「場」と知識創造...研究 技術 v ol. 34, no. 1, 2019 — 39— はじめに...

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研究 技術 計画 Vol. 34, No. 1, 2019 39 はじめに 社会科学の分野において,社会心理学者のク ルト・レヴィンによって 1950 年代に自然科学 から場(eld)の概念が導入されて以来,個人 を越えた集団の創発的な現象を科学的に分析す る組織研究が盛んにおこなわれてきた[1]。現 在の組織行動論につながるグループダイナミク ス研究は言うに及ばず,個人と集団の関係性を 問う視点は,現在でも多くの研究領域・研究者 にとって中心的な関心事である。 場とは,絶対多様性をもつ個が自立的かつ自 律的に振る舞いながら,それぞれの個の意識的 な相互作用(能動的志向性による相互主観性) と無意識的な相互作用(受動的志向性による間 身体性)の働きによって,個の存在基盤である 場所における拘束条件を自己組織的に生成し, 個の振る舞いの範囲を絞っていく意味づけられ た時空間であると考える。現象学的観点からす ると,人間が,場を共有・共創できるのは,生 まれながらに受動的志向性の働く受動的綜合の 領域を生きていて,その受動的綜合の領域は, 成長するにしたがって自己と他者の区別がつき 個が確立されてからも,意識の表面には表れな いが常に間身体性として働 いているからである。創造 性とは,この受動的志向 特集・組織とイノベーション知識創造論の最前線 「場」と知識創造 現象学的アプローチによる集団的創造性を促す 「場」の理論に構築に向けて露木恵美子* 性,受動的綜合の作用によって能動的志向性, 能動的綜合の領域が乗り越えられ,新たな関係 性が現われることに他ならない。 本稿の目的は,知識創造理論における場の理 論をさらに発展させ,人間の活動基盤としての 「場」の理論的解明と,それを実事例に応用す るために,場における集団的な創造性に関する 理解を深めることである。具体的には,場の生 成と発展の原理として,生命関係学における 「場」と「場所」の理論と,現象学における相 互主観性(能動的綜合)と間身体性(受動的綜 合)の理論を組み合わせて説明し,創造的な場 について考察する。 1. 経営学における場に関する言説 経営学において,特に 1980 年代後半以降, 伊丹敬之,野中郁次郎,といった日本を代表す る研究者の間でも「場」という概念が積極的に 検討されるようになり,集団よりも個が重視さ れる欧米においても,コミュニティ・オブ・プ ラクティス(実践共同体=場)といった概念が 提唱されるようになった[2]。 伊丹[3][4]は,場とは人々が参加し,意 識・無意識のうちに相互に観察をし,コミュニ ケーションを行い,相互に理解し,相互に働き かけあい,共通の体験をするその「状況の枠組 * Emiko TSUYUKI 中央大学ビジネススクール大学院戦略経営研究科 教授 博士(知識科学) 112-8551 東京都文京区春日1-13-27(勤務先) [email protected] Professor Ph. D. in Knowledge Science Graduate School of Strategic Management 1-13-27, Kasuga Bunkyo-ku, Tokyo 112-8551, Japan (oce)

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研究 技術 計画  Vol. 34, No. 1, 2019

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はじめに 社会科学の分野において,社会心理学者のクルト・レヴィンによって 1950年代に自然科学から場(field)の概念が導入されて以来,個人を越えた集団の創発的な現象を科学的に分析する組織研究が盛んにおこなわれてきた[1]。現在の組織行動論につながるグループダイナミクス研究は言うに及ばず,個人と集団の関係性を問う視点は,現在でも多くの研究領域・研究者にとって中心的な関心事である。 場とは,絶対多様性をもつ個が自立的かつ自律的に振る舞いながら,それぞれの個の意識的な相互作用(能動的志向性による相互主観性)と無意識的な相互作用(受動的志向性による間身体性)の働きによって,個の存在基盤である場所における拘束条件を自己組織的に生成し,個の振る舞いの範囲を絞っていく意味づけられた時空間であると考える。現象学的観点からすると,人間が,場を共有・共創できるのは,生まれながらに受動的志向性の働く受動的綜合の領域を生きていて,その受動的綜合の領域は,成長するにしたがって自己と他者の区別がつき個が確立されてからも,意識の表面には表れな

いが常に間身体性として働いているからである。創造性とは,この受動的志向

特集・組織とイノベーション―知識創造論の最前線

「場」と知識創造―現象学的アプローチによる集団的創造性を促す

「場」の理論に構築に向けて―

露 木 恵 美 子*

性,受動的綜合の作用によって能動的志向性,能動的綜合の領域が乗り越えられ,新たな関係性が現われることに他ならない。 本稿の目的は,知識創造理論における場の理論をさらに発展させ,人間の活動基盤としての「場」の理論的解明と,それを実事例に応用するために,場における集団的な創造性に関する理解を深めることである。具体的には,場の生成と発展の原理として,生命関係学における「場」と「場所」の理論と,現象学における相互主観性(能動的綜合)と間身体性(受動的綜合)の理論を組み合わせて説明し,創造的な場について考察する。

1. 経営学における場に関する言説 経営学において,特に 1980年代後半以降,伊丹敬之,野中郁次郎,といった日本を代表する研究者の間でも「場」という概念が積極的に検討されるようになり,集団よりも個が重視される欧米においても,コミュニティ・オブ・プラクティス(実践共同体=場)といった概念が提唱されるようになった[2]。 伊丹[3][4]は,場とは人々が参加し,意識・無意識のうちに相互に観察をし,コミュニケーションを行い,相互に理解し,相互に働きかけあい,共通の体験をするその「状況の枠組

* Emiko TSUYUKI中央大学ビジネススクール大学院戦略経営研究科教授 博士(知識科学)〒112-8551 東京都文京区春日1-13-27(勤務先)[email protected]

ProfessorPh. D. in Knowledge Science

Graduate School of Strategic Management1-13-27, Kasuga Bunkyo-ku, Tokyo

112-8551, Japan (office)

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み」=相互作用の「いれもの」であると定義した。そのうえで,場の基本要素は, (1)アジェンダ(何に関する情報か)(2)解釈コード(その情報はどう解釈すべきか)(3)情報のキャリア(情報を伝える媒体)(4)連帯欲求の 4つであるとし,また,場という概念の利点は,第 1に「場」の中では個人の自律と全体の統合が可能になること,第 2に「場」においては情報秩序と心理的エネルギーの両方を供給できること,第 3に,予測不可能な事態に対しても「場」が自発的なグループを創発して対処しうることであるとする。このような「場」の特徴は,経営組織の中の経営現象を説明するだけではなく,さまざまな秩序形成と情報集積のプロセスを説明する広がりを提示した。 一方,野中ら[5]は,組織において知識の生成をともなう諸活動のすべてを組織的知識創造プロセスと捉え,このような組織的知識創造プロセスこそ企業の本質であるという「知識創造パラダイム」を提唱した。組織的知識創造活動において「場」とは知識創造がなされるところ=知識創造の基盤であるとされる。しかし,なぜ組織的知識創造理論において「場」の概念が特に重要なのか。そのことについて最初に考察しておきたい。 よく知られているように,組織的知識創造理論の中心概念は,知識を暗黙知と形式知の二つのタイプに分け,両者の相互作用によって知識が個人のレベルから組織のレベルへダイナミックに創造されていく知識創造プロセスにある。そのプロセスは,共同化(暗黙知から暗黙知へ),表出化(暗黙知から形式知へ),連結化(形式知から形式知へ),内面化(形式知から暗黙知へ)という 4つの変換モードによって記述され,それぞれの変換モードが知識創造プロセス全体のエンジンと位置づけられる(図 1-1:SECI知識変換のプロセス)。 野中らは,暗黙知の共有,コンセプトの創造,知識の移転にとって,個人が相互に作用しあう「場」が必要だとする。それゆえ,組織的知識創造理論を更に展開するために,知識が創

造されるところ=「場」の概念を導入し,これを軸に,知識創造のプロセスとそのダイナミクスが現われる場の集合体である組織空間を説明しようとした。野中らは,まず「『創造する力』とは単に個人の内にあるのではなく,個人と個人の『関係』,個人と環境の『関係』,すなわち『場』から生まれる」という仮説を設定する。そして,知識と場の関係について「場があって,その器に知識が入っているのでもなければ,場の中にいる人間に知識があるというものでもなく,自己と他者という『関係』あるいは当事者が関係しあう『場』そのものがダイナミックな知識である」[6]と述べている。 また,次のように「場」を定義している。「知識は個人の内に能力として蓄えられているが,特定の時間,場所,他者との関係性,つまり文脈や状況のなかで発揮され,その正当性が他者にも確認され,修正されると考える。知は具体的な文脈のなかの具体的行動や話法のプロセスのなかでしか現れないといってよい。われわれはこのように共有された動的文脈(shared context-in-motion)を『場』と定義する」[7]。さらに,最近の著作では「知識創造を促進する場とは,『共有された動く文脈』であると定義したが,その本質は相互主観性にある(中略)。相互主観性とは,複数の主観がそれぞれの独自性を維持したまま,共同で築きあげる『われわ

図 1-1:SECI知識変換のプロセス

出所:野中・竹内(1996)

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れ』の『共同主観』すなわち『共観』である。つまり,相互に他者の主観と全人的に向き合い,受け入れあい,共感し合うときに成立する,自己を超える『われわれ』の主観である」と述べている[8]。 野中らの主張するのは,知識は個人の中にあるのではなく,個と個との関係性の中からうまれてくるということである。実際にどんな発明発見やイノベーションも密室の中で生まれるのではなく,多くの人々の経験を通して生まれてくることは,誰もが実感するところであろう。一方で,すぐれたリーダーや特別な才能をもった人がいなければ創造性は生まれないという考え方もあろう。そこで改めて問われるのは,個とは何か,場とは何かということである。言い換えれば「個があって場ができる」と人は通常考えるが,本当にそうなのかという問いでもある。 このような問いに答えるために,以下では,場に関する諸理論を概観した後,西田幾多郎の場所論,清水博の生命関係学における場と場所に関する考察,現象学における場に関連の深い言説(フッサール,メルロ・ポンティ,山口一郎)に焦点をあてて議論を進める。

2. 場の理論 1)

2-1 概観 場という概念は,ギリシャ哲学以来,学問上の中心的なテーマの一つであり,空間,時間,身体といった人間の実存にかかわる概念と関連づけられ展開されてきた。しかし,科学的あるいは実践的な概念として場が用いられるようになったのは,19世紀の物理学の分野においてであった。特に 20世紀以降は,量子力学をはじめとした現代物理学および現代生物学などの自然科学において,場(field)という概念が重要な役割を果たすようになった[9]。現代物理学によって「物体は単独で存在するものではなく,周囲と不可分に結びつくと共に,物体の性質は周囲との相互作用という意味でのみ理解で

きる」ことが証明された。この発見は,場が要素を成り立たせる基盤であることを物語っている。要素が場を構成するのではなく,場が要素を構成するということである。 しかし,要素が一方的に場から定義づけられるわけではない。自然科学の分野で生み出され,「場」の概念と深い関連がある自己組織性の理論を社会現象に適用しようとしたのは今田高俊である[10]。自己組織性とは,システムが環境と相互作用する中で,みずからの手でみずからの構造を変化させ,新たな秩序を形成する性質を総称した概念である。今田によれば,自己組織性の特徴は「自己言及」と「ゆらぎ」が互いに関係し合うことにあるという。自己言及の問題は論理をパラドックスに導くため,長い間,科学の対象から外されていたが,生物化学や熱力学などにおいて,要素間の円環的因果のプロセスをあらわす「自己回帰(自己言及)メカニズム」や自己を再生するために自分自身を必要とする「自己触媒的プロセス」に焦点が当てられるようになって,自己組織性に関する関心が高まることになった。自己言及メカニズムをもたない「ゆらぎ」はシステムの状態を撹乱しシステムを解体する一方,「ゆらぎ」は別様の存在や構造へとシステムを駆りたてる要因であり,その過程でもある。 「自己組織性」,「自己言及」,「ゆらぎ」といった概念は,後述する清水博の場の理論における,生命的なシステムに見られる自己言及的創出性,及び,拘束条件としての「場」を理解する上で押さえておかなければならない重要な概念である。 日本で場を主題とした思想を展開したのは西田幾多郎である。西田は,プラトンの場(コーラー)の概念に影響を受け,意識現象には「於いてある場所」が必要であることから述語的論理としての場所論を展開した。本稿では,西田哲学における「場所」の概念を,「場」とは異なる特殊な術語として扱う。以下,「場所」という表現を用いた場合は,一般名詞としての場

1) 本節は,露木(2003)の pp. 15–72, および露木(2018)の記述に加筆・修正・引用である。詳しくはそれらを参照されたい。

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所ではなく,すべて西田哲学における「場所」を指すこととする。 西田の場所論を生命システムに応用したのが,清水博の生命関係学における場の理論である。清水は,西田哲学の影響を強くうけ,生命システムの本質を場所性に見いだした。 一方,本稿で取り上げる現象学は,19世紀後半から 20世紀初頭にかけてエトムント・フッサール(1859–1938)によって打ち立てられた哲学である。フッサールは,「合理的科学的思考による自然科学的世界観は「生活世界」(われわれの日常世界)を基盤とするにもかかわらず,その出生を忘れてはじめから自存自立しているような幻想を抱き,それに呪縛されている」という問題意識の下で,自然科学の台頭による客観主義や,心身二元論を乗り越えるために,意識の成り立ちそのものに遡って人間存在の基盤を明らかにすることを試みた。そこから生み出された概念が相互主観性であり,人間の無意識の相互作用を理論的に解明する受動的志向性,受動的綜合である。それらの概念は,メルロ・ポンティらにより間身体性の概念として展開された。 フッサール現象学において最初に生み出された諸概念は,場の成り立ちを解明するうえで重要な示唆に富むものである。場の構成原理は,現象学によって補完されることによって,より精緻化されると考える。2-2 西田哲学における場所論(1)自覚と場所 西田は,純粋経験が自覚(自己のうちに自己を映す働き)へと根本的実在を掘り下げていく過程で,経験や意思の働きが(そこに於いて)生ずる「場所」という思想にいきついた。西田は,対象と対象が相互に関係するには,そのような於いて生ずる「場所」というものがなければならないと考えた。

「対象と対象が互いに相関係し,一体系を成

して,自己自身を維持すると言うには,かかる体系自身を維持するものが考えられねばならぬと共に,かかる体系をその中に成立せしめ,かかる体系がそれに於いてあると言うべきものが考えられねばならぬ。有るものは何かに於いてなければならぬ,然らざれば有るということと無いということとの区別ができないのである。」2)[11]

 西田によれば,自覚にいたる意識の働きには三つの段階がある。① 意識の原初的ないし直接的な統一的状態(直覚)

② 意識の分化・発展の状態(反省)③ 意識の理想的ないし究極的な統一的状態(自覚)

 直覚とは,主客の未だ分かれない,知るものと知られるものが一つである(狭義の純粋経験),直接経験の世界を意味する。反省とは,直覚の進行の外にたって翻ってこれをみた意識である。自覚とは,自己が自己の作用を対象としてこれを反省するとともに,反省するということが直ちに自己発展の作用であるような意識の状態である。つまり,自覚とは,自己の中に自己を映すという働きであり主客の対立を超越した意識状態のことである。この自覚が於いて生ずるところ(自己が自己を映すところ)が場所であり,一切の作用や存在を自己の内において存立させ,またそれらを自己自身のうちに映してみるものである[12]。

「体験の内容は非論理的であるというよりも超論理的である,超論理的であるというよりも包論理的と言わねばならぬ。認識の立場というものも体験が自己の中に自己を映す態度の一でなければならぬ。認識するというのは体験が自己の中に自己を形成することにほかならない。(中略)此のごとき自己自身を照らす鏡ともいうべきものは,単に知識成立の

2) 西田は,「意識現象を内に成立せしめるものをプラトンのディマイオスの語に倣って場所と名づけておく」(上田・大橋編,1998d,「現象学」論文集,pp. 88)と述べている。このことから,西田の場所はプラトンのコーラーに由来していることがわかる。

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場所たるのみならず,感情も意志もこれに於いて成立するのである」[11]

 西田は,認識とは主体による対象の構成作用ではなく,意識も対象も共にそこに「於いてある場所」(意識の野)のなかに対象を映してみることだとした。場所とは,物と物,意識とその対象,人格と人格とがそこに於いて関係し,そこにおいて存在するそうした全体のことである。 西田は,場所と物と物とが出会う「有の場所」(空間・磁場),すべての意識作用が生ずる共通の意識界である「意識の野(無の場所)」,そして自己が本当の自己に出会う「絶対無の場所」の三つに分けて考えた。これらは意識の働きの三段階に対応するものである。つまり,自覚の深まっていく三つの段階(直覚・反省・自覚)がそれぞれの場所であり,高次の場所は,低次な場所に対して無にしてつつむがゆえに,意識は意義をもてる。絶対無の場所とは真の意味での意識の立ち現れである。 三つの段階のそれぞれの場所の深まりは,元来その底にあったものであり,それぞれが限りなく重なりあい包摂しあう。場所にいたるまでの西田は,純粋経験から自覚へと主体や意識の側から見ていたのに対し,場所では,主体や意識を包むところという世界(普遍)の側から世界(普遍)を説明しようとする立場に転換したことになる。このように,「場所」という概念によって,世界(普遍)の側から主体や意識の成り立ちを説明しようとする述語的論理の試みによって,西田哲学の場所論は特徴づけられている。(2)述語的論理としての場所論 西田は,「場所」の論文の最後で「私は知るということを従来の如く知るものと,知られるものの対立から出立する代わりに,一層深く判断の包摂的関係から出立してみたいと思う」[11]と述べている。この判断の包摂的関係とは,述語が主語を包むということである。場所の思想は,自己の内に自己を映す「自覚」の思想と,述語が主語を包摂する判断の基本形式を

結合させたものである。ここでいう述語とは,主語に対する述語ではなく,主語的なものを含んだ述語的なものを意味する[12]。西田が述語面を重視するのは,西田が「意識の範疇は述語性にある」[13]ことに気づきそれに注目したからである。さらに,自己も主語的統一ではなく,述語的統一として考えられている。

「我とは主語的統一ではなくして,述語的統一でなければならぬ。一つの点ではなく,一つの円でなければならぬ。物ではなく場所でなければならぬ。」[11]

 西田は我(個物)を一つの円であるような述語的統一であると考える。円であるということは,精神という一つの点ではなく身体性という無意識的な部分をも含んだ述語的統一として我を捉えていると考えられる。ただし,西田のいうような統一的自己(自己同一)とは,単に主語面と述語面とが一になることではなく,どこまでの両面が重なりあっているものとして考えられている。両者が重なりあい,かつ,述語面において自己同一されたものが「意識我の自己同一」である。 さらに,この述語的なものを拡大していけば,どのような述語によっても包摂されない,あらゆる述語を内に包摂するような述語に到達する。それが,あらゆる述語を超越し,あらゆる述語を成り立たせるような「真の無の場所(絶対無の場所)」である。 主語的なものの根底に述語的なものがあり,主語的なものは述語的なものの内に内包される。西田の場所論が述語的論理であると言われるのは,このような「(主語を含んだ)述語」の論理構造をもっているからである[12]。2-3 生命関係学における「場」の理論 生命関係学(バイオホロニクス)とは,「生命の普遍的な性質が多様な形態をとって出現するメカニズムをさまざまな対象について深く具体的に掘り下げて探り,生きている状態に関する諸原理や法則性を解明する」[14]学問である。清水は,西田哲学の影響を強くうけ,生命

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システムの本質を場所性に見いだした。このような考え方は,先に述べたような,生命的システムを場所と制度(拘束条件)のダイナミズムとして捉えようとした中村の議論と相通ずるところがある。ここでは,生命関係学における「場」と「場所」の概念について検討していく。(1)「場」と「場所」 清水は,生命システムの特徴を自己言及的な創出性と捉える。自己言及的な創出性とは,システムの存在に意味のある情報を,内部知識と内的法則にもとづいて自分自身でつくりだし表現していく能動的な性質のことである。このようなシステムを構成する要素は,物理学的な意味での原子・分子よりも複雑なものである。このような,要素のあいだの関係にたって自己の状態の表現を自律的に生成していくことができる要素のことを,清水は「関係子」と名づけた。そして,関係子を要素としたコヒーレントな関係のネットワーク構造を生命現象のモデルとして考えた(図 2-1:関係子・場・場所)。 関係子の性質は他の関係子との関係によって変わっていくので,関係子の集合として全体がコヒーレントな状態になるためには,関係子の状態をひとつにしぼっていく仕掛けが必要である。それが「場所」である。「場所」は,関係子の集まり全体に対する「拘束条件」を生成する。人間の集団を考えた場合にも,その中からどういう行動が表出してくるかということは「拘束条件」によってかわる。集団がある一定の秩序を形成するためには,拘束条件としての「場」が必要になるのである。関係子にとって

は,自己にとっての「場所」と「場」が整合的である限り両者を区別することができない。それは,関係子の中にも「場所」(内部場所)が存在し,それが「場所」の反映として「場」(=拘束条件)を生み出ているからである。生命システムは,個(関係子)と全体(場所)を分離できない複雑な関係的システムである。生命システムにおいては,情報をボトムアップ的に関係子システムから「場所」に向かって処理してから送る仕掛けと,逆に「場所」からトップダウン的に関係子に場の情報を伝える働きが,閉じた円環として両立するようにシステムの状態を収束させていくホロニック・ループが生成される。(図 2-2:ホロニック・ループ) 清水は,生命的なシステムが全体としてそれを取り巻く環境と整合的な関係を作り出すため

図 2-1:関係子・場・場所

出所:清水[14]を参考に筆者作成。

8

いる状態に関する諸原理や法則性を解明する」11) 学問である.清水は, 西田哲学の影響

を強くうけ, 生命システムの本質を場所性に見いだした.このような考え方は, 先に述

べたような, 生命的システムを場所と制度(拘束条件)のダイナミズムとして捉えよう

とした中村の議論と相通ずるところがある.ここでは, 生命関係学における「場」と「場

所」の概念について検討していく. (1)「場」と「場所」

清水は, 生命システムの特徴を自己言及的な創出性と捉える.自己言及的な創出性と

は, システムの存在に意味のある情報を, 内部知識と内的法則にもとづいて自分自身で

つくりだし表現していく能動的な性質のことである.このようなシステムを構成する要

素は, 物理学的な意味での原子・分子よりも複雑なものである.このような, 要素のあい

だの関係にたって自己の状態の表現を自律的に生成していくことができる要素のこと

を, 清水は「関係子」と名づけた.そして, 関係子を要素としたコヒーレントな関係のネ

ットワーク構造を生命現象のモデルとして考えた(図 1-1:関係子・場・場所).

図 2-1:関係子・場・場所

出所:清水(1999a), pp.17 を参考に筆者作成.

関係子の性質は他の関係子との関係によって変わっていくので, 関係子の集合とし

て全体がコヒーレントな状態になるためには, 関係子の状態をひとつにしぼっていく

11) 清水(1999a), pp.73.

場所

場 場

関係子

図 2-2:ホロニック・ループ

出所:清水(1999a),pp. 172を参考に筆者作成。

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仕掛けが必要である. それが「場所」である.「場所」は, 関係子の集まり全体に対する

「拘束条件」を生成する. 人間の集団を考えた場合にも, その中からどういう行動が表

出してくるかということは「拘束条件」によってかわる. 集団がある一定の秩序を形成

するためには, 拘束条件としての「場」が必要になるのである. 関係子にとっては, 自己にとっての「場所」と「場」が整合的である限り両者を区別することができない. それは, 関係子の中にも「場所」(内部場所)が存在し, それが「場所」の反映として「場」

(=拘束条件)を生み出ているからである.生命システムは, 個(関係子)と全体(場所)

を分離できない複雑な関係的システムである.生命システムにおいては, 情報をボトム

アップ的に関係子システムから「場所」に向かって処理してから送る仕掛けと, 逆に「場

所」からトップダウン的に関係子に場の情報を伝える働きが, 閉じた円環として両立す

るようにシステムの状態を収束させていくホロニック・ループが生成される.(図 1-2:ホロニック・ループ)

図 2-2:ホロニック・ループ

出所:清水(1999a),pp.172 を参考に筆者作成. 清水は, 生命的なシステムが全体としてそれを取り巻く環境と整合的な関係を作り

出すための仕掛けとして「場所」をとらえ, 生命的なシステムの状態を具体的にしぼっ

ていく拘束条件として「場」を捉えている.つまり, 「場」とは生命的システムが環境と

の関係を自律的に創出していくための枠組みすなわち場所の現実的具体的反映形態と

いうことになる. (2)「場」と共創 生命システムは, 関係子によるミクロな秩序と「場所」のマクロな秩序が相互に影響

しあいながら整合的な関係を生成する.清水は, この生命システムの特徴を, 絶対多様

性を基にした生命の二領域性と創造(共創)の論理に展開していった.

場の情報

相互作用

マクロ ミクロ

システム内

に形成され

る秩序 関係子要素

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の仕掛けとして「場所」をとらえ,生命的なシステムの状態を具体的にしぼっていく拘束条件として「場」を捉えている。つまり,「場」とは生命的システムが環境との関係を自律的に創出していくための枠組みすなわち場所の現実的具体的反映形態ということになる。(2)「場」と共創 生命システムは,関係子によるミクロな秩序と「場所」のマクロな秩序が相互に影響しあいながら整合的な関係を生成する。清水は,この生命システムの特徴を,絶対多様性を基にした生命の二領域性と創造(共創)の論理に展開していった。 「創造には場所における意義がなくてはならない。創造は場所における歴史的創造である。創造にとって必要なことは,自己が場所に対して開くということである。自己は場所に対して非分離になることによって,同様に場所的に非分離な他者と非分離になる。これを自他非分離という。言いかえれば,自己と他者とはそれぞれ独立しているが,場所的に非分離になることによって,自他非分離になる。この状態で出現するのが『一即多,多即一』の構造である。創造は,人間が無限定な場所において未来に向かって創出する活動である。場所において未来を創出的に創りつつ掴むのである。『一即多,多即一』の構造が実現されるということは,個が場所の全体を帯びてはたらいているということであり,それはその創造行為をおこなう自己が意識的にせよ,無意識的にせよ,場所全体の働きに参加して生きていなければ実現することはできない。つまり,創造の特徴は場所的非分離なのである」[15]

さらに,清水は共創について次のように述べている。

 「共創的な組織では,多数の個が創造に参加する『一即多,多即一』の構造がなければならない。しかし,共創にも狭義の共創と広義の共創がある。狭義の共創とは,共創の目的がはっきりと限定され,その組織(自己と他者)も限

定され,定義されている場合における自己と他者によって共同的になされる創造である。一方,広義の共創では,自己と他者の関係が開かれていて暗在的である。ここでは自己と他者の間には定義された場所はないが,互いに場所と非分離であることから,場所を媒介にしてつながっている。この暗在的なつがなりによって無意識のうちに共創することで,歴史的世界が創出されていく。狭義の共創においても,このような理が働いていなければ共創はおきない」[15]

 このように,清水は共創の本質とは場所的非分離にあると考える。絶対多様性をもった個が場所的非分離になることによって,絶対多様性を持ったままで他者と非分離になる。そのことが両者の共創を促進すると考えるのである。したがって,狭義の「共創」とは「場」の共創であり,広義の「共創」とは「場」を成立させる「場所」の共創であると考えられる。つまり,共創が行われるということは,場の共創と場所における共創が同時に行われると解釈できる。(3)生命の二領域性 清水は更に,絶対的多様性をもった個の共創を行うメカニズムを次のように説明している。まず,生命には局在的存在形態と遍在的存在形態という相互に否定しあう二つの存在形態をとる性質があると考える。これは,一個の素粒子が局在的存在形態である『粒子』という形態と,遍在的存在形態である『波動』という形態の存在的二重性を基本的な性質としていることに相当する。

 「局在的存在形態は,自己の独立性と自律性に関連し,生きものあつまりの中で自他分離的な個別性と絶対多様性を生み出す。他方,遍在的存在形態は場所に広がって遍在的に存在する形態であるから,場所と非分離な関係性(場所的非分離性)をもっている。この遍在的存在形態の特徴は自己組織性の性質をもっていることである。生命の二種類の存在形態の間には相互誘導合致という働きがある。局在的存在形態と遍在的存在形態は互いに誘導しあって変化し,

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鍵と鍵穴のような整合的な関係を生成する。この働きによって多様性に基づく調和の創造という生命に特徴的な創出が可能になる。」[15]

次に,生命の存在的二重性を,人間における自己の二領域性として読みかえる。

 「生命の二領域理論からすれば,自己は二領域的構造を持つと考えられる。一方の領域は自己の局在的存在形態である『自己中心的自己』である。他方の領域は遍在的存在形態である『場所的自己』である。自己と他者の共創という観点から考えると,自己と他者はそれぞれ局在的自己(自己中心的自己)をもっているから,局在的自己が直接的に関係をもとうとすると両者の間に否定的関係が生まれる。他方,遍在的自己は両者が存在している場所にひろがる波のようなもので,自己と他者の間には否定的関係が存在しない。それ以上に,これらの波は互いの波長を調節してコヒーレントな強い波を自己組織する性質がある。これらが自己組織的に一つの波になると自己と他者の区別はつかなくなる。つまり,このコヒーレントな状態にある遍在的自己が両者をつつむ『場』になる。一般に絶対否定の関係にある多様な個は,場を共有することによってのみ整合的なひとつの統合体になることができるのである」[15]

 このときに自己と他者の関係を遍在的自己か

らみると,両者は統合されて「われわれ」という一者を形成しているが,局在的自己から見ると,両者はそれぞれ独立な人格として相互に置きかえることはできない。つまり,両者は場所によってつながりながら,個別の絶対多様性は保証されている。このような状態が共創の前提になる。遍在的自己が場を通してつながることによって共感的世界が生まれ,そこから局在的自己がつながる道,すなわち共創の可能性が開けるのである。清水は,この二領域的自己を卵モデルを使って説明している。(図 2-3:卵モデル)

 「局在的自己を卵の黄身,遍在的自己を卵の白身と例えるとすると,黄身と白身はそれぞれの領域を作って存在しそれぞれ変化しているが,黄身はその周囲に白身を引き寄せようとし,白身は逆にその中に黄身を取り込もうとする。つまり両者は相互に他を誘導して互いの隙間を埋めようとするために,白身が黄身を包み込む包摂構造ができる(相互誘導合致)。また白身は黄身を包む場に相当する。場所の中にある自己は,殻をわって器の中にいれられた卵に相当する。このとき白身はその流動性(遍在性)によって器を満たし,器の形に変形する。器(場所の状態)が白身(場)に反映するといってもよい。他方で黄身は自己中心的にまとまって存在する性質をもっているため,器の影響を直接はうけない。しかし,黄身も周囲にあ

図 2-3:卵モデル(二つの自己が接触したときの自己の二領域のはたらき)

出所:清水[15]を参考に筆者作成。

12

使って説明している.(図 1-3:卵モデル) 「局在的自己を卵の黄身, 遍在的自己を卵の白身と例えるとすると, 黄身と白身はそれ

ぞれの領域を作って存在しそれぞれ変化しているが, 黄身はその周囲に白身を引き寄

せようとし, 白身は逆にその中に黄身を取り込もうとする.つまり両者は相互に他を誘

導して互いの隙間を埋めようとするために, 白身が黄身を包み込む包摂構造ができる

(相互誘導合致).また白身は黄身を包む場に相当する.場所の中にある自己は, 殻をわ

って器の中にいれられた卵に相当する.このとき白身はその流動性(遍在性)によって器

を満たし, 器の形に変形する.器(場所の状態)が白身(場)に反映するといってもよい.他方で黄身は自己中心的にまとまって存在する性質をもっているため, 器の影響を直

接はうけない.しかし, 黄身も周囲にある白身という場の状態を通してこの形成作用を

感じ取る.ひとつの場所に多くの人々が集まっている状態は, 一つの器の中にさまざま

な卵を割り入れた状態に相当する.白身は互いにつながり, 境目がなくなるから白身の

どの部分がどの卵の白身という区別はできなくなる.これが遍在的自己の自他非分離状

態に相当する.そこでさまざまな黄身が共通の白身(場)の中に存在することになる.」16)

図 2-3:卵モデル(二つの自己が接触したときの自己の二領域のはたらき)

出所:清水(1999c),pp.28 を参考に筆者作成.

生命の二領域性の要点は, 場所的個物の共通世界においてのみ多様性に基づく調和

16) 清水(1999c), pp.28-29.

場所的領域の自己組織

場の共有

自己中心的自己

場所的自己

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る白身という場の状態を通してこの形成作用を感じ取る。ひとつの場所に多くの人々が集まっている状態は,一つの器の中にさまざまな卵を割り入れた状態に相当する。白身は互いにつながり,境目がなくなるから白身のどの部分がどの卵の白身という区別はできなくなる。これが遍在的自己の自他非分離状態に相当する。そこでさまざまな黄身が共通の白身(場)の中に存在することになる。」[15] 生命の二領域性の要点は,場所的個物の共通世界においてのみ多様性に基づく調和の創造が可能になるというところにある。つまり,個物の本質である絶対多様性が他の個物と矛盾なく成立するためには,それぞれの内部世界(個別世界)以外に共通の世界,人々が共に交わって相互の関係をつくる「場」すなわち「関係の世界」が必要であり,その関係の世界は「場所」の作用において生成されるのである。2-4 現象学による場の解釈 先に述べたように,現象学とはフッサールによって打ち立てられた哲学である。本節では,現象学の基本的な概念である「志向性」,「受動的綜合」,「相互主観性」,「間身体性」といった概念を説明し,それらと場の理論の関係について記述する[16][17][18][19]。(1)意識の志向性[20] 現象学の原点は,あらゆる意識活動は「何かを意識している」,「何かに向けられている」という意味で,意識が意識である限り「何かに向かっている」という性質をもっている。この性質のことを,現象学では「志向性」と呼ぶ。 意識が「何かに向けられている」という「意識の志向性」が重要なのは,意識は自覚するかしないかに関わらず,それを気づく前にすでに何かに向かってしまっているものだからである。一般的に,何かをみるという場合,われわれは自分の心が自分の外にある何かをみると考える。このようにみるもの(主観)とみられるもの(客観)を区別することを主観と客観の二元論と言うが,フッサールの意識はこのような二元論の主観の働きを意味してはいない。 フッサールは「何かを意識してしまってい

る」ことを出発点として考える。この意識の志向性は,何を意識しているのかという「意識内容(ノエマ)」とどのように意識しているのかという「意識作用(ノエシス)」の相関関係として分析されるが,これらは常に対になっているものであり,意識作用があって意識内容が認識されるとか,意識内容が意識作用を引き出すというように,どちらかが優先されるでは関係ではない。現象学における認識の考え方は,このような意識(自覚的な意識であれ無自覚な意識であれ)の志向性という前提に基づいている。(2)感覚と知覚[20] 感覚と知覚の違いは,それが直接的に意識に与えられるか与えられないかということに関わる。たとえば,触覚はその触っている身体の部位,たとえば指先にそのまま感じている。この直接的な感覚のことを内在的知覚という。 これに対して知覚は,あるモノの一瞬の見え(側面)が変化しながら一つのものの多様な側面のまとまりとして見えている。空間的なモノの知覚はこのような射映を通して与えられる。外にあるとされるモノの知覚のことを内在的知覚に対して外的知覚という。感覚と知覚の関係は,内在的感覚としての感覚が,外的知覚の対象と結びついた感覚の土台になっているということが重要である。 感覚は,一つの対象としてとりまとめる知覚の材料になっているので,その内容の側面に関して感覚素材と呼ばれる。知覚である色の広がりは感覚素材のまとまりであり,感覚である痛みの持続も感覚素材の持続的なまとまりである。それぞれは区別されており,そのまとまり方にも秩序がある。感覚とは,言語に表現される手前の生の感覚である。そして,この生の感覚の変化,ある特定の感覚が現れ過ぎ去ることが,時間意識を形成する。つまり,感覚こそが時間意識の源泉なのである。(3)時間意識[20] われわれがどのようにして客観的時間という意識をもつようになるのかという「時間意識の分析」は,現象学の中心的な主題の一つである。時間意識とは,はじめからわれわれに与え

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られているわけではなく,現象学においては,直接経験(志向的体験)の現在から構成されて3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

いく3 3

と考えられる。あるメロディが流れているとすると,ド・レ・ミという音のつながりはどのように聞こえてくるだろうか。まず,ドの音が聞こえてきて,次にレの音が聞こえてくる。このレの音が聞こえてくるときに,ドの音はまだ保持されている。そして,ミの音はまだ聞こえていない(自覚をともなわない)がすでに予期されている。このくりかえしによって一つのまとまりのあるメロディが聞こえてくる。このまだ保持されていることを過去把持,すでに予期されていることを未来予持,そして両者の間で与えられている音(感覚素材)を原印象と呼ぶ。重要なことは,この過去把持と原印象(二つあわせて原意識という)は,必ずしも今の意

3 3 3 3 3 3 3

識をもっていなくても成り立つ3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

ということである。つまり,自分では全く意識せずに音を聞き分けたり,モノを見分けたり,触覚や知覚を感覚しているということが成り立つということである。 それまで意識されていなかった音に何らかのきっかけで気づくときには,単独の音ではなく過去把持されている範囲でメロディとして響いてくることが指摘されている。この自覚的な今

3 3 3 3 3

の意識をもたない3 3 3 3 3 3 3 3

感覚の流れが,意識を支える無意識の領域(受動的綜合)の入り口である。 一方,「先の」という将来にかかわる時間意識の形成は未来予持を起点にしている。未来予持とは,流れる時間意識の現在に属する働きで自覚されずに,ある意味内容の意味の枠が予期され,前もって投げかけられていることである。われわれが意識しているかしていないかに関わらず,予期(前もってある特定の意味を描いていること)なしには,新しいという意味は生じない。新しい意味は,われわれの人生全体の経験が背景となってはじめてその意味を持ちうるからである。未来予持されたものが満たされるか満たされないか,例えば,ある特定の未来予持が満たされるはずなのに,満たされなけ

れば「意外さ」が生じる。その未来予持が満たされるか満たされないかによって,既知であるか未知であるかがわかる。あらたなものとは,自覚をともなわない未来予持であれ,自覚をともなう計画や約束であれ,現実に充実されない空虚な意味の枠に対応することで「未来」であり続けると考えられる。 フッサールは,この過去把持-原印象-未来予持という三つの意識の働きを「生き生きした現在」という幅をもった時間を形成する原点であると考えた。「生き生きした現在」とは,自我の働きを超えた「生動性(生き生きしていること)」の現れである。これに対し,客観的な時間の位置を前提にするのが,過去(はっきりした自覚をともなう再想起)や未来(自覚をともなう予期)である。(4)受動的綜合[20] 現象学では,はっきり自覚して意識が働いている場合,そのような意識を能動的意識または能動志向性と呼ぶ。一方,先に挙げた「音を聞くとはなしに聞いていた」というように,自覚がなく自己意識を伴わないような意識活動のことを受動的意識または受動的志向性 3)と呼ぶ。フッサールは,この受動的志向性は,能動的志向性にたいして,先行しておこっていること,それだけではなく,「あらゆる意識活動が生じるときには,この受動的志向性が基盤として働いていること」を指摘している。 この主観と客観に分岐する以前に働いている受動的志向性の綜合である意識の層のことを受動的綜合と呼ぶ。受動的綜合においては,感覚素材は,ある対象として知覚される以前に自然なまとまりをつくっている。しかし,それはなんの脈絡もなくまとまっているわけではなく,感覚素材と過去地平(意味連関の広がり)にいつでも満たされるべく待機している空虚表象(満たされていない意味の枠)との間で意味の対が成立する(対化)ということである。受動的綜合において,ある特定の意味内容がそれに類似した意味内容を呼び起こすことを覚起とよ

3) 山口は,この受動的綜合の受動的(passive)という言葉は,文字通りの受身という意味よりも,むしろ,みずからおこっているという意味で自発的あるいは事発的と表現した方が適切であると述べている(山口,2002, pp. 115)。

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ぶ。覚起は,何かを思い出そうとして意味を探すことで見つけるという能動的志向性の働きではなく,意味内容どうしが自我 4)の意識を介せずに結びつくことをいう。覚起が可能なのは,構成された意味が無意識において実際に含蓄されているからである。つまり,対化が起こるのは,過去地平に眠る無数の空虚表象が,特定の感覚素材と対になることを目指して抗争しているからである。このような対化が起こる際にもっとも有効な動機とは,

 「広義の意味での,また通常の意味での関心,つまり特定の情緒がもつ根源的な価値づけ,ないし習得された価値づけとか,本能的な衝動,ないしそれより上層に属する衝動であろう」[19]

 感じたり,考えたりする心の動きは,意識の志向性として解明される一方,「動機」をもつとされる。動機とは,ある特定の目的をもった意志,そして,その目的を実現するために手段をとる意志である。この動機は,「因果関係」に対立する原理として主張される。因果関係は,自然科学で計測できる,客観的時空間の内に実在するもの相互の関係である。それに対して,動機はモノに対する精神的世界の根本原則とされる。心の働きとしての動機は,通常,意識の高次の層に属する自覚をともなう能動的な志向性を意味しているが,この高次の層の根底

3 3 3 3 3 3 3 3 3

に自覚を伴わない受動的綜合や時間意識の流れ3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

が生じている3 3 3 3 3 3

ことが,深層の動機としての連合(覚起・対化)である。生きるための動機,すなわち,本能志向性(衝動志向性)が最も根源的な動機である。受動的綜合の領域における覚起・対化・連合という一連の働きは非常にダイナミックな様相を呈している。このような感覚素材と空虚表象(衝動志向性)との対化現象が絶え間ない意識の流れを条件づけていると考え

られる。(5)空間意識[20] 空間意識の問題には,キネステーゼ(運動感覚)が重要な働きをする。キネステーゼとは,通常自分が自分の身体を自由に動かす時に感じる「私がうごく」という感覚のことである。空間意識は,自分のいる「ここ」と他人のいる「そこ」との隔たりの意識である。これは自分が手を伸ばして届く距離,歩いてどのくらいの距離といった自分の身体の動きに伴うキネステーゼを通して形成される。このような成人のキネステーゼは,自我の自覚を伴う意識作用なので,能動的志向性である。 一方,生まれたばかりの乳幼児の場合,身体の動きはほとんど本能的なキネステーゼ(衝動志向性)である。乳幼児はこの本能的なキネステーゼを通して,自分と他人の区別をつけていく(身体の自己中心化)。自分と他人の区別というのは生まれながらしてはじめから備わっているのではない。自他の区別は,母親の声と自分の声の区別からはじまるという。「自分」の声はキネステーゼ(のどが動く)を感じるが,母親が同じような声で真似をしてもその声にはキネステーゼを感じない(自分の身体は動いていない)。つまり,声という感覚素材が与えられているのにそれと同時に動くはずの身体の感覚が満たされないのである。これを繰り返すことによって,キネステーゼを伴わないのは「自分の」身体に属するものではないということが直観できるようになる。これが自分の身体と他人の身体の区別,すなわち自分と他人の区別の形成につながる。このように乳幼児の身体性の形成をテーマにした現象学を発生的現象学という。(5)相互主観性と間身体性 5)

 他人の痛みをどうしたら自分の痛みとして感じられるのか。他者の意識に直接与えられている痛み(意識作用と意識内容)は間接的にしか

4) 現象学においては,自我(エゴ)とは越論的自我である。フッサールは,自我を,同一の極としての自我,習慣の基体と しての自我,豊かな具体性において捉えられた自我の三つに分ける。そして,豊かな具体性において捉えられた自我のことをライプニッツにならって「モナド(単子)」と呼ぶ。モナドとしての具体的な自我は,現実的潜在的な意識の生の全体を包括している。(フッサール,2001, pp. 120–126)。

5) 相互主観性(Intersubjectivity)は,間主観性とも訳されるが,本稿では,個と個の関係性という意味で,相互主観性という言葉を使う。フッサールは,能動的相互主観性と受動的相互主観性という言葉を使っているが,本稿では能動的相互主観性を相互主観性,受動的相互主観性を間身体性と記述する。

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感じられないのではないか。この問題は,人間がお互いにとってそれぞれ独立した意識活動を担う主体ないし,主観であることを根拠づけるという意味で,相互主観性の問題といわれる。発生的現象学で明らかにされたように,乳幼児では自他の区別がつかない状態から,キネステーゼを通じて自他が分離されてくるということが示された。このことは,乳幼児が自分の身体と他人の身体の区別に遭遇するときこそ,「直接性と間接性」の区別が生じてくる瞬間であることを意味している。乳幼児は,自他の身体の区別が形成されることによって,「宇宙大の身体」6)だった自分の身体が,自分の身体のここ(中心性)を獲得しはじめる。このことを「身体の自己中心化」という。他者経験とは,生き生きした現在において,自我の作用なしに,すでに受動的綜合を通して生命体と周囲世界(生活世界)との間に,身体性を介してコミュニケーションが生じているということである。つまり,われわれは日常においても,自覚を伴わないで周囲の人々や事物と相互作用を行っているということである。

「自己や他人というものが絶対的に自己意識的なものであって,両者は絶対的独自性を主張しあうものだと初めから仮定しては他者知覚を説明することはできない。反対に,幼児がまだ自分自身と他人との区別を知らない状態の時でさえ,すでに精神の発生が始まっているのだと仮定すれば他者知覚も理解できる。自己と他人との区別がないとすれば,幼児が本当の意味で他人とコミュニケーション(交通)しているとはいえない。なぜなら,本当のコミュニケーション(交通)が成立するためには,自分自身と交わっていくその相手が,きちんと区別されていなければならないからである。それにしても,最初は,他人の志向がいわば私の身体を通して働き,また私の志向が他人の身体を通して活動すると

いった『前交通』(前コミュニケーション)の状態があるに違いない。(中略)『前交通』の状態にあるのは,個人と個人との対立ではなく,匿名の集合であり,未分化な集団生活である。次に,こうした最初の共同性を基盤にして,一方では自分自身の身体を客観化し,他方では他人を自分とは違うものとして構成するというふうにして,個人個人が分離され区別される段階がくる。」[21](『 』は著者,下線は筆者)

 ここで重要なことは,乳幼児のように自他の区別のない身体性(匿名的身体性とよぶ)は,自他の身体の区別がそこから発生する基盤として,意識の表面には現れないが,大人になってからの日常生活でも,この受動的綜合の層が「常に働いている」ということである。例えば,「もらい泣き」や「あくび」,映画などを見ているときに感じる「臨場感」などがその例として挙げられる。その「場」の雰囲気を感じるとはなしに感じとってしまうことも,このような「身体性を介しての(原交通という)コミュニケーション」の例である。日常生活に生きるわれわれは,この受動的志向性による下層(受動的綜合の領域)と能動的志向性による上層(能動的志向の領域)の二重の構造をもつ身体と自我を同時に生きている。つまり,自他の区別のない宇宙的広がりをもつ身体とその匿名的な自我の層と,自他の区別をつけている身体と意識できる自我の層を常に同時に生きているのである。他者の痛みを自分の痛みとして感じられるのは,知覚の根底に自他の身体性の未分化な匿名的間身体性が働いており,それが悲しみや喜びに自身を巻き込んでいるからである。相手の感情が自分に映ってくるということは,意識的に共感しようとしているからではなく,この自他の区別が起こる以前の匿名的身体性において自然と映ってきてしまうのである。この匿名的身体性を根源にもつということを,自他の等根

6) メルロ・ポンティは,生後 3ヶ月ぐらいの乳幼児の場合,一人が泣き始めると次々に泣き出す現象(伝染泣き)は,乳幼児が他者の身体と自己の身体の区別がついていない例であるとする。この伝染泣きは,自己と他者の身体の区別がついてくるとなくなる現象である[21]。

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源性という。われわれは誰でも他者の感覚や気持ちを感じとることができる。すなわち,この等根源性において「他者を経験」することができるのである。 現象学の観点,特に能動的綜合と受動的綜合の関係,さらにはその関係に基づいた相互主観性・間身体性の分析から,われわれは「場」を理解するいくつかの手がかりを得ることができる。一つは,「日常生活に生きるわれわれは,この受動的志向性による下層(受動的綜合の領域)と能動的志向性による上層(能動的志向の領域)の二重の構造をもつ身体と自我を同時に生きている」ということ。もう一つは,「生き生きした現在において,自我の作用なしに,すでに受動的綜合を通して生命体と周囲世界(生活世界)との間に,身体性を介して(原交通という)コミュニケーションが生じて」おり,そのことが,我々が他者を理解できる相互主観性・間身体性の基盤になっていることである。受動的綜合の層とは,いわば暗黙知の領域である。一方で,われわれの自我や意識が働いているのは能動的綜合の層,いわば形式知の領域である。われわれは,日常的に言語や数値を用いてコミュニケーションをとり,それですべてを表現できると思いがちであるが,実際には感じていることや思いを言葉にすることの難しさ,数値化できないところに何かがあることも実感している。 言語や数値化が可能で自我(能動的志向性)の働いている能動的綜合の層と同時に,言語化困難で自我(能動的志向性)の働きの届かない無意識の受動的綜合の層を誰もが合わせ持ち,周辺世界を相互主観的・間身体的に形成していることが,われわれが場を共有できる,あるいは場を生きている,根拠であると考えられる。(6)メルロ・ポンティの身体論 フッサールの受動的綜合(受動的相互主観性)における身体という問題を,さらに発展させたのはフランスの哲学者モーリス・メルロ・ポンティ[22][23]である。フッサールは,世界を構成する超越論的自我が,同時に世界によって構成されていることを「背理」と呼んだ

が,メルロ・ポンティはそれを人間存在の両義性(二重性)として積極的に位置づけた。現象学では人間存在の両義的性格のことを「世界内存在」と表現するが,このことは,世界に志向的・構成的に関わっていく超越論的能力と,人間が世界に内在するという事実を意味している。人間が世界に内在するのは身体を通してである。身体は,世界を構成するものでありながら,それ自身が世界の構成部分であるような両義的主観性という特質をもつ。身体を主観として立てるとき,それは高次の精神的活動というよりも,知覚という基礎的な次元の活動の主体である。このような身体の二重性とは,世界を対象化する能力(自他の区別)と,もう一つは世界内存在として世界と直に接触する能力を同時に合わせもち,またそれらが同時に働いているということでもある。このことは,身体自体が「物性」(対象化されるもの)と「超越的主観性」(対象化するもの)の二重的な存在であることでもある。一方,メルロ・ポンティは空間について次のように述べている。

「空間はそのなかに諸物が配置される(実在的もしくは論理的な)場ではなく,それによって諸物の措定が可能となるところの媒介である。すなわち,われわれは空間を諸物の浸る一種のエーテルと想像したり,あるいは抽象的に諸物に共通の特徴と考えたりするのではなく,諸物を結びつける一般的な能力と考えなくてはならない。」[22]

「いかなる感覚も空間的であるということは,対象としての性質が空間のなかでしか思惟されないからではなく,感覚は存在との原初的な触れあいとして,感覚的なものとの共存として,それ自身,共存の場をつまり空間を構成するからである。」[22]

 このように,メルロ・ポンティは空間(ス3 3 3 3

ペース)を媒介(能力)と捉え,空間を構成す3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

るのは感覚である3 3 3 3 3 3 3 3

とする。そして感覚が発揮されるのは身体に於いてであることに注目し「知

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覚とは身体である」と述べた。このことは,われわれの知覚が身体に依存している,より正確にいえば,身体が知覚しているということを意味する。身体が知覚するのは身体的時空間に於いてである。われわれが客観的に存在していると考えている時間ですら,時間の流れが「ゆっくり」感じたり,時間が「猛スピードで」すぎていったりする。つまらない会議に出席しているときは,10分が 1時間にも感じられ,興味のあるスポーツ観戦の時には 1時間が 10分に感じられものである。これは時間というものがわれわれの感覚に依存していることを物語っている。

 このように,空間性を身体との関係において捉えるメルロ・ポンティの視点は,場と身体性とが密接な関係があることを示唆する。

「私の身体が私に現れるのは現実的な,もしくはある姿勢としてであるということである。そして実際,その空間性は,外的対象や『空間的感覚』のそれのように位置の空間性ではなく,状況の空間性である。(中略)身体的空間が外的空間から自己を区別し,その諸部分を繰り広げるかわりに包み込むことができるのも,それを背景としてその前にはじめて明確な存在,図や点が現れることが出来る非存在の地帯であるからである。」[22]

「われわれの身体は空間のなかにあるとも,また時間のなかにあるとも言ってはならない。身体は空間と時間にすむ。(中略)身体は必然的に『ここ』にあるのと同様,必然的に『今』実存している。」[22]

 メルロ・ポンティは,われわれが,(客観的存在として)世界にいるのではなく,身体において(身体を媒介として)世界に臨んでいることを指摘する。われわれは様々な五感を通して世界を感じ接している。世界内存在とはこのような身体と世界との関係を意味している。臨んでいるというのは,身体がその運動能力や運動

感覚の直接的な経験において,根源的に世界に対して「志向」していることである。意識する・しないに関わらず,身体は直接的かつ常に周囲を感じている。車を運転しているときに,突然飛び出してきた子供を急ハンドルで避けることができるのは 「避けようと考えて避けるのではなく,気づく前に身体が(感じて)反応して避けていた」ということであり,それは誰もが経験的にわかっていることである。テニスで時速 200 kmの豪速サーブを打ち返せるのも,同じ理由であり,身体が反応するからである。 身体のこのような志向性は,フッサールにおいて検討された本能的・衝動志向性に対応する。つまり,身体の世界への根源的志向性は,意識されずに常に志向されている受動的綜合の領域に由来しているということである。さらに,メルロ・ポンティは,運動能力と習慣の結びつきについても述べている。

「身体像の修正ならびに更新としての習慣の習得は,ある形態の状況に対してある型の解決によってこたえるという能力を獲得するのである。(中略)習慣とは,思惟や客観的な身体に宿るのではなく,世界の媒介者としての身体に宿る。(中略)経験は,客観的空間の下にある原初的な空間性を顕わにする。この空間性は,身体の存在そのものと区別されえぬものであり,客観的空間は単にその外皮にすぎない。身体であることは,ある世界に結びつけられていることであり,われわれの身体は空間の中にあるのではなく,空間に臨んでいる。」[22]

 われわれが世界を知覚するのは,運動能力や運動感覚による世界への働きかけによってである。運動という言葉からはどうしてもスポーツを連想するが,ここでの「運動」とは日々の身体の動かし方のことを指しているのであり,必ずしもスポーツなどの運動を指しているわけではない。われわれは,日常生活において常に身体を使っている。身体を積極的に動かすか動かさないかに関わらず,身体で感じ身体で周囲の

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状況を無意識に感じ取っている。 また,習慣とは身体的なもので,暗黙的な実践知でもある。習慣化とは,身体像の修正ならびに更新であり,ある形態の状況に対してある型の解決によってこたえるという能力を獲得することである。日本の武道や茶道・華道といった「道」とつくものは,すべてこの習慣化された身体によって表現される「型」を基準にしている。まずは型を身に着け,それを変化させ,昇華させるのが,「道」でいうところの守破離である。 このようなメルロ・ポンティの空間と身体に関する考察は,「場と身体」ならびに「場における習慣化された行為」の理解に役立つと考えられる。

3. 場の理論モデルと創造的な場3-1 場の理論モデル これまで述べてきた諸理論を整理しながら,そこで共通して指摘されていた「場」の性質に関する要素を,まとめたのが「場」の理論モデルである(図3-1:場の理論モデル)[24][25]。 現象学において,人間は能動的綜合(能動的志向性)と受動的綜合(受動的志向性)という二重性において存在している。この能動的綜合の領域と受動的綜合の領域が相互主観性と間身体性において相互作用することによって,「場」は,対象化された「場」(相互主観性において対象化された時空間)と対象化されない「場」

(間身体性において対象化されない時空間)の二重性として与えられる。場とは常にこの二重構造で構成されており,能動的綜合(能動的志向性)において意識的認識された場だけが,場のすべではない。実際には,受動的綜合(受動的志向性)において,意識にはのぼらないが何からの意味づけがされた場としても感じ取られているのである。 これは,それぞれ,清水の生命の二領域性(卵モデル)における局在的存在形態である自己中心的自己と,偏在的存在形態である場所的自己に対応すると考えられる。人間は,受動的志向性の働きによって,自覚なくして間身体的に場に生きており,それを前提として能動的志向の働きによる相互主観性が働き,具体的な現象が立ち現われてくる。このことは,同時に,能動的綜合の領域が受動的綜合の領域に影響を与え,逆も同じであるということである。両者は相互に影響を与え合い,その一瞬一瞬の意味を変えていく。場の理論モデルを,平易な言葉に置き換え,日常の場のあり方を示したのが,図 3-2:場の理論モデル(2)である。 このモデルからもわかるように,言語によるコミュニケ―ションだけが,場のコミュニケーションではなく,非言語のコミュニケーション(ボディーランゲージだけでなく)も場におけるコミュニケーションである。非言語のコミュニケーションとは,フッサールの言うところの

図 3-1 場の理論モデル

(出所)露木[24]を参考に作成。

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前交通であり,原交通である。この非言語のコミュニケーションは,そこに人がいるだけで身体性により,誰にも感じられてしまうものである。そしていったん感じられている場を意図的に変えることは容易ではないことは誰もが実感するところであろう。たとえば,会議が非常に盛り上がっているところに誰か(上司や外部者など)が入ってきた瞬間にその盛り上がりが消えてしまうこともあろう。もちろん,その逆もあるだろう。どれだけ司会者が頑張っても議論が活発にならないこともあれば,誰も議論をひっぱっていないのに,深い議論ができることもある。それはこの情動的なコミュニケーションの層が,言語によるコミュニケーションよりも,より大きな影響を人々に与えていることを示唆しており,それが,いったん出来上がった場の状況を意図的に変えることが困難であることの理由である。3-2 場の生成条件 人間の相互主観性と間身体性によって「場」には何らかの意味が二重に付与される。その意味がどこから来るかといえば,「場」の成立する根拠は何かという根源性と結びついた,相互主観性・間身体性という相互作用によって表出される。根源性とは,「場」を成立させる「場所」(西田哲学における「場所」の概念)のことである。個々の場は,自己組織的かつ自己言及的に場所の意味を自ら写し,それが場所的拘束条件(場の意味を生成する条件)として個々

の場を意味づける循環構造をもつ(図 3-3:場の生成原理)[24]。 しかし,場の拘束条件(場の意味をしぼるもの)は,場所の働きによって一方的・一義的に与えられるものではなく,野中が「動的文脈」と表現するように関係性の変化によって時々刻々と変化していくものでもある。相互主観的・間身体的な変化によって,場の意味は常にその一瞬・一瞬で再定義されていくのである。このことから,本稿では「場」を「(人間の)相互主観

3 3 3 3

的(意識)と間身体的(無意識)による関係性3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

において意味づけられた時空間3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3

」と定義する。場の意味は,場における相互主観的・間身体的相互作用によって絶えず変わりながら,その場所性によって最終的に収斂していくのである。3-3 場の重層構造 それぞれの場は,それぞれが寄って立つ場所

図 3-3 場の生成原理

(出所)筆者作成。

図 3-2 場の理論モデル(2)

出所:筆者作成

言語によるコミュニケーション

目にみえない「場」

目に見える「場」

情動的なコミュニケーション

考える考える

感じる感じる

外部環境

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において重層的に構成されている。それと同時に,それぞれが自己組織的に生成され,自己言及的に影響を与え合う性質をもっている。その重層構造は,「生き生きとした現在(今ここ)」として直に人間の感覚として与えられる個別具体的な「場」,それを支える集団としての場,その集団の存立を支える場(物理的環境,市場,制度など),さらに,その存立基盤を支える場,すなわち地域性や歴史的・文化的背景を含んだ生活世界としての場といったようにモデル化してとらえることができる(図 3-4:入れ子状に重層化した場のモデル)。「場」は,相互主観的・間身体的に成り立っているものであり,自己と他者,自己と環境,自己と根源的な「場所」を結びつける。個と個,個と集団,個と環境を結びつけているのは,個別具体的な「場」である。知識創造活動も,具体的な場において行われる。 先に述べた場所という概念を,現実に即して考えた場合,その場が「生かされているところ」に行きつく。企業や組織であれば,市場であり広義の環境も場所に含まれる。さらには,歴史や文化なども場所である。企業理念(ビジョンやミッション)などもその歴史・文化・市場・環境から生み出されてきたものである限り,場所的拘束条件の要素になりうる。 このように場所性に由来したそれぞれの「場」は,一つの意味のまとまりである「場」として感覚に与えられる。実際には,所属集団の「場」と「いきいきした現在」としての場は,それぞれの場が整合的(コヒーレント)であるかぎり,異なるものとして別々に自覚され

ているわけではなく,あくまでも一体のものである。「場」の重層性の構造は,あくまでも概念上のモデルである。3-4 場と創造性 われわれの生活が日々の場において成り立っていること,さらには,その場の性質について整理してきた。それでは,その場が創造的な場となるとは,どのようなことであろうか。山口はフッサール現象学をその発展段階において 3つの層に分けて議論をしている(図 3-5:フッサール現象学の三層構造)[26]。 ここで重要なのは,幼児期に生きられていた第一層が,自他が分離された能動的綜合の領域をへて,人間相互の交わりの領域において自他の区別の解消と自他の統合がなされるということである。山口は「第三の領域は人格同士のまじわりが生じる領域であり,自我と他我の区別が解消され,各自にとって最も創造的な活動が実現するなかで,人間が本当の人間となる領域です。西田のいう『主客未分』の世界であり,鈴木大拙がいう『無心』の世界でもあり,『弓と禅』で著名なヘリゲルの『射るということがおこる』世界でもあります」[26]と述べている。山口は,フッサールの功績は,後期の発生的現象学で展開された「こと」が生成する受動性(自発性)の領域の分析であり,そしてあたかも第二の領域の自我が生まれながらに存在しているのを前提にした自然科学的実在論や因果論には,この第一の領域の理解が欠けていると述べる。 知識創造活動の理解において,場の研究が欠かせないのは,まさに創造性は場において起こるのであり,決して個に由来し個で完結するも

図 3-4 入れ子状に重層化した場のモデル

(出所)露木[24]

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のではないからである。われわれが大人になってからの創造性は,山口のいう第一層と第二層(場における能動的綜合の領域と受動的綜合の領域)の相互作用により,第二層の自他の分離を乗り越えた先に現れる第三の層において起こる。それは具体的な人と人,人やモノとの関係性において起こるものである。自他の分離を乗り越えるということは,必ずしも神秘的な体験や非日常的な経験から起こるものではなく,日常においても何かに集中して我を忘れて取り組んだ時に,気づかぬうちに予期せぬブレークスルーが起きているという状態である。

おわりに 本稿では,知識創造における場の理論モデルの構築を主眼に論を進めてきた。本稿で提示した場のモデルはまだ中間段階であり,さらに精緻化する必要がある。それと同時に,さまざまな事例に照らして,よりわかりやすい表現を工夫していく必要がある。 最後に,場における創造的活動への課題を,知識創造活動の共同化と表出化に即して取り上げ,まとめに代えたい。 創造性の源泉には言葉にならない感覚の世界があり,それを共有することが第一歩である。共感とは,意識して共感するものではなく,自然と映ってきてしまう(フッサール現象学の三層構造の第一層)でおこっていることである。

最近,職場における共感の重要性が聞かれるが,それは共感しよう努力することとは全く異なる意味で重要である。なぜなら,その場にいる限り,言葉で語られることとは関係なく,感覚はおのずから映ってきてしまうものだからである。言葉にする手前のところでその意図は容易に感じられる。それは人であれば誰もが感じることである。共感は身体によって伝わる。意図的な共感(能動的志向性)はかえって邪魔になることすらある。共感が押し付けられているように感じてしまうからである。実際の共感は,共通感覚,つまり,ともに身体を動かすことによって伝わっていく感覚的なものである。工場などで朝に準備体操を全員で行うのは,身体感覚で共感することを促している。また,日本の職場などで先輩が後輩に仕事を教えるときにも,言葉よりもやっているのを見せて教える,一緒にやってみるといったことが多いのではないか。それが知識創造理論でいうところの共同化の現場で起こっている場の作用である。いくらマニュアルを読んでも,肝心なところは伝わらないものである。 「感じていること」を言葉や形にすることは,知識創造の中でも最も困難な表出化の領域である。感じていることを言葉にできれば,より容易に伝えることができよう。職場における心理的安全性が創造性に関係があると言われるのも,心理的安全性がなければ,人は自分の本当

図 3-5 フッサール現象学の三層構造

出所:山口[26]から筆者作成。

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の想いをあえて言葉にしようとはしないからである。心理的安全性とは「この場では何を言っても大丈夫」という安心感であり,それがあることによって人とはより表出化に集中できる。しかし,言葉をいくら並べたところで,それが自分の感覚とつながっていなければ,相手の感覚に響くこともない。相手の感覚に響かなければ,行動につながることはない。よくビジョンの共有が大事だと言われるが,言葉だけのビジョンでは,それを行動につなげられないのと同じである。自分の感じていることにぴったりした言葉,ぴったりしたモノ,ぴったりしたコトに出会ったとき,人は本当の表出化を体験する。自分のなかでモヤモヤした感じをぴったりした言葉で表現できたとき,人はわかった(腑に落ちた)と感じるのであり,それには不断の努力が必要である。感覚が共有された職場において,うまく表出化がされたとき,一人だけでなく複数の人が一斉に何かに気づく(腑に落ちる)ということが起こる。それが集団的な創造性の現象である。

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