集合

体ではない。別の特質をもち,諸個人に内在するとともに諸個人を越える一つ

の全体でなくてはならない。これがルソーのいう結合体(aSSOCiatiOn)であ

る。こうして新たな問題解決は,いわば社会を主体として考察しなくてはなら

ない。これは,r契約論』の論理的展開を理解するうえで最も重要であり,問

題対象は確実に社会そのものに移っているのである。この点はいわばルソーに

おける社会の発見ともいうべきものであり,人間本性論を基軸とする伝統的な

自然法思想から一歩越えて,ある意味で社会学的観点から社会を考察しようと        (27)試みているのである。

 こうした観点にもとづく一つの理論的結晶が,『定稿』において明確に定式

化され,正面に出された「全面的譲渡論」に他ならない。全面的譲渡論とは,

まさしく社会関係の構造的転換のための根本的な装置なのである。ルソーはこ

の全面的譲渡論において,契約方式を完全に転換する。即ち,様々な形ではあ

れ,伝統的自然法思想に共通の,諸個人間の契約の連鎖による結合契約を打破

し,諸個人に対する他方の契約当事者を,形成されるべき共同体そのものとす

る契約方式をうち出す。このことはまさしく,共同体構成のとりきめそのもの      (28〕に他ならない。しかも,それは外的,超越的な共同体ではなく,諸個人の内的

関係そのものの内にあるものである。そしてまた,共同体のもつ最高権力,即

ち主権は,必然的に共同体の構成員全体,つまり人民全体にあり,自由にその

力を行使出来るのである。またこの全面的譲渡は,その本質において極めて意

志的な行為であり,その自発性において,実践理性の確証の行為である。

10

Page 11: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

                     『社会契約論』の入間諭的基礎

3.む す ぴ

 自然は人間を幸福で善良につくったが,社会はそれを堕落させ悲惨にしてい

る。こうしたルソーに一貫する主題は,神義論を背景とする人間の主体性,尊

厳性の主張をもとにしている。その結果ルソーは徹底して当時の文明社会の進

行に対して疑問を投げかけ,社会そのものを問題性の究極の対象としたのであ

る。ルソーからみれば「哲学者たち」は,何らかの意味において事実を正当化

                    (29)し,r事実によって権利をうちたてようとする」ことから,事実関係の継続の

うちに社会国家を形成しようとするものである。それに対してルソーは,事実

関係の根本的な構造的転換なしには「正当にして確実な」社会秩序の確立はあ

りえないとする。しかしこれは,事実と理念を切断するものではない。いわば            (30)ひとまずr全ての事実を遠ざけ」たのである。つまり事実を批判的に対象化し,

事実の自然的傾向の内からは理念の実現はありえないことを鋭く認識したので

ある。

 しかしまた同時に,新たな社会二結合体の形成は,あるもの即ち「あるがま

まの人間」から出発し,現実を基礎にしてなされなくてはならない。ただここ

に言うあるがままの現実とは事実そのものではなく,現象としての事実の内に

確かにあるものであり,潜在化しているものであ乱人為によって変質しては

いるが決して破壊されることのない自然である。

 ところで,確かに全ての悪の原因は社会にあるとはいえ,その社会はそもそ

も人間の営為の結果,人間の諸能力の実行の結果に他ならない。いわば社会と

は人問の本質である自由の産物であり,その意味においては,現実の人間の

悪,悲惨は人間自身が生み出したものに他ならない。従ってここにおいてもま

た神は現実の悪の責任からは免れ,更に,社会の形成は,神のカをかりずに,

人間自身の手によってなされなくてはならない。その行為自身が人間を自由な

ものとしてつくった神の意志にかなうものなのである。こうして新たな社会秩

序の形成は,決して自然的な事物の力(force des choses)の進行の中からで

はなく,そのカに抗して行われる極めて人為的な行為となる。そして,堕落し

た社会も確かに一つの人為的産物ではあるが,それは人間の無意識的な,いわ

                                 11

Page 12: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

 一橋研究第30号        (…1)ば自然成長的な社会であるのに対して,この結合体の形成は,意志的であると                  (32)同時に,意識的なものでなくてはならない。即ち人為的産物であるが,ある自                             (33)然的な力をもつ社会を意志的に変革し改造しようとするものである。そのこと

が出来てはじめて人間の本来善なる意欲の産物,あるいは自由の産物が人間自

身に対立することなく自己に還元される。そして人間は真に人間になりはじ

め,より高次の段階において人間たることが出来る。こうして人間自身による

人問の意志に合致した社会の形成とは,いわば,社会をして真に社会たらしめ

ることであり,それが人間を真に人間たらしめるための必要不可欠な課題とな

る。そのことは徹底した人為による自然の再建であり,いわば,自然の否定の                      (34)否定として,自然の止揚を意味するといえるであろう。

 しかしながらこうした適確な問題設定から,果して問題解決は可能であろう

か。いままでは人間論的基礎を探ることによって客観的,原理的な可能性を明

らかにしてきた。しかし現実的あるいは歴史的可能性という点については,適

確な問題設定であるが故に,極めてむずかしくなるのである。ルソーは,r草

稿』から『定稿』に至る過程において次第にそうした困難性を意識しており強

まっている。そして終には,そうした問題解決は「不可能である」という認識

にまで達している。そしはまた,ルソーは,『契約論』は「書き直されるべき            (35〕である」という告白をしている。

 このようなルソーを決定的に絶望にまで追いこむ現実の困難性とは,事物の

力の自然的傾向に由来するものである。即ち事物の力は,人問の意志によって

は方向転換し難い,抗し難い強さをもっていること,従って人間の内面的な社

会的紐帯を益々破壊しr個人的利益は一般的な善に向うところか,それらは事                (36)物の秩序においては,互いに排除し合う」ものでしかないこと,即ち現実的に

は,ホッブズ的状況が普遍化していくことをルソーは次第に認めざるをえなか

ったのである。

 しかしながら,このような現実的な不可能性をもはやルソーの力に求めるこ

とは出来ない。何故ならこの事物の力とは結局,文明社会の進行の内に次第に

優勢になってくるブルジョワ的な社会の発展の力であるからである。ルソー

 12

Page 13: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

                        『社会契約論』の人問論的基礎

は,この力の傾向を現実の基本的傾向であるとの認識はもっている。が,ルソ

ーの原理からして,それが歴史的な必然の力であるとの認識には達しえるもの

ではない。しかしその認識のためには,一定の歴史的諸条件が客観的に成立し

現象することが必要であり,また,思想としての人間論的基礎を一度保留しつ

つ,歴史哲学を科学化し冷徹な歴史の客観的な法具■1(lOi)を見出さなくてはな

らないであろう。しかし,この課題は,もはやルソーの歴史的限界性を越える

ものでしかなく,ルソーにそれを求めることは極めて過大な要求である。むし

ろ我々は,ルソーの人間論に示されたように,あくまで自然法思想あるいは啓

蒙思想に徹底的に内在しつつ,その真実性を再建し,固守することによって,

逆に啓蒙思想を一歩踏み出す社会観あるいは社会学的方法を生み出したことを

高く評価すべきである。

(1) こうした解釈は数多いが,例えばルソーの同時代老による冒頭の文章の次のよ

  うた解釈が興味深い。その文章は「入間を現実にないものとして,法を想像上の

  ものとしてとらえ」と言うべきであるとしている。PierreNaviHe,“Examen

  du Contrat Social de J.一J.Rousseau avec des remarques pour servir

  d’antidoteきquelques principes,”publi6d’apr6s1e mamscrit autog-

  raphe par Jean Fabre,λm伽’e5∫イ.亙0鮒5mm,t.XXII,1933,p,54.

(2)特にr社会契約論』をrジュネーヴ草稿』と区別する場合にのみr定稿』及び

  r草稿』とし,その他の場合には『契約論』と省略する。尚,『草稿』と『定稿』

  の比較については拙稿rルソーの『ジュネーヴ草稿』について」,r一橋論剃,

  第71巻第6号,1974年。を参照されたい。

(3) この点についてドゥラテもまた社会性をピチェと関係づけ,社会性が自然人に

  おいて潜在的なものであるとしている。Robert Derath6,∫.一∫.灰。舳e伽召’’蜆

  5c’emc召力。〃幻鵬de som’emク5,Paris,1955,secondeさdition, 1970, p.

  ユ48.

(4)眺・・m・・mJI・伽…用・∫・mm・〃・a川・働〃6仰吻影・ん・mm・・,

  0euvres comPlらtes de J一一J.Rousseau,Bibliothきque de la P16iade,

  Paris,1959-1969,t.皿,P.162.(以下これをIn6gaHt6,OC,㎜,162.と

  略す)

(5)亙∬励5m’’〃切m必Jmgm5例〃。5けαm山1α物6’o伽召㍑e〃m1一  ’α〃m m刎たα’e,6dition de Charles Porset,Bordeaux,1958,p.113.

(6) In6ga1三t6,0C,㎜,ユ26.

13

Page 14: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

一橋研究第30号(7) ibid.,0C,㎜,155.

(8) ibid。,0C,皿,155.

(9)分析的方法に対するルソーの発生史的方法についてもドゥラテの指摘参照。

  Derath6,op.cit・,p.132、またドゥラテは,ルソーの社会性についての見解

  は,伝統的な自然法と,ホッブズヘの同時批判であることを強調している。

(ユ0)例えばr新エロイーズ』において,全般的た転覆あるいは突然の変革(r6v0-

  lutiOn)によって情念が改められ,魂が再生して,r時として自分の本来の性質を

  回復し。まるで今しがた自然の手から出た新しい存在のようにたることがある」

  ということを述べている。ノ刎5e,0m’0MOme〃e∬6’挑e,0C,皿,364.ま

  た,r契約論』において言われている,革命による社会的活力の再生という問題

  も,これに関係させて考察することが出来よう。(r契約論』第2編第8章)

(11)下層民をも含むという思想的意味は重要であるが,市民社会論としては,その

  立場に限定されることたく,より広くブルジョワ的人間をも含めて理論化してい

  るとみることが出来るし,またそうすることが必要であると思われる。ルソーの

  思想及び理論的立場,またルソーの影響力の問題は非常に微妙である。

(エ2) ルソーの性善説の意味についてはEmst Cassirer,“Das Prob-em Jean-

  Jacques Rousseau”,λκ励砂∫伽Cωc肋。〃色価7P励’05ψ〃e,Bd.XLI,

  1952、が興味深い指摘をしている。(邦訳『ジャンニジャック・ルソー間題』,生

  松敬三訳,みすず書房,1975年)

(13)『草稿』第1編第2章 0C,皿,288.

(ユ4) 亙m”e m此’’泌mα地m,0C,」V,586.

(15) ibid。,0C,1V,587.

(16)r契約論』第2編第3章及び第6章

(17) In6gaHt6,0C,㎜,14ユ.

(18) Emile,0C,W,586.

(19) ibid一,OC,1V,594.

(20) ibid.,OC,1V,582.

 (21) ibid.,OC,1V,587.

 (22) ibid一,0C,W,303.

(23) 『草稿』第1編第2章 0C,皿,282.

(24)『草稿』の第1編第4章には次のような個所がある。「人間の構造において,肉

  体に対する魂の活動が哲学の究極の点であるように,国家の構造においては,公

  共の力に対する一般意志の活動が政治学の究極の点である。」ここに示されてい

  るルソーの均衡の観点は様々な領域において非常に大事な点である。

(25)r悪からでさえも堕落を矯正すべき救済手段を引き出そう。」(『草稿』第1編第

  2章)『草稿』では各所でこうした率直な表現がみられ,ルソーの意図が分りや

14

Page 15: 「社会契約論」の人間論的基礎 : 全面的譲渡論研 …...『社会契約論』の人間論的基礎 一一S面的譲渡論研究(2)一 渡 辺 茂 樹 「人間をあるがままのものとして,また,法をありうるものとしてとりあげ

                      『社会契約論』の人間論的基礎

  すい。r定稿』ではほとんどそれらは削除されている。r定稿』におけるルソーの

  構えについては一考を要する。

(26) この実践理性についてはカントのルソー解釈が意味深い。カントのルソー評価

  については,カッジラーの前掲書及びErnst Cassirer,”e P舳050ψ”e6〃

  ル!肋mm&Tubingen,1932.邦訳『啓蒙主義の哲学』,中野好之訳,紀伊国

  屋書店,1962年。参照

(27) この点についてはカッジラーの前掲書及びデュルケームのルソー解釈Emile

  Durkheim,“Le Contrat Social de Rousseau},Rmm6e M吻功伽吻m

  e’3e mOm加,1918、を参照。またルソーによるr社会の発見」ということにつ

  いては,中村雄二郎,『感性の覚醒』(岩波書店,1975年)を参照。こうした社会

  学的観点,いわば社会を主体としてとらえる方法は,既に『不平等論』第2部の

  展開に示されており,契約論において突然現われたものではたい。

(28) この点については,Louis Althusser,“Surle Contrat Social(LesD6-

  calages),Cα〃〃力。〃M伽伽e,が8,Paris,ユ967.に詳しく論じられて

  いる。尚,その要約としては,中村雄二郎,「言語理論と社会理論の連関構造」,

  r思想』,547号,王970年1月。がある。

(29)r契約論』第1編第2章 0C,皿,353.

(30) In6ga1it6,0C,皿,ユ32、

(31) 自然成長的社会という点については,Pierre Burgelin,“Le sociaI et1e

  politique chez Rousseau“〃m3e55m’e Co〃m’50cあ’,Paris,1964.に

  指摘がある。

(32)意志的にして意識的という点についてはアルチュセールの指摘があ乱Louis

  Althusser,op.cit一,p.17.しかし意識的であるという点については,そうで

  なくてはならたいことは確かであるが,立法老の存在の問題と関連して微妙な間

  題点を含み,検討を要するところである。

(33) ここにルソーの疎外論的観点をみることが出来るのではないだろうか。尚,ア

  ルチニセールが,全面的譲渡とは全面的譲渡(疎外ali6natiOn)の解決に他な

  らないとしている点は極めて意味深い。

(34) r完成された人為によって,自然に対して人為がなした悪を修正する」(r草稿』

  第1編第2章(35) これらの点については,樋口謹一rルソーのパドリオステム」,京都大学人文

  科学研究所報告『ルソー論集』,岩波書店,1970年。を参照

(36)r草稿』第1編第2章0C,皿,284、

15